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「春夜再来」





 ずっと、好きだった。
 何度季節が巡っても、この恋が消えた事はない。大切に育んで来た思いだった。
 同姓である事、仕事仲間である事。運命を共有してしまった人だからこその戸惑いも多い。この恋を終わらせるべきだと考えた事も何度かあった。
 それでも。
 長くこの世界で生き汚れてしまった自分の中で、唯一残った綺麗な感情だったから。彼への思い以外に綺麗なものを体内で幾ら探しても見つからない。
 彼を幸せにしたいとか、そう言う優しい感情ではなかった。自分もまだ綺麗なのだと思っていたい。
 彼を愛しく思う透明な感情が、濁った身体に今も存在していた。
 光一を自分のものにしたいと言う、甘やかな恋心。



+++++



 慣れたメンバーにスタッフ、いつも通りのスタジオ。この場所で緊張した自分はもういない。安心してギターを弾いて、相方に進行を任せて必要な時だけ言葉を発せば良かった。
 二人一緒の番組は、これ一つになってしまったけれど。一人の時間を増やしたがったのは自分だから仕方ない。好きな事をやれる時間が欲しかった。彼に迷惑を掛けずに生きられる瞬間が欲しかった。
 そんな思いがいつしか二人を離してしまうとは気付かずに。手遅れとは言わないけれど、光一が自分を見ない瞬間は増えた。人見知りで愛想のない人だから、意識を外に向けるのは良い事だと思う。
 最近は先輩後輩問わず誘われるようになったみたいだし、素直に甘える術も覚えて来た。彼にとっては、成長なのだろう。
 けれど、二人きりの世界を知っている自分には苦しい事だった。光一が自分だけを見て自分だけを信頼して生きていた時間を知っているから。あの小動物みたいな瞳が自分を探して揺れているのが嬉しかった。
 もう、過去の話だ。光一は外を向く。自分は一人の世界に没頭する。
 幼い頃の異常なまでの至近距離から、健全な場所まで来た。今でも光一は綺麗に笑ってくれるし、自分を見つけると嬉しそうに駆け寄って来る。何の不満もない筈だった。
 いつか、可愛い女の子と結婚して子供が生まれて、家族ぐるみの付き合いをする。そうすればきっと、年を取っても一緒にいられるだろう。近過ぎる距離に崩壊を恐れる事はない。
 けれど、自分の心が悲鳴を上げた。辛い、苦しいと啼く汚れた心臓。そんな距離は望んでいない。俺は、光一を手の中に納めたい。
 大人になりきれない自分が抱える、子供の我儘だった。でも、ずっと自分のものだったのだ。出会った瞬間からずっと、手の届く場所にいたのに。
 独占欲は膨らむばかりで、どうしようもなかった。
 俺だけに笑って欲しい。俺だけに触れて欲しい。俺だけを見て欲しい。
 このままでは、狂ってしまいそうだった。曖昧な、相方と言う距離に甘んじているのは限界で。はっきりと自分のものにしてしまいたい。恋でも愛でも構わないから。
 スタッフと打ち合わせをしている光一を見詰めた。進行役は完璧に任せてしまったから、自分はステージの上でメンバーとギターを弾いている。セッションをしながら、スタジオの隅に視線を遣った。
 真剣な表情の合間に見える柔らかな微笑。慣れたスタッフなのだから、リラックスした表情は当たり前だ。本番前の時間位は緊張せずにいられた方が良い。
 頭で分かっていても、心は別だった。嫉妬深いのか子供なのかは分からない。
 唯、傲慢に純粋に光一は自分のものだと思っていた。
 何処にも行かず此処にいるのだと、無条件に信じているのは自分だ。仕事の距離よりも近くにいた時間が長過ぎたせいかも知れない。光一が自分以外に懐かなかったせいかも知れない。自分が彼を守るべき存在だと思い込んでしまったせいかも知れない。
 色々な要因が複雑に絡まって、今体内に恋があった。
 唯一のきらきらした感情。捨てたら死んでしまうと思える程の強い恋だった。
 光一は俺を大切にしてくれているけれど、恋情を抱いている訳ではない。苦しいのは自分だけだった。
 彼の感情は仕事仲間と家族とのちょうど間にある柔らかな優しさだ。運命を共にする者への絶対の信頼はあるけれど、恋はその体内の何処にもなかった。
 同じ感情を共有していなくても良い。けれど、自分のものにしてしまいたい。
 スタッフと笑い合う光一を見詰めた。楽しそうな顔。俺を見ない瞳。同じ空間にいるのに。
 お前のいる場所は其処じゃない。いつだって、俺の隣だけやろ。
 セッションの音すら遠くなる。自分が今どのコードを押さえているのか分からなくなった。
 光一のいる場所だけが、明るく見える。
 神様に愛された証。白い光が降り注ぐ場所。俺からは遠い場所。
 離れたのは自分だった。欲しいものがあった。光一と二人では目指せない場所にあったから。
 彼に一人の居場所を与えてしまったのは、自分だ。分かっている。欲しがってはいけなかった。一人で生きる光一を責めてはならない。
 心拍が乱れて荒れ狂った。あれを掌中に出来るのは、俺だけ。世界中でたった一人。
 そうやろ?お前は、俺のもんちゃうの?
 スタッフの手が、光一の肩に触れる。あの特別な人に触れて良いのは、自分だけだった。他人との接触にすら怯えて、俺の後ろに隠れている子供だったのに。
 成長させたのは自分のエゴだった。そして、手許に置いておきたいと願うのも紛れもないエゴだ。
 唇を噛んで、弦を弾いた。開放弦。
 左手が追い付かない。光一しか見えなかった。
 奏でる音色が分からない。
 一緒に演奏しているメンバーが、自分の方を見た。おかしな旋律に気付かない訳がない。
 光一は笑っていた。親密な素振りで、俺以外の人間に。
 自分の音が追えない。どうしてお前は、そんな遠くにいるんや。

