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本日、日本テレビにて宿題君の収録日。

だが、ワタクシ二宮和也はただ今、「志村どうぶつ園」のスタッフルームに来ております。

何故って?

それは・・・・あるモノを探して頂戴しにね、来たんですよ。

あれだけは・・・俺の手元に持っておかねばなりません!

盗みは犯罪?

馬鹿なこと言わないで下さい。
盗みなんてしませんよ。
正々堂々、真っ向勝負です。

大丈夫、絶対怪しまれる事はないから。

さあ、行きますよ!


「どうも、おはようございまーす」

「あれ、二宮君。おはようございます。どうしたんですか?」

「宿題君の収録でーす」

「ああ、そっか。で、今日はどんなお題なの?」


ほらね。

んふふ、これぞ日ごろの成果ってヤツですよ。
全く怪しまれる事なく潜入成功です。
おバカな企画を考えてくれてるスタッフに、今日ばかりは感謝しますよ。


「この間は、相葉君の短所だったよね?今度は長所?」

「・・・いえ・・・・」


そんな事はあなたたちに聞かなくても、充分知ってますから!!


「あ、じゃあ・・・おまぬけエピソードとか?」

「そりゃ、ありすぎるくらいあるからなぁ・・・・ほら、この間のアレとか、すごかったよな?」

「ああ!アレね。アレはやばいくらいにおまぬけだったなぁ。いや、ある意味天才だけど」


・・・・相葉さん、どんな事をみんなの前でしてんですか?
是非とも聞きたい!けど、それはまた今度の機会にして・・・。

任務を遂行せねば!!


「今日はですね、番組で使った小道具を何点か・・・」

「ああ、小道具ね。被り物とか?」

「ええ。」

「あっちの方にあるよ。使えそうなの適当に持って行って良いよ」

「ありがとうございます。では・・・」


さて・・・ワタクシのお目当てのモノは・・・。

あ!

ありました!!

んふふ・・・これこそ俺が探していたモノ。
こいつのせいで、俺は眠れぬ日々を過ごしたんですから。

ここからが腕の見せ所ですよ!


「あ、これ可愛い!あの、ここにあるのって、貰えたりしませんよねぇ・・・」


欲しいなぁ・・・・。

と、ここでおねだりビーム!!


「えーと・・・、たぶんもう使わないし、良いんじゃないかな?」


相手の目が泳いでる・・・もう一息ですね。


「じゃあ、これとかもらっちゃっても大丈夫ですか?」

ちょっと鼻にかかった声で、上目遣い。

「・・・ああ、良いよ。持ってきな」



はい、大成功。


「わぁ、ありがとうございます!!それじゃ、失礼しまーす」


まだまだ・・・・。


ここまで離れたら良いかな?



よしっ!!

ああ、おもいっきりガッツポーズしちゃいました。

誰も見てないよね?
んふふ、ゲットできましたよ。

まぁ、カモフラージュに他の小道具も何点かもらっちゃいましたけど。

それはそれで使えそうですしね。

ああ・・・、手の中のモノを眺めるだけで顔がにやけちゃう・・・・いやいや、ここは公衆の面前です!


もうちょっとの間は、カッコいいニノちゃんでいないとね。



さぁ、今日の夜が楽しみだなぁ・・・・。


本日のお仕事終了。

二宮と相葉は2人でご飯を食べた後、二宮の家に来ていた。

先にお風呂に入った相葉は、二宮の部屋でくつろぐ。


「あーいばさんっ。」

「うわっ!にの!急に後ろから抱きつかないでよ、びっくりするでしょぉ」

「ふふっ。ごめんねー・・・」





カチャ。





「え?なに?今カチャって・・・・ええっ!なにこれ!?」


相葉は驚いて二宮の方を見る。


「んふふ、さて何でしょう?見覚えあるでしょ?」

「ええっ・・・あ!これ、ジェームズ!!」

「大正解!あんたが番組でつけたてたジェームズの首輪。と、リードもね♪」


首輪にリードを取り付ける二宮。


「リードもね♪って!!なんでおれに着けるの!っていうか、なんでにのがそんなの持ってんの!?」

「えー?そりゃあ、日ごろの行いが良いからさ」

「は?意味わかんないんだけど」


疑うような視線を二宮に送る。


「そんな目で見ないでよ。今日さ、たまたまスタッフルームを通りかかってさ、いつも相葉さんが出てる番組だし、ちょっとね覗かせてもらったの。
そしたらさ、小道具がいっぱいあってね。可愛くてさー、可愛い可愛いって言ってたら、くれるって言うもんだから、ついもらっちゃった♪」

「ふーん・・・。で、よりによって、なんでこれなの?」

「・・・他にも色々もらったよー。でもさ、これが一番あんたに似合うと思って・・・」


実際、似合ってるし。


「に、似合ってないよ。それにこれが似合うって、なんか嬉しくないし・・・」


そう言って、首輪を引っ張り首を振る。

その姿があまりにも似合っていて、二宮の唇がつり上がる。


「えー・・・、俺は似合ってると思うよ。今まであんたがしてきた被り物や、コスプレのどれよりもね・・・・」


二宮の声が幾分低くなった。


「にの?」

「何ですか?」

「なんか・・・怒ってる?」

「・・・何で、そう思うの?」

「なんとなく・・・、勘?」


そう答えた相葉を見て、クスリと笑う。


「間違ってないけど、正解でもないかな・・・?」

「どういう意味?」

「怒ってるわけじゃない。けど、笑っていられるほど穏やかでもない」


二宮の言っている事がよく分からない。
相葉は首を傾げて二宮を見つめた。
そんな相葉に近づき、頬を撫でる。


「・・・ホント罪な男だね、あんたって。いつも俺を翻弄する」

「にの・・・いっ!」


突然、二宮がリードを思いっきり自分の方へ引き寄せた。。
そのせいで二宮と相葉の距離が更に近くなる。


「な、なに?にの、痛いよ」


驚いたのと突然の痛みに、目に涙を溜めて相葉が二宮を睨んだ。


「言ったでしょ?怒ってないけど、笑ってられるほどじゃないって・・・」


リードを引く手に力が篭る。
首輪がギリギリと悲鳴をあげた。


「ちょ、にのっ!?」


二宮の真剣な眼差しにぶつかり、相葉は戸惑った。
いつものことだが、二宮をイラつかせている原因が分からない。
怒ってないと言いながら、二宮の瞳には明らかに怒りの色が見て取れた。

不安げに二宮を見つめる。


「・・・分かってないんだね。そこもあんたらしいよ・・」


二宮が自嘲気味に笑った。


「好きだよ、相葉さん」

「わっ!んっ・・・・・」


首輪を掴んで引き寄せると、相葉に口付けた。


「んっ、くちゅ・・・ん、はぁっ・・・」


深い口付けに相葉の手足から力が抜けて、膝立ちの体勢から床に崩れ落ちた。
そんな相葉を見下ろし、二宮は立ち上がる。


「にぃのぉ・・・」


二宮のズボンの裾を掴んで見上げた。


「何?」


立ったまま相葉を見下ろす二宮。


「どっか、行っちゃうのぉ・・・?」

「・・・行かないよ。何で?」

「だって・・・」


二宮が立ち上がったことで、自分から離れようとしていると思ったようだ。
相葉の瞳に不安の色が濃く浮かぶ。

二宮が離れていく事を恐れている相葉の姿は、二宮の機嫌を良くした。


「相葉さん・・・さっきも言ったけど、俺は怒ってるわけじゃないんだよ。ただ、あんたに自覚して欲しいんだ」

「じ・・・かく?」


二宮はしゃがんで、相葉と目線を合わせる。


「俺ね、あんたが頑張ってるのテレビで見てるとすっげぇ嬉しいの・・・でもさ、逆に喜べない自分もいてね」

「に、にの・・・・?」

「矛盾してるんだけど、ホントそうなんだよ。みんなに可愛がられて、楽しそうにしてて。
良いことなのに、俺のいない所で何笑ってんだって、思っちゃうんだ。それにね、コレ・・・・」


首輪に手をかけ、再び相葉を自分に引き寄せる。


「うっ・・・・」


首輪が皮膚に食い込んで、相葉が唸り声を上げた。
相葉の顔を上向かせ、二宮が低い声で言う。


「コレをテレビであんたがしてるの見た時もね、誰がこんな格好みんなの前にさらして良いって言ったよ?って思った」


そう、これはただの嫉妬。

自分の心の狭さから来るただのエゴ。


「にの・・・」

「相葉さんが悪いんじゃない。俺の勝手な想いだって分かってる。だから、怒る理由はないんだ。ただ、俺がそう思ってる事をあんたに自覚して欲しい・・・」


片方の手で相葉の頬を優しく撫でる。
首輪をギリギリと締め付けているのと同じ人物の手とは思えないほどに優しく。

そのギャップに戸惑い、二宮を見た。


二宮の切ない瞳とぶつかって、相葉は自分の愚かさを思い知らされる。

二宮から感じるのは怒りだけではない。

痛いほどの愛情。
両方の手に、矛盾する彼の感情が表れていた。

首に感じる痛みなんて比じゃないくらいに、胸が痛い。


ああ、どうして自分はこの人をこんなにも不安にさせてしまうのだろう。
どうしたら彼の心を鎮めてあげられる?


「・・・にの、ごめんなさい。おれ、ばかだからすぐににのを怒らせて。でも、にのがダメっていうことは絶対しないから。だから・・・」


おれを嫌いにならないで。

自分に出来る事は、これだけ。
情けないけど、ただ彼に縋る。

そんな相葉を見て二宮は首輪にかけていた手を離した。
その代わりに両手で相葉の顔を包み込む。
相葉の言葉は少なからず、二宮の独占欲を満たした。


「いつも言ってるでしょ?俺があんたを嫌いになるわけないって。大好きだもん、あんたの事」

「にのぉ・・・おれもだいすきぃ。にのがいなきゃ・・・やだよぉ」


潤んだ瞳から雫が溢れて流れた。


「分かってるよ・・・。だから、怒ってるわけじゃないって言ってるじゃない。この子はもう、しょうがないねぇ・・・」

「ん・・・」


その雫を自らの唇で拭い取り、唇に吸い付いた。


「んあっ・・・はぁ・・・・ん」


相葉の口から甘い息が漏れる。
二宮の服を掴んで、崩れそうになる身体を支えた。
再び二宮が自分から離れないように。

相葉のその態度に思わず笑みが浮かぶ。

二宮は唇を離すと、相葉の手を外し立ち上がろうとする。


「に、にのっ・・・・」


焦った相葉が強く服を掴んだ。


「なぁに?相葉さん」


わざと分からない振りで相葉を見る。


「ん・・・・」


涙目で二宮を見上げながら、くいくいと服の裾を引っ張る。


相葉は、自分から「して欲しい」とは言わない。
こういう時、普段の空気を読まない、騒がしい一面は鳴りを潜め、ただただ二宮を見つめる。

いつもその態度で、その目で二宮に訴えてくるのだ。


キスして欲しい。


触って欲しいと。


それが二宮だけが知る相葉の姿。

潤んだ瞳を二宮へ向け、半開きの口が微かに動く。


「にの、おねがい」・・・と。

その姿に二宮の独占欲は完全に満たされる。


同時に湧き上がってくるのは支配欲。

彼の細い首には二宮の着けた首輪。
首輪から伸びているリードは、自分の手元へと続いている。



二宮は相葉を見下ろして妖しく笑った。


目は口ほどにものを言うとはよく言ったもので。


自分の動き1つ1つに反応して、揺らぐ相葉の瞳がたまらなく征服感を煽る。



欲情を刺激する。



「ねぇ・・・相葉さん。俺にどうして欲しいの?」


ズボンの裾を掴んだままの相葉を見下ろした。


「え?そんなの・・・・」


言えないと、頬を赤くして目を逸らす。


「言えないの?しょうがないね。・・・・じゃあさ、態度で示してよ?」

「たいど・・・?」


どうすれば良いのか分からず首を傾げる相葉。



「俺にどうして欲しいのか・・・・あんたが俺にやってみせて?」

「えっ・・・・おれが、するの?」

「うん。だって俺には分かんないもん、あんたが俺に何を求めてるのか。でも、言えないんでしょ?だからやってみせてよ、俺に分かるようにね。
丁度良いじゃん。今の相葉さん、ジェームズだもんね。ジェームズは喋んないでしょ?」


手元にあるリードを振ってみせる。


「そんな・・・・」


二宮の言葉に打ちひしがれる相葉。


「出来ないの?」


床に座ったまま俯いた相葉を、リードを引いて上向かせると、深いキスを仕掛ける。


「はっ、ん・・・・・」


息さえ飲み込まれそうな激しさに、相葉は座っている事すら出来なくなり、後ろへ倒れそうになる。

二宮は、片方の手でしっかりとリードを握りこんで相葉が倒れないようにすると、もう片方の手で相葉のわき腹を撫で、そのまま下の方へと下ろしていく。


「あっん・・・・はぁ・・・んっ!!」


相葉自身に手を伸ばし、やんわりと触れると、身体が跳ね上がった。

徐々に二宮が触れている部分が熱を持ち始める。

そんな相葉の反応を確認した二宮は、唇を離すと同時に触れていた手も離してしまう。


「あっ・・・なんでぇ?」


急に止められた行為に、相葉は泣きそうになりながら二宮を見た。


「さっきから言ってるじゃない。俺がしたい事じゃない、相葉さんがして欲しい事をやってみせてって」

そう言って二宮はリードを持ったまま、相葉から離れ、近くの椅子に座った。


「うー・・・にのぉ・・・」


相葉は二宮を見つめ、必死に訴えかけるが二宮に動く気配はない。
ただにっこり笑って相葉を見つめている。


この状況を打破するには、自分が動くしかないという事は分かっている。
分かってはいるが、恥ずかしくてたまらない。



しかし、このままやり過ごせるような状況ではない事も確かで。




相葉はぎゅっと目を瞑ると、決意を固め動き出した。

二宮の元へ歩み寄ろうとして、足に力が入らない自分に気付く。

先ほどの二宮からの刺激で、完全に力が抜けてしまっているようだ。


「んっ・・・・にのぉ、立てない・・・」


あひる座りのまま二宮に助けを求めた。


「立たなくても良いじゃない。相葉さんジェームズなんだから。それより、早くおいで。来ないなら俺、寝ちゃうよ?」


椅子からは動かずに、リードをクイっと引っ張り二宮が催促する。


「んっ!い、いくから・・・まってて」


足に力が入らない相葉が二宮の元へ行くにはこれしかないと、相葉は両手を床につき、膝を立てた。

所謂、四つん這い。

その姿はあまりにも扇情的で、二宮の中の加虐心を刺激する。


「相葉さん・・・下、脱いでおいで?」

「えっ!?」

「どうせ脱ぐんだもん、その方が早いでしょ?大丈夫、上着が長いから見えないよ」

「そんな・・・・にのぉ」


必死に訴えても、今日の二宮は助けてくれない。
恥ずかしさに耐えながら、おずおずと自分の服に手を掛け脱ぎ捨てた。
二宮の言うとおり上着が長いため見えはしないが、心もとない。


「ほら相葉さん、はぁやく」

「うー・・・」


再び両手と膝を床につけ、戸惑いがちに二宮へと近づいていく。

少しリードを強く引いてやれば、顔をしかめて睨み付けてくる。


「んふふ・・・・かぁわいい」

「にのぉ・・・」


二宮の足元までたどり着くと恥ずかしさと、これから始まる行為への期待が入り混じった眼で見つめる。


「よく出来ました。えらいね」


そう言って頭を撫でてやると、嬉しそうに眼を細める。


「で、どうすんの?」

「う、うん・・・」


二宮の足の間に身体を滑り込ませ、腿に手を置いて膝立ちすると、二宮の唇に触れた。
最初は恐る恐る触れていたそれが、次第に大胆になり、相葉の舌が二宮の口腔内へと入り込んでくる。


「はっん・・・くちゅ・・・はぁ」


自ら仕掛けたキスに感じ、目元を赤くさせている相葉は本当に艶やかで綺麗だ。

唇を離すと二宮のシャツを捲り上げ、わき腹にキスをした。


「んっ・・・ちょっと、あんた。そんな事どこで覚えてきたのよ」


不意の刺激に思わず声を出してしまった二宮は悔しそうに相葉を見た。


「くふふっ、にの感じちゃったね。かわいいっ」

「・・・あんたに言われたくないよ。次は?どうすんの?」


不機嫌に答える二宮に気分を良くした相葉は、二宮の前に座り込むとズボンから二宮自身を取り出す。
まだ反応を始めていないそれを、相葉は自分の口腔内へと誘った。



二宮の足の間に顔を埋め、行為に没頭する。
二宮の反応が気になるのか、時々上目遣いで二宮の表情を窺う姿が何とも可愛らしく、二宮の欲情を煽る。


「・・・くっ、はぁ・・・あんた、ホント犬みたい・・・ぺろぺろ舐めて・・・そんな好きなの?」


二宮の凌辱的な言葉に、眉根を寄せて二宮に非難めいた視線を送る。


「んふふ・・・睨んじゃって、可愛いね。腰、動いてるよ?」


二宮の言葉に、相葉は自分の腰が揺らいでいる事に気付き、顔を赤くした。

そんな相葉を愛しそうに見つめると、顔を上げさせ、キスをする。


「んっ・・・にの?」

「ふふっ、もう良いよ・・・次はどうしたい?」


リードを引き、自分の方に相葉を引き寄せた。


「ん・・・・」


二宮に促されて立ち上がると、二宮の膝の上に向かい合わせに座って腕を首に絡める。


「あいばさん・・・当たってんですけど」


そう言って、わざと腰を揺らし相葉を刺激する。


「あっん、もう・・・にのっ!」

「んははっ・・・ごめん、次は?あんたの好きにして?」


恨めしげに二宮を見る相葉に、ごめんの意味を込めてキスをした。


それだけで機嫌が良くなった相葉は、一度ぎゅっと抱きつくと、二宮の手を取る。

そのまま自らの口へと運び、先ほどの行為の続きのように舐め始めた。


「ん・・・ぺろ・・・・ちゅん・・・ちゅぱ」


しばらく続けた後、相葉はその指を自分の蕾へと導く。


「んあっ・・・・んっ、ん・・・にのぉ・・・うぇ・・・」




入り込んできた指先は相葉の良いところになかなか当たらず、とうとう相葉が泣き出した。


「ごめんね?ここまで良く出来ました。大好きだよ」


優しく囁き、頭を撫でてやると首にしがみついて泣きじゃくる。
相葉の涙を唇で拭い取ると、相葉の中に入っている指を動かし始める。


「あはっ、ん・・・だめっ、あっ、あ」


的確に良いところばかりを攻めてくる指先に、相葉は喘ぐしか出来ない。


「あいばさん・・・そろそろ、いくよ?」


確認すると、二宮にしがみついたまま、こくんと頷く。


「じゃあ、ベッドいこうか?」

「え?うわっ!」


相葉を抱えたまま移動するとベッドへダイブする。

相葉の上着を脱がせると、自分も服を脱ぎ見詰め合う。


「ふふっ、相葉さん。裸に首輪って卑猥だね・・・すっごい似合ってるけど」

「も、もうっ!言わないでぇ」

「ごめん、ごめん。ほら、いくよ・・・?」

二宮の熱い欲望が入ってくるのを感じ、相葉は眉を寄せる。


「ああっ、にの、にのぉ・・・・んっ!」


完全に収まると、ゆっくりと動き出す。


「はぁ、ん・・・あっ、あ」

「あいばっ・・・・んっ、俺だけを見て?俺だけ・・・感じてイって?」


二宮の動きがだんだんと早くなり、絶頂へと2人で駆け上がる。


「んっ、あぁ・・・にっのだけぇ・・・んあっ!イっちゃ・・・ああっ!」






*****


「次、これ!!うひゃひゃっ!超かわいいい!ひゃはっ」

「ねぇ・・・もういいでしょ?」

「まだ!つぎ、こっち。おお、似合う似合う。ね、ニャーって言って!」


行為後、もらってきた被り物に夢中なのは相葉。
被らされているのは二宮だ。
今被っているのはパンダの被り物なのに、何故かニャーと鳴けと言われて二宮は呆れ果てた。


「パンダはニャーじゃないと思うよ・・・?」

「だって分かんないんだもん、良いじゃんニャーって言って!!」

「にゃー・・・」

「うわぁ、かわいいっ」


そう言ってはしゃぐ相葉の首には、いまだ首輪がつけられたままだ。

「あんたの方がよっぽど可愛いんですけど・・・」

「ふぇ?なんか言った?」

「・・・別に。パンダだって、人を襲うって言ったんです」

「え?うわぁ!」


そのまま相葉を押し倒す。


「んふふ、パンダに食われる子猫ちゃん・・・悪くないね」



いただきます。



「ちょ、にの・・・だめっ・・・・あっ」






相葉さん、ご馳走様ですvv





おわり
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 公演が終わって裏に戻ると、何となくスタッフの視線が痛かった。
 理由なんて分かり過ぎる位分かっていたから、光一は視線を足許に向けて楽屋へと急ぐ。
 途中からダンサーは目を合わせてくれないし、ストリングスの女性メンバーに至ってはあからさまに顔ごと背けられた。
 まだ気持ちが落ち着いていないせいで、光一は普段は気にならない周囲の反応に敏感になっている。
 唇には甘い香り。
 眩んでしまいそうだった。
 お疲れ様の挨拶もそこそこに楽屋へと戻る。
 どうせまた最後に挨拶をしなければならないのだから、今はまずシャワーを浴びよう。
 堂本光一と書かれた部屋の前に立った。
 撤収の為に奔走しているスタッフの喧騒を聞きながら、ドアノブに手を掛ける。
「おーお疲れさーん」
 扉を開けた途端脱力して、光一はその場に座り込んでしまった。
 おかしい。あり得ない。
「おいおい、大丈夫か?ん?疲れたん?」
「……おま、な、ど……」
「はは。光一、日本語なってへんで」
 自分の楽屋に入った筈なのに、何故か衣装を着たままの剛に出迎えられる。
 せっかく顔を見なくて済むようにと慌てて戻って来たのに。
 これでは何の意味もない。
 また心臓が痛んで、光一は両手で顔を覆った。
「光ちゃん、何?泣くんか」
「泣く訳あるか、阿呆。とりあえずお前出てけ」
「何で」
「……意味分からん。何で俺の部屋おるん。帰れ」
「こぉいち」
 思い掛けず優しく呼ばれて、光一は恐る恐る顔を上げた。
 少しだけぼやけた視界は、もしかしたら本当に涙が溢れ掛けているのかも知れない。
 声と同じ優しい表情に絆された。
 両手を引かれるまま立ち上がる。
「とりあえず入口やと皆気にするから、入んなさい」
「……お前のせいやん」
「そうかもな」
 確かに、先刻まで楽屋の前を走り回っていたスタッフの気配がなくなっていた。
 気遣われているのだとしたら、かなり格好悪い。
 剛が腕を伸ばして、光一の背中で扉を閉めた。
「はい、密室の完成」
「変な事言うな」
「変な事ちゃうもん。動揺が治まらない光一さんと一緒にシャワー浴びたろう言う相方の優しさをやね、表現しようとしてるのに」
「……変態」
「あら、知らんかったの」
「剛が変態なのなんて、俺が一番知っとるわ」
「まあ、そうやな。俺は光一さん以外に変態な趣味は持ってないからね」
「ステージの上でキスしやがって……」
「腰にキた?」
「阿呆」
 叱ってやりたいのに、上手く出来ない。
 最初のキスからもう随分と、自分を思い通りにコントロールする術は放棄してしまった。
 いつもの慣れた司会の手順も、客席を煽る事も何一つ。
 思い通りにならない。
 剛がぼけて、自分が突っ込むのが定着したスタイルだった。
 公衆の面前、と言うかバンドメンバーの目の前でキスをした事よりも、仕事を全う出来なかった事が光一を苦しめている。
 繋いだ腕はそのままに楽屋の真ん中まで連れて来られた。
 何も言わず衣装を脱がし始めた剛の腕を慌てて止める。
「え、なに?ホントに入んの?」
「うん」
「嫌やって!スタッフ入って来たらどうすんの!」
「入って来ません。悪いけど今日は、誰も近付かんから」
「つよ!」
「……だって、やっと俺のもんやって言えたんやもん」
「っおま」
 悪びれず嘯く剛の目が、嬉しそうに細められているから何も言えなくなってしまった。
 自分達の関係は口外して良いものじゃない。
 この仕事を続けている限り、と言うよりは社会で生きている以上隠さなければならない事だった。
 分かっていて、一緒に生きる事を決めたのだ。
 後悔なんてしていないけれど、口を噤む度に剛が悲しそうな顔をするのが辛かった。
 俺はもうお前のもんなのに、苦しめてしまう自分が嫌で。
 今日のステージでの出来事を許せる訳ではないけれど、嬉しい気持ちも分からなくはない。
 ポーズの為に一つ息を吐くと、そっと腰に手を伸ばした。
 抱き着くのは癪だから、僅かの意思表示に留める。
「光ちゃん」
「お前のせいやからな。今日の俺が駄目だったんは」
「うん、そうやね。ぜーんぶ俺のせいやわ」
「……余裕なのがむかつく」
「今日は俺、何言われても怒らへんで」
 笑いながらあっと言う間に衣裳を脱がされる。
 剛もすぐに脱ぎ始めるから、下着姿のまま慌ててその手を止めた。
「え、何?」
「やって!此処で脱いだら衣裳さんに一緒に入ったのばれるやろ!」
「大丈夫。俺んとこのシャワールーム、故障中やもん」
「……壊したんか?」
「其処まで横暴ちゃうわ。マネージャーに使えへんみたい、って適当な事言っただけ」
「全然大丈夫じゃないやん」
「良いよ。出たらちゃんと自分とこに持って帰るから。とりあえず入ろ」
 結局光一に拒否権はなく、シャワールームに連れ込まれた。
 確認はしていないけれど、剛の事だから鍵は締めているのだろう。
 本当の事を言えば、離れたくないのは多分自分の方が強かった。
 こんな風に触れられて甘やかされたら、一人でいられなくなる。
 せっかく落ち着こうと思ったのにな。
 もう良いや、と思って剛の手に委ねた。
 狭いシャワールームでは、全てが暴かれてしまうから。
「つよっ!変なとこ触んな」
「一緒に入ってて今更触るなはないでしょ」
「っだ、って……あ!」
「お前稽古あるから最後まではやらんよ。でも触りたい。沢山触って欲しい」
「つよ」
「何か、キスしてもうたから落ち着かん感じやねん」
「剛さん獣やなあ」
「光一が色っぽい顔し過ぎやねん」
「俺はそんなんしてへん。お前、何回ちゅーしたと思ってんの。自業自得やん」
「えー五回?」
「数えんな!……んぅ」
「光一やって最後にしたやんか」
「や、って……も、お前!離せ」
「まあなあ。あんなキスで光一さんが立て直せるなら幾らでも受けるけどな」
「分かって、たんか」
「当たり前やろ。光一は自分で主導権握った方が落ち着くもん」
「……っあ」
 平然と会話を進める剛の手は、光一の身体を徒に弄ぶ。
 シャワーの水音で自分の声が紛れているかどうか、気が気ではなかった。
 唇を噛んで、必死に快楽を堪える。
 剛の繊細な指先が弱いところばかりを触るから、縋らなければ立っていられなかった。
「光一」
「……あ、なに……っ」
「俺のも触って」
 剛の左手が、光一の手に伸ばされてそのまま熱を持つ部分へと導かれる。
 一瞬びくりとおびえた指先は、決意したようにそっと絡まった。
 そんなんじゃホントに握っただけやねんけどな。
 冷静に剛は思うけれど、潔癖症で身体を重ね始めた頃は触る事も出来なかった光一がこうして触れてくれているのだと考えると勝手に熱は高まった。
 単純な自分でも良いと思う。
 不器用な手が、自分が施すのと同じ仕草で動いた。
 長い間身体に教え込んだ事は、多分言葉よりも確実に愛情を確認させてくれる。
「うん、っそう。上手」
「……っ」
 光一が必死に声を抑えているのが可哀相で、意地悪はせず唯快感だけを感じるように追い上げた。
 時間がないのは本当だし、余り時間を掛け過ぎて体力を奪うのも得策ではない。
 隙間がないように抱き締めると、光一の手の上から二人分を重ねて上り詰めた。
 もう抱いていてやらなければ立っている事も出来ないようで、シャワーで滑る背中を必死に抱き寄せる。
「あっ……っぅん、つよの、っ阿呆!……っ」
 不当な言葉を投げ付けながら、光一は剛の肩に額を押し付けて果てた。
 自分で立っている事は出来なくて膝から力が抜け落ちる。
 けれど、しっかりと剛に抱えられてタイルの上に倒れ込まずに済んだ。
 自分より小さい癖に頼りになるその身体に体重を全部預けて目を閉じる。
「お疲れさん。ほら、身体洗おうな」
 逆らう気力はなく、そのまま光一の身体は剛に綺麗洗われた。
 少し前の熱なんか少しも感じさせない優しさに悔しくなる。
 自分はキス一つで(一回じゃないけど)、動揺してしまったのに。
 剛の手に甘やかされながら、もう一度小さく「阿呆」と罵って光一は目を閉じた。



 真っ白のバスタオルで全身を拭かれて、ジャージに着替える。
 ソファに座ったまま投げ出した身体は、剛の手によって元通りになった。
 さらりとした肌の感触に安心して目を閉じる。
 もうすぐスタッフに挨拶を済ませて此処を出なければならないだろう。
 マネージャーは二人が一緒にいる事を知っているのかいないのか。
 剛が根回ししてるんやろな。
 もう良いや。
 相変わらず頭は働かないし、今日は誕生日だし。
 少し位は許してもらおう。
「なあ、光ちゃん」
「……んん?」
「どうしてさっき阿呆やったん?」
「は?」
「さっき」
「何……あ。……何でもあらへん」
「こーおーちゃん」
「別に、阿呆やって思ったから阿呆言うただけや」
「お前は隠すの下手やな。ほら」
「え、」
 唇に柔らかな感触が触れる。
 慌てて目を開ければ、目の前に剛の顔があった。
 ステージの上と同じ、隠すつもりもない愛情が滲んでいる。
 先刻とは違い、もう甘い香りは残らなかった。
「さっきは何でキスしてくれないねん、阿呆。の阿呆やろ?」
 確信犯的に笑われて、顔を逸らした。
 嘘を吐いてもばれるだろうし、正直に言うのは分が悪過ぎる。
「言わんの?黙秘権行使?」
「……」
「もっかいリップクリーム塗ったろか?」
「やだ」
「光一の良いところは、ステージの上でも此処でも変わらん事やなあ」
「誉められてない気ぃする」
「誉めてますよ?僕の可愛い可愛いお姫様は、三十手前になってもかぁいらしいまんまやなあって」
「やっぱ誉めてへん!」
「誉められたいん?」
 切り替えされて言葉に詰まった。
 至近距離にある剛の漆黒の瞳には楽しむ色がある。
 そっと頬を掌でなぞられて、思わず眉根を寄せた。
 優しくされると怯えてしまうのは、光一の癖だから仕方ない。
「光ちゃんが世界一可愛い」
「やから、可愛い言うな」
「何でよ。昨日のカウコンでも思ったで。ダントツでウチの子が一番やなあって」
「お前、ホンマに恥ずかしい。後輩の方が絶対可愛いやん」
「あいつらはまだ子供やからね。光一は大人なのに可愛い」
「……何か阿呆っぽい」
「阿呆ちゃうよ。愛してるって言ってんの」
「っ……つよ」
 もう一度触れるだけの口付けを与えた。
 光一が不満を持つのを承知で、剛は離れる。
「ほら、そろそろ挨拶行こか。マネージャーも待ってるし」
「お前!やっぱそうやって!」
「物事には色々と準備が必要やねん」
「準備なんてせんでもええ」
「さて、戻りましょうか。ハニー」
「……ハニー言うな」
「思い出す?」
 剛はソファから立ち上がると、光一の手を恭しく取った。
 相変わらず文句は言うものの拒否をしない恋人が可愛いと思う。
 いつだって本当は声を大にして言いたかった。
 光一は自分のものだ、と。
 大切で愛しくて手放せない人だった。
 いい加減、一緒にいさせて欲しいと何度言った事か。
 キスをすれば何かが変わる訳でもないけれど、関係者には十分アピールになったと思う。
 本当は少しだけ純粋な嫉妬も混ざっているのに気付いていた。
 いつでもスキンシップの激しい友人に煽られている部分は否めない。
「もう絶対、公の場所ですんなや」
「さあ、どうかな。もうええんちゃう?キンキはその路線で売れば」
「無意味な事は嫌や」
「光ちゃん」
「嫌や。もうええの、俺は剛がおれば」
「俺もやで。でもな、光一が誰かに攫われるんじゃないかっていっつも不安なのも嫌やねん」
「俺は攫われへんよ。剛が好きやから」
 言って、光一は繋いだ手に力を込めた。
 淡い言葉は、剛の耳に心地良く響く。
 普段ほとんど言わない癖に、まだステージの動揺が残っているらしかった。
 自分の事では簡単に揺らぐ彼が愛しい。
「こうい」
「でも!人前はあかん!」
「客も喜んでたやん」
「バンドメンバーは引いてたやろ!」
「えーやん」
「あかん!大体何で!」
「ん?」
「あのふわふわんとこ」
「スポンジベッド?」
「そう!お前、見えてないからって舌入れたやろ!」
「……ああ」
「調子に乗り過ぎや!」
「やのに、シャワー浴びてる時にはキスの一つもせえへんで、って?」
「……もぉ、お前と話してると疲れるわ」
 
 大阪一日目。
 皆で一緒に上がる筈だったステージの上に、欠けたものがある。
 今回のステージには既に欠けた存在がある事は分かっていた。
 けれど、誰もその事には触れない。
 欠けた部分は幾ら自分達が空けたままでいたくても、埋めなければならなかった。
 光の世界で生きている以上、影を隠すのは当然の事だ。
 痛む心臓を置いて、残った仲間と生きていかなければならなかった。
 自分には剛がいる。
 誰がいなくなっても、例えグループの形が消えても彼の存在だけは絶対だった。
 だから、怖くはない。
 誰かを失っても、
 二人だけのこの部屋は、いつでもままごとの気配。少しでも均衡を崩せば消えてしまう、脆く甘い匂いがした。
 此処は、御伽話の世界。閉じられた綺羅綺羅の宝石箱の中。手を伸ばせば届く場所にある青い羽根。臆病な僕達は、まだ夢の途中にいる。

