小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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もうすぐ、夏が巡る。
彼と過ごす二度目の、もしかしたら最後になるかも知れない夏。強い陽射しの下で輝く彼を網膜に焼き付けたかった。俺の中学生活を鮮やかに染めたあの人の後ろ姿を。
「剛君、相変わらず飽きんのやねえ」
のんびりした声が背後から聞こえる。静かな美術室に似合う低い声は、心地良かった。声の主は、友人で美術部副部長であり、実質この部屋を取り仕切っている同級生のものだ。
「飽きへんよ、全然」
それは、半年以上前から描いている絵に対してではなかった。校舎の最上階、四階に位置するこの部屋の窓際を陣取ってキャンバスに向かい続ける剛の理由を知りながら、岡田は笑わない。
本格的に絵の道を目指している分アドバイスはくれるけれど、それ以外には決して口を出さなかった。当たり前みたいに応援してくれる。頑張って仕上げんとな、なんて。なかなか出来ない事だと思った。
「この絵描く為だけに、美術部おるんやもん」
筆すら握らず布で覆われたままのキャンバスと対峙するだけだった剛が、ゆっくりと振り返る。誰もいない美術室。文系の部活は自由参加が多いけれど、この部活程幽霊部員の多い所はないだろう。期末考査三週間前だと言うのに、テスト勉強と称して、誰も参加する気はないらしい。
三年の部長ですら受験生だからと言って、春から姿を見せていなかった。毎日飽きずにこの部屋へ足を運ぶのは、副部長位なものだ。
視線を合わせるとまどろむ様に笑った岡田が、剛の向こう、硝子の外に目を向けた。少しだけ開けられた窓の隙間から水分を含んだ風が流れ込む。
しとしとと緑を濡らす雨の音。大地に恵みを与える穀雨は、しかし窓際を陣取る友人から創作意欲を奪い取ってしまう。
岡田の視線の行方を追わずに瞳を伏せた剛が小さく呟いた。薄暗い教室に放られた言葉は、無感情の癖に重い溜め息を孕んでいる。無意識に右足を指先がなぞっていた。湿気の多い空気は、傷を疼かせるのだろうか。今は痛い素振りすら見せないけれど。
傷ではなく、その心は今もきっと痛んでいる。剛の瞳の中には、二度と消えない痛みがあった。挫折の色。
「今日は、描けんけどなあ。描くもんがおらん」
寂しい声にはいつも曇りがない。それがこの友人の怖い所だと岡田は思った。自分より余程、芸術家の繊細な心を有している。雨の校庭は水溜まりを作るばかりで、人影もなく静まり返っていた。其処に人がいなければ意味はない。剛は、晴れの日ばかり部室に訪れた。
自分と話したい訳でもあるまいし、何故此処にいるのか。白い布を見詰めている目は、残酷な程真っ直ぐだった。そんな目で世界を見ていたら苦しいだろうにと、芸術家らしい発想で岡田は考える。
今日此処にいる理由を問おうとした瞬間、扉の開く音が背後から聞こえた。自分の真後ろ、教室の前方の引き戸だ。
振り返るより先に、誰が来たのかを悟る。座っていた友人の空気が、ぱっと明るくなった。明確な彩度の変化。
「先輩!」
扉を開けたまま硬直している。どうしようかと、扉に手を掛けた右手が迷っていた。白いシャツが、彼の印象を鮮烈にする。柔和な雰囲気と、躊躇する臆病と。
柔らかな前髪の間から覗く瞳は、外にいる事が多くても日焼けしない完璧な黒だった。黒目ばかりの目が、この人の雰囲気を幼く見せる。
「室内練習終わってもうてん。……岡田も一緒やったんや。邪魔? 俺」
此処で曖昧な返事をしたらそのまま本気で扉を閉めてしまう人だ。行儀が良いと言うか、先輩権限を使ってずかずか侵入して来ない彼が岡田は思い掛けず好きだった。剛が雨の部室にいる意味だ。瞬時に理解して、慌てて首を横に振った。
「とんでもない! 入って下さいよ」
背後の剛に気を遣いながら、彼の右手を見詰めて入室を促す。日焼けした肌なのに手首の内側は、驚く程白かった。本来持っている色素が薄いのだろう。部活動を真剣に行っている割には長めの髪も、日が当たるときらきらと茶色かった。女子にファンが多いのも頷ける容姿をしている。
「そのまんま帰ろうかとも思てんけど。時間早いし、雨も強いし」
言い訳の様に呟きながら、光一は美術室へ足を踏み入れた。自分のフィールドではない場所に入るのは、勇気がいる。剛が優しく笑うから、それにつられて目尻を綻ばせた。迷わずに、彼の前に立つ。雨の日は、気が滅入って仕方なかった。この部屋に来ると安心する。
「雨、小降りになるまで此処におったら?俺も帰るのしんどいなあ思ってたんです」
自分の隣にあった椅子を勧めて座らせた。そのままきょとんと見上げる瞳が愛らしい。先輩に使う言葉ではないと思ったが、心の中で思うだけなら構わないだろう。
こうして制服を着てしまうと、グラウンドにいる時の彼を想像し難い。体の弱い良家のご子息、そんな印象があった。誰も彼が野球部部長だなんて思わないだろう。
「うん、そぉしよかな。最近雨ばっかやから、練習出来んねん。一年は喜んで帰るけど、俺ら三年は最後やからなあ」
「大会、いつですか?」
「七月。今年は県大まで行けたら良いんやけど」
美術部部員の二年生と野球部部長の三年生。一見何の共通点も見出せない二人だが、まるで幼馴染みの様に自然に話す。柔らかな空気が部室に広がって、岡田は良いなと思った。
彼らが肩を寄せ合って話している姿は微笑ましい。何処にも根拠のない信頼が、確かに此処にあった。
「じゃ、堂本先輩。僕今日教室あるんで失礼します」
「今日は、何?」
「彫像です。まだ始めたばっかりなんですけどね」
「そか。岡田は忙しいなあ」
のんびりと言われて、それなら貴方だって忙しいでしょうと言いたくなるのを堪えた。三年生が二年生に言う言葉ではない。
「雨、強いから。気を付けて」
「はい、ありがとうございます。剛君の事宜しくお願いします」
「おう。任しとき」
含まれた意味等分からない先輩は、迷いなく承諾した。友人が無言の抗議を視線で訴えたけれど、無視をする。帰ろうと荷物を抱えた所で、思い付いて二人を振り返る。
不穏な気配を察知したのか、剛が本能のまま顔を上げた。それを追う様にして、先輩も振り向く。目を細めてゆったり二人を見下ろした。
「剛君、そろそろ見せたげたら? それ」
指を指して、布を被ったキャンバスを指差す。言い逃げと言わんばかりに、部室を出た。歪んだ彼の顔、同意する様に小さく頷いた先輩。
良い事をした、と岡田は人の悪い遣りようで笑うと昇降口を目指した。美術室に残された二人は、思惑通りの展開だ。
「そぉやでー。剛、俺に一度も見せてくれへん」
「やーかーら、出来たら見せる言うてるでしょ」
「いや。今見たい」
「……途中で見たら、完成した時の楽しみ減るやないですか」
子供を諭しているみたいだ、と剛は思う。聞き分けの良い優等生の筈なのに、たまにこう言う駄々を捏ねる人だった。可愛いと思ってしまう自分がいけないのだろうか。
「いーや。途中も最後も全部見たいの。何事も結果だけやなくて、経過も大事やろ?」
「お前、それ理論的なんかこじつけなんか分からんわ」
「あー剛。先輩にお前なんて言うたらあかんやろ」
「はいはい、光一先輩」
「ちゃう、堂本先輩」
「名字同じなんにこそばゆいやろ、それは」
「お前だけや、光一先輩なんて微妙な呼び方すんの」
「やって、後輩に堂本は俺一人なんやからしょうがないでしょ。大体、最初にそれで良いって言ったんは何処の誰ですか」
「しゃあないなあ。それ許したるから、絵見せて」
「あんた、いつも何て呼んでも怒らない癖に、狙ってたやろー」
「あ、ばれた?」
へへと笑う小動物の愛らしさに騙されてはいけない。こう見えても、野球に命を懸けている部長殿だ。見た目の柔らかさをそのまま彼の内面だと思って接すると、後悔する。剛は後悔して、それ以上の苦しみに苛まれる事となったのだけれど。
今でも思っている。もし自分達の名字が同じじゃなかったら、今頃こんな風に話す事はなかったかも知れない。誰よりも好きだと思う光一の傍にいられる事。幾つもの偶然と幾つかの痛みが二人を近付けた。
もしかしたら今も、彼にとって自分は何十人もいる後輩の一人だった可能性もある。
笑うと目が溶ける感じとか、新陳代謝の割に指先が冷たい事とか、強がりな癖に甘えたがりだったり。そんな大切な事を知らずにいたら。痛みと同じ分、喜びも愛しさも気付なかっただろう。光一が当たり前の様に自分を自分を見詰めてくれる幸福を、大切にしようと思った。
剛は、一つ年上の接点の少ない同性の先輩、堂本光一に恋をしている。僅かな偶然を積み重ねた現在を、彼が此処を訪れてくれる奇跡を、静かに噛み締めていた。
+++++
初めて光一の存在を知ったのは、入学して間もない頃だった。珍しい名字の一致が、教師の興味を誘ったらしい。どう見ても兄弟じゃないわなあ、でも堂本やなんてホンマ珍しい。
どう見ても、と言われても剛はまだその同じ名字の先輩を見た事がなかった。唯、『光一』と言う名前はクラスメイトを覚えるよりも先にはっきりと記憶される。
自分とは全然違う容姿の、野球部のエース。部活見学にでも行けば良かったのだろうが、残念ながら剛は入学する前に部活を決めていた。小学校の頃から、自信があるのはバスケだけだ。将来はNBAに出てみたい、なんて本気で思っている。まだ、その本気が許される年齢だった。
夢は大きく持て。子供に繰り返される言葉。迷いはなかった。このまま練習を続けて、いつかは夢の舞台まで。届くのだと信じていた、中一の四月。
堂本光一の姿を認識出来たのは、五月に入ってからだった。バスケ部の練習で校庭をランニングしている時、先輩が野球部を指差してみせる。上がった息のまま示す方向を見ると、キャッチボールに勤しむ小さな姿が見えた。
「ほら、あの手前の。ユニフォームが真っ白な奴。あれが堂本やで。いっつも洗濯してて綺麗やから、すぐ分かるんや」
「……うん、綺麗やな」
剛が指したのはユニフォームの事ではなかった。暖かな陽射しの中で綺麗に放物線を描くボール。それを追い駆けるキャップに隠れた小さな頭。膝についた健康的な色の手の甲。遠くからでも分かる。ちゃんと向き合わなくても見えた。
彼は『特別』な人だ。野球の上手さは良く分からないけれど、でもきっと早いボールを投げるのだろう。その指先から生まれるボールを思い描いた。青い空に似合いそうなシチュエーション。
彼の纏う空気に引き込まれる。こりゃ、全然違うわな。自分とは別の世界にいる人だった。兄弟か、と聞いて来る先生達の気が知れん。