 お前が欲しい。

 発作だ、と思った。呼吸が出来なくなる感じとはまた違う。不治の病。恋の発作。
 あの光が欲しい。
 コードをろくに押さえず鳴らす耳障りな音に耐え切れず、コードを引き抜いた。メンバーが驚いて、動きを止める。けれど自分は光一しか見えなかった。
 不自然に終わったステージの上のセッションに気付いて、打ち合わせをしていたスタッフと光一が振り返る。動きに従って揺れる髪すら、俺のものだった。
 愛している。
 ずっと一緒にいられなくても、一人で生きる手段を見付けても。幼い時に生まれた感情は、今も心臓を占めていた。
「光一!」
 手近にあったマイクを掴んで、スタジオの隅にいる人を呼ぶ。自分の不可思議な行動に慣れたスタッフすら眉を顰めていた。
 呼ばれた光一だけが、何の疑問もない顔で「なに?」と首を傾げる。少女めいた仕草だった。
 手に負えない程綺麗になって行く彼を繋いでしまいたい。はっきりと自分のものにしたかった。抗い難い独占欲だ。光一の気持ちなんて考えていない横暴な。
 けれど、止まらない。この心臓を押さえ込んだらきっと、死んでしまう。
「光一!」
「はいはい。なぁにー」
 周囲の人間は身動き一つせず二人の動向を見守った。狂気に近い場所にいる自分と、いつもと変わらない穏やかな光一。静まり返ったスタジオに、自分の声だけが響き渡った。


「光一、結婚しよう!」


 自分でも何を言ったのか一瞬分からなかった。スタジオの時間が止まってしまったのかと思う程の静寂。誰も動かない。
 今、俺は何て言った?
 光一が欲しくて、誰にも渡したくなくて。引き止めたかった。彼が誰かのものになる前に、誰かを決めてしまう前に。
 お前と一緒にいたのは俺だけや。今更他の人間に渡せるものは何もない。
 自分の恋情と、皆に愛される光一への恐怖。焦燥感が恋に拍車を掛けた。口に出してはならない恋を、耐え切れずに零してしまったのは失態でしかない。
 けれど、問題はそんな事ではなかった。好きだ、愛している、ならまだ良い。愛を告げるにはそれで充分だった。なのに。
 まさか自分が「結婚」と言う言葉を出すとは思いもよらなかった。しかも、相手は光一だ。常識的に考えて、同性同士で結婚は出来ない。
 同性愛を自覚しながら恋を考えるには今更のような気もするが、根本的には常識人なのだ。法を変えようと思ったことはないし、その為に国外逃亡を目論むつもりも今のところなかった。
 二人には遠い言葉だ。例え光一が自分を受け入れてくれたとしても、その言葉を持ち出す日は来ないだろう。
 衝動に任せて言ってしまったとはいえ、何と自分は馬鹿なのだろう。スタジオの温度が下がった気がして、恋に狂い掛けた心臓が冷静さを取り戻す。
 スタッフもメンバーも誰も動かなかった。多分、俺の次の動きを待っている。

「ええよー」

 其処に、場違いな程明るい声が響いた。長年聞き続けた、いつまでも不安定で柔らかい声音。舌足らずな響きで名前を呼んでもらえるのが嬉しかった。
 相方の顔を見れば、変わる事のない安心した笑みを向けている。絶対の信頼感。崩れる事のない距離。揺れやすい自分の心を支えてくれる唯一の拠り所だった。
「こ、光一?」
「なに」
「今、何て?」
「やーかーらー、聞いてなかったん?ちゃんと相方の話位聞けや」
「……すいません」
「ええか?もう一回しか言わんで」
「うん」
「ええよ。結婚、しても」
「光ちゃん!」
 叫んだのは自分の声ではない。光一の周囲にいたスタッフと、ステージの上にいたミュージシャンの声が重なった。
 其処で声を上げて良いのは、俺だけじゃないのか?身動ぎ一つせず見守っていた癖に、自分の事など忘れて皆光一の周りに集まった。
「光ちゃん!絶対やめた方が良いって!」
「そうだよ。苦労するって」
「お前が結婚なんかしたら、俺は泣くぞ!」
「光ちゃんにバージンロードなんか歩かせられるか!」
「いや、あの、ちょぉ皆……?」
「絶っ対!反対!」
「あんなあ、其処まで言わんでもええと思うで」
 散々な言葉にうんざりしながら、輪の中に割って入った。冗談じゃない。常識人がいないのは元より承知だが、明らかに突っ込む場所を間違えていた。光一は相変わらずぼんやりと笑っていて埒があかない。
 わざとその薄い肩を抱いて、自分のものなのだと主張した。これは、今のやり取りがなくても当たり前の動作なのだけど。
「光一、ええんやな?」
「あんなー、お前には公衆の面前なりの羞恥心はないんかい」
「そんなもんとっくに捨てたわ」
「……たまに俺、お前ん事分からんくなる」
「これからは分からんとこがない位一緒にいたるから」
 内心の動揺を出さないように気を付けながら、悪い男の顔で笑った。何の気まぐれか知らないが、光一が結婚すると言っているのだ。法的手続きも根本的な問題も棚上げにして、とりあえずその約束を確定してしまいたかった。
 長過ぎる狂気の日々に終止符が打てる。愛だの恋だのと喚き立てるよりも、明確でシンプルな関係だった。
 彼がこの頼りない腕の中に甘んじてくれるのなら、それはとても幸福な事だ。手に入れられないまま、いつか離れて行く瞬間を思って生きて行くならいっそ。
 これ以上ない位近い場所で、一緒に生きて行こう。



