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 諦めを覚えた夜に、僕達は何度でも逆戻りしてしまう。





 仕事が終わったのは、日付を跨ぐほんの少し前の事だった。
 忙しいのは嬉しい。それぞれが個々で仕事をもらえる今の状況にも満足していた。他の事を考える暇もない位、働きたい。
 そうすれば、心臓に今もある感情が消えてなくなるのではないかと思えた。
 知らない振りをして生きて、きっといつか失われて行く。それだけをもうずっと長い事祈っていた。
 自分が抱えているのは、不必要な恋情だ。



 車に乗り込んで、櫻井は鞄に放り込んだままの携帯を取り出した。今日はこれから彼女の家に行く予定だ。
 「遅くまで仕事してたら、ご飯億劫になっちゃうでしょ?食べて帰るだけで良いから」と、笑ってくれる彼女がとても好きだった。
 そんなに会える訳でもないし、約束を守れない事も多い。
 何度か喧嘩しそうになった時もあるけれど、大抵いつも引くのは彼女の方だった。「浮気してるんじゃなければ、全部許すよ」。涙を押しやって言い切った彼女に、自分は随分と救われている。
 仕事をして友達ともたまに遊びに行って、彼女の家に帰って。忙しくて幸せだった。
 余計な事を考えなくて済む。
 あの人を心配する心が、メンバーの域を越えてはならなかった。別に遠い場所にいる訳じゃない。
 仕事で会えるし、大っぴらに世話を焼く事も出来た。今の距離で充分なのだ。これ以上を望んではならない。
 心臓が、僅かに痛んだ。
 いつか、消えてなくなれば良い。大事な感情ではなかった。
「あれ……?」
「どうした?何か忘れたか?」
 後部座席に座った櫻井の小さな声に、助手席にいたマネージャーが振り返る。携帯画面に視線は向けられているから、忘れ物の類ではないらしかった。
 液晶の明るい画面を睨み付けた後、櫻井はゆっくり顔を上げる。
「マネージャー、今日さとっさんって仕事どんな感じ?」
「え?大野君の?……ちょっと待って……えーと」
 携帯画面には、着信履歴が表示されていた。彼から電話が来た事なんて、自分が記憶する限り一度もない。
 何か良くない事でも起きたのだろうか。それとも誰か他の人間に掛けようとして間違えたのだろうか。
 「大野智」と表示された下に、小さく着信のあった時間と何秒コールされたかが示してある。ほんの三十分前に、たった五秒のコールだった。
 あのぼんやりした人なら、操作方法を間違えて鳴らしてしまった事も考えられる。
 けれど。
「あ、あったあった。今日は朝に雑誌の取材が一つだけだね。午後はオフになってるよ」
「ありがとう」
「どうかした?大野君に連絡した方が良い?」
「……いや、良いや。ごめん、変な事聞いて。そのまま家向かってくれれば良いよ」
「ホントに?気になる事あるなら、僕から連絡しておこうか?」
「大丈夫。また明後日会うし。そん時にする」
「そう?」
 心配した顔を見せるマネージャーにもう一度頷いて、シートに深く腰を掛けると目を閉じた。
 何でもないかも知れない。何かあったのかも知れない。
 家に着くまでの僅かな時間、櫻井の心は決まらないままだった。
 このまま知らない振りをして、一度家に帰ってから彼女の家に行くのが正しいだろう。彼が何処にいるのかなんて知らなかった。知りたいとも思っていない。
 ああ、でも何かあったらきっと自分は後悔する。
 車を降りた後、一度電話をしてみよう。メールなんて送ったところで読まないだろうし、まず返信は期待出来なかった。
 ワンコールの着信が気になって電話をするのは、メンバーとしての心配の範囲内だ。
「お疲れ様でしたー」
「明日、少しゆっくりだけど、モーニングコールいる?」
「いや、大丈夫。車、下に着いたら電話してもらえれば」
「分かった。じゃ、お疲れ様でした」
 車が見えなくなってすぐ、エントランスに向かいながら彼の番号を鳴らした。
 滅多に使う事のないメモリー。多分、メンバーの中で一番使用頻度が低いだろう。ほんの少し緊張して、でも今更そんな理由は何処にもないのだと首を振った。
 コールは続いている。エレベーターに乗っても、目的階に着いてもコールは止まなかった。留守電に替わる気配もなくて、普段本当に携帯を使わない人なんだと思う。
 いい加減出て欲しかった。着信があったのは、ほんの一時間前の事なのに。
 何かあった時に、彼が自分の所に連絡を寄越さない事位分かっていた。きっとメンバーの中で最後にされるだろう。