綺麗だと思った。けれど、それだけだった。まだ剛の世界は明るい場所にあって、自分の描く夢に向かって走っていたから。きちんと立ち止まって他人を見る余裕なんてなかったのだ。
光一の思い出は、いつでも痛みと共にあった。始まりがこの胸の痛みに起因しているのだから仕方ない。痛みを消す為に好きになった訳じゃなかった。
小学校の頃から熱心にバスケに取り組んでいた剛は、先輩の妬みを買う事もなく当然の様にレギュラーに選ばれた。この中学校に自分より上手い人間はいない。その実力を本人も周囲も十分分かっていた。
地区大会も勝つ事しか考えていない。このメンバーでは全国なんて到底無理だけれど、県大会位までは行けるのではないだろうか。
剛には自信とそれを裏付ける確かな実力があった。自信が傲慢と映らないのは人徳だと、友人に良く笑われる。自信がなければ、ゴールに進めない。あのリングを見定める為には、迷いのない意思が必要だった。
何の不安もなく臨んだ大会は、剛の予想通り順当に勝ち進んで行った。トーナメント制。負ければ終わり。総当たりより分かりやすくて、好きだった。準決勝まで圧勝で進んで行く。次に当たるのは、去年の優勝校。県大会でも上位に食い込んだ常勝校だ。
剛は、身長の低さを技術でカバーしなくてはならない。対戦校は中学生の平均身長を軽く上回るメンバーだった。彼らの足下を切り込んで行く。
小さい剛が強いのは、隙間を正確に抜けて行く力と、ゴール前での勝負強さにあった。迷わない。強気のプレー。その持ち味を自身で疑った事はなかった。
試合が開始してすぐの出来事だ。相手の攻めにめげずその僅かな隙間を抜けようとした一瞬。剛に分かったのは、掌からボールが離れた事だけだった。
相手の顔が苦痛に歪んだのと、試合を見に来ていた女子の悲鳴、先輩が必死な顔で走り寄って、その後ろに顧問の姿も見える。全てがスローモーションの動きだ。
自分の置かれている状況が分からなかった。体が傾いでいる。どうして?ボールは何処行ったんや?ゴールポールが遠くに見える。いつもはあんなに近く、はっきりと見えるのに。激痛が走ったのは、それからだった。
剛自身が認識出来たのは、痛みだけだった。その後の事は、良く覚えていない。救急車のサイレンが聞こえた様な気もするけれど、上手く意識出来なかった。
朦朧とした中で、一つだけはっきりと分かっていた事がある。病院に着いて検査されるまでもなかった。
もう、あのコートの中で自分は未来を目指せない。
足にある痛みは、現実を教えていた。医師の言葉等必要ない。身体が何よりも正確に理解していた。剛の予想通り、診断結果は靭帯損傷。軽い運動なら構わないが、この怪我を庇いながらバスケを続けるのは難しいだろうと言われた。
ほんの少し前まで明るく開けていた道が、暗く閉ざされる。十三歳の剛に、この現実は余りに残酷だった。誰も慰める術を持たない。
誰の言葉も受け入れられなかったからだ。ベッドの上で一人涙を流す剛を支える者はなかった。
大会は、結局再試合となり呆気無く負けたらしい。其処に自分がいたらどうなっていただろうと、考える余裕すらなかった。もう二度と、あの場所には立てないのだ。手術の日を前に、母親に頼んで退部届けを提出する事に決めた。遊びで続ける強さはない。
いつだって全力だった。夢を実現する自信があった。自分を支えていた足下が、音を立てて崩れて行く。悔しさだけが胸を占めて、眠れない夜を過ごした。
手術は、八月の第一週。終業式も出ずに夏休みを迎えてしまった。靭帯を修復する為の手術は日常生活を行う為に必要な事で、今の剛には大して意味がない。どうせなら、二度と歩けなくなれば良かった。その方が辛くない。
深みへと嵌まった思考は、救いようがなかった。病室から見上げる空は、青いばかり。夏の強い太陽は、剛に希望を見せてくれない。ギブスで固められた足を見詰めても、過去は帰らなかった。
静かな夏の午後、特にする事もなく窓の外を見詰めていると、不意にノックする音が部屋に響く。友人や先輩は最初の頃見舞いに来てくれたけれど、固く閉ざされた剛の心に皆諦めて帰って行った。今この部屋を訪れるのは、家族と看護士位なものだ。
「……どうぞ」
けれど、そのどちらもノックして待つ習慣等ない。まして、声を掛けて扉が開かないなんて。誰だろう。扉の外で躊躇している気配。友人だろうか。見舞いには来たものの、前回の訪問を思い出して?剛自身も反省している。せっかく見舞いに来てくれた人達に挨拶も碌にせず、黙り込んでしまった。
あの頃は本当に世界が暗闇の中にあって、呼吸もままならなかったのだ。その中で他人に気遣い等出来よう筈もない。今なら少しは笑えるから。泣いても叫んでも変わらない現実をきちんと認識出来た。だから、大丈夫。まだ胸はじゅくじゅくと膿んでいるけれど。
「どうぞ?」
不審に思いもう一度声を掛けてみると、やっと決意した様に扉が開かれた。現れた姿に思わず息を飲む。其処に立っていたのは、友人でも家族でも看護士でもなかった。予想外、と言うよりも想定外の人。こんなの、予想不可能だ。
「……堂本、先輩」
一度も言葉を交わした事のない、一つ上の同じ名字の先輩。病室を間違えたのかと思った。外の名札には『堂本』としか書いていない筈だ。
けれど、その黒い瞳が真っ直ぐこちらを見詰めていて、自分の意志で此処へ来たのだと告げている。八月の空気の中にあっても、彼の涼やかな印象は変わらなかった。
日に焼けた肌に深い藍色のポロシャツが良く似合っている。細身のジーンズも、腕に抱いた清楚な花束も校内にいる時の彼と違っていて新鮮だった。纏う空気だけが変わらずに綺麗だ。病院の白がすんなり嵌まってしまう。
自分から入って来たのに、挨拶の一つもせず立ったままだった。何を思って此処に足を運んだのか。分からない。とりあえず上級生を尊重して剛も沈黙を保っていたが、埒があかないので自分から声を発した。
入院した時よりは良い精神状態だと自分で思う。他人の為に気遣う事を思い出して来た。
「こっち、椅子あるんで。とりあえず入って下さい」
「……あ、うん」
そう言えば野球部の友人が「堂本先輩は話し掛け辛い」と言っていたのを思い出す。お前はこんなに話し易いのになあ、なんて無責任な事も言われた気がした。黙ったまま病室に入った先輩は、椅子に座って言葉を探している様だった。確かに話し辛そうだ。妙に納得して、今日はどうしたんですかと聞いてみる。
「あ、今、俺のじいちゃん入院してて、それで。見舞い、と気になって……」
「ああ。俺ん事知ってたんですね」
「当たり前やん。名字同じやもん。……バスケ部の事聞いてたし、怪我も酷いみたいやから」
「それでわざわざ?」
「やって、心配するやろ、普通。怪我なんて。でも、じいちゃんのついでで、病室も近かったから、それで」
一生懸命言い募る先輩に苦笑を漏らしてしまった。此処に来た事を後悔している感じだ。もっと、堂々としてれば良いのに。先輩なんやから。
「ありがとうございます。こんな、来てくれるなんて思わんかったから、嬉しいです」
言えば、やっとほっとした様に肩の力を抜いた。腕に抱えた花束がかさりと揺れる。長居する気はないらしい。少し和んだ目許が、悲しそうに細められた。
言葉を発する前の一瞬の躊躇。優しい人だと思った。自分は、この後に零れる言葉を知っている。
もう何度もされた質問だった。けれど、彼はその質問を躊躇っている。
「堂本、ホンマにやめるん?」
「……はい」
「リハビリとかでどうにかならんの?あんなに、上手かったのに」
「俺の、見た事あるんすか?」
「うん。お前目立つもん」
衒いなく言われて、剛が言葉に詰まった。こんな風に率直に誉められる事は少ない。しかも知っていたとは言っても、ほとんど初対面の相手に。
彼が素直だったせいかも知れない。もしくは、同じ名字の親近感だろうか。自分の中にどんな感情の作用が起こったのかは分からない。気付けば、素直に言葉が溢れていた。バスケ部の先輩にも誰にも吐露しなかった心情。
「……もう、バスケはやらんと思います。二度と。前みたいに動けないんは、嫌や」
「怖いんか?」
真っ黒な瞳が正面から合わされる。核心を突く言葉。彼の周りにはきらきらと透明な空気が纏っている。迷いのない問い掛けは、断定と同義だった。透明な人。その色は、自分が目指した未来の色に似ていると思った。
彼はまだ、夢を見ている。悔しかった。自分もほんの少し前まで、其処にいたのに。今は暗闇に蹲って動けない。
怖かった。思い通りに動かない身体。練習をすれば、その分上手くなる。その原理を一度も疑わずに生きて来た。
バスケで食って行くんや、と小さい頃から思っていた。こんな風に、夢の終わりが来るなんて。怖い。悔しい。苦しい。俺を助けて。この身体を元通りにして。
「あれだけ動けてたんやもん。堂本みたいに高くジャンプする奴、初めて見た。凄いと思うたよ。……やから、怖いのなんて当たり前や」
優しく深い声に、思わず涙が零れる。怪我をしてからずっと堪える様に、一度堰を切ったら駄目になりそうで泣けなかった。初めて話したのに、こんなにも安心している。
晒しても良いのだと、彼の目が穏やかに笑った。大丈夫。ちゃんと聞いたるよ。雄弁に語り掛ける、その瞳に負けた。
「俺、今まで怖いもんなんか一個もなかった。練習すれば高く跳べたし、足やって誰も追い付けん位早かったんや。でも、どんなに頑張ったって、怪我する前には戻れん。……今は、歩くのも怖い」
先輩は息を殺して、泣き言を聞くだけだった。何のアドバイスもない。静かに眉を顰めて、自分の事の様に顔を痛みに歪めていた。泣いている俺よりも、彼の方が余程泣きたそうだった。
胸に支えていた言葉を吐き出して泣きじゃくる俺の手を、そっと握り込まれる。真夏だと言うのに、ひんやりした指先。さらさらの感触は、彼の印象そのままだ。優しい体温が、気分を落ち着けた。
涙も乾く頃、ぽつりと先輩が零す。それはアドバイスでも何でもなかったけれど、剛の心を勇気付けた。彼は、俯いたまま少し小さな声で言う。取っ付き難いイメージそのままに。けれど、それは人と接する事が苦手なせいなのだと思い当たる。
こうして病室に訪れるだけでも相当悩んだ事だろう。考えると、剛は嬉しくなった。グラウンドの遠くから見るだけだった人。世界が違うと思った。その人が、今此処にいる。
「……じいちゃんの見舞いのついでになるけど、また来てもええ?」
「はい、いつでも待ってます」
断る理由はなかった。静かに手を離すと、花束を抱え直して立ち上がる。じゃあ、と開き掛けた唇が惑って閉じた。何かに目を留めたらしい。剛の脇。サイドテーブル。何だろうと振り返った。先輩の視線の先。何ですか、と問おうとする前に彼の手が動いた。驚いて、振り返る。