 彼の寝起きの悪さにはもう慣れた。毎日繰り返される朝の光景に飽きない辺り、自分は良く出来た人間だと思う。間取り二Kの決して広くはない部屋に、剛の声が響き渡った。
「光一!朝やでー!ええ加減起きんと遅刻するわ」
 まずは一回目。二人分の弁当を作る手は止めずに叫んだ。こんなもんで彼が起きる等とは勿論思っていない。低血圧で夜型人間の寝起きの悪さは、軽く想像を絶していた。
 今日の弁当は、卵焼きとウインナーといんげんのバターソテー。定番メニューはたまに恋しくなるから不思議だ。未だ起きる気配のない光一の白米には、嫌味たらしくハート形に切った海苔を乗せた。我ながら繊細な出来栄えだと満足して、剛は朝食用のトーストをオーブンに入れると二回目に取り掛かる。
 部屋の仕切りは全て襖だった。これではプライベートも何もあった物ではないと他人に眉を顰められた事もあったけれど、自分達にはこれ位が丁度良い。近過ぎる距離。安心出来る不可侵領域。二人肩を寄せ合って生きて行く為に必要な場所だった。
 遠慮も何もなく襖を開ける。光一の部屋は、いつも簡素な雰囲気だった。六畳の空間には、本棚とアルミ製の机と小さな箪笥が一つ。本棚には、職業柄必要なPCシステムの雑誌と、捨てずに残された教育関連の書籍、そして剛の成長を記録した二人だけのアルバムが並んでいる。他の誰も映っていない、二人きりの密やかな記憶。
 その部屋の中央に布団が敷かれている。寝汚い部屋の主は、毛布を抱きしめたまま身じろぎ一つしなかった。声を発する手前で一瞬躊躇する。
 足下で蹲る小柄な姿に見蕩れた。寝癖で乱れた髪も少し伸びた髭も、布団からはみ出した骨張った足も、確かに男の物であるのに。毛布を掴んだ幼い指先や柔らかな髪の間から覗く額に僅かに残る傷跡、薄く開かれた誘う唇、晒された肌の発光しているかの様な白に。
 惑乱される。
 不覚にも欲情し掛けた自分を自覚して、剛は焦った。制服の裾を握り締めて、己の劣情を遣り過ごす。あかんわ、俺。朝っぱらから何考えてんねん。自分の年齢を考えれば寧ろ当たり前の事なのだが、何せ相手が悪過ぎる。今はまだ、駄目だ。
 すっと息を吸い込んで、今度こそ声を張り上げた。夢の世界にいる彼にもきちんと届く大声。近所迷惑にならないかと、密かに案じてはいるけれど。
「光一さーん!朝ですよー」
 言いながら、細い身体を跨いで窓へ向かう。ベージュのカーテンを開ければ、心地良い朝の光が入って来た。彼にとっては、安眠を遮る強い明かり。
「……うー」
 後ろから呻く声が聞こえて、剛は間髪入れず光一を包んでいる毛布を剥がす。尚も呻きながら、やっと瞼を持ち上げた。
「お早う。目、覚めたか?」
「……はよ」
「そろそろ支度せんと、ホンマに遅刻するで」
「……んん」
 ぐずる光一の腕を引いて、身体を起こしてやる。其処まで手伝えば、後は身体が勝手に動く筈だった。脳味噌が機能するのは、まだまだ先の事だ。起動の遅いコンピューター。
「俺もう行くかんな。弁当テーブルの上に置いてあるし、ワイシャツも其処に掛けてあるから」
「ありがと」
「なら、後でな」
「うん。……あ、何時?」
「三時半。遅刻せんといてな。昼休みに携帯に連絡入れよか?」
「大丈夫。お前の大事、やもん」
「……うん」
 幼い響きで、それでも真面目な言葉を綴る。剛には、それが少し面白くなかった。贅沢な不機嫌だとは分かっていても、嫌な物は嫌なのだ。
「じゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃーい」
 ひらりと手を振る光一を視界の隅に残して、朝の光が射し込んだ部屋を出た。焼き上がったトーストにバターを塗って、口に銜える。制服のボタンを留めながら、剛は自分の状況に少し笑った。
 朝にこんな時間の余裕がある男子高校生なんかおらんやろなあ。原因は確実に彼にある。睡眠第一と言えば聞こえは良いが、地震が起きても起きないだろう眠り方には辟易した。他の人間だったら、絶対に放っておく。
 鞄に弁当を入れて、家を出た。安アパートの階段は、体重を掛ける度に軽快な音を立てる。住み慣れたこの街の玩具みたいなアパート。二人の記憶が全て詰まった場所だった。蒼天を見上げて、僅かに眉を顰める。強い光に目が眩んだのではなかった。自分と彼の距離を思う度、胸が疼く。
 光一と剛の関係を示す言葉は簡単だった。戸籍にも勿論明記されている。俺達は、『親子』だった。

+++++

 小さな手をぎゅっと握り締めていた。それははぐれない為の物だったし、不安そうな瞳を隠そうともしない子供が伸ばして来た温もりを受け止める為でもある。光一は、今もその体温を明確に思い出す事が出来た。
 あの時は分からなかったけれど、今ならちゃんと分かる。現実を自分の愚かさを、逃げずに理解していた。繋いだ指の先で怯えていたのは自分の方だ。彼は、子供特有の敏感さで一番正しい方法、安心出来る術を差し出しただけ。
 東京行きの最終の新幹線だった。新神戸駅のホームは寒くて、剛にもう一枚着させるべきだったと後悔する。自分の荷物は全て先に送ってしまった。肩から掛けているスポーツバックの中は、剛の物しか入っていない。もう二度とあの家に帰る事はないかも知れないから、と持ち出したい物を全部入れさせた。全部とは言っても、決して多い量ではない。元々持っている物の少なさを示すだけだった。
「寒ない?」
「平気。光ちゃんは?手、冷たいで」
 繋いだ指先を引っ張って問われる。吐き出す息がぞっとする程白かった。
「大丈夫や。俺、元々冷たいねん」
「そうなん?やったら僕があっためたるわ」
 言って笑う剛の目許と口許には、痛々しい傷が残っていた。彼の父親が付けた暴力の証だ。
 ホームに新幹線が滑り込んで来た。手を繋いだまま自由席の車両に乗り込んで席を確保する。窓側に剛を座らせた。シートに凭れると、ほっと息を吐いたのに気付く。緊張しているのだろう。
 一週間前の夜、いつもの様に傷の手当をして一緒に夕食を食べている時だった。母親は、剛の父親に再三の勧告を言いに出ている。児童福祉士を長い事続けている母にとって、近所の家庭環境は放っておけなかったのだろう。自分は多分、そんな母親の影響でこの子供が気になっているんだと思う。
 口の傷に染みるだろうと少し冷ました食事を剛は黙って食べていた。あの父親と二人では、普段碌な物を食べていない筈だ。
「美味しい?」
 光一の問い掛けに剛は頷く。食べる事に夢中な感じだった。子供らしい、本能に忠実な行動。
「……なあ」
 呼び掛ければ、視線だけを向けて来る。目を合わせて、光一は少し躊躇った。子供の瞳、肉親に傷付けられても濁る事のない純真な色を持っている。彼に、果たして告げても良い事なのだろうか。
 自分は来週、東京へ引っ越す事が決まっている。大学生活を終えて、社会人になる為だった。警備会社のシステムエンジニアとして働き始めるのだ。本来なら、言うべきはお別れの言葉の筈だった。
「何?光ちゃん」
 言葉の続きを待っていた剛に促される。その小さな身体の至る所に傷があるのに、彼の目は人を信じる強さを持っていた。環境も何も関係ない、この子供が持っている強い性質だ。
「うん、俺な東京で就職するんよ」
「……そーなん」
 吃驚した顔に安堵した心は、罪に値するだろうか。大人の卑怯を、彼は受容してくれるだろうか。
「でな、剛さえ良かったら……」
 少なくとも、小学四年生の子供に言って良い台詞ではなかった。頭では分かっているのに、言葉は身勝手に零れて行く。
「俺と一緒に、行かへん?」
 目を見る事は出来なかった。一瞬の空白が、光一には永遠の審判の様に感じられる。唇を噛み締めようとした瞬間、呆気無く返答が落ちて来た。目の前には、光がある。
「うん、ええよ」
 まるで、明日遊ぶ約束をしたみたいな軽い同意だった。視線を向けると、大人びた表情で笑っていた。幼い顔に浮かぶ理知的な色に、怯む。
「光ちゃんが連れ出してくれるんやろ?それやったら、東京でもアメリカでも何処でもええ。あの家やなければ、構へん」
 答えた言葉は真剣だった。自分の言葉の意味をしっかり受け止めている。理解して考えて出してくれた結論だ。自分の中にある迷いや罪悪が綺麗に浄化されて行く感覚。剛を、このしっかりした強い子供を、自分が守るのだ。

「剛、一緒に行こう。一緒に生きよう」

 窓の外は暗い。時々明かりが直線を引いては消えて行った。剛は深く眠っている。その表情に翳りは見られなかった。指先は緩く絡めたまま、膝の上にある。
 もうすぐ名古屋に着く筈だった。剛がいなくなった事に、あの父親は気付くだろうか。ちょっと考えて、すぐに無理だと結論付ける。いなくなった事に気付ける位の人間だったら、息子を奪う様な真似はしなかった。この手を取ってしまった以上、手放す気はない。
 多分一番に母親から連絡があるだろう。逃げない事は決めている。本当はそれが浅はかで無謀な事も知っていた。実の親子を引き離すのが難しい事位、母の仕事を見ていれば簡単に分かる。
 今の児童福祉法や児童養護施設に、剛を守る事は出来なかった。ならいっそ、自分が守ってみせる。誘拐犯になっても構わなかった。何を犠牲にしても、この小さな手を守り抜きたい。
 社会人にすらなっていない光一が、剛と二人で生活するのは困難だった。逃げ出したあの夜から八年の月日が経っている。二人の生活を支えたのは、沢山の優しい大人達が差し伸べた手によってだった。
 あの時の不安も芽生えた罪悪も、胸の裡にある。けれど何より強いのは、繋いだ指先を離さないと言う使命感だった。剛は、自分が大人にする。それだけが、自分の夢であり希望だった。

+++++

 会社に着いて、まず早退届を提出する事から始めた。随分前に上司には伝えてある。書類上必要な形式的な作業だった。
 本部で勤務している光一は、直接警備とは関係がない。警備用のシステムのメンテナンスを主に担当していた。設置している施設への外回りはあるけれど、内勤が多くシステム異常等の緊急事態にならない限りは定時で帰る事が出来る。まだ学生の剛と生活するのには、丁度良い職場環境だった。
 書類を提出しに行く為に廊下を歩いていると、後ろから騒音とも呼べる程の大きな足音が近付いて来る。振り返るより先に、足音の持ち主が光一を捕えた。
「光一ー!おっはよー!」
 不意の襲撃を受けて、前のめりによろめく。後ろからこんな大男に乗られては、潰れてしまうではないか。不満たっぷりの声を同僚にぶつけた。勿論そんな言葉が通用しない相手である事は、経験から十分分かっている。
「長瀬!重いっちゅーねん」
「えー、朝のスキンシップじゃーん」
 蛇に睨まれた蛙の様に肩を竦めて、大男は渋々離れて行った。大型犬が飼い主に叱られたみたいな表情は可愛い。しょうがないなあと言う気分にさせるのだから、侮れない奴だとは思っていた。
 彼は、職場で唯一気の置けない存在だ。と言うよりも、上京した光一の数少ない友人だった。何で其処で親友って言わないかなーと、心の中を読まれていたら突っ込まれるだろう。
「ウチの子達は全然嫌がんないよ?パパーって大はしゃぎだぜー」
「子供と俺を一緒にすんな」
 連れ立って歩きながら、背の高い彼を睨み付ける。身長差が邪魔をして、まあそれ以前に光一の顔立ちが愛らしい小動物と同じ物で出来ているから、そんな顔されても怖くない、と言うのが長瀬の意見だった。睨む友人の瞳は可愛いから、余計な事は言わないけれど。
 長瀬と光一の始まりは、入社してすぐの事だった。光一は今でも最初の事を覚えている。新人研修の時に馴れ馴れしく声を掛けられた。同期は他に何人もいたし、長身で目立っていた彼がわざわざ女子にさえ埋もれてしまうんじゃないかと言う(身長は同じ位だけど、勢い的に)自分に真っ直ぐ向かって来る意味が分からない。仲良くなって来た今でも理解出来なかった。
 だって、光一がダントツで好みだったんだもん。あっけらかんと言う長瀬は良い奴だと思うが、言っている事が自分の常識の範囲を超えていた。それでも仲良くなれたのだから、自分もこの規格外の男が好きなのだろう。
 彼の押しの強さは関西の物に似ていた。当時はホームシックになるどころではなかったから思い当たらなかったけれど、多分その懐かしさに惹かれたのかも知れない。強気な姿勢が余り得意ではない自分が、最初から彼の存在を疎ましいと思わなかった。全然タイプの違う人間だけど、波長が合うと言った感じかも知れない。
 一緒に行われた研修だが、自分はシステム管理に長瀬は警備部に入ったから、なかなか会う事は出来なかった。人付き合いの苦手な自分がそれでも関係を続けていられるのは、この友人が見た目の印象よりもずっと繊細で几帳面だからだろう。定時で上がれる自分と違って、四十八時間勤務もこなす警備部は想像以上に大変だと思う。警備の仕事を元気に続けられるのは、守る者がいるせいかも知れなかった。
 ちなみに今は二人の娘に溺愛中で、親友と豪語される自分でも余り構って貰えなかったりする。全然構わないのだけど、ほんの少し寂しいと思ってしまうのは、自分の性質が我儘だからだった。
 こんなお父さんやったら、子供は大らかに育つやろな。また他の家族と比較しそうになって、慌ててその思考を追い払った。他人と自分を比べるのは悪い癖だ。剛にも嗜められた事がある。他人は他人、ウチはウチ。強い息子の言葉を思い出して、弱気な思考を追い払った。
「何?光一。今日早退すんの」
 手に持った書類を覗き込まれる。綺麗とは言えない署名と、形式通りの書面。
「うん。今日、三者面談やねん」
「あー、剛の。あいつ幾つだっけ?」
「おっちゃん、それこの間も聞いたで。高三、受験生」
「ごめんごめん。俺、頭悪いからさ。そっかー、あいつもそんな大きくなったか。そりゃ、俺も年取る訳だ」
 長瀬は、剛が中一の時から知っている。面倒見が良く情の厚い彼は、自分達の生活を知ってから何気なく気に掛けてくれていた。異質な親子関係に口を挟むでもなく、旅行に行けば二人分のお土産を買って来てくれたし、インドアな養父の知らない遊びにも躊躇なく誘ってくれる。
 親友の大事なもんは、俺にも大事。シンプルな発想で生きている長瀬に何度も救われていた。
「長瀬は初めて会った時から変わってへんよ。年取ったようにも見えん」
「それは光一だろ。お前年々若返ってく気するんだけど」
「そんな事あらへんわ。おっさんやもん」
「うん、知ってる。じゃなくて、見た目とか。入社したてん時とか、髪きっちり分けてて、スーツじゃない時も色のない物ばっか着ててさ。手とか唇とか荒れててもクリーム塗るの嫌がってたし。勿体無いなあって思ってた」
「……よぉ覚えとんな」
 あの頃は生きる為に精一杯だった。連れ出した幼い命を自分の手で守りたくて、自分自身の事なんてどうでも良かったのだ。今も本当はどうでも良いと思っていた。元々関心がないと言う自覚はある。
「でも、最近変わったよね。ネクタイの趣味も違うし、前髪可愛いし」
「可愛いって言うな」
「剛のおかげなんだろうな。全部あいつがやってるんだろ」
「……何で分かるん」
 吃驚した顔で見詰められると、苦笑するしかない。何年自称親友を続けていると思っているのだ。光一の身体にフィットする細身のスーツも、物が入っていれば紙袋でも構わないと言う思考の人が持つには機能的なバッグも、ふわりと香るシャンプーの匂いも、丁寧にファイリングされた爪も全部。
 無頓着な光一が出来る事ではなかった。父親の世話を進んで焼いている、マメで凝り性な息子の顔を思い出す。きっと、美容院すら一緒に行って美容師に要望を言っているに違いなかった。顔の周りでバランス良く揺れる茶色の髪は、彼の年齢を分からなくさせる。
「剛は、親の手伝いやから当たり前やって言うんやけどね」
「お前ら、段々どっちが親でどっちが子供か分かんなくなって来たな」
 言った途端、長瀬は後悔した。光一が立ち止まって傷付いた顔を見せる。悲しい瞳。彼の黒い目は吸い込まれそうに綺麗だけれど、いつも罪悪の色があった。消えないその色の原因を知っている。
「……そうやね。剛はしっかりしてるからなあ。しっかりせな、あかんかったから」
「光一」
「あの子をゆっくり育てたいって思ったのに、結局俺が大人になるの急かしてる」
「光一、お前のせいじゃない。おいつは元々しっかりした人間なんだ。知ってるだろ」
「うん。向こうにいた時から、しっかりした子供やった」
 剛は、自分がきちんとしていなければ家庭環境のせいにされる事を分かっている。あんな若い父親だから、と光一に責任を向けられる事を酷く嫌がった。
「今日の三面って、進路の話?」
「うん」
「剛は、どうすんの」
「……分からん」
 暗く沈んだ声。傷付いた顔をさせたくなかった。
「話してないの?」
「話そうとは、してる。でも言うてくれん。もう俺は自分の進路位自分で決められる年やから、って。ちゃんと決められたら話もするって。それっきりや」
 剛が光一に話さないなんて、あり得ない事だった。この父親は連れ出してしまったその日から、不必要な罪悪感を抱いているせいで、時々過剰かと思う程息子になった子供の事を理解しようと必死になる。全て理解している事が義務だとでも言うように。
 そんな光一の心を知ってか知らずか、剛は自分の事を何でも話した。学校であった事、夜中に布団の中で考えた事、街で聞いた音楽が良かった事、釣りに行って何が釣れたのか、帰り道に見上げた空の神秘的な色も。何もかも、自分を形成する全ての事を伝えていた。
 基本的にこの二人に隠し事はない。光一は余り自分の事を話さないけれど、それは口下手なだけで嘘や誤摩化しはない人だった。
 だから、剛の行動は可笑しい。初めての事かも知れない。何か考えがあっての事なのは間違いないだろうが、暗い表情で思い詰める親友を見て掛ける言葉は何も見付からなかった。

+++++

 柔らかな陽射しが射し込む菜園は、剛達のお気に入りだった。学校内の敷地に於いて、これ以上完璧な優しさを有している場所はない。と言うのが親友の見解だった。
 緑が褪せ始め少し肌寒くなっても、昼休みは此処で過ごしている。口数の少ない親友は、本を捲りながら、大して美味しくなさそうにパンを齧っていた。食事に楽しみを見出さない所は、あの養父と似ている。彼の事を思い出して、それから午後の憂鬱な予定を思って、剛は深い溜め息を吐いた。
「……どうしたん」
 やっと本から顔を上げて、隣で膝を抱える陰気な人を見詰める。相談したいのなら、素直に言えば良いのに。手を差し伸べるように仕組む癖は、あの人の甘い教育の賜物だ。
 彼なりに厳しく育てたつもりなのだろうが、最後の最後で甘さが残った。社会的には問題がないし、何より結局苦しむのは優しい彼なのだ。自分が嗜める事でもなかった。
「岡田ぁ、俺どないしよ」
「何が」
「まだ、進路の話してないねん」
「……ホンマに?」
 黒い双眸を瞬かせて、信じられないと言う表情を作った。まさかとは思っていたのだが。決意を固めているのに言葉にしないのは罪に値する。少なくとも、剛と光一にとっては。
 他人だからこそ、目を見ても手に触れても通じない。通じ合わせてはいけない。だから、どんな些細な事でも告げようと言うのが彼らのルールだった。
「言おう言おうとは思ってたんやけど、言えんくて」
「光一君は、大学進学希望しとんのやろ」
「ぉん。公立でも私立でも構わないから、行きたいとこ行けって」
「……ホンマ、良いお父さんやなあ。今時言えへんで、そんなん」
 感心した口振りに剛は嬉しくなる。自分の大切な人が誉められるのは、優越感だった。慣れた感覚のまま笑おうとして失敗する。その、『良い父親』こそが今自分を苦しめているものだった。
 相反する感情に結局剛は表情を消す。優しさも苦痛も、自分の中にある感情を左右するのは光一だけだった。小さな頃からずっと、自分の行動原理は彼にある。
「良い父親なんかやなくてもええねん」
「それでも、光一君は剛君の父親や。良い父親であろうとしてくれてるんやよ」
 静かな声で岡田は嗜める。ついこの間会った時も優しい目で「学校どうなん?」と聞かれた。自分には入り込めない場所での息子の事を心配している真っ直ぐな感情だ。大切にしている愛情しか見出せない瞳。
 岡田は、自分で認識している以上に彼の事を気にしているのだと知った。不器用な仕草で、でも迷わない意思の中剛だけに向けられる白い手が好きだ。
「分かってる。ずっと分かってたつもりやし、これからもちゃんと親子でいなきゃあかん事も知ってるんや」
 剛は、自分の養父である人を愛してしまった。十八にもなれば、自分の恋が気の迷いではない事位分かる。幼い頃から面倒を見てくれた人だ。自分が他人を怖がらずに受け入れられるのは、彼のおかげだった。実の父親に付けられた傷は、彼の手によって癒されたのだ。感謝の気持ちを抱くべきであって、今抱えている感情は間違いだった。
 捨てなければいけないと思ったのは、中学生の時だ。良い息子になろう、彼の笑顔を曇らせたくない、と必死で振り払おうとした恋だった。けれど。
 今も尚、光一への恋は此処にある。捨てる事なんて出来なかった。大切な、自分を成長させて来た思いだ。
「好きって、言わへんの」
「言えへんよ。『親子』って関係の中でやったらずっと言って来た。多分これからも言い続けるよ。けど、そう言う意味では言わん」
「間違った気持ち、やから?」
「そうや。光一が望む俺は、父親の事好きになる様な不健康な奴ちゃう。俺が社会出て、彼女作って、結婚するんを心から楽しみにしとる。家族なんていらん言う俺の子供を抱きたいって言う。あいつが望んでるんは、自分の元を飛び立って社会に溶け込む事や」
「光一君らしいな。剛君いなくなったら一人になってまうのに」
「光一やって、俺がいなくなったらきっと自分で家族作るわ。今は俺がいるから一人なだけで」
「そうかなあ。僕は、光一君はもう剛君以外の家族は持たないと思うよ。どっちかが死ぬまで、剛君の為にいつでも待っててくれる気がする」
 冷気を含んだ風が、岡田の黒い髪を持ち上げる。やんわりと毛先を押さえる仕草を追いながら、つくづくこいつは変な奴だ、と思った。血が繋がっていないとは言え、戸籍上は間違いなく親である人を愛し、その上それは同性に向けられている。年齢も一回り離れていて、どれだけの罪を重ねているのか分からない筈はなかった。
 それなのに、この親友はあっさりと受容する。偏見も軽蔑もない瞳で「光一君綺麗やもんなあ」なんて暢気に笑う。他人と少しずれた感覚は、環境のせいか持ち合わせた性質なのか。歪んでいると言うよりも精神的な拠り所が違うのだろうと思う。自分の信じるものしか信じない。簡単に見えて、それで生きるには難しい生き方をしていた。岡田の価値観は、絶対的な尺度で構築されている。
「茂君には相談したん?」
「……どうしようか悩んどる」
「話してみたらええよ。きっと何か見付かるわ」
 信頼に満ちた声で笑った。茂君、と言うのは自分と光一が一番お世話になった他人だ。法的手続きは、彼の手がなければ出来なかった。おっとりした笑顔を思い出す。
「そうやな。今日、帰りにでも寄ってみる」
「三面の後やなあ」
「茂君とこ行く時、どうなってるんか想像もつかん」
「僕も一緒に行くわ」
 岡田と出会ったのは、茂君の施設だった。長い事、光一の母親と同じ児童福祉士として働き今は私営の児童相談所を運営している。法では救えない子供を、自分の手が届く範囲で見守る、と言うのが信条だった。親のいない、帰る家のない子供達が自立出来るまで、広くはない居住スペースで生活までさせていた。
 あの場所は、悲しい事や辛い事も沢山ある筈なのに、いつも明るい。離れそうになる二人の手をいつも繋がせてくれたのは、茂君だ。
「俺は、光一を悲しませたい訳でも離れたい訳でもないんや。唯、ずっと一緒におりたい。一緒に生きていきたい」
 真っ直ぐな瞳で話す剛が抱えているのは、恋よりも純真な心だと思った。欲も打算もなく、此処にあるのは愛したいと言う尊い感情だけ。恋に近いと思えるのは、其処に隠し切れない独占欲が滲むからだろう。茂君が彼らに明るいものを渡してくれたら良いと岡田は思った。冷たい風に冷えた指先を握り締めて、彼らの未来を願う。それは、午後の陽射しに溶け込む優しい祈りだった。

+++++

 小さい頃の記憶は、痛みと共に思い出される。傷付けられた身体が辛くて、泣いてばかりいた。朧になった過去は、いつでも光一の体温が傍にある。今も昔も変わらないのは、彼の乾いた掌だけだった。
 光一の母親が幼稚園に行っている筈の剛を見付けたのは、近くにある公園のベンチだ。殴られた痕と転んで出来た擦り傷が痛くて、顔を上げられなかった。涙を零すだけの自分を抱き上げて、父親のいる木造アパートではなくお日様の匂いがする光一の家に連れて行かれる。
 リビングに剛を降ろすと、二階に声を掛けているのが見えた。少しもしない内に聞こえる、軽やかな足音。顔を向ける事は出来なくて、手が伸ばされるのを待った。
「剛。いらっしゃい」
 俯いて待っていれば、当たり前の仕草で頭を撫でられる。やっと安心して、それでも伺うように顔を上げた。
「光ちゃん、何でおんの?」
 友達や家族が呼んでいるのと同じ呼び方をしても、彼は怒らない。嬉しそうに笑って、何でも許してくれた。絶対に曇る事のない笑顔は、多分幼い自分にとって救いだったのだと思う。
「学校のな、試験終わったから、今お休みなんや」
「しけん?」
「普段ちゃんと勉強してるか確かめるもんや。お前も小学校上がったらあるんやで」
「そうなんや」
 光一は、この時高校二年生だった。落ち着いた印象は昔から変わらない。近所に住む、こんな子供にも優しくしてくれた。思春期特有の尖った態度も反抗期も、彼からは見えない。
 部屋でゆっくりしていたのだろう。ハイネックのグレーのセーターに、ゆったりしたパンツを履いている光一は、制服でいる時よりも柔らかく見えた。臆病な自分でも手を伸ばしやすい。
「あーあ。まぁた派手にやられてもうたなあ。今、手当してやるからな」
 痛みを伴わない声音で笑って、一度救急箱を取りに部屋を出た。母親と会話している声が聞こえて、またすぐに戻って来る。自分をソファに座らせて、その目の前に正座した。目線を合わせて覗き込まれると、心臓の音が大きくなる。
「消毒だけしたるかわ、終わったら風呂入っといで。そんで、ご飯一緒に食べよ」
「うん」
「幼稚園には母さんが連絡入れたから、心配せんでええよ」
「……ありがと」
「早く傷、治そうな」
 笑って消毒を始めた光一が、自分の気持ちを知っている事が嬉しかった。腹や足に付けられた傷なら気にしないけれど、今日みたいに顔に付けられると幼稚園に行きたくない。口の端と目の周りが青黒く変色していた。口の中に鉄の味がするから、きっと何処かを切っている。
 痛いのは何処に付けられても変わらないけれど、友達や先生や他の親の目が痛かった。あれが同情や憐憫だと理解出来るのは、もう少し先の事だ。
 温かいお湯は傷に沁みたけれど、浴室を出たら光一が真っ白のバスタオルを広げて待っていてくれたから嬉しかった。ふわふわした感触に包まれると、幸せな気分になる。此処にいても良いと許されている気分になった。
 サイズの合わない服を着せられて、再びリビングのソファに座らされる。キッチンからは美味しそうな匂いが漂って来ていた。絆創膏と包帯と、不器用な指先が迷いながらも適切な処置を施す。清潔な肌と温かい光一の空気と、自分の為に用意されている食事の匂い。普段自分がいる場所と余りにかけ離れていて、剛は泣きそうになった。
「……剛、どうしたん?傷沁みるか?」
「ううん」
「じゃあ、何で泣くん」
 困った顔で笑われて、頬に丸い指先が滑る。
「光ちゃん、剛に泣かれるとどうしたらええか分からんねん」
「……っう、光ちゃ。あんな家、帰りたない。あんなん、親やないっ」
 最後まで言う前に優しく抱き締められた。胸に顔を埋めたら、もっと涙が溢れて来る。光一の匂い。いつでも彼は甘い香りがした。優しいお日様の名残みたいな。もし自分に母親がいたら、きっとこんな健康的な匂いがするのだろう。剛が生まれてすぐに他の男と蒸発した女は、母親の温もりを与えてはくれなかった。
「剛、そんなん言うたらあかんよ」
 嗜める声音が優しく響く。背中を撫でる大きな掌に安心した。泣いている自分を宥める大人の手は沢山あったけれど、彼より心地良いものはない。
「やって、あいつのせいで、俺は……っ」
「そぉかも知れん。でもな、どんな風に思ったって、剛のたった一人のお父さんなんや」
「……そんなんいらん」
「辛なったら、光ちゃんが絶対に助けに行ったるから、悲しい事言うたらあかん。ええな?」
 光一の口から、一度も父親を非難する言葉は出た事がない。現状を見兼ねてはいても、剛の心に憎悪の感情を植え付けたくなかった。あんな親だから子供もまともに育たないのだ、等と言われたくない。強い子供がそのまま成長したら良いと思っていた。
「剛、返事」
「分かった」
「ええ子やな。俺は、強い剛が大好きやよ」
 甘やかす言葉に素直に顔を上げる。黒目ばかりの優しい眼差しにぶつかってどきりとした。この息苦しい感情をずっと抱える事になるとは知らずに、剛はゆっくり笑う。
「俺も、光ちゃんが好き」
「ありがとぉ」
 ティッシュで涙を拭われながら早く大きくなりたいと思った。どうして、なんて疑問に思う前に食事が出来たと告げる朗らかな声が聞こえて、理由は見えなかったのだけど。
 十八になった今も胸にある、早く大人になりたいと言う願い。愛されるだけの子供ではなく、光一を守る事の出来る強い人間になりたかった。

+++++

 机を挟んだ向こうには担任、隣には剛が座っている。傾き始めた陽射しが、木目の机を鈍く光らせていた。息苦しい緊張感。いつだって歳若い養父だと軽んじられないように、気を張って来た。自分のせいで剛が悪く言われるのは嫌だ。責任感のある大人の態度。見た目の雰囲気に左右される薄っぺらい信用を得る為に、髪を明るく染める事もアクセサリーを付ける事もしなかった。
 剛が中学生の時の担任に「父親と言うよりも母親みたいですね」と嫌味を言われてからは、細いだけだった身体も鍛えている。女顔はどうする事も出来ないから、線の細い身体位は変えようと思った。結局筋肉が付き難い体質だったようで、劇的な変化は望めなかった。
 この担任とは何度か話をしている。理知的な瞳を持った初老の紳士は、嫌いではなかった。必要な事以外は話さない冷静な雰囲気は、家庭環境の良くない自分達には安心出来る。
 けれど、胸の裡には不安が渦巻いていた。担任が手にする資料の中に、剛の進路がある。怖かった。今まで一度も抱いた事のない不安定な気持ち。自分の息子の事が分からない。
 どうして、話してくれないの。廊下で剛の笑顔を見付けた時、思わず詰りそうになった。どうして。二人で暮らして来た八年の中で一度もない事態だった。何よりも把握しておきたい事が分からない。
「さて、時間も余りないものですから、始めましょうか」
「はい、お願いします」
「堂本君の最近の試験結果です」
 データ化された資料が広げられる。この結果は見慣れたものだった。一緒に見直しもしている。相変わらず数学が弱くて笑ったのを覚えていた。俺理系やのに、何でそんなに出来んねん。笑顔の裏で僅かに痛んだ心臓。自分と剛は他人なのだと突き付けられているみたいだ。どれだけ一緒にいても、どれだけ愛しても、所詮疑似でしかないのだと。
「文系の大学で教科を選べば、然程進学は難しい事ではないでしょう。でも、堂本君の希望進路は違ったね」
「はい」
「え」
 知らない、と言いそうになるのを慌てて押さえる。担任に不信感を抱かせたくはなかった。隣を見れば、すまなそうに笑う剛がいる。大人びた微笑だった。物分かりの良い、諦めを知った大人にはなって欲しくないのに。膝に置いた手をきつく握り締める。
「俺は、就職希望です」
「……っ」
「まあ、秋になって急に進路を変えたものですから、私も吃驚しましたけど、今からでもどうにか間に合うとは思います。就職難のご時世ですから、職種を選ばなければ、の話ですけれどもね。こちらでも面接の練習や履歴書の書き方なんかは見てやれますから。……お父さん、どうかされましたか」
「いえ、お手数をお掛けして申し訳ありません。」
 上手く声が出ない。顔を上げる事も出来なかった。就職?そんなの聞いてない。高校受験の時ももめて、結局大学進学まで視野に入れたこの学校を選んだ。
 早く大人になる必要なんてない。勉強が出来るのも、俺がお前を守ってやれる時間も僅かなんだから、甘えなさいと。ずっと言って来た。剛を連れ出したのは自分で、彼を育てるのは義務なんて言葉じゃ括れない位大切で当たり前の事なのに。
 あの曇らない瞳が好きだった。手の中にある温もりを大切にしたかった。この手を離れて行く不安は、諦めにも似ている。いつかは離れて行くのだと、納得はしていてもそれは今じゃなかった。
「……もう少し、この子と話し合いをしたいと思っています」
「そうですか。私もその方が良いと思いますよ。此処で決める進路は、将来を左右するものですから」
「はい、ありがとうございます」
 意思の疎通が出来ていないと思われるのは嫌だったけれど、担任は頷いて新しい進路希望用のプリントを渡してくれた。隣にいる剛の顔を見る事は出来ない。
「これが、最後の希望になります。二人でもう一度話してみて下さい」
 深く頭を下げて席を立った。唇を噛み締めて、教室を後にする。黙って後ろを付いて来る子供を振り返る事は出来なかった。どんな考えで、どんな気持ちで就職を決めたのか。夏休みには目指す大学も見定めて必死に勉強していた筈だ。どうして、今更。
 廊下には次の親子が待っていて、言葉を発する事は叶わなかった。無言のまま昇降口を目指す。今、自分の中にある感情は、一体何だろう。怒りか悲しみか、それとも不安か。分からない。剛の気持ちも自分の気持ちも見えなかった。
 揃えて置いてある革靴に足を入れて、やっと口を開く。誰もいない放課後の昇降口は、懐かしい色があった。褪せた茶は、セピアの風景だ。射し込むオレンジとのコントラストが美しい。
「剛」
 名前を呼んで悲しくなった。自分が生きて来た中で一番多く呼んだ名前。全てを共有して来たつもりだった。故郷を離れ、本当の父親から奪って今日まで。分からなくなってしまった。剛が何を考えているのか、どうして話してくれなかったのか。自分が、就職を希望した事よりも一番に相談してくれなかった事に傷付いている事に気付いた。
「光一。先、帰っててくれるか。俺寄るとこあんねん」
「剛、」
「……帰ったら、ちゃんと話すよ」
 振り返れば、悲しい程の柔らかい眼差しがあった。上手く表情を繕えないのはお互い様だ。オレンジの光が、剛の顔に陰影を作った。僅かに息を呑む。
 いつの間に、こんな。強い瞳はそのままだけれど、引き結んだ唇や寄せられた眉は、少年の表情ではなかった。眩みそうになって、慌てて目を逸らす。
「あんま、遅くなんなや」
「うん、ごめん」
「謝る位やったら……っ」
「ごめん、光一」
 叫びそうになる衝動を堪えて、目を瞑った。剛の甘い声。謝罪を示す言葉が、耳に心地良い。
「じゃあ、帰るな」
 落ち着きを取り戻し切れない声で小さく呟いた。俯いた視界の端で剛が動くのが見えたけれど、気付かない振りをする。伸ばされた指が何処に届くのか。追い掛ける事は出来ずに、校舎を後にした。胸が痛い。分からない事が辛かった。
 成長すると言う事は、こんなに辛い事なのだろうか。身を切られる様な、心に空洞がある様な。耐えられないと思って、小さく首を横に振った。剛が大人になる事は、自分の願いだ。けれど、まだ今はその時ではない。日の翳った道を歩きながら、痛む心臓を押さえた。

