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「センチメンタル・ハニィ」





 何処からどう見ても温室育ちの彼に、騙されたとか奪われたなんて認識はあるのだろうか。
 あの綺麗な瞳に自分だけを映すのが楽しくて、それだけの思いで抱いて口付けて困惑させた。打算的な感情はなかったけれど、かと言って恋とか愛とかの面倒臭い物も介在していない。唯、欲望が先にあったからそれに任せただけ。


 十月の三年生の教室ともなれば、教師が居なくても何処も静かなものだった。自分のペースに合わせて、分からない所は職員室に聞きに行く。そんな状態の休み時間だったから、割と室内は静かだった。
 窓際の前から三番目に座る光一は、特にクラスメイトと雑談するでもなく数学の問題を解いている。元々物静かな生徒だったから、周囲の人間も気に留める様子はなかった。
 穏やかないつも通りの時間を不躾に破ったのは、後方の扉が乱暴に開かれる音だった。一瞬静かになった生徒達の視線が集まる。その先には、余り校内で見る事のない二年生の姿があった。
 集まった視線が不自然に逸らされ日常を取り戻そうとしている。扉を開けた生徒はそんな雰囲気も意に介さず、室内を一瞥した。振り返った女生徒が短いスカートを翻して扉へ走った。
「剛! どしたん、こんなとこ来るなんてー」
「お前が呼び出したんやろが」
「制服も男前やなあ」
 不機嫌そうな男の様子には気付かず、黄色い声を上げる。腕に纏わり付く軟体動物には目もくれず、剛は教室のある一点を興味深そうに見据えていた。
 堂本剛と言う名前を知らない人間は、この学校に居ないだろう。誰もが一度は悪い噂を耳にしていた。制服をだらしなく着崩して、長い髪の間から覗く黒い瞳は底が見えない。淀んだ黒ではなく、漆黒の闇だった。
 相変わらずのトーンで夜の予定を纏め始めた女生徒を置いて、剛は真っ直ぐ室内に入って行く。教室に居る人間は素知らぬ振りをしつつも、その方向を追っていた。
 彼が辿り着いたのは、窓際の前方の席。空間図形の問題と格闘していた光一は、人の気配に気付かない。元来鈍感な人間ではあるが、気の毒そうにクラスメイトが見詰めていた。
「なあ」
 呼ばれたところで反応出来る様なタイプではなく、クラスメイトが離れて行った事も勿論分からなかった。
「なあ、顔上げて」
 ゆっくり伸ばされた手に、無遠慮に頬を撫でられる。驚いた光一は、反射的に言葉通り上を向いた。
「ああ、やっぱり。別嬪さんやねえ」
 満足そうに笑った目の前の男に困惑して、今まで構築して来た回答式が霧散する。こんな男知らん。何でこんな距離におるん。頬を辿る手がゆっくりと唇に触れて、優しく問われた。名前は?
「堂本」
 僅かだが、男の瞳が驚愕の色を持って見開かれる。その後すぐに楽しそうな瞳に変わったけれど。
「下の名前は?」
「……光一」
「こぉいちか」
 まるで宝物の様に名前を呼ばれて、光一は更に訳が分からなくなった。ずっと昔から彼の一番近くで、誰よりも何よりも大切にされて来た様な感覚。
それが、この男のやり口なのだと気付く事は出来なかった。ちらりと開かれた参考書を見て、剛が口を開く。
「数学、難しいとこやってんのやなあ」
「……うん」
「大学進むん」
「うん」
「そか、お勉強大変やね」
 疲れるやろ、と労る様な指先の動きに光一は捕らわれる。此処まで来れば、もう剛のものだった。あからさまにこう言う事に免疫がなさそうな彼を落とすのなんて雑作もない。
 教室内は静まり返っていた。誰一人、剛を出迎えた彼女でさえ、二人の間に入る事は出来ない。
「やぁらかい唇やな。肌も綺麗やし、髪もさらさらや。何かお手入れしとる?」
「何も」
 してない、と続く筈の言葉は剛の唇に飲み込まれた。光一は自分の状況を把握出来ず、唯身体を硬くする。机を挟んだ体勢だったから、剛は身を乗り出して抱き寄せねばならなかった。抵抗する事すら思い付かない身体は、為すがままだった。
 下唇を食んで歯列を辿り、深く舌を絡み合わせた。其処まで来てやっと、光一が事態を理解する。
「っなにするん!」
 渾身の力で突き飛ばすと、手の甲で唇を擦った。顔を真っ赤にして仰け反る様に避ける姿は、剛を喜ばせるだけだ。深く笑むと、毛を逆立てた仔猫の愛らしさを持つ彼に楽しい声音で告げた。
「堂本剛」
「は?」
「おんなじ名字。運命感じるやろ」
「何言うてんの」
「剛。 俺の名前や、覚えといて」
 頭を撫でて喚き立てられる前に身を翻した剛は、全ての視線を受け止めながらも悠然と去って行った。



