小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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二人だけのこの部屋は、いつでもままごとの気配。少しでも均衡を崩せば消えてしまう、脆く甘い匂いがした。
此処は、御伽話の世界。閉じられた綺羅綺羅の宝石箱の中。手を伸ばせば届く場所にある青い羽根。臆病な僕達は、まだ夢の途中にいる。
彼の寝起きの悪さにはもう慣れた。毎日繰り返される朝の光景に飽きない辺り、自分は良く出来た人間だと思う。間取り二Kの決して広くはない部屋に、剛の声が響き渡った。
「光一!朝やでー!ええ加減起きんと遅刻するわ」
まずは一回目。二人分の弁当を作る手は止めずに叫んだ。こんなもんで彼が起きる等とは勿論思っていない。低血圧で夜型人間の寝起きの悪さは、軽く想像を絶していた。
今日の弁当は、卵焼きとウインナーといんげんのバターソテー。定番メニューはたまに恋しくなるから不思議だ。未だ起きる気配のない光一の白米には、嫌味たらしくハート形に切った海苔を乗せた。我ながら繊細な出来栄えだと満足して、剛は朝食用のトーストをオーブンに入れると二回目に取り掛かる。
部屋の仕切りは全て襖だった。これではプライベートも何もあった物ではないと他人に眉を顰められた事もあったけれど、自分達にはこれ位が丁度良い。近過ぎる距離。安心出来る不可侵領域。二人肩を寄せ合って生きて行く為に必要な場所だった。
遠慮も何もなく襖を開ける。光一の部屋は、いつも簡素な雰囲気だった。六畳の空間には、本棚とアルミ製の机と小さな箪笥が一つ。本棚には、職業柄必要なPCシステムの雑誌と、捨てずに残された教育関連の書籍、そして剛の成長を記録した二人だけのアルバムが並んでいる。他の誰も映っていない、二人きりの密やかな記憶。
その部屋の中央に布団が敷かれている。寝汚い部屋の主は、毛布を抱きしめたまま身じろぎ一つしなかった。声を発する手前で一瞬躊躇する。
足下で蹲る小柄な姿に見蕩れた。寝癖で乱れた髪も少し伸びた髭も、布団からはみ出した骨張った足も、確かに男の物であるのに。毛布を掴んだ幼い指先や柔らかな髪の間から覗く額に僅かに残る傷跡、薄く開かれた誘う唇、晒された肌の発光しているかの様な白に。
惑乱される。
不覚にも欲情し掛けた自分を自覚して、剛は焦った。制服の裾を握り締めて、己の劣情を遣り過ごす。あかんわ、俺。朝っぱらから何考えてんねん。自分の年齢を考えれば寧ろ当たり前の事なのだが、何せ相手が悪過ぎる。今はまだ、駄目だ。
すっと息を吸い込んで、今度こそ声を張り上げた。夢の世界にいる彼にもきちんと届く大声。近所迷惑にならないかと、密かに案じてはいるけれど。
「光一さーん!朝ですよー」
言いながら、細い身体を跨いで窓へ向かう。ベージュのカーテンを開ければ、心地良い朝の光が入って来た。彼にとっては、安眠を遮る強い明かり。
「……うー」
後ろから呻く声が聞こえて、剛は間髪入れず光一を包んでいる毛布を剥がす。尚も呻きながら、やっと瞼を持ち上げた。
「お早う。目、覚めたか?」
「……はよ」
「そろそろ支度せんと、ホンマに遅刻するで」
「……んん」
ぐずる光一の腕を引いて、身体を起こしてやる。其処まで手伝えば、後は身体が勝手に動く筈だった。脳味噌が機能するのは、まだまだ先の事だ。起動の遅いコンピューター。
「俺もう行くかんな。弁当テーブルの上に置いてあるし、ワイシャツも其処に掛けてあるから」
「ありがと」
「なら、後でな」
「うん。……あ、何時?」
「三時半。遅刻せんといてな。昼休みに携帯に連絡入れよか?」
「大丈夫。お前の大事、やもん」
「……うん」
幼い響きで、それでも真面目な言葉を綴る。剛には、それが少し面白くなかった。贅沢な不機嫌だとは分かっていても、嫌な物は嫌なのだ。
「じゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃーい」
ひらりと手を振る光一を視界の隅に残して、朝の光が射し込んだ部屋を出た。焼き上がったトーストにバターを塗って、口に銜える。制服のボタンを留めながら、剛は自分の状況に少し笑った。
朝にこんな時間の余裕がある男子高校生なんかおらんやろなあ。原因は確実に彼にある。睡眠第一と言えば聞こえは良いが、地震が起きても起きないだろう眠り方には辟易した。他の人間だったら、絶対に放っておく。
鞄に弁当を入れて、家を出た。安アパートの階段は、体重を掛ける度に軽快な音を立てる。住み慣れたこの街の玩具みたいなアパート。二人の記憶が全て詰まった場所だった。蒼天を見上げて、僅かに眉を顰める。強い光に目が眩んだのではなかった。自分と彼の距離を思う度、胸が疼く。
光一と剛の関係を示す言葉は簡単だった。戸籍にも勿論明記されている。俺達は、『親子』だった。
+++++
小さな手をぎゅっと握り締めていた。それははぐれない為の物だったし、不安そうな瞳を隠そうともしない子供が伸ばして来た温もりを受け止める為でもある。光一は、今もその体温を明確に思い出す事が出来た。
あの時は分からなかったけれど、今ならちゃんと分かる。現実を自分の愚かさを、逃げずに理解していた。繋いだ指の先で怯えていたのは自分の方だ。彼は、子供特有の敏感さで一番正しい方法、安心出来る術を差し出しただけ。
東京行きの最終の新幹線だった。新神戸駅のホームは寒くて、剛にもう一枚着させるべきだったと後悔する。自分の荷物は全て先に送ってしまった。肩から掛けているスポーツバックの中は、剛の物しか入っていない。もう二度とあの家に帰る事はないかも知れないから、と持ち出したい物を全部入れさせた。全部とは言っても、決して多い量ではない。元々持っている物の少なさを示すだけだった。
「寒ない?」
「平気。光ちゃんは?手、冷たいで」
繋いだ指先を引っ張って問われる。吐き出す息がぞっとする程白かった。
「大丈夫や。俺、元々冷たいねん」
「そうなん?やったら僕があっためたるわ」
言って笑う剛の目許と口許には、痛々しい傷が残っていた。彼の父親が付けた暴力の証だ。
ホームに新幹線が滑り込んで来た。手を繋いだまま自由席の車両に乗り込んで席を確保する。窓側に剛を座らせた。シートに凭れると、ほっと息を吐いたのに気付く。緊張しているのだろう。
一週間前の夜、いつもの様に傷の手当をして一緒に夕食を食べている時だった。母親は、剛の父親に再三の勧告を言いに出ている。児童福祉士を長い事続けている母にとって、近所の家庭環境は放っておけなかったのだろう。自分は多分、そんな母親の影響でこの子供が気になっているんだと思う。
口の傷に染みるだろうと少し冷ました食事を剛は黙って食べていた。あの父親と二人では、普段碌な物を食べていない筈だ。
「美味しい?」
光一の問い掛けに剛は頷く。食べる事に夢中な感じだった。子供らしい、本能に忠実な行動。
「……なあ」
呼び掛ければ、視線だけを向けて来る。目を合わせて、光一は少し躊躇った。子供の瞳、肉親に傷付けられても濁る事のない純真な色を持っている。彼に、果たして告げても良い事なのだろうか。
自分は来週、東京へ引っ越す事が決まっている。大学生活を終えて、社会人になる為だった。警備会社のシステムエンジニアとして働き始めるのだ。本来なら、言うべきはお別れの言葉の筈だった。
「何?光ちゃん」
言葉の続きを待っていた剛に促される。その小さな身体の至る所に傷があるのに、彼の目は人を信じる強さを持っていた。環境も何も関係ない、この子供が持っている強い性質だ。
「うん、俺な東京で就職するんよ」
「……そーなん」
吃驚した顔に安堵した心は、罪に値するだろうか。大人の卑怯を、彼は受容してくれるだろうか。
「でな、剛さえ良かったら……」
少なくとも、小学四年生の子供に言って良い台詞ではなかった。頭では分かっているのに、言葉は身勝手に零れて行く。
「俺と一緒に、行かへん?」
目を見る事は出来なかった。一瞬の空白が、光一には永遠の審判の様に感じられる。唇を噛み締めようとした瞬間、呆気無く返答が落ちて来た。目の前には、光がある。
「うん、ええよ」
まるで、明日遊ぶ約束をしたみたいな軽い同意だった。視線を向けると、大人びた表情で笑っていた。幼い顔に浮かぶ理知的な色に、怯む。
「光ちゃんが連れ出してくれるんやろ?それやったら、東京でもアメリカでも何処でもええ。あの家やなければ、構へん」
答えた言葉は真剣だった。自分の言葉の意味をしっかり受け止めている。理解して考えて出してくれた結論だ。自分の中にある迷いや罪悪が綺麗に浄化されて行く感覚。剛を、このしっかりした強い子供を、自分が守るのだ。
「剛、一緒に行こう。一緒に生きよう」
窓の外は暗い。時々明かりが直線を引いては消えて行った。剛は深く眠っている。その表情に翳りは見られなかった。指先は緩く絡めたまま、膝の上にある。
もうすぐ名古屋に着く筈だった。剛がいなくなった事に、あの父親は気付くだろうか。ちょっと考えて、すぐに無理だと結論付ける。いなくなった事に気付ける位の人間だったら、息子を奪う様な真似はしなかった。この手を取ってしまった以上、手放す気はない。
多分一番に母親から連絡があるだろう。逃げない事は決めている。本当はそれが浅はかで無謀な事も知っていた。実の親子を引き離すのが難しい事位、母の仕事を見ていれば簡単に分かる。
今の児童福祉法や児童養護施設に、剛を守る事は出来なかった。ならいっそ、自分が守ってみせる。誘拐犯になっても構わなかった。何を犠牲にしても、この小さな手を守り抜きたい。
社会人にすらなっていない光一が、剛と二人で生活するのは困難だった。逃げ出したあの夜から八年の月日が経っている。二人の生活を支えたのは、沢山の優しい大人達が差し伸べた手によってだった。
あの時の不安も芽生えた罪悪も、胸の裡にある。けれど何より強いのは、繋いだ指先を離さないと言う使命感だった。剛は、自分が大人にする。それだけが、自分の夢であり希望だった。
+++++
会社に着いて、まず早退届を提出する事から始めた。随分前に上司には伝えてある。書類上必要な形式的な作業だった。
本部で勤務している光一は、直接警備とは関係がない。警備用のシステムのメンテナンスを主に担当していた。設置している施設への外回りはあるけれど、内勤が多くシステム異常等の緊急事態にならない限りは定時で帰る事が出来る。まだ学生の剛と生活するのには、丁度良い職場環境だった。
書類を提出しに行く為に廊下を歩いていると、後ろから騒音とも呼べる程の大きな足音が近付いて来る。振り返るより先に、足音の持ち主が光一を捕えた。
「光一ー!おっはよー!」
不意の襲撃を受けて、前のめりによろめく。後ろからこんな大男に乗られては、潰れてしまうではないか。不満たっぷりの声を同僚にぶつけた。勿論そんな言葉が通用しない相手である事は、経験から十分分かっている。
「長瀬!重いっちゅーねん」
「えー、朝のスキンシップじゃーん」
