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小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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 担任に美術部の入部を薦められたのは、十月に入ってすぐの事だ。夏休み中にリハビリをこなし、二学期を松葉杖なしで始める事は出来た。
 ぎこちないながらもきちんと歩く剛を見て、周囲の人間は安堵の息を吐いていたのだ。体育の授業は見学していたが、それでもバスケ部の友人とも話をしていたし表面上は何の問題もない様に見えた。
 けれど、担任は気付いている。剛をきちんと見ている人間には分かってしまった。その目が、笑えていない事。何をしていても空虚の色がある事。それは、崩壊の前兆だった。
 放課後職員室に呼び出され、真剣な目をして美術部の話を持ち掛けられる。後にも先にもあのいつも飄々とした担任の、熱の籠った表情は見た事がなかった。
 現実を認識させるのは辛い。出来る事なら、バスケの出来る人生を用意してやりたい。けれど、もうその未来はないのだ。
 そろそろ他の事に目を向けなさい。言葉は決して優しい物ではなかった。突き放す響きさえ伴って、剛の心を抉る。
 上手く動かない足。取り繕った笑顔。何処にも行けない自分。苦しかった。誰にも分かってもらえないと思った。苦痛は自分だけの物だと思ってしまうのは幼さ故だったけれど、その感情に嘘はない。このままでは誰にも何の救いも得られないまま駄目になってしまうだろう。
 何でも良い。バスケ以上の事なんて、今までお前の人生になかったんだから。これからまた、バスケみたいに楽しい事を見付けるのだ。長い人生なんだから、楽しめ。
 剛は、頷けなかった。右足にそっと触れる。バスケの様に、バスケよりも楽しい事。また、夢を見られるのだろうか。いつか。十三歳の自分には分からない。
 けれど、大人に不信感を抱かない素直な子供だった剛は呼び出されてから一週間後、やってみようかなと担任に返事をした。今になれば、何故美術部なのか分かる。あの担任の優しさも当時の自分よりは感じ取れていた。
 運動系の部活ではない事。怪我自体の問題もあったけれど、軽い運動を禁止されている訳ではない。それと、体育館から一番遠い場所で活動している事。バスケ部の練習を目にする度に剛が胸を痛めない様に。穏やかに日々を過ごせる様に。
 美術室へ行くと、顧問より部長より先に岡田を紹介された。絵を目指している奴。剛も存在は知っていた。一年生の中で異質な、特異な人物。
 落ち着いた物腰も秀でた頭脳も備えた運動神経も、勿論美術の才能も全て。同年代には畏怖されるべき存在だった。誰もが境界線を引いて、彼の内側に飛び込まない。本人もそれを受け入れている様に見えた。
 先入観ばかりが先行して、最初は上手く喋れなかった。こいつに面倒見てもらえば大丈夫。お前、美術の成績悪かないんだから平気だよ。言い置いて去った担任に、何であんな賢い奴に宜しくお願いすんねんと言いたくなった事もあったが、徐々に慣れるにつれ剛は岡田を好きになった。
 同年代の周囲に畏敬の念すら抱かれても全然気にしていない事。マイペースに人生を生きている事。何より、夢に冷静である事。
 最初の頃、『もし明日腕がなくなったらどうするん? 絵やめるん?』と聞いた所、至って簡単に『まだ足がある。口だって使える。此処が死なない限り、僕は描き続けるよ』。そう言って、自分の脳を指差した。本当に賢い人間なのだ。何よりも、その生き方が綿密に構築されている。
 岡田のアドバイスを得ながら、美術部で出来る色々な事に触れてみた。デッサンや粘土、油絵に陶芸。どれをやっても、どうしたら良いのか分からなくなってしまう。手が動かなくなるとか、嫌いとかそう言う事ではなかった。
 目的が、見付からないのだ。目の前にある物を唯何となく形にすれば良い訳じゃないのは分かった。岡田には、目的がある。口数の少ない友人だから本当の
所は教えてもらえないけれど、その作品からきちんと意思が伝わった。
 何をしたいのか、何の為に作られた物なのか。それがきちんと作品に織り込まれているのだ。
 自分にはない物だった。バスケは、あのゴールが目的だった。勝つ事で目的は達成された。真っ直ぐに、其処を目指せば良い。単純な原理。
 何の為にゴールを目指すかなんて、聞かれた事がない。勝つ為に、走るだけ。あの頃は、自分の場所も向かう道も見えていたのに。今はもう、何も分からない。
 結局岡田と話しながら、とりあえず自分の手に馴染む物に取り組む事にした。目の前には真っ白いキャンバス。昔から落書きをするのは好きだったから、工作よりは絵の方が向いているだろうと言われた。
 何でも良いよ、目の前にある物を描く事から始めたってええ。美術のええ所はな、何もない場所から始めても、後から目的が見付かる事や。何となくやって
みたらええんよ。意味なんか、後から考え。剛君は、頭でっかちやねえ。
 小難しい絵を描きながら剛の躊躇を難なく崩した岡田は、やっぱり凄い奴だった。人の心の襞を傷付けずに読み取って、導く言葉をくれる。
 とりあえず進んでみようと思った。いつまで此処に留まっていても過去に戻れる訳じゃないし、未来がやって来る訳でもない。それなら、自分から走るしかない。
 また走り出せば良いのだ。窓際に座って、暮れて行く太陽のオレンジを眺めながら、吹っ切れた気持ちで考える事が出来た。