+++++



 勢いのプロポーズから、何故か事態はトントン拍子に進んでいる。散々メンバーには罵られたが、光一が余りに普通の顔で笑うからその内誰も何も言えなくなった。
 慌てて駆け付けたマネージャーに怒られるのかと思いきや、「社長には僕から報告するから心配しないで」と言われてしまったし。何件か呪いを呟く留守電と不幸のメールが入っていたけれど、気にならなかった。
 音楽番組の楽屋で、今光一はマネーシャーが持って来た書類に目を通している。弁当を食べながら、自分も隣で覗き込んだ。
「男同士って、養子縁組が結婚なんやって。剛、知ってた?」
「うん、まあな。結構一時期調べたし」
「そぉなん? 勉強熱心やなあ」
 相変わらず頭の螺子が足りない喋り方をする彼の頭を、箸を持った手で撫でる。嫌がりもしないで、真剣な目で文面を追っていた。
「つよちゃんは結構思い詰めてたからね。どうしたらお前と一緒にいられんのか、真剣に調べてたんよ」
「阿呆やなあ。一言言えば済む話やのに」
「結婚しようって?」
「そ。 早かったやろ?」
「……どっちか言うたら拍子抜けやわ」
「にゃは。剛は石橋を叩いて壊すタイプやね」
 上目遣いで見詰められて、死にそうだと思った。叶わない恋を抱いていた時よりもずっと危険だ。こんな至近距離で自分だけを見ていてくれるなんて思いもしなかった。幸福過ぎても人は辛いのだと贅沢な事を思う。
「あ、剛」
「ん?」
「可哀相やなあ、お前。ほら。縁組したら、俺の子供になるんやって」
「何でもええよ。光ちゃんと一緒にいられるなら」
「……いつも、一緒やったやろ?」
「そうやな。でも、やっとこれで『いつまで一緒にいられるんやろ』って悩まんで済むわ」
「安心?」
「も、あるけど、やっぱり嬉しい。お前とは相方以外にはなれんと思ってたから」
「良かったな」
「光一は?」
「何が?」
「光一は、俺と結婚出来て嬉しい?」
「うん。剛が幸せそうやから嬉しいよ」
 彼の言葉は、自分の望むものと少し違っていた。プロポーズの日から何度も聞いているけれど、一度も愛を見せてはくれない。優しさは、痛い程に感じられた。
 自分と同じ感情を持って欲しい訳じゃない。俺の中にある恋情は狂気と紙一重だから、綺麗な光一には相応しくないものだった。表現方法は違えど、彼の愛は深い。俺だけに真摯に向けられていた。
 でも、其処に「相方」との差異は見出せない。彼は「堂本剛」が大切だと臆面なく言った。無条件の愛情は、仕事の距離があって初めて成立するものだ。
 我儘を言っているだけだった。「相方」であろうが「恋人」であろうが、どんな風に二人の関係性が変わっても、きっと光一の惜しみない愛情は変わらない。
 分かっていて、自分のように恋で揺れる彼を見てみたいと願った。穏やかな瞳が狂気で歪む様を、自分だけを渇望する瞬間を。
「……光一は、幸せ?」
「うん」
 躊躇なく応える彼の言葉は真実だった。現状を肯定出来る強い人。多くを望まないその精神が、羨ましくて少しだけ悲しい。
 弁当を置くと、光一の身体をそっと抱き締めた。首筋に顔を埋めて目を閉じる。彼は抵抗する事すら思い付かないように素直に納まった。
 従順なのは「恋人」だからじゃない。「相方」の信頼だけで、彼は自分に関する全てを許していた。
 やっと手にしたのに、相変わらず自分は欲深い。恋をして欲しいなんて思わなくても、充分に愛されているのに。
「結婚、しような」
「するんやろ? あんなに大々的に言ってもうて、マネージャーまで巻き込んでるんやで? 今更後戻りする気ないわ」
「そうやな。保証人まで頼んでもうたもんなあ」
「どーすんの。あの人ら俺らの管理者なのに。絶対事務所から怒られたで」
「間違いないなあ」
「でも、祝ってくれてるもんな」
「うん、ありがたい事や」
 養子縁組の書類手続きに必要な保証人は二人だった。きっと身近な人なら署名してくれるだろうと思っていたけれど、まさかマネージャー達が承諾するなんて思わなかったのだ。
 こんなに大切にしていてくれたのかと、改めて驚いた。「同じ事務所のタレントにもお世話になってるミュージシャンにもサインさせる訳にはいかない!」と言うのが、チーフマネージャーの管理者らしい言い分だったのだけど。
「今は、俺らの新居探してくれてるわ」
「何か申し訳ないなあ」
「そうやな。プライベートの事やのに」
「ちゃんとマネージャーの言う事聞こうって反省した、俺」
 身体を預けたまま、光一は機嫌良さそうに笑う。人生の一大イベントを控えた重さは感じなかった。今の状況を楽しむ余裕がある。
 喜びたい気持ちと、消えない焦りで雁字搦めになっている自分とは大違いだった。既に怖くなっている。「結婚」の二文字が、こんなにも人生に重く降り掛かるとは思わなかった。
「この紙出したら、夫婦なんやで」
「夫婦って言うか、親子やけどな」
「光一」
「……不思議や」
「何が?」
「剛が、全部になってまう」
「全部?」
「そう、全部。相方で友達で家族で兄弟で仕事仲間で、それで充分やったのに。夫婦も剛と出来るんやなあ。不思議や」
「俺だけになるのは嫌か?」
「ううん。安心やから、ええ」
「そっか」
 結婚で光一は変わらないタイプだと思っていた。安定感のある人だ。きっと普通に女性と結婚しても、彼に変化はないのだと。
 でも、もしかしたら彼なりに考えている事があるのかも知れない。結婚なんてしない、と嘯いていた人だから。
 あの時承諾してくれた意味を、前向きに考えたかった。愛してくれているのだと思いたい。



