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第一話
┗その名、伏せるべし

「だけどなぁ~」

 大野は眉を寄せて、情報局内でも堅物の男をまじまじと眺めた。

「翔くんには無理だと思うよ?」
「…なんでさ」

 きりきりと眉を寄せて櫻井は顎を上げた。

「繋ぎの娼妓の相手ぐらい、俺にだってできる」
「や、娼妓って言っても、相手は白鷺太夫、『夢幻屋』の花魁だよ?あいつは……いろいろと好き嫌いが激しいし………」

 大野は顔を引きつらせながら笑った。

「妙なやつなんだよ」
「いくら花魁とはいえ、同じ情報局の一員だろ?」
「それが通れば心配しないんだけど……」

 大野の歯切れの悪さに痺れを切らせて、櫻井は立ち上がった。黒コートを掴み、手早く羽織る。

「話はついてるんだろ。なら、さっさと行ってくる」
「うん………まあ………いっか、何ごとも経験だし」

 曖昧な物言いでなおもぼやく声を背中に、櫻井は局を出た。

 賑やかな通りを右に折れ、こんなところで見世が成り立つのかと思うような場所に『夢幻屋』はあった。櫻井だとて全く遊廓を知らないわけではない。しかも、今夜は既に話が通してあって、余計な手続きを踏むことは不要、すぐにニ階へ通されて待つまでもなく、おあがりぃ、の声が響く。
 それでもいささか緊張して、膝を揃え直したのは櫻井生来の几帳面さだ。

「白鷺でありんす」
「………は?」

 うなずいて、前に座った相手を見つめ、櫻井は凍りついた。

「ごめん………お前が白鷺?」
「あい、あちきが確かに」

 白と青を基調の仕掛けには、確かに真っ白な鷺の柄、だが、問題は小さく笑って胸元に手を当てた相手の奇妙なほどのあどけなさで。へたをすれば先日禿から上がったばかりと言っても通る幼い笑顔をにっこり向けられて、なお櫻井は凍り付く。




…待て。こんなのを大野は抱いてるのか?

「大野さまの繋ぎ、白鷺、と申しんす」

 軽やかな声で応じられてますます身動き取れなくなった櫻井に、白鷺はふ、といきなり大人びた吐息をついた。

「あのね?いつまでも固まってられても困るの」
「は?」
「大ちゃんの代わりなら床も済ませてく?初めてだったりする?」
「あ、い、いや」
「なら、どうしましょ。床?それとも情報?」
「あ」

 はっと我に返って櫻井は瞬きした。床か情報?じゃあ、どちらかでもいいのか?ほっとして慌てて大きくうなずく。

「俺は情報だけでいい」
「そっかー、残念」
「へ?」
「櫻井さん、けっこー、僕の好みかもって思ったのに」

 にこにこさらりと笑われて、何だか顔に一気に血が昇った。

「えーと、それじゃね、港湾局の内偵が本決まり。明後日の早朝6時に山風運輸乗り込みね」
「あ、うん、明後日、早朝6時だな」
「そう。人員早めに引き上げといてね。あそこの二宮さん、早起き大好きって人だから」

 くすくすと笑った赤い唇が蠱惑的に閃いて、思わずごくりと唾を呑む。それを見て取った白鷺は、薄笑みを浮かべながらふいに仕掛けを滑り落とした。細い肩が薄い襦袢一枚でさらされて、思わず見つめたその視線の先で、なおも白鷺が襦袢を滑らせる。

 ぬめるような光を帯びた肌だった。目が引き付けられて離せない。するする落ちていく襦袢に遮られていた胸元にほんのりと赤い実が宿って膨らんでいる。その実にほっそりとした白鷺の指が絡んで摘むように動いた。

「っふ」
「!」

 柔らかく息を吐いた唇が微かに開く。

「櫻井、さん?」
「う」

「ねえ?」

 抱いて、とは誘われなかった。けれど、つい伸ばした指を絡めとられて引き寄せられ、口を口で塞がれて、すぐに入り込んできた舌の甘さに、櫻井は我を失った。

 櫻井が帰ると相葉はすぐに床を立った。湯屋でゆっくり身体を休めて洗い流し、さっぱりとして上がってくれば、帳場で滝沢が眉を寄せている。

「どうしたの、たっきぃ?」
「あーいーばー、またただで御奉仕しちゃったの?」
「違うよー、御奉仕したのはあっち」

 にっこり笑って言い返す。

「これで上客、一人増えた」
「………落としたんだ」
「そ。大ちゃんの知り合いなら、まーいいかと思って」
「かわいらしい笑い方すんのな、怖いくせに」
「怖くないよ、職務に忠実なだけじゃんか」
「やめろよな、情報局一得体の知れない男のくせして、かわいこぶんの」
「あれー、しんがいー」

 くすくす笑う華奢な男を滝沢は心底怖いと思う。この顔、この姿、この年齢にして、相葉は情報局子飼いの切れ者、しかも常識も節操もないと来るから頭が痛い。気に入った相手とは好き勝手に誘惑して寝てしまうし、そのくせ夢中になるのは相手ばかり、本人はいつもしらっと明るくて、その明るさが気味悪い。なにせ「たっきぃも一回寝る?男犯すのやってみる?」なんて平然と誘いをかけるような人間なのだ。

 相葉が情報局の人間でよかった、こんなのが犯罪者だったら今頃巷は阿鼻叫喚だ、と溜息をつくと、相手はふあぅ、と眠そうにあくびした。細い両腕を伸ばす、その仕草にも人目を魅きつける媚びがあって、滝沢は思わずうんざりする。

