小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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「Slow life, slow ending.」
光一が発見されたと聞いたのは、彼が姿を消して三日目の事だった。三日前の朝、忽然といなくなってから剛は死ぬ思いだったのだ。コンビを組んで十年以上。家族よりも長い時間を共に過ごして来た相方の失踪は、剛の精神を苛んでいた。
生放送のスタジオへ向かっていた車は、方向転換をして光一の元へ向かう。電話を受けているマネージャーの声が酷く焦っていた。仕事をキャンセルしてまで行くだなんて、よっぽどの非常事態だ。番組が急遽後輩達に差し替えられたと聞いたのは、随分後の事だった。
向かったのは事務所ではなく病院で、もしかしたら怪我をしているのかも知れないと思う。あの綺麗な顔に傷が付いていないと良い。
病院に入る前、マネージャーに「覚悟しといてくれ」と言われた。一度事務所で説明してから会わせようと思っていたのだが、直接見た方が早いと言う判断らしい。
先に社長の待つ部屋へ通された。どうやらカーテンで仕切られた向こう側に光一がいる様だ。
「本当は、仕事を優先させたいんだけどね」
椅子に座る様促しながら開口一番言われた。仕事に厳しい人だけど、何が本当に一番大切なのか知っている人だと思う。
「今光一の傍には東山と中居、それに長瀬がいるよ」
「え、皆いるんですか」
「うん。長瀬は撮影の合間に無理矢理来てるから員数外だけど。別に呼んでないのにね」
いよいよ非常事態だった。彼らが自身の事ではなく、特別大切にしているとは言っても後輩の為に、忙しい時間を割いてまで駆け付けるなんてあり得なかった。
社長は淡々と光一の現状を説明する。とりあえず無傷ではあるが、まだ精密検査の結果が出ていないから油断は出来ない事。明日の午後から通常通り仕事を始める事。犯人は男で、どうやら監禁目的で誘拐したらしい事。男は光一発見と同時に捕まっている事。
そして、と言いにくそうに此処へ来て初めて言葉が詰まる。
「やっぱり、どっか悪うしてるんですか」
「悪いと言えば悪いのかも知れない。あんな光一は初めて見るよ……」
マネージャー同様覚悟を決めて欲しいと言われ、剛は気が滅入って行くのを他人事の様に感じた。光一に一体何が起きていると言うのか。マネージャーがそっとカーテンを開ける。隙間から見えた光景に剛は唖然とした。
彼らの言う覚悟と言う言葉が重く圧し掛かる。あんな光一、きっと誰も知らない。東山達は、諦めた表情にそれでも諦め切れない色を滲ませてベッドの周りに立っていた。その中心には、白いシーツと同系色の色彩を持つ相方の姿がある。
普段あれ程懐いている先輩や親友を前にして、光一の顔は全くの無反応だった。その瞳に彼らの姿は映っていない。
微動だにしない光一の手に、中居が優しく自分の手を重ねている。今にも泣きそうに歪んだ顔が、彼の心情を良く表していた。
「保護されてからずっと、あのままなんだよ。誰が何をしても反応しない。……剛を早急に呼んだ意味、分かるよね」
真っ直ぐ問われると、剛は唇を噛み締めて視線を逸らした。社長の意図は痛い程に分かる。けれど、幾ら相方と言っても自信はなかった。
多分、自分より今部屋にいる彼らの方が、ずっと光一に近い。俺と光一は昔からずっと「相方」だった。それだけだった。
「剛にこんな役をやらせるのが酷な事位、充分分かっている。だけど、もう剛しかいないんだ」
男に監禁されていた事実は、ほんの僅かな関係者しか知らない。家族にすら伝える事は出来なかった。本当は、俺よりもずっと適任者がいるだろうに。光一の傍に既に彼らがいる以上、自分が最後の切り札として連れて来られたのは明白だった。
