小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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一、午後四時
電話が鳴るのは、いつも決まってこの時間だった。彼の仕事が一段落する夕暮れの時、僕はたった一人部屋で彼を待つ。
東京タワーの見える自室で、彼の好きな音楽を聴いて過ごした。温められたコーヒーは、彼好みのブラックだ。いつも一緒にいられる訳ではないから、せめて。彼を待つこの時間だけは、彼の好きな物に囲まれていたかった。
電話の無機質な呼び出し音が鳴って、少し低い甘やかな声を聞く瞬間が一番の幸福だけれど、ソファに座り唯ひたすら待つだけのこの一時も好きだ。彼の事だけを考えていれば良い逢魔が時。僕は、彼の物になる。
読んでいた詩集から顔を上げて、そっと時計を見遣った。四時を少し回っている。今日は鳴らないのかも知れない。幾ら一段落すると言っても、仕事をしている人だ。
毎日電話が出来る訳ではなかった。そんな事もちゃんと理解しながら待っているのは、僕の我儘だった。
彼に初めて会ったのは、もう三年も前の事になる。母である博に連れられて行ったのが始まりだった。
青山の一等地にあるアンティーク家具のオーナーで、彼の肩書きは文字にすれば、驚く程華々しい。アンティーク家具は、夫の蒐集したコレクションだった。ほとんど趣味で出した店と言って良い。其処にひっそり溶け込む彼自身も骨董品の様だった。静けさが彼に似合う唯一の空気。
時間が置き去りにされた空間に足を踏み入れた時、自分は何を思っていただろう。博の後を付いて家具の中を歩いた僕は、まだ十八歳だった。
「准一、此処のオーナーの光一君」
呼ばれて紹介されるまで、人の気配に気付かなかった。それ位静かに佇む人。凪いだ海の穏やかさを持っていた。
「こんにちは。堂本光一です」
「……岡田、准一です」
一瞬迷って、いつも通り父の性を名乗った。博がそれ程気に留めていないのは知っている。離婚したのは子供の時の話で、彼がずっと育ててくれた。それでも、旧性を名乗り直させるのは可哀相だからと、博は結局僕の性を変えないままだ。
光一はゆっくりと見上げて、瞳を笑みの形にする。黒目が黒曜石の煌めきを纏っていた。従順な色だと他意なく思う。
「優しい顔、しとるな。お母さんの育て方が良かったんやね」
にこりと微笑まれて、戸惑ってしまった。こんな風に言われた事なんてない。
「光一君、あんまり准一困らせる事言わないでよー」
早速取材に入ったのか、店内の家具を見ていた博が遠くから声を掛ける。それすら遠くで聞きながら、僕は光一の顔をじっと見詰めていた。正確には、その表情の変化を。
陶磁器の肌にビー玉の瞳、職人が大事に形を整えたかの様なはっきりした目鼻立ち。全てが作り物じみた美しさだからだろうか。彼の顔は、決定的に変化に欠けていた。色のない表情だった。
笑っていても体温を感じさせない。その理由を知りたいと思ったのが、最初だった。先に恋に落ちたのは僕だ。
二、閉じられた世界
博の取材が終わってからも何度も足繁く光一の店へ通った。青山と言う立地が大学への通学路の途中だった事もあるけれど。彼をもっと見ていたいと思った。
表面だけをなぞれば何不自由なく暮らしている、満ち足りた生活をしている人なのに。その瞳には諦念から生まれたであろう、何処か投げ遣りな優しさと誤摩化し切れない寂しさがあった。もっと幸福に微笑んだら、綺麗やろな。まるで子供じみた単純な願望。
光一の表情の理由に思い当たったのは、彼の店に通い始めて二ヶ月が過ぎた頃だった。春の穏やかな空気は、相変わらず店内へ運ばれずにいた。
いつもと同じ、時間を止めた彼のお城の風景に、知らない人がいる。まるで当たり前の様に、彼の隣に立っていた。
余りにも静寂の中に身を置いている人だったから、すぐには思い至らない。いつも世界中で一人存在しているかの様な硬い表情を崩さないから、分からなかった。
いつも通り光一の傍に行こうとして、自分の存在を認めた彼が困惑の表情を浮かべてやっと理解したのだ。
仕立ての良いスーツを何の気負いもなく着こなし、きつくはないがはっきりと自己主張する香水の香り。他人を簡単にひれ伏せられるであろう、威厳を保った瞳の漆黒。この世で唯一、光一の隣を独占する人。
夫である堂本剛だった。彼は自分の姿を見咎めると、口許だけで笑む。手にしていた資料をテーブルに放って、愛想の良い笑い方をしてみせた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「君が、准一君やね」
「はい」
「光一から話は聞いてるよ。長野君の息子さんなんやって? いつもウチのがお世話になってます」
「いえ……」
「美大に通ってるんやよね。アンティークとかにも興味あるん? 確か、絵画やってるんやろ」
見抜かれている、と思った。光一すら気付いていない自分の身の内を、此処に通う動機を。剛の表情は崩れる事なく穏やかな笑いを浮かべていた。
それは、絶対的な権威者の笑みだった。お前の欲しい物は手に入らない、と言われている。
「君みたいな若い子が、アンティークに興味持ってくれるんは嬉しいわ。これからも時間ある時は遊びに来てな」
「はい」
「光一に話し相手が出来るんはええ事や。いっつも爺さん婆さんばっかが相手じゃ、こいつも早く老けてまうし」
子供は恐るるに足らずと言う事だろうか。親しみを込めた口調に苛立ちを覚えた。光一は、剛の言葉を黙って聞いている。
その瞳には諦念の色が強かった。夫の隣に寄り添う事を決意した、暗い目。
ああ、此処は鳥籠なのだ。
ずっと、彼の乏しい表情の理由を探していた。時間の止まった空間に一人住んでいるせいかとも思ったのだけれど。理由は、今目の前にある。
この男こそが、光一の表情を失わせている。確信だった。彼は、鳥籠の住人。小さな部屋に飼われた哀れな小鳥だ。
その日を境に、准一は自分の心の奥に仕舞い込んだ気持ちを隠さなくなった。彼が好きだと、愛しいのだと目を見る度話し掛ける度思い続ける。あんな高圧的な態度ではなく、包み込む様に。優しくしたかったから。
静かな店内で、先に手を伸ばしたのは光一の方だった。雨の夕暮れ。古い時計が示していたのは午後四時。
誰も見ていない応接室で、彼は痛みを堪えた表情で縋った。自分の心にあったのは、多分歓喜だ。もう随分と焦がれ続けていた。言葉にはしなくても、ずっと伝え続けて来た。
自分が彼を愛したかった。奪うのではなく、包み込む遣り方で。
ソファに座ったまま、優しく抱き締めてやると深く息を吐いた。安堵の息。満ち足りた生活で抜け落ちてしまった心の空洞を持て余した空虚があった。
小さく零した彼の言葉を、その声の弱さを、僕は生涯忘れる事がないだろう。
「……俺、剛に大事に集められたコレクションの一つみたいや。此処にあるのと一緒なんよ」
気丈な彼は泣く事も出来ずにいたけれど、声が震えていた。剛の愛し方に、彼は疲れている。受け止め愛そうとしても、もう。
「気持ちが離れた訳やない、嫌いになったんやない。けど……」
その先の言葉は、塞いでしまったから分からない。時間の流れを失った店内は、静けさを保ったまま。
何百年も人と共に生きて来たアンティークは、素知らぬ顔でいつまでも在り続ける。沢山の人間の感情を受け入れて来た筈の家具達は何も言わない。
