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小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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 横顔。ずっと見慣れたその顔。
 至近距離。気付かれない様に、そっと。
 見詰める。
 癖のある毛先の流れ。睫毛の影。悟られない位微かに、視線に思いを込める。
 言葉を発する唇の動き。左耳の輪郭。襟から僅かに覗く首の骨の太さ。
 じっと、目で追う。ひた向きに。彼だけを視界に入れて。
 指先が少し欠けている不完全なエナメルの色。仕事を仕事だと割り切れる様になった、その瞳の決意。目を閉じてもきっと、明確に思い出せる彼の姿。
 剛。
 名は呼ばずに、思う。秘して見詰める。恋を続ける。
 彼が振り向く気配がして、自然な仕草で視線を逸らした。誰にも分からない、視線だけの感情。
 俺はもう長い間、彼の事が好きだ。
 この世で唯一無二の相方を。同じ性を持った彼を。
 何故こんなにも愛してしまったのだろうか。



+++++



「光一、どう思う?」
「……ああ、うん」
 此処は会議室で、アルバム制作の最終打ち合わせの途中だった。この会議が終われば、いよいよレコーディングが始まる。
 じっと見詰める剛の瞳を見返して、今交わされていた言葉の内容を把握しようとした。
「お前今、寝とったやろ」
 悪戯っ子の顔で笑われる。違う、と否定出来ないのが辛かった。もうずっと書類と睨み合う状態が続いている。集中力も限界に来ていたのだろう。
 無意識に、彼を見詰めてしまう位には。
「寝てへん」
「嘘」
「嘘ちゃう」
「ええよ、もう。そんな頑張らんでも。ちょぉ休憩しよか」
 妙に甘やかした口振りで言われて(剛は自分に余裕がある時はいつもこうだ。今更気にしない)、眉を顰めた。
 まだプロモーションの開始時期が決まっていない。広報の人間は一刻も早く動き出したい筈だった。
「平気やって」
「光一」
「平気」
「もう皆も集中力切れとるわ。気分転換した方がええやろ? なあ」
 同意は周囲の人間に求められた。そう言えば、先刻からスタッフの煙草やコーヒーの量が増えている様な気もする。
「少しだけな」
「ぉん。お前も此処出た方がええよ。顔色悪い」
 当たり前みたいに優しくされて困った。皆も溜息を零したりストレッチをしながら部屋を出て行く。この仕事は体力勝負だった。
 剛は、部屋を出もせずに座っている。ああ、心配しているのだなと思った。
 相方の健康管理は、刷り込みの様に覚えた物だから。すぐ不安になるのだろう。優しい彼なら尚更。
「俺は平気やから、お前も何か飲んで来たら?」
「光一は?」
「もう立つのもめんどい」
「お前、それはあかんやろー」
 資料を持ったままの俺の手を取って、剛は強引に引き上げた。不用意に触れられるのは、今も慣れない。心拍が跳ね上がってしまう。
 思春期の子供みたいや。彼の体温に触れる度に思う事だった。
 暗い廊下を歩いて、剛の指定席である自販機横のベンチまで連れて行かれる。腕を捕らえたまま外を歩く事に抵抗はないらしい。
 どう考えても、可笑しな図なんやけどね。彼の羞恥心とか体面と言うのは、一体どうなっているんだろう。
「コーラでええ?」
「剛、大丈夫や。俺、自分で買う」
「財布持ってないやん」
「あ、」
「ええから」
 こん位何でもない事やろ。人に頼る事を嫌う自分をちゃんと知っている彼の優しさだった。ありがとう、と受け取って隣に違和感なく座る相方を見遣る。
 いつから、こんなにも。
 思考は簡単に内へ向けられる。疲れているのだと思った。堂々巡りの思いに考えを巡らせるのは馬鹿げている。
 どうして彼なのかなんて、もう分からなかった。いつから好きなのかさえ。
 唯ずっと、剛だけを見詰めて来た。今も昔も変わらずに。
 休憩中の彼は、仕事の話をしない。家にいる犬や魚の話。友達の失敗談。ギターのレパートリー。
 他愛もない、でも気分を落ち込ませない話ばかり。
 いつの間にかこんな風に彼は強くなった。大人になった。迷わない目を見せて、強い言葉を発する。
 それでも変わらない自分の思い。弱かった頃の彼も今の彼も、全て愛しい。遺伝子レベルの刷り込みなのかも知れない。
 この恋情は、塩基配列にすら組み込まれている様な気がする。
 当たり前に、日が昇って落ちる日々を繰り返す様に、生きて行く為に呼吸を繰り返す様に。
 剛だけを見詰めていた。唯一人、彼だけが好きだと思う。
 一度だけ、恋を終わらせようとした事がある。多分十代の終わりだった。
 未来の見えないこの思いに閉塞感を感じて、上手く笑う事が出来なくなった。叶わない恋を抱えているのが辛いと。
 あれが、思春期の終わりだったのだろう。これから大人になるのに、いつまでも幼い恋心を抱えていたくないと思ったのかも知れない。
 結婚を許される歳になって、現実が怖くなったのかも知れない。
 伝える事のない恋を、捨ててしまいたかった。剛とは唯の相方でいようとした。
 けれど、触れる度名前を呼ばれる度優しく笑われる度、胸の奥が痛んで。
 無理なのだと知った。
 俺は、この恋を叶える為に剛を好きになったんじゃない。彼を自分の物にしたくて、恋を抱えた訳じゃない。
 諦めに一番近い所にある感情は、きっと偽りのない心にあった答えだ。
 辛くても苦しくても悲しくても良いから、ずっと好きでいよう。
 傍にいたい。ずっとずっと、相方でいようと思った。
 彼の仕事のパートナーである事を誇りに生きて行く。彼の人生の『特別』にはなれないけれど。
 それでも構わなかった。自分が思っているのと同じ分だけ思って欲しいだなんて、我儘だけの感情はもう捨ててしまおう。
 自分が与えられる全てを、彼に。そうして生きて行く事が自分の誇りになる。
 一生彼と共に仕事をして行く。その為には、決してこの恋が悟られては行けない。距離を保って、不自然な事が一つもない様に。
 思いがばれて、剛に避けられるのは嫌だった。彼はノーマルな嗜好の持ち主だ。嫌われたくない。
 『特別』なんて要らないから、嫌わないで欲しい。この思いを否定しないで欲しかった。
 暗い廊下で二人話す幸福を、永遠の物にしたかった。



+++++



 季節の移り変わりには鈍感だけど、秋の空気は少しだけ分かる。枯れた植物の匂い、肌を撫でる乾燥した空気、高い空。秋は好きだった。
 全てが終息に向かうこの時期、自分の生の気配さえ希薄になる。その感覚が好きだった。冬になる前の空白。
 死ぬのなら秋が良いとずっと思っていた。
 こんなん考えるんは、剛の専売特許やねんけどな。冷たい風は、少しだけ気分をナーバスにするらしい。
 迎えに来た車へ乗り込むと、後部座席に相方が座っていた。
「おはよ。珍しなあ」
「ん。せやね」
 一緒に現場入りする機会は少なくなっていた。朝から会えるなんて、嬉しい。落ちていた気分が上昇した。簡単やな、俺。
 この場所にいられる事を、彼の隣で生き続けられる事を、馬鹿みたいに単純に喜んでしまう。ポーカーフェイスは見破られないだろうか。口許を気にしながら今日のスケジュールを確認した。
「こっからはほとんどレコーディングだよ。あんま根詰めないで欲しいね」
 助手席に座っているマネージャーが振り返って笑う。音を作る作業はつい没頭してしまいがちだ。それを恐れてか、最近スタジオに詰めるスケジュールは組んでもらえない。
 夕方から雑誌の撮影を入れられている辺り、抜け目がないと言うか。音楽は幾ら時間があっても足りない。もっともっとと、貪欲に求めてしまう自分がいた。
 剛ののめり込み方とは違うけど、多分音楽は好きなのだろう。
 マネージャーの言葉に適当に相槌を打っていると、隣で大人しくしていた相方にシャツの裾を引っ張られる。視線を向ければ、楽しそうな笑みを浮かべている彼と目が合った。
 滅多に見られない、全開の笑顔。こいつが犬やったら、絶対今、尻尾振ってるわ。
「なん? 良い事でもあったん?」
 剛は分かり難い精神構造をしている割に、感情表現は呆気に取られる程素直だから。彼より少しだけ年上の自覚を持って、寛容に笑った。
「うん。……あ、どうやろ? ええ事なんかな」
「何なん。はっきり言い」
 嬉しそうな表情を隠しもしない癖に(俺はこんな必死にポーカーフェイスを取り繕っているのに)、勿体ぶって引っ張った裾を更に引く。子供みたいな仕草に怒る気にもなれなかった。
 可愛いだなんて思うのは、間違っているだろうか。
「先週な、引っ越したんよ」
「? うん。マネから聞いてるで」
 嬉しい事は、引っ越しなのだろうか。彼が家を変えたいと言っていたのは雨の多い季節の事だったから、マネージャーから話を聞いた時にはやっと出来るんかと思った。
 俺は引っ越そうと思ったらすぐにでも変えてしまうけれど、剛は色々とこだわりが多い。そんなに出歩く訳でもないのに住む街の環境から始まり、マンションの階数、間取りの居心地、近くに緑はあるか。
 言い出したらきりがない事をいつまでも諦め切れずに言う人だった。その頑なさは自分の不器用に通じる所があるけれど、俺はもっと無頓着だから。彼の嗜好は今も分からない。
「引っ越したんよ」
「……うん」
「光一ん家の近くに」
 一拍の空白。剛の黒い目が楽しそうに笑っていた。
「はあ?」
「何やねんなー。そんな大声出して。もぉちょいリアクションの取り方あるやろー」
 カメラが回っている時みたいな大袈裟な仕草で溜息を吐かれる。否、今のは俺のが正しい反応やと思うで。
 引っ越し。家が、近い。そんな事、今まで一度もなかったのに。
 お互い何処に引っ越したかは一応知っていたけれど、いつも遠い場所だった。マネージャーが二人一緒だと迎えも送るのも面倒臭いと零す位。
 合宿所を出た時に何となく決まってしまったスタンスは、もう変わらないと思っていた。
 どうして、今更。近付こうだなんて。
「何処ら辺?」
「光一んとこから徒歩圏内よ」
「阿呆やん」
「何でー。ええやん。考えたら光一ん家の近くって散歩コース結構あるんやもん。通る度に東京でもええなあって思ってたんよ」
「やからって、そんな近くやなくても……」
「間取りが理想通りやってん。今おっきな水槽あるやろ? 引っ越しん時に楽に入れられるとこって考えたら、条件厳しくてなー」
 当たり前、と言いたいのを堪えて沈黙する。駄目だ。この男は、たまに楽天的になる事があった。プライベートでは干渉しないと言う暗黙の了解を、わざわざ冒そうだなんて。
 どうして、離れたのか。俺が合宿所からなるべく遠い場所に引っ越したのか。彼は、忘れてしまったのだろうか。
「でな、せっかくご近所さんになれたんやから」
「……何」
 こんなに機嫌の良い彼は、最近見ていない。だからと言って許容する訳にはいかないのだけど。勝手に心拍を上げる心臓を押さえるのに必死だ。
 冷静な声、感情を表に出さない冷ややかな視線。理性的な態度は、恋情を隠す為の最良の手段だった。
「携帯のアドレス教えて」
「今更?」
「ぉん、ええやろ。電話やと気遣うし」
 電話番号はちゃんと知っている。メールアドレスの交換をしなくなったのは、いつからだろう。
 剛がアドレスを変更する度登録し直すのが面倒臭くて、緊急の時しか連絡しないのだから番号だけ知っていれば良いと断った。以来、ずっと携帯を変える時に教えるのは番号だけになっている。
「別に近所になったからって何も変わらんて」
「えー、ご近所付き合いしたいやん」
「こやって仕事で会えるんやからええやろ」
「……あかん?」
 素っ気なく対応して諦めさせようと思ったのに、剛は一番狡い手段を使って来た。弱気に引いて様子を窺ったって、誰が絆されるか。
 完全に固定された二人の距離を覆す様な真似、しないで欲しい。今のままでいいじゃないか。付かず離れずの仕事のパートナー。
 俺は、それ以上を望んでいない。今更、未来の夢は見ない。
 前に座っているマネージャーは、知らない振りをして手帳を捲っていた。カーテンで覆われた車外には、秋の景色が広がっているだろう。
 視線を逸らしてどうしようか考えていると、何気ない仕草で手を取られる。剛の常套手段。
「アドレス交換して、普通に飯とか食ったり家で一緒にビデオ見たりしたいだけやん」
「……」
「それは、光一ん中で相方の範囲には収まらん?」
「うん」
「やったら、友達でもええよ。仕事のパートナーやなくて、友達」
「……ともだち?」
 二人には一番相応しくない言葉だった。俺らは、友達にはなれんよ。俺にそんな気がないのだから。
 長い時間を掛けて納得して、相方でいようと決めた。その決意を、掻き回さないで欲しい。
「そ、友達。今の家な、決める時。光一の事考えたんよ」
「俺の?」
「うん。お前ずっと、俺との距離計りながらいたやろ。……あん時から」
 剛は覚えていた。彼が嫌悪した事。自分がそれを恐れて離れた事。今振り返れば、他愛もない中傷だった。
「別に……。最初は、そうやったけど。今はもう、俺らはこれが当たり前やんか」
 学生の時に、二人の同性愛説が流れた。最初に顔を知られたドラマや、アイドルデュオと言うのが原因だったのだと思う。
 けれど、原因がどうであれ剛は酷く傷付いた。付き合っていた彼女と別れてしまう位。
 あからさまに俺を罵る事はしなかったけれど、彼に依存している自覚は多分にあった。それが、噂を増長させているのだと言う事も。
 そして、自分の心には明確に疚しい感情があった。中傷はあながち的外れでもなくて。
 あの時、初めて悟った。この思いは許されないものなのだと。彼と共に在る限り、告げてはならないと固く決意して。
 距離を置く事を考えた。必要以上に近付かなければ、何も問題はない。普通の、唯の相方の距離を必死に模索した。
 気が付けば、こんなに遠く。
「当たり前の距離、今更踏み込んだらあかん?」
「……ううん」
「良かった」
 降参の溜息を零す。しょうがない。乱れるのは自分の心だけだ。律するのも自分自身。
 彼が距離を近付けたいと望むのなら、拒む理由は何処にもなかった。
「夜寂しい時とかさ、呼んでくれてええよ」
「それは、剛やろ。俺は寂しくなったりせえへん」
「飯一人で食いたくない時とかあるやろ」
「ありませんー」
「ホラー映画、一人で見たくないとか」
「俺怖くねーもん」
「なら、具合悪くなった時とか」
「……そう言う時は彼女、呼ぶからええわ」
「そうやな」
 アドレスを交換しながら、自分の言葉に自分で落ち込む。
 彼女がいると言ってしまったのは、唯の弾みだった。多分、同性愛説と同じ時期の事だと思う。
 自分の気持ちを誤摩化したくて、剛に潔白を証明したくて咄嗟に吐いた嘘を彼は今も信じていた。あの頃から付き合ってたら、もうとっくに結婚してると思うんやけどな。
 思い込んでくれている方が楽だから、この理由は存分に利用している。それで剛を安心させられるなら、安いものだ。
「お前も、さっさと恋人作ったらええのに」
「えー、やってめんどくさいやん」
「そんなん言うてたら、いつまでたっても結婚出来んで」
「余裕のある奴は、言う事違うわ。ええの、俺ギターが恋人やもん」
「しゃあないなあ」
 こんなやり取りは、もう何度もしていた。その度に安堵する自分を醜いと思う。
 自分では幸せにしてやれないのだから、せめて彼の幸せを願うべきなのに。どうしようもなかった。
「今度、引っ越し祝い持って遊びに来てや」
「お祝い持ってくん強要すんな」
「やって、お前素で忘れそうなんやもん」
「剛、お前人の事何やと……」
「光一さんは、しっかりして見えるのにたまに抜け落ちてるとこあるからね。心配になんのよ」
 大人の表情で笑う。最近、穏やかな表情を見せる事が多くなった。精神状態が安定しているのは良い。とても嬉しい。
 だから、俺ん事も見えんのかな。空気みたいに馴染んだ存在が気になるなんて、心に余裕のある証拠だ。
 彼の状態に変化が起きる度振り回されるのは、辛い事もあるけれど。自分の事の様に嬉しいと思う。
 ご近所付き合いでもお友達でも、何でもするよ。例え、心臓がじくじくと痛んでも。



+++++



 今日は、剛が家にやって来る日だ。アドレスを交換してから一ヶ月弱。本当に彼はご近所付き合いを強行している。
 朝までスタジオに籠って、その後打ち合わせを一つ終えてから帰って来た。まだ日は落ちていない。こんな早い時間に家にいるのは珍しかった。
 剛は自分の番組のロケがあるから、来るのは夜になるだろう。それまでに部屋の掃除をしておきたかった。
 掃除機をかける為に椅子の位置を移動させていると、テーブルの上に置いてある携帯が振動した。普段仕事の事以外で余り鳴らない自分の携帯が、最近良く着信を告げる。
 相方からのメールだった。剛がマメなのは知っていたけれど、まさかこんなに届くとは思わなくて。
 俺が返信をしてもしなくても、ほぼ毎日メールが入る。他愛もない言葉が嬉しいのは、自分が彼を好きだからだ。
 剛にそんなつもりはない事位、充分分かっていた。友達の域を出ない連絡の取り方である事も。
 けれど、剛が自分の為だけに言葉を綴る。一日のほんの一瞬でも自分の事を考えてくれる。
 一方通行の気持ちで構わないと思って来たのに、心かけてもらえる様で嬉しかった。安心した。
 剛はまだ、自分を捨てない。
 携帯を開いて、メール画面を呼び出した。
『今日は寒いです。光一はちゃんと暖かい格好をしていますか?
 十一時過ぎには行けると思う。待ってられんかったら寝てて良いから。また後で連絡します。』
 夜行性だから平気だと何度言っても、剛は心配する。早く寝なあかん、なんて母親みたいに。
 了承の言葉を一言入れた短い返信を送った。メールに思いを込めるのは苦手で、どうしても素っ気なくなる。
 そんな自分すらきちんと理解されているのだから、多くの言葉は要らなかった。
 携帯を元に戻して、掃除を再開する。手慣れた作業は思考に余裕を作ってしまうから駄目だった。どうしても剛の事を考えてしまう。
 初めて彼の家を尋ねたのは、今月の初めの事だった。メールの交換をしてすぐ、いつ遊びに来るのかとメールが入って。
 お互いのスケジュールをちゃんと把握している剛が、日時を指定して来た。お祝いは何でも良いよ、なんて笑いながら。

 あの日、朝からずっと緊張していた。相方の家に遊びに行くだけなのに、悪い事をしているかの様な心臓の怯え。
 大丈夫。どんな時も押し隠して来た感情だ。今更それが露呈する不安なんてない。
 怖いのは、剛の優しさだった。いてもいなくても同じだと言う顔を見せていた時期もあった。
 仕方のない事だと自分は割り切って、けれど諦め切れずに見詰め続けて来た人。
 彼の変化位分かる。分かってしまう。
 剛が自分を気に掛けている事。失った物を取り戻す様に優しくしようとしている事。過去の自身の罪悪感との決着の為だった。
 十代の終わりに俺を突き放してしまった自身をずっと後悔している。それは、自己満足の延長上でしかなかった。
 だから、俺がしっかりしなくては駄目だ。気紛れに差し出される優しさに目を眩ませてはいけなかった。
 彼が同性に恋情を抱く事はない。この思いがばれたら、離れて行ってしまうのだと自覚を持たなければ。
 嬉しさに流されそうになる自分が怖い。
 不安を抱えたまま、仕事をしていた。マネージャーが気にする位には不自然に。
「光一、今日どうかした?」
「え?」
「朝からおかしいよ」
 言われて自覚した。落ち着きのない態度は、現場の雰囲気に影響する。
「ごめんなさい」
「ま、スタッフが気付く程じゃないから大丈夫」
「ごめん」
「で、どうしたの。聞いて欲しい顔してる」
 さすがマネージャーだなと思う。きちんと仕事はしていたし、顔には出していないと思っていたのに。
 分かってしまうらしい。良く見てくれているのだなと、安心した。
 そっとして欲しい時は、顔に出るから僕も何も言わない。彼が付いた最初の頃に言われた言葉だ。
 言いたくない事を聞いても余計気持ちが塞ぐだけだから、と。大人の表情で笑っていたのを思い出した。
 確かに隠したい悩み事ではない。さすがに相方の家に行くから緊張しているだなんて言えないけれど。
「今日な、友達ん家行くん」
「珍しいね」
「そやろ? でな、引っ越したばっかやの」
「友達が?」
「うん。やから、引っ越し祝い何か持ってってやりたいん」
「何が良いのか分からない?」
「うん」
「何でも良いの? 光一は何贈りたい?」
「んー、思い付かん。手ぶらで行ったらあかんのは分かるんやけど……」
「引っ越し祝いが悩みで良かったよ」
 明るい声で言われて、頭を軽く撫でられる。優しい仕草だった。え、と思う前にマネージャーは立ち上がる。
「この収録終わるまでに、何か見繕って来てあげる」
「あ、ありがとう」
「マネージャーは、タレントの精神状態も管理しないといけないからね」
 柔らかく笑うと、この後はちゃんと集中しなさいと釘を刺された。素直に返事して、台本に目を戻す。
 心配事がなくなれば、驚く程すんなり身体の中が仕事だけになった。収録を終える頃には剛の家へ行く事なんてすっかり忘れていて。
 収録を終え控室に戻ると、テーブルの上に花が置いてあった。
「なあ、これ何?」
 間抜けな質問だった。マネージャーは苦笑を零して、それでも丁寧に答えてくれる。
「引っ越し祝いだろ。当たり障りのない花束と赤ワイン。剛飲めないからどうかなとも思ったんだけど。ジュースじゃ味気ないしね」
「……え」
「最近、お前の周りで引っ越した人間なんて、剛位だろう」
 すっかり全部ばれていたのだと思うと、途端に恥ずかしくなった。相方の家に行くだけで朝からあんなに緊張して、悩んで。
 彼はどんな風に、自分を見ていたのだろう。不審に思われなければ良い。
「お前達は、ちょっと不自然な感じで離れ過ぎだよ。剛の引っ越しで、もう少し普通の付き合い方が出来ると良いな」
「普通の?」
「そう。お前達はいっつも『友達じゃないから』とか言って、干渉するのを嫌うけどね。普通、職場の同僚だってもっと砕けた付き合いするよ」
「でも、俺らは……」
「そんなに気にしなくても大丈夫だよ」
「うん」
「タクシー呼んだ方が良い?」
「うん」
「よし。少し待ってて」
 厳しい表情の多い人なのに、今日は良く笑う。心配されているのだなあと他人事の様に思って、用意してくれた花に目を遣った。
 小さなブーケはオレンジを基調とした花で揃えられている。男が男に贈るもんじゃないよなあ。
 赤ワインはフランス産の物であると言う事しか分からなかった。剛も多分、味なんて分からないだろうし何でも良い。
 俺が贈る引っ越し祝いには適していた。どちらも月日が経てば残らない物だ。彼の部屋を占拠する物じゃなくて良かった。
 マネージャーはこんな思いすら汲み取ってくれたのだろうか。近付く事を恐れる自分。今もまだ、迷っている。
 本当に彼の家に行って良いのか。俺はちゃんと、相方の表情を作れる? 剥がれ易い仮面は、不用意に恋情を晒したりしないだろうか。
 臆病な自分を笑って、ブーケとワインを持つと控室を後にした。タクシーに乗り込む所まで付いて来たマネージャーは、心配そうな目をしている。
 もう一度ありがとうと言って、視線を逸らした。その瞳は、そのまま自分の心情だ。
 走り出した車の中で、シュミレーションする。相方の表情、何の意図もなく紡ぎ出す言葉、適度な距離。
 目を閉じて、舞台に出る前と同じ高揚感を抱いている心を鎮めた。大丈夫。今更、変わる距離なんてない。
 剛のマンションは、本当に自分の家のすぐ近くだった。見慣れた大通りを一本奥に入った所にあるマンションは、セキュリティーの厳重さを除けば至って普通の造りだ。
 彼が好みそうな家だった。此処なら、ケンシロウ達も散歩し易いだろう。可愛い犬の姿を思い出すと、口許を緩めた。
 エントランスを抜けて、インターフォンを押す。剛の部屋番号。来る前にメールを入れようと思ったのだけど、結局しなかった。何と送れば良いのか分からなかったからだ。
『はい?』
 いきなり聞き慣れた声がスピーカー越しに聞こえて吃驚した。心臓が跳ねる。すぐに言葉が出なかった。
『……光一?』
「あっ、うん」
『何か言わな分からんやろ。しゃあない子やね』
 スピーカー越しの声でも剛が優しく笑った気配が分かる。ああ、彼の家まで来てしまったのだと実感した。
『早よ入り。そんなとこおったら目立つわ』
「ん」
 自動ドアの促すままに中へと足を踏み入れる。待ちかねた様に開くエレベーターに乗り込んで、一つ溜息を零した。
 少し自信がない。既に舞い上がっている自分を感じていた。
 エレベーターを降りて左右どちらだろうと見回した瞬間、一番奥の部屋の扉が開く。迷わず明かりの漏れたその扉へ向かった。
「剛」
「おう。お疲れさん」
 身体を半分だけ覗かせた相方は、自然な表情で笑った。黒地に白いプリントの長シャツとスウェットを腰で履いた姿は、とてもリラックスしている。
 自分の家にいる時の顔。初めて見る、心から寛いだ表情だった。
 こんな顔するんや。
「ごめんな。遅くなって」
「全然平気や。何時でも良いって言ったん俺やし」
 現場にいる時よりも穏やかな表情は、きちんと俺を迎え入れてくれた。知らない顔。けれど、安心する。
 まだ彼は、こんな風に微笑えるのだと。
「これ、引っ越し祝い?」
「うん。何がええんか分からんくて……」
 剛が、抱えた花を指差した。腕の中に収まったブーケは、二人の間に置くには不自然な気がする。失敗したかも知れない。
「王子様、みたいやね」
「……?」
「花とワイン持って来るとは思わんかった。よお、似合ってる。やっぱ王子なんやなあって思うわ」
 見上げた彼の微笑は深く優しかった。好きな表情だと思う。
 自然な仕草で腕の中の花を取り、部屋の中へと招かれた。一連の動作は、嘘みたいに優しい。
 彼の部屋は、大体想像通りだった。聞いてもいないのに、色々と話をしてくれるから何となく想像が出来て。
 例えば照明の暗さとか、水槽の酸素の音、カーテンの長さまで思っていたのと同じなのが可笑しい。
 何となく落ち着けずにいる俺をさり気なく気遣いながら、剛は水炊きをご馳走してくれた。
 暖かい部屋に暖かい料理、彼の表情と懐いて来た愛犬の体温。全てが優しくて、困ってしまう。近付く距離を恐れない自分に驚いた。
 気持ちは昇華されなくても、人間の関係はこんな形で昇華されて行く事があるのかも知れない。
 長い間、離れた距離を保って来た。それが一番良いと思って。
 けれど、こう言う付き合い方も出来るのだ。傍にいられる。近付く事に怯えなくても良い。
 剛も自分も、充分に歳を重ねたと言う事なのだろう。大人になったのだ。
 部屋に入るまでの緊張感は、何処かに消えて穏やかな気持ちばかりが心にあった。元々、彼を手に入れようだなんて思った事は一度もない。
 ならいっそ、相方として彼の一番近い場所にいたいと思った。上手に感情を隠せば良い。
 こうして、お互いの家を気兼ねなく訪問する事が出来る様になった。一緒にご飯を食べたり、映画を見たり。最初に剛が望んだ通りの関係を築いている。
 たった一つ暗黙のルールがあった。互いの家に泊まらない事。頑なに守ろうとしているのは、自分だけだろうと思う。
 何かと理由を付けて、必ず帰る様にしていた。剛が自分の家に来ても同様に。
 一緒に眠るのは、怖い。どんなに夜中まで一緒にいたとしても、それは別だった。一緒だなんて耐えられない。
 泊まる事以外は、何でもした。今までの分を取り返す様に、友達として過ごせなかった十代を悔やむ様に。
 剛は良く笑った。自分でも吃驚する位、良く会っている。現場で顔を合わせれば、次に会う約束をして。
 部屋に入れば、他愛もない会話が続いた。剛の家にいると魚の話が多い。俺の部屋なら車の話。内容は何でも良かったんだと思う。
 唯、友人になりたかった。彼の本心は、其処に在る。
 お互いの家であれば周囲の目を気にしなくて良かった。家が近ければ、帰りの時間を気にする事もない。
 出会って初めての穏やかな時間は、甘く優しく胸に迫った。辛いのは、きっと俺だけや。
 剛は楽しいんだと思う。俺と友人ごっこをしている事。望むものが違い過ぎた。
 俺の願いは叶わない。二人きりの部屋で呼吸の仕方を忘れる度に、思い知らされた。

 掃除を終え、夕食の支度をしていたら再び携帯が着信を告げる。濡れた手を拭いて、受信画面を開いた。
『もうすぐ着くよ』
 簡潔な言葉は、本当に近くまで来ていると言う事だ。慌てて、煮物を温め直す。
 今夜のメニューは、栗ご飯に煮物、味噌汁と漬け物だった。一人では決して作らない和食も食べる人がいるのなら別だ。
 食事なんて今もどうでも良いと思っているけれど、一緒に過ごす時間があるのなら大切にしたいと思う。
 予想通り五分位経つとインターフォンが鳴った。ちょうど、食卓に全て並べ終わった所だ。グッドタイミング。
「スペアキー渡してるやん」
『お前、開口一番言う台詞がそれかい。スペアは緊急用やろ』
「誰だか分かってるのに、いちいち応答するんがめんどくさい」
『……相変わらずやなあ。その無頓着さ。もうちょい防犯に気を付けた方がええね、君は』
「ちゃんと出来てるわ」
 むっとして返せば、含み笑いが返って来た。気分が悪い。どうして彼はこう、自分を何も出来ない子供みたいに扱うのだろう。
 今まで一人で生きて来て、無事だったのだ。これからも大丈夫だろう。一人で生きる術は、とうに身に付けていた。出会った頃の子供じゃないのに。
『光一にな、開けてもらうんがええねん』
「……は?」
 全く無防備の心臓に直接届いた言葉は、馬鹿みたいに甘く響いた。口の上手い男だけれど。男相手にこの台詞は、凄いを通り越してある意味怖い。
 ほんま、天性の魔性やね。翻弄されてる自分を感じながら、ロックを解除した。
 最近剛は、俺を嬉しがらせる事ばかり言う。こんな風にしないで欲しい。心臓が痛かった。
 見えなくなる。言ってしまいたくなる。もしかしたら、なんて。
 彼が男を好きになる事等ないのは分かっていた。多分今も、心の中で同性愛を嫌悪しているだろう。
 分かり切った結末を自分で迎える勇気もない癖に、言葉だけが心を裏切って零れてしまいそうだ。
 好き、と告げたくなる。
「お前、また料理の腕上げたなあ」
「ほんま?」
「ぉん、上手いわ。和食出来るんはポイント高いでー」
「何のポイントやねん」
 テーブルに向かい合って、食事を摂る。今では然程違和感もないこの距離。
 目を合わせて、剛は味噌汁を啜った。幸福そうに細められる瞳が、立ち上った湯気で霞む。
「光一もちゃんと食べや」
「食っとるわ」
「そぉか? お前いつまで経っても小食直らんかったから、今でも心配なるねん」
 純粋な感情を向けられて、答える言葉に詰まった。そんな心配せんでもええよ。お前に言われんでもちゃんと体調管理してるわ。剛が食い過ぎなんやって。
 頭の中に浮かんだ言葉は、どれも相応しくなくてそのまま霧散した。彼の優しさが向けられる度、俺は視線を逸らしてしまう。
 お前に心配される様な人間ちゃうから。そう言ってしまいそうになる。
 俺は、大切にすべき相方に劣情を抱いてる男やで? 剛の心を傾ける価値等ない。放っておいて。気付かないで。
 結末を迎えたくなくて、ずっとずっと蓋をしたままの気持ちは褪せる事なく胸の内にあった。
「光一」
「……ん?」
「お前、どっか具合悪いんちゃう?」
「え、そんな事ないと思うけど……」
 食べる手を止めて、真剣に見詰めて来る瞳から逃れて小さな声で返す。具合が悪いのなんて年中だった。調子の良い時の方が少ない位。
 剛だってそうやろ? こんなんもう、職業病みたいなもんや。
 答えれば良いのに、翳りを帯びた瞳に魅せられて動けない。彼の手が伸びて来ても、ひたりと見詰め合ったままだった。
 温かい指先が頬に触れる。労る仕草だった。
「仕事終わって飯作って、俺来るの待ってたらしんどいよな」
「そんな事っ」
「……ない? ホンマに?」
「ないわ! 俺、仕事やったら嫌な事でも何でもするけど、それ以外で自分が望まんのにやった事なんてないの知ってるやろ。俺は、嫌やったら剛と一緒にいない」
「そうやね。光一はそう言う奴やな」
「な? やから、気にせんといて。しんどい時に飯なんて作らんから」
 言いながら、触れた体温をそっと離した。頬が熱い。俺達は、スキンシップが多いとは思うけれど、でも。
 こんな風に優しく扱われた事なんてなかった。
「光一、顔」
「?」
「赤いで。本当に大丈夫なんか? 無理してない?」
「してへんよ。ホント、平気や」
 お前が触るからだなんて言える訳もない。少しだけ怪訝そうな顔を見せた剛は、それでも納得する事にしたのか再び食事を開始した。
 食事を終えて、彼が持って来たレコードを聞いた。物悲しいメロディーは、彼好みだ。
 サックスの切ない音が部屋中に響き渡った。一緒にソファに座って音楽を聴く。それだけ。
 視線も合わさず言葉も交わさず、唯一緒にいる事。二人に足りなかった物なのかも知れない。
 日付を越えて翌日の入り時間を考え始めた頃、剛が帰ると言い出した。音楽はかけたまま、玄関に向かう。
「あれ、お前好きやろ? 置いてくな」
 何も言わなかったのに、人の嗜好を完璧に把握している辺り、さすがだなあと思った。彼のこう言う心遣いはいつも感心させられる。
「ありがと」
「今度、いつにしよか? 明日明後日はスタジオやよな?」
「……うん」
「したら、明後日がええかなあ。そろそろシチューとか食べたいし」
 靴を履きながら、次回の予定を立てるその後ろ姿は楽しそうだった。これからどんどんスケジュールは詰まって行く。それでも会いたいと言ってくれる。
 ああ、あかんなあ俺。
 剛の背中を見詰めながらそっと溜息を零した。嬉しい気持ちを持て余している。
「あ、でもスタジオやったら帰り一緒やな。出前か何か……」
「なあ、剛」
 言葉を遮る様に発した声は、重い響きだった。玄関で立ち上がった剛が、視線を合わせる。一段高い所に立っている俺は、その目を見下ろす形になった。
「あんま、俺ん事ばっか構わんでええよ」
「何で?」
「……何でって。剛、友達一杯いるやん。これからスケジュール詰まるし」
「今の内に友達と遊んどけ言う事か?」
「う、ん」
「それって、俺ん事気にしてくれとんの?」
「……うん」
 低い声。何かいけない事を言っただろうか。心臓が持ちそうもないから言ってしまった言葉だけど、確かに思っていた事だ。
 俺ばかりに時間を費やしていたら、あかんよ。
「光一。俺は、自分の事位自分で分かるし、自分で決められる」
 怖い瞳。先程体調を心配した純粋な色は何処にもなかった。同じ色を生まない彼の目は、プリズムの様だ。
 光と影。相反する物が共生している。
「光一、さっき言ってくれたやん。嫌やったらやらんって。あれは違うん? 俺といるより、友達とか彼女とかといる時間大切にしたいんやったら、考えるわ」
「……嫌なんて思うた事あらへん。ホントや」
 剛の黒い瞳が怖くて、けれど逸らせずに小さな声で答えた。次の瞬間、諦めた様な風情で彼が笑う。
「何が、嫌なん? 光一、困った顔しとる」
 再び伸ばされた手を払って、唇を噛んだ。心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
 嫌な訳ない。そうじゃなくて。
「何も、ないで」
 どくどくと耳の中に響き渡る血液の音。頬が赤く染まった。
 嘘がばれてしまう。こんな顔で言うても、説得力あらへん。
 現場以外ではポーカーフェイス、作れないもんやな。
 優しくされる度、心が疼く。そんな事、ある訳ないのに。剛が望むのは、友情の形だ。
 彼との未来を夢見る事は、やめた筈だ。けれど、まだこんなにも。
「光一?」
「……嬉しい、よ。俺も。お前と友達みたいな事出来んかったから、嬉しい」
「そ、か」
 安堵して笑む口許。期待、してしまいそうや。
 とうに消えた、最初からなかった希望を、見出してしまいそうになる。剛が望んでいるのは己の罪悪感の払拭と、仕事のパートナーとしての永遠の絆だけだ。
 恋なんて、此処にはないのに。
 気を付けて帰るんやでと言うと、子供みたいに笑んだ剛を見送って、音楽の鳴り響く部屋へ戻った。
 一人の部屋は寂しい。昔も今も、ずっとずっと一人だった。誰といても、この孤独は消えない。
 剛は、たった一人の存在だった。孤独の世界を、鮮やかに染め変えた人。
 俺の手を引いて走る少年。
 強い手、甘えた声、向けられる優しさ。全てが鮮烈な印象を纏って、今もある。
 幼い憧憬は、此処にある。今もこの胸の中で飼い続けている恋情は、子供の頃の記憶と共に心臓の一番温かい場所で生きていた。
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「He said that he is disliked.」





 剛の世界から、自分はもう随分前に放り出されてしまった。

 普段は別々の楽屋が、局の手違いによって二人一緒になった。それは全くのアクシデントだったのだけれど、後になって振り返ると何かの采配だったのではないかと思わずにはいられない。
 ずっと膠着状態だった二人の距離が崩れたのは、この日だった。
 一緒にいたくない人間と、個室の空間を共にする事は苦痛だと思う。まして、繊細な神経を持つ剛なら尚更。
 本番以外は見たくもない相方の姿を視界に捉えるのは嫌だろうな、と光一は他人事のように考える。ギターを弾く指先にも苛立ちが見えて、可哀相だなんて。
 鏡越しに様子を窺いながら、光一は目の前に置かれた二つの弁当に悩んでいた。何で同じ種類のものにしてくれなかったんだろう。一つはハンバーグ、もう一つは唐揚げだった。どちらも剛の好物で、自分はどちらでも良い。
 彼の今日の気分なんて分からなかったから、どちらに手を伸ばそうか決めあぐねていた。剛が食べてから取るべきだったのだろうけど、昨日の昼から何も食べていなくて、さすがに空腹も限界だった。
 彼が決めてくれれば良い。そう思っても、ギターに熱心な指先は止まる気配を見せなかった。
 収録前に食べたいんやけどな。ちらりと、鏡越しに俯いた横顔を見遣る。
 いつもいつも、ずっと昔から選択権は剛にあった。こう言う日常の場面では、特に。身についた習性とも言うべきそれは、今になっても変わらない。
 一度目を閉じて静かに息を吐き出してから、何気なさを装って相方の名を呼んだ。鏡の中で、予想通り不機嫌に変質した表情を冷静に見詰める。
「弁当、二種類あるんやけど。どっちがええ?」
 剛の指先が止まった。乱暴に弾かれた弦が奏でる不協和音。鏡に映る苛立った瞳と、それを受け止める自分の瞳の無感動。すべてが違う世界の出来事に見えた。
 あー、俺らってやっぱバランス悪いな。こんな小さな部屋での温度差は、鈍感な自分の皮膚にも痛い位だった。
「そんなん、お前が勝手に決めろや」
 低く返された言葉は、光一に答えをくれなかった。剛はまた同じ様にギターへ向かってしまう。今の彼を構成するほとんどは音楽だった。彼は呼吸する様に音を奏でる。
 苛立った感情を霧散させる為の静かなメロディーは、容易く指先から溢れた。唯でさえ、今日は一緒にいるせいで最悪なのに、そんな些細な事で声を掛けるな。剛は思う。
 自分の世界から光一を排除したのは、昔の事の気もするしつい最近の事の様でもあった。
 あの、何を考えているのか分からない瞳が嫌いだった。どんな言葉を浴びせても薄っすら微笑んでいる口許も。存在すべてを否定したくて、彼を作る全ての要素に苛立った。
 何でこんなんと一緒に仕事してんのやろ。原因があって光一を嫌いになった訳じゃなかった。気が付けば、顔も見たくない程彼と言う存在を疎ましく思う。
 もうずっと、こんな状態を続けていた。けれど、どんなに剛の感情が変わろうとも、光一は何一つ変わらない。
 同じ様に剛を遠ざける事も、嫌な表情一つ見せる事さえ。まるで剛の態度等関係ないと言う様に、いつでも光一は穏やかだ。そうして、剛はますます彼が何を考えているのか分からなくなってしまった。
 目を向けた後ろ姿は頼りなくて、昔と変わらない錯覚を覚える。部屋に広がるのは、物悲しい弦の響き。
 光一は、無表情のまま動かない。彼は怒りや悲しみを見せない代わりに、全てを零にしてしまう癖があった。それは俺のせいなのだろうか、と剛はぼんやり思う。だからと言って、彼に抱く感情が変わる筈もなかったのだけれど。
 苛々する。理由のない感情は、勝手に心臓を暴れ回って、他人を傷付けずにはいられなかった。他人を、ではない。光一を、光一だけを傷付けてしまいたい。