 でも、と思って家の扉を開ける前に廊下から空を仰いだ。
 真っ黒な天空に真っ白な満月がある。
 あんなものが東京の空に大きく浮かんでいたら、感覚で生きている彼はおかしくなってしまうかも知れなかった。
 月の満ち欠けに左右されそうな、危うい印象のある人だ。知識とモラルで生きている自分とは、全く違う時間の流れの中で生きていた。
 だから、彼が今何を考えているのかは分からない。あの満月を見て、何を思うかなんて。
 耳に当てている携帯からは、途切れる事のないコールが続いていた。ほんの僅か声を聞けば安心出来るのに。
 どうしよう。
 事故とか病気とか、分かりやすいものなら自分は必要ないだろう。でも、目に見えなくても命に関わるような出来事が確かに存在する。
 僅かな仕草、たった一言の言葉で死んでしまう瞬間が。其処に嵌っていたとしたら。
 救ってやりたかった。
 自分も相当あの満月にやられているな、と小さく笑う。
 鳴り続けるコール。
 杞憂ならば構わない。相変わらずだねえ、なんて笑われて同じように笑い返せば良かった。
 靴を脱いで部屋に上がると、一度回線を切る。
「……っはあ」
 何をこんなに必死になっているのだろう。明後日会った時に「一昨日の電話何だったの?」と聞けば済む話だ。
 真っ暗な部屋に無造作に鞄を放った。手には携帯を持ったまま。
 ブラインドの隙間から差し込む月明かりが、不安を募らせた。
 もう一度発歴を表示させて、大野の携帯を呼ぶ。
 出て欲しかった。何も心配はないのだと、自分が出る幕はないのだと安心させて欲しい。
 無機質な発信音が、やけに大きく響いた。二十コール目を越えて一度切ろうかと思った瞬間、不意にコールが途切れる。
 留守電に切り替わったのかと思った。けれど、通話口から聞こえて来るのは人がいる場所のざわめきだ。
 慎重に、自分の声を選ぶ。今この瞬間に相応しい最良の、落ち着いた声を。
「智君?」
「……っ」
 一瞬詰まった息遣いは、間違いなく彼のものだった。通話ボタンを押す前に、自分からのものだとは分かる筈なのに。
 足許に視線を向けて、月明かりに反射した床を眺めながら沈黙の気配を追った。
 ふと、彼が一人で泣いている姿を想像する。大きな月の下、真っ暗な場所に座り込んで静かに涙を流していた。
「智君。電話、どうしたの?」
 そんな妄想は、必要ない。
 涙を零し続ける彼の姿を網膜から消すと、意識して冷静に問うた。
 僅かに続いた沈黙と、それから何かを振り払った気配。小さく息を吸い込んで、多分今目を閉じた。
 貴方は今、何処にいるの?
「……しょーくんだー」
 場違いな程明るく気の抜けた声は、酔っ払いのそれだった。演技の上手い人だ。一瞬前の沈黙を消し去ってしまう、圧倒的な空気だった。
 受話器越しに、彼の気持ちを探る。
「俺に連絡するなんて、何かあったの?」
「……えー、俺、しょーくんに電話なんてしてなーい」
 嘘を吐いていた。何て事のない素振りで、全てをなかった事にしてしまう。
 きっと彼は、俺からのしつこい着信に気付いていた。液晶画面を眺めて、何度も躊躇ったに違いない。
「覚えてないよー知らないー」
「智君」
 わざと空気を張り詰めさせた。
 最初に動いたのは、大野の方だ。今確かに杞憂だった事は分かったけれど、何かを隠すその声が気に入らなかった。
 何かが起きなくても、人は死ねる。目に見えない深みに嵌って、生きるか死ぬかの危うい線の上にいるような気がした。
 俺に何も言わないで、お前は何処に行くんだ?
「……」
「智」
 沈黙で答えた大野の名前をはっきりと呼ぶ。普段は決して口にする事のない、誰にも聞かせた事のない呼び方だった。
 電話の向こうで、何を思っているのか知りたい。
 ああ、俺もおかしくなっている。
 白い月の光に魅せられて、踏み込んではいけない領域に足を進めていた。
「翔君」
「ん?」
 大野の声は、いつでも柔らかく響く。相変わらず声の後ろには喧騒があった。
「……六本木」
「うん」
「外苑東通りの」
「うん」
「ドンキの向かいの、一つ角入ったとこ」
「うん」
「いつもの、地下の店」
「うん」
 いつもの、と言われても分からなかった。やはり振りだけではなく、酔っているのも確からしい。
「其処、いるから」
「うん」
 穏やかなトーンの声は、いつでも耳に心地良かった。
 安心してしまう。自分の手の中にいるような、そんな幸福な錯覚。
 再び、回線に沈黙が落ちた。張り詰めた息遣いが、声の印象を裏切る。
 何を、考えているの?