蛇に睨まれた蛙の様に肩を竦めて、大男は渋々離れて行った。大型犬が飼い主に叱られたみたいな表情は可愛い。しょうがないなあと言う気分にさせるのだから、侮れない奴だとは思っていた。
彼は、職場で唯一気の置けない存在だ。と言うよりも、上京した光一の数少ない友人だった。何で其処で親友って言わないかなーと、心の中を読まれていたら突っ込まれるだろう。
「ウチの子達は全然嫌がんないよ?パパーって大はしゃぎだぜー」
「子供と俺を一緒にすんな」
連れ立って歩きながら、背の高い彼を睨み付ける。身長差が邪魔をして、まあそれ以前に光一の顔立ちが愛らしい小動物と同じ物で出来ているから、そんな顔されても怖くない、と言うのが長瀬の意見だった。睨む友人の瞳は可愛いから、余計な事は言わないけれど。
長瀬と光一の始まりは、入社してすぐの事だった。光一は今でも最初の事を覚えている。新人研修の時に馴れ馴れしく声を掛けられた。同期は他に何人もいたし、長身で目立っていた彼がわざわざ女子にさえ埋もれてしまうんじゃないかと言う(身長は同じ位だけど、勢い的に)自分に真っ直ぐ向かって来る意味が分からない。仲良くなって来た今でも理解出来なかった。
だって、光一がダントツで好みだったんだもん。あっけらかんと言う長瀬は良い奴だと思うが、言っている事が自分の常識の範囲を超えていた。それでも仲良くなれたのだから、自分もこの規格外の男が好きなのだろう。
彼の押しの強さは関西の物に似ていた。当時はホームシックになるどころではなかったから思い当たらなかったけれど、多分その懐かしさに惹かれたのかも知れない。強気な姿勢が余り得意ではない自分が、最初から彼の存在を疎ましいと思わなかった。全然タイプの違う人間だけど、波長が合うと言った感じかも知れない。
一緒に行われた研修だが、自分はシステム管理に長瀬は警備部に入ったから、なかなか会う事は出来なかった。人付き合いの苦手な自分がそれでも関係を続けていられるのは、この友人が見た目の印象よりもずっと繊細で几帳面だからだろう。定時で上がれる自分と違って、四十八時間勤務もこなす警備部は想像以上に大変だと思う。警備の仕事を元気に続けられるのは、守る者がいるせいかも知れなかった。
ちなみに今は二人の娘に溺愛中で、親友と豪語される自分でも余り構って貰えなかったりする。全然構わないのだけど、ほんの少し寂しいと思ってしまうのは、自分の性質が我儘だからだった。
こんなお父さんやったら、子供は大らかに育つやろな。また他の家族と比較しそうになって、慌ててその思考を追い払った。他人と自分を比べるのは悪い癖だ。剛にも嗜められた事がある。他人は他人、ウチはウチ。強い息子の言葉を思い出して、弱気な思考を追い払った。
「何?光一。今日早退すんの」
手に持った書類を覗き込まれる。綺麗とは言えない署名と、形式通りの書面。
「うん。今日、三者面談やねん」
「あー、剛の。あいつ幾つだっけ?」
「おっちゃん、それこの間も聞いたで。高三、受験生」
「ごめんごめん。俺、頭悪いからさ。そっかー、あいつもそんな大きくなったか。そりゃ、俺も年取る訳だ」
長瀬は、剛が中一の時から知っている。面倒見が良く情の厚い彼は、自分達の生活を知ってから何気なく気に掛けてくれていた。異質な親子関係に口を挟むでもなく、旅行に行けば二人分のお土産を買って来てくれたし、インドアな養父の知らない遊びにも躊躇なく誘ってくれる。
親友の大事なもんは、俺にも大事。シンプルな発想で生きている長瀬に何度も救われていた。
「長瀬は初めて会った時から変わってへんよ。年取ったようにも見えん」
「それは光一だろ。お前年々若返ってく気するんだけど」
「そんな事あらへんわ。おっさんやもん」
「うん、知ってる。じゃなくて、見た目とか。入社したてん時とか、髪きっちり分けてて、スーツじゃない時も色のない物ばっか着ててさ。手とか唇とか荒れててもクリーム塗るの嫌がってたし。勿体無いなあって思ってた」
「……よぉ覚えとんな」
あの頃は生きる為に精一杯だった。連れ出した幼い命を自分の手で守りたくて、自分自身の事なんてどうでも良かったのだ。今も本当はどうでも良いと思っていた。元々関心がないと言う自覚はある。
「でも、最近変わったよね。ネクタイの趣味も違うし、前髪可愛いし」
「可愛いって言うな」
「剛のおかげなんだろうな。全部あいつがやってるんだろ」
「……何で分かるん」
吃驚した顔で見詰められると、苦笑するしかない。何年自称親友を続けていると思っているのだ。光一の身体にフィットする細身のスーツも、物が入っていれば紙袋でも構わないと言う思考の人が持つには機能的なバッグも、ふわりと香るシャンプーの匂いも、丁寧にファイリングされた爪も全部。
無頓着な光一が出来る事ではなかった。父親の世話を進んで焼いている、マメで凝り性な息子の顔を思い出す。きっと、美容院すら一緒に行って美容師に要望を言っているに違いなかった。顔の周りでバランス良く揺れる茶色の髪は、彼の年齢を分からなくさせる。
「剛は、親の手伝いやから当たり前やって言うんやけどね」
「お前ら、段々どっちが親でどっちが子供か分かんなくなって来たな」
言った途端、長瀬は後悔した。光一が立ち止まって傷付いた顔を見せる。悲しい瞳。彼の黒い目は吸い込まれそうに綺麗だけれど、いつも罪悪の色があった。消えないその色の原因を知っている。
「……そうやね。剛はしっかりしてるからなあ。しっかりせな、あかんかったから」
「光一」
「あの子をゆっくり育てたいって思ったのに、結局俺が大人になるの急かしてる」
「光一、お前のせいじゃない。おいつは元々しっかりした人間なんだ。知ってるだろ」
「うん。向こうにいた時から、しっかりした子供やった」
剛は、自分がきちんとしていなければ家庭環境のせいにされる事を分かっている。あんな若い父親だから、と光一に責任を向けられる事を酷く嫌がった。
「今日の三面って、進路の話?」
「うん」
「剛は、どうすんの」
「……分からん」
暗く沈んだ声。傷付いた顔をさせたくなかった。
「話してないの?」
「話そうとは、してる。でも言うてくれん。もう俺は自分の進路位自分で決められる年やから、って。ちゃんと決められたら話もするって。それっきりや」
剛が光一に話さないなんて、あり得ない事だった。この父親は連れ出してしまったその日から、不必要な罪悪感を抱いているせいで、時々過剰かと思う程息子になった子供の事を理解しようと必死になる。全て理解している事が義務だとでも言うように。
そんな光一の心を知ってか知らずか、剛は自分の事を何でも話した。学校であった事、夜中に布団の中で考えた事、街で聞いた音楽が良かった事、釣りに行って何が釣れたのか、帰り道に見上げた空の神秘的な色も。何もかも、自分を形成する全ての事を伝えていた。
基本的にこの二人に隠し事はない。光一は余り自分の事を話さないけれど、それは口下手なだけで嘘や誤摩化しはない人だった。
だから、剛の行動は可笑しい。初めての事かも知れない。何か考えがあっての事なのは間違いないだろうが、暗い表情で思い詰める親友を見て掛ける言葉は何も見付からなかった。
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柔らかな陽射しが射し込む菜園は、剛達のお気に入りだった。学校内の敷地に於いて、これ以上完璧な優しさを有している場所はない。と言うのが親友の見解だった。
緑が褪せ始め少し肌寒くなっても、昼休みは此処で過ごしている。口数の少ない親友は、本を捲りながら、大して美味しくなさそうにパンを齧っていた。食事に楽しみを見出さない所は、あの養父と似ている。彼の事を思い出して、それから午後の憂鬱な予定を思って、剛は深い溜め息を吐いた。
「……どうしたん」
やっと本から顔を上げて、隣で膝を抱える陰気な人を見詰める。相談したいのなら、素直に言えば良いのに。手を差し伸べるように仕組む癖は、あの人の甘い教育の賜物だ。
彼なりに厳しく育てたつもりなのだろうが、最後の最後で甘さが残った。社会的には問題がないし、何より結局苦しむのは優しい彼なのだ。自分が嗜める事でもなかった。
「岡田ぁ、俺どないしよ」
「何が」
「まだ、進路の話してないねん」
「……ホンマに?」
黒い双眸を瞬かせて、信じられないと言う表情を作った。まさかとは思っていたのだが。決意を固めているのに言葉にしないのは罪に値する。少なくとも、剛と光一にとっては。
他人だからこそ、目を見ても手に触れても通じない。通じ合わせてはいけない。だから、どんな些細な事でも告げようと言うのが彼らのルールだった。
「言おう言おうとは思ってたんやけど、言えんくて」
「光一君は、大学進学希望しとんのやろ」
「ぉん。公立でも私立でも構わないから、行きたいとこ行けって」
「……ホンマ、良いお父さんやなあ。今時言えへんで、そんなん」
感心した口振りに剛は嬉しくなる。自分の大切な人が誉められるのは、優越感だった。慣れた感覚のまま笑おうとして失敗する。その、『良い父親』こそが今自分を苦しめているものだった。
相反する感情に結局剛は表情を消す。優しさも苦痛も、自分の中にある感情を左右するのは光一だけだった。小さな頃からずっと、自分の行動原理は彼にある。
「良い父親なんかやなくてもええねん」
「それでも、光一君は剛君の父親や。良い父親であろうとしてくれてるんやよ」
静かな声で岡田は嗜める。ついこの間会った時も優しい目で「学校どうなん?」と聞かれた。自分には入り込めない場所での息子の事を心配している真っ直ぐな感情だ。大切にしている愛情しか見出せない瞳。
岡田は、自分で認識している以上に彼の事を気にしているのだと知った。不器用な仕草で、でも迷わない意思の中剛だけに向けられる白い手が好きだ。
「分かってる。ずっと分かってたつもりやし、これからもちゃんと親子でいなきゃあかん事も知ってるんや」
剛は、自分の養父である人を愛してしまった。十八にもなれば、自分の恋が気の迷いではない事位分かる。幼い頃から面倒を見てくれた人だ。自分が他人を怖がらずに受け入れられるのは、彼のおかげだった。実の父親に付けられた傷は、彼の手によって癒されたのだ。感謝の気持ちを抱くべきであって、今抱えている感情は間違いだった。
捨てなければいけないと思ったのは、中学生の時だ。良い息子になろう、彼の笑顔を曇らせたくない、と必死で振り払おうとした恋だった。けれど。
今も尚、光一への恋は此処にある。捨てる事なんて出来なかった。大切な、自分を成長させて来た思いだ。
「好きって、言わへんの」
「言えへんよ。『親子』って関係の中でやったらずっと言って来た。多分これからも言い続けるよ。けど、そう言う意味では言わん」
「間違った気持ち、やから?」
「そうや。光一が望む俺は、父親の事好きになる様な不健康な奴ちゃう。俺が社会出て、彼女作って、結婚するんを心から楽しみにしとる。家族なんていらん言う俺の子供を抱きたいって言う。あいつが望んでるんは、自分の元を飛び立って社会に溶け込む事や」
「光一君らしいな。剛君いなくなったら一人になってまうのに」
「光一やって、俺がいなくなったらきっと自分で家族作るわ。今は俺がいるから一人なだけで」