犯した罪は、甘く尊かった。光一の身体は、優しさに飢えている。支配され独占され、それでも愛を保ち続けた心は崩壊寸前だったから。
全てに疲れていた光一は、覆い被さったその背中に強くしがみ付いた。
三、監視塔
午後四時七分。あの店内と同じ様に静けさを保った部屋に、電話の音が鳴り響く。受話器を耳に当て、無表情を装っているだろう彼の顔を想像するのが楽しかった。
三コール、四コール、決して慌てず受話器を手に取る。六コール目で小さく笑んだ後、もしもしと声を発した。
「准一?」
その声は、弾んでいる。三年前の無表情が嘘の様に、最近は感情を豊かに表現する声を出した。年齢には不相応の無邪気な声音。
「光一君、いっつも言ってるやろ。店ん中で掛ける電話なんやから、もうちょい気ぃ遣った方がええで」
「うん? ちゃんと分かってるって。あんな」
彼は、自分達の関係を本当に分かっているのだろうか。僕はまだ良い。学生の身分だし、ちょっとしたスキャンダルは学内に広まるとしても、其処まで多大な影響を与えないだろう。
けれど、彼は。
多くの物をその手の内に入れてしまっている。それが本当に欲した物かどうかは別にして。
「なん?」
「明日の夜、暇?」
「うん」
光一の誘いを断った事は一度もない。明日は合コンの予定が入っていた気もするけれど、自分の最優先事項はいつも決まっていた。
「良かった。ミュージカルのな、チケットがあるん。二枚。一緒行かへん?」
「うん」
「なら、明日夜六時に迎え行くわ。マンションの前まで行ってええ?」
「えーと、博はいないけど。でも、大通りんとこでええよ。光一君の車煩いんやもん。此処ら辺静かやから近所迷惑やわ」
「准一は、いっつもそれやなあ。ええやん、エンジン音位。こんな良い音聞かせてやるべきやって」
小さく溜息を吐く。彼の車好きには敵わない。あんな家具に囲まれて仕事をしているのに、彼が本当に好きなのは車だった。
「それは俺が聞くから。大通りの前やよ」
「分かった」
「じゃ、明日。楽しみにしてるわ」
「うん、じゃあな」
向こうの通話が切れるのを待ってから受話器を置く。午後四時十二分。僅かな時間。それでも一番大切な時間だ。二十四時間の中で、唯一鮮やかな瞬間だった。
窓際に立って、黄昏行く町並みを眺める。この部屋の良い所は、東京タワーが見える事だった。赤と白の建物はまだ明かりを纏ってはおらず、唯の電波塔でしかないけれど。
この東京で起こっている全ての出来事を見下ろしているあのタワーが好きだった。きっと、光一と僕の逢瀬も全て見られている。
否、見ていて欲しいのだ。僕達の犯した罪の全てを。
四、独占深度
支度を済ませて、午後六時よりも前に大通りへ出た。コートを羽織ってマフラーも手袋もしていたけれど、冬のこの時間はやはり寒い。
少し背中を丸めて、過ぎ行く車の流れを見詰めた。追う様に流れる自分の吐いた二酸化炭素が、白く広がる。
僕は、『待つ』と言う行為が好きなんだと思う。光一の事を考えている時が、一番幸福だった。
彼の表情の退廃的な美しさ、時折見せるあどけないと言って良い程の幼い仕草、黒目の煌めき、不器用な指先をそっと伸ばして触れようとする臆病。光一の柔らかな笑い声が耳の奥で蘇る。
いつもいつも崩れそうな気配を見せるけれど、彼は強い人間だった。自分に厳しく在ろうとする凛としたその背中。しっかりと前を見据えて生きている人だった。真面目に日々を過ごしている。
僕は、彼のそんな所を愛していたが、彼自身はその精神の在り方を嫌っている様だった。誠実な故に真摯に向き合おうとするが為に、最愛の人を疎んじてしまう内面矛盾。
剛を一生好きでいたいんや。自分の前で零した言葉は、彼の辛い本心だった。
遠くからでも存在を誇示する、エンジン音。時間通りにやって来るのは見慣れた高級車だった。准一の目の前で器用に車を止めて、ウインドウを開ける。
「待たせてもうたな。早よ乗り」
そう言って笑んだ口許は、いつもよりずっとリラックスしていた。彼は、運転している時が一番『生きている』と思う。
アンティークの世界に囲われている癖に、大事にしている物は最新技術を駆使したメカニック。その矛盾に、その理由に彼は果たして気付いているのかどうか。愛車の中にいても、彼は骨董のひっそりとした雰囲気を崩さない。
助手席に乗り込むと、子供みたいな顔で今夜見る舞台の話を始めた。車とミュージカル。光一が好きな物はそんなに多くない。
アンティークの家具も贅沢な食事も高層マンションの一室も、彼が好きだと言った事はなかった。極端に欲求が少ないのは、満たされた故の反動なのかも知れないけれど。
その好きな物の中に自分が羅列されるのは、ちょっと得意な気分になる。友人に言わせれば、「物と一緒のレベルじゃ低過ぎるだろ」との事だった。
ちゃんと友人の言った意味も分かっている。僕を対等な人間として見てくれているのかと言うと、ちょっと疑問な所はあったから。それでも、良かった。光一の好きな物になれる事が嬉しい。
剛は、彼の好きな物に羅列されなかった。一度その事を問うてみたけれど、曖昧な表情で「あいつは好きとか嫌いとかの次元やないから」と返される。
思うよりも手を伸ばすよりも先に、光一の隣に在る人。好きと言われる僕と、その次元にない剛と。
一体どちらが、より彼の心を占めているのだろう。
抱き寄せれば、素直に応じてくれる。柔らかいキスもしがみつく指先も抱き締める腕も、ちゃんと僕に与えられているのに。
彼は、僕に何も求めていない気がした。僕から何も奪おうとはしない。それがずっと不安だった。
剛には、素直な笑顔を見せる事は少ない。自分が見ている限り、光一は隣に彼がいるだけで緊張している様に見えた。触れるのを躊躇う仕草も俯いた項の感傷も知っている。
決して二人の間には優しい穏やかな感情は見えないのに、それでももっと深い何かを渡している様な。もしかするとそれが、二人で生きる事を決めた者同士の絆なのかも知れない。
ずっと昔に繋いだ手は、今も変わらず互いを結んでいるのだろうか。
五、好きなもの
劇場に入ると、もう彼の目は舞台にだけ向けられる。手を繋いでいなければ、何処に行ってしまうか分かったものじゃない。この人の子供らしさは一つの魅力だけれど、困った物だと静かに笑ってみた。
パンフレットを買って早々に席へ着く。いつだったか、「始まる前のそわそわした感じが好き」と言っていた。会場全部が喧噪に包まれているのに、チャイムが鳴った途端に静まるあの感じが楽しいのだと笑う。
「俺は、そぉ言うん分からんけど。でも、光一君が楽しそうなん見てるんは楽しい」
素直に告げれば、阿呆と言って頬を染めた。俺ん事なんか見とらんで、舞台集中せえや。そう釘を刺されていたけれど、始まってしまえばもう駄目だった。
舞台の華やかさより隣に座る人のきらきらした横顔の方が、僕には魅力的だ。集中しているのを良い事に、彼の左手をそっと握った。
冷たく乾いた指先。その感触が、彼の年齢をそして僕達の年齢差を意識させる。
彼には気にしていないと言うけれど、本当は嘘だ。凄く気にしている。それは、光一が年上なのが嫌だとか自分が彼と付き合っているとどう見られるんだろうとか言った怯えではない。
埋める事の出来ない年齢の差。人生の経験の差。僕はちゃんと、光一君に向き合えている?子供に接する様に、優しく甘やかして与える事だけに徹していない?