「……迎え、来て」

 静かな声。背後にある店内のざわめきも、足許にある月明かりも意識の外だった。
 大野の声しか聞こえない。
 他には、何も。
「来て」
 考えるより先に、身体が動いていた。携帯だけを持って、部屋を飛び出す。すぐ行く、とだけ告げて電話を切った。
 彼は泣いている。
 誰にも分からないように。世界の片隅で、生死の境目で。
 それを救うのは、自分しかいない。同じ感情を有する俺にしか出来ない事だった。部屋を飛び出して、タクシーを捕まえる。
 聞いた事のない言葉。
 心臓がじくじくと痛む。
 見ないように生きて来たものだった。いつか忘れなければならない、不必要な。
 同じものが、大野の心臓にも巣食っている。
 満月を見上げて、タクシーに乗り込んだ。
 携帯を握り締めたままの手で、心臓を押さえる。此処にひっそりと存在するのは、互いへの消える事のない恋情だった。





+++++





 大野は、カウンター席に当たり前の仕草で座っていた。慌てて入って来た櫻井を振り返っても、飲み友達に向けるような気安い笑顔を作る。
「智さん、帰ろ」
「……何処に?」
「何処でも良いけど、外にタクシー待たせてあるから」
「まだ、飲み途中」
 グラスを翳して、拗ねたように言った。それが口だけだと分かってしまったから、強引に会計を済ませて大野の手を引く。
 椅子から降りた身体が僅かに傾いで、留めようと腕を強く引き寄せた。
「痛い、翔君」
「あ、ごめん」
 素直に謝って、腕ではなく掌に手を伸ばす。何気ない動作で指先を絡めて、喧騒から大野を連れ出した。
 多分、仕事が終わってからずっと飲み続けていたのだろう。繋いだ掌が熱かった。
「どんだけ飲んでたんですか?」
「別に、いつも通りだよ」
「……そのいつもが摂取し過ぎなんだよ」
 前に何処かで聞いた事がある。
 アルコールや煙草を手放せない人は、感覚が鋭過ぎるのだと。自分の周りで起こっている全てに敏感に反応してしまう感覚を麻痺させる為に、摂取するらしい。
 それを聞いて、まず思い浮かんだのはこの人の事だった。なるほど、と頷けたし、鋭敏だというにはぼんやりし過ぎだなとも思う。
 酒に溺れるアイドルだと言うのに、彼のイメージが汚れないのはひとえにそのおっとりとしたキャラクターのおかげだろう。
 アルコールのせいで変化した彼を見たくなくて、手を繋いだまま視線は逸らしていた。火照った肌や潤んだ瞳に正気でいられる自信はない。
 地上に出て、待たせていたタクシーに無理矢理押し込んだ。とりあえず、彼を家まで送るべきだ。部屋に入るのを見届けなければ、また何処かで飲み始めてしまう。
 ドアが閉まって、運転手に大野の住所を告げようとした。その一瞬前に、繋いだ指先をくいと引かれる。
「なに?」
「俺、まだ帰んねーよ」
「智さん、何言ってんの?」
「帰んない」
「我儘言わないで。昼から飲んでたんなら、もう充分でしょう。家までちゃんと送るから寝なさい」
「嫌」
 運転席をちらりと見て、これ以上交通量の多い所に止めている訳にはいかないと感じた。
 指先が熱い。
 今すぐに彼を安全な場所へ帰さなければ、どうにかなってしまいそうだった。
「じゃあ、何処に行きたいの?」
「……家以外」
「なら、ホテル行く?」
 声にいやらしさは込めていないと思う。普通のシティーホテルに入って、其処に置いて行っても良かった。
 彼を救うのは自分しかいないと思って迎えに来たのに、もうぐらついている。
 何故、同じ性を持つ彼がこんなにも愛しいのか。
「ホテルなんて、やだ」
「じゃあ、」
「此処じゃない、何処か。そーゆーとこ行きたい」
「智さん……」
 やっぱり、回線越しの違和感は間違いなかった。
 危ない線の上を歩いている。満月に左右される鋭敏な心。
「運転手さん、すいません」
「はい」
 眉を顰めてバックミラー越しに伺っていた運転手に、自分の住所を告げた。速やかに走り出したタクシーのシートに身体を預ける。
「翔君……」
「これ以上の我儘は聞かないよ」
 覗き込んで来る彼の表情を見たくなくて、わざと目を閉じた。自分の家なら、此処からそんなに時間は掛からない。
 動いたのは自分だった。それならば、最後まで面倒を見るべきだ。厄介な責任感はデビューしてから強くなっているなと一人笑って、指先の人を思った。
 熱い手、まだこちらを伺っているらしい瞳、触れる薄い肩。
 ニ人きりでこんなに近くにいるのは久しぶりだった。デビューしてすぐの頃はもっと一緒にいたけれど。
 傍にいられない原因を作ったのは、他でもない自分達だったから。
 一緒にいる事は出来なかった。
 脈拍が少し速くなっている。こんな安心出来る穏やかな人を前にしても、自分は緊張するらしかった。