 目的が見付かったのは、既に二学期の終盤だった。厳しい部活ではないから、作品に期限はない。思うまま描いて、やりたいなら出品すれば良い。そんな活動だったから、剛には良い環境だった。
 キャンバスに向かうのは、自分に向かうのと似ている。見たくもない自身の醜い内面と対峙しなければならなかった。真っ白い画面を、自分の色で染めるのだ。今の剛には辛い行為だった。
 それでも逃げようとは思わない。逃げていたら、いつまでも此処から抜け出せないから。絵を描く事は思い掛けず体力を消耗する事だと気付いて、少し楽しくなった。
 最初に出会ったのが岡田だったせいもあるけれど、美術に対して嫌な印象を持たなくて済んだのだ。辛いけれど、日々を無為に過ごすよりは良い。
 適当にキャンバスの上に色を走らせながら、色々な事を考えた。巡るのは、怪我をした瞬間の出来事。
 周囲の悲鳴、手術室で聞こえた心拍の電子音、体育館に響く音。そして、病室で交わした他愛もない言葉。大切な事は、口にしたがらない人だった。言葉の合間に呼吸の隙間で、本当を教えてくれる。優しい空気。
 僅かな時間だったけれど、夏の自分を支えてくれたのは間違いなく彼だった。リハビリもこんな事をやったあれが辛かったと話せるから、頑張ろうと思える。食事の時に一緒にいると心配されるから、必ず全部食べられた。
 退院の前日、自分の事の様に喜んでくれた彼の笑顔は忘れていない。いつでも笑っていた。笑ってくれた。彼の笑顔を見れた日は、気持ちが暖かくなる。優
しくしたくなる。不思議な魅力を持った人だった。
 学校が始まってから、先輩とは話をしていない。普通の日常が始まると、お互いの距離を痛感した。何処にも接点が見付からない。
 始業式の朝、廊下で擦れ違った瞬間、そっと笑ってくれた。二人の関係は内緒の事の様な、密やかな笑み。それだけだった。もう三ヶ月も声を聞いていない。
 このまま、話す機会も見付けられずに忘れられるのかと思うと、胸が痛かった。もう一度話したい。あの笑顔を間近で見たい。思って、自分の感情に驚いた。これは、まるで。
 その先を認めるのは、怖かった。だって、こんな感情を向けて良い相手ではない。憧れるのでも慕うのでも構わなかった。でも、違う。
 剛は、一人美術室で笑った。夏の短い時間、あんなに近くにいたのに。気付くのは、こんなにも離れてからだなんて。
 自分の感情には敏感だと思っていた。怪我のせいで少し鈍ってたんかな。三ヶ月も、同じ場所で生活をしながら。一度も触れられない。遠い人だった。
 学年が違うだけじゃない。彼の性格故だと思った。きっとあの人は、必要以上に動き回らない。移動教室の時も真っ直ぐ特別室に向かうだろうし、昼食も教室で摂るタイプだろう。放課後になったら部室に向かい、どの部よりも遅くまで練習をして帰る。その繰り返しだ。
 余計な事を省いた生活。最小限の中で楽しみを見付け、意義を見出せる人だった。あの病室への訪問が異例なのだ。話していても、いきなり知らない人間の
所へ足を踏み入れる様な積極的なタイプじゃない事は分かった。妙な親近感が生み出した奇跡なのだ。
 日常が戻った今、彼が自分の教室にわざわざ出向くとは思えなかった。教室以外で何処にいるかなんて分からないだろうし。会えないのは当たり前だった。
 この感情を認められる日が来たら、自分から会いに行けば良い。まだ、出来ない。まだ、こんな柔らかくて優しい、驚く程残酷な感情を知る事は出来なかった。怖い。自分は怖い事だらけだ。
 ふと、思い付いて立ち上がると窓際に近付いた。今まで気付かないのが不思議な位だった。会いに行く事は出来ないけれど、此処からなら多分。
 四階から見下ろすグラウンドは、少しだけ遠近感を失わせる。此処からは空を見上げていても、下を向く事なんてなかった。
 手を伸ばせば届く距離ではないけれど。白いユニフォーム。小柄な背中。見間違う筈がない。遠い場所にいる人。誰よりも甘く微笑む事を知る人は、あの部活にどれ位いるのだろう。
 キャンバスと椅子を引き寄せて、場所を調整する。迷いのない姿。真っ直ぐに夢へ向かっていた。薄暗いグラウンドで、ユニフォームが冴える。鮮やかに目に飛び込んで来た。表情までは伺い知る事が出来ない。
 それでも構わなかった。椅子に座って、彼を追い掛ける。
 不思議と、心が落ち着いた。グラウンドとキャンバスを見比べる。無意味なキャンバスの上に、意味を見出せそうな予感があった。静かに彼の背中を追い掛ける。あの夏の日と同じだった。またきっと、彼が支えてくれる。



+++++



 少し季節が進んだ十一月の終わり。剛は美術室で絵を描いていた。迷いなく、キャンバスに色を引く。
 その頃、視線の先にいる光一は早く暮れる空を恨めしげに見上げながら、後片付けをしていた。転がったボールは、もう見えない。打撃練習をしている時に、絶対にボールが遠くへ飛んだ筈だ。籠の中に入っている数を確認して、溜め息を吐いた。全然足りない。これを探し出さなければならないのか。
 他の部員は帰りたそうにそわそわと片付けていた。こんなん、一緒に探してくれんやろな。一言言葉を発すれば良い物を、いつも光一は言葉が足りなかった。
 一人になってしまうのは、ひとえに口数が少ないせいだ。皆が帰れないんは可哀想やから、こっそり探そ。
 明日からはちゃんとボールを見付けながら練習すれば良いのだから、今日の反省分位は自分がやれば良い。二年生の光一は、既に副部長だった。
 それでも、命令したり無意味に後輩を使うと言う事は出来ないタイプだ。暗い空をもう一度見上げて、ボール探しを始めた。
 部員もいなくなり静かなグラウンドで最後のボールを見付けた時には、最終下校時刻を過ぎてしまった。別に校則を厳守しようとは思わないけれど、少し悪い事をしてしまった気になる。
