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小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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「つ、よし・・・」
 一人きりの朝が訪れる。白い光が差し込む部屋に取り残された声は、何処にも届く事なく光の粒子と混ざり合って溶けて行った。置き手紙があるのでも荷物が全てなくなっている訳でもない。けれど、律儀に畳まれた布団と温められるのを待つだけの朝食に剛の不在を悟った。
 この場所を飛び出したのだ。どうしよう。何処にもあの子の気配がない。優しさの残されていない部屋で呆然とした。「家出」と言う言葉さえ思いつかない。
 何から始めたら良いのかすら分からず、とりあえずいつものように顔を洗った。冷たい水も思考を取り戻す手段にはならない。悩む、と言う事すら出来ず、困った時の一一〇番通報をした。警察ではなく、城島へのホットラインだ。
「おはよう、光ちゃん。どうかしたんかー」
「っ茂君、どうしよ!・・・俺!」
「おいおいおいおい。落ち着き落ち着き。剛がどうかしたんか?」
「茂君・・・」
 城島の声を聞いた途端、感情が追い付いて来てパニックを起こす。要領を得ない自分の話を丁寧に聞き取って(と言っても、すぐに理解出来たらしい。「光ちゃんが焦る理由なんて一つやから簡単やったで」と笑われたのは、勿論後日談だ)、穏やかな声のまま必要な事を指示してくれた。
「それは、『家出』っちゅう成長過程やね。焦ったらあかんでー。あの子にも反抗期が来たんやな、って成長を思ったらええのよ」
「・・・うん」
「よしよし、ええ子や。これから探しに行くんやろ?」
「うん」
 即答した。自分が探さないで、誰があの子を追い掛けると言うのだ。
「したら、まずは会社に休みの連絡を入れなさい」
「・・・あ」
「やっぱり忘れてるやろ。普段仕事馬鹿の振りしとる癖に、唯の親馬鹿やないの」
 気の抜けた声で笑われて、緊張が解かれる。親馬鹿で構わなかった。一生剛を守ると決めたのだ。誰よりも愛して、愛し抜いてやるのだと誓った。
 城島の指示通り会社に病欠の連絡を入れ、動き出す前に心当たりのあるところへ電話をしてみる。案の定学校には行っていないようで、何食わぬ声でこちらも病欠を伝えた。それから、休み時間を狙って岡田の携帯に掛けてみたが、今日は会っていないと言われる。学校が違うのだから当たり前と言えば当たり前だった。落胆し掛けた自分を、察しの良い岡田は気遣ってくれる。
「剛君の学校に共通の友人がいるんで、そっちに連絡してみますよ。学校は僕が気を付けておきます。光一君は、他の場所を探して下さい」
 中学生に窘められるのはどうなんだろうと思ったけれど、今の自分がどうしようもない程不安定なのは事実だから、素直に頼む事にした。自分の身体は一つで、そんなに手広く探せる訳ではない。好意は甘んじて受け入れるべきだ。
 午後は、自宅から離れていない場所で剛の行きそうな所を探した。公園、ゲームセンター、ファーストフード店、図書館、レコードショップ。何処にも目当ての姿はなくて、泣きそうになる。いつでも傍にいた少年。自分の中の喪失感が大き過ぎて、怖くなった。慣れないこの土地で、文字通り二人きり生きて来たのだ。考えていたよりずっと、彼に救われていた事に気付いた。こんな風に離れているのは初めてで、持て余した感情をどうしたら良いのか分からない。
 剛。何処にも行かないで。此処にいて。こんなにも切迫した感情を初めて知った。胸が痛い。誰もいない夕暮れの路地裏で蹲った。普段の強がりすら保てない。このまま、声を上げて泣き出してしまいそうだと思った。心臓の辺りを両手で押さえて、その衝動を抑え込む。
 一日中歩き続けて、何処にも剛の気配を見付けられなかった。城島に連絡を入れるともう帰りなさないと諭される。剛が帰って来た時光ちゃんは笑顔で迎えて、それからたっぷり叱らんとあかんのやから、元気残しておくんやで。明るい声に慰められて、素直に家へと向かった。もし剛が近くまで戻って来て窓に明かりがなかったら、もっと遠くに行ってしまうかも知れない。