「そうかなあ。僕は、光一君はもう剛君以外の家族は持たないと思うよ。どっちかが死ぬまで、剛君の為にいつでも待っててくれる気がする」
冷気を含んだ風が、岡田の黒い髪を持ち上げる。やんわりと毛先を押さえる仕草を追いながら、つくづくこいつは変な奴だ、と思った。血が繋がっていないとは言え、戸籍上は間違いなく親である人を愛し、その上それは同性に向けられている。年齢も一回り離れていて、どれだけの罪を重ねているのか分からない筈はなかった。
それなのに、この親友はあっさりと受容する。偏見も軽蔑もない瞳で「光一君綺麗やもんなあ」なんて暢気に笑う。他人と少しずれた感覚は、環境のせいか持ち合わせた性質なのか。歪んでいると言うよりも精神的な拠り所が違うのだろうと思う。自分の信じるものしか信じない。簡単に見えて、それで生きるには難しい生き方をしていた。岡田の価値観は、絶対的な尺度で構築されている。
「茂君には相談したん?」
「……どうしようか悩んどる」
「話してみたらええよ。きっと何か見付かるわ」
信頼に満ちた声で笑った。茂君、と言うのは自分と光一が一番お世話になった他人だ。法的手続きは、彼の手がなければ出来なかった。おっとりした笑顔を思い出す。
「そうやな。今日、帰りにでも寄ってみる」
「三面の後やなあ」
「茂君とこ行く時、どうなってるんか想像もつかん」
「僕も一緒に行くわ」
岡田と出会ったのは、茂君の施設だった。長い事、光一の母親と同じ児童福祉士として働き今は私営の児童相談所を運営している。法では救えない子供を、自分の手が届く範囲で見守る、と言うのが信条だった。親のいない、帰る家のない子供達が自立出来るまで、広くはない居住スペースで生活までさせていた。
あの場所は、悲しい事や辛い事も沢山ある筈なのに、いつも明るい。離れそうになる二人の手をいつも繋がせてくれたのは、茂君だ。
「俺は、光一を悲しませたい訳でも離れたい訳でもないんや。唯、ずっと一緒におりたい。一緒に生きていきたい」
真っ直ぐな瞳で話す剛が抱えているのは、恋よりも純真な心だと思った。欲も打算もなく、此処にあるのは愛したいと言う尊い感情だけ。恋に近いと思えるのは、其処に隠し切れない独占欲が滲むからだろう。茂君が彼らに明るいものを渡してくれたら良いと岡田は思った。冷たい風に冷えた指先を握り締めて、彼らの未来を願う。それは、午後の陽射しに溶け込む優しい祈りだった。
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小さい頃の記憶は、痛みと共に思い出される。傷付けられた身体が辛くて、泣いてばかりいた。朧になった過去は、いつでも光一の体温が傍にある。今も昔も変わらないのは、彼の乾いた掌だけだった。
光一の母親が幼稚園に行っている筈の剛を見付けたのは、近くにある公園のベンチだ。殴られた痕と転んで出来た擦り傷が痛くて、顔を上げられなかった。涙を零すだけの自分を抱き上げて、父親のいる木造アパートではなくお日様の匂いがする光一の家に連れて行かれる。
リビングに剛を降ろすと、二階に声を掛けているのが見えた。少しもしない内に聞こえる、軽やかな足音。顔を向ける事は出来なくて、手が伸ばされるのを待った。
「剛。いらっしゃい」
俯いて待っていれば、当たり前の仕草で頭を撫でられる。やっと安心して、それでも伺うように顔を上げた。
「光ちゃん、何でおんの?」
友達や家族が呼んでいるのと同じ呼び方をしても、彼は怒らない。嬉しそうに笑って、何でも許してくれた。絶対に曇る事のない笑顔は、多分幼い自分にとって救いだったのだと思う。
「学校のな、試験終わったから、今お休みなんや」
「しけん?」
「普段ちゃんと勉強してるか確かめるもんや。お前も小学校上がったらあるんやで」
「そうなんや」
光一は、この時高校二年生だった。落ち着いた印象は昔から変わらない。近所に住む、こんな子供にも優しくしてくれた。思春期特有の尖った態度も反抗期も、彼からは見えない。
部屋でゆっくりしていたのだろう。ハイネックのグレーのセーターに、ゆったりしたパンツを履いている光一は、制服でいる時よりも柔らかく見えた。臆病な自分でも手を伸ばしやすい。
「あーあ。まぁた派手にやられてもうたなあ。今、手当してやるからな」
痛みを伴わない声音で笑って、一度救急箱を取りに部屋を出た。母親と会話している声が聞こえて、またすぐに戻って来る。自分をソファに座らせて、その目の前に正座した。目線を合わせて覗き込まれると、心臓の音が大きくなる。
「消毒だけしたるかわ、終わったら風呂入っといで。そんで、ご飯一緒に食べよ」
「うん」
「幼稚園には母さんが連絡入れたから、心配せんでええよ」
「……ありがと」
「早く傷、治そうな」
笑って消毒を始めた光一が、自分の気持ちを知っている事が嬉しかった。腹や足に付けられた傷なら気にしないけれど、今日みたいに顔に付けられると幼稚園に行きたくない。口の端と目の周りが青黒く変色していた。口の中に鉄の味がするから、きっと何処かを切っている。
痛いのは何処に付けられても変わらないけれど、友達や先生や他の親の目が痛かった。あれが同情や憐憫だと理解出来るのは、もう少し先の事だ。
温かいお湯は傷に沁みたけれど、浴室を出たら光一が真っ白のバスタオルを広げて待っていてくれたから嬉しかった。ふわふわした感触に包まれると、幸せな気分になる。此処にいても良いと許されている気分になった。
サイズの合わない服を着せられて、再びリビングのソファに座らされる。キッチンからは美味しそうな匂いが漂って来ていた。絆創膏と包帯と、不器用な指先が迷いながらも適切な処置を施す。清潔な肌と温かい光一の空気と、自分の為に用意されている食事の匂い。普段自分がいる場所と余りにかけ離れていて、剛は泣きそうになった。
「……剛、どうしたん?傷沁みるか?」
「ううん」
「じゃあ、何で泣くん」
困った顔で笑われて、頬に丸い指先が滑る。
「光ちゃん、剛に泣かれるとどうしたらええか分からんねん」
「……っう、光ちゃ。あんな家、帰りたない。あんなん、親やないっ」
最後まで言う前に優しく抱き締められた。胸に顔を埋めたら、もっと涙が溢れて来る。光一の匂い。いつでも彼は甘い香りがした。優しいお日様の名残みたいな。もし自分に母親がいたら、きっとこんな健康的な匂いがするのだろう。剛が生まれてすぐに他の男と蒸発した女は、母親の温もりを与えてはくれなかった。
「剛、そんなん言うたらあかんよ」
嗜める声音が優しく響く。背中を撫でる大きな掌に安心した。泣いている自分を宥める大人の手は沢山あったけれど、彼より心地良いものはない。
「やって、あいつのせいで、俺は……っ」
「そぉかも知れん。でもな、どんな風に思ったって、剛のたった一人のお父さんなんや」
「……そんなんいらん」
「辛なったら、光ちゃんが絶対に助けに行ったるから、悲しい事言うたらあかん。ええな?」
光一の口から、一度も父親を非難する言葉は出た事がない。現状を見兼ねてはいても、剛の心に憎悪の感情を植え付けたくなかった。あんな親だから子供もまともに育たないのだ、等と言われたくない。強い子供がそのまま成長したら良いと思っていた。
「剛、返事」
「分かった」
「ええ子やな。俺は、強い剛が大好きやよ」
甘やかす言葉に素直に顔を上げる。黒目ばかりの優しい眼差しにぶつかってどきりとした。この息苦しい感情をずっと抱える事になるとは知らずに、剛はゆっくり笑う。
「俺も、光ちゃんが好き」
「ありがとぉ」
ティッシュで涙を拭われながら早く大きくなりたいと思った。どうして、なんて疑問に思う前に食事が出来たと告げる朗らかな声が聞こえて、理由は見えなかったのだけど。
十八になった今も胸にある、早く大人になりたいと言う願い。愛されるだけの子供ではなく、光一を守る事の出来る強い人間になりたかった。
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机を挟んだ向こうには担任、隣には剛が座っている。傾き始めた陽射しが、木目の机を鈍く光らせていた。息苦しい緊張感。いつだって歳若い養父だと軽んじられないように、気を張って来た。自分のせいで剛が悪く言われるのは嫌だ。責任感のある大人の態度。見た目の雰囲気に左右される薄っぺらい信用を得る為に、髪を明るく染める事もアクセサリーを付ける事もしなかった。
剛が中学生の時の担任に「父親と言うよりも母親みたいですね」と嫌味を言われてからは、細いだけだった身体も鍛えている。女顔はどうする事も出来ないから、線の細い身体位は変えようと思った。結局筋肉が付き難い体質だったようで、劇的な変化は望めなかった。
この担任とは何度か話をしている。理知的な瞳を持った初老の紳士は、嫌いではなかった。必要な事以外は話さない冷静な雰囲気は、家庭環境の良くない自分達には安心出来る。
けれど、胸の裡には不安が渦巻いていた。担任が手にする資料の中に、剛の進路がある。怖かった。今まで一度も抱いた事のない不安定な気持ち。自分の息子の事が分からない。
どうして、話してくれないの。廊下で剛の笑顔を見付けた時、思わず詰りそうになった。どうして。二人で暮らして来た八年の中で一度もない事態だった。何よりも把握しておきたい事が分からない。
「さて、時間も余りないものですから、始めましょうか」
「はい、お願いします」
「堂本君の最近の試験結果です」
データ化された資料が広げられる。この結果は見慣れたものだった。一緒に見直しもしている。相変わらず数学が弱くて笑ったのを覚えていた。俺理系やのに、何でそんなに出来んねん。笑顔の裏で僅かに痛んだ心臓。自分と剛は他人なのだと突き付けられているみたいだ。どれだけ一緒にいても、どれだけ愛しても、所詮疑似でしかないのだと。
「文系の大学で教科を選べば、然程進学は難しい事ではないでしょう。でも、堂本君の希望進路は違ったね」
「はい」
「え」
知らない、と言いそうになるのを慌てて押さえる。担任に不信感を抱かせたくはなかった。隣を見れば、すまなそうに笑う剛がいる。大人びた微笑だった。物分かりの良い、諦めを知った大人にはなって欲しくないのに。膝に置いた手をきつく握り締める。
「俺は、就職希望です」
「……っ」
「まあ、秋になって急に進路を変えたものですから、私も吃驚しましたけど、今からでもどうにか間に合うとは思います。就職難のご時世ですから、職種を選ばなければ、の話ですけれどもね。こちらでも面接の練習や履歴書の書き方なんかは見てやれますから。……お父さん、どうかされましたか」
「いえ、お手数をお掛けして申し訳ありません。」
上手く声が出ない。顔を上げる事も出来なかった。就職?そんなの聞いてない。高校受験の時ももめて、結局大学進学まで視野に入れたこの学校を選んだ。
早く大人になる必要なんてない。勉強が出来るのも、俺がお前を守ってやれる時間も僅かなんだから、甘えなさいと。ずっと言って来た。剛を連れ出したのは自分で、彼を育てるのは義務なんて言葉じゃ括れない位大切で当たり前の事なのに。