+++++



 一瞬で忘れてやると誓った光一の思いは、無惨にもクラスメイト達によって粉々にされてしまった。剛が居なくなった後、勉強等そっちのけで彼らは様々な事を教えてくれた。
堂本剛に関する、ありとあらゆる悪評を。そんな事教えてくれる位なら、先に助けてくれよと言うのが本音ではあったが。
 余り他人の事を知りたがらない光一は、他のクラス、まして他の学年の人間等知る筈もない。周囲の人間はそんな性格を受け入れてくれていたし、自分自身も納得していたからそのままで良いと思っていた。けれど。今日だけは。もっと周りに目を向けるべきだったと後悔した。
 曰く、金さえ払えば何でもやってくれるらしい。喧嘩やカツアゲからバイトの代理からライブでの演奏まで。
 そして本業とも言えるのが、夜の仕事で。前金さえきっちり払えば、男でも女でも朝まで気持ち良くしてくれる。金額に応じて使い分けてはいるが、テクニックには定評があるらしい。
 およそ高校生とは思えない話に光一は目が回ったが、信憑性はあるなと思った。ベッドに仰向けに転がって、そっと自分の唇を撫でる。
あんなキス、知らんかった。そりゃ、今まで女の子とキスはした事があるし、それ以上だってしている。けれど。あんなに気持ちよくなかった。
 キスもセックスも大人になる為のステップだった。好奇心と友達に負けたくない気持ちばかりが先行して、快楽にまで辿り着かないまま。
 目を閉じて、感情を押し殺す。思い出したら駄目だ。自分は雄であり、彼より一年長く生きているのだから。受け入れる事は出来なかった。堂本剛とのキスが、腰が抜ける程気持ちよかったなんて。