 俯いたまま階段を上って行くと、自分の部屋の前に人影があった。
「剛っ」
 反射的に叫んで、残りの階段を駆け上がる。それが違う人だと気付くのに、時間は掛からなかった。大きな背中、着古しているのに汚い印象を与えないジーンズ、振り返った顔は陰のある剛のそれよりずっと明るい。太陽のような男だった。
「なが、せ・・・?」
「あー光一いたー!今日休んだって言うから心配になっちゃってさー、慌てて仕事終わらせて来てみたら誰もいないし。病院行ったのかとも思ったんだけど、せっかく来たからもう少し待とうと思ってさ。・・・でも、病院行って来た感じじゃないね?顔色悪いけど。さっき、剛って言った?」
 動物的勘で生きている友人は、確信を持った直感を違える事はない。長瀬の大きな顔のパーツは、彼の感情を豊かに表現した。心配した顔。何の打算もない優しさに、とうとう光一の張り詰めていた糸が切れた。
「剛がっ・・・帰って来ないんや!今朝起きたら、布団綺麗で、一人でっ。俺が、あいつの希望素直に聞いてやれば良かったんか?夜学なんてっ、行って欲しない!何でいらん苦労背負わせなあかんのやっ。あの子は、俺の子供や!俺が大人にするって決めた。何で、一人で先進もうとするん?俺のせいか?俺が頼りないからあかんの?どうして・・・っ」
 光一の細い身体を、その叫びごと長瀬は胸に受け止めた。これ以上、不安を与えないようにきつく抱き寄せる。光一に剛と言う養子がいる事を教えられたのは、二年前だった。元々口数の少ない友人だったから、そんなに彼らの関係を知っている訳ではない。どう言ういきさつで二人、この東京で生きて行く事になったのか。
 けれど、長瀬にはそんな事はどうでも良かった。今此処にある光一の愛情が全てだ。泣かない彼の精一杯の激昂。
「そうかー剛が家出かー。大人になったもんだなあ」
「俺は、一度も家出なんてした事あらへん!そんなんせんでも大人になれるわ」
「うーん、光一はホントに真面目だからなー。家出は男のロマンよ」
「分からん!」
 友人のこんなに怒った声は初めて聞いた。
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「こんにちは。お久しぶりです」
「いらんいらんでー、そんな堅苦しい挨拶は。学校帰りか?したら腹減っとるなあ。僕の秘蔵饅頭出したるから、ちょぉ待っててな」
 おっとりした笑顔と賑やかな喋りに気圧されて、勧められるまま室内に入った。城島の自室兼園長室に通される。何度も何度もこの部屋で話をした。涙を堪えた表情で弱音を喉につかえさせて、それでも強く在ろうとした養父をこの場所でずっと見ている。
 岡田と並んで古いソファに座って待っていると、程なくして部屋の主が現れた。両手に持ったお盆の上には、三人で食べるには多過ぎるおやつ。此処で生活している子供達には深い愛情故の厳しさで接する人なのに、たまに訪れる子供達には労う素振りで甘やかしてくれた。あくまでも、此処の子供達にばれないように、ではあるけれど。
「子供らはこれから宿題の時間やから、ちょっとは静かやわ。まあ、食べなさい」
「はい、いただきます」
 年齢不詳の園長は、日本茶を飲んでいる時が一番老けて見える。悪い意味ではなく、狡猾な翁と言うイメージが良く似合った。秘蔵の饅頭を食べながら、今此処で生活している子供達の事を話される。
「もうすぐお母さんと一緒に暮らせる中二の子がおってなあ。最近はその子が頑張ってくれるおかげで、園内は穏やかなもんやで」
 問題を抱えた子供達が集団で生活するのは、容易な事ではない。城島の肩には、大きな傷痕が残っていた。ずっと昔、子供が暴れて包丁を手にしたのだそうだ。自身の傷より子供に犯罪歴を負わせてしまった事をずっと悔やんでいる。
 そんな人だった。優しさや正義だけで、私営の施設を維持する事は出来ない。己に厳しい、度量の大きな人だった。
「もう君ら、受験も追い込みやろ?こんな所で油売っててええの?」
「今更焦る事もありませんし」
 答えたのは、岡田だ。のんびりした雰囲気は、どちらの方が勝っているだろう。目の前の世界をきちんと見ていないような親友の瞳は、いつも自分とは違う現実を追っていた。城島が苦笑する。