あの曇らない瞳が好きだった。手の中にある温もりを大切にしたかった。この手を離れて行く不安は、諦めにも似ている。いつかは離れて行くのだと、納得はしていてもそれは今じゃなかった。
「……もう少し、この子と話し合いをしたいと思っています」
「そうですか。私もその方が良いと思いますよ。此処で決める進路は、将来を左右するものですから」
「はい、ありがとうございます」
意思の疎通が出来ていないと思われるのは嫌だったけれど、担任は頷いて新しい進路希望用のプリントを渡してくれた。隣にいる剛の顔を見る事は出来ない。
「これが、最後の希望になります。二人でもう一度話してみて下さい」
深く頭を下げて席を立った。唇を噛み締めて、教室を後にする。黙って後ろを付いて来る子供を振り返る事は出来なかった。どんな考えで、どんな気持ちで就職を決めたのか。夏休みには目指す大学も見定めて必死に勉強していた筈だ。どうして、今更。
廊下には次の親子が待っていて、言葉を発する事は叶わなかった。無言のまま昇降口を目指す。今、自分の中にある感情は、一体何だろう。怒りか悲しみか、それとも不安か。分からない。剛の気持ちも自分の気持ちも見えなかった。
揃えて置いてある革靴に足を入れて、やっと口を開く。誰もいない放課後の昇降口は、懐かしい色があった。褪せた茶は、セピアの風景だ。射し込むオレンジとのコントラストが美しい。
「剛」
名前を呼んで悲しくなった。自分が生きて来た中で一番多く呼んだ名前。全てを共有して来たつもりだった。故郷を離れ、本当の父親から奪って今日まで。分からなくなってしまった。剛が何を考えているのか、どうして話してくれなかったのか。自分が、就職を希望した事よりも一番に相談してくれなかった事に傷付いている事に気付いた。
「光一。先、帰っててくれるか。俺寄るとこあんねん」
「剛、」
「……帰ったら、ちゃんと話すよ」
振り返れば、悲しい程の柔らかい眼差しがあった。上手く表情を繕えないのはお互い様だ。オレンジの光が、剛の顔に陰影を作った。僅かに息を呑む。
いつの間に、こんな。強い瞳はそのままだけれど、引き結んだ唇や寄せられた眉は、少年の表情ではなかった。眩みそうになって、慌てて目を逸らす。
「あんま、遅くなんなや」
「うん、ごめん」
「謝る位やったら……っ」
「ごめん、光一」
叫びそうになる衝動を堪えて、目を瞑った。剛の甘い声。謝罪を示す言葉が、耳に心地良い。
「じゃあ、帰るな」
落ち着きを取り戻し切れない声で小さく呟いた。俯いた視界の端で剛が動くのが見えたけれど、気付かない振りをする。伸ばされた指が何処に届くのか。追い掛ける事は出来ずに、校舎を後にした。胸が痛い。分からない事が辛かった。
成長すると言う事は、こんなに辛い事なのだろうか。身を切られる様な、心に空洞がある様な。耐えられないと思って、小さく首を横に振った。剛が大人になる事は、自分の願いだ。けれど、まだ今はその時ではない。日の翳った道を歩きながら、痛む心臓を押さえた。
+++++
「おお、いらっしゃい。二人で来たんか?今、茶出したるからな」
いつもと変わらない笑顔で迎えられてほっとした。岡田と並んで歩いて来たのを遠くから見付けてくれた。幼稚園を改造した屋内は、いつ来ても茂君の優しさで満ちている。
「こんにちは。お久しぶりです」
「ええ、ええ。そんな堅苦しい挨拶は。学校帰りか?したら、腹減っとるなあ。僕の秘蔵の饅頭出したるわ」
おっとりした笑顔と賑やかな喋りに気圧されて、勧められるまま室内に入った。茂君の自室兼園長室に通される。
何度も何度もこの部屋で話をした。涙を堪えた表情で、弱音を喉につかえさせたまま強く在ろうとした養父をこの場所でずっと見ている。
岡田と並んで古いソファに座り待っていると、程なくして部屋の主が現れた。両手に持ったお盆の上には、三人で食べるには多過ぎるおやつ。此処で生活している子供には決して優しいだけではない厳しさを持ち合わせている人なのに、たまに訪れる子供達には労う素振りで甘やかしてくれた。あくまでも、此処の子供にばれないように、ではあるけれど。
「子供らはこれから宿題の時間やから、ちょっとは静かやわ。まあ、食べなさい」
「はい、いただきます」
年齢不詳の園長は、日本茶を飲んでいる時が一番老けて見える。悪い意味ではなく、狡猾な翁のイメージだった。秘蔵の饅頭を食べながら、今此処で生活している子供達の事を話される。
「もうすぐお母さんと一緒に暮らせる中二の子がおってなあ。最近はその子が頑張ってくれるおかげで、園内は穏やかなもんやで」
闇を抱えた子供達が集団で生活するのは容易な事ではない。城島の肩には、大きな傷痕が残っていた。ずっと昔、子供が暴れて包丁を手に持ってしまったのだそうだ。自身の傷より、子供に犯罪歴を負わせた事をずっと悔やんでいる。
そんな人だった。優しさや正義だけで、私営の施設を維持する事は出来ない。己に厳しい、度量の大きな人だった。
「もう君ら、受験も追い込みやろ?こんな所で油売っててええの」
「今更焦る事もありませんし」
答えたのは、岡田だ。のんびりした雰囲気は、どちらの方が強いだろう。目に映る世界をきちんと見ていないような親友の瞳は、いつも違う現実を追っていた。城島は苦笑する。
「岡田は、そうやな。もう高校の授業で勉強する事なんかないやろ。僕は、早く大学行って勉強して欲しいなあ思ってたから嬉しいわ。行くとこは決めとんのか?」
「はい、もう大体は」
「そうか。春が楽しみやねえ」
岡田を小さい頃から知っている城島は、嬉しそうに目を細めた。関わった全ての子供達の成長をこうして心から喜んでいるのだろう。
岡田は自分とは違うが、長い間城島の施設に通っていた。彼の両親は幼い時に交通事故で亡くなっている。幸い叔父夫婦が引き取る事となり、小さな頃から大人びたところのある少年は、何の問題もなく養子として迎えられた。それでも、不安が大きかったのだろう。親交のあった城島に相談へ行くのは、当然の流れだった。
園内で一人物静かに過ごしている少年に声を掛けたのが出会いだ。聞き慣れたイントネーションに安心した部分もあるのだろう。それから不思議な距離感でずっと一緒にいた。小中学校と別々だったのに、秀才の彼が同じ公立高校にいるのは、恐らく自分の事を考えてくれたからだと、密かに思っている。
「准一に心配はしてへんけどなあ。剛はどうなん?夏休み、数学で苦労してたやろ」
「俺、実は今日その事で来たんです」
「……どうしたん」
子供の変化を城島は見逃さない。真剣な眼差しで話を促された。今日の三社面談の事や考えに考えた進路の事、早く大人になりたいと言う純粋な願いをゆっくり自分の心に偽らないよう気を付けながら話す。隣に岡田がいてくれて良かったと、力の入った自分の手を見ながら思った。
「それはまた、強引やなあ。大切にせなあかん人を、一番最初に傷付けてるやん」
「二人のルール破ったのは俺や。でも、光一の願う進路を選べない」
「剛、厳しい事言うようやけど、それは子供の我儘やで。養われてるから大人になれないんか?子供やからって、大切なもん背負えない訳ちゃうで。親の期待背負うんも立派な責任や」
違う、と言いたかった。子供だからとか親子なのにとか、そんな理屈ではない。唯、光一が好きで光一と対等になりたかった。守られるのではなく、一緒に生きたいのだと。
けれど、こんな思いを口に出す事は出来ない。異常な恋である以上、口を噤むしかなかった。
「俺は、光一を苦しめたい訳やない。でも、どうしたらそれが伝わるんか分からんのや」
「剛。僕に大事な事言うてないやろ」
「え」
「茂君」
咎める声を発したのは、岡田だった。大事な事は一つしかない。話の中核にありながら、避けていた自分の恋心。幾ら彼の度量が大きいからと言って、簡単に話せなかった。
「全部言うてくれんと分からんよ。きっと光ちゃんも、僕以上に困って混乱してるわ」
「茂君。そんな、青少年の育成妨げるような事、言うたらあかんのやないですか」
「うーん、別に助長させてるつもりはあらへんよ。でもなあ、はぐらかしながら相談されるとやっぱり人間やから腹立つのよ。こんな中途半端な話じゃ、何を言うてあげる事も出来んしね」
「茂君って、立派な大人に見えて、そう言う人ですよね」
岡田が神妙な顔で頷いた。剛だけが一人、会話に追い付けず固まったまま。青少年の育成?はぐらかしている?それは、自分の話なのだろうか。だとしたら、城島は自分のこの抱いてはいけない恋を知っていると言う事になる。
「茂君……?」
「剛が本当はどんな気持ちでいるのかなんて、毎日一緒にいる訳ちゃうから、全部分かってるなんておこがましい事は言わんよ。でもな、ずっと昔から君らを見てて、お互いを大切にしている事も、自分勝手に大事な事を決める親子じゃない事位は知ってんのよ。やからな、ちゃんと話して欲しい」
「俺……俺、光一が好きなにゃ。一番大切。育ててくれた恩とか、ずっと一緒にいてくれたからとかやなくて。俺はもう、長い事光一だけやった」
「剛」
「はい」
「それが、光一の望んでへんものでもか?」
「はい」
「……君は、一度決めたら強情やからねえ」
父親譲りやな、と優しく笑われた。彼の懐の深さは、既に尊敬の域だ。誰にも告げてはならないのだと決意した思いは、秘めれば秘めただけ辛くなった。岡田がいなければ、多分自分の身勝手な感情で光一との関係はとっくに壊れていただろう。それをまた、今城島が救い上げてくれる。
「しょぉがない子やね。光ちゃんがそんな思いを望んでいない事、分かってんのやろ」
「はい」
「嫌やな、もう覚悟してる目やないの。困ったなあ、おっちゃんは何言うてあげたらええのかねえ」
全然困っていない素振りで、温くなった茶を啜った。穏やかな仕草に身体の力が抜ける。嫌悪のない眼差しに安堵した。全てを受入れてくれる御仁だ。
「今日、帰ってから話すのやろ?僕は、昔から嘘を吐いてはいけない言うんが信条やから、アドバイスをするとしたら黙ってるのがええと思うよ」
「黙る?」
「うん、そうや。光ちゃんが好きで、その為に早く対等になりたいから就職したいんやって、真っ正直に言わんでもええと思う。これからも一緒に生きて行くつもりなにゃろ?」
「はい」
「じゃあ、優先順位は一緒に生きる事や。……これから、辛くなると思うで」
「いえないまま生活して行くのがしんどかったら、とっくに諦めてます」
「そうやな。一番大事な事を見失わないで、ちゃんと話し合ってみればええ。正直、剛も賢い子やから、僕は進学して欲しいけどなあ」
「後四年もなんて待てません」
「若さやねえ。君ら親子の事にあんまり立ち入る訳にはいかんけど、二人が納得出来る答えを探しなさい。独りよがりは絶対あかんよ。自分の思いが辛かったら、僕でも准一でも聞いてやるさかいなあ」
光一はきっと、自分の恋を許してはくれない。二人の間にあるのは親子の情であって、それ以外の何も要らないと言うだろう。分かっている。でも、自分を偽らずあるがまま生きていたかった。滑稽だと思われても構わない。理解されなくても良かった。ちゃんと墓まで、この恋は持って行く。光一には告げない。だから、傍にいる事を許して欲しかった。