 剛に選択肢を委ねて育った光一は、弁当を前にしたままで動けずにいる。もうこれを口にするのは無理だろうな、と思いながら。先刻の声で、食欲すら失せた感じがする。奏でる音の種類が変わって。ごめんなと心の中で思った。
 早よマネ戻って来ぉへんかな。誰もいない、閉じ込められた感じのする密室は、さすがに苦痛だった。もう少しすれば、スタッフが入って賑やかになるだろう。
 それまでの、それだけの。僅かな時間。
 俯いてテーブルに視線を落としていた光一は、気付かなかった。自分を取り巻く世界に無頓着な傾向があるから、仕方ないと言えば仕方ないのだけれど。
 次の瞬間に顔を上げた光一の、反応は遅かった。気配に気付いて見上げれば、いつの間にか剛の姿がある。
 ギターの音が聞こえたのにも近付く気配にも、何も。世界を拒んで、光一は殻に篭っていた。
 悪い癖が出ている、と思う。傷付けられた事にすら気付けない悲しい程強い精神は、殻に閉じ篭る事でバランスを取っていた。自己防衛のその手段は、余り良い反応ではなかった。
 見上げた先の漆黒の瞳は、相変わらず暗い色を成している。こいつも良くないな、と思って。
 多分、余り何も考えていなかった。彼の指先が乱暴に顎を取っても、何処かぼんやりしている。唯、最後に見た優しい瞳の色を思い出そうとしていた。
 きつい香水の匂いに眩んで、目を閉じる。その、刹那。
 沈黙を保ったままの彼が何を考えていたのかは分からない。光一に分かったのは、近付いた体温と頬に掛かった剛の髪だけ。
 恐る恐る瞳を持ち上げれば、長い睫毛が間近にある。抵抗する事さえ思い付かなかった。
 彼の全てを受け入れる事しか覚えなかった身体は、触れた唇の感触すら拒絶しようとしない。
 ゆっくりと至近距離の瞳が開いて、一瞬だけ目が細められた。余裕のある時の、笑った目。愉悦の色を保ったその瞳の奥は、深く濁っている。
 久しぶりに間近で剛を見た気がして、身体が離れても暫く身動き出来なかった。ああ、剛の体温はやっぱり高い。触れた体温に的外れな事を思って、苛立ちを抱えたままの姿を追った。
 素っ気ない素振りで離れた手がかき上げる前髪の動き。唇を舐めた舌の、獰猛な気配。彼の一挙手一投足はいつでも簡単に光一を縛り付けた。
 呼吸を止めていた事に気付いて、ゆっくり息を吐き出す。そうしてやっと、自分が何をされたのかに思い至る。
 自分は今、剛に。
 理解した瞬間、顔が赤くなるのが分かって、慌てて口許を手で押さえた。キス一つで顔を赤らめるなんて格好悪い。でも。
 俺は、キス、されたんか。相方に。
 触れた温かい感触を思い出しながら、唇を指先で辿った。目の前にいる剛に、数瞬前の名残はなくて混乱する。
 何を、されたのか。何の意味があったのか。既に目を逸らした剛が答えてくれるとは思えない。
 テーブルの上に置かれた二種類の弁当をゆっくり剛は比べていた。それから一つを取ると、不機嫌な瞳のままに言う。
「弁当、こっち食うわ」
 何事もなかったかの様に、通常の温度で光一の傍を離れて行く。もう、自分の方を振り返る事はなかった。弁当を食べる気にはなれずに、光一は他の人間がこの部屋に入って来るのを待つ。
 それ以外、何も出来ずに。

 乱れた心臓を戻す事が出来ないまま臨んだ収録は、散々だった。



+++++


 一人で歌いたいと言われた。
 当たり前の事だと自分は受容する。その後すぐに、彼は一人でステージに立った。


 忙しい日々は、感情の何もかもを残していつも通り流れて行く。あの収録の日からも日常は同じ表情で過ぎて行った。もうすぐ、雨の多い時期になる。
 レギュラー番組の打ち上げは、出来る限り参加したかった。気心の知れた優しい大人達と飲むのは、心地良い。いつもの焼肉屋で、いつも通り二人離れて座った。今更、それを疑問に思う人間もいない。
 光一は共演者と、剛はスタッフと飲んでいた。明日は午後からの仕事しかないから、今日は比較的最後まで付き合える。
 剛はいつまでいるのだろうか。彼のスケジュールは知らない。
 日付が変わるとさすがにメンバーも減って来た。この時間になれば残るのは男性陣だけで、光一は気を遣わずに楽しめる。
 皆が席を立ったり変わったりを繰り返す内に、隅に座っていた筈がいつの間にか真ん中のテーブルにいた。振り返ると隣には剛の姿があって、光一は動揺する。
 彼は反対側を向き、スタッフの一人と音響設備について熱心に話していた。聞こえる声のトーンは優しい。
 その雰囲気を壊したくなくて、グラスを手に取ると一人ゆっくり飲む事を決めた。喧騒の中の孤独は穏やかだ。
 前に座っている共演者達の会話に耳を傾けながら、意識しているのはいつも剛の側だった。随分長い事、彼の優しい笑い声を聞いていない。
 ゆっくり話す語尾の甘さとか、柔らかく沈むトーンの落ち着きとか。それが自分に向けられたものじゃなくても良かった。
 ブラウン管越しに熱心に見入るファンの眼差しで、光一はすぐ隣にいる人の声を聴く。剛は、相方以外の全ての人間に優しく在ろうとしていた。
 その理由を、自分はまだ朧げにしか理解出来ない。
 ぼやけた思考回路でアルコールを飲み続けていると、不意にテーブルの上の携帯が震えた。振動に驚いて反射的に手を伸ばしたけれど、自分の物はジーンズのポケットに仕舞われたままだ。
 指先で押さえた携帯は、見慣れた色。剛の物だった。しかも多分、メールではなく電話の着信。
 背中を向けて、話に熱中している剛は気付かない。どうしようと一瞬思ったが、気付いた以上は無視出来なかった。

「……つよし」

 小さな、呼び掛け。機嫌を損ねまいとする、弱気なそれ。
 自分で自分が嫌になる。相手は、俺のたった一人の相方だった。なのに。
 小さな声は、剛に届かなかったらしい。その代わり、こちら側を向いていたスタッフの方が気付いて話を止めた。不自然に止まった会話と、スタッフの視線で理解した剛が振り返る。その表情は、先刻までの温和な声を完璧に払拭していた。
 不機嫌な、眼。指先の携帯は振動を伝え続けている。
「剛、携帯」
 視線に負けたくなくて、強く 
「春夜再来」





 ずっと、好きだった。
 何度季節が巡っても、この恋が消えた事はない。大切に育んで来た思いだった。
 同姓である事、仕事仲間である事。運命を共有してしまった人だからこその戸惑いも多い。この恋を終わらせるべきだと考えた事も何度かあった。
 それでも。
 長くこの世界で生き汚れてしまった自分の中で、唯一残った綺麗な感情だったから。彼への思い以外に綺麗なものを体内で幾ら探しても見つからない。
 彼を幸せにしたいとか、そう言う優しい感情ではなかった。自分もまだ綺麗なのだと思っていたい。
 彼を愛しく思う透明な感情が、濁った身体に今も存在していた。
 光一を自分のものにしたいと言う、甘やかな恋心。



+++++



 慣れたメンバーにスタッフ、いつも通りのスタジオ。この場所で緊張した自分はもういない。安心してギターを弾いて、相方に進行を任せて必要な時だけ言葉を発せば良かった。
 二人一緒の番組は、これ一つになってしまったけれど。一人の時間を増やしたがったのは自分だから仕方ない。好きな事をやれる時間が欲しかった。彼に迷惑を掛けずに生きられる瞬間が欲しかった。
 そんな思いがいつしか二人を離してしまうとは気付かずに。手遅れとは言わないけれど、光一が自分を見ない瞬間は増えた。人見知りで愛想のない人だから、意識を外に向けるのは良い事だと思う。
 最近は先輩後輩問わず誘われるようになったみたいだし、素直に甘える術も覚えて来た。彼にとっては、成長なのだろう。
 けれど、二人きりの世界を知っている自分には苦しい事だった。光一が自分だけを見て自分だけを信頼して生きていた時間を知っているから。あの小動物みたいな瞳が自分を探して揺れているのが嬉しかった。
 もう、過去の話だ。光一は外を向く。自分は一人の世界に没頭する。
 幼い頃の異常なまでの至近距離から、健全な場所まで来た。今でも光一は綺麗に笑ってくれるし、自分を見つけると嬉しそうに駆け寄って来る。何の不満もない筈だった。
 いつか、可愛い女の子と結婚して子供が生まれて、家族ぐるみの付き合いをする。そうすればきっと、年を取っても一緒にいられるだろう。近過ぎる距離に崩壊を恐れる事はない。
 けれど、自分の心が悲鳴を上げた。辛い、苦しいと啼く汚れた心臓。そんな距離は望んでいない。俺は、光一を手の中に納めたい。
 大人になりきれない自分が抱える、子供の我儘だった。でも、ずっと自分のものだったのだ。出会った瞬間からずっと、手の届く場所にいたのに。
 独占欲は膨らむばかりで、どうしようもなかった。
 俺だけに笑って欲しい。俺だけに触れて欲しい。俺だけを見て欲しい。
 このままでは、狂ってしまいそうだった。曖昧な、相方と言う距離に甘んじているのは限界で。はっきりと自分のものにしてしまいたい。恋でも愛でも構わないから。
 スタッフと打ち合わせをしている光一を見詰めた。進行役は完璧に任せてしまったから、自分はステージの上でメンバーとギターを弾いている。セッションをしながら、スタジオの隅に視線を遣った。
 真剣な表情の合間に見える柔らかな微笑。慣れたスタッフなのだから、リラックスした表情は当たり前だ。本番前の時間位は緊張せずにいられた方が良い。
 頭で分かっていても、心は別だった。嫉妬深いのか子供なのかは分からない。
 唯、傲慢に純粋に光一は自分のものだと思っていた。
 何処にも行かず此処にいるのだと、無条件に信じているのは自分だ。仕事の距離よりも近くにいた時間が長過ぎたせいかも知れない。光一が自分以外に懐かなかったせいかも知れない。自分が彼を守るべき存在だと思い込んでしまったせいかも知れない。
 色々な要因が複雑に絡まって、今体内に恋があった。
 唯一のきらきらした感情。捨てたら死んでしまうと思える程の強い恋だった。
 光一は俺を大切にしてくれているけれど、恋情を抱いている訳ではない。苦しいのは自分だけだった。
 彼の感情は仕事仲間と家族とのちょうど間にある柔らかな優しさだ。運命を共にする者への絶対の信頼はあるけれど、恋はその体内の何処にもなかった。
 同じ感情を共有していなくても良い。けれど、自分のものにしてしまいたい。
 スタッフと笑い合う光一を見詰めた。楽しそうな顔。俺を見ない瞳。同じ空間にいるのに。
 お前のいる場所は其処じゃない。いつだって、俺の隣だけやろ。
 セッションの音すら遠くなる。自分が今どのコードを押さえているのか分からなくなった。
 光一のいる場所だけが、明るく見える。
 神様に愛された証。白い光が降り注ぐ場所。俺からは遠い場所。
 離れたのは自分だった。欲しいものがあった。光一と二人では目指せない場所にあったから。
 彼に一人の居場所を与えてしまったのは、自分だ。分かっている。欲しがってはいけなかった。一人で生きる光一を責めてはならない。
 心拍が乱れて荒れ狂った。あれを掌中に出来るのは、俺だけ。世界中でたった一人。
 そうやろ?お前は、俺のもんちゃうの?
 スタッフの手が、光一の肩に触れる。あの特別な人に触れて良いのは、自分だけだった。他人との接触にすら怯えて、俺の後ろに隠れている子供だったのに。
 成長させたのは自分のエゴだった。そして、手許に置いておきたいと願うのも紛れもないエゴだ。
 唇を噛んで、弦を弾いた。開放弦。
 左手が追い付かない。光一しか見えなかった。
 奏でる音色が分からない。
 一緒に演奏しているメンバーが、自分の方を見た。おかしな旋律に気付かない訳がない。
 光一は笑っていた。親密な素振りで、俺以外の人間に。
 自分の音が追えない。どうしてお前は、そんな遠くにいるんや。

 お前が欲しい。

 発作だ、と思った。呼吸が出来なくなる感じとはまた違う。不治の病。恋の発作。
 あの光が欲しい。
 コードをろくに押さえず鳴らす耳障りな音に耐え切れず、コードを引き抜いた。メンバーが驚いて、動きを止める。けれど自分は光一しか見えなかった。
 不自然に終わったステージの上のセッションに気付いて、打ち合わせをしていたスタッフと光一が振り返る。動きに従って揺れる髪すら、俺のものだった。
 愛している。
 ずっと一緒にいられなくても、一人で生きる手段を見付けても。幼い時に生まれた感情は、今も心臓を占めていた。
「光一!」
 手近にあったマイクを掴んで、スタジオの隅にいる人を呼ぶ。自分の不可思議な行動に慣れたスタッフすら眉を顰めていた。
 呼ばれた光一だけが、何の疑問もない顔で「なに?」と首を傾げる。少女めいた仕草だった。
 手に負えない程綺麗になって行く彼を繋いでしまいたい。はっきりと自分のものにしたかった。抗い難い独占欲だ。光一の気持ちなんて考えていない横暴な。
 けれど、止まらない。この心臓を押さえ込んだらきっと、死んでしまう。
「光一!」
「はいはい。なぁにー」
 周囲の人間は身動き一つせず二人の動向を見守った。狂気に近い場所にいる自分と、いつもと変わらない穏やかな光一。静まり返ったスタジオに、自分の声だけが響き渡った。


「光一、結婚しよう!」


 自分でも何を言ったのか一瞬分からなかった。スタジオの時間が止まってしまったのかと思う程の静寂。誰も動かない。
 今、俺は何て言った?
 光一が欲しくて、誰にも渡したくなくて。引き止めたかった。彼が誰かのものになる前に、誰かを決めてしまう前に。
 お前と一緒にいたのは俺だけや。今更他の人間に渡せるものは何もない。
 自分の恋情と、皆に愛される光一への恐怖。焦燥感が恋に拍車を掛けた。口に出してはならない恋を、耐え切れずに零してしまったのは失態でしかない。
 けれど、問題はそんな事ではなかった。好きだ、愛している、ならまだ良い。愛を告げるにはそれで充分だった。なのに。
 まさか自分が「結婚」と言う言葉を出すとは思いもよらなかった。しかも、相手は光一だ。常識的に考えて、同性同士で結婚は出来ない。
 同性愛を自覚しながら恋を考えるには今更のような気もするが、根本的には常識人なのだ。法を変えようと思ったことはないし、その為に国外逃亡を目論むつもりも今のところなかった。
 二人には遠い言葉だ。例え光一が自分を受け入れてくれたとしても、その言葉を持ち出す日は来ないだろう。
 衝動に任せて言ってしまったとはいえ、何と自分は馬鹿なのだろう。スタジオの温度が下がった気がして、恋に狂い掛けた心臓が冷静さを取り戻す。
 スタッフもメンバーも誰も動かなかった。多分、俺の次の動きを待っている。

「ええよー」

 其処に、場違いな程明るい声が響いた。長年聞き続けた、いつまでも不安定で柔らかい声音。舌足らずな響きで名前を呼んでもらえるのが嬉しかった。
 相方の顔を見れば、変わる事のない安心した笑みを向けている。絶対の信頼感。崩れる事のない距離。揺れやすい自分の心を支えてくれる唯一の拠り所だった。
「こ、光一?」
「なに」
「今、何て?」
「やーかーらー、聞いてなかったん?ちゃんと相方の話位聞けや」
「……すいません」
「ええか?もう一回しか言わんで」
「うん」
「ええよ。結婚、しても」
「光ちゃん!」
 叫んだのは自分の声ではない。光一の周囲にいたスタッフと、ステージの上にいたミュージシャンの声が重なった。
 其処で声を上げて良いのは、俺だけじゃないのか?身動ぎ一つせず見守っていた癖に、自分の事など忘れて皆光一の周りに集まった。
「光ちゃん!絶対やめた方が良いって!」
「そうだよ。苦労するって」
「お前が結婚なんかしたら、俺は泣くぞ!」
「光ちゃんにバージンロードなんか歩かせられるか!」
「いや、あの、ちょぉ皆……?」
「絶っ対!反対!」
「あんなあ、其処まで言わんでもええと思うで」
 散々な言葉にうんざりしながら、輪の中に割って入った。冗談じゃない。常識人がいないのは元より承知だが、明らかに突っ込む場所を間違えていた。光一は相変わらずぼんやりと笑っていて埒があかない。
 わざとその薄い肩を抱いて、自分のものなのだと主張した。これは、今のやり取りがなくても当たり前の動作なのだけど。
「光一、ええんやな?」
「あんなー、お前には公衆の面前なりの羞恥心はないんかい」
「そんなもんとっくに捨てたわ」
「……たまに俺、お前ん事分からんくなる」
「これからは分からんとこがない位一緒にいたるから」
 内心の動揺を出さないように気を付けながら、悪い男の顔で笑った。何の気まぐれか知らないが、光一が結婚すると言っているのだ。法的手続きも根本的な問題も棚上げにして、とりあえずその約束を確定してしまいたかった。
 長過ぎる狂気の日々に終止符が打てる。愛だの恋だのと喚き立てるよりも、明確でシンプルな関係だった。
 彼がこの頼りない腕の中に甘んじてくれるのなら、それはとても幸福な事だ。手に入れられないまま、いつか離れて行く瞬間を思って生きて行くならいっそ。
 これ以上ない位近い場所で、一緒に生きて行こう。



+++++



 勢いのプロポーズから、何故か事態はトントン拍子に進んでいる。散々メンバーには罵られたが、光一が余りに普通の顔で笑うからその内誰も何も言えなくなった。
 慌てて駆け付けたマネージャーに怒られるのかと思いきや、「社長には僕から報告するから心配しないで」と言われてしまったし。何件か呪いを呟く留守電と不幸のメールが入っていたけれど、気にならなかった。
 音楽番組の楽屋で、今光一はマネーシャーが持って来た書類に目を通している。弁当を食べながら、自分も隣で覗き込んだ。
「男同士って、養子縁組が結婚なんやって。剛、知ってた?」
「うん、まあな。結構一時期調べたし」
「そぉなん? 勉強熱心やなあ」
 相変わらず頭の螺子が足りない喋り方をする彼の頭を、箸を持った手で撫でる。嫌がりもしないで、真剣な目で文面を追っていた。
「つよちゃんは結構思い詰めてたからね。どうしたらお前と一緒にいられんのか、真剣に調べてたんよ」
「阿呆やなあ。一言言えば済む話やのに」
「結婚しようって?」
「そ。 早かったやろ?」
「……どっちか言うたら拍子抜けやわ」
「にゃは。剛は石橋を叩いて壊すタイプやね」
 上目遣いで見詰められて、死にそうだと思った。叶わない恋を抱いていた時よりもずっと危険だ。こんな至近距離で自分だけを見ていてくれるなんて思いもしなかった。幸福過ぎても人は辛いのだと贅沢な事を思う。
「あ、剛」
「ん?」
「可哀相やなあ、お前。ほら。縁組したら、俺の子供になるんやって」
「何でもええよ。光ちゃんと一緒にいられるなら」
「……いつも、一緒やったやろ?」
「そうやな。でも、やっとこれで『いつまで一緒にいられるんやろ』って悩まんで済むわ」
「安心?」
「も、あるけど、やっぱり嬉しい。お前とは相方以外にはなれんと思ってたから」
「良かったな」
「光一は?」
「何が?」
「光一は、俺と結婚出来て嬉しい?」
「うん。剛が幸せそうやから嬉しいよ」
 彼の言葉は、自分の望むものと少し違っていた。プロポーズの日から何度も聞いているけれど、一度も愛を見せてはくれない。優しさは、痛い程に感じられた。
 自分と同じ感情を持って欲しい訳じゃない。俺の中にある恋情は狂気と紙一重だから、綺麗な光一には相応しくないものだった。表現方法は違えど、彼の愛は深い。俺だけに真摯に向けられていた。
 でも、其処に「相方」との差異は見出せない。彼は「堂本剛」が大切だと臆面なく言った。無条件の愛情は、仕事の距離があって初めて成立するものだ。
 我儘を言っているだけだった。「相方」であろうが「恋人」であろうが、どんな風に二人の関係性が変わっても、きっと光一の惜しみない愛情は変わらない。
 分かっていて、自分のように恋で揺れる彼を見てみたいと願った。穏やかな瞳が狂気で歪む様を、自分だけを渇望する瞬間を。
「……光一は、幸せ?」
「うん」
 躊躇なく応える彼の言葉は真実だった。現状を肯定出来る強い人。多くを望まないその精神が、羨ましくて少しだけ悲しい。
 弁当を置くと、光一の身体をそっと抱き締めた。首筋に顔を埋めて目を閉じる。彼は抵抗する事すら思い付かないように素直に納まった。
 従順なのは「恋人」だからじゃない。「相方」の信頼だけで、彼は自分に関する全てを許していた。
 やっと手にしたのに、相変わらず自分は欲深い。恋をして欲しいなんて思わなくても、充分に愛されているのに。
「結婚、しような」
「するんやろ? あんなに大々的に言ってもうて、マネージャーまで巻き込んでるんやで? 今更後戻りする気ないわ」
「そうやな。保証人まで頼んでもうたもんなあ」
「どーすんの。あの人ら俺らの管理者なのに。絶対事務所から怒られたで」
「間違いないなあ」
「でも、祝ってくれてるもんな」
「うん、ありがたい事や」
 養子縁組の書類手続きに必要な保証人は二人だった。きっと身近な人なら署名してくれるだろうと思っていたけれど、まさかマネージャー達が承諾するなんて思わなかったのだ。
 こんなに大切にしていてくれたのかと、改めて驚いた。「同じ事務所のタレントにもお世話になってるミュージシャンにもサインさせる訳にはいかない!」と言うのが、チーフマネージャーの管理者らしい言い分だったのだけど。
「今は、俺らの新居探してくれてるわ」
「何か申し訳ないなあ」
「そうやな。プライベートの事やのに」
「ちゃんとマネージャーの言う事聞こうって反省した、俺」
 身体を預けたまま、光一は機嫌良さそうに笑う。人生の一大イベントを控えた重さは感じなかった。今の状況を楽しむ余裕がある。
 喜びたい気持ちと、消えない焦りで雁字搦めになっている自分とは大違いだった。既に怖くなっている。「結婚」の二文字が、こんなにも人生に重く降り掛かるとは思わなかった。
「この紙出したら、夫婦なんやで」
「夫婦って言うか、親子やけどな」
「光一」
「……不思議や」
「何が?」
「剛が、全部になってまう」
「全部?」
「そう、全部。相方で友達で家族で兄弟で仕事仲間で、それで充分やったのに。夫婦も剛と出来るんやなあ。不思議や」
「俺だけになるのは嫌か?」
「ううん。安心やから、ええ」
「そっか」
 結婚で光一は変わらないタイプだと思っていた。安定感のある人だ。きっと普通に女性と結婚しても、彼に変化はないのだと。
 でも、もしかしたら彼なりに考えている事があるのかも知れない。結婚なんてしない、と嘯いていた人だから。
 あの時承諾してくれた意味を、前向きに考えたかった。愛してくれているのだと思いたい。



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 書類の手続きなんてすぐに終わるけど提出日が結婚記念日になるんだし、どうせ剛の事だから入籍日はこだわりたいんだろう?
 必要事項に記入を終えた書類をマネージャーに渡した時にそう言われた。確かに、慎重に日付を選びたい思いはある。でも、光一が無頓着過ぎるからこだわりよりも覚えやすい日が良いのかも知れないとも思っていた。
 二人で祝えなければ意味がない。誕生日とか祝日とか、語呂の良い日付。
 そもそも日にちを意識して生きている人ではないから、どうしたら記憶に残るのか見当がつかなかった。聞いたところで、「じゃあ、今日」なんて答えしか返って来ない。
 悩みに悩んで、六月十二日と言う日付が出て来た。以前、PVの撮影で聞いた事がある。この日は「恋人の日」なのだそうだ。
 どんな由来かもろくに知らないが、十一月の「良い夫婦の日」を待つのは馬鹿らしいし、誕生日と重ねてしまうとお祝い事が一つ減ってしまう。
「書類の提出日決めたで」
「うん。 いつ?」
「六月十二日」
「分かった」
「その日は空けとけや」
「俺覚えてらんないから、マネージャーに言っといて。調整してもらう」
 大分長い事悩んで決めた日付を光一はあっさり聞き流した。やっぱり、と言う思いともう少し反応して欲しいと言う願い。今更仕方ない事だとは分かっているし、そんな彼が可愛いと思ってしまう自分も確かに存在した。
 光一と結婚をする。未だに現実味を帯びて来ない事実だった。
 何故、彼は承諾したのだろうか。堂々巡りの疑問は、自分の中で抱えていても仕方なかった。
 分からない。今まで、彼は「相方」として以上の愛情を自分に掛けてくれていたのだろうか。俺と同じように、あの綺麗な身体の内側にも壊れそうな感情が存在するのだろうか。
 愛されている自覚は、随分小さな頃からあった。光一には自分だけで、自分にも光一だけだったから。大人を信じられなかった、あの幼い頃。お互いだけが守るべき存在で愛すべき者だった。
 他には何もいらないと本気で思っていたのだ。この世界も大人も、同年代の仕事仲間すら信じられずに。
 光一に恋情を抱いたのは、必然だった。傍らにあった頼りない存在を守るのが使命だと思っても仕方ない。二人が出会ったのは運命だと、本気で考えていた。
 けれど、光一は? 当たり前に注がれる愛情は、いつでも穏やかだった。
 自分だけを映す瞳も一番に伸ばされる指先も、抱き締めれば安心する身体も。俺だけに与えられたものだった。
 彼は臆病なのに、優しい。変わらないものを飽きずに渡してくれた。
 其処に恋は介在していただろうか? 答えは否だ。一番近くで見て来たのだ。光一の事は、自分が一番知っていた。ならば何故、彼はあの時躊躇なく頷いたのだろうか。
 堂々巡りだ。聞いてみる他なかった。でも、怖い。せっかく手に入ったのだ。手放したくはなかった。
 このまま何も聞かなければ、光一は自分の手の中に確実に落ちて来る。焦がれ続けた人が、やっと自分だけのものになるのだ。
 悩むのはもう癖みたいなものだけど、考えないでおこうと思った。光一は自分を大切にしてくれる。それだけで充分だった。
 愛がなくて結婚する人達も世の中には沢山いる。自分がどれ程幸福かなんて、深く考えるまでもなかった。



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 マネージャーが何軒か見つけて来た物件から、二人の新居を決めた。光一は何でもええよ、としか言わなかったからなるべく彼が過ごしやすい事も考慮する。
 人の目につかなくて、水槽を入れられて、一人の時間も守ってやれる事。条件を挙げれば切りがなかった。だから、都内の高層マンションと言う何の面白みもない所に決める。
 光一が安心して過ごせれば、本当は何処でも良かった。俺は、一緒にいられれば良い。殊勝な事を言う訳ではないけれど、シンプルな理論だった。
 どんどん自分が優しくなって行く事に気が付く。欲しい物を手に入れると、男はこんなものなのかも知れなかった。大切なものが定まれば、生き方もぶれる事はない。
 入籍よりも先に、マンションへ引っ越した。自分は色々と段取りを組んで荷物を運び入れたのに、光一はあっさりしたものだから驚く。
 持って来たのは愛車だけで「嫁入り道具」と笑っていた。「他の荷物は?」と聞いても必要な物はないと言う。執着がないのか、時々光一は身軽過ぎて不安になった。
 此処に未練はないのだと言われているようで。大事な物を持たない事が怖かった。それが枷になるから、この場所に留まっていられるのに。
 自分のマンションはまだ引き払うつもりがないらしく、その内全部処分してもらうと明るく笑った。生活に必要な物は、確かに自分が全て持って来ているからいらないと言えばいらないけれど。
 一緒に暮らし始めて、彼に感じる空恐ろしさはますます募った。こんなに「生」に執着のない人は見た事がない。知っているつもりだったが、一緒に生活してみなければ分からないものもあった。
 人間が本来抱えている欲求をほとんど持っていない。放っておけば食事を摂らないのは知っていたから、マメに作るようにはしていたけれど二人のスケジュールが合う訳ではなかった。一緒にいれば世話を焼く事が出来ても、一人の時は何も出来ない。
 睡眠にしても、宵っ張りなのは相変わらずらしく自分が眠くなっても彼はテレビの前から動かなかった。決して真剣に映像を追っている訳ではない。ぼんやりしている事の多い人だから、起きているのか寝ているのかその見極めも出来なかった。
 一緒に寝ようと誘っても、「まだ眠くない」と言うばかり。せっかく買ったダブルベッドも入れ替わり使うようになっていて、未だ一緒に寝た事はなかった。一緒に眠る事が嫌なのかと思えば、楽屋では相変わらずくっ付いて昼寝をしたがるから訳が分からない。
 価値観の違う人間が一緒に生活するのだ。多少の不可解さは目を瞑ろうと思った。相手は堂本光一なのだから、更に質が悪いだろうし。
 愛したい気持ちと、ずれて行く生活と。その内折り合いが付けられるようになる筈だ。
 合宿所の頃とは違う。それぞれが一人で生活する術を身に着けてしまったから、また他人と生活を始めるのに多少の苦痛や違和感が付きまとうのは当たり前だった。
 一緒に暮らし始めて一ヶ月。掛け違ったボタンのように、気持ちの悪い感覚は消えない。
「ただいまー」
「あ、剛。お帰り」
 仕事を終えて真っ直ぐ帰るのが習慣になりつつあった。帰った所で光一が家にいない事も多かったし、結局魚達と過ごして朝を迎える事も多いのだけど。二人の場所に帰る事に意味があった。
「今日は早かったんやなあ」
「日曜日やからね。開演が早いの」
「そうなん? 今日、日曜かー」
「光一さんは、もう少し日にちの感覚持った方がええね」
「今、何月?」
「五月ですよ」
 苦笑しながら、水槽の前に立つ光一の隣に並んだ。頭を軽く撫でてやれば、くすぐったそうに笑う。
「水槽、面白いんか?」
「んー、こんなん飼ってる剛がおもろいなあ思って」
「俺が?」
「うん。やって、絶対可愛くないで。ずっと見てんのに、懐かんし」
「懐いて欲しいんや?」
「……そぉゆう訳ちゃうけど」
 案外寂しがりやな彼は、一人で置いておいても頓着しない癖に、人でも犬でも魚でも生き物がいると駄目になる。構って欲しくて、愛して欲しくて。
 小さな頃には見えなかった、光一の分かり難い愛情表現だった。一人にしないで、と願う弱さも彼の中に確かに存在する。
「光一さん、ところで何で服着てんの?」
「んー、ああ。連絡待ちやから」
「仕事?」
「ううん」
「……飲み行くんか?」
「よぉ知らん。呼ばれただけやし」
 いけない、とは思っても下降する気持ちを止める事は出来なかった。テレビの前でも楽屋でも、「友達いない。誰も誘ってくれん」と言っていたから油断していたのだ。
 一緒に暮らすようになって、初めて彼の交友関係を知った。今まで気にしたのは、長瀬位のもので後は光一自身が懐いていない、言わば「お付き合い」の関係だとばかり思っていたのは間違いで。
 事務所の内外、スタッフ共演者の種類を問わず、彼は良く誘われた。スケジュールの関係で、参加出来る回数は少ないけれど。もしかしたら、自分より交友関係は広いのかも知れない。
 一度一緒になっただけの人間が何故光一の携帯を知っているのか分からない事もあったし、あの顔の濃い四人組に至っては隙あらば誘って来る有様だった。
 彼が孤独に陥り過ぎるのを恐れていたから、親心としてその変化は嬉しい。光一はもっと沢山の人に愛されるべき素質を持った人間だった。自分の大切な人が、大切にされるのは嬉しい。
 けれど、大人になり切れない独占欲の塊みたいな自分も同じように存在した。俺だけに心を許して欲しい。いつでも俺だけを待っていて欲しい。
 その光は、いつでも俺の為だけに。
 人が一人では生きて行けないように、二人で生きる事も幻想でしかなかった。人と人が出会い続けて関係を広げ続けて、生きて行けるのだ。俺だけを見て欲しいなんて、傲慢でしかなかった。
 光一が安心して笑える場所を多く持つ事は、喜ぶべき事だ。あの、自分の後ろに隠れていた少年を知っているのなら尚更。
「あんま、遅くなったらあかんで」
「何で?」
「何で、て……」
「別に女の子やないし、剛は心配性過ぎや」
「好きな人の心配して、何があかんの」
「剛……」
 光一が怯えた瞳を向ける。明確な愛情は、今でも彼の恐怖の対象らしい。本当は一時間置き位に連絡を取って、迎えに行きたい程だった。
「……せっかく一緒におんのに、お前は一個も変わらんな」
「一緒におるのなんて、昔からずっとやん」
「そぉゆう事やなくて。俺ら、結婚するんやで? 合宿所で同じ部屋になったんと訳が違う」
「分かってるよ」
「でも、お前は相変わらずや。夜には寝ないし、すぐ飲み行くし」
「そんなん、今更簡単に変えられるか」
「俺は、変えようと思ってる。光一と一緒になるんなら、早く帰りたいと思う。一緒に飯食いたいって思う。こんなんやったら、一緒に暮らす意味ないやんか」
「意味、なんて。 そんなん」
 光一は、きっと分かっていない。自分の中にある恋情を。体内を浸食する狂気を。
「光一は俺ん事好きか?」
「あ、当たり前やろ。何、今更」
「俺には分からんよ。何で、一緒に暮らしてくれてんのか。何で、結婚してくれるんか」
「剛、お前……」
「俺はずっと考えてた。でも、分からん。何で?」
 彼の冷えた指先を掴んだ。怯えた仕草で肩を揺らす様が愛しい。恐れを知らない人だった。そんな強い人が唯一怖がるのが自分だ。暗い優越感だとは分かっているけれど。
 光一の唯一のものになれるなら、愛でも恐怖でも構わなかった。それ位に彼だけを欲している。
「言って。お前が言葉苦手なの知ってる。でも俺、このままやと後悔しそうなんや。お前は優しいから、結婚しようって言った時頷いちゃったのかなあとか。俺はお前の『相方』やから、そぉゆう無理今までもさせて来たし」
「……つよし」
「あん時、どうしてもお前が欲しかった。ずっと好きやったから、でも手に入れられないもんやって思ってた。いつか俺んところからいなくなるんやって、そう思ったら怖かった。一緒にいられる約束が欲しかったんや」
 泣きそうだと思った。水槽のモーター音だけが部屋に響く。手の先にいる人は、心配そうに自分を見詰めるだけだった。
 ずっと、後悔との狭間で彷徨っている。光一は、優しいから。「絶対」の対象である自分の為なら、彼は多少の無理も押し通してしまう。
 本当は恋情なんか何処にもなくて、あるのは長い時間を掛けて育まれた親愛だけのような気がして。何で、一緒にいてくれるの? 何で、あの時「ええよ」と言ってくれたの?
「剛、あのな……」
「うん」
「俺、ホンマに言葉にするの苦手なんや」
「知ってる」
「うん、知ってくれてる剛に甘えてた。ごめんな」
 優しい言葉を零して、手を繋いでいない方の指先が頬に伸ばされる。そっと撫でると、綺麗な表情で笑った。
「別に、無理なんかしてへん。あん時、結婚しようって言われて、本当にしても良いって思ったから言うたんや」
「どうして」
「どうして、って。俺の結婚の認識がおかしいんか? そんなん、一緒にいたいからちゃうの? 違う?」
「……正解」
「やろ? 何で剛がそんな風に悩むんか分からん、俺」
 光一の黒い瞳がひた向きな色を見せる。心臓が甘く軋んだ。彼が一緒にいたいと言う。この先の未来も、ずっと。
 耐え切れなくて、瞳を伏せた。泣いてしまいそうだ。彼の中にも、恋情が存在するのかも知れない。
「俺と一緒にいたいって、思ってくれとんの? 結婚したいって、思ってくれてた?」
「お前と一緒に生きる為に、此処におるんやろ。俺は、剛が考えてるみたいな結婚生活ってよう分からんから……。どんなのが良いのか分かんない。この部屋で剛だけを待ってて欲しいんなら、そうするよ?」
「良い。いらん、そんなん」
「剛が欲しいものなら、全部。俺が出来る事全部してあげたいんや」
「うん」
「それが、俺がお前と結婚したい理由。……あかんか?」
「ごめん」
「良いよ、謝んなくても。俺も、嫁入り前なのに、全然気にしてなかったし」
「光ちゃんが、お嫁さんになってくれるん?」
 其処はこの際はっきりさせておこうと、顔を上げた。涙の膜に覆われた瞳で見詰める。柔らかな目尻には、多分愛情が詰まっていた。
「何で、そんなとこで反応すんねん。どっちもお嫁さんでどっちもお婿さんやろ?男同士なんやから」
「ウェディングドレスとか……」
「阿呆か。何で男二人で結婚式なんか挙げなきゃあかんねん!」
「えー、俺写真位撮りたい」
 甘えた声でねだると、困ったように眉を顰めた。ああ、この人は本当に自分の欲しいものを与えてくれようとしている。その気持ちだけで充分だった。
 愛情でも恋情でも構わない。光一の中には、間違いなく自分への思いが息づいていた。
「冗談。光一が、此処に帰って来てくれる事だけが俺の望み」
「そんだけ?」
「うん。お前はもっと外に出た方がええんや。ちゃんと分かってたんやけどなあ。やっぱり、俺やきもち焼くから」
「しゃあないなー。俺、言わんかった?」
「何を?」
「剛が全部になるって。……ホントは、お前だけいれば生きていられるんよ」
 他の何もいらない、と穏やかな瞳は雄弁に語った。仕事があれば平気だと語る時と同じ表情で笑う。
 そんな言葉を耳にする度に、俺は胸が痛かった。恋も遊びもないまま、可哀相な大人になってしまったと。
 でも、あの時も視線の先には自分がいたのだ。「仕事」と「堂本剛」はイコールで結ばれるものだった。
 彼は何度も何度も、俺が必要だと言葉にしてくれている。気付かなかったのは、自分の脆弱な恋心だった。
「剛が考えてるよりずっと、俺はお前が大事なんよ」
「……俺は、お前が好きで好きで死にそうやった」
「俺は、お前がいるから生きて行ける」
「意見合わんなあ、相変わらず」
 涙を堪えるようにして笑うと、彼は痛ましい表情を見せた。いつでも二人の気持ちは重ならない。
 だからこそ、二人して同じ方向を向いて歩いて行く事が出来た。お互いを見詰めていても生きて行けない。同じ未来を見詰められる距離があるから、二人でいる意味が存在するのだろう。
「俺、今やっと心臓が落ち着いた気ぃする」
「心臓?」
「うん。いっつも、俺の此処暴れ出しそうやった。その度に苦しくて、狂ってまうんやないかと思ってた。あの日も、おんなじ。お前が好きで死にそうで、やから言ったの」
「プロポーズ?」
「そうや。でも、お前がええって言ってくれたのに、それからもずっと苦しくて苛々してた。きっと、お前ん事信じてなかったんやな」
「俺が信じられるような態度取ってなかったからやろ?」
「いや、何も変わらない事がお前なりの愛情やって気付けば良かったんや。見ようとしてなかった。手に入れたつもりで、光一の事無視してた」
「ずっとなんて、見てなくてええんよ」
 傍にいるから、と囁いてそっと抱き締められた。同じ身長の二人だから、恋人同士の抱擁と言うよりは兄弟のそれに近い。魂を分け合うように、お互いを抱いた。
「も一回、言ってもええ?」
「うん」
「僕と結婚して下さい」
「はい」
 相手が唯一の存在で、そして全てだった。運命の相手をあんな幼い頃に見付けられた自分達は幸せだ。濁った体内が、光一の体温で浄化されて行く感覚。
 どんな場所にいても、綺麗に生きていられるのだ。彼は、様々な汚濁を飲み込んで尚美しかった。その光を手に入れられた事が嬉しいけれど、もしかしたら違うのかも知れない。
 もっと前から、多分出会った最初からずっと、彼の光は自分のものだったのだ。