胸の奥で燻っている言葉を彼に伝えた事はなかった。けれどもしかしたら、彼は分かってくれているのかも知れない。他人に対して、繊細な神経を使う事の出来る人だった。
舞台を照らす照明が反射して、光一の顔を仄かに照らす。綺麗だと思った。僕達は、出会う事のない存在だったのだと思う。擦れ違う筈だったのに。
手を伸ばした事に後悔はない。今の状態が世間的に誉められた物じゃないとしても。その横顔を愛しいと思う気持ちだけが本物だ。
じっと見詰めている内に、舞台はクライマックスを迎えた。光一の表情に心を奪われている間に終わってしまうので、いつも連れて来られた舞台の内容はパンフレットで読んだ粗筋しか知らない。
彼が聞いたら怒るだろうから、絶対に言わないけれど。
六、白い夜
会場内に明かりが点いても、光一は暫く動かなかった。舞台の感動を引き摺ったままの潤んだ瞳。「少し動きたくないんや」と笑う穏やかな表情に反対する理由はなかったから、彼の気が済むまで座ったままいた。
短い溜息を一つ零して、やっと出ようと立ち上がる。他の客は皆とっくに出てしまった。ロビーに出て、流れ込んで来る外気が異様に冷たい事に気付く。
「さむ……」
呟いた言葉に返答をする代わりに、そっと肩を抱いた。厚着を嫌う彼は、スーツの上に羽織る物を持っていない。
「お前は、そう言うん平気で出来るんが凄い思うわ。気障なんやなあ」
嫌味でもなく、単純に思った事を口に出した言葉。近付いた距離に困惑する素振りはなく、そのまま外に面しているガラス窓の方へ歩いて行った。
見下ろせる位置にある光一の身体は、相変わらず華奢で不安になる。まともな生活をちゃんと送っているのだろうか。
それについて僕に意見されるのは嫌な様で、何も言わない事にしていた。けれど、心配位はさせて欲しい。
「准一、雪や」
「……ホンマ」
曇った窓をそっと拭って、光一が感嘆の声を上げた。つられて見上げた窓の外は、静かに雪化粧を始めている。落ちて来る雪の白さが眩しかった。
彼の項は、雪と同じ白を持っていると何となく思う。
「雪は、綺麗やね」
「うん」
「全部、全部真っ白に染めてくれたら、ええのに」
呟いた言葉に感情の起伏は見えない。それが悲しくて、肩を抱く手に力を込めた。
光一君が染めてしまいたい物は一体何なんですか?
聞いてしまうのは憚られて、言葉を飲み込む。聞いた所で、彼が自分の欲しい答えをくれるとは思えなかった。
外に出て店を探す事は諦めて、そのまま併設されているホテルのバーへ向かう。幾ら二十歳を越えたとは言え、僕位の年齢の人間が気軽に立ち入れる場所ではなかった。
敷居が高過ぎる。光一が頼むのに任せて、カウンターに少し上体を預けて座った。
「ホンマはこんなとこやなくて、もっと気軽に食べられる店とか連れてってやれたらええんやけどな」
僕の顔を覗き込んで、済まなそうに言われる。彼と会うのはいつもこんなバーやレストランのサロン、個室の喫茶室だった。
どれもこれも友人と入れる店ではない。彼の気持ちも分からないではないが、結局僕は光一と一緒にいられるのなら何処でも良かった。
余り自分との関係に罪悪感を表さない彼が、唯一見せる謝罪の色だ。自分はずっと食に興味がなかったのだと弁解する。いつも剛の誘う場所へ付いて行くだけだった。それで構わないと思って生きて来たのに。
お前と一緒にいる様になって、初めて後悔していると笑った。
「別に、俺は何処でもええんよ。光一君が気にする事一個もあらへん」
「ありがとな」
「今度、俺がエスコートしたるよ。気軽なデート」
「ええな、それ」
「映画見て、ファーストフード食べて、ウインドウショッピングして、電車に乗るん」
およそこの席に相応しくない事を提案して、二人笑い合った。ハンバーガーを食べている光一は想像出来なかったけれど、一緒ならきっと楽しい。
上質な服に包まれて、剛に連れられて来た店に行く。そんな安全圏を脱ぎ捨てて。
貴方となら、僕は何処へだって行くよ。
七、優先順位
カウンターの下で手を繋ぎ密やかな計画を立てていると、彼の携帯が震え出した。反射的に手に取った光一は、その着信に戸惑っている様だ。
一瞬の空白の後、唇を噛み締めて携帯を耳に当てると席を立った。目だけで謝る仕草。
繋いだ指先が離れて行く感触が切なかったけれど、残された手はグラスを持つ事で紛らわした。冷えた水滴が掌を滑る。
光一のあの顔は、良くない事の前触れだった。きっと、楽しい時間は終わってしまう。今日はこれから、遅くまで二人でいる予定だったのに。
磨かれた硝子は曇る事なく、外の様子を映し出している。そちらに視線を向けて、雪の舞う様子を観察した。
ひらひらと、定まらずに落ちて行く結晶。空気中の汚れを含んで、地上の汚れを隠して、それでも染まらない孤高の白。
舞い落ちる雪を掌に受けたいと思った。触れ合った瞬間すぐに溶けてしまう、儚い物。触れた手の冷たさを想像して、自嘲気味に笑みを零した。
僕は一体、何を考えているのか。考えても仕方のない事だ。
窓に目を向けていると、光一が戻って来た。硬質の表情が全てを物語ってしまう。言葉の少ない人だけれど、こんなにも雄弁に瞳が語っていた。
「どうしたの?」
「……迎えに来る、って……」
「迎え?」
「ん、仕事早く終わったんやって」
「そっか」
彼にとって、剛の存在は絶対だ。不規則な仕事に就いているせいか、一緒に過ごせる時間は極端に少ないらしい。
だからこそ僕達は会う事が出来るのだが。引き留められない事を分かっていて、それでも腕を引いた。
「准一」
「もう少し。まだ、着くには時間あるやろ」
頬を膨らませて、それでも素直に席に着く。掴んだ腕は放さず、美味しいとは思えないバーボンを大人の仕草で喉に流し込んだ。
アルコールが胸を灼く。
「聞いても、ええ?」
「うん」
「結婚して何年になるん?」
「……来年で、二十年」
「知らんかった」
驚いて真正面から見詰めると、困った仕草で視線を逸らされる。
「俺らが結婚したんは、今の准一の年の時や」
「学生結婚?」
「そう。あ、違うな。俺は社会人になっとった。剛のが一個下やねん。学生時代は、どうにか頑張れば毎日会えるやろ。でも、俺が就職してそう言う訳にもいかんくなった。剛は、それが耐えられんって」
中学も高校も大学も、剛はずっと光一の後を追って進学していた。中学と高校で別れる一年間、そんな隙間すら毎日埋めて来たのだ。
諦めずに、光一の学生時代をほとんど占領して来た。学生の頃の一年の差は大きい。社会人と大学生と言う差が出来た時、初めて埋められない溝を体験した。
そのたった一年が耐えられないなんて。
贅沢だと思う。僕が独占出来る彼は、ほんの僅かでしかないのに。光一のほとんどを我が物顔で蹂躙しておきながら。
「どうしても我慢出来んくて、とっとと就職先決めてずっと貯めて来た通帳の金額見せて、結婚しよう言われたんや」
あいつ、一生俺を食わして行く気やったんやで。冗談やないっつーの。俺はもう良い大人だったし、一つ年下の恋人に面倒を見てもらうだなんて、プライドが許さなかった。
今は結局、剛の望む形に近くなっているけれど。現状は、彼の精神状態を冷静に分析した光一が、自ら望んだものだ。
「両親説得して、一緒に暮らし始めて、毎日がままごとみたいやった」
懐かしむ色。今はもう此処にない物を慈しむ優しい目だった。腕時計を見る。時間切れだ。
「……結婚して、何が変わった?何を、得られた?」
問うと、考える仕草を見せる。伏せられた睫毛に見蕩れていれば、ゆっくり上がった瞳と出会った。
いつもの冷静さを保った黒。全てを見通す深く澄んだ彼の目が、少し怖い。