その期待に胃が痛くなりそうだけど、カーテンの向こうにある光一の表情を思い出す。何処にも表情のない瞳、冷え切った肌の色、俯いた頬の翳り。あんな顔、あいつには似合わへん。もし俺が呼んでも反応がなくて、自分の心が傷付くよりも。もっと痛い事だ、と思った。
カーテンを開けようと手を伸ばしながら、振り返らずに剛は問う。
「あいつ、泣きましたか」
「否、一度も……」
「そうですか」
辛い事を閉じ込めて、なかった事にしてしまう光一。そっちのが辛いんやって事に早よ気付け。
クッションに背中を預けて上半身を起こしている光一は、剛が部屋に入ってもぴくりとも動かなかった。ベッドの向こうに中居と東山、手前には衣装を来たままの長瀬が立っている。
「お疲れ、様です」
条件反射で出た言葉は、どうしようもなくこの場にそぐわなかった。誰もそんな事に等気付かなかったけれど。
「剛……」
三者三様の、けれど同じ苦しい表情で名前を呼ばれる。縋る様な響きに剛は逃げ出したくなった。それでも、光一の元へ歩み寄る。いつもならどんな遠くにいても交わせる視線が、真っ直ぐ向けられないのが辛かった。長瀬が場所を譲って、枕元に跪く。俯いたままの光一の視界に映り込もうと下から覗き込んだ。
「光一」
剛が呼べば、いつどんな時でも脊髄反射の原理で反応する人なのに。彼の五感は、全て塞がれているのかも知れない。深い傷を受けた心が壊れてしまわない為の自己防衛だ。
無反応の光一に傷付く自分は隠し切れなかったけど、優しい表情は崩さずに囁いた。
「お帰り」
投げ出された指先に触れて、腕を辿り頬を撫で、耳の後ろから髪を梳きながら、剛はゆっくりと話し続ける。思ったより気丈な自分を何処か遠い所で知覚しながら。
こんな光一を知っている。本当は脆く繊細な精神を持っているのに、どんな時でも彼は強く在ろうとした。高い壁を巡らせて崩れ易い心を深く深く隠す。
いつの間にか自身ですら忘れてしまった弱く小さな光一が、今目の前にいた。隠し方も繕い方も忘れ、全て晒されてしまう。それ程までに彼の傷は深層に及んでいた。光一の傷を思えば、反応がない事に傷付く自分等何でもなかった。痛いのは、彼だ。
「つよちゃん……」
不意に長瀬が剛の肩を掴んだ。
「え」
手を握って話し続けていた剛が振り仰ぐと、長瀬は無言でティッシュを差し出す。
「……泣いてるよ」
「あれ、ホンマや。カッコ悪いなあ」
自分の頬に触れると、剛は苦笑を零した。情けない。俺がいつも先に泣いてしまうから、光一は泣けなかったのに。
「光ちゃんの気持ちが伝染してもうたんかな。ちょお顔洗って来るわ」
努めて明るい声を出しながら、剛は立ち上がろうとした。触れていた指先を離すと、僅かだが彼の手に力が篭る。引き留める仕草だった。初めての反応にまた涙腺が緩む。
「つよちゃん今、情けない顔しとるから、引き締めて来るだけやで」
おどけた声で笑うと、白過ぎる手の甲を安心させる仕草で軽く叩いてから離す。立ち上がり背を向け、歩き出した次の瞬間。その場にいた人間は、時の止まる錯覚を起こした。
白い残像だけが鮮明に。後ろを向いていた剛は、完全に無防備だった。
まるで、スローモーションの様な。何度でも明確に再生出来る彩度。
眩しいばかりの白に、誰もが目を細めた。三人が小さく声を上げ、それに反応して振り返ろうとした剛の視界に、オフホワイトの光景。
「えっ!」
剛の背中にシーツを巻き付けた光一がきつくしがみついた。シャツを握り締めた指が震えている。小さな子供の様に怯えた彼を見て、その場にいた人間は誰も動けなかった。出会ってから一度も、こんな光一に出会った事はない。
剛も同様に呆然としたまま、それでも相方を安心させる為手を伸ばした。ゆっくりゆっくり抱き締める。
「光ちゃん、大丈夫か」
「……つよ、し」
小さな小さな叫び声が剛の心を抉る。俺の声はお前に届いたんか。いつもよりずっと小さく感じる身体を暖めようと強く抱きながら、皆の安心した顔を見る。