+++++

「おお、いらっしゃい。二人で来たんか?今、茶出したるからな」
 いつもと変わらない笑顔で迎えられてほっとした。岡田と並んで歩いて来たのを遠くから見付けてくれた。幼稚園を改造した屋内は、いつ来ても茂君の優しさで満ちている。
「こんにちは。お久しぶりです」
「ええ、ええ。そんな堅苦しい挨拶は。学校帰りか?したら、腹減っとるなあ。僕の秘蔵の饅頭出したるわ」
 おっとりした笑顔と賑やかな喋りに気圧されて、勧められるまま室内に入った。茂君の自室兼園長室に通される。
 何度も何度もこの部屋で話をした。涙を堪えた表情で、弱音を喉につかえさせたまま強く在ろうとした養父をこの場所でずっと見ている。
 岡田と並んで古いソファに座り待っていると、程なくして部屋の主が現れた。両手に持ったお盆の上には、三人で食べるには多過ぎるおやつ。此処で生活している子供には決して優しいだけではない厳しさを持ち合わせている人なのに、たまに訪れる子供達には労う素振りで甘やかしてくれた。あくまでも、此処の子供にばれないように、ではあるけれど。
「子供らはこれから宿題の時間やから、ちょっとは静かやわ。まあ、食べなさい」
「はい、いただきます」
 年齢不詳の園長は、日本茶を飲んでいる時が一番老けて見える。悪い意味ではなく、狡猾な翁のイメージだった。秘蔵の饅頭を食べながら、今此処で生活している子供達の事を話される。
「もうすぐお母さんと一緒に暮らせる中二の子がおってなあ。最近はその子が頑張ってくれるおかげで、園内は穏やかなもんやで」
 闇を抱えた子供達が集団で生活するのは容易な事ではない。城島の肩には、大きな傷痕が残っていた。ずっと昔、子供が暴れて包丁を手に持ってしまったのだそうだ。自身の傷より、子供に犯罪歴を負わせた事をずっと悔やんでいる。
 そんな人だった。優しさや正義だけで、私営の施設を維持する事は出来ない。己に厳しい、度量の大きな人だった。
「もう君ら、受験も追い込みやろ?こんな所で油売っててええの」
「今更焦る事もありませんし」
 答えたのは、岡田だ。のんびりした雰囲気は、どちらの方が強いだろう。目に映る世界をきちんと見ていないような親友の瞳は、いつも違う現実を追っていた。城島は苦笑する。
「岡田は、そうやな。もう高校の授業で勉強する事なんかないやろ。僕は、早く大学行って勉強して欲しいなあ思ってたから嬉しいわ。行くとこは決めとんのか?」
「はい、もう大体は」
「そうか。春が楽しみやねえ」
 岡田を小さい頃から知っている城島は、嬉しそうに目を細めた。関わった全ての子供達の成長をこうして心から喜んでいるのだろう。
 岡田は自分とは違うが、長い間城島の施設に通っていた。彼の両親は幼い時に交通事故で亡くなっている。幸い叔父夫婦が引き取る事となり、小さな頃から大人びたところのある少年は、何の問題もなく養子として迎えられた。それでも、不安が大きかったのだろう。親交のあった城島に相談へ行くのは、当然の流れだった。
 園内で一人物静かに過ごしている少年に声を掛けたのが出会いだ。聞き慣れたイントネーションに安心した部分もあるのだろう。それから不思議な距離感でずっと一緒にいた。小中学校と別々だったのに、秀才の彼が同じ公立高校にいるのは、恐らく自分の事を考えてくれたからだと、密かに思っている。
「准一に心配はしてへんけどなあ。剛はどうなん?夏休み、数学で苦労してたやろ」
「俺、実は今日その事で来たんです」
「……どうしたん」
 子供の変化を城島は見逃さない。真剣な眼差しで話を促された。今日の三社面談の事や考えに考えた進路の事、早く大人になりたいと言う純粋な願いをゆっくり自分の心に偽らないよう気を付けながら話す。隣に岡田がいてくれて良かったと、力の入った自分の手を見ながら思った。
「それはまた、強引やなあ。大切にせなあかん人を、一番最初に傷付けてるやん」
「二人のルール破ったのは俺や。でも、光一の願う進路を選べない」
「剛、厳しい事言うようやけど、それは子供の我儘やで。養われてるから大人になれないんか?子供やからって、大切なもん背負えない訳ちゃうで。親の期待背負うんも立派な責任や」
 違う、と言いたかった。子供だからとか親子なのにとか、そんな理屈ではない。唯、光一が好きで光一と対等になりたかった。守られるのではなく、一緒に生きたいのだと。
 けれど、こんな思いを口に出す事は出来ない。異常な恋である以上、口を噤むしかなかった。
「俺は、光一を苦しめたい訳やない。でも、どうしたらそれが伝わるんか分からんのや」
「剛。僕に大事な事言うてないやろ」
「え」
「茂君」
 咎める声を発したのは、岡田だった。大事な事は一つしかない。話の中核にありながら、避けていた自分の恋心。幾ら彼の度量が大きいからと言って、簡単に話せなかった。
「全部言うてくれんと分からんよ。きっと光ちゃんも、僕以上に困って混乱してるわ」
「茂君。そんな、青少年の育成妨げるような事、言うたらあかんのやないですか」
「うーん、別に助長させてるつもりはあらへんよ。でもなあ、はぐらかしながら相談されるとやっぱり人間やから腹立つのよ。こんな中途半端な話じゃ、何を言うてあげる事も出来んしね」
「茂君って、立派な大人に見えて、そう言う人ですよね」
 岡田が神妙な顔で頷いた。剛だけが一人、会話に追い付けず固まったまま。青少年の育成?はぐらかしている?それは、自分の話なのだろうか。だとしたら、城島は自分のこの抱いてはいけない恋を知っていると言う事になる。
「茂君……?」
「剛が本当はどんな気持ちでいるのかなんて、毎日一緒にいる訳ちゃうから、全部分かってるなんておこがましい事は言わんよ。でもな、ずっと昔から君らを見てて、お互いを大切にしている事も、自分勝手に大事な事を決める親子じゃない事位は知ってんのよ。やからな、ちゃんと話して欲しい」
「俺……俺、光一が好きなにゃ。一番大切。育ててくれた恩とか、ずっと一緒にいてくれたからとかやなくて。俺はもう、長い事光一だけやった」
「剛」
「はい」
「それが、光一の望んでへんものでもか?」
「はい」
「……君は、一度決めたら強情やからねえ」
 父親譲りやな、と優しく笑われた。彼の懐の深さは、既に尊敬の域だ。誰にも告げてはならないのだと決意した思いは、秘めれば秘めただけ辛くなった。岡田がいなければ、多分自分の身勝手な感情で光一との関係はとっくに壊れていただろう。それをまた、今城島が救い上げてくれる。
「しょぉがない子やね。光ちゃんがそんな思いを望んでいない事、分かってんのやろ」
「はい」
「嫌やな、もう覚悟してる目やないの。困ったなあ、おっちゃんは何言うてあげたらええのかねえ」
 全然困っていない素振りで、温くなった茶を啜った。穏やかな仕草に身体の力が抜ける。嫌悪のない眼差しに安堵した。全てを受入れてくれる御仁だ。
「今日、帰ってから話すのやろ?僕は、昔から嘘を吐いてはいけない言うんが信条やから、アドバイスをするとしたら黙ってるのがええと思うよ」
「黙る?」
「うん、そうや。光ちゃんが好きで、その為に早く対等になりたいから就職したいんやって、真っ正直に言わんでもええと思う。これからも一緒に生きて行くつもりなにゃろ?」
「はい」
「じゃあ、優先順位は一緒に生きる事や。……これから、辛くなると思うで」
「いえないまま生活して行くのがしんどかったら、とっくに諦めてます」
「そうやな。一番大事な事を見失わないで、ちゃんと話し合ってみればええ。正直、剛も賢い子やから、僕は進学して欲しいけどなあ」
「後四年もなんて待てません」
「若さやねえ。君ら親子の事にあんまり立ち入る訳にはいかんけど、二人が納得出来る答えを探しなさい。独りよがりは絶対あかんよ。自分の思いが辛かったら、僕でも准一でも聞いてやるさかいなあ」
 光一はきっと、自分の恋を許してはくれない。二人の間にあるのは親子の情であって、それ以外の何も要らないと言うだろう。分かっている。でも、自分を偽らずあるがまま生きていたかった。滑稽だと思われても構わない。理解されなくても良かった。ちゃんと墓まで、この恋は持って行く。光一には告げない。だから、傍にいる事を許して欲しかった。
 秋は日の落ちるのが早い。急に暗くなった外を見て、もうそろそろ帰りなさいと促された。岡田と別れて一人になると、自分の決断が間違いではなかったかと不安になる。本当にこれで正しいのだろうか。……否、城島は正しいも間違っているも言わなかった。識者の振りで頭ごなしの説教をしない彼を信頼している。心が揺れたらまた此処に来れば良いのだと思った。
 この世界に入って、もう随分と長い時間が経つ。
 沢山の人と出会って、幾つもの恋をして、様々な交友関係を広げ、色々な別れがあった。
 多分こんな仕事をしているから、他の仕事をしているよりは人に会う機会と言うのは多かったように思う。
 そんな中で、ずっと離れずにいたのはたった一人だった。
 恋人でも友人でも替えは利くけれど、相方の代わりは誰も出来ない。
 堂本光一と言う人間だけが、自分の相方だった。
 その不在を埋める存在はなくて、このまま一生彼の隣を独占するのだろう。
 それを辛いと思う時期もあった。
 離れたいと何度も願って、でも何も言わないまま傍にいてくれた存在にいつも救われて生きて来たのだ。
 光一を愛しいと思う心。
 誰よりも理解していたいと願う独占欲。
 手放したくない、と言う思いだけが今の自分の中にある。
「なあ、光一」
「……ぁ」
「起きてます?」
「起きてる」
 畳の上で大人しく胡坐をかいて雑誌を読んでいる光一は、いつ見ても綺麗だと思った。
 こんなに長く一緒にいるのに、何度も美しいと感じる。
 もう病気なのかも知れなかった。
 恋をしている時に患うのが恋の病なら、治りそうもない相方へのこの病は何と表現すれば良いのだろう。
「なあ」
「何やねん」
「今、ええ人おらんの?」
「ええ人?」
「そ、結婚とか」
「けっ……!!」
「ああ、分かった。了解」
「なっ何を勝手に納得しとんねん!」
「いやあ、その反応はいないって事でしょ。良かったあ」
「何が良かったや」
「やって、先に嫁がれたくないもん」
「嫁ぐんやない!貰うの!!」
「似たようなもんやん」
 笑いながら光一に近付く。
 警戒したみたいに身体を丸めて後ずさった。
 かわええなあ。
 簡単に光一の足を掴んで引き寄せた。
 抵抗を見せる身体は強い筈なのに、自分が触れるだけで簡単に駄目になってしまう。
 あれかな。
 最近彼女が出来ないのってこいつで満足しちゃってるからかな。
 孤独に不自由がないのだ。
「こーおーちゃん」
「何やねん!足掴むな!引っ張るな!わー!」
「往生際悪いなあ」
 あっと言う間に光一の身体を仰向けに倒して、その腰に馬乗りになる。
 遊びの延長のスキンシップ。
 まだ時間はあるし、端の方にいるスタイリストももうすぐいなくなるだろう。
 暇潰し、と言うにはちょっと熱心な遊び。
「涙目になってるで、光ちゃん」
「お前が!いきなりこんなんするからやろ!」
「やって、遊びたくなってんもん」
「お前は子供か」
「うん。お子様やからねえ」
「そんな髭面じゃ説得力あらへん」
「んー、じゃあ正直に言うわ。光一さんを押し倒したくなったの」
「……まだ、子供の方がええ。普通、相方にそんな事せえへん」
 うんざりしたように呟く光一へ笑って見せて、ゆっくりと上半身を屈ませる。
 顔を近付ければ、逃げるみたいに目を瞑った。
 それでも本当には逃げないのが、光一の自分へ向けられた愛情だと知っている。
 触れるだけの幼いキスをすれば、馬乗りになった身体がびくりと揺れた。
 かわええ。
 これが、三十前の男の反応とは思えん。
「……も、良い?」
「嫌」
「つよ」
「光ちゃんやって、俺とキスすんの好きやろ?」
「う……うー。髪セットしてもらったのに、ぐしゃぐしゃになる」
「それなら、寝てなきゃええねんな」
「剛!それ屁理屈!」
「素直じゃない光一さんが悪いんですー」
 光一の上から身体をどかして、今度は反対に自分の膝の上に抱き抱える。
 大人しく腕の中に納まる彼の真意は、もう長い事分からなかった。
 キスを始めたのなんて、昔の事過ぎて今更きっかけも思い出せない。
 唯、恐らくは十年以上こんな過剰なスキンシップが続いていた。
 何ものにも定義出来ない接触は「相方」の距離として消化されている。
 自分達は、友人でも仲間でも恋人でもなかった。
 「相方」として生きて行く為に必要な行為の全ては、身近に例がないから自分達でルールを作るしかないのだ。
「何なの、今日は。甘えたいん?」
「んー、友達が結婚してくん見てるとなあ。寂しくもなるんよ」
「やから、結婚って言うたんか」
 自分達には、とても遠い世界の出来事のようだった。
 「結婚」を決める年齢にはなって来ていると思う。
 現に自分の周りでは結婚をする友人や子供の産まれた家庭があった。
 それでも、遠い現実だ。
 自分には彼女もいないし、年々結婚願望自体が減って来ていた。
「光ちゃんは結婚したい?」
「結婚言うてもなあ。何かあんま想像出来ん」
「彼女は?」
「おらん」
「そっか」
「嬉しそうな顔すんな、阿呆」
 抱き締めた光一を至近距離で見詰めると、嫌そうに視線を逸らされる。
 彼女がいない事を馬鹿にされたのだと思ったのだろう。
 その感情の流れが可愛くて、触れるだけのキスを与えた。
「独り身でええやん」
「剛は?けっこ……っううん。何でもない!」
 言い掛けて飲み込んだ言葉の先を知っている。
 言えなかった理由も、ちゃんと分かっていた。
 言葉を失った光一は、肩口に顔を埋めてぎゅっと抱き着いて来る。
「こぉちゃん。もう、時効やで」
「ええの。剛がいつ結婚してもええ。ちゃんと祝えるから」
「光一」
 随分昔、まだ彼女がいた頃。
 どうしてもこの世界に馴染めなくて荒んでいた時期だった。
 自分と、そして彼女の事を心配して声を掛けた光一を酷くなじった事がある。
 それ以来、光一は決して自分の恋愛に口を挟まなくなった。
「……ごめ」
「俺が結婚しようなんてちょっとでも思ったら、絶対に一番に報告するから」
「いらん」
「何で」
「……嫌、やから」
 抱き着いた光一から零される言葉は、まるで子供だった。
 自分達は相方としての距離をきっと間違えているから、何が正しいのか分からない。
 嫌だと言う光一を愛しいと思う感情すら正しくないものだと思うのに。
「光一」
「いや」
「顔、上げて」
「いや」
「光ちゃん。怖い事、せえへんよ」
 ゆっくりと離れた光一の瞳の焦点が合うのを待った。
 彼が怖がらないようにゆっくりと笑ってみせる。
 背中をしっかりと抱いて、もう一度馴染んだ唇を合わせた。
 このキスは、決して深くならない。
 唯優しさがあるばかりだった。
 何度も啄ばめば、安心したように身体の力を抜く。
「お前は、怖いもんばっかやなあ」
「……つよし」
「悪い事じゃないよ。俺の前で素直なのはええ事や」
「俺、」
「うん、ええよ。お前は強くないんやから。……でも、俺とのキスは怖がらへんな」
「……何で?怖くないよ?」
「ふふ、こーちゃん素直やなあ。怖い事してみたくなるわ」
「?剛やったら、何も怖い事ない」
 きょとんとした顔で零される言葉に、絆されそうになる。
 うっかり手を出すってこんな感じなのかな。
 まあ、光一の事は物凄く大事だから迂闊に過ちを犯す気など勿論ないのだけれど。
「ほんまに?俺やったら何でもええの?」
「うん。……え、違うん?俺おかしい?」
「おかしくないよ。嬉しいなあって思っただけ」
 距離感を間違えたと自覚があるのは、自分だけらしい。
 光一は、今でも真っ直ぐに自分を愛してくれていた。
 何も迷わずに、怖がりな彼が手を伸ばして守ろうとする。
「光ちゃん」
「ん?」
「大好きやよ」
「うん」
 綺麗に笑った光一の表情をきちんと見詰めて、また飽きる事のない口付けをした。
 彼の存在は「相方」としてしか表現出来ないけど、もしかしたら「相方」が今の自分の全てなのかも知れないとひっそり思う。
 乾いた唇が自分の口付けで潤むのを感じて、キスの合間に笑った。
 人並みの幸福なんてもう得られないのかも知れないけれど、自分には光一と言う宝物がある。
 それって、人並み以上に幸せなんじゃないかと彼を抱き締めながら感じた。
 つよし。

 小さな声が聞こえる。
 耳に届く事の無い、心に響く声だった。

 つよし。

 まただ。
 背中でその声なき声を受け止めて、剛はひっそり笑った。
 部屋には、自分の指先が奏でる弦の音と、魚達が生きる為の空気の弾ける音だけ。
 静かな空間で、彼の声だけが響く。

 つよし。

 つよし。

 つよし。

 声に出すと言う事を、彼は結局覚えなかった。
 それは弱さだと決め付けて、孤独のまま誰にも理解されない事を望んで生きている。
 独りで良いのだと。
 柔らかく零す彼の笑顔が優し過ぎて、泣きそうになった事を不意に思い出した。
 可哀相な人だと思う。
 彼の力になれれば良いけれど、残念ながら自分は役不足だった。
 だから、せめて。
 彼がこの世界から消えてしまわないように、傍にいてやりたい。

「光一」
「……ん?」
「こっちおいで」

 ギターをケースに戻して、ゆっくりと振り返る。
 其処には膝を抱えて広いソファに小さく納まる相方の姿があった。
 家になんて寄り付きもしなかった癖に、最近こうして何をするでもなく部屋にいる事が多い。
 原因は分かり過ぎる位に分かるから、敢えて何も言わなかった。
 光一にだって呼吸をする場所が必要なのだから。
 手招きすれば、嫌そうに眉を顰めて首を振る。

「いや」
「なんでやの」
「だって……」
「抱っこしたるよ」

 両腕を広げて笑顔を作れば、更に身体を丸めて拒絶を示す。
 猫は飼い主に懐かずに家に懐くと言うけれど、まさにその通りだなと頭の片隅で微かに考えた。
 ……いや、違うか。
 こいつは飼い猫なんて可愛いもんじゃない。

「俺、子供やないで」
「子供みたいなもんやんか」
「何処が」
「僕にとっては、光ちゃんはいつまでたっても可愛い子ですよ」
「……むかつく」

 言いながらも、諦めたように抱えた膝を離して、フローリングにぺたりと降りた。
 四つん這いになって近付いて来る姿に苦笑を零す。
 これが三十前の男だと言うのだから、世も末だった。
 近付いて来た光一の頭を撫でてやると、腕を引いてギターの代わりに抱える。
 彼の身体は冷え切っていて暖まる事がなかった。
 体温を分け与えるように、ぎゅっと抱き締める。
 他人を拒絶して生きて来た身体は、僅かに怯えて竦んだ。

「大丈夫やで」
「……なにが」
「全部やよ」
「なにそれ」
「ええよ。此処にいる間は」
第十三話
┗真実は涙する頬にある

蛇荷に乗り込んだ時、向こうはほとんど何の構えもしていなかった。
情報が漏れているということだけでも驚きだったのだろうが、何より情報局ではなく港湾局が乗り込んできたということがうろたえる原因だったのだろう。

周囲を姦しく喚き立てる男達が次々連行されていくのを、二宮はじっと聞き続けた。
自分が何を探しているかは知っている。
そして部下達も二宮が誰を探しているのか、わかっているはずだった。

次第に人の気配が消えていく建物の中で、二宮は椅子に腰掛け、待ち続ける。

やがて、周囲が再び静まり返ったころ、ふと空気が微かに動いた。
見えない目を見張ってそちらへ顔を向ける。

頬に空気の流れを感じる。
髪にも風が当たる。

常人なら感じない、微かな微かなその動きを二宮は確実に捉えていった。

誰かがいる。

騒ぎがおさまるまで静かに息を殺し潜んでいた何ものかが、今明かりを落とした部屋を移動して出ていこうとしている。

「今井、か?」
「!」

誰何にぎくりと相手が立ち止まった。

明け始めたとは言え、薄暗がりの部屋の中に人が潜んでいるとは思わなかったのだろう。
振り返った気配と同時に金属音が響いた。

「………二宮」
「物騒なものを見せるな」
「見えないだろ、あんたには」
「なるほど」

くすりと笑い返すと、相手が息を抜いた。

「油断も隙もねえ………情報局とつるんでたのかよ?」
「人聞きの悪いことを言うな。港湾があいつらと手を組むはずがないだろう」
「じゃあ、なんで同時に動いてるんだ?」
「なに?」
「情報局が山風を締めてるぜ」
「ふん……」

櫻井のやつ、やっぱり裏で妙な動きをしていたのか、と鼻で笑う。
いや、櫻井というより、これは松本の匂いがする。
一つの石で何羽もの鳥を落としておいて、偶然でした、と笑うようなしたたかさだ。

「松本が噛んでるのか」

今井が同じことを問いかけてきて苦笑した。

「なぜ?」
「いや、この遣り口ってのが似てるから」

ぶつぶつぼやく相手の声にはうんざりした響きがある。
すると、大陸をまたにかけて動き回ってるこいつも松本に煮え湯を飲まされたことがあるのだろう。

軽く吐息をついて、二宮は立ち上がった。
ちゃきっ、と鋭い音がまた響いて緊迫した空気が漂う。

「何する気だ」
「白鷺はどこだ?」
「え?」
「迎えに来た。連れていけ」
「………もう………正気じゃねえよ」

低い声が微かに揺れて応じた。

「そんなにもたねえ」
「関係ない」

胸を貫いた傷みを押し殺して二宮は続けた。

「あれは俺のものだ。返してもらう」
「……散々、男どもに抱かれてよがってたぜ?」
「………」
「ひいひい言いながらケツ振って。何人ものやつに同時にやられて。それでも満足しねえ淫乱だ」
「…………あたりまえだ」
「は?」
「あれが俺以外に満足するわけない」
「おいおい……」

急に気配が側に寄り、額にぴたりと冷たいものが当たった。

「大人しく聞いてりゃ、いい気になりやがって。ここで撃ち殺してもいいんだぜ?」
「………お前がほしいと言われたか」

二宮は薄笑いを浮かべた。
びく、と揺れた筒先になおも冷ややかな声を投げる。

「側にいてくれと頼まれたか」
「………俺にすがった」
「『夢幻』をねじ込んで、だろ」
「……ふざけんな、何様のつもりなんだ」

今井の声がいら立ちに荒れる。

「撃ちたければ撃て」
「お仲間が飛んでくるって寸法か」
「あれはどうせお前の手に入らない」
「…………くそっ」

鋭い舌打ちが響いてなおも額に筒先が押し付けられたが、やがて深い溜息が漏れた。ずるずると銃が降ろされる。

「なんて自信だよ」
「………自信じゃない」
「え?」
「事実」
「ちっ……わかった、連れていってやる」
「ん」

まっすぐに手を伸ばした二宮に、一瞬間を置いて、乾いた手が握り返してくる。

「あんたら、絶対どっか壊れてるぜ」
「うん?」
「今俺が階段から突き落としたらとか考えねえのか?」
「…………なぜ、白鷺が壊れている?」
「……同じことしたからだよ。殺す気だった俺に身体を委せた。媚びねえで………誘惑しやがった」
「ん、ふふ」
「笑い事じゃねえ」

ぶすっとした声に思わず笑うと、なおふて腐れた声が響いた。

「地下室だ………階段は急だ、ゆっくり降りろ」
「突き落とさないのか?」
「千年ほど化けて出られそうだ」
「ふん」

今井が導く地下室に近づくに従って、ひんやりとした空気に濃厚な汗と体液の匂いが混じり始めた。
動かない空気の中に粒で浮かんでいるそれに次々ぶつかっていくような重さ、予想していなければ喉を詰まらせそうだ。
階段を降り切っても自分達以外に呼吸音が聞こえない。

「居るのか?」
「………寝そべってるよ、隅に。倒れてると言ったほうがいいか。さっきまでやられてたから………いつもなら、俺が『夢幻』で楽にしてやるんだが、あんたらが来たからな、放っとくしかなかった」
「側まで連れていって」
「……」

今井が黙り込んで、それでようやく聞き逃しそうな微かな息が聞こえた。

「もういいか?」
「ああ」

ゆっくりとしゃがみ込み床に手をつくと、ざらついたコンクリートの手触りとべたべたした液体に触れる。

「今井」

そろそろと後ずさりして行こうとする気配に声をかける。

「駅と港を避けろ。大中筋なら人員を配置していない」
「逃がして………くれるのか」
「逃がすんじゃない。獲物を残しておくだけだ」

「…………食えねえね、あんたも」

吐き捨てるような声が響いて、階段を上がっていく気配に変わった。
遠ざかる足音に、そろそろとまた床に手を這わせる。

空気中の匂いは血や精液や汗で汚れ腐っている。
伸ばした手がなかなか相葉に辿りつかない。

弱々しく響く呼吸を頼りに進むのがじれったくなって、そっと呼んだ。

「雅紀」

ふ、と一瞬呼吸音が止まってぞっとした。
見えない自分が苛立たしく、けれど傷つきずたずたになっているだろう相葉を他の誰にも委せたくなくて、声を強めて呼ばわる。

「雅紀、どこにいる」
「………の……」

今にも途切れそうな声が応じた。
耳を澄ませて距離と方向を探る。


生きている。

まだ生きている。


少しでも早くその身体を抱きしめてやりたくて必死に床を探る。

と、伸ばした指が固く強ばった塊に触れた。
弾力のない冷えた感触、素早く指先で探ってそれが脚だと気づく。

上下を確かめて指を滑らせていくと、べたべたとした液体に塗れた腰に辿りついた。
すぐ側に棒状のものが触れ、そちらへもう片方の手を乗せて腕だと気づいて愕然とする。

覚えているよりもうんと細い。
手首が掌に握り込めそうだ。

「雅紀、大丈夫か」
「え………」

ぎく、とはっきりと手の下の身体が硬直した。

「に、……に……の……?」
「ああ、そうだ。遅くなってごめん」
「……う……そ……」

掠れた声が小さく響く。
その声の漏れた場所を探して二宮は相葉の身体に手を這わせた。

どこもかしこもねっとりとした感触、あちらこちらに指に絡む不快な手触りがある。

だが、それを拭う間に相葉から手を離すのが不安で、夢中で顔へと身体を辿った。

「うそ……だ……」
「嘘じゃない、大丈夫か、答えろ、雅紀」
「そ……な……こ………ない……」
「雅紀?俺がわかる?」
「………」
「雅紀」
「………わか……る……」

声がふいにゆるんだ。

「に………の……」
「ああ、ああ、そうだ」

その声に滲んだ潤みに一気に記憶が甦った。


腕の中で甘く鳴いてすがってきた身体、
涙を零しながらねだる声、
駆け上がりながら微笑む顔に弾けた喜びの表情。


同時に探った手がようやく相葉の上半身を捉えて、二宮は力委せにうつぶせになっている相葉を引き起こした。

「あ、ああ……っ」

微かな悲鳴を上げて相葉が腕の中に崩れ落ちてくる。
だが、それはもう苦痛ではなかったらしい。
のろのろと上がってきた腕がしがみつくように抱きしめてくるのを、深く強く抱き込んでやると、とろけるような声を上げた。

「に……のぉ……」
「雅紀」

擦り寄せた頬が濡れている。
奪った唇をなおも次々と零れ落ちてくる涙ごと貪って、どこか力の入らない、ひどく細くなってしまった身体をしっかり抱き寄せた。

「ん………んっ……んう」
「雅紀……雅紀」


ふいに視界に見たはずのない光景が広がった。

真っ暗な空。

視界の端に紅蓮の炎。


「にのっ!」


悲鳴に似た声が何度も呼ぶ。


「にのっっ!」


白い頬に涙を零しながら、震える相葉の顔。


「に、のっっっっっ!」


目の奥に激痛が走る。



ああ、そうだ、あの夜。



二宮は全てを失ったと思った。

相葉の心も。
妹の命も。
自分の未来も。

落ちてきた荷に打ちのめされて崩れ、けれどそれでも憎しみに目を見開いて、駆け寄ってきた相葉に呪詛を叩きつけようとした、そのとき。

視界に飛び込んできたのは我を失うほど泣きじゃくっている相葉の顔で。
引き裂かれるような悲鳴を上げて、すがりついている相葉の顔で。


ああ、もう、いい。

そう思った。


この相葉の顔さえ覚えておけるのなら、他の全てを失ってもいい。
いつも微笑む、優しい男の、壊れそうなほど追いつめられ二宮を求めるこの顔さえ、覚えておけるのなら。




そして次の瞬間、視界は暗転し…………二宮は視力を失ったのだ。

「うっ」
「に…の……?」

強くなった目の痛みに、二宮は口付けを離して呻いた。
相葉が不安気な声をかけてくる。

その声がいつかの夜のものにそっくりで、濡れた頬の感触もあの夜と見事に重なって。

同じ顔で泣いているのだろうか、と思った。
同じ顔で、紛れもなく二宮を、二宮だけを求める顔で泣いているのだろうか。


もう一度………見てみたい。


ずきずきする目を押さえ、零れた涙を拭って瞬きし………違和感に気づく。
目の前の闇に濃淡がある。いや、これは。

「に、の?」
「………雅紀……?」

腕の中で細い身体を震わせながら見上げてくる顔。
涙をいっぱいにたたえた瞳、小刻みに震える唇が白く色を失っている。
のろのろと視線を動かすと、だらりと伸ばした真下の身体には無数の鬱血にすり傷、縛られたような跡まである。
しかも全身透き通るほど白く、ひどく痩せ細っていて、あまり強く抱きしめるとそれだけで呼吸を止めてしまいそうな薄い胸が忙しく動いている。

冷えた感触に我に返って、足元に広がっていた毛布を引きずりあげようと手を伸ばし、二宮は固まった。

「なに……?」
「にの………見えてる……?」

相葉の声に振り向いた。
唇を震わせている相葉を凝視しながら、そっと口を重ねてみる。
見えているものと感触が一致する。

今度は相葉の口に閃く舌だけそっと吸いついてみる。

「っう……ん」

切なげな声を上げて目を閉じた相葉の目から涙が零れ落ちた。

「に………の……」
「雅紀………」

瞬きして目を開ける、その相葉の目に強ばった顔で目を見張る自分の顔が映っている。

二宮はゆっくり深く息をついた。
毛布を掴み、がたがた震えている相葉の身体を包み込むと、立ち上がってゆっくり抱き締めた。

信じられないほど軽くなってしまった身体に怒鳴り出したくなった衝動を押さえ込み、低く囁く。


「帰ろう、雅紀」


ぎゅ、と辛そうに眉を潜めた相葉が竦んだ。
安心させるように髪に頬を擦り寄せ、きっぱりとした声で告げた。



「お前は俺のものだ」



第十四話
┗繰り返した虚しい夜の果て

二宮が相葉を抱えて戻ったのは『夢幻屋』だった。

「二宮!相葉!」
「悪いけど床を用意して。それと………湯の用意を」

湯、のことばにびくっと腕の中の相葉が震える。

『夢幻屋』は情報局出入りということもあって湯屋も併設されている。
情報局の無駄金使いと苦々しく思っていたが、今回ばかりは助かった。

相葉を抱えて用意ができるまで一階の小部屋で待つ。細い身体がどんどん冷えてくるようで、二宮は不安になった。

「医者も頼む!」
「わかってる!」

はきはきした声が戻ってほっと息を吐くと、

「にの……」
「ん、どうした」

小さな声が呼んで、相葉を覗き込んだ。
いつもの微笑がかけらも残っていないぼうっとした顔で、半眼になった瞳も遠い。

「僕………生きてるの……」
「当たり前だ」

むっとして唸った。

「死なせてたまるか」
「なんか………あちこち痛くて………しんどい……」
「……あたりまえだ……」

今度は辛くてことばを絞り出すのが精一杯だった。
あんな冷えたところで、何人もの男に弄ばれて。

視力が戻れば、それはまた地獄絵図を見る思いだった。
周囲に散った体液や変色した血液が腐臭を放って胸を抉る。
千切られた衣類や汚れた紐、敷かれた布団も掛け物もじっとりとした湿りを帯びて。

「あたりまえだろう………」

どうしてもっと早く動かなかった、どうしてもっと強硬に踏み込まなかった。
その思いに歯を食いしばると、滝沢が湯の用意ができたと告げてきた。
抱きかかえて立ち上がると微かに相葉が身をよじる。

「………いい……」
「うん?」
「………僕………汚れてるから………」
「かまわん」
「………にの………汚れちゃう……」
「……かまわんと言ったはずだ」

後は聞かずにさっさと湯屋に運び込んだ。
衣服を脱ぎ捨て、相葉の毛布をそっと剥がし、日の光の下に晒された薄い身体にところかまわずつけられた鬱血と傷に凍りつく。

ひどく淡く存在感のない身体になっていた。
まるで腕からぼろぼろと崩れていってしまいそうだ。
滲みかけた悔し涙を唇を噛んでこらえ、洗い場に座って膝に抱きあげる。
ぞっとするほど軽かった。
吹き上がるような怒りを必死に逃してゆっくり湯をかけた。

「あ……ああっ……」

それがもう相葉には耐えられないほどの刺激だったらしく、悩ましい声を上げながら身悶え、それがまた二宮を強く煽った。
勃ちあがっていく自分自身を、相葉の求めるままに突き立てて慰めてやれば、相葉も喜び自分もまた相葉を取り返したと安堵できる、そう思いながら、最後の一線を越えないまま洗い終えたのは、相葉の声がいつもと違って響いたからだ。
二宮の腕で喜びに放っていたはずの声が、苦しげに切なげに聞こえる。
暴走する身体に翻弄される相葉の心が悲鳴を上げているようで、とても抱けない。

「はっ……あううっ………うっ……に…の……っ」

幾度目かの大きな波に揺さぶられて、相葉が身体を震わせて達した。
二宮のものに手を伸ばし、必死に手繰り寄せようとする手を束ねて抱きかかえ、ただ口だけを合わせてやる。