「お互いを、無条件に優先して束縛出来る特権を得た事、かな」
寂しそうに笑った光一は、掴まれたままの腕を反対に引っ張って店を出ようと促した。エレベーターで下るまでが別れを惜しむ一時だ。
僕はロビーへ、光一は駐車場へと。最後の瞬間まで繋いだ手は離さない。
「またな」
小さく呟くその言葉だけが、僕達を繋ぎ止めている気がした。
八、隠し事
どんなに遠く離れていても、彼の姿は確実に見付けられると思う。エレベーターの表示ランプが灯った瞬間、予感がして剛は車を降りた。
こと光一に関して、自分の勘が外れた事は皆無だ。予想通りの姿が現れる。細身の黒いスーツは、先日仕立ててやった物だ。良く似合っている。でも、雪が降る様な真冬の夜に上着も持たず出掛けたのは感心出来なかった。
「光一」
「……あ、お帰り」
「ただいま」
「もしかして、車で来たん?」
「ぉん。見りゃ分かるやろ」
「俺も車やで」
「知っとる。隣に止めたからな」
「帰りどぉすんの。俺、こんなとこに車置いて行くん嫌やで」
ホテルの従業員が聞いたら、確実に気分を害する台詞を平然と言い放って怒った素振りを見せる。仕事が終わって一刻も早く迎えに行こうと出て来たのに、この言い草はあんまりだ。
「俺がお前の車置いて帰った事あったか? ええよ、俺の置いてくから」
「明日、仕事は?」
「大丈夫や」
横柄な態度を取っていたのに、途端に困った表情になる。幾つになってもお前の我儘は直らんな。
無自覚の横柄を自覚した時の狼狽は、仕方ないと思える時と単純に苛立つ時があった。フロントで車のキーを預け、フレンチレストランへと入る。
席に着くと、剛は光一にメニューも見せず二人分のオーダーをした。いつもの事とは言え、准一に会った後は特に嫌な気分になる。
彼の自由さに憧れた。俺を束縛する事のない優しさが心地良い。
お前が何食べたいかなんて、顔見れば分かる。当たり前の様に何処にも傲慢さの自覚はなく、剛は言った。
俺の事を知り尽くしている事に間違いはない。でもな、剛。本当は食べたい物なんかない。
もうずっと、欲しい物なんかないんやよ。
運ばれて来る料理に少しだけ手を付けて、後は静かにワインを飲んでいた。
「今日、誰と見に行ったん?」
彼の言葉はいつも唐突で、その代わりいつも的を得ていた。メインのステーキを口に入れながら、探る視線を見せる。
「友達や」
「友達? お前の友達でミュージカル好きな奴なんか知らんけどな」
確信的だった。
剛の知らん友達だっている。そう言ってしまえば良いのだろうけど、彼の目はそんな答えを求めてはいなかった。視線を逸らさずに、正面からそれを受け止める。
「……ま、ええわ。その友達、こんな雪ん中帰して良かったんか? お前の車で来たんやろ。帰り困ったんちゃうん?」
「大丈夫や、タクシー呼んだし」
「別に俺は一緒に食べたって良かったんやで」
嘘吐き。口には出さず、でも真っ直ぐ睨んで思った。
二人で過ごす時間に他人が割り込むと、あからさまに嫌な顔をする癖に。例え今日一緒にいたのが准一じゃなくても、同じ事をしただろう。剛は満足そうに光一の視線を受け止めると、優しく笑んだ。
「ほら、ちゃんと食べ。お前、夕飯まだやろ?」
「うん」
「……帰した友達が気になるんか」
「そんなんじゃ」
「光一」
鋭く呼ばれて、危うくナイフを落としそうになる。床に落とす事はなかったけれど、焦った瞬間食器に触れて嫌な音を立てた。
「……なに」
「お前は最近、隠し事ばっかやな。何も言うてくれん」
諦めた低い声は、年月を重ねた分の深い落胆があるのに、眉を顰めた表情は学生の頃と少しも変わらない。真剣に自分を愛して、それでも愛し足りないと叫ぶ飢えた瞳。
光一の人生を傲慢に支配して来たのに、今も見せるその飢えに泣きそうになる。
じっとその悲しい瞳を見詰めていると、不意に剛の手が伸ばされた。泣きそうな気配さえ滲ませた指先が触れる。人差し指の背で頬をゆったりなぞられた。
「俺の、せいやな」
「え?」
「光一が変わってくんも、秘密を作らせるんも……」
「剛」
「ホンマは分かってるんよ。お前が思ってる事。お前が苦しんでる事。俺の掌で飼い馴らされる人間やないって。光一は閉じ込めて愛される事を受容出来る様な弱い奴ちゃう」
「つよ」
「弱いんは、俺や」
吐き出された言葉が重く圧し掛かる。俺がもう受け止め切れない事に彼は気付いていた。他人に温もりを求めて優しくされたいと願っている事も、きっと見抜かれている。
自分の身勝手さに吐き気がした。愛されるのが辛くて、これから幾らでも幸せになれる子に慰めてもらっている。
「でも、ごめんな。俺は束縛する以外に、お前を繋ぎ止める術を知らん。愛し方が分からんのや」
懺悔の言葉が、胸の深い所を抉った。彼の愛情が苦しいと悲鳴を上げる精神は、とうに限界を超えている。
もし許されるのなら、あの物静かな瞳を向ける青年の手を取って、二人何処かに逃げてしまいたかった。
けれど、誰がこんなにも愛してくれる人を捨てて行ける?今日まで二人で歩いて来た道程を今更消す事は出来ない。
俺の人生のほとんどは、彼と共にあった。きっとこれからも一緒に生きて行くのだろう。
准一に全てを委ねたい衝動と、剛を守り続けたい自負。それは、情や惰性なのかも知れないけれど。
頬に置かれた指に手を重ねて、そっと寄り添った。俺に出来る事は、それだけだ。
九、夏の約束
ゆっくりと季節は巡って行く。雪は止み桜も散り、生温い空気が肌に纏わり付く六月の半ば。
僕はいつも通り部屋で待っていた。最近電話は週に一回ある位で、デートをするのも月に一回程度だ。
どうやら家具の買い付けにヨーロッパまで行く様になったらしく、店にいない事も多かった。それでも、距離が離れた訳ではないと思っている。 会えないのは不可抗力で、光一が遠くなった訳じゃない。
見るともなしに画集を開きながらいつもの様に午後四時を待つ、六月の木曜日。先刻まで降り続いていた雨は小康状態だった。
無機質な電子音が部屋に響いたのは、午後四時丁度。珍しい事もある物だと受話器を取った。
「もしもし」
「准一?」
「他に誰も出ぇへんよ」
「ふふ、せやな。今日も家におったん?」
「うん」
「あかんよ、若い子が部屋に籠ってたりしたら」
上機嫌に近い声音で歌う様に話す。こんなに分かり易く機嫌が良いのも珍しかった。
穏やかな笑い声、舌足らずな喋り方。大体、饒舌な事自体がそうない事なのだ。
この人は、電話越しでも平気で沈黙を作ってしまう。いつもより優しい声に心奪われながら、そんな事を思った。
「なあ、再来週の土日、暇?」
「再来週? 七月の?」
「うん。一週目やね」
「ちょぉ待って……えーと、ああ。平気やで」
「外泊しても?」
「え」
聞き返さずにはいられなかった。彼の口から零れた言葉だとは思えない。
「葉山にな、別荘あるんよ」
「うん」
「剛は前の週からクライアント交えた会議詰めになるから、誰も来ぉへん」
「うん」
「やから」
「うん」
「一緒に、遊び行かへん?」
「勿論、ええよ。けど……」
「けど?」
「どしたん? 何かあったん?」
「……何もないよ」
静かに笑む気配があった。デートをしていても、日付が変わる前には僕を帰したがる人だ。
二十歳を過ぎて親である博ですら外泊に文句を付けなくなったのに。彼の中で自分は今も子供なのだと痛感させられていた。それなのに。
「ならええけど。ホントに行ってもええの?」
「来て欲しいから誘ってるんよ。あかん?」
殺し文句だと、受話器を耳に当てたまま天を仰いだ。だって、その別荘は剛の物で、いつ彼が訪れるとも知れないのに。二人一緒に過ごした部屋に、僕を入れても良いの?