まだ、安心出来る段階ではなかったけれど、とりあえず光一が戻って来た。それが嬉しくて、剛はまた涙を零した。
+++++
それからまた幾人かの関係者が現れたけれど、光一は剛にしがみつくばかりで何の対応も出来なかった。自分の隣で怯えている彼の手を握りながら、剛は表情を曇らせている。
こんな風に手を繋ぐなんて、何年振りだろう。小さい時もっとずっと二人の関係は親密だった。大人への猜疑心ばかりが溢れていた子供達は、互いしか頼るものがなくて。
そんな時代はとうに過ぎたと思ったのに、光一は子供の頃と同じ目で剛を見上げる。この戸惑いをどう伝えれば良いのか。
確かに自分は相方で、仕事のパートナーとしてはこれ以上ない程信頼されているし、大切にされているとも思う。けれど、それはあくまで仕事上の付き合いであり、プライベートではなかった。
今の彼の状況はプライベートの域で、本当は自分が立ち入れる場所ではない。心の奥にある素の光一が望むのは、友人であり家族であり、少なくとも相方ではない筈だ。きっと、長瀬の方が適任者だった。どうして光一は俺なのか。
それなのに、俺で良かったと思う傲慢な自分も存在していた。他の誰でもなく、光一を救うのは自分だと。
彼にとって自分はいつでもスーパーマンの様な存在でいたかった。それは遠い昔、光一を守ると誓った幼い心が今も自分の中にあるからかも知れない。
検査結果を社長とマネージャーと一緒に聞いた後、ホテルへ向かった。家宅捜索の名残がある光一の自宅に帰す訳にはいかず、一人にする事も出来ないから剛も一緒にいる。ツインを三部屋借りて、光一と剛と事務所の人間用と。
当然の流れで一緒に向かう途中、剛はふと約束を思い出した。仕事が終わってから、彼女と出掛ける約束をしていたのだ。この頃会えない日が続いていて、じゃあ久しぶりにドライブでもしようか、なんて。
剛は一瞬も躊躇わずに携帯を取り出した。メール画面を呼び出すと、キャンセルの言葉を並べる。本当は電話の方が相手も安心するのだろうけど、今光一の傍から離れる事は出来なかった。彼は自分が触れてさえいれば、身体の震えが止まる。
ずっと手を繋いだまま、時々頭を撫でながら。出来るだけ優しくしたかった。病院で聞いた検査結果が剛を憂鬱にさせる。なるべく表情に出さない様気を付けながら、穏やかに彼を見詰めた。
+++++
ホテルに入ると、二人だけで取り残される。マネージャーは、仕事の調整や関係者への対応等、仕事が山程あった。事務所の人間が隣で待機してくれているけれど、部屋に入れる気にはならない。
親しい人間ですら駄目だったのに、他人がいたら光一は落ち着かないだろう。これ以上、ストレスを増やす訳にはいかない。
「何か欲しいもんあるか」
促されるままベッドに腰掛けていた光一の足元にしゃがんで、優しく問う。さっき自分の名前を呼んだきり、彼は口をきいていなかった。
此処ならもう、誰の目にもどんな危険にも晒される心配はないから、大丈夫やよ。何度か問いかければ、小さくゆっくりと答える。
「……風呂、入りたい」
ずっと焦点の合わなかった黒い瞳が、やっと剛の方を向いた。弾かれた様に立ち上がると、慌てて浴槽に湯を張る。ジャグジーの付いた広い浴室は、光一が気に入りそうだなと思った。全てを用意すると、彼の両手首に巻かれた包帯を外してから「入っといで」と笑う。
小さく頷いて浴室に入った光一を見届けて、剛は自分の事を始めた。明日のスケジュールを確認したり、彼女へフォローの電話を入れたり、待機していたスタッフを呼んで買い物を頼んだり。
色々やっていたのだが、いつまで経っても光一が出て来ない。風呂が好きな事位充分知っているのだが、幾ら何でも異常だった。
不審に思い、浴室の扉をノックしても返事がない。水音で聞こえないのかも知れないと、仕方なく扉を開けて中を覗いた。白い湯気に阻まれて奥まで見えない。