「寝てこい?今夜は仕事ないんだろ?」
「そうする、櫻井さんってば予想以上にやらしいんだもん」
「はぁ」

 櫻井は確か情報局の中堅クラス、後には局長とも噂される人物を一晩で落として「やらしい」で済ませるあたり、性格の悪さがにじみ出ている。

「おやすみなさーい」
「おやすみ」

 くふんと鼻を鳴らしてひょいひょい上がる素足の踵にそれでもつい目を奪われて、滝沢は忌々しげに舌打ちした。

「翔くん、翔くんっ!」

 呼ばれてはっと我に返る。目の前に覗き込んでいる男の顔にぎょっとして慌てて目を逸らせた。大きな瞳はいつも意外なほど鋭い。しかも。

「香の匂い?」
「!」

 くん、と鼻を動かされて固まった。そうだった、こいつは神経も鋭いんだったと思う間もなく、押し倒されてうろたえる。

「翔くーん?」
「じ、潤」

 いくら私室とはいえ官舎の一画、同じ情報局の部下と上司と言えど、この状況ではただならない関係だと誰もがわかる。
 ねじあげられた両手を頭の上に押さえられて、じたばたもがく櫻井に、松本が薄笑いを浮かべる。

「離せっ」
「そっちこそ、話しんさい?」
「なっ、何を」
「今日の夕方、何してきた?」
「え、ええっ」
「『夢幻屋』行ってきたでしょ?」
「え、えええっ」
「ついでに白鷺抱いてきたでしょ」
「ええええええっ」
「……………そんなに真っ赤になったらもろばれだって」

 はぁ、と溜息をついた松本が櫻井の首に鼻を押し付けた。くんくん、とまた微かに鼻を鳴らす。

「せめてちゃんと風呂入っといてよ。他の男の匂いつけられてちゃ」
「じ、じゅっ」
「何かむきになっちまうでしょ?」
「っん、くんっ」

 首筋から耳元へ舐め上げられて、櫻井は唇を噛み目を閉じた。白鷺で放ったはずの気持ちがみるみる追い上げられてきて、自分がどれほどこの男に弱いのか自覚する。

「やつに誘惑されちゃった?」
「うっ」

 ちゅ、と口を吸われて目を開けると、滅多に見ない冷ややかな目が光っててどきりとした。

「まあ、仕方ないけど。あれは別格だし。あんたをそこへやったのキャプテン?」
「いや、その、俺が「また苛立って自分で乗り込んだ?」
「……」
「でおいしく頂いて……いや、頂かれてきちゃったわけね?」
「………」
「ま、いいや。キャプテンには俺が後で話つけるから」

 いや、待て、話って何のことだ、と焦った櫻井をよそに、松本が腕を押さえつけるのを片手にまとめ、もう片方の手で服を暴きにかかってなお焦る。

「こ、こら、潤、待て、それこそ風呂ぐらい」
「で?白鷺、自分のことどう名乗った?」
「え?いや、白鷺太夫、って……」
「ふうん………じゃ、あんたはお客なんだ……」
「は?」
「いや、白鷺が本名名乗るときがあって、どうもそのときの相手が本命らしいんだよね」
「ふう……ん?」

 何だいやによく知ってるな、ひょっとしてこいつも、と考え始めた櫻井の心を読んだように、ふいに松本が腕をきつく押さえた。
 痛みに顔を歪めて仰け反った櫻井の脚の間に身体を滑り込ませてきながらぼそりとつぶやく。

「どっちにせよ………今夜眠らせねえから」
「へ?」
「やつの匂い、消してやる」
「っ」

 膝で股間を押し上げられて、櫻井の微かな悲鳴は松本の口に吸い取られた。



第二話
┗射干玉の夢をご覧あれ

「………っ」

 目覚めての暗闇にはまだ慣れない。事件で視力を失ってからもう一年にもなるのだが。
 それでも、その間に身の回りのことが一通り自分でできるようになったのは二宮の感覚と記憶が鋭いことに関係するのかもしれない。
 無駄だとわかっても目を見開いて瞬きし、微かな光を求めて凝らしてみる。

「……」

 しばらく待っていると密かな時計の音が響いた。ふすまの向こうに人の気配が動く。

「おはようございます」

 家の細々としたことを片付けてくれている部下の声に体を起こす。

「二宮さま?」
「起きてる」
「失礼いたします」

 ふすまが開いて薄寒い風が入り込んできた。

「本日は」
「山風運輸へ行く」
「御視察は8時とお聞きしておりますが」

 二宮の肩にふわりとかけられたのは薄手のセーター、外の冷え込みはここからでもわかった。

「どうも気になる。早く出向く。朝食は不要だ」
「はい」

 すぐに部下は側を離れた。床から立ち上がり、枕元の服を手早く身につけていく。
 時計を懐中におさめようとして珍しく指が滑った。転がってどこかに消えていく音を必死に追う。


ごろごろ……ごろごろ……ごろ。


 その音が何かに似ている、そう思った瞬間に脳裏に鮮やかな閃光が走った。



 雨にずぶぬれになった薄い身体。

 振り向いた無邪気そうな顔に赤い唇が綻ぶ。

 透けるシャツ、張りつくスラックス、巻き締めたベルトが妙に妖しく絡むようで。

 稲光りの一瞬に、一重の瞳が薄笑いしてこちらを見ているのがわかった。

 その目に潜んでいたのは明らかな、殺意。



「っ!」

 険しく鋭い息を吐いて、二宮は音を頼りに懐中時計を拾い上げ、懐にねじ込んだ。

「雅紀……」

 つぶやく自分の声が不安定に揺れた。

一年前、二宮は港湾局上げての舶来船舶の監視についていた。

 開国に伴い様々な品物や文化がどんどん日本に流入してくる。それらは新しい国を作り、新しい文明を導くものではあったが、同時にそれまで日本になかった巨大な闇の流れを運ぶものでもあった。

 異国渡来の怪しげな薬、呪術、無気味な慣習と用具、珍品奇品。

 中でも阿片をしのぐとされる『夢幻』と呼ばれた薬は眠り薬の一種らしいが、これをある配分で従来の胃薬とまぜると胃炎を劇的に押さえるばかりか、痛みをひどく伴う病気の鎮痛に多大な効果があることがわかり、港周辺から一気に広まった。


 しかし、その『夢幻』が実は習慣性の高い、しかも手に入りにくい麻薬の一種であるとわかったのは、その味を十分にお偉方が堪能してからだった。

 港湾局は『夢幻』を厳しく取り締まった。だが、同時に情報局は『夢幻』を自白を強要するときの切り札に使っていたためにこれに抵抗、上層部で激しいやりとりがあった結果、政府御用達として限られた量が公的に輸入されることになった。