 消える事のない恋情。
 まだ、こんなにも鮮明に此処にある。

 大野を連れ帰って、満月の夜をきちんと越えられるのか。早く夜が明ければ良いと願いながら、深夜の道路を走るタクシーのエンジン音に耳を傾けた。





+++++





 少しだけ躊躇って付いて来る大野の手を引いて部屋に入る。
「翔君……」
「そんな、不安そうな声出さないでよ」
「別に不安なんかじゃ、」
 暗い部屋の中で、振り返って笑って見せた。僅かに怯えた目尻が愛らしくて、どうしていつまでもこの人は可愛いのだろうと疑問に思う。
「入って」
 電気を点けないまま、自分の部屋に招き入れた。月明かりの差し込むフローリングは、先刻と少しも変わらない。
 静かな夜だった。
「どうして、こんなとこ連れて来たの?」
「せっかく迎えに行ったのに、置いて行ったら意味ないでしょ。貴方まだ飲みそうだったし」
「……翔君ちじゃなくても良かった」
「家帰りたくないなんて我儘言うからだよ」
「放っておいてくれて大丈夫だった……」

「俺の携帯、鳴らしたの智さんでしょう」

 言って、真っ直ぐに見詰めれば戸惑って唇を噛んだ。暗い部屋でも分かる彼の表情が苦しい。
 離れているのが一番だと分かっているのに、連れ帰ってしまったのは心配だったからだ。
 一人で泣かれるよりは良かった。例えそれで、お互いがより苦しくなろうとも。
「翔君」
「ん?」
「朝まで一緒にいてくれるの?」
「いるよ。智さんがそう願うなら」
「うん」
「あんま飲まれても困るけど、ビールとかならあるから持って来ようか?」
「……良い。いらない」
「え、」
 首を振って一瞬俯いた次の瞬間、遠慮がちに抱き着かれた。額を押し付けて、繋いでいるのと反対の指先がシャツの背を掴む。
 けれど、身体は少し離れていて今すぐにでも突き放して欲しいと言っているようだった。
 拒絶出来る筈がない。臆病な仕草に、胸が痛かった。
「智君」
「……うん」
「今日だけ、だよ」
「分かってる。ごめん」
「謝んないで」
 嬉しいから、とは言えない。
 怖がらせないように薄い背中をそっと撫でた。びくりと揺れた肩を離さないように押さえ付ける。
 昔は見上げていたのに、いつの間にか腕の中で収まるようになっていた。最初の時から、自分達は随分歩いて来たのだと知る。
 離れる事で繋がって来られた。これからも二人で生きて行く事はない。
 今夜だけ。
 ほんの僅かな時間の幻影だった。
「翔君」
「うん、此処にいるよ」
 揺れる不安定な心ごと抱き締めて、死なせないと強く思う。
 月明かりだけが射し込む部屋は、隔離された二人の世界だった。