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 養子縁組の書類手続きは、拍子抜けする位あっさりと終了した。別にマスコミに嗅ぎ付けられてもさして困る事ではない。事務所側もばれた時の対応策は既に作ってあると言う事だった。名字は元々同じだから、戸籍上の事だけで、後は本当に何も変わらない。
 控えめに「おめでとう」と言って、マネージャーがブーケをくれた。あのプロポーズの瞬間に居合わせた人達は、相変わらずのパフォーマンスだと思ったのか、その後は何も言われていない。
 誰に祝福されなくても良かった。二人が納得しているなら充分だ。思えるようになったのは、光一のおかげだけれど。
 それぞれの両親には、特に理由を告げず事実だけを説明するに留めておいた。もしリークされた時に、ニュースソースは少しでも少ない方が良い。
 きちんと調整されたスケジュールに則って仕事を終わらせると、早い時間に帰る事が出来た。
「光一は、もう帰ってると思うから。今日は、ちゃんと決めろよー」
「え」
「バッグの中、大事なもん入ってるんだろ?」
「……ばれてた?」
「当たり前だよ。一日中大事に撫でやがって。俺もたまには嫁にプレゼントしてやるかなあ」
「した方が良いですよ。分かりやすく大事にしてる感じが良いと思う」
「剛は現金だな。じゃ、お疲れ様」
「お疲れ様でしたー」
 手を振って車を発進させるマネージャーを見送って、一つ深呼吸をする。六月十二日。二人の結婚記念日。
 きっと光一にはマネージャーが教えている筈だ。あの用意周到な人達なら、忘れがちな彼の事まできちんと配慮が為されているだろう。
 ブーケを抱えて、ドアの前に立った。緊張する。今更何を、と思うかも知れないけれど、冷静な状態で光一に愛を渡せるかどうかは自信がなかった。
 甘い花の香りが気分を落ち着ける。部屋に入らなければ始まらなかった。何と言ったら良いのだろうか。
 五分以上部屋の前で悩んで、いい加減男らしくないと覚悟を決めた。その瞬間。
 勢い良くドアが開かれた。
「うわ!……っわ!」
 扉を避けようとしたのが一回目、二回目は出迎えてくれた人を見てだった。ブーケを左手にしたまま、呆然と立ち尽くす。
「こ……こぉいち?」
「お帰り……もぉ、じろじろ見んなや!」
 視線を逸らして、部屋に入るよう促された。乱暴な仕草と言葉は照れ隠しだ。
「こーいちさん、それ……?」
「うっさい!とりあえず入れ!」
 おっさん口調で言い切って、振り返りもせずにリビングへ戻って行った。慌ててドアを閉めると靴を脱ぐのもそこそこに光一の後ろ姿を追い掛ける。
 夢かと思った。純白のシャツとパンツは、衣装で何度も見た事がある。その首元にはリボンタイが結ばれて、細身のパンツの上にはラップスカートが巻かれていた。ステージの上で見れば、いつも通りの王子衣装だろう。
 けれど、問題はその先だった。両手には白の手袋が嵌められていて、小さな頭の上にはウェディングティアラと肩を越す位までの柔らかなレースのヘッドドレスが載せられている。
 自分は、夢を見ているのだろうか。否、別に彼と一緒にいられれば多くは望まない。けれど、結婚願望が強かった分、結婚式にも思い入れがあった。
 相手が光一だから諦めてしまっただけで、本当は結婚式を挙げたかったのだ。綺麗な人だから、きっとその辺の女よりずっと美しい花嫁になると思っていた。
 夢なら覚めないで欲しい。そう思って、でも彼の表情が今この時間を現実だと教えてくれた。
 リビングのフローリングの上に憮然と座って、睨み付けられる。恥ずかしいのか悔しいのか、その瞳は潤んでいた。少なくとも感動の涙ではないだろう。
「光一、それ……」
「おせっかいなマネージャーが、こっそりスタイリスト呼んだん」
「スタイリスト?」
「こんなん、俺が出来る訳ないやろ!」
「そりゃ、そうやけど……」
 確かに、遊ばれたのか何なのかうっすら粉も叩かれているようだった。淡く潤った唇がいつもと違ってどきりとする。
「とりあえず、そんなとこ立ってないで座り」
「はい」
 着慣れない服に戸惑っているらしい光一は正座をして、手袋を嵌めた両手を膝の上に置いていた。その真正面に、自分も倣って正座する。
「光一」
「……なに」
「綺麗やなあ」
「……っ、そんなん、言うな」
「何で? せっかく綺麗にしてもらったんやろ? 言わんでどうすんの?」
「やって、こんなん……」
「こんなんとか言いなや。別に、光一を女にしたい訳ちゃうよ。スタイリストさんもちゃんと分かって、男物で用意してくれてるやん」
 光一の自尊心を傷付けたい訳ではなかった。でも、マネージャーの気遣いと抵抗しながらもこうして帰りを待っていてくれた彼に嬉しくなってしまうのは、当たり前の事だ。
「ありがと、光一。俺も何かちゃんとした格好してくりゃ良かったなあ」
「お前のちゃんとした格好って、最近見た事ないで」
「そやなあ。スーツも着なくなったしなあ。でも、どっかに入ってるから着替えてこよか?」
「良い。そのまんまで」
「分かった。……写真撮影はなしやろ?」
「当たり前や」
「じゃあ、もっと良く見せて」
 悪い男の声で嘯いて、光一の細い顎を取った。無理矢理上を向かせると、ぎゅっと瞳を瞑る。ああ、ホントに嫌なんやろなあと思って、自分の気持ちよりも俺の事を優先してくれた事実を噛み締めた。
 優しい人。多分、俺に優しさを与えてくれる人で彼以上の存在は、地球の何処を探してもいないだろう。世界で一番優しい。
 愛、なのだろうか。光一は穏やか過ぎて、感情の揺れが見えない。欲しがられているのか、愛されているのか。今も分からない。
 でも、彼の中にあるのが何かと問われたらはっきり答える事が出来た。その心臓に存在するのは、「絶対」だ。唯一のもの。彼の至上のものである事。
 大切な存在だと改めて思う。欲しくて欲しくて狂いそうだった。でも、欲しがるよりも前に与えられていたのだ。
 光一の手は、いつでも自分の為に用意されている。
「光一」
「な、に」
 恐る恐ると言った風情で、瞼を持ち上げた。世界が終わる瞬間も、この黒い瞳には俺だけを映していて欲しい。
「愛してるよ」
「……知ってる」
「可愛くないやっちゃなあ。其処は、俺もー言うとこやろ」
「嫌や」
「ええよ。俺も知ってる」
 優しく笑って、色づいた唇に軽い口付けを落とした。触れるだけの、甘い接触。
「え!……っなに!」
 一瞬の空白の後、光一が口許を押さえて真っ赤になった。そんな風にしたら、グロスが手袋に移るのではないだろうか。冷静に考えていたが、尋常ではない彼の反応に眉を顰めた。
「こーいちさん?」
「やって……やって……」
「何ですか?」
「おっ、お前……今っ、キ!」
「キスしたけど、それが何やねん」
「えー! やって、キス、なんて、そんなん!」
 成人をとうに過ぎた男性の反応ではない。仕事でだって散々している癖に。プライベートの事は余り知らないけれど、これだけ長い事生きていればそれなりの経験がある筈だった。
「好きな奴にキスして何がおかしいねん。これでも我慢してた方やで」
「我慢って……やって、俺と剛なのに」
 ほとんど泣きそうな顔で光一が訴える。愛し合う者同士が触れ合うのは当たり前ではないか。一つ屋根の下、暮らしていてその考えに至らない方がおかしい。
 それとも、光一だから仕方ないのだろうか。清い仲で結婚生活をする気など毛頭ない自分にとって、もしかしたら新たな悩みとなるのかも知れない。
 考えるとうんざりするので、とりあえず目の前の事に集中した。キスでこんなに騒がれてはセックスなんて夢のまた夢だった。だから、一緒に眠ろうとしなかったのか。
 今更ながらの防衛本能に気付いて、溜め息を吐いた。先は長そうだ。
「俺とお前やから、当たり前の事やろ。こんなん、スキンシップやん」
「やって、人がいないのに、こんな……」
「ネタやないんやし、人がいなくて当たり前やろ。お前、人に引っ付きたがる癖に、キスが駄目なんて聞いとらんぞ」
「……駄目なんかじゃないけど」
「なら、ええやん。も一回する?」
「駄目!……心の準備が出来てから」
 これ以上虐めるのも可哀相かな、と思って笑うだけに留めた。長期戦は覚悟の上だ。何年狂いそうな恋を抱えて来たと思っているのか。今更、怖いものなんてない。
「まあ、ええわ。その話は追々な」
「追々するんかい」
「夫婦になった訳ですから?」
 怯えさせない仕草で手を離すと、傍らに置いていた鞄から小さな箱を取り出した。ブルーの、ドラマでは見慣れた形。
 それを見て、中身を察知したのか不安そうな瞳を光一は向ける。レースがはらりと揺れて綺麗だった。
「俺、何も用意してへん」
「もうくれたやん。その格好だけで充分やよ。はい、受け取ってくれますか?」
「……ええの」
「お前の為に用意したんやもん」
「うん」
 恐る恐る受け取る指先に苦笑する。光一は、手放しの愛情が苦手な人だった。
 臆病で優しくて、それを隠そうとするから横暴に見える。
 ゆっくり蓋を開けると、小さな声を漏らした。きらきらした物を見詰める純粋な瞳。
「きれーや、これ」
「そやろ? お前、綺麗なもん好きやもんなあ」
「うん。好き。ありがとぉ」
 子供みたいな発音。愛しい存在だった。何よりも愛した人だ。自分の手で彼を幸せにしてやりたかった。この手が何かを成せるのだとすれば、それは光一の為に。
「貸してみ。嵌めたるわ」
「ん」
 指輪と左手を素直に差し出して、ゆっくり瞳を伏せた。手袋を外すと、薬指にそっとプラチナの輪を通して行く。
 小さなダイヤモンドの付いた決して派手ではないリング。大きな石を買えない訳ではないけれど、光一にはこれが似合うと思った。
 どうせずっとしていられる物でもないから、彼の好きなきらきらして綺麗な物を渡そうと決めていたのだ。
 嵌められた左手をじっと見詰めて、光一は顔を歪めた。どんな表情を作れば良いのか迷ったのだろう。
 素直になれない事は知っている。その表情の裏側に潜んでいる感情にも。
 もう、怖がらない。光一の愛情は、自分のそれとは違うから。
「これから先の未来も、俺に渡して欲しい」
「……うん」
「俺は弱いけど、お前がいたらきっと強くなれると思う」
「うん」
「愛してるよ、ずっと」
「ありがとう。俺なんかを欲しがってくれて」
 小さく零した光一の本音は痛々しくて、その言葉ごときつく抱き締めた。どうしてこの人は、いつまで経っても柔らかな弱さを失わないのだろう。だから、他人に優しくいられるのかも知れない。
「あんなあ、ホントは俺ライバル多いんやで」
「嘘や。俺、もてへんもん」
「あー、まあ……女の子にはもてへんかも知れんけどな」
「俺はノーマルや!」
「今更そんなん宣言されてもねえ」
 俺と一緒になる訳だし。耳元で囁けば、剛は違うと訳の分からない言い訳をした。誰かのものになる前に、と言う感情は独占欲でしかないけれど。
 その根本にはいつも愛があるのだと言う事を忘れないでいたかった。
「とりあえず、結婚した訳ですから、今日からは一緒に寝ましょうね」
「や!」
「せっかくダブルベッドやのに、全然意味ないやんかー」
「別々に寝た方がゆっくり出来るやろ」
「ゆっくりしたい訳ちゃう!いちゃいちゃしたいんや!」
「いちゃいちゃって……死語やろ、お前」
「光一さん、論点がずれてる。一緒に寝よ?」
「い、や!」
「何もせぇへんよ」
「……」
 言ってやれば、まさに気にしていたのは其処だったようで、光一を抱き締めたまま盛大に笑った。結婚を決めて一緒に住んでいるのに、何で其処で引くかなあ。
 相変わらずずれた人だと思って、もう一度今度は額に口付けた。逃げられないよう、先にきつく抱き締める事も忘れずに。
「おっ前!夫婦なんやったら、対等やろ!」
「そうですよ。別に光一さんからキスしてくれても僕は全然困りませんけど」
「違う!そうやなくて! 俺の意見も聞けって事!」
「意見?」
「心の準備が出来てない言うたやろー!」
 最悪や、と叫んで、でも離れる事はせずに逆にぎゅっと抱き着かれた。レースがふわりと舞って、ああ花嫁さんだなあと感慨に耽る。
 いつかは一緒に寝られるかな、と思いながらとりあえず今日の目標はこの姿をどうやってカメラに収めるかだと考えた。
 未来は長い。
 ゆっくり一緒に歩いて行ければ良い、と剛は満足そうに笑った。


 幸福は、腕の中にある。
 未来は二人の視線の先に。


【了】


十、観察眼



 土曜日の朝。締切を終えて帰宅した博が珍しく起きていた。規則正しい生活等到底無理な仕事に情熱を傾けている。
 母としてだけではなく、人間としても尊敬出来る人だった。
「おはよう」
「おはよう。今日からだっけ? 友達と旅行」
「うん」
「いつ帰るの?」
「土曜日には」
「そう、気を付けてね」
 コーヒーを飲みながら新聞を読んでいる博に、少し後ろめたい気持ちを抱えながら、逸る気持ちを抑え切れずに荷物を抱える。
 一泊二日の短い滞在。それでも僕には充分過ぎる時間だった。
「准一」
「何? 博」
「そのシャツ」
 指差されたシャツは、今日必ず着て行こうと決めていた。ヨーロッパから帰って来た彼が、お土産だと渡してくれた淡い色のシンプルな。
「そのシャツ、似合ってないよ。趣味が悪いな」
「……行って来ます」
 博の言葉に笑い返すだけで、僕は家を出た。何か気付かいているのだろうか。シャツを見据えた彼の目は厳しさすら覗かせていた。
 それが、締切明けで仕事の余韻を残しているだけだったら良いのだけれど。
 電車に乗り込んで、時間を確認した。このまま行くと待ち合わせよりも早く着き過ぎてしまう。
 それでも良い。それが良い。僕は待つ事が好きで、そして待ち続ける事に慣れていた。
 光一が駆けて来るのを見られるだろうかと思いながら、待ち合わせの駅でホームに降りる。湿気を纏った空気が肌を包み込んだ。



十一、避暑地の恋



 電車を乗り継いで、葉山の別荘に着いたのは午後三時だった。家中の窓を開けて換気をする。良く手入れされた家は、葉山と言う立地を考えても豪華過ぎる物だった。
 其処に当たり前に馴染む光一は、やはり単純に恵まれた人間なのだろう。羨まれる事は多いと思う。
 羨望と嫉妬の眼差しを受けながら、それでも彼はこんな環境を望んではいなかった。
 海岸線を散歩した後、二人して簡単なオードブルを作って、海岸に面したテラスに食事を広げる。途絶える事のない波の音が、二人を世間から隔絶してくれていた。
 僕達はこの場所で、誰の目も気にせず恋人同士でいられる。沈む太陽が海に反射してきらきら光った。オレンジの明かりを受けながら、光一も穏やかに笑んでいる。
「そのシャツ、着て来てくれたんや」
「うん。似合う?」
「……多分。准一に似合う物って思うてたんやけど、俺趣味悪いからあんまよう分からんかった」
「綺麗な色だよ」
「准一が男前で良かったわ。どんなん買って来ても、きっとお前なら似合う」
 屈託なく笑う光一は朝会ってからずっと上機嫌なのに、何処かに欠落した部分があった。
 その空洞を懸命に隠してはいるけれど、どうしたって感じ取ってしまう。何があったのだろう。
 太陽が沈む。波の音は止まない。彼の髪が、潮風になびいた。
 光一は羽織ったブルーのカーディガンの前を抑える。寒いのかも知れないと思った。
 今日はそんなに気温が低くなかったのに、彼はずっとカーディガンを着たままだ。
 海と同じ深い深い蒼。彼によく似合っていた。
「風出て来たな。片付けて中、入ろうか」
「そうやな。日も暮れてまう」
「あ、ええよ。光一君先入ってて。これ位なら、俺一人で片付けられるから」
「ほんま? じゃ、お願いしよかな」
「うん。コーヒー煎れるからゆっくりしてなよ」
 別荘に行く約束をした時に感じた違和感を、今日会ってからもずっと感じていた。
 無理をしている訳ではない。辛そうな素振りも見せない。
 けれど、感じるのは一体何なのか。
 彼の中に最初から空洞があるのには気付いていた。それを埋める為に僕が必要な事も。利用されているだけでも構わなかった。光一が好きだから、どんな理由であれ必要とされるのは嬉しい。
 我慢ならないのは、彼の心の傷を深く出来るのがあの男だけと言う事実。優しく出来ないのなら何故、そっとしておかないのだろうか。
 店内にあるアンティークの様に。愛せないのなら、大事に守るだけでも良いじゃないか。
 食器を洗い上げて、濃いコーヒーを煎れる。最近立て続けで行った買い付けに疲れているのかも知れない。
 本当の理由は其処にないと気付きながら、自分自身を誤摩化す為にそう結論付けた。休養を取る為に、僕と一緒に此処に来たのだと。
 光一は、ソファに横になっていた。目を閉じて、波の音に耳を傾けている様だ。アウトドアは嫌いだと言いながら、自然にしか癒せない力がある事を知っている人だった。
「光一君」
 静かな呼び掛けは、彼に届かない。表情を隠す為か、腕で顔を覆っていた。
 深いブルーのカーディガン。その、袖口から覗く、白い腕。
 陶磁器の滑らかさを持った、白いだけの。
「こ、ういち君」
 ほとんどが吐息で紡がれた言葉は、醜く掠れていた。白い筈の手首。其処にあるのは、見た事もない色。
 赤く腫れた擦過傷。青く沈んだ内出血の痕。彼の違和感の正体に思い当たる。まさか。
 マグカップをテーブルの上に置いて、手首を優しく掴んだ。
 意識をこちらに戻した光一が反射的に、僕の手を拒む。横になっていた身体を起こして、距離を取ろうと後ずさる。
 その瞳には、明らかな怯えがあった。
「准一!」
「……痛い?」
「准一」
「痛いよね」
 跪いて、その傷に唇を寄せる。近くに見て分かったのだが、傷痕は一日で付けられた物じゃない様だ。
 何度も何度も付けられた傷。強く縛って身動きの取れない光一をどうしたのか。泣いて叫んで、それでもあの男はやめなかった筈だ。
 傲慢に自分の物だと主張する為に、細い手首を締め上げた。
「っ……くそっ!」
 初めて、誰かを憎いと思った。今までずっと光一を可哀相だと思いはしたけれど、剛を明確に憎んだ事はない。
 二人には二人だけで積み重ねた時間があって、それはどれ程光一を愛しても奪い返せる年月ではなかったから。
 自分が彼を疎んじるのはお門違いだと思っていた。でも、今は。殺してやりたい程憎い。この白い肌を踏み躙って弄んで、一体彼にどれだけの傷を付ければ気が済むのだ。
「准一、准一」
「ふっ……うっ」
「お前は、優しい子やな。俺の為に泣いてくれるんか?」
 穏やかな声音。彼は、自分の夫を一度でも恨んだ事があるのだろうか。きっと、ないのだろう。それならば。
 光一の分まで、俺はあいつを憎みたい。呪い殺してやりたい。拒まない身体を引き寄せて、きつく抱き締めた。
 何処にも行かせないと、強く思う。隔離された世界は、容易に錯覚を起こさせるから。いつまでも此処に二人いられる様な気さえした。
「どうして、光一君はあの男を」
「准一」
「やって、こんなんまでされて一緒にいる事ないやないか。こんなん愛って言わん!」
「俺は、ええんよ。あいつも痛みを抱えてる。愛し方に苦しんでる」
「けど!」
「それに、お前にもこうやって辛い顔させてる。きっと、一番罪深いんは俺や」
「そんな事ない」
「お前に気付かれん様にって思って、三週間待ったのにあかんかったな。まさか続くなんて、俺も思わんかった」
 小さく笑った彼に愕然とする。あの電話があった時、既に光一の肌には傷があったのだ。疼く痕に眉を顰めながら、それでも上機嫌を装って。涙が止まらなかった。
「俺は、幸せな位やよ。お前みたいな心の綺麗な子に泣いてもらっとる」
「光一君……」
「ありがとな」
 溢れる涙を拭って、優しく抱き締め返す。自分の傷を平気だと笑って、痛い筈なのにずっと笑い続けて。
 貴方は何処で安らぐの?何処で、素顔を見せてくれるの?



十二、破綻の音



 泣き濡れた僕を宥めて、一緒にベッドへ入った。触れるだけの口付けは、光一ではなく僕を安心させる。
 どうして彼は、他人の事ばかりに懸命なのだろう。自分の身を削る事すら厭わずに、胸の空洞が広がる事すら恐れずに。
 それが、きっと彼の生き方なのだ。剛と共に生きて来た光一が見付けた真っ直ぐ歩いて行く道。
 抱き締めて抱き締められて、浅く眠っていた。熟睡していたら、きっとその音に気付けなかったと思う。
 静かに停止したエンジンの音。地面を踏み締める革靴の反響。ぱちりと目を開けた光一は、あからさまに動揺していた。
「光一君……」
「剛や」
 呆然と呟く。そんな筈はなかった。スケジュールが一番埋まっている時を選んで来たのだと。
 剛はふらりとこの別荘に訪れる事があるから、細心の注意を払っていたのだと。黙って来てもばれてしまうから、友人と少し早い夏休みを過ごすと告げてはいたけれど。
 混乱している光一は、目の前に同じ様に呆然と佇む准一の姿を認めて、やっと覚醒した。彼を隠さなければ。
 一階には飲みかけのマグカップが二つある。洗い上がった食器も二組。
 ああ、そんな物は今更どうにも出来ないのだ。まずは彼を安全な場所にやらなくては。
「准一、服着て」
「でも、間に合わんよ」
「大丈夫や! 二階には上げん様にするから。静かに、焦らんで良いから着替えて。荷物と靴持って、バスルームに行って」
 青い顔をした光一に逆らえる筈もなく、胸の中を吹き荒れる落胆には気付かない振りをして、言われた通りの動きをする。彼はストールを羽織ると、すぐ下に降りて行った。
 振り返る事はない。ベッドの上で取り残された僕は、ゆっくりシャツを羽織った。
 全部の荷物を二階に上げていたのは、不幸中の幸いか。階下で二人の話す声がする。剛は気付かないのだろうか。
 誰かがいたのは明白なのにその誰か、光一が言う所の友人が、既にいない事実をどう説明するのだろう。あの人に上手い誤摩化しが出来るとは思えなかった。
 それとも、剛が見ない振りをするのだろうか。どちらにしろ自分が此処で上手く隠れられたのなら、あの二人は破綻していると言って良かった。
「っちょお!」
 バスルームに逃げ込もうとした瞬間、光一の悲痛な声が響き渡る。何が、起きたのだ。
 今すぐにでも駆け寄りたい衝動を堪えて、下の動きに神経を集中させる。
「剛! ええ加減にせぇや!」
 光一の叫び声は聞こえても、きっといつも通りのトーンで話しているだろう剛の声は全く聞こえない。もう一度光一の叫び声が聞こえた後、倒れ込む様な大きな物音が聞こえた。
 その先に起きるだろう事を想像して、バスルームに逃げ込む。荷物を抱えて、バスタブの縁に蹲った。 
 光一の声がリフレインする。幸せだなんて、どうして言えるのだろう。
 痛みを抱えた心臓を持っているのに、どうしてあんなに綺麗に笑えるの?



十三、掌握の砂



 どれ位そうしていただろう。
 遠くから呼ぶ声がして、ぼんやり顔を上げた。入り口に真っ白いシャツを着た光一が立っている。皺一つないそれを見て、思わず顔が歪んだ。
「准一」
 声は出ない。此処で待っている間に、自分の言葉は全て無力に帰してしまった。
 ああ、僕は貴方に何もしてあげられない。安息の地すら与えられず、強く抱き締める腕を持たない。
 今すぐにでも彼を連れ出してあげなければならないのに。僕にはきっと出来ない。
「……准一、ごめんな。もうずっと、思ってたんや。ごめん」
 血の気のない顔は、真っ直ぐ自分に向けられていた。何故、謝るのか。分からない。
 何を言おうとしているのか、分かりたくもなかった。
「ホンマは、早く解放してあげなきゃあかんかったのに」
「解放、って……?」
「俺が准一にしてる事は、剛が俺にして来た事と一緒や。束縛して、閉じ込めて」
「それは、あかん事?」
「そうや、お前にはまだ未来がある。何処へでも飛び立てる。誰とでも幸せになれる。まだ沢山の可能性がある」
「俺は、光一君が良いんや」
「……あかんよ。俺は、あかん。お前と未来を分かち合う事は出来ない。ずっとちゃんと分かってた。分かってない振りしたんは、俺の我儘や」
「光一君」
「もう、こんなん終わりにせなあかんな」
「こんな、って」
「俺はお前が好きや。その気持ちに嘘はない。准一が俺を大切にしてくれる気持ちも分かってる。それが嬉しかった。けど、俺達の関係は『こんな』なんよ。世の中に認められたもんやない」
「俺は、世の中なんて」
「今はまだ若いからええけどな。いつか『世の中』を知る時が来る。その時に俺のせいで、お前に傷付いて欲しくない。これも勝手な俺の我儘やけどな」
「嫌や」
「俺も嫌やよ。お前ともっと夢見てたかった。でも、終わりや。剛は俺を手放さない。お前はもう、外に目を向けても良い時期やよ。これからきっと世界が広がる」
「俺の世界は、光一君だけでもええ」
「あかん。お前は良い男になるよ。此処にいたらあかんのや」
 彼が一度決めた事を翻す様な人じゃない事は知っていた。もう決定事項なのだ。この別荘を出たら、全ては掌から零れ落ちる。
 嫌だった。泣き喚いてしがみついて、離れたくなかった。
 でも、止まる事のない時間は無情にも過ぎて行く。一度交わった彼と僕の運命は、また此処から離れて行くのだ。
「俺達飯食べに出るから。いなくなったらタクシー呼んで帰ってな。ちゃんと帰れるか?」
「……ん」
「そっか。そしたら、な」
 俯いた僕から彼の表情を窺う事は出来なかった。最後に見る顔が困らせた表情なんて嫌だ。どうしたら良いのだろうと思案している内に、光一は諦めた様に踵を返す。

 そうして、三年間の僕達の秘密の恋は終わった。



十四、怒り



 毎年届く招待状を手にして、博はタクシーに乗り込む。夏の途中で准一はおかしくなった。
 誰の目に見ても明らかな落胆と深く抉られた心の傷。その理由を自分はずっと探して来たのだ。
 原因はすぐに思い当たった。七月の友達との旅行だ。
 あれだけ楽しそうな表情を浮かべて出て行ったのに、その日の真夜中に准一は帰って来た。
 たまたま家に戻っていた自分は、彼の表情を見て口を開くより先に抱き締めて。ずぶ濡れの捨て犬の様だと思った。
 世界中から拒絶されたみたいな瞳は怯えている。朝自分が指摘したシャツは着ていなかった。あれから一度も見ていない。
 失恋だと、直感した。
 友達とではなく彼女との旅行、その途中で喧嘩したのだろうと。もう二十歳を過ぎているし、我が子ながら綺麗な子に育った。
 彼女の一人や二人いても構わないと思う。それに、傷付いて成長する事も若い頃には必要だと思ったから、あえて何も聞かなかった。
 そっとしておくのが一番の治療法だと。
 でも、彼は立ち直らなかった。八月を過ぎて、新学期が始まっても准一が笑顔を取り戻す事はなくて。
 編集と言う仕事に就いている以上、なかなか一緒にいてやる事が出来ない。何度問い質そうと試みても、准一は頑なに首を横に振るだけだった。
 言いたくないと、そっとしておいてくれと、その瞳は語るばかり。
 十月になり、さすがの自分も焦った。元来物静かな子ではあったけれど、どんどん自分の内面へと意識を向けているのが分かる。現実から隔離された場所で、あの子は思い出に捕われている。
 そう思った瞬間、突き止めようと思った。准一を傷付けた存在を。仕事の合間に息子の動向を探るのは困難だったが、答えは呆気なく提示された。
 偶然本の間から滑り落ちた、電車のチケット。未使用のそれの日付は、あの旅行で本来帰って来る日の物だった。
 本の栞に使っていたのか、たまたま紛れ込んでしまったのか。どちらでも良かった。
 出発駅は、葉山。そのキーワードだけで繋がった。充分過ぎる。
 何故今まで気付かなかったのが、不思議な位だ。心臓はどくどくと激しく音を立てている。自分を突き動かしているのは怒りだった。
 クリスマスパーティーの招待状を握り潰して、タクシーの運転手を急かした。
 彼を問い詰めなければならない。どうして准一じゃなければならないのかと。
 遊んで捨てるだけの存在なら、もっと他にいただろう。息子と彼の年齢差を計算してぞっとした。正気の沙汰とは思えない。
 瀟洒なレストランを貸し切ってのパーティーは、あの旦那が好みそうな演出だった。こんな場所を貸し切る経済力と、オーナーを趣味の範囲でこなす裕福と。
 誰がこの生活を築いたのか。もう少し思い知っておくべきだった。室内にいるスタッフの誰の言葉も拒んで、真っ直ぐ彼の元へ向かう。
 白いスーツに身を包んだ彼は、相変わらず柔和な雰囲気を保っていた。この柔い男が、どうして息子を弄んだのか。
「こんにちは」
「博君やん。こんにちは。どしたん? まだ開場には早いですよ」
 気を許した人間だけに見せる、甘えた表情。同じ顔で准一に迫ったのか。腹の底に怒りを溜めたまま、笑顔で向かいの椅子に腰掛ける。
「良いんだよ、君のところのパーティーには出席しないから」
「え……」
 意味を計り兼ねた様に小首を傾げる。友人と呼ぶには距離があるけれど、それでも大事な知人の一人だった。裏切られた気分だ。
 困惑する光一と同じ感情を共有しているスタッフの一人に声を掛けて、飲み物をオーダーした。素早く運ばれたシャンパンを一気に飲み干す。
「……あの子が、十歳の時だった。僕と昌行が離婚したのは。それからずっと、二人だけの家族だった。だから随分と僕は、あの子を大切にしたよ」
 真っ直ぐ見詰めて、昔の事を語る。その顔が色を失って行くのを見るのは、軽い優越感だった。
「光一君は、立派な自立した人だよね。何も知らない二十一の男から見れば、君は憧れの対象だったのかも知れない。でも、今の光一君があるのは剛君がいたからでしょう。剛君も光一君がいたから此処まで来れたんだと思う。この意味、分かるよね?」
 声を荒げる事なく、ゆっくり彼を追い詰めて行く。噛み締めた唇が痛々しかった。
 けれど、准一が受けた痛みはそんな物じゃない。あの子は今も部屋でたった一人、君の事を考えているんだよ。
 ワインクーラーからボトルを取り出して、フルートグラスに乱暴に注ぎ足した。ボトルも光一の前に突き出す様に置く。威嚇の動作。
「一つだけ聞かせて。いつから、そうなったの?」
 穏やかな声音の裏に潜んだ怒りを、彼は痛い程感じているだろう。俯いて、思案する表情を見せた。言うのを躊躇っている仕草だ。
「いつから?」
「……三年前」
「三年!」
 声を出して笑ってやった。三年前。あの子は十八だった。
 綺麗に成長した我が子を見るのは楽しくて。彼との子供はやはり男前に育つものだと呑気に感心していた。あの頃。
「知らなかった……。光一君、十八の准一に手を出したのか。知ってる、それって犯罪だよ?」
「ごめんなさい」
 俯いたその表情が憎らしくて、思わず手にしていたグラスの中身を掛けた。反射だった。
 余りの怒りにこめかみが痛む。
「僕の息子の一番綺麗な三年間を独り占めしたんだから、もう充分でしょう」
 まともに顔に掛かったシャンパンを拭おうともせず、光一は動かずにいた。濡れた髪が頬に張り付いても、人形の様に固まっている。
 聞きたい事は聞いた。彼の心も傷付けた。もう引くべきだと見極めて、席を立つ。
 それでも修まらない気持ちを持て余していた。立ち上がって光一の姿を見下ろした瞬間、抑え難い怒りが放出される。
「呆れた!」
 テーブルに置いたボトルを勢い良く彼に向けて倒した。零れ落ちた液体は、光一の白いスーツを濡らして行く。
 それでも身動き一つしない彼を一瞥して、部屋を出た。もうこの場所に用はない。母親の自己満足だと言われても構わなかった。
 彼だけは許せない。あんなにも准一を引き込んでおいて、呆気なく手放した罪を思い知れば良い。
 部屋を出ると、今到着したのか剛がこちらに向かって来る所だった。
「こんにちは、博君」
「さようなら」
 にこりと笑んで、不可解な表情を見せる聡明な男の視線を躱す。彼ならきっと、僕の姿と光一の濡れた姿を見て全て理解するだろう。



十五、通話



 光一に関する予感を外した事はない。擦れ違った博の笑顔を見て、嫌な予感はしていた。きっといつか訪れる場面だろうと言う事は分かっていたけれど。
 せめてその場に自分がいたかったと思う。足早に部屋に入ると、倒れたシャンパンのボトルがまず目に入った。
 そして、戦々恐々と見守るスタッフの視線の先に、最愛の人の姿があった。
 博君はキレると一目を憚らん人やからなあ。晒し者にされた光一の哀れな姿を見詰める。追い詰めたのは、自分だ。
「光一」
 優しく呼んでも、顔を上げる事はなかった。部屋中に広がるシャンパンの香りに眉を顰める。
「とりあえず、着替えよっか。おいで」
 返す言葉すら持たず、それでも素直に立ち上がった光一の手を取ってシャワールームに連れ込んだ。服を全て脱がせて、浴室に押し込む。
 その身体は小刻みに震えていた。
 博がどうやって光一の存在に気付いたのかは分からない。大方あの坊やが証拠残しとったんやろな。
 隠し事はもう少し慎重にやらんとあかんのや。あの子供も、光一も。
 着替えを用意していると、濡れたスーツが振動しているのに気付いた。何でもポケットに仕舞う癖があるから、きっと携帯が入っているのだろう。
 何の気なしに取り出した剛は、次の瞬間タチの悪い笑みを浮かべていた。シャワールームを出て、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし、准一か?」
「……っ」
 はっきりと息を飲む音。素直な反射がおかしかった。こんなタイミングで電話を掛けて来る方が悪い。
 自分は今、間違いなく不機嫌だった。
「准一やろ。今何処おるん」
 招待状は彼の家に届けてある。恐らくこの付近にいるだろうと確信した。
 近くにある屋内プールを指定して、今すぐ来る様に命じる。何食わぬ顔でシャワールームに戻り、着信履歴を消して携帯を新しいスーツの上に置いた。
 まだシャワーを浴びている光一に声を掛けて、待ち合わせの場所へ向かう。博と同様に、自分も彼には言いたい事があった。



十六、プールサイド



 一番上にある飛び込み台で待っていると、すぐに准一は現れた。恐る恐る扉を開ける姿は滑稽ですらある。
「こっち! 上がって来ぃや」
 剛の姿を認めた准一は、一瞬竦んでそれでも気丈に剛の元まで上がって来た。真っ直ぐに見詰める、恐れを知らない瞳。
 昔は自分もこんな強い目をしていたのだろう。時が経つのは恐ろしい。
「良いやろ、此処。静かで」
「……はい」
 きちんと返事を返す余裕が憎らしかった。博もこんな気分で光一を追い詰めたのだろうか。
「光一とお前ん事は、随分前から知っとったよ」
 驚愕に見開かれた瞳は、子供の色だ。信じられない、と顔に書いてある。
 素直な、子供。光一は彼のこんな所を愛したのだろうか。
「あいつを見てれば分かるよ。光一は変わった。綺麗になった、真っ直ぐになった。気を張らなくなった」
 この二、三年の変化は目覚ましい物があった。此処まで年を重ねて、まだ変化して行く彼を単純に凄いと思う。昔から彼には驚かされてばかりだ。
「で、准一は何か変わった? 光一と寝て、何が変わった?」
 言葉にするのは、痛みを伴う。こんな子供に寝取られたのかと思うと我慢ならなかった。
「分からんか。なあ、もうええやろ。光一も博君も困ってる」
 母親の名を出すと、初めて痛みを抱えた瞳を見せる。
 やはり、家族と言うのは弱い所か。まして二人だけなら尚更。
「……て、下さい」
「あ?」
「光一君と……光一君と別れて下さい! あんたらとっくに壊れてるやろ! 光一君が他の男に抱かれても平気な顔してるやんか」
 胸ぐらを掴む勢いで迫って来た彼を躱し、逆に一歩迫った。頭が沸騰しそうだ。
「誰が、平気やって? 平気な訳ないやろ。今すぐお前をぶっ殺してやりたいわ」
 凄んだ剛に、准一は身動きが取れない。その目は、本当に今此処で人を殺しそうな色をしていた。
「これでも愛してるんや。あいつだけをもう何十年も見て来た。それこそお前が生まれる前からな」
 時間の重みを容易に突き付ける。時間は准一が越えたくても越えられない溝だと、剛には充分分かっていた。
「そんなん、関係ない……」
「一つ、はっきり言ったろか」
 呻く様に言った言葉を遮る。良い大人が、子供相手に冷静さを失っていた。
 それでも良いと思った。誰を前にしても取り乱してしまう位、光一を愛しているのは本当だ。歪んだ感情は、愛情と言う基盤で保たれている。
「光一にとってのお前は幾らでもおるんや。スペアなんていつでも手近にある」
「ふざけんなよ!」
「でかい声出すんちゃうわ、阿呆。俺に雁字搦めにされた心を解放してくれる優しい人間なら、誰でもええんやよ」
「違う! ……っう!」
 ジャケットの前を引き寄せて、腹に的確に膝をめり込ませる。
「大声出すな言うてるやろ。人が来る。もし今、お前が此処で俺に殴り殺されても光一は変わらん」
「っくそ」
「でもな、俺がいないとあいつは壊れるんや。壊れた人間同士の傷の舐め合いかも知れん。でも、あいつは俺がいるから真っ直ぐ立っている。俺はあいつがいるから生きて行けるんや。お前と光一の間に、その絆はないやろ」
 喋りながら、その身体に蹴りを入れて行く。相手に抵抗させない位の護身術は身に付けている。
 自分のそれは、護身術と呼ぶには少々過剰防衛らしいが。抵抗する若い身体を難無く封じ込めて、倒れ込んだ彼の腹を革靴で踏み付ける。
 飛び込み台の先端。
「教えといたる。お前は、ちょっと高級な玩具やったんや」
 睨み返す反抗的な目を無感動に見下ろして、起き上がろうとした身体をプール側に蹴り飛ばした。跳ねる身体。
 宙を舞うその顔は恐れではなく、怒りだった。幾らでも怒れば良い。光一が最後に戻って来るのは此処だけなのだから。
 飛び込み台の先端まで歩み寄って、水面を見下ろす。派手な波紋が広がっていた。笑みを口許に乗せて、そっと呟く。
「恋って言うんはな、落ちりゃ良いってもんやない」



十七、壊れてない



 パーティーは時間通りに始まった。何食わぬ顔で戻った剛は、沈んだ表情のままの光一を端の椅子に座らせて「ゆっくりしとき」と笑った。
 頷いた虚ろな瞳が心配になったけれど、時間が解決してくれるだろうと思った。光一の傷は彼自身にしか癒せない。
 挨拶を一通り終え自分もオードブルに手を伸ばそうとした時、場内がざわめきに包まれた。別に特別なゲストは呼んでいない。
 とすれば、入って来たのは招かれざる客だ。
 視線をゆっくり巡らすと、ずぶ濡れの若者がふらふらとこちらに歩いて来る。夢遊病者の足取りだった。
 その進路に立ち塞がって、警告を発する。先刻のあれだけでは足りなかったと言うのか。何と聞き分けのない。
「帰れ」
 短い警告は、准一の頭まで届かなかった。その瞳は、たった一つの物を探している。
 唯一無二の愛しい人。
 行かせてはならないと、剛は濡れた身体を抑えた。光一は部屋の隅にいる。この角度からでは見えない筈だった。
「……光一君」
 思ったのと、強い力で押し退けられたのは同時。防ぐ余裕はなかった。
 博と違い、自分は体面を気にする方だ。今此処で、彼に行動を起こされるのはまずい。
 光一を避けさせるべきか、准一を抑えるべきか。逡巡した瞬間、室内のざわめきがしんと静まった。
 恐る恐る視線を向ければ、きつく抱き着いている准一の背中と、驚愕の瞳をこちらに向けている光一の姿が目に入った。
「光一君、光一君、光一君」
 やっとこの手に出来たと、准一は安堵の溜息を吐く。ずっと焦がれていた。昼も夜も分からなくなる位、求めた人。
 あの葉山の夜から、自分の時間は止まったままだ。
「准一」
 困惑した響きを遠くに聞く。抱き締めた身体が折れそうな程、腕に力を込めた。
 此処にいる。温かい身体は今、此処に在る。
「准一、帰り」
 囁いた声音は優しかった。拒まれている訳ではないのだと確信する。
「会いたかった。会えなくて苦しくて、死んでまうかと思った。良かった……」
「っ准一。……帰りなさい。此処はお前の来る所ちゃう」
「うん。知ってる。光一君に会いたかっただけや」
 告げたい事があった。この先僕達の運命が交わらなくても、知って欲しかった。
 抱き締めていた腕を解いて、美しい顔を見上げる。泣きそうな顔をしているのに、その瞳が濡れた事は一度もなかった。
 貴方は、一体いつ何処で泣くんだろうね。
「なあ、光一君」
「うん?」
「俺は、ちゃうよ。玩具なんかやないよ」
「……ん」
「俺は、壊れた玩具なんかやない。俺のスペアなんか何処にもない。それだけ、知ってて欲しかったんよ」
「准一」
「俺の好きな人は、光一君だけや。世界中でたった一人。それを忘れんといてな。ホンマに、世界の全部が光一君でも構わんかったんよ」
「准一」
 見詰め合った視線は、第三者の手によって剥がされてしまう。剛が呼んだ守衛だ。
「君、不法侵入だよ。今すぐ退去しなさい」
 有無を言わさぬ腕が、光一との距離を遠くする。
 最後になるかも知れないと思ったから、部屋を出る瞬間まで彼の姿を見ていた。視線を逸らさず見詰め返してくれた事が嬉しい。



十八、同じ空



「光一。ほら、コーヒー」
 准一が帰った後の会場は最悪だった。光一を退席させて、早々に会はお開きになった。
 誰もいなくなった会場に出て来た彼は、一言「ごめんなさい」と零しただけだ。それ以降、ずっと口を開かずにいる。
 手渡したコーヒーは、そのまま彼の両手に収まってしまった。仕方なく、隣の椅子に腰掛ける。
 煙草に火を点けようとして、やめた。これ以上体内に毒を蓄積してもしょうがない。
「……つよ」
 聞き取れるか聞き取れないかの淡い発音で、光一が名前を呼んだ。それに、優しい表情で返す。
「ん? 何や」
「ずっと、気付いてたん?」
「ああ」
「いつから?」
「二年位前かな。お前が店で電話してるん見た」
「そっか。迂闊やな俺」
「ホンマやで」
 いつ戻って来ても構わないと思っていた。まさかこんなに長い時間関係が続くとは思っていなかったけれど。
 だから、黙っていた。光一に逃げ道は必要だと思ったから。
「俺、今迷ってる」
「何を?」
「お前とこの先も一緒にいるべきか。それとも、別れてあの子の元に行くべきか」
「それを俺に言うんか」
「俺が迷った時、アドバイスくれるんは剛だけやろ」
「なら、お前の正直な気持ち教えてくれ」
「剛の事は、大切や。今更信じてもらえんかも知れんけど、ホンマに好きなんよ」
「ちゃんと、信じとる」
「……ありがと。でも、准一には俺が必要なんじゃないかって思う。自惚れとかやなくて。さっき思った」
 俯いた彼の表情は、見なくても分かる。隣で動く空気の振動だけで全て分かるつもりだ。
「俺は、あの子のおかげでお前から逃げずに済んだ。でもな、俺が奪った三年間は、余りに重いもんやったんよ」
「重い?」
「罪深い、かな。准一の世界を俺だけで一杯にしてもうた」
「そうかもな」
「やから、今傍に行ってあげたいと思うんよ」
 それは彼にとって逃避になるのではないだろうか。光一が戻れば、また彼の世界は閉じてしまう。
「あんな、もし剛や准一が死にそうな場面に俺が遭遇するとするやろ」
「うん」
「それが剛やったら、俺助けないで一緒に死んでまうと思う」
 彼が優しい気持ちを渡そうとしているのは分かる。その気持ちをちゃんと汲み取りたかった。
「でもな、それが准一やったら、俺はどうなってもええから准一だけは助けたいと思うんや」
 今の正直な気持ちだと、彼は言う。その奥に見える真実は非情な物かも知れない。
「お前が、俺を大切にしてくれるんは分かってる。やから、ちゃんとアドバイスしたるけどな」
「うん」
「……行きたいなら、行ってもええよ」
「え?」
「准一にお前が必要だと思うんなら、行ってもええ」
 独占欲の強い自分の言葉とは思えなかった。彼を閉じ込めてしまいたいと言う欲求は、今も心臓の辺りで燻っている。
 けれど、その思いを彼が信じた道を尊重したいと願う気持ちも同じ場所に存在した。
「赤い糸って、言うやん」
 小さく頷く。剛は運命論者だ。
 どれだけ歳を重ねても、ロマンティストな思想は変わらなかった。
「俺、赤い糸ってずっと、運命の人に辿り着いて寄り添って生きる為の証やと思ってた。でも、最近思うんよ」
「どんな風に?」
「もしかしたら、赤い糸って傍にいて縛り付ける為のもんやなくて、例え地球の裏側にお互いが存在しても、信じ続ける為にあるもんなのかも知れないって」
「傍に、いなくても?」
「そうや。お前が手の届かない所にいても、赤い糸で繋がってさえすれば俺らは運命の存在や」
 左手の薬指に嵌る銀の輪は、もうずっと長い事彼を束縛し続けている。
 俺は、彼を解放する術を探し続けて来た。この手で雁字搦めにしなくても、最愛の人を優しく愛する方法を。
 今自分は、それを分かり掛けている。
「やからな、お前が准一の傍にいたいと思ってもええんや。俺はもう、ちゃんと信じられる。例え光一の全てを得られなくても、お前の運命の相手は俺やって」
 ずっと視線を逸らしていた光一の瞳が、躊躇いがちに上がる。可哀相な位怯えた色をしていた。
 俺はこうやって、お前を支配し続けたんやな。その罰が、今下されているのかも知れない。
 見詰め合って、彼の左手をそっと握った。黒曜石の瞳が水分の膜を張る。
 僅かだけれど、握り返す感触。久しぶりに手を繋いだ気がする。
「……俺を、許してくれるん?」
「許すも許さんもない。俺は、お前が好きなだけや」
「剛」
 その美しい瞳から、透明な雫が伝った。
 彼と長い事過ごして来た自分でさえ、何度も見た事はない泣き顔だった。眉を顰めて、溢れる感情を抑えようとしている。
「もし、俺が明日准一のとこへ行っても……?」
 本当に彼は、明日の朝いなくなるのかも知れない。それでも良い。
 良いのだと決めた。今は繋いでいるこの指先が、もう二度と帰って来なくても。
 お前は永遠に俺の物だと傲慢に思い続けるよ。光一の帰着点はいつでも俺の所だ。
 薬指をそっとなぞって、愛を告げる。優しい愛し方を、俺は見つけられたんかな。

