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十、観察眼



 土曜日の朝。締切を終えて帰宅した博が珍しく起きていた。規則正しい生活等到底無理な仕事に情熱を傾けている。
 母としてだけではなく、人間としても尊敬出来る人だった。
「おはよう」
「おはよう。今日からだっけ? 友達と旅行」
「うん」
「いつ帰るの?」
「土曜日には」
「そう、気を付けてね」
 コーヒーを飲みながら新聞を読んでいる博に、少し後ろめたい気持ちを抱えながら、逸る気持ちを抑え切れずに荷物を抱える。
 一泊二日の短い滞在。それでも僕には充分過ぎる時間だった。
「准一」
「何? 博」
「そのシャツ」
 指差されたシャツは、今日必ず着て行こうと決めていた。ヨーロッパから帰って来た彼が、お土産だと渡してくれた淡い色のシンプルな。
「そのシャツ、似合ってないよ。趣味が悪いな」
「……行って来ます」
 博の言葉に笑い返すだけで、僕は家を出た。何か気付かいているのだろうか。シャツを見据えた彼の目は厳しさすら覗かせていた。
 それが、締切明けで仕事の余韻を残しているだけだったら良いのだけれど。
 電車に乗り込んで、時間を確認した。このまま行くと待ち合わせよりも早く着き過ぎてしまう。
 それでも良い。それが良い。僕は待つ事が好きで、そして待ち続ける事に慣れていた。
 光一が駆けて来るのを見られるだろうかと思いながら、待ち合わせの駅でホームに降りる。湿気を纏った空気が肌を包み込んだ。