+++++



 三年の堂本が二年の堂本に白昼堂々キスされたと言う話は、翌日全校にすっかり広まっていた。こうなる事は予想出来たし事実には違いないので、光一は静かなままだった。さすがに衆人環視の中犯されたなんて話が大きくなり過ぎていた時には、苦笑したけれど。
 あれから剛は登校していない様で、勉強の忙しさの中記憶は遠くなって行く。時々鮮明に感触を思い出しては顔を赤らめていた事は、誰にも言えなかった。
 好奇の視線にも大分馴染んで来た頃、光一はいつもの様に多目的教室で勉強していた。此処は委員会に所属していた時に見付けた場所だ。
 教室は煩いし、図書室は人が多過ぎて嫌だった。家で勉強するよりも集中出来るから、最近はずっと使っている。
 苦手な世界史の美術史を資料で確認しながら暗記している時だった。扉の開く音がして、ぱっと顔を上げる。
 たまに教師が見回りに来る事があった。その度に「他の奴らには見付かるなよ」と釘を刺される。使用禁止の部屋だから大目に見てくれていると言う事だろう。
 きっと今もそうだと思い、蛍光灯の光の下に立つ人を見た。夕暮れの橙と人工の白が混じり合えずに混在している。其処に机の影が細く長く溶け込んでいて。可笑しなコントラストを作っていた。
 思わず目を逸らして沈む太陽に目を向けた自分は、決して悪くないと思う。白い光を反射する様に、彼の周りにはブラックホールの漆黒があった。
「ちゃんと、覚えててくれたんやな」
 思いがけず優しい声を掛けられて、光一は硬直する。意識が向くのを恐れる様に、頑なに夕陽を見詰めた。そんな意図すら明確に見抜かれているとは知らずに。
 可愛ええなあ、と小さく剛は呟いた。この人は、浅はかで臆病で真っ直ぐだ。全身で俺の一挙手一投足を追っている。随分と久しぶりな感覚だ。人間を相手にして、楽しいと思うだなんて。
「小学生やないんやし、シカトなんてやめてや。こっち向いて」
 気付けばすぐ傍で気配を感じる。それでも光一は振り返らなかった。噛み締めた唇があどけない。机に浅く腰掛けて、広げられた参考書を無造作に避けた。このちっちゃな頭にどんだけ入るんやろな。
 横を向いたままの光一の耳に触れた。敏感に反応して肩を跳ねさせた彼は、諦めた様に剛を見上げる。黒く澄んだ瞳は混迷の色彩が強かったけれど、それでも気丈だ。
「こんなとこ一人でおったら、俺んこと待ってるんや思うで」
「そんなことっ……」
「隙だらけや言うてんの、お坊ちゃん」
 見下す瞳で言われて、光一は背筋が寒くなる。この男は、きっと平気で人を抱くのだ。相手の気持ちとか恋情とか世間体等、彼を縛る枷にはならない。初めて感じる身の危険に足が竦んだ。
 ふと見ると、剛の手にはいつの間にかカッターが握られていた。ペンケースの中にちゃんと仕舞っておいたのに。
どうして、と考える間もなく、シャツの合わせを刃先が滑る。きっちり止められていた釦が、呆気なく弾け飛んだ。
 傷付けられると思った瞬間、縫い止められた錯覚を起こしていた身体が動く。立ち上がって剛の手首を両手で捕まえた。
 椅子の倒れる音。対峙する視線。触れた手の熱と。蒼に染まった窓の外。
 痛みを感じたのは、ずっと後だった。
「あーあ、お前自分で刃立ててどないすんねん」
 呆れた声と共に手を離されて、光一は白いシャツが僅かに滲んでるのに気付く。左胸の少し下、一本の赤い線が走っていた。強烈な痛みではないけれど、疼く様な微妙な感覚だ。勿体無いと呟く声が聞こえた。
「こーゆープレイ好きな奴も確かにおるけどな。……せっかく綺麗なんに」
 言いながら傷口に口付けようとするのを遮った。距離を置いて傷は見ずに、睨み付ける。
 そこで初めて剛が不機嫌な表情を見せた。肉食獣の狩りの前の静寂。じっと獲物を見据えて。
「……ストーカー、されてたな」
 勝ちを確信した表情で告げられた言葉。光一の顔が歪んだ。今まで必死で封印して来た過去を呆気なく蘇らせてしまう。
 剛は厭らしく笑っただけだった。離れた距離を詰めても赤い筋に舌を這わせても、もう何も言わない。
 それは、中学の時付き合っていた彼女の事だった。告白されて付き合い始めて。段々と彼女の行為がエスカレートしているのには気付いていた。一年生の頃からずっと好きで、やっと思いが通じたのだと嬉しそうに笑ったのを今でも覚えている。忘れてはいけない事だった。
 夏になる頃にはもう、彼女と呼べる様な状態ではなくて。誰もはっきりとは口にしなかったけれど、あれはストーカー行為だった。俺がもっと彼女の気持ちを大事にしてあげたらこんな事にはならなかったのかも知れない。今思っても遅過ぎるけれど。
 結局向こうの両親と話し合って、彼女と別れた後高校入学と同時に引っ越したのだ。同じ県内ではあるけれど、彼女の知らない場所へ。
 高校に入ってから中学時代の友人とは連絡を取っていなかったし、今の友人にも一度も話した事なんてない。それなのに。どうして。
「お前ん家の住所、その子に教えたらどうなるかな」
 シャツを脱がせようとした手を掴んで、光一は諦めの吐息を零した。父さんは引っ越したせいで会社が遠くなった。母さんは綺麗に手入れしていた庭を手放した。それでも守ってくれた生活を。壊したくない。
 こんな男に滅茶苦茶にされる訳にはいかない。
「此処じゃ、嫌や」
 一度もはっきり口にしない辺りが狡猾だと思う。目の前に条件をちら付かせながら選択肢は最初からなかった。結局は俺が選んで望んでいるのだ。
「手の掛かる子ぉやね。ベッドやないとあかんの。ホテル取ろか?」
 首を横に振って、参考書を鞄に詰め込む。言葉も仕草も目線も全てが優しかった。脅迫の言葉一つなく、この男の思うままになっているのが悔しい。
 荷物を纏めて、はだけた胸元を隠す様にコートを羽織った。飛んだ釦を探す気にはなれない。仕度が整うと、面白そうに目を細めていた剛を真っ直ぐ見詰めた。
「うち、ならええ、よ」
 小さくけれどはっきり告げると、いきなり剛が笑い出した。吃驚した光一は、鞄を掴んだまま身動き出来ない。
「お前、ホンマに俺のツボ嵌まるわー。最初から家に上げてもらえるんは初めてやで」
 笑いながら苦しい息の中、剛は言った。
「そんなん言われても、他にないやろ」
 何故だか不貞腐れた素振りで呟いて唇を尖らせた。その子供っぽい仕草まで自分の好みで、剛は嬉しくなった。
多分彼は潔癖で、枕が変わると眠れなくて、物を知らない。そして、誤解されやすいタイプだと思う。拗ねた表情は俯いて見えないし、言葉も足りなかった。
 本当に久々に楽しくなるかも知れないなとほくそ笑んで、彼の鞄を持ってやる事を勝手に決める。嫌がる光一の腰を抱くと、二人教室を後にした。