「明日、お前がいなくなっても、愛してる」

「……ありがとう」
 泣き濡れた瞳が近付いて、優しく唇が触れた。
 赤い糸を、運命を、お前を、俺はこれからもずっと信じている。
一、午後四時



 電話が鳴るのは、いつも決まってこの時間だった。彼の仕事が一段落する夕暮れの時、僕はたった一人部屋で彼を待つ。
 東京タワーの見える自室で、彼の好きな音楽を聴いて過ごした。温められたコーヒーは、彼好みのブラックだ。いつも一緒にいられる訳ではないから、せめて。彼を待つこの時間だけは、彼の好きな物に囲まれていたかった。
 電話の無機質な呼び出し音が鳴って、少し低い甘やかな声を聞く瞬間が一番の幸福だけれど、ソファに座り唯ひたすら待つだけのこの一時も好きだ。彼の事だけを考えていれば良い逢魔が時。僕は、彼の物になる。
 読んでいた詩集から顔を上げて、そっと時計を見遣った。四時を少し回っている。今日は鳴らないのかも知れない。幾ら一段落すると言っても、仕事をしている人だ。
 毎日電話が出来る訳ではなかった。そんな事もちゃんと理解しながら待っているのは、僕の我儘だった。
 彼に初めて会ったのは、もう三年も前の事になる。母である博に連れられて行ったのが始まりだった。
 青山の一等地にあるアンティーク家具のオーナーで、彼の肩書きは文字にすれば、驚く程華々しい。アンティーク家具は、夫の蒐集したコレクションだった。ほとんど趣味で出した店と言って良い。其処にひっそり溶け込む彼自身も骨董品の様だった。静けさが彼に似合う唯一の空気。
 時間が置き去りにされた空間に足を踏み入れた時、自分は何を思っていただろう。博の後を付いて家具の中を歩いた僕は、まだ十八歳だった。
「准一、此処のオーナーの光一君」
 呼ばれて紹介されるまで、人の気配に気付かなかった。それ位静かに佇む人。凪いだ海の穏やかさを持っていた。
「こんにちは。堂本光一です」
「……岡田、准一です」
 一瞬迷って、いつも通り父の性を名乗った。博がそれ程気に留めていないのは知っている。離婚したのは子供の時の話で、彼がずっと育ててくれた。それでも、旧性を名乗り直させるのは可哀相だからと、博は結局僕の性を変えないままだ。
 光一はゆっくりと見上げて、瞳を笑みの形にする。黒目が黒曜石の煌めきを纏っていた。従順な色だと他意なく思う。
「優しい顔、しとるな。お母さんの育て方が良かったんやね」
 にこりと微笑まれて、戸惑ってしまった。こんな風に言われた事なんてない。
「光一君、あんまり准一困らせる事言わないでよー」
 早速取材に入ったのか、店内の家具を見ていた博が遠くから声を掛ける。それすら遠くで聞きながら、僕は光一の顔をじっと見詰めていた。正確には、その表情の変化を。
 陶磁器の肌にビー玉の瞳、職人が大事に形を整えたかの様なはっきりした目鼻立ち。全てが作り物じみた美しさだからだろうか。彼の顔は、決定的に変化に欠けていた。色のない表情だった。
 笑っていても体温を感じさせない。その理由を知りたいと思ったのが、最初だった。先に恋に落ちたのは僕だ。



二、閉じられた世界



 博の取材が終わってからも何度も足繁く光一の店へ通った。青山と言う立地が大学への通学路の途中だった事もあるけれど。彼をもっと見ていたいと思った。
 表面だけをなぞれば何不自由なく暮らしている、満ち足りた生活をしている人なのに。その瞳には諦念から生まれたであろう、何処か投げ遣りな優しさと誤摩化し切れない寂しさがあった。もっと幸福に微笑んだら、綺麗やろな。まるで子供じみた単純な願望。
 光一の表情の理由に思い当たったのは、彼の店に通い始めて二ヶ月が過ぎた頃だった。春の穏やかな空気は、相変わらず店内へ運ばれずにいた。
 いつもと同じ、時間を止めた彼のお城の風景に、知らない人がいる。まるで当たり前の様に、彼の隣に立っていた。
 余りにも静寂の中に身を置いている人だったから、すぐには思い至らない。いつも世界中で一人存在しているかの様な硬い表情を崩さないから、分からなかった。
 いつも通り光一の傍に行こうとして、自分の存在を認めた彼が困惑の表情を浮かべてやっと理解したのだ。
 仕立ての良いスーツを何の気負いもなく着こなし、きつくはないがはっきりと自己主張する香水の香り。他人を簡単にひれ伏せられるであろう、威厳を保った瞳の漆黒。この世で唯一、光一の隣を独占する人。
 夫である堂本剛だった。彼は自分の姿を見咎めると、口許だけで笑む。手にしていた資料をテーブルに放って、愛想の良い笑い方をしてみせた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「君が、准一君やね」
「はい」
「光一から話は聞いてるよ。長野君の息子さんなんやって? いつもウチのがお世話になってます」
「いえ……」
「美大に通ってるんやよね。アンティークとかにも興味あるん? 確か、絵画やってるんやろ」
 見抜かれている、と思った。光一すら気付いていない自分の身の内を、此処に通う動機を。剛の表情は崩れる事なく穏やかな笑いを浮かべていた。
 それは、絶対的な権威者の笑みだった。お前の欲しい物は手に入らない、と言われている。
「君みたいな若い子が、アンティークに興味持ってくれるんは嬉しいわ。これからも時間ある時は遊びに来てな」
「はい」
「光一に話し相手が出来るんはええ事や。いっつも爺さん婆さんばっかが相手じゃ、こいつも早く老けてまうし」
 子供は恐るるに足らずと言う事だろうか。親しみを込めた口調に苛立ちを覚えた。光一は、剛の言葉を黙って聞いている。
 その瞳には諦念の色が強かった。夫の隣に寄り添う事を決意した、暗い目。
 ああ、此処は鳥籠なのだ。
 ずっと、彼の乏しい表情の理由を探していた。時間の止まった空間に一人住んでいるせいかとも思ったのだけれど。理由は、今目の前にある。
 この男こそが、光一の表情を失わせている。確信だった。彼は、鳥籠の住人。小さな部屋に飼われた哀れな小鳥だ。
 その日を境に、准一は自分の心の奥に仕舞い込んだ気持ちを隠さなくなった。彼が好きだと、愛しいのだと目を見る度話し掛ける度思い続ける。あんな高圧的な態度ではなく、包み込む様に。優しくしたかったから。
 静かな店内で、先に手を伸ばしたのは光一の方だった。雨の夕暮れ。古い時計が示していたのは午後四時。
 誰も見ていない応接室で、彼は痛みを堪えた表情で縋った。自分の心にあったのは、多分歓喜だ。もう随分と焦がれ続けていた。言葉にはしなくても、ずっと伝え続けて来た。
 自分が彼を愛したかった。奪うのではなく、包み込む遣り方で。
 ソファに座ったまま、優しく抱き締めてやると深く息を吐いた。安堵の息。満ち足りた生活で抜け落ちてしまった心の空洞を持て余した空虚があった。
 小さく零した彼の言葉を、その声の弱さを、僕は生涯忘れる事がないだろう。
「……俺、剛に大事に集められたコレクションの一つみたいや。此処にあるのと一緒なんよ」
 気丈な彼は泣く事も出来ずにいたけれど、声が震えていた。剛の愛し方に、彼は疲れている。受け止め愛そうとしても、もう。
「気持ちが離れた訳やない、嫌いになったんやない。けど……」
 その先の言葉は、塞いでしまったから分からない。時間の流れを失った店内は、静けさを保ったまま。
 何百年も人と共に生きて来たアンティークは、素知らぬ顔でいつまでも在り続ける。沢山の人間の感情を受け入れて来た筈の家具達は何も言わない。
 犯した罪は、甘く尊かった。光一の身体は、優しさに飢えている。支配され独占され、それでも愛を保ち続けた心は崩壊寸前だったから。
 全てに疲れていた光一は、覆い被さったその背中に強くしがみ付いた。



三、監視塔



 午後四時七分。あの店内と同じ様に静けさを保った部屋に、電話の音が鳴り響く。受話器を耳に当て、無表情を装っているだろう彼の顔を想像するのが楽しかった。
 三コール、四コール、決して慌てず受話器を手に取る。六コール目で小さく笑んだ後、もしもしと声を発した。
「准一?」
 その声は、弾んでいる。三年前の無表情が嘘の様に、最近は感情を豊かに表現する声を出した。年齢には不相応の無邪気な声音。
「光一君、いっつも言ってるやろ。店ん中で掛ける電話なんやから、もうちょい気ぃ遣った方がええで」
「うん? ちゃんと分かってるって。あんな」
 彼は、自分達の関係を本当に分かっているのだろうか。僕はまだ良い。学生の身分だし、ちょっとしたスキャンダルは学内に広まるとしても、其処まで多大な影響を与えないだろう。
 けれど、彼は。
 多くの物をその手の内に入れてしまっている。それが本当に欲した物かどうかは別にして。
「なん?」
「明日の夜、暇?」
「うん」
 光一の誘いを断った事は一度もない。明日は合コンの予定が入っていた気もするけれど、自分の最優先事項はいつも決まっていた。
「良かった。ミュージカルのな、チケットがあるん。二枚。一緒行かへん?」
「うん」
「なら、明日夜六時に迎え行くわ。マンションの前まで行ってええ?」
「えーと、博はいないけど。でも、大通りんとこでええよ。光一君の車煩いんやもん。此処ら辺静かやから近所迷惑やわ」
「准一は、いっつもそれやなあ。ええやん、エンジン音位。こんな良い音聞かせてやるべきやって」
 小さく溜息を吐く。彼の車好きには敵わない。あんな家具に囲まれて仕事をしているのに、彼が本当に好きなのは車だった。
「それは俺が聞くから。大通りの前やよ」
「分かった」
「じゃ、明日。楽しみにしてるわ」
「うん、じゃあな」
 向こうの通話が切れるのを待ってから受話器を置く。午後四時十二分。僅かな時間。それでも一番大切な時間だ。二十四時間の中で、唯一鮮やかな瞬間だった。
 窓際に立って、黄昏行く町並みを眺める。この部屋の良い所は、東京タワーが見える事だった。赤と白の建物はまだ明かりを纏ってはおらず、唯の電波塔でしかないけれど。
 この東京で起こっている全ての出来事を見下ろしているあのタワーが好きだった。きっと、光一と僕の逢瀬も全て見られている。
 否、見ていて欲しいのだ。僕達の犯した罪の全てを。



四、独占深度



 支度を済ませて、午後六時よりも前に大通りへ出た。コートを羽織ってマフラーも手袋もしていたけれど、冬のこの時間はやはり寒い。
 少し背中を丸めて、過ぎ行く車の流れを見詰めた。追う様に流れる自分の吐いた二酸化炭素が、白く広がる。
 僕は、『待つ』と言う行為が好きなんだと思う。光一の事を考えている時が、一番幸福だった。
 彼の表情の退廃的な美しさ、時折見せるあどけないと言って良い程の幼い仕草、黒目の煌めき、不器用な指先をそっと伸ばして触れようとする臆病。光一の柔らかな笑い声が耳の奥で蘇る。
 いつもいつも崩れそうな気配を見せるけれど、彼は強い人間だった。自分に厳しく在ろうとする凛としたその背中。しっかりと前を見据えて生きている人だった。真面目に日々を過ごしている。
 僕は、彼のそんな所を愛していたが、彼自身はその精神の在り方を嫌っている様だった。誠実な故に真摯に向き合おうとするが為に、最愛の人を疎んじてしまう内面矛盾。
 剛を一生好きでいたいんや。自分の前で零した言葉は、彼の辛い本心だった。
 遠くからでも存在を誇示する、エンジン音。時間通りにやって来るのは見慣れた高級車だった。准一の目の前で器用に車を止めて、ウインドウを開ける。
「待たせてもうたな。早よ乗り」
 そう言って笑んだ口許は、いつもよりずっとリラックスしていた。彼は、運転している時が一番『生きている』と思う。
 アンティークの世界に囲われている癖に、大事にしている物は最新技術を駆使したメカニック。その矛盾に、その理由に彼は果たして気付いているのかどうか。愛車の中にいても、彼は骨董のひっそりとした雰囲気を崩さない。
 助手席に乗り込むと、子供みたいな顔で今夜見る舞台の話を始めた。車とミュージカル。光一が好きな物はそんなに多くない。
 アンティークの家具も贅沢な食事も高層マンションの一室も、彼が好きだと言った事はなかった。極端に欲求が少ないのは、満たされた故の反動なのかも知れないけれど。
 その好きな物の中に自分が羅列されるのは、ちょっと得意な気分になる。友人に言わせれば、「物と一緒のレベルじゃ低過ぎるだろ」との事だった。
 ちゃんと友人の言った意味も分かっている。僕を対等な人間として見てくれているのかと言うと、ちょっと疑問な所はあったから。それでも、良かった。光一の好きな物になれる事が嬉しい。
 剛は、彼の好きな物に羅列されなかった。一度その事を問うてみたけれど、曖昧な表情で「あいつは好きとか嫌いとかの次元やないから」と返される。
 思うよりも手を伸ばすよりも先に、光一の隣に在る人。好きと言われる僕と、その次元にない剛と。
 一体どちらが、より彼の心を占めているのだろう。
 抱き寄せれば、素直に応じてくれる。柔らかいキスもしがみつく指先も抱き締める腕も、ちゃんと僕に与えられているのに。
 彼は、僕に何も求めていない気がした。僕から何も奪おうとはしない。それがずっと不安だった。
 剛には、素直な笑顔を見せる事は少ない。自分が見ている限り、光一は隣に彼がいるだけで緊張している様に見えた。触れるのを躊躇う仕草も俯いた項の感傷も知っている。
 決して二人の間には優しい穏やかな感情は見えないのに、それでももっと深い何かを渡している様な。もしかするとそれが、二人で生きる事を決めた者同士の絆なのかも知れない。
 ずっと昔に繋いだ手は、今も変わらず互いを結んでいるのだろうか。



五、好きなもの



 劇場に入ると、もう彼の目は舞台にだけ向けられる。手を繋いでいなければ、何処に行ってしまうか分かったものじゃない。この人の子供らしさは一つの魅力だけれど、困った物だと静かに笑ってみた。
 パンフレットを買って早々に席へ着く。いつだったか、「始まる前のそわそわした感じが好き」と言っていた。会場全部が喧噪に包まれているのに、チャイムが鳴った途端に静まるあの感じが楽しいのだと笑う。
「俺は、そぉ言うん分からんけど。でも、光一君が楽しそうなん見てるんは楽しい」
 素直に告げれば、阿呆と言って頬を染めた。俺ん事なんか見とらんで、舞台集中せえや。そう釘を刺されていたけれど、始まってしまえばもう駄目だった。
 舞台の華やかさより隣に座る人のきらきらした横顔の方が、僕には魅力的だ。集中しているのを良い事に、彼の左手をそっと握った。
 冷たく乾いた指先。その感触が、彼の年齢をそして僕達の年齢差を意識させる。
 彼には気にしていないと言うけれど、本当は嘘だ。凄く気にしている。それは、光一が年上なのが嫌だとか自分が彼と付き合っているとどう見られるんだろうとか言った怯えではない。
 埋める事の出来ない年齢の差。人生の経験の差。僕はちゃんと、光一君に向き合えている?子供に接する様に、優しく甘やかして与える事だけに徹していない?
 胸の奥で燻っている言葉を彼に伝えた事はなかった。けれどもしかしたら、彼は分かってくれているのかも知れない。他人に対して、繊細な神経を使う事の出来る人だった。
 舞台を照らす照明が反射して、光一の顔を仄かに照らす。綺麗だと思った。僕達は、出会う事のない存在だったのだと思う。擦れ違う筈だったのに。
 手を伸ばした事に後悔はない。今の状態が世間的に誉められた物じゃないとしても。その横顔を愛しいと思う気持ちだけが本物だ。
 じっと見詰めている内に、舞台はクライマックスを迎えた。光一の表情に心を奪われている間に終わってしまうので、いつも連れて来られた舞台の内容はパンフレットで読んだ粗筋しか知らない。
 彼が聞いたら怒るだろうから、絶対に言わないけれど。



六、白い夜



 会場内に明かりが点いても、光一は暫く動かなかった。舞台の感動を引き摺ったままの潤んだ瞳。「少し動きたくないんや」と笑う穏やかな表情に反対する理由はなかったから、彼の気が済むまで座ったままいた。
 短い溜息を一つ零して、やっと出ようと立ち上がる。他の客は皆とっくに出てしまった。ロビーに出て、流れ込んで来る外気が異様に冷たい事に気付く。
「さむ……」
 呟いた言葉に返答をする代わりに、そっと肩を抱いた。厚着を嫌う彼は、スーツの上に羽織る物を持っていない。
「お前は、そう言うん平気で出来るんが凄い思うわ。気障なんやなあ」
 嫌味でもなく、単純に思った事を口に出した言葉。近付いた距離に困惑する素振りはなく、そのまま外に面しているガラス窓の方へ歩いて行った。
 見下ろせる位置にある光一の身体は、相変わらず華奢で不安になる。まともな生活をちゃんと送っているのだろうか。
 それについて僕に意見されるのは嫌な様で、何も言わない事にしていた。けれど、心配位はさせて欲しい。
「准一、雪や」
「……ホンマ」
 曇った窓をそっと拭って、光一が感嘆の声を上げた。つられて見上げた窓の外は、静かに雪化粧を始めている。落ちて来る雪の白さが眩しかった。
 彼の項は、雪と同じ白を持っていると何となく思う。
「雪は、綺麗やね」
「うん」
「全部、全部真っ白に染めてくれたら、ええのに」
 呟いた言葉に感情の起伏は見えない。それが悲しくて、肩を抱く手に力を込めた。
 光一君が染めてしまいたい物は一体何なんですか?
 聞いてしまうのは憚られて、言葉を飲み込む。聞いた所で、彼が自分の欲しい答えをくれるとは思えなかった。
 外に出て店を探す事は諦めて、そのまま併設されているホテルのバーへ向かう。幾ら二十歳を越えたとは言え、僕位の年齢の人間が気軽に立ち入れる場所ではなかった。
 敷居が高過ぎる。光一が頼むのに任せて、カウンターに少し上体を預けて座った。
「ホンマはこんなとこやなくて、もっと気軽に食べられる店とか連れてってやれたらええんやけどな」
 僕の顔を覗き込んで、済まなそうに言われる。彼と会うのはいつもこんなバーやレストランのサロン、個室の喫茶室だった。
 どれもこれも友人と入れる店ではない。彼の気持ちも分からないではないが、結局僕は光一と一緒にいられるのなら何処でも良かった。
 余り自分との関係に罪悪感を表さない彼が、唯一見せる謝罪の色だ。自分はずっと食に興味がなかったのだと弁解する。いつも剛の誘う場所へ付いて行くだけだった。それで構わないと思って生きて来たのに。
 お前と一緒にいる様になって、初めて後悔していると笑った。
「別に、俺は何処でもええんよ。光一君が気にする事一個もあらへん」
「ありがとな」
「今度、俺がエスコートしたるよ。気軽なデート」
「ええな、それ」
「映画見て、ファーストフード食べて、ウインドウショッピングして、電車に乗るん」
 およそこの席に相応しくない事を提案して、二人笑い合った。ハンバーガーを食べている光一は想像出来なかったけれど、一緒ならきっと楽しい。
 上質な服に包まれて、剛に連れられて来た店に行く。そんな安全圏を脱ぎ捨てて。
 貴方となら、僕は何処へだって行くよ。



七、優先順位



 カウンターの下で手を繋ぎ密やかな計画を立てていると、彼の携帯が震え出した。反射的に手に取った光一は、その着信に戸惑っている様だ。
 一瞬の空白の後、唇を噛み締めて携帯を耳に当てると席を立った。目だけで謝る仕草。
 繋いだ指先が離れて行く感触が切なかったけれど、残された手はグラスを持つ事で紛らわした。冷えた水滴が掌を滑る。
 光一のあの顔は、良くない事の前触れだった。きっと、楽しい時間は終わってしまう。今日はこれから、遅くまで二人でいる予定だったのに。
 磨かれた硝子は曇る事なく、外の様子を映し出している。そちらに視線を向けて、雪の舞う様子を観察した。
 ひらひらと、定まらずに落ちて行く結晶。空気中の汚れを含んで、地上の汚れを隠して、それでも染まらない孤高の白。
 舞い落ちる雪を掌に受けたいと思った。触れ合った瞬間すぐに溶けてしまう、儚い物。触れた手の冷たさを想像して、自嘲気味に笑みを零した。
 僕は一体、何を考えているのか。考えても仕方のない事だ。
 窓に目を向けていると、光一が戻って来た。硬質の表情が全てを物語ってしまう。言葉の少ない人だけれど、こんなにも雄弁に瞳が語っていた。
「どうしたの?」
「……迎えに来る、って……」
「迎え?」
「ん、仕事早く終わったんやって」
「そっか」
 彼にとって、剛の存在は絶対だ。不規則な仕事に就いているせいか、一緒に過ごせる時間は極端に少ないらしい。
 だからこそ僕達は会う事が出来るのだが。引き留められない事を分かっていて、それでも腕を引いた。
「准一」
「もう少し。まだ、着くには時間あるやろ」
 頬を膨らませて、それでも素直に席に着く。掴んだ腕は放さず、美味しいとは思えないバーボンを大人の仕草で喉に流し込んだ。
 アルコールが胸を灼く。
「聞いても、ええ?」
「うん」
「結婚して何年になるん?」
「……来年で、二十年」
「知らんかった」
 驚いて真正面から見詰めると、困った仕草で視線を逸らされる。
「俺らが結婚したんは、今の准一の年の時や」
「学生結婚?」
「そう。あ、違うな。俺は社会人になっとった。剛のが一個下やねん。学生時代は、どうにか頑張れば毎日会えるやろ。でも、俺が就職してそう言う訳にもいかんくなった。剛は、それが耐えられんって」
 中学も高校も大学も、剛はずっと光一の後を追って進学していた。中学と高校で別れる一年間、そんな隙間すら毎日埋めて来たのだ。
 諦めずに、光一の学生時代をほとんど占領して来た。学生の頃の一年の差は大きい。社会人と大学生と言う差が出来た時、初めて埋められない溝を体験した。
 そのたった一年が耐えられないなんて。
 贅沢だと思う。僕が独占出来る彼は、ほんの僅かでしかないのに。光一のほとんどを我が物顔で蹂躙しておきながら。
「どうしても我慢出来んくて、とっとと就職先決めてずっと貯めて来た通帳の金額見せて、結婚しよう言われたんや」
 あいつ、一生俺を食わして行く気やったんやで。冗談やないっつーの。俺はもう良い大人だったし、一つ年下の恋人に面倒を見てもらうだなんて、プライドが許さなかった。
 今は結局、剛の望む形に近くなっているけれど。現状は、彼の精神状態を冷静に分析した光一が、自ら望んだものだ。
「両親説得して、一緒に暮らし始めて、毎日がままごとみたいやった」
 懐かしむ色。今はもう此処にない物を慈しむ優しい目だった。腕時計を見る。時間切れだ。
「……結婚して、何が変わった?何を、得られた?」
 問うと、考える仕草を見せる。伏せられた睫毛に見蕩れていれば、ゆっくり上がった瞳と出会った。
 いつもの冷静さを保った黒。全てを見通す深く澄んだ彼の目が、少し怖い。
「お互いを、無条件に優先して束縛出来る特権を得た事、かな」
 寂しそうに笑った光一は、掴まれたままの腕を反対に引っ張って店を出ようと促した。エレベーターで下るまでが別れを惜しむ一時だ。
 僕はロビーへ、光一は駐車場へと。最後の瞬間まで繋いだ手は離さない。
「またな」
 小さく呟くその言葉だけが、僕達を繋ぎ止めている気がした。



八、隠し事



 どんなに遠く離れていても、彼の姿は確実に見付けられると思う。エレベーターの表示ランプが灯った瞬間、予感がして剛は車を降りた。
 こと光一に関して、自分の勘が外れた事は皆無だ。予想通りの姿が現れる。細身の黒いスーツは、先日仕立ててやった物だ。良く似合っている。でも、雪が降る様な真冬の夜に上着も持たず出掛けたのは感心出来なかった。
「光一」
「……あ、お帰り」
「ただいま」
「もしかして、車で来たん?」
「ぉん。見りゃ分かるやろ」
「俺も車やで」
「知っとる。隣に止めたからな」
「帰りどぉすんの。俺、こんなとこに車置いて行くん嫌やで」
 ホテルの従業員が聞いたら、確実に気分を害する台詞を平然と言い放って怒った素振りを見せる。仕事が終わって一刻も早く迎えに行こうと出て来たのに、この言い草はあんまりだ。
「俺がお前の車置いて帰った事あったか? ええよ、俺の置いてくから」
「明日、仕事は?」
「大丈夫や」
 横柄な態度を取っていたのに、途端に困った表情になる。幾つになってもお前の我儘は直らんな。
 無自覚の横柄を自覚した時の狼狽は、仕方ないと思える時と単純に苛立つ時があった。フロントで車のキーを預け、フレンチレストランへと入る。
 席に着くと、剛は光一にメニューも見せず二人分のオーダーをした。いつもの事とは言え、准一に会った後は特に嫌な気分になる。
 彼の自由さに憧れた。俺を束縛する事のない優しさが心地良い。
 お前が何食べたいかなんて、顔見れば分かる。当たり前の様に何処にも傲慢さの自覚はなく、剛は言った。
 俺の事を知り尽くしている事に間違いはない。でもな、剛。本当は食べたい物なんかない。
 もうずっと、欲しい物なんかないんやよ。
 運ばれて来る料理に少しだけ手を付けて、後は静かにワインを飲んでいた。
「今日、誰と見に行ったん?」
 彼の言葉はいつも唐突で、その代わりいつも的を得ていた。メインのステーキを口に入れながら、探る視線を見せる。
「友達や」
「友達? お前の友達でミュージカル好きな奴なんか知らんけどな」
 確信的だった。
 剛の知らん友達だっている。そう言ってしまえば良いのだろうけど、彼の目はそんな答えを求めてはいなかった。視線を逸らさずに、正面からそれを受け止める。
「……ま、ええわ。その友達、こんな雪ん中帰して良かったんか? お前の車で来たんやろ。帰り困ったんちゃうん?」
「大丈夫や、タクシー呼んだし」
「別に俺は一緒に食べたって良かったんやで」
 嘘吐き。口には出さず、でも真っ直ぐ睨んで思った。
 二人で過ごす時間に他人が割り込むと、あからさまに嫌な顔をする癖に。例え今日一緒にいたのが准一じゃなくても、同じ事をしただろう。剛は満足そうに光一の視線を受け止めると、優しく笑んだ。
「ほら、ちゃんと食べ。お前、夕飯まだやろ?」
「うん」
「……帰した友達が気になるんか」
「そんなんじゃ」
「光一」
 鋭く呼ばれて、危うくナイフを落としそうになる。床に落とす事はなかったけれど、焦った瞬間食器に触れて嫌な音を立てた。
「……なに」
「お前は最近、隠し事ばっかやな。何も言うてくれん」
 諦めた低い声は、年月を重ねた分の深い落胆があるのに、眉を顰めた表情は学生の頃と少しも変わらない。真剣に自分を愛して、それでも愛し足りないと叫ぶ飢えた瞳。
 光一の人生を傲慢に支配して来たのに、今も見せるその飢えに泣きそうになる。
 じっとその悲しい瞳を見詰めていると、不意に剛の手が伸ばされた。泣きそうな気配さえ滲ませた指先が触れる。人差し指の背で頬をゆったりなぞられた。
「俺の、せいやな」
「え?」
「光一が変わってくんも、秘密を作らせるんも……」
「剛」
「ホンマは分かってるんよ。お前が思ってる事。お前が苦しんでる事。俺の掌で飼い馴らされる人間やないって。光一は閉じ込めて愛される事を受容出来る様な弱い奴ちゃう」
「つよ」
「弱いんは、俺や」
 吐き出された言葉が重く圧し掛かる。俺がもう受け止め切れない事に彼は気付いていた。他人に温もりを求めて優しくされたいと願っている事も、きっと見抜かれている。
 自分の身勝手さに吐き気がした。愛されるのが辛くて、これから幾らでも幸せになれる子に慰めてもらっている。
「でも、ごめんな。俺は束縛する以外に、お前を繋ぎ止める術を知らん。愛し方が分からんのや」
 懺悔の言葉が、胸の深い所を抉った。彼の愛情が苦しいと悲鳴を上げる精神は、とうに限界を超えている。
 もし許されるのなら、あの物静かな瞳を向ける青年の手を取って、二人何処かに逃げてしまいたかった。
 けれど、誰がこんなにも愛してくれる人を捨てて行ける?今日まで二人で歩いて来た道程を今更消す事は出来ない。
 俺の人生のほとんどは、彼と共にあった。きっとこれからも一緒に生きて行くのだろう。
 准一に全てを委ねたい衝動と、剛を守り続けたい自負。それは、情や惰性なのかも知れないけれど。
 頬に置かれた指に手を重ねて、そっと寄り添った。俺に出来る事は、それだけだ。



九、夏の約束



 ゆっくりと季節は巡って行く。雪は止み桜も散り、生温い空気が肌に纏わり付く六月の半ば。
 僕はいつも通り部屋で待っていた。最近電話は週に一回ある位で、デートをするのも月に一回程度だ。
 どうやら家具の買い付けにヨーロッパまで行く様になったらしく、店にいない事も多かった。それでも、距離が離れた訳ではないと思っている。 会えないのは不可抗力で、光一が遠くなった訳じゃない。
 見るともなしに画集を開きながらいつもの様に午後四時を待つ、六月の木曜日。先刻まで降り続いていた雨は小康状態だった。
 無機質な電子音が部屋に響いたのは、午後四時丁度。珍しい事もある物だと受話器を取った。
「もしもし」
「准一?」
「他に誰も出ぇへんよ」
「ふふ、せやな。今日も家におったん?」
「うん」
「あかんよ、若い子が部屋に籠ってたりしたら」
 上機嫌に近い声音で歌う様に話す。こんなに分かり易く機嫌が良いのも珍しかった。
 穏やかな笑い声、舌足らずな喋り方。大体、饒舌な事自体がそうない事なのだ。
 この人は、電話越しでも平気で沈黙を作ってしまう。いつもより優しい声に心奪われながら、そんな事を思った。
「なあ、再来週の土日、暇?」
「再来週? 七月の?」
「うん。一週目やね」
「ちょぉ待って……えーと、ああ。平気やで」
「外泊しても?」
「え」
 聞き返さずにはいられなかった。彼の口から零れた言葉だとは思えない。
「葉山にな、別荘あるんよ」
「うん」
「剛は前の週からクライアント交えた会議詰めになるから、誰も来ぉへん」
「うん」
「やから」
「うん」
「一緒に、遊び行かへん?」
「勿論、ええよ。けど……」
「けど?」
「どしたん? 何かあったん?」
「……何もないよ」
 静かに笑む気配があった。デートをしていても、日付が変わる前には僕を帰したがる人だ。
 二十歳を過ぎて親である博ですら外泊に文句を付けなくなったのに。彼の中で自分は今も子供なのだと痛感させられていた。それなのに。
「ならええけど。ホントに行ってもええの?」
「来て欲しいから誘ってるんよ。あかん?」
 殺し文句だと、受話器を耳に当てたまま天を仰いだ。だって、その別荘は剛の物で、いつ彼が訪れるとも知れないのに。二人一緒に過ごした部屋に、僕を入れても良いの?
「ううん。したら約束な」
「うん。電車で行こ」
「そうやね。荷物持ってお弁当買って、楽しいやろな」
「うん」
 上機嫌な声に潜む違和感に気付いたけれど、その理由までは分からなかった。分かる筈もない。
 彼に会ったのは、もう一ヶ月以上前の事なのだ。
 また連絡するからと電話を切った光一の何処にも暗い影はない。何より一緒に泊まれると言う事が単純に嬉しくて、僕は彼の内面までは見通せなかった。
 それが『子供』なのだと言う事を思い知らされるのは、もう少し先の話だ。

「Slow life, slow ending.」





 光一が発見されたと聞いたのは、彼が姿を消して三日目の事だった。三日前の朝、忽然といなくなってから剛は死ぬ思いだったのだ。コンビを組んで十年以上。家族よりも長い時間を共に過ごして来た相方の失踪は、剛の精神を苛んでいた。
 生放送のスタジオへ向かっていた車は、方向転換をして光一の元へ向かう。電話を受けているマネージャーの声が酷く焦っていた。仕事をキャンセルしてまで行くだなんて、よっぽどの非常事態だ。番組が急遽後輩達に差し替えられたと聞いたのは、随分後の事だった。
 向かったのは事務所ではなく病院で、もしかしたら怪我をしているのかも知れないと思う。あの綺麗な顔に傷が付いていないと良い。
 病院に入る前、マネージャーに「覚悟しといてくれ」と言われた。一度事務所で説明してから会わせようと思っていたのだが、直接見た方が早いと言う判断らしい。
 先に社長の待つ部屋へ通された。どうやらカーテンで仕切られた向こう側に光一がいる様だ。
「本当は、仕事を優先させたいんだけどね」
 椅子に座る様促しながら開口一番言われた。仕事に厳しい人だけど、何が本当に一番大切なのか知っている人だと思う。
「今光一の傍には東山と中居、それに長瀬がいるよ」
「え、皆いるんですか」
「うん。長瀬は撮影の合間に無理矢理来てるから員数外だけど。別に呼んでないのにね」
 いよいよ非常事態だった。彼らが自身の事ではなく、特別大切にしているとは言っても後輩の為に、忙しい時間を割いてまで駆け付けるなんてあり得なかった。
 社長は淡々と光一の現状を説明する。とりあえず無傷ではあるが、まだ精密検査の結果が出ていないから油断は出来ない事。明日の午後から通常通り仕事を始める事。犯人は男で、どうやら監禁目的で誘拐したらしい事。男は光一発見と同時に捕まっている事。
 そして、と言いにくそうに此処へ来て初めて言葉が詰まる。
「やっぱり、どっか悪うしてるんですか」
「悪いと言えば悪いのかも知れない。あんな光一は初めて見るよ……」
 マネージャー同様覚悟を決めて欲しいと言われ、剛は気が滅入って行くのを他人事の様に感じた。光一に一体何が起きていると言うのか。マネージャーがそっとカーテンを開ける。隙間から見えた光景に剛は唖然とした。
 彼らの言う覚悟と言う言葉が重く圧し掛かる。あんな光一、きっと誰も知らない。東山達は、諦めた表情にそれでも諦め切れない色を滲ませてベッドの周りに立っていた。その中心には、白いシーツと同系色の色彩を持つ相方の姿がある。
普段あれ程懐いている先輩や親友を前にして、光一の顔は全くの無反応だった。その瞳に彼らの姿は映っていない。
 微動だにしない光一の手に、中居が優しく自分の手を重ねている。今にも泣きそうに歪んだ顔が、彼の心情を良く表していた。
「保護されてからずっと、あのままなんだよ。誰が何をしても反応しない。……剛を早急に呼んだ意味、分かるよね」
 真っ直ぐ問われると、剛は唇を噛み締めて視線を逸らした。社長の意図は痛い程に分かる。けれど、幾ら相方と言っても自信はなかった。
 多分、自分より今部屋にいる彼らの方が、ずっと光一に近い。俺と光一は昔からずっと「相方」だった。それだけだった。
「剛にこんな役をやらせるのが酷な事位、充分分かっている。だけど、もう剛しかいないんだ」
 男に監禁されていた事実は、ほんの僅かな関係者しか知らない。家族にすら伝える事は出来なかった。本当は、俺よりもずっと適任者がいるだろうに。光一の傍に既に彼らがいる以上、自分が最後の切り札として連れて来られたのは明白だった。
 その期待に胃が痛くなりそうだけど、カーテンの向こうにある光一の表情を思い出す。何処にも表情のない瞳、冷え切った肌の色、俯いた頬の翳り。あんな顔、あいつには似合わへん。もし俺が呼んでも反応がなくて、自分の心が傷付くよりも。もっと痛い事だ、と思った。
 カーテンを開けようと手を伸ばしながら、振り返らずに剛は問う。
「あいつ、泣きましたか」
「否、一度も……」
「そうですか」
 辛い事を閉じ込めて、なかった事にしてしまう光一。そっちのが辛いんやって事に早よ気付け。
 クッションに背中を預けて上半身を起こしている光一は、剛が部屋に入ってもぴくりとも動かなかった。ベッドの向こうに中居と東山、手前には衣装を来たままの長瀬が立っている。
「お疲れ、様です」
 条件反射で出た言葉は、どうしようもなくこの場にそぐわなかった。誰もそんな事に等気付かなかったけれど。
「剛……」
 三者三様の、けれど同じ苦しい表情で名前を呼ばれる。縋る様な響きに剛は逃げ出したくなった。それでも、光一の元へ歩み寄る。いつもならどんな遠くにいても交わせる視線が、真っ直ぐ向けられないのが辛かった。長瀬が場所を譲って、枕元に跪く。俯いたままの光一の視界に映り込もうと下から覗き込んだ。
「光一」
 剛が呼べば、いつどんな時でも脊髄反射の原理で反応する人なのに。彼の五感は、全て塞がれているのかも知れない。深い傷を受けた心が壊れてしまわない為の自己防衛だ。
 無反応の光一に傷付く自分は隠し切れなかったけど、優しい表情は崩さずに囁いた。
「お帰り」
 投げ出された指先に触れて、腕を辿り頬を撫で、耳の後ろから髪を梳きながら、剛はゆっくりと話し続ける。思ったより気丈な自分を何処か遠い所で知覚しながら。
こんな光一を知っている。本当は脆く繊細な精神を持っているのに、どんな時でも彼は強く在ろうとした。高い壁を巡らせて崩れ易い心を深く深く隠す。
 いつの間にか自身ですら忘れてしまった弱く小さな光一が、今目の前にいた。隠し方も繕い方も忘れ、全て晒されてしまう。それ程までに彼の傷は深層に及んでいた。光一の傷を思えば、反応がない事に傷付く自分等何でもなかった。痛いのは、彼だ。
「つよちゃん……」
 不意に長瀬が剛の肩を掴んだ。
「え」
 手を握って話し続けていた剛が振り仰ぐと、長瀬は無言でティッシュを差し出す。
「……泣いてるよ」
「あれ、ホンマや。カッコ悪いなあ」
 自分の頬に触れると、剛は苦笑を零した。情けない。俺がいつも先に泣いてしまうから、光一は泣けなかったのに。
「光ちゃんの気持ちが伝染してもうたんかな。ちょお顔洗って来るわ」
 努めて明るい声を出しながら、剛は立ち上がろうとした。触れていた指先を離すと、僅かだが彼の手に力が篭る。引き留める仕草だった。初めての反応にまた涙腺が緩む。
「つよちゃん今、情けない顔しとるから、引き締めて来るだけやで」
 おどけた声で笑うと、白過ぎる手の甲を安心させる仕草で軽く叩いてから離す。立ち上がり背を向け、歩き出した次の瞬間。その場にいた人間は、時の止まる錯覚を起こした。
 白い残像だけが鮮明に。後ろを向いていた剛は、完全に無防備だった。
まるで、スローモーションの様な。何度でも明確に再生出来る彩度。
眩しいばかりの白に、誰もが目を細めた。三人が小さく声を上げ、それに反応して振り返ろうとした剛の視界に、オフホワイトの光景。
「えっ!」
 剛の背中にシーツを巻き付けた光一がきつくしがみついた。シャツを握り締めた指が震えている。小さな子供の様に怯えた彼を見て、その場にいた人間は誰も動けなかった。出会ってから一度も、こんな光一に出会った事はない。
 剛も同様に呆然としたまま、それでも相方を安心させる為手を伸ばした。ゆっくりゆっくり抱き締める。
「光ちゃん、大丈夫か」
「……つよ、し」
 小さな小さな叫び声が剛の心を抉る。俺の声はお前に届いたんか。いつもよりずっと小さく感じる身体を暖めようと強く抱きながら、皆の安心した顔を見る。
まだ、安心出来る段階ではなかったけれど、とりあえず光一が戻って来た。それが嬉しくて、剛はまた涙を零した。