十一、避暑地の恋



 電車を乗り継いで、葉山の別荘に着いたのは午後三時だった。家中の窓を開けて換気をする。良く手入れされた家は、葉山と言う立地を考えても豪華過ぎる物だった。
 其処に当たり前に馴染む光一は、やはり単純に恵まれた人間なのだろう。羨まれる事は多いと思う。
 羨望と嫉妬の眼差しを受けながら、それでも彼はこんな環境を望んではいなかった。
 海岸線を散歩した後、二人して簡単なオードブルを作って、海岸に面したテラスに食事を広げる。途絶える事のない波の音が、二人を世間から隔絶してくれていた。
 僕達はこの場所で、誰の目も気にせず恋人同士でいられる。沈む太陽が海に反射してきらきら光った。オレンジの明かりを受けながら、光一も穏やかに笑んでいる。
「そのシャツ、着て来てくれたんや」
「うん。似合う?」
「……多分。准一に似合う物って思うてたんやけど、俺趣味悪いからあんまよう分からんかった」
「綺麗な色だよ」
「准一が男前で良かったわ。どんなん買って来ても、きっとお前なら似合う」
 屈託なく笑う光一は朝会ってからずっと上機嫌なのに、何処かに欠落した部分があった。
 その空洞を懸命に隠してはいるけれど、どうしたって感じ取ってしまう。何があったのだろう。
 太陽が沈む。波の音は止まない。彼の髪が、潮風になびいた。
 光一は羽織ったブルーのカーディガンの前を抑える。寒いのかも知れないと思った。
 今日はそんなに気温が低くなかったのに、彼はずっとカーディガンを着たままだ。
 海と同じ深い深い蒼。彼によく似合っていた。
「風出て来たな。片付けて中、入ろうか」
「そうやな。日も暮れてまう」
「あ、ええよ。光一君先入ってて。これ位なら、俺一人で片付けられるから」
「ほんま? じゃ、お願いしよかな」
「うん。コーヒー煎れるからゆっくりしてなよ」
 別荘に行く約束をした時に感じた違和感を、今日会ってからもずっと感じていた。
 無理をしている訳ではない。辛そうな素振りも見せない。
 けれど、感じるのは一体何なのか。
 彼の中に最初から空洞があるのには気付いていた。それを埋める為に僕が必要な事も。利用されているだけでも構わなかった。光一が好きだから、どんな理由であれ必要とされるのは嬉しい。
 我慢ならないのは、彼の心の傷を深く出来るのがあの男だけと言う事実。優しく出来ないのなら何故、そっとしておかないのだろうか。
 店内にあるアンティークの様に。愛せないのなら、大事に守るだけでも良いじゃないか。
 食器を洗い上げて、濃いコーヒーを煎れる。最近立て続けで行った買い付けに疲れているのかも知れない。
 本当の理由は其処にないと気付きながら、自分自身を誤摩化す為にそう結論付けた。休養を取る為に、僕と一緒に此処に来たのだと。
 光一は、ソファに横になっていた。目を閉じて、波の音に耳を傾けている様だ。アウトドアは嫌いだと言いながら、自然にしか癒せない力がある事を知っている人だった。
「光一君」
 静かな呼び掛けは、彼に届かない。表情を隠す為か、腕で顔を覆っていた。
 深いブルーのカーディガン。その、袖口から覗く、白い腕。
 陶磁器の滑らかさを持った、白いだけの。
「こ、ういち君」
 ほとんどが吐息で紡がれた言葉は、醜く掠れていた。白い筈の手首。其処にあるのは、見た事もない色。
 赤く腫れた擦過傷。青く沈んだ内出血の痕。彼の違和感の正体に思い当たる。まさか。
 マグカップをテーブルの上に置いて、手首を優しく掴んだ。
 意識をこちらに戻した光一が反射的に、僕の手を拒む。横になっていた身体を起こして、距離を取ろうと後ずさる。
 その瞳には、明らかな怯えがあった。
「准一!」
「……痛い?」
「准一」
「痛いよね」
 跪いて、その傷に唇を寄せる。近くに見て分かったのだが、傷痕は一日で付けられた物じゃない様だ。
 何度も何度も付けられた傷。強く縛って身動きの取れない光一をどうしたのか。泣いて叫んで、それでもあの男はやめなかった筈だ。
 傲慢に自分の物だと主張する為に、細い手首を締め上げた。
「っ……くそっ!」
 初めて、誰かを憎いと思った。今までずっと光一を可哀相だと思いはしたけれど、剛を明確に憎んだ事はない。
 二人には二人だけで積み重ねた時間があって、それはどれ程光一を愛しても奪い返せる年月ではなかったから。
 自分が彼を疎んじるのはお門違いだと思っていた。でも、今は。殺してやりたい程憎い。この白い肌を踏み躙って弄んで、一体彼にどれだけの傷を付ければ気が済むのだ。
「准一、准一」
「ふっ……うっ」
「お前は、優しい子やな。俺の為に泣いてくれるんか?」
 穏やかな声音。彼は、自分の夫を一度でも恨んだ事があるのだろうか。きっと、ないのだろう。それならば。
 光一の分まで、俺はあいつを憎みたい。呪い殺してやりたい。拒まない身体を引き寄せて、きつく抱き締めた。
 何処にも行かせないと、強く思う。隔離された世界は、容易に錯覚を起こさせるから。いつまでも此処に二人いられる様な気さえした。
「どうして、光一君はあの男を」
「准一」
「やって、こんなんまでされて一緒にいる事ないやないか。こんなん愛って言わん!」
「俺は、ええんよ。あいつも痛みを抱えてる。愛し方に苦しんでる」
「けど!」
「それに、お前にもこうやって辛い顔させてる。きっと、一番罪深いんは俺や」
「そんな事ない」
「お前に気付かれん様にって思って、三週間待ったのにあかんかったな。まさか続くなんて、俺も思わんかった」
 小さく笑った彼に愕然とする。あの電話があった時、既に光一の肌には傷があったのだ。疼く痕に眉を顰めながら、それでも上機嫌を装って。涙が止まらなかった。
「俺は、幸せな位やよ。お前みたいな心の綺麗な子に泣いてもらっとる」
「光一君……」
「ありがとな」
 溢れる涙を拭って、優しく抱き締め返す。自分の傷を平気だと笑って、痛い筈なのにずっと笑い続けて。
 貴方は何処で安らぐの?何処で、素顔を見せてくれるの?