「お見舞い。手ぶらやったからな。お裾分けであれやけど。じゃ」
慌てて背中を向けて、病室を出て行く。僅かに頬が淡く染まっていたのは気のせいではないだろう。自分のした事に恥ずかしがって目を伏せた一瞬を、視力の良い剛は見逃していない。ひっそり笑って、サイドテーブルに視線を遣った。
其処には、空の花瓶に挿された一輪のガーベラ。夏の陽射しに似合う強いオレンジだった。気障はきっと性に合わないだろうに。一つ年上の先輩を可愛いと思った。いつの間にか気分が軽くなっている事に気付くのは、それからもう少し経って母親が見舞いに訪れてからの事だ。
他人に優しくする感覚を思い出していた。心にある傷は癒えないけれど、あの暗闇からは抜け出せた気がする。
それから本当に、先輩は何度も病室を訪れた。剛が退院する前日まで、飽きずに何度も。お見舞いと言って何か持って来る事はなかったし、楽しい話題で笑わせる様な事もなかった。言葉少ない彼の優しさは、行動でしか推測出来ないけれど。
名字が同じなだけの後輩を気に掛けてくれるのが分かった。最後まで病室に入る時に躊躇するのは変わらなくて。いつもどうしたら良いのか考えながら、きっと今日はやめようかなんて思いながら来てくれたんだと思う。
あの時の彼の心情は、今も分からない。痛そうに顰められた顔。優しく話を聞いてくれた目許の綻び。照れた様に俯く度に流れる色素の薄い髪。何もかもが鮮明なのに、彼の意図だけが読めなかった。
こんな縁もゆかりもない後輩を気に掛けてくれる理由。訪れてくれる度に募る嬉しさにブレーキを掛けたかったのかも知れない。
見舞いに来た友人に、さり気なく学校での先輩の様子を聞いてみた。物静かな印象は、誰に聞いても変わらない。運動も勉強も出来て、それが嫌味ではない優等生。
部活でも教室でも、特別親しい人間はいないらしい。誰にでも公平に。聞いていると、学級委員長の様な話ばかりだった。
それでも何となく良い印象を持たれているのは、透明な空気のせいだろうか。勿論、あの顔で野球部ピッチャーとくれば人気はある。バレンタインのチョコの数は学年一だったと、何処で統計取ってんねんなんて話もまことしやかに伝わる位。
けれど、そんな事には無頓着に生活しているだろう彼を想像して笑った。誰とでも仲が良い。つまり、誰とも仲が良くないと言う事だ。
少し話すのが苦手で、少し人見知りなだけやのにな。剛は、そんな先輩が自分の元を訪れる優越感すら抱いていた。
多分、光一を意識したのはこの時期だったのだろう。無意識の意識。心は明確な方へ進んでいると言うのに。まだ、名前すらない感情。重ねられた手の感触を、今も鮮明に覚えている。
+++++
野球部部長である光一は、苛々していた。夏の大会も近いと言うのに、此処最近雨続きだ。溜め息も出ない程憂鬱だった。体育館は他の部活に占領されていて使えない。校舎内で行う練習には限界がある。どんなに綿密に練習メニューを組んでもどうしようもなかった。
校内でボールを使う訳にもいかず、基礎練習ばかり。部員が飽きているのにも気付いている。自分だって、ボールを投げたかった。無意識に右肩を擦る。
ピッチャーの肩。一刻も早く、投げなければ。
光一には、夏の大会が最後だ。中学時代最後、ではなく野球が出来る最後と言う意味で。高校からは勉強に専念すると決めていた。だからこそ余計に、もっと練習がしたい。
部長の勝手な感傷に付き合わされる部員には悪いと思っているけれど、練習して強くなるのは決して悪い事じゃないと考えていた。
思っても、天気には敵わない。どうにもならない苛立ちは、体内で燻るばかりだ。口の足りない自分には、胸の内を吐き出す術がない。
今日も早めに室内練習が終わってしまい、部誌を書きながら溜め息を吐いた。動きたい。自分はまだ投げられる。ボールの行方が見えなくなるまで、練習がしたかった。
夕暮れのオレンジに染まるベースの淡い色が好きだ。砂ぼこりに塗れた身体をシャワーで流すのも、目覚め切らない内から練習を始めるのも、全部。
時間がない。後何度ボールを投げられるだろう。バットにボールが吸い付く感触すら忘れてしまいそうだ。ホームランなら必ず分かる。手に伝わった振動で。もっと走りたいと、光一は一人唇を噛んだ。
暗い空、止まない音、誰もいない部室。全てが圧迫感を伴って、光一を苦しめる。水中にいるのに息の出来ない魚の様な。もがけばもがく程沈んで行くダイバーの様な。灰色の海の中。
もう一度溜め息を吐いて、机に突っ伏した。この苛立ちは、自分だけのものだ。身勝手なままに他人に明け渡して良い感情ではない。けれど。
目を閉じて、助けを求めたい衝動を堪えた。息が出来ない。苦しい。死んでしまう。灰色の世界で一人、何処にも走り出せずにいた。苦しい。悲しい。俯せたまま手を伸ばす。自分は一体誰に助けてもらいたいのか。誰もいない。この閉じられた世界には誰も来れやしなかった。
それでも、指先を虚空へ伸ばす。この先に本当は誰にいてもらいたいんだろう。明確な像を結べない俺は、寂しい人間なのかも知れない。誰もいない。海の底に沈んだ灰色の世界。其処で一人朽ちて行く。
原罪として抱えている世界だった。誰にも救えない。この孤独は、生まれた瞬間から自分だけのものだ。
思って諦めようとした瞬間、閉じた瞼の裏で蘇る映像があった。いつか見上げた明かり。冬の夕暮れは早くて、グラウンドも長く使えない。落ちたボールさえ見失ってしまう暗がりから見上げた、四階の明かり。
下校時刻をとうに過ぎて誰もいない筈の校内。四階は特別室ばかりだった。一番左の奥の部屋。美術室だ。
指の先で輪郭が見えた。それを払拭する為に顔を上げる。助けて欲しい訳じゃなかった。唯、困った様に笑う賢い犬の様な彼を見て安心したい。あの後輩は、俺にいつでも安らげる場所を提供してくれた。心地良い空気。
彼に甘えてはいけない事も分かっている。俺は狡い。未だに見せられない本心は、醜悪だった。とてもじゃないが、あの繊細な心を持つ後輩には見せられない。全てを知らなくても良かった。
それでも、俺が今一番親しいのは彼だ。友人でも同じ部活の後輩でもないけれど。思えば、彼との接点なんて何処にも見出せない。
だから良いのかも知れなかった。彼なら、今のこの苛立ちを理解してくれる。綺麗に溶かしてくれる。
部誌を慌てて書き上げると、荷物を持って部室を飛び出した。誰もいない廊下を走る。四階の、一番奥の部屋。其処にいてくれると信じていた。無条件に信じている自分に驚く。
光一は、まだ子供だった。多分、剛よりずっと。未だ、その心は目覚めない。芽生えた思いを自覚するには、不器用過ぎた。幼過ぎた。迷いなく走る意味に気付けない。
指先に結ばれた像、其処にいた彼は優しく笑んでいたのに。慈しむ心で。光一の知らない感情をその表情に乗せて。
恋はまだ。目覚めない。
全速力で階段を駆け上がって、静けさに満ちた四階に足を踏み入れた途端光一は躊躇して立ち止まってしまった。何の確信があったのか。室内練習とは言え、運動系の部活一活動時間の長い野球部の練習が終わって、部誌も書き上げてから来たのだ。このまま廊下の突き当たりまで進めば美術室がある。
分かってはいても、意気消沈した足は上手く進まなかった。上がった息を抑えながらゆっくり歩く。人の気配はなかった。扉の前、小さく深呼吸をして立ち止まる。身の内の衝動がきちんと処理出来ていなかった。
迷わず此処まで走れたのに。光一は何度でも振り出しに戻ってしまう。進んだ感情を、自分の手で引き戻した。また、分からなくなる。いつまでもその繰り返しで、彼の元まで届かなかった。
可哀想だと言ってくれる人は、いない。立て付けの悪い扉をゆっくり開けた。予想通り、室内に剛の姿はない。先刻、小降りになった時間があったからその時にでも帰ってしまったのだろう。
いつでも待っていてくれる印象があるから、勘違いしてしまう。剛には剛の時間があって、それが自分の時間とぴったり重なる事はない。自分は、剛との時間よりも常に野球部の、自分のやりたい事を優先していた。彼にだけ、時間を自分の為に用意してもらうのは我儘だ。
分かってはいても、胸が痛かった。放課後には剛の笑顔があるのが当たり前で、それが一年も経たない内になくなってしまうのだ。
卒業したら、この穏やかな時間は失われる。そんな先の事なんて今から考えていても仕方なかった。
美術室に足を踏み入れると、独特の匂いが鼻をつく。油のきつい匂いは苦手だった筈なのに、いつの間にか不快感を抱かなくなった。理由は明白で、わざわざ考える必要もない。此処にいる為に慣れた。それだけの事。
窓際に寄って、グラウンドを見下ろす。雨に霞んだ硝子の向こう。自分のいる場所だった。今は雨に濡れてしまった、土の上を走るのが好きだ。野球をしている時が一番幸せだった。
多分、野球以外の事は余り好きじゃない。勉強も、友人と交わす他愛もない会話――女の子の事やテレビの話題――も自ら望んでしようとは思わなかった。
日常の全ては、光一の視界の中で色を持たない。あの場所にいる時だけが、唯一鮮やかな時間だった。大好きだと思う。
けれど、その野球からももうすぐ離れなければならなかった。勉強に専念する事は両親の希望だ。自分も十分納得していた。甲子園を目指せる程強い訳でもないけれど、続けようと思えば勉強と平行すれば良い。その道を選ばないのは。
右の肩にそっと触れる。
唇を噛み締めて、湿気を纏った硝子に額を押し当てた。目を閉じて、叫びたい衝動を堪える。苛々しているのは、これのせいだった。
剛と初めて話したあの日、医師から告げられた言葉を生涯忘れる事はないだろう。残酷に胸に届いた響きは、今も傷口を広げている。癒えない傷。剛と一緒だ。
彼の部屋に向かったのは、後輩を慰める優しい先輩を演じる為なんかじゃなかった。同じ人間を、好きな事をし続けた代償を人生の早い内に払わなければならない人間を見たかったからだ。醜いと、己を嘲笑う。
剛のプレイを見ていた。知っていた。彼が入部して間もない頃、体育倉庫に行く途中。
思わず足を止めた。野球ばかりで生きて来たから、他のスポーツの事なんて全然分からない。他の人は見えなかった。唯、小さな背中が目に飛び込んで来て。鮮やかな世界を見た。
グラウンドの上以外で初めて、灰色に沈んでいない場所。光一の目に光をもたらす引力だった。早い動き、高い跳躍、何よりも楽しそうに笑う彼の表情が光一の身動きを封じる。他の何も見えない位引き込まれた。薄暗い体育館の中で、小さな彼だけが鮮明に映る。
その人が堂本剛だと、知ったのは大分後の事だけれど。今でもあの奇跡を覚えている。もう戻らない時間。失われた宝物。喪失感をその瞳に見出して、あの日を思い出す。