+++++



「ホンマのぼんぼんやってんなあ」
 部屋へ入ると、剛は愉快そうに笑った。平静を装って(剛から見れば、全然繕えていなかったが)玄関を開けた光一は、出迎えに来た母親に笑顔を向けて。「友達と勉強するから、上静かにしとってな」と言う。
 余り友人を連れて来る事がないのだろう。せっかくの機会に母親は残念そうな顔をしたが、剛に「ゆっくりして行ってね」と笑った。母親似だと分かる息子と同じ目尻の皺に親しみを覚えて、「ありがとうございます」と笑い返す。そのやり取りに息子は複雑な表情を浮かべたが、気付かない振りをした。
 二階は廊下を挟んで右側が両親の寝室、左側が光一の部屋になっている。左側は道路に面している方だった。ベランダに出て、剛はすぐ傍に立っている木の肌に触れる。
「別に、普通の家や。ぼんぼんやない」
 剛の言葉にまた不貞腐れて、光一は呟いた。その姿を振り返りながら、剛は肩に掛けたままの彼の鞄を絨毯の上に置く。
「そぉなんか。兄弟は?」
「おらん。一人っ子や」
「ふふ、せやな。そんな感じする」
 これから始まる事を忘れそうな、邪気のない笑みだった。ベッドに腰を降ろしたから、光一は扉に凭れて言葉の続きを待つ。不思議とさっきまでの痛い位の緊迫感は消えていた。
「其処、鍵掛けとき。やってる最中に入って来られたら嫌やろ」
 光一の緊張が緩んだのを見計らって響く低く深い声。どきりとして、まともに正面から剛を見詰めてしまった。舐める様な視線に心臓が痛くなる。
「恥ずかしかったら電気も消してえーよ。俺は付いてる方がええけど」
 初めてやから譲歩したるわ、と囁いて何の気負いもなく上着を脱いだ。その慣れた流れで、一気に現実感が襲って来る。
 本当にこれからこの男に抱かれるのだ。今まで抱く事は考えても抱かれる事なんて一度も想像した事がなかった。
怖い。膝が震えそうだ。怖くて、光一は言葉を発する事で恐怖に抵抗した。
「窓、開いてるの嫌や」
「外に声漏れるんも案外色っぽいんやけどなあ」
 上半身シャツ一枚になった剛は、応えて素直に窓を閉める。
「シャワー、浴びたい」
「却下。友達と勉強する言うたのに、風呂入ったら可笑しいやん」
「あ……」
「もう汗なんかかかんやろ。それに」
 不意に距離を詰めた剛は、光一のコートの前を開いて晒されたままの白い首筋に顔を埋めた。
「あっ……!」
 思わず漏れた自分の声に赤面する。
「やっぱ俺の勘に狂いはなかったな。ええ感度やわ」
 くすくすと笑って鎖骨を舐めた。嬉しそうな剛の声がすぐ近く、心臓に一番近い場所で聞こえる。
「――それに、お前の匂い割と好きやで」
 皮膚の真上で深く息を吸い込まれて、目眩した。左手が辛うじて電気のスイッチに触れる。結局部屋は暗くなったのかどうかも分からないまま、剛に良い様
にされて。視界はずっと、白い靄が掛かっていた。