「ううん。したら約束な」
「うん。電車で行こ」
「そうやね。荷物持ってお弁当買って、楽しいやろな」
「うん」
上機嫌な声に潜む違和感に気付いたけれど、その理由までは分からなかった。分かる筈もない。
彼に会ったのは、もう一ヶ月以上前の事なのだ。
また連絡するからと電話を切った光一の何処にも暗い影はない。何より一緒に泊まれると言う事が単純に嬉しくて、僕は彼の内面までは見通せなかった。
それが『子供』なのだと言う事を思い知らされるのは、もう少し先の話だ。
電話が鳴るのは、いつも決まってこの時間だった。彼の仕事が一段落する夕暮れの時、僕はたった一人部屋で彼を待つ。
東京タワーの見える自室で、彼の好きな音楽を聴いて過ごした。温められたコーヒーは、彼好みのブラックだ。いつも一緒にいられる訳ではないから、せめて。彼を待つこの時間だけは、彼の好きな物に囲まれていたかった。
電話の無機質な呼び出し音が鳴って、少し低い甘やかな声を聞く瞬間が一番の幸福だけれど、ソファに座り唯ひたすら待つだけのこの一時も好きだ。彼の事だけを考えていれば良い逢魔が時。僕は、彼の物になる。
読んでいた詩集から顔を上げて、そっと時計を見遣った。四時を少し回っている。今日は鳴らないのかも知れない。幾ら一段落すると言っても、仕事をしている人だ。
毎日電話が出来る訳ではなかった。そんな事もちゃんと理解しながら待っているのは、僕の我儘だった。
彼に初めて会ったのは、もう三年も前の事になる。母である博に連れられて行ったのが始まりだった。
青山の一等地にあるアンティーク家具のオーナーで、彼の肩書きは文字にすれば、驚く程華々しい。アンティーク家具は、夫の蒐集したコレクションだった。ほとんど趣味で出した店と言って良い。其処にひっそり溶け込む彼自身も骨董品の様だった。静けさが彼に似合う唯一の空気。
時間が置き去りにされた空間に足を踏み入れた時、自分は何を思っていただろう。博の後を付いて家具の中を歩いた僕は、まだ十八歳だった。
「准一、此処のオーナーの光一君」
呼ばれて紹介されるまで、人の気配に気付かなかった。それ位静かに佇む人。凪いだ海の穏やかさを持っていた。
「こんにちは。堂本光一です」
「……岡田、准一です」
一瞬迷って、いつも通り父の性を名乗った。博がそれ程気に留めていないのは知っている。離婚したのは子供の時の話で、彼がずっと育ててくれた。それでも、旧性を名乗り直させるのは可哀相だからと、博は結局僕の性を変えないままだ。
光一はゆっくりと見上げて、瞳を笑みの形にする。黒目が黒曜石の煌めきを纏っていた。従順な色だと他意なく思う。
「優しい顔、しとるな。お母さんの育て方が良かったんやね」
にこりと微笑まれて、戸惑ってしまった。こんな風に言われた事なんてない。
「光一君、あんまり准一困らせる事言わないでよー」
早速取材に入ったのか、店内の家具を見ていた博が遠くから声を掛ける。それすら遠くで聞きながら、僕は光一の顔をじっと見詰めていた。正確には、その表情の変化を。
陶磁器の肌にビー玉の瞳、職人が大事に形を整えたかの様なはっきりした目鼻立ち。全てが作り物じみた美しさだからだろうか。彼の顔は、決定的に変化に欠けていた。色のない表情だった。
笑っていても体温を感じさせない。その理由を知りたいと思ったのが、最初だった。先に恋に落ちたのは僕だ。
二、閉じられた世界
博の取材が終わってからも何度も足繁く光一の店へ通った。青山と言う立地が大学への通学路の途中だった事もあるけれど。彼をもっと見ていたいと思った。
表面だけをなぞれば何不自由なく暮らしている、満ち足りた生活をしている人なのに。その瞳には諦念から生まれたであろう、何処か投げ遣りな優しさと誤摩化し切れない寂しさがあった。もっと幸福に微笑んだら、綺麗やろな。まるで子供じみた単純な願望。
光一の表情の理由に思い当たったのは、彼の店に通い始めて二ヶ月が過ぎた頃だった。春の穏やかな空気は、相変わらず店内へ運ばれずにいた。
いつもと同じ、時間を止めた彼のお城の風景に、知らない人がいる。まるで当たり前の様に、彼の隣に立っていた。
余りにも静寂の中に身を置いている人だったから、すぐには思い至らない。いつも世界中で一人存在しているかの様な硬い表情を崩さないから、分からなかった。
いつも通り光一の傍に行こうとして、自分の存在を認めた彼が困惑の表情を浮かべてやっと理解したのだ。
仕立ての良いスーツを何の気負いもなく着こなし、きつくはないがはっきりと自己主張する香水の香り。他人を簡単にひれ伏せられるであろう、威厳を保った瞳の漆黒。この世で唯一、光一の隣を独占する人。
夫である堂本剛だった。彼は自分の姿を見咎めると、口許だけで笑む。手にしていた資料をテーブルに放って、愛想の良い笑い方をしてみせた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「君が、准一君やね」
「はい」
「光一から話は聞いてるよ。長野君の息子さんなんやって? いつもウチのがお世話になってます」
「いえ……」
「美大に通ってるんやよね。アンティークとかにも興味あるん? 確か、絵画やってるんやろ」
見抜かれている、と思った。光一すら気付いていない自分の身の内を、此処に通う動機を。剛の表情は崩れる事なく穏やかな笑いを浮かべていた。
それは、絶対的な権威者の笑みだった。お前の欲しい物は手に入らない、と言われている。
「君みたいな若い子が、アンティークに興味持ってくれるんは嬉しいわ。これからも時間ある時は遊びに来てな」
「はい」
「光一に話し相手が出来るんはええ事や。いっつも爺さん婆さんばっかが相手じゃ、こいつも早く老けてまうし」
子供は恐るるに足らずと言う事だろうか。親しみを込めた口調に苛立ちを覚えた。光一は、剛の言葉を黙って聞いている。
その瞳には諦念の色が強かった。夫の隣に寄り添う事を決意した、暗い目。
ああ、此処は鳥籠なのだ。
ずっと、彼の乏しい表情の理由を探していた。時間の止まった空間に一人住んでいるせいかとも思ったのだけれど。理由は、今目の前にある。
この男こそが、光一の表情を失わせている。確信だった。彼は、鳥籠の住人。小さな部屋に飼われた哀れな小鳥だ。
その日を境に、准一は自分の心の奥に仕舞い込んだ気持ちを隠さなくなった。彼が好きだと、愛しいのだと目を見る度話し掛ける度思い続ける。あんな高圧的な態度ではなく、包み込む様に。優しくしたかったから。
静かな店内で、先に手を伸ばしたのは光一の方だった。雨の夕暮れ。古い時計が示していたのは午後四時。
誰も見ていない応接室で、彼は痛みを堪えた表情で縋った。自分の心にあったのは、多分歓喜だ。もう随分と焦がれ続けていた。言葉にはしなくても、ずっと伝え続けて来た。
自分が彼を愛したかった。奪うのではなく、包み込む遣り方で。
ソファに座ったまま、優しく抱き締めてやると深く息を吐いた。安堵の息。満ち足りた生活で抜け落ちてしまった心の空洞を持て余した空虚があった。
小さく零した彼の言葉を、その声の弱さを、僕は生涯忘れる事がないだろう。
「……俺、剛に大事に集められたコレクションの一つみたいや。此処にあるのと一緒なんよ」
気丈な彼は泣く事も出来ずにいたけれど、声が震えていた。剛の愛し方に、彼は疲れている。受け止め愛そうとしても、もう。
「気持ちが離れた訳やない、嫌いになったんやない。けど……」
その先の言葉は、塞いでしまったから分からない。時間の流れを失った店内は、静けさを保ったまま。