だが、既に上流階級の間では横流しだけではおさまらないほど薬に侵されたものもおり、必然的に金や権力にものを言わせて情報局や港湾局に無理難題を押しつけてくるようになった。

 時に二宮には妹がいて、悪質の病気に侵されており、激しい痛みに苦しんでいた。見兼ねた二宮はただの一度、『夢幻』流用に便宜をはかった。それで妹が高名な医者の治療を受けられるはずだった。

 その荷を積んだ船が着く夜、二宮は自ら現場に赴いた。

 だが、それを情報局は関知していた。大野櫻井松本を始めとする切れ者ぞろいが雁首揃えた中で、二宮の手は悲しいほどに無力だった。

 荷は情報局管轄となり押収されることになったが、その時、まさかの事故が起こった。

 積み荷の一部に発火性の薬品があり、折から降り出した雨に化学反応を起こしたとかで船で大爆発が起こったのだ。

 情報局へ入ったなら、それなりのつてもある、取り引き相手に交渉を持ちかけることもできる。

 そう一縷の望みを繋いでいた二宮の目の前で『夢幻』は全て灰になった。

 だが、降りしきる雨の中、驚くこともない情報局の面子を見て、二宮は悟った。これは計画されていたことなのだ、と。

大野が笑いながらコートを翻し立ち去る直前、それまで人影にひっそりと立っていた一人の男の肩を叩いた。

 雨にずぶぬれになっていたその男は軽くうなずき、何かに呼ばれたように二宮を振り返った。

 その顔を見た瞬間、二宮の胸に衝撃が走った。


 それは相葉、二宮が唯一気を許し入れ揚げていた花魁、白鷺太夫だった。



 白鷺が情報局の手先。



 茫然とする二宮の前で相葉は嫣然と笑った。床に誘うその顔で。二宮の下で喘ぎ悶える、その顔で。

 紅蓮の炎を背に微笑みかける相葉に思わず駆け寄ろうとした矢先、燃え上がった船が支えていた半端な位置の荷が二宮の上に崩れ落ちた。

 そして目が醒めたときには二宮は視力を失ってしまっていたのだ。


 妹はそれからまもなく十分な治療もできぬまま逝った。荷が燃え上がり、『夢幻』の存在もなかったことにされ、結果的に二宮もお咎めなしとなったが、それに何の意味があっただろう。

 二宮は全てを失ったも同然、世界は闇に閉ざされたままだ。


 あの日からずっと。



「準備が整いました」
「…出る」
「はい」

 二宮は顔を上げ、気を引き締めた。



第三話
┗紅蓮の波のその向こう

「なあ、白鷺」
「あい」
「今度の仕事の見返りだけど」

 相葉は大野を振り返る。今まで仕事の見返りを始めに匂わされたことなどない。

「ふうん」
「なんだ、ふうんって」
 床の中で煙草盆を引き寄せた相手がのんびりとキセルに葉を詰めながら尋ねてくるのに、くふんと笑った。

「だって大丈夫だよ、そんなことしなくても」
「ん?」
「ちゃんとどんな仕事でも受けるもん」
「ああ、わかってる」
「ならなんで?」
「………にの、に繋いでやろうか」

 大野に背中を向けていてよかった、と思った。襦袢を羽織りながらで助かったと思った。咄嗟に身体が揺れて、肩が震えた。大野の沈黙は冷ややかで重い。

「…潜入?」
「ああ」
「それほどまずい?」

 情報局と港湾局は犬猿の中だ。この間の捕り物が空振りだったことで、港湾局はますます情報局にぴりぴりしてきている。証拠が一切上がらなくても、裏で情報局が動いたことはお見通し、かといって、落ち度がなかった山風運輸をどう処分するわけにもいかず、『夢幻』の裏取り引き最大の経路と疑われたまま監視中だ。

 今回大野が持ち込んできたのは、その監視の直中に乗り込むような仕事だった。
 白鷺は『夢幻』中毒を装って、もう一ケ所『夢幻』取り引きがあるとされている蛇荷貿易に入り込み、そこの『夢幻』の情報を港湾局に流し、蛇荷貿易を落とすと同時に蛇荷経路を山風運輸に引きずり込むのだ。

「無茶な仕事だもんね」
「……」
「喜多さんのお望みですかー?」
「……」

 大野の沈黙は肯定の意だ。


 情報局局長の喜多には20歳下の花街上がりの妾がいて、妻子を放置してまでのめり込んでいる。その妾が『夢幻』の重度の中毒患者だとは局の間では暗黙の了解で、櫻井や松本などは露骨に嫌がっているが、間を繋ぐ大野としては無碍に断れもできないのだろう。

「そっか」

 応えない大野に相葉は笑う。仇のような二宮にまで繋ぎを取ろうとすれば、きっと動きを疑われる。半分は港湾局を利用してこの目論見を潰そうという発想、もう半分は途切れたままになっている相葉と二宮を危ない仕事の前に一目会わせておいてやろうという大野なりの配慮だろう。

 そして、それは、相葉が生きて戻れないと大野が考えているということでもある。

「……にのは、僕をもう抱かないよ、だって裏切りものだもの」
「二宮はまだ目が見えない」

 大野がゆっくりと煙を吐いた。

「声を出すな。そうすれば、あいつだって」

 お前を抱いても知らないふりができるじゃないか。

 そのことばを口におさめて見上げてくる大野に、相葉は昏く微笑んだ。

「そんな鈍い人じゃない」
「白鷺」
「………けど」

 揺らいだ自分の甘さを嘲笑いながら、大野の頭に口付けを落とす。

「……試してみてもいいかも………ありがとー、キャプテン」

「二宮さま」

 警戒を満たした部下の声がした。

「何?」
「大野さんがお見えです」
「キャプテンが?」

 二宮は眉をしかめた。
 先日の視察が空振りに終わった後ろに相葉の動きがあるのを感じている。相葉は未だ情報局の一員として健在で、ことあるごとに二宮の前に立ち塞がる。
 視察を8時と定めていた。それが漏れているのは予想していたが、まさか一時間半も突然繰り上げたのを読んでいるとは思わなかった。それとなく大野に疑問をぶつけてみると、微かに笑って「早起きなんだってね」と応じた。大きな視察の前は目が早く醒める。その癖を相葉は忘れていなかった。二宮の命令一下、港湾局がすぐに準備を整える手はずの良さも過小評価しなかった。「6時だと聞いてたぞ」。自慢気につぶやいた大野の、懐刀を誇る声に感じた苛立ちが甦る。