名前を呼びながら近付くと、シャワーを浴びたまま必死で身体を洗っている光一がいた。白い肌は既に真っ赤で、手首の傷からはまた血が滲み出ている。
服が濡れるのも構わずに、光一の手を掴んだ。不思議そうな顔で見上げるその無心な表情に、胸が痛む。
シャワーで泡を流して浴室から連れ出すと、バスタオルで身体を拭いた。光一は剛の動きを目で追っていたけれど、何も言わない。
バスローブを着せ誘眠剤を飲ませると、無理矢理ベッドに押し込んだ。横になった光一の手を取って、包帯を巻き直す。どうしようもなく指先が震えていた。隠す為に口を開く。
「もう寝てまい。疲れたやろ?」
「……うん」
薬が効いて来たのか、堕ちる様に光一は眠りに就いた。安心した寝顔を見詰めながら、剛は涙が溢れるのを堪えられなかった。病院で聞かされた医師の話を思い出す。
暴力の痕も暴行の痕も見られなかった。手首の擦過傷が唯一の傷で、他には何も。手首を縛られ監禁されていた光一の身体に見られた異常は、肌に付着した白い物質だけだった。
それは彼自身の体液で、他の人間の物は一切採取されなかったと言う。そして、現場に立ち込めていた花の香りは容易く手に入る媚薬の類いだったと。
其処から導き出される推測は、想像を絶していた。実際に何が行われていたのか、詳しい事は分からない。けれど、死ぬ程の苦しみと悲しみと屈辱が、この身体に渦巻いているのだろう。
+++++
翌日から何事もなかったかの様に仕事が再開された。あえて二人一緒の仕事を優先して、なるべく光一が安心出来る環境を作る。目覚めた時にはもうほとんどいつも通りの表情だったからほっとした。昨日の彼は幻覚だったのではないかと思う位。
スタジオに入っても怯えたり黙り込んでしまう事はない。少し違う事と言えば、俯きがちに笑う事と袖口をきっちり止めたシャツだけだった。関係者には結局、病気で通した。最初の内はホテルから通っていたけれど、マネージャーが部屋を片付け、事件から二週間が経つ頃にはすっかり日常が戻っていた。
剛も光一の傍にずっといる必要がなくなり、元通りの生活になっている。彼女には散々文句を言われたけれど、ドライブで機嫌を直してもらった。
仕事中、隣に立つ光一を見ても普段通り穏やかに笑っている。もう大丈夫なのだと思ったいつも通りの楽屋で、けれど剛は気付いてしまった。光一が仕事の合間や帰りの車の中で、虚空を見詰めている事に。その瞳は無感情でぞくりとする。
日を追うごとにぼんやりしている時間は長くなった。不安に思い「大丈夫か」と問うても「全然平気」と答えるばかりで埒が明かない。
仕事中は寧ろ元気な位で、どうしてやったら良いのか分からない。事件が起きてから、三ヶ月が過ぎようとしていた。
+++++
珍しく光一と仕事の終わり時間が一緒になり、両方の現場に寄って同じ車で帰る事になった。偶々自分のロケ地が光一の近くだったからなのだけど。後部座席で他愛もないお喋りをする。最近彼は良く笑った。見ている方が嬉しくなる位、はっきり笑う。
先に光一のマンションへ着いた。相変わらず高層マンションの好きな人やね。その理由を考えると可哀相になるけれど、それでもエントランスホールからしてセキュリティが厳重そうなのは安心出来る。と言っても、この場所で光一は誘拐されたのだ。
あの日以来、光一は頑なに口を閉ざしていた。一度も誰にも話す事がない。剛はそれでも良いと思っているけれど、周りはそうも行かないらしい。明日のスケジュールを確認して挨拶すると、光一は車を降りた。振り返って剛に緩く手を上げて、エントランスに向かおうとする。その時だった。
光一の背中を何気なく眺めていた剛が、気付いてすぐに車を降りる。何が起きたのか。尋常ではない表情に剛は焦る。エントランスに向かって歩き出した筈の光一は、何かに気付いてびくりと身体を竦めた。
そのまま戻ろうとした足は動かず、唯立ち尽くしてしまう。顔を真っ青にして震える光一の肩を抱いて、顔を覗き込んだ。