「んっん………んうっ………うっ」

汚れた下半身を静かに洗い直しながら、何度も息を吐いて自分を鎮めた。
きりきりしてくるほどの緊張を堪える術は身についている。
泣きながら自分を求めてくる相葉が哀れというより愛おしくて、二宮は洗い終えた細い身体を抱えて、ゆっくり湯舟に沈んだ。


「あ………あ……」

温かな湯に浸されて、少し気持ちが落ち着いたのか、相葉がふわりと力を抜く。
ことりともたれてきた頭をそっと撫でながら、二宮は口を開いた。

もーりもいーやーがーる、
ぼんからさーきーは。



「!」

相葉が大きく震えた。

「………に………の……」

一瞬逃げようとするように体を竦ませたのを、しっかり抱きかかえて唇を寄せる。
濡れた髪から温かな香り、それは紛れもなく懐かしい相葉の匂いだ。失わずに済んだ、とふいに強烈な痛みが胸を突き上げてきた。



ゆーきもちーらーつーくし、
こーもーなーくーし。



「僕………赤ん坊じゃ………ない…」
「……同じようなものだろ」
「え……」
「自分が何が欲しいのかもわかってないくせに」
「っ」

それは俺も同じだが、と胸の内側で二宮はつぶやいた。

視界を失ったのは相葉の顔だけ覚えていたかったからだ。
視界を取り戻したのは相葉の顔を見たかったからだ。



こーのこよーなーくー、
もりをばいーじーるー。



相葉の歌をいつの間にか覚えてしまっていた。
その歌をこの一年聞けなかったことが今さらながらに悔しいと思った、自分の甘さに気づいて苦笑する。



もーりもいーちーにーち、
やーせーるーやーら。



低い声で歌いながら、そっと相葉を揺すってやった。
小さく細くなってしまった体をこのうえなく愛しいと思った。

「………もう………僕………抱いてくれないの……」
「抱いてるじゃないか」
「……そうじゃ………なくて……」

半泣きになってすがりついてくる相葉に頬を擦り寄せる。

「僕が………あんなところに……いたから……?」
「ばか」
「だって……」

ぐすぐす鼻をすすりながら、小さく相葉がしゃくりあげた。

にの、もう僕のことなんか嫌いになったでしょ、でもあれはお仕事だったんだよ、抱かれて気持ちいいのはにのだけだもん。

掠れた声で甘ったれてくるのに、ようやくほっとした。

「……抱いてやる」
「!」
「いくらでも抱いてやる」
「にの……?」
「……だから早く元気になれ」
「………うん………」

 滲んだ声で相葉は二宮の肩にもたれてきた。
零れる涙が湯で温まった肩にひんやりと冷たい。

「…………うん………にの……」
「あいばか」

それ、ひどい、僕のことそんなふうに言うの、にのぐらいだよ。

なおも甘える声に二宮は静かに笑みを深めた。



最終話
┗暁に鳴く烏は喜びを歌う

「おー、お揃いで」

『夢幻屋』の滝沢は櫻井と松本を見て、目を細めた。

「白鷺……いや、相葉はどうですか?」
「元気?」

事件から一ヶ月後、白鷺はずっと『夢幻屋』で養生中だ。
一時は医師が付き添うほど危なかったのだが、今は3日に一度の往診になったとかで、ようやく松本達にも面会の許可が出た。

もっとも、情報局の白鷺という花魁は、蛇荷貿易の『夢幻』密輸入に絡んだ事件で死亡したことになっており、今『夢幻屋』の二階で療養中の男は、港湾局二宮の遠縁にあたる相葉雅紀という人間、たちの悪い友人から『夢幻』を進められて際どいところまで崩れかけたのを二宮が治療に協力しているという名目だ。


「元気……ってか……」
「会えますか?」

生真面目に尋ねる櫻井に滝沢はくすぐったい顔になった。

「んーー……今は無理だと思うな」
「え?」
「あ」

松本が素早く二階に視線を投げた。

「ニノ、来てるんだ?」
「ん、そう。あのな……」

滝沢の声を遮って、柔らかな甘い声が響いた。

「あ……あっ………あんっ」

「うあ」

それと察した松本が見る見る赤くなる。

「何だよ、何おぼこぶってんだよ」
「いや、だって、あれ……相葉?なんか聞いたことないような声なんだけど」
「二宮があんな風にあんあん言うとでも?」
「うあああ、それもあんまり」

松本が引きつった。

「うっうんっ、う……ふっ」

明るい日射しが入り込む床にうつ伏せにされて、相葉は二宮に抱かれている。
背中から覆い被さってきた二宮が耳を優しく舐め上げる。
脇から滑った手が浮いた胸を、そこに宿った実を指先で嬲っていくのに、腰が揺らしてしのぐが間に合わない。
あまつさえ、残った片手が命じるように腰の前に入り込んできて、快感に翻弄されながら膝を立て、腕を突っ張った。

「あっ……ああっ………」

押さえつけられずに自由になった手が胸をまさぐる。
前は既に濡れそぼって張り詰めている、それを柔らかく表面を掠めるように撫で摩られて、相葉は喘いだ。
身体に溜まった熱を放ちたいのに、二宮はそこまで追い上げてくれない。
後ろから犯しているものも動かされずに銜えさせられたまま、けれどそれがそこにあるということがもう快感で、首を振り悶えながらねだる。


「に、に……の……っ……も……おね……がい……っ」
「………」
「んぅ……っ、んっ………あんっ………んんっ、ん、あっ」

声を堪えて駆け上がろうとしたら、胸をいじっていた指を口に突っ込まれた。
指を傷つけたくなくて口を開けば、何本も入れてかき回され、よだれを流しながら二宮に全てを委せて開いていく。

「あっ………あんっ………んう……は……っあんっ」

前も後ろももうとろけて涙を流し続けている。
それでも二宮の指もものも優しく緩やかに相葉をいたぶり続け、どれほど頼んでも容赦なく、決まった手順で何度も何度もぎりぎりまで追い詰めるだけ、決して最後の一戦を越えさせてくれない。

「も………もう……あ……んっ」

霞む意識に気を失いそうになると、少し刺激を止められて、感覚が戻ってきはじめると、まるでこれまでのことなどなかったように一から攻めたてられていく。

「雅紀?」
「んっ……ん……は………はい……っう」
「一生俺から離れるな」
「あっ、あ……ん……」
「返事は?」
「んっ、んっ………んあ……っん」
「返事」
「んっ…………あああっ」 

ゆっくり動き出されて相葉は跳ね上がった。

一ヶ月前とは言え、身体は『夢幻』も、その快楽も覚え込んでいて、同じ条件になると一気に記憶と快感を引きずり出してくる。

「はっ……はっ………はうっ……うんっ………あ」

震えだした脚に二宮が動きを止めて、相葉は喘ぎながら俯いた。
もう頭の中はぐずぐずにとろけていて、視界も歪んで揺れて見える。
一旦引き抜かれてもう一度、今度は前から抱きしめながらゆっくり差し込んできてくれて、その甘ったるい感覚に目を閉じて浸っていると二宮が再び耳元でささやいた。
 
「返事」
「は……い……」

答えると同時に溢れだした涙を二宮の掌が受け止め拭った。
なおも零れる涙を唇で吸ってくれ、乾いいた口に温かな舌で湿りをくれた。
舌を絡ませるだけで奥が疼くのを感じ取った二宮が、柔らかく突いてくれ、それでまた溶かされて舌を舐め回す。

「お前がいなくなると、俺は世界を失う」
「はい………あっ………あうっん」

微笑んだ瞬間に深く貫かれる。
そのまま一転して激しく追い上げられて、目を見開いて声を上げた。

「あっ……あっ……あ、ああっ………あんっ、あんっ……」

「もっと鳴け」

低い声が命じるままに声を放つ。
身体が開いて二宮の指にものにより深くまで犯されていくのを、もっともっとと求めながらすがりつく。

「俺のために、鳴け、雅紀」
「あっ…あんっ………ああっ……………あ、う、う、くふっん」

自分の声が甘えてとろけていく。
だが悲鳴には変わらない。
どこまでも溶けてねだって喜びを歌うだけの声、二宮だけが相葉の中から引き出せる声。

このまま死んでもいい、そう思える幸福の中で抱いてくれるのは二宮だけしかいない。
だから二宮は誰よりも刺激的で……

そう思った瞬間に走り上がった快感に我を忘れた。

「に、にの……あんっ………あっああっ」

身体が勝手に動く。
二宮の動きにきちんと合わせて吸いつき、引き込み、震えながらもっと先をねだり、受け止めて開かれて溶け合って、境界線が消えていく。

「あっあっあっ………あんっ…あっ………………ああっ」

腹の間で擦られて張り詰めていたものが弾けた。
ぬめりを絡ませながら揺さぶられ、疼く波が後ろへ後ろへと伝わって締め上げていくのに二宮が動きを速める。

深いところで別の快感が見る見る膨れ上がってきて、相葉は眉を寄せた。
押し上げてくる波は大きく激しい。
身体がみるみる呑み込まれていく。

「はんっ……あっ、あっ……あ……んっ……っ」

自分の上げる甘い声が腰に響いて感覚を数倍に跳ね上がらせる。
触れ合うところが全て溶けて、それが這わされた唇に吸い尽くされていくような感覚に、相葉は身をよじって歓喜の涙を零す。


この人さえ居ればいい。

二宮さえ居れば、どんな闇にだって立ち向かえる。

何度もこうして満たしてもらって、何度もこうして生き返って。



ふいに、ああ、そうか、勘違いしていた、と思った。



この人は遠い冷たい月なんかじゃなくって、地面の下を流れる溶岩なんだ。

冷えて固まっているのは表面だけで、その本質はこんなに熱い。

触れてしまえば、もう溶けるしかない、滴り落ちる快楽の雫になって。





そう思った瞬間に、相葉の視界を無数の火花が弾け飛んだ。

激しく息を吐いて目を開くのに、その視界が白熱した色に覆われて何も見えなくなる。甘い声が喉をつく。


「……とけ……ちゃう……っ」
「んっ」
「とっ…とけ……ちゃ……っ………も……っ………は、ぅんっ」

ぞくぞくした波に攫われ身体が勝手に激しく揺れる。
二宮の刃に触れたところが次々溶けて頭の芯が真っ白に燃え上がる。
零れ落ちる涙と一緒に相葉そのものが蒸発していく。

「あ……ああっ……に………の……っ」

伸ばした舌を降りてきた口が含んで吸ってくれた。
同時に身体の中心をより深く刺し貫かれ、二宮から吹き上がった塊が身体の奥の傷を直撃した。

「ぅ、あああああっっっっ!!」


相葉は絶叫し、跳ね上がった。



激痛に意識が遠のく。
呼吸が止まる。
時間が止まる。



頭が吹っ飛ばされたような衝撃に堪え切れずに二度目を吐き出しくったりすると、二宮がそっと抱き寄せてくれた。


「……ひどい……よー………」

「ごめん」

「死んじゃいそー……」


無言で二宮が口づけをくれた。


なだめるような柔らかな舌に夢中になっていると、下半身に静かで透明な温もりがじんわりと広がってきた。

二宮の熱が最後まで残っていた相葉の病んで膿んだ部分を焼灼し、そこへ新たな命を与えてくれているようだ。

不思議に穏やかな安らぎに、喘いでいた呼吸がおさまっていく。

まだ入ったままの二宮がいる、それも含めて自分であるかのような、身体がどこか大きなものに繋げられたままあるような安心感に、相葉は深い息を吐いた。

二宮が心配そうに引き寄せてくれる、それが震えるほど嬉しい。


「雅紀…?」

「でも………さい…こー……」

「……ばか」



薄赤くなった二宮の顔に、微笑みながら相葉は意識を手放していた。

身支度を整え、幸せそうに眠り込んでいる相葉に布団をきせかけて、二宮は階段を降りてきた。戸口で微妙な顔で立っている二人に薄笑みを浮かべる。

「何だ、居たんだ」
「相葉の見舞いに」

櫻井がまぶしそうな顔で笑った。

「激しかったね?」

松本がからかうような口調で言ってきたが、うっすら赤くなっているところが可愛い。

「あんたには無理だろうけどね」
「あ、のなっ」

さらっと流すと松本がかっと血を昇らせた。

「あれだけ喜ばせてやれてるの?」
「あ、う」

微妙な顔で口ごもってぶつぶつ言う。

「そりゃ、あんな声聞いたことないよ」

ちろっと櫻井を見たのは自分と比較したのだろうか、もっと小さな声で続ける。

「けどさ、そういう言い方って、まるで俺が無能みたいじゃん……」
「そうか?」
「え?」

ふいにしらっとした顔で櫻井が言い放って、松本がぎょっとした顔になった。二宮も思わず口をつぐむ。
櫻井は不思議そうに二人を見ると、

「ああいうのならよく聞いてるぞ」

妙なことを言った。

「え、ちょ、待って、翔くんっ?誰のこと言ってんの、あんた、また俺以外に」
「翔くん?」

まさかあの一件以外にも相葉と付き合ったことがあるのか、と二宮も僅かに焦る。
松本は気にならないが、櫻井は妙なところでさばけているから、相葉も嫌いではないだろう、などと考えてしまって顔をしかめた。

「え? だって」

櫻井はきょとんとした顔で松本を振り向いた。

「お前がイくときにはよくあんな声を」
「うわあああああっっ!」

滝沢が手にしていた盆を落とすような悲鳴を松本が上げた。

「あんたっ、なんてこと言うんだよっっ」
「溶けるだの、狂うだの……あ、そっか、お前には聞こえてないのか」
「わああああああ!」
「くっ」

二宮は吹き出した。

「全く、あんたと言う人は」
「何か問題が?」
「あるって、おおありだよっ、あんた根本的にやばいって!」

うろたえて言い聞かせにかかる松本を放って、二宮は滝沢を振り返った。

「今眠ったところなんだ。もうしばらく寝かせてやって」
「わかった………二宮?」
「なに?」

滝沢が微かに笑う。

「なんか………ひと回り大きく見える」
「皮肉?」
「そう聞こえた?」
「聞こえた」
「じゃあ、皮肉」
「そう」

苦笑すると、通りの向こうから子どもの歌う歌が聞こえた。


もーりもいやーがーる、
ぼんからさーきーは。


思わずニ階を振仰ぐ。
そこで本当に相葉が安らかに眠っているか確かめたくなる気持ちを殺して、二宮は櫻井を振り返った。

「翔くん」
「ん?」
「大宮物産、叩きますよ。覚悟しておいて下さい」

もう辛い夢に傷つけさせない。
『夢幻』をこの港から一掃してやる、と腹を括る。

「わかった。智っさんにも伝えておくか?」
「御自由に」

にこりと笑った相手に言い捨てて、二宮は胸を張って吹きつける寒風に向かって歩き始めた。
第十話
┗不器用に踊る恋人達

櫻井は混乱している。

穏やかな昼下がり、落ち着いたかふぇには人が少なくて快い。

だが、櫻井の心は嵐の小舟だ。

「な、もう4日にもなるんだよ、それなのに、松本も大野も動かない、これどういうこと?」

一つは目の前で5個めのけーきを平らげようとしている男性の胃袋についてだ。一体幾つこの体に入るのだろう。それとも、ここのけーきは人間の体に入ると縮んだりするのだろうか。

「いくら、白鷺が慣れてるからって4日音信不通、心配ぐらいしてもいいだろ?」

もう一つは彼の口からぶちまけられる、櫻井の知らない情報局の動きだ。

滝沢は何と言っている?
あの白鷺が単身蛇荷貿易に潜入したのに、4日戻ってないばかりか、連絡も取れない、そう滝沢は怒っているのではないのか。
滝沢はきりきりしながら6個目のちょこれーとけーきに手を伸ばそうとしている。

「どうなってんだよ」
「どうなってるんだ」
「え?」

ことばが重なって滝沢が瞬きした。櫻井が眉を寄せて顔を上げる、その顔にみるみるひきつった笑顔になる。

「あ、ひょっとして……櫻井……」
「白鷺、というのは、あの白鷺?」
「うん……今回のこと……」
「知らない」
「あー………まずかった………かな……」

そろそろと滝沢は6個目のけーきを皿に戻した。

「まとめるとこうだね?蛇荷に輸入品があるということでその日時をはっきりさせるために白鷺が出かけたまま帰らない、それも既に4日目になろうとするが、松本も大野もまともに返答しない、思い余って俺に相談するため呼び出した、と」
「あ、そう……まあ………そういうことだけど……」

滝沢は上品なグレイの洋装の袖をそっといじった。櫻井を見、険しく寄るばかりの眉に忙しく瞬きして口ごもる。

「あの………とすると……どこまで櫻井は知ってるの…かな?」
「蛇荷の確認は松本が担当していて、まだ確実な情報が掴めていないので引き続き張り込んでいる、と」
「あ……そ……」

櫻井は唇を尖らせて目を落とした。

確かにここ数日、松本は部署にいることが少ない。いつもならうるさいほどにまとわりついてくるのだが、帰宅時にも戻ってこないときがあって気にはしていた。

もっとも全く違うところ、港湾局の者から、二宮を冷えるかふぇで松本が待たせていたので困ると話を聞いてはいる。
港湾局の二宮と松本とは妙な取り合わせで、どちらかというと犬猿の仲だったはず、それがかふぇなどで一緒に座っているところなぞ想像がつかない。唯一つながりがあるとすれば、それこそ白鷺がらみぐらいかと思っていた矢先の滝沢の呼び出しだった。

「俺には………関係ない……ってことか……」
「や、ちょっと、櫻井」

ぼそぼそとつぶやいた櫻井の不穏な気配に気づいたのだろう、滝沢が慌てて繕った。

「じゃ、じゃあ、俺の勘違いなんだな、うん。松本くんが白鷺のつなぎに入ってくれてるだよな」
「…………俺には知らせないで?」
「あ」

白鷺のところへ一時櫻井が出入りしていたのは仕事がらみだけだと松本は知っているが、どのあたりまで仕事がらみだったかとなると断言できない。
何せ相手は白鷺だし、二宮が出入りしなくなった後は誰かれ構わずといったところもなきにしもあらずだったのだから。

「俺だって……………惑わされたし」
「……………」
「潤だって……そりゃ………」

櫻井は瞬きした。
何だか一気に落ち込んできて、それが止められないのが情けなかった。無意識に頭の中で自分と白鷺を比べるなどということまでしてしまい、はたと我に返ってぶんぶんと首を振る。

「さ、櫻井?」
「……いや、うん、わかった」

ぐ、と腹に力を込めて顔を上げる。強ばったままの滝沢にできるだけ愛想よく応じた。

「貴重な情報をありがとう。たぶん、潤が繋いでくれているんだろうけど、俺からも確認しとく。事実、現実に情報局が動いていないのは確かだし、4日というのも長過ぎる」
「あ、あの」
「大丈夫、まかせて」

にこりと笑うと相手がひくりと引きつった。

「うん、じゃ、おまかせしちゃおうかなっっと」

うろたえた様子で手元の珈琲を飲み干し、立ち上がりながら滝沢がおそるおそると言った調子で呼び掛けてきた。

「櫻井?」
「何?」
「あの………ここにこれ入れたまんまで笑われても、怖いんだけど」

眉間に人さし指を立てられて、櫻井は笑みを消した。瞬きしながら指先で眉間を押さえる。確かに寄っている、今までよりもずっと深く。

そそくさ立ち去る滝沢の後姿を見送りながら、なおもぐいぐい眉間を押さえる。

「………いつも笑わないからかな」

俺といるときぐらい笑ってよ、翔くん。
そう言って苦笑する松本を思い出した。

櫻井にくらべれば白鷺はにこにこいつも優しい笑みを浮かべている。
ああいう雰囲気が、男を安心させ落ち着かせ、自分が頼りがいのある人間だと思わせてくれるのかもしれない。
港湾局の気難しい二宮が白鷺にだけ通ったのも、ああいうところがいいのかもしれない。

きゅ、と口を窄めて眉間を押した。瞬きが妙に増えて視界が曇る。

「俺だって」

白鷺を抱いたのだし、そういう意味では松本が白鷺を抱こうと何しようと咎める筋はないのだろう。
櫻井に知らせず、蛇荷に張りついているのも松本なりの思い遣りなのかもしれない。

それとも、櫻井に知られては困るほど、実は白鷺に本気だということだろうか。

櫻井は残っている珈琲をぼんやりと見た。

これを教えてくれたのも松本だ。大陸に渡っていたということもあって、いろんなことをよく知っている。その松本から見れば櫻井はもの知らずでつまらない男なのかもしれない。

口を窄めて歯を食いしばる。
しばらく力を込めていたが、ふう、と深い息をついた。
自分は振られてしまったのかもしれない、とようやくそこへ思考が辿りついた。

「……なら」

やることは一つだ、と珈琲を煽った。

白鷺の一件を確かめ、蛇荷を早急に叩く。
大野の話では山風運輸へ『夢幻』ルートを繋げということだったが、何かまうものか。
もともと櫻井には不本意な仕事、『夢幻』の危険性を知っている今となっては白鷺がいつか望んだように燃やしてしまうのが一番いい。
それで処罰を食らおうが、もうどうでもいい、そんな気分になってきた。

それで、松本と、松本が好きなやつが幸せになるんだもんな、と胸でつぶやいて、また眉をしかめ口を窄めてしまう。
はっとして眉間を指で押し掛け、一体何をしてるんだと苦笑いした。不機嫌な顔をしてようとしてまいと、もう関係なんかなくなるのだ。

…が、席を立とうとしたとたん、明るい声が響いた。

「あれ、翔くん?」
「じ……潤……」

できたら今は見たくなかった顔だったと一瞬固まった櫻井に、松本が不審そうな顔になる。

「珍しいね、翔くんがかふぇ来るなんて?誰と……」

素早くテーブルを探った松本の目が、櫻井の残したカップに止まった。

滝沢はああいう仕事をしている所以か、出かける際はいつも薄く化粧をしていた。
今日だって例にもれなかったわけで、白いカップには紅の跡が残っている。
どきりとして目を上げると、まじまじとこちらを見る松本の視線を浴びた。

「女と来たんすか?」
「あ、いや」
「………何も隠さなくたっていいでしょ……別に……仕事なら」
「あ……」

これは仕事に入るのかな、と一瞬首を傾げた間合いに松本がきつい顔になった。

「違うの」
「いや、その」
「ふうん。……そういう人がいたんなら、さっさと教えてくんなきゃ」
「は?」
「俺が馬鹿みるでしょ?」
「は……?」
「俺一人、翔くん、翔くんってくっつき回ってさ。迷惑してんならちゃんとそう言ってくんなきゃ」
「……それは潤の方だろ」

思わずむかっとして櫻井は松本をにらみつけた。

「……なんでさ」
「白鷺の繋ぎに入ってるんだって?」
「あ」
「俺は知らないぞ」
「…………それは」
「お前こそ、仕事と個人的な事情は分けろ」
「なんだよ、それ!」

松本がぐい、と唇を曲げた。
いら立ちを露にした顔で櫻井をねめつける。

「自分のこと棚に上げて!」
「自分のことって何だよ、俺はただ滝沢くんから白鷺の相談を受けただけだろ!」
「白鷺?」
「俺に黙ってこそこそしてんのはそっちじゃないか!」
「っ!それはないっ」
「何か文句あっか、どうせ俺はいつも不機嫌だよ!」
「はああ?何言ってんの、翔くん」

きょとんとされて、またその顔がいいな、などと思ってしまう自分が悔しくて、櫻井は吐き捨てた。

「白鷺みたいに可愛く笑えねえよっ」

ぎょろりと松本が目を剥く。

「あんたはもう十分可愛いでしょうが!そのうえ可愛く誰に笑おうっての!」
「俺が誰に笑おうと勝手だろっ!」
「あーっ、何それっ! 俺以外に誰を落とす気なのっ!!」
「はあ~い、そこまで」

今にも顔をぶつけそうに松本に詰め寄った櫻井の前に掌が割って入った。

「あのね………お二人さん、頼むからここがどこだか思い出して」
「あ」

どろどろした大野の声に櫻井が我に返ると、静まり返ったかふぇの中で抱き合わんばかりの距離に松本と近寄っていて、一気に顔が熱くなった。

「引いて、松潤」
「ちっ」
「………で、翔くん」
「…」

口を尖らせ目を逸らせると、大野の溜息まじりの声が響いた。

「局に戻って詳しく話すから。とりあえず、こっから退却しよう。…視線が痛いわ」

「………ということで、わかった、翔くん」
「……わかった」
「さっき白鷺が一時的に『夢幻屋』に戻った。衣類を取りに戻ったらしい。その際、情報を伝えていった。取り引きは2日後の夜、山風港の第ニ埠頭付近だ」

大野が松本にうなずきかけて呆れ顔になる。

「松潤もいい加減そっぽ向いてるな」
「だって!この人、俺を全然信じてないし!」

はあ、と大野は大きく溜息をついた。
憮然とした表情で口を尖らせている櫻井が納得なかばなのは仕方ないとして、本来なら櫻井をおさめる側に回ってるはずの松本までふて腐れていて頭が痛い。

「おまけに、誰と一緒だったのやら」
「っ!だからっ、あれは『夢幻屋』の滝沢くんとっ!」
「へー、ほー、俺、滝沢くんが口紅つけてかふぇへ行くなんて知らなかったー、よっぽど翔くんと一緒に行くの楽しいんだねーーっ」
「白鷺みたいな言い方するなっ」
「ふーん、そー、口調一つでもわかんだ、なるほどねー、一回抱いただけでもずいぶん覚えるんだなあああ」
「潤っ!」
「ちぇ、こんなことなら俺が行けばよかったっ」

口をヘの字に曲げて松本がつぶやき、ようやく大野は気づいた。

何のことない、松本は櫻井が白鷺に落とされたことを根に持ってるのだ。
手っ取り早く言えば、櫻井が自分以外を相手にしたとずっと密かに拗ねていたわけだ。
そのくせ、白鷺に何かあったら櫻井が苦しむと、仕事の合間はほとんど蛇荷に張りついていて、他ではずる賢いほどしたたかなのに、どうして櫻井にはここまで手も足もでないんだか。

まったく、簡単なことじゃないか、俺はあんたに嫌われたかと不安なんです、そうあっさり言ってしまえばいいのにとにやにやしかけた大野は、続いたやりとりに含みかけていた茶を吹きそうになった。

「潤?潤を潜入させるわけないだろ」
「何で?へー、俺じゃあてにならないってこと?」
「違う」
「それじゃなんで」
「俺が潤を手放すわけがないだろ」
「げ……げふっ!」

ごほごほ咳き込みながら櫻井を見ると、これがまた当たり前のことを口にしただけだと言わんばかりに、生真面目な顔で松本を見ている。
何か反論しようとしていたらしい松本がぽかんと口を開いたまま、やがてじんわりと薄赤くなっていった。

「どうしてそんな恥ずかしいことを平然と…」
「ん?」
「もう……たまんないなあ…」

自分が何を言ったのか今一つ自覚のない櫻井に、大野もぐったりしてきた。赤くなった松本が、くすぐったい顔で鼻をかき、ふいに気づいたように、櫻井の眉間に触れた。

「どうしたの、ここ?赤くなってる」
「ああ……」

櫻井が戸惑った顔で瞬きした。

「俺の皺が不愉快だと、滝沢くんに言われた」

少し小さな声になって、

「だから…お前もそうなのかと」

そう言えば、ここへ戻る最中も思い出したみたいにぐいぐい押していたな、そうつぶやいた大野の頭を殴りつけるように、松本が嬉しそうにへらへら笑った。

「んなわけ、ないじゃない」
「そう?」
「そう。むしろ、俺、ここが翔くんらしくていいかなあと」
「そっか」
「そう。あ、そりゃ、翔くんが縦皺寄せなくなるようにはしてあげたいけど」

ちゅ、と松本が櫻井の額に口を寄せる。

「ほら、翔くんの縦皺だって愛してるもん」
「そっか」

それをまた当然のように受け止めた櫻井が笑う。

「………あの………お二人さん?」

そのまま抱擁になだれ込みそうになった二人をかろうじて大野は制した。

「頼むから、もう少し周囲ってものを考えてくれ」
「へ?」
「は?」

松本はもう無理だとしても、こいつまで松本化してないか最近、と櫻井をにらむと、あ、と相手が声を上げた。
今にも抱きかかえようとしていた松本の腕をすり抜けて、電話を取り上げる。

「翔くん?」
「………もしもし?あ、ニノか?」

し、と唇に指を当ててこれまた腹が立つほど綺麗に微笑むと、櫻井は電話の向こうの声に軽くうなずいた。

「忙しいところごめん。実は蛇荷の視察を何時に決めたのか聞こうと思って」

電話の向こうできりきりした声が響いている。
大野は溜息まじりに松本を突いた。

「なに?」
「煙草よこせ」
「吸うの?」
「吸わなきゃ、この部屋から出られないだろ」
「あ」

大野はこのやりとりを知らぬこと、そう気づいた松本がにやりと笑って煙草とマッチをよこす。

「俺達二人にしちゃうの?」
「職場では襲うなよ」
「はあい」

部屋を出ながら、大野はやっぱり俺っていい上司だよなあ、と一人ごち、明後日に食らうだろう説教に覚悟を決めて昇り始めた月を見た。



第十一話
┗胸の中で鳴る歌と白い月

「っは、ああっ…」

掠れた声を上げて相葉は仰け反った。
背中から抱えられて貫かれながら、口を奪われ舌を吸われる。
開かれた脚の間に蹲った男が十分に育った相葉のものを深く強く吸い上げて、体中を震わせながら、声を封じられたまま駆け上がる。

「んっ、んっ、んううううっ……ああああっ」

激しく腰を揺さぶられて、堪え切れずに首を振り、声を上げながら身悶えた。
痙攣するように震える手足が空中で揺れる。
二人の男に貪られながら、朦朧として灰色の天井を見上げると、そこに幻の月が見えた。

「…に……の…っ…」

いつだっただろう、二人で月を眺めたのは。
煙る濃紺の空に浮かんでいた、細い脆そうな月だった。
ふんわりと優しく背中から抱かれて、その温もりにまどろむような気持ちで頭を二宮の肩に預けていると、そっと耳を啄まれた。
甘い愛撫。
相葉を酔わせ、憩わせてくれる、ただ一人の人の胸は遠くに消え去るばかりだ。

諦めて薄笑いし、自分の身体にむしゃぶりついている男の髪を探りながらねだる。

「………もっと……」
「あいかわらずだな、白鷺」
「いいのか、それほど?」

くすくす笑う男達に微笑を返し、目を閉じた。

抱かれる前に飲まされた『夢幻』は快く効いている。
男の違いなどわからない。
快感を全て二宮に与えられたものに摺り替えれば、何度だって駆け上がれる。

目を閉じた視界は二宮と同じだろうか。
二宮の失った視界に最後に映ったのが自分だったら嬉しかったが、それはもう確かめる術がない。
背後の男がまたゆっくり動き始め、相葉は眉をひそめた。

「あ……ああ……あっ………は……っ」
「絡みついてくるぞ、白鷺」
「……ん……うっ………は、うっ」
「またその気になってきたのか」

男が形を入れ替えた。
ぬめる舌が耳を探り、胸の粒を武骨な指が摘まみ上げる。
喉を握られ顎を上げられ、開いた口の奥まで舌が入り込む。腰を抱えた男が脚を開き、指で開くのさえ惜しむように直接そそり立ったものを突き入れてくる。
半勃ちの相葉のものを握りしめ、力委せに扱き上げる。

「あ、あううっ」

仰け反った身体の奥深くに入り込む、それでも二宮が付けた傷までは届かない。
濡れた音を響かせて出し入れされながら、快感とは違った思いに微笑んだ。

きっと誰も、二宮ほど相葉を傷つけられない。
二宮ほど相葉を狂わせられない。
二宮ほど相葉を安らがせることなどできはしない。

繰り返し何人もの男に抱かれながら、それは日増しにはっきりと感じる実感になる。
腕をねじ上げられ、一度に何人も受け入れても、それでも相葉の一番深く、一番強く、一番奥まで入り込めたのは二宮だけ。

「あっ、あっ、あっ…………ああっ」

扱かれ吸われ抉られれば、身体は勝手に追い上げられる。
快感を拾い、『夢幻』で増幅された感覚を受け止め、跳ね上がって反応し、男達を喜ばせる。



だが、それだけのことだ。

相葉はずっと胸の中で子守唄を歌っている。


もーりもいーやーがーる。
ぼんからさーきーはー。


あの寒い村で、次々人が倒れていく腐臭漂う場所で、痩せこけた小さな体を幾つ抱き締めただろう。
きつく力をいれるとぽきりと折れてしまうような細い腕を、脚を、あばらの浮いた胸を、温めるように懐に抱えて、その呼吸が止まっていくのをじっと最後まで感じていた。


ゆーきもちーらーつーくし。
こーもーなーくーし。


泣く元気のある子どもなどいなかった。
生まれてもう、これはもたないとわかるような青白い赤ん坊ばかりで、産み捨てるように仕事に薬に戻っていく親を求めて声を上げるものも、すぐに静かになっていく。
その子守唄は日本に来てから覚えたのだけど、聞いたとたんに涙が零れた。

死んでいった赤ん坊に流した、そしてそれを抱くしか力がなかった自分に向けた、最初で、最後の涙だった。


こーのこよーうなーく。
もりをばいーじーるー。


抱かれることに抵抗などない。
男に貪られるのも気にならない。
どれほど身体を虐めても、どれほど心を追い詰めても、相葉の凍り付いた闇には届かない。

あの村の夜、最後の一人の赤ん坊を抱き、死体転がる道をとぼとぼと村を離れていった、あの夜に見上げた月に囚われ動けない。
小さな口が、はあ、と最後の息を吐いた、その瞬間にも月は見事に明るかった。


もーりもいーちーにーち。
やーせーるーやーら。


人の死など瑣細なものだ。
悲劇も喜劇も同じことだ。
『夢幻』に狂う男も女も、わが子を見捨ててよしとする親達も、誰も相葉は責められない。

神がいれば『夢幻』なんぞ作らなかっただろう。
仏がいれば『夢幻』なんぞはたちまち滅ぼしてくれただろう。

けれどこの現実の世に『夢幻』は流通し、増え、人々を闇に狂気に追い落とす。

相葉のすることなど、それこそその流れの前では幻のようなものだ。
どれほど燃やし爆破しても、『夢幻』は人々が求める限りなくならない。
凍りついた心が疲れ切り、果てしない虚無に落ち込もうとするときに唯一支えてくれる温かな腕を失った今、相葉にはもう生きる術がない。

男達がまた形を変えた。
相葉を這わせ、後ろから貫きながら扱き上げ、声を上げる口に前から深く押し入れてくる。

「あ、あぐ……っ……ぐぅっ……うっ」
「どうした白鷺」
「これほどやられてもまだ欲しいのか」
「うっぐ………うっ」

唇から滴るよだれを喉から胸に塗りつけられ摩られる。
限界に揺れるものの根元を締め上げられて、なお深く揺さぶられ、籠った声で悲鳴を上げた。

「くうぅっ……ああっ」
「どうだ?もっとか?」
「お願い……」
「はっきり言えよ」
「もぉ……いかせて………っ」

切ない声で涙ぐみながら見上げると、男が切羽詰まった顔になった。

「あ、ああ」
「……く、ううっ…………あ、ああ……ああああーっ」

激しく追い立てられて何度目かの精を吐く。
それと同時に叩きつけられるように注ぎ込まれ浴びせられ、突き放すように引き抜かれて相葉は床に転がった。
咳き込みながら身体を竦める。
がたがた震えるのをそのまま放り捨てられて、振り返りもせずに笑いながら男達が遠ざかる。