十二、破綻の音



 泣き濡れた僕を宥めて、一緒にベッドへ入った。触れるだけの口付けは、光一ではなく僕を安心させる。
 どうして彼は、他人の事ばかりに懸命なのだろう。自分の身を削る事すら厭わずに、胸の空洞が広がる事すら恐れずに。
 それが、きっと彼の生き方なのだ。剛と共に生きて来た光一が見付けた真っ直ぐ歩いて行く道。
 抱き締めて抱き締められて、浅く眠っていた。熟睡していたら、きっとその音に気付けなかったと思う。
 静かに停止したエンジンの音。地面を踏み締める革靴の反響。ぱちりと目を開けた光一は、あからさまに動揺していた。
「光一君……」
「剛や」
 呆然と呟く。そんな筈はなかった。スケジュールが一番埋まっている時を選んで来たのだと。
 剛はふらりとこの別荘に訪れる事があるから、細心の注意を払っていたのだと。黙って来てもばれてしまうから、友人と少し早い夏休みを過ごすと告げてはいたけれど。
 混乱している光一は、目の前に同じ様に呆然と佇む准一の姿を認めて、やっと覚醒した。彼を隠さなければ。
 一階には飲みかけのマグカップが二つある。洗い上がった食器も二組。
 ああ、そんな物は今更どうにも出来ないのだ。まずは彼を安全な場所にやらなくては。
「准一、服着て」
「でも、間に合わんよ」
「大丈夫や! 二階には上げん様にするから。静かに、焦らんで良いから着替えて。荷物と靴持って、バスルームに行って」
 青い顔をした光一に逆らえる筈もなく、胸の中を吹き荒れる落胆には気付かない振りをして、言われた通りの動きをする。彼はストールを羽織ると、すぐ下に降りて行った。
 振り返る事はない。ベッドの上で取り残された僕は、ゆっくりシャツを羽織った。
 全部の荷物を二階に上げていたのは、不幸中の幸いか。階下で二人の話す声がする。剛は気付かないのだろうか。
 誰かがいたのは明白なのにその誰か、光一が言う所の友人が、既にいない事実をどう説明するのだろう。あの人に上手い誤摩化しが出来るとは思えなかった。
 それとも、剛が見ない振りをするのだろうか。どちらにしろ自分が此処で上手く隠れられたのなら、あの二人は破綻していると言って良かった。
「っちょお!」
 バスルームに逃げ込もうとした瞬間、光一の悲痛な声が響き渡る。何が、起きたのだ。
 今すぐにでも駆け寄りたい衝動を堪えて、下の動きに神経を集中させる。
「剛! ええ加減にせぇや!」
 光一の叫び声は聞こえても、きっといつも通りのトーンで話しているだろう剛の声は全く聞こえない。もう一度光一の叫び声が聞こえた後、倒れ込む様な大きな物音が聞こえた。
 その先に起きるだろう事を想像して、バスルームに逃げ込む。荷物を抱えて、バスタブの縁に蹲った。 
 光一の声がリフレインする。幸せだなんて、どうして言えるのだろう。
 痛みを抱えた心臓を持っているのに、どうしてあんなに綺麗に笑えるの?



十三、掌握の砂



 どれ位そうしていただろう。
 遠くから呼ぶ声がして、ぼんやり顔を上げた。入り口に真っ白いシャツを着た光一が立っている。皺一つないそれを見て、思わず顔が歪んだ。
「准一」
 声は出ない。此処で待っている間に、自分の言葉は全て無力に帰してしまった。
 ああ、僕は貴方に何もしてあげられない。安息の地すら与えられず、強く抱き締める腕を持たない。
 今すぐにでも彼を連れ出してあげなければならないのに。僕にはきっと出来ない。
「……准一、ごめんな。もうずっと、思ってたんや。ごめん」
 血の気のない顔は、真っ直ぐ自分に向けられていた。何故、謝るのか。分からない。
 何を言おうとしているのか、分かりたくもなかった。
「ホンマは、早く解放してあげなきゃあかんかったのに」
「解放、って……?」
「俺が准一にしてる事は、剛が俺にして来た事と一緒や。束縛して、閉じ込めて」
「それは、あかん事?」
「そうや、お前にはまだ未来がある。何処へでも飛び立てる。誰とでも幸せになれる。まだ沢山の可能性がある」
「俺は、光一君が良いんや」
「……あかんよ。俺は、あかん。お前と未来を分かち合う事は出来ない。ずっとちゃんと分かってた。分かってない振りしたんは、俺の我儘や」
「光一君」
「もう、こんなん終わりにせなあかんな」
「こんな、って」
「俺はお前が好きや。その気持ちに嘘はない。准一が俺を大切にしてくれる気持ちも分かってる。それが嬉しかった。けど、俺達の関係は『こんな』なんよ。世の中に認められたもんやない」
「俺は、世の中なんて」
「今はまだ若いからええけどな。いつか『世の中』を知る時が来る。その時に俺のせいで、お前に傷付いて欲しくない。これも勝手な俺の我儘やけどな」
「嫌や」
「俺も嫌やよ。お前ともっと夢見てたかった。でも、終わりや。剛は俺を手放さない。お前はもう、外に目を向けても良い時期やよ。これからきっと世界が広がる」
「俺の世界は、光一君だけでもええ」
「あかん。お前は良い男になるよ。此処にいたらあかんのや」
 彼が一度決めた事を翻す様な人じゃない事は知っていた。もう決定事項なのだ。この別荘を出たら、全ては掌から零れ落ちる。
 嫌だった。泣き喚いてしがみついて、離れたくなかった。
 でも、止まる事のない時間は無情にも過ぎて行く。一度交わった彼と僕の運命は、また此処から離れて行くのだ。
「俺達飯食べに出るから。いなくなったらタクシー呼んで帰ってな。ちゃんと帰れるか?」
「……ん」
「そっか。そしたら、な」
 俯いた僕から彼の表情を窺う事は出来なかった。最後に見る顔が困らせた表情なんて嫌だ。どうしたら良いのだろうと思案している内に、光一は諦めた様に踵を返す。