「どしたん」
剛の存在を認識すると、途端に身体の力を抜いてしゃがみ込む。その動きを追って剛も一緒に屈んだ。一体、何が起きたのだ。助手席にいたマネージャーも慌てて降りて来た。
「人が……人が、おってん」
「うん」
見れば確かにエントランスホールを抜けて行く、スーツ姿の男性がいる。
「あいつ、かと思てん。また……」
「もうええよ」
屈んだまま抱き締めて、光一を落ち着かせた。あの時と同じ様に、剛が触れていれば安心するらしい。傷は、少しも癒えていなかった。
ごめんと謝る光一に笑ってみせて、早よお家入りと促す。中にさえ入ってしまえば、後はもう安心だろう。
エントランスを通り抜けるのを見届けて光一が部屋に上がるまで、剛達は下で待つ事にする。部屋に入ったら扉をロックして剛の携帯を鳴らす様に言った。
光一の怯えた表情が頭から離れない。
きっと彼は、今日まで一度も忘れた事等ないのだ。毎日毎日、恐怖と闘いながら。それでも周りの人間には気付かれない様に。光一の心情を思うと、泣きそうになった。
部屋に戻り一人考えていた剛は、一つの決心をする。人を頼ろうとしない相方の為に。俺はお前の為に出来る事なら、何でもしてやりたいよ。
心に固く誓った剛は、翌日から時間の許す限り、光一の送り迎えの車に一緒に乗る事にした。きっと、一日の中で一番緊張を強いられる時間だろうから。光一が部屋に入って剛の携帯をコールするまで、必ずエントランスで待つ事にした。
家を出る時も帰る時も強張った表情を見せていたのが、剛が一緒にいる様になって三週間が過ぎる頃、やっと眠いままの顔で降りて来るまでになった。それと共に、無理して明るい笑顔を浮かべる事もなくなってほっとする。
剛の前ではどんどん無防備な表情を見せる様になって来て、嬉しかった。
+++++
光一が剛に真っ直ぐな信頼を見せる様になった頃、剛の心情に明確な変化が訪れる。これだけ長い時間共に過ごした相方に抱く感情ではないのかも知れないけれど、心から彼を守りたいと思った。外部のどんな物からも、もう二度と傷付けられない様に。
光一が気丈に笑えば笑う程、剛の気持ちは強くなる。少しも傷が癒えていないのに、思い出す事すら怖くて出来ないのに、何事もなかった素振りで笑うのだ。そんな振る舞いをさせたくなかった。
気が付けば光一中心の生活になっていた剛は、余り会えない恋人に電話を掛ける。「当分会えない」と言う謝罪の電話だった。光一が本当に落ち着くまで、誰よりも傍に居たい。けれど、受話器の向こうから返って来た言葉は冷静だった。
「当分じゃなくて、もう会えないんでしょ」
きっぱり言い切った彼女は低く笑う。貴方の心が何処にあるのかなんて、そんな事。会わなくても声だけで分かった。言い訳も何もさせずに通話を切り、短い恋の終わりに彼女は少しだけ泣いた。
剛は、呆然と手の中の携帯を眺め、言葉の意味を反芻している。光一を大切にしたい気持ちは本当だけど、それは家族の親愛に一番近い物であって。心を動かされる強烈な感情ではなかった。
けれど、何処かで納得している自分もいる。俺のこの器量では、心を傾ける人間をそんなに抱えられなかった。今一番大切にしたいのは光一。感情の種類は違うけど、その優先順位に間違いはなかった。
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光一と一緒に過ごす時間が増え、彼の精神状態が元通り安定して来た矢先、マネージャーからまた辛い記憶を抉る話が持ち出された。やっと暗い道も怖がらなくなったのに。手を取って俺が傍にいる事を教え、安心出来る場所をゆっくり増やしている所だった。
裁判所から証言の要請が来ているらしい。光一が口を開かなければ、男の罪は軽い物になってしまう。前科のないあの男では、きっと執行猶予すら付いてしまうだろうと。マネージャーが総出で光一を説得に掛かっても、彼は首を横に振るばかりだった。