+++++



 手酷い抱かれ方をした。否、その表現は当て嵌まらないかも知れない。剛の手管だけ考えれば、とても優しかった。他の人間を知らないから何とも言えないけれど、少なくとも自分はあんなに大切に他人を組み敷く事なんて出来ない。
 どう扱われても泣いてばかりの俺を宥めながら、ずっと名前を呼んでいた。その甘い声ばかり耳に残っている。優しく開かれた身体の何処にも傷は残らなかったし、身体のだるさを除けば痛みもなかった。全身に残る鬱血だけが堪らなく恥ずかしかったけれど。
 快楽ばかりが記憶に溢れて、狡いと思った。痛みだけなら恨む事も憎む事も自身を哀れむ事も出来るのに。甘い疼きばかりが身の内にあった。
 抱き合った後、剛はこれからバイトがあると言って何事もなかった様に帰って行った。持って来たお盆を母に渡して、「またお邪魔します」なんて明るい声で。呆れる程の神経だった。
 それから剛は週に一、二度家に現れる様になった。早い時間の時は玄関から、深夜になると窓から。すっかり慣れた母親は、嬉しそうに飲み物や茶菓子を常備していた。挙げ句の果てには、一緒に夕食を囲むまでになっている。
 けれど拒む事も出来ずに、光一は全てを受け入れていた。最初の日から一度も己を縛る言葉は発されなかったのに。受験勉強の手を止めては、剛に抱かれた。甘く笑って上手いやり様でキスをされると、もうどうしようもない。剛は一度も金を請求しなかったし、酷い扱いをされる事もなかった。
 唯、甘やかされるだけの。それが、光一の感覚を段々と可笑しくさせたのかも知れない。



+++++



 十二月に入ると学校もほとんど休みになり、ひたすら家で勉強する様になった。光一は自分の集中力がどんどんなくなって行くのに気付いていた。学校や図書館で勉強しても良かったのだけど、家に居る方が剛に会える。
 多目的室にはあれから一度も行かなかった。もしかしたら今でもシャツの釦が何処かに転がっているかも知れない。
 カーテンを開けて窓の外を見詰めた。気温差が激しいのだろう。曇った硝子を袖口で拭って、遠い闇に目を凝らす。剛が勝手に登録した電話番号は使えなかった。一度覚えてしまった快楽が忘れられなくなるのと同じで、連絡を取ってしまったらきっと歯止めが効かなくなる。それだけは嫌だった。
 今ではもう、身体の為に剛を求めているのか、「剛」が良いのかなんて分からない。脅迫の言葉なんて遥か彼方だ。
 深夜一時を回った頃、静かに窓の開かれる音がした。綴っていた筆記体が崩れるのも構わずに、光一は振り返る。
「お前なあ、いっつも言うてるやろ。窓閉めなさいって。ホンマ不用心なんやから」
 夜の冷気を纏ったまま慣れた仕草で部屋に入った。
「いつ襲われるか分からんで」
「お前位や、俺ん事わざわざ襲いに来る奴なんか」
 そう返すと、剛が楽しそうに口角を上げる。今日は機嫌の良い日らしい。
「なあ、手真っ赤やで」
「……ああ。今日は皿洗いしとったからな」
 深夜を回って来る時は、何らかのバイトをしてからの事が多かった。喧嘩をして傷を作ってから来たり、工事現場の警備で明け方の時や、誰かを抱いた後。
 剛以外の他人の匂いを部屋に入れるのは嫌だったけれど、辛い時や疲れた時に訪れる場所が此処だと言うのは悪い気分じゃない。冷えた手が伸ばされて、頬に触れた。
「冷たいなあ、痛いやろ」
「光一がぬくい」
 優しく微笑まれて心臓が痛くなる。最近ずっとこうだった。剛に触れられる度、心が疼く。その理由をまだ光一は知らなかった。
 痛みを振り払う為に光一は口を開く。額に口付けて冷えた腕でその華奢な体躯を抱き締めていた剛は、興味深そうに光一の言葉を聞いた。
「なあ、俺から金、取らんの」
 ずっとずっと疑問に思っていた事だ。最初に抱かれた日から、ずっと。別に自分が望んだ関係ではないけれど、実際身体は繋げている。一度だけなら彼に非を押し付ける事も出来た。自分は被害者で、辛い顔をしておけば良かった。でも今ではもう、両手の指では足りない位同じ夜を過ごしている。
 寝る事すら金に換算出来る人間なのだから、俺の部屋に来て過ごす時間分他の人間と同じ様に、それなりの代価を払うべき筈だ。
「お前が俺呼んどる訳ちゃうやろ」
 ベッドに押し倒しながら何の感慨もなく答えた。光一の中にある妙な甘えに気付けない程、剛は子供ではない。
他人と扱いが違う事に優越を見出し、もしかしたら噂は噂だけなのかも知れないと言う淡い期待。
 自覚がないからこそ可愛いと思えるが、ちょっと面倒やなと思う。他人の情に左右されたくなかった。
 だからこそ、剛は現実を教える。自分と言う人間がどう言うものなのかを。見上げる瞳は相変わらず真っ直ぐで、いたいけだった。
「やって、お前は俺が気に入ってんもん。俺、自分の気に入りには優しいねんよ」
 あっさり傷付けて、自分を教える。言葉とは裏腹に優しい口付けを落とした。お前の優越感は守ったんやからええやろ。
 金の為なら何人の人間と寝たって構わない。人を傷付ける事も自分の身を晒す事も厭わない。その先に、俺の欲しい物がある。少し翳った瞳を堪能しながら、冷えた身体を暖める為滑らかな肌に触れた。