何百年も人と共に生きて来たアンティークは、素知らぬ顔でいつまでも在り続ける。沢山の人間の感情を受け入れて来た筈の家具達は何も言わない。
犯した罪は、甘く尊かった。光一の身体は、優しさに飢えている。支配され独占され、それでも愛を保ち続けた心は崩壊寸前だったから。
全てに疲れていた光一は、覆い被さったその背中に強くしがみ付いた。
三、監視塔
午後四時七分。あの店内と同じ様に静けさを保った部屋に、電話の音が鳴り響く。受話器を耳に当て、無表情を装っているだろう彼の顔を想像するのが楽しかった。
三コール、四コール、決して慌てず受話器を手に取る。六コール目で小さく笑んだ後、もしもしと声を発した。
「准一?」
その声は、弾んでいる。三年前の無表情が嘘の様に、最近は感情を豊かに表現する声を出した。年齢には不相応の無邪気な声音。
「光一君、いっつも言ってるやろ。店ん中で掛ける電話なんやから、もうちょい気ぃ遣った方がええで」
「うん? ちゃんと分かってるって。あんな」
彼は、自分達の関係を本当に分かっているのだろうか。僕はまだ良い。学生の身分だし、ちょっとしたスキャンダルは学内に広まるとしても、其処まで多大な影響を与えないだろう。
けれど、彼は。
多くの物をその手の内に入れてしまっている。それが本当に欲した物かどうかは別にして。
「なん?」
「明日の夜、暇?」
「うん」
光一の誘いを断った事は一度もない。明日は合コンの予定が入っていた気もするけれど、自分の最優先事項はいつも決まっていた。
「良かった。ミュージカルのな、チケットがあるん。二枚。一緒行かへん?」
「うん」
「なら、明日夜六時に迎え行くわ。マンションの前まで行ってええ?」
「えーと、博はいないけど。でも、大通りんとこでええよ。光一君の車煩いんやもん。此処ら辺静かやから近所迷惑やわ」
「准一は、いっつもそれやなあ。ええやん、エンジン音位。こんな良い音聞かせてやるべきやって」
小さく溜息を吐く。彼の車好きには敵わない。あんな家具に囲まれて仕事をしているのに、彼が本当に好きなのは車だった。
「それは俺が聞くから。大通りの前やよ」
「分かった」
「じゃ、明日。楽しみにしてるわ」
「うん、じゃあな」
向こうの通話が切れるのを待ってから受話器を置く。午後四時十二分。僅かな時間。それでも一番大切な時間だ。二十四時間の中で、唯一鮮やかな瞬間だった。
窓際に立って、黄昏行く町並みを眺める。この部屋の良い所は、東京タワーが見える事だった。赤と白の建物はまだ明かりを纏ってはおらず、唯の電波塔でしかないけれど。
この東京で起こっている全ての出来事を見下ろしているあのタワーが好きだった。きっと、光一と僕の逢瀬も全て見られている。
否、見ていて欲しいのだ。僕達の犯した罪の全てを。
四、独占深度
支度を済ませて、午後六時よりも前に大通りへ出た。コートを羽織ってマフラーも手袋もしていたけれど、冬のこの時間はやはり寒い。
少し背中を丸めて、過ぎ行く車の流れを見詰めた。追う様に流れる自分の吐いた二酸化炭素が、白く広がる。
僕は、『待つ』と言う行為が好きなんだと思う。光一の事を考えている時が、一番幸福だった。
彼の表情の退廃的な美しさ、時折見せるあどけないと言って良い程の幼い仕草、黒目の煌めき、不器用な指先をそっと伸ばして触れようとする臆病。光一の柔らかな笑い声が耳の奥で蘇る。
いつもいつも崩れそうな気配を見せるけれど、彼は強い人間だった。自分に厳しく在ろうとする凛としたその背中。しっかりと前を見据えて生きている人だった。真面目に日々を過ごしている。
僕は、彼のそんな所を愛していたが、彼自身はその精神の在り方を嫌っている様だった。誠実な故に真摯に向き合おうとするが為に、最愛の人を疎んじてしまう内面矛盾。
剛を一生好きでいたいんや。自分の前で零した言葉は、彼の辛い本心だった。
遠くからでも存在を誇示する、エンジン音。時間通りにやって来るのは見慣れた高級車だった。准一の目の前で器用に車を止めて、ウインドウを開ける。
「待たせてもうたな。早よ乗り」
そう言って笑んだ口許は、いつもよりずっとリラックスしていた。彼は、運転している時が一番『生きている』と思う。
アンティークの世界に囲われている癖に、大事にしている物は最新技術を駆使したメカニック。その矛盾に、その理由に彼は果たして気付いているのかどうか。愛車の中にいても、彼は骨董のひっそりとした雰囲気を崩さない。
助手席に乗り込むと、子供みたいな顔で今夜見る舞台の話を始めた。車とミュージカル。光一が好きな物はそんなに多くない。
アンティークの家具も贅沢な食事も高層マンションの一室も、彼が好きだと言った事はなかった。極端に欲求が少ないのは、満たされた故の反動なのかも知れないけれど。
その好きな物の中に自分が羅列されるのは、ちょっと得意な気分になる。友人に言わせれば、「物と一緒のレベルじゃ低過ぎるだろ」との事だった。
ちゃんと友人の言った意味も分かっている。僕を対等な人間として見てくれているのかと言うと、ちょっと疑問な所はあったから。それでも、良かった。光一の好きな物になれる事が嬉しい。
剛は、彼の好きな物に羅列されなかった。一度その事を問うてみたけれど、曖昧な表情で「あいつは好きとか嫌いとかの次元やないから」と返される。
思うよりも手を伸ばすよりも先に、光一の隣に在る人。好きと言われる僕と、その次元にない剛と。
一体どちらが、より彼の心を占めているのだろう。
抱き寄せれば、素直に応じてくれる。柔らかいキスもしがみつく指先も抱き締める腕も、ちゃんと僕に与えられているのに。
彼は、僕に何も求めていない気がした。僕から何も奪おうとはしない。それがずっと不安だった。
剛には、素直な笑顔を見せる事は少ない。自分が見ている限り、光一は隣に彼がいるだけで緊張している様に見えた。触れるのを躊躇う仕草も俯いた項の感傷も知っている。
決して二人の間には優しい穏やかな感情は見えないのに、それでももっと深い何かを渡している様な。もしかするとそれが、二人で生きる事を決めた者同士の絆なのかも知れない。
ずっと昔に繋いだ手は、今も変わらず互いを結んでいるのだろうか。
五、好きなもの
劇場に入ると、もう彼の目は舞台にだけ向けられる。手を繋いでいなければ、何処に行ってしまうか分かったものじゃない。この人の子供らしさは一つの魅力だけれど、困った物だと静かに笑ってみた。
パンフレットを買って早々に席へ着く。いつだったか、「始まる前のそわそわした感じが好き」と言っていた。会場全部が喧噪に包まれているのに、チャイムが鳴った途端に静まるあの感じが楽しいのだと笑う。
「俺は、そぉ言うん分からんけど。でも、光一君が楽しそうなん見てるんは楽しい」
素直に告げれば、阿呆と言って頬を染めた。俺ん事なんか見とらんで、舞台集中せえや。そう釘を刺されていたけれど、始まってしまえばもう駄目だった。
舞台の華やかさより隣に座る人のきらきらした横顔の方が、僕には魅力的だ。集中しているのを良い事に、彼の左手をそっと握った。
冷たく乾いた指先。その感触が、彼の年齢をそして僕達の年齢差を意識させる。
彼には気にしていないと言うけれど、本当は嘘だ。凄く気にしている。それは、光一が年上なのが嫌だとか自分が彼と付き合っているとどう見られるんだろうとか言った怯えではない。
埋める事の出来ない年齢の差。人生の経験の差。僕はちゃんと、光一君に向き合えている?子供に接する様に、優しく甘やかして与える事だけに徹していない?
