小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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剛は深海での呼吸を覚えてしまった。
苦しみ抜いた彼が見つけたのは、光一が決して辿り着けない場所だった。
+++++
剛の部屋のソファで俯せになっている光一は静かに溜息を吐く。この場所に足を踏み入れた瞬間から手持ち無沙汰だった彼の、感情を読み取り辛い瞳の先には、ギターを抱えたいつも通りのスタイルで構成表にカラフルなペンで書き込みをしている相方の姿があった。仕事を終えて真っ直ぐ此処に帰ってから、一度もまともにこちらを向いてくれない。
いつもの事と諦めて最初の内はケンシロウと遊んだり熱帯魚に餌をやったりしていたのだが、遊び疲れたケンシロウは眠ってしまい熱帯魚にも早々に飽きてしまった。結局一人のままの光一は見詰める事以外、本当に何もする事がなくなってしまったのである。
時間は既に深夜へと足を踏み入れていた。剛は手許から視線を上げない。
此処は決して俺の立ち入る事の出来ない領域だった。支える事も見守る事さえさせて貰えずにいる。俺は、剛の音楽に必要ない存在だった。
一人で闘っている彼の傍に光一の姿はない。それは覆される事のない現実だった。
こうして彼は俺を置いて行く。心に積もった痛みは、見過ごせない所まで来ていた。剛の与える物ならこの痛みすら愛しいと思うけれど。自分の存在を排除された場所に留まるのは苦痛だった。
ソロコンサートの事にだけ集中している剛は前向きだ。苦しさは変わらないのかも知れないけれど、その瞳はきちんと未来を見詰めていた。
長時間コンタクトをしているせいで霞んで来た視界に映る剛の横顔は「独り」だった。誰の手も要らないと、光一の手は必要ないとはね除けられる。
苦しかった。彼が指先をほんの少しでも伸ばしてくれたら、自分は何があっても何を捨てても助けに行くけれど、今の剛は縋る手を求めてはいない。繊細な指先でアコースティックギターから音が紡ぎ出された。余りにも馴染んだ彼の音楽に目を閉じる。
そのメロディーが穏やかな程、自分は苦しくなるばかりだ。爪弾かれる音の軽やかさが怖かった。
乾いた瞳をゆっくりと開けてその手許に視線を向ける。彩られた指先が信じられない程優しく弦を弾いた。
剛は、ずっと愛の歌を歌っているのに、俺達の間にもう愛はない。視界を遮る長い前髪を払って、きちんと彼の存在を確かめた。眠りに落ちそうな頭の中で甘い言葉を零す。
あまいこいをうたうつよしはすき。
ギターをひいているつよしはきれい。
彼にはずっとずっと歌い続けて欲しい。眠りに落ちる為に目を閉じて剛を消した。その歌が自分の為じゃなくなっても甘い音色は心地良く身体に染み込んで行く。
剛は深海に住処を見つけてしまったから。眠りに引き摺られる頭で思う。
二人だけに照らされたスポットライト、見詰める無数の瞳、空気が割れそうな程の歓声。真っ暗な会場は暗い海の底だった。其処で苦しんでいたのは彼だったのに。息が出来ないともがき手を伸ばして助けを求めていた。その手を掴んだのは確かに自分だったと。
今更そんな事を大切な思い出の様に反芻しても仕方なかった。色鮮やかに塗られた指先は、もう縋らない。
優しいメロディー、厳しい眼差し、知らない恋を歌う甘い声、そして触れる事のない体温。こんなに近くにいるのに、剛は遠かった。
俺は、深海で呼吸する術を知らない。それは一緒にいられないと言う事と同義だった。
+++++
光一の寝息が聞こえ始めてからそろそろ一時間になる。壁に掛けられた時計は午前三時を示していた。抱えていたギターをゆっくり降ろして、ソファの方を振り返る。其処には余りにも無防備な寝顔があって、剛はつい笑みを零してしまった。
まだ、お前の事でちゃんと笑える俺がおるんやな。他人事のように思って、それから光一へと近付いた。彼を遠ざけている自覚は勿論ある。それがこの人を傷付けているという事も。
優しい人、俺を愛してくれる人。俺の事には吃驚する位勘の良い人だから、きっととっくに気付いてるんやろうな。