+++++



 それからまた幾人かの関係者が現れたけれど、光一は剛にしがみつくばかりで何の対応も出来なかった。自分の隣で怯えている彼の手を握りながら、剛は表情を曇らせている。
 こんな風に手を繋ぐなんて、何年振りだろう。小さい時もっとずっと二人の関係は親密だった。大人への猜疑心ばかりが溢れていた子供達は、互いしか頼るものがなくて。
そんな時代はとうに過ぎたと思ったのに、光一は子供の頃と同じ目で剛を見上げる。この戸惑いをどう伝えれば良いのか。
 確かに自分は相方で、仕事のパートナーとしてはこれ以上ない程信頼されているし、大切にされているとも思う。けれど、それはあくまで仕事上の付き合いであり、プライベートではなかった。
 今の彼の状況はプライベートの域で、本当は自分が立ち入れる場所ではない。心の奥にある素の光一が望むのは、友人であり家族であり、少なくとも相方ではない筈だ。きっと、長瀬の方が適任者だった。どうして光一は俺なのか。
 それなのに、俺で良かったと思う傲慢な自分も存在していた。他の誰でもなく、光一を救うのは自分だと。
 彼にとって自分はいつでもスーパーマンの様な存在でいたかった。それは遠い昔、光一を守ると誓った幼い心が今も自分の中にあるからかも知れない。
 検査結果を社長とマネージャーと一緒に聞いた後、ホテルへ向かった。家宅捜索の名残がある光一の自宅に帰す訳にはいかず、一人にする事も出来ないから剛も一緒にいる。ツインを三部屋借りて、光一と剛と事務所の人間用と。
 当然の流れで一緒に向かう途中、剛はふと約束を思い出した。仕事が終わってから、彼女と出掛ける約束をしていたのだ。この頃会えない日が続いていて、じゃあ久しぶりにドライブでもしようか、なんて。
 剛は一瞬も躊躇わずに携帯を取り出した。メール画面を呼び出すと、キャンセルの言葉を並べる。本当は電話の方が相手も安心するのだろうけど、今光一の傍から離れる事は出来なかった。彼は自分が触れてさえいれば、身体の震えが止まる。
 ずっと手を繋いだまま、時々頭を撫でながら。出来るだけ優しくしたかった。病院で聞いた検査結果が剛を憂鬱にさせる。なるべく表情に出さない様気を付けながら、穏やかに彼を見詰めた。



+++++



 ホテルに入ると、二人だけで取り残される。マネージャーは、仕事の調整や関係者への対応等、仕事が山程あった。事務所の人間が隣で待機してくれているけれど、部屋に入れる気にはならない。
親しい人間ですら駄目だったのに、他人がいたら光一は落ち着かないだろう。これ以上、ストレスを増やす訳にはいかない。
「何か欲しいもんあるか」
 促されるままベッドに腰掛けていた光一の足元にしゃがんで、優しく問う。さっき自分の名前を呼んだきり、彼は口をきいていなかった。
 此処ならもう、誰の目にもどんな危険にも晒される心配はないから、大丈夫やよ。何度か問いかければ、小さくゆっくりと答える。
「……風呂、入りたい」
 ずっと焦点の合わなかった黒い瞳が、やっと剛の方を向いた。弾かれた様に立ち上がると、慌てて浴槽に湯を張る。ジャグジーの付いた広い浴室は、光一が気に入りそうだなと思った。全てを用意すると、彼の両手首に巻かれた包帯を外してから「入っといで」と笑う。
 小さく頷いて浴室に入った光一を見届けて、剛は自分の事を始めた。明日のスケジュールを確認したり、彼女へフォローの電話を入れたり、待機していたスタッフを呼んで買い物を頼んだり。
 色々やっていたのだが、いつまで経っても光一が出て来ない。風呂が好きな事位充分知っているのだが、幾ら何でも異常だった。
 不審に思い、浴室の扉をノックしても返事がない。水音で聞こえないのかも知れないと、仕方なく扉を開けて中を覗いた。白い湯気に阻まれて奥まで見えない。
 名前を呼びながら近付くと、シャワーを浴びたまま必死で身体を洗っている光一がいた。白い肌は既に真っ赤で、手首の傷からはまた血が滲み出ている。
 服が濡れるのも構わずに、光一の手を掴んだ。不思議そうな顔で見上げるその無心な表情に、胸が痛む。
シャワーで泡を流して浴室から連れ出すと、バスタオルで身体を拭いた。光一は剛の動きを目で追っていたけれど、何も言わない。
 バスローブを着せ誘眠剤を飲ませると、無理矢理ベッドに押し込んだ。横になった光一の手を取って、包帯を巻き直す。どうしようもなく指先が震えていた。隠す為に口を開く。
「もう寝てまい。疲れたやろ?」
「……うん」
 薬が効いて来たのか、堕ちる様に光一は眠りに就いた。安心した寝顔を見詰めながら、剛は涙が溢れるのを堪えられなかった。病院で聞かされた医師の話を思い出す。
 暴力の痕も暴行の痕も見られなかった。手首の擦過傷が唯一の傷で、他には何も。手首を縛られ監禁されていた光一の身体に見られた異常は、肌に付着した白い物質だけだった。
それは彼自身の体液で、他の人間の物は一切採取されなかったと言う。そして、現場に立ち込めていた花の香りは容易く手に入る媚薬の類いだったと。
 其処から導き出される推測は、想像を絶していた。実際に何が行われていたのか、詳しい事は分からない。けれど、死ぬ程の苦しみと悲しみと屈辱が、この身体に渦巻いているのだろう。



+++++



 翌日から何事もなかったかの様に仕事が再開された。あえて二人一緒の仕事を優先して、なるべく光一が安心出来る環境を作る。目覚めた時にはもうほとんどいつも通りの表情だったからほっとした。昨日の彼は幻覚だったのではないかと思う位。
 スタジオに入っても怯えたり黙り込んでしまう事はない。少し違う事と言えば、俯きがちに笑う事と袖口をきっちり止めたシャツだけだった。関係者には結局、病気で通した。最初の内はホテルから通っていたけれど、マネージャーが部屋を片付け、事件から二週間が経つ頃にはすっかり日常が戻っていた。
 剛も光一の傍にずっといる必要がなくなり、元通りの生活になっている。彼女には散々文句を言われたけれど、ドライブで機嫌を直してもらった。
 仕事中、隣に立つ光一を見ても普段通り穏やかに笑っている。もう大丈夫なのだと思ったいつも通りの楽屋で、けれど剛は気付いてしまった。光一が仕事の合間や帰りの車の中で、虚空を見詰めている事に。その瞳は無感情でぞくりとする。
 日を追うごとにぼんやりしている時間は長くなった。不安に思い「大丈夫か」と問うても「全然平気」と答えるばかりで埒が明かない。
 仕事中は寧ろ元気な位で、どうしてやったら良いのか分からない。事件が起きてから、三ヶ月が過ぎようとしていた。



+++++



 珍しく光一と仕事の終わり時間が一緒になり、両方の現場に寄って同じ車で帰る事になった。偶々自分のロケ地が光一の近くだったからなのだけど。後部座席で他愛もないお喋りをする。最近彼は良く笑った。見ている方が嬉しくなる位、はっきり笑う。
 先に光一のマンションへ着いた。相変わらず高層マンションの好きな人やね。その理由を考えると可哀相になるけれど、それでもエントランスホールからしてセキュリティが厳重そうなのは安心出来る。と言っても、この場所で光一は誘拐されたのだ。
 あの日以来、光一は頑なに口を閉ざしていた。一度も誰にも話す事がない。剛はそれでも良いと思っているけれど、周りはそうも行かないらしい。明日のスケジュールを確認して挨拶すると、光一は車を降りた。振り返って剛に緩く手を上げて、エントランスに向かおうとする。その時だった。
 光一の背中を何気なく眺めていた剛が、気付いてすぐに車を降りる。何が起きたのか。尋常ではない表情に剛は焦る。エントランスに向かって歩き出した筈の光一は、何かに気付いてびくりと身体を竦めた。
 そのまま戻ろうとした足は動かず、唯立ち尽くしてしまう。顔を真っ青にして震える光一の肩を抱いて、顔を覗き込んだ。
「どしたん」
 剛の存在を認識すると、途端に身体の力を抜いてしゃがみ込む。その動きを追って剛も一緒に屈んだ。一体、何が起きたのだ。助手席にいたマネージャーも慌てて降りて来た。
「人が……人が、おってん」
「うん」
 見れば確かにエントランスホールを抜けて行く、スーツ姿の男性がいる。
「あいつ、かと思てん。また……」
「もうええよ」
 屈んだまま抱き締めて、光一を落ち着かせた。あの時と同じ様に、剛が触れていれば安心するらしい。傷は、少しも癒えていなかった。
ごめんと謝る光一に笑ってみせて、早よお家入りと促す。中にさえ入ってしまえば、後はもう安心だろう。
 エントランスを通り抜けるのを見届けて光一が部屋に上がるまで、剛達は下で待つ事にする。部屋に入ったら扉をロックして剛の携帯を鳴らす様に言った。
光一の怯えた表情が頭から離れない。
きっと彼は、今日まで一度も忘れた事等ないのだ。毎日毎日、恐怖と闘いながら。それでも周りの人間には気付かれない様に。光一の心情を思うと、泣きそうになった。
 部屋に戻り一人考えていた剛は、一つの決心をする。人を頼ろうとしない相方の為に。俺はお前の為に出来る事なら、何でもしてやりたいよ。
 心に固く誓った剛は、翌日から時間の許す限り、光一の送り迎えの車に一緒に乗る事にした。きっと、一日の中で一番緊張を強いられる時間だろうから。光一が部屋に入って剛の携帯をコールするまで、必ずエントランスで待つ事にした。
 家を出る時も帰る時も強張った表情を見せていたのが、剛が一緒にいる様になって三週間が過ぎる頃、やっと眠いままの顔で降りて来るまでになった。それと共に、無理して明るい笑顔を浮かべる事もなくなってほっとする。
 剛の前ではどんどん無防備な表情を見せる様になって来て、嬉しかった。



+++++



 光一が剛に真っ直ぐな信頼を見せる様になった頃、剛の心情に明確な変化が訪れる。これだけ長い時間共に過ごした相方に抱く感情ではないのかも知れないけれど、心から彼を守りたいと思った。外部のどんな物からも、もう二度と傷付けられない様に。
 光一が気丈に笑えば笑う程、剛の気持ちは強くなる。少しも傷が癒えていないのに、思い出す事すら怖くて出来ないのに、何事もなかった素振りで笑うのだ。そんな振る舞いをさせたくなかった。
 気が付けば光一中心の生活になっていた剛は、余り会えない恋人に電話を掛ける。「当分会えない」と言う謝罪の電話だった。光一が本当に落ち着くまで、誰よりも傍に居たい。けれど、受話器の向こうから返って来た言葉は冷静だった。
「当分じゃなくて、もう会えないんでしょ」
 きっぱり言い切った彼女は低く笑う。貴方の心が何処にあるのかなんて、そんな事。会わなくても声だけで分かった。言い訳も何もさせずに通話を切り、短い恋の終わりに彼女は少しだけ泣いた。
 剛は、呆然と手の中の携帯を眺め、言葉の意味を反芻している。光一を大切にしたい気持ちは本当だけど、それは家族の親愛に一番近い物であって。心を動かされる強烈な感情ではなかった。
 けれど、何処かで納得している自分もいる。俺のこの器量では、心を傾ける人間をそんなに抱えられなかった。今一番大切にしたいのは光一。感情の種類は違うけど、その優先順位に間違いはなかった。



+++++



 光一と一緒に過ごす時間が増え、彼の精神状態が元通り安定して来た矢先、マネージャーからまた辛い記憶を抉る話が持ち出された。やっと暗い道も怖がらなくなったのに。手を取って俺が傍にいる事を教え、安心出来る場所をゆっくり増やしている所だった。
 裁判所から証言の要請が来ているらしい。光一が口を開かなければ、男の罪は軽い物になってしまう。前科のないあの男では、きっと執行猶予すら付いてしまうだろうと。マネージャーが総出で光一を説得に掛かっても、彼は首を横に振るばかりだった。
「絶対、嫌や」
 剛の手を強く握って、拒否の言葉を繰り返す。未だに監禁されていた三日間の事は何も分かっていなかった。光一は固く口を閉ざし続けている。
 どんな時でも事務所の方針に素直だった彼の強情ぶりに諦めたらしいマネージャー達は、とりあえず今日はやめる形になったらしい。
 ずっと隣で聞いていた剛も一緒に帰る事にした。今までソロ活動や個人的な部分の会議には、お互い干渉しないで来たのに。今はもうこんなにも深く入り込んでいる。それが良い事なのか悪い事なのかは、まだ分からなかった。
 帰りの車の中、光一は重い沈黙を保っている。思い詰めた様な、今にも泣き出しそうな表情で。剛の言葉にも上手く反応出来ない。でも、ずっと指先は繋いだままだった。
 光一の手はもうすっかり剛の体温を記憶していて、それに安心する自分も知ってしまった。剛の優しさにばかり甘えていては行けないのに。
「なあ、着いたで」
 車が止まっても反応しない光一の肩を掴んで、軽く揺する。
「……え、あ。あ、ホンマや」
 顔を上げて周囲を見渡したその瞳が暗く滲んでいて、剛は不安になった。このまま彼を一人にしてはいけないと、本能に一番近い部分が警告を発している。
「光ちゃん」
「ん?」
「茶、飲ませてくれへん?」
剛の問いにきょとんと目を見開いて、薄暗い車の中、光一は言葉の意味を理解しようとしていた。妙に思考回路の鈍い所がある人だから、もっと分かり易い言葉の方が良かったのかも知れない。
「お茶?」
「ぉん。光ちゃん家で飲みたい」
「……ああ、ええよ。お茶なんてあったかな」
 やっと回路が繋がったらしい。マネージャーに目だけで笑んで車を降りた。光一が証言台に立っても立たなくても、俺はずっと彼の味方でいるだけだ。
 光一の後に付いてエントランスホールを抜ける。初めて入る相方のプライベートゾーンだった。合宿所を出てからは、一度もお互いの部屋に足を踏み入れた事はない。
 部屋に入ると、相変わらず几帳面に整理された空間が広がっていた。男の部屋やないで、これ。自分の知っているどの部屋よりも綺麗だった。
「その辺座ってて。今、お茶……」
「コーラかなんかでええよ」
 本気で日本茶を煎れそうな気配だったから、先に釘を刺す。上着をハンガーに掛け、コーラを二つ持って来た光一とソファに並んで座った。
いつも車や楽屋で話している何でもない話題を適当に撒く。一緒にいたいと思っただけだから、彼が笑ってさえくれれば何でも良かった。
 途中テレビを付け、会話を和ませながら小一時間が過ぎた頃、不意に光一のトーンが下がる。どうしたのかと隣を振り返れば、真っ直ぐな視線にぶつかった。
「……剛はどうして、こんな俺に優しくしてくれるん?」
 本当に不思議そうな顔と無垢な瞳が胸に痛い。
「どうしてそんな事思うん?」
 身体ごと光一の方を向いて慣れた仕草で頭を撫でると、小さくその顔が歪んだ。
「俺、ホントは汚いねん。剛に優しくしてもらえる様な人間ちゃうんよ」
 ずっと、優しくされるのが苦しかった。お前に大事にされるべき人間じゃないんや。きっと本当の事を知ったら、俺ん事嫌いになる。瞳を滲ませて、光一は頑なに拒み続けていた三日間の出来事を話し始めた。
「朝、下で車待ってたらな、いきなり後ろから目隠しされてん」
 あの場所は監視カメラもあるし、全く警戒なんてしていなかった。すぐに薬品の匂いがして、意識が遠のく。目覚めると其処は普通の住宅の玄関だった。周囲の目も気にせず堂々と入ると、どうやら男の部屋と思われる地下に向かう。
「部屋入ると、俺の写真が壁一面に貼ってあんねん。天井にも窓にも」
 自分にこう言うタイプの熱狂的なファンがいる事は知っていた。唯々怖くて、吐きそうになる。
「真ん中にソファがあった。それも何かの撮影で使ったやつやって言うてた。俺は覚えてへんかったけど」
 後ろ手に縛られたまま其処に座らされ、男は恍惚とした表情で、自分がどれ程光一を好きなのか話し出した。
「俺を幸せにしたいんやて。その為にはどうしたら良いかまで、全部話しとった」
 俺が幸せになる為には、まずコンビを解散すべきだと男は熱く語る。剛の事を何も知らない癖に、俺達の事なんて何も。今でも胸が悪くなる相方の悪口は決して口に出さないけれど。
「んで、一人で勝手に喋り終わったらな、いきなり、服、脱がされてん……」
 男の行動に光一の反応は遅れたが、それでも必死に抵抗をした。それが男の気に障ったらしい。手首をよりきつく縛られ、手を上げた状態で固く固定された。そして、おもむろにキャンドルに火を付ける。強過ぎる花の芳香にくらりとした。
「俺、男にヤられるんやなあて、妙に冷静に思っててん」
 でも違った、と光一は唇を歪める。楽しそうに着せ替えを始めた男は、全裸にした光一の中心を躊躇わず口に含んだ。
な、嫌やろ。俺ん事汚いって、嫌いだって。口に出さない光一の言葉は雄弁に瞳に表れていて、剛は耐え切れず彼を引き寄せ抱き締めた。
「あんな奴にされて、イッてまうねん。俺」
 それは部屋中に広がる催淫剤のせいなのだけど、光一に残ったのは男にイかされたと言う事実だけだった。三日間、寝る間もなく果てさせられた。服も数え切れない程替えられた。
三日目の朝「ああ、今日は生放送の日だったね」と笑って出掛ける支度を始めたあの男は、もう何処かが可笑しくなっていたのだと思う。あいつの中に罪悪感なんてものは、存在しなかったのだから。
 抱き締められた剛の腕の中だけが、唯一安心出来る場所だった。ずっと彼がいてくれた事に感謝している。けれど。抱き締めている腕を解いて、身体を離した。
「俺なんかに優しくしたらあかん」
「阿呆か! 何言うてんねん! お前は一個も悪ないやろ。何も間違った事してへん。やから、お願いやから……」
 自分の事そんな風に言わんでくれ。再び抱き込まれ、直接耳の中に囁かれた。剛は、ずっと優しい。
「あんな、二日目位にな、剛の声聞こえたんよ」
 小さな頃人見知りの光一を引っ張ってくれた剛の言葉。今は口にする事もなくなった強く優しい彼の呪文。
「それからはずっと、剛に会いたかった。剛の声が聞きたかってん」
 良かった、今は傍にある。あの中にいた三日間、思い出したのは剛の事だけだった。他の誰の名も思い浮かばなくて。何故か自分を助けてくれるのは剛しかいないのだと、ずっと昔から思っていた。
 この年下の小さな少年は、ずっと自分のヒーローだったのだ。だからきっと、剛だけが俺を呼び戻せたのだと思う。
「剛、ありがとう」
「ありがとうもごめんなさいも要らんよ、光ちゃん」
 視線の合う距離まで離れて、剛は笑う。
「俺がお前を守るのなんて当たり前なんやで」
 今はもう傷すら見えない白い手首を親指の腹で優しくなぞった。この肌は、汚す為にあるんやない。唯愛され守られる為だけに。
 このまま光一が証言しなければ、否例えしたとしても、いつか必ずあの男は出て来るだろう。もし再び光一の前に現れたなら。犯罪者になったって良いからこの人を守ろう。
 ジャージに着替えさせ、一緒にベッドへ潜り込む。腕枕をしてやると、恥ずかしそうに笑った。その表情を誰にも見せたくないと思う。光一の心の奥にいる子供は、自分だけが知っていれば良い。
 強欲な情に剛はひっそり笑った。彼女の言葉を思い出す。やっぱ、女の勘は凄いな。
「なあ、光一」
「うん?」
「俺はお前が大切やから」
「うん」
「どんな時でもそれだけは忘れんといてな」
「分かった」
 ずっと零れる事のなかった涙が一筋、光一の頬を辿る。心地良さに誘われて、瞳を閉じた。剛が優しく笑む気配。するりと髪を梳かれると猫の仕草でそっと寄り添った。
 愛を知った光一は、安らかに眠る。

【了】
「handies」

 剛が撮影中に倒れた。その報せを受けたのは、打ち合わせが終わってすぐの事だ。
 彼の具合が悪くなるのは、言ってみれば日常茶飯事で。取り乱す程心配したりはしなかったのだけど。
 長時間のドラマ撮影は精神力を消耗する事を充分分かっていたから、少し様子を窺うつもりで愛車でスタジオに向かった。


 楽屋に寝転がっていた相方は、予想していたよりも悪そうだ。マネージャーによると夏風邪を引き、ついでに胃腸炎を併発させたらしい。
 相変わらず弱いなあと呟いたら、楽屋に案内してくれたスタッフに失笑された。命に別状がないのなら、体内に熱を閉じ込めて我慢するよりも発熱する方がずっと良い。呑気な発想は口調すら穏やかにした様だ。
 体調が悪いからと言って、撮影を切り上げる訳にはいかない。そんなの本人が一番理解していた。撮影の順番を変えて空き時間を延ばしたのだと、スタッフ が教えてくれた。
「次の撮りまで少し時間空くから、傍に居てやってくれる?」
 剛のマネージャーはそう言って穏やかに笑うと、楽屋を出て行った。自分のスケジュールは完璧に把握されているらしい。
 眉根を寄せて眠っている剛は、乱れた呼吸が苦しそうだ。もう数え切れない程こんな彼に遭遇しているけれど、いつまで経っても慣れる事はなかった。
 剛が苦しいと心臓の辺りが痛くなる。それが心配するって言う事なんだよ、と教えてくれたのは誰だったか。
 優しく髪を撫でていると、不意に剛の眉が苦しそうに顰められる。段々とそれが顔中に広がって、あどけなく開かれていた唇から低い呻き声が漏れた。
「つよ?」
 呼び掛けても夢の中にいる彼には届かない。触れていた肌がしっとり汗ばんで来た。
 怖い夢を見ているのかも知れない。可哀想になって、距離を縮める。覆い被さる様に剛の耳許へ顔を近付けた。
 怖い夢を見ている時に、無理に起こしてはならない。幼い頃に聞いた話は、大人になっても忠実に守ろうとする信憑性があった。
 だから小さく呼び掛ける。剛が自分で戻って来る様に。覚醒を促す。
「剛」
 苦しそうな表情に耐え切れず、しっかり手を握った。きつく、きつく。夢の中の彼に届く位。
「剛。俺は此処やで。此処に、おるよ」
 言い聞かせる口調。呼び戻す為の。
「うっ……ん」
「剛、怖ないよ。光ちゃんが優ししたる」
 自分でも呆れる位甘い声だった。彼の前では確固たる男としての矜持すらどうでも良くなる。それが情けないと思う日も確かに在るのだけれど、もっとずっと大事にしたい感情があった。
 お前の為なら、俺は何にでもなるよ。恋人でも友人でも、母親でも。
 剛が望むものの全てになりたい。
 寄せられた眉間にキスを落として、尚呼び掛ける。
「剛、剛、剛……」
 口付けて髪を梳いて、頬に触れて。繋いだ指先を絡める。こんな風にいつも傍に居たかった。
「……っは」
 呼吸が乱れて、痙攣を起こした様に身体が撓る。そうして開かれた瞳は水分が膜を張っていた。
「剛」
「……光ちゃん?」
 瞳の光とは裏腹に揺らいだ声だ。握った手だけが、縋る様に力強い。
「うん、お早う。剛」
「……怖い夢、見とった」
「うん」
 子供みたいに呟くから、優しくしたくなる。いつまでも残るこの幼さも、愛しい剛の一部だった。
「どんな夢、見たん?」
「光一が、いなくなる夢」
 自分のいない世界が一番怖いのだと、彼は言う。まるで睦言だった。
「お前の名前、呼ぶのに、返事がないねん」
「うん」
「一人っきりやった、俺」
 泣きそうな気配を見せて、それからゆっくり腕を伸ばす。光一の腰に両腕を伸ばしてしがみ付く仕草。抱き寄せる様に力を込めて、薄い太腿に頭を乗せた。
「つよ?」
「怖かった。……光一」
 その呼び掛けを正確に聞き分ける。膝に乗った身体を抱き締めて、体温を混ぜ合わせた。
「おるよ、此処」
「良かった」
 夢の中を彷徨ったままの不安定な心を持て余して、安堵の溜息を漏らす。腰に回された腕が後ろで交差して、シャツを握り締めた。
「大丈夫やから。光ちゃんおるから、もう怖い夢見ぃひんよ」
「うん」
「まだ時間あるから、寝てまい」
 発熱した身体を少しでも休めて欲しい。もう一人じゃないから、大丈夫。怖くない。こめかみにキスをして、おまじない。
「こぉちゃん、こっち」
 上目遣いで強請られて、傲慢な子供と化した剛に苦笑を返した。汗ばんだ肌に手を添えて、唇にもキスを。
「位置的に無理やで、これー」
 膝の上の彼に口付けるのは無理だと思う。それを盾に誤摩化してしまうつもりだったのに、わざわざ膝から降りて距離を取った。
「こんなら平気やろ」
 にやりと笑った表情に子供の気配はない筈なのに。母親の吐息で、はいはいと近付く。ゆっくりと、唇を合わせた。
 あ、こいつ風邪なのに。移されたら大変だと口付けた後に思ってももう遅い。
 浅く触れただけの唇を食まれて、首の後ろを手で抑え込まれた。さっきまでの潤んだ瞳は愉悦に細められている。
 畳に手をついて身体を支えた。慣れたキスは簡単に、全身を脆くするから。
「っは。……お前!やり過ぎやー」
「やって、怖い夢見て目ぇ覚ましたら、目の前に光ちゃんがおったんやで。嬉しくなるやんかあ」
「嬉しいのとこーゆーのは、話が違うやろ!」
「いやいや、嬉しさの表現方法ですよ」
「そんなんいらんわ」
 他愛無い口喧嘩をして、仕舞いには二人して笑い合う。いつもの空気。無くしたら怖いと思うもの。
「なあ、まだおってくれんの」
 不意にまた、子供の口調になる。発熱が彼の精神を不安定にさせているのかも知れない。
「うん。お前が起きるまではちゃんと居るよ」
 目覚めた時に一人にはさせないから。笑ってみせると、安心して瞳を閉じた。眠りに落ちる感触。
「こぉいち」
「ん?」
「手、握っててくれん?」
 差し出された手は、微かに震えていた。そんな臆病すら残さず渡してくれると、嬉しくて仕方ない。強さも弱さも全部共有してくれる彼の愛情。
「ええよ」
 しっかりと指先を捕まえて、両手で包み込んだ。体温を分け合って、一緒の物になれたら良いのに。
「ふふ。落ち着くわ」
「……お休み、剛」
 すとんと寝入った恋人に柔らかなキスを落とすと、手を繋いだまま自分も寄り添って横になった。繰り返される呼吸を確かめて。長い睫毛に見蕩れた。馴染んだ顔なのに、いつまでたっても飽きずに眺めてしまう。
 それが愛なのだと気付いて、少し恥ずかしくなった。剛の肩に額を寄せて、そっと目を閉じる。眠る為ではなく、彼の存在を確かめる為に。

 手を繋いで、夢の世界ですら一緒にいたいと願う自分は強欲だろうか。そんな自分を、剛は許してくれるだろうか。
 眠りに落ちた恋人達を発見したマネージャーは、暫く穏やかにその姿を眺めていたと言う。


「センチメンタル・ハニィ」





 何処からどう見ても温室育ちの彼に、騙されたとか奪われたなんて認識はあるのだろうか。
 あの綺麗な瞳に自分だけを映すのが楽しくて、それだけの思いで抱いて口付けて困惑させた。打算的な感情はなかったけれど、かと言って恋とか愛とかの面倒臭い物も介在していない。唯、欲望が先にあったからそれに任せただけ。


 十月の三年生の教室ともなれば、教師が居なくても何処も静かなものだった。自分のペースに合わせて、分からない所は職員室に聞きに行く。そんな状態の休み時間だったから、割と室内は静かだった。
 窓際の前から三番目に座る光一は、特にクラスメイトと雑談するでもなく数学の問題を解いている。元々物静かな生徒だったから、周囲の人間も気に留める様子はなかった。
 穏やかないつも通りの時間を不躾に破ったのは、後方の扉が乱暴に開かれる音だった。一瞬静かになった生徒達の視線が集まる。その先には、余り校内で見る事のない二年生の姿があった。
 集まった視線が不自然に逸らされ日常を取り戻そうとしている。扉を開けた生徒はそんな雰囲気も意に介さず、室内を一瞥した。振り返った女生徒が短いスカートを翻して扉へ走った。
「剛! どしたん、こんなとこ来るなんてー」
「お前が呼び出したんやろが」
「制服も男前やなあ」
 不機嫌そうな男の様子には気付かず、黄色い声を上げる。腕に纏わり付く軟体動物には目もくれず、剛は教室のある一点を興味深そうに見据えていた。
 堂本剛と言う名前を知らない人間は、この学校に居ないだろう。誰もが一度は悪い噂を耳にしていた。制服をだらしなく着崩して、長い髪の間から覗く黒い瞳は底が見えない。淀んだ黒ではなく、漆黒の闇だった。
 相変わらずのトーンで夜の予定を纏め始めた女生徒を置いて、剛は真っ直ぐ室内に入って行く。教室に居る人間は素知らぬ振りをしつつも、その方向を追っていた。
 彼が辿り着いたのは、窓際の前方の席。空間図形の問題と格闘していた光一は、人の気配に気付かない。元来鈍感な人間ではあるが、気の毒そうにクラスメイトが見詰めていた。
「なあ」
 呼ばれたところで反応出来る様なタイプではなく、クラスメイトが離れて行った事も勿論分からなかった。
「なあ、顔上げて」
 ゆっくり伸ばされた手に、無遠慮に頬を撫でられる。驚いた光一は、反射的に言葉通り上を向いた。
「ああ、やっぱり。別嬪さんやねえ」
 満足そうに笑った目の前の男に困惑して、今まで構築して来た回答式が霧散する。こんな男知らん。何でこんな距離におるん。頬を辿る手がゆっくりと唇に触れて、優しく問われた。名前は?
「堂本」
 僅かだが、男の瞳が驚愕の色を持って見開かれる。その後すぐに楽しそうな瞳に変わったけれど。
「下の名前は?」
「……光一」
「こぉいちか」
 まるで宝物の様に名前を呼ばれて、光一は更に訳が分からなくなった。ずっと昔から彼の一番近くで、誰よりも何よりも大切にされて来た様な感覚。
それが、この男のやり口なのだと気付く事は出来なかった。ちらりと開かれた参考書を見て、剛が口を開く。
「数学、難しいとこやってんのやなあ」
「……うん」
「大学進むん」
「うん」
「そか、お勉強大変やね」
 疲れるやろ、と労る様な指先の動きに光一は捕らわれる。此処まで来れば、もう剛のものだった。あからさまにこう言う事に免疫がなさそうな彼を落とすのなんて雑作もない。
 教室内は静まり返っていた。誰一人、剛を出迎えた彼女でさえ、二人の間に入る事は出来ない。
「やぁらかい唇やな。肌も綺麗やし、髪もさらさらや。何かお手入れしとる?」
「何も」
 してない、と続く筈の言葉は剛の唇に飲み込まれた。光一は自分の状況を把握出来ず、唯身体を硬くする。机を挟んだ体勢だったから、剛は身を乗り出して抱き寄せねばならなかった。抵抗する事すら思い付かない身体は、為すがままだった。
 下唇を食んで歯列を辿り、深く舌を絡み合わせた。其処まで来てやっと、光一が事態を理解する。
「っなにするん!」
 渾身の力で突き飛ばすと、手の甲で唇を擦った。顔を真っ赤にして仰け反る様に避ける姿は、剛を喜ばせるだけだ。深く笑むと、毛を逆立てた仔猫の愛らしさを持つ彼に楽しい声音で告げた。
「堂本剛」
「は?」
「おんなじ名字。運命感じるやろ」
「何言うてんの」
「剛。 俺の名前や、覚えといて」
 頭を撫でて喚き立てられる前に身を翻した剛は、全ての視線を受け止めながらも悠然と去って行った。



+++++



 一瞬で忘れてやると誓った光一の思いは、無惨にもクラスメイト達によって粉々にされてしまった。剛が居なくなった後、勉強等そっちのけで彼らは様々な事を教えてくれた。
堂本剛に関する、ありとあらゆる悪評を。そんな事教えてくれる位なら、先に助けてくれよと言うのが本音ではあったが。
 余り他人の事を知りたがらない光一は、他のクラス、まして他の学年の人間等知る筈もない。周囲の人間はそんな性格を受け入れてくれていたし、自分自身も納得していたからそのままで良いと思っていた。けれど。今日だけは。もっと周りに目を向けるべきだったと後悔した。
 曰く、金さえ払えば何でもやってくれるらしい。喧嘩やカツアゲからバイトの代理からライブでの演奏まで。
 そして本業とも言えるのが、夜の仕事で。前金さえきっちり払えば、男でも女でも朝まで気持ち良くしてくれる。金額に応じて使い分けてはいるが、テクニックには定評があるらしい。
 およそ高校生とは思えない話に光一は目が回ったが、信憑性はあるなと思った。ベッドに仰向けに転がって、そっと自分の唇を撫でる。
あんなキス、知らんかった。そりゃ、今まで女の子とキスはした事があるし、それ以上だってしている。けれど。あんなに気持ちよくなかった。
 キスもセックスも大人になる為のステップだった。好奇心と友達に負けたくない気持ちばかりが先行して、快楽にまで辿り着かないまま。
 目を閉じて、感情を押し殺す。思い出したら駄目だ。自分は雄であり、彼より一年長く生きているのだから。受け入れる事は出来なかった。堂本剛とのキスが、腰が抜ける程気持ちよかったなんて。



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 三年の堂本が二年の堂本に白昼堂々キスされたと言う話は、翌日全校にすっかり広まっていた。こうなる事は予想出来たし事実には違いないので、光一は静かなままだった。さすがに衆人環視の中犯されたなんて話が大きくなり過ぎていた時には、苦笑したけれど。
 あれから剛は登校していない様で、勉強の忙しさの中記憶は遠くなって行く。時々鮮明に感触を思い出しては顔を赤らめていた事は、誰にも言えなかった。
 好奇の視線にも大分馴染んで来た頃、光一はいつもの様に多目的教室で勉強していた。此処は委員会に所属していた時に見付けた場所だ。
 教室は煩いし、図書室は人が多過ぎて嫌だった。家で勉強するよりも集中出来るから、最近はずっと使っている。
 苦手な世界史の美術史を資料で確認しながら暗記している時だった。扉の開く音がして、ぱっと顔を上げる。
 たまに教師が見回りに来る事があった。その度に「他の奴らには見付かるなよ」と釘を刺される。使用禁止の部屋だから大目に見てくれていると言う事だろう。
 きっと今もそうだと思い、蛍光灯の光の下に立つ人を見た。夕暮れの橙と人工の白が混じり合えずに混在している。其処に机の影が細く長く溶け込んでいて。可笑しなコントラストを作っていた。
 思わず目を逸らして沈む太陽に目を向けた自分は、決して悪くないと思う。白い光を反射する様に、彼の周りにはブラックホールの漆黒があった。
「ちゃんと、覚えててくれたんやな」
 思いがけず優しい声を掛けられて、光一は硬直する。意識が向くのを恐れる様に、頑なに夕陽を見詰めた。そんな意図すら明確に見抜かれているとは知らずに。
 可愛ええなあ、と小さく剛は呟いた。この人は、浅はかで臆病で真っ直ぐだ。全身で俺の一挙手一投足を追っている。随分と久しぶりな感覚だ。人間を相手にして、楽しいと思うだなんて。
「小学生やないんやし、シカトなんてやめてや。こっち向いて」
 気付けばすぐ傍で気配を感じる。それでも光一は振り返らなかった。噛み締めた唇があどけない。机に浅く腰掛けて、広げられた参考書を無造作に避けた。このちっちゃな頭にどんだけ入るんやろな。
 横を向いたままの光一の耳に触れた。敏感に反応して肩を跳ねさせた彼は、諦めた様に剛を見上げる。黒く澄んだ瞳は混迷の色彩が強かったけれど、それでも気丈だ。
「こんなとこ一人でおったら、俺んこと待ってるんや思うで」
「そんなことっ……」
「隙だらけや言うてんの、お坊ちゃん」
 見下す瞳で言われて、光一は背筋が寒くなる。この男は、きっと平気で人を抱くのだ。相手の気持ちとか恋情とか世間体等、彼を縛る枷にはならない。初めて感じる身の危険に足が竦んだ。
 ふと見ると、剛の手にはいつの間にかカッターが握られていた。ペンケースの中にちゃんと仕舞っておいたのに。
どうして、と考える間もなく、シャツの合わせを刃先が滑る。きっちり止められていた釦が、呆気なく弾け飛んだ。
 傷付けられると思った瞬間、縫い止められた錯覚を起こしていた身体が動く。立ち上がって剛の手首を両手で捕まえた。
 椅子の倒れる音。対峙する視線。触れた手の熱と。蒼に染まった窓の外。
 痛みを感じたのは、ずっと後だった。
「あーあ、お前自分で刃立ててどないすんねん」
 呆れた声と共に手を離されて、光一は白いシャツが僅かに滲んでるのに気付く。左胸の少し下、一本の赤い線が走っていた。強烈な痛みではないけれど、疼く様な微妙な感覚だ。勿体無いと呟く声が聞こえた。
「こーゆープレイ好きな奴も確かにおるけどな。……せっかく綺麗なんに」
 言いながら傷口に口付けようとするのを遮った。距離を置いて傷は見ずに、睨み付ける。
 そこで初めて剛が不機嫌な表情を見せた。肉食獣の狩りの前の静寂。じっと獲物を見据えて。
「……ストーカー、されてたな」
 勝ちを確信した表情で告げられた言葉。光一の顔が歪んだ。今まで必死で封印して来た過去を呆気なく蘇らせてしまう。
 剛は厭らしく笑っただけだった。離れた距離を詰めても赤い筋に舌を這わせても、もう何も言わない。
 それは、中学の時付き合っていた彼女の事だった。告白されて付き合い始めて。段々と彼女の行為がエスカレートしているのには気付いていた。一年生の頃からずっと好きで、やっと思いが通じたのだと嬉しそうに笑ったのを今でも覚えている。忘れてはいけない事だった。
 夏になる頃にはもう、彼女と呼べる様な状態ではなくて。誰もはっきりとは口にしなかったけれど、あれはストーカー行為だった。俺がもっと彼女の気持ちを大事にしてあげたらこんな事にはならなかったのかも知れない。今思っても遅過ぎるけれど。
 結局向こうの両親と話し合って、彼女と別れた後高校入学と同時に引っ越したのだ。同じ県内ではあるけれど、彼女の知らない場所へ。
 高校に入ってから中学時代の友人とは連絡を取っていなかったし、今の友人にも一度も話した事なんてない。それなのに。どうして。
「お前ん家の住所、その子に教えたらどうなるかな」
 シャツを脱がせようとした手を掴んで、光一は諦めの吐息を零した。父さんは引っ越したせいで会社が遠くなった。母さんは綺麗に手入れしていた庭を手放した。それでも守ってくれた生活を。壊したくない。
 こんな男に滅茶苦茶にされる訳にはいかない。
「此処じゃ、嫌や」
 一度もはっきり口にしない辺りが狡猾だと思う。目の前に条件をちら付かせながら選択肢は最初からなかった。結局は俺が選んで望んでいるのだ。
「手の掛かる子ぉやね。ベッドやないとあかんの。ホテル取ろか?」
 首を横に振って、参考書を鞄に詰め込む。言葉も仕草も目線も全てが優しかった。脅迫の言葉一つなく、この男の思うままになっているのが悔しい。
 荷物を纏めて、はだけた胸元を隠す様にコートを羽織った。飛んだ釦を探す気にはなれない。仕度が整うと、面白そうに目を細めていた剛を真っ直ぐ見詰めた。
「うち、ならええ、よ」
 小さくけれどはっきり告げると、いきなり剛が笑い出した。吃驚した光一は、鞄を掴んだまま身動き出来ない。
「お前、ホンマに俺のツボ嵌まるわー。最初から家に上げてもらえるんは初めてやで」
 笑いながら苦しい息の中、剛は言った。
「そんなん言われても、他にないやろ」
 何故だか不貞腐れた素振りで呟いて唇を尖らせた。その子供っぽい仕草まで自分の好みで、剛は嬉しくなった。
多分彼は潔癖で、枕が変わると眠れなくて、物を知らない。そして、誤解されやすいタイプだと思う。拗ねた表情は俯いて見えないし、言葉も足りなかった。
 本当に久々に楽しくなるかも知れないなとほくそ笑んで、彼の鞄を持ってやる事を勝手に決める。嫌がる光一の腰を抱くと、二人教室を後にした。



+++++



「ホンマのぼんぼんやってんなあ」
 部屋へ入ると、剛は愉快そうに笑った。平静を装って(剛から見れば、全然繕えていなかったが)玄関を開けた光一は、出迎えに来た母親に笑顔を向けて。「友達と勉強するから、上静かにしとってな」と言う。
 余り友人を連れて来る事がないのだろう。せっかくの機会に母親は残念そうな顔をしたが、剛に「ゆっくりして行ってね」と笑った。母親似だと分かる息子と同じ目尻の皺に親しみを覚えて、「ありがとうございます」と笑い返す。そのやり取りに息子は複雑な表情を浮かべたが、気付かない振りをした。
 二階は廊下を挟んで右側が両親の寝室、左側が光一の部屋になっている。左側は道路に面している方だった。ベランダに出て、剛はすぐ傍に立っている木の肌に触れる。
「別に、普通の家や。ぼんぼんやない」
 剛の言葉にまた不貞腐れて、光一は呟いた。その姿を振り返りながら、剛は肩に掛けたままの彼の鞄を絨毯の上に置く。
「そぉなんか。兄弟は?」
「おらん。一人っ子や」
「ふふ、せやな。そんな感じする」
 これから始まる事を忘れそうな、邪気のない笑みだった。ベッドに腰を降ろしたから、光一は扉に凭れて言葉の続きを待つ。不思議とさっきまでの痛い位の緊迫感は消えていた。
「其処、鍵掛けとき。やってる最中に入って来られたら嫌やろ」
 光一の緊張が緩んだのを見計らって響く低く深い声。どきりとして、まともに正面から剛を見詰めてしまった。舐める様な視線に心臓が痛くなる。
「恥ずかしかったら電気も消してえーよ。俺は付いてる方がええけど」
 初めてやから譲歩したるわ、と囁いて何の気負いもなく上着を脱いだ。その慣れた流れで、一気に現実感が襲って来る。
 本当にこれからこの男に抱かれるのだ。今まで抱く事は考えても抱かれる事なんて一度も想像した事がなかった。
怖い。膝が震えそうだ。怖くて、光一は言葉を発する事で恐怖に抵抗した。
「窓、開いてるの嫌や」
「外に声漏れるんも案外色っぽいんやけどなあ」
 上半身シャツ一枚になった剛は、応えて素直に窓を閉める。
「シャワー、浴びたい」
「却下。友達と勉強する言うたのに、風呂入ったら可笑しいやん」
「あ……」
「もう汗なんかかかんやろ。それに」
 不意に距離を詰めた剛は、光一のコートの前を開いて晒されたままの白い首筋に顔を埋めた。
「あっ……!」
 思わず漏れた自分の声に赤面する。
「やっぱ俺の勘に狂いはなかったな。ええ感度やわ」
 くすくすと笑って鎖骨を舐めた。嬉しそうな剛の声がすぐ近く、心臓に一番近い場所で聞こえる。
「――それに、お前の匂い割と好きやで」
 皮膚の真上で深く息を吸い込まれて、目眩した。左手が辛うじて電気のスイッチに触れる。結局部屋は暗くなったのかどうかも分からないまま、剛に良い様
にされて。視界はずっと、白い靄が掛かっていた。