+++++



 煙草に火を付けて、体内に毒素を取り込む。それは、ぼやけた自身の輪郭を取り戻す為の儀式の様なものだった。
光一は最初の頃匂いが残るから嫌だとごねていたのだけれど、最近はひっそり灰皿まで用意されている。灰が落ちるよりは良いから、と俯いた彼の表情は好きだった。
 この生温い部屋で、何も知らない子供から大切なきらきらした欠片を奪うのは楽しい。子供がすぐばれる嘘をつく様な不器用さは心地良かった。
やから坊ちゃんやー言うねんよ。今まで沢山の物を捨てて来たけれど、此処だけは残しておいても良いかも知れない、なんて。きっとまた呆気なく捨て去る自分を予想しながら、子供騙しみたいな事を思った。
「……剛は、何でそんなに金が欲しいん」
 体温を落ち着ける為に隣でじっと硬くなっていた光一が、ぽつりと呟く。気が付けば当たり前の様に名前を呼んでくれる様になった。いつからこんなに無防備に全てを晒すまでになったのだろう。今日は少し気分が良いから話してやろうか。
「俺ん家な、母子家庭やねん」
「……うん」
 くるりと寝返りを打って、微睡んだ瞳を向けられる。髪を梳いてやりながら言葉を続けた。
「おかんはずっと、朝も夜も働いてくれとるから、生活が出来ん訳やない。けど、生活しか出来んのよ」
「う、ん」
「お前にはきっと分からんよな。……ええんよ。光一は知らなくて良い世界や」
 悲しそうに眉を顰めた彼に言い聞かせた。お前はずっと幸福の世界の住人や。その優しさや頑さは、これまでの生活が形成して来たものだから。堂々とこれからも当たり前に生き続けてくれれば良い。
「でもな、俺には夢があんねん。やりたい事。その為に必要な事なら何だってやるわ」
 少しでも早く夢に手を伸ばす為に。一刻も早く、ほんの少しでも良いから近付きたい。剛の瞳は真剣だった。いつも軽薄な色で上手く隠しいるけれど、とても深い情熱の瞳を持っている。
遠くを見て生きている人なのだと思った。真っ直ぐ未来を見据えているその瞳に、暗さはなかった。
「金が要るんや。動き出す為の」
 真っ当なバイトは高校生では限度があるのだろう。だからと言って正当性を見出す事は出来ないけれど。少しだけ剛を知る事が出来た様な気がして、光一は穏やかな眠りに就いた。