もう、俺が光一を必要としていない事に。
目覚めそうにない事を確認してから嘘みたいに軽い身体を抱き上げた。スケジュールが緩くなっても一向に戻らない体重に眉を顰める。いつか本当に背中から羽根が生えて飛んで行きそうだと思った。俺の見通せない遠い空の彼方へと。
一人で眠るには広過ぎるベッドへと光一を降ろす。昔は狭いベッドで二人手を繋いで眠ったのに。幼い記憶は甘美な陶酔を伴って、脳内で幾度となく再生される。そんな日が帰って来ない事はお互い分かり過ぎる程気付いていた。
眠り易い体勢を取らせて毛布を掛けると、枕元に腰を降ろす。サイドランプの温かな光に照らされた表情は寂し気だった。起きている時には絶対こんな顔せえへんのにな。柔らかな髪に指を滑らせて、そっと頬を撫でる。深い眠りに落ちているのか、目覚める気配はなかった。
夢でも見ているのだろう。仄かに光一が口許だけで笑む。その方が良い。夢の中でなら、夢の中の俺ならきっと優しく出来るだろうから。
そのまま指先を下ろして柔らかな唇に触れた。どうしてこの人が必要じゃないんだろう。どうして俺は独りじゃなきゃ駄目なんだろう。自分はこんなにも傲慢に生きようとしている。その事を光一が許してくれるから、諦めたように笑うから、俺は深く深く自意識の底へ沈んで行ってしまう。暗い海の様な場所へと。
思えば、苦しくて苦しくて死にそうだったあの時期が一番幸福だったのかも知れない。光一に手を引かれて抱き締められて、守られながら生きていたあの頃が恋だったのだと思う。
今度は彼の手を引きたいと思った訳じゃなかった。自分はもっと身勝手な理由で光一を突き放そうとしている。一番酷いやり方で離れて行こうと。
触れていた指先をそっと離す。その手を握り締めた、強く。
光一は、俺にとって空だった。
見上げればいつも其処にあって、優しく見守ってくれる。そして、その空と共生している鳥でもあった。決して掴まらない、誰の物にもならない真っ白な翼で俺を導いてくれた。
必要だったのに。彼だけが全てだった。貴方への思いだけを歌って来たのに。今では、全部が過去になろうとしている。俺が生きて行く為に光一は必要なかった。俺達が一緒にいる必然なんて、存在しないのだ。
握り締めた拳をもう片方の掌で包んだ。もう、触れ方も分からない。そう遠くない未来に俺は一人で歩き始めるだろう。一人で生きて行く為の準備はほとんど整っていた。その瞬間が訪れても、光一は曖昧に笑ったまま頷くのだと思う。
俺達のこの時間は必然だったけれど、運命ではなかった。だから、一生を共に歩む事は出来ない。
サイドランプを消すと寝室を闇が浸食して行く。それに身を委ねたまま、手探りでもう一度光一に触れた。冷えた項をそっと撫でる。
この肌もこの髪もこの唇も、繰り返される吐息さえ。剛の物だと彼は言うのに。
俺は、要らないんや。お前の何一つ必要としていない。
それでも。
信じてもらえないだろうけど。
「……愛してるんや」
今でも。
愛を誓う事もその手を取る事も出来ないけれど。俺が愛するのは光一だけや。それが身勝手な戯れ言だとは知っていた。光一に届かない事も。
それで良い。彼に幸福を与える事は自分には出来ないから。
指先を離して、ベッドから立ち上がる。「お休み」とは言えないまま扉を閉めた。優しい言葉を掛ける自信はもう何処にもない。
不意に心臓の近くで音が生まれる。光一に触れた方の手で胸の辺りを押さえた。零れる音色は、きっと彼への歌だと思う。
彼の為だけに奏でられる最期の。
ソファの横に置かれたギターが俺を呼ぶ。自分に必要なのはこれだけだった。光一、お前も気付いているんやろうけど、俺達は最初から住む場所が違ったんよ。それは出会う前から決められていた事やから仕方ないねん。
俺は海の底に、光一は空の彼方に。
水平線でどれ程似た碧に染まっても、決して一緒にはなれない。例え、其処に愛があったとしても。
ギターを手に取って弦を弾く。零れるのは恋の歌ばかりだった。
光一があの部屋で目覚めても幸福な朝は訪れない。愛を、少しでも渡せたら良かったのに。
空と海は近い場所に存在するように見えて、何処まで行っても交わる事がない。