秋は日の落ちるのが早い。急に暗くなった外を見て、もうそろそろ帰りなさいと促された。岡田と別れて一人になると、自分の決断が間違いではなかったかと不安になる。本当にこれで正しいのだろうか。……否、城島は正しいも間違っているも言わなかった。識者の振りで頭ごなしの説教をしない彼を信頼している。心が揺れたらまた此処に来れば良いのだと思った。
此処は、御伽話の世界。閉じられた綺羅綺羅の宝石箱の中。手を伸ばせば届く場所にある青い羽根。臆病な僕達は、まだ夢の途中にいる。
彼の寝起きの悪さにはもう慣れた。毎日繰り返される朝の光景に飽きない辺り、自分は良く出来た人間だと思う。間取り二Kの決して広くはない部屋に、剛の声が響き渡った。
「光一!朝やでー!ええ加減起きんと遅刻するわ」
まずは一回目。二人分の弁当を作る手は止めずに叫んだ。こんなもんで彼が起きる等とは勿論思っていない。低血圧で夜型人間の寝起きの悪さは、軽く想像を絶していた。
今日の弁当は、卵焼きとウインナーといんげんのバターソテー。定番メニューはたまに恋しくなるから不思議だ。未だ起きる気配のない光一の白米には、嫌味たらしくハート形に切った海苔を乗せた。我ながら繊細な出来栄えだと満足して、剛は朝食用のトーストをオーブンに入れると二回目に取り掛かる。
部屋の仕切りは全て襖だった。これではプライベートも何もあった物ではないと他人に眉を顰められた事もあったけれど、自分達にはこれ位が丁度良い。近過ぎる距離。安心出来る不可侵領域。二人肩を寄せ合って生きて行く為に必要な場所だった。
遠慮も何もなく襖を開ける。光一の部屋は、いつも簡素な雰囲気だった。六畳の空間には、本棚とアルミ製の机と小さな箪笥が一つ。本棚には、職業柄必要なPCシステムの雑誌と、捨てずに残された教育関連の書籍、そして剛の成長を記録した二人だけのアルバムが並んでいる。他の誰も映っていない、二人きりの密やかな記憶。
その部屋の中央に布団が敷かれている。寝汚い部屋の主は、毛布を抱きしめたまま身じろぎ一つしなかった。声を発する手前で一瞬躊躇する。
足下で蹲る小柄な姿に見蕩れた。寝癖で乱れた髪も少し伸びた髭も、布団からはみ出した骨張った足も、確かに男の物であるのに。毛布を掴んだ幼い指先や柔らかな髪の間から覗く額に僅かに残る傷跡、薄く開かれた誘う唇、晒された肌の発光しているかの様な白に。
惑乱される。
不覚にも欲情し掛けた自分を自覚して、剛は焦った。制服の裾を握り締めて、己の劣情を遣り過ごす。あかんわ、俺。朝っぱらから何考えてんねん。自分の年齢を考えれば寧ろ当たり前の事なのだが、何せ相手が悪過ぎる。今はまだ、駄目だ。
すっと息を吸い込んで、今度こそ声を張り上げた。夢の世界にいる彼にもきちんと届く大声。近所迷惑にならないかと、密かに案じてはいるけれど。
「光一さーん!朝ですよー」
言いながら、細い身体を跨いで窓へ向かう。ベージュのカーテンを開ければ、心地良い朝の光が入って来た。彼にとっては、安眠を遮る強い明かり。
「……うー」
後ろから呻く声が聞こえて、剛は間髪入れず光一を包んでいる毛布を剥がす。尚も呻きながら、やっと瞼を持ち上げた。
「お早う。目、覚めたか?」
「……はよ」
「そろそろ支度せんと、ホンマに遅刻するで」
「……んん」
ぐずる光一の腕を引いて、身体を起こしてやる。其処まで手伝えば、後は身体が勝手に動く筈だった。脳味噌が機能するのは、まだまだ先の事だ。起動の遅いコンピューター。
「俺もう行くかんな。弁当テーブルの上に置いてあるし、ワイシャツも其処に掛けてあるから」
「ありがと」
「なら、後でな」
「うん。……あ、何時?」
「三時半。遅刻せんといてな。昼休みに携帯に連絡入れよか?」
「大丈夫。お前の大事、やもん」
「……うん」
幼い響きで、それでも真面目な言葉を綴る。剛には、それが少し面白くなかった。贅沢な不機嫌だとは分かっていても、嫌な物は嫌なのだ。
「じゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃーい」
ひらりと手を振る光一を視界の隅に残して、朝の光が射し込んだ部屋を出た。焼き上がったトーストにバターを塗って、口に銜える。制服のボタンを留めながら、剛は自分の状況に少し笑った。
朝にこんな時間の余裕がある男子高校生なんかおらんやろなあ。原因は確実に彼にある。睡眠第一と言えば聞こえは良いが、地震が起きても起きないだろう眠り方には辟易した。他の人間だったら、絶対に放っておく。
鞄に弁当を入れて、家を出た。安アパートの階段は、体重を掛ける度に軽快な音を立てる。住み慣れたこの街の玩具みたいなアパート。二人の記憶が全て詰まった場所だった。蒼天を見上げて、僅かに眉を顰める。強い光に目が眩んだのではなかった。自分と彼の距離を思う度、胸が疼く。
光一と剛の関係を示す言葉は簡単だった。戸籍にも勿論明記されている。俺達は、『親子』だった。
+++++
小さな手をぎゅっと握り締めていた。それははぐれない為の物だったし、不安そうな瞳を隠そうともしない子供が伸ばして来た温もりを受け止める為でもある。光一は、今もその体温を明確に思い出す事が出来た。
あの時は分からなかったけれど、今ならちゃんと分かる。現実を自分の愚かさを、逃げずに理解していた。繋いだ指の先で怯えていたのは自分の方だ。彼は、子供特有の敏感さで一番正しい方法、安心出来る術を差し出しただけ。
東京行きの最終の新幹線だった。新神戸駅のホームは寒くて、剛にもう一枚着させるべきだったと後悔する。自分の荷物は全て先に送ってしまった。肩から掛けているスポーツバックの中は、剛の物しか入っていない。もう二度とあの家に帰る事はないかも知れないから、と持ち出したい物を全部入れさせた。全部とは言っても、決して多い量ではない。元々持っている物の少なさを示すだけだった。
「寒ない?」
「平気。光ちゃんは?手、冷たいで」
繋いだ指先を引っ張って問われる。吐き出す息がぞっとする程白かった。
「大丈夫や。俺、元々冷たいねん」
「そうなん?やったら僕があっためたるわ」
言って笑う剛の目許と口許には、痛々しい傷が残っていた。彼の父親が付けた暴力の証だ。
ホームに新幹線が滑り込んで来た。手を繋いだまま自由席の車両に乗り込んで席を確保する。窓側に剛を座らせた。シートに凭れると、ほっと息を吐いたのに気付く。緊張しているのだろう。
一週間前の夜、いつもの様に傷の手当をして一緒に夕食を食べている時だった。母親は、剛の父親に再三の勧告を言いに出ている。児童福祉士を長い事続けている母にとって、近所の家庭環境は放っておけなかったのだろう。自分は多分、そんな母親の影響でこの子供が気になっているんだと思う。
口の傷に染みるだろうと少し冷ました食事を剛は黙って食べていた。あの父親と二人では、普段碌な物を食べていない筈だ。
「美味しい?」
光一の問い掛けに剛は頷く。食べる事に夢中な感じだった。子供らしい、本能に忠実な行動。
「……なあ」
呼び掛ければ、視線だけを向けて来る。目を合わせて、光一は少し躊躇った。子供の瞳、肉親に傷付けられても濁る事のない純真な色を持っている。彼に、果たして告げても良い事なのだろうか。
自分は来週、東京へ引っ越す事が決まっている。大学生活を終えて、社会人になる為だった。警備会社のシステムエンジニアとして働き始めるのだ。本来なら、言うべきはお別れの言葉の筈だった。
「何?光ちゃん」
言葉の続きを待っていた剛に促される。その小さな身体の至る所に傷があるのに、彼の目は人を信じる強さを持っていた。環境も何も関係ない、この子供が持っている強い性質だ。
「うん、俺な東京で就職するんよ」
「……そーなん」
吃驚した顔に安堵した心は、罪に値するだろうか。大人の卑怯を、彼は受容してくれるだろうか。
「でな、剛さえ良かったら……」
少なくとも、小学四年生の子供に言って良い台詞ではなかった。頭では分かっているのに、言葉は身勝手に零れて行く。
「俺と一緒に、行かへん?」
目を見る事は出来なかった。一瞬の空白が、光一には永遠の審判の様に感じられる。唇を噛み締めようとした瞬間、呆気無く返答が落ちて来た。目の前には、光がある。
「うん、ええよ」
まるで、明日遊ぶ約束をしたみたいな軽い同意だった。視線を向けると、大人びた表情で笑っていた。幼い顔に浮かぶ理知的な色に、怯む。
「光ちゃんが連れ出してくれるんやろ?それやったら、東京でもアメリカでも何処でもええ。あの家やなければ、構へん」
答えた言葉は真剣だった。自分の言葉の意味をしっかり受け止めている。理解して考えて出してくれた結論だ。自分の中にある迷いや罪悪が綺麗に浄化されて行く感覚。剛を、このしっかりした強い子供を、自分が守るのだ。
「剛、一緒に行こう。一緒に生きよう」
窓の外は暗い。時々明かりが直線を引いては消えて行った。剛は深く眠っている。その表情に翳りは見られなかった。指先は緩く絡めたまま、膝の上にある。
もうすぐ名古屋に着く筈だった。剛がいなくなった事に、あの父親は気付くだろうか。ちょっと考えて、すぐに無理だと結論付ける。いなくなった事に気付ける位の人間だったら、息子を奪う様な真似はしなかった。この手を取ってしまった以上、手放す気はない。
多分一番に母親から連絡があるだろう。逃げない事は決めている。本当はそれが浅はかで無謀な事も知っていた。実の親子を引き離すのが難しい事位、母の仕事を見ていれば簡単に分かる。
今の児童福祉法や児童養護施設に、剛を守る事は出来なかった。ならいっそ、自分が守ってみせる。誘拐犯になっても構わなかった。何を犠牲にしても、この小さな手を守り抜きたい。
社会人にすらなっていない光一が、剛と二人で生活するのは困難だった。逃げ出したあの夜から八年の月日が経っている。二人の生活を支えたのは、沢山の優しい大人達が差し伸べた手によってだった。
あの時の不安も芽生えた罪悪も、胸の裡にある。けれど何より強いのは、繋いだ指先を離さないと言う使命感だった。剛は、自分が大人にする。それだけが、自分の夢であり希望だった。
+++++
会社に着いて、まず早退届を提出する事から始めた。随分前に上司には伝えてある。書類上必要な形式的な作業だった。
本部で勤務している光一は、直接警備とは関係がない。警備用のシステムのメンテナンスを主に担当していた。設置している施設への外回りはあるけれど、内勤が多くシステム異常等の緊急事態にならない限りは定時で帰る事が出来る。まだ学生の剛と生活するのには、丁度良い職場環境だった。
書類を提出しに行く為に廊下を歩いていると、後ろから騒音とも呼べる程の大きな足音が近付いて来る。振り返るより先に、足音の持ち主が光一を捕えた。
「光一ー!おっはよー!」
不意の襲撃を受けて、前のめりによろめく。後ろからこんな大男に乗られては、潰れてしまうではないか。不満たっぷりの声を同僚にぶつけた。勿論そんな言葉が通用しない相手である事は、経験から十分分かっている。
「長瀬!重いっちゅーねん」
「えー、朝のスキンシップじゃーん」
蛇に睨まれた蛙の様に肩を竦めて、大男は渋々離れて行った。大型犬が飼い主に叱られたみたいな表情は可愛い。しょうがないなあと言う気分にさせるのだから、侮れない奴だとは思っていた。