 そうして、三年間の僕達の秘密の恋は終わった。



十四、怒り



 毎年届く招待状を手にして、博はタクシーに乗り込む。夏の途中で准一はおかしくなった。
 誰の目に見ても明らかな落胆と深く抉られた心の傷。その理由を自分はずっと探して来たのだ。
 原因はすぐに思い当たった。七月の友達との旅行だ。
 あれだけ楽しそうな表情を浮かべて出て行ったのに、その日の真夜中に准一は帰って来た。
 たまたま家に戻っていた自分は、彼の表情を見て口を開くより先に抱き締めて。ずぶ濡れの捨て犬の様だと思った。
 世界中から拒絶されたみたいな瞳は怯えている。朝自分が指摘したシャツは着ていなかった。あれから一度も見ていない。
 失恋だと、直感した。
 友達とではなく彼女との旅行、その途中で喧嘩したのだろうと。もう二十歳を過ぎているし、我が子ながら綺麗な子に育った。
 彼女の一人や二人いても構わないと思う。それに、傷付いて成長する事も若い頃には必要だと思ったから、あえて何も聞かなかった。
 そっとしておくのが一番の治療法だと。
 でも、彼は立ち直らなかった。八月を過ぎて、新学期が始まっても准一が笑顔を取り戻す事はなくて。
 編集と言う仕事に就いている以上、なかなか一緒にいてやる事が出来ない。何度問い質そうと試みても、准一は頑なに首を横に振るだけだった。
 言いたくないと、そっとしておいてくれと、その瞳は語るばかり。
 十月になり、さすがの自分も焦った。元来物静かな子ではあったけれど、どんどん自分の内面へと意識を向けているのが分かる。現実から隔離された場所で、あの子は思い出に捕われている。
 そう思った瞬間、突き止めようと思った。准一を傷付けた存在を。仕事の合間に息子の動向を探るのは困難だったが、答えは呆気なく提示された。
 偶然本の間から滑り落ちた、電車のチケット。未使用のそれの日付は、あの旅行で本来帰って来る日の物だった。
 本の栞に使っていたのか、たまたま紛れ込んでしまったのか。どちらでも良かった。
 出発駅は、葉山。そのキーワードだけで繋がった。充分過ぎる。
 何故今まで気付かなかったのが、不思議な位だ。心臓はどくどくと激しく音を立てている。自分を突き動かしているのは怒りだった。
 クリスマスパーティーの招待状を握り潰して、タクシーの運転手を急かした。
 彼を問い詰めなければならない。どうして准一じゃなければならないのかと。
 遊んで捨てるだけの存在なら、もっと他にいただろう。息子と彼の年齢差を計算してぞっとした。正気の沙汰とは思えない。
 瀟洒なレストランを貸し切ってのパーティーは、あの旦那が好みそうな演出だった。こんな場所を貸し切る経済力と、オーナーを趣味の範囲でこなす裕福と。
 誰がこの生活を築いたのか。もう少し思い知っておくべきだった。室内にいるスタッフの誰の言葉も拒んで、真っ直ぐ彼の元へ向かう。
 白いスーツに身を包んだ彼は、相変わらず柔和な雰囲気を保っていた。この柔い男が、どうして息子を弄んだのか。
「こんにちは」
「博君やん。こんにちは。どしたん? まだ開場には早いですよ」
 気を許した人間だけに見せる、甘えた表情。同じ顔で准一に迫ったのか。腹の底に怒りを溜めたまま、笑顔で向かいの椅子に腰掛ける。
「良いんだよ、君のところのパーティーには出席しないから」
「え……」
 意味を計り兼ねた様に小首を傾げる。友人と呼ぶには距離があるけれど、それでも大事な知人の一人だった。裏切られた気分だ。
 困惑する光一と同じ感情を共有しているスタッフの一人に声を掛けて、飲み物をオーダーした。素早く運ばれたシャンパンを一気に飲み干す。
「……あの子が、十歳の時だった。僕と昌行が離婚したのは。それからずっと、二人だけの家族だった。だから随分と僕は、あの子を大切にしたよ」
 真っ直ぐ見詰めて、昔の事を語る。その顔が色を失って行くのを見るのは、軽い優越感だった。
「光一君は、立派な自立した人だよね。何も知らない二十一の男から見れば、君は憧れの対象だったのかも知れない。でも、今の光一君があるのは剛君がいたからでしょう。剛君も光一君がいたから此処まで来れたんだと思う。この意味、分かるよね?」
 声を荒げる事なく、ゆっくり彼を追い詰めて行く。噛み締めた唇が痛々しかった。
 けれど、准一が受けた痛みはそんな物じゃない。あの子は今も部屋でたった一人、君の事を考えているんだよ。
 ワインクーラーからボトルを取り出して、フルートグラスに乱暴に注ぎ足した。ボトルも光一の前に突き出す様に置く。威嚇の動作。
「一つだけ聞かせて。いつから、そうなったの?」
 穏やかな声音の裏に潜んだ怒りを、彼は痛い程感じているだろう。俯いて、思案する表情を見せた。言うのを躊躇っている仕草だ。
「いつから?」
「……三年前」
「三年!」
 声を出して笑ってやった。三年前。あの子は十八だった。
 綺麗に成長した我が子を見るのは楽しくて。彼との子供はやはり男前に育つものだと呑気に感心していた。あの頃。
「知らなかった……。光一君、十八の准一に手を出したのか。知ってる、それって犯罪だよ?」
「ごめんなさい」
 俯いたその表情が憎らしくて、思わず手にしていたグラスの中身を掛けた。反射だった。
 余りの怒りにこめかみが痛む。
「僕の息子の一番綺麗な三年間を独り占めしたんだから、もう充分でしょう」
 まともに顔に掛かったシャンパンを拭おうともせず、光一は動かずにいた。濡れた髪が頬に張り付いても、人形の様に固まっている。
 聞きたい事は聞いた。彼の心も傷付けた。もう引くべきだと見極めて、席を立つ。
 それでも修まらない気持ちを持て余していた。立ち上がって光一の姿を見下ろした瞬間、抑え難い怒りが放出される。
「呆れた!」
 テーブルに置いたボトルを勢い良く彼に向けて倒した。零れ落ちた液体は、光一の白いスーツを濡らして行く。
 それでも身動き一つしない彼を一瞥して、部屋を出た。もうこの場所に用はない。母親の自己満足だと言われても構わなかった。
 彼だけは許せない。あんなにも准一を引き込んでおいて、呆気なく手放した罪を思い知れば良い。
 部屋を出ると、今到着したのか剛がこちらに向かって来る所だった。
「こんにちは、博君」
「さようなら」
 にこりと笑んで、不可解な表情を見せる聡明な男の視線を躱す。彼ならきっと、僕の姿と光一の濡れた姿を見て全て理解するだろう。