 この男の下に、相葉はいる。無意識に唇を噛んで我に返った。

 あれほど手酷く裏切られたのに、まだ私はあいつを待っているのか。低く笑ってしまった。

「通ってもらってくれ」

「おう、にの」
「おはようございます、キャプテン」
「元気そうだな」
「ええ。そちらも順調だと聞いてます」

 響いた声に顔を向けて形ばかりの笑みを作る。

「ああ、それで忙しくてなあ、通える所へも通ってやれない。いいかげん焦れてうるさくって」
「朝からする話じゃないように思いますが」
「ここだけの話」

 すい、と間近に声が近寄って、一瞬体が竦んだ。耳元で低い声が囁く。

「頼まれたんだよ、白鷺に」
「ま………白鷺、ですか」

 雅紀、と呼び掛けて制した。一年も前に呼ぶことのなくなった名前を後生大事に覚えている自分の記憶力が恨めしい。

「お前に抱かれたいんだと」
「……冗談」

 二宮は笑った。

「情報局と馴れ合うつもりはありません」
「泣くんだよなー、にのを呼んでくれって」
「………」

 あからさまな誘いにうんざりと吐息をつく。

「キャプテン」
「ん?」
「それが用でしたら、私には急ぐ仕事がありますから」
「部下から聞いたぞ?午後から体が空くんだろ?」

 あのばか、とそれは口に出していないつもりだったが、大野が声をたてて笑った。

「俺が送るさ。白鷺の機嫌を損ねると、情報局があがったりだ」

「私にはその方が好都合です」
「相変わらず冷たいなー、にのちゃんは」
「性分ですから」
「わかった、とっておきのネタをやるから」

 大野の声が僅かに張って、二宮は顔を向けた。

「近々蛇荷の方で取り引きがあるらしい」
「山風、貿易ですか?」
「知ってた?」
「名前ぐらいは」
「大掛かりな『夢幻』の取り引きだ」
「………どういう風の吹き回しですか」

 二宮でなくとも、これは警戒していい内容だった。

「情報局がそんなことを私に?ブラフですか?」
「違うよ、にのちゃん」

 大野は声に笑みを含ませた。

「白鷺が潜入するから、何でも願いを聞いてやると言ったからさ」
「潜入」

 胸の奥に不安な波が揺れた。蛇荷貿易は荒っぽいのでも有名だ。港湾局相手にも丁々発止を辞さないところさえある。そんなところへ相葉を入れて大丈夫なのか。

「だからさ、お前に会いたいんだと。けど、あの一件があるからさ」
「………過ぎたことです」
「ならいい。じゃあ、午後迎えに来るから」
「あ、キャプ………」

 足音がたちまち遠ざかって、二宮は深い溜息をついた。



第四話
┗鳴かない鳥の羽は白

相葉が自分を呼んでいる?

 そんなことはありえない、と二宮は送られた『夢幻屋』で座して白鷺を待ちながら思っている。
 部屋に焚きしめられた香の匂いが懐かしかった。一時は週に一度はここに入り込み、細い身体を抱き締めた。幾ら抱いても汗一つかかない、さらりと軽い情交は相葉と二宮には似合いのもので、疲れ切るまで求めたこともない。

「泣いた?まさか。あいつが泣くわけない」

 手持ち無沙汰に一人つぶやく。

「いつだって半端に笑っていて、あたりのいいことばかり言って」

 あげくのはてに見事に二宮を裏切ってみせた。

 なのに、のこのここんなところへやってきてしまう自分が、どうにも腹立たしい。

階段を上がる音がして、やがてからりとふすまが開く。

「?」

 いつもならすぐに強く漂う相葉の香が鼻先にも掠めなくて、二宮は眉を寄せた。そういえば、滝沢の声もしなかった。
 部屋に入ってくる気配に視線を向けてみると、一瞬驚いたように立ち竦むのがわかって、ますます訝しい想いになる。

「……白鷺?」
「………」

 雅紀とまた呼びかけて、危うく制した。
 気配はじっと固まっていたが、やがて静かにふすまを閉めた。部屋にゆっくり満ちてくるのは淡い石鹸の香りだ。ついさっきまで湯屋に籠ってでもいたような、清潔で温かな匂いもする。それとも、これは昼日中の部屋だからだろうか。

 さらさらと衣擦れの音をさせて、側に気配が座った。膳の上のとっくりを探ったのか、硬質な音が手元で響く。二宮は酒を呑まないことを、相葉が知らないわけがない。
 とすると、これはひょっとすると相葉ではなく、二宮は大野に担がれたのだろうか。

「ごめん。俺は酒は呑まない」

 かちゃん、と微かな音をたてて動きが止まった。そのまままじっと動かない。

「白鷺か?そうじゃないのか?」
「…………」

 相手は何も言わなかった。

そっと膝に乗せた手に細い指が降りてきて、少し待ってから二宮の手を取り上げる。やがて両手で包まれて、より温かで滑らかなものにすり寄せられた。

 これは頬だ、そう気づいたのが伝わったように、しっとりと濡れたものが指先に押しつけられ、戸惑う間もなく吸い付かれる。

「っ」

 舐め回しながら、それ以上触れてこないのに苛立って、手首を掴んで引き寄せる。

「白鷺?」
「……」
「違うのか?」
「………」

 返事は一切返ってこないが、引き寄せられたまま二宮の膝に乗り上げてくる重み、甘えかかるように首筋に腕を巻き付けてくるのは相葉そのものだ。

「…………そういう、ことか」

 二宮は苦笑した。香の匂いを消し、声を出さないでいれば、二宮が相葉だと気づかない、そんな甘い発想で抱かれにきたのかと思うと、暗い怒りが渦巻いた。

「どういう趣向かは知らないけど」
「っ!」

 二宮が差し入れた手にすがりついていた相手が身体を跳ねさせた。懐に差し込んだ指で胸に膨らむ粒を摘みあげる。すぐに固くなったそれを力を入れて押し揉めば、びくびくと震えた身体が逃げるように揺れる。