「准一は、そうやな。もう高校の授業で勉強する事なんかないやろ。僕は、早く大学行って勉強して欲しいなあ思てたから嬉しいわ。行くとこは決めとんのか?」
「はい、もう大体は」
「そうか。春が楽しみやなあ」
 小さい頃から岡田を知っている城島は、嬉しそうに目を細めた。関わった全ての子供達の成長をこうして心から喜んでいるのだろう。
 岡田は、自分と同じように長い間城島の施設に通っていた。家庭環境に問題があっての事ではない。自分達親子とは違って、彼の家族はいつでも大らかな空気が満ちていた。岡田の本当の両親は、幼い時に交通事故で亡くなっている。幸い叔父夫婦が引き取る事となり、小さな頃から大人びた所のある少年は、何の問題もなく養子として迎えられた。
 それでも、不安が大きかったのだろう。親交のあった城島に相談へ行くのは、当然の流れだった。園内で一人物静かに過ごしている少年に声を掛けたのが出会いだ。聞き慣れたイントネーションに安心した部分もあるのだろう。それから、不思議な距離感でずっと一緒にいた。小中学校と別々だったのに、秀才の彼が同じ公立高校にいるのは、恐らく自分の事を考えてくれたからだろうと密かに思っている。
「准一に心配はしてへんけどなあ。剛はどうなん?夏休み、数学で苦労してたやろ」
「俺、実はその事で今日来たんです」
「・・・どうしたん」
 子供の変化を城島は見逃さない。真剣な眼差しで話を促された。今日の三者面談の事や考えに考えた進路の事、早く自立したいと言う純粋な願いをゆっくり自分の心に偽らないように話す。隣に岡田がいてくれて良かったと、力の入った手を見ながら思った。
「それはまた、強引やねえ」
「2人のルール破ったのは、俺です。でも、光一の願う進路を選べない」
「剛、厳しい事言うようやけど、それは子供の我儘やで。養われてるから自立出来ないんか?子供やからって責任持って生きれん訳ちゃうで。親の期待背負うんも立派な責任や」
 違う、と言いたかった。子供だからだとか、親子なのにとか、そんな理屈ではない。唯、光一が好きで光一と対等になりたかった。守られるのではなく、一緒に生きたいのだと。けれど、こんな思いを口に出す事は出来ない。異常な恋である以上、口を噤んでいるしかなかった。
「俺は、光一を苦しめたい訳やない。でも、どうしたらそれが伝わるんか分からんのです」
「剛、僕に大事な事言うてないやろ」
「え」
「茂君」
 非難の声を発したのは、岡田だった。大事な事は一つしかない。話の中核にありながら避けていた、自分の恋心。幾ら彼の度量が大きいからと言って、簡単には話せなかった。
「全部言うてくれんと、分からんよ。きっと光ちゃんも、僕以上に困って混乱してるわ」
「茂君。そんな、青少年の育成妨げるような事、言うたらあかんのやないですか」
「うーん、別に助長させてるつもりあらへんよ。でもなあ、はぐらかしながら相談されると、やっぱり人間やから腹立つのよ。こんな中途半端な話じゃ、何を言うてあげる事も出来んしね」
「茂君て、立派な大人に見えて、そう言う人ですよね・・・」
 岡田が神妙な顔で頷いた。剛だけが一人、会話に追いつけず固まったまま。青少年の育成?はぐらかす?それは、自分の話なのだろうか。だとしたら城島は、全部知っていると言う事になる。
「茂君・・・?」
「剛が本当はどんな気持ちでいるのかなんて、毎日一緒にいる訳ちゃうから、ちゃんと分かってるんやないよ。でもな、ずっと昔から君らを見てて、お互いを大切にしている事や自分勝手に大事な事を決める親子じゃない事位は知ってんのよ。やからな、ちゃんと話して欲しい」
「俺・・・俺、光一が好きなんや。一番大切。育ててくれた恩とか、ずっと一緒にいてくれたからとかやなくて。俺は、もう長い事光一だけやった」
「剛」
「はい」
「自分がどんな感情で好きなんか、もう答えは出ているんやね?」
「はい」
「それが、光一の望んでへんものでもか?」
「はい」
「君は、一度決めたら強情やからねえ」
 父親譲りやな、と優しく笑われた。彼の懐の深さは、既に尊敬の域だ。誰にも告げてはならないのだと決意した思いは、秘めれば秘めただけ辛くなった。岡田がいなかったら、自分の身勝手な感情でとっくに光一との関係は壊れていただろう。それをまた、今城島が救い上げてくれる。