彼は、職場で唯一気の置けない存在だ。と言うよりも、上京した光一の数少ない友人だった。何で其処で親友って言わないかなーと、心の中を読まれていたら突っ込まれるだろう。
「ウチの子達は全然嫌がんないよ?パパーって大はしゃぎだぜー」
「子供と俺を一緒にすんな」
連れ立って歩きながら、背の高い彼を睨み付ける。身長差が邪魔をして、まあそれ以前に光一の顔立ちが愛らしい小動物と同じ物で出来ているから、そんな顔されても怖くない、と言うのが長瀬の意見だった。睨む友人の瞳は可愛いから、余計な事は言わないけれど。
長瀬と光一の始まりは、入社してすぐの事だった。光一は今でも最初の事を覚えている。新人研修の時に馴れ馴れしく声を掛けられた。同期は他に何人もいたし、長身で目立っていた彼がわざわざ女子にさえ埋もれてしまうんじゃないかと言う(身長は同じ位だけど、勢い的に)自分に真っ直ぐ向かって来る意味が分からない。仲良くなって来た今でも理解出来なかった。
だって、光一がダントツで好みだったんだもん。あっけらかんと言う長瀬は良い奴だと思うが、言っている事が自分の常識の範囲を超えていた。それでも仲良くなれたのだから、自分もこの規格外の男が好きなのだろう。
彼の押しの強さは関西の物に似ていた。当時はホームシックになるどころではなかったから思い当たらなかったけれど、多分その懐かしさに惹かれたのかも知れない。強気な姿勢が余り得意ではない自分が、最初から彼の存在を疎ましいと思わなかった。全然タイプの違う人間だけど、波長が合うと言った感じかも知れない。
一緒に行われた研修だが、自分はシステム管理に長瀬は警備部に入ったから、なかなか会う事は出来なかった。人付き合いの苦手な自分がそれでも関係を続けていられるのは、この友人が見た目の印象よりもずっと繊細で几帳面だからだろう。定時で上がれる自分と違って、四十八時間勤務もこなす警備部は想像以上に大変だと思う。警備の仕事を元気に続けられるのは、守る者がいるせいかも知れなかった。
ちなみに今は二人の娘に溺愛中で、親友と豪語される自分でも余り構って貰えなかったりする。全然構わないのだけど、ほんの少し寂しいと思ってしまうのは、自分の性質が我儘だからだった。
こんなお父さんやったら、子供は大らかに育つやろな。また他の家族と比較しそうになって、慌ててその思考を追い払った。他人と自分を比べるのは悪い癖だ。剛にも嗜められた事がある。他人は他人、ウチはウチ。強い息子の言葉を思い出して、弱気な思考を追い払った。
「何?光一。今日早退すんの」
手に持った書類を覗き込まれる。綺麗とは言えない署名と、形式通りの書面。
「うん。今日、三者面談やねん」
「あー、剛の。あいつ幾つだっけ?」
「おっちゃん、それこの間も聞いたで。高三、受験生」
「ごめんごめん。俺、頭悪いからさ。そっかー、あいつもそんな大きくなったか。そりゃ、俺も年取る訳だ」
長瀬は、剛が中一の時から知っている。面倒見が良く情の厚い彼は、自分達の生活を知ってから何気なく気に掛けてくれていた。異質な親子関係に口を挟むでもなく、旅行に行けば二人分のお土産を買って来てくれたし、インドアな養父の知らない遊びにも躊躇なく誘ってくれる。
親友の大事なもんは、俺にも大事。シンプルな発想で生きている長瀬に何度も救われていた。
「長瀬は初めて会った時から変わってへんよ。年取ったようにも見えん」
「それは光一だろ。お前年々若返ってく気するんだけど」
「そんな事あらへんわ。おっさんやもん」
「うん、知ってる。じゃなくて、見た目とか。入社したてん時とか、髪きっちり分けてて、スーツじゃない時も色のない物ばっか着ててさ。手とか唇とか荒れててもクリーム塗るの嫌がってたし。勿体無いなあって思ってた」
「……よぉ覚えとんな」
あの頃は生きる為に精一杯だった。連れ出した幼い命を自分の手で守りたくて、自分自身の事なんてどうでも良かったのだ。今も本当はどうでも良いと思っていた。元々関心がないと言う自覚はある。
「でも、最近変わったよね。ネクタイの趣味も違うし、前髪可愛いし」
「可愛いって言うな」
「剛のおかげなんだろうな。全部あいつがやってるんだろ」
「……何で分かるん」
吃驚した顔で見詰められると、苦笑するしかない。何年自称親友を続けていると思っているのだ。光一の身体にフィットする細身のスーツも、物が入っていれば紙袋でも構わないと言う思考の人が持つには機能的なバッグも、ふわりと香るシャンプーの匂いも、丁寧にファイリングされた爪も全部。
無頓着な光一が出来る事ではなかった。父親の世話を進んで焼いている、マメで凝り性な息子の顔を思い出す。きっと、美容院すら一緒に行って美容師に要望を言っているに違いなかった。顔の周りでバランス良く揺れる茶色の髪は、彼の年齢を分からなくさせる。
「剛は、親の手伝いやから当たり前やって言うんやけどね」
「お前ら、段々どっちが親でどっちが子供か分かんなくなって来たな」
言った途端、長瀬は後悔した。光一が立ち止まって傷付いた顔を見せる。悲しい瞳。彼の黒い目は吸い込まれそうに綺麗だけれど、いつも罪悪の色があった。消えないその色の原因を知っている。
「……そうやね。剛はしっかりしてるからなあ。しっかりせな、あかんかったから」
「光一」
「あの子をゆっくり育てたいって思ったのに、結局俺が大人になるの急かしてる」
「光一、お前のせいじゃない。おいつは元々しっかりした人間なんだ。知ってるだろ」
「うん。向こうにいた時から、しっかりした子供やった」
剛は、自分がきちんとしていなければ家庭環境のせいにされる事を分かっている。あんな若い父親だから、と光一に責任を向けられる事を酷く嫌がった。
「今日の三面って、進路の話?」
「うん」
「剛は、どうすんの」
「……分からん」
暗く沈んだ声。傷付いた顔をさせたくなかった。
「話してないの?」
「話そうとは、してる。でも言うてくれん。もう俺は自分の進路位自分で決められる年やから、って。ちゃんと決められたら話もするって。それっきりや」
剛が光一に話さないなんて、あり得ない事だった。この父親は連れ出してしまったその日から、不必要な罪悪感を抱いているせいで、時々過剰かと思う程息子になった子供の事を理解しようと必死になる。全て理解している事が義務だとでも言うように。
そんな光一の心を知ってか知らずか、剛は自分の事を何でも話した。学校であった事、夜中に布団の中で考えた事、街で聞いた音楽が良かった事、釣りに行って何が釣れたのか、帰り道に見上げた空の神秘的な色も。何もかも、自分を形成する全ての事を伝えていた。
基本的にこの二人に隠し事はない。光一は余り自分の事を話さないけれど、それは口下手なだけで嘘や誤摩化しはない人だった。
だから、剛の行動は可笑しい。初めての事かも知れない。何か考えがあっての事なのは間違いないだろうが、暗い表情で思い詰める親友を見て掛ける言葉は何も見付からなかった。
+++++
柔らかな陽射しが射し込む菜園は、剛達のお気に入りだった。学校内の敷地に於いて、これ以上完璧な優しさを有している場所はない。と言うのが親友の見解だった。
緑が褪せ始め少し肌寒くなっても、昼休みは此処で過ごしている。口数の少ない親友は、本を捲りながら、大して美味しくなさそうにパンを齧っていた。食事に楽しみを見出さない所は、あの養父と似ている。彼の事を思い出して、それから午後の憂鬱な予定を思って、剛は深い溜め息を吐いた。
「……どうしたん」
やっと本から顔を上げて、隣で膝を抱える陰気な人を見詰める。相談したいのなら、素直に言えば良いのに。手を差し伸べるように仕組む癖は、あの人の甘い教育の賜物だ。
彼なりに厳しく育てたつもりなのだろうが、最後の最後で甘さが残った。社会的には問題がないし、何より結局苦しむのは優しい彼なのだ。自分が嗜める事でもなかった。
「岡田ぁ、俺どないしよ」
「何が」
「まだ、進路の話してないねん」
「……ホンマに?」
黒い双眸を瞬かせて、信じられないと言う表情を作った。まさかとは思っていたのだが。決意を固めているのに言葉にしないのは罪に値する。少なくとも、剛と光一にとっては。
他人だからこそ、目を見ても手に触れても通じない。通じ合わせてはいけない。だから、どんな些細な事でも告げようと言うのが彼らのルールだった。
「言おう言おうとは思ってたんやけど、言えんくて」
「光一君は、大学進学希望しとんのやろ」
「ぉん。公立でも私立でも構わないから、行きたいとこ行けって」
「……ホンマ、良いお父さんやなあ。今時言えへんで、そんなん」
感心した口振りに剛は嬉しくなる。自分の大切な人が誉められるのは、優越感だった。慣れた感覚のまま笑おうとして失敗する。その、『良い父親』こそが今自分を苦しめているものだった。
相反する感情に結局剛は表情を消す。優しさも苦痛も、自分の中にある感情を左右するのは光一だけだった。小さな頃からずっと、自分の行動原理は彼にある。
「良い父親なんかやなくてもええねん」
「それでも、光一君は剛君の父親や。良い父親であろうとしてくれてるんやよ」
静かな声で岡田は嗜める。ついこの間会った時も優しい目で「学校どうなん?」と聞かれた。自分には入り込めない場所での息子の事を心配している真っ直ぐな感情だ。大切にしている愛情しか見出せない瞳。
岡田は、自分で認識している以上に彼の事を気にしているのだと知った。不器用な仕草で、でも迷わない意思の中剛だけに向けられる白い手が好きだ。
「分かってる。ずっと分かってたつもりやし、これからもちゃんと親子でいなきゃあかん事も知ってるんや」
剛は、自分の養父である人を愛してしまった。十八にもなれば、自分の恋が気の迷いではない事位分かる。幼い頃から面倒を見てくれた人だ。自分が他人を怖がらずに受け入れられるのは、彼のおかげだった。実の父親に付けられた傷は、彼の手によって癒されたのだ。感謝の気持ちを抱くべきであって、今抱えている感情は間違いだった。
捨てなければいけないと思ったのは、中学生の時だ。良い息子になろう、彼の笑顔を曇らせたくない、と必死で振り払おうとした恋だった。けれど。
今も尚、光一への恋は此処にある。捨てる事なんて出来なかった。大切な、自分を成長させて来た思いだ。
「好きって、言わへんの」
「言えへんよ。『親子』って関係の中でやったらずっと言って来た。多分これからも言い続けるよ。けど、そう言う意味では言わん」
「間違った気持ち、やから?」
「そうや。光一が望む俺は、父親の事好きになる様な不健康な奴ちゃう。俺が社会出て、彼女作って、結婚するんを心から楽しみにしとる。家族なんていらん言う俺の子供を抱きたいって言う。あいつが望んでるんは、自分の元を飛び立って社会に溶け込む事や」
「光一君らしいな。剛君いなくなったら一人になってまうのに」
「光一やって、俺がいなくなったらきっと自分で家族作るわ。今は俺がいるから一人なだけで」
「そうかなあ。僕は、光一君はもう剛君以外の家族は持たないと思うよ。どっちかが死ぬまで、剛君の為にいつでも待っててくれる気がする」