+++++



 書類の手続きなんてすぐに終わるけど提出日が結婚記念日になるんだし、どうせ剛の事だから入籍日はこだわりたいんだろう?
 必要事項に記入を終えた書類をマネージャーに渡した時にそう言われた。確かに、慎重に日付を選びたい思いはある。でも、光一が無頓着過ぎるからこだわりよりも覚えやすい日が良いのかも知れないとも思っていた。
 二人で祝えなければ意味がない。誕生日とか祝日とか、語呂の良い日付。
 そもそも日にちを意識して生きている人ではないから、どうしたら記憶に残るのか見当がつかなかった。聞いたところで、「じゃあ、今日」なんて答えしか返って来ない。
 悩みに悩んで、六月十二日と言う日付が出て来た。以前、PVの撮影で聞いた事がある。この日は「恋人の日」なのだそうだ。
 どんな由来かもろくに知らないが、十一月の「良い夫婦の日」を待つのは馬鹿らしいし、誕生日と重ねてしまうとお祝い事が一つ減ってしまう。
「書類の提出日決めたで」
「うん。 いつ?」
「六月十二日」
「分かった」
「その日は空けとけや」
「俺覚えてらんないから、マネージャーに言っといて。調整してもらう」
 大分長い事悩んで決めた日付を光一はあっさり聞き流した。やっぱり、と言う思いともう少し反応して欲しいと言う願い。今更仕方ない事だとは分かっているし、そんな彼が可愛いと思ってしまう自分も確かに存在した。
 光一と結婚をする。未だに現実味を帯びて来ない事実だった。
 何故、彼は承諾したのだろうか。堂々巡りの疑問は、自分の中で抱えていても仕方なかった。
 分からない。今まで、彼は「相方」として以上の愛情を自分に掛けてくれていたのだろうか。俺と同じように、あの綺麗な身体の内側にも壊れそうな感情が存在するのだろうか。
 愛されている自覚は、随分小さな頃からあった。光一には自分だけで、自分にも光一だけだったから。大人を信じられなかった、あの幼い頃。お互いだけが守るべき存在で愛すべき者だった。
 他には何もいらないと本気で思っていたのだ。この世界も大人も、同年代の仕事仲間すら信じられずに。
 光一に恋情を抱いたのは、必然だった。傍らにあった頼りない存在を守るのが使命だと思っても仕方ない。二人が出会ったのは運命だと、本気で考えていた。
 けれど、光一は? 当たり前に注がれる愛情は、いつでも穏やかだった。
 自分だけを映す瞳も一番に伸ばされる指先も、抱き締めれば安心する身体も。俺だけに与えられたものだった。
 彼は臆病なのに、優しい。変わらないものを飽きずに渡してくれた。
 其処に恋は介在していただろうか? 答えは否だ。一番近くで見て来たのだ。光一の事は、自分が一番知っていた。ならば何故、彼はあの時躊躇なく頷いたのだろうか。
 堂々巡りだ。聞いてみる他なかった。でも、怖い。せっかく手に入ったのだ。手放したくはなかった。
 このまま何も聞かなければ、光一は自分の手の中に確実に落ちて来る。焦がれ続けた人が、やっと自分だけのものになるのだ。
 悩むのはもう癖みたいなものだけど、考えないでおこうと思った。光一は自分を大切にしてくれる。それだけで充分だった。
 愛がなくて結婚する人達も世の中には沢山いる。自分がどれ程幸福かなんて、深く考えるまでもなかった。