+++++



 年が明けると、正月や誕生日だ等と言っていられない事態になった。受験に追い込まれる中、それでも思い出すのは剛の事だ。
 大晦日の夜、リビングで家族三人テレビを見ながら年越し蕎麦を食べていた。ブラウン管の向こうで鐘の鳴る音が響き、年が明けた事を知る。光一の家は、新年よりもまず息子の誕生日を祝うのが先だった。お年玉と誕生日プレゼントをもらって、お祝いの言葉を交わし合うと一時を少し回った所だ。毎年恒例の初詣へ向かう事になった。
 着替える為に部屋に戻ると、当たり前の顔で剛がベッドで寛いでいる。脳内がパニックに陥った光一を眺めながら「お誕生日おめでとう」と晴れやかに笑ったのだ。
 どうしてこの男はいつも、教えていない事を知っているのか。情報源を問い質しても「お前ん事ちゃんと見て周辺突ついたら、そんなん全部分かる」と躱されてしまった。そんな経緯も覚えていたけれど、嬉しくなってしまった光一は素直にありがとうと答える。
「お参り行くん」
「うん」
「俺も行こかな」
 神さんにお金やんのが嫌であんま行った事ないねんけど、と言った剛にすっかり絆された光一は、階下の両親に「友達と行って来る」と言い、とりあえず剛を窓から追い出した。コートを着て一階に降り一緒に行けない事を謝ろうとしたら「あの男前の子と行くんやろ。私らの事は気にせんと早よ行きなさい」と送り出されてしまった。
 初詣に友達と出掛けるなんて初めてで、光一はすっかり浮き足立っていて。迷子になるわと呆れた剛に人混みの中手を繋がれて、境内に入った。その手の温もりは、口付けられるより抱かれるよりずっと嬉しい。自分が求めていたのは、こう言う優しさなのだと思った。彼の中に潜んでいる温かいものが欲しい。
その元旦の日以来、ぱたりと剛は来なくなった。きっと受験に気を遣っているのだろうと努めて気にしない様に。二月に入り第一志望の試験よりも前に発表された第二志望の報告の為、光一は久しぶりに学校に来ていた。
職員室で担任に合否報告と第一志望の大学の話をする。第二志望の大学は模試でA判定が出ていたのに結果は不合格だった。「最近ずっと集中力が足りない」と言われ、心が重くなったのを感じる。
学校にいる時は気を付けていた筈なのに。どんなに取り繕っているつもりでも大人にはばれてしまうのだ。
 重い足取りで職員室を出ると、向こうからクラスメイトの女の子が歩いて来るのが見えた。それは剛が教室に来た日、真っ直ぐ彼の元に行った子だ。
そのまま挨拶だけして帰ろうか。何事もなかったかの様に。受験が終わればきっと。また当たり前の顔をして部屋に上がるに決まっている。何処にいるのかなんて、そんな事。
 いつしか来る事に慣れていた光一は、最初の脅迫も身体を渡した理由も朧げになっていた。唯会えないと寂しくて辛い。自分の感情の名前すら知らずに、剛を求めた。
「久しぶり。受験どう?」
 結局彼女を呼び止めた自分の弱さが嫌になる。
「私はもう決まったわ。堂本君は?」
「本命が残っとる」
「そっか、大変やね。頑張ってな」
「うん、あのさ」
「何?」
 歯切れの悪い言葉を咎める彼女の声に光一は怯んだ。きっと最初から用件が一つしかない事等気付いていたのだろう。
「剛、最近元気しとる?」
「……堂本君、知らんの」
「何が」
 光一の言葉を聞いて、彼女は優越感を称えた笑みを浮かべた。
「剛、冬休み明けてから転校したんよ」
「転校?何処に」
「何かシカゴの方の美術の学校。留学やって。……何、ホンマに知らんの?」
 光一よりも驚いた表情で問われた。そんなの知らない。だって元旦には一緒におったのに。
あの時にはもう、決まっていたと言うのか。最後のお別れもなく。
「何にも知らんのやね。堂本君、珍しく剛のお気に入りみたいやったから全部知ってる思うてたわ」
 もしかしたら一緒に連れて行くんかなあって。そう語った彼女に悪気がないのは分かるけど、心臓が痛いだけだった。
俺は別に気に入られていた訳じゃない。扱い易かったのと、何も知らない身体を開いて行く楽しみを見付けたのと。何処にも情なんてなかった。
 優しさばかり部屋中置いて行く癖に、情の欠片一つ残さずに。そう言う男だった。知っていた。唯、自分一人割り切れなかっただけだ。
「きっと落ち着いてから連絡するつもりやったんよ」
「ありがと。あいつにそんな甲斐性なさそうやけどな」
 もう会わないつもりなのだ。苦しくて苦しくて、笑ってしまった。シカゴなんて遠過ぎる。未来ばかり見ていた剛は、何一つ振り返らずに進んで行くのだろう。これからも、ずっと。
 心配そうに見詰める彼女と別れて、真っ直ぐ家に帰った。まだこれから自分には試験が残っている。彼の様に明確な未来ではないけれど、先に進む為に必要な事。そうは思っても、身体が動いてくれない。
 部屋に入ってベッドに座ると、気が抜けたのか涙が零れ落ちた。泣く理由なんて何処にもない。
剛は夢を叶える為に旅立ったのだし、彼の為に勉強の時間を割かれる事もなくなったのだ。喜ぶべきで、悲しむ理由なんて何処にも。
 どれだけ自分に言い訳しても、もう気付いていた。見過ごせない所まで来ている。どうして窓の音が気になるのか。どうして理由もなく抱かれ続けるのか。
どうして、部屋の鍵をいつも閉める様になってしまったのか。理由はたった一つで、けれどそれに向き合う勇気が持てなかった。始まりもきっかけも理由も全て飲み込まれてしまう位、剛の事が好きで。唯それだけ。
「っ……ふ……」
漏れる嗚咽を隠す為に膝を抱えた。
貴方の声でも、視線でも、触れる体温でも、匂いでも、髪の毛の一本だって構わないから。此処に置いて行って。
貴方を形作る一部をどうか、この手の中に。残して行って欲しかった。
泣くだけ泣いて、窓がもう二度と開けられる事はないのだと諦めがつくと、自分の為すべき事が見えて来た。今の自分がやりたい事をする為に、大学へ進みたい。将来なんて分からないけれど、一歩ずつ進むしかなかった。
確実に明確に、剛の様に。彼からは沢山の事を教えてもらったのだと、今更ながらに気付いて。過去を振り返る様に剛を懐かしめるまでになった。
 合格発表の日、わざわざ休みを取ってくれた父と三人で郵便物を待つ。やるべき事はやったのだから、結果は怖くなかった。母親が受け取り自分で開けた通知は、合格だった。