「いつまで黙っていられるか、試してみようか」

 首に回した腕に堪え切れないように顔を伏せる気配があった。せわしく吐き出される息がみるみる熱くなってくる。もがくように頭を振ったのに、指を下へ擦り降ろす。

「っ、っ、っ」

 二宮は忘れていない。相葉がどこからどうされると追い上げられていくのか、それこそ飽きるほどに繰り返した手順は二宮の身体にしみついている。
 それは相葉しか抱かなかったということでもある、そう気づいて、二宮はいら立ちに奥歯を噛み締めた。
 下着をつけていない股間で勃ちあがっているのもわかったこと、それを柔らかく握り込み、一気に扱いて追い上げる。

「っ………っ、っ……」

 は、は、はっ、と激しく息を漏らした相手がひくりと大きく仰け反った。声をたてないままなのが一層煽ってしまったのか、手の中で弾けたのは覚えているより随分早い。しっとりと汗ばんできた肌も今まであまり感じたことがなく、二宮は思わず喉を鳴らした。
 まだ余韻に浸ってる相手の奥へぬめりを押し込みながら攻め込むと、拒むように膝が閉じる。

「このままでいいの?」

 指先を温かなへこみに押し付けたまま尋ねると、震えながら膝が開いた。腕を潜り込ませ、指を進めると、また強く息を吐いて相手が跳ねる。
 まだ一言もしゃべらない。声も上げない。いつもの相葉との手順なら、もうとっくに蕩けるような声を上げて、二宮の次をねだっているはずだ。

 ふとまた、これは相葉ではないのか、たまたま相葉そっくりな抱かれ方をする娼妓なのかと戸惑った。

 その二宮の戸惑いを見抜いたように、唇が口に触れてくる。舌が迎えて二宮の口を吸い寄せる。
 思わずぐ、と指を進めると、小さい悲鳴が口の中で弾けたような気がした。こんなところで相葉は感じただろうか、そう思いながら指を動かす。

「っん、っん………んうっ!」

 口を突き放すように突然解放してやったが、相手は熱い息を吐いて腕に仰け反っただけ、やはり声は戻ってこない。

 相葉よりも感度がいいような気もする。相葉より一所懸命にすがりついてきているような気がする。

 ふと全てを相葉と比べて考えている自分に気づき、二宮は苦笑した。

「もう大丈夫?」

 あんまり痛々しい感じがしてきたので、いつもより長く指で慣らしていると、耐えかねたように腰が揺れて指の場所を探し始めた。我に返って、耳元で喘いでいる顔のあたりに囁いてやる。微かにうなずく気配があったので、指を引き抜くと、またはあっ、と強い息を漏らして硬直した。震える身体が熱くなって、また勃ちあがったものが触れ、ようやく自分が服さえ脱いでないことに気づく。何時のまにか相手のペースに巻き込まれ、翻弄されている。

「ちょっと待って。俺も脱ぐから」

 俺も?

 そこでまた気づいて相手を探ると、相手もまだ襦袢も仕掛けもそのままだ。一体何を焦っている、初めての子どもでもあるまいし、と二宮は一つ息を吐いて、相手の身体を押し退けた。

「悪いけど床まで連れていってほしい。新しいところではよくわからないんだ」
「……」

 衣擦れの音がして、二宮の指をそっと相手が握って立ち上がった。
 頑是無い子どものような握り方、大切な親の手を失うまいとするような握り方にまた首をかしげる。どうも相葉ではないような気がする。
 かといって、『夢幻屋』にこんな娼妓がいるとは聞かない。

 促されるままに導かれた床で相手にそっと衣服を脱がされた。優しい丁寧な手付き、自分も相手の仕掛けを解いてやろうとすると、相手が二宮の服を片付けているのに気づく。
 はっとして耳を澄ませて気配を伺えば、スーツは皺にならぬように衣桁へ、残りももきちんとまとめているようだ。

「よれよれの格好で送りだすわけにはいかないもん」

 へらんと笑った顔が甦った。

「にのは港湾局の長なんだから。びしっとかっこよく居て欲しいから」

 舌たらずな口調でつぶやく横顔が妙に真剣で、素っ裸なのにそんなことをするのがおかしくて、二宮が笑った出来事だ。
 だが、奔放で何ごとにも構わぬ相葉が、そこにだけこだわるのが、どれほど二宮を大事にしているかの証に思えていたのも確かだった。

「雅紀?」
「っ!」

 ぎくっ、と相手が動きを止めた。そのままじっと動かない。さっきまで籠った熱も一気に冷めたように、凍りついたように動かない。

 やがて、ふい、と気配が弛んだ。二宮の探る手に手を重ねてくると、次の瞬間二宮の口を覆ってのしかかってくる。熱い身体で濡れたものを擦り付けてくる、その動きに煽られかけて二宮は必死に相手を押しとどめた。

「待て、これは何の冗談だ。お前は何がしたいんだ」
「………」
「お前は俺を裏切った、このうえ何が望みだ」
「………」

 自分にのしかかっていた男がそっと頭を垂れてきた。口付けされそうな気がして顔を背けると、一瞬動きが固まったが、やがてのろのろと首筋に額を押し付けてくる。
 短く熱い息を吐きながら、もう十分に身体が限界なのを必死に堪えている気配、それでもまだ無言を通す相手に二宮も意地になった。

「………わかった、抱いてやる」
「……」
「どこまで我慢できるか、遊びに付き合ってやる」
「っ」

 身体を引き起こして口を吸った。指で胸の粒を摘んだ。もう片方の手で腰を引き寄せ、脚を開かせ膝立ちで保たせる。濡れて待ち構えているところに指を突き入れる。

「っっ、っっ!」

 容赦はしなかった。慣らしたはずだと締めつけ拒むのを無理に押し込む。ぎくりと仰け反った身体が痛みに喘いだのを確認しながら、なおも今度は後ろから丸みを両手で押し開き、指を数本秘所に突き立てた。