 教師に見付かれば、帰るまで目を離せなくなるだろうし。部室の鍵は副部長になってから持たせてもらえている。勿論その計算もあって残ったのだけれど、早く着替えて帰ろう。
 月の出た空は冬の気配を漂わせて澄んでいた。ふうと息を吐いて、空を見上げる。星が瞬いて綺麗だった。これだけの明かりがあったら、ボールの軌道は見
えるんじゃないかな。少し考えて、野球馬鹿にも程があると苦笑した。
「さ、帰ろ」
 声に出して視線を戻そうとした瞬間、視界の端にあり得ない光が入る。何で、こんな時間に?校舎の一番上の階。左の教室。何の部屋かは分からない。
 あの階は特別室しかないけれど、授業以外では足を踏み入れないから思い付かなかった。どうせ消し忘れだ。その内見回りの先生が気付いて消すだろう。
 此処から行くには遠かった。見ない振りをして帰ろうと思う。自分には関係なかった。唯、見付けてしまっただけ。わざわざ職員室に言いに行く訳にも行か
ないし。下校時刻を過ぎて校内にいる自分が為すべき事は、早く着替えて帰る事だけだ。
 無視をして部室に戻った。素早く着替える。何事もなく、そっと帰れば良いだけだ。怪談話なんて怖くはないけれど、電気を消す為だけにはリスクが大き過ぎた。
 ユニフォームを几帳面に畳んで、鞄を抱える。部室の電気を消して、きちんと鍵を掛けた。後は、そのまま校門に向かって歩けば良いだけ。
「……ああ、もぉ!」
 自分の性格にげんなりする。このままでは明かりが気になって夢にうなされそうだ。職員用の昇降口に向かう。靴を持って、階段を上った。音を立てない様に、教師に出会わない細心の注意を払いながら。
 思ったより、四階は近かった。真っ暗な廊下を迷わず進む。暗闇は怖くなかった。月明かりもある。教室の前まで来て、此処が美術室だと知った。
 明かりの漏れた扉をそっと開く。音を立てたら気付かれるかも知れなかった。新しい校舎ではないから、長い間の開閉で、少し立て付けが悪くなっている。少しずつ慎重に扉を開けた。電気を消したらすぐに帰れば良い。
 扉を開いて、そのまま電気のスイッチに手を伸ばした。鞄と靴を抱えた光一は、部屋の中に入る気等更々ない。腕だけを伸ばして、スイッチに指先を掛けた。
 その時、思い掛けない事が視界に入る。こんな時間に、生徒?本気で学校の怪談を連想しそうになって、慌てて首を振った。
 あれはどう見ても生身の人間だ。猫背の背中。窓の方を向いていて、どんな人かは分からない。こちらを向いていた所で、野球部の部員とクラスメイト位しか分からない自分では変わらなかっただろう。
 キャンバスに向かって、何か絵を描いている。それだけは分かった。画面も丁度横を向いていて、何を描いているのかは見えない。没頭して、下校時刻を忘れたのだろうか。
 文系の部活は、運動系より更に一時間終わりが早い筈だ。声を掛けようと息を吸った瞬間、光一は固まった。其処にいるのが誰なのか、分かったからだ。
「堂本……?」
 ばっと、音がしそうな勢いで振り返られる。呼んだ名前は間違っていなかった。あの夏の日よりも少し痩せただろうか。可愛らしい後輩の印象が消えていた。キャンバスに向かっていた瞳は、精悍な色すら覗かせている。
 久しぶりに会った。学校が始まってからは、どうする事も出来なくてそのまま過ごしてしまったのだ。元々接点のない後輩だったから、誰かに聞く事も出来なかった。
 元気なのだろうかと、ずっと気になって。あの不安定な表情は、消えていた。絶望を煮詰めた様な瞳も強い色に変わっている。お前は、もう乗り越えたんか。本当に?
「堂本先輩……」
 相手も驚いた表情のまま、固まっていた。教室の端と端で、動く事が出来ない。口が渇いていた。何か、言わなければ。夏の一時は、あんなにも簡単に言葉が出たのに。少しの時間が、お互いの距離を遠くしてしまったのだろうか。
「お前、下校時刻」
 過ぎてる、と言い掛けたのを遮る様に剛が笑い出した。筆を置いて、豪快に。
「な、何や。何で」
「やって、堂本先輩!久しぶりやのに、最初に言うんが下校時刻って……。ホンマおもろいわー」
「何やの、それ。過ぎてるやん。時間」
「先輩こそ、とっくに過ぎてますよ。野球部終わったの、結構前ですやん」
「ボール、探してて。てゆーか、此処が点いてたから気になって……」
「相変わらず几帳面ですねえ。放っとけば良いのに」
「夢見悪いやん」
「夢見?」
「そ、見ない振りして帰ったら、消して帰ったより気分悪いやろ」
 分かる様な分からない理屈を捏ねて、光一は唇を突き出した。久しぶりなのに、剛は変わらない。手を差し伸べるみたいな優しさを持っていた。
「やから、靴持ってるんや。こっそり入って来たんでしょ?」
「あ、うん……」
 ショルダーの鞄を下げて左手には靴、右手はスイッチに伸ばそうとした手が下ろせなくて中途半端に止まったままだ。含みを持って笑われて、自分の間抜けな格好に気付いた。
「入ったらどうです?その位置変やわ」
「でも、帰らんと」
「大丈夫です。僕八時までなら此処にいて良い事になってるんで」
「……え」
「担任が当番の時だけなんですけどね。交渉して勝ち取りました」
「絵、描く為?」
「まあ、そんなもんです。どうぞ?」
 手招きされて、仕方なく美術室に足を踏み入れる。独特の匂い。蛍光灯の明かりが届かない部屋の隅に置いてある彫像が異様な雰囲気を醸し出していた。
 こんな所で一人、剛は新しい物に向かっている。バスケの道を断たれたのに、あの暗闇からこんなにも早く立ち直れると言うのか。そんな訳ない。そんな簡単な
事じゃない筈だ。なら、どうして。