+++++





 気付いたら好きだった、と言うのは嘘臭く聞こえるだろうか。
 デビューしてからはずっと一緒にいた。最年長なのに、メンバーの誰よりも危なっかしくて放っておけない。
 リーダーになってもマイペースのまま、結局は自分が仕切る羽目になった。
 自分の性分と彼の性質がぴたりと一致していたのだろうと思う。その居心地の良さが、もしかしたら始まりだったのかも知れない。
 手を掛けるのが楽しかった。
 それなりの苦労人で、でも一人では生きられない彼の事を現場の誰よりも分かるのが嬉しかった。正確には、右脳で生きている人の事を全部理解する事は出来なかったけれど。
 安心して預けられる信頼を込めた瞳に、優越感を見出すのに時間は掛からなかった。
 仲間としての気持ちが揺らいだのがいつだったかは、分からない。ずっと彼女はいたし、自分が男に惹かれるだなんて思いもよらなかった。
 でも、大野が自分の事を好きなのだと気付いた瞬間は今でもはっきり覚えている。
 二人で飲みに行っていた。今では考えられない事だけど、未成年の癖にカウンターバーに腰を落ち着けてゆっくり話していたのだ。
 穏やかな空気と、肩の触れ合う距離。
 まだあの頃は、酒好きの彼も自分の酒量を把握していなかった。明らかな深酒で、心配するよりも前に見つけてしまった感情。
 優しい瞳の奥にある渇望の色。
 ぞくりとした。
 普段のテンションとのギャップが映える、ステージ上で感じる色気と同じ類いのもの。けれど、本来客席全てに向けられる筈のそれが今全て自分に向かっていた。
 彼は、自分の事が好きだ。
 人の感情には敏感な方だった。
 だから恋を逃す事はなかったし、人とコミュニケーションを取る時に不愉快な思いを抱かせる事も少ない。読み違える事はなかった。いつもなら隠している感情が、アルコールのせいで溢れてしまっている。
「智君」
「……っ、帰ろうか」
 慌てて逸らされた瞳の狼狽と、淡く染まった耳朶にどうしようもない愛おしさを感じた。
 抱き締めたいと思ったのだ。同じ仲間で同じ性を持つ彼に覚えた衝動に、恐ろしくなった。
 あの瞬間を彼が今でも覚えているかは分からない。でも、あの日以来二人で飲みに行く事はなくなった。
 言葉で確認した訳じゃない。
 好きだと思う事が怖かった。手に入れられる距離にいる事が辛い。
 だから、お互いに固執する前に諦めた。二人が手を取る事は、五人の破滅の始まりを意味する。
 恋なら、グループ内じゃなくて良かった。愛しいと言う感情は、女の子に向けられるべきだ。
 欲しくなかった。
 お互いを求める心と相反するように、自分の感情を捨て去りたいと願う臆病さ。
 あの夜に戻らない為に。
 大野は、櫻井の知らない人間と酒を酌み交わす。櫻井は、大野の知らない女性と付き合い続ける。
 二人が選んだ距離だった。



 月明かりの射し込むフローリングの上に、二人は直接座っていた。
 櫻井は壁に背中を預けて、足を伸ばす。大野はその横に足を投げ出すと、櫻井の胸に上半身を預けて横抱きにされていた。
 今夜だけ、と何度も心の中で言い訳をする。
 大野の左耳には、櫻井の心音が響いた。櫻井の両腕は、宝物を守るように大野の身体を抱き締める。
「……別に、翔君がいなくても俺は平気だよ」
 言い訳を零す唇を今すぐ塞いでしまいたい。自分の身体を全て預けて言う台詞ではなかった。大野の手は、櫻井のシャツの裾をしっかりと掴んでいる。
「酒飲む人は一杯いるし、作品作る仲間もいる。嵐だって、メンバーは翔君だけじゃないしね」
 ふわりふわりと落とされる言葉は、どんな感情を込めようとしても柔らかかった。優しい音階。
 ずっと、分かっていた事だ。
 二人ともとっくに決意していた。
 大野が櫻井を選ぶ事だけはないと言う事。櫻井が大野を選ぶ事だけはないと言う事。
 それが、生きて行く為の必要条件だった。手に入れたいと願う欲は、二人だけでなく周囲を巻き込んでしまう。
 強過ぎる感情だった。離れる事だけが必要だった。
「今、此処から翔君が消えても、俺は何一つ困らない」
 大野の言葉は真実なのに、シャツの裾を握る指先に可哀相な位力が込められる。
 どうしようもなかった。一つ一つの言葉が、愛していると叫んでいるみたいで。
 夜が明けないで欲しいと願う自分が怖かった。