その背中、喘ぎながら見開いた目に二宮の幻が見えた。
さすがに苦笑して目を閉じる。
べたべたに汚れた口元を拭う気力さえ残っていない。

昨日から身体の痛みがわからない。
人肌から離されたとたんに細かな震えが始まり、寒さに縮こまる。
予想以上に『夢幻』に心身を侵されている。

それほど、もたないか、と胸の中でつぶやいた。
読みでは5日ほどは持つつもりだったのだが、一番始めに後ろから『夢幻』を擦り込まれたのが効いた。
何とか色仕掛けでごまかして、衣類を取りに帰ったのは正解、ぼつぼつ自分で後始末ができなくなってきている。
それでも、蛇荷貿易の8割ほどは相葉の色香に溺れていて、頼めば多少は面倒を見てくれた。
けれど、それももう限界か。


どれほど震えていたのだろう。
少し意識が戻ってきて、のろのろと手をついて身体を起こす。
あっという間に細くなった手首に力が入らなくて、またずるりと寝そべった。
床に布団は敷いてもらえたし、周囲に掛け物も用意してもらえたが、そこに戻る体力さえなくなってきた。

「は……」

くたんと倒れたまま苦笑する。

「………も一度…………にのに………会いたかったな……」

できればもう一度だけ抱いてほしかった。

また白い月を思い出す。
暖かくて気持ちよかった、あの腕にずっといられれば、それだけで本当はよかったのだけど。

男達から聞き出した取り引き日時は『夢幻屋』を通して情報局に伝わったはずだ。
情報局が乗り込んでくれば、相葉は拉致されていた花魁白鷺として、しかも既に死んでいたとして始末されるだろう。
蛇荷貿易が『夢幻』を扱っているとの情報で踏み込んでみたが空振り、ただそれ以外の不審な取り引きが見つかったために交易免許取り消しとなり、蛇荷貿易は山風運輸に吸収される、そういう筋書きだ。
そして『夢幻』の取り引き自体は情報局の支配下に置かれながら蛇荷運輸に引き継がれていく。
そのためには、拉致されていた花魁が生きていては都合が悪い。
後々どんな災いになるかわからない。

言わば相葉は、捨て駒なのだ。

実際相葉の身体は『夢幻』と乱交でもうぼろぼろだ。
何とか生き延びても、この先長い療養が必要になる。
情報局にそんな部下を飼っておく義理はないし、そうして生き延びた果てに誰が待つわけもない。

「あー……やっぱりー…………もっかい………会いたかったかも……」

くふふ、と相葉は笑った。
裸で放置された身体が痛くて冷たい。
きっとあの子ども達もそうだったのだろう。

「差し引きぜろ………ってこと……かな……」

『夢幻』が切れてきたのだろうか、息苦しくなってきて相葉は喘いだ。
震えながら顔を両手で拭った。
唇は何度か強めに擦る。
嫌な味は消えない。
呑み込みかけた唾液を吐き捨て、こぶしを握りしめて胸に引き寄せ丸まった。
冷や汗が止まらない。
胸が激しく打ち始める。
かたかた勝手に震え出す体をのたうたせて呻く。

いつもなら、終わればそうそうに今井がやってきて何くれとなく世話を焼きつつ『夢幻』を補充してくれるのだが、今日はその気配もない。

もう今井も相葉には飽きたということかもしれない。

「は、あ……っ……あ」

ぼろぼろと涙が零れた。
霞んでいく視界の彼方に懐かしい顔の幻をまた見た気がして、少し微笑む。
白い月のような面立ち。
きれいで静かで整った姿の愛しい人。

「に………の…………」

目を閉じると、その顔だけが視界に残った。

「よか…た…」

ただそれだけにほっとして、相葉は闇に落ちていった。



第十二話
┗暗躍跳梁、魑魅魍魎

に……の……。

「ま、さきっ!」

甘やかな呼び声に激しく息を吐いて目を覚まし、二宮は悟った。
目をきつく閉じる。
視力を失ってから、自分の闇に怯えたことなどなかった。

もう限界だ。
情報局は動かない。

わかっていることだ。
はなから捨てる駒として投入された潜入工作員は自害用の毒を渡されて入る。
それでなくても、相葉はあれこれ情報局の裏側を知り過ぎているし、それを漏らした可能性さえある。
情報局が入ったら最後、息があろうとなかろうと死体の扱いをされるのは明らかだ。

「く」

きつく歯を食いしばって顔を覆った。

恨みがなくなったわけではない。
二宮の世界を破壊したのは紛れもなく相葉で、妹も視力も相葉が奪ったものだ。
このまま生かしておけば、相葉は何度でも二宮を裏切るだろう。

だが、それも相葉の生き抜いた地獄を聞かされた後では、その強さ激しさが掛け替えなく愛おしく、胸を揺さぶってくるばかりで。

「く、そ……っ!」

明日の夜には相葉の命はなくなる。

ただでさえ、滝沢からひどく痩せていたと聞かされた。
衣類を取りに戻ってきたのだが、屈強な男二人に付き添われているのが滑稽なほど細くなっていたと。

もとから華奢な骨格だった。
体つきはしっかりしていたが、抱きしめるとしなしなと崩れるように腕におさまる、実体の感じられない危うさがあった。
なのに、そこからなお痩せたという。

満足に食事をしていないのか。
それとも、それほどいいように弄ばれているのか。

二宮は目を見開いた。

限界だ。
もう、耐え切れない。

「誰か居るか!」
「はい、ここに」

すぐにふすまの向こうから声が応じた。

「出る、支度をしろ!」
「出来ております」

跳ねるように起き上がり、身繕いを整える。
形だけの懐中時計を投げ捨てる。

「何時だっ」
「もうすぐ5時に」
「召集をかけろっ、蛇荷貿易を視察するっ。書類を整えておけっ」
「済んでおります」
「なにっ」
「既に人員は揃っております、昨夜のうちに」

微かに笑みを含んだ声が続けた。

「情報局にくれてやることはありません」

きり、と二宮は歯を鳴らした。

「………そうだな。では………」

ふいに荒々しい喜びが胸を満たした。



「全て奪いに行こう。喜多の顔を青ざめさせるほど、な」

情報局の電話が鳴った。
早朝にも関わらず、局には大野櫻井を始めとする顔が揃っている。
受話器を取り上げた大野が響いた声ににやりと笑って櫻井を見た。

「ニノが動いた」
「………」

無言で櫻井が黒コートを閃かせながら局を出ていく。
その後に続々情報局の精鋭が続く。行き先は山風運輸。
二宮が蛇荷を叩くのと同時に、かねてより入り込ませていたものからの情報に従い、倉庫の抜き打ち検分に入る。
蛇荷を叩く二宮の陽動を兼ねて、『夢幻』ルートの掌握と追い出しにかかるのだ。

だが、櫻井を筆頭とするその一群の中に松本はいない。

大野は受話器を一旦置くと、別の番号を回した。
すぐ出た相手の脳天気な明るい声に溜息まじりに命じる。

「動いたぞ。翔くんはもう出た」
『さっすが、ニノ!早起きだわ』
「しくじるなよ、松潤?」
『誰に言ってんの、誰に。じゃ、いってくる』


松本の向かった先は大宮物産。

「ううー、さむい、おはようございまーす」
「は?」

大宮物産の夜勤警備員が訝しげに顔を上げるのに、肩を竦めて体を摩りながら松本は笑いかけた。

「あ、遅れちゃいました?俺」
「何、あんた」
「あれ?聞いてませんか?今朝から交代勤務に入る松本ですけど」

笑みを零すと、相手は不審そうに眉を寄せた。

「聞いてないけど」
「えーっ、そんな、俺せっかく早起きしてきたのに。飯もまだなんすよ!」
「知らねえよ!」
「確かめてくれません?」
「まだ誰もでてこねえよっ、何時だと思ってる、まだ6時だぞ、6時」
「じゃあ、何時頃出てこられるんです?」
「早くて7時………重役なら8時回るな」
「じゃ、じゃあ、それまで中で待たして下さいよ」
「わけのわかんないやつを入れるわけにいかねえだろうが!」
「じゃ、この守衛室でいいから!ね、ほら、この握り飯だけ食わして?」

懐から出した竹皮の包みを振り回すと、相手がやれやれと言った顔になった。

「そいつ食うだけか?」
「あ、できれば便所も貸して! 寒くって寒くって、もう漏らしそうで!」
「上も下も一緒かよ、どうしようもない餓鬼だな!ほらよっ、便所はそこだ」
「あ、すいませーん」

竹皮の包みを手にのこのこ便所に入ろうとする松本に相手が嫌な顔をした。

「それ持って入んなよ、ここに置いておけ」
「あ、そうですね、どーも」

進められて警備員の座っている机に包みを置き、いそいそと便所へ飛び込む。
扉を閉めて間もなく、ごとごとごとごとと鈍い音が響いてきた。

「なんだ……?」

不安そうな声ももっとも、机の上の竹皮包みがぶるぶる震えて動きだしたのだ。
それを背中にのんびりと小用を足し出した松本に、警備員が声をかけてくる。

「おい、何かおかしいぞ、これ」
「え、なんすか?」
「何か、動いてるぞ」
「動くわけないでしょ、握り飯が」
「いや、でも確かに……なあ、おい、ちょっと見てみろ」
「急に止まるもんじゃないって」
「早く済ませろっ」
「ったく、ポンプや水道じゃないんだから」

ぶつぶつ言いながら扉を開けて出ていくと、警備員は強ばった顔でじっとごとごと動く包みを凝視している。
松本の気配にほっとした顔で振り返ったとたんに、大きく口を開けた。
だが、既に遅かった。
思いっきり派手に松本に殴られて床にのびる。

のびた警備員の服をさっさと剥いで縛り上げ、猿ぐつわをかませて便所の中に放り込むと、松本は包みを取り上げた。
何のことない、中身はゼンマイ仕掛けのおもちゃで手を離せばゼンマイがきれるまでごとごと動くだけの代物だ。

奪った警備員の制服を着込み、懐にそれを入れて机についたとたん、道路の向こうに自動車のライトが見えた。

「ぎりぎり、だったかな?」

薄く笑って帽子を深めに被る。
出入を記載したノートに屈み込むふりをしていると、重い音をたてて近づいてきた自動車が止まり、運転席から男が一人降りてきた。
助手席にもう一人だけ、二人ともひどく慌てた顔だ。

「おい!」
「はい?おはようございます、何でしょう」
「八草さんを呼んでくれっ」
「は?八草?通信の八草でしょうか、事務の八草でしょうか、企画の八草でしょうか」

すっとぼけて聞いてやると相手がいらいらと声を張り上げた。

「八草俊二だっ!いいから呼べっ、こっちは急いでるんだ!」
「ああ、八草、俊二さんね。あ、でも、今朝はまだお見えになってないんですよ」
「ちっ………まず安全だと言ってたからな………仕方ねえ、東方観光の大西に連絡をよこせと伝えろ、わかったなっ」
「あ、はい、じゃあ、すぐに」

男は慌てて自動車に戻っていく。
名簿を調べながら松本が頭を下げると急げ、と手を振って、自動車のエンジンをかけた。
そのまま走り出していく自動車に、松本がちらと鋭い視線を近くの茂みに走らせる。
茂みから立ち上がった男がうなずいて、自動車の後を追い掛けるのに薄笑いして、松本は八草俊二に電話をかけた。

「もしもし、朝早くからすみません。東方観光の大西です」

電話の向こうの男はひどく驚いて、なんだ、手違いか、と唸った。

「どこかから情報が漏れました、蛇荷に港湾局が入って、山風に情報局が乗り込んでます、どうしますか」

大西は逡巡したが、決断は早かった。
わかった、今夜に俺が引き取ろう、今夜ならまだ港湾局も情報局も動かないだろう、と応じてすぐに切れる。

「あまーい」

松本はにやにや笑いながらもう一度受話器を取り上げた。

「もしもし、キャプテン?面白いものが引っ掛かった。大宮物産も噛んでる。八草俊二ってのが請け負ってるみたいで、蛇荷に流れそこねた品物、今夜大宮物産に渡りそうです。東方観光の大西ってのも調べておいてください。手柄もう一つぐらいあげりゃ、あんたの首も繋がるでしょ?」
第六話
┗騙し合いと騙され合い

「今井さん」
「はい?」

地下室へ戻ろうとした今井を亀梨が引き止めた。いぶかしく振仰ぐと笑ってるんだか笑ってないんだかわからないような曖昧な目を眼鏡の奥で細めて、こちらを手招きしている。

「何?」
「ちょっと見てもらえませんか?」
「は?」
「気になる人が来てて」

ひょいと視線を移す。壁に掛かった布の向こうには小さな穴が開いている。そこから壁一枚を隔てた来客用の応接室の絵画の目を通して、来客者の素性を確かめることができる。

「今、赤西が応対してるんです。華族だって言うんですが、年鑑にも載ってないし」
「僕にはわからないでしょう、華族なら」

唇の片端を上げながら皮肉る。

「何せ地下で夢をむさぼる『もぐら』ですから」
「その『もぐら』の方の知識を頂けないかと」
「裏社会の人間?まさか、こんな昼間っから、正面切って乗り込んでくるような……」

いいかけて今井は顎に手を当てた。思い出したのは数年前の大陸での一悶着だ。『夢幻』絡みだが、当局にも鼻薬を嗅がせてすんなりと通ったはずの仕事を引っ掻き回された覚えがる。

「……あれも真っ昼間に乗り込んできたか」

つぶやいて我知らず溜息をつく。

とにかく眩しい男で、やることは汚いのにやり方が堂々としているあたりが性質の悪さを物語っていた。もっとも、こちらもぱっと見には優男に見えたし、表面だけの官僚視察と甘くみたのがまずかったのだが。

もし、あの男だったとしたら、確かに蛇荷に『夢幻』が動いてると知れば昼間から妙な手を打ってこないこともない。そうして、あの男の後ろには剛直一本、引くことを知らぬ櫻井が居る。櫻井が出てくれば、遅から早かれ、蛇荷が叩かれるのは時間の問題だ。

どのあたりで引くかと算段し始めながら、今井は階段を昇った。亀梨の示した覗き穴に目を当てる。

部屋の中には洋風の応接間に凝った刺繍のソファが配されている。テーブルも飾り棚も欧州輸入の一目みて金がかかっているとわかる代物だ。そんなものをさあどうぞと見せびらかす部下の神経にはうんざりだが、そこにちんまりおさまっている男にはなおうんざりした。

生白い顔。濃い茶色のスーツにこれ見よがしの金時計、ネクタイまで黄金色というのはどうにも頂けない。くわえて髪の毛はふわふわと半端に解き流して、固めてもいない。どこから見ても苦労しらずのぼやんとしたお坊っちゃん顔はすべすべして、細い指先も荒れていない。

「どうですか?」
「さあ………覚えはないですねえ」
「………じゃあ、言う通り、東山さまの御子息の一人なのかな」
「何の用なんです?」
「珍しい本を取り寄せたいって言うんですよ。貴重な本で『極彩色熱帯魚図鑑』の続きものだとか」
「………」
「ええ、そうなんです」

 今井が眉を上げて、亀梨はうなずいた。

「『熱帯魚』は合い言葉ですからね。さっきから赤西が真意を探り出そうとしてるんですが、これがのらりくらりと話をうまくかわされてばかりで」
「ほう………赤西が」

今井は改めて男に視線を注いだ。

にこにこ無難に笑っている顔は目を見張る美形というのではないが、どこか妙な色気がある。ときどき伏せてちらりと上げてくる視線に見られるたび、赤西がうっすら赤くなって微妙にうろたえている。

赤西とて、伊達や酔狂で蛇荷貿易の表の顔をつとめているわけではない。客の選別もまかされているのだが、この客ばかりは扱いあぐねているようだ。

「東山さまの方は?」
「それがただいま商談にお出かけとかで。夕刻過ぎないと帰られないそうなんですが、あの方もどうしても取り寄せできないのなら、山風運輸に頼みにいきたいと」
「ふうむ」

 山風運輸も『夢幻』を動かしている。だが、珍しい書物の取り寄せとなると、このあたりでは山風か蛇荷、少し足を伸ばして大宮物産ぐらいだろう。

「僕が出ましょう」
「よろしいですか」
「ちょっと………気になることもありますから」
「よろしくお願いします」
「ああ……もし、十五分たって帰らないようなら、お茶、入れ替えて下さい」
「は、ああ、はい、わかりました」

 亀梨がうなずくのを背中に今井は通路を通り抜けた。

小部屋の鏡で身だしなみを整える。鬚はいいとして乱れ落ちた癖のある髪は整髪料で軽くまとめ、黒シャツ黒ネクタイ黒スーツのいかにもうさんくさげな格好ににやりと笑った。
まずはどう反応するかを見るつもりだったが、ふと窓の外に目をやって、正面のかふぇを通り過ぎる懐かしい顔を見かけて目を見開く。

「おやおや………松本さん」

忘れもしないあけっぴろげな明るい笑顔は変わっていない。通りでぶつかりかけた小僧にしゃがみ込んで説教し始める姿を見ていると、相手の視線がちら、と一瞬鋭い光を帯びてこちらを見た。
今井の姿はカーテンの影で見えなかっただろうが、明らかに仕事中の殺気を漲らせた視線、それもたまたま蛇荷貿易を掠めたというのではなくて、小僧と別れてからのんびりと煙草を銜える、その視線が何度かこちらに投げかけられる。

「……なるほど」

 く、と今井は笑った。

「いらっしゃってるのは、お仲間ということか」

今井がここにいたことが不運だったのか、松本の勘が平和な日本で鈍ってしまったのか。大陸ではぎらぎらした刃を前にしているような気がしたものだが。

「なら、さっさと動かねえとやばいな」

今井が有利なのは、こちらが松本の関与を知っているというその一点でしかない。正体がばれているとなれば、もっと素早く容赦ないやり方に出てくるだろう。それで大陸では散々な目にあって、結果、組織を一つ手放さなくてはならなかった。

「亀」
「あ、はい?」
「お茶、すぐに下さい」
「というと?」
「あれは潜入工作員でしょう。どこまで何を知ってるのか…………吐かせてみます」
「よろしくお願いします」

亀梨が頭を下げるのに、今井は薄笑いを浮かべてネクタイを締め直した。

「で、僕、本当にかんどーしちゃって!」
「はあ」
「ほんの僅かな水温や育て方の違いで、そりゃあ、全く発色が違うんですよ!」
「は、あ……」

目の前の顔の男はぼんやりとうなずいた。

無理もない。もう延々30分は『熱帯魚がどれほど素晴らしいのか』について聞かされ続けているのだ。

「お父様に頼んで、ぶっひゃ、とかべりめろすとか、取り寄せてもらったんですけど、そーだなー、水槽が一部屋占めてます」
「は…………あ………あ?今井さん?」
「はい?」

幽体離脱一歩手前じゃないかと言うほど惚けていた相手がふいに我に返って背後に呼び掛け、相葉も振り返った。

「こんにちは………お魚について詳しい方が来られたとかで、お話に加わりたいとつい」

 全身黒づくめの男だった。細身仕立てのスーツもネクタイもシャツも黒い。それぞれに織りが違っていて高価なことはわかる。顔に微笑みを浮かべ、声は高めで優しい。

「ああ………初めまして、僕、東山雅紀といいます。今井……?」
「いや、もう名乗るほどのものでは……今井と呼び捨てて下されば」

立ち上がって差し出した相葉の手を如才なく今井は握り返した。

「よろしいですか…………あ、赤西、新しいお茶をお願いしたいのですが」
「え、ああ、はい、承知しました」

赤西がはっとしたように立ち上がり、そそくさと部屋を出て行く。その後姿を見送りながら、相葉はゆっくりつぶやいた。

「へえ…………今井さんってこちらに長くいらっしゃるんですね。それとも、こちらとの取り引きの?」

くるりと振り返ってにっこり笑ってやる。

ソファの方へ移動していた今井が一瞬動きを止めたが、にこやかに笑い返してきた。

「どうしてですか?」
「いえ………赤西さん、こちらの番頭のようなもの、とおっしゃってたからー。番頭の上となると、大番頭、あるいは御主人ぐらいですよねー?」

 にこにこしながら相葉もソファに腰を降ろす。

「ああ、なるほど。これは鋭い。いや、そうですね、まあ言えば、海外担当と申しますか」
「ああ、そうなんですか」

今井が鋭い視線を返してきて、相葉はなおにこにこした。

「じゃあ、僕の欲しいものは今井さんにお頼みするといいのかな」
「そうですね、何をお望みなんですか?」
「えーっとね、赤西さんにもお話ししてたんですが、『極彩色熱帯魚図鑑』の改訂版が出たって聞いたんですよ。前のうぃんぐ・ぱるさー社のは持ってるんですが、新しいのがどうしても欲しくなって」
「ああ、なるほど」

今井が笑みを深める。

「それはひょっとすると、うぃんぐ・ぱるさーではなく、どりーむ・いりゅーじょん社ではなかったですか?」

相葉は目を細めた。今井は微笑みの顔を保ってはいるが、目は笑っていない。

「うーん、そーだったかな」
「外国のことばは難しいですからね。覚え間違いだったのでは?」
「あの」
「はい?」
「僕、何だか脅されてるみたいな気がしちゃうんですけど」

へらんと笑うと相手がゆっくり腕を組んだ。それが癖なのか、顎に指先を当ててこちらを覗き込むような仕草をする。

「心外ですね」
「そうですか?僕って、ほら、いろいろすぐ不安になるたちで。夜眠れなくなることもあるんですよ。心配だったり、調子が悪かったりするとすぐ、ね、いろんなものが欲しくなって」

相葉は唇に当てた指を滑らせた。ちろ、と舐めてみせながら微笑む。

「きっとできそこないなんですよ」
「そんなことはないでしょう」

今井は微笑を崩さない。

「あなたは…………ずいぶん賢い方のようだ」
「そんなこと言って頂いたの初めてです。ありがとう」
「本当に欲しいものは何ですか?」
「言ったら、くれる?」

唇に指を差し込み、舌で嬲った。相手の視線がそこに引き寄せられるのを確かめて、軽く吐息をついて指を離し、困ったように呟いてみせる。

「僕……一人で寝られないんです」
「ほう……」
「それも、誰かを抱いていたいんじゃなくて、抱かれていたい方」
「………」
「でも……そう誰もが応じてくれない………だから、お薬に頼る。気持ちよく眠れますもんね?」

立ち上がると今井が追うように視線を上げた。

「ぼちぼち………なくなるんです、お薬」

すう、と今井の視線が落ちて相葉の手に向かう。その視線の先にある手が微かに震えているのを相葉も感じていた。だからこそ、あえて晒すように立ち上がったのだ。大野が用立てた『夢幻』はほぼ使いきりつつあった。後はそれこそ、山風からでも手に入れるしかない。

「欲しいんですか?」
「はい………欲しいです」

今井が立ち上がった。そのまま相葉に近づくのかと思いきや、側を通り抜け、背後の扉へ向かって、そこで茶を受け取って戻ってくる。テーブルにそれを盆ごと置いた今井の手を相葉は捉えた。半身振り返る相手をじっと見つめて甘え声でねだる。

「あなたが………くれる……?」
「何を?」
「まずは………唇から……」

体を寄せた相葉の顎を今井が掴んだ。舌を待って開いた相葉の口へ、ためらいなく唇を重ねてくる。
滑り込んでくる舌が容赦なく口の中を探り回って、『夢幻』が切れかけ敏感になっている相葉の感覚を見る間に煽った。

「っん、んんっ」

何度か繰り返し重ね直されて上がり始めた息に喘ぎながら目を開くと、今井がじっとこちらを覗き込んでいた。

「情報局に白鷺という花魁がいるそうですね?」
「っ」

 体を引き寄せていた龍村の手がするりと滑り降りた。

「男のくせに、女に負けないいい体を持っていて」
「っあ」

勃ちあがりかけていた相葉の前をゆっくりと摩り上げる。

「敏感で、淫乱で」
「…っ……あ、ああっ」
 囁かれながら耳から首筋に口を落とされ吸い付かれる。思わず崩れそうになってすがりつくと、相手が強く上半身を抱き込んでくる。煽り立てるもう片方の手に体が揺れて跳ね上がるのに唇を噛んで首を振る。

「けど………その人が『夢幻』中毒で、こんなに容易くこっちの手に落ちてくれると思いませんでしたよ」
「……うっ」

限界近くまで一気に追い上げられてよろめいたところへ、素早く近づいた口が相葉の口に茶を流し込んできた。びくりと大きく体が震える。その味にはこの数日でなじんでいる。

「『夢幻』………」
「よくご存知でしょう? けど、これは改良作………どこかどう違うかは」
「っは、あ……っ」

もう一度口を吸われ、舌で犯され、すぐに気づいた。炎の立ち上がりが数倍早い。疼く体を抱えて撫で回されただけで声を上げて身悶えてしまう。スラックスの前を開かれ、下着を濡らし始めていたものを引きずり出され、直接に扱きあげられて悲鳴をあげる。

「あ、あ、ああっ」
「いい声ですね? ………感度もずいぶんよさそうだ」

容赦なく追い立てられながらスラックスを引き落とされる。崩れそうに震える脚にしゃがみ込んだ今井の肩にすがると、そのまま腰を引き寄せられてずぶりと深く含まれた。

「……うくっ……ああっ………っっ」

温かな口でしゃぶり回される。腰を揺らせる相葉の後ろに指が這う。柔らかな手付きで広げられて、細い指先が滴ったぬめりを押し入れてくる。弱い部分はすぐに見つけられた。繰り返しそこを探られながら、巧みな舌を這わされて、相葉は堪えきれずに呻いて放った。まるで特別な飲み物でも口にしたようになおも吸い付かれ、引こうとした腰を強く押されて銜えこまれ、身をよじってもがく。

「や………ああっ………っっはぅ…っ」

次々に駆け上がってくる快感に視界が白く霞む。限界を越えているはずなのに、なお追い上げられて仰け反りながら悲鳴をあげる。後ろを犯した指がふいに深くねじ込まれた。

「あ………ああああっ……ああっ……ああ!」

ずきり、と鋭い白い刃に意識を切り裂かれた気がして、相葉の体から力が抜けた。



第七話
┗罠にはまった一人の男

少し気を失っていたのだろう。

気がつくと、相葉はいつの間にか薄暗い部屋に連れ込まれていた。 ひんやりした空気から地下室らしいと見当をつける。コンクリートで囲まれた箱のような部屋、留置場のような鉄格子が数カ所に区切っていて、その一室にスーツを剥がれ、カッターシャツ一枚で手錠をはめられ拘束されている。シャツの下の素肌が空気に晒され粟立っている。

両腕を上げて座り込んだ状態で鉄格子に張り付けられている相葉の前に、今井が冷ややかな笑みを浮かべてしゃがみ込んでいた。

「さあ……話してもらいましょうか、白鷺さん」
「何を…でしょ?」

 まだ少し整わない呼吸で尋ねた。

「確かに僕は白鷺だけど……どうしてこんなこと、するの?」

今井に不安そうに笑いかけてみせる。

「さっきのは………凄く気持ちよかった……でも」

周囲を見回して溜息をついた。

「僕、抱かれるなら、もっと柔らかいとこの方がいーんだけど」
「……思ったより、強いんですね、あなたは」

今井が低く笑う。

「それはそれで楽しい……まあ、ゆっくりと吐いてもらいましょう」

「ちょ、ちょっと待って」

ゆらりと立ち上がった相手が掌にさらさらとした粉を落とすのに、相葉は目を見開いた。

「それって………『夢幻』……?」
「そう。欲しかったんでしょう?」
「いや、でも、ちょ…………あ、ああああっ!」

今井は掌に落とした粉を指に擦りつけると、相葉の脚を開いた。背後には格子、体を引く空間もなく脚を持ち上げられ、晒された後ろに『夢幻』をまぶした指を突き込まれて悲鳴を上げる。二宮に傷つけられた部分はもっと奥ではあるけれど、それでもまだあちこち傷が残っている状態、そんなところへ『夢幻』を擦りつけられては一気に血液に薬が入る。ただでさえ飲むより吸収のいい腸管に押し込まれているのに、そこに傷があってはたまらない。

「う、うあ、ああっ!」

強く擦りつけられ指を回され、焼けるような痛みに叫ぶ。竦んだ相葉に容赦なく脚を広げさせたまま、一旦引き抜いた指に今井がまた『夢幻』を絡ませる。濡れた指に白い粉がべっとりとまとわりつくのを見せつけて、そのまま相葉の後ろへねじ込んだ。

「やっ、やめっ………あっあああっっ!」

必死に抵抗するのも虚しく、なお多くの『夢幻』を擦り込まれて相葉は絶叫した。ぞくぞくと駆け上がる悪寒、すぐに乱れて激しく打ち始める心臓、息が上がって胸が苦しい。硬直した脚をなお引き上げられて、今井の指が相葉の中を蹂躙する。増やされる指が弱いところを何度もひっかいていくが、かき回される指の感触はまるで巨大なすりこぎを突っ込まれている感覚、本来なら快感につながるはずの刺激がきつ過ぎて吹き零れた涙と一緒に吐き気が込み上げる。

「ぐ、うっ、うあっ、あっあああっ」
「言いなさい、どうしてあなたはここへ来たんですか?」

熱く籠った声が命じた。喘ぐ相葉が首を振るのに、なお指を回して中身を抉る。耳鳴りがして、がしゃがしゃと耳障りな金属音が頭上の手錠から降ってくるのがみるみる遠ざかっていく。

「あっ……あふっ……くうっ、う」
「白鷺さん?」

 視界が眩んで俯き喘ぐ相葉に、今井が呼び掛けてくるがそれに応えることすらできない。

「…………あなた………怪我してるんですか……?」

快感に狂うというよりはいきなりぐったりと身動きできなくなってしまった相葉に、今井も不審を感じたらしい。指を引き抜き、しばらく沈黙した後、ぼそりとつぶやいた。

「血まみれになってる」
「う……くっ………」
「大丈夫ですか?」
「うっんっ………っは」

息を荒げる相葉の顔を掬いあげて覗き込む今井の顔が僅かに白くなっている。

「……だから……待って…て………いったのに……」

朦朧としながら、相葉は弱々しくつぶやいた。流れ落ちる汗が唇に落ちてくる。苦痛に噛み切ったのか、ぴりっと染みて顔をゆがめる。

様子がただ事ではないと思ったらしい今井が、とろんと見上げた相葉に少し息を呑み、やがて引きつった顔になっておどおどと謝った。

「………すみません」
「……もー………」

『夢幻』のせいで感覚も鋭くなっているが、痛みは鈍くなっている。目を閉じ眉をしかめて堪えていると少しずつましになってきた。『夢幻』を多少なりとも服用していて幸いだった。もし、初めてこんなことをされたら、急性中毒で死んでいるところだ。

もっとも、予想していないことではなかったが。

乱れた呼吸を繰り返していると、今井が唇を重ねてきた。舌を這わせる仕草が優しい。相葉の唇を舐め回し、首筋の汗を吸い取ってから、掠れた声でつぶやいた。

「………ひどい抱き方されたんですね……」
「あなたが言うの………間違ってるよぉ……」
「………それは……そうですが………」

今井は奇妙な顔をしながら、そろそろと相葉の体を拭った。下半身が妙にべっとりしていると思ったら、再度出血してしまったらしい。

「ね?………ついでに手錠外して?……逃げられっこないし……」
「まあ……はい」

固い金属音が響いて両手が自由になった。そのままくたりと今井にもたれ掛かると、相手が硬直する。

「…なに」
「いや………まさか懐かれるとは」
「懐きたくて懐いてんじゃないもん………うー………吐きそう」
「え!」
「どんだけ………使ったの……『夢幻』………」
「……あ………えーと……すみません……」
「悪いけど………しばらく抱いててくれない?………くるし……」
「あ、はい」

妙な展開に飲まれてしまったのか、ごくりと生々しい気配で唾を呑んだ相手が我に返ったように、ゆっくりと相葉の背中を摩り始めた。

「あ、それ楽かも……」
「楽ですか」
「ん……」
「大丈夫ですか」
「なんとか……はぁ……死ぬかと思った……ひさびさに」

今井が、またこくん、と喉を鳴らす。熱っぽい目で喘ぐ相葉を見つめ、軽く喉に吸いついた。動いた舌に小さく呻くと、ひくりと震えて抱く腕に力が籠る。相葉は笑って片手を相手の股間に滑らせた。ぎくりと固まる相手に掠れた声で囁いてやる。

「元気になったら抱いてもいーから………」
「あ、はい?」
「どして……いきなり情報局だのって……?」
「ああ、だって」

今井が居心地悪そうに腰を揺らす。相葉の指先から逃れ損ねて、勃ちあがったものを撫で回され、唾を呑み込み小さく息を吐いた。

「外に松本さんを見かけて」
「あら…」

松潤のばかとつぶやいて見せると、今井が体を起こさせた。思い詰めた顔でまた口を寄せてくるのに、微笑んで口を合わせる。舌を滑り込ませて、入ってきた舌を弄ぶ。相葉がその気になって煽られない男はまずいない。

「っん、おいし」
「っは」
「僕今こんな状態だから」

相葉はにんまりと笑った。

「口でごほーししてあげよーか」

今井は目を見開いてためらい、やがてゆっくりうなずいた。



第八話
┗力とそれを操るもの

「……っん」

相葉と入れ替わって鉄格子にもたれた今井の、スラックスから引きずり出されたものを、相葉はゆっくり口を開いて銜え込んだ。今井を誘惑するためだけではなく、身体に入れられた『夢幻』がじわじわと熱を追い上げてきている、その熱を逃がすためもあった。

「ふ……」

ちらっと目を上げると、相手は食い入るような目で見下ろしていた。目を伏せながら口を半開きにし、入り込んでいるものを舌を絡みつけながら見せつけてやる。ごく、と唾を呑んだ相手の気持ちに素直に反応して、また嵩を増やしたものが口に入り切らなかったふうを装って、眉をしかめて呻いた。

「あ……う……っ」

喘ぎながらもがいて舌を押し出すように顔を引くと、今井が頭の後ろを押さえた。そのまま頭を押さえつけながら腰を進めてくるのを、今度は諦めたように舌を伸ばしながら喉深くまで受け入れる。

「うぐ…う……っ」
「どうしました?さっきの強気はどこへ行ったんです?」

今井が薄笑いを浮かべて腰を揺らし、口の中を膨れあがったもので満たされて、相葉は目を閉じた。

眉を潜めながら舌を動かし、奥を突かれて呻き、瞬きして懇願するように今井を見上げる。どきりとしたような今井の顔を目を潤ませて見つめれば、相手が逃がすまいとするように一層強く頭を押さえつけてくる。