 剛の近くにあった椅子に座る。鞄と靴は足下に置いた。その間に、描き途中のキャンバスは白い布で覆われてしまう。見たかったのに。言葉には出来ず、じっと見詰めた。その視線に気付いた剛が困った素振りで笑う。
「まだ、完成してないんで。先輩にはちゃんと完成したら見てもらおうと思ってて」
「出来たら、見せてくれんの?」
「はい。描く前から決めてたから、何言われても見せませんよー」
「描く、前?」
「はい?」
「俺ん事、考えてくれたんや……」
 歓喜を滲ませた声音で呟く不意打ちに、剛の心拍は簡単に跳ね上がった。ずっと考えてました。遠くにいても貴方が支えでした。言葉にする勇気は、まだ持てな
い。
 三ヶ月ぶりの光一は相変わらずだった。はにかむ笑い方や髪の柔らかな質感、焼けない内側の白い肌。何もかも全部、病室で見た時と変わらない。
 自分のすぐ目の前に、特別な人がいた。この絵が完成したら、どうにかして光一の所に押し掛けようと思っていたのだ。勇気が出るまで、何度も何度もキャンバスに向かおうと思っていた。
 こんな、幾つも偶然が重ならなければ出会わない場所でまた会えるなんて。『運命』と言う言葉を連想し掛けて、慌てて否定する。
「堂本先……」
「なあ、堂本」
 自然な話題をと思って口を開いたのと、光一が声を発したのは同時だった。綺麗に声が重なって、お互い顔を見合わせる。一瞬の空白の後、二人で笑い合った。
「あかんわ。二人とも『堂本』やもんなあ」
「ホンマですね。……俺ん事、『剛』でええですよ」
「何か、先輩が呼び捨てするのって、偉そうやない?」
「そう言うの気にするのが堂本先輩っぽいですねー。全然平気ですよ。それより自分の名字呼ぶ方が気持ち悪いでしょ?」
「まあなあ。やったら、俺も『光一』でええで」
「幾ら何でも先輩呼び捨てにする勇気はありません」
「ひゃはは。それこそ気にせんでええやん」
 縦社会に生きている癖に、この人にはこだわりや常識と言う物が欠けている。岡田とは違うタイプだけれど、彼も確実に極度のマイペースだった。自分は、こう言う自由に生きている人に憧れるのだろうか。
「やったら、光一先輩位で」
「うん、ええよ。てゆーか、ホンマ何でもええから」
 朗らかに笑って、まるっこいイントネーションで『剛』と意味なく呼ばれた。
「はい」
「呼んでみただけや。つよしー」
 子供みたいにはしゃぐ。多分絶対に、こんな姿を知っている人は少ない筈だ。どうしてこんなに無防備なんだろう。他を寄せ付けない圧倒的な雰囲気を持っているのに。
 自分の前にいるのは、ふわふわしていて危なっかしい子供だった。今すぐ抱き締めたい位可愛い。危険な衝動だった。
「何で、絵描いてるの?」
「美術部入ったんです。俺、バスケ以外に楽しい事知らんから」
「今は?今は、楽しい?描いてて楽しいんか」
「はい、きっと。ホントはまだ良く分かんないんですけどね。俺下手やし。まだまだ手探りって感じです」
 言葉を重ねれば重ねる程、光一の瞳が悲しそうに潤んだ。どうしてそんな顔をするんだろう。俺はもう、あの頃みたいに可哀想な奴じゃないんですよ。意味
を見付けたから、また歩き出せる。一歩一歩は僅かな物でも、もう過去には戻らない。
 悲しい目をしながらそれでも聞きたそうにするから、入部した経緯や絵を描く動機をかいつまんで話した。さすがに、光一から目的を貰ったとは面と向かっては言えないけれど。
「そ、か……。ホントはずっと気にしてた。でも、教室には行き辛かったし剛ん事何も知らんから何処行ったら捕まるのかも分からんくて。ごめんな」
「別に、光一先輩が謝る事じゃないですよ」
「うん、でも。気にしてたなんて言うだけなら誰でも出来る事やん。気にしてる振りしてるだけや」
 潔癖の精神を持っている人だ。自分の正義に正直だった。ああ、好きだなあと何の躊躇もなく思う。不器用に誠実に、彼も一生懸命生きていた。
「気に掛けてくれてたん嬉しいです。俺もあん時お礼言えなくて。ありがとうございました。先輩来てくれて、凄く嬉しかった」
「俺は、そんな何もしてへん。どっちか言うたら俺の方がしてもらった位や」
 照れた様に俯いて、光一は唇を噛む。夏の時にも思った。一緒にいる瞬間、彼は自分自身を責めている素振りを見せる。
 罪悪を伴った表情は、とても綺麗だったけれど。自分の苦しいのと同じ、暗い物を纏わせた。
「夏に光一先輩に会わへんかったら、俺今でも立ち直れてなかったと思います。こんな風に絵に向かってみようなんて思わなかった。俺、夢がなくなってもうたからまた一から探さんとあかんのです」
「……うん。剛ならきっと、見付けられるで。なあ、」
 言い淀んで、光一は剛をじっと見詰める。言葉は不器用だけれど、瞳だけはいつも驚く程素直に表情を変えた。不安な色。言い難い事を口に出そうかどうか迷っている。
 ええよ。何でも言うて。傷付ける言葉でも、優しい言葉でも。貴方からなら何でも。
「此処来たら、剛に会えんの?」
「……っ」
 予想外の言葉だった。此処に来てくれるの?俺の所に、また。こんなに他人との接触に消極的な人が、自ら進んで?勘違いしそうになる。彼の『特別』になれるのではないかと。
「来たら、駄目?」
「……ぜ、全然!全っ然、いつでも大丈夫ですっ。年中無休で大歓迎です!」
 勢い込んで迫ったら、光一が僅かに背を反らせた。拒否ではないけれど、引かれたかも知れない。
「年中無休はあかんやろー。俺、放課後は毎日部活やし、そんな言う程来れる訳ちゃうけど。でも、お前に会いたくなったら此処来てもええ?」
「はい!美術室で活動してる奴なんて、そんなにいないし。あんま他のに会う事ないと思いますよ。先輩の終わる時間やったら、多分俺一人です。あ、岡田がいるかな。やから、気にせんと来て下さい」