「しょぉのない子やね。光ちゃんがそんな思いを望んでない事、分かってんのやろ」
「はい」
「嫌やな、もう覚悟してる目やないの。困ったなあ、おっちゃんは何言うてあげたらええのかねえ」
 全然困っていない素振りで、温くなった日本茶を啜った。穏やかな仕草に、全身の力が抜ける。嫌悪のない眼差しに安堵した。全てを受け入れてくれる人だ。
「今日、帰ってから話しすんのやろ?」
「そのつもりです」
「うん、忘れたらあかんよ。今剛は大切にせなあかん人を、一番最初に傷付けてるんやで」
「・・・はい」
「僕は、昔から嘘を吐いたらあかん言うんが信条やから、アドバイスするとしたらな。黙ってたらええと思うよ」
「・・・黙る?」
「うん、そうや。光ちゃんが好きで、その為に早く対等になりたいから就職したいんやって、真っ正直に言わんでもええんやないかな。これからも、一緒に生きて行くつもりなんやろ?」
「はい」
「じゃあ、優先順位は一緒に生きる事や。・・・これから、辛くなる思うで」
「言えないまま生活して行くのがしんどかったら、とっくに諦めてます」
「そうやな。一番大事な事を見失わないで、ちゃんと話し合ってみたらええ。正直、剛も賢い子やから、僕は進学して欲しいけどなあ」
「後四年もなんて、待てません」
 言い切った剛に、城島は苦笑を零す。隣に座る岡田は、無表情のまま饅頭を食べ続けていた。
「若さやねえ。君ら親子の事にあんまり立ち入る訳にはいかんけど、二人が納得出来る答えを探しなさい。その思いが辛かったら、僕でも准一でもたっぷり聞いたるからなあ」
 光一はきっと、自分の恋を許してはくれない。二人の間にあるのは、親子の情であって、それ以外の何も要らないと言うだろう。分かっている。でも、自分を偽らずあるがまま生きていたかった。滑稽だと思われても構わない。理解されなくても良かった。ちゃんと墓まで、この恋は持って行く。光一には告げない。だから、傍にいる事を許して欲しかった。
 秋は日の落ちるのが早い。急に暗くなった外を見て、もうそろそろ帰りなさいと促された。岡田と別れて一人になると、自分の決断が間違いではなかったかと不安になる。本当にこれで正しいのだろうか。・・・否、城島は正しいとも間違っているとも言わなかった。識者の振りで頭ごなしの説教をしない彼を信頼している。心が揺れたらまた此処に来れば良いのだと、落ち着いた気持ちで思えた。

+++++

 三年前にも似たような事があった。一緒に暮らし始めて五年、剛が高校受験の時だ。二人で肩を寄せ合って暮らしていたからと言って、全ての生活が上手く行っていた訳ではなかった。離れそうになる手を何度も繋ぎ直して生きている。
 あの時も同じように、光一は剛の高校進学を希望していた。他の子供達が選ぶのと同じ、ごく当たり前の普通科。私立でも公立でも、資金面で問題がないようずっと積立を続けて来た。自分の力不足で、剛の未来を狭めたくない。なのに、彼が選んだのは夜間学校への進学だった。
 剛の葛藤が分からなかった訳ではない。全くの他人である自分に頼って生きるのは、気が引けたのだろう。中学校までは義務教育だけれど、これからは違う。生き方の選択が出来るのだ。社会生活への第一歩と言っても過言ではなかった。
 とは言っても、今の時代は高校に行くのが当然の選択で、光一自身もその感覚で大学まで進学している。まさか、こんな所で躓くなんて思っていなかった。剛の幼い時から変わらない強い瞳に、真摯な決意を見付けてぞっとする。
 どうして、そんなに潔く決断出来るのか。当たり前と思って進学を勧めた自分と、悩みに悩んでこれからの人生を選んだ剛とでは、厳然たる差があった。彼の結論を覆す説得力がない。あの時、焦っていたのは光一だった。自分の思うようにならない事実を変えようとする様は、まるで駄々っ子だ。みっともないと今なら言えるけれど、剛の瞳に気圧されて唯ひたすら必死だった。その為に、彼を傷付けてしまう位には。
 今でも、何が決定的な理由だったのかは分からない。幾つも投げた言葉の内のどれが、剛の心を抉ってしまったのか。優しい少年は、今も黙秘権を行使したままだった。明確な理由は分からないけれど、三日月の夜剛は家を出た。