 ふう、と息を吐いて大野は目を閉じてしまう。自分の心拍が早くなっていないか不安だった。
 この距離では全てが明らかになる。隠すべき感情が無様なまでに晒されているのに、何を恐れるのか。
 二人分の恋情が月明かりを受けて鈍く輝いていた。フローリングの板目を、櫻井は凝視する。
 恋で死にそうだった。
 取り返しのつかない場所まで来ている。
 静かに朝を待ちたかった。このままでいられれば、またお互いの記憶を閉じ込めるだけで済む。
 目を閉じて、彼の体温を記憶しておこうと思った。
 別にスキンシップと言う意味でなら、いつでも出来るけれど。僅かに恋を感じさせる距離にいる自分達を覚えておきたい。
「あ、翔君。携帯」
「え」
 ぱっと目を開けた大野が、おもむろに手を伸ばした。櫻井のジーンズの後ろポケットに押し込まれた携帯を取り出す。
 興味深げに光っている液晶を見詰めて、それからゆったり笑った。視線は上がらないまま。
「彼女からだよ」
 はい、と気軽に手渡されて狼狽えたのは櫻井だった。
 受け取った携帯を開いて、着信画面を眺める。二十秒位震えたところで、ふつりと振動は途切れた。
「……今日、終わったら飯作ってもらう約束してたんだった」
 忘れていた自分に苦笑する。
 一回目のコールで出なかったら潔く諦める人だった。もう、鳴る事はないだろう。着信画面を閉じて、メールの画面を開いた。
「何で約束してたのに、こんなとこにいるの?」
 分かっていないで聞いているとしたら、やっぱり彼は天然だ。苦笑してメールを打ちながら、どうしてこの人が良いんだろうなと思った。
 理由があったらもっと簡単だ、とはきちんと分かっている。
「智君が久しぶりに電話なんかするからだよ」
「俺のせい?」
「そう。吃驚するじゃん」
 送信ボタンを押して、空気を軽くしようと声のトーンに気を付けながら話す。
 彼女には、急な仕事が入ってしまったと言い訳した。なるべく嘘は吐かないようにしたいけれど、わざわざ言いふらしたい状態ではない。
 出来れば誰にも気付かれずに、この夜を越えたかった。
「ごめん」
「良いよ、別に」
「……今からでも、行ったら?俺へい……」
「行かない。一緒にいる」
 即答して、腕の中にいる人を見詰める。月明かりを受けた瞳に自分が映っていた。
 不安定な色。
 逃げかけた身体をもう一度抱き締め直す。満月の効力が、何処まで二人の恋を誤摩化してくれるかは分からなかった。
 言って良い言葉を上手く選択出来ない。自分の感情が制御出来なくて、怖かった。
「……泣いてるんじゃないかと思ったんだ」
 大野の瞳が簡単に滲む。何の誤摩化しもきかなかった。
 腕の中に、俺の事を好きで死にそうな人がいる。その愛しい存在を慰めたいと願う自分がいる。
 欲しがってはいけない人だった。欲しいと思った唯一の人だった。
「馬鹿だなあ、翔君は。俺、泣かないよ」
「うん、……そうだね」
 こう言う時に、彼が年上である事を知った。上手に笑んで、何て事のない素振りを見せる。
「この彼女とは、どれ位付き合ってるの?」
「一年、位かな」
「そっか。優しい?」
「優しいよ」
 大野は、二人きりの夜を壊そうとしていた。シャツの裾から手を離して、瞳を僅かに伏せて。
 朝を迎える為の準備だった。
「さとっさんは?」
「んー?」
「彼女、とか」
 大野の唇からはさらりと零れる問い掛けも、櫻井には上手く紡げなかった。
 優しくない自分に気付かされる。欲しい欲しいと泣きじゃくる子供の駄々。