「……俺、人見知りなんて言うたっけ?」
「見てれば、分かります」
 こんなにはっきりと、野良猫みたいに怯えた目をするのに気付かない訳がない。光一は上手く隠して生きているつもりなのだろうか。案外自分の事を分かっていない人なのかも知れない。
「よぉ見てんなあ。……これから、明かり点いてたら見に来るから」
「いつでも待ってますよ」
 まさかこんな風に距離を縮められるとは思わなかった。いつか、決心が着いたら何が何でも彼の所へ行こうと思っていた俺の心はどうしたら良いんだろう。
 キャンバスの上には、まだ僅かな色だけ。心は決まっていない。醜い内面の清算も出来ていなかった。心臓に陣取った明確な感情に名前を付ける事はまだ出来ないけれど。
 四階からの距離よりはずっと良い。彼の時間の全部が欲しい訳じゃなかった。ほんの僅かな時間を共有させて欲しい。
 日暮れの早い冬が、少し愛しくなった。彼がいる季節は、優しい。見詰める先。描く色。明確に見える様になった感情。もう、迷わない。



+++++



 夏休みになっていた。光一には中学生最後の、剛には光一と過ごせる最後の夏。野球部は勝ち進んでいた。誰よりも努力している姿を知っている剛は、少しでも長く彼の夏が続けば良いのにと願う。大会が終われば、光一の最後の夏も終わる。
 決して強くはない野球部が地区大会の決勝まで進めたのは、部長の熱意に部員が引っ張られているせいだった。光一が頑張れば頑張る程、野球部自体が強くなる。
 言葉の少ない彼の示す姿は、周囲を引き込んだ。四階からその全てを見ていた剛は、だから勝って欲しいと願う。
 明日は、決勝戦だ。それに勝てば、念願の県大会に進める。まだ、彼の夏は続く。少しでも野球と触れ合える様に、夢を見られる様に。自分には祈る事しか出来ないけれど。
 今日も遅くまで練習をするのだろうと思った。夏は日が長いから、光一は楽しそうだった。ボールが見えなくなるまで、誰よりも真摯な目で追い掛ける。そう確信していたのに。
 何故か、目の前にはその野球中毒の野球部部長が座っていた。時刻は午後六時。外はまだ明るい。
「なあ、先輩。ホンマに練習せんでええの?」
「ぉん。ずっと練習して来たんやもん。前日に焦ってする事なんか一つもない」
「でも、まだ明るいで……」
「明日に備えて早く身体を休めるのも、練習の一つ」
「やったら、部長がまず休まなあかんのやないんですか?」
「此処で休んでる!」
 美術室に来た時から、何だか光一は不安定だ。グラウンドで指示を出していた姿は、毅然としていて何処にも迷いがなかったのに。不機嫌を装って、感情が揺れるのをどうにか抑えている様に見える。
「……別に僕はええですけどね」
 わざと大袈裟に溜め息を吐いてみせる。光一が手にしている炭酸飲料の缶の表面には、飽和量を超えた水滴が纏わり付いていた。丸こい指先からそれが伝わって、手の甲へ細く筋を描く。
 綺麗だなとぼんやり思って、自分は本当に何でも良いんだと思った。この人が作り出す物、形作る物全て好きだと感じる。
 その手に触れたかった。何が不安なのか言ってくれないから分からないけれど、そっと指先から包み込んで言葉がなくても体温で伝えたい。大丈夫だと。胸に抱えた物を吐き出して欲しい訳じゃなかった。
 この人は、自分で解決出来る。それでも此処に来てくれた意味を、都合の良い様に解釈しても罰は当たらないだろう。じっと手許を見ていると、視線に気付いたのか体温で温くなった炭酸を無理矢理口に運ぼうとした。
「そんな、無理して飲まんでも」
 やんわりと遮って、唇に触れただけの缶を奪い取る。炭酸飲料は自分が買った物だ。所有権はこちらにあると胸の中で言い訳をして、ますます不機嫌に寄せられた眉間に目を遣った。こんなに分かり易い人なのに。
 結局彼は、三年間親しい友人を作ろうとしなかった。自分には都合が良いけれど、大切な試合の前日に美術室にいて良いのだろうか。誰もいない教室の片隅で、こうやって向かい合う事に疑問を抱かない光一を愛しいと思う。
「何で取るん」
「あんた、冷たいのしか飲まんでしょ。こんな温くなったん無理しなくて良いですよ」
「無理、してない」
「してます。唯でさえ試合前でナーバスなんやから、少しは素直になって下さい」
「ナーバスなんかやない」
「普段そんなんじゃないでしょう。駄々っ子みたいやなあ、もう」
 缶で濡れた指先のまま、手を伸ばす。ぽんぽんと幼い子に与える優しさで頭を撫でた。驚いた事に、その仕草が効いたらしい。大人しくなった光一に笑んで、なるべく意識して甘い声で囁いた。
「明日の試合、俺此処から見てます」
 地区大会の決勝は、此処で行われる。光一達にとっては有利だった。どうしても勝って欲しいと思う。
 ゆっくりと俯いていた顔が上がった。窓の外の夕暮れを映した瞳は、蜂蜜色に潤んでいる。それを恐れずに見詰めた。
 優しい感情が届く様に。明日の彼が誰よりも強く在る様に。
「グラウンドには降りんけど、ちゃんと応援してます。先輩が投げるとこ、見てます」
「剛……」
「はい?」
「俺、まだ終わりたくない。野球やりたい」
「そうですね。先輩は、野球してる時が一番きらきらしとる」
 光一が、怖がっていた。未来を恐れずに迎え入れる強さを持つ人が、明日に怯えている。その臆病を自分の前に晒してくれた。理由なんて知らなくても良い。俺の使命は明日の彼に勇気を渡す事だけだ。かつて自分が、彼から貰ったのと同じ強さを。
「先輩は大丈夫です。誰より練習して来たもん。他の人達やって、一緒に頑張ってたやろ?明日は勝ちます。そしたら、県大や」
「うん。決勝まで行けたんや。後は、県だけ考える」