+++++



 マネージャーが何軒か見つけて来た物件から、二人の新居を決めた。光一は何でもええよ、としか言わなかったからなるべく彼が過ごしやすい事も考慮する。
 人の目につかなくて、水槽を入れられて、一人の時間も守ってやれる事。条件を挙げれば切りがなかった。だから、都内の高層マンションと言う何の面白みもない所に決める。
 光一が安心して過ごせれば、本当は何処でも良かった。俺は、一緒にいられれば良い。殊勝な事を言う訳ではないけれど、シンプルな理論だった。
 どんどん自分が優しくなって行く事に気が付く。欲しい物を手に入れると、男はこんなものなのかも知れなかった。大切なものが定まれば、生き方もぶれる事はない。
 入籍よりも先に、マンションへ引っ越した。自分は色々と段取りを組んで荷物を運び入れたのに、光一はあっさりしたものだから驚く。
 持って来たのは愛車だけで「嫁入り道具」と笑っていた。「他の荷物は?」と聞いても必要な物はないと言う。執着がないのか、時々光一は身軽過ぎて不安になった。
 此処に未練はないのだと言われているようで。大事な物を持たない事が怖かった。それが枷になるから、この場所に留まっていられるのに。
 自分のマンションはまだ引き払うつもりがないらしく、その内全部処分してもらうと明るく笑った。生活に必要な物は、確かに自分が全て持って来ているからいらないと言えばいらないけれど。
 一緒に暮らし始めて、彼に感じる空恐ろしさはますます募った。こんなに「生」に執着のない人は見た事がない。知っているつもりだったが、一緒に生活してみなければ分からないものもあった。
 人間が本来抱えている欲求をほとんど持っていない。放っておけば食事を摂らないのは知っていたから、マメに作るようにはしていたけれど二人のスケジュールが合う訳ではなかった。一緒にいれば世話を焼く事が出来ても、一人の時は何も出来ない。
 睡眠にしても、宵っ張りなのは相変わらずらしく自分が眠くなっても彼はテレビの前から動かなかった。決して真剣に映像を追っている訳ではない。ぼんやりしている事の多い人だから、起きているのか寝ているのかその見極めも出来なかった。
 一緒に寝ようと誘っても、「まだ眠くない」と言うばかり。せっかく買ったダブルベッドも入れ替わり使うようになっていて、未だ一緒に寝た事はなかった。一緒に眠る事が嫌なのかと思えば、楽屋では相変わらずくっ付いて昼寝をしたがるから訳が分からない。
 価値観の違う人間が一緒に生活するのだ。多少の不可解さは目を瞑ろうと思った。相手は堂本光一なのだから、更に質が悪いだろうし。
 愛したい気持ちと、ずれて行く生活と。その内折り合いが付けられるようになる筈だ。
 合宿所の頃とは違う。それぞれが一人で生活する術を身に着けてしまったから、また他人と生活を始めるのに多少の苦痛や違和感が付きまとうのは当たり前だった。
 一緒に暮らし始めて一ヶ月。掛け違ったボタンのように、気持ちの悪い感覚は消えない。
「ただいまー」
「あ、剛。お帰り」
 仕事を終えて真っ直ぐ帰るのが習慣になりつつあった。帰った所で光一が家にいない事も多かったし、結局魚達と過ごして朝を迎える事も多いのだけど。二人の場所に帰る事に意味があった。
「今日は早かったんやなあ」
「日曜日やからね。開演が早いの」
「そうなん? 今日、日曜かー」
「光一さんは、もう少し日にちの感覚持った方がええね」
「今、何月?」
「五月ですよ」
 苦笑しながら、水槽の前に立つ光一の隣に並んだ。頭を軽く撫でてやれば、くすぐったそうに笑う。
「水槽、面白いんか?」
「んー、こんなん飼ってる剛がおもろいなあ思って」
「俺が?」
「うん。やって、絶対可愛くないで。ずっと見てんのに、懐かんし」
「懐いて欲しいんや?」
「……そぉゆう訳ちゃうけど」
 案外寂しがりやな彼は、一人で置いておいても頓着しない癖に、人でも犬でも魚でも生き物がいると駄目になる。構って欲しくて、愛して欲しくて。
 小さな頃には見えなかった、光一の分かり難い愛情表現だった。一人にしないで、と願う弱さも彼の中に確かに存在する。
「光一さん、ところで何で服着てんの?」
「んー、ああ。連絡待ちやから」
「仕事?」
「ううん」
「……飲み行くんか?」
「よぉ知らん。呼ばれただけやし」
 いけない、とは思っても下降する気持ちを止める事は出来なかった。テレビの前でも楽屋でも、「友達いない。誰も誘ってくれん」と言っていたから油断していたのだ。
 一緒に暮らすようになって、初めて彼の交友関係を知った。今まで気にしたのは、長瀬位のもので後は光一自身が懐いていない、言わば「お付き合い」の関係だとばかり思っていたのは間違いで。
 事務所の内外、スタッフ共演者の種類を問わず、彼は良く誘われた。スケジュールの関係で、参加出来る回数は少ないけれど。もしかしたら、自分より交友関係は広いのかも知れない。
 一度一緒になっただけの人間が何故光一の携帯を知っているのか分からない事もあったし、あの顔の濃い四人組に至っては隙あらば誘って来る有様だった。
 彼が孤独に陥り過ぎるのを恐れていたから、親心としてその変化は嬉しい。光一はもっと沢山の人に愛されるべき素質を持った人間だった。自分の大切な人が、大切にされるのは嬉しい。
 けれど、大人になり切れない独占欲の塊みたいな自分も同じように存在した。俺だけに心を許して欲しい。いつでも俺だけを待っていて欲しい。
 その光は、いつでも俺の為だけに。
 人が一人では生きて行けないように、二人で生きる事も幻想でしかなかった。人と人が出会い続けて関係を広げ続けて、生きて行けるのだ。俺だけを見て欲しいなんて、傲慢でしかなかった。
 光一が安心して笑える場所を多く持つ事は、喜ぶべき事だ。あの、自分の後ろに隠れていた少年を知っているのなら尚更。
「あんま、遅くなったらあかんで」
「何で?」
「何で、て……」
「別に女の子やないし、剛は心配性過ぎや」
「好きな人の心配して、何があかんの」
「剛……」
 光一が怯えた瞳を向ける。明確な愛情は、今でも彼の恐怖の対象らしい。本当は一時間置き位に連絡を取って、迎えに行きたい程だった。
「……せっかく一緒におんのに、お前は一個も変わらんな」
「一緒におるのなんて、昔からずっとやん」
「そぉゆう事やなくて。俺ら、結婚するんやで? 合宿所で同じ部屋になったんと訳が違う」
「分かってるよ」
「でも、お前は相変わらずや。夜には寝ないし、すぐ飲み行くし」
「そんなん、今更簡単に変えられるか」
「俺は、変えようと思ってる。光一と一緒になるんなら、早く帰りたいと思う。一緒に飯食いたいって思う。こんなんやったら、一緒に暮らす意味ないやんか」