十五、通話



 光一に関する予感を外した事はない。擦れ違った博の笑顔を見て、嫌な予感はしていた。きっといつか訪れる場面だろうと言う事は分かっていたけれど。
 せめてその場に自分がいたかったと思う。足早に部屋に入ると、倒れたシャンパンのボトルがまず目に入った。
 そして、戦々恐々と見守るスタッフの視線の先に、最愛の人の姿があった。
 博君はキレると一目を憚らん人やからなあ。晒し者にされた光一の哀れな姿を見詰める。追い詰めたのは、自分だ。
「光一」
 優しく呼んでも、顔を上げる事はなかった。部屋中に広がるシャンパンの香りに眉を顰める。
「とりあえず、着替えよっか。おいで」
 返す言葉すら持たず、それでも素直に立ち上がった光一の手を取ってシャワールームに連れ込んだ。服を全て脱がせて、浴室に押し込む。
 その身体は小刻みに震えていた。
 博がどうやって光一の存在に気付いたのかは分からない。大方あの坊やが証拠残しとったんやろな。
 隠し事はもう少し慎重にやらんとあかんのや。あの子供も、光一も。
 着替えを用意していると、濡れたスーツが振動しているのに気付いた。何でもポケットに仕舞う癖があるから、きっと携帯が入っているのだろう。
 何の気なしに取り出した剛は、次の瞬間タチの悪い笑みを浮かべていた。シャワールームを出て、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし、准一か?」
「……っ」
 はっきりと息を飲む音。素直な反射がおかしかった。こんなタイミングで電話を掛けて来る方が悪い。
 自分は今、間違いなく不機嫌だった。
「准一やろ。今何処おるん」
 招待状は彼の家に届けてある。恐らくこの付近にいるだろうと確信した。
 近くにある屋内プールを指定して、今すぐ来る様に命じる。何食わぬ顔でシャワールームに戻り、着信履歴を消して携帯を新しいスーツの上に置いた。
 まだシャワーを浴びている光一に声を掛けて、待ち合わせの場所へ向かう。博と同様に、自分も彼には言いたい事があった。