「そうですよ。余計な事考えないで投げたらええ」
「明日で、終わりたくないんや」
「終わりません。絶対に」
 世界の終末を迎えるみたいな必死さだった。終わりたくない。終われない。負けたら引退だけど、受験が終わるまでの辛抱ではないのだろうか。
 自分の様に、人生から取り上げられる訳でもあるまいし。その瞳が怖い位ひた向きで、剛はあらぬ想像をした。
 いつかの自分と同じ、野球をこの人から取り上げたらどうなってしまうのか。考えるだけでもぞっとした。そんな日は来ない。永遠に。来る筈がない。彼の夢は、グラウンドの上にあるのだから。
「明日、見ててな。お前が見てる思うたら心強いわ」
「あんたは元々強いでしょ。全然平気や」
「……そうかな。うん、そうなる様に頑張ってみる」
「ちゃんと応援してます。だから、何も考えずに投げて下さい」
「うん」
「明日……」
「ん?」
 首を傾げるのはこの人の癖だった。その瞳から恐れが消えると、素直な印象しか残らない。簡単に手懐けられる愛玩動物の様だ。
 キャンバスを見遣る。剛は、もう自分の感情に迷っていなかった。この絵を描き始めた時には、認められなかった感情。自分の向かう道、その目的を。恐れずに認められた。
 間違っていても構わない。リスクも全部理解した上で決めた。岡田には阿呆やなあと暢気に笑われたけれど。
「明日、俺の絵完成すると思います。試合終わったら、見て貰えますか?」
「それは、勝っても負けても?」
「勝ちますよ。まあでも、負けても見て欲しいかな」
「ん、ええよ。俺も楽しみにしとったし。試合の結果は関係なしな。もし負けてても、お前慰めんなや」
「はい」
 白い布の下。本当はもう完成している。自分の感情を筆に乗せながら描き続けた。迷ったり蹲ったりしながら、それでもキャンバスの一面を埋めて行ったのだ。此処に描かれたのは、自分の感情の全てだ。
 迷ったら削って、また新しい色を足せば良い。そうして削ぎ落とした物が剛君の色やよ。彼の言葉はいつも遠回しで、その分的確だった。
 俺の色。俺がこの一年見詰めた視線の先。手の届く場所には愛しい存在が在る。まだ引き寄せる事は叶わないけれど。
 明日できっと、世界が変わる。良くなるのか悪くなるのか分からなかった。自分がもし賢い人間なら、この感情は一生胸の奥に秘めておいただろう。彼の一番近くで可愛い後輩を演じていれば良かった。
 それでも口にするのは。どう言い訳しても、結局我が強いと言う事だ。
 自分の我儘でこの人を傷付けるかも知れないのに。止まらないのは、性分だった。走れなくなっても尚、走り出したい思いがある。
 暮れて行く美術室で一緒に溶けてしまえれば良かった。そうすれば、痛みも苦しみも全部共有出来るのに。この感情すら、上手く彼の中に浸食して行ったのに。それでも別々の存在だから欲しいのだと分かっている。
 交わるのは、長く伸びる二人の影だけだった。



+++++



 試合は、快晴の下行われた。相手は、去年の県大出場校だ。剛がどれだけ大丈夫と言っても、奇跡が起きない限り勝てない相手だった。負けるつもりで試合はしていない。
 けれど、最初の一球から力量の差を思い知らされた。気温は既に三十四度。頬を伝う汗を拭う暇もない。
 自校のグラウンドが有利になる事はなかった。僅か七球目。的確に捕えられたボールは鮮やかな弧を描き頭上を飛び越えて行く。ホームラン。フォークボールには自信があったのに。呆気無く選手がダイヤモンドを一周する。
 歯噛みして、次の相手に望んだ。最初から最後まで嘗められる訳にはいかない。自分にはきっと、最後の試合だった。引き下がれない。監督がマウンドを降りろと言うまで、投げ続けるだけだった。
 真夏の太陽が目に痛い。苦しかった。後何球投げられるだろう。右肩が燃える様に熱かった。もうすぐこれも使い物にならなくなる。万が一今日が勝てたとしても、次回は出られるかどうか分からなかった。
 野球部の誰もが知らない事だ。家族には今日の試合を教えていなかった。母が今の自分を見たら、試合中なのも構わずグローブを取り上げるだろう。
 此処にいる誰も、光一の不調には気付かない。相手の動体視力が優れているだけで、そのボールに狂いはなかった。
 グラウンドから離れた校舎内。遠い四階の教室に、剛はいる。きっと見ていてくれる。自分の最後の姿を。どうしてあいつは、最後を越えられたんだろう。唐突に訪れた瞬間には絶望しかなかった筈なのに。
 熱さのせいで思考が纏まらない。今は唯、目の前の事だけに集中しなければ。流れる汗を腕で拭った。
 強過ぎる陽射し。外野の声援の声。乾いた土が舞い上がる。雲一つない青い空。青いのは。
 集中して投げる。球種は、ストレート。ボールが手を離れた瞬間、しまったと思った。球が甘過ぎる。打たれる。思ったのと、バットの軽快な響きが聞こえたのは同時だった。先刻と変わらない軌道。上がる歓声は、相手の生徒の物だ。
 軌道を追い掛けて、見上げた。青いばかりの夏の空は何も答えてくれない。見詰めたのは、ずっと低い場所。手の届く距離だった。僅かに見える人影。
 一瞬の認識は思い込みの幻影かも知れなかった。それでも構わない。
 彼の絵を見てから、思い浮かべるのはグラウンドの上の空ではなかった。重ねられた人工の色。答えはきっと、その中にある。
 指先に感覚がなかった。終わりを確信する。どれだけ望んでも、もう。最後まで此処に立つ事は叶わないだろう。



 四階から、約束通り試合を見ている。遠い場所。キャッチャーの様に打たれる光一の傍に寄って、言葉を掛けてやりたかった。部員の誰よりも的確に言葉を掛けられる自信がある。