 まだあの頃は、一緒に布団を並べて眠っていたように思う。どうしても思い留まって欲しくて、剛の作った夕食を摂りながら不用意に言葉を重ねてしまった。借り物の、頭ごなしの説教ばかり。あの敏感な子供が、偽物の言葉で納得する筈なかったのに。不器用でも足りなくても、ちゃんと自分の言葉で話せば良かったのだと今なら分かる。
 剛はずっとしっかりした息子だった。連れ出したあの日から、自分の事は自分で出来たし甘えたがりではあるけれど、一人で夜を過ごさせても我儘は言わない。光一は当時、システム開発と言う今とは違う部署に配属されていた。営業が取って来る納期はいつもぎりぎりで、残業は日常茶飯事の部署だ。休日出勤をしなければ間に合わない事もままあり、剛と一緒に過ごせる時間は少なかった。それでも生活の為には仕方ない、と何処かで言い訳をしていた自分がいる。もっと早くに引き返せば良かった。自分一人の生活ではなく剛と二人の生活なのに、いつの間にか大事なものを見失っていたのかも知れない。
 遅い夕食を気まずい空気で終えた後、いつも通り布団を敷いた。二人きりだと言う事を思い出させる距離感。電気を消した室内には、互いの押し殺した呼吸音だけが広がっていた。すぐ傍にある体温。何度も抱き締めて朝を迎えて来たのに、気付けば剛は自分で人生を選ぶまでになっていたのだ。随分歩いて来てしまったのだと思う。
「・・・光ちゃんは、いつになったら分かってくれるんかな」
「俺は、分かってなんかやらん」
「もう、子供やないで?」
「剛は、一生俺の子供や。阿呆な事言うな」
 迷いのない言葉に、剛の胸の裡はすっかり混乱してしまった。「一生」と「俺の子供」。泣きたい程の喜びと、死にそうな絶望が血流に乗って指先まで行き渡った。一生傍にいられる。子供と言う距離から抜け出す事は叶わない。
 気付いてしまった恋は、自覚したその瞬間から剛の身を苛んでいた。何故、自分は他の同級生と同じように、女の子を好きにならなかったのだろう。若い故の留まる事のない熱情が剛を甘く苦しめる。
「そんなに早く大人にならんでええよ」
 目を閉じて聞く光一の声は、いつも通り優しかった。愛する人を苦しめている。愛してはいけない人に恋を抱く自分は、彼の望む普通の子にはなれなかった。父親も母親も兄弟もいる他の子供達と同じように成長出来ないのが、環境のせいだとは思いたくない。
「光一・・・」
 普段は口にしない名前で小さく彼を呼ぶ。「父さん」と言わない事に苦痛を感じないでいてくれるのが、せめてもの救いだった。この人を父と呼ぶ事は、一生出来そうもない。
「ん?何・・・剛?」
 名前を呼んだきりの自分に焦れて、光一が動くのを気配だけで感じた。目は閉じたまま。彼の舌足らずな発音が愛しい。可愛い、なんて言ったら怒られるだろうか。
「剛。寝たん?」
 思いがけず近い場所で声が聞こえて、反射的に目を開けてしまう。
「っこうぃ!」
「・・・ああ、吃驚したあ。寝てなかったんやね」
 自分の声とは対照的に、光一はのんびり笑った。元々近い距離にいる二人だ。僅かの差を縮める事なんて容易い事だった。頭では分かっていても、勝手に走り出した心臓は止められない。無防備な光一は、簡単に手を伸ばせる位置にいるのだと思い知らされた。
 反応のない自分を不審がって身体を起こした事もこちらを伺っていた事も気付いている。けれど、自分の頭を跨ぐように手を付いて、髪が触れ合う程の至近距離にいるとは思わなかった。
 光一の黒目がちな瞳は、薄い闇の中にあっても綺麗だ。頬を擽る柔らかい猫っ毛も、筋張った腕の内側の白い肌も全て。剛の目には魅惑的に映る。
 まともに視線を合わせて、まずいと思った。正直な身体に打ちのめされる。下半身に集まる熱は、明確に彼への劣情を示していた。絶望的な欲だ。自分が抱いている恋だと思っていたものが、呆気無く浅ましい欲望に飲み込まれた。
「剛?」
「っ何でもあらへん!もう寝るわ!おやすみ」
 無理矢理顔を背けて、きつく目を瞑る。己の劣情を恥じた。これは、光一を傷付ける感情だった。同じ場所で生きて行くのに、こんなものを抱えて良い筈がない。
 光一が好きや。どうしようもない程に。本能から生まれた欲は、醜い分はっきりと分かりやすく剛に愛を示す。自分の中にある愛する感情は全て光一に向いているのだと、思い込める程だった。