「意味、なんて。 そんなん」
 光一は、きっと分かっていない。自分の中にある恋情を。体内を浸食する狂気を。
「光一は俺ん事好きか?」
「あ、当たり前やろ。何、今更」
「俺には分からんよ。何で、一緒に暮らしてくれてんのか。何で、結婚してくれるんか」
「剛、お前……」
「俺はずっと考えてた。でも、分からん。何で?」
 彼の冷えた指先を掴んだ。怯えた仕草で肩を揺らす様が愛しい。恐れを知らない人だった。そんな強い人が唯一怖がるのが自分だ。暗い優越感だとは分かっているけれど。
 光一の唯一のものになれるなら、愛でも恐怖でも構わなかった。それ位に彼だけを欲している。
「言って。お前が言葉苦手なの知ってる。でも俺、このままやと後悔しそうなんや。お前は優しいから、結婚しようって言った時頷いちゃったのかなあとか。俺はお前の『相方』やから、そぉゆう無理今までもさせて来たし」
「……つよし」
「あん時、どうしてもお前が欲しかった。ずっと好きやったから、でも手に入れられないもんやって思ってた。いつか俺んところからいなくなるんやって、そう思ったら怖かった。一緒にいられる約束が欲しかったんや」
 泣きそうだと思った。水槽のモーター音だけが部屋に響く。手の先にいる人は、心配そうに自分を見詰めるだけだった。
 ずっと、後悔との狭間で彷徨っている。光一は、優しいから。「絶対」の対象である自分の為なら、彼は多少の無理も押し通してしまう。
 本当は恋情なんか何処にもなくて、あるのは長い時間を掛けて育まれた親愛だけのような気がして。何で、一緒にいてくれるの? 何で、あの時「ええよ」と言ってくれたの?
「剛、あのな……」
「うん」
「俺、ホンマに言葉にするの苦手なんや」
「知ってる」
「うん、知ってくれてる剛に甘えてた。ごめんな」
 優しい言葉を零して、手を繋いでいない方の指先が頬に伸ばされる。そっと撫でると、綺麗な表情で笑った。
「別に、無理なんかしてへん。あん時、結婚しようって言われて、本当にしても良いって思ったから言うたんや」
「どうして」
「どうして、って。俺の結婚の認識がおかしいんか? そんなん、一緒にいたいからちゃうの? 違う?」
「……正解」
「やろ? 何で剛がそんな風に悩むんか分からん、俺」
 光一の黒い瞳がひた向きな色を見せる。心臓が甘く軋んだ。彼が一緒にいたいと言う。この先の未来も、ずっと。
 耐え切れなくて、瞳を伏せた。泣いてしまいそうだ。彼の中にも、恋情が存在するのかも知れない。
「俺と一緒にいたいって、思ってくれとんの? 結婚したいって、思ってくれてた?」
「お前と一緒に生きる為に、此処におるんやろ。俺は、剛が考えてるみたいな結婚生活ってよう分からんから……。どんなのが良いのか分かんない。この部屋で剛だけを待ってて欲しいんなら、そうするよ?」
「良い。いらん、そんなん」
「剛が欲しいものなら、全部。俺が出来る事全部してあげたいんや」
「うん」
「それが、俺がお前と結婚したい理由。……あかんか?」
「ごめん」
「良いよ、謝んなくても。俺も、嫁入り前なのに、全然気にしてなかったし」
「光ちゃんが、お嫁さんになってくれるん?」
 其処はこの際はっきりさせておこうと、顔を上げた。涙の膜に覆われた瞳で見詰める。柔らかな目尻には、多分愛情が詰まっていた。
「何で、そんなとこで反応すんねん。どっちもお嫁さんでどっちもお婿さんやろ?男同士なんやから」
「ウェディングドレスとか……」
「阿呆か。何で男二人で結婚式なんか挙げなきゃあかんねん!」
「えー、俺写真位撮りたい」
 甘えた声でねだると、困ったように眉を顰めた。ああ、この人は本当に自分の欲しいものを与えてくれようとしている。その気持ちだけで充分だった。
 愛情でも恋情でも構わない。光一の中には、間違いなく自分への思いが息づいていた。
「冗談。光一が、此処に帰って来てくれる事だけが俺の望み」
「そんだけ?」
「うん。お前はもっと外に出た方がええんや。ちゃんと分かってたんやけどなあ。やっぱり、俺やきもち焼くから」
「しゃあないなー。俺、言わんかった?」
「何を?」
「剛が全部になるって。……ホントは、お前だけいれば生きていられるんよ」
 他の何もいらない、と穏やかな瞳は雄弁に語った。仕事があれば平気だと語る時と同じ表情で笑う。
 そんな言葉を耳にする度に、俺は胸が痛かった。恋も遊びもないまま、可哀相な大人になってしまったと。
 でも、あの時も視線の先には自分がいたのだ。「仕事」と「堂本剛」はイコールで結ばれるものだった。
 彼は何度も何度も、俺が必要だと言葉にしてくれている。気付かなかったのは、自分の脆弱な恋心だった。
「剛が考えてるよりずっと、俺はお前が大事なんよ」
「……俺は、お前が好きで好きで死にそうやった」
「俺は、お前がいるから生きて行ける」
「意見合わんなあ、相変わらず」
 涙を堪えるようにして笑うと、彼は痛ましい表情を見せた。いつでも二人の気持ちは重ならない。
 だからこそ、二人して同じ方向を向いて歩いて行く事が出来た。お互いを見詰めていても生きて行けない。同じ未来を見詰められる距離があるから、二人でいる意味が存在するのだろう。
「俺、今やっと心臓が落ち着いた気ぃする」
「心臓?」
「うん。いっつも、俺の此処暴れ出しそうやった。その度に苦しくて、狂ってまうんやないかと思ってた。あの日も、おんなじ。お前が好きで死にそうで、やから言ったの」
「プロポーズ?」
「そうや。でも、お前がええって言ってくれたのに、それからもずっと苦しくて苛々してた。きっと、お前ん事信じてなかったんやな」
「俺が信じられるような態度取ってなかったからやろ?」
「いや、何も変わらない事がお前なりの愛情やって気付けば良かったんや。見ようとしてなかった。手に入れたつもりで、光一の事無視してた」
「ずっとなんて、見てなくてええんよ」
 傍にいるから、と囁いてそっと抱き締められた。同じ身長の二人だから、恋人同士の抱擁と言うよりは兄弟のそれに近い。魂を分け合うように、お互いを抱いた。
「も一回、言ってもええ?」
「うん」
「僕と結婚して下さい」
「はい」
 相手が唯一の存在で、そして全てだった。運命の相手をあんな幼い頃に見付けられた自分達は幸せだ。濁った体内が、光一の体温で浄化されて行く感覚。
 どんな場所にいても、綺麗に生きていられるのだ。彼は、様々な汚濁を飲み込んで尚美しかった。その光を手に入れられた事が嬉しいけれど、もしかしたら違うのかも知れない。
 もっと前から、多分出会った最初からずっと、彼の光は自分のものだったのだ。