冷気を含んだ風が、岡田の黒い髪を持ち上げる。やんわりと毛先を押さえる仕草を追いながら、つくづくこいつは変な奴だ、と思った。血が繋がっていないとは言え、戸籍上は間違いなく親である人を愛し、その上それは同性に向けられている。年齢も一回り離れていて、どれだけの罪を重ねているのか分からない筈はなかった。
それなのに、この親友はあっさりと受容する。偏見も軽蔑もない瞳で「光一君綺麗やもんなあ」なんて暢気に笑う。他人と少しずれた感覚は、環境のせいか持ち合わせた性質なのか。歪んでいると言うよりも精神的な拠り所が違うのだろうと思う。自分の信じるものしか信じない。簡単に見えて、それで生きるには難しい生き方をしていた。岡田の価値観は、絶対的な尺度で構築されている。
「茂君には相談したん?」
「……どうしようか悩んどる」
「話してみたらええよ。きっと何か見付かるわ」
信頼に満ちた声で笑った。茂君、と言うのは自分と光一が一番お世話になった他人だ。法的手続きは、彼の手がなければ出来なかった。おっとりした笑顔を思い出す。
「そうやな。今日、帰りにでも寄ってみる」
「三面の後やなあ」
「茂君とこ行く時、どうなってるんか想像もつかん」
「僕も一緒に行くわ」
岡田と出会ったのは、茂君の施設だった。長い事、光一の母親と同じ児童福祉士として働き今は私営の児童相談所を運営している。法では救えない子供を、自分の手が届く範囲で見守る、と言うのが信条だった。親のいない、帰る家のない子供達が自立出来るまで、広くはない居住スペースで生活までさせていた。
あの場所は、悲しい事や辛い事も沢山ある筈なのに、いつも明るい。離れそうになる二人の手をいつも繋がせてくれたのは、茂君だ。
「俺は、光一を悲しませたい訳でも離れたい訳でもないんや。唯、ずっと一緒におりたい。一緒に生きていきたい」
真っ直ぐな瞳で話す剛が抱えているのは、恋よりも純真な心だと思った。欲も打算もなく、此処にあるのは愛したいと言う尊い感情だけ。恋に近いと思えるのは、其処に隠し切れない独占欲が滲むからだろう。茂君が彼らに明るいものを渡してくれたら良いと岡田は思った。冷たい風に冷えた指先を握り締めて、彼らの未来を願う。それは、午後の陽射しに溶け込む優しい祈りだった。
+++++
小さい頃の記憶は、痛みと共に思い出される。傷付けられた身体が辛くて、泣いてばかりいた。朧になった過去は、いつでも光一の体温が傍にある。今も昔も変わらないのは、彼の乾いた掌だけだった。
光一の母親が幼稚園に行っている筈の剛を見付けたのは、近くにある公園のベンチだ。殴られた痕と転んで出来た擦り傷が痛くて、顔を上げられなかった。涙を零すだけの自分を抱き上げて、父親のいる木造アパートではなくお日様の匂いがする光一の家に連れて行かれる。
リビングに剛を降ろすと、二階に声を掛けているのが見えた。少しもしない内に聞こえる、軽やかな足音。顔を向ける事は出来なくて、手が伸ばされるのを待った。
「剛。いらっしゃい」
俯いて待っていれば、当たり前の仕草で頭を撫でられる。やっと安心して、それでも伺うように顔を上げた。
「光ちゃん、何でおんの?」
友達や家族が呼んでいるのと同じ呼び方をしても、彼は怒らない。嬉しそうに笑って、何でも許してくれた。絶対に曇る事のない笑顔は、多分幼い自分にとって救いだったのだと思う。
「学校のな、試験終わったから、今お休みなんや」
「しけん?」
「普段ちゃんと勉強してるか確かめるもんや。お前も小学校上がったらあるんやで」
「そうなんや」
光一は、この時高校二年生だった。落ち着いた印象は昔から変わらない。近所に住む、こんな子供にも優しくしてくれた。思春期特有の尖った態度も反抗期も、彼からは見えない。
部屋でゆっくりしていたのだろう。ハイネックのグレーのセーターに、ゆったりしたパンツを履いている光一は、制服でいる時よりも柔らかく見えた。臆病な自分でも手を伸ばしやすい。
「あーあ。まぁた派手にやられてもうたなあ。今、手当してやるからな」
痛みを伴わない声音で笑って、一度救急箱を取りに部屋を出た。母親と会話している声が聞こえて、またすぐに戻って来る。自分をソファに座らせて、その目の前に正座した。目線を合わせて覗き込まれると、心臓の音が大きくなる。
「消毒だけしたるかわ、終わったら風呂入っといで。そんで、ご飯一緒に食べよ」
「うん」
「幼稚園には母さんが連絡入れたから、心配せんでええよ」
「……ありがと」
「早く傷、治そうな」
笑って消毒を始めた光一が、自分の気持ちを知っている事が嬉しかった。腹や足に付けられた傷なら気にしないけれど、今日みたいに顔に付けられると幼稚園に行きたくない。口の端と目の周りが青黒く変色していた。口の中に鉄の味がするから、きっと何処かを切っている。
痛いのは何処に付けられても変わらないけれど、友達や先生や他の親の目が痛かった。あれが同情や憐憫だと理解出来るのは、もう少し先の事だ。
温かいお湯は傷に沁みたけれど、浴室を出たら光一が真っ白のバスタオルを広げて待っていてくれたから嬉しかった。ふわふわした感触に包まれると、幸せな気分になる。此処にいても良いと許されている気分になった。
サイズの合わない服を着せられて、再びリビングのソファに座らされる。キッチンからは美味しそうな匂いが漂って来ていた。絆創膏と包帯と、不器用な指先が迷いながらも適切な処置を施す。清潔な肌と温かい光一の空気と、自分の為に用意されている食事の匂い。普段自分がいる場所と余りにかけ離れていて、剛は泣きそうになった。
「……剛、どうしたん?傷沁みるか?」
「ううん」
「じゃあ、何で泣くん」
困った顔で笑われて、頬に丸い指先が滑る。
「光ちゃん、剛に泣かれるとどうしたらええか分からんねん」
「……っう、光ちゃ。あんな家、帰りたない。あんなん、親やないっ」
最後まで言う前に優しく抱き締められた。胸に顔を埋めたら、もっと涙が溢れて来る。光一の匂い。いつでも彼は甘い香りがした。優しいお日様の名残みたいな。もし自分に母親がいたら、きっとこんな健康的な匂いがするのだろう。剛が生まれてすぐに他の男と蒸発した女は、母親の温もりを与えてはくれなかった。
「剛、そんなん言うたらあかんよ」
嗜める声音が優しく響く。背中を撫でる大きな掌に安心した。泣いている自分を宥める大人の手は沢山あったけれど、彼より心地良いものはない。
「やって、あいつのせいで、俺は……っ」
「そぉかも知れん。でもな、どんな風に思ったって、剛のたった一人のお父さんなんや」
「……そんなんいらん」
「辛なったら、光ちゃんが絶対に助けに行ったるから、悲しい事言うたらあかん。ええな?」
光一の口から、一度も父親を非難する言葉は出た事がない。現状を見兼ねてはいても、剛の心に憎悪の感情を植え付けたくなかった。あんな親だから子供もまともに育たないのだ、等と言われたくない。強い子供がそのまま成長したら良いと思っていた。
「剛、返事」
「分かった」
「ええ子やな。俺は、強い剛が大好きやよ」
甘やかす言葉に素直に顔を上げる。黒目ばかりの優しい眼差しにぶつかってどきりとした。この息苦しい感情をずっと抱える事になるとは知らずに、剛はゆっくり笑う。
「俺も、光ちゃんが好き」
「ありがとぉ」
ティッシュで涙を拭われながら早く大きくなりたいと思った。どうして、なんて疑問に思う前に食事が出来たと告げる朗らかな声が聞こえて、理由は見えなかったのだけど。
十八になった今も胸にある、早く大人になりたいと言う願い。愛されるだけの子供ではなく、光一を守る事の出来る強い人間になりたかった。
+++++
机を挟んだ向こうには担任、隣には剛が座っている。傾き始めた陽射しが、木目の机を鈍く光らせていた。息苦しい緊張感。いつだって歳若い養父だと軽んじられないように、気を張って来た。自分のせいで剛が悪く言われるのは嫌だ。責任感のある大人の態度。見た目の雰囲気に左右される薄っぺらい信用を得る為に、髪を明るく染める事もアクセサリーを付ける事もしなかった。
剛が中学生の時の担任に「父親と言うよりも母親みたいですね」と嫌味を言われてからは、細いだけだった身体も鍛えている。女顔はどうする事も出来ないから、線の細い身体位は変えようと思った。結局筋肉が付き難い体質だったようで、劇的な変化は望めなかった。
この担任とは何度か話をしている。理知的な瞳を持った初老の紳士は、嫌いではなかった。必要な事以外は話さない冷静な雰囲気は、家庭環境の良くない自分達には安心出来る。
けれど、胸の裡には不安が渦巻いていた。担任が手にする資料の中に、剛の進路がある。怖かった。今まで一度も抱いた事のない不安定な気持ち。自分の息子の事が分からない。
どうして、話してくれないの。廊下で剛の笑顔を見付けた時、思わず詰りそうになった。どうして。二人で暮らして来た八年の中で一度もない事態だった。何よりも把握しておきたい事が分からない。
「さて、時間も余りないものですから、始めましょうか」
「はい、お願いします」
「堂本君の最近の試験結果です」
データ化された資料が広げられる。この結果は見慣れたものだった。一緒に見直しもしている。相変わらず数学が弱くて笑ったのを覚えていた。俺理系やのに、何でそんなに出来んねん。笑顔の裏で僅かに痛んだ心臓。自分と剛は他人なのだと突き付けられているみたいだ。どれだけ一緒にいても、どれだけ愛しても、所詮疑似でしかないのだと。
「文系の大学で教科を選べば、然程進学は難しい事ではないでしょう。でも、堂本君の希望進路は違ったね」
「はい」
「え」
知らない、と言いそうになるのを慌てて押さえる。担任に不信感を抱かせたくはなかった。隣を見れば、すまなそうに笑う剛がいる。大人びた微笑だった。物分かりの良い、諦めを知った大人にはなって欲しくないのに。膝に置いた手をきつく握り締める。
「俺は、就職希望です」
「……っ」
「まあ、秋になって急に進路を変えたものですから、私も吃驚しましたけど、今からでもどうにか間に合うとは思います。就職難のご時世ですから、職種を選ばなければ、の話ですけれどもね。こちらでも面接の練習や履歴書の書き方なんかは見てやれますから。……お父さん、どうかされましたか」
「いえ、お手数をお掛けして申し訳ありません。」
上手く声が出ない。顔を上げる事も出来なかった。就職?そんなの聞いてない。高校受験の時ももめて、結局大学進学まで視野に入れたこの学校を選んだ。
早く大人になる必要なんてない。勉強が出来るのも、俺がお前を守ってやれる時間も僅かなんだから、甘えなさいと。ずっと言って来た。剛を連れ出したのは自分で、彼を育てるのは義務なんて言葉じゃ括れない位大切で当たり前の事なのに。
あの曇らない瞳が好きだった。手の中にある温もりを大切にしたかった。この手を離れて行く不安は、諦めにも似ている。いつかは離れて行くのだと、納得はしていてもそれは今じゃなかった。
「……もう少し、この子と話し合いをしたいと思っています」
「そうですか。私もその方が良いと思いますよ。此処で決める進路は、将来を左右するものですから」
「はい、ありがとうございます」
意思の疎通が出来ていないと思われるのは嫌だったけれど、担任は頷いて新しい進路希望用のプリントを渡してくれた。隣にいる剛の顔を見る事は出来ない。