 小さく溜め息を零すと、諦めたように布団に入る気配がある。離れた距離に安堵して、同時に泣きたくなった。一緒にいられない。このままでは遠くない未来に父親である彼を壊してしまう。
 確信だった。大切に慈しみ育ててくれたこの年月を全て粉々に砕いてしまう。怖かった。唯、彼を誰よりも愛したいだけなのに。
 剛に優しい眠りは訪れなかった。行く先はない。それでも、今の気持のまま此処にはいられないと思った。
 真夜中、光一の眠りを確かめる為に首筋に触れる。小さく身じろいだ彼にごめんな、と囁いた。いつも使っているバッグを一つ抱えて、二人きりの部屋を出る。青い空に浮かぶ月の頼りない明かりに照らされて、剛は歩き出した。
 何の前触れもなく、真夜中に剛が来た。俺ですらそろそろ寝ようと思う時間は、既に夜よりも朝に近い。
 ドラマが始まってからこうしてふらりと現れる回数が増えた。あまり夜が強くないのだから、真っ直ぐ帰って疲れを癒せば良いのに。けれど、眠っただけでは取れない疲れもあるのだと言う事を俺も良く知っている。
「マネージャーに我儘言ってもうた」
 剛の寄り道にマネージャーが良い顔をした筈はなかった。確か明日も(と言うか今日も)朝からの撮影だ。良くあの厳しい人が許したものだと思う。余程疲れているのかも知れない。
「今日も上手く行ったん?」
「まあ、ぼちぼちやな」
 当たり前の会話をしないと、いつもの様に呼吸出来ない。どんな時間でもどんな場所でも剛といる空間は変えたくなかった。当たり前に、馴染んだ空気で。
「なあ、光一」
「ん?」
 剛の声が甘く響く。
「お前明日ゆっくりやろ。ちょお今から海行かへん?」
 穏やかに提案された言葉に素直に頷く事は出来なかった。剛の願いなら何でも叶えてあげたい。この気持ちは自分の中にいつでもある真実だけど。
 今の彼のスケジュールでこんな時間から出掛けるなど、余りにも無謀過ぎる。躊躇いが顔に出たのか、剛が口許を優しく緩めた。
「ええねん。今帰っても寝れんから」
 思わず不安を覚える程の優しさを溢れさせるから、諦めを二人の間に落とすしかなかった。神経が昂り過ぎるとどんなに体が眠気を訴えても寝る事が出来ない。自分もスケジュールが過密になると良く経験している事だから、その感じは手に取る様に分かってしまう。
「どうせ起きてるんなら光ちゃんといたいねん」
 我侭過ぎる台詞は、甘さだけでは埋められない距離を簡単に縮めてしまう。
 静かに頷いて時計を確認する事はせず、一緒に部屋を出た。

+++++

 エントランスを出ると、剛の車が横付けされていた。車と相方の顔を交互に見詰めた自分に肩を竦めてみせる辺り、本当に我儘を言ったようだ。
 恐らく撮影中に自分の車をマネージャーに取りに行かせて、帰りは一人で運転して来たのだろう。撮影の時期に自分で運転する事など、まずないかった。
 そんな我儘すら受け入れられてしまうのは剛の人徳だなと思うけれど、限度と言う物がある。
「子供やないんやから、あんまり我儘ばっか言うてたらあかんで」
 思わず眉を顰めた自分に唯優しい表情を見せるだけで、剛は何も言わなかった。
 まさか運転させる訳にはいかないと思い、ごく当たり前の足取りで運転席へ向かったのだが、思いがけず剛に遮られる。手を引かれ助手席の方へ回ると、ドアを開けて座らされる。シートベルトまでされてもこのまま助手席に乗るなんて素直に出来る訳なかった。剛の瞳を見詰めれば、馬鹿みたいに甘い声と真面目な顔で言ってのける。
「助手席に座る光一が見たいねん」
 二人の間にある空気が夏の夜よりも更に湿度を増した気がして、もう何も言えなくなってしまった。剛の瞳が満足そうに細められれば、それだけで。
 充分だと思ってしまうのだ。

 いつも考える。
 自分が剛に出来る事は何なのだろうか。何も出来ないのではないかと不安になった。
 でも。こんな風に俺の存在全てを必要としてくれるから。本当はこのままじゃいけないのに、これで良いと思ってしまう。
 後悔なんて言葉には程遠いけど。
 愛されてると意味もなく実感してしまうのだ。

 案外スピード狂な剛の運転は思いの他しっかりしていて、本当に眠くないのだと分かる。道路は平日の深夜と言う事もあって、閑散としていた。街灯の奇妙な明るさが、時間の感覚を麻痺させる。