早過ぎる代償。絶望を抱えるには幼過ぎる。けれどいずれ、自分も。彼と同じ表情を知るのだろう。
剛の病室で、暗闇の中にいる彼に掛けた言葉は自分が欲しい物だった。諦める為に、優しい言葉が欲しい。近い内に訪れる未来をあの病室で見付けた。こうなるのだと、覚悟を決めた。酷い理由だ。
穏やかな瞳で笑える様になった後輩に決して告げられない事だった。優しい人だと思う。当たり前みたいに自分を慕ってくれた。彼の信頼を裏切りたくない。出来る事なら、優しい言葉は剛から貰いたい。
いつかの自分よりも、上手く慰めてくれる筈だ。硝子に押し付けていた額を離す。張り付いた髪を払って、水滴を落とした。
伏せていた瞳を室内に転じる。窓から一番近い場所にあるキャンバス。真っ白い布が薄暗い部屋の中で鮮やかに映る。
いつも見上げると目が合う位置。視力の良くない自分が、何故四階のこの部屋にいる人を正確に見分けられるのかは分からないけれど。
気付くと、片手を軽く振ってのんびり笑う剛が好きだった。
此処は、剛の場所だ。未だ見た事のない彼の絵。いつも熱心に描いている癖に、自分が来る前に綺麗に片付けられていた。完成したら見せると言ったきり。
諦めた振りをして、自分は請うた事がない。けれど、見たかった。言わないだけで、本当はずっとずっと見たくて堪らない。剛の色。剛の世界。其処で何かが見付けられるかも知れない。
同じ視点で世界を見渡したら、何かが変わる様な気さえした。胸の内にある焦燥の出口すら見付けられる様な。漠然とした期待。剛に寄せる感情は、全て全幅の信頼で出来ていた。
絵の具で少し汚れた布の裾を掴む。少しの躊躇があった。いつもはぐらかしながら、申し訳なさそうな目をするのを知っている。他の誰が見ても構わないけれど、先輩には完成してから見て欲しい。その深く甘い響きを覚えていた。優しい目、先輩は特別やからと告げる強い声。
家族の様に大切に包んでくれた。後輩よりも、弟の方が感覚的に近い。自分は一人っ子だから分からないけれど、この感情は親愛に似ていた。
あの安心する笑顔を裏切る様で辛かったけれど、衝動とも好奇心とも付かない自分の心には勝てない。慎重に布を取り払った。
下から現れる、キャンバスの色。光一は息を止めていた。訳もなく緊張している。たかが絵、そう思うのに自分がこの絵にそれ以上の価値を見出しているせいだろう。
好きな物から離されてそれでも強く成長した剛は、年下だけれど自分の先を歩いている。俺は、これから捨てなければならない。大事な物から離れて、お前は何を希望として生きているの。此処に、答えはある気がした。
「何やこれ……。青しかないやん」
暫しの沈黙の後、詰めていた息と共に吐き出した言葉は、我ながら絵心がないと思う。元々美術の成績は良くないのだ。芸術鑑賞の出来ない自分が、絵に答えを求めようとする事自体が間違っていた。
キャンバス一面に塗り広げられた色。この青に剛の心は見えない。何を思って塗った青なのか。薄暗い部屋に抵抗を示す様な強い色。光一に分かるのは、これが弱い心で描かれた物ではないと言う事だけだった。
彼の優しい笑顔を思い出す。いつも真っ直ぐ見詰める意志の強い瞳も。共通の友人や話題がある訳ではなかった。それでも、彼は誰より近くにいる。
この絵を分かってあげられないけれど、欲しい時に笑ってくれた。安心出来る場所だと思う。此処にいる時は、不安がなかった。全てを預けても怖くない人。
本当は、今胸の内にある焦燥すら渡してしまいたかった。それをしないのは、剛の問題ではなく自分の問題だ。この期に及んでまだ、自尊心が邪魔をする。
青い青。吸い込まれそうな感覚は、体育館で見た時と似ている。視界を一杯に染めて、他を向かせない引力。指先をキャンバスに伸ばそうとして、躊躇した。
触れた場所から、同じ物になってしまいそうだと思う。最初に染まるのは、中指。桜色の爪が見る間に青に変わる。そのまま手の甲を浸食して、腕から肩へ身体へと。黒目まで染め変えられてしまいそうだ。強い青へ、剛の色へ。
現実主義の自分が抱いた夢想に、そっと笑う。左の掌へ視線を落としてそんな事ある訳ないと自嘲した。
幼い光一は気付けない。染め変えられる自分を思った、その願望を。支配される蠱惑を。潜在の欲求がどれだけの危険を孕んでいるかなんて、分かる筈もない。
唯、この一面の青に惹かれる自分を自覚するだけ。青い青い。剛の世界はこんな風に構成されているのか。未知の色だった。少なくとも、自分にとっては。
「空の絵ですよ」
不意に背後から響いた声に死ぬ程吃驚して、白い布を強く握り締めた。恐る恐る振り返る。気配なんて、なかったのに。
「びっくりしたぁ。岡田やん……」
いつもと同じ、体温を感じさせない笑い方で佇む美術部部長は、足音も立てずに近付いて来る。つくづく美術室の雰囲気が似合う後輩だと思った。
変わった奴だとは思う。運動神経が良くて、幾つもの部活から未だに入部しないかと誘われていた。勉強も良く出来て成績はいつもトップクラスだった。
それでも目立つ事が嫌いで、自分の好きな美術だけに黙々と向かっている。不思議な魅力を持つ容姿で目立たない方が無理だとは思うけれど。グラウンドより教室より、この場所が相応しい人だった。
「剛君の絵、見てもうたんですね。完成するまで見るな、言われてませんでした?」
「……言われた」
「しょうがない人やなあ」
忘れていた訳じゃない。唯、抗い難い衝動があった。
「まあ、大丈夫です。僕言わへんし。先輩がその布元通りにしたら終わりです」
おっとり笑われて、言われるままキャンバスの青を白い布で隠す。最後の瞬間まで、その青を見詰めていた。完成するまではもう見られない。強い色。グラウンドに一人立っていても思い出せる様に、強く焼き付けた。青の青。空の色。
「空、やったん……」
「はい、空を描いてるんです」
ぽつりと零した言葉を丁寧に拾って、岡田は同意する。
「入部して、ちゃんと絵描くって決めてから、ずっと描いてますよ」
「ずっと?」
「はい」
「あんな、青だけの。空なんて、何で」
「確かに、キャンバスに青を引くだけならすぐ出来ますよ。けど、剛君の絵にはちゃんと意思がある」
「意思?」
分からない、分かりたいと葛藤している光一が、岡田には可愛らしい物に映った。他人を拒む空気を持った人が、唯一心を傾けている相手だと思う。
剛は人に好かれ易いし、当たり障りのない人間関係を上手に築ける賢い子供だった。けれど多分、こんなにも執着して真っ直ぐ愛情を向けたのは、彼が初めてだ。
その執着は、今の所どちらも理解していないけれど。怖い感情だと思う。脆くて、可哀想な心。
相手を大切にしたいと願う愛は、美しさよりも残酷を心臓に残す筈だ。今は穏やかな感情で接しているけれど、いつか。
光一が抱く感情が後輩へ向ける信頼だけではない事を、剛が抱く感情が単純な恋心ではない事を、お互い身を持って思い知る日が来るだろう。
そしてそれは、決して他人が介入出来ない領域での出来事だ。自分は、二人の力になる事が出来ない。
だからせめて、未来の彼らが自身の感情に少しでも苦しまずに済む様、ヒントを与えよう。他の誰よりも賢い岡田は、まだ見えない位置から二人を見ていた。可哀想な二人。自分の真摯な思いが、相手も自身をも傷付ける。
「そう、強い意志です。剛君は、自分の感情を全部キャンバスに塗り込んどる。堂本先輩には見えませんか?」
「……見えんわ。俺、美術鑑賞苦手やもん」
「別に、モネやフェルメール見て感想言え言うてる訳やないですよ。剛君の絵です」
光一は、白い布に覆われたキャンバスに視線を落とした。その瞳にはもう、剛の描く青が映り込んでいるのに。困った先輩だと、岡田は密やかに笑った。こんなに鈍感じゃ、あの敏感で遠回りな感情表現をする友人は苦労するだろう。
「この絵のタイトル、って言うか通し番号の方が近いんかな。知ってます?」
「知らん」
そんな不機嫌な声で返さなくても。相手に分からない遣りようで笑う。自分の事には疎くても、感情表現は素直な人だった。そんなに、剛君の事分かってないと不安ですか。
「0番なんです」
「ゼロ?……それって、最初で最後って意味?」
「……ああ、そうとも取れますね」
もっと身近にこの数字があるだろうに、思わず光一の解釈に感心してしまう。最初にも最後にもなれない数字。行き場のない感情と言う意味では合っているかも知れない。
謙虚と言うか、鈍過ぎると言うか。あの友人は、彼のこう言う所にも惹かれたのだろう。
「そうとも取れるって……。違うんや。どう言う意味なん?」
「剛君は教えないやろうから、僕も教えられません。でも、先輩なら分かりますよ。きっと気付きます」
それが明日か半年後か、十年後かは分からないけれど。いつか、光一にも分かる様になる。この感情を知る日が訪れる。
一つ年上の彼をいいこいいこして甘やかしたい気分に陥って、岡田は緩く首を振る。今度小学校に上がる従兄弟の成長を見守っているみたいだ。光一は可愛い人だった。思い掛けず幼い部分を沢山持っている。
「いつか、俺にもちゃんと剛ん事、全部分かる様になるんかな」
「……堂本先輩は、今でも十分剛君の事理解してますよ」
この絵に込められた意思は、光一の理解の範疇を超えているから分からないだけだ。自分の言葉に彼は安心した色を滲ませて笑った。最近眉間に皺を寄せている事が多かったから、岡田の目にも嬉しい物だ。
受験生で野球部部長として最後の大会を控えている光一は、目には見えない所で色々悩んでいるのかも知れない。それが少しでも緩んだら良いと願った。自分にも彼は近しい人だったから。
「剛の絵見たの、内緒にしてな。あいつが見せてくれるまで、今度はちゃんと待ってる」
「勿論です」
剛が見せる時に、分かったら良い。全ての意味を。剛が夢見る青い世界を。おせっかいかな、とは思ったけれどどうしても気になって岡田は口を開く。
友人の為に、最後で最大のヒントを。黒めがちの瞳をじっと覗き込んだ。曇りのない黒。その目が鮮やかに染め変えられるのは、決していけない事ではない筈だ。
間違いなんて、何処にもない。
「剛君、この部屋から一度も空を見た事ないんですよ」
言葉を渡しても、光一の反応は鈍かった。長い睫毛が揺れて何度も瞬きを繰り返す。きょとんとした小動物の瞳に、分からないと書いてあった。
「やって、これ空やろ?」
「剛君が描いてるのは、抽象画ですよ」
「ちゅーしょー?……此処、窓の一番近くやん」
「窓から見るのが、空とは限らないって事です」
岡田の含み笑いすら、光一には理解出来なかった様だ。仕方のない人だと思う。それとも自覚がないだけだろうか。
剛の視線の先に貴方がいる事に、貴方はいつ気付くんでしょうね。岡田は、見下ろす形の先輩の頭を本当に撫でて、更に光一を悩ませた。