「っ、っっ…………っ……」

 息が吐き出される。鋭く、強く。けれど、声にならない。
 今度は痛みのせいで萎えた前を擦りあげながら、指を突っ込んだまま腰を揺さぶる。跳ね上がった身体が身もがいて逃げかけるのを許さず、そのまま一気に自分の上に引き落とした。

「っ、…っっ、……………っ、っ、っ」

 細い骨格が大きくしなった。押し返すようにあててくる掌に怒りが倍加する。必死に膝で自分の身体の重みを支えようとしているような仕草、それが自分の痩身を嘲笑うように感じて二宮は吠えた。

「声さえ出さなければ、わからないとでも思ったか、この俺が、お前の身体をわからないと、思ったのか!」

 下腹に力を込めて相手の腰を引き降ろし、同時に強く突き立てる。

「っっ………っ」

 ひ、と呼吸が千切れたような音をたてた。深くまで一気に入った二宮のものに、全身震わせながら拒む気配は相葉になかったもの、それがなおさら二宮を煽る。腰を強く引き寄せながら揺さぶると、がたがた脚を震わせながらも、二宮の両脇についた手を突っ張って、相手がなお身体を浮かそうとする。

「だめだ」
「っっっっ!!」

 いつもならそんな無茶はしない、けれど制していた欲望を二宮は追った。

 逃げかけた身体を引き寄せながらなおも開き、そそり立った前を扱き上げる。がく、と何度か不安定に体勢が崩れ、その都度落ちてくる重みを二宮は力を込めて押し返した。
 全身が猛り汗が滲む。荒い呼吸音が引きつれるように止まっては、激しく顔を振るように相手の身体が揺れ、悶える。だが、それでも声が聞こえない。代わりのように汗だろうか、ぱらぱらと水滴が降ってくるのを感じて、二宮は薄笑いした。

「まだ大丈夫だろ?」
「っ、っ……っ……っっ!」

 一旦引き抜いて体勢を入れ替え、四つ這いになった相手の後ろから犯した。
 反り返る背中、痙攣するように跳ねる腰、激しい呼気が空を打つ。

「俺には見えない。お前が声を出さない限り、何も伝わらない」

 二宮の手に指がかかった。そのまま引き上げられる。身を屈めたのだろう、微かに震えながら相手が二宮の指に唇を当てる。微かな呼気だけの声。

おねがい。ゆる、して。

そう聞こえた気がした。

「だめだ」
「っっ!」

 一言で断じて、手を相手の手から抜いた。なおも深く進めながら股間を煽った。大きく震えた相手が二宮の手を外そうとするのを振り払い、腕をひねって押し倒す。どさっと床に崩れた相手の首を探り、無理に引き上げて耳元でつぶやいた。

「俺は、お前を、許さないぞ、雅紀」

 震える口がまた二宮の指に触れようとするのに、手を振り払った。倒れた上半身を押さえつけ、下半身だけ引き上げて深く押し込み、中を抉り、一気に引き抜いては押し入れる。
 根元を握った手の力も緩めず責め立てると、必死に顔を振っているのか、はあはあ喘ぐ呼吸音が動く。

「鳴け」

 二宮は低く命じた。
 びくりと相手が動きを止める

「やめてくれ、と言え。そうすれば………やめてやる」

 微かに引き付けるようなうめきが響いた気がした。だが、相手が激しく顔を横に振った。固く締まった身体が二宮の手を拒む。もう限界さながらで切れ切れになっている息を整えてなおも堪える相手に、ふつっ、と二宮の何かが切れた。無言で叩きつけるように相手を開いて奥まで押し入る。

 入ったことのないほど深みに抉り込んだその瞬間、鋭い呼吸が響いた。

 きん、と声は聞こえないのに空気が鳴ったような気配がして、ふいに相手の身体から力が抜ける。二宮のものを銜え込んだまま、相手の身体が前のめりにずるりと崩れた。
 手の中で弾けたものがべたりと濡れる。そこへ何かとろとろと伝ってくるものがある。

「雅紀?」
「………」

 速くて浅い呼吸だけが答える。さっきまでの返事にも似た動きがない。汗で濡れた身体は蕩けるように広がって二宮の手を拒まないし、反応もしない。

 気を失った、そう気づいて、二宮はいささかうろたえた。

 自分のものを抜き去ると、手探りで相手の身体を引き寄せる。改めて探ると、萎えたものとその周囲を汚す液体の感触があって、その手触りが妙にざらついた。指についたものを顔に寄せると鉄の匂いがする。

「あ」

 見えない視界を真っ赤な色が覆った気がした。
 自分が盲目であることにふいにぞっとする。相葉の状態がわからない。
 微かな吐息が次第に弱まってくような気がして、二宮は声を上げた。

「たきっ………たきざわっ!」
「はあい………お呼びで………入ってもよろしいですか?」
「ごめん、手貸して」
「はいよ………あっ!」

 滝沢の声が緊迫して事態が思った通りなのがわかった。

「なんで………どうしたの!」
「どうなってる、どうしたの?」
「どうしたもこうしたも………なんでこんなこと」
「出血、したのか?」
「したってもんじゃ………ごめん、お医者呼んでくるから!」
「あ、ああ」
「その前に、服、着てて、大野くん呼ぶから、もうお帰りになってください」

 手早く手や身体を手ぬぐいで拭われ、服を押し付けられて部屋の隅に退けられ、二宮は顔を歪めた。

「雅紀は」

 ぴくりと相手が動きを止め、やがて静かに答える。

「こちらで面倒を見ます」
「いや、でも」
「もう………十分だろ?」
「あ……ご、ごめん」

 滝沢の声に責める響きが加わったのに、二宮は項垂れた。

懐かしい愛しい匂いに満たされていた、そこから急に引き剥がされて相葉は目を覚ました。

 何時の間にか布団に寝かされていて、側に滝沢が座っている。すぐさっきまでくっついていた温もりを求めて見回したが、相手はどこにもいない。

「あれ………にのは?」
「帰ってもらった。どうした、相葉、あんなことされるまで、どうして黙ってた、らしくない」

 珍しく険しい顔でにらみつける滝沢をぼんやりと見る。

 身体がけだるくて苦しい。微かに残っている二宮の匂いに少し目を閉じる。

「…………そっか………にの…………帰っちゃったのか……」

 暗くなった視界がいきなりじんわり熱くなった。

「聞いてる?ちょっと、あい……ば………泣いてんのか?」

 滝沢が茫然とした声で尋ねてくるのに苦笑いする。

「泣いてちゃ、おかしい?」
「………そんなに………痛いのか」
「じゃなくて」
「は?」
「なんか………たまんなく、なっちゃった」
「何が」
「………にの………僕の抱き方、覚えてるんだもん」