+++++



 卒業式の翌日、光一は一人空港のロビーにいた。今まで一人で来た事なんてないから全然分からない。手にしたチケットには、シカゴの印字があった。
合格発表の日、両親にどうしても行きたいのだと本当の理由は告げずに打ち明けて。春休みの間、入学の準備が間に合うまでの期間、シカゴに旅行する事を説得した。久しぶりに両親の過保護を知った気もする。
 ずっと貯め続けたお年玉を使って、あてのない旅に出るなんて。我ながら無謀だとは思う。本来の自分なら絶対にしない事だった。手掛かりは「シカゴ」と「美術学校」だけ。
英語も話せないから、ガイドブック片手に回る事になりそうだ。それでも探したい。会ってどうしたいのかは分からないけれど。今の自分がやりたい事を目指せば、きっと何かに辿り着く。

 結局剛を見付けられたのは、四月の半ばだった。会って驚くよりも歓迎するよりも先に家に電話入れろと言った剛はいつも通り。素直に電話をすると物凄い剣幕で叱られたけど、剛が変わってくれたからどうにか治まった。丁度土日を挟む所だったから、二日の猶予をくれて。週明けから通う事を固く約束させられた。
 久しぶりに会ったのに、と言うかこんな所まで探しに来たのに、迷惑そうにする事もなく、かと言って喜ぶ訳でもなく。まるで自分が来る事なんか最初から分かっていたかの様に、部屋に促された。
あっという間に服を脱がされベッドに押し倒されて、愛おしむ様なキスをされる。ずっと上機嫌に剛は笑っていた。嬉しさや愛おしさよりも先に戸惑いが胸を占めた光一は、翻弄されながらも眉を顰める。
 全てが計算し尽くされたかの様なエンディングだった。この結末を彼が最初から用意していたのかどうかは、今も分からない。

【了】
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