+++++
彼と過ごす二度目の、もしかしたら最後になるかも知れない夏。強い陽射しの下で輝く彼を網膜に焼き付けたかった。俺の中学生活を鮮やかに染めたあの人の後ろ姿を。
「剛君、相変わらず飽きんのやねえ」
のんびりした声が背後から聞こえる。静かな美術室に似合う低い声は、心地良かった。声の主は、友人で美術部副部長であり、実質この部屋を取り仕切っている同級生のものだ。
「飽きへんよ、全然」
それは、半年以上前から描いている絵に対してではなかった。校舎の最上階、四階に位置するこの部屋の窓際を陣取ってキャンバスに向かい続ける剛の理由を知りながら、岡田は笑わない。
本格的に絵の道を目指している分アドバイスはくれるけれど、それ以外には決して口を出さなかった。当たり前みたいに応援してくれる。頑張って仕上げんとな、なんて。なかなか出来ない事だと思った。
「この絵描く為だけに、美術部おるんやもん」
筆すら握らず布で覆われたままのキャンバスと対峙するだけだった剛が、ゆっくりと振り返る。誰もいない美術室。文系の部活は自由参加が多いけれど、この部活程幽霊部員の多い所はないだろう。期末考査三週間前だと言うのに、テスト勉強と称して、誰も参加する気はないらしい。
三年の部長ですら受験生だからと言って、春から姿を見せていなかった。毎日飽きずにこの部屋へ足を運ぶのは、副部長位なものだ。
視線を合わせるとまどろむ様に笑った岡田が、剛の向こう、硝子の外に目を向けた。少しだけ開けられた窓の隙間から水分を含んだ風が流れ込む。
しとしとと緑を濡らす雨の音。大地に恵みを与える穀雨は、しかし窓際を陣取る友人から創作意欲を奪い取ってしまう。
岡田の視線の行方を追わずに瞳を伏せた剛が小さく呟いた。薄暗い教室に放られた言葉は、無感情の癖に重い溜め息を孕んでいる。無意識に右足を指先がなぞっていた。湿気の多い空気は、傷を疼かせるのだろうか。今は痛い素振りすら見せないけれど。
傷ではなく、その心は今もきっと痛んでいる。剛の瞳の中には、二度と消えない痛みがあった。挫折の色。
「今日は、描けんけどなあ。描くもんがおらん」
寂しい声にはいつも曇りがない。それがこの友人の怖い所だと岡田は思った。自分より余程、芸術家の繊細な心を有している。雨の校庭は水溜まりを作るばかりで、人影もなく静まり返っていた。其処に人がいなければ意味はない。剛は、晴れの日ばかり部室に訪れた。
自分と話したい訳でもあるまいし、何故此処にいるのか。白い布を見詰めている目は、残酷な程真っ直ぐだった。そんな目で世界を見ていたら苦しいだろうにと、芸術家らしい発想で岡田は考える。
今日此処にいる理由を問おうとした瞬間、扉の開く音が背後から聞こえた。自分の真後ろ、教室の前方の引き戸だ。
振り返るより先に、誰が来たのかを悟る。座っていた友人の空気が、ぱっと明るくなった。明確な彩度の変化。
「先輩!」
扉を開けたまま硬直している。どうしようかと、扉に手を掛けた右手が迷っていた。白いシャツが、彼の印象を鮮烈にする。柔和な雰囲気と、躊躇する臆病と。
柔らかな前髪の間から覗く瞳は、外にいる事が多くても日焼けしない完璧な黒だった。黒目ばかりの目が、この人の雰囲気を幼く見せる。
「室内練習終わってもうてん。……岡田も一緒やったんや。邪魔? 俺」
此処で曖昧な返事をしたらそのまま本気で扉を閉めてしまう人だ。行儀が良いと言うか、先輩権限を使ってずかずか侵入して来ない彼が岡田は思い掛けず好きだった。剛が雨の部室にいる意味だ。瞬時に理解して、慌てて首を横に振った。
「とんでもない! 入って下さいよ」
背後の剛に気を遣いながら、彼の右手を見詰めて入室を促す。日焼けした肌なのに手首の内側は、驚く程白かった。本来持っている色素が薄いのだろう。部活動を真剣に行っている割には長めの髪も、日が当たるときらきらと茶色かった。女子にファンが多いのも頷ける容姿をしている。
「そのまんま帰ろうかとも思てんけど。時間早いし、雨も強いし」
言い訳の様に呟きながら、光一は美術室へ足を踏み入れた。自分のフィールドではない場所に入るのは、勇気がいる。剛が優しく笑うから、それにつられて目尻を綻ばせた。迷わずに、彼の前に立つ。雨の日は、気が滅入って仕方なかった。この部屋に来ると安心する。
「雨、小降りになるまで此処におったら?俺も帰るのしんどいなあ思ってたんです」
自分の隣にあった椅子を勧めて座らせた。そのままきょとんと見上げる瞳が愛らしい。先輩に使う言葉ではないと思ったが、心の中で思うだけなら構わないだろう。
こうして制服を着てしまうと、グラウンドにいる時の彼を想像し難い。体の弱い良家のご子息、そんな印象があった。誰も彼が野球部部長だなんて思わないだろう。
「うん、そぉしよかな。最近雨ばっかやから、練習出来んねん。一年は喜んで帰るけど、俺ら三年は最後やからなあ」
「大会、いつですか?」
「七月。今年は県大まで行けたら良いんやけど」
美術部部員の二年生と野球部部長の三年生。一見何の共通点も見出せない二人だが、まるで幼馴染みの様に自然に話す。柔らかな空気が部室に広がって、岡田は良いなと思った。
彼らが肩を寄せ合って話している姿は微笑ましい。何処にも根拠のない信頼が、確かに此処にあった。
「じゃ、堂本先輩。僕今日教室あるんで失礼します」
「今日は、何?」
「彫像です。まだ始めたばっかりなんですけどね」
「そか。岡田は忙しいなあ」
のんびりと言われて、それなら貴方だって忙しいでしょうと言いたくなるのを堪えた。三年生が二年生に言う言葉ではない。
「雨、強いから。気を付けて」
「はい、ありがとうございます。剛君の事宜しくお願いします」
「おう。任しとき」
含まれた意味等分からない先輩は、迷いなく承諾した。友人が無言の抗議を視線で訴えたけれど、無視をする。帰ろうと荷物を抱えた所で、思い付いて二人を振り返る。
不穏な気配を察知したのか、剛が本能のまま顔を上げた。それを追う様にして、先輩も振り向く。目を細めてゆったり二人を見下ろした。
「剛君、そろそろ見せたげたら? それ」
指を指して、布を被ったキャンバスを指差す。言い逃げと言わんばかりに、部室を出た。歪んだ彼の顔、同意する様に小さく頷いた先輩。
良い事をした、と岡田は人の悪い遣りようで笑うと昇降口を目指した。美術室に残された二人は、思惑通りの展開だ。
「そぉやでー。剛、俺に一度も見せてくれへん」
「やーかーら、出来たら見せる言うてるでしょ」
「いや。今見たい」
「……途中で見たら、完成した時の楽しみ減るやないですか」
子供を諭しているみたいだ、と剛は思う。聞き分けの良い優等生の筈なのに、たまにこう言う駄々を捏ねる人だった。可愛いと思ってしまう自分がいけないのだろうか。
「いーや。途中も最後も全部見たいの。何事も結果だけやなくて、経過も大事やろ?」
「お前、それ理論的なんかこじつけなんか分からんわ」
「あー剛。先輩にお前なんて言うたらあかんやろ」
「はいはい、光一先輩」
「ちゃう、堂本先輩」
「名字同じなんにこそばゆいやろ、それは」
「お前だけや、光一先輩なんて微妙な呼び方すんの」
「やって、後輩に堂本は俺一人なんやからしょうがないでしょ。大体、最初にそれで良いって言ったんは何処の誰ですか」
「しゃあないなあ。それ許したるから、絵見せて」
「あんた、いつも何て呼んでも怒らない癖に、狙ってたやろー」
「あ、ばれた?」
へへと笑う小動物の愛らしさに騙されてはいけない。こう見えても、野球に命を懸けている部長殿だ。見た目の柔らかさをそのまま彼の内面だと思って接すると、後悔する。剛は後悔して、それ以上の苦しみに苛まれる事となったのだけれど。
今でも思っている。もし自分達の名字が同じじゃなかったら、今頃こんな風に話す事はなかったかも知れない。誰よりも好きだと思う光一の傍にいられる事。幾つもの偶然と幾つかの痛みが二人を近付けた。
もしかしたら今も、彼にとって自分は何十人もいる後輩の一人だった可能性もある。
笑うと目が溶ける感じとか、新陳代謝の割に指先が冷たい事とか、強がりな癖に甘えたがりだったり。そんな大切な事を知らずにいたら。痛みと同じ分、喜びも愛しさも気付なかっただろう。光一が当たり前の様に自分を自分を見詰めてくれる幸福を、大切にしようと思った。
剛は、一つ年上の接点の少ない同性の先輩、堂本光一に恋をしている。僅かな偶然を積み重ねた現在を、彼が此処を訪れてくれる奇跡を、静かに噛み締めていた。
+++++
初めて光一の存在を知ったのは、入学して間もない頃だった。珍しい名字の一致が、教師の興味を誘ったらしい。どう見ても兄弟じゃないわなあ、でも堂本やなんてホンマ珍しい。
どう見ても、と言われても剛はまだその同じ名字の先輩を見た事がなかった。唯、『光一』と言う名前はクラスメイトを覚えるよりも先にはっきりと記憶される。
自分とは全然違う容姿の、野球部のエース。部活見学にでも行けば良かったのだろうが、残念ながら剛は入学する前に部活を決めていた。小学校の頃から、自信があるのはバスケだけだ。将来はNBAに出てみたい、なんて本気で思っている。まだ、その本気が許される年齢だった。
夢は大きく持て。子供に繰り返される言葉。迷いはなかった。このまま練習を続けて、いつかは夢の舞台まで。届くのだと信じていた、中一の四月。
堂本光一の姿を認識出来たのは、五月に入ってからだった。バスケ部の練習で校庭をランニングしている時、先輩が野球部を指差してみせる。上がった息のまま示す方向を見ると、キャッチボールに勤しむ小さな姿が見えた。
「ほら、あの手前の。ユニフォームが真っ白な奴。あれが堂本やで。いっつも洗濯してて綺麗やから、すぐ分かるんや」
「……うん、綺麗やな」
剛が指したのはユニフォームの事ではなかった。暖かな陽射しの中で綺麗に放物線を描くボール。それを追い駆けるキャップに隠れた小さな頭。膝についた健康的な色の手の甲。遠くからでも分かる。ちゃんと向き合わなくても見えた。
彼は『特別』な人だ。野球の上手さは良く分からないけれど、でもきっと早いボールを投げるのだろう。その指先から生まれるボールを思い描いた。青い空に似合いそうなシチュエーション。
彼の纏う空気に引き込まれる。こりゃ、全然違うわな。自分とは別の世界にいる人だった。兄弟か、と聞いて来る先生達の気が知れん。
綺麗だと思った。けれど、それだけだった。まだ剛の世界は明るい場所にあって、自分の描く夢に向かって走っていたから。きちんと立ち止まって他人を見る余裕なんてなかったのだ。
光一の思い出は、いつでも痛みと共にあった。始まりがこの胸の痛みに起因しているのだから仕方ない。痛みを消す為に好きになった訳じゃなかった。