 つぶやいたとたん、頬を涙が伝った。

「僕は………忘れちゃったのに……」
「相葉……」
「どうしよー………どうしよーか、たっきぃ」
「………ばか…」
「馬鹿なの?僕」
「………そんなに好きなのに」

 滝沢が静かに溜息をつく。

「どうして裏切る仕事なんか引き受けたんだよ」
「……どうしてなんでしょ………でも………もうどうでもいいことだよね」
「え?」
「僕………もうあの人に二度と会えないんだから………」

 相葉は口だけ笑って歪んだ顔を両腕で隠した。



第五話
┗終わりを告げる者の名

「松潤」

 大野が呼び掛けると、松本が俺、と鼻を指差して首を傾げた。部下と話し込んでいる櫻井に視線を投げ、顎をしゃくる。
 櫻井には聞かれたくない話だと察した相手が、さりげなく煙草を手に席を立つ。

「なに?」

 煙草を銜えて覗き込んでくるのに、大野は松本に目を据えたままつぶやいた。

「『明烏』を使う」
「………白鷺、潜入させるんだ、山風」

 一瞬ぴくりと眉を上げて、松本が煙草に火を付ける。
 上司を上司と思わない不遜な態度は上には不評だが、大野は嫌いではない。

「また繋ぎ頼む」
「はいはい………あ、そだ」

 ひょいと煙草の先を上げて松本が向きをかえ、机に手をついてもたれながらさり気なく視線を逸らせた。

「あんたに文句言っとこうかと思って」
「翔くんか」
「どうしてやつに会わせたりしたの」

 大野は口を歪めた。松本の口調にぴりぴりしたものが混じっているのに薄笑いしながら、

「不安?」
「は?」
「白鷺に寝取られたんだろ」
「そっちは御心配なく。寝取り返してるから」

 きわどい台詞をさらりと返されて苦笑した。

「けど、どうして?」
「………まあ社会経験も必要かなって」

 まっすぐすぎる友人の横顔を見ながらにやにやすると、松本が小さく舌打ちした。

「あんなのに関わらなくても生きてける」
「ここは情報局だぞ?」

 大野はぼそりと言い返す。

「翔くんはいずれここの長になる。癖のある人間を扱うのにも慣れてもらわんと」
「慣れるわけないでしょ、あの人が」

 低いつぶやきに苦いものが混じった。

「人を道具に使えるわけない。そんなことは俺がやる」
「………お前はほんと翔くんに甘いな?」
「甘いよ」

 松本の声は暗い。

「あの人はあのまんままっすぐ行ってほしいから、今まで白鷺がらみに手ぇ出させてないでしょ?」
「ああ、なるほど」
「今頃気づいたの」
「だけど、それは無理だ」
「わかってる。けど、『明烏』使うつもりだったんなら、翔くんに関わらせてほしくなかった。あの人、背負っちゃう」
「………ああ、にのか」
「それとなく気にしてる、ずっと。この前だって、港湾局の視察すり抜けたのもどっかで気にしてるし」

 きつい顔になった松本を見上げた。

「で?お前はどうするんだ?」

 先を促した大野に視線を落とした松本が特徴のある大きな目を細めた。
 そうすると一転して冷ややかに見える顔に似合いの醒めた笑みが広がる。

「ああ、あんた、計算してたの」
「何を」
「俺が翔くん庇うの」

 にやりと笑って応えないと忌々しげに煙草を吸いつけた。

「なるほど、はい、確かにこうなった以上、俺はきちんと仕事しますよ、白鷺も守る、あいつのためじゃなくて、翔くんのためにね…………それ、考えに入れてたんでしょ?」
「まあな」
「それほど………やばい?」
「………正直、受けたくなかった仕事だ」
「翔くん、それ知ってる?」
「ああ」
「ちっ」

 舌打ちした松本が目を逸らせ、大野も櫻井に視線を戻した。

「やな人。翔くんが『明烏』入ったの知ったら、必死になるよ、あの人」
「そうだろうな」
「……………一度でも………抱いてるし」

 微かに松本の声が沈む。思わずもう一度見上げた。

「なんだ、やっぱり気にしてるのか」
「…………俺と似てるから」
「ん?」
「白鷺、俺と似てる。だから、あの人、見捨てられなくなる」

 ゆらゆら揺れた瞳が恋しそうに遠くを見た。

「じゃあ………守るしかない。あの人が見捨てられないなら、俺が守るしかない」

 声が切なく潤んだのに、大野は咳払いした。
 ふ、と櫻井が振り返り、大野の席で煙草をふかしている松本に目をやってぎょっとした顔になる。

「潤っ!」
「はっ、はいっ、はいっ!」

 びくっと跳ね上がった松本がうろたえた顔で煙草を揉み消す。

「ところ構わず煙を吹かないっ!」
「ごめんなさいっ、すぐ消す、はい、消しましたっ」

 櫻井の声におたおたと席を離れていく松本が大野を振り返って歯を剥き出して睨み付けた。
 それをまた櫻井が見つけて、潤っ、なんて顔してるんだっ、と喚くのに、飼い主に怒られた犬よろしく慌てて櫻井の元に戻る松本に、確かに似てる、と嘆息する。