 白い背中。俺より少し大きいけれど、あの小さな身体で部を支えていた。
 ずっと見続けた姿。いつも追い掛けていた。白いユニフォームに青い印字。背番号0番。
 最後の瞬間まで見ていたかった。もう一度派手に打たれて、マウンドから降りる姿をきちんと焼き付ける。二度とこの場所では見られない。
 最後の一瞬まで、約束通り。見ているよ、ずっと。その背中を。

「剛、負けてもうた」

 穏やかな響きがいっそ残酷な息遣いを孕んで、剛の心臓を刺した。グラウンドで行われた全ての出来事を、きちんと見守っていた。
 結果は、惨敗。光一の夏が終わった瞬間だった。短い夏。もう帰って来ない、最後の日々。
 誰より頑張っていた彼が一番泣きたかっただろうに、グラウンドに取り残された様に立ち尽くす部員を慰めていた。その背中は痛々しい程の強さを秘めていて、剛を泣きたい気分にさせる。
 早くおいで、そう思った。此処でなら怖い事は何もない。慰めるなと釘を刺されていたからちょっと困って、けれど結局笑顔で迎える事にした。
「うん、負けたなあ。お疲れ様」
「ん、疲れた」
「座り。特等席や」
 窓際の椅子を指し示す。キャンバスの前、普段は剛の場所だった。用意していた炭酸飲料の表面を適当に拭ってから、綺麗に洗われた手に持たせる。自分には甘いオレンジジュース。
「でも、光一先輩格好良かった。相手の選手なんかより全然」
 僅かに俯いた光一は、答えない。こうやって黙って耐えるのは、彼に貫かれた精神だった。今更言葉にしろなんて言わない。黙って聞いていて。
「あんたのボール、綺麗でしたよ。真っ直ぐ迷いなくて、強かった」
「……つよし」
「足も速かったし、ヒット打ってきちんと点入れてたし。頑張ってた。凄かった」
「剛、約束……」
「別に慰めてません。慰められるのはあんたの勝手ですけど、俺は此処から見てた事実言うてるだけです」
 光一を椅子に座らせて、剛は窓に寄り掛かった。誰もいないグラウンドは傾き掛けた陽光を受けて、鈍く光っている。
 此処から彼を見詰める事はもう出来なかった。それが辛い。今は此処にいる人を、今度は何処で見詰めれば良いのだろう。
 二人の間に落ちた沈黙を、真夏の生温い風が撫でて行く。本当は、この距離に甘んじていれば良かった。何処にも行かず、優しい場所で。
 でも、自分は決めてしまったから。絵を描き始めたその日に、もう立ち止まらないのだと再び走り出すのだと強く決意した。今までの日々を無為にしたくない。
 重ねた青の分だけ、悩んだ。削った分だけ過去を振り返った。その色は、彼の為の色だ。絵が完成した以上、引き返す事は出来なかった。
「光一先輩。……見て、貰えます?」
「うん、ええの?」
「はい」
 ゆっくりした動作で見上げられる。指先にはキャンバスを覆う布の裾があった。迷わず引いて下さい。俺はもう、逃げない。
 するりと落ちた布の下から表れた画面に光一が息を飲んだ。まさか、青だけで構成された絵が出て来るとは思わなかったのだろう。暫し呆然と見入る彼の横顔を覗き見る。
 汗で濡れた髪が項に張り付いていた。気温で上昇した唇は桃色と呼ぶには艶かしい。目の前に焦点を合わせている目は、淡く滲んでいた。
 いつの間に、こんな。愛らしさでも幼さでもなく、こんな色香を身に付けていたのだろう。
「ひかり、が……」
「ん?」
 光一の声は小さくて剛には聞き取れなかった。梅雨の時期に見た絵とは少し違う。あのまま色が重ねられ続けると思ったのに。目の前に広がる青を二つに裂く様に一条の白がある。説明を受けなくても分かった。
 太陽の、光。強い強い剛の意思。青を切り裂いて走る白は、それでも厳しさより穏やかな色が強かった。彼らしい、全てを包み込む様な強さだ。
 あの時よりもずっと、剛の絵だと分かる。上手く言えないけれど、彼自身が此処に投影されていた。
「空の絵です。作品番号は0番。……ずっと、貴方の事を考えて描いていました」
「え」

「貴方が、好きです」

 キャンバスから視線を転じたのは、ほとんど反射に近かった。その目を見て、後悔する。剛の丸い大きな瞳には、穏やかな愛情だけがあった。
 いつもと変わらない温度。好きだと言われて思わず頷いてしまう位、優しい感情が此処にある。
「剛」
「男の俺にこんなん言われるのキモイかもしらんけど、この絵が完成するのは俺の気持ちが決まる時やった。あんたに告白出来る位強い心、持てる様になるまで時間掛かってもうた。俺、弱虫やからな」
「何で……」
「何で、て。光一先輩が俺の事支えてくれたから」
 あの夏の絶望の時、光一がいなければきっと剛は立ち直れなかった。彼は祖父の見舞いのついでに寄っていただけかも知れない。けれど、自分にはどれだけの勇気になったか、光になったか。
「剛、待って」
「絵を描き始めたのも先輩がいたからです。何となく入って、何描いたら良いんか分からんかった。どうしようか悩んでいる時にまた、救われたんです。グラウンドで練習してる背中が俺の支えになった。意味になった」
 自分の日々を動かして来たのは、この人の存在だった。傷はまだ完全には癒えていない。それでも、ちゃんと生きて行こうと思った。新しい夢を見ようと思えた。
 言い募ろうとした剛を立ち上がった光一が止める。焦った素振りで両腕を掴まれた。窓際で立ったまま向かい合う。
 剛は真っ直ぐ、視線を合わせた。その真摯な色に怯んだのは、光一だ。
「待って。もう、言わんで」
「どうして?やっぱ気持ち悪いですか?」
「違う、違う。気持ち悪くなんかない!でも、駄目や。俺なんかにそんな事言うたらあかん」
「俺なんか、って……」
 光一の自信がない事は知っていたけれど、そんな風に否定する必要はないと思う。
「先輩?」