小学校の頃から熱心にバスケに取り組んでいた剛は、先輩の妬みを買う事もなく当然の様にレギュラーに選ばれた。この中学校に自分より上手い人間はいない。その実力を本人も周囲も十分分かっていた。
地区大会も勝つ事しか考えていない。このメンバーでは全国なんて到底無理だけれど、県大会位までは行けるのではないだろうか。
剛には自信とそれを裏付ける確かな実力があった。自信が傲慢と映らないのは人徳だと、友人に良く笑われる。自信がなければ、ゴールに進めない。あのリングを見定める為には、迷いのない意思が必要だった。
何の不安もなく臨んだ大会は、剛の予想通り順当に勝ち進んで行った。トーナメント制。負ければ終わり。総当たりより分かりやすくて、好きだった。準決勝まで圧勝で進んで行く。次に当たるのは、去年の優勝校。県大会でも上位に食い込んだ常勝校だ。
剛は、身長の低さを技術でカバーしなくてはならない。対戦校は中学生の平均身長を軽く上回るメンバーだった。彼らの足下を切り込んで行く。
小さい剛が強いのは、隙間を正確に抜けて行く力と、ゴール前での勝負強さにあった。迷わない。強気のプレー。その持ち味を自身で疑った事はなかった。
試合が開始してすぐの出来事だ。相手の攻めにめげずその僅かな隙間を抜けようとした一瞬。剛に分かったのは、掌からボールが離れた事だけだった。
相手の顔が苦痛に歪んだのと、試合を見に来ていた女子の悲鳴、先輩が必死な顔で走り寄って、その後ろに顧問の姿も見える。全てがスローモーションの動きだ。
自分の置かれている状況が分からなかった。体が傾いでいる。どうして?ボールは何処行ったんや?ゴールポールが遠くに見える。いつもはあんなに近く、はっきりと見えるのに。激痛が走ったのは、それからだった。
剛自身が認識出来たのは、痛みだけだった。その後の事は、良く覚えていない。救急車のサイレンが聞こえた様な気もするけれど、上手く意識出来なかった。
朦朧とした中で、一つだけはっきりと分かっていた事がある。病院に着いて検査されるまでもなかった。
もう、あのコートの中で自分は未来を目指せない。
足にある痛みは、現実を教えていた。医師の言葉等必要ない。身体が何よりも正確に理解していた。剛の予想通り、診断結果は靭帯損傷。軽い運動なら構わないが、この怪我を庇いながらバスケを続けるのは難しいだろうと言われた。
ほんの少し前まで明るく開けていた道が、暗く閉ざされる。十三歳の剛に、この現実は余りに残酷だった。誰も慰める術を持たない。
誰の言葉も受け入れられなかったからだ。ベッドの上で一人涙を流す剛を支える者はなかった。
大会は、結局再試合となり呆気無く負けたらしい。其処に自分がいたらどうなっていただろうと、考える余裕すらなかった。もう二度と、あの場所には立てないのだ。手術の日を前に、母親に頼んで退部届けを提出する事に決めた。遊びで続ける強さはない。
いつだって全力だった。夢を実現する自信があった。自分を支えていた足下が、音を立てて崩れて行く。悔しさだけが胸を占めて、眠れない夜を過ごした。
手術は、八月の第一週。終業式も出ずに夏休みを迎えてしまった。靭帯を修復する為の手術は日常生活を行う為に必要な事で、今の剛には大して意味がない。どうせなら、二度と歩けなくなれば良かった。その方が辛くない。
深みへと嵌まった思考は、救いようがなかった。病室から見上げる空は、青いばかり。夏の強い太陽は、剛に希望を見せてくれない。ギブスで固められた足を見詰めても、過去は帰らなかった。
静かな夏の午後、特にする事もなく窓の外を見詰めていると、不意にノックする音が部屋に響く。友人や先輩は最初の頃見舞いに来てくれたけれど、固く閉ざされた剛の心に皆諦めて帰って行った。今この部屋を訪れるのは、家族と看護士位なものだ。
「……どうぞ」
けれど、そのどちらもノックして待つ習慣等ない。まして、声を掛けて扉が開かないなんて。誰だろう。扉の外で躊躇している気配。友人だろうか。見舞いには来たものの、前回の訪問を思い出して?剛自身も反省している。せっかく見舞いに来てくれた人達に挨拶も碌にせず、黙り込んでしまった。
あの頃は本当に世界が暗闇の中にあって、呼吸もままならなかったのだ。その中で他人に気遣い等出来よう筈もない。今なら少しは笑えるから。泣いても叫んでも変わらない現実をきちんと認識出来た。だから、大丈夫。まだ胸はじゅくじゅくと膿んでいるけれど。
「どうぞ?」
不審に思いもう一度声を掛けてみると、やっと決意した様に扉が開かれた。現れた姿に思わず息を飲む。其処に立っていたのは、友人でも家族でも看護士でもなかった。予想外、と言うよりも想定外の人。こんなの、予想不可能だ。
「……堂本、先輩」
一度も言葉を交わした事のない、一つ上の同じ名字の先輩。病室を間違えたのかと思った。外の名札には『堂本』としか書いていない筈だ。
けれど、その黒い瞳が真っ直ぐこちらを見詰めていて、自分の意志で此処へ来たのだと告げている。八月の空気の中にあっても、彼の涼やかな印象は変わらなかった。
日に焼けた肌に深い藍色のポロシャツが良く似合っている。細身のジーンズも、腕に抱いた清楚な花束も校内にいる時の彼と違っていて新鮮だった。纏う空気だけが変わらずに綺麗だ。病院の白がすんなり嵌まってしまう。
自分から入って来たのに、挨拶の一つもせず立ったままだった。何を思って此処に足を運んだのか。分からない。とりあえず上級生を尊重して剛も沈黙を保っていたが、埒があかないので自分から声を発した。
入院した時よりは良い精神状態だと自分で思う。他人の為に気遣う事を思い出して来た。
「こっち、椅子あるんで。とりあえず入って下さい」
「……あ、うん」
そう言えば野球部の友人が「堂本先輩は話し掛け辛い」と言っていたのを思い出す。お前はこんなに話し易いのになあ、なんて無責任な事も言われた気がした。黙ったまま病室に入った先輩は、椅子に座って言葉を探している様だった。確かに話し辛そうだ。妙に納得して、今日はどうしたんですかと聞いてみる。
「あ、今、俺のじいちゃん入院してて、それで。見舞い、と気になって……」
「ああ。俺ん事知ってたんですね」
「当たり前やん。名字同じやもん。……バスケ部の事聞いてたし、怪我も酷いみたいやから」
「それでわざわざ?」
「やって、心配するやろ、普通。怪我なんて。でも、じいちゃんのついでで、病室も近かったから、それで」
一生懸命言い募る先輩に苦笑を漏らしてしまった。此処に来た事を後悔している感じだ。もっと、堂々としてれば良いのに。先輩なんやから。
「ありがとうございます。こんな、来てくれるなんて思わんかったから、嬉しいです」
言えば、やっとほっとした様に肩の力を抜いた。腕に抱えた花束がかさりと揺れる。長居する気はないらしい。少し和んだ目許が、悲しそうに細められた。
言葉を発する前の一瞬の躊躇。優しい人だと思った。自分は、この後に零れる言葉を知っている。
もう何度もされた質問だった。けれど、彼はその質問を躊躇っている。
「堂本、ホンマにやめるん?」
「……はい」
「リハビリとかでどうにかならんの?あんなに、上手かったのに」
「俺の、見た事あるんすか?」
「うん。お前目立つもん」
衒いなく言われて、剛が言葉に詰まった。こんな風に率直に誉められる事は少ない。しかも知っていたとは言っても、ほとんど初対面の相手に。
彼が素直だったせいかも知れない。もしくは、同じ名字の親近感だろうか。自分の中にどんな感情の作用が起こったのかは分からない。気付けば、素直に言葉が溢れていた。バスケ部の先輩にも誰にも吐露しなかった心情。
「……もう、バスケはやらんと思います。二度と。前みたいに動けないんは、嫌や」
「怖いんか?」
真っ黒な瞳が正面から合わされる。核心を突く言葉。彼の周りにはきらきらと透明な空気が纏っている。迷いのない問い掛けは、断定と同義だった。透明な人。その色は、自分が目指した未来の色に似ていると思った。
彼はまだ、夢を見ている。悔しかった。自分もほんの少し前まで、其処にいたのに。今は暗闇に蹲って動けない。
怖かった。思い通りに動かない身体。練習をすれば、その分上手くなる。その原理を一度も疑わずに生きて来た。
バスケで食って行くんや、と小さい頃から思っていた。こんな風に、夢の終わりが来るなんて。怖い。悔しい。苦しい。俺を助けて。この身体を元通りにして。
「あれだけ動けてたんやもん。堂本みたいに高くジャンプする奴、初めて見た。凄いと思うたよ。……やから、怖いのなんて当たり前や」
優しく深い声に、思わず涙が零れる。怪我をしてからずっと堪える様に、一度堰を切ったら駄目になりそうで泣けなかった。初めて話したのに、こんなにも安心している。
晒しても良いのだと、彼の目が穏やかに笑った。大丈夫。ちゃんと聞いたるよ。雄弁に語り掛ける、その瞳に負けた。
「俺、今まで怖いもんなんか一個もなかった。練習すれば高く跳べたし、足やって誰も追い付けん位早かったんや。でも、どんなに頑張ったって、怪我する前には戻れん。……今は、歩くのも怖い」
先輩は息を殺して、泣き言を聞くだけだった。何のアドバイスもない。静かに眉を顰めて、自分の事の様に顔を痛みに歪めていた。泣いている俺よりも、彼の方が余程泣きたそうだった。
胸に支えていた言葉を吐き出して泣きじゃくる俺の手を、そっと握り込まれる。真夏だと言うのに、ひんやりした指先。さらさらの感触は、彼の印象そのままだ。優しい体温が、気分を落ち着けた。
涙も乾く頃、ぽつりと先輩が零す。それはアドバイスでも何でもなかったけれど、剛の心を勇気付けた。彼は、俯いたまま少し小さな声で言う。取っ付き難いイメージそのままに。けれど、それは人と接する事が苦手なせいなのだと思い当たる。
こうして病室に訪れるだけでも相当悩んだ事だろう。考えると、剛は嬉しくなった。グラウンドの遠くから見るだけだった人。世界が違うと思った。その人が、今此処にいる。
「……じいちゃんの見舞いのついでになるけど、また来てもええ?」
「はい、いつでも待ってます」
断る理由はなかった。静かに手を離すと、花束を抱え直して立ち上がる。じゃあ、と開き掛けた唇が惑って閉じた。何かに目を留めたらしい。剛の脇。サイドテーブル。何だろうと振り返った。先輩の視線の先。何ですか、と問おうとする前に彼の手が動いた。驚いて、振り返る。
「お見舞い。手ぶらやったからな。お裾分けであれやけど。じゃ」
慌てて背中を向けて、病室を出て行く。僅かに頬が淡く染まっていたのは気のせいではないだろう。自分のした事に恥ずかしがって目を伏せた一瞬を、視力の良い剛は見逃していない。ひっそり笑って、サイドテーブルに視線を遣った。