苦しみ抜いた彼が見つけたのは、光一が決して辿り着けない場所だった。
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剛の部屋のソファで俯せになっている光一は静かに溜息を吐く。この場所に足を踏み入れた瞬間から手持ち無沙汰だった彼の、感情を読み取り辛い瞳の先には、ギターを抱えたいつも通りのスタイルで構成表にカラフルなペンで書き込みをしている相方の姿があった。仕事を終えて真っ直ぐ此処に帰ってから、一度もまともにこちらを向いてくれない。
いつもの事と諦めて最初の内はケンシロウと遊んだり熱帯魚に餌をやったりしていたのだが、遊び疲れたケンシロウは眠ってしまい熱帯魚にも早々に飽きてしまった。結局一人のままの光一は見詰める事以外、本当に何もする事がなくなってしまったのである。
時間は既に深夜へと足を踏み入れていた。剛は手許から視線を上げない。
此処は決して俺の立ち入る事の出来ない領域だった。支える事も見守る事さえさせて貰えずにいる。俺は、剛の音楽に必要ない存在だった。
一人で闘っている彼の傍に光一の姿はない。それは覆される事のない現実だった。
こうして彼は俺を置いて行く。心に積もった痛みは、見過ごせない所まで来ていた。剛の与える物ならこの痛みすら愛しいと思うけれど。自分の存在を排除された場所に留まるのは苦痛だった。
ソロコンサートの事にだけ集中している剛は前向きだ。苦しさは変わらないのかも知れないけれど、その瞳はきちんと未来を見詰めていた。
長時間コンタクトをしているせいで霞んで来た視界に映る剛の横顔は「独り」だった。誰の手も要らないと、光一の手は必要ないとはね除けられる。
苦しかった。彼が指先をほんの少しでも伸ばしてくれたら、自分は何があっても何を捨てても助けに行くけれど、今の剛は縋る手を求めてはいない。繊細な指先でアコースティックギターから音が紡ぎ出された。余りにも馴染んだ彼の音楽に目を閉じる。
そのメロディーが穏やかな程、自分は苦しくなるばかりだ。爪弾かれる音の軽やかさが怖かった。
乾いた瞳をゆっくりと開けてその手許に視線を向ける。彩られた指先が信じられない程優しく弦を弾いた。
剛は、ずっと愛の歌を歌っているのに、俺達の間にもう愛はない。視界を遮る長い前髪を払って、きちんと彼の存在を確かめた。眠りに落ちそうな頭の中で甘い言葉を零す。
あまいこいをうたうつよしはすき。
ギターをひいているつよしはきれい。
彼にはずっとずっと歌い続けて欲しい。眠りに落ちる為に目を閉じて剛を消した。その歌が自分の為じゃなくなっても甘い音色は心地良く身体に染み込んで行く。
剛は深海に住処を見つけてしまったから。眠りに引き摺られる頭で思う。
二人だけに照らされたスポットライト、見詰める無数の瞳、空気が割れそうな程の歓声。真っ暗な会場は暗い海の底だった。其処で苦しんでいたのは彼だったのに。息が出来ないともがき手を伸ばして助けを求めていた。その手を掴んだのは確かに自分だったと。
今更そんな事を大切な思い出の様に反芻しても仕方なかった。色鮮やかに塗られた指先は、もう縋らない。
優しいメロディー、厳しい眼差し、知らない恋を歌う甘い声、そして触れる事のない体温。こんなに近くにいるのに、剛は遠かった。
俺は、深海で呼吸する術を知らない。それは一緒にいられないと言う事と同義だった。
+++++
光一の寝息が聞こえ始めてからそろそろ一時間になる。壁に掛けられた時計は午前三時を示していた。抱えていたギターをゆっくり降ろして、ソファの方を振り返る。其処には余りにも無防備な寝顔があって、剛はつい笑みを零してしまった。
まだ、お前の事でちゃんと笑える俺がおるんやな。他人事のように思って、それから光一へと近付いた。彼を遠ざけている自覚は勿論ある。それがこの人を傷付けているという事も。
優しい人、俺を愛してくれる人。俺の事には吃驚する位勘の良い人だから、きっととっくに気付いてるんやろうな。
もう、俺が光一を必要としていない事に。