「絶対、嫌や」
剛の手を強く握って、拒否の言葉を繰り返す。未だに監禁されていた三日間の事は何も分かっていなかった。光一は固く口を閉ざし続けている。
どんな時でも事務所の方針に素直だった彼の強情ぶりに諦めたらしいマネージャー達は、とりあえず今日はやめる形になったらしい。
ずっと隣で聞いていた剛も一緒に帰る事にした。今までソロ活動や個人的な部分の会議には、お互い干渉しないで来たのに。今はもうこんなにも深く入り込んでいる。それが良い事なのか悪い事なのかは、まだ分からなかった。
帰りの車の中、光一は重い沈黙を保っている。思い詰めた様な、今にも泣き出しそうな表情で。剛の言葉にも上手く反応出来ない。でも、ずっと指先は繋いだままだった。
光一の手はもうすっかり剛の体温を記憶していて、それに安心する自分も知ってしまった。剛の優しさにばかり甘えていては行けないのに。
「なあ、着いたで」
車が止まっても反応しない光一の肩を掴んで、軽く揺する。
「……え、あ。あ、ホンマや」
顔を上げて周囲を見渡したその瞳が暗く滲んでいて、剛は不安になった。このまま彼を一人にしてはいけないと、本能に一番近い部分が警告を発している。
「光ちゃん」
「ん?」
「茶、飲ませてくれへん?」
剛の問いにきょとんと目を見開いて、薄暗い車の中、光一は言葉の意味を理解しようとしていた。妙に思考回路の鈍い所がある人だから、もっと分かり易い言葉の方が良かったのかも知れない。
「お茶?」
「ぉん。光ちゃん家で飲みたい」
「……ああ、ええよ。お茶なんてあったかな」
やっと回路が繋がったらしい。マネージャーに目だけで笑んで車を降りた。光一が証言台に立っても立たなくても、俺はずっと彼の味方でいるだけだ。
光一の後に付いてエントランスホールを抜ける。初めて入る相方のプライベートゾーンだった。合宿所を出てからは、一度もお互いの部屋に足を踏み入れた事はない。
部屋に入ると、相変わらず几帳面に整理された空間が広がっていた。男の部屋やないで、これ。自分の知っているどの部屋よりも綺麗だった。
「その辺座ってて。今、お茶……」
「コーラかなんかでええよ」
本気で日本茶を煎れそうな気配だったから、先に釘を刺す。上着をハンガーに掛け、コーラを二つ持って来た光一とソファに並んで座った。
いつも車や楽屋で話している何でもない話題を適当に撒く。一緒にいたいと思っただけだから、彼が笑ってさえくれれば何でも良かった。
途中テレビを付け、会話を和ませながら小一時間が過ぎた頃、不意に光一のトーンが下がる。どうしたのかと隣を振り返れば、真っ直ぐな視線にぶつかった。
「……剛はどうして、こんな俺に優しくしてくれるん?」
本当に不思議そうな顔と無垢な瞳が胸に痛い。
「どうしてそんな事思うん?」
身体ごと光一の方を向いて慣れた仕草で頭を撫でると、小さくその顔が歪んだ。
「俺、ホントは汚いねん。剛に優しくしてもらえる様な人間ちゃうんよ」
ずっと、優しくされるのが苦しかった。お前に大事にされるべき人間じゃないんや。きっと本当の事を知ったら、俺ん事嫌いになる。瞳を滲ませて、光一は頑なに拒み続けていた三日間の出来事を話し始めた。
「朝、下で車待ってたらな、いきなり後ろから目隠しされてん」
あの場所は監視カメラもあるし、全く警戒なんてしていなかった。すぐに薬品の匂いがして、意識が遠のく。目覚めると其処は普通の住宅の玄関だった。周囲の目も気にせず堂々と入ると、どうやら男の部屋と思われる地下に向かう。
「部屋入ると、俺の写真が壁一面に貼ってあんねん。天井にも窓にも」
自分にこう言うタイプの熱狂的なファンがいる事は知っていた。唯々怖くて、吐きそうになる。
「真ん中にソファがあった。それも何かの撮影で使ったやつやって言うてた。俺は覚えてへんかったけど」