 ライトアップされた橋を渡って少し走ると、道路脇に静かに車が止められた。エンジンが止まるのを確認して車を降りようとすれば、それすらも剛は自由にしてくれない。わざわざ助手席側に回って扉を開けると、手を差し出された。
 俺はお姫様かと笑う余裕も生まれずに、とても嬉しそうに笑っている顔を見上げたまま手を重ねてしまう。
 剛はたまにこうして酷く自分を甘やかした。いつもいつも甘やかされている自覚もさすがにあるのだけれど、この甘さは痛みの方が近い。
 彼の中にあるのは、優しくしたい情よりも俺を『自分の物』だと誇示したい独占欲だった。
 今剛の生活には仕事と言うかドラマしかない。友達と会う事も趣味に没頭する事も許されなかった。
 彼の中には何一つ自分の自由になるものがないから。潜在的に強くある独占欲が満たされないのだ。
 だから多分、今剛は俺を『自分の物』にしたいんだと思う。何も自由にならないからせめて光一位は、なんて子供じみた欲を。
 まあ、剛と違って今は忙しくないから、そんな我儘にも付き合ってやる事が出来た。自分のプライベートは、気紛れに連絡を寄越す剛の為だけにあるのかも知れない。
 指先を引かれて、暗い海岸へと向かう。波の音が二人を包み込んで心地良かった。対岸に見えるネオンの明りよりも海の闇に目が眩む。
 剛は、手を引かれたまま存在全てを委ねてくれる光一をそっと見詰めた。身体は本当に疲れているのに、こんなにも優しくしたくて甘やかしたくて。
 それが彼に負担になると分かっていても。
「静かやなー」
 潮風を受け細い髪を軽やかに乱しながら、光一が気持ち良さそうに言う。返す言葉を必要としない、夜に紛れてしまう呟きだった。柔らかい声は、多分に眠気を含んでいる。
 幾らスケジュールに余裕があると言っても、彼だって疲れていない訳じゃなかった。こんな時間に連れ出して良い筈がない。
 暗闇を映した瞳が淡く滲んで綺麗だった。散らばる毛先にゆっくりと手を伸ばす。
「……なん?」
 光一が振り返る。世界中の何よりも綺麗なものだと思う。
 こんな人が隣にずっといてくれる幸福を、自分は誰よりも分かっていなければならなかった。
 少しだけ腕を引き寄せて、暗がりでも分かる程澄んだ瞳を覗き込む。確実に毎年綺麗になって行く彼を、ちゃんと自分は繋ぎ止めておけるのかいつも不安だった。消えることのない焦燥を内包したまま、縋るように愛を囁き続けるのだろう。
 俺を見詰める光一の瞳は、普通ならば暗く濁ってしまいがちな底の方まで煌めいて光っていた。純粋を保ち続けるその目に自分が映っている事を確認する。其処に確かにある愛情に安堵して。
 不意に訪れた静かな衝動のままに薄い身体を抱き上げた。
「うっわ!」
 突然地面から離れた事に驚いた光一は、焦った声を上げる。上半身を支えるものがなくて、肩を思い切り掴まれた。
「痛いがな、光ちゃん」
 声に笑いを強く滲ませて言うと、耳まで赤く染めて抗議する。
「お前が、変な事っ……!」
「光一、焦り過ぎ」
 穏やかに笑ってみせれば酷く気分を害したようで、眉を顰めて唇を突き出した。そんな子供みたいな仕草が可愛くて堪らない。悔し紛れの言葉も子供の様だった。
「お前、ヘタレの癖にー」
「光一さんが軽過ぎるだけですよ。少し太った思ったのになあ」
 最近頬の辺りがふっくらして来たし、抱き締めた時の身体の線が変わっていた。それでも細い事に変わりはないのだけど。
「もうええやろ。降ろしてや」
 ぶっきらぼうな口調で突き放す様に言うのは、光一の照れ隠しだと知っている。そんな言葉に聞く耳等持たずで、抱き上げたまま脈絡のない会話を持ち出した。
「今日な、差し入れに果物があってん」
「……え?」
 抱き上げられた気恥ずかしさに気を奪われていた光一は、反応が鈍い。
「くだもの……?」
 酷く幼い発音で呟いた言葉に頷く。薄く開かれた唇を見詰めた。
「食べたら光ちゃんにどぉしても会いたなってん」
 そう言うと、嬉しそうに表情を綻ばせて行く。予想通りの解釈の仕方に笑い出しそうになった。
 多分光一は俺が『この果物美味しかったから光一にも食べさせたい』なんて思って、会いたくなったんじゃないかと思ったのだろう。隣にいない時間に俺が思い出す事を彼は喜ぶから。四六時中光一の事しか考えていないなんて思いもしない。そんな事を考えてきっと嬉しくなったのだろう。