目覚めそうにない事を確認してから嘘みたいに軽い身体を抱き上げた。スケジュールが緩くなっても一向に戻らない体重に眉を顰める。いつか本当に背中から羽根が生えて飛んで行きそうだと思った。俺の見通せない遠い空の彼方へと。
一人で眠るには広過ぎるベッドへと光一を降ろす。昔は狭いベッドで二人手を繋いで眠ったのに。幼い記憶は甘美な陶酔を伴って、脳内で幾度となく再生される。そんな日が帰って来ない事はお互い分かり過ぎる程気付いていた。
眠り易い体勢を取らせて毛布を掛けると、枕元に腰を降ろす。サイドランプの温かな光に照らされた表情は寂し気だった。起きている時には絶対こんな顔せえへんのにな。柔らかな髪に指を滑らせて、そっと頬を撫でる。深い眠りに落ちているのか、目覚める気配はなかった。
夢でも見ているのだろう。仄かに光一が口許だけで笑む。その方が良い。夢の中でなら、夢の中の俺ならきっと優しく出来るだろうから。
そのまま指先を下ろして柔らかな唇に触れた。どうしてこの人が必要じゃないんだろう。どうして俺は独りじゃなきゃ駄目なんだろう。自分はこんなにも傲慢に生きようとしている。その事を光一が許してくれるから、諦めたように笑うから、俺は深く深く自意識の底へ沈んで行ってしまう。暗い海の様な場所へと。
思えば、苦しくて苦しくて死にそうだったあの時期が一番幸福だったのかも知れない。光一に手を引かれて抱き締められて、守られながら生きていたあの頃が恋だったのだと思う。
今度は彼の手を引きたいと思った訳じゃなかった。自分はもっと身勝手な理由で光一を突き放そうとしている。一番酷いやり方で離れて行こうと。
触れていた指先をそっと離す。その手を握り締めた、強く。
光一は、俺にとって空だった。
見上げればいつも其処にあって、優しく見守ってくれる。そして、その空と共生している鳥でもあった。決して掴まらない、誰の物にもならない真っ白な翼で俺を導いてくれた。
必要だったのに。彼だけが全てだった。貴方への思いだけを歌って来たのに。今では、全部が過去になろうとしている。俺が生きて行く為に光一は必要なかった。俺達が一緒にいる必然なんて、存在しないのだ。
握り締めた拳をもう片方の掌で包んだ。もう、触れ方も分からない。そう遠くない未来に俺は一人で歩き始めるだろう。一人で生きて行く為の準備はほとんど整っていた。その瞬間が訪れても、光一は曖昧に笑ったまま頷くのだと思う。
俺達のこの時間は必然だったけれど、運命ではなかった。だから、一生を共に歩む事は出来ない。
サイドランプを消すと寝室を闇が浸食して行く。それに身を委ねたまま、手探りでもう一度光一に触れた。冷えた項をそっと撫でる。
この肌もこの髪もこの唇も、繰り返される吐息さえ。剛の物だと彼は言うのに。
俺は、要らないんや。お前の何一つ必要としていない。
それでも。
信じてもらえないだろうけど。
「……愛してるんや」
今でも。
愛を誓う事もその手を取る事も出来ないけれど。俺が愛するのは光一だけや。それが身勝手な戯れ言だとは知っていた。光一に届かない事も。
それで良い。彼に幸福を与える事は自分には出来ないから。
指先を離して、ベッドから立ち上がる。「お休み」とは言えないまま扉を閉めた。優しい言葉を掛ける自信はもう何処にもない。
不意に心臓の近くで音が生まれる。光一に触れた方の手で胸の辺りを押さえた。零れる音色は、きっと彼への歌だと思う。
彼の為だけに奏でられる最期の。
ソファの横に置かれたギターが俺を呼ぶ。自分に必要なのはこれだけだった。光一、お前も気付いているんやろうけど、俺達は最初から住む場所が違ったんよ。それは出会う前から決められていた事やから仕方ないねん。
俺は海の底に、光一は空の彼方に。
水平線でどれ程似た碧に染まっても、決して一緒にはなれない。例え、其処に愛があったとしても。
ギターを手に取って弦を弾く。零れるのは恋の歌ばかりだった。
光一があの部屋で目覚めても幸福な朝は訪れない。愛を、少しでも渡せたら良かったのに。
空と海は近い場所に存在するように見えて、何処まで行っても交わる事がない。
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