+++++



 養子縁組の書類手続きは、拍子抜けする位あっさりと終了した。別にマスコミに嗅ぎ付けられてもさして困る事ではない。事務所側もばれた時の対応策は既に作ってあると言う事だった。名字は元々同じだから、戸籍上の事だけで、後は本当に何も変わらない。
 控えめに「おめでとう」と言って、マネージャーがブーケをくれた。あのプロポーズの瞬間に居合わせた人達は、相変わらずのパフォーマンスだと思ったのか、その後は何も言われていない。
 誰に祝福されなくても良かった。二人が納得しているなら充分だ。思えるようになったのは、光一のおかげだけれど。
 それぞれの両親には、特に理由を告げず事実だけを説明するに留めておいた。もしリークされた時に、ニュースソースは少しでも少ない方が良い。
 きちんと調整されたスケジュールに則って仕事を終わらせると、早い時間に帰る事が出来た。
「光一は、もう帰ってると思うから。今日は、ちゃんと決めろよー」
「え」
「バッグの中、大事なもん入ってるんだろ?」
「……ばれてた?」
「当たり前だよ。一日中大事に撫でやがって。俺もたまには嫁にプレゼントしてやるかなあ」
「した方が良いですよ。分かりやすく大事にしてる感じが良いと思う」
「剛は現金だな。じゃ、お疲れ様」
「お疲れ様でしたー」
 手を振って車を発進させるマネージャーを見送って、一つ深呼吸をする。六月十二日。二人の結婚記念日。
 きっと光一にはマネージャーが教えている筈だ。あの用意周到な人達なら、忘れがちな彼の事まできちんと配慮が為されているだろう。
 ブーケを抱えて、ドアの前に立った。緊張する。今更何を、と思うかも知れないけれど、冷静な状態で光一に愛を渡せるかどうかは自信がなかった。
 甘い花の香りが気分を落ち着ける。部屋に入らなければ始まらなかった。何と言ったら良いのだろうか。
 五分以上部屋の前で悩んで、いい加減男らしくないと覚悟を決めた。その瞬間。
 勢い良くドアが開かれた。
「うわ!……っわ!」
 扉を避けようとしたのが一回目、二回目は出迎えてくれた人を見てだった。ブーケを左手にしたまま、呆然と立ち尽くす。
「こ……こぉいち?」
「お帰り……もぉ、じろじろ見んなや!」
 視線を逸らして、部屋に入るよう促された。乱暴な仕草と言葉は照れ隠しだ。
「こーいちさん、それ……?」
「うっさい!とりあえず入れ!」
 おっさん口調で言い切って、振り返りもせずにリビングへ戻って行った。慌ててドアを閉めると靴を脱ぐのもそこそこに光一の後ろ姿を追い掛ける。
 夢かと思った。純白のシャツとパンツは、衣装で何度も見た事がある。その首元にはリボンタイが結ばれて、細身のパンツの上にはラップスカートが巻かれていた。ステージの上で見れば、いつも通りの王子衣装だろう。
 けれど、問題はその先だった。両手には白の手袋が嵌められていて、小さな頭の上にはウェディングティアラと肩を越す位までの柔らかなレースのヘッドドレスが載せられている。
 自分は、夢を見ているのだろうか。否、別に彼と一緒にいられれば多くは望まない。けれど、結婚願望が強かった分、結婚式にも思い入れがあった。
 相手が光一だから諦めてしまっただけで、本当は結婚式を挙げたかったのだ。綺麗な人だから、きっとその辺の女よりずっと美しい花嫁になると思っていた。
 夢なら覚めないで欲しい。そう思って、でも彼の表情が今この時間を現実だと教えてくれた。
 リビングのフローリングの上に憮然と座って、睨み付けられる。恥ずかしいのか悔しいのか、その瞳は潤んでいた。少なくとも感動の涙ではないだろう。
「光一、それ……」
「おせっかいなマネージャーが、こっそりスタイリスト呼んだん」
「スタイリスト?」
「こんなん、俺が出来る訳ないやろ!」
「そりゃ、そうやけど……」
 確かに、遊ばれたのか何なのかうっすら粉も叩かれているようだった。淡く潤った唇がいつもと違ってどきりとする。
「とりあえず、そんなとこ立ってないで座り」
「はい」
 着慣れない服に戸惑っているらしい光一は正座をして、手袋を嵌めた両手を膝の上に置いていた。その真正面に、自分も倣って正座する。
「光一」
「……なに」
「綺麗やなあ」
「……っ、そんなん、言うな」
「何で? せっかく綺麗にしてもらったんやろ? 言わんでどうすんの?」
「やって、こんなん……」
「こんなんとか言いなや。別に、光一を女にしたい訳ちゃうよ。スタイリストさんもちゃんと分かって、男物で用意してくれてるやん」
 光一の自尊心を傷付けたい訳ではなかった。でも、マネージャーの気遣いと抵抗しながらもこうして帰りを待っていてくれた彼に嬉しくなってしまうのは、当たり前の事だ。
「ありがと、光一。俺も何かちゃんとした格好してくりゃ良かったなあ」
「お前のちゃんとした格好って、最近見た事ないで」
「そやなあ。スーツも着なくなったしなあ。でも、どっかに入ってるから着替えてこよか?」
「良い。そのまんまで」
「分かった。……写真撮影はなしやろ?」
「当たり前や」
「じゃあ、もっと良く見せて」
 悪い男の声で嘯いて、光一の細い顎を取った。無理矢理上を向かせると、ぎゅっと瞳を瞑る。ああ、ホントに嫌なんやろなあと思って、自分の気持ちよりも俺の事を優先してくれた事実を噛み締めた。
 優しい人。多分、俺に優しさを与えてくれる人で彼以上の存在は、地球の何処を探してもいないだろう。世界で一番優しい。
 愛、なのだろうか。光一は穏やか過ぎて、感情の揺れが見えない。欲しがられているのか、愛されているのか。今も分からない。
 でも、彼の中にあるのが何かと問われたらはっきり答える事が出来た。その心臓に存在するのは、「絶対」だ。唯一のもの。彼の至上のものである事。
 大切な存在だと改めて思う。欲しくて欲しくて狂いそうだった。でも、欲しがるよりも前に与えられていたのだ。
 光一の手は、いつでも自分の為に用意されている。
「光一」
「な、に」
 恐る恐ると言った風情で、瞼を持ち上げた。世界が終わる瞬間も、この黒い瞳には俺だけを映していて欲しい。
「愛してるよ」
「……知ってる」
「可愛くないやっちゃなあ。其処は、俺もー言うとこやろ」
「嫌や」
「ええよ。俺も知ってる」