十六、プールサイド



 一番上にある飛び込み台で待っていると、すぐに准一は現れた。恐る恐る扉を開ける姿は滑稽ですらある。
「こっち! 上がって来ぃや」
 剛の姿を認めた准一は、一瞬竦んでそれでも気丈に剛の元まで上がって来た。真っ直ぐに見詰める、恐れを知らない瞳。
 昔は自分もこんな強い目をしていたのだろう。時が経つのは恐ろしい。
「良いやろ、此処。静かで」
「……はい」
 きちんと返事を返す余裕が憎らしかった。博もこんな気分で光一を追い詰めたのだろうか。
「光一とお前ん事は、随分前から知っとったよ」
 驚愕に見開かれた瞳は、子供の色だ。信じられない、と顔に書いてある。
 素直な、子供。光一は彼のこんな所を愛したのだろうか。
「あいつを見てれば分かるよ。光一は変わった。綺麗になった、真っ直ぐになった。気を張らなくなった」
 この二、三年の変化は目覚ましい物があった。此処まで年を重ねて、まだ変化して行く彼を単純に凄いと思う。昔から彼には驚かされてばかりだ。
「で、准一は何か変わった? 光一と寝て、何が変わった?」
 言葉にするのは、痛みを伴う。こんな子供に寝取られたのかと思うと我慢ならなかった。
「分からんか。なあ、もうええやろ。光一も博君も困ってる」
 母親の名を出すと、初めて痛みを抱えた瞳を見せる。
 やはり、家族と言うのは弱い所か。まして二人だけなら尚更。
「……て、下さい」
「あ?」
「光一君と……光一君と別れて下さい! あんたらとっくに壊れてるやろ! 光一君が他の男に抱かれても平気な顔してるやんか」
 胸ぐらを掴む勢いで迫って来た彼を躱し、逆に一歩迫った。頭が沸騰しそうだ。
「誰が、平気やって? 平気な訳ないやろ。今すぐお前をぶっ殺してやりたいわ」
 凄んだ剛に、准一は身動きが取れない。その目は、本当に今此処で人を殺しそうな色をしていた。
「これでも愛してるんや。あいつだけをもう何十年も見て来た。それこそお前が生まれる前からな」
 時間の重みを容易に突き付ける。時間は准一が越えたくても越えられない溝だと、剛には充分分かっていた。
「そんなん、関係ない……」
「一つ、はっきり言ったろか」
 呻く様に言った言葉を遮る。良い大人が、子供相手に冷静さを失っていた。
 それでも良いと思った。誰を前にしても取り乱してしまう位、光一を愛しているのは本当だ。歪んだ感情は、愛情と言う基盤で保たれている。
「光一にとってのお前は幾らでもおるんや。スペアなんていつでも手近にある」
「ふざけんなよ!」
「でかい声出すんちゃうわ、阿呆。俺に雁字搦めにされた心を解放してくれる優しい人間なら、誰でもええんやよ」
「違う! ……っう!」
 ジャケットの前を引き寄せて、腹に的確に膝をめり込ませる。
「大声出すな言うてるやろ。人が来る。もし今、お前が此処で俺に殴り殺されても光一は変わらん」
「っくそ」
「でもな、俺がいないとあいつは壊れるんや。壊れた人間同士の傷の舐め合いかも知れん。でも、あいつは俺がいるから真っ直ぐ立っている。俺はあいつがいるから生きて行けるんや。お前と光一の間に、その絆はないやろ」
 喋りながら、その身体に蹴りを入れて行く。相手に抵抗させない位の護身術は身に付けている。
 自分のそれは、護身術と呼ぶには少々過剰防衛らしいが。抵抗する若い身体を難無く封じ込めて、倒れ込んだ彼の腹を革靴で踏み付ける。
 飛び込み台の先端。
「教えといたる。お前は、ちょっと高級な玩具やったんや」
 睨み返す反抗的な目を無感動に見下ろして、起き上がろうとした身体をプール側に蹴り飛ばした。跳ねる身体。
 宙を舞うその顔は恐れではなく、怒りだった。幾らでも怒れば良い。光一が最後に戻って来るのは此処だけなのだから。
 飛び込み台の先端まで歩み寄って、水面を見下ろす。派手な波紋が広がっていた。笑みを口許に乗せて、そっと呟く。
「恋って言うんはな、落ちりゃ良いってもんやない」