「くふっ」
「もっと奥まで……」

命じる声が掠れてきた。その今井の気持ちを煽りながら、口を犯しているものを自分で気持ちいい部分に銜え込むことで快楽を拾う。

「う…うぅ……っ」

低く今井がうなった。相葉の唇から零れ落ちたよだれが滑り落ちて喉を這い胸へ流れる。相葉が喘ぐのに煽られて、ゆっくり頭を押さえたまま今井が腰を動かし始める。

「何もの……なんだ…あなたは」
「あ…むっ…」
「なんて……顔するんですか…」
「は…ぐっ……う……」
「こっちが………たまら……ない…」

相葉は眉を寄せて今井のものを舐め回しながら、伝ったよだれで濡れた胸に自分の指を這わせた。ゆっくり摘んで嬲り、立ち上がってからはよだれを指に絡めてくすぐり高めていく。もう片方の手は下に降ろして、汚れ濡れたものに絡めて扱き始める。
濡れた音が相葉の口と身体から広がり、コンクリートの壁に響いて異様に大きく聞こえた。

「とんだ淫乱だ……」

今井の嘲笑う声に軽く首を振ってやった。泣きそうな顔を演じるのはお手のもの、流れてくる汗に目を閉じ、腰を揺らせて、勃ち上がったものを握り強弱をつける。

「あ……っ」

ひくりと身体が震えた。
思い出したのは二宮の指。忘れ切っていたと思った手順、甘くて柔らかくて容赦がない指の動きを思い出して、相葉は自分の声が濡れたのを感じた。

にの。

胸の中でつぶやけば、粒がしこり、二宮の舌を待ち望む。そこを濡らした指で軽く撫で摩ると、舌の感触を甦らせることができて、相葉は身体を震わせた。
演技だけではないくらりとした波が頭に広がり、痺れを産む。それが舌の愛撫にも繋がったのか、

「う……おっ……」

今井が切羽詰まった呻きを上げて相葉の頭を抱えた。苦しげに眉を寄せて呼吸を荒げる。がたん、と鉄格子が鳴ったのはよろめいた今井が身体を打ちつけた音、その音にさっき手錠で縛られたまま抉られた感覚が甦り、相葉は唇を上げた。
今井のものをより深く銜え込み、それが無理に自分を犯し、敏感なところを攻め立てられていると想像する。縛られ拘束され逃れようのない快感に晒されている、と。

「んうううっ」

その手順は二宮が教えたもの。ぎりぎりまで追い立てて、なのになかなかイかせてはくれなくて、何度もねだって懇願して待って焦れてするうちに、意識に霧がかかって視界が霞む。縛りも拘束もしないけれど、二宮の柔らかな声で

「だめ、雅紀」、

そう命じられるだけで相葉は縛られたも同然だ。上からも下からも切ない涙を絞り出しながら、いいと言われるまで耐え続けるのがまた壮絶な快感を産む。

「んっ……んぐ……っ…んっん」

まだだよ、雅紀。
うん、にの。
もう少し我慢。
うん……にの。
もっと鳴け。
うん…うん…にの……。

命令は絶対、一度耐え切れなくて零してしまったら、その後イかされないまま延々と責められ続けて、さすがに意識が擦り切れそうになった。

けれど、その後はいつもうんと優しくて。全てを手放して眠り込む相葉をじっと抱いててくれたことさえあって。目が覚めたときに綺麗な額に髪を乱して眠る顔に驚き、ひどく嬉しくて、起こさないようにそっとまた胸に潜り込んで眠った、至福の時間。

「ぐ、うっ……んぅ…っ………んう」

胸を突き上げた切なさに一つ顔を振って現実に戻った。

今井のものを何度も吸いあげ、舌を這わせる。ひくひく動き始めるのを軽く噛み、尖らせた舌で先端を探り突き立てる。

「う、うあっ……あ」

今井が堪え切れぬように叫んだのをいいことに、身体が揺れたふりをして口を放した。弾けたものが音をたてて顔を横切り、喉から胸へ散るのを受け止めながら、自分もしごき上げて駆け上がり、

「はあ……う……ぅうっ」

声を上げて仰け反りながら放つ。今井が朦朧とした顔で見下ろす足元に倒れる相葉の身体は自分のものと今井のものでべとべとになっている。
なおも寝そべったまま、股間のものを絞りながら、胸を弄り、切ない声を上げて身悶えてみせた。

「あ……ああっ………あ」
「ふ……う……っ」

ゆらっと鉄格子から体を起こした今井の目に獣の火が灯る。

「なに………してるんです……」
「う…んっ……だってー……う、ふっ」

浴びせられたものを掬い、身体に塗りたくる。自分のものも濡らしたまま、なお弄んでいると、再び勢いを取り戻して勃ちあがりはじめた。

「『夢幻』……使われたちゃったから……辛いんだよ……っ」

はあ、と息を吐きながら腰をうねらせた。さっき嬲られ傷つけられた後ろが今井の前でゆらゆら揺れて、それに相手が目を奪われているのを感じとりながら、

「今井さん……もう……だめでしょ…?…いっちゃったもんね…ぇ…っ……だから……っは」
「馬鹿にしないでください」

今井が低くうなって、体を起こした。スラックスを脱ぎ落とす。反応し始めたものを見せつけるように相葉の側に近寄って仁王立ちになる。

「あなたぐらい、どうとでもできる」
「………どう……とでも…?」

相葉は濡れた指を口元に運んだ。今井の目を見返しながら、指を舐め回し、それを顎から喉、首の付け根と滑り降ろしていく。胸を嬲って微かに喘ぎ、腹から脇へ動かして身をよじり、へそへもどって脚の付け根へと辿りながら、乱れ始めた呼吸で呻いた。

「は……う…っ……あ………どう………してくれる……の……?」

勃ちあがったものは新しい涙を零して揺れつつある。それを放置して相葉は両手を股間に降ろした。
ぬめりを掌で広げながら右膝をゆっくりと抱え上げ、開かれた場所にもう片方の手の指を埋める。

「あ……うううっ」

さすがに痛みがきつくて、視界が滲んだ。息を荒げながら、それでもずぶずぶと指を埋め込み、今井を潤んだ目で見上げる。

「んっ…だめ…かなぁ…痛い…よぅ……」
「あたりまえ、でしょう。さっき、怪我してるって言ったじゃないですか」

茫然とした顔になった今井が、誘われるように膝を落として跪き、相葉の指を引き抜こうとする。
それに抵抗してなお深く自分で差し込もうと力を入れた指が、勢いよく突き刺さり、相葉はまた悲鳴を上げた。

「あ…あっう…ふ…くぅん……っ」
「ばか、そんなことしたら」
「だって……っ……足りないん……だもん……っ」
「やめなさい、また血が」
「ひぃっ」

力まかせに今井に抜かれた指に内側を強く擦られ、相葉は芝居ではなく仰け反った。激痛が走り、とろとろと濡れたものが滴るのを感じる。

「あ…うんっ……」

泣きながら今井を見た。

「たす…けて……っ………今井さん……っ」

今井が大きく体を震わせ、目を大きく開いて息を呑む。それから突然、吊られた糸が切れたように相葉の股間に覆い被さった。脚を大きく開き顔を埋める。傷ついた後ろに温かな舌を感じて、相葉は小さく鳴いた。

「あ…あっ……今井、さ…ん…っ」
「もう…無理だ……だから……」

くぐもった声が苛立ったように戸惑いを宿して続く。

「私が……してあげます………どうすればいい……?どうすれば………楽になります…?」
「舐めて……もっと………ああ……舌……入れて……くふっ………んうう……」

両膝を押し上げられ、相葉は今井の舌に舐め回されながら喘いだ。濡れた音を響かせて、今井が必死に舌を使う。弄ばれているはずの相葉が甘い声でねだるたび、今井は何かに憑かれたようにそれに従った。

「あう……んっ………んっ……ん、あああっ」
「ここは?こっちは?」
「は、あっ………あああっ」

身体をうねらせ、声を上げるだけで今井は相葉の求めに従った。快感を貪りながらうっそり笑った相葉が、今井の頭をそっと両手で抱える。

「い…まい…っ…さ…僕……も…狂い……そ…」
「いいん、ですか」
「…んんっ…も……だめ…っ…あ…そこ…やめ…っ…あああっ」

相葉が軽く拒んでみせたところへ吸い寄せられるように今井が顔を落とす。望んだ通りの快感を手に入れて、相葉は、笑った。

今井がそそり立った相葉のものまで含みながら扱き上げてくれ、相葉は高い声をあげながら腰を振った。疼いてきた後ろに今井の指を導く。

「いや…しかし…」
「今井…さんなら…いいから……っ」
「そ…うですか…」
「でも……今日は…大きいの…いれないで…?」
「わかりました」

泣きそうな顔で唇を震わせて懇願すると相手は神妙にうなずいた。

「だから……ね…指で……慰めて…」
「はい」

今井が指を差し込み、やがて相葉の反応に夢中になって突き入れかき回し始める。痛みもあるが、それより勝る快楽に、相葉も身体を開いて今井の指を味わう。

「あ……っ………あああっ」

声を上げて舌を閃かせると、待ちかねたように口を重ねてきて舌を絡ませられた。肩を抱きかかえられ、指で犯されながら悶える相葉の耳元で今井が囁く。

「心配すんな………あんたは俺が……面倒をみる」

掠れて飢えた声音に、相葉は今井に見えない位置で目を細めて笑った。


潜入、完了。


第九話
┗金波銀波の海越えて

ふと、側に人の気配がして二宮は顔を上げた。鼻先を掠めたのは覚えのある煙草の匂いだ。

「………情報局の駄犬か」
「御挨拶だね」

許可する間もなく、同じテーブルにどさりと腰を降ろす音がした。

「……他に席があるでしょ」

冬のかふぇの外側に並べられているテーブルに着く物好きが二宮以外にいるとは思えない。部下が連れてきてくれたときも、他に誰もいません、いいんですか、と繰り返し尋ねたほどだから、よほど奇異に思ったのだろう。

「何してんの、こんなところで、港湾のお偉いさんがたった一人で?」

松本は二宮の拒否に平然と尋ね返してきた。相変わらずの不作法さに溜息をつく。

「そっちこそ、こんなところで油を売ってるほど暇なの、情報局は」

暗に今潜入工作をしている相葉のことを匂わせると、新しい煙草に火をつけたのか、マッチを擦る音がしてきつい匂いが漂った。

「……ちょっと野暮用でね」

声が動いて蛇荷貿易の方向を振り返ったようだ。露骨すぎる動作に眉をしかめる。

「正面で監視もないだろ」
「監視なんてしてないよ?あん中にはウチの切れ者が入ってる。俺がうろうろするだけで余計なことを考えて奥深く連れ込んでくれた今井ってお人好しもいたしね。楽な潜入だったよ」

くす、と微かな笑い声はしたたかな響きを宿している。

「言ったろ?俺は野暮用なの」

声はふわりと淡い調子で続いた。

「あんたこそ、気になんの、白鷺のこと?」

一瞬、松本の吐いた『白鷺』の名前に微かな優越感を感じた自分が忌々しくて、二宮はコートに入れた両手を握りしめた。

「俺がなんで気にしなくちゃいけない?」
「またまた強がっちゃって」

一体何の用、と苛立って尋ね返そうとしたら、あ、ここね、と軽い声を響かせて給仕を呼ぶのが聞こえた。陶器の触れ合う音がして、目の前のテーブルに温かな匂いが立ち上る。

「どうぞ?奢るよ」
「……馴れ合うつもりはない、って言ったはすだけど?」
「違うよ、これは、さむそーに部下の一人もつけずにこんなところでじっと動きを見張ってる同業者への同情」
「動きなんて見張って……」
「白鷺、あんたを裏切ったよね?」
「……」

反論しかけたとたんに切り込まれて二宮は黙り込んだ。

昔から松本は苦手だった。無神経に人の弱身を突き回る。

黙ったままなのがしゃくで、コートから出した手をテーブルに滑らせて端を探りながら、カップの位置を確認した。右手でソーサーを押さえ、左手でカップを取り上げる。ゆっくり持ち上げて、左手の親指に一瞬唇を触れてからカップに口を当てた。香り高い珈琲に濃いミルクの匂い、甘めに入れた砂糖も行き届いた量でむかつく。

松本の不快なところは、これほど無遠慮で不躾なやつなのに、人が何を必要としているかを的確に把握しているということだ、と二宮は思った。寒さで凍えた体にじんわりと温かな飲み物が染み渡って、思わずほっとする。部下の迎えはまだ先のはずで、さすがに何か頼もうかと思っていたところだった。

だから櫻井、あの男が臆面もなくこいつを侍らせて喜んでいるのかと納得しかけ、二宮はなお不快になった。一口二口飲んだところで、右手に軽くカップを触れて場所を辿りながらソーサーに戻す。

「さすがにちょっと言っとこうかと思ってさ」
「何を」
「………白鷺、同じことがあったら、きっと何度でもあんたを裏切るよ」

「情報局の切れ者だからだろ?」

間髪入れずに返すと、相手がカップを取り上げる音が響いた。まだ熱いそれを煽る気配に、松本もかなり長い間外にいたのだと気づく。

「それか、あいつが節操がないから」
「節操がないってのは認めるけど」

再びマッチを擦る音が響いた。

「あいつは『夢幻』を憎んでるから」
「………憎む?」

松本の声が微かに憂えてそちらへ顔を向けた。

「………あのさ、ちょっと尋ねたいんだけど」
「何」
「あんた、あのときに『夢幻』横流しして、その後どうなったと思う?」
「?」
「あんたが市場に放った『夢幻』が何を引き起こすか、わかってた?」

そこまで聞いてようやく二宮は松本の言わんとすることがわかった。吐息をついて前を向く。

「強度の習慣性を持つ麻薬なため、試した9割が依存する。離脱するものは極端に少ない。しかも、飲み始めはむしろ体調の保持や改善に繋がるから、止められなくなるまで一気に量は増える。習慣化して中毒症状で死亡するものは5割を越える、と聞いた」
「……それ、わかってたんだ?」
「……ああ」

 自分の汚さぐらいわかっている、そう続けかけたが、松本の低い声がそれを遮った。

「じゃあ、母子汚染は?」
「え?」
「『夢幻』中毒の母親が妊娠した場合、ほぼ間違いなく赤ん坊も中毒になる。生まれたときから『夢幻』の虜だ」
「………それは……」

二宮が怯んだところへ畳み掛けるように松本が続けた。

「生まれた子どもは母乳しか受けつけない。母親の体内にある『夢幻』を必要とするから。他の何を飲ませても吐いて、吐きまくって衰弱していく。けれど、母乳をやった場合、『夢幻』の体内濃度が一気にあがって、早ければ数日で死亡する」
「…………」

二宮は黙った。そこまで詳しくは知らなかった。だが、それが何を意味するのかを考えれば、微かな寒気が這い上がった。『夢幻』中毒になったものは子どもを残せないのだ。

今上層部に広がっている『夢幻』中毒がもっと進めば、次の世代はかなりの率で減少する。貴族階級に大きな変動があらわれるかもしれない。

「…………白鷺はね、大陸の出なんだ。知ってた?」
「……いや……?」

松本の話が急に飛んで、二宮は戸惑った。

「………日本に入る前に大陸の方で『夢幻』は広がってた。山奥で、土地が痩せてて、他にこれと言った産業もない村とかでは『夢幻』精製を主にしてるところもあってさ、白鷺、そこの出身なんだって」
「皮肉だね。作り手が異国で『夢幻』を燃やすのか」
「皮肉?違うよ、当然だ」
「当然?」
「わかんないの、二宮さん?『夢幻』精製を仕事にしてる村って数年で壊滅するんだよ」
「!」
「………そ。仕事はきついし、楽しみもないからね、つい手を出す。始めは仕事も進むし、陽気に楽しくやれるからね、管理してる方もむしろ進めたりしてさ」

松本の声は虚ろで暗い。

「でも………そのうち、赤ん坊がいなくなる。子どもがいなくなって、どんどんみんな『夢幻』に侵されてって…………そして誰もいなくなるとさ、新しい村に精製場所が移る。村に残ってるのは干涸びた死体だけだ」
「……そこから………逃げ出したのか、あいつは」
「…………なら、よかったんだと思うよ」

新しい煙草に火がついた。

「………白鷺、そこで何やってたかっていうとさ、赤ん坊の首、締めてたんだって」
「っ!」

今度ははっきりとした悪寒が二宮の背中を駆け上がった。

「生まれた赤ん坊、どっちにしても死ぬってみんな知ってるから。生まれてあやうくなったらさっさと始末するんだって。手ぇ、かかるから。白鷺、子ども好きだったから、それでも面倒みてたらしい。けど、何も受けつけないでしょ?吐くしさ。痩せ細ってくけど、母乳飲ませるわけにいかないしさ、で、腕の中で冷たくなるの何回も抱えてるうちに、さっさと楽にしてやろうって思うようになったんだってさ」

かたかた、と小さな音が自分の掌で響いている、と二宮は気づいた。震えているのだ。無意識に体が震えている。


細くて白い顔。邪気のないふわんとした笑み。


その笑みの後ろにあったのは、暗黒だったのだ。

紅蓮の炎を背中に笑う顔が甦る。殺気に満ちた満足気な笑み。

壮絶な光を宿した、あの笑みの意味は。


もーりもいやーがーる、ぼんからさーきーは。

いつかの床で微かに小さな声で歌を口ずさんでいたことがあった。それは何かと聞くと、優しく笑って、子守唄だよ、と答えた。

ゆーきもちーらーつーくし、こーもーなーくーし。

好きなのかと聞くと珍しく目を逸らせて、好きだな、とつぶやいた。

子守唄は好きだな、
何度歌っても足りない気がして。
ちゃんと眠らせてやりたいから。
いい子ばっかりなんだから、と。

あのことばの意味は。


「…………村であいつが最後に生き残ったのは、あいつ一人だけが『夢幻』をやらなかったから」

もう、やめてくれ、と叫びそうになって二宮は歯を食いしばった。

「………だから、白鷺は『夢幻』を許さない、けど」
「………け、ど?」

必死に体に力を込めて問い返す。


「今、あいつ、あそこに『夢幻』飲みながら入ってるんだ」

「な……に……?」

魂を引き抜かれた、というのはこういう気持ちなのかと思った。相葉に裏切られたときも、世界が崩壊するような思いだったが、これは全く別の、まるで自分が消え失せたような衝撃に二宮は茫然とした。

「なん……だと……?」
「『夢幻』中毒って設定だから。一週間、連絡がなかったら俺達が入る予定になってる」
「一週間?」

見えない視界が揺れるのを感じた。今日でもう丸3日、白鷺は全く『夢幻屋』に戻っていない。そんなに長く『夢幻』を服用すれば完全に中毒化してしまう。

「遅い……遅すぎる」
「大野君から聞かなかった?大きな取り引きがある。あそこには十数人が出入りしてて、その情報を掴むにはそれぐらいいるからって白鷺が言ったんだ」
「そんな……」
「………さ、て、じゃ、行くね」
「ま、待てっ!」

松本が椅子を鳴らして立ち上がる気配に、二宮はうろたえた。

「あ、何、奢ってくれんの?」
「いや、待て、それを」
「ちぇ、けち」
「違う!なぜそれを俺に教えた!なぜ貴様らは、雅紀を見捨てるっ!」
「………へえ……あいつの名前、雅紀って言うんだ?」
「あ……」

松本の声がふいに和らいでくすりと笑い、二宮はひやりと口をつぐんだ。

「じゃあ……やっぱ……あんたが本命なんだ?」
「………」
「………俺の勘も満更じゃないなぁ…………なら、なぜ俺があんたに教えたか、わかってんじゃない?」
「………」

松本の声がちりちりしたものを含んだ。

「俺達は情報局だ。目的は『夢幻』ルートの確保。けど、白鷺の目的は『夢幻』の消失。前のときは何とかしたけど、今回またやったら俺達は動きが封じられちまう。だが、港湾局が張り合って乗り込まれた分にはどうしようもないしさ?」
「……俺に…裏工作に付き合え、と?」
「まさかぁ。俺が?情報局の松本が?そんなこと言うわけないでしょ?俺は昔話をちょっとして、『夢幻』のコワさについて独り言言っただけだよ?」

急に声が近づいた。煙草の匂いがきつくなる。眉をしかめた二宮の耳元で静かな声が響く。

「あんた、俺が嫌いでしょ?俺もあんた、苦手。すぐ翔くんを馬鹿にするしさ?」
「………」
「けど、俺はあいつが抱えてるものはわかるから。それを守るためなら、矜持曲げるのも嫌いじゃないんだ」

その声に響いた微かな揺らぎに二宮は気づいた。

「………櫻井、か」
「え?」
「………櫻井があいつを心配してるんだな?」

ち、と舌打ちの音がして、松本が体を引くのがわかった。

「他は鈍いくせに」
「駄犬とは違う」
「あんたに振るシッポなんて持ってないよ」
「………せいぜい櫻井に振ってやれ、俺はもう間に合ってる」

ひゅう、と微かな口笛が響き、くすくす笑いが続いた。

「期待してるよ、二宮さん?」

軽い足音が走り去り、二宮は肩の力を抜いた。

『夢幻』の作用を理解しているはずの相葉が潜入するのに服用していくとは思えない。それとも、口八丁ではごまかせないほど難しい仕事だったのか、そう思って気づく。


無言の、あの日の逢瀬は。


「生きて………戻らないつもり……だったのか……」

腕の中で崩れた体の浅い呼吸を思い出す。焼け付くような焦りが広がった。

「雅紀………」
第一話
┗その名、伏せるべし

「だけどなぁ~」

 大野は眉を寄せて、情報局内でも堅物の男をまじまじと眺めた。

「翔くんには無理だと思うよ?」
「…なんでさ」

 きりきりと眉を寄せて櫻井は顎を上げた。

「繋ぎの娼妓の相手ぐらい、俺にだってできる」
「や、娼妓って言っても、相手は白鷺太夫、『夢幻屋』の花魁だよ?あいつは……いろいろと好き嫌いが激しいし………」

 大野は顔を引きつらせながら笑った。

「妙なやつなんだよ」
「いくら花魁とはいえ、同じ情報局の一員だろ?」
「それが通れば心配しないんだけど……」

 大野の歯切れの悪さに痺れを切らせて、櫻井は立ち上がった。黒コートを掴み、手早く羽織る。

「話はついてるんだろ。なら、さっさと行ってくる」
「うん………まあ………いっか、何ごとも経験だし」

 曖昧な物言いでなおもぼやく声を背中に、櫻井は局を出た。

 賑やかな通りを右に折れ、こんなところで見世が成り立つのかと思うような場所に『夢幻屋』はあった。櫻井だとて全く遊廓を知らないわけではない。しかも、今夜は既に話が通してあって、余計な手続きを踏むことは不要、すぐにニ階へ通されて待つまでもなく、おあがりぃ、の声が響く。
 それでもいささか緊張して、膝を揃え直したのは櫻井生来の几帳面さだ。

「白鷺でありんす」
「………は?」

 うなずいて、前に座った相手を見つめ、櫻井は凍りついた。

「ごめん………お前が白鷺?」
「あい、あちきが確かに」

 白と青を基調の仕掛けには、確かに真っ白な鷺の柄、だが、問題は小さく笑って胸元に手を当てた相手の奇妙なほどのあどけなさで。へたをすれば先日禿から上がったばかりと言っても通る幼い笑顔をにっこり向けられて、なお櫻井は凍り付く。




…待て。こんなのを大野は抱いてるのか?

「大野さまの繋ぎ、白鷺、と申しんす」

 軽やかな声で応じられてますます身動き取れなくなった櫻井に、白鷺はふ、といきなり大人びた吐息をついた。

「あのね?いつまでも固まってられても困るの」
「は?」
「大ちゃんの代わりなら床も済ませてく?初めてだったりする?」
「あ、い、いや」
「なら、どうしましょ。床?それとも情報?」
「あ」

 はっと我に返って櫻井は瞬きした。床か情報?じゃあ、どちらかでもいいのか?ほっとして慌てて大きくうなずく。

「俺は情報だけでいい」
「そっかー、残念」
「へ?」
「櫻井さん、けっこー、僕の好みかもって思ったのに」

 にこにこさらりと笑われて、何だか顔に一気に血が昇った。

「えーと、それじゃね、港湾局の内偵が本決まり。明後日の早朝6時に山風運輸乗り込みね」
「あ、うん、明後日、早朝6時だな」
「そう。人員早めに引き上げといてね。あそこの二宮さん、早起き大好きって人だから」

 くすくすと笑った赤い唇が蠱惑的に閃いて、思わずごくりと唾を呑む。それを見て取った白鷺は、薄笑みを浮かべながらふいに仕掛けを滑り落とした。細い肩が薄い襦袢一枚でさらされて、思わず見つめたその視線の先で、なおも白鷺が襦袢を滑らせる。

 ぬめるような光を帯びた肌だった。目が引き付けられて離せない。するする落ちていく襦袢に遮られていた胸元にほんのりと赤い実が宿って膨らんでいる。その実にほっそりとした白鷺の指が絡んで摘むように動いた。

「っふ」
「!」

 柔らかく息を吐いた唇が微かに開く。

「櫻井、さん?」
「う」

「ねえ?」

 抱いて、とは誘われなかった。けれど、つい伸ばした指を絡めとられて引き寄せられ、口を口で塞がれて、すぐに入り込んできた舌の甘さに、櫻井は我を失った。

 櫻井が帰ると相葉はすぐに床を立った。湯屋でゆっくり身体を休めて洗い流し、さっぱりとして上がってくれば、帳場で滝沢が眉を寄せている。

「どうしたの、たっきぃ?」
「あーいーばー、またただで御奉仕しちゃったの?」
「違うよー、御奉仕したのはあっち」

 にっこり笑って言い返す。

「これで上客、一人増えた」
「………落としたんだ」
「そ。大ちゃんの知り合いなら、まーいいかと思って」
「かわいらしい笑い方すんのな、怖いくせに」
「怖くないよ、職務に忠実なだけじゃんか」
「やめろよな、情報局一得体の知れない男のくせして、かわいこぶんの」
「あれー、しんがいー」

 くすくす笑う華奢な男を滝沢は心底怖いと思う。この顔、この姿、この年齢にして、相葉は情報局子飼いの切れ者、しかも常識も節操もないと来るから頭が痛い。気に入った相手とは好き勝手に誘惑して寝てしまうし、そのくせ夢中になるのは相手ばかり、本人はいつもしらっと明るくて、その明るさが気味悪い。なにせ「たっきぃも一回寝る?男犯すのやってみる?」なんて平然と誘いをかけるような人間なのだ。

 相葉が情報局の人間でよかった、こんなのが犯罪者だったら今頃巷は阿鼻叫喚だ、と溜息をつくと、相手はふあぅ、と眠そうにあくびした。細い両腕を伸ばす、その仕草にも人目を魅きつける媚びがあって、滝沢は思わずうんざりする。

「寝てこい?今夜は仕事ないんだろ?」
「そうする、櫻井さんってば予想以上にやらしいんだもん」
「はぁ」

 櫻井は確か情報局の中堅クラス、後には局長とも噂される人物を一晩で落として「やらしい」で済ませるあたり、性格の悪さがにじみ出ている。

「おやすみなさーい」
「おやすみ」

 くふんと鼻を鳴らしてひょいひょい上がる素足の踵にそれでもつい目を奪われて、滝沢は忌々しげに舌打ちした。

「翔くん、翔くんっ!」

 呼ばれてはっと我に返る。目の前に覗き込んでいる男の顔にぎょっとして慌てて目を逸らせた。大きな瞳はいつも意外なほど鋭い。しかも。

「香の匂い?」
「!」

 くん、と鼻を動かされて固まった。そうだった、こいつは神経も鋭いんだったと思う間もなく、押し倒されてうろたえる。

「翔くーん?」
「じ、潤」

 いくら私室とはいえ官舎の一画、同じ情報局の部下と上司と言えど、この状況ではただならない関係だと誰もがわかる。
 ねじあげられた両手を頭の上に押さえられて、じたばたもがく櫻井に、松本が薄笑いを浮かべる。

「離せっ」
「そっちこそ、話しんさい?」
「なっ、何を」
「今日の夕方、何してきた?」
「え、ええっ」
「『夢幻屋』行ってきたでしょ?」
「え、えええっ」
「ついでに白鷺抱いてきたでしょ」
「ええええええっ」
「……………そんなに真っ赤になったらもろばれだって」

 はぁ、と溜息をついた松本が櫻井の首に鼻を押し付けた。くんくん、とまた微かに鼻を鳴らす。

「せめてちゃんと風呂入っといてよ。他の男の匂いつけられてちゃ」
「じ、じゅっ」
「何かむきになっちまうでしょ?」
「っん、くんっ」

 首筋から耳元へ舐め上げられて、櫻井は唇を噛み目を閉じた。白鷺で放ったはずの気持ちがみるみる追い上げられてきて、自分がどれほどこの男に弱いのか自覚する。

「やつに誘惑されちゃった?」
「うっ」

 ちゅ、と口を吸われて目を開けると、滅多に見ない冷ややかな目が光っててどきりとした。

「まあ、仕方ないけど。あれは別格だし。あんたをそこへやったのキャプテン?」
「いや、その、俺が「また苛立って自分で乗り込んだ?」
「……」
「でおいしく頂いて……いや、頂かれてきちゃったわけね?」
「………」
「ま、いいや。キャプテンには俺が後で話つけるから」

 いや、待て、話って何のことだ、と焦った櫻井をよそに、松本が腕を押さえつけるのを片手にまとめ、もう片方の手で服を暴きにかかってなお焦る。

「こ、こら、潤、待て、それこそ風呂ぐらい」
「で?白鷺、自分のことどう名乗った?」
「え?いや、白鷺太夫、って……」
「ふうん………じゃ、あんたはお客なんだ……」
「は?」
「いや、白鷺が本名名乗るときがあって、どうもそのときの相手が本命らしいんだよね」
「ふう……ん?」

 何だいやによく知ってるな、ひょっとしてこいつも、と考え始めた櫻井の心を読んだように、ふいに松本が腕をきつく押さえた。
 痛みに顔を歪めて仰け反った櫻井の脚の間に身体を滑り込ませてきながらぼそりとつぶやく。

「どっちにせよ………今夜眠らせねえから」
「へ?」
「やつの匂い、消してやる」
「っ」

 膝で股間を押し上げられて、櫻井の微かな悲鳴は松本の口に吸い取られた。



第二話
┗射干玉の夢をご覧あれ

「………っ」

 目覚めての暗闇にはまだ慣れない。事件で視力を失ってからもう一年にもなるのだが。
 それでも、その間に身の回りのことが一通り自分でできるようになったのは二宮の感覚と記憶が鋭いことに関係するのかもしれない。
 無駄だとわかっても目を見開いて瞬きし、微かな光を求めて凝らしてみる。

「……」

 しばらく待っていると密かな時計の音が響いた。ふすまの向こうに人の気配が動く。

「おはようございます」

 家の細々としたことを片付けてくれている部下の声に体を起こす。

「二宮さま?」
「起きてる」
「失礼いたします」

 ふすまが開いて薄寒い風が入り込んできた。

「本日は」
「山風運輸へ行く」
「御視察は8時とお聞きしておりますが」

 二宮の肩にふわりとかけられたのは薄手のセーター、外の冷え込みはここからでもわかった。

「どうも気になる。早く出向く。朝食は不要だ」
「はい」

 すぐに部下は側を離れた。床から立ち上がり、枕元の服を手早く身につけていく。
 時計を懐中におさめようとして珍しく指が滑った。転がってどこかに消えていく音を必死に追う。


ごろごろ……ごろごろ……ごろ。


 その音が何かに似ている、そう思った瞬間に脳裏に鮮やかな閃光が走った。



 雨にずぶぬれになった薄い身体。

 振り向いた無邪気そうな顔に赤い唇が綻ぶ。

 透けるシャツ、張りつくスラックス、巻き締めたベルトが妙に妖しく絡むようで。

 稲光りの一瞬に、一重の瞳が薄笑いしてこちらを見ているのがわかった。

 その目に潜んでいたのは明らかな、殺意。



「っ!」

 険しく鋭い息を吐いて、二宮は音を頼りに懐中時計を拾い上げ、懐にねじ込んだ。

「雅紀……」

 つぶやく自分の声が不安定に揺れた。

一年前、二宮は港湾局上げての舶来船舶の監視についていた。

 開国に伴い様々な品物や文化がどんどん日本に流入してくる。それらは新しい国を作り、新しい文明を導くものではあったが、同時にそれまで日本になかった巨大な闇の流れを運ぶものでもあった。

 異国渡来の怪しげな薬、呪術、無気味な慣習と用具、珍品奇品。

 中でも阿片をしのぐとされる『夢幻』と呼ばれた薬は眠り薬の一種らしいが、これをある配分で従来の胃薬とまぜると胃炎を劇的に押さえるばかりか、痛みをひどく伴う病気の鎮痛に多大な効果があることがわかり、港周辺から一気に広まった。


 しかし、その『夢幻』が実は習慣性の高い、しかも手に入りにくい麻薬の一種であるとわかったのは、その味を十分にお偉方が堪能してからだった。

 港湾局は『夢幻』を厳しく取り締まった。だが、同時に情報局は『夢幻』を自白を強要するときの切り札に使っていたためにこれに抵抗、上層部で激しいやりとりがあった結果、政府御用達として限られた量が公的に輸入されることになった。

だが、既に上流階級の間では横流しだけではおさまらないほど薬に侵されたものもおり、必然的に金や権力にものを言わせて情報局や港湾局に無理難題を押しつけてくるようになった。

 時に二宮には妹がいて、悪質の病気に侵されており、激しい痛みに苦しんでいた。見兼ねた二宮はただの一度、『夢幻』流用に便宜をはかった。それで妹が高名な医者の治療を受けられるはずだった。

 その荷を積んだ船が着く夜、二宮は自ら現場に赴いた。

 だが、それを情報局は関知していた。大野櫻井松本を始めとする切れ者ぞろいが雁首揃えた中で、二宮の手は悲しいほどに無力だった。

 荷は情報局管轄となり押収されることになったが、その時、まさかの事故が起こった。

 積み荷の一部に発火性の薬品があり、折から降り出した雨に化学反応を起こしたとかで船で大爆発が起こったのだ。

 情報局へ入ったなら、それなりのつてもある、取り引き相手に交渉を持ちかけることもできる。

 そう一縷の望みを繋いでいた二宮の目の前で『夢幻』は全て灰になった。

 だが、降りしきる雨の中、驚くこともない情報局の面子を見て、二宮は悟った。これは計画されていたことなのだ、と。

大野が笑いながらコートを翻し立ち去る直前、それまで人影にひっそりと立っていた一人の男の肩を叩いた。

 雨にずぶぬれになっていたその男は軽くうなずき、何かに呼ばれたように二宮を振り返った。

 その顔を見た瞬間、二宮の胸に衝撃が走った。


 それは相葉、二宮が唯一気を許し入れ揚げていた花魁、白鷺太夫だった。



 白鷺が情報局の手先。



 茫然とする二宮の前で相葉は嫣然と笑った。床に誘うその顔で。二宮の下で喘ぎ悶える、その顔で。

 紅蓮の炎を背に微笑みかける相葉に思わず駆け寄ろうとした矢先、燃え上がった船が支えていた半端な位置の荷が二宮の上に崩れ落ちた。

 そして目が醒めたときには二宮は視力を失ってしまっていたのだ。


 妹はそれからまもなく十分な治療もできぬまま逝った。荷が燃え上がり、『夢幻』の存在もなかったことにされ、結果的に二宮もお咎めなしとなったが、それに何の意味があっただろう。