 優しく笑って、色づいた唇に軽い口付けを落とした。触れるだけの、甘い接触。
「え!……っなに!」
 一瞬の空白の後、光一が口許を押さえて真っ赤になった。そんな風にしたら、グロスが手袋に移るのではないだろうか。冷静に考えていたが、尋常ではない彼の反応に眉を顰めた。
「こーいちさん?」
「やって……やって……」
「何ですか?」
「おっ、お前……今っ、キ!」
「キスしたけど、それが何やねん」
「えー! やって、キス、なんて、そんなん!」
 成人をとうに過ぎた男性の反応ではない。仕事でだって散々している癖に。プライベートの事は余り知らないけれど、これだけ長い事生きていればそれなりの経験がある筈だった。
「好きな奴にキスして何がおかしいねん。これでも我慢してた方やで」
「我慢って……やって、俺と剛なのに」
 ほとんど泣きそうな顔で光一が訴える。愛し合う者同士が触れ合うのは当たり前ではないか。一つ屋根の下、暮らしていてその考えに至らない方がおかしい。
 それとも、光一だから仕方ないのだろうか。清い仲で結婚生活をする気など毛頭ない自分にとって、もしかしたら新たな悩みとなるのかも知れない。
 考えるとうんざりするので、とりあえず目の前の事に集中した。キスでこんなに騒がれてはセックスなんて夢のまた夢だった。だから、一緒に眠ろうとしなかったのか。
 今更ながらの防衛本能に気付いて、溜め息を吐いた。先は長そうだ。
「俺とお前やから、当たり前の事やろ。こんなん、スキンシップやん」
「やって、人がいないのに、こんな……」
「ネタやないんやし、人がいなくて当たり前やろ。お前、人に引っ付きたがる癖に、キスが駄目なんて聞いとらんぞ」
「……駄目なんかじゃないけど」
「なら、ええやん。も一回する?」
「駄目!……心の準備が出来てから」
 これ以上虐めるのも可哀相かな、と思って笑うだけに留めた。長期戦は覚悟の上だ。何年狂いそうな恋を抱えて来たと思っているのか。今更、怖いものなんてない。
「まあ、ええわ。その話は追々な」
「追々するんかい」
「夫婦になった訳ですから?」
 怯えさせない仕草で手を離すと、傍らに置いていた鞄から小さな箱を取り出した。ブルーの、ドラマでは見慣れた形。
 それを見て、中身を察知したのか不安そうな瞳を光一は向ける。レースがはらりと揺れて綺麗だった。
「俺、何も用意してへん」
「もうくれたやん。その格好だけで充分やよ。はい、受け取ってくれますか?」
「……ええの」
「お前の為に用意したんやもん」
「うん」
 恐る恐る受け取る指先に苦笑する。光一は、手放しの愛情が苦手な人だった。
 臆病で優しくて、それを隠そうとするから横暴に見える。
 ゆっくり蓋を開けると、小さな声を漏らした。きらきらした物を見詰める純粋な瞳。
「きれーや、これ」
「そやろ? お前、綺麗なもん好きやもんなあ」
「うん。好き。ありがとぉ」
 子供みたいな発音。愛しい存在だった。何よりも愛した人だ。自分の手で彼を幸せにしてやりたかった。この手が何かを成せるのだとすれば、それは光一の為に。
「貸してみ。嵌めたるわ」
「ん」
 指輪と左手を素直に差し出して、ゆっくり瞳を伏せた。手袋を外すと、薬指にそっとプラチナの輪を通して行く。
 小さなダイヤモンドの付いた決して派手ではないリング。大きな石を買えない訳ではないけれど、光一にはこれが似合うと思った。
 どうせずっとしていられる物でもないから、彼の好きなきらきらして綺麗な物を渡そうと決めていたのだ。
 嵌められた左手をじっと見詰めて、光一は顔を歪めた。どんな表情を作れば良いのか迷ったのだろう。
 素直になれない事は知っている。その表情の裏側に潜んでいる感情にも。
 もう、怖がらない。光一の愛情は、自分のそれとは違うから。
「これから先の未来も、俺に渡して欲しい」
「……うん」
「俺は弱いけど、お前がいたらきっと強くなれると思う」
「うん」
「愛してるよ、ずっと」
「ありがとう。俺なんかを欲しがってくれて」
 小さく零した光一の本音は痛々しくて、その言葉ごときつく抱き締めた。どうしてこの人は、いつまで経っても柔らかな弱さを失わないのだろう。だから、他人に優しくいられるのかも知れない。
「あんなあ、ホントは俺ライバル多いんやで」
「嘘や。俺、もてへんもん」
「あー、まあ……女の子にはもてへんかも知れんけどな」
「俺はノーマルや!」
「今更そんなん宣言されてもねえ」
 俺と一緒になる訳だし。耳元で囁けば、剛は違うと訳の分からない言い訳をした。誰かのものになる前に、と言う感情は独占欲でしかないけれど。
 その根本にはいつも愛があるのだと言う事を忘れないでいたかった。
「とりあえず、結婚した訳ですから、今日からは一緒に寝ましょうね」
「や!」
「せっかくダブルベッドやのに、全然意味ないやんかー」
「別々に寝た方がゆっくり出来るやろ」
「ゆっくりしたい訳ちゃう!いちゃいちゃしたいんや!」
「いちゃいちゃって……死語やろ、お前」
「光一さん、論点がずれてる。一緒に寝よ?」
「い、や!」
「何もせぇへんよ」
「……」
 言ってやれば、まさに気にしていたのは其処だったようで、光一を抱き締めたまま盛大に笑った。結婚を決めて一緒に住んでいるのに、何で其処で引くかなあ。
 相変わらずずれた人だと思って、もう一度今度は額に口付けた。逃げられないよう、先にきつく抱き締める事も忘れずに。
「おっ前!夫婦なんやったら、対等やろ!」
「そうですよ。別に光一さんからキスしてくれても僕は全然困りませんけど」
「違う!そうやなくて! 俺の意見も聞けって事!」
「意見?」
「心の準備が出来てない言うたやろー!」
 最悪や、と叫んで、でも離れる事はせずに逆にぎゅっと抱き着かれた。レースがふわりと舞って、ああ花嫁さんだなあと感慨に耽る。
 いつかは一緒に寝られるかな、と思いながらとりあえず今日の目標はこの姿をどうやってカメラに収めるかだと考えた。
 未来は長い。
 ゆっくり一緒に歩いて行ければ良い、と剛は満足そうに笑った。


 幸福は、腕の中にある。
 未来は二人の視線の先に。


【了】
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