後ろ手に縛られたまま其処に座らされ、男は恍惚とした表情で、自分がどれ程光一を好きなのか話し出した。
「俺を幸せにしたいんやて。その為にはどうしたら良いかまで、全部話しとった」
俺が幸せになる為には、まずコンビを解散すべきだと男は熱く語る。剛の事を何も知らない癖に、俺達の事なんて何も。今でも胸が悪くなる相方の悪口は決して口に出さないけれど。
「んで、一人で勝手に喋り終わったらな、いきなり、服、脱がされてん……」
男の行動に光一の反応は遅れたが、それでも必死に抵抗をした。それが男の気に障ったらしい。手首をよりきつく縛られ、手を上げた状態で固く固定された。そして、おもむろにキャンドルに火を付ける。強過ぎる花の芳香にくらりとした。
「俺、男にヤられるんやなあて、妙に冷静に思っててん」
でも違った、と光一は唇を歪める。楽しそうに着せ替えを始めた男は、全裸にした光一の中心を躊躇わず口に含んだ。
な、嫌やろ。俺ん事汚いって、嫌いだって。口に出さない光一の言葉は雄弁に瞳に表れていて、剛は耐え切れず彼を引き寄せ抱き締めた。
「あんな奴にされて、イッてまうねん。俺」
それは部屋中に広がる催淫剤のせいなのだけど、光一に残ったのは男にイかされたと言う事実だけだった。三日間、寝る間もなく果てさせられた。服も数え切れない程替えられた。
三日目の朝「ああ、今日は生放送の日だったね」と笑って出掛ける支度を始めたあの男は、もう何処かが可笑しくなっていたのだと思う。あいつの中に罪悪感なんてものは、存在しなかったのだから。
抱き締められた剛の腕の中だけが、唯一安心出来る場所だった。ずっと彼がいてくれた事に感謝している。けれど。抱き締めている腕を解いて、身体を離した。
「俺なんかに優しくしたらあかん」
「阿呆か! 何言うてんねん! お前は一個も悪ないやろ。何も間違った事してへん。やから、お願いやから……」
自分の事そんな風に言わんでくれ。再び抱き込まれ、直接耳の中に囁かれた。剛は、ずっと優しい。
「あんな、二日目位にな、剛の声聞こえたんよ」
小さな頃人見知りの光一を引っ張ってくれた剛の言葉。今は口にする事もなくなった強く優しい彼の呪文。
「それからはずっと、剛に会いたかった。剛の声が聞きたかってん」
良かった、今は傍にある。あの中にいた三日間、思い出したのは剛の事だけだった。他の誰の名も思い浮かばなくて。何故か自分を助けてくれるのは剛しかいないのだと、ずっと昔から思っていた。
この年下の小さな少年は、ずっと自分のヒーローだったのだ。だからきっと、剛だけが俺を呼び戻せたのだと思う。
「剛、ありがとう」
「ありがとうもごめんなさいも要らんよ、光ちゃん」
視線の合う距離まで離れて、剛は笑う。
「俺がお前を守るのなんて当たり前なんやで」
今はもう傷すら見えない白い手首を親指の腹で優しくなぞった。この肌は、汚す為にあるんやない。唯愛され守られる為だけに。
このまま光一が証言しなければ、否例えしたとしても、いつか必ずあの男は出て来るだろう。もし再び光一の前に現れたなら。犯罪者になったって良いからこの人を守ろう。
ジャージに着替えさせ、一緒にベッドへ潜り込む。腕枕をしてやると、恥ずかしそうに笑った。その表情を誰にも見せたくないと思う。光一の心の奥にいる子供は、自分だけが知っていれば良い。
強欲な情に剛はひっそり笑った。彼女の言葉を思い出す。やっぱ、女の勘は凄いな。
「なあ、光一」
「うん?」
「俺はお前が大切やから」
「うん」
「どんな時でもそれだけは忘れんといてな」
「分かった」
ずっと零れる事のなかった涙が一筋、光一の頬を辿る。心地良さに誘われて、瞳を閉じた。剛が優しく笑む気配。するりと髪を梳かれると猫の仕草でそっと寄り添った。
愛を知った光一は、安らかに眠る。
【了】
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