其処には、空の花瓶に挿された一輪のガーベラ。夏の陽射しに似合う強いオレンジだった。気障はきっと性に合わないだろうに。一つ年上の先輩を可愛いと思った。いつの間にか気分が軽くなっている事に気付くのは、それからもう少し経って母親が見舞いに訪れてからの事だ。
他人に優しくする感覚を思い出していた。心にある傷は癒えないけれど、あの暗闇からは抜け出せた気がする。
それから本当に、先輩は何度も病室を訪れた。剛が退院する前日まで、飽きずに何度も。お見舞いと言って何か持って来る事はなかったし、楽しい話題で笑わせる様な事もなかった。言葉少ない彼の優しさは、行動でしか推測出来ないけれど。
名字が同じなだけの後輩を気に掛けてくれるのが分かった。最後まで病室に入る時に躊躇するのは変わらなくて。いつもどうしたら良いのか考えながら、きっと今日はやめようかなんて思いながら来てくれたんだと思う。
あの時の彼の心情は、今も分からない。痛そうに顰められた顔。優しく話を聞いてくれた目許の綻び。照れた様に俯く度に流れる色素の薄い髪。何もかもが鮮明なのに、彼の意図だけが読めなかった。
こんな縁もゆかりもない後輩を気に掛けてくれる理由。訪れてくれる度に募る嬉しさにブレーキを掛けたかったのかも知れない。
見舞いに来た友人に、さり気なく学校での先輩の様子を聞いてみた。物静かな印象は、誰に聞いても変わらない。運動も勉強も出来て、それが嫌味ではない優等生。
部活でも教室でも、特別親しい人間はいないらしい。誰にでも公平に。聞いていると、学級委員長の様な話ばかりだった。
それでも何となく良い印象を持たれているのは、透明な空気のせいだろうか。勿論、あの顔で野球部ピッチャーとくれば人気はある。バレンタインのチョコの数は学年一だったと、何処で統計取ってんねんなんて話もまことしやかに伝わる位。
けれど、そんな事には無頓着に生活しているだろう彼を想像して笑った。誰とでも仲が良い。つまり、誰とも仲が良くないと言う事だ。
少し話すのが苦手で、少し人見知りなだけやのにな。剛は、そんな先輩が自分の元を訪れる優越感すら抱いていた。
多分、光一を意識したのはこの時期だったのだろう。無意識の意識。心は明確な方へ進んでいると言うのに。まだ、名前すらない感情。重ねられた手の感触を、今も鮮明に覚えている。
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野球部部長である光一は、苛々していた。夏の大会も近いと言うのに、此処最近雨続きだ。溜め息も出ない程憂鬱だった。体育館は他の部活に占領されていて使えない。校舎内で行う練習には限界がある。どんなに綿密に練習メニューを組んでもどうしようもなかった。
校内でボールを使う訳にもいかず、基礎練習ばかり。部員が飽きているのにも気付いている。自分だって、ボールを投げたかった。無意識に右肩を擦る。
ピッチャーの肩。一刻も早く、投げなければ。
光一には、夏の大会が最後だ。中学時代最後、ではなく野球が出来る最後と言う意味で。高校からは勉強に専念すると決めていた。だからこそ余計に、もっと練習がしたい。
部長の勝手な感傷に付き合わされる部員には悪いと思っているけれど、練習して強くなるのは決して悪い事じゃないと考えていた。
思っても、天気には敵わない。どうにもならない苛立ちは、体内で燻るばかりだ。口の足りない自分には、胸の内を吐き出す術がない。
今日も早めに室内練習が終わってしまい、部誌を書きながら溜め息を吐いた。動きたい。自分はまだ投げられる。ボールの行方が見えなくなるまで、練習がしたかった。
夕暮れのオレンジに染まるベースの淡い色が好きだ。砂ぼこりに塗れた身体をシャワーで流すのも、目覚め切らない内から練習を始めるのも、全部。
時間がない。後何度ボールを投げられるだろう。バットにボールが吸い付く感触すら忘れてしまいそうだ。ホームランなら必ず分かる。手に伝わった振動で。もっと走りたいと、光一は一人唇を噛んだ。
暗い空、止まない音、誰もいない部室。全てが圧迫感を伴って、光一を苦しめる。水中にいるのに息の出来ない魚の様な。もがけばもがく程沈んで行くダイバーの様な。灰色の海の中。
もう一度溜め息を吐いて、机に突っ伏した。この苛立ちは、自分だけのものだ。身勝手なままに他人に明け渡して良い感情ではない。けれど。
目を閉じて、助けを求めたい衝動を堪えた。息が出来ない。苦しい。死んでしまう。灰色の世界で一人、何処にも走り出せずにいた。苦しい。悲しい。俯せたまま手を伸ばす。自分は一体誰に助けてもらいたいのか。誰もいない。この閉じられた世界には誰も来れやしなかった。
それでも、指先を虚空へ伸ばす。この先に本当は誰にいてもらいたいんだろう。明確な像を結べない俺は、寂しい人間なのかも知れない。誰もいない。海の底に沈んだ灰色の世界。其処で一人朽ちて行く。
原罪として抱えている世界だった。誰にも救えない。この孤独は、生まれた瞬間から自分だけのものだ。
思って諦めようとした瞬間、閉じた瞼の裏で蘇る映像があった。いつか見上げた明かり。冬の夕暮れは早くて、グラウンドも長く使えない。落ちたボールさえ見失ってしまう暗がりから見上げた、四階の明かり。
下校時刻をとうに過ぎて誰もいない筈の校内。四階は特別室ばかりだった。一番左の奥の部屋。美術室だ。
指の先で輪郭が見えた。それを払拭する為に顔を上げる。助けて欲しい訳じゃなかった。唯、困った様に笑う賢い犬の様な彼を見て安心したい。あの後輩は、俺にいつでも安らげる場所を提供してくれた。心地良い空気。
彼に甘えてはいけない事も分かっている。俺は狡い。未だに見せられない本心は、醜悪だった。とてもじゃないが、あの繊細な心を持つ後輩には見せられない。全てを知らなくても良かった。
それでも、俺が今一番親しいのは彼だ。友人でも同じ部活の後輩でもないけれど。思えば、彼との接点なんて何処にも見出せない。
だから良いのかも知れなかった。彼なら、今のこの苛立ちを理解してくれる。綺麗に溶かしてくれる。
部誌を慌てて書き上げると、荷物を持って部室を飛び出した。誰もいない廊下を走る。四階の、一番奥の部屋。其処にいてくれると信じていた。無条件に信じている自分に驚く。
光一は、まだ子供だった。多分、剛よりずっと。未だ、その心は目覚めない。芽生えた思いを自覚するには、不器用過ぎた。幼過ぎた。迷いなく走る意味に気付けない。
指先に結ばれた像、其処にいた彼は優しく笑んでいたのに。慈しむ心で。光一の知らない感情をその表情に乗せて。
恋はまだ。目覚めない。
全速力で階段を駆け上がって、静けさに満ちた四階に足を踏み入れた途端光一は躊躇して立ち止まってしまった。何の確信があったのか。室内練習とは言え、運動系の部活一活動時間の長い野球部の練習が終わって、部誌も書き上げてから来たのだ。このまま廊下の突き当たりまで進めば美術室がある。
分かってはいても、意気消沈した足は上手く進まなかった。上がった息を抑えながらゆっくり歩く。人の気配はなかった。扉の前、小さく深呼吸をして立ち止まる。身の内の衝動がきちんと処理出来ていなかった。
迷わず此処まで走れたのに。光一は何度でも振り出しに戻ってしまう。進んだ感情を、自分の手で引き戻した。また、分からなくなる。いつまでもその繰り返しで、彼の元まで届かなかった。
可哀想だと言ってくれる人は、いない。立て付けの悪い扉をゆっくり開けた。予想通り、室内に剛の姿はない。先刻、小降りになった時間があったからその時にでも帰ってしまったのだろう。
いつでも待っていてくれる印象があるから、勘違いしてしまう。剛には剛の時間があって、それが自分の時間とぴったり重なる事はない。自分は、剛との時間よりも常に野球部の、自分のやりたい事を優先していた。彼にだけ、時間を自分の為に用意してもらうのは我儘だ。
分かってはいても、胸が痛かった。放課後には剛の笑顔があるのが当たり前で、それが一年も経たない内になくなってしまうのだ。
卒業したら、この穏やかな時間は失われる。そんな先の事なんて今から考えていても仕方なかった。
美術室に足を踏み入れると、独特の匂いが鼻をつく。油のきつい匂いは苦手だった筈なのに、いつの間にか不快感を抱かなくなった。理由は明白で、わざわざ考える必要もない。此処にいる為に慣れた。それだけの事。
窓際に寄って、グラウンドを見下ろす。雨に霞んだ硝子の向こう。自分のいる場所だった。今は雨に濡れてしまった、土の上を走るのが好きだ。野球をしている時が一番幸せだった。
多分、野球以外の事は余り好きじゃない。勉強も、友人と交わす他愛もない会話――女の子の事やテレビの話題――も自ら望んでしようとは思わなかった。
日常の全ては、光一の視界の中で色を持たない。あの場所にいる時だけが、唯一鮮やかな時間だった。大好きだと思う。
けれど、その野球からももうすぐ離れなければならなかった。勉強に専念する事は両親の希望だ。自分も十分納得していた。甲子園を目指せる程強い訳でもないけれど、続けようと思えば勉強と平行すれば良い。その道を選ばないのは。
右の肩にそっと触れる。
唇を噛み締めて、湿気を纏った硝子に額を押し当てた。目を閉じて、叫びたい衝動を堪える。苛々しているのは、これのせいだった。
剛と初めて話したあの日、医師から告げられた言葉を生涯忘れる事はないだろう。残酷に胸に届いた響きは、今も傷口を広げている。癒えない傷。剛と一緒だ。
彼の部屋に向かったのは、後輩を慰める優しい先輩を演じる為なんかじゃなかった。同じ人間を、好きな事をし続けた代償を人生の早い内に払わなければならない人間を見たかったからだ。醜いと、己を嘲笑う。
剛のプレイを見ていた。知っていた。彼が入部して間もない頃、体育倉庫に行く途中。
思わず足を止めた。野球ばかりで生きて来たから、他のスポーツの事なんて全然分からない。他の人は見えなかった。唯、小さな背中が目に飛び込んで来て。鮮やかな世界を見た。
グラウンドの上以外で初めて、灰色に沈んでいない場所。光一の目に光をもたらす引力だった。早い動き、高い跳躍、何よりも楽しそうに笑う彼の表情が光一の身動きを封じる。他の何も見えない位引き込まれた。薄暗い体育館の中で、小さな彼だけが鮮明に映る。
その人が堂本剛だと、知ったのは大分後の事だけれど。今でもあの奇跡を覚えている。もう戻らない時間。失われた宝物。喪失感をその瞳に見出して、あの日を思い出す。
早過ぎる代償。絶望を抱えるには幼過ぎる。けれどいずれ、自分も。彼と同じ表情を知るのだろう。