 二宮は全てを失ったも同然、世界は闇に閉ざされたままだ。


 あの日からずっと。



「準備が整いました」
「…出る」
「はい」

 二宮は顔を上げ、気を引き締めた。



第三話
┗紅蓮の波のその向こう

「なあ、白鷺」
「あい」
「今度の仕事の見返りだけど」

 相葉は大野を振り返る。今まで仕事の見返りを始めに匂わされたことなどない。

「ふうん」
「なんだ、ふうんって」
 床の中で煙草盆を引き寄せた相手がのんびりとキセルに葉を詰めながら尋ねてくるのに、くふんと笑った。

「だって大丈夫だよ、そんなことしなくても」
「ん?」
「ちゃんとどんな仕事でも受けるもん」
「ああ、わかってる」
「ならなんで?」
「………にの、に繋いでやろうか」

 大野に背中を向けていてよかった、と思った。襦袢を羽織りながらで助かったと思った。咄嗟に身体が揺れて、肩が震えた。大野の沈黙は冷ややかで重い。

「…潜入?」
「ああ」
「それほどまずい?」

 情報局と港湾局は犬猿の中だ。この間の捕り物が空振りだったことで、港湾局はますます情報局にぴりぴりしてきている。証拠が一切上がらなくても、裏で情報局が動いたことはお見通し、かといって、落ち度がなかった山風運輸をどう処分するわけにもいかず、『夢幻』の裏取り引き最大の経路と疑われたまま監視中だ。

 今回大野が持ち込んできたのは、その監視の直中に乗り込むような仕事だった。
 白鷺は『夢幻』中毒を装って、もう一ケ所『夢幻』取り引きがあるとされている蛇荷貿易に入り込み、そこの『夢幻』の情報を港湾局に流し、蛇荷貿易を落とすと同時に蛇荷経路を山風運輸に引きずり込むのだ。

「無茶な仕事だもんね」
「……」
「喜多さんのお望みですかー?」
「……」

 大野の沈黙は肯定の意だ。


 情報局局長の喜多には20歳下の花街上がりの妾がいて、妻子を放置してまでのめり込んでいる。その妾が『夢幻』の重度の中毒患者だとは局の間では暗黙の了解で、櫻井や松本などは露骨に嫌がっているが、間を繋ぐ大野としては無碍に断れもできないのだろう。

「そっか」

 応えない大野に相葉は笑う。仇のような二宮にまで繋ぎを取ろうとすれば、きっと動きを疑われる。半分は港湾局を利用してこの目論見を潰そうという発想、もう半分は途切れたままになっている相葉と二宮を危ない仕事の前に一目会わせておいてやろうという大野なりの配慮だろう。

 そして、それは、相葉が生きて戻れないと大野が考えているということでもある。

「……にのは、僕をもう抱かないよ、だって裏切りものだもの」
「二宮はまだ目が見えない」

 大野がゆっくりと煙を吐いた。

「声を出すな。そうすれば、あいつだって」

 お前を抱いても知らないふりができるじゃないか。

 そのことばを口におさめて見上げてくる大野に、相葉は昏く微笑んだ。

「そんな鈍い人じゃない」
「白鷺」
「………けど」

 揺らいだ自分の甘さを嘲笑いながら、大野の頭に口付けを落とす。

「……試してみてもいいかも………ありがとー、キャプテン」

「二宮さま」

 警戒を満たした部下の声がした。

「何?」
「大野さんがお見えです」
「キャプテンが?」

 二宮は眉をしかめた。
 先日の視察が空振りに終わった後ろに相葉の動きがあるのを感じている。相葉は未だ情報局の一員として健在で、ことあるごとに二宮の前に立ち塞がる。
 視察を8時と定めていた。それが漏れているのは予想していたが、まさか一時間半も突然繰り上げたのを読んでいるとは思わなかった。それとなく大野に疑問をぶつけてみると、微かに笑って「早起きなんだってね」と応じた。大きな視察の前は目が早く醒める。その癖を相葉は忘れていなかった。二宮の命令一下、港湾局がすぐに準備を整える手はずの良さも過小評価しなかった。「6時だと聞いてたぞ」。自慢気につぶやいた大野の、懐刀を誇る声に感じた苛立ちが甦る。

 この男の下に、相葉はいる。無意識に唇を噛んで我に返った。

 あれほど手酷く裏切られたのに、まだ私はあいつを待っているのか。低く笑ってしまった。

「通ってもらってくれ」

「おう、にの」
「おはようございます、キャプテン」
「元気そうだな」
「ええ。そちらも順調だと聞いてます」

 響いた声に顔を向けて形ばかりの笑みを作る。

「ああ、それで忙しくてなあ、通える所へも通ってやれない。いいかげん焦れてうるさくって」
「朝からする話じゃないように思いますが」
「ここだけの話」

 すい、と間近に声が近寄って、一瞬体が竦んだ。耳元で低い声が囁く。

「頼まれたんだよ、白鷺に」
「ま………白鷺、ですか」

 雅紀、と呼び掛けて制した。一年も前に呼ぶことのなくなった名前を後生大事に覚えている自分の記憶力が恨めしい。

「お前に抱かれたいんだと」
「……冗談」

 二宮は笑った。

「情報局と馴れ合うつもりはありません」
「泣くんだよなー、にのを呼んでくれって」
「………」

 あからさまな誘いにうんざりと吐息をつく。

「キャプテン」
「ん?」
「それが用でしたら、私には急ぐ仕事がありますから」
「部下から聞いたぞ?午後から体が空くんだろ?」

 あのばか、とそれは口に出していないつもりだったが、大野が声をたてて笑った。

「俺が送るさ。白鷺の機嫌を損ねると、情報局があがったりだ」

「私にはその方が好都合です」
「相変わらず冷たいなー、にのちゃんは」
「性分ですから」
「わかった、とっておきのネタをやるから」

 大野の声が僅かに張って、二宮は顔を向けた。

「近々蛇荷の方で取り引きがあるらしい」
「山風、貿易ですか?」
「知ってた?」
「名前ぐらいは」
「大掛かりな『夢幻』の取り引きだ」
「………どういう風の吹き回しですか」

 二宮でなくとも、これは警戒していい内容だった。

「情報局がそんなことを私に?ブラフですか?」
「違うよ、にのちゃん」

 大野は声に笑みを含ませた。

「白鷺が潜入するから、何でも願いを聞いてやると言ったからさ」
「潜入」

 胸の奥に不安な波が揺れた。蛇荷貿易は荒っぽいのでも有名だ。港湾局相手にも丁々発止を辞さないところさえある。そんなところへ相葉を入れて大丈夫なのか。

「だからさ、お前に会いたいんだと。けど、あの一件があるからさ」
「………過ぎたことです」
「ならいい。じゃあ、午後迎えに来るから」
「あ、キャプ………」

 足音がたちまち遠ざかって、二宮は深い溜息をついた。



第四話
┗鳴かない鳥の羽は白

相葉が自分を呼んでいる?

 そんなことはありえない、と二宮は送られた『夢幻屋』で座して白鷺を待ちながら思っている。
 部屋に焚きしめられた香の匂いが懐かしかった。一時は週に一度はここに入り込み、細い身体を抱き締めた。幾ら抱いても汗一つかかない、さらりと軽い情交は相葉と二宮には似合いのもので、疲れ切るまで求めたこともない。

「泣いた?まさか。あいつが泣くわけない」

 手持ち無沙汰に一人つぶやく。

「いつだって半端に笑っていて、あたりのいいことばかり言って」

 あげくのはてに見事に二宮を裏切ってみせた。

 なのに、のこのここんなところへやってきてしまう自分が、どうにも腹立たしい。

階段を上がる音がして、やがてからりとふすまが開く。

「?」

 いつもならすぐに強く漂う相葉の香が鼻先にも掠めなくて、二宮は眉を寄せた。そういえば、滝沢の声もしなかった。
 部屋に入ってくる気配に視線を向けてみると、一瞬驚いたように立ち竦むのがわかって、ますます訝しい想いになる。

「……白鷺?」
「………」

 雅紀とまた呼びかけて、危うく制した。
 気配はじっと固まっていたが、やがて静かにふすまを閉めた。部屋にゆっくり満ちてくるのは淡い石鹸の香りだ。ついさっきまで湯屋に籠ってでもいたような、清潔で温かな匂いもする。それとも、これは昼日中の部屋だからだろうか。

 さらさらと衣擦れの音をさせて、側に気配が座った。膳の上のとっくりを探ったのか、硬質な音が手元で響く。二宮は酒を呑まないことを、相葉が知らないわけがない。
 とすると、これはひょっとすると相葉ではなく、二宮は大野に担がれたのだろうか。

「ごめん。俺は酒は呑まない」

 かちゃん、と微かな音をたてて動きが止まった。そのまままじっと動かない。

「白鷺か?そうじゃないのか?」
「…………」

 相手は何も言わなかった。

そっと膝に乗せた手に細い指が降りてきて、少し待ってから二宮の手を取り上げる。やがて両手で包まれて、より温かで滑らかなものにすり寄せられた。

 これは頬だ、そう気づいたのが伝わったように、しっとりと濡れたものが指先に押しつけられ、戸惑う間もなく吸い付かれる。

「っ」

 舐め回しながら、それ以上触れてこないのに苛立って、手首を掴んで引き寄せる。

「白鷺?」
「……」
「違うのか?」
「………」

 返事は一切返ってこないが、引き寄せられたまま二宮の膝に乗り上げてくる重み、甘えかかるように首筋に腕を巻き付けてくるのは相葉そのものだ。

「…………そういう、ことか」

 二宮は苦笑した。香の匂いを消し、声を出さないでいれば、二宮が相葉だと気づかない、そんな甘い発想で抱かれにきたのかと思うと、暗い怒りが渦巻いた。

「どういう趣向かは知らないけど」
「っ!」

 二宮が差し入れた手にすがりついていた相手が身体を跳ねさせた。懐に差し込んだ指で胸に膨らむ粒を摘みあげる。すぐに固くなったそれを力を入れて押し揉めば、びくびくと震えた身体が逃げるように揺れる。

「いつまで黙っていられるか、試してみようか」

 首に回した腕に堪え切れないように顔を伏せる気配があった。せわしく吐き出される息がみるみる熱くなってくる。もがくように頭を振ったのに、指を下へ擦り降ろす。

「っ、っ、っ」

 二宮は忘れていない。相葉がどこからどうされると追い上げられていくのか、それこそ飽きるほどに繰り返した手順は二宮の身体にしみついている。
 それは相葉しか抱かなかったということでもある、そう気づいて、二宮はいら立ちに奥歯を噛み締めた。
 下着をつけていない股間で勃ちあがっているのもわかったこと、それを柔らかく握り込み、一気に扱いて追い上げる。

「っ………っ、っ……」

 は、は、はっ、と激しく息を漏らした相手がひくりと大きく仰け反った。声をたてないままなのが一層煽ってしまったのか、手の中で弾けたのは覚えているより随分早い。しっとりと汗ばんできた肌も今まであまり感じたことがなく、二宮は思わず喉を鳴らした。
 まだ余韻に浸ってる相手の奥へぬめりを押し込みながら攻め込むと、拒むように膝が閉じる。

「このままでいいの?」

 指先を温かなへこみに押し付けたまま尋ねると、震えながら膝が開いた。腕を潜り込ませ、指を進めると、また強く息を吐いて相手が跳ねる。
 まだ一言もしゃべらない。声も上げない。いつもの相葉との手順なら、もうとっくに蕩けるような声を上げて、二宮の次をねだっているはずだ。

 ふとまた、これは相葉ではないのか、たまたま相葉そっくりな抱かれ方をする娼妓なのかと戸惑った。

 その二宮の戸惑いを見抜いたように、唇が口に触れてくる。舌が迎えて二宮の口を吸い寄せる。
 思わずぐ、と指を進めると、小さい悲鳴が口の中で弾けたような気がした。こんなところで相葉は感じただろうか、そう思いながら指を動かす。

「っん、っん………んうっ!」

 口を突き放すように突然解放してやったが、相手は熱い息を吐いて腕に仰け反っただけ、やはり声は戻ってこない。

 相葉よりも感度がいいような気もする。相葉より一所懸命にすがりついてきているような気がする。

 ふと全てを相葉と比べて考えている自分に気づき、二宮は苦笑した。

「もう大丈夫?」

 あんまり痛々しい感じがしてきたので、いつもより長く指で慣らしていると、耐えかねたように腰が揺れて指の場所を探し始めた。我に返って、耳元で喘いでいる顔のあたりに囁いてやる。微かにうなずく気配があったので、指を引き抜くと、またはあっ、と強い息を漏らして硬直した。震える身体が熱くなって、また勃ちあがったものが触れ、ようやく自分が服さえ脱いでないことに気づく。何時のまにか相手のペースに巻き込まれ、翻弄されている。

「ちょっと待って。俺も脱ぐから」

 俺も?

 そこでまた気づいて相手を探ると、相手もまだ襦袢も仕掛けもそのままだ。一体何を焦っている、初めての子どもでもあるまいし、と二宮は一つ息を吐いて、相手の身体を押し退けた。

「悪いけど床まで連れていってほしい。新しいところではよくわからないんだ」
「……」

 衣擦れの音がして、二宮の指をそっと相手が握って立ち上がった。
 頑是無い子どものような握り方、大切な親の手を失うまいとするような握り方にまた首をかしげる。どうも相葉ではないような気がする。
 かといって、『夢幻屋』にこんな娼妓がいるとは聞かない。

 促されるままに導かれた床で相手にそっと衣服を脱がされた。優しい丁寧な手付き、自分も相手の仕掛けを解いてやろうとすると、相手が二宮の服を片付けているのに気づく。
 はっとして耳を澄ませて気配を伺えば、スーツは皺にならぬように衣桁へ、残りももきちんとまとめているようだ。

「よれよれの格好で送りだすわけにはいかないもん」

 へらんと笑った顔が甦った。

「にのは港湾局の長なんだから。びしっとかっこよく居て欲しいから」

 舌たらずな口調でつぶやく横顔が妙に真剣で、素っ裸なのにそんなことをするのがおかしくて、二宮が笑った出来事だ。
 だが、奔放で何ごとにも構わぬ相葉が、そこにだけこだわるのが、どれほど二宮を大事にしているかの証に思えていたのも確かだった。

「雅紀?」
「っ!」

 ぎくっ、と相手が動きを止めた。そのままじっと動かない。さっきまで籠った熱も一気に冷めたように、凍りついたように動かない。

 やがて、ふい、と気配が弛んだ。二宮の探る手に手を重ねてくると、次の瞬間二宮の口を覆ってのしかかってくる。熱い身体で濡れたものを擦り付けてくる、その動きに煽られかけて二宮は必死に相手を押しとどめた。

「待て、これは何の冗談だ。お前は何がしたいんだ」
「………」
「お前は俺を裏切った、このうえ何が望みだ」
「………」

 自分にのしかかっていた男がそっと頭を垂れてきた。口付けされそうな気がして顔を背けると、一瞬動きが固まったが、やがてのろのろと首筋に額を押し付けてくる。
 短く熱い息を吐きながら、もう十分に身体が限界なのを必死に堪えている気配、それでもまだ無言を通す相手に二宮も意地になった。

「………わかった、抱いてやる」
「……」
「どこまで我慢できるか、遊びに付き合ってやる」
「っ」

 身体を引き起こして口を吸った。指で胸の粒を摘んだ。もう片方の手で腰を引き寄せ、脚を開かせ膝立ちで保たせる。濡れて待ち構えているところに指を突き入れる。

「っっ、っっ!」

 容赦はしなかった。慣らしたはずだと締めつけ拒むのを無理に押し込む。ぎくりと仰け反った身体が痛みに喘いだのを確認しながら、なおも今度は後ろから丸みを両手で押し開き、指を数本秘所に突き立てた。

「っ、っっ…………っ……」

 息が吐き出される。鋭く、強く。けれど、声にならない。
 今度は痛みのせいで萎えた前を擦りあげながら、指を突っ込んだまま腰を揺さぶる。跳ね上がった身体が身もがいて逃げかけるのを許さず、そのまま一気に自分の上に引き落とした。

「っ、…っっ、……………っ、っ、っ」

 細い骨格が大きくしなった。押し返すようにあててくる掌に怒りが倍加する。必死に膝で自分の身体の重みを支えようとしているような仕草、それが自分の痩身を嘲笑うように感じて二宮は吠えた。

「声さえ出さなければ、わからないとでも思ったか、この俺が、お前の身体をわからないと、思ったのか!」

 下腹に力を込めて相手の腰を引き降ろし、同時に強く突き立てる。

「っっ………っ」

 ひ、と呼吸が千切れたような音をたてた。深くまで一気に入った二宮のものに、全身震わせながら拒む気配は相葉になかったもの、それがなおさら二宮を煽る。腰を強く引き寄せながら揺さぶると、がたがた脚を震わせながらも、二宮の両脇についた手を突っ張って、相手がなお身体を浮かそうとする。

「だめだ」
「っっっっ!!」

 いつもならそんな無茶はしない、けれど制していた欲望を二宮は追った。

 逃げかけた身体を引き寄せながらなおも開き、そそり立った前を扱き上げる。がく、と何度か不安定に体勢が崩れ、その都度落ちてくる重みを二宮は力を込めて押し返した。
 全身が猛り汗が滲む。荒い呼吸音が引きつれるように止まっては、激しく顔を振るように相手の身体が揺れ、悶える。だが、それでも声が聞こえない。代わりのように汗だろうか、ぱらぱらと水滴が降ってくるのを感じて、二宮は薄笑いした。

「まだ大丈夫だろ?」
「っ、っ……っ……っっ!」

 一旦引き抜いて体勢を入れ替え、四つ這いになった相手の後ろから犯した。
 反り返る背中、痙攣するように跳ねる腰、激しい呼気が空を打つ。

「俺には見えない。お前が声を出さない限り、何も伝わらない」

 二宮の手に指がかかった。そのまま引き上げられる。身を屈めたのだろう、微かに震えながら相手が二宮の指に唇を当てる。微かな呼気だけの声。

おねがい。ゆる、して。

そう聞こえた気がした。

「だめだ」
「っっ!」

 一言で断じて、手を相手の手から抜いた。なおも深く進めながら股間を煽った。大きく震えた相手が二宮の手を外そうとするのを振り払い、腕をひねって押し倒す。どさっと床に崩れた相手の首を探り、無理に引き上げて耳元でつぶやいた。

「俺は、お前を、許さないぞ、雅紀」

 震える口がまた二宮の指に触れようとするのに、手を振り払った。倒れた上半身を押さえつけ、下半身だけ引き上げて深く押し込み、中を抉り、一気に引き抜いては押し入れる。
 根元を握った手の力も緩めず責め立てると、必死に顔を振っているのか、はあはあ喘ぐ呼吸音が動く。

「鳴け」

 二宮は低く命じた。
 びくりと相手が動きを止める

「やめてくれ、と言え。そうすれば………やめてやる」

 微かに引き付けるようなうめきが響いた気がした。だが、相手が激しく顔を横に振った。固く締まった身体が二宮の手を拒む。もう限界さながらで切れ切れになっている息を整えてなおも堪える相手に、ふつっ、と二宮の何かが切れた。無言で叩きつけるように相手を開いて奥まで押し入る。

 入ったことのないほど深みに抉り込んだその瞬間、鋭い呼吸が響いた。

 きん、と声は聞こえないのに空気が鳴ったような気配がして、ふいに相手の身体から力が抜ける。二宮のものを銜え込んだまま、相手の身体が前のめりにずるりと崩れた。
 手の中で弾けたものがべたりと濡れる。そこへ何かとろとろと伝ってくるものがある。

「雅紀?」
「………」

 速くて浅い呼吸だけが答える。さっきまでの返事にも似た動きがない。汗で濡れた身体は蕩けるように広がって二宮の手を拒まないし、反応もしない。

 気を失った、そう気づいて、二宮はいささかうろたえた。

 自分のものを抜き去ると、手探りで相手の身体を引き寄せる。改めて探ると、萎えたものとその周囲を汚す液体の感触があって、その手触りが妙にざらついた。指についたものを顔に寄せると鉄の匂いがする。

「あ」

 見えない視界を真っ赤な色が覆った気がした。
 自分が盲目であることにふいにぞっとする。相葉の状態がわからない。
 微かな吐息が次第に弱まってくような気がして、二宮は声を上げた。

「たきっ………たきざわっ!」
「はあい………お呼びで………入ってもよろしいですか?」
「ごめん、手貸して」
「はいよ………あっ!」

 滝沢の声が緊迫して事態が思った通りなのがわかった。

「なんで………どうしたの!」
「どうなってる、どうしたの?」
「どうしたもこうしたも………なんでこんなこと」
「出血、したのか?」
「したってもんじゃ………ごめん、お医者呼んでくるから!」
「あ、ああ」
「その前に、服、着てて、大野くん呼ぶから、もうお帰りになってください」

 手早く手や身体を手ぬぐいで拭われ、服を押し付けられて部屋の隅に退けられ、二宮は顔を歪めた。

「雅紀は」

 ぴくりと相手が動きを止め、やがて静かに答える。

「こちらで面倒を見ます」
「いや、でも」
「もう………十分だろ?」
「あ……ご、ごめん」

 滝沢の声に責める響きが加わったのに、二宮は項垂れた。

懐かしい愛しい匂いに満たされていた、そこから急に引き剥がされて相葉は目を覚ました。

 何時の間にか布団に寝かされていて、側に滝沢が座っている。すぐさっきまでくっついていた温もりを求めて見回したが、相手はどこにもいない。

「あれ………にのは?」
「帰ってもらった。どうした、相葉、あんなことされるまで、どうして黙ってた、らしくない」

 珍しく険しい顔でにらみつける滝沢をぼんやりと見る。

 身体がけだるくて苦しい。微かに残っている二宮の匂いに少し目を閉じる。

「…………そっか………にの…………帰っちゃったのか……」

 暗くなった視界がいきなりじんわり熱くなった。

「聞いてる?ちょっと、あい……ば………泣いてんのか?」

 滝沢が茫然とした声で尋ねてくるのに苦笑いする。

「泣いてちゃ、おかしい?」
「………そんなに………痛いのか」
「じゃなくて」
「は?」
「なんか………たまんなく、なっちゃった」
「何が」
「………にの………僕の抱き方、覚えてるんだもん」

 つぶやいたとたん、頬を涙が伝った。

「僕は………忘れちゃったのに……」
「相葉……」
「どうしよー………どうしよーか、たっきぃ」
「………ばか…」
「馬鹿なの?僕」
「………そんなに好きなのに」

 滝沢が静かに溜息をつく。

「どうして裏切る仕事なんか引き受けたんだよ」
「……どうしてなんでしょ………でも………もうどうでもいいことだよね」
「え?」
「僕………もうあの人に二度と会えないんだから………」

 相葉は口だけ笑って歪んだ顔を両腕で隠した。



第五話
┗終わりを告げる者の名

「松潤」

 大野が呼び掛けると、松本が俺、と鼻を指差して首を傾げた。部下と話し込んでいる櫻井に視線を投げ、顎をしゃくる。
 櫻井には聞かれたくない話だと察した相手が、さりげなく煙草を手に席を立つ。

「なに?」

 煙草を銜えて覗き込んでくるのに、大野は松本に目を据えたままつぶやいた。

「『明烏』を使う」
「………白鷺、潜入させるんだ、山風」

 一瞬ぴくりと眉を上げて、松本が煙草に火を付ける。
 上司を上司と思わない不遜な態度は上には不評だが、大野は嫌いではない。

「また繋ぎ頼む」
「はいはい………あ、そだ」

 ひょいと煙草の先を上げて松本が向きをかえ、机に手をついてもたれながらさり気なく視線を逸らせた。

「あんたに文句言っとこうかと思って」
「翔くんか」
「どうしてやつに会わせたりしたの」

 大野は口を歪めた。松本の口調にぴりぴりしたものが混じっているのに薄笑いしながら、

「不安?」
「は?」
「白鷺に寝取られたんだろ」
「そっちは御心配なく。寝取り返してるから」

 きわどい台詞をさらりと返されて苦笑した。

「けど、どうして?」
「………まあ社会経験も必要かなって」

 まっすぐすぎる友人の横顔を見ながらにやにやすると、松本が小さく舌打ちした。

「あんなのに関わらなくても生きてける」
「ここは情報局だぞ?」

 大野はぼそりと言い返す。

「翔くんはいずれここの長になる。癖のある人間を扱うのにも慣れてもらわんと」
「慣れるわけないでしょ、あの人が」

 低いつぶやきに苦いものが混じった。

「人を道具に使えるわけない。そんなことは俺がやる」
「………お前はほんと翔くんに甘いな?」
「甘いよ」

 松本の声は暗い。

「あの人はあのまんままっすぐ行ってほしいから、今まで白鷺がらみに手ぇ出させてないでしょ?」
「ああ、なるほど」
「今頃気づいたの」
「だけど、それは無理だ」
「わかってる。けど、『明烏』使うつもりだったんなら、翔くんに関わらせてほしくなかった。あの人、背負っちゃう」
「………ああ、にのか」
「それとなく気にしてる、ずっと。この前だって、港湾局の視察すり抜けたのもどっかで気にしてるし」

 きつい顔になった松本を見上げた。

「で?お前はどうするんだ?」

 先を促した大野に視線を落とした松本が特徴のある大きな目を細めた。
 そうすると一転して冷ややかに見える顔に似合いの醒めた笑みが広がる。

「ああ、あんた、計算してたの」
「何を」
「俺が翔くん庇うの」

 にやりと笑って応えないと忌々しげに煙草を吸いつけた。

「なるほど、はい、確かにこうなった以上、俺はきちんと仕事しますよ、白鷺も守る、あいつのためじゃなくて、翔くんのためにね…………それ、考えに入れてたんでしょ?」
「まあな」
「それほど………やばい?」
「………正直、受けたくなかった仕事だ」
「翔くん、それ知ってる?」
「ああ」
「ちっ」

 舌打ちした松本が目を逸らせ、大野も櫻井に視線を戻した。

「やな人。翔くんが『明烏』入ったの知ったら、必死になるよ、あの人」
「そうだろうな」
「……………一度でも………抱いてるし」

 微かに松本の声が沈む。思わずもう一度見上げた。

「なんだ、やっぱり気にしてるのか」
「…………俺と似てるから」
「ん?」
「白鷺、俺と似てる。だから、あの人、見捨てられなくなる」

 ゆらゆら揺れた瞳が恋しそうに遠くを見た。

「じゃあ………守るしかない。あの人が見捨てられないなら、俺が守るしかない」

 声が切なく潤んだのに、大野は咳払いした。
 ふ、と櫻井が振り返り、大野の席で煙草をふかしている松本に目をやってぎょっとした顔になる。

「潤っ!」
「はっ、はいっ、はいっ!」

 びくっと跳ね上がった松本がうろたえた顔で煙草を揉み消す。

「ところ構わず煙を吹かないっ!」
「ごめんなさいっ、すぐ消す、はい、消しましたっ」

 櫻井の声におたおたと席を離れていく松本が大野を振り返って歯を剥き出して睨み付けた。
 それをまた櫻井が見つけて、潤っ、なんて顔してるんだっ、と喚くのに、飼い主に怒られた犬よろしく慌てて櫻井の元に戻る松本に、確かに似てる、と嘆息する。

 白鷺も松本も一番大切な相手に不器用すぎる。ついでに相手が両方鈍感すぎ、生真面目すぎる。

「いやー、俺っていい上司だよなあ」

 大野は笑ったが、状況は軽くない。上には上の苦労があるさ、と溜息をつきながら書類を取り上げた。

「んーと、このネクタイ、じゃちょっと派手かなあ」

 鏡の前で相葉はあれこれ服を試着する。

「いいんじゃない?いかにも馬鹿で間抜けの華族さまって感じで」
「酷いなあ、たっきぃ」

 鏡の中から滝沢に笑い返してきた。

「ちょっとは見違えたとか、かっこいーとか」
「言ってほしい?」
「…………何かお金かかりそう」
「正解」

 やれやれ、と肩を竦める相葉は白いシャツに濃い茶色の三つ揃い、一目見てわかる高価な懐中時計の金鎖を嫌味なほどに煌めかせてベストに納め、今はネクタイの色を悩んでいる。今合わせている織りが複雑な銅色のネクタイは光の当たり方で黄金色にも見え、ふわんと浮かせた長めの髪が日に透けるのには良く似合っているが、滝沢はそれを褒めてやる気はない。

「それで?」
「へ?」
「体大丈夫?」
「お仕事は待ってくれないから」

 くふ、と笑った唇がにこにこしながら、

「それに『夢幻』、けっこー効いてくれてるからだいじょーぶ」

 恐ろしいことを、吐いた。

「………使ってんの……?」
「まーね。だって、僕『夢幻』中毒って設定なんだよ?感覚ぐらい知ってないと。そう言ったら、おーちゃんが用立ててくれたの」
「でも、習慣性、あるんだろ?」
「うん、けっこーキてる。薄くなってくると、喉が乾くし汗が出るし、手足震えるし息苦しいし。胸どきどきいうし、何だか妖しい気持ちになるし。薬くれるなら何でもするーって気になってくる」
「ちょっとちょっと相葉!」

 滝沢は詰め寄った。

「まずいだろ、それ」
「どーして?」

 ひょいと首だけ相葉が振り返った。邪気のなさそうな瞳が楽しげだ。

「どうしてったって」

 ようやくさっきのネクタイに決めたらしく、うなずきながら襟元をまとめていく。

「仕事好きだから。やる以上、失敗するの嫌いだから、ちゃーんとぶっ壊す。それに新しい感覚ってたのしーし」
「そういう問題じゃない!」

 滝沢は顔をしかめた。

「向こうをぶっ壊す前にお前がぶっ壊れたらどうすんの、って言ってんの」
「あ、そっか。それもあるかー」
「そ、それもあるかーって………」

 んー、とふっくらした唇に可愛らしく指をあてて視線を上げる相手に溜息をつく。

「悩むようなことじゃない………仕事より体だろ?」
「違う」
「え?」
「僕は体より仕事」

 くすくす笑いながら相葉がもう一度鏡を覗き込む。滝沢の目から見ても今日の相葉はきらきらした光を放って見えるほど華がある。

「退屈より刺激。うんざりよりどきどき」

 ちろんと見えた舌が唇を濡らして蠢き、滝沢は思わず唾を呑んだ。

「楽しませてくれるなら、どこでも誰でもいーんだけどね。今は一番情報局が刺激的」
「…………なら、二宮は?」

 一瞬相葉の顔から笑みが消えた。

「二宮は、どうすんだよ」
「…………言ったじゃん、たっきぃ」

 薄笑いが戻った。

「にねも刺激的な人だけど、もー遊んでくれない。なら仕方ないでしょ?」
「………刺激的……かあ……あの人?」
「この前なんか殺されそうになっちゃったもんね」

 うふふ、と相葉は嬉しそうに笑った。

「すんごく刺激的で楽しかった」
「…………泣いてたくせに」
「………」
「………どうしたらいーのーって泣いてたくせに。二宮恋しくて」
「恋しいよ、そりゃ今だって」

 ゆらりと相葉の目が揺れた。

「けど、仕方ないじゃん、にの、僕許さないってゆーし。嫌われてるし。僕怪我したのに放って帰られちゃったしー」

 それは違うんじゃないか、と滝沢は言いかけた。
 滝沢が帰さなければ、あのまま二宮は相葉に付き添って目覚めるのを待っていたような気がする。けれど、何だかもう見ていられなかった。真っ青になっている二宮も、妙に幼い顔をして気を失ってる相葉も。何かお互いを傷つけなくては寄り添っていられないような二人の関係が辛くて。けれど、それは間違いだったのだろうか。

「ま、いいですけどー。所詮僕とあの人は敵どーし」
「相葉…」
「それに、もー会えないし」

 ふいと相葉は遠い目を窓から外に投げた。
 それは二宮が勤める港湾局の方向、その空を何かを探すように優しい目で見ていた相葉が微かに小さくつぶやく。

「僕死んだら、会えるかな。にの、お墓参りぐらいしてくれるかな」
「あいば」
「無理か、凄く怒ってたし」
「あいば」
「でも………死んだときぐらい……優しくしてくんないかなあ」
「あいばっ!」
「へ?」
「間違ってる!」
「え?」
「なんか、お前、間違ってる!」

 きりきり眉を逆立てた滝沢に、相葉はにこりと笑った。

「間違ってる?」
「うんっ!」
「たっきぃ」
「なに」
「僕死んでもにのに知らせないでね」

「………何だよ、それ」
「…………あんまりイイ状態で死なないと思うんだ」
「………」
「………最後ぐらい、嫌がられたくないし」
「……………ばかっ!」
「あ、ひどい。これから厳しい任務に向かおうって男に」
「ばかだからばかって言ったんだ!死んだこと知らせなきゃ、お墓参りに来れないだろっ!」
「あ、そっかー………ならいーや、諦めよ」

 相葉はくす、と笑って立ち上がった。なおも罵倒しようとした滝沢を振り返る。ネクタイを締め直し、襟を引き、少しポーズをつけてみせる。

「かっこい?、たっきぃ?」
「………かっこ悪い」
「あれ」
「逃げる男なんて、すんごく格好悪いぞ!」
「は、はは。きついなー」

 じゃ、行ってくるね、と相葉は身を翻して部屋を出て行った。

「あいばか………大人しく黙ってなんかいてやらないからな」

 滲みかけた涙をぐいと擦って、滝沢は情報局の切り札と呼ばれた男、『明烏』の後ろ姿を見送った。



 諦めを覚えた夜に、僕達は何度でも逆戻りしてしまう。





 仕事が終わったのは、日付を跨ぐほんの少し前の事だった。
 忙しいのは嬉しい。それぞれが個々で仕事をもらえる今の状況にも満足していた。他の事を考える暇もない位、働きたい。
 そうすれば、心臓に今もある感情が消えてなくなるのではないかと思えた。
 知らない振りをして生きて、きっといつか失われて行く。それだけをもうずっと長い事祈っていた。
 自分が抱えているのは、不必要な恋情だ。