+++++



 手酷い抱かれ方をした。否、その表現は当て嵌まらないかも知れない。剛の手管だけ考えれば、とても優しかった。他の人間を知らないから何とも言えないけれど、少なくとも自分はあんなに大切に他人を組み敷く事なんて出来ない。
 どう扱われても泣いてばかりの俺を宥めながら、ずっと名前を呼んでいた。その甘い声ばかり耳に残っている。優しく開かれた身体の何処にも傷は残らなかったし、身体のだるさを除けば痛みもなかった。全身に残る鬱血だけが堪らなく恥ずかしかったけれど。
 快楽ばかりが記憶に溢れて、狡いと思った。痛みだけなら恨む事も憎む事も自身を哀れむ事も出来るのに。甘い疼きばかりが身の内にあった。
 抱き合った後、剛はこれからバイトがあると言って何事もなかった様に帰って行った。持って来たお盆を母に渡して、「またお邪魔します」なんて明るい声で。呆れる程の神経だった。
 それから剛は週に一、二度家に現れる様になった。早い時間の時は玄関から、深夜になると窓から。すっかり慣れた母親は、嬉しそうに飲み物や茶菓子を常備していた。挙げ句の果てには、一緒に夕食を囲むまでになっている。
 けれど拒む事も出来ずに、光一は全てを受け入れていた。最初の日から一度も己を縛る言葉は発されなかったのに。受験勉強の手を止めては、剛に抱かれた。甘く笑って上手いやり様でキスをされると、もうどうしようもない。剛は一度も金を請求しなかったし、酷い扱いをされる事もなかった。
 唯、甘やかされるだけの。それが、光一の感覚を段々と可笑しくさせたのかも知れない。



+++++



 十二月に入ると学校もほとんど休みになり、ひたすら家で勉強する様になった。光一は自分の集中力がどんどんなくなって行くのに気付いていた。学校や図書館で勉強しても良かったのだけど、家に居る方が剛に会える。
 多目的室にはあれから一度も行かなかった。もしかしたら今でもシャツの釦が何処かに転がっているかも知れない。
 カーテンを開けて窓の外を見詰めた。気温差が激しいのだろう。曇った硝子を袖口で拭って、遠い闇に目を凝らす。剛が勝手に登録した電話番号は使えなかった。一度覚えてしまった快楽が忘れられなくなるのと同じで、連絡を取ってしまったらきっと歯止めが効かなくなる。それだけは嫌だった。
 今ではもう、身体の為に剛を求めているのか、「剛」が良いのかなんて分からない。脅迫の言葉なんて遥か彼方だ。
 深夜一時を回った頃、静かに窓の開かれる音がした。綴っていた筆記体が崩れるのも構わずに、光一は振り返る。
「お前なあ、いっつも言うてるやろ。窓閉めなさいって。ホンマ不用心なんやから」
 夜の冷気を纏ったまま慣れた仕草で部屋に入った。
「いつ襲われるか分からんで」
「お前位や、俺ん事わざわざ襲いに来る奴なんか」
 そう返すと、剛が楽しそうに口角を上げる。今日は機嫌の良い日らしい。
「なあ、手真っ赤やで」
「……ああ。今日は皿洗いしとったからな」
 深夜を回って来る時は、何らかのバイトをしてからの事が多かった。喧嘩をして傷を作ってから来たり、工事現場の警備で明け方の時や、誰かを抱いた後。
 剛以外の他人の匂いを部屋に入れるのは嫌だったけれど、辛い時や疲れた時に訪れる場所が此処だと言うのは悪い気分じゃない。冷えた手が伸ばされて、頬に触れた。
「冷たいなあ、痛いやろ」
「光一がぬくい」
 優しく微笑まれて心臓が痛くなる。最近ずっとこうだった。剛に触れられる度、心が疼く。その理由をまだ光一は知らなかった。
 痛みを振り払う為に光一は口を開く。額に口付けて冷えた腕でその華奢な体躯を抱き締めていた剛は、興味深そうに光一の言葉を聞いた。
「なあ、俺から金、取らんの」
 ずっとずっと疑問に思っていた事だ。最初に抱かれた日から、ずっと。別に自分が望んだ関係ではないけれど、実際身体は繋げている。一度だけなら彼に非を押し付ける事も出来た。自分は被害者で、辛い顔をしておけば良かった。でも今ではもう、両手の指では足りない位同じ夜を過ごしている。
 寝る事すら金に換算出来る人間なのだから、俺の部屋に来て過ごす時間分他の人間と同じ様に、それなりの代価を払うべき筈だ。
「お前が俺呼んどる訳ちゃうやろ」
 ベッドに押し倒しながら何の感慨もなく答えた。光一の中にある妙な甘えに気付けない程、剛は子供ではない。
他人と扱いが違う事に優越を見出し、もしかしたら噂は噂だけなのかも知れないと言う淡い期待。
 自覚がないからこそ可愛いと思えるが、ちょっと面倒やなと思う。他人の情に左右されたくなかった。
 だからこそ、剛は現実を教える。自分と言う人間がどう言うものなのかを。見上げる瞳は相変わらず真っ直ぐで、いたいけだった。
「やって、お前は俺が気に入ってんもん。俺、自分の気に入りには優しいねんよ」
 あっさり傷付けて、自分を教える。言葉とは裏腹に優しい口付けを落とした。お前の優越感は守ったんやからええやろ。
 金の為なら何人の人間と寝たって構わない。人を傷付ける事も自分の身を晒す事も厭わない。その先に、俺の欲しい物がある。少し翳った瞳を堪能しながら、冷えた身体を暖める為滑らかな肌に触れた。



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 煙草に火を付けて、体内に毒素を取り込む。それは、ぼやけた自身の輪郭を取り戻す為の儀式の様なものだった。
光一は最初の頃匂いが残るから嫌だとごねていたのだけれど、最近はひっそり灰皿まで用意されている。灰が落ちるよりは良いから、と俯いた彼の表情は好きだった。
 この生温い部屋で、何も知らない子供から大切なきらきらした欠片を奪うのは楽しい。子供がすぐばれる嘘をつく様な不器用さは心地良かった。
やから坊ちゃんやー言うねんよ。今まで沢山の物を捨てて来たけれど、此処だけは残しておいても良いかも知れない、なんて。きっとまた呆気なく捨て去る自分を予想しながら、子供騙しみたいな事を思った。
「……剛は、何でそんなに金が欲しいん」
 体温を落ち着ける為に隣でじっと硬くなっていた光一が、ぽつりと呟く。気が付けば当たり前の様に名前を呼んでくれる様になった。いつからこんなに無防備に全てを晒すまでになったのだろう。今日は少し気分が良いから話してやろうか。
「俺ん家な、母子家庭やねん」
「……うん」
 くるりと寝返りを打って、微睡んだ瞳を向けられる。髪を梳いてやりながら言葉を続けた。
「おかんはずっと、朝も夜も働いてくれとるから、生活が出来ん訳やない。けど、生活しか出来んのよ」
「う、ん」
「お前にはきっと分からんよな。……ええんよ。光一は知らなくて良い世界や」
 悲しそうに眉を顰めた彼に言い聞かせた。お前はずっと幸福の世界の住人や。その優しさや頑さは、これまでの生活が形成して来たものだから。堂々とこれからも当たり前に生き続けてくれれば良い。
「でもな、俺には夢があんねん。やりたい事。その為に必要な事なら何だってやるわ」
 少しでも早く夢に手を伸ばす為に。一刻も早く、ほんの少しでも良いから近付きたい。剛の瞳は真剣だった。いつも軽薄な色で上手く隠しいるけれど、とても深い情熱の瞳を持っている。
遠くを見て生きている人なのだと思った。真っ直ぐ未来を見据えているその瞳に、暗さはなかった。
「金が要るんや。動き出す為の」
 真っ当なバイトは高校生では限度があるのだろう。だからと言って正当性を見出す事は出来ないけれど。少しだけ剛を知る事が出来た様な気がして、光一は穏やかな眠りに就いた。



+++++



 年が明けると、正月や誕生日だ等と言っていられない事態になった。受験に追い込まれる中、それでも思い出すのは剛の事だ。
 大晦日の夜、リビングで家族三人テレビを見ながら年越し蕎麦を食べていた。ブラウン管の向こうで鐘の鳴る音が響き、年が明けた事を知る。光一の家は、新年よりもまず息子の誕生日を祝うのが先だった。お年玉と誕生日プレゼントをもらって、お祝いの言葉を交わし合うと一時を少し回った所だ。毎年恒例の初詣へ向かう事になった。
 着替える為に部屋に戻ると、当たり前の顔で剛がベッドで寛いでいる。脳内がパニックに陥った光一を眺めながら「お誕生日おめでとう」と晴れやかに笑ったのだ。
 どうしてこの男はいつも、教えていない事を知っているのか。情報源を問い質しても「お前ん事ちゃんと見て周辺突ついたら、そんなん全部分かる」と躱されてしまった。そんな経緯も覚えていたけれど、嬉しくなってしまった光一は素直にありがとうと答える。
「お参り行くん」
「うん」
「俺も行こかな」
 神さんにお金やんのが嫌であんま行った事ないねんけど、と言った剛にすっかり絆された光一は、階下の両親に「友達と行って来る」と言い、とりあえず剛を窓から追い出した。コートを着て一階に降り一緒に行けない事を謝ろうとしたら「あの男前の子と行くんやろ。私らの事は気にせんと早よ行きなさい」と送り出されてしまった。
 初詣に友達と出掛けるなんて初めてで、光一はすっかり浮き足立っていて。迷子になるわと呆れた剛に人混みの中手を繋がれて、境内に入った。その手の温もりは、口付けられるより抱かれるよりずっと嬉しい。自分が求めていたのは、こう言う優しさなのだと思った。彼の中に潜んでいる温かいものが欲しい。
その元旦の日以来、ぱたりと剛は来なくなった。きっと受験に気を遣っているのだろうと努めて気にしない様に。二月に入り第一志望の試験よりも前に発表された第二志望の報告の為、光一は久しぶりに学校に来ていた。
職員室で担任に合否報告と第一志望の大学の話をする。第二志望の大学は模試でA判定が出ていたのに結果は不合格だった。「最近ずっと集中力が足りない」と言われ、心が重くなったのを感じる。
学校にいる時は気を付けていた筈なのに。どんなに取り繕っているつもりでも大人にはばれてしまうのだ。
 重い足取りで職員室を出ると、向こうからクラスメイトの女の子が歩いて来るのが見えた。それは剛が教室に来た日、真っ直ぐ彼の元に行った子だ。
そのまま挨拶だけして帰ろうか。何事もなかったかの様に。受験が終わればきっと。また当たり前の顔をして部屋に上がるに決まっている。何処にいるのかなんて、そんな事。
 いつしか来る事に慣れていた光一は、最初の脅迫も身体を渡した理由も朧げになっていた。唯会えないと寂しくて辛い。自分の感情の名前すら知らずに、剛を求めた。
「久しぶり。受験どう?」
 結局彼女を呼び止めた自分の弱さが嫌になる。
「私はもう決まったわ。堂本君は?」
「本命が残っとる」
「そっか、大変やね。頑張ってな」
「うん、あのさ」
「何?」
 歯切れの悪い言葉を咎める彼女の声に光一は怯んだ。きっと最初から用件が一つしかない事等気付いていたのだろう。
「剛、最近元気しとる?」
「……堂本君、知らんの」
「何が」
 光一の言葉を聞いて、彼女は優越感を称えた笑みを浮かべた。
「剛、冬休み明けてから転校したんよ」
「転校?何処に」
「何かシカゴの方の美術の学校。留学やって。……何、ホンマに知らんの?」
 光一よりも驚いた表情で問われた。そんなの知らない。だって元旦には一緒におったのに。
あの時にはもう、決まっていたと言うのか。最後のお別れもなく。
「何にも知らんのやね。堂本君、珍しく剛のお気に入りみたいやったから全部知ってる思うてたわ」
 もしかしたら一緒に連れて行くんかなあって。そう語った彼女に悪気がないのは分かるけど、心臓が痛いだけだった。
俺は別に気に入られていた訳じゃない。扱い易かったのと、何も知らない身体を開いて行く楽しみを見付けたのと。何処にも情なんてなかった。
 優しさばかり部屋中置いて行く癖に、情の欠片一つ残さずに。そう言う男だった。知っていた。唯、自分一人割り切れなかっただけだ。
「きっと落ち着いてから連絡するつもりやったんよ」
「ありがと。あいつにそんな甲斐性なさそうやけどな」
 もう会わないつもりなのだ。苦しくて苦しくて、笑ってしまった。シカゴなんて遠過ぎる。未来ばかり見ていた剛は、何一つ振り返らずに進んで行くのだろう。これからも、ずっと。
 心配そうに見詰める彼女と別れて、真っ直ぐ家に帰った。まだこれから自分には試験が残っている。彼の様に明確な未来ではないけれど、先に進む為に必要な事。そうは思っても、身体が動いてくれない。
 部屋に入ってベッドに座ると、気が抜けたのか涙が零れ落ちた。泣く理由なんて何処にもない。
剛は夢を叶える為に旅立ったのだし、彼の為に勉強の時間を割かれる事もなくなったのだ。喜ぶべきで、悲しむ理由なんて何処にも。
 どれだけ自分に言い訳しても、もう気付いていた。見過ごせない所まで来ている。どうして窓の音が気になるのか。どうして理由もなく抱かれ続けるのか。
どうして、部屋の鍵をいつも閉める様になってしまったのか。理由はたった一つで、けれどそれに向き合う勇気が持てなかった。始まりもきっかけも理由も全て飲み込まれてしまう位、剛の事が好きで。唯それだけ。
「っ……ふ……」
漏れる嗚咽を隠す為に膝を抱えた。
貴方の声でも、視線でも、触れる体温でも、匂いでも、髪の毛の一本だって構わないから。此処に置いて行って。
貴方を形作る一部をどうか、この手の中に。残して行って欲しかった。
泣くだけ泣いて、窓がもう二度と開けられる事はないのだと諦めがつくと、自分の為すべき事が見えて来た。今の自分がやりたい事をする為に、大学へ進みたい。将来なんて分からないけれど、一歩ずつ進むしかなかった。
確実に明確に、剛の様に。彼からは沢山の事を教えてもらったのだと、今更ながらに気付いて。過去を振り返る様に剛を懐かしめるまでになった。
 合格発表の日、わざわざ休みを取ってくれた父と三人で郵便物を待つ。やるべき事はやったのだから、結果は怖くなかった。母親が受け取り自分で開けた通知は、合格だった。



+++++



 卒業式の翌日、光一は一人空港のロビーにいた。今まで一人で来た事なんてないから全然分からない。手にしたチケットには、シカゴの印字があった。
合格発表の日、両親にどうしても行きたいのだと本当の理由は告げずに打ち明けて。春休みの間、入学の準備が間に合うまでの期間、シカゴに旅行する事を説得した。久しぶりに両親の過保護を知った気もする。
 ずっと貯め続けたお年玉を使って、あてのない旅に出るなんて。我ながら無謀だとは思う。本来の自分なら絶対にしない事だった。手掛かりは「シカゴ」と「美術学校」だけ。
英語も話せないから、ガイドブック片手に回る事になりそうだ。それでも探したい。会ってどうしたいのかは分からないけれど。今の自分がやりたい事を目指せば、きっと何かに辿り着く。

 結局剛を見付けられたのは、四月の半ばだった。会って驚くよりも歓迎するよりも先に家に電話入れろと言った剛はいつも通り。素直に電話をすると物凄い剣幕で叱られたけど、剛が変わってくれたからどうにか治まった。丁度土日を挟む所だったから、二日の猶予をくれて。週明けから通う事を固く約束させられた。
 久しぶりに会ったのに、と言うかこんな所まで探しに来たのに、迷惑そうにする事もなく、かと言って喜ぶ訳でもなく。まるで自分が来る事なんか最初から分かっていたかの様に、部屋に促された。
あっという間に服を脱がされベッドに押し倒されて、愛おしむ様なキスをされる。ずっと上機嫌に剛は笑っていた。嬉しさや愛おしさよりも先に戸惑いが胸を占めた光一は、翻弄されながらも眉を顰める。
 全てが計算し尽くされたかの様なエンディングだった。この結末を彼が最初から用意していたのかどうかは、今も分からない。

【了】
 担任に美術部の入部を薦められたのは、十月に入ってすぐの事だ。夏休み中にリハビリをこなし、二学期を松葉杖なしで始める事は出来た。
 ぎこちないながらもきちんと歩く剛を見て、周囲の人間は安堵の息を吐いていたのだ。体育の授業は見学していたが、それでもバスケ部の友人とも話をしていたし表面上は何の問題もない様に見えた。
 けれど、担任は気付いている。剛をきちんと見ている人間には分かってしまった。その目が、笑えていない事。何をしていても空虚の色がある事。それは、崩壊の前兆だった。
 放課後職員室に呼び出され、真剣な目をして美術部の話を持ち掛けられる。後にも先にもあのいつも飄々とした担任の、熱の籠った表情は見た事がなかった。
 現実を認識させるのは辛い。出来る事なら、バスケの出来る人生を用意してやりたい。けれど、もうその未来はないのだ。
 そろそろ他の事に目を向けなさい。言葉は決して優しい物ではなかった。突き放す響きさえ伴って、剛の心を抉る。
 上手く動かない足。取り繕った笑顔。何処にも行けない自分。苦しかった。誰にも分かってもらえないと思った。苦痛は自分だけの物だと思ってしまうのは幼さ故だったけれど、その感情に嘘はない。このままでは誰にも何の救いも得られないまま駄目になってしまうだろう。
 何でも良い。バスケ以上の事なんて、今までお前の人生になかったんだから。これからまた、バスケみたいに楽しい事を見付けるのだ。長い人生なんだから、楽しめ。
 剛は、頷けなかった。右足にそっと触れる。バスケの様に、バスケよりも楽しい事。また、夢を見られるのだろうか。いつか。十三歳の自分には分からない。
 けれど、大人に不信感を抱かない素直な子供だった剛は呼び出されてから一週間後、やってみようかなと担任に返事をした。今になれば、何故美術部なのか分かる。あの担任の優しさも当時の自分よりは感じ取れていた。
 運動系の部活ではない事。怪我自体の問題もあったけれど、軽い運動を禁止されている訳ではない。それと、体育館から一番遠い場所で活動している事。バスケ部の練習を目にする度に剛が胸を痛めない様に。穏やかに日々を過ごせる様に。
 美術室へ行くと、顧問より部長より先に岡田を紹介された。絵を目指している奴。剛も存在は知っていた。一年生の中で異質な、特異な人物。
 落ち着いた物腰も秀でた頭脳も備えた運動神経も、勿論美術の才能も全て。同年代には畏怖されるべき存在だった。誰もが境界線を引いて、彼の内側に飛び込まない。本人もそれを受け入れている様に見えた。
 先入観ばかりが先行して、最初は上手く喋れなかった。こいつに面倒見てもらえば大丈夫。お前、美術の成績悪かないんだから平気だよ。言い置いて去った担任に、何であんな賢い奴に宜しくお願いすんねんと言いたくなった事もあったが、徐々に慣れるにつれ剛は岡田を好きになった。
 同年代の周囲に畏敬の念すら抱かれても全然気にしていない事。マイペースに人生を生きている事。何より、夢に冷静である事。
 最初の頃、『もし明日腕がなくなったらどうするん? 絵やめるん?』と聞いた所、至って簡単に『まだ足がある。口だって使える。此処が死なない限り、僕は描き続けるよ』。そう言って、自分の脳を指差した。本当に賢い人間なのだ。何よりも、その生き方が綿密に構築されている。
 岡田のアドバイスを得ながら、美術部で出来る色々な事に触れてみた。デッサンや粘土、油絵に陶芸。どれをやっても、どうしたら良いのか分からなくなってしまう。手が動かなくなるとか、嫌いとかそう言う事ではなかった。
 目的が、見付からないのだ。目の前にある物を唯何となく形にすれば良い訳じゃないのは分かった。岡田には、目的がある。口数の少ない友人だから本当の
所は教えてもらえないけれど、その作品からきちんと意思が伝わった。
 何をしたいのか、何の為に作られた物なのか。それがきちんと作品に織り込まれているのだ。
 自分にはない物だった。バスケは、あのゴールが目的だった。勝つ事で目的は達成された。真っ直ぐに、其処を目指せば良い。単純な原理。
 何の為にゴールを目指すかなんて、聞かれた事がない。勝つ為に、走るだけ。あの頃は、自分の場所も向かう道も見えていたのに。今はもう、何も分からない。
 結局岡田と話しながら、とりあえず自分の手に馴染む物に取り組む事にした。目の前には真っ白いキャンバス。昔から落書きをするのは好きだったから、工作よりは絵の方が向いているだろうと言われた。
 何でも良いよ、目の前にある物を描く事から始めたってええ。美術のええ所はな、何もない場所から始めても、後から目的が見付かる事や。何となくやって
みたらええんよ。意味なんか、後から考え。剛君は、頭でっかちやねえ。
 小難しい絵を描きながら剛の躊躇を難なく崩した岡田は、やっぱり凄い奴だった。人の心の襞を傷付けずに読み取って、導く言葉をくれる。
 とりあえず進んでみようと思った。いつまで此処に留まっていても過去に戻れる訳じゃないし、未来がやって来る訳でもない。それなら、自分から走るしかない。
 また走り出せば良いのだ。窓際に座って、暮れて行く太陽のオレンジを眺めながら、吹っ切れた気持ちで考える事が出来た。
 目的が見付かったのは、既に二学期の終盤だった。厳しい部活ではないから、作品に期限はない。思うまま描いて、やりたいなら出品すれば良い。そんな活動だったから、剛には良い環境だった。
 キャンバスに向かうのは、自分に向かうのと似ている。見たくもない自身の醜い内面と対峙しなければならなかった。真っ白い画面を、自分の色で染めるのだ。今の剛には辛い行為だった。
 それでも逃げようとは思わない。逃げていたら、いつまでも此処から抜け出せないから。絵を描く事は思い掛けず体力を消耗する事だと気付いて、少し楽しくなった。
 最初に出会ったのが岡田だったせいもあるけれど、美術に対して嫌な印象を持たなくて済んだのだ。辛いけれど、日々を無為に過ごすよりは良い。
 適当にキャンバスの上に色を走らせながら、色々な事を考えた。巡るのは、怪我をした瞬間の出来事。
 周囲の悲鳴、手術室で聞こえた心拍の電子音、体育館に響く音。そして、病室で交わした他愛もない言葉。大切な事は、口にしたがらない人だった。言葉の合間に呼吸の隙間で、本当を教えてくれる。優しい空気。
 僅かな時間だったけれど、夏の自分を支えてくれたのは間違いなく彼だった。リハビリもこんな事をやったあれが辛かったと話せるから、頑張ろうと思える。食事の時に一緒にいると心配されるから、必ず全部食べられた。
 退院の前日、自分の事の様に喜んでくれた彼の笑顔は忘れていない。いつでも笑っていた。笑ってくれた。彼の笑顔を見れた日は、気持ちが暖かくなる。優
しくしたくなる。不思議な魅力を持った人だった。
 学校が始まってから、先輩とは話をしていない。普通の日常が始まると、お互いの距離を痛感した。何処にも接点が見付からない。
 始業式の朝、廊下で擦れ違った瞬間、そっと笑ってくれた。二人の関係は内緒の事の様な、密やかな笑み。それだけだった。もう三ヶ月も声を聞いていない。
 このまま、話す機会も見付けられずに忘れられるのかと思うと、胸が痛かった。もう一度話したい。あの笑顔を間近で見たい。思って、自分の感情に驚いた。これは、まるで。
 その先を認めるのは、怖かった。だって、こんな感情を向けて良い相手ではない。憧れるのでも慕うのでも構わなかった。でも、違う。
 剛は、一人美術室で笑った。夏の短い時間、あんなに近くにいたのに。気付くのは、こんなにも離れてからだなんて。
 自分の感情には敏感だと思っていた。怪我のせいで少し鈍ってたんかな。三ヶ月も、同じ場所で生活をしながら。一度も触れられない。遠い人だった。
 学年が違うだけじゃない。彼の性格故だと思った。きっとあの人は、必要以上に動き回らない。移動教室の時も真っ直ぐ特別室に向かうだろうし、昼食も教室で摂るタイプだろう。放課後になったら部室に向かい、どの部よりも遅くまで練習をして帰る。その繰り返しだ。
 余計な事を省いた生活。最小限の中で楽しみを見付け、意義を見出せる人だった。あの病室への訪問が異例なのだ。話していても、いきなり知らない人間の
所へ足を踏み入れる様な積極的なタイプじゃない事は分かった。妙な親近感が生み出した奇跡なのだ。
 日常が戻った今、彼が自分の教室にわざわざ出向くとは思えなかった。教室以外で何処にいるかなんて分からないだろうし。会えないのは当たり前だった。
 この感情を認められる日が来たら、自分から会いに行けば良い。まだ、出来ない。まだ、こんな柔らかくて優しい、驚く程残酷な感情を知る事は出来なかった。怖い。自分は怖い事だらけだ。
 ふと、思い付いて立ち上がると窓際に近付いた。今まで気付かないのが不思議な位だった。会いに行く事は出来ないけれど、此処からなら多分。
 四階から見下ろすグラウンドは、少しだけ遠近感を失わせる。此処からは空を見上げていても、下を向く事なんてなかった。
 手を伸ばせば届く距離ではないけれど。白いユニフォーム。小柄な背中。見間違う筈がない。遠い場所にいる人。誰よりも甘く微笑む事を知る人は、あの部活にどれ位いるのだろう。
 キャンバスと椅子を引き寄せて、場所を調整する。迷いのない姿。真っ直ぐに夢へ向かっていた。薄暗いグラウンドで、ユニフォームが冴える。鮮やかに目に飛び込んで来た。表情までは伺い知る事が出来ない。
 それでも構わなかった。椅子に座って、彼を追い掛ける。
 不思議と、心が落ち着いた。グラウンドとキャンバスを見比べる。無意味なキャンバスの上に、意味を見出せそうな予感があった。静かに彼の背中を追い掛ける。あの夏の日と同じだった。またきっと、彼が支えてくれる。



+++++



 少し季節が進んだ十一月の終わり。剛は美術室で絵を描いていた。迷いなく、キャンバスに色を引く。
 その頃、視線の先にいる光一は早く暮れる空を恨めしげに見上げながら、後片付けをしていた。転がったボールは、もう見えない。打撃練習をしている時に、絶対にボールが遠くへ飛んだ筈だ。籠の中に入っている数を確認して、溜め息を吐いた。全然足りない。これを探し出さなければならないのか。
 他の部員は帰りたそうにそわそわと片付けていた。こんなん、一緒に探してくれんやろな。一言言葉を発すれば良い物を、いつも光一は言葉が足りなかった。
 一人になってしまうのは、ひとえに口数が少ないせいだ。皆が帰れないんは可哀想やから、こっそり探そ。
 明日からはちゃんとボールを見付けながら練習すれば良いのだから、今日の反省分位は自分がやれば良い。二年生の光一は、既に副部長だった。
 それでも、命令したり無意味に後輩を使うと言う事は出来ないタイプだ。暗い空をもう一度見上げて、ボール探しを始めた。
 部員もいなくなり静かなグラウンドで最後のボールを見付けた時には、最終下校時刻を過ぎてしまった。別に校則を厳守しようとは思わないけれど、少し悪い事をしてしまった気になる。
 教師に見付かれば、帰るまで目を離せなくなるだろうし。部室の鍵は副部長になってから持たせてもらえている。勿論その計算もあって残ったのだけれど、早く着替えて帰ろう。
 月の出た空は冬の気配を漂わせて澄んでいた。ふうと息を吐いて、空を見上げる。星が瞬いて綺麗だった。これだけの明かりがあったら、ボールの軌道は見
えるんじゃないかな。少し考えて、野球馬鹿にも程があると苦笑した。
「さ、帰ろ」
 声に出して視線を戻そうとした瞬間、視界の端にあり得ない光が入る。何で、こんな時間に?校舎の一番上の階。左の教室。何の部屋かは分からない。
 あの階は特別室しかないけれど、授業以外では足を踏み入れないから思い付かなかった。どうせ消し忘れだ。その内見回りの先生が気付いて消すだろう。
 此処から行くには遠かった。見ない振りをして帰ろうと思う。自分には関係なかった。唯、見付けてしまっただけ。わざわざ職員室に言いに行く訳にも行か
ないし。下校時刻を過ぎて校内にいる自分が為すべき事は、早く着替えて帰る事だけだ。
 無視をして部室に戻った。素早く着替える。何事もなく、そっと帰れば良いだけだ。怪談話なんて怖くはないけれど、電気を消す為だけにはリスクが大き過ぎた。
 ユニフォームを几帳面に畳んで、鞄を抱える。部室の電気を消して、きちんと鍵を掛けた。後は、そのまま校門に向かって歩けば良いだけ。
「……ああ、もぉ!」
 自分の性格にげんなりする。このままでは明かりが気になって夢にうなされそうだ。職員用の昇降口に向かう。靴を持って、階段を上った。音を立てない様に、教師に出会わない細心の注意を払いながら。
 思ったより、四階は近かった。真っ暗な廊下を迷わず進む。暗闇は怖くなかった。月明かりもある。教室の前まで来て、此処が美術室だと知った。
 明かりの漏れた扉をそっと開く。音を立てたら気付かれるかも知れなかった。新しい校舎ではないから、長い間の開閉で、少し立て付けが悪くなっている。少しずつ慎重に扉を開けた。電気を消したらすぐに帰れば良い。
 扉を開いて、そのまま電気のスイッチに手を伸ばした。鞄と靴を抱えた光一は、部屋の中に入る気等更々ない。腕だけを伸ばして、スイッチに指先を掛けた。
 その時、思い掛けない事が視界に入る。こんな時間に、生徒?本気で学校の怪談を連想しそうになって、慌てて首を振った。
 あれはどう見ても生身の人間だ。猫背の背中。窓の方を向いていて、どんな人かは分からない。こちらを向いていた所で、野球部の部員とクラスメイト位しか分からない自分では変わらなかっただろう。
 キャンバスに向かって、何か絵を描いている。それだけは分かった。画面も丁度横を向いていて、何を描いているのかは見えない。没頭して、下校時刻を忘れたのだろうか。
 文系の部活は、運動系より更に一時間終わりが早い筈だ。声を掛けようと息を吸った瞬間、光一は固まった。其処にいるのが誰なのか、分かったからだ。
「堂本……?」
 ばっと、音がしそうな勢いで振り返られる。呼んだ名前は間違っていなかった。あの夏の日よりも少し痩せただろうか。可愛らしい後輩の印象が消えていた。キャンバスに向かっていた瞳は、精悍な色すら覗かせている。
 久しぶりに会った。学校が始まってからは、どうする事も出来なくてそのまま過ごしてしまったのだ。元々接点のない後輩だったから、誰かに聞く事も出来なかった。
 元気なのだろうかと、ずっと気になって。あの不安定な表情は、消えていた。絶望を煮詰めた様な瞳も強い色に変わっている。お前は、もう乗り越えたんか。本当に?
「堂本先輩……」
 相手も驚いた表情のまま、固まっていた。教室の端と端で、動く事が出来ない。口が渇いていた。何か、言わなければ。夏の一時は、あんなにも簡単に言葉が出たのに。少しの時間が、お互いの距離を遠くしてしまったのだろうか。
「お前、下校時刻」
 過ぎてる、と言い掛けたのを遮る様に剛が笑い出した。筆を置いて、豪快に。
「な、何や。何で」
「やって、堂本先輩!久しぶりやのに、最初に言うんが下校時刻って……。ホンマおもろいわー」
「何やの、それ。過ぎてるやん。時間」
「先輩こそ、とっくに過ぎてますよ。野球部終わったの、結構前ですやん」
「ボール、探してて。てゆーか、此処が点いてたから気になって……」
「相変わらず几帳面ですねえ。放っとけば良いのに」
「夢見悪いやん」
「夢見?」
「そ、見ない振りして帰ったら、消して帰ったより気分悪いやろ」
 分かる様な分からない理屈を捏ねて、光一は唇を突き出した。久しぶりなのに、剛は変わらない。手を差し伸べるみたいな優しさを持っていた。
「やから、靴持ってるんや。こっそり入って来たんでしょ?」
「あ、うん……」
 ショルダーの鞄を下げて左手には靴、右手はスイッチに伸ばそうとした手が下ろせなくて中途半端に止まったままだ。含みを持って笑われて、自分の間抜けな格好に気付いた。
「入ったらどうです?その位置変やわ」
「でも、帰らんと」
「大丈夫です。僕八時までなら此処にいて良い事になってるんで」
「……え」
「担任が当番の時だけなんですけどね。交渉して勝ち取りました」
「絵、描く為?」
「まあ、そんなもんです。どうぞ?」
 手招きされて、仕方なく美術室に足を踏み入れる。独特の匂い。蛍光灯の明かりが届かない部屋の隅に置いてある彫像が異様な雰囲気を醸し出していた。
 こんな所で一人、剛は新しい物に向かっている。バスケの道を断たれたのに、あの暗闇からこんなにも早く立ち直れると言うのか。そんな訳ない。そんな簡単な
事じゃない筈だ。なら、どうして。
 剛の近くにあった椅子に座る。鞄と靴は足下に置いた。その間に、描き途中のキャンバスは白い布で覆われてしまう。見たかったのに。言葉には出来ず、じっと見詰めた。その視線に気付いた剛が困った素振りで笑う。
「まだ、完成してないんで。先輩にはちゃんと完成したら見てもらおうと思ってて」
「出来たら、見せてくれんの?」
「はい。描く前から決めてたから、何言われても見せませんよー」
「描く、前?」
「はい?」
「俺ん事、考えてくれたんや……」
 歓喜を滲ませた声音で呟く不意打ちに、剛の心拍は簡単に跳ね上がった。ずっと考えてました。遠くにいても貴方が支えでした。言葉にする勇気は、まだ持てな
い。
 三ヶ月ぶりの光一は相変わらずだった。はにかむ笑い方や髪の柔らかな質感、焼けない内側の白い肌。何もかも全部、病室で見た時と変わらない。
 自分のすぐ目の前に、特別な人がいた。この絵が完成したら、どうにかして光一の所に押し掛けようと思っていたのだ。勇気が出るまで、何度も何度もキャンバスに向かおうと思っていた。
 こんな、幾つも偶然が重ならなければ出会わない場所でまた会えるなんて。『運命』と言う言葉を連想し掛けて、慌てて否定する。
「堂本先……」
「なあ、堂本」
 自然な話題をと思って口を開いたのと、光一が声を発したのは同時だった。綺麗に声が重なって、お互い顔を見合わせる。一瞬の空白の後、二人で笑い合った。
「あかんわ。二人とも『堂本』やもんなあ」
「ホンマですね。……俺ん事、『剛』でええですよ」
「何か、先輩が呼び捨てするのって、偉そうやない?」
「そう言うの気にするのが堂本先輩っぽいですねー。全然平気ですよ。それより自分の名字呼ぶ方が気持ち悪いでしょ?」
「まあなあ。やったら、俺も『光一』でええで」
「幾ら何でも先輩呼び捨てにする勇気はありません」
「ひゃはは。それこそ気にせんでええやん」
 縦社会に生きている癖に、この人にはこだわりや常識と言う物が欠けている。岡田とは違うタイプだけれど、彼も確実に極度のマイペースだった。自分は、こう言う自由に生きている人に憧れるのだろうか。
「やったら、光一先輩位で」
「うん、ええよ。てゆーか、ホンマ何でもええから」
 朗らかに笑って、まるっこいイントネーションで『剛』と意味なく呼ばれた。
「はい」
「呼んでみただけや。つよしー」
 子供みたいにはしゃぐ。多分絶対に、こんな姿を知っている人は少ない筈だ。どうしてこんなに無防備なんだろう。他を寄せ付けない圧倒的な雰囲気を持っているのに。
 自分の前にいるのは、ふわふわしていて危なっかしい子供だった。今すぐ抱き締めたい位可愛い。危険な衝動だった。
「何で、絵描いてるの?」
「美術部入ったんです。俺、バスケ以外に楽しい事知らんから」
「今は?今は、楽しい?描いてて楽しいんか」
「はい、きっと。ホントはまだ良く分かんないんですけどね。俺下手やし。まだまだ手探りって感じです」
 言葉を重ねれば重ねる程、光一の瞳が悲しそうに潤んだ。どうしてそんな顔をするんだろう。俺はもう、あの頃みたいに可哀想な奴じゃないんですよ。意味
を見付けたから、また歩き出せる。一歩一歩は僅かな物でも、もう過去には戻らない。
 悲しい目をしながらそれでも聞きたそうにするから、入部した経緯や絵を描く動機をかいつまんで話した。さすがに、光一から目的を貰ったとは面と向かっては言えないけれど。
「そ、か……。ホントはずっと気にしてた。でも、教室には行き辛かったし剛ん事何も知らんから何処行ったら捕まるのかも分からんくて。ごめんな」
「別に、光一先輩が謝る事じゃないですよ」
「うん、でも。気にしてたなんて言うだけなら誰でも出来る事やん。気にしてる振りしてるだけや」
 潔癖の精神を持っている人だ。自分の正義に正直だった。ああ、好きだなあと何の躊躇もなく思う。不器用に誠実に、彼も一生懸命生きていた。
「気に掛けてくれてたん嬉しいです。俺もあん時お礼言えなくて。ありがとうございました。先輩来てくれて、凄く嬉しかった」
「俺は、そんな何もしてへん。どっちか言うたら俺の方がしてもらった位や」
 照れた様に俯いて、光一は唇を噛む。夏の時にも思った。一緒にいる瞬間、彼は自分自身を責めている素振りを見せる。
 罪悪を伴った表情は、とても綺麗だったけれど。自分の苦しいのと同じ、暗い物を纏わせた。
「夏に光一先輩に会わへんかったら、俺今でも立ち直れてなかったと思います。こんな風に絵に向かってみようなんて思わなかった。俺、夢がなくなってもうたからまた一から探さんとあかんのです」
「……うん。剛ならきっと、見付けられるで。なあ、」
 言い淀んで、光一は剛をじっと見詰める。言葉は不器用だけれど、瞳だけはいつも驚く程素直に表情を変えた。不安な色。言い難い事を口に出そうかどうか迷っている。
 ええよ。何でも言うて。傷付ける言葉でも、優しい言葉でも。貴方からなら何でも。
「此処来たら、剛に会えんの?」
「……っ」
 予想外の言葉だった。此処に来てくれるの?俺の所に、また。こんなに他人との接触に消極的な人が、自ら進んで?勘違いしそうになる。彼の『特別』になれるのではないかと。
「来たら、駄目?」
「……ぜ、全然!全っ然、いつでも大丈夫ですっ。年中無休で大歓迎です!」
 勢い込んで迫ったら、光一が僅かに背を反らせた。拒否ではないけれど、引かれたかも知れない。
「年中無休はあかんやろー。俺、放課後は毎日部活やし、そんな言う程来れる訳ちゃうけど。でも、お前に会いたくなったら此処来てもええ?」
「はい!美術室で活動してる奴なんて、そんなにいないし。あんま他のに会う事ないと思いますよ。先輩の終わる時間やったら、多分俺一人です。あ、岡田がいるかな。やから、気にせんと来て下さい」
「……俺、人見知りなんて言うたっけ?」
「見てれば、分かります」
 こんなにはっきりと、野良猫みたいに怯えた目をするのに気付かない訳がない。光一は上手く隠して生きているつもりなのだろうか。案外自分の事を分かっていない人なのかも知れない。
「よぉ見てんなあ。……これから、明かり点いてたら見に来るから」
「いつでも待ってますよ」
 まさかこんな風に距離を縮められるとは思わなかった。いつか、決心が着いたら何が何でも彼の所へ行こうと思っていた俺の心はどうしたら良いんだろう。
 キャンバスの上には、まだ僅かな色だけ。心は決まっていない。醜い内面の清算も出来ていなかった。心臓に陣取った明確な感情に名前を付ける事はまだ出来ないけれど。
 四階からの距離よりはずっと良い。彼の時間の全部が欲しい訳じゃなかった。ほんの僅かな時間を共有させて欲しい。
 日暮れの早い冬が、少し愛しくなった。彼がいる季節は、優しい。見詰める先。描く色。明確に見える様になった感情。もう、迷わない。