剛の病室で、暗闇の中にいる彼に掛けた言葉は自分が欲しい物だった。諦める為に、優しい言葉が欲しい。近い内に訪れる未来をあの病室で見付けた。こうなるのだと、覚悟を決めた。酷い理由だ。
穏やかな瞳で笑える様になった後輩に決して告げられない事だった。優しい人だと思う。当たり前みたいに自分を慕ってくれた。彼の信頼を裏切りたくない。出来る事なら、優しい言葉は剛から貰いたい。
いつかの自分よりも、上手く慰めてくれる筈だ。硝子に押し付けていた額を離す。張り付いた髪を払って、水滴を落とした。
伏せていた瞳を室内に転じる。窓から一番近い場所にあるキャンバス。真っ白い布が薄暗い部屋の中で鮮やかに映る。
いつも見上げると目が合う位置。視力の良くない自分が、何故四階のこの部屋にいる人を正確に見分けられるのかは分からないけれど。
気付くと、片手を軽く振ってのんびり笑う剛が好きだった。
此処は、剛の場所だ。未だ見た事のない彼の絵。いつも熱心に描いている癖に、自分が来る前に綺麗に片付けられていた。完成したら見せると言ったきり。
諦めた振りをして、自分は請うた事がない。けれど、見たかった。言わないだけで、本当はずっとずっと見たくて堪らない。剛の色。剛の世界。其処で何かが見付けられるかも知れない。
同じ視点で世界を見渡したら、何かが変わる様な気さえした。胸の内にある焦燥の出口すら見付けられる様な。漠然とした期待。剛に寄せる感情は、全て全幅の信頼で出来ていた。
絵の具で少し汚れた布の裾を掴む。少しの躊躇があった。いつもはぐらかしながら、申し訳なさそうな目をするのを知っている。他の誰が見ても構わないけれど、先輩には完成してから見て欲しい。その深く甘い響きを覚えていた。優しい目、先輩は特別やからと告げる強い声。
家族の様に大切に包んでくれた。後輩よりも、弟の方が感覚的に近い。自分は一人っ子だから分からないけれど、この感情は親愛に似ていた。
あの安心する笑顔を裏切る様で辛かったけれど、衝動とも好奇心とも付かない自分の心には勝てない。慎重に布を取り払った。
下から現れる、キャンバスの色。光一は息を止めていた。訳もなく緊張している。たかが絵、そう思うのに自分がこの絵にそれ以上の価値を見出しているせいだろう。
好きな物から離されてそれでも強く成長した剛は、年下だけれど自分の先を歩いている。俺は、これから捨てなければならない。大事な物から離れて、お前は何を希望として生きているの。此処に、答えはある気がした。
「何やこれ……。青しかないやん」
暫しの沈黙の後、詰めていた息と共に吐き出した言葉は、我ながら絵心がないと思う。元々美術の成績は良くないのだ。芸術鑑賞の出来ない自分が、絵に答えを求めようとする事自体が間違っていた。
キャンバス一面に塗り広げられた色。この青に剛の心は見えない。何を思って塗った青なのか。薄暗い部屋に抵抗を示す様な強い色。光一に分かるのは、これが弱い心で描かれた物ではないと言う事だけだった。
彼の優しい笑顔を思い出す。いつも真っ直ぐ見詰める意志の強い瞳も。共通の友人や話題がある訳ではなかった。それでも、彼は誰より近くにいる。
この絵を分かってあげられないけれど、欲しい時に笑ってくれた。安心出来る場所だと思う。此処にいる時は、不安がなかった。全てを預けても怖くない人。
本当は、今胸の内にある焦燥すら渡してしまいたかった。それをしないのは、剛の問題ではなく自分の問題だ。この期に及んでまだ、自尊心が邪魔をする。
青い青。吸い込まれそうな感覚は、体育館で見た時と似ている。視界を一杯に染めて、他を向かせない引力。指先をキャンバスに伸ばそうとして、躊躇した。
触れた場所から、同じ物になってしまいそうだと思う。最初に染まるのは、中指。桜色の爪が見る間に青に変わる。そのまま手の甲を浸食して、腕から肩へ身体へと。黒目まで染め変えられてしまいそうだ。強い青へ、剛の色へ。
現実主義の自分が抱いた夢想に、そっと笑う。左の掌へ視線を落としてそんな事ある訳ないと自嘲した。
幼い光一は気付けない。染め変えられる自分を思った、その願望を。支配される蠱惑を。潜在の欲求がどれだけの危険を孕んでいるかなんて、分かる筈もない。
唯、この一面の青に惹かれる自分を自覚するだけ。青い青い。剛の世界はこんな風に構成されているのか。未知の色だった。少なくとも、自分にとっては。
「空の絵ですよ」
不意に背後から響いた声に死ぬ程吃驚して、白い布を強く握り締めた。恐る恐る振り返る。気配なんて、なかったのに。
「びっくりしたぁ。岡田やん……」
いつもと同じ、体温を感じさせない笑い方で佇む美術部部長は、足音も立てずに近付いて来る。つくづく美術室の雰囲気が似合う後輩だと思った。
変わった奴だとは思う。運動神経が良くて、幾つもの部活から未だに入部しないかと誘われていた。勉強も良く出来て成績はいつもトップクラスだった。
それでも目立つ事が嫌いで、自分の好きな美術だけに黙々と向かっている。不思議な魅力を持つ容姿で目立たない方が無理だとは思うけれど。グラウンドより教室より、この場所が相応しい人だった。
「剛君の絵、見てもうたんですね。完成するまで見るな、言われてませんでした?」
「……言われた」
「しょうがない人やなあ」
忘れていた訳じゃない。唯、抗い難い衝動があった。
「まあ、大丈夫です。僕言わへんし。先輩がその布元通りにしたら終わりです」
おっとり笑われて、言われるままキャンバスの青を白い布で隠す。最後の瞬間まで、その青を見詰めていた。完成するまではもう見られない。強い色。グラウンドに一人立っていても思い出せる様に、強く焼き付けた。青の青。空の色。
「空、やったん……」
「はい、空を描いてるんです」
ぽつりと零した言葉を丁寧に拾って、岡田は同意する。
「入部して、ちゃんと絵描くって決めてから、ずっと描いてますよ」
「ずっと?」
「はい」
「あんな、青だけの。空なんて、何で」
「確かに、キャンバスに青を引くだけならすぐ出来ますよ。けど、剛君の絵にはちゃんと意思がある」
「意思?」
分からない、分かりたいと葛藤している光一が、岡田には可愛らしい物に映った。他人を拒む空気を持った人が、唯一心を傾けている相手だと思う。
剛は人に好かれ易いし、当たり障りのない人間関係を上手に築ける賢い子供だった。けれど多分、こんなにも執着して真っ直ぐ愛情を向けたのは、彼が初めてだ。
その執着は、今の所どちらも理解していないけれど。怖い感情だと思う。脆くて、可哀想な心。
相手を大切にしたいと願う愛は、美しさよりも残酷を心臓に残す筈だ。今は穏やかな感情で接しているけれど、いつか。
光一が抱く感情が後輩へ向ける信頼だけではない事を、剛が抱く感情が単純な恋心ではない事を、お互い身を持って思い知る日が来るだろう。
そしてそれは、決して他人が介入出来ない領域での出来事だ。自分は、二人の力になる事が出来ない。
だからせめて、未来の彼らが自身の感情に少しでも苦しまずに済む様、ヒントを与えよう。他の誰よりも賢い岡田は、まだ見えない位置から二人を見ていた。可哀想な二人。自分の真摯な思いが、相手も自身をも傷付ける。
「そう、強い意志です。剛君は、自分の感情を全部キャンバスに塗り込んどる。堂本先輩には見えませんか?」
「……見えんわ。俺、美術鑑賞苦手やもん」
「別に、モネやフェルメール見て感想言え言うてる訳やないですよ。剛君の絵です」
光一は、白い布に覆われたキャンバスに視線を落とした。その瞳にはもう、剛の描く青が映り込んでいるのに。困った先輩だと、岡田は密やかに笑った。こんなに鈍感じゃ、あの敏感で遠回りな感情表現をする友人は苦労するだろう。
「この絵のタイトル、って言うか通し番号の方が近いんかな。知ってます?」
「知らん」
そんな不機嫌な声で返さなくても。相手に分からない遣りようで笑う。自分の事には疎くても、感情表現は素直な人だった。そんなに、剛君の事分かってないと不安ですか。
「0番なんです」
「ゼロ?……それって、最初で最後って意味?」
「……ああ、そうとも取れますね」
もっと身近にこの数字があるだろうに、思わず光一の解釈に感心してしまう。最初にも最後にもなれない数字。行き場のない感情と言う意味では合っているかも知れない。
謙虚と言うか、鈍過ぎると言うか。あの友人は、彼のこう言う所にも惹かれたのだろう。
「そうとも取れるって……。違うんや。どう言う意味なん?」
「剛君は教えないやろうから、僕も教えられません。でも、先輩なら分かりますよ。きっと気付きます」
それが明日か半年後か、十年後かは分からないけれど。いつか、光一にも分かる様になる。この感情を知る日が訪れる。
一つ年上の彼をいいこいいこして甘やかしたい気分に陥って、岡田は緩く首を振る。今度小学校に上がる従兄弟の成長を見守っているみたいだ。光一は可愛い人だった。思い掛けず幼い部分を沢山持っている。
「いつか、俺にもちゃんと剛ん事、全部分かる様になるんかな」
「……堂本先輩は、今でも十分剛君の事理解してますよ」
この絵に込められた意思は、光一の理解の範疇を超えているから分からないだけだ。自分の言葉に彼は安心した色を滲ませて笑った。最近眉間に皺を寄せている事が多かったから、岡田の目にも嬉しい物だ。
受験生で野球部部長として最後の大会を控えている光一は、目には見えない所で色々悩んでいるのかも知れない。それが少しでも緩んだら良いと願った。自分にも彼は近しい人だったから。
「剛の絵見たの、内緒にしてな。あいつが見せてくれるまで、今度はちゃんと待ってる」
「勿論です」
剛が見せる時に、分かったら良い。全ての意味を。剛が夢見る青い世界を。おせっかいかな、とは思ったけれどどうしても気になって岡田は口を開く。
友人の為に、最後で最大のヒントを。黒めがちの瞳をじっと覗き込んだ。曇りのない黒。その目が鮮やかに染め変えられるのは、決していけない事ではない筈だ。
間違いなんて、何処にもない。
「剛君、この部屋から一度も空を見た事ないんですよ」
言葉を渡しても、光一の反応は鈍かった。長い睫毛が揺れて何度も瞬きを繰り返す。きょとんとした小動物の瞳に、分からないと書いてあった。
「やって、これ空やろ?」
「剛君が描いてるのは、抽象画ですよ」
「ちゅーしょー?……此処、窓の一番近くやん」
「窓から見るのが、空とは限らないって事です」
岡田の含み笑いすら、光一には理解出来なかった様だ。仕方のない人だと思う。それとも自覚がないだけだろうか。
剛の視線の先に貴方がいる事に、貴方はいつ気付くんでしょうね。岡田は、見下ろす形の先輩の頭を本当に撫でて、更に光一を悩ませた。
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