「あかんのや。そんなん、あかん」
「こうい……っ」
 決して泣かない彼が、瞳に涙を溜めていた。今にも零れそうな程。こんなにも呆気無く自分を晒せる人ではないのに。何がいけなかったのだ。どうして、そんな顔をするの。
「俺は、お前に好きになって貰う資格なんてないんや」
「好きになるのは、俺の自由でしょ。資格とかややこしいもん必要ないで」
「違う、違うんや。聞いて。なあ」
 切羽詰まった響き。あり得なかった。ほとんど寄り掛かる姿勢の光一が可哀想で、捕まれた腕をそっと動かすと怯えない様に腰を抱いて支える。
「何が違うんですか。俺、ちゃんと聞きますよ」

「……俺は、お前を利用したんや」

 思い掛けない告白に、剛の呼吸が止まった。利用?俺を?そんな素振りも、自分にそんな心当たりも全くない。
「去年の夏、初めて剛の病室に行った日。じいちゃんが入院してるのはホンマやったけど、違うんや。あの日、自分の検査やった」
 そう言って、自分の右肩に触れた。検査。こだわっていた最後の夏。彼の表情が先に結論を物語っているのに、考えたくない。
 自分と同じ目には遭わせたくなかった。
「もう投げられないでしょうって言われた。どうしたら良いか分からん様になって、お前ん事思い出した。俺とおんなじやって思った。会いたいって思ったん
や。未来の、自分に」
 消極的な光一がわざわざ自分の病室を訪れた理由。少しだけずれていたピントが合った感覚。最初から感じていた僅かな引け目は、此処に理由があったのか。
 剛は黙って、話を聞いていた。今更どんな理由があっても、彼を嫌いになれる訳がないのだけれど。
「大事な夢無くしたのに、剛は笑ってた。自分も終わりが来た時に、こうなれたら良いって、ずっと……」
「俺が笑えてたのは、先輩がいたからです。先輩がこれから笑う為に、俺が傍にいたら駄目ですか?」
「あかんよ」
 右肩に伸ばした手をそっと振り払われる。優しい仕草だった。呆れる位悲しい人だと思う。瞳を閉じて感情が溢れてくるのを抑えた。
「好きになったらあかん。俺は狡い奴や。お前と一緒にいながら、ずっと未来の自分を想像してた」
「それでも構いません。俺は利用されたなんて思わん」
「俺が、思うんよ」
 抑えられない感情が雫になって零れる。耐え切れずにその細い身体を抱き寄せた。剛、と小さな声で非難されたけれど気にしない。熱い肩、額を押し当てて溢れるままの涙を染み込ませた。
「……青い絵、綺麗やなあ。剛は凄い。俺はお前と話せて嬉しかった。楽しかった」
 まるでお別れの言葉だった。もう二度と会えないのだと諭す気配さえ滲ませて。逃げられない様に、腕の力を強める。こんなにも愛おしいのに。
「なあ、ごめんな。俺はお前を好きにならん」
「好きになって貰えなくても良いです。傍にいられたら、それで」
「駄目や。俺はもう、お前の傍にはいられない」
「どうして。利用したから?」
「うん。こんな風に優しくしてくれるお前の傍にいられる程、俺厚顔じゃあらへんもん」
 よしよしと背中を撫でられる。年上の仕草。悔しかった。離したくない。
「……利用するのでも何でも、ずっといてくれたやろ」
「俺も、剛ん事好きやったから」
「なら……っ」
「ううん。やから、や。これ以上傷付けたくない。……傷付けられたくないんや。ごめん」
 自分の優しさが、彼を追い詰めると言うのか。自分の愛情が彼を立ち直れない程痛め付けてしまうのか。唯、優しくしたかった。彼を愛する事が自分の生きる夢だった。意思だった。
 怪我をした日から今日までずっと、支えてくれた人を。こんなに悲しませるだなんて。
「今まで、ありがとう。俺は、俺なりにちゃんと、剛が好きやったよ」
 するりと抜け出される。為す術もなく、腕の中が空っぽになった。優しく笑う人。涙で滲んで、上手く見えない。
 言わなければ良かったのだろうか。この絵が完成しなければ、永遠に彼の隣にいられたのか。
 そうじゃない、と思った。自分は最初から彼の前に愛情を晒すつもりで絵を描いていたのだ。言葉にしなかったら、この絵の意義はない。
 分かっていた。自分も生きる為だったのだ。
 光一は、未来の自分に怯えて足が竦む前に剛に辿り着いた。夢を無くした彼に未来の自分を投影して、その恐怖から逃れる。
 剛は、暗闇の中から抜け出す為に光一を愛した。夢に真っ直ぐな彼に目的を託して、もう一度生きようとする。どちらも、自己愛の元に成り立っていた関係だった。
 どうしようもない。何も掴めない手を痛い程握り締めた。光一は、寂しそうに笑んだまま美術室を去って行く。短くはない夏が幕を閉じようとしていた。
 もう二度と言葉を交わす事はないとお互い理解している。その姿が見えなくなる瞬間まで、その瞳が伏せられる最後まで、剛は身動き一つせずに追い続けた。
 さようなら。
 もう少し、大人だったら。ちゃんとお互いを見れたんかな。二人とも余りにも子供だったのだろう。相手との境界線が分からなくなる程。同じ心拍を刻める様な気さえしていた。幼い勘違いを笑う事は出来ない。
 いつか、胸の内に抱えた傷口が塞がったら。
 苦く笑って、剛は僅かに残る光一の熱を忘れないでいようと思った。夢はまた見れば良い。そう思えるのはもう少し先のことだけど。
 青いキャンバスを振り返った。此処にある感情は嘘じゃない。全部、捨てられなかった。
 重ねた青、重ねた思い、届かない夢。
 青い夏の中で、剛はくるりと描かれたループの上を歩き続ける。出口のない迷路。何処にも行けなかった。

 最初も最後も見付けられないまま、二人の距離は零に戻る。
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