「いないよー。俺、女の子大好きだけど、傍に置いときたくないんだよね。あんな、すぐ壊れちゃいそうなのは苦手。心配ばっかり増えるもの。……それに、俺には酒があるしね」
 彼もまた、自分の恋情を上手く隠せていない。彼女を作る事が俺なりの隠す術だと見抜いていた。
 消さなければならない恋情の隠し場所。俺が彼女にそれを求めるのだとしたら、彼は酒に求めている。
 言葉の欠片を零してはならなかった。大野は、それに気付いているだろうか。
「女の子と子供作るより、友達と作品作る方が良いよ」
 彼らしい極論だなと思った。大野は、不安定なものを信じていない。
 愛なんて言う最も不安で曖昧なものを信じられる訳がなかった。自分の心臓にある感情すら信用していないのだ。
 芸術家の発想とは裏腹な現実主義だった。
「あ、メール」
 邪気のない声で言って、櫻井の手から勝手に携帯を奪う。
 受信ボックスを開いて中を読むと、変な声を上げて笑った。悲しいのでも蔑むのでもない、渇いた声だった。
「人のメール勝手に読まないで下さい」
「止めなかったじゃん」
「そう言う問題じゃないでしょう。他の人にやったら絶対嫌われるよ」
「翔君は?」
「……っ」
「嘘。冗談。返信したげなよ」
 彼は、本当に上手に笑う。メンバーとしての距離感を確実に把握していた。
 自分はそんなに器用じゃない。忘れた振りで忘れてしまう事を、何処かで恐れていた。
「返信しないの?」
「……する、けど」
「お仕事頑張ってね、だって。……これ、お仕事?」
 楽しそうに大野は言う。
 携帯を手放す気はないらしく、勝手に返信画面を開いていた。器用な指先を見ながら、言葉を探す。
 彼のように上手な、真実を隠す言葉を。
「……そうだよ。リーダーの管理なんて、俺位しかやんないって」
「そーだねえ。翔君は良くやってるよなあ。俺だったら絶対やだもん」
「自分で言うなって」
 画面には、「ありがとう。おやすみ」と簡潔な文が表示されていた。ボタンを押す指先が綺麗で見蕩れていたら、躊躇なく送信される。
 まあ、良いか。メールの良いところは、心情が文に表れない事だった。今の文章と大して変わらないものを自分も送っただろうし、彼女は大野が打っただなんて絶対に気付かない。
 それが嬉しいのか悲しいのかは、今の自分には判断出来なかった。
「はい、返す。メールってつまんないね」
「智さん嫌いだもんねー」
「うん、嫌い。何処にも本当がないから」
 他人を求められる強い人だから、感情のないものを酷く嫌った。会話も酒も創作も全て、体温のあるものだ。
 誰のものにもならないけれど、大野は沢山の人を求めていた。
 俺には、出来ない。この手に抱えられるものは僅かで、出会った人全ての感情を受け取れるような度量はなかった。
 そして、大野にも僅かな人だけを受け入れて欲しいと願う身勝手な自分がいる。たった一人を、求めて欲しかった。
 俺は、智君だけだよ。
 ずっと永遠に望むのは、唯一人。同じ感情を強いる事が無理だとは知っているけれど。
 今、この夜に抱えられるのは腕の中にいる彼だけだ。彼自身がそれを望んでいないとしても。
「智君」
「んー。眠くなった?」
「眠いのは、いつだって智君の方でしょう」
「そっか。どうしたの?」
「智君」
「うん」
 大野は空気の変化を敏感に感じ取って、櫻井の胸に左半身を預けてそっと瞳を閉じた。
 早くなる心拍。強くなる拘束。
 離れられない二人。
 夜は、未だ明ける気配がない。