胸の奥で燻っている言葉を彼に伝えた事はなかった。けれどもしかしたら、彼は分かってくれているのかも知れない。他人に対して、繊細な神経を使う事の出来る人だった。
舞台を照らす照明が反射して、光一の顔を仄かに照らす。綺麗だと思った。僕達は、出会う事のない存在だったのだと思う。擦れ違う筈だったのに。
手を伸ばした事に後悔はない。今の状態が世間的に誉められた物じゃないとしても。その横顔を愛しいと思う気持ちだけが本物だ。
じっと見詰めている内に、舞台はクライマックスを迎えた。光一の表情に心を奪われている間に終わってしまうので、いつも連れて来られた舞台の内容はパンフレットで読んだ粗筋しか知らない。
彼が聞いたら怒るだろうから、絶対に言わないけれど。
六、白い夜
会場内に明かりが点いても、光一は暫く動かなかった。舞台の感動を引き摺ったままの潤んだ瞳。「少し動きたくないんや」と笑う穏やかな表情に反対する理由はなかったから、彼の気が済むまで座ったままいた。
短い溜息を一つ零して、やっと出ようと立ち上がる。他の客は皆とっくに出てしまった。ロビーに出て、流れ込んで来る外気が異様に冷たい事に気付く。
「さむ……」
呟いた言葉に返答をする代わりに、そっと肩を抱いた。厚着を嫌う彼は、スーツの上に羽織る物を持っていない。
「お前は、そう言うん平気で出来るんが凄い思うわ。気障なんやなあ」
嫌味でもなく、単純に思った事を口に出した言葉。近付いた距離に困惑する素振りはなく、そのまま外に面しているガラス窓の方へ歩いて行った。
見下ろせる位置にある光一の身体は、相変わらず華奢で不安になる。まともな生活をちゃんと送っているのだろうか。
それについて僕に意見されるのは嫌な様で、何も言わない事にしていた。けれど、心配位はさせて欲しい。
「准一、雪や」
「……ホンマ」
曇った窓をそっと拭って、光一が感嘆の声を上げた。つられて見上げた窓の外は、静かに雪化粧を始めている。落ちて来る雪の白さが眩しかった。
彼の項は、雪と同じ白を持っていると何となく思う。
「雪は、綺麗やね」
「うん」
「全部、全部真っ白に染めてくれたら、ええのに」
呟いた言葉に感情の起伏は見えない。それが悲しくて、肩を抱く手に力を込めた。
光一君が染めてしまいたい物は一体何なんですか?
聞いてしまうのは憚られて、言葉を飲み込む。聞いた所で、彼が自分の欲しい答えをくれるとは思えなかった。
外に出て店を探す事は諦めて、そのまま併設されているホテルのバーへ向かう。幾ら二十歳を越えたとは言え、僕位の年齢の人間が気軽に立ち入れる場所ではなかった。
敷居が高過ぎる。光一が頼むのに任せて、カウンターに少し上体を預けて座った。
「ホンマはこんなとこやなくて、もっと気軽に食べられる店とか連れてってやれたらええんやけどな」
僕の顔を覗き込んで、済まなそうに言われる。彼と会うのはいつもこんなバーやレストランのサロン、個室の喫茶室だった。
どれもこれも友人と入れる店ではない。彼の気持ちも分からないではないが、結局僕は光一と一緒にいられるのなら何処でも良かった。
余り自分との関係に罪悪感を表さない彼が、唯一見せる謝罪の色だ。自分はずっと食に興味がなかったのだと弁解する。いつも剛の誘う場所へ付いて行くだけだった。それで構わないと思って生きて来たのに。
お前と一緒にいる様になって、初めて後悔していると笑った。
「別に、俺は何処でもええんよ。光一君が気にする事一個もあらへん」
「ありがとな」
「今度、俺がエスコートしたるよ。気軽なデート」
「ええな、それ」
「映画見て、ファーストフード食べて、ウインドウショッピングして、電車に乗るん」
およそこの席に相応しくない事を提案して、二人笑い合った。ハンバーガーを食べている光一は想像出来なかったけれど、一緒ならきっと楽しい。
上質な服に包まれて、剛に連れられて来た店に行く。そんな安全圏を脱ぎ捨てて。
貴方となら、僕は何処へだって行くよ。
七、優先順位
カウンターの下で手を繋ぎ密やかな計画を立てていると、彼の携帯が震え出した。反射的に手に取った光一は、その着信に戸惑っている様だ。
一瞬の空白の後、唇を噛み締めて携帯を耳に当てると席を立った。目だけで謝る仕草。
繋いだ指先が離れて行く感触が切なかったけれど、残された手はグラスを持つ事で紛らわした。冷えた水滴が掌を滑る。
光一のあの顔は、良くない事の前触れだった。きっと、楽しい時間は終わってしまう。今日はこれから、遅くまで二人でいる予定だったのに。
磨かれた硝子は曇る事なく、外の様子を映し出している。そちらに視線を向けて、雪の舞う様子を観察した。
ひらひらと、定まらずに落ちて行く結晶。空気中の汚れを含んで、地上の汚れを隠して、それでも染まらない孤高の白。
舞い落ちる雪を掌に受けたいと思った。触れ合った瞬間すぐに溶けてしまう、儚い物。触れた手の冷たさを想像して、自嘲気味に笑みを零した。
僕は一体、何を考えているのか。考えても仕方のない事だ。
窓に目を向けていると、光一が戻って来た。硬質の表情が全てを物語ってしまう。言葉の少ない人だけれど、こんなにも雄弁に瞳が語っていた。
「どうしたの?」
「……迎えに来る、って……」
「迎え?」
「ん、仕事早く終わったんやって」
「そっか」
彼にとって、剛の存在は絶対だ。不規則な仕事に就いているせいか、一緒に過ごせる時間は極端に少ないらしい。
だからこそ僕達は会う事が出来るのだが。引き留められない事を分かっていて、それでも腕を引いた。
「准一」
「もう少し。まだ、着くには時間あるやろ」
頬を膨らませて、それでも素直に席に着く。掴んだ腕は放さず、美味しいとは思えないバーボンを大人の仕草で喉に流し込んだ。
アルコールが胸を灼く。
「聞いても、ええ?」
「うん」
「結婚して何年になるん?」
「……来年で、二十年」
「知らんかった」
驚いて真正面から見詰めると、困った仕草で視線を逸らされる。
「俺らが結婚したんは、今の准一の年の時や」
「学生結婚?」
「そう。あ、違うな。俺は社会人になっとった。剛のが一個下やねん。学生時代は、どうにか頑張れば毎日会えるやろ。でも、俺が就職してそう言う訳にもいかんくなった。剛は、それが耐えられんって」
中学も高校も大学も、剛はずっと光一の後を追って進学していた。中学と高校で別れる一年間、そんな隙間すら毎日埋めて来たのだ。
諦めずに、光一の学生時代をほとんど占領して来た。学生の頃の一年の差は大きい。社会人と大学生と言う差が出来た時、初めて埋められない溝を体験した。
そのたった一年が耐えられないなんて。
贅沢だと思う。僕が独占出来る彼は、ほんの僅かでしかないのに。光一のほとんどを我が物顔で蹂躙しておきながら。
「どうしても我慢出来んくて、とっとと就職先決めてずっと貯めて来た通帳の金額見せて、結婚しよう言われたんや」
あいつ、一生俺を食わして行く気やったんやで。冗談やないっつーの。俺はもう良い大人だったし、一つ年下の恋人に面倒を見てもらうだなんて、プライドが許さなかった。
今は結局、剛の望む形に近くなっているけれど。現状は、彼の精神状態を冷静に分析した光一が、自ら望んだものだ。
「両親説得して、一緒に暮らし始めて、毎日がままごとみたいやった」
懐かしむ色。今はもう此処にない物を慈しむ優しい目だった。腕時計を見る。時間切れだ。
「……結婚して、何が変わった?何を、得られた?」
問うと、考える仕草を見せる。伏せられた睫毛に見蕩れていれば、ゆっくり上がった瞳と出会った。
いつもの冷静さを保った黒。全てを見通す深く澄んだ彼の目が、少し怖い。
「お互いを、無条件に優先して束縛出来る特権を得た事、かな」
寂しそうに笑った光一は、掴まれたままの腕を反対に引っ張って店を出ようと促した。エレベーターで下るまでが別れを惜しむ一時だ。
僕はロビーへ、光一は駐車場へと。最後の瞬間まで繋いだ手は離さない。
「またな」