 車に乗り込んで、櫻井は鞄に放り込んだままの携帯を取り出した。今日はこれから彼女の家に行く予定だ。
 「遅くまで仕事してたら、ご飯億劫になっちゃうでしょ?食べて帰るだけで良いから」と、笑ってくれる彼女がとても好きだった。
 そんなに会える訳でもないし、約束を守れない事も多い。
 何度か喧嘩しそうになった時もあるけれど、大抵いつも引くのは彼女の方だった。「浮気してるんじゃなければ、全部許すよ」。涙を押しやって言い切った彼女に、自分は随分と救われている。
 仕事をして友達ともたまに遊びに行って、彼女の家に帰って。忙しくて幸せだった。
 余計な事を考えなくて済む。
 あの人を心配する心が、メンバーの域を越えてはならなかった。別に遠い場所にいる訳じゃない。
 仕事で会えるし、大っぴらに世話を焼く事も出来た。今の距離で充分なのだ。これ以上を望んではならない。
 心臓が、僅かに痛んだ。
 いつか、消えてなくなれば良い。大事な感情ではなかった。
「あれ……?」
「どうした?何か忘れたか?」
 後部座席に座った櫻井の小さな声に、助手席にいたマネージャーが振り返る。携帯画面に視線は向けられているから、忘れ物の類ではないらしかった。
 液晶の明るい画面を睨み付けた後、櫻井はゆっくり顔を上げる。
「マネージャー、今日さとっさんって仕事どんな感じ?」
「え?大野君の?……ちょっと待って……えーと」
 携帯画面には、着信履歴が表示されていた。彼から電話が来た事なんて、自分が記憶する限り一度もない。
 何か良くない事でも起きたのだろうか。それとも誰か他の人間に掛けようとして間違えたのだろうか。
 「大野智」と表示された下に、小さく着信のあった時間と何秒コールされたかが示してある。ほんの三十分前に、たった五秒のコールだった。
 あのぼんやりした人なら、操作方法を間違えて鳴らしてしまった事も考えられる。
 けれど。
「あ、あったあった。今日は朝に雑誌の取材が一つだけだね。午後はオフになってるよ」
「ありがとう」
「どうかした?大野君に連絡した方が良い?」
「……いや、良いや。ごめん、変な事聞いて。そのまま家向かってくれれば良いよ」
「ホントに?気になる事あるなら、僕から連絡しておこうか?」
「大丈夫。また明後日会うし。そん時にする」
「そう?」
 心配した顔を見せるマネージャーにもう一度頷いて、シートに深く腰を掛けると目を閉じた。
 何でもないかも知れない。何かあったのかも知れない。
 家に着くまでの僅かな時間、櫻井の心は決まらないままだった。
 このまま知らない振りをして、一度家に帰ってから彼女の家に行くのが正しいだろう。彼が何処にいるのかなんて知らなかった。知りたいとも思っていない。
 ああ、でも何かあったらきっと自分は後悔する。
 車を降りた後、一度電話をしてみよう。メールなんて送ったところで読まないだろうし、まず返信は期待出来なかった。
 ワンコールの着信が気になって電話をするのは、メンバーとしての心配の範囲内だ。
「お疲れ様でしたー」
「明日、少しゆっくりだけど、モーニングコールいる?」
「いや、大丈夫。車、下に着いたら電話してもらえれば」
「分かった。じゃ、お疲れ様でした」
 車が見えなくなってすぐ、エントランスに向かいながら彼の番号を鳴らした。
 滅多に使う事のないメモリー。多分、メンバーの中で一番使用頻度が低いだろう。ほんの少し緊張して、でも今更そんな理由は何処にもないのだと首を振った。
 コールは続いている。エレベーターに乗っても、目的階に着いてもコールは止まなかった。留守電に替わる気配もなくて、普段本当に携帯を使わない人なんだと思う。
 いい加減出て欲しかった。着信があったのは、ほんの一時間前の事なのに。
 何かあった時に、彼が自分の所に連絡を寄越さない事位分かっていた。きっとメンバーの中で最後にされるだろう。
 でも、と思って家の扉を開ける前に廊下から空を仰いだ。
 真っ黒な天空に真っ白な満月がある。
 あんなものが東京の空に大きく浮かんでいたら、感覚で生きている彼はおかしくなってしまうかも知れなかった。
 月の満ち欠けに左右されそうな、危うい印象のある人だ。知識とモラルで生きている自分とは、全く違う時間の流れの中で生きていた。
 だから、彼が今何を考えているのかは分からない。あの満月を見て、何を思うかなんて。
 耳に当てている携帯からは、途切れる事のないコールが続いていた。ほんの僅か声を聞けば安心出来るのに。
 どうしよう。
 事故とか病気とか、分かりやすいものなら自分は必要ないだろう。でも、目に見えなくても命に関わるような出来事が確かに存在する。
 僅かな仕草、たった一言の言葉で死んでしまう瞬間が。其処に嵌っていたとしたら。
 救ってやりたかった。
 自分も相当あの満月にやられているな、と小さく笑う。
 鳴り続けるコール。
 杞憂ならば構わない。相変わらずだねえ、なんて笑われて同じように笑い返せば良かった。
 靴を脱いで部屋に上がると、一度回線を切る。
「……っはあ」
 何をこんなに必死になっているのだろう。明後日会った時に「一昨日の電話何だったの?」と聞けば済む話だ。
 真っ暗な部屋に無造作に鞄を放った。手には携帯を持ったまま。
 ブラインドの隙間から差し込む月明かりが、不安を募らせた。
 もう一度発歴を表示させて、大野の携帯を呼ぶ。
 出て欲しかった。何も心配はないのだと、自分が出る幕はないのだと安心させて欲しい。
 無機質な発信音が、やけに大きく響いた。二十コール目を越えて一度切ろうかと思った瞬間、不意にコールが途切れる。
 留守電に切り替わったのかと思った。けれど、通話口から聞こえて来るのは人がいる場所のざわめきだ。
 慎重に、自分の声を選ぶ。今この瞬間に相応しい最良の、落ち着いた声を。
「智君?」
「……っ」
 一瞬詰まった息遣いは、間違いなく彼のものだった。通話ボタンを押す前に、自分からのものだとは分かる筈なのに。
 足許に視線を向けて、月明かりに反射した床を眺めながら沈黙の気配を追った。
 ふと、彼が一人で泣いている姿を想像する。大きな月の下、真っ暗な場所に座り込んで静かに涙を流していた。
「智君。電話、どうしたの?」
 そんな妄想は、必要ない。
 涙を零し続ける彼の姿を網膜から消すと、意識して冷静に問うた。
 僅かに続いた沈黙と、それから何かを振り払った気配。小さく息を吸い込んで、多分今目を閉じた。
 貴方は今、何処にいるの?
「……しょーくんだー」
 場違いな程明るく気の抜けた声は、酔っ払いのそれだった。演技の上手い人だ。一瞬前の沈黙を消し去ってしまう、圧倒的な空気だった。
 受話器越しに、彼の気持ちを探る。
「俺に連絡するなんて、何かあったの?」
「……えー、俺、しょーくんに電話なんてしてなーい」
 嘘を吐いていた。何て事のない素振りで、全てをなかった事にしてしまう。
 きっと彼は、俺からのしつこい着信に気付いていた。液晶画面を眺めて、何度も躊躇ったに違いない。
「覚えてないよー知らないー」
「智君」
 わざと空気を張り詰めさせた。
 最初に動いたのは、大野の方だ。今確かに杞憂だった事は分かったけれど、何かを隠すその声が気に入らなかった。
 何かが起きなくても、人は死ねる。目に見えない深みに嵌って、生きるか死ぬかの危うい線の上にいるような気がした。
 俺に何も言わないで、お前は何処に行くんだ?
「……」
「智」
 沈黙で答えた大野の名前をはっきりと呼ぶ。普段は決して口にする事のない、誰にも聞かせた事のない呼び方だった。
 電話の向こうで、何を思っているのか知りたい。
 ああ、俺もおかしくなっている。
 白い月の光に魅せられて、踏み込んではいけない領域に足を進めていた。
「翔君」
「ん?」
 大野の声は、いつでも柔らかく響く。相変わらず声の後ろには喧騒があった。
「……六本木」
「うん」
「外苑東通りの」
「うん」
「ドンキの向かいの、一つ角入ったとこ」
「うん」
「いつもの、地下の店」
「うん」
 いつもの、と言われても分からなかった。やはり振りだけではなく、酔っているのも確からしい。
「其処、いるから」
「うん」
 穏やかなトーンの声は、いつでも耳に心地良かった。
 安心してしまう。自分の手の中にいるような、そんな幸福な錯覚。
 再び、回線に沈黙が落ちた。張り詰めた息遣いが、声の印象を裏切る。
 何を、考えているの?

「……迎え、来て」

 静かな声。背後にある店内のざわめきも、足許にある月明かりも意識の外だった。
 大野の声しか聞こえない。
 他には、何も。
「来て」
 考えるより先に、身体が動いていた。携帯だけを持って、部屋を飛び出す。すぐ行く、とだけ告げて電話を切った。
 彼は泣いている。
 誰にも分からないように。世界の片隅で、生死の境目で。
 それを救うのは、自分しかいない。同じ感情を有する俺にしか出来ない事だった。部屋を飛び出して、タクシーを捕まえる。
 聞いた事のない言葉。
 心臓がじくじくと痛む。
 見ないように生きて来たものだった。いつか忘れなければならない、不必要な。
 同じものが、大野の心臓にも巣食っている。
 満月を見上げて、タクシーに乗り込んだ。
 携帯を握り締めたままの手で、心臓を押さえる。此処にひっそりと存在するのは、互いへの消える事のない恋情だった。





+++++





 大野は、カウンター席に当たり前の仕草で座っていた。慌てて入って来た櫻井を振り返っても、飲み友達に向けるような気安い笑顔を作る。
「智さん、帰ろ」
「……何処に?」
「何処でも良いけど、外にタクシー待たせてあるから」
「まだ、飲み途中」
 グラスを翳して、拗ねたように言った。それが口だけだと分かってしまったから、強引に会計を済ませて大野の手を引く。
 椅子から降りた身体が僅かに傾いで、留めようと腕を強く引き寄せた。
「痛い、翔君」
「あ、ごめん」
 素直に謝って、腕ではなく掌に手を伸ばす。何気ない動作で指先を絡めて、喧騒から大野を連れ出した。
 多分、仕事が終わってからずっと飲み続けていたのだろう。繋いだ掌が熱かった。
「どんだけ飲んでたんですか?」
「別に、いつも通りだよ」
「……そのいつもが摂取し過ぎなんだよ」
 前に何処かで聞いた事がある。
 アルコールや煙草を手放せない人は、感覚が鋭過ぎるのだと。自分の周りで起こっている全てに敏感に反応してしまう感覚を麻痺させる為に、摂取するらしい。
 それを聞いて、まず思い浮かんだのはこの人の事だった。なるほど、と頷けたし、鋭敏だというにはぼんやりし過ぎだなとも思う。
 酒に溺れるアイドルだと言うのに、彼のイメージが汚れないのはひとえにそのおっとりとしたキャラクターのおかげだろう。
 アルコールのせいで変化した彼を見たくなくて、手を繋いだまま視線は逸らしていた。火照った肌や潤んだ瞳に正気でいられる自信はない。
 地上に出て、待たせていたタクシーに無理矢理押し込んだ。とりあえず、彼を家まで送るべきだ。部屋に入るのを見届けなければ、また何処かで飲み始めてしまう。
 ドアが閉まって、運転手に大野の住所を告げようとした。その一瞬前に、繋いだ指先をくいと引かれる。
「なに?」
「俺、まだ帰んねーよ」
「智さん、何言ってんの?」
「帰んない」
「我儘言わないで。昼から飲んでたんなら、もう充分でしょう。家までちゃんと送るから寝なさい」
「嫌」
 運転席をちらりと見て、これ以上交通量の多い所に止めている訳にはいかないと感じた。
 指先が熱い。
 今すぐに彼を安全な場所へ帰さなければ、どうにかなってしまいそうだった。
「じゃあ、何処に行きたいの?」
「……家以外」
「なら、ホテル行く?」
 声にいやらしさは込めていないと思う。普通のシティーホテルに入って、其処に置いて行っても良かった。
 彼を救うのは自分しかいないと思って迎えに来たのに、もうぐらついている。
 何故、同じ性を持つ彼がこんなにも愛しいのか。
「ホテルなんて、やだ」
「じゃあ、」
「此処じゃない、何処か。そーゆーとこ行きたい」
「智さん……」
 やっぱり、回線越しの違和感は間違いなかった。
 危ない線の上を歩いている。満月に左右される鋭敏な心。
「運転手さん、すいません」
「はい」
 眉を顰めてバックミラー越しに伺っていた運転手に、自分の住所を告げた。速やかに走り出したタクシーのシートに身体を預ける。
「翔君……」
「これ以上の我儘は聞かないよ」
 覗き込んで来る彼の表情を見たくなくて、わざと目を閉じた。自分の家なら、此処からそんなに時間は掛からない。
 動いたのは自分だった。それならば、最後まで面倒を見るべきだ。厄介な責任感はデビューしてから強くなっているなと一人笑って、指先の人を思った。
 熱い手、まだこちらを伺っているらしい瞳、触れる薄い肩。
 ニ人きりでこんなに近くにいるのは久しぶりだった。デビューしてすぐの頃はもっと一緒にいたけれど。
 傍にいられない原因を作ったのは、他でもない自分達だったから。
 一緒にいる事は出来なかった。
 脈拍が少し速くなっている。こんな安心出来る穏やかな人を前にしても、自分は緊張するらしかった。

 消える事のない恋情。
 まだ、こんなにも鮮明に此処にある。

 大野を連れ帰って、満月の夜をきちんと越えられるのか。早く夜が明ければ良いと願いながら、深夜の道路を走るタクシーのエンジン音に耳を傾けた。





+++++





 少しだけ躊躇って付いて来る大野の手を引いて部屋に入る。
「翔君……」
「そんな、不安そうな声出さないでよ」
「別に不安なんかじゃ、」
 暗い部屋の中で、振り返って笑って見せた。僅かに怯えた目尻が愛らしくて、どうしていつまでもこの人は可愛いのだろうと疑問に思う。
「入って」
 電気を点けないまま、自分の部屋に招き入れた。月明かりの差し込むフローリングは、先刻と少しも変わらない。
 静かな夜だった。
「どうして、こんなとこ連れて来たの?」
「せっかく迎えに行ったのに、置いて行ったら意味ないでしょ。貴方まだ飲みそうだったし」
「……翔君ちじゃなくても良かった」
「家帰りたくないなんて我儘言うからだよ」
「放っておいてくれて大丈夫だった……」

「俺の携帯、鳴らしたの智さんでしょう」

 言って、真っ直ぐに見詰めれば戸惑って唇を噛んだ。暗い部屋でも分かる彼の表情が苦しい。
 離れているのが一番だと分かっているのに、連れ帰ってしまったのは心配だったからだ。
 一人で泣かれるよりは良かった。例えそれで、お互いがより苦しくなろうとも。
「翔君」
「ん?」
「朝まで一緒にいてくれるの?」
「いるよ。智さんがそう願うなら」
「うん」
「あんま飲まれても困るけど、ビールとかならあるから持って来ようか?」
「……良い。いらない」
「え、」
 首を振って一瞬俯いた次の瞬間、遠慮がちに抱き着かれた。額を押し付けて、繋いでいるのと反対の指先がシャツの背を掴む。
 けれど、身体は少し離れていて今すぐにでも突き放して欲しいと言っているようだった。
 拒絶出来る筈がない。臆病な仕草に、胸が痛かった。
「智君」
「……うん」
「今日だけ、だよ」
「分かってる。ごめん」
「謝んないで」
 嬉しいから、とは言えない。
 怖がらせないように薄い背中をそっと撫でた。びくりと揺れた肩を離さないように押さえ付ける。
 昔は見上げていたのに、いつの間にか腕の中で収まるようになっていた。最初の時から、自分達は随分歩いて来たのだと知る。
 離れる事で繋がって来られた。これからも二人で生きて行く事はない。
 今夜だけ。
 ほんの僅かな時間の幻影だった。
「翔君」
「うん、此処にいるよ」
 揺れる不安定な心ごと抱き締めて、死なせないと強く思う。
 月明かりだけが射し込む部屋は、隔離された二人の世界だった。





+++++





 気付いたら好きだった、と言うのは嘘臭く聞こえるだろうか。
 デビューしてからはずっと一緒にいた。最年長なのに、メンバーの誰よりも危なっかしくて放っておけない。
 リーダーになってもマイペースのまま、結局は自分が仕切る羽目になった。
 自分の性分と彼の性質がぴたりと一致していたのだろうと思う。その居心地の良さが、もしかしたら始まりだったのかも知れない。
 手を掛けるのが楽しかった。
 それなりの苦労人で、でも一人では生きられない彼の事を現場の誰よりも分かるのが嬉しかった。正確には、右脳で生きている人の事を全部理解する事は出来なかったけれど。
 安心して預けられる信頼を込めた瞳に、優越感を見出すのに時間は掛からなかった。
 仲間としての気持ちが揺らいだのがいつだったかは、分からない。ずっと彼女はいたし、自分が男に惹かれるだなんて思いもよらなかった。
 でも、大野が自分の事を好きなのだと気付いた瞬間は今でもはっきり覚えている。
 二人で飲みに行っていた。今では考えられない事だけど、未成年の癖にカウンターバーに腰を落ち着けてゆっくり話していたのだ。
 穏やかな空気と、肩の触れ合う距離。
 まだあの頃は、酒好きの彼も自分の酒量を把握していなかった。明らかな深酒で、心配するよりも前に見つけてしまった感情。
 優しい瞳の奥にある渇望の色。
 ぞくりとした。
 普段のテンションとのギャップが映える、ステージ上で感じる色気と同じ類いのもの。けれど、本来客席全てに向けられる筈のそれが今全て自分に向かっていた。
 彼は、自分の事が好きだ。
 人の感情には敏感な方だった。
 だから恋を逃す事はなかったし、人とコミュニケーションを取る時に不愉快な思いを抱かせる事も少ない。読み違える事はなかった。いつもなら隠している感情が、アルコールのせいで溢れてしまっている。
「智君」
「……っ、帰ろうか」
 慌てて逸らされた瞳の狼狽と、淡く染まった耳朶にどうしようもない愛おしさを感じた。
 抱き締めたいと思ったのだ。同じ仲間で同じ性を持つ彼に覚えた衝動に、恐ろしくなった。
 あの瞬間を彼が今でも覚えているかは分からない。でも、あの日以来二人で飲みに行く事はなくなった。
 言葉で確認した訳じゃない。
 好きだと思う事が怖かった。手に入れられる距離にいる事が辛い。
 だから、お互いに固執する前に諦めた。二人が手を取る事は、五人の破滅の始まりを意味する。
 恋なら、グループ内じゃなくて良かった。愛しいと言う感情は、女の子に向けられるべきだ。
 欲しくなかった。
 お互いを求める心と相反するように、自分の感情を捨て去りたいと願う臆病さ。
 あの夜に戻らない為に。
 大野は、櫻井の知らない人間と酒を酌み交わす。櫻井は、大野の知らない女性と付き合い続ける。
 二人が選んだ距離だった。



 月明かりの射し込むフローリングの上に、二人は直接座っていた。
 櫻井は壁に背中を預けて、足を伸ばす。大野はその横に足を投げ出すと、櫻井の胸に上半身を預けて横抱きにされていた。
 今夜だけ、と何度も心の中で言い訳をする。
 大野の左耳には、櫻井の心音が響いた。櫻井の両腕は、宝物を守るように大野の身体を抱き締める。
「……別に、翔君がいなくても俺は平気だよ」
 言い訳を零す唇を今すぐ塞いでしまいたい。自分の身体を全て預けて言う台詞ではなかった。大野の手は、櫻井のシャツの裾をしっかりと掴んでいる。
「酒飲む人は一杯いるし、作品作る仲間もいる。嵐だって、メンバーは翔君だけじゃないしね」
 ふわりふわりと落とされる言葉は、どんな感情を込めようとしても柔らかかった。優しい音階。
 ずっと、分かっていた事だ。
 二人ともとっくに決意していた。
 大野が櫻井を選ぶ事だけはないと言う事。櫻井が大野を選ぶ事だけはないと言う事。
 それが、生きて行く為の必要条件だった。手に入れたいと願う欲は、二人だけでなく周囲を巻き込んでしまう。
 強過ぎる感情だった。離れる事だけが必要だった。
「今、此処から翔君が消えても、俺は何一つ困らない」
 大野の言葉は真実なのに、シャツの裾を握る指先に可哀相な位力が込められる。
 どうしようもなかった。一つ一つの言葉が、愛していると叫んでいるみたいで。
 夜が明けないで欲しいと願う自分が怖かった。



 ふう、と息を吐いて大野は目を閉じてしまう。自分の心拍が早くなっていないか不安だった。
 この距離では全てが明らかになる。隠すべき感情が無様なまでに晒されているのに、何を恐れるのか。
 二人分の恋情が月明かりを受けて鈍く輝いていた。フローリングの板目を、櫻井は凝視する。
 恋で死にそうだった。
 取り返しのつかない場所まで来ている。
 静かに朝を待ちたかった。このままでいられれば、またお互いの記憶を閉じ込めるだけで済む。
 目を閉じて、彼の体温を記憶しておこうと思った。
 別にスキンシップと言う意味でなら、いつでも出来るけれど。僅かに恋を感じさせる距離にいる自分達を覚えておきたい。
「あ、翔君。携帯」
「え」
 ぱっと目を開けた大野が、おもむろに手を伸ばした。櫻井のジーンズの後ろポケットに押し込まれた携帯を取り出す。
 興味深げに光っている液晶を見詰めて、それからゆったり笑った。視線は上がらないまま。
「彼女からだよ」
 はい、と気軽に手渡されて狼狽えたのは櫻井だった。
 受け取った携帯を開いて、着信画面を眺める。二十秒位震えたところで、ふつりと振動は途切れた。
「……今日、終わったら飯作ってもらう約束してたんだった」
 忘れていた自分に苦笑する。
 一回目のコールで出なかったら潔く諦める人だった。もう、鳴る事はないだろう。着信画面を閉じて、メールの画面を開いた。
「何で約束してたのに、こんなとこにいるの?」
 分かっていないで聞いているとしたら、やっぱり彼は天然だ。苦笑してメールを打ちながら、どうしてこの人が良いんだろうなと思った。
 理由があったらもっと簡単だ、とはきちんと分かっている。
「智君が久しぶりに電話なんかするからだよ」
「俺のせい?」
「そう。吃驚するじゃん」
 送信ボタンを押して、空気を軽くしようと声のトーンに気を付けながら話す。
 彼女には、急な仕事が入ってしまったと言い訳した。なるべく嘘は吐かないようにしたいけれど、わざわざ言いふらしたい状態ではない。
 出来れば誰にも気付かれずに、この夜を越えたかった。
「ごめん」
「良いよ、別に」
「……今からでも、行ったら?俺へい……」
「行かない。一緒にいる」
 即答して、腕の中にいる人を見詰める。月明かりを受けた瞳に自分が映っていた。
 不安定な色。
 逃げかけた身体をもう一度抱き締め直す。満月の効力が、何処まで二人の恋を誤摩化してくれるかは分からなかった。
 言って良い言葉を上手く選択出来ない。自分の感情が制御出来なくて、怖かった。
「……泣いてるんじゃないかと思ったんだ」
 大野の瞳が簡単に滲む。何の誤摩化しもきかなかった。
 腕の中に、俺の事を好きで死にそうな人がいる。その愛しい存在を慰めたいと願う自分がいる。
 欲しがってはいけない人だった。欲しいと思った唯一の人だった。
「馬鹿だなあ、翔君は。俺、泣かないよ」
「うん、……そうだね」
 こう言う時に、彼が年上である事を知った。上手に笑んで、何て事のない素振りを見せる。
「この彼女とは、どれ位付き合ってるの?」
「一年、位かな」
「そっか。優しい?」
「優しいよ」
 大野は、二人きりの夜を壊そうとしていた。シャツの裾から手を離して、瞳を僅かに伏せて。
 朝を迎える為の準備だった。
「さとっさんは?」
「んー?」
「彼女、とか」
 大野の唇からはさらりと零れる問い掛けも、櫻井には上手く紡げなかった。
 優しくない自分に気付かされる。欲しい欲しいと泣きじゃくる子供の駄々。
「いないよー。俺、女の子大好きだけど、傍に置いときたくないんだよね。あんな、すぐ壊れちゃいそうなのは苦手。心配ばっかり増えるもの。……それに、俺には酒があるしね」
 彼もまた、自分の恋情を上手く隠せていない。彼女を作る事が俺なりの隠す術だと見抜いていた。
 消さなければならない恋情の隠し場所。俺が彼女にそれを求めるのだとしたら、彼は酒に求めている。
 言葉の欠片を零してはならなかった。大野は、それに気付いているだろうか。
「女の子と子供作るより、友達と作品作る方が良いよ」
 彼らしい極論だなと思った。大野は、不安定なものを信じていない。
 愛なんて言う最も不安で曖昧なものを信じられる訳がなかった。自分の心臓にある感情すら信用していないのだ。
 芸術家の発想とは裏腹な現実主義だった。
「あ、メール」
 邪気のない声で言って、櫻井の手から勝手に携帯を奪う。
 受信ボックスを開いて中を読むと、変な声を上げて笑った。悲しいのでも蔑むのでもない、渇いた声だった。
「人のメール勝手に読まないで下さい」
「止めなかったじゃん」
「そう言う問題じゃないでしょう。他の人にやったら絶対嫌われるよ」
「翔君は?」
「……っ」
「嘘。冗談。返信したげなよ」
 彼は、本当に上手に笑う。メンバーとしての距離感を確実に把握していた。
 自分はそんなに器用じゃない。忘れた振りで忘れてしまう事を、何処かで恐れていた。
「返信しないの?」
「……する、けど」
「お仕事頑張ってね、だって。……これ、お仕事?」
 楽しそうに大野は言う。
 携帯を手放す気はないらしく、勝手に返信画面を開いていた。器用な指先を見ながら、言葉を探す。
 彼のように上手な、真実を隠す言葉を。
「……そうだよ。リーダーの管理なんて、俺位しかやんないって」
「そーだねえ。翔君は良くやってるよなあ。俺だったら絶対やだもん」
「自分で言うなって」
 画面には、「ありがとう。おやすみ」と簡潔な文が表示されていた。ボタンを押す指先が綺麗で見蕩れていたら、躊躇なく送信される。
 まあ、良いか。メールの良いところは、心情が文に表れない事だった。今の文章と大して変わらないものを自分も送っただろうし、彼女は大野が打っただなんて絶対に気付かない。
 それが嬉しいのか悲しいのかは、今の自分には判断出来なかった。
「はい、返す。メールってつまんないね」
「智さん嫌いだもんねー」
「うん、嫌い。何処にも本当がないから」
 他人を求められる強い人だから、感情のないものを酷く嫌った。会話も酒も創作も全て、体温のあるものだ。
 誰のものにもならないけれど、大野は沢山の人を求めていた。
 俺には、出来ない。この手に抱えられるものは僅かで、出会った人全ての感情を受け取れるような度量はなかった。
 そして、大野にも僅かな人だけを受け入れて欲しいと願う身勝手な自分がいる。たった一人を、求めて欲しかった。
 俺は、智君だけだよ。
 ずっと永遠に望むのは、唯一人。同じ感情を強いる事が無理だとは知っているけれど。
 今、この夜に抱えられるのは腕の中にいる彼だけだ。彼自身がそれを望んでいないとしても。
「智君」
「んー。眠くなった?」
「眠いのは、いつだって智君の方でしょう」
「そっか。どうしたの?」
「智君」
「うん」
 大野は空気の変化を敏感に感じ取って、櫻井の胸に左半身を預けてそっと瞳を閉じた。
 早くなる心拍。強くなる拘束。
 離れられない二人。
 夜は、未だ明ける気配がない。

「俺のもんになって」

 互いの呼吸が、止まった。
 決して告げてはならない言葉。独占欲と愛情の、どちらが強いのか。
 多分、独占欲の方だった。
 誰にも奪われたくない。自分の知らない人と生きていても、その心が自分から離れる事は許せなかった。
 「愛している」より昏い、「欲しい」の言葉。
「駄目だよ」
「智君」
「……まつじゅんでも、にのでも相葉ちゃんでも良いけど、翔君だけは駄目。翔君も同じでしょ?」
「そう、だね。俺も智さんだけは駄目だわ」
 頷いて、大野は優しく笑う。互いが互いで駄目な理由は一つだけだった。
 愛し過ぎているから。
 その手を取った瞬間に、きっと全てが壊れてしまう。他の何も要らないと、この心臓はちゃんと知っていた。
 破滅する事が分かっているのに、手に入れる事は出来ない。
 二人にとって、自分の恋情より大切にしたいのは嵐と言うグループだった。五人で過ごすあの場所を、絶対に失いたくない。
 たった一人を欲しがるより、五人で一緒にいたかった。その為には、永遠にこの距離を保つ他ない。
「これからも、ずっと一緒にいるから」
「うん」
「俺、翔君いないとちゃんと仕事出来ねーし」
「そうだね」
「良い大人なんだから、俺達」
「そうだね」
「でも、」
「……智君?」
 俯いてしまった大野の頬に手を添えた。言葉を返さない彼の肩が震えている。
 大人の振りをして遣り過ごすべき瞬間を、彼の心臓が拒んでいた。
「翔君」
「なぁに」
 いけない、と大野は思った。
 自分だけを抱く腕、自分だけを呼ぶ声、自分だけに触れる唇。自分の為だけに生きる彼を想像して、ぞっとした。
 それを欲しがる己が、何より浅ましい。俺は、彼のものになるつもりなど少しもないのに。
「どうしたいの?」
 優しい声に、どうして自分は彼の携帯を鳴らしてしまったのかと大野は後悔する。あの店で一人飲んでいれば良かった。
 何度も何度も気持ちを抑えて生きて来たのだ。知らない振りをして、メンバーの距離で付き合って、その線を越えない場所で甘えていられれば良かった。
 それなのに。
 この心臓は、何と欲深いのだろう。
 ゆっくりと顔を上げて、櫻井の瞳を見詰めた。小さく息を飲む音と、困惑して歪む眉。
 ごめんなさい、と冷静な自分が思う。
「何、泣いて……」
「翔君」
 身勝手なのは、自分が一番知っている。分かっている。
 でも、どうしても止められなかった。
 右腕を彼の後頭部へ伸ばす。溢れる涙のせいで、顔が良く見えなかった。
 苦しい。
 愛しい。
 欲しい。
 他の何も要らないと願う自分は、愚か過ぎて嗤う事すら出来なかった。
 首を伸ばして、キスをねだる。その仕草だけで全てを分かった頭の良い彼は、少しだけ怖い顔をして望む通り柔らかな口付けをくれた。
 頬に添えられた手が、涙を拭う。一瞬の接触は、甘さよりも痛みが強かった。
 当たり前だ。
 決して欲してはいけないものなのだから。スキンシップでないキスは、いけない事をしているのだと自覚させた。
 痛いのに、欲しい。
 あの時、使わないメモリーなんて呼び出さなければ良かった。
「もっと」
「さ、としくん」
「もっと。駄目だ、俺。何で……」
 心臓に巣食う欲は大きくなるばかりで、死にそうだった。死んだ方が楽だと思える位。
 痛い痛い痛い。
 恋なんていらなかった。そんな怖いもの、俺に抱える事は出来ない。
 櫻井の優しい指先が、頭を撫でた。もう一度落とされたキスも、同じように優しい。
「……お願い。優しくしないで」
「優しくしたいよ」
 首を横に振った。
 夢を見たくなるから駄目だ。
 出来ない。俺は、翔君と生きて行けない。
「酷くして。もう、欲しくならないように」
 無理な事だとは分かっていた。
 彼を要らなくなる日なんて、永遠に来ない。お互い分かっている筈なのに、櫻井は小さく笑って頷いた。



 もうすぐ朝が来る。
 この夜が幻影に変わる。
 櫻井は、朝まで大野を手放す事はなかった。ずっと、優しいだけのキスを与える。
 大野の心臓で荒れ狂う恋情等無視をして、慈愛とも取れる接触だけを繰り返した。
 彼が手を伸ばしても、「もっと」と強請っても、決して望む通りにはせずに。苦しんで顰められた眉にも柔らかな口付けを落とした。
 彼が恋で死なないように、朝が来たらまた生きて行けるように。
 自分は、これ以外の遣り方を持ち合わせていない。それで良いのだと、大野はきっと思っているから構わなかった。
 緩く抱き合って、恋情を逃し合う。
 お互いがこの夜を忘れる事がないように。二度と、同じ夜に迷い込まないように。



 これが、五人で生きて行く為の、二人の方法だった。
 リハーサルも順調に進んで、後は本番に備えて体調を整えておけば良いと言う状態だった。
 全十曲、多い数ではない。
 けれど、大切に歌いたいものだった。
 俺達の軌跡を辿る公演。
 たった一度のそれに、どれだけの感情を込められるかは分からない。
 音に不安はなかった。
 選んだ曲は、どれも思い入れの強いもの。
 彼との記憶を共有するメロディー。
 空気のように密やかに、愛よりも尚深く。
 誰よりも近くにいた。
 多分これからも、傍らに立ち続ける人。
 誰がどんな思い入れを持っていても構わない。
 唯、この公演は彼と自分の為に。
 そう思う傲慢さを、俺はもう厭わない。
「光一」
 公演を明日に控えたリハーサル室で、先刻から彼の機嫌が悪くなっていた。
 思い当たる節はなくて、とりあえず呼び寄せてみる。
 少しだけ寄った眉、引き結ばれた唇、緩く握られた手。
 他の人間なら気付かないだろう変化。
 恐らく光一も誰かに当たるつもりは泣く、静かに消化したい事なのだろう。
 一人の現場なら構わない。
 そうやってなかった事にして仕事に集中するしか方法はないのだから。
 けれど。
 今は自分が傍にいる。
 一人で整理する事が上手になってしまった相方の手を引いて、甘やかしてやりたかった。
 部屋の隅に導いてその目を真っ直ぐ見詰める。
「何?」
「……どぉしたん、光ちゃん」
「どうしたって、何も……」
 困惑して揺れる黒目の煌きに見蕩れた。
 ああ、自覚はあるのだ。
 自身の感情に鈍感な人だから、もしかしたらその不機嫌に気付いていないのかもしれないと思っていた。
 分かっているのなら、自分の為すべき事は一つだ。
「何も、やあらへん。機嫌悪いやん。お前」
「悪くない」
「悪いやろ。自分で分かってんのに、俺の前で誤魔化すなや」
「……つよし」
 唇を噛んで押し黙る。
 繋いだ指先が強張って、拒絶を示していた。
 強情なところは出会った頃から変わらない。
「光ちゃん。言うて」
「嫌や。大した事あらへん」
「スタッフにセクハラされた?禁煙中?二日酔い?それとも、暑い?」
「どれも違うわ。そんな、駄々っ子みたいに扱うな」
「駄々っ子やんけ。お前なあ、せっかく俺とおるのに、何で?」
「何で、って」
「お前一人ちゃうやろ、言うてんの。溜め込まんでもええやろ」
「剛」
「うん、いるよ。此処に。一緒に」
 な、と笑ってみせて壁伝いにしゃがみ込んだ。
 手を繋いでいる光一も必然的に同じ形になる。
 壁に凭れて、隣りに座る彼の横顔を見た。
 端正な造りは、時に冷酷な表情を見せるけれど。
 いつまでも子供と同じ幼さや、不意に崩れる脆さを秘めている。
 そんな表情は、自分だけが知っていれば良い事だった。
 十年経とうが二十年経とうが、自分達は鳥籠の中から抜け出すつもりなどない。
「……何知ってんの、って思った」
「光一?」
 目線は前に向いたまま、ぽつりと零す。
 寂しそうな声音。
 繋いだだけの指先がゆっくりと動いて、指の間に絡まった。
 甘えるのを堪える仕草だ。
 抱き寄せて口付けを与えてあげたかった。
「皆おめでとうって言う。ありがとう、って言っちゃうの。俺も」
「うん」
「でも、何が?デビュー、出来たのは色んな人のおかげや。俺達が凄い訳でも偉い訳でもない」
「そうやな」
「やのに、皆俺達にだけおめでとう言う。そんな祝われる事してない」
「それが不機嫌の理由?」
「ううん。……つよし、笑わない?」
「何でお前が言う事に笑わなあかんの。笑わせたいなら別やけど」
「剛」
「はいはい。笑いませんよ。言うてごらん」
 掌をもっと深く組み合わせて、促した。
 意地っ張りで照れ屋で、変なところで臆病な恋人の内面を探るのは容易ではない。
 
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