「俺のもんになって」

 互いの呼吸が、止まった。
 決して告げてはならない言葉。独占欲と愛情の、どちらが強いのか。
 多分、独占欲の方だった。
 誰にも奪われたくない。自分の知らない人と生きていても、その心が自分から離れる事は許せなかった。
 「愛している」より昏い、「欲しい」の言葉。
「駄目だよ」
「智君」
「……まつじゅんでも、にのでも相葉ちゃんでも良いけど、翔君だけは駄目。翔君も同じでしょ?」
「そう、だね。俺も智さんだけは駄目だわ」
 頷いて、大野は優しく笑う。互いが互いで駄目な理由は一つだけだった。
 愛し過ぎているから。
 その手を取った瞬間に、きっと全てが壊れてしまう。他の何も要らないと、この心臓はちゃんと知っていた。
 破滅する事が分かっているのに、手に入れる事は出来ない。
 二人にとって、自分の恋情より大切にしたいのは嵐と言うグループだった。五人で過ごすあの場所を、絶対に失いたくない。
 たった一人を欲しがるより、五人で一緒にいたかった。その為には、永遠にこの距離を保つ他ない。
「これからも、ずっと一緒にいるから」
「うん」
「俺、翔君いないとちゃんと仕事出来ねーし」
「そうだね」
「良い大人なんだから、俺達」
「そうだね」
「でも、」
「……智君?」
 俯いてしまった大野の頬に手を添えた。言葉を返さない彼の肩が震えている。
 大人の振りをして遣り過ごすべき瞬間を、彼の心臓が拒んでいた。
「翔君」
「なぁに」
 いけない、と大野は思った。
 自分だけを抱く腕、自分だけを呼ぶ声、自分だけに触れる唇。自分の為だけに生きる彼を想像して、ぞっとした。
 それを欲しがる己が、何より浅ましい。俺は、彼のものになるつもりなど少しもないのに。
「どうしたいの?」
 優しい声に、どうして自分は彼の携帯を鳴らしてしまったのかと大野は後悔する。あの店で一人飲んでいれば良かった。
 何度も何度も気持ちを抑えて生きて来たのだ。知らない振りをして、メンバーの距離で付き合って、その線を越えない場所で甘えていられれば良かった。
 それなのに。
 この心臓は、何と欲深いのだろう。
 ゆっくりと顔を上げて、櫻井の瞳を見詰めた。小さく息を飲む音と、困惑して歪む眉。
 ごめんなさい、と冷静な自分が思う。
「何、泣いて……」
「翔君」
 身勝手なのは、自分が一番知っている。分かっている。
 でも、どうしても止められなかった。
 右腕を彼の後頭部へ伸ばす。溢れる涙のせいで、顔が良く見えなかった。
 苦しい。
 愛しい。
 欲しい。
 他の何も要らないと願う自分は、愚か過ぎて嗤う事すら出来なかった。
 首を伸ばして、キスをねだる。その仕草だけで全てを分かった頭の良い彼は、少しだけ怖い顔をして望む通り柔らかな口付けをくれた。
 頬に添えられた手が、涙を拭う。一瞬の接触は、甘さよりも痛みが強かった。
 当たり前だ。
 決して欲してはいけないものなのだから。スキンシップでないキスは、いけない事をしているのだと自覚させた。
 痛いのに、欲しい。
 あの時、使わないメモリーなんて呼び出さなければ良かった。
「もっと」
「さ、としくん」
「もっと。駄目だ、俺。何で……」
 心臓に巣食う欲は大きくなるばかりで、死にそうだった。死んだ方が楽だと思える位。
 痛い痛い痛い。
 恋なんていらなかった。そんな怖いもの、俺に抱える事は出来ない。
 櫻井の優しい指先が、頭を撫でた。もう一度落とされたキスも、同じように優しい。
「……お願い。優しくしないで」
「優しくしたいよ」
 首を横に振った。
 夢を見たくなるから駄目だ。
 出来ない。俺は、翔君と生きて行けない。
「酷くして。もう、欲しくならないように」
 無理な事だとは分かっていた。
 彼を要らなくなる日なんて、永遠に来ない。お互い分かっている筈なのに、櫻井は小さく笑って頷いた。



 もうすぐ朝が来る。
 この夜が幻影に変わる。
 櫻井は、朝まで大野を手放す事はなかった。ずっと、優しいだけのキスを与える。
 大野の心臓で荒れ狂う恋情等無視をして、慈愛とも取れる接触だけを繰り返した。
 彼が手を伸ばしても、「もっと」と強請っても、決して望む通りにはせずに。苦しんで顰められた眉にも柔らかな口付けを落とした。
 彼が恋で死なないように、朝が来たらまた生きて行けるように。
 自分は、これ以外の遣り方を持ち合わせていない。それで良いのだと、大野はきっと思っているから構わなかった。
 緩く抱き合って、恋情を逃し合う。
 お互いがこの夜を忘れる事がないように。二度と、同じ夜に迷い込まないように。



 これが、五人で生きて行く為の、二人の方法だった。
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