「これが、最後の希望になります。二人でもう一度話してみて下さい」
深く頭を下げて席を立った。唇を噛み締めて、教室を後にする。黙って後ろを付いて来る子供を振り返る事は出来なかった。どんな考えで、どんな気持ちで就職を決めたのか。夏休みには目指す大学も見定めて必死に勉強していた筈だ。どうして、今更。
廊下には次の親子が待っていて、言葉を発する事は叶わなかった。無言のまま昇降口を目指す。今、自分の中にある感情は、一体何だろう。怒りか悲しみか、それとも不安か。分からない。剛の気持ちも自分の気持ちも見えなかった。
揃えて置いてある革靴に足を入れて、やっと口を開く。誰もいない放課後の昇降口は、懐かしい色があった。褪せた茶は、セピアの風景だ。射し込むオレンジとのコントラストが美しい。
「剛」
名前を呼んで悲しくなった。自分が生きて来た中で一番多く呼んだ名前。全てを共有して来たつもりだった。故郷を離れ、本当の父親から奪って今日まで。分からなくなってしまった。剛が何を考えているのか、どうして話してくれなかったのか。自分が、就職を希望した事よりも一番に相談してくれなかった事に傷付いている事に気付いた。
「光一。先、帰っててくれるか。俺寄るとこあんねん」
「剛、」
「……帰ったら、ちゃんと話すよ」
振り返れば、悲しい程の柔らかい眼差しがあった。上手く表情を繕えないのはお互い様だ。オレンジの光が、剛の顔に陰影を作った。僅かに息を呑む。
いつの間に、こんな。強い瞳はそのままだけれど、引き結んだ唇や寄せられた眉は、少年の表情ではなかった。眩みそうになって、慌てて目を逸らす。
「あんま、遅くなんなや」
「うん、ごめん」
「謝る位やったら……っ」
「ごめん、光一」
叫びそうになる衝動を堪えて、目を瞑った。剛の甘い声。謝罪を示す言葉が、耳に心地良い。
「じゃあ、帰るな」
落ち着きを取り戻し切れない声で小さく呟いた。俯いた視界の端で剛が動くのが見えたけれど、気付かない振りをする。伸ばされた指が何処に届くのか。追い掛ける事は出来ずに、校舎を後にした。胸が痛い。分からない事が辛かった。
成長すると言う事は、こんなに辛い事なのだろうか。身を切られる様な、心に空洞がある様な。耐えられないと思って、小さく首を横に振った。剛が大人になる事は、自分の願いだ。けれど、まだ今はその時ではない。日の翳った道を歩きながら、痛む心臓を押さえた。
+++++
「おお、いらっしゃい。二人で来たんか?今、茶出したるからな」
いつもと変わらない笑顔で迎えられてほっとした。岡田と並んで歩いて来たのを遠くから見付けてくれた。幼稚園を改造した屋内は、いつ来ても茂君の優しさで満ちている。
「こんにちは。お久しぶりです」
「ええ、ええ。そんな堅苦しい挨拶は。学校帰りか?したら、腹減っとるなあ。僕の秘蔵の饅頭出したるわ」
おっとりした笑顔と賑やかな喋りに気圧されて、勧められるまま室内に入った。茂君の自室兼園長室に通される。
何度も何度もこの部屋で話をした。涙を堪えた表情で、弱音を喉につかえさせたまま強く在ろうとした養父をこの場所でずっと見ている。
岡田と並んで古いソファに座り待っていると、程なくして部屋の主が現れた。両手に持ったお盆の上には、三人で食べるには多過ぎるおやつ。此処で生活している子供には決して優しいだけではない厳しさを持ち合わせている人なのに、たまに訪れる子供達には労う素振りで甘やかしてくれた。あくまでも、此処の子供にばれないように、ではあるけれど。
「子供らはこれから宿題の時間やから、ちょっとは静かやわ。まあ、食べなさい」
「はい、いただきます」
年齢不詳の園長は、日本茶を飲んでいる時が一番老けて見える。悪い意味ではなく、狡猾な翁のイメージだった。秘蔵の饅頭を食べながら、今此処で生活している子供達の事を話される。
「もうすぐお母さんと一緒に暮らせる中二の子がおってなあ。最近はその子が頑張ってくれるおかげで、園内は穏やかなもんやで」
闇を抱えた子供達が集団で生活するのは容易な事ではない。城島の肩には、大きな傷痕が残っていた。ずっと昔、子供が暴れて包丁を手に持ってしまったのだそうだ。自身の傷より、子供に犯罪歴を負わせた事をずっと悔やんでいる。
そんな人だった。優しさや正義だけで、私営の施設を維持する事は出来ない。己に厳しい、度量の大きな人だった。
「もう君ら、受験も追い込みやろ?こんな所で油売っててええの」
「今更焦る事もありませんし」
答えたのは、岡田だ。のんびりした雰囲気は、どちらの方が強いだろう。目に映る世界をきちんと見ていないような親友の瞳は、いつも違う現実を追っていた。城島は苦笑する。
「岡田は、そうやな。もう高校の授業で勉強する事なんかないやろ。僕は、早く大学行って勉強して欲しいなあ思ってたから嬉しいわ。行くとこは決めとんのか?」
「はい、もう大体は」
「そうか。春が楽しみやねえ」
岡田を小さい頃から知っている城島は、嬉しそうに目を細めた。関わった全ての子供達の成長をこうして心から喜んでいるのだろう。
岡田は自分とは違うが、長い間城島の施設に通っていた。彼の両親は幼い時に交通事故で亡くなっている。幸い叔父夫婦が引き取る事となり、小さな頃から大人びたところのある少年は、何の問題もなく養子として迎えられた。それでも、不安が大きかったのだろう。親交のあった城島に相談へ行くのは、当然の流れだった。
園内で一人物静かに過ごしている少年に声を掛けたのが出会いだ。聞き慣れたイントネーションに安心した部分もあるのだろう。それから不思議な距離感でずっと一緒にいた。小中学校と別々だったのに、秀才の彼が同じ公立高校にいるのは、恐らく自分の事を考えてくれたからだと、密かに思っている。
「准一に心配はしてへんけどなあ。剛はどうなん?夏休み、数学で苦労してたやろ」
「俺、実は今日その事で来たんです」
「……どうしたん」
子供の変化を城島は見逃さない。真剣な眼差しで話を促された。今日の三社面談の事や考えに考えた進路の事、早く大人になりたいと言う純粋な願いをゆっくり自分の心に偽らないよう気を付けながら話す。隣に岡田がいてくれて良かったと、力の入った自分の手を見ながら思った。
「それはまた、強引やなあ。大切にせなあかん人を、一番最初に傷付けてるやん」
「二人のルール破ったのは俺や。でも、光一の願う進路を選べない」
「剛、厳しい事言うようやけど、それは子供の我儘やで。養われてるから大人になれないんか?子供やからって、大切なもん背負えない訳ちゃうで。親の期待背負うんも立派な責任や」
違う、と言いたかった。子供だからとか親子なのにとか、そんな理屈ではない。唯、光一が好きで光一と対等になりたかった。守られるのではなく、一緒に生きたいのだと。
けれど、こんな思いを口に出す事は出来ない。異常な恋である以上、口を噤むしかなかった。
「俺は、光一を苦しめたい訳やない。でも、どうしたらそれが伝わるんか分からんのや」
「剛。僕に大事な事言うてないやろ」
「え」
「茂君」
咎める声を発したのは、岡田だった。大事な事は一つしかない。話の中核にありながら、避けていた自分の恋心。幾ら彼の度量が大きいからと言って、簡単に話せなかった。
「全部言うてくれんと分からんよ。きっと光ちゃんも、僕以上に困って混乱してるわ」
「茂君。そんな、青少年の育成妨げるような事、言うたらあかんのやないですか」
「うーん、別に助長させてるつもりはあらへんよ。でもなあ、はぐらかしながら相談されるとやっぱり人間やから腹立つのよ。こんな中途半端な話じゃ、何を言うてあげる事も出来んしね」
「茂君って、立派な大人に見えて、そう言う人ですよね」
岡田が神妙な顔で頷いた。剛だけが一人、会話に追い付けず固まったまま。青少年の育成?はぐらかしている?それは、自分の話なのだろうか。だとしたら、城島は自分のこの抱いてはいけない恋を知っていると言う事になる。
「茂君……?」
「剛が本当はどんな気持ちでいるのかなんて、毎日一緒にいる訳ちゃうから、全部分かってるなんておこがましい事は言わんよ。でもな、ずっと昔から君らを見てて、お互いを大切にしている事も、自分勝手に大事な事を決める親子じゃない事位は知ってんのよ。やからな、ちゃんと話して欲しい」
「俺……俺、光一が好きなにゃ。一番大切。育ててくれた恩とか、ずっと一緒にいてくれたからとかやなくて。俺はもう、長い事光一だけやった」
「剛」
「はい」
「それが、光一の望んでへんものでもか?」
「はい」
「……君は、一度決めたら強情やからねえ」
父親譲りやな、と優しく笑われた。彼の懐の深さは、既に尊敬の域だ。誰にも告げてはならないのだと決意した思いは、秘めれば秘めただけ辛くなった。岡田がいなければ、多分自分の身勝手な感情で光一との関係はとっくに壊れていただろう。それをまた、今城島が救い上げてくれる。
「しょぉがない子やね。光ちゃんがそんな思いを望んでいない事、分かってんのやろ」
「はい」
「嫌やな、もう覚悟してる目やないの。困ったなあ、おっちゃんは何言うてあげたらええのかねえ」
全然困っていない素振りで、温くなった茶を啜った。穏やかな仕草に身体の力が抜ける。嫌悪のない眼差しに安堵した。全てを受入れてくれる御仁だ。
「今日、帰ってから話すのやろ?僕は、昔から嘘を吐いてはいけない言うんが信条やから、アドバイスをするとしたら黙ってるのがええと思うよ」
「黙る?」
「うん、そうや。光ちゃんが好きで、その為に早く対等になりたいから就職したいんやって、真っ正直に言わんでもええと思う。これからも一緒に生きて行くつもりなにゃろ?」
「はい」
「じゃあ、優先順位は一緒に生きる事や。……これから、辛くなると思うで」
「いえないまま生活して行くのがしんどかったら、とっくに諦めてます」
「そうやな。一番大事な事を見失わないで、ちゃんと話し合ってみればええ。正直、剛も賢い子やから、僕は進学して欲しいけどなあ」
「後四年もなんて待てません」
「若さやねえ。君ら親子の事にあんまり立ち入る訳にはいかんけど、二人が納得出来る答えを探しなさい。独りよがりは絶対あかんよ。自分の思いが辛かったら、僕でも准一でも聞いてやるさかいなあ」
光一はきっと、自分の恋を許してはくれない。二人の間にあるのは親子の情であって、それ以外の何も要らないと言うだろう。分かっている。でも、自分を偽らずあるがまま生きていたかった。滑稽だと思われても構わない。理解されなくても良かった。ちゃんと墓まで、この恋は持って行く。光一には告げない。だから、傍にいる事を許して欲しかった。
秋は日の落ちるのが早い。急に暗くなった外を見て、もうそろそろ帰りなさいと促された。岡田と別れて一人になると、自分の決断が間違いではなかったかと不安になる。本当にこれで正しいのだろうか。……否、城島は正しいも間違っているも言わなかった。識者の振りで頭ごなしの説教をしない彼を信頼している。心が揺れたらまた此処に来れば良いのだと思った。
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