小さく呟くその言葉だけが、僕達を繋ぎ止めている気がした。
八、隠し事
どんなに遠く離れていても、彼の姿は確実に見付けられると思う。エレベーターの表示ランプが灯った瞬間、予感がして剛は車を降りた。
こと光一に関して、自分の勘が外れた事は皆無だ。予想通りの姿が現れる。細身の黒いスーツは、先日仕立ててやった物だ。良く似合っている。でも、雪が降る様な真冬の夜に上着も持たず出掛けたのは感心出来なかった。
「光一」
「……あ、お帰り」
「ただいま」
「もしかして、車で来たん?」
「ぉん。見りゃ分かるやろ」
「俺も車やで」
「知っとる。隣に止めたからな」
「帰りどぉすんの。俺、こんなとこに車置いて行くん嫌やで」
ホテルの従業員が聞いたら、確実に気分を害する台詞を平然と言い放って怒った素振りを見せる。仕事が終わって一刻も早く迎えに行こうと出て来たのに、この言い草はあんまりだ。
「俺がお前の車置いて帰った事あったか? ええよ、俺の置いてくから」
「明日、仕事は?」
「大丈夫や」
横柄な態度を取っていたのに、途端に困った表情になる。幾つになってもお前の我儘は直らんな。
無自覚の横柄を自覚した時の狼狽は、仕方ないと思える時と単純に苛立つ時があった。フロントで車のキーを預け、フレンチレストランへと入る。
席に着くと、剛は光一にメニューも見せず二人分のオーダーをした。いつもの事とは言え、准一に会った後は特に嫌な気分になる。
彼の自由さに憧れた。俺を束縛する事のない優しさが心地良い。
お前が何食べたいかなんて、顔見れば分かる。当たり前の様に何処にも傲慢さの自覚はなく、剛は言った。
俺の事を知り尽くしている事に間違いはない。でもな、剛。本当は食べたい物なんかない。
もうずっと、欲しい物なんかないんやよ。
運ばれて来る料理に少しだけ手を付けて、後は静かにワインを飲んでいた。
「今日、誰と見に行ったん?」
彼の言葉はいつも唐突で、その代わりいつも的を得ていた。メインのステーキを口に入れながら、探る視線を見せる。
「友達や」
「友達? お前の友達でミュージカル好きな奴なんか知らんけどな」
確信的だった。
剛の知らん友達だっている。そう言ってしまえば良いのだろうけど、彼の目はそんな答えを求めてはいなかった。視線を逸らさずに、正面からそれを受け止める。
「……ま、ええわ。その友達、こんな雪ん中帰して良かったんか? お前の車で来たんやろ。帰り困ったんちゃうん?」
「大丈夫や、タクシー呼んだし」
「別に俺は一緒に食べたって良かったんやで」
嘘吐き。口には出さず、でも真っ直ぐ睨んで思った。
二人で過ごす時間に他人が割り込むと、あからさまに嫌な顔をする癖に。例え今日一緒にいたのが准一じゃなくても、同じ事をしただろう。剛は満足そうに光一の視線を受け止めると、優しく笑んだ。
「ほら、ちゃんと食べ。お前、夕飯まだやろ?」
「うん」
「……帰した友達が気になるんか」
「そんなんじゃ」
「光一」
鋭く呼ばれて、危うくナイフを落としそうになる。床に落とす事はなかったけれど、焦った瞬間食器に触れて嫌な音を立てた。
「……なに」
「お前は最近、隠し事ばっかやな。何も言うてくれん」
諦めた低い声は、年月を重ねた分の深い落胆があるのに、眉を顰めた表情は学生の頃と少しも変わらない。真剣に自分を愛して、それでも愛し足りないと叫ぶ飢えた瞳。
光一の人生を傲慢に支配して来たのに、今も見せるその飢えに泣きそうになる。
じっとその悲しい瞳を見詰めていると、不意に剛の手が伸ばされた。泣きそうな気配さえ滲ませた指先が触れる。人差し指の背で頬をゆったりなぞられた。
「俺の、せいやな」
「え?」
「光一が変わってくんも、秘密を作らせるんも……」
「剛」
「ホンマは分かってるんよ。お前が思ってる事。お前が苦しんでる事。俺の掌で飼い馴らされる人間やないって。光一は閉じ込めて愛される事を受容出来る様な弱い奴ちゃう」
「つよ」
「弱いんは、俺や」
吐き出された言葉が重く圧し掛かる。俺がもう受け止め切れない事に彼は気付いていた。他人に温もりを求めて優しくされたいと願っている事も、きっと見抜かれている。
自分の身勝手さに吐き気がした。愛されるのが辛くて、これから幾らでも幸せになれる子に慰めてもらっている。
「でも、ごめんな。俺は束縛する以外に、お前を繋ぎ止める術を知らん。愛し方が分からんのや」
懺悔の言葉が、胸の深い所を抉った。彼の愛情が苦しいと悲鳴を上げる精神は、とうに限界を超えている。
もし許されるのなら、あの物静かな瞳を向ける青年の手を取って、二人何処かに逃げてしまいたかった。
けれど、誰がこんなにも愛してくれる人を捨てて行ける?今日まで二人で歩いて来た道程を今更消す事は出来ない。
俺の人生のほとんどは、彼と共にあった。きっとこれからも一緒に生きて行くのだろう。
准一に全てを委ねたい衝動と、剛を守り続けたい自負。それは、情や惰性なのかも知れないけれど。
頬に置かれた指に手を重ねて、そっと寄り添った。俺に出来る事は、それだけだ。
九、夏の約束
ゆっくりと季節は巡って行く。雪は止み桜も散り、生温い空気が肌に纏わり付く六月の半ば。
僕はいつも通り部屋で待っていた。最近電話は週に一回ある位で、デートをするのも月に一回程度だ。
どうやら家具の買い付けにヨーロッパまで行く様になったらしく、店にいない事も多かった。それでも、距離が離れた訳ではないと思っている。 会えないのは不可抗力で、光一が遠くなった訳じゃない。
見るともなしに画集を開きながらいつもの様に午後四時を待つ、六月の木曜日。先刻まで降り続いていた雨は小康状態だった。
無機質な電子音が部屋に響いたのは、午後四時丁度。珍しい事もある物だと受話器を取った。
「もしもし」
「准一?」
「他に誰も出ぇへんよ」
「ふふ、せやな。今日も家におったん?」
「うん」
「あかんよ、若い子が部屋に籠ってたりしたら」
上機嫌に近い声音で歌う様に話す。こんなに分かり易く機嫌が良いのも珍しかった。
穏やかな笑い声、舌足らずな喋り方。大体、饒舌な事自体がそうない事なのだ。
この人は、電話越しでも平気で沈黙を作ってしまう。いつもより優しい声に心奪われながら、そんな事を思った。
「なあ、再来週の土日、暇?」
「再来週? 七月の?」
「うん。一週目やね」
「ちょぉ待って……えーと、ああ。平気やで」
「外泊しても?」
「え」
聞き返さずにはいられなかった。彼の口から零れた言葉だとは思えない。
「葉山にな、別荘あるんよ」
「うん」
「剛は前の週からクライアント交えた会議詰めになるから、誰も来ぉへん」
「うん」
「やから」
「うん」
「一緒に、遊び行かへん?」
「勿論、ええよ。けど……」
「けど?」
「どしたん? 何かあったん?」
「……何もないよ」
静かに笑む気配があった。デートをしていても、日付が変わる前には僕を帰したがる人だ。
二十歳を過ぎて親である博ですら外泊に文句を付けなくなったのに。彼の中で自分は今も子供なのだと痛感させられていた。それなのに。
「ならええけど。ホントに行ってもええの?」
「来て欲しいから誘ってるんよ。あかん?」
殺し文句だと、受話器を耳に当てたまま天を仰いだ。だって、その別荘は剛の物で、いつ彼が訪れるとも知れないのに。二人一緒に過ごした部屋に、僕を入れても良いの?
「ううん。したら約束な」
「うん。電車で行こ」
「そうやね。荷物持ってお弁当買って、楽しいやろな」
「うん」
上機嫌な声に潜む違和感に気付いたけれど、その理由までは分からなかった。分かる筈もない。
彼に会ったのは、もう一ヶ月以上前の事なのだ。
また連絡するからと電話を切った光一の何処にも暗い影はない。何より一緒に泊まれると言う事が単純に嬉しくて、僕は彼の内面までは見通せなかった。
それが『子供』なのだと言う事を思い知らされるのは、もう少し先の話だ。
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