十七、壊れてない



 パーティーは時間通りに始まった。何食わぬ顔で戻った剛は、沈んだ表情のままの光一を端の椅子に座らせて「ゆっくりしとき」と笑った。
 頷いた虚ろな瞳が心配になったけれど、時間が解決してくれるだろうと思った。光一の傷は彼自身にしか癒せない。
 挨拶を一通り終え自分もオードブルに手を伸ばそうとした時、場内がざわめきに包まれた。別に特別なゲストは呼んでいない。
 とすれば、入って来たのは招かれざる客だ。
 視線をゆっくり巡らすと、ずぶ濡れの若者がふらふらとこちらに歩いて来る。夢遊病者の足取りだった。
 その進路に立ち塞がって、警告を発する。先刻のあれだけでは足りなかったと言うのか。何と聞き分けのない。
「帰れ」
 短い警告は、准一の頭まで届かなかった。その瞳は、たった一つの物を探している。
 唯一無二の愛しい人。
 行かせてはならないと、剛は濡れた身体を抑えた。光一は部屋の隅にいる。この角度からでは見えない筈だった。
「……光一君」
 思ったのと、強い力で押し退けられたのは同時。防ぐ余裕はなかった。
 博と違い、自分は体面を気にする方だ。今此処で、彼に行動を起こされるのはまずい。
 光一を避けさせるべきか、准一を抑えるべきか。逡巡した瞬間、室内のざわめきがしんと静まった。
 恐る恐る視線を向ければ、きつく抱き着いている准一の背中と、驚愕の瞳をこちらに向けている光一の姿が目に入った。
「光一君、光一君、光一君」
 やっとこの手に出来たと、准一は安堵の溜息を吐く。ずっと焦がれていた。昼も夜も分からなくなる位、求めた人。
 あの葉山の夜から、自分の時間は止まったままだ。
「准一」
 困惑した響きを遠くに聞く。抱き締めた身体が折れそうな程、腕に力を込めた。
 此処にいる。温かい身体は今、此処に在る。
「准一、帰り」
 囁いた声音は優しかった。拒まれている訳ではないのだと確信する。
「会いたかった。会えなくて苦しくて、死んでまうかと思った。良かった……」
「っ准一。……帰りなさい。此処はお前の来る所ちゃう」
「うん。知ってる。光一君に会いたかっただけや」
 告げたい事があった。この先僕達の運命が交わらなくても、知って欲しかった。
 抱き締めていた腕を解いて、美しい顔を見上げる。泣きそうな顔をしているのに、その瞳が濡れた事は一度もなかった。
 貴方は、一体いつ何処で泣くんだろうね。
「なあ、光一君」
「うん?」
「俺は、ちゃうよ。玩具なんかやないよ」
「……ん」
「俺は、壊れた玩具なんかやない。俺のスペアなんか何処にもない。それだけ、知ってて欲しかったんよ」
「准一」
「俺の好きな人は、光一君だけや。世界中でたった一人。それを忘れんといてな。ホンマに、世界の全部が光一君でも構わんかったんよ」
「准一」
 見詰め合った視線は、第三者の手によって剥がされてしまう。剛が呼んだ守衛だ。
「君、不法侵入だよ。今すぐ退去しなさい」
 有無を言わさぬ腕が、光一との距離を遠くする。
 最後になるかも知れないと思ったから、部屋を出る瞬間まで彼の姿を見ていた。視線を逸らさず見詰め返してくれた事が嬉しい。