 白鷺も松本も一番大切な相手に不器用すぎる。ついでに相手が両方鈍感すぎ、生真面目すぎる。

「いやー、俺っていい上司だよなあ」

 大野は笑ったが、状況は軽くない。上には上の苦労があるさ、と溜息をつきながら書類を取り上げた。

「んーと、このネクタイ、じゃちょっと派手かなあ」

 鏡の前で相葉はあれこれ服を試着する。

「いいんじゃない?いかにも馬鹿で間抜けの華族さまって感じで」
「酷いなあ、たっきぃ」

 鏡の中から滝沢に笑い返してきた。

「ちょっとは見違えたとか、かっこいーとか」
「言ってほしい?」
「…………何かお金かかりそう」
「正解」

 やれやれ、と肩を竦める相葉は白いシャツに濃い茶色の三つ揃い、一目見てわかる高価な懐中時計の金鎖を嫌味なほどに煌めかせてベストに納め、今はネクタイの色を悩んでいる。今合わせている織りが複雑な銅色のネクタイは光の当たり方で黄金色にも見え、ふわんと浮かせた長めの髪が日に透けるのには良く似合っているが、滝沢はそれを褒めてやる気はない。

「それで?」
「へ?」
「体大丈夫?」
「お仕事は待ってくれないから」

 くふ、と笑った唇がにこにこしながら、

「それに『夢幻』、けっこー効いてくれてるからだいじょーぶ」

 恐ろしいことを、吐いた。

「………使ってんの……?」
「まーね。だって、僕『夢幻』中毒って設定なんだよ?感覚ぐらい知ってないと。そう言ったら、おーちゃんが用立ててくれたの」
「でも、習慣性、あるんだろ?」
「うん、けっこーキてる。薄くなってくると、喉が乾くし汗が出るし、手足震えるし息苦しいし。胸どきどきいうし、何だか妖しい気持ちになるし。薬くれるなら何でもするーって気になってくる」
「ちょっとちょっと相葉!」

 滝沢は詰め寄った。

「まずいだろ、それ」
「どーして?」

 ひょいと首だけ相葉が振り返った。邪気のなさそうな瞳が楽しげだ。

「どうしてったって」

 ようやくさっきのネクタイに決めたらしく、うなずきながら襟元をまとめていく。

「仕事好きだから。やる以上、失敗するの嫌いだから、ちゃーんとぶっ壊す。それに新しい感覚ってたのしーし」
「そういう問題じゃない!」

 滝沢は顔をしかめた。

「向こうをぶっ壊す前にお前がぶっ壊れたらどうすんの、って言ってんの」
「あ、そっか。それもあるかー」
「そ、それもあるかーって………」

 んー、とふっくらした唇に可愛らしく指をあてて視線を上げる相手に溜息をつく。

「悩むようなことじゃない………仕事より体だろ?」
「違う」
「え?」
「僕は体より仕事」

 くすくす笑いながら相葉がもう一度鏡を覗き込む。滝沢の目から見ても今日の相葉はきらきらした光を放って見えるほど華がある。

「退屈より刺激。うんざりよりどきどき」

 ちろんと見えた舌が唇を濡らして蠢き、滝沢は思わず唾を呑んだ。

「楽しませてくれるなら、どこでも誰でもいーんだけどね。今は一番情報局が刺激的」
「…………なら、二宮は?」

 一瞬相葉の顔から笑みが消えた。

「二宮は、どうすんだよ」
「…………言ったじゃん、たっきぃ」

 薄笑いが戻った。

「にねも刺激的な人だけど、もー遊んでくれない。なら仕方ないでしょ?」
「………刺激的……かあ……あの人?」
「この前なんか殺されそうになっちゃったもんね」

 うふふ、と相葉は嬉しそうに笑った。

「すんごく刺激的で楽しかった」
「…………泣いてたくせに」
「………」
「………どうしたらいーのーって泣いてたくせに。二宮恋しくて」
「恋しいよ、そりゃ今だって」

 ゆらりと相葉の目が揺れた。

「けど、仕方ないじゃん、にの、僕許さないってゆーし。嫌われてるし。僕怪我したのに放って帰られちゃったしー」

 それは違うんじゃないか、と滝沢は言いかけた。
 滝沢が帰さなければ、あのまま二宮は相葉に付き添って目覚めるのを待っていたような気がする。けれど、何だかもう見ていられなかった。真っ青になっている二宮も、妙に幼い顔をして気を失ってる相葉も。何かお互いを傷つけなくては寄り添っていられないような二人の関係が辛くて。けれど、それは間違いだったのだろうか。

「ま、いいですけどー。所詮僕とあの人は敵どーし」
「相葉…」
「それに、もー会えないし」

 ふいと相葉は遠い目を窓から外に投げた。
 それは二宮が勤める港湾局の方向、その空を何かを探すように優しい目で見ていた相葉が微かに小さくつぶやく。

「僕死んだら、会えるかな。にの、お墓参りぐらいしてくれるかな」
「あいば」
「無理か、凄く怒ってたし」
「あいば」
「でも………死んだときぐらい……優しくしてくんないかなあ」
「あいばっ!」
「へ?」
「間違ってる!」
「え?」
「なんか、お前、間違ってる!」

 きりきり眉を逆立てた滝沢に、相葉はにこりと笑った。

「間違ってる?」
「うんっ!」
「たっきぃ」
「なに」
「僕死んでもにのに知らせないでね」

「………何だよ、それ」
「…………あんまりイイ状態で死なないと思うんだ」
「………」
「………最後ぐらい、嫌がられたくないし」
「……………ばかっ!」
「あ、ひどい。これから厳しい任務に向かおうって男に」
「ばかだからばかって言ったんだ!死んだこと知らせなきゃ、お墓参りに来れないだろっ!」
「あ、そっかー………ならいーや、諦めよ」

 相葉はくす、と笑って立ち上がった。なおも罵倒しようとした滝沢を振り返る。ネクタイを締め直し、襟を引き、少しポーズをつけてみせる。

「かっこい?、たっきぃ?」
「………かっこ悪い」
「あれ」
「逃げる男なんて、すんごく格好悪いぞ!」
「は、はは。きついなー」

 じゃ、行ってくるね、と相葉は身を翻して部屋を出て行った。

「あいばか………大人しく黙ってなんかいてやらないからな」

 滲みかけた涙をぐいと擦って、滝沢は情報局の切り札と呼ばれた男、『明烏』の後ろ姿を見送った。



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