+++++



 夏休みになっていた。光一には中学生最後の、剛には光一と過ごせる最後の夏。野球部は勝ち進んでいた。誰よりも努力している姿を知っている剛は、少しでも長く彼の夏が続けば良いのにと願う。大会が終われば、光一の最後の夏も終わる。
 決して強くはない野球部が地区大会の決勝まで進めたのは、部長の熱意に部員が引っ張られているせいだった。光一が頑張れば頑張る程、野球部自体が強くなる。
 言葉の少ない彼の示す姿は、周囲を引き込んだ。四階からその全てを見ていた剛は、だから勝って欲しいと願う。
 明日は、決勝戦だ。それに勝てば、念願の県大会に進める。まだ、彼の夏は続く。少しでも野球と触れ合える様に、夢を見られる様に。自分には祈る事しか出来ないけれど。
 今日も遅くまで練習をするのだろうと思った。夏は日が長いから、光一は楽しそうだった。ボールが見えなくなるまで、誰よりも真摯な目で追い掛ける。そう確信していたのに。
 何故か、目の前にはその野球中毒の野球部部長が座っていた。時刻は午後六時。外はまだ明るい。
「なあ、先輩。ホンマに練習せんでええの?」
「ぉん。ずっと練習して来たんやもん。前日に焦ってする事なんか一つもない」
「でも、まだ明るいで……」
「明日に備えて早く身体を休めるのも、練習の一つ」
「やったら、部長がまず休まなあかんのやないんですか?」
「此処で休んでる!」
 美術室に来た時から、何だか光一は不安定だ。グラウンドで指示を出していた姿は、毅然としていて何処にも迷いがなかったのに。不機嫌を装って、感情が揺れるのをどうにか抑えている様に見える。
「……別に僕はええですけどね」
 わざと大袈裟に溜め息を吐いてみせる。光一が手にしている炭酸飲料の缶の表面には、飽和量を超えた水滴が纏わり付いていた。丸こい指先からそれが伝わって、手の甲へ細く筋を描く。
 綺麗だなとぼんやり思って、自分は本当に何でも良いんだと思った。この人が作り出す物、形作る物全て好きだと感じる。
 その手に触れたかった。何が不安なのか言ってくれないから分からないけれど、そっと指先から包み込んで言葉がなくても体温で伝えたい。大丈夫だと。胸に抱えた物を吐き出して欲しい訳じゃなかった。
 この人は、自分で解決出来る。それでも此処に来てくれた意味を、都合の良い様に解釈しても罰は当たらないだろう。じっと手許を見ていると、視線に気付いたのか体温で温くなった炭酸を無理矢理口に運ぼうとした。
「そんな、無理して飲まんでも」
 やんわりと遮って、唇に触れただけの缶を奪い取る。炭酸飲料は自分が買った物だ。所有権はこちらにあると胸の中で言い訳をして、ますます不機嫌に寄せられた眉間に目を遣った。こんなに分かり易い人なのに。
 結局彼は、三年間親しい友人を作ろうとしなかった。自分には都合が良いけれど、大切な試合の前日に美術室にいて良いのだろうか。誰もいない教室の片隅で、こうやって向かい合う事に疑問を抱かない光一を愛しいと思う。
「何で取るん」
「あんた、冷たいのしか飲まんでしょ。こんな温くなったん無理しなくて良いですよ」
「無理、してない」
「してます。唯でさえ試合前でナーバスなんやから、少しは素直になって下さい」
「ナーバスなんかやない」
「普段そんなんじゃないでしょう。駄々っ子みたいやなあ、もう」
 缶で濡れた指先のまま、手を伸ばす。ぽんぽんと幼い子に与える優しさで頭を撫でた。驚いた事に、その仕草が効いたらしい。大人しくなった光一に笑んで、なるべく意識して甘い声で囁いた。
「明日の試合、俺此処から見てます」
 地区大会の決勝は、此処で行われる。光一達にとっては有利だった。どうしても勝って欲しいと思う。
 ゆっくりと俯いていた顔が上がった。窓の外の夕暮れを映した瞳は、蜂蜜色に潤んでいる。それを恐れずに見詰めた。
 優しい感情が届く様に。明日の彼が誰よりも強く在る様に。
「グラウンドには降りんけど、ちゃんと応援してます。先輩が投げるとこ、見てます」
「剛……」
「はい?」
「俺、まだ終わりたくない。野球やりたい」
「そうですね。先輩は、野球してる時が一番きらきらしとる」
 光一が、怖がっていた。未来を恐れずに迎え入れる強さを持つ人が、明日に怯えている。その臆病を自分の前に晒してくれた。理由なんて知らなくても良い。俺の使命は明日の彼に勇気を渡す事だけだ。かつて自分が、彼から貰ったのと同じ強さを。
「先輩は大丈夫です。誰より練習して来たもん。他の人達やって、一緒に頑張ってたやろ?明日は勝ちます。そしたら、県大や」
「うん。決勝まで行けたんや。後は、県だけ考える」
「そうですよ。余計な事考えないで投げたらええ」
「明日で、終わりたくないんや」
「終わりません。絶対に」
 世界の終末を迎えるみたいな必死さだった。終わりたくない。終われない。負けたら引退だけど、受験が終わるまでの辛抱ではないのだろうか。
 自分の様に、人生から取り上げられる訳でもあるまいし。その瞳が怖い位ひた向きで、剛はあらぬ想像をした。
 いつかの自分と同じ、野球をこの人から取り上げたらどうなってしまうのか。考えるだけでもぞっとした。そんな日は来ない。永遠に。来る筈がない。彼の夢は、グラウンドの上にあるのだから。
「明日、見ててな。お前が見てる思うたら心強いわ」
「あんたは元々強いでしょ。全然平気や」
「……そうかな。うん、そうなる様に頑張ってみる」
「ちゃんと応援してます。だから、何も考えずに投げて下さい」
「うん」
「明日……」
「ん?」
 首を傾げるのはこの人の癖だった。その瞳から恐れが消えると、素直な印象しか残らない。簡単に手懐けられる愛玩動物の様だ。
 キャンバスを見遣る。剛は、もう自分の感情に迷っていなかった。この絵を描き始めた時には、認められなかった感情。自分の向かう道、その目的を。恐れずに認められた。
 間違っていても構わない。リスクも全部理解した上で決めた。岡田には阿呆やなあと暢気に笑われたけれど。
「明日、俺の絵完成すると思います。試合終わったら、見て貰えますか?」
「それは、勝っても負けても?」
「勝ちますよ。まあでも、負けても見て欲しいかな」
「ん、ええよ。俺も楽しみにしとったし。試合の結果は関係なしな。もし負けてても、お前慰めんなや」
「はい」
 白い布の下。本当はもう完成している。自分の感情を筆に乗せながら描き続けた。迷ったり蹲ったりしながら、それでもキャンバスの一面を埋めて行ったのだ。此処に描かれたのは、自分の感情の全てだ。
 迷ったら削って、また新しい色を足せば良い。そうして削ぎ落とした物が剛君の色やよ。彼の言葉はいつも遠回しで、その分的確だった。
 俺の色。俺がこの一年見詰めた視線の先。手の届く場所には愛しい存在が在る。まだ引き寄せる事は叶わないけれど。
 明日できっと、世界が変わる。良くなるのか悪くなるのか分からなかった。自分がもし賢い人間なら、この感情は一生胸の奥に秘めておいただろう。彼の一番近くで可愛い後輩を演じていれば良かった。
 それでも口にするのは。どう言い訳しても、結局我が強いと言う事だ。
 自分の我儘でこの人を傷付けるかも知れないのに。止まらないのは、性分だった。走れなくなっても尚、走り出したい思いがある。
 暮れて行く美術室で一緒に溶けてしまえれば良かった。そうすれば、痛みも苦しみも全部共有出来るのに。この感情すら、上手く彼の中に浸食して行ったのに。それでも別々の存在だから欲しいのだと分かっている。
 交わるのは、長く伸びる二人の影だけだった。



+++++



 試合は、快晴の下行われた。相手は、去年の県大出場校だ。剛がどれだけ大丈夫と言っても、奇跡が起きない限り勝てない相手だった。負けるつもりで試合はしていない。
 けれど、最初の一球から力量の差を思い知らされた。気温は既に三十四度。頬を伝う汗を拭う暇もない。
 自校のグラウンドが有利になる事はなかった。僅か七球目。的確に捕えられたボールは鮮やかな弧を描き頭上を飛び越えて行く。ホームラン。フォークボールには自信があったのに。呆気無く選手がダイヤモンドを一周する。
 歯噛みして、次の相手に望んだ。最初から最後まで嘗められる訳にはいかない。自分にはきっと、最後の試合だった。引き下がれない。監督がマウンドを降りろと言うまで、投げ続けるだけだった。
 真夏の太陽が目に痛い。苦しかった。後何球投げられるだろう。右肩が燃える様に熱かった。もうすぐこれも使い物にならなくなる。万が一今日が勝てたとしても、次回は出られるかどうか分からなかった。
 野球部の誰もが知らない事だ。家族には今日の試合を教えていなかった。母が今の自分を見たら、試合中なのも構わずグローブを取り上げるだろう。
 此処にいる誰も、光一の不調には気付かない。相手の動体視力が優れているだけで、そのボールに狂いはなかった。
 グラウンドから離れた校舎内。遠い四階の教室に、剛はいる。きっと見ていてくれる。自分の最後の姿を。どうしてあいつは、最後を越えられたんだろう。唐突に訪れた瞬間には絶望しかなかった筈なのに。
 熱さのせいで思考が纏まらない。今は唯、目の前の事だけに集中しなければ。流れる汗を腕で拭った。
 強過ぎる陽射し。外野の声援の声。乾いた土が舞い上がる。雲一つない青い空。青いのは。
 集中して投げる。球種は、ストレート。ボールが手を離れた瞬間、しまったと思った。球が甘過ぎる。打たれる。思ったのと、バットの軽快な響きが聞こえたのは同時だった。先刻と変わらない軌道。上がる歓声は、相手の生徒の物だ。
 軌道を追い掛けて、見上げた。青いばかりの夏の空は何も答えてくれない。見詰めたのは、ずっと低い場所。手の届く距離だった。僅かに見える人影。
 一瞬の認識は思い込みの幻影かも知れなかった。それでも構わない。
 彼の絵を見てから、思い浮かべるのはグラウンドの上の空ではなかった。重ねられた人工の色。答えはきっと、その中にある。
 指先に感覚がなかった。終わりを確信する。どれだけ望んでも、もう。最後まで此処に立つ事は叶わないだろう。



 四階から、約束通り試合を見ている。遠い場所。キャッチャーの様に打たれる光一の傍に寄って、言葉を掛けてやりたかった。部員の誰よりも的確に言葉を掛けられる自信がある。
 白い背中。俺より少し大きいけれど、あの小さな身体で部を支えていた。
 ずっと見続けた姿。いつも追い掛けていた。白いユニフォームに青い印字。背番号0番。
 最後の瞬間まで見ていたかった。もう一度派手に打たれて、マウンドから降りる姿をきちんと焼き付ける。二度とこの場所では見られない。
 最後の一瞬まで、約束通り。見ているよ、ずっと。その背中を。

「剛、負けてもうた」

 穏やかな響きがいっそ残酷な息遣いを孕んで、剛の心臓を刺した。グラウンドで行われた全ての出来事を、きちんと見守っていた。
 結果は、惨敗。光一の夏が終わった瞬間だった。短い夏。もう帰って来ない、最後の日々。
 誰より頑張っていた彼が一番泣きたかっただろうに、グラウンドに取り残された様に立ち尽くす部員を慰めていた。その背中は痛々しい程の強さを秘めていて、剛を泣きたい気分にさせる。
 早くおいで、そう思った。此処でなら怖い事は何もない。慰めるなと釘を刺されていたからちょっと困って、けれど結局笑顔で迎える事にした。
「うん、負けたなあ。お疲れ様」
「ん、疲れた」
「座り。特等席や」
 窓際の椅子を指し示す。キャンバスの前、普段は剛の場所だった。用意していた炭酸飲料の表面を適当に拭ってから、綺麗に洗われた手に持たせる。自分には甘いオレンジジュース。
「でも、光一先輩格好良かった。相手の選手なんかより全然」
 僅かに俯いた光一は、答えない。こうやって黙って耐えるのは、彼に貫かれた精神だった。今更言葉にしろなんて言わない。黙って聞いていて。
「あんたのボール、綺麗でしたよ。真っ直ぐ迷いなくて、強かった」
「……つよし」
「足も速かったし、ヒット打ってきちんと点入れてたし。頑張ってた。凄かった」
「剛、約束……」
「別に慰めてません。慰められるのはあんたの勝手ですけど、俺は此処から見てた事実言うてるだけです」
 光一を椅子に座らせて、剛は窓に寄り掛かった。誰もいないグラウンドは傾き掛けた陽光を受けて、鈍く光っている。
 此処から彼を見詰める事はもう出来なかった。それが辛い。今は此処にいる人を、今度は何処で見詰めれば良いのだろう。
 二人の間に落ちた沈黙を、真夏の生温い風が撫でて行く。本当は、この距離に甘んじていれば良かった。何処にも行かず、優しい場所で。
 でも、自分は決めてしまったから。絵を描き始めたその日に、もう立ち止まらないのだと再び走り出すのだと強く決意した。今までの日々を無為にしたくない。
 重ねた青の分だけ、悩んだ。削った分だけ過去を振り返った。その色は、彼の為の色だ。絵が完成した以上、引き返す事は出来なかった。
「光一先輩。……見て、貰えます?」
「うん、ええの?」
「はい」
 ゆっくりした動作で見上げられる。指先にはキャンバスを覆う布の裾があった。迷わず引いて下さい。俺はもう、逃げない。
 するりと落ちた布の下から表れた画面に光一が息を飲んだ。まさか、青だけで構成された絵が出て来るとは思わなかったのだろう。暫し呆然と見入る彼の横顔を覗き見る。
 汗で濡れた髪が項に張り付いていた。気温で上昇した唇は桃色と呼ぶには艶かしい。目の前に焦点を合わせている目は、淡く滲んでいた。
 いつの間に、こんな。愛らしさでも幼さでもなく、こんな色香を身に付けていたのだろう。
「ひかり、が……」
「ん?」
 光一の声は小さくて剛には聞き取れなかった。梅雨の時期に見た絵とは少し違う。あのまま色が重ねられ続けると思ったのに。目の前に広がる青を二つに裂く様に一条の白がある。説明を受けなくても分かった。
 太陽の、光。強い強い剛の意思。青を切り裂いて走る白は、それでも厳しさより穏やかな色が強かった。彼らしい、全てを包み込む様な強さだ。
 あの時よりもずっと、剛の絵だと分かる。上手く言えないけれど、彼自身が此処に投影されていた。
「空の絵です。作品番号は0番。……ずっと、貴方の事を考えて描いていました」
「え」

「貴方が、好きです」

 キャンバスから視線を転じたのは、ほとんど反射に近かった。その目を見て、後悔する。剛の丸い大きな瞳には、穏やかな愛情だけがあった。
 いつもと変わらない温度。好きだと言われて思わず頷いてしまう位、優しい感情が此処にある。
「剛」
「男の俺にこんなん言われるのキモイかもしらんけど、この絵が完成するのは俺の気持ちが決まる時やった。あんたに告白出来る位強い心、持てる様になるまで時間掛かってもうた。俺、弱虫やからな」
「何で……」
「何で、て。光一先輩が俺の事支えてくれたから」
 あの夏の絶望の時、光一がいなければきっと剛は立ち直れなかった。彼は祖父の見舞いのついでに寄っていただけかも知れない。けれど、自分にはどれだけの勇気になったか、光になったか。
「剛、待って」
「絵を描き始めたのも先輩がいたからです。何となく入って、何描いたら良いんか分からんかった。どうしようか悩んでいる時にまた、救われたんです。グラウンドで練習してる背中が俺の支えになった。意味になった」
 自分の日々を動かして来たのは、この人の存在だった。傷はまだ完全には癒えていない。それでも、ちゃんと生きて行こうと思った。新しい夢を見ようと思えた。
 言い募ろうとした剛を立ち上がった光一が止める。焦った素振りで両腕を掴まれた。窓際で立ったまま向かい合う。
 剛は真っ直ぐ、視線を合わせた。その真摯な色に怯んだのは、光一だ。
「待って。もう、言わんで」
「どうして?やっぱ気持ち悪いですか?」
「違う、違う。気持ち悪くなんかない!でも、駄目や。俺なんかにそんな事言うたらあかん」
「俺なんか、って……」
 光一の自信がない事は知っていたけれど、そんな風に否定する必要はないと思う。
「先輩?」
「あかんのや。そんなん、あかん」
「こうい……っ」
 決して泣かない彼が、瞳に涙を溜めていた。今にも零れそうな程。こんなにも呆気無く自分を晒せる人ではないのに。何がいけなかったのだ。どうして、そんな顔をするの。
「俺は、お前に好きになって貰う資格なんてないんや」
「好きになるのは、俺の自由でしょ。資格とかややこしいもん必要ないで」
「違う、違うんや。聞いて。なあ」
 切羽詰まった響き。あり得なかった。ほとんど寄り掛かる姿勢の光一が可哀想で、捕まれた腕をそっと動かすと怯えない様に腰を抱いて支える。
「何が違うんですか。俺、ちゃんと聞きますよ」

「……俺は、お前を利用したんや」

 思い掛けない告白に、剛の呼吸が止まった。利用?俺を?そんな素振りも、自分にそんな心当たりも全くない。
「去年の夏、初めて剛の病室に行った日。じいちゃんが入院してるのはホンマやったけど、違うんや。あの日、自分の検査やった」
 そう言って、自分の右肩に触れた。検査。こだわっていた最後の夏。彼の表情が先に結論を物語っているのに、考えたくない。
 自分と同じ目には遭わせたくなかった。
「もう投げられないでしょうって言われた。どうしたら良いか分からん様になって、お前ん事思い出した。俺とおんなじやって思った。会いたいって思ったん
や。未来の、自分に」
 消極的な光一がわざわざ自分の病室を訪れた理由。少しだけずれていたピントが合った感覚。最初から感じていた僅かな引け目は、此処に理由があったのか。
 剛は黙って、話を聞いていた。今更どんな理由があっても、彼を嫌いになれる訳がないのだけれど。
「大事な夢無くしたのに、剛は笑ってた。自分も終わりが来た時に、こうなれたら良いって、ずっと……」
「俺が笑えてたのは、先輩がいたからです。先輩がこれから笑う為に、俺が傍にいたら駄目ですか?」
「あかんよ」
 右肩に伸ばした手をそっと振り払われる。優しい仕草だった。呆れる位悲しい人だと思う。瞳を閉じて感情が溢れてくるのを抑えた。
「好きになったらあかん。俺は狡い奴や。お前と一緒にいながら、ずっと未来の自分を想像してた」
「それでも構いません。俺は利用されたなんて思わん」
「俺が、思うんよ」
 抑えられない感情が雫になって零れる。耐え切れずにその細い身体を抱き寄せた。剛、と小さな声で非難されたけれど気にしない。熱い肩、額を押し当てて溢れるままの涙を染み込ませた。
「……青い絵、綺麗やなあ。剛は凄い。俺はお前と話せて嬉しかった。楽しかった」
 まるでお別れの言葉だった。もう二度と会えないのだと諭す気配さえ滲ませて。逃げられない様に、腕の力を強める。こんなにも愛おしいのに。
「なあ、ごめんな。俺はお前を好きにならん」
「好きになって貰えなくても良いです。傍にいられたら、それで」
「駄目や。俺はもう、お前の傍にはいられない」
「どうして。利用したから?」
「うん。こんな風に優しくしてくれるお前の傍にいられる程、俺厚顔じゃあらへんもん」
 よしよしと背中を撫でられる。年上の仕草。悔しかった。離したくない。
「……利用するのでも何でも、ずっといてくれたやろ」
「俺も、剛ん事好きやったから」
「なら……っ」
「ううん。やから、や。これ以上傷付けたくない。……傷付けられたくないんや。ごめん」
 自分の優しさが、彼を追い詰めると言うのか。自分の愛情が彼を立ち直れない程痛め付けてしまうのか。唯、優しくしたかった。彼を愛する事が自分の生きる夢だった。意思だった。
 怪我をした日から今日までずっと、支えてくれた人を。こんなに悲しませるだなんて。
「今まで、ありがとう。俺は、俺なりにちゃんと、剛が好きやったよ」
 するりと抜け出される。為す術もなく、腕の中が空っぽになった。優しく笑う人。涙で滲んで、上手く見えない。
 言わなければ良かったのだろうか。この絵が完成しなければ、永遠に彼の隣にいられたのか。
 そうじゃない、と思った。自分は最初から彼の前に愛情を晒すつもりで絵を描いていたのだ。言葉にしなかったら、この絵の意義はない。
 分かっていた。自分も生きる為だったのだ。
 光一は、未来の自分に怯えて足が竦む前に剛に辿り着いた。夢を無くした彼に未来の自分を投影して、その恐怖から逃れる。
 剛は、暗闇の中から抜け出す為に光一を愛した。夢に真っ直ぐな彼に目的を託して、もう一度生きようとする。どちらも、自己愛の元に成り立っていた関係だった。
 どうしようもない。何も掴めない手を痛い程握り締めた。光一は、寂しそうに笑んだまま美術室を去って行く。短くはない夏が幕を閉じようとしていた。
 もう二度と言葉を交わす事はないとお互い理解している。その姿が見えなくなる瞬間まで、その瞳が伏せられる最後まで、剛は身動き一つせずに追い続けた。
 さようなら。
 もう少し、大人だったら。ちゃんとお互いを見れたんかな。二人とも余りにも子供だったのだろう。相手との境界線が分からなくなる程。同じ心拍を刻める様な気さえしていた。幼い勘違いを笑う事は出来ない。
 いつか、胸の内に抱えた傷口が塞がったら。
 苦く笑って、剛は僅かに残る光一の熱を忘れないでいようと思った。夢はまた見れば良い。そう思えるのはもう少し先のことだけど。
 青いキャンバスを振り返った。此処にある感情は嘘じゃない。全部、捨てられなかった。
 重ねた青、重ねた思い、届かない夢。
 青い夏の中で、剛はくるりと描かれたループの上を歩き続ける。出口のない迷路。何処にも行けなかった。

 最初も最後も見付けられないまま、二人の距離は零に戻る。
 もうすぐ、夏が巡る。
 彼と過ごす二度目の、もしかしたら最後になるかも知れない夏。強い陽射しの下で輝く彼を網膜に焼き付けたかった。俺の中学生活を鮮やかに染めたあの人の後ろ姿を。



「剛君、相変わらず飽きんのやねえ」
 のんびりした声が背後から聞こえる。静かな美術室に似合う低い声は、心地良かった。声の主は、友人で美術部副部長であり、実質この部屋を取り仕切っている同級生のものだ。
「飽きへんよ、全然」
 それは、半年以上前から描いている絵に対してではなかった。校舎の最上階、四階に位置するこの部屋の窓際を陣取ってキャンバスに向かい続ける剛の理由を知りながら、岡田は笑わない。
 本格的に絵の道を目指している分アドバイスはくれるけれど、それ以外には決して口を出さなかった。当たり前みたいに応援してくれる。頑張って仕上げんとな、なんて。なかなか出来ない事だと思った。
「この絵描く為だけに、美術部おるんやもん」
 筆すら握らず布で覆われたままのキャンバスと対峙するだけだった剛が、ゆっくりと振り返る。誰もいない美術室。文系の部活は自由参加が多いけれど、この部活程幽霊部員の多い所はないだろう。期末考査三週間前だと言うのに、テスト勉強と称して、誰も参加する気はないらしい。
 三年の部長ですら受験生だからと言って、春から姿を見せていなかった。毎日飽きずにこの部屋へ足を運ぶのは、副部長位なものだ。
 視線を合わせるとまどろむ様に笑った岡田が、剛の向こう、硝子の外に目を向けた。少しだけ開けられた窓の隙間から水分を含んだ風が流れ込む。
 しとしとと緑を濡らす雨の音。大地に恵みを与える穀雨は、しかし窓際を陣取る友人から創作意欲を奪い取ってしまう。
 岡田の視線の行方を追わずに瞳を伏せた剛が小さく呟いた。薄暗い教室に放られた言葉は、無感情の癖に重い溜め息を孕んでいる。無意識に右足を指先がなぞっていた。湿気の多い空気は、傷を疼かせるのだろうか。今は痛い素振りすら見せないけれど。
 傷ではなく、その心は今もきっと痛んでいる。剛の瞳の中には、二度と消えない痛みがあった。挫折の色。
「今日は、描けんけどなあ。描くもんがおらん」
 寂しい声にはいつも曇りがない。それがこの友人の怖い所だと岡田は思った。自分より余程、芸術家の繊細な心を有している。雨の校庭は水溜まりを作るばかりで、人影もなく静まり返っていた。其処に人がいなければ意味はない。剛は、晴れの日ばかり部室に訪れた。
 自分と話したい訳でもあるまいし、何故此処にいるのか。白い布を見詰めている目は、残酷な程真っ直ぐだった。そんな目で世界を見ていたら苦しいだろうにと、芸術家らしい発想で岡田は考える。
 今日此処にいる理由を問おうとした瞬間、扉の開く音が背後から聞こえた。自分の真後ろ、教室の前方の引き戸だ。
 振り返るより先に、誰が来たのかを悟る。座っていた友人の空気が、ぱっと明るくなった。明確な彩度の変化。
「先輩!」
 扉を開けたまま硬直している。どうしようかと、扉に手を掛けた右手が迷っていた。白いシャツが、彼の印象を鮮烈にする。柔和な雰囲気と、躊躇する臆病と。
 柔らかな前髪の間から覗く瞳は、外にいる事が多くても日焼けしない完璧な黒だった。黒目ばかりの目が、この人の雰囲気を幼く見せる。
「室内練習終わってもうてん。……岡田も一緒やったんや。邪魔? 俺」
 此処で曖昧な返事をしたらそのまま本気で扉を閉めてしまう人だ。行儀が良いと言うか、先輩権限を使ってずかずか侵入して来ない彼が岡田は思い掛けず好きだった。剛が雨の部室にいる意味だ。瞬時に理解して、慌てて首を横に振った。
「とんでもない! 入って下さいよ」
 背後の剛に気を遣いながら、彼の右手を見詰めて入室を促す。日焼けした肌なのに手首の内側は、驚く程白かった。本来持っている色素が薄いのだろう。部活動を真剣に行っている割には長めの髪も、日が当たるときらきらと茶色かった。女子にファンが多いのも頷ける容姿をしている。
「そのまんま帰ろうかとも思てんけど。時間早いし、雨も強いし」
 言い訳の様に呟きながら、光一は美術室へ足を踏み入れた。自分のフィールドではない場所に入るのは、勇気がいる。剛が優しく笑うから、それにつられて目尻を綻ばせた。迷わずに、彼の前に立つ。雨の日は、気が滅入って仕方なかった。この部屋に来ると安心する。
「雨、小降りになるまで此処におったら?俺も帰るのしんどいなあ思ってたんです」
 自分の隣にあった椅子を勧めて座らせた。そのままきょとんと見上げる瞳が愛らしい。先輩に使う言葉ではないと思ったが、心の中で思うだけなら構わないだろう。
 こうして制服を着てしまうと、グラウンドにいる時の彼を想像し難い。体の弱い良家のご子息、そんな印象があった。誰も彼が野球部部長だなんて思わないだろう。
「うん、そぉしよかな。最近雨ばっかやから、練習出来んねん。一年は喜んで帰るけど、俺ら三年は最後やからなあ」
「大会、いつですか?」
「七月。今年は県大まで行けたら良いんやけど」
 美術部部員の二年生と野球部部長の三年生。一見何の共通点も見出せない二人だが、まるで幼馴染みの様に自然に話す。柔らかな空気が部室に広がって、岡田は良いなと思った。
 彼らが肩を寄せ合って話している姿は微笑ましい。何処にも根拠のない信頼が、確かに此処にあった。
「じゃ、堂本先輩。僕今日教室あるんで失礼します」
「今日は、何?」
「彫像です。まだ始めたばっかりなんですけどね」
「そか。岡田は忙しいなあ」
 のんびりと言われて、それなら貴方だって忙しいでしょうと言いたくなるのを堪えた。三年生が二年生に言う言葉ではない。
「雨、強いから。気を付けて」
「はい、ありがとうございます。剛君の事宜しくお願いします」
「おう。任しとき」
 含まれた意味等分からない先輩は、迷いなく承諾した。友人が無言の抗議を視線で訴えたけれど、無視をする。帰ろうと荷物を抱えた所で、思い付いて二人を振り返る。
 不穏な気配を察知したのか、剛が本能のまま顔を上げた。それを追う様にして、先輩も振り向く。目を細めてゆったり二人を見下ろした。
「剛君、そろそろ見せたげたら? それ」
 指を指して、布を被ったキャンバスを指差す。言い逃げと言わんばかりに、部室を出た。歪んだ彼の顔、同意する様に小さく頷いた先輩。
 良い事をした、と岡田は人の悪い遣りようで笑うと昇降口を目指した。美術室に残された二人は、思惑通りの展開だ。
「そぉやでー。剛、俺に一度も見せてくれへん」
「やーかーら、出来たら見せる言うてるでしょ」
「いや。今見たい」
「……途中で見たら、完成した時の楽しみ減るやないですか」
 子供を諭しているみたいだ、と剛は思う。聞き分けの良い優等生の筈なのに、たまにこう言う駄々を捏ねる人だった。可愛いと思ってしまう自分がいけないのだろうか。
「いーや。途中も最後も全部見たいの。何事も結果だけやなくて、経過も大事やろ?」
「お前、それ理論的なんかこじつけなんか分からんわ」
「あー剛。先輩にお前なんて言うたらあかんやろ」
「はいはい、光一先輩」
「ちゃう、堂本先輩」
「名字同じなんにこそばゆいやろ、それは」
「お前だけや、光一先輩なんて微妙な呼び方すんの」
「やって、後輩に堂本は俺一人なんやからしょうがないでしょ。大体、最初にそれで良いって言ったんは何処の誰ですか」
「しゃあないなあ。それ許したるから、絵見せて」
「あんた、いつも何て呼んでも怒らない癖に、狙ってたやろー」
「あ、ばれた?」
 へへと笑う小動物の愛らしさに騙されてはいけない。こう見えても、野球に命を懸けている部長殿だ。見た目の柔らかさをそのまま彼の内面だと思って接すると、後悔する。剛は後悔して、それ以上の苦しみに苛まれる事となったのだけれど。
 今でも思っている。もし自分達の名字が同じじゃなかったら、今頃こんな風に話す事はなかったかも知れない。誰よりも好きだと思う光一の傍にいられる事。幾つもの偶然と幾つかの痛みが二人を近付けた。
 もしかしたら今も、彼にとって自分は何十人もいる後輩の一人だった可能性もある。
 笑うと目が溶ける感じとか、新陳代謝の割に指先が冷たい事とか、強がりな癖に甘えたがりだったり。そんな大切な事を知らずにいたら。痛みと同じ分、喜びも愛しさも気付なかっただろう。光一が当たり前の様に自分を自分を見詰めてくれる幸福を、大切にしようと思った。
 剛は、一つ年上の接点の少ない同性の先輩、堂本光一に恋をしている。僅かな偶然を積み重ねた現在を、彼が此処を訪れてくれる奇跡を、静かに噛み締めていた。



+++++



 初めて光一の存在を知ったのは、入学して間もない頃だった。珍しい名字の一致が、教師の興味を誘ったらしい。どう見ても兄弟じゃないわなあ、でも堂本やなんてホンマ珍しい。
 どう見ても、と言われても剛はまだその同じ名字の先輩を見た事がなかった。唯、『光一』と言う名前はクラスメイトを覚えるよりも先にはっきりと記憶される。
 自分とは全然違う容姿の、野球部のエース。部活見学にでも行けば良かったのだろうが、残念ながら剛は入学する前に部活を決めていた。小学校の頃から、自信があるのはバスケだけだ。将来はNBAに出てみたい、なんて本気で思っている。まだ、その本気が許される年齢だった。
 夢は大きく持て。子供に繰り返される言葉。迷いはなかった。このまま練習を続けて、いつかは夢の舞台まで。届くのだと信じていた、中一の四月。
 堂本光一の姿を認識出来たのは、五月に入ってからだった。バスケ部の練習で校庭をランニングしている時、先輩が野球部を指差してみせる。上がった息のまま示す方向を見ると、キャッチボールに勤しむ小さな姿が見えた。
「ほら、あの手前の。ユニフォームが真っ白な奴。あれが堂本やで。いっつも洗濯してて綺麗やから、すぐ分かるんや」
「……うん、綺麗やな」
 剛が指したのはユニフォームの事ではなかった。暖かな陽射しの中で綺麗に放物線を描くボール。それを追い駆けるキャップに隠れた小さな頭。膝についた健康的な色の手の甲。遠くからでも分かる。ちゃんと向き合わなくても見えた。
 彼は『特別』な人だ。野球の上手さは良く分からないけれど、でもきっと早いボールを投げるのだろう。その指先から生まれるボールを思い描いた。青い空に似合いそうなシチュエーション。
 彼の纏う空気に引き込まれる。こりゃ、全然違うわな。自分とは別の世界にいる人だった。兄弟か、と聞いて来る先生達の気が知れん。
 綺麗だと思った。けれど、それだけだった。まだ剛の世界は明るい場所にあって、自分の描く夢に向かって走っていたから。きちんと立ち止まって他人を見る余裕なんてなかったのだ。

 光一の思い出は、いつでも痛みと共にあった。始まりがこの胸の痛みに起因しているのだから仕方ない。痛みを消す為に好きになった訳じゃなかった。
 小学校の頃から熱心にバスケに取り組んでいた剛は、先輩の妬みを買う事もなく当然の様にレギュラーに選ばれた。この中学校に自分より上手い人間はいない。その実力を本人も周囲も十分分かっていた。
 地区大会も勝つ事しか考えていない。このメンバーでは全国なんて到底無理だけれど、県大会位までは行けるのではないだろうか。
 剛には自信とそれを裏付ける確かな実力があった。自信が傲慢と映らないのは人徳だと、友人に良く笑われる。自信がなければ、ゴールに進めない。あのリングを見定める為には、迷いのない意思が必要だった。
 何の不安もなく臨んだ大会は、剛の予想通り順当に勝ち進んで行った。トーナメント制。負ければ終わり。総当たりより分かりやすくて、好きだった。準決勝まで圧勝で進んで行く。次に当たるのは、去年の優勝校。県大会でも上位に食い込んだ常勝校だ。
 剛は、身長の低さを技術でカバーしなくてはならない。対戦校は中学生の平均身長を軽く上回るメンバーだった。彼らの足下を切り込んで行く。
 小さい剛が強いのは、隙間を正確に抜けて行く力と、ゴール前での勝負強さにあった。迷わない。強気のプレー。その持ち味を自身で疑った事はなかった。
 試合が開始してすぐの出来事だ。相手の攻めにめげずその僅かな隙間を抜けようとした一瞬。剛に分かったのは、掌からボールが離れた事だけだった。
 相手の顔が苦痛に歪んだのと、試合を見に来ていた女子の悲鳴、先輩が必死な顔で走り寄って、その後ろに顧問の姿も見える。全てがスローモーションの動きだ。
 自分の置かれている状況が分からなかった。体が傾いでいる。どうして?ボールは何処行ったんや?ゴールポールが遠くに見える。いつもはあんなに近く、はっきりと見えるのに。激痛が走ったのは、それからだった。
 剛自身が認識出来たのは、痛みだけだった。その後の事は、良く覚えていない。救急車のサイレンが聞こえた様な気もするけれど、上手く意識出来なかった。
 朦朧とした中で、一つだけはっきりと分かっていた事がある。病院に着いて検査されるまでもなかった。
 もう、あのコートの中で自分は未来を目指せない。
 足にある痛みは、現実を教えていた。医師の言葉等必要ない。身体が何よりも正確に理解していた。剛の予想通り、診断結果は靭帯損傷。軽い運動なら構わないが、この怪我を庇いながらバスケを続けるのは難しいだろうと言われた。
 ほんの少し前まで明るく開けていた道が、暗く閉ざされる。十三歳の剛に、この現実は余りに残酷だった。誰も慰める術を持たない。
 誰の言葉も受け入れられなかったからだ。ベッドの上で一人涙を流す剛を支える者はなかった。
 大会は、結局再試合となり呆気無く負けたらしい。其処に自分がいたらどうなっていただろうと、考える余裕すらなかった。もう二度と、あの場所には立てないのだ。手術の日を前に、母親に頼んで退部届けを提出する事に決めた。遊びで続ける強さはない。
 いつだって全力だった。夢を実現する自信があった。自分を支えていた足下が、音を立てて崩れて行く。悔しさだけが胸を占めて、眠れない夜を過ごした。
 手術は、八月の第一週。終業式も出ずに夏休みを迎えてしまった。靭帯を修復する為の手術は日常生活を行う為に必要な事で、今の剛には大して意味がない。どうせなら、二度と歩けなくなれば良かった。その方が辛くない。
 深みへと嵌まった思考は、救いようがなかった。病室から見上げる空は、青いばかり。夏の強い太陽は、剛に希望を見せてくれない。ギブスで固められた足を見詰めても、過去は帰らなかった。
 静かな夏の午後、特にする事もなく窓の外を見詰めていると、不意にノックする音が部屋に響く。友人や先輩は最初の頃見舞いに来てくれたけれど、固く閉ざされた剛の心に皆諦めて帰って行った。今この部屋を訪れるのは、家族と看護士位なものだ。
「……どうぞ」
 けれど、そのどちらもノックして待つ習慣等ない。まして、声を掛けて扉が開かないなんて。誰だろう。扉の外で躊躇している気配。友人だろうか。見舞いには来たものの、前回の訪問を思い出して?剛自身も反省している。せっかく見舞いに来てくれた人達に挨拶も碌にせず、黙り込んでしまった。
 あの頃は本当に世界が暗闇の中にあって、呼吸もままならなかったのだ。その中で他人に気遣い等出来よう筈もない。今なら少しは笑えるから。泣いても叫んでも変わらない現実をきちんと認識出来た。だから、大丈夫。まだ胸はじゅくじゅくと膿んでいるけれど。
「どうぞ?」
 不審に思いもう一度声を掛けてみると、やっと決意した様に扉が開かれた。現れた姿に思わず息を飲む。其処に立っていたのは、友人でも家族でも看護士でもなかった。予想外、と言うよりも想定外の人。こんなの、予想不可能だ。
「……堂本、先輩」
 一度も言葉を交わした事のない、一つ上の同じ名字の先輩。病室を間違えたのかと思った。外の名札には『堂本』としか書いていない筈だ。
 けれど、その黒い瞳が真っ直ぐこちらを見詰めていて、自分の意志で此処へ来たのだと告げている。八月の空気の中にあっても、彼の涼やかな印象は変わらなかった。
 日に焼けた肌に深い藍色のポロシャツが良く似合っている。細身のジーンズも、腕に抱いた清楚な花束も校内にいる時の彼と違っていて新鮮だった。纏う空気だけが変わらずに綺麗だ。病院の白がすんなり嵌まってしまう。
 自分から入って来たのに、挨拶の一つもせず立ったままだった。何を思って此処に足を運んだのか。分からない。とりあえず上級生を尊重して剛も沈黙を保っていたが、埒があかないので自分から声を発した。
 入院した時よりは良い精神状態だと自分で思う。他人の為に気遣う事を思い出して来た。
「こっち、椅子あるんで。とりあえず入って下さい」
「……あ、うん」
 そう言えば野球部の友人が「堂本先輩は話し掛け辛い」と言っていたのを思い出す。お前はこんなに話し易いのになあ、なんて無責任な事も言われた気がした。黙ったまま病室に入った先輩は、椅子に座って言葉を探している様だった。確かに話し辛そうだ。妙に納得して、今日はどうしたんですかと聞いてみる。
「あ、今、俺のじいちゃん入院してて、それで。見舞い、と気になって……」
「ああ。俺ん事知ってたんですね」
「当たり前やん。名字同じやもん。……バスケ部の事聞いてたし、怪我も酷いみたいやから」
「それでわざわざ?」
「やって、心配するやろ、普通。怪我なんて。でも、じいちゃんのついでで、病室も近かったから、それで」
 一生懸命言い募る先輩に苦笑を漏らしてしまった。此処に来た事を後悔している感じだ。もっと、堂々としてれば良いのに。先輩なんやから。
「ありがとうございます。こんな、来てくれるなんて思わんかったから、嬉しいです」
 言えば、やっとほっとした様に肩の力を抜いた。腕に抱えた花束がかさりと揺れる。長居する気はないらしい。少し和んだ目許が、悲しそうに細められた。
言葉を発する前の一瞬の躊躇。優しい人だと思った。自分は、この後に零れる言葉を知っている。
 もう何度もされた質問だった。けれど、彼はその質問を躊躇っている。
「堂本、ホンマにやめるん?」
「……はい」
「リハビリとかでどうにかならんの?あんなに、上手かったのに」
「俺の、見た事あるんすか?」
「うん。お前目立つもん」
 衒いなく言われて、剛が言葉に詰まった。こんな風に率直に誉められる事は少ない。しかも知っていたとは言っても、ほとんど初対面の相手に。
 彼が素直だったせいかも知れない。もしくは、同じ名字の親近感だろうか。自分の中にどんな感情の作用が起こったのかは分からない。気付けば、素直に言葉が溢れていた。バスケ部の先輩にも誰にも吐露しなかった心情。
「……もう、バスケはやらんと思います。二度と。前みたいに動けないんは、嫌や」
「怖いんか?」
 真っ黒な瞳が正面から合わされる。核心を突く言葉。彼の周りにはきらきらと透明な空気が纏っている。迷いのない問い掛けは、断定と同義だった。透明な人。その色は、自分が目指した未来の色に似ていると思った。
 彼はまだ、夢を見ている。悔しかった。自分もほんの少し前まで、其処にいたのに。今は暗闇に蹲って動けない。
 怖かった。思い通りに動かない身体。練習をすれば、その分上手くなる。その原理を一度も疑わずに生きて来た。
 バスケで食って行くんや、と小さい頃から思っていた。こんな風に、夢の終わりが来るなんて。怖い。悔しい。苦しい。俺を助けて。この身体を元通りにして。
「あれだけ動けてたんやもん。堂本みたいに高くジャンプする奴、初めて見た。凄いと思うたよ。……やから、怖いのなんて当たり前や」
 優しく深い声に、思わず涙が零れる。怪我をしてからずっと堪える様に、一度堰を切ったら駄目になりそうで泣けなかった。初めて話したのに、こんなにも安心している。
 晒しても良いのだと、彼の目が穏やかに笑った。大丈夫。ちゃんと聞いたるよ。雄弁に語り掛ける、その瞳に負けた。
「俺、今まで怖いもんなんか一個もなかった。練習すれば高く跳べたし、足やって誰も追い付けん位早かったんや。でも、どんなに頑張ったって、怪我する前には戻れん。……今は、歩くのも怖い」
 先輩は息を殺して、泣き言を聞くだけだった。何のアドバイスもない。静かに眉を顰めて、自分の事の様に顔を痛みに歪めていた。泣いている俺よりも、彼の方が余程泣きたそうだった。
 胸に支えていた言葉を吐き出して泣きじゃくる俺の手を、そっと握り込まれる。真夏だと言うのに、ひんやりした指先。さらさらの感触は、彼の印象そのままだ。優しい体温が、気分を落ち着けた。
 涙も乾く頃、ぽつりと先輩が零す。それはアドバイスでも何でもなかったけれど、剛の心を勇気付けた。彼は、俯いたまま少し小さな声で言う。取っ付き難いイメージそのままに。けれど、それは人と接する事が苦手なせいなのだと思い当たる。
 こうして病室に訪れるだけでも相当悩んだ事だろう。考えると、剛は嬉しくなった。グラウンドの遠くから見るだけだった人。世界が違うと思った。その人が、今此処にいる。
「……じいちゃんの見舞いのついでになるけど、また来てもええ?」
「はい、いつでも待ってます」
 断る理由はなかった。静かに手を離すと、花束を抱え直して立ち上がる。じゃあ、と開き掛けた唇が惑って閉じた。何かに目を留めたらしい。剛の脇。サイドテーブル。何だろうと振り返った。先輩の視線の先。何ですか、と問おうとする前に彼の手が動いた。驚いて、振り返る。
「お見舞い。手ぶらやったからな。お裾分けであれやけど。じゃ」
 慌てて背中を向けて、病室を出て行く。僅かに頬が淡く染まっていたのは気のせいではないだろう。自分のした事に恥ずかしがって目を伏せた一瞬を、視力の良い剛は見逃していない。ひっそり笑って、サイドテーブルに視線を遣った。
 其処には、空の花瓶に挿された一輪のガーベラ。夏の陽射しに似合う強いオレンジだった。気障はきっと性に合わないだろうに。一つ年上の先輩を可愛いと思った。いつの間にか気分が軽くなっている事に気付くのは、それからもう少し経って母親が見舞いに訪れてからの事だ。
 他人に優しくする感覚を思い出していた。心にある傷は癒えないけれど、あの暗闇からは抜け出せた気がする。
 それから本当に、先輩は何度も病室を訪れた。剛が退院する前日まで、飽きずに何度も。お見舞いと言って何か持って来る事はなかったし、楽しい話題で笑わせる様な事もなかった。言葉少ない彼の優しさは、行動でしか推測出来ないけれど。
 名字が同じなだけの後輩を気に掛けてくれるのが分かった。最後まで病室に入る時に躊躇するのは変わらなくて。いつもどうしたら良いのか考えながら、きっと今日はやめようかなんて思いながら来てくれたんだと思う。
 あの時の彼の心情は、今も分からない。痛そうに顰められた顔。優しく話を聞いてくれた目許の綻び。照れた様に俯く度に流れる色素の薄い髪。何もかもが鮮明なのに、彼の意図だけが読めなかった。
 こんな縁もゆかりもない後輩を気に掛けてくれる理由。訪れてくれる度に募る嬉しさにブレーキを掛けたかったのかも知れない。
 見舞いに来た友人に、さり気なく学校での先輩の様子を聞いてみた。物静かな印象は、誰に聞いても変わらない。運動も勉強も出来て、それが嫌味ではない優等生。
 部活でも教室でも、特別親しい人間はいないらしい。誰にでも公平に。聞いていると、学級委員長の様な話ばかりだった。
 それでも何となく良い印象を持たれているのは、透明な空気のせいだろうか。勿論、あの顔で野球部ピッチャーとくれば人気はある。バレンタインのチョコの数は学年一だったと、何処で統計取ってんねんなんて話もまことしやかに伝わる位。
 けれど、そんな事には無頓着に生活しているだろう彼を想像して笑った。誰とでも仲が良い。つまり、誰とも仲が良くないと言う事だ。
 少し話すのが苦手で、少し人見知りなだけやのにな。剛は、そんな先輩が自分の元を訪れる優越感すら抱いていた。
 多分、光一を意識したのはこの時期だったのだろう。無意識の意識。心は明確な方へ進んでいると言うのに。まだ、名前すらない感情。重ねられた手の感触を、今も鮮明に覚えている。