十八、同じ空



「光一。ほら、コーヒー」
 准一が帰った後の会場は最悪だった。光一を退席させて、早々に会はお開きになった。
 誰もいなくなった会場に出て来た彼は、一言「ごめんなさい」と零しただけだ。それ以降、ずっと口を開かずにいる。
 手渡したコーヒーは、そのまま彼の両手に収まってしまった。仕方なく、隣の椅子に腰掛ける。
 煙草に火を点けようとして、やめた。これ以上体内に毒を蓄積してもしょうがない。
「……つよ」
 聞き取れるか聞き取れないかの淡い発音で、光一が名前を呼んだ。それに、優しい表情で返す。
「ん? 何や」
「ずっと、気付いてたん?」
「ああ」
「いつから?」
「二年位前かな。お前が店で電話してるん見た」
「そっか。迂闊やな俺」
「ホンマやで」
 いつ戻って来ても構わないと思っていた。まさかこんなに長い時間関係が続くとは思っていなかったけれど。
 だから、黙っていた。光一に逃げ道は必要だと思ったから。
「俺、今迷ってる」
「何を?」
「お前とこの先も一緒にいるべきか。それとも、別れてあの子の元に行くべきか」
「それを俺に言うんか」
「俺が迷った時、アドバイスくれるんは剛だけやろ」
「なら、お前の正直な気持ち教えてくれ」
「剛の事は、大切や。今更信じてもらえんかも知れんけど、ホンマに好きなんよ」
「ちゃんと、信じとる」
「……ありがと。でも、准一には俺が必要なんじゃないかって思う。自惚れとかやなくて。さっき思った」
 俯いた彼の表情は、見なくても分かる。隣で動く空気の振動だけで全て分かるつもりだ。
「俺は、あの子のおかげでお前から逃げずに済んだ。でもな、俺が奪った三年間は、余りに重いもんやったんよ」
「重い?」
「罪深い、かな。准一の世界を俺だけで一杯にしてもうた」
「そうかもな」
「やから、今傍に行ってあげたいと思うんよ」
 それは彼にとって逃避になるのではないだろうか。光一が戻れば、また彼の世界は閉じてしまう。
「あんな、もし剛や准一が死にそうな場面に俺が遭遇するとするやろ」
「うん」
「それが剛やったら、俺助けないで一緒に死んでまうと思う」
 彼が優しい気持ちを渡そうとしているのは分かる。その気持ちをちゃんと汲み取りたかった。
「でもな、それが准一やったら、俺はどうなってもええから准一だけは助けたいと思うんや」
 今の正直な気持ちだと、彼は言う。その奥に見える真実は非情な物かも知れない。
「お前が、俺を大切にしてくれるんは分かってる。やから、ちゃんとアドバイスしたるけどな」
「うん」
「……行きたいなら、行ってもええよ」
「え?」
「准一にお前が必要だと思うんなら、行ってもええ」
 独占欲の強い自分の言葉とは思えなかった。彼を閉じ込めてしまいたいと言う欲求は、今も心臓の辺りで燻っている。
 けれど、その思いを彼が信じた道を尊重したいと願う気持ちも同じ場所に存在した。
「赤い糸って、言うやん」
 小さく頷く。剛は運命論者だ。
 どれだけ歳を重ねても、ロマンティストな思想は変わらなかった。
「俺、赤い糸ってずっと、運命の人に辿り着いて寄り添って生きる為の証やと思ってた。でも、最近思うんよ」
「どんな風に?」
「もしかしたら、赤い糸って傍にいて縛り付ける為のもんやなくて、例え地球の裏側にお互いが存在しても、信じ続ける為にあるもんなのかも知れないって」
「傍に、いなくても?」
「そうや。お前が手の届かない所にいても、赤い糸で繋がってさえすれば俺らは運命の存在や」
 左手の薬指に嵌る銀の輪は、もうずっと長い事彼を束縛し続けている。
 俺は、彼を解放する術を探し続けて来た。この手で雁字搦めにしなくても、最愛の人を優しく愛する方法を。
 今自分は、それを分かり掛けている。
「やからな、お前が准一の傍にいたいと思ってもええんや。俺はもう、ちゃんと信じられる。例え光一の全てを得られなくても、お前の運命の相手は俺やって」
 ずっと視線を逸らしていた光一の瞳が、躊躇いがちに上がる。可哀相な位怯えた色をしていた。
 俺はこうやって、お前を支配し続けたんやな。その罰が、今下されているのかも知れない。
 見詰め合って、彼の左手をそっと握った。黒曜石の瞳が水分の膜を張る。
 僅かだけれど、握り返す感触。久しぶりに手を繋いだ気がする。
「……俺を、許してくれるん?」
「許すも許さんもない。俺は、お前が好きなだけや」
「剛」
 その美しい瞳から、透明な雫が伝った。
 彼と長い事過ごして来た自分でさえ、何度も見た事はない泣き顔だった。眉を顰めて、溢れる感情を抑えようとしている。
「もし、俺が明日准一のとこへ行っても……?」
 本当に彼は、明日の朝いなくなるのかも知れない。それでも良い。
 良いのだと決めた。今は繋いでいるこの指先が、もう二度と帰って来なくても。
 お前は永遠に俺の物だと傲慢に思い続けるよ。光一の帰着点はいつでも俺の所だ。
 薬指をそっとなぞって、愛を告げる。優しい愛し方を、俺は見つけられたんかな。

「明日、お前がいなくなっても、愛してる」

「……ありがとう」
 泣き濡れた瞳が近付いて、優しく唇が触れた。
 赤い糸を、運命を、お前を、俺はこれからもずっと信じている。
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