+++++



 野球部部長である光一は、苛々していた。夏の大会も近いと言うのに、此処最近雨続きだ。溜め息も出ない程憂鬱だった。体育館は他の部活に占領されていて使えない。校舎内で行う練習には限界がある。どんなに綿密に練習メニューを組んでもどうしようもなかった。
 校内でボールを使う訳にもいかず、基礎練習ばかり。部員が飽きているのにも気付いている。自分だって、ボールを投げたかった。無意識に右肩を擦る。
ピッチャーの肩。一刻も早く、投げなければ。
 光一には、夏の大会が最後だ。中学時代最後、ではなく野球が出来る最後と言う意味で。高校からは勉強に専念すると決めていた。だからこそ余計に、もっと練習がしたい。
 部長の勝手な感傷に付き合わされる部員には悪いと思っているけれど、練習して強くなるのは決して悪い事じゃないと考えていた。
 思っても、天気には敵わない。どうにもならない苛立ちは、体内で燻るばかりだ。口の足りない自分には、胸の内を吐き出す術がない。
 今日も早めに室内練習が終わってしまい、部誌を書きながら溜め息を吐いた。動きたい。自分はまだ投げられる。ボールの行方が見えなくなるまで、練習がしたかった。
 夕暮れのオレンジに染まるベースの淡い色が好きだ。砂ぼこりに塗れた身体をシャワーで流すのも、目覚め切らない内から練習を始めるのも、全部。
 時間がない。後何度ボールを投げられるだろう。バットにボールが吸い付く感触すら忘れてしまいそうだ。ホームランなら必ず分かる。手に伝わった振動で。もっと走りたいと、光一は一人唇を噛んだ。
 暗い空、止まない音、誰もいない部室。全てが圧迫感を伴って、光一を苦しめる。水中にいるのに息の出来ない魚の様な。もがけばもがく程沈んで行くダイバーの様な。灰色の海の中。
 もう一度溜め息を吐いて、机に突っ伏した。この苛立ちは、自分だけのものだ。身勝手なままに他人に明け渡して良い感情ではない。けれど。
 目を閉じて、助けを求めたい衝動を堪えた。息が出来ない。苦しい。死んでしまう。灰色の世界で一人、何処にも走り出せずにいた。苦しい。悲しい。俯せたまま手を伸ばす。自分は一体誰に助けてもらいたいのか。誰もいない。この閉じられた世界には誰も来れやしなかった。
 それでも、指先を虚空へ伸ばす。この先に本当は誰にいてもらいたいんだろう。明確な像を結べない俺は、寂しい人間なのかも知れない。誰もいない。海の底に沈んだ灰色の世界。其処で一人朽ちて行く。
 原罪として抱えている世界だった。誰にも救えない。この孤独は、生まれた瞬間から自分だけのものだ。
 思って諦めようとした瞬間、閉じた瞼の裏で蘇る映像があった。いつか見上げた明かり。冬の夕暮れは早くて、グラウンドも長く使えない。落ちたボールさえ見失ってしまう暗がりから見上げた、四階の明かり。
 下校時刻をとうに過ぎて誰もいない筈の校内。四階は特別室ばかりだった。一番左の奥の部屋。美術室だ。
 指の先で輪郭が見えた。それを払拭する為に顔を上げる。助けて欲しい訳じゃなかった。唯、困った様に笑う賢い犬の様な彼を見て安心したい。あの後輩は、俺にいつでも安らげる場所を提供してくれた。心地良い空気。
 彼に甘えてはいけない事も分かっている。俺は狡い。未だに見せられない本心は、醜悪だった。とてもじゃないが、あの繊細な心を持つ後輩には見せられない。全てを知らなくても良かった。
 それでも、俺が今一番親しいのは彼だ。友人でも同じ部活の後輩でもないけれど。思えば、彼との接点なんて何処にも見出せない。
 だから良いのかも知れなかった。彼なら、今のこの苛立ちを理解してくれる。綺麗に溶かしてくれる。
 部誌を慌てて書き上げると、荷物を持って部室を飛び出した。誰もいない廊下を走る。四階の、一番奥の部屋。其処にいてくれると信じていた。無条件に信じている自分に驚く。
 光一は、まだ子供だった。多分、剛よりずっと。未だ、その心は目覚めない。芽生えた思いを自覚するには、不器用過ぎた。幼過ぎた。迷いなく走る意味に気付けない。
 指先に結ばれた像、其処にいた彼は優しく笑んでいたのに。慈しむ心で。光一の知らない感情をその表情に乗せて。

 恋はまだ。目覚めない。



 全速力で階段を駆け上がって、静けさに満ちた四階に足を踏み入れた途端光一は躊躇して立ち止まってしまった。何の確信があったのか。室内練習とは言え、運動系の部活一活動時間の長い野球部の練習が終わって、部誌も書き上げてから来たのだ。このまま廊下の突き当たりまで進めば美術室がある。
 分かってはいても、意気消沈した足は上手く進まなかった。上がった息を抑えながらゆっくり歩く。人の気配はなかった。扉の前、小さく深呼吸をして立ち止まる。身の内の衝動がきちんと処理出来ていなかった。
 迷わず此処まで走れたのに。光一は何度でも振り出しに戻ってしまう。進んだ感情を、自分の手で引き戻した。また、分からなくなる。いつまでもその繰り返しで、彼の元まで届かなかった。
 可哀想だと言ってくれる人は、いない。立て付けの悪い扉をゆっくり開けた。予想通り、室内に剛の姿はない。先刻、小降りになった時間があったからその時にでも帰ってしまったのだろう。
 いつでも待っていてくれる印象があるから、勘違いしてしまう。剛には剛の時間があって、それが自分の時間とぴったり重なる事はない。自分は、剛との時間よりも常に野球部の、自分のやりたい事を優先していた。彼にだけ、時間を自分の為に用意してもらうのは我儘だ。
 分かってはいても、胸が痛かった。放課後には剛の笑顔があるのが当たり前で、それが一年も経たない内になくなってしまうのだ。
 卒業したら、この穏やかな時間は失われる。そんな先の事なんて今から考えていても仕方なかった。
 美術室に足を踏み入れると、独特の匂いが鼻をつく。油のきつい匂いは苦手だった筈なのに、いつの間にか不快感を抱かなくなった。理由は明白で、わざわざ考える必要もない。此処にいる為に慣れた。それだけの事。
 窓際に寄って、グラウンドを見下ろす。雨に霞んだ硝子の向こう。自分のいる場所だった。今は雨に濡れてしまった、土の上を走るのが好きだ。野球をしている時が一番幸せだった。
 多分、野球以外の事は余り好きじゃない。勉強も、友人と交わす他愛もない会話――女の子の事やテレビの話題――も自ら望んでしようとは思わなかった。
 日常の全ては、光一の視界の中で色を持たない。あの場所にいる時だけが、唯一鮮やかな時間だった。大好きだと思う。
 けれど、その野球からももうすぐ離れなければならなかった。勉強に専念する事は両親の希望だ。自分も十分納得していた。甲子園を目指せる程強い訳でもないけれど、続けようと思えば勉強と平行すれば良い。その道を選ばないのは。
 右の肩にそっと触れる。
 唇を噛み締めて、湿気を纏った硝子に額を押し当てた。目を閉じて、叫びたい衝動を堪える。苛々しているのは、これのせいだった。
 剛と初めて話したあの日、医師から告げられた言葉を生涯忘れる事はないだろう。残酷に胸に届いた響きは、今も傷口を広げている。癒えない傷。剛と一緒だ。
 彼の部屋に向かったのは、後輩を慰める優しい先輩を演じる為なんかじゃなかった。同じ人間を、好きな事をし続けた代償を人生の早い内に払わなければならない人間を見たかったからだ。醜いと、己を嘲笑う。
 剛のプレイを見ていた。知っていた。彼が入部して間もない頃、体育倉庫に行く途中。
 思わず足を止めた。野球ばかりで生きて来たから、他のスポーツの事なんて全然分からない。他の人は見えなかった。唯、小さな背中が目に飛び込んで来て。鮮やかな世界を見た。
 グラウンドの上以外で初めて、灰色に沈んでいない場所。光一の目に光をもたらす引力だった。早い動き、高い跳躍、何よりも楽しそうに笑う彼の表情が光一の身動きを封じる。他の何も見えない位引き込まれた。薄暗い体育館の中で、小さな彼だけが鮮明に映る。
 その人が堂本剛だと、知ったのは大分後の事だけれど。今でもあの奇跡を覚えている。もう戻らない時間。失われた宝物。喪失感をその瞳に見出して、あの日を思い出す。
 早過ぎる代償。絶望を抱えるには幼過ぎる。けれどいずれ、自分も。彼と同じ表情を知るのだろう。
 剛の病室で、暗闇の中にいる彼に掛けた言葉は自分が欲しい物だった。諦める為に、優しい言葉が欲しい。近い内に訪れる未来をあの病室で見付けた。こうなるのだと、覚悟を決めた。酷い理由だ。
 穏やかな瞳で笑える様になった後輩に決して告げられない事だった。優しい人だと思う。当たり前みたいに自分を慕ってくれた。彼の信頼を裏切りたくない。出来る事なら、優しい言葉は剛から貰いたい。
 いつかの自分よりも、上手く慰めてくれる筈だ。硝子に押し付けていた額を離す。張り付いた髪を払って、水滴を落とした。
 伏せていた瞳を室内に転じる。窓から一番近い場所にあるキャンバス。真っ白い布が薄暗い部屋の中で鮮やかに映る。
 いつも見上げると目が合う位置。視力の良くない自分が、何故四階のこの部屋にいる人を正確に見分けられるのかは分からないけれど。
 気付くと、片手を軽く振ってのんびり笑う剛が好きだった。
 此処は、剛の場所だ。未だ見た事のない彼の絵。いつも熱心に描いている癖に、自分が来る前に綺麗に片付けられていた。完成したら見せると言ったきり。
 諦めた振りをして、自分は請うた事がない。けれど、見たかった。言わないだけで、本当はずっとずっと見たくて堪らない。剛の色。剛の世界。其処で何かが見付けられるかも知れない。
 同じ視点で世界を見渡したら、何かが変わる様な気さえした。胸の内にある焦燥の出口すら見付けられる様な。漠然とした期待。剛に寄せる感情は、全て全幅の信頼で出来ていた。
 絵の具で少し汚れた布の裾を掴む。少しの躊躇があった。いつもはぐらかしながら、申し訳なさそうな目をするのを知っている。他の誰が見ても構わないけれど、先輩には完成してから見て欲しい。その深く甘い響きを覚えていた。優しい目、先輩は特別やからと告げる強い声。
 家族の様に大切に包んでくれた。後輩よりも、弟の方が感覚的に近い。自分は一人っ子だから分からないけれど、この感情は親愛に似ていた。
 あの安心する笑顔を裏切る様で辛かったけれど、衝動とも好奇心とも付かない自分の心には勝てない。慎重に布を取り払った。
 下から現れる、キャンバスの色。光一は息を止めていた。訳もなく緊張している。たかが絵、そう思うのに自分がこの絵にそれ以上の価値を見出しているせいだろう。
 好きな物から離されてそれでも強く成長した剛は、年下だけれど自分の先を歩いている。俺は、これから捨てなければならない。大事な物から離れて、お前は何を希望として生きているの。此処に、答えはある気がした。

「何やこれ……。青しかないやん」

 暫しの沈黙の後、詰めていた息と共に吐き出した言葉は、我ながら絵心がないと思う。元々美術の成績は良くないのだ。芸術鑑賞の出来ない自分が、絵に答えを求めようとする事自体が間違っていた。
 キャンバス一面に塗り広げられた色。この青に剛の心は見えない。何を思って塗った青なのか。薄暗い部屋に抵抗を示す様な強い色。光一に分かるのは、これが弱い心で描かれた物ではないと言う事だけだった。
 彼の優しい笑顔を思い出す。いつも真っ直ぐ見詰める意志の強い瞳も。共通の友人や話題がある訳ではなかった。それでも、彼は誰より近くにいる。
 この絵を分かってあげられないけれど、欲しい時に笑ってくれた。安心出来る場所だと思う。此処にいる時は、不安がなかった。全てを預けても怖くない人。
 本当は、今胸の内にある焦燥すら渡してしまいたかった。それをしないのは、剛の問題ではなく自分の問題だ。この期に及んでまだ、自尊心が邪魔をする。
 青い青。吸い込まれそうな感覚は、体育館で見た時と似ている。視界を一杯に染めて、他を向かせない引力。指先をキャンバスに伸ばそうとして、躊躇した。
 触れた場所から、同じ物になってしまいそうだと思う。最初に染まるのは、中指。桜色の爪が見る間に青に変わる。そのまま手の甲を浸食して、腕から肩へ身体へと。黒目まで染め変えられてしまいそうだ。強い青へ、剛の色へ。
 現実主義の自分が抱いた夢想に、そっと笑う。左の掌へ視線を落としてそんな事ある訳ないと自嘲した。
 幼い光一は気付けない。染め変えられる自分を思った、その願望を。支配される蠱惑を。潜在の欲求がどれだけの危険を孕んでいるかなんて、分かる筈もない。
 唯、この一面の青に惹かれる自分を自覚するだけ。青い青い。剛の世界はこんな風に構成されているのか。未知の色だった。少なくとも、自分にとっては。
「空の絵ですよ」
 不意に背後から響いた声に死ぬ程吃驚して、白い布を強く握り締めた。恐る恐る振り返る。気配なんて、なかったのに。
「びっくりしたぁ。岡田やん……」
 いつもと同じ、体温を感じさせない笑い方で佇む美術部部長は、足音も立てずに近付いて来る。つくづく美術室の雰囲気が似合う後輩だと思った。
 変わった奴だとは思う。運動神経が良くて、幾つもの部活から未だに入部しないかと誘われていた。勉強も良く出来て成績はいつもトップクラスだった。
 それでも目立つ事が嫌いで、自分の好きな美術だけに黙々と向かっている。不思議な魅力を持つ容姿で目立たない方が無理だとは思うけれど。グラウンドより教室より、この場所が相応しい人だった。
「剛君の絵、見てもうたんですね。完成するまで見るな、言われてませんでした?」
「……言われた」
「しょうがない人やなあ」
 忘れていた訳じゃない。唯、抗い難い衝動があった。
「まあ、大丈夫です。僕言わへんし。先輩がその布元通りにしたら終わりです」
 おっとり笑われて、言われるままキャンバスの青を白い布で隠す。最後の瞬間まで、その青を見詰めていた。完成するまではもう見られない。強い色。グラウンドに一人立っていても思い出せる様に、強く焼き付けた。青の青。空の色。
「空、やったん……」
「はい、空を描いてるんです」
 ぽつりと零した言葉を丁寧に拾って、岡田は同意する。
「入部して、ちゃんと絵描くって決めてから、ずっと描いてますよ」
「ずっと?」
「はい」
「あんな、青だけの。空なんて、何で」
「確かに、キャンバスに青を引くだけならすぐ出来ますよ。けど、剛君の絵にはちゃんと意思がある」
「意思?」
 分からない、分かりたいと葛藤している光一が、岡田には可愛らしい物に映った。他人を拒む空気を持った人が、唯一心を傾けている相手だと思う。
 剛は人に好かれ易いし、当たり障りのない人間関係を上手に築ける賢い子供だった。けれど多分、こんなにも執着して真っ直ぐ愛情を向けたのは、彼が初めてだ。
 その執着は、今の所どちらも理解していないけれど。怖い感情だと思う。脆くて、可哀想な心。
 相手を大切にしたいと願う愛は、美しさよりも残酷を心臓に残す筈だ。今は穏やかな感情で接しているけれど、いつか。
 光一が抱く感情が後輩へ向ける信頼だけではない事を、剛が抱く感情が単純な恋心ではない事を、お互い身を持って思い知る日が来るだろう。
 そしてそれは、決して他人が介入出来ない領域での出来事だ。自分は、二人の力になる事が出来ない。
 だからせめて、未来の彼らが自身の感情に少しでも苦しまずに済む様、ヒントを与えよう。他の誰よりも賢い岡田は、まだ見えない位置から二人を見ていた。可哀想な二人。自分の真摯な思いが、相手も自身をも傷付ける。
「そう、強い意志です。剛君は、自分の感情を全部キャンバスに塗り込んどる。堂本先輩には見えませんか?」
「……見えんわ。俺、美術鑑賞苦手やもん」
「別に、モネやフェルメール見て感想言え言うてる訳やないですよ。剛君の絵です」
 光一は、白い布に覆われたキャンバスに視線を落とした。その瞳にはもう、剛の描く青が映り込んでいるのに。困った先輩だと、岡田は密やかに笑った。こんなに鈍感じゃ、あの敏感で遠回りな感情表現をする友人は苦労するだろう。
「この絵のタイトル、って言うか通し番号の方が近いんかな。知ってます?」
「知らん」
 そんな不機嫌な声で返さなくても。相手に分からない遣りようで笑う。自分の事には疎くても、感情表現は素直な人だった。そんなに、剛君の事分かってないと不安ですか。
「0番なんです」
「ゼロ?……それって、最初で最後って意味?」
「……ああ、そうとも取れますね」
 もっと身近にこの数字があるだろうに、思わず光一の解釈に感心してしまう。最初にも最後にもなれない数字。行き場のない感情と言う意味では合っているかも知れない。
 謙虚と言うか、鈍過ぎると言うか。あの友人は、彼のこう言う所にも惹かれたのだろう。
「そうとも取れるって……。違うんや。どう言う意味なん?」
「剛君は教えないやろうから、僕も教えられません。でも、先輩なら分かりますよ。きっと気付きます」
 それが明日か半年後か、十年後かは分からないけれど。いつか、光一にも分かる様になる。この感情を知る日が訪れる。
 一つ年上の彼をいいこいいこして甘やかしたい気分に陥って、岡田は緩く首を振る。今度小学校に上がる従兄弟の成長を見守っているみたいだ。光一は可愛い人だった。思い掛けず幼い部分を沢山持っている。
「いつか、俺にもちゃんと剛ん事、全部分かる様になるんかな」
「……堂本先輩は、今でも十分剛君の事理解してますよ」
 この絵に込められた意思は、光一の理解の範疇を超えているから分からないだけだ。自分の言葉に彼は安心した色を滲ませて笑った。最近眉間に皺を寄せている事が多かったから、岡田の目にも嬉しい物だ。
 受験生で野球部部長として最後の大会を控えている光一は、目には見えない所で色々悩んでいるのかも知れない。それが少しでも緩んだら良いと願った。自分にも彼は近しい人だったから。
「剛の絵見たの、内緒にしてな。あいつが見せてくれるまで、今度はちゃんと待ってる」
「勿論です」
 剛が見せる時に、分かったら良い。全ての意味を。剛が夢見る青い世界を。おせっかいかな、とは思ったけれどどうしても気になって岡田は口を開く。
 友人の為に、最後で最大のヒントを。黒めがちの瞳をじっと覗き込んだ。曇りのない黒。その目が鮮やかに染め変えられるのは、決していけない事ではない筈だ。
 間違いなんて、何処にもない。
「剛君、この部屋から一度も空を見た事ないんですよ」
 言葉を渡しても、光一の反応は鈍かった。長い睫毛が揺れて何度も瞬きを繰り返す。きょとんとした小動物の瞳に、分からないと書いてあった。
「やって、これ空やろ?」
「剛君が描いてるのは、抽象画ですよ」
「ちゅーしょー?……此処、窓の一番近くやん」
「窓から見るのが、空とは限らないって事です」
 岡田の含み笑いすら、光一には理解出来なかった様だ。仕方のない人だと思う。それとも自覚がないだけだろうか。
 剛の視線の先に貴方がいる事に、貴方はいつ気付くんでしょうね。岡田は、見下ろす形の先輩の頭を本当に撫でて、更に光一を悩ませた。



+++++


 ノックをして入った理事長室、机の向こうから振り向いた相手に硬直した。
「二、宮?」
「相葉先生……大丈夫なんですか、起きて」
「あ、ああ」
 くるりと椅子を回して向き直る二宮に戸惑って部屋を見回す。
「理事長は……」
「ああ」
 くす、と二宮が笑った。
「今は僕がここの理事長です」
「え?」
「ちょっといろいろむかついたんで、父親には引退してもらうことにしました………あんな懇親会の手配するようなやつですから」
 あっさり言い放って、ちら、と相葉の手の封筒を見た。
「それは?」
「……あ、ああ」
 二宮が理事長になっているということは確かに驚きだが、別にやれないとは思わない。見えているほど子供ではないのは相葉自身がよく知っている、そう思ってずきんとした下半身に唇を噛む。
「これは……辞表、だ」
「辞表?辞めるんですか」
「……体調も……整わないし……満足に授業もできない……俺がここにいる理由は……何もない……」
 おまえだってもう俺は要らないんだからな、そう言いかけたのをかろうじて呑み込んだ。
 差し出した封筒を受け取った二宮がじっと表書きを見る。やがて、それをいきなり真二つに裂いた。
「何を!」
「まだわかっていないようですね」
 机の上の何かを押すと、背後のドアでかちりと鍵のかかる音がした。ぎょっとして振り向いた隙に、するりと椅子を抜け出した二宮にソファの上へ突き飛ばされる。
「っあ!」
「体のこともあるから控えていたけど、こんなこと考えてるようじゃ駄目ですね。さっさと理解しておいてもらわないと」
「え、えっ、あっ」
 押し倒されたままネクタイを引き抜かれた。腕を後ろに回されて肘近くで拘束され、仰け反るような形で縛られる。
「なっ、なにっ」
「今さら。あんなことがあった後だし、倒れてばっかりだし、側に居ても怯えてるからずっと我慢してたけど、正直、僕も限界です」
「あ、や、ま、まって」
 ベルトを外されチャックを降ろされ、一気に下着ごと下半身を剥かれた。そのままぐい、と背後を晒すように夢のままに両足を掬い上げられ、ひたりと二宮が体を寄せてきて瞬間、吐き気が込み上げて喉を鳴らす。
「う、ぐ………っ」
「………やっぱり…」
 ひょい、と二宮が唐突に体を離した。視界を涙で滲ませて見上げる相葉に険しい顔で覗き込む。
「相葉先生、男が近付くの駄目になっているでしょう」
「……え……?」
「条件反射みたいに吐きそうになるんでしょ」
「あ……」
「それを我慢して知らないふりしてると、倒れちゃう……そうですよね?」
「………」
「特に……こんなの…」
「ひ……っ」
 まだそれほど勢いのない二宮のものをひたりと股間に当てられて視界が眩んだ。温かな柔らかな感触にぞくぞくして体が震える。冷や汗が滲んで、その自分の汗の匂いにさえ追い詰められた。
「や……だ……や……っ」
「もう少し様子見てようかと思ってたんですが、全然楽になる気配ないし。だから、荒療治になりますが」
 ひょいと二宮が何かを取り出した。薄いピンクの細長いもの。コードがついていて、その先にスイッチのようなものがついている。それが何か思いつく前に、ぺろ、といきなり後ろを舐められた。
「あ!」
 前も触られずにそんなことをされたのは初めてで、今までのどんな感触とも重ならないそれに戸惑っている間に、ぺろぺろと繰り返し舐め回される。
「あ、あ…っ、あ……っあ!」
 ちゅぷ、と微かな音がして舌先が中心を突いた。ずくんと走った波が股間に伝わりむくりと萎えていたものが身を起こす。
「ん……ん」
「う、んっ、ん、あっ」
 吐息を吹き掛けられながら舌先で後ろを弄ばれて、相葉は声を上げて悶えた。見る間に上がってきた身体の熱が、喘ぐように呼吸を繰り返す喉から零れる声が、自分がそれを望んでねだっているとわかって、なお煽られる。無意識に腰を揺らしていたのを抱えられて、一瞬我に返った瞬間、つるりと冷たいものが滑り込んできて悲鳴を上げた。
「ひ、やっ」
「痛くなかったでしょう?軟らかめで細めの素材を選びましたから。ああ、全部入りましたね。もっといけるかな?」
「あっ、あっ、ああっ」
 ゆっくりと二宮の指が入ったものを深くに押し込んでくる。池神のものとは質量も硬度も大きさも温度も全く違うそれに、相葉が混乱していると、小さな音が響いた。
「ひっ!!」
 ぶぅ、ん、と微かな振動音とともに後ろに呑み込んだものが小刻みに揺れ始める。
「や…あ……あっ」
 感触は細い棒なのに、それがまるで内側をまぜるように動いて相葉は仰け反った。広げさせられた足の間でくたりとしていたものがみるみる起き上がってくる。それをじっと見つめている二宮が、
「痛くないでしょう? 気持ちいい?」
「あ……あ……あ……っ」
「こうするともっと深くまでいく?」
「あああっ」
 ぐいと指で押し込まれて一気に股間が跳ね起きた。弱いところのわずか端に引っ掛かっていて、立続けに震えが走るのにイくには全然足りない。
「や……たす……たすけ……っ」
「ああ、ようやく泣いてきましたね、これ」
「ひうっ!」
 引き起こされてソファに座らされ、両足を抱え上げられ含まれた。とは言え、舐めるのではなくゆったりと含まれたまま、背後の振動で揺れる相葉の動きで舌が触れるだけだから、見る間に切なく追い上げられて喘ぎながら懇願する。
「に……二宮……っ……も……もっと……」
「何…?」
 ふい、と二宮が顔を上げた。濡れた唇を舐めながら薄く笑う顔を相葉がうっとり見返してしまうと、
「そんな顔をすると」
「は、あうっ!」
 スイッチの切り替わる音がした。激しく揺れだし内側を叩きつけるような動きに身体が勝手に跳ねる。しかも上下がずれたように動き始めて、相葉は喘ぎながら首を振った。
「あ……あう……あっ……あっ」
「ほら、相葉先生?」
 汗で濡れてきたシャツの匂いももうわからない。ただただ身体の中で暴走するものに感覚の全てを持っていかれて朦朧とする。その相葉を引き起こして四つ這いにさせると、二宮は相葉の鼻先に自分の勃ちあがったものを突き出した。
「舐めて」
「は…あ、あ…」
「でないとずっとイかせてあげませんよ?」
「あ…あう………っ」
 またスイッチが戻されて柔らかな微かな振動に戻る。濡れ始めた中で滑るのか、零れだしそうなそれを無意識に締めつけてしまい、身体がびくびくと震えた。
「口を開いて」
「あ、あ……んっ」
「舌を使って」
「ん……んんっ」
 銜え込む二宮のものに絡む汗の匂い、それが不思議にえづかなかった。奇妙な安心で舌を絡めて腰を揺らせる。鈍い振動はどんどん麻痺していく 下半身に遠くて緩い愛撫になり、じれったくて必死に舌を動かした。
何度か走り上がった快感、けれど、そのどれもが押し上げてくれなくて、相葉は二宮を口から外して掠れた声で訴えた。
「も…う……入れて……」
「相葉先生……」
 さすがに呆然とした顔で二宮が見下ろしてくる。霞む視界でもう一度繰り返す。
「おまえのを………入れて……くれ………こんなのは………いやだ…」
「………わかりました」
 すう、と凄んだ笑みが二宮の口に広がった。ぞくりとしながら、その冷たい笑みに見愡れる。
「じゃあ……これと…」
「あ、うんっ!」
 急に引き抜かれて思わず少し零してしまう。くすりと笑った二宮が背中の腕の拘束も解いてくれた。べたべたに濡れたシャツ一枚で戸惑ってると、ソファに掴まるように言われて、唾を呑み込みながらソファの背に掴まる。
「いきますよ?」
「……っ、う、んっ、んあっあああっ!」
 散々濡れて弛んだそこが二宮のものをじわりと呑み込むのを感じた。池神のときのように激痛や不安ばかりではない、少し入って引き抜かれ、またもっと深くまで押し込まれる、その柔らかな手順がもう、意識を吹き飛ばしてしまいそうによくて。
「あっ……あっ……あああっ……」
「凄い声……あげてる……わかる……?」
「は、ああっ、あっ、あ、二宮ぁっっ!」
「う、くぅっ!」
 ずん、と強く突かれて大きな波が駆け抜けた。それに攫われるように相葉も弾けながら仰け反った。
「……大丈夫?」
「……」
 ソファの上、二宮の腕の中でこっくりと頷いた。汚れた下半身は心得たように二宮がきれいにしてくれたし、半裸姿なのに安堵に気持ちがほぐれて、今にも眠ってしまいそうだ。
 もう、いい、そう思った。
 もう後のことはどうでもいい。今こうしてこの腕の中で眠れるのなら。
 女のこともあるけれど、彼女は彼女で二宮が必要ならば構わないとさえ思った。静かに相葉を抱える二宮の腕はもうひんやりと冷えて、さっきまでの熱は微塵も感じさせない。ここで眠ってしまっても、目が覚めれば、さっきみたいにまた一人で取り残されているのかもしれないが。
 胸に耳を当て、とくとく打っている心臓の音に耳を澄ませる。
 そうだ、次に捨てられそうなら、思いきり二宮を罵倒してやろう。そうして激怒させて、相葉を嬲り殺させればいい。それぐらいはするだろう、この男なら。
 微かに走った震えにうっすらと笑う。

「何を笑ってるんです」

「うん?」
 見つめられていたとは思わなくて、ひょいと顔を上げると表情の読めない瞳が見下ろしていた。
「不思議だな」
「え?」
「安心するんだ」
 低くつぶやいて目を伏せた。
「ここにいると安心する」
「じゃあ、もう辞めませんね?」
「………」
「申し訳ないですけれど、相葉先生」
「……ん?」
「僕はあなたを手放す気はありませんよ」
 二宮の声に苛立つような調子が混ざった気がして、もう一度見上げた。醒めた視線の奥から冷えた怒りが滲み出している。
「どういうつもりで態度を変えたのかわかりませんが」
 ああ、そうか、と気がついた。相葉はずっと二宮を拒んできたから、急に二宮に身を任せたばかりか自分でねだって快楽を貪った、その相葉に戸惑っているのだ。
「今のだって……録画してるんです」
「………もう……そんなものはいらない」
「え?」
「………俺をつなぎ止めるなら……」
 見上げて唇を差し出した。脳裏を彼女の姿が掠める。あの娘はもう二宮にキスされたのだろうか。
 それとももう抱かれて喜びに喘いでいたのだろうか。
 今日の遅刻は実はそのせいだったのだろうか。
「抱いて」
「相葉先生……?」
 不審そうに見下ろす相手に目を閉じる。ただひたすらに待っていて、ようやく降りてきた唇にほっとする。所詮遊び道具の一つにしか過ぎないんだろう、そう思った瞬間に切なくて辛くて眉をしかめた。
「どう……したの」
「どうも、してない」
「おかしいでしょう、あなたから」
「おかしいのか、俺からじゃ」
「あんなに僕を嫌がってた」
「……」
「初めて会った時からずっと」
「?」
 相葉は眉をしかめた。記憶を辿ってようやく該当するものを見つけだす。そうだ、あの時、理事長の机に寄り掛かるようにして、どうみても中学生にしか見えない子供が相葉の履歴を覗き込んでいた。ぱらぱらさも用ありげにめくって、ずいぶんあれこれやってきたんだね、どうして落ち着けなかったの、そう問われた。かっとして、確かに「子供が大人の話に口を出すもんじゃない」と。
「……弱味だった」
「なぜ?」
「……どうしてかな…………何度か襲われかけることがあって」
「っ」
「うまく切り抜け逃げてきたんだけど……今度みたいに薬まで使われたのは初めてだ」
 口にすると、気を張っていた部分ががさりと抜け落ちた。
「でも、おまえに執着されるのは」
 たぶん、嫌いじゃなかった、そうつぶやいて自嘲すると急に強く激しく抱き締められた。
「ごめん、なさい」
 思いもよらぬ呻くような声に目を見開く。
「そんなこと、どのデータにもなかったから」
「………誰がしゃべる…?…データになんか残すはずないだろ」
「そう、ですよね」
 熱い息を吐いてなおきつく抱き締めてくる二宮にもう一度目を閉じて力を抜いた。
「でも、僕はただ、初めて会ったときから、ずっとあなたが欲しくて」
 掠れた声が訴える。
「ただ、あなたが欲しかっただけ………どんな手を使っても、どんなにあなたを傷めつけても」
 ああ、そうか、と気づいた。
 冷たくて容赦がなくて、けれど相葉を欲してやまないその激情をずっと感じていたからこそ、自分はあの時二宮の顔に安心したのだ。そして、いつの間にかすっくりと、心の底までこの男に。
「もう、どこへも行かないで」
「………あの、娘はどうする」
 ずるいと思ったが計算が動いた。
「ああ………何?何か聞いたの?」
「痴漢から守って登下校してると」
「ええ、そうですよ。けど、今日で終わり……もう彼女は転校しますから」
「転校?」
「やっぱり怖くて通えないって。今日が最後だからって、確かにちょっと付き合いましたけど」
 微かに笑った二宮が声を改める。
「でも、あれが相葉先生なら」
「俺、なら?」
「痴漢を警察なんかに引き渡しませんよ。池神さんのように、僕の納得する方法で消えてもらう」
 低い笑い声が響いた。
「それに先生は家になんか帰さない。ここで暮らして頂きます………ああ、そうだ」
 ぺたりと平板になった顔で二宮は相葉を覗き込んだ。
「今まであなたを襲いかけた人達、覚えてます?」
「………」
「その顔は、覚えてるんですね?そう、じゃあ、また何かの折に聞かせてもらいましょうか、何を誰にどうされたのか」
 冷笑を含ませてゆっくり相葉を抱き込んでくる。
「新しいゲームの始まりですよ。待ってて、相葉先生。あなたに触れた人間がどうなるか見せてあげる」
 静かで柔らかなキスが降りた。
「あなたが僕以外受け入れることはできないって、思い知らせてあげる」
 殺気立った黒い目はパソコンのカメラ・アイとそっくりで。
 誰よりも冷たくて誰よりも熱いこの瞳に、ついに自分は捕われた。
 口の中を執拗に蹂躙されながら、相葉は密やかな笑みを浮かべた。
由凪様

こんにちは。
長い間不義理をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした(>_<)。
イベントからも大分日が経ってしまい、もう何と言ったら良いのやら……。

と言う訳で、まずは先日はありがとうございました。
事前に頂いたメールも返信出来ないまま今日に至ってしまいましたね……。
何て言うか、本当にもう。
あ、チョコリーフパイとても美味しかったですvv
ご馳走様でした。
全く身構えていなかったので、私の人見知りぶりが遺憾なく発揮されてしまいちゃんとお話出来なかったのが勿体ないなあと今更ながらに思っております(^^;
今度会う機会があったら、もっとゆっくりお話したいです。
普通ににのあい話がしたかったです(>_<)。
緊張し過ぎて大失敗だったなあ……。

そして、大野さんの個展情報もありがとうでした。
残念ながら入場方法が変わってしまい、ますます行けない気が募っております(^^;
うーん、無理かな。当たる気がさっぱりしません……。
一発勝負の方が幾らか倍率は上がるだろうと言う事で、木曜日狙いで頑張って来ます。
駄目ならファミクラ映像で我慢しようと言う覚悟まではしてみたので(笑)。
致し方ないですね。
事務所の見込みが甘過ぎるのが、嵐さんの不幸だなあと思います(^^;
にのが「甘く見られてる」と言う意味はホントに良く分かるよなあと最近思ってばっかりなんですが。
5大ドームも決まったし、そろそろ対応を変えて行って頂かないと困りものですよね……。

ええと、年末に拍手したのが最後なんですよね。
どんだけ不義理をしていたんだって話で……。
そもそも名前を覚えて頂けているなんて思わなかったので、まさかこうしてご連絡を頂けるとは思っておりませんでした。
本当にありがとうございます。
イベントラッシュでなかなか他の事に手が回らず、最近やっと落ち着いて来た次第です。
そろそろ拍手を、と思ったんですが、もうこのメールで一緒くたに送ってしまえ!と何だか結局不躾な感じで感想を送らせてもらっちゃいます(笑)。
基本スローペースなので、由凪さんの素敵更新ペースについていけません……。
とゆー訳で、今日はゆっくりじっくり書きますよー。
めんどくさいですが、お付き合い下さい(^^;

まずは「年賀」。
確実に双方の家族と仲良しだろう二相の幼馴染みな感じが大好きです。
お父さんお母さんにしても、凄い歓迎してくれてそうですもんねー。
きっと何も言わないだろうけど、何となく二人の雰囲気で気付いたりしてて見守っているご両親を希望です(笑)。
あ、凄く今更ですが大野さんはゴルフしないですね。
結局後からの話を繋ぎ合わせると、二相ラブラブなだけじゃないかと思うおぐさんのゴルフ(^^;
おぐさんは平等に皆を大事にしてくれてますが、是非今年もこんな感じで大事にしてあげて欲しいなあ。
何となく相葉さんと大野さんに甘い気がするのは、ファンの欲目ではないはず(笑)。

「撮影」は、ホントにあの写真素晴らしかったですねvv
皆が皆で可愛かったです。
でもさすがにどーぶつさん。
あやし方って言うか、触り方が違う気がします。
あー睫毛長いなあって、これ見る度に思います(笑)。
にのちゃんも、柴は柴でも黒柴ってのが憎いなあと。
合わせてる動物が皆完璧ですよね。

菌まんがは私も大好きでしたvv
アニメしか見た事がないんだけど、ホントにひたすら菌が可愛い。
そして、巷で見ると親友×主人公が多いのが残念ですよね。
でもさすがに二相同志様(笑)。
私も主人公×親友が好きですvv
基本的には白髪受けが多いんだけど、これに関しては親友が可愛過ぎます。
あーばさんのゴスロリ……。
堪んないなあ。
栗山千明ちゃんとか水川あさみちゃん系の綺麗めゴスロリが見れる気がします。
にのちゃんがテレビでは絶対許してくれないだろうけど、是非見てみたいですよねー。
今なら黒髪だし、ばっちり似合うと思う。
うわー、想像しただけでちょっと萌えるな(笑)。
ヲタクにのちゃんの萌え心も絶対くすぐられると思います。

「名前と支配と。」
呼び方ってホントに大切ですよねー。
翔ちゃんの「雅紀」呼びは役得だなあなんて思うんですけど。
彼に関しては「智君」呼びだし、普通に友達でも名前で呼ぶ人なんだろうな、と。
となると、確かににのはまーくん呼びが素敵ですよねvv
相葉さんは確実に「かず」って呼んでるからなあ(^^;
メンバーもちょいちょい呼んでるけど、多分相葉ちゃんの声がダントツで甘い(笑)。
「リオウ」はバイブルですよね。
私の本もぼろぼろです(^^;
あんまり私BLが好きじゃなくて……て言うと語弊があるな。
普通の映画でも同じなんですが、ラブストーリーとかが苦手なんですね。
サスペンスとかミステリーで、話の本筋は別にあるけどその中の感情に恋愛も絡んでいる、みたいなのが好きで。
だから、BLだとちょっと物足りなかったりします(^^;
学生時代は本当に高村さんにお世話になりましたねー。
大体ヤクザやらマフィアやらが大好物なので(笑)。
にのは、童顔なのにヤクザとかだったら面白いだろなー。
そんなパラレルも面白そうです。

「手のひらに。」は、凄く雰囲気が好きです。
にのが飄々としているのは、本当に強い部分もあるんでしょうが弱さを隠す為でもあると思うので。
バランスを崩した時にきっと一番最初に気付くのは相葉さんなんでしょうね。
あの子の賢さは、先天的なものなんだと思います。
絶対的な直感なんですよね。
良く見てる。周りを。
私は末っ子コンビの距離感も好きなので、最後の松潤も素敵でした。
彼らは割と遠くからお互いを見ているような感じがするけど(まあ、どっちもツッコミ役だから一緒にいてもしょうがないのか)、いざと言うときは絶対真っ直ぐ手を伸ばすんだろうなあと。
そう言う意味で嵐さんは、メンバー全員に等しく手を差し伸べる愛情があるので単純に関係性が素敵だなあと。

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