 でも、本当は違う。
 当たり前の愛情等とっくに越えてしまった。俺が抱えているのはもっと深い、欲だ。
 せっかくの綺麗な笑顔を不機嫌に歪めるのは嫌だけれど。そっと光一の唇を指先で辿って本当を渡す。
「果物食ってたら光一に似てるなあ思て」
「何が?」
「ん、味がな」
 ふわふわの表情が分からないとでも言うように少し曇った。
「そしたらメッチャ光ちゃん食べたくなった」
 光一を抱いている時に感じる甘さは、果物と同じ種類のもの。そう思ったらもう駄目だった。舌の上に残った甘みが、撮影中ずっと自分を苦しめるから。
 会いに行こうと思った。
 俺の言葉がやっと脳内で理解されたらしい。嫌な物でも見る様に光一の目付きが険しくなって行く。
「……お前、エロい」
「なぁんで。純粋やろ?フルーツなんて爽やかな感じやん」
「俺を食い物と一緒にすんな」
 剛が俺のいない時間に俺を思い出してくれたのは、単純に嬉しい。けれど、発想がどうにも変態臭いのだ。
「やって、お前のケツ桃やしなあ。何処舐めても甘いし、唇なんかホンマに食ってまおうか思う位やし。乳首やって新鮮な……」
「っもおええ!」
 俺が耐えられない言葉を選んで使っている。剛はどうしてかこんな身体に、と言うか尻に固執し過ぎだと思う。そりゃ、桃好きやけど。
 ……あかん、訳分からんくなってる。
「ええよ、分かった。どんなんが理由でも会いに来てくれたんは嬉しい」
 最近少しずつ素直に言葉を渡す術を覚えて来た。剛が嬉しそうに笑うから、少し恥ずかしいけどそれも良いかななんて思うのだ。
「顔見たら絶対ヤりたくなると思って来たんやけど、会うだけで満足してもうた」
「剛さん、もう若くねーなー」
「阿呆か。お前とやったら俺はじいさんになってもヤれる自信あるで」
「そんな自信、必要あらへん」
 笑いながら視線を絡めて、気持ちが重なり合うのを感じた。同時に自分が『剛の物』であると言う事も、強く。
 きっと今一番の問題は、剛が俺を『自分の物』にしている事じゃなくて、そんな扱いを受けている事が苦痛じゃない自分だろう。『剛もの』になっている自分が嫌いではないのだ。
 二人してどうしようもないと思いながら、今度こそ降ろして貰おうと足掻く。いい加減剛も腕の限界だったようで、すぐに離してくれた。
 その代わり、強く引き寄せられて唇を奪われる。舐める様なキスの仕方は、もしかしたら今日食べた果物の味を思い出しているのかも知れない。
 長い口付けの後、至近距離で見詰め合った。やたらと男前な剛の表情。口許だけを笑みの形にして。
「でもやっぱ、果物より光一の方が美味しいな」
 果糖の甘みなんかじゃない、砂糖のかたまりみたいな言葉を平然と囁いた。

 甘やかされて痛いだなんて。
 幸せ以外の何物でもない。
 二人だけのこの部屋は、いつでもままごとの気配。少しでも均衡を崩せば消えてしまう、脆く甘い匂いがした。
 此処は、御伽話の世界。閉じられた綺羅綺羅の宝石箱の中。手を伸ばせば届く場所にある青い羽根。臆病な僕達は、まだ夢の途中にいる。

 彼の寝起きの悪さにはもう慣れた。毎日繰り返される朝の光景に飽きない辺り、自分は良く出来た人間だと思う。間取り二Kの決して広くはない部屋に、剛の声が響き渡った。
「光一!朝やでー!ええ加減起きんと遅刻するわ」
 まずは一回目。二人分の弁当を作る手は止めずに叫んだ。こんなもんで彼が起きる等とは勿論思っていない。低血圧で夜型人間の寝起きの悪さは、軽く想像を絶していた。
 今日の弁当は、卵焼きとウインナーといんげんのバターソテー。定番メニューはたまに恋しくなるから不思議だ。未だ起きる気配のない光一の白米には、嫌味たらしくハート形に切った海苔を乗せた。我ながら繊細な出来栄えだと満足して、剛は朝食用のトーストをオーブンに入れると二回目に取り掛かる。
 部屋の仕切りは全て襖だった。これではプライベートも何もあった物ではないと他人に眉を顰められた事もあったけれど、自分達にはこれ位が丁度良い。近過ぎる距離。安心出来る不可侵領域。二人肩を寄せ合って生きて行く為に必要な場所だった。
 遠慮も何もなく襖を開ける。光一の部屋は、いつも簡素な雰囲気だった。六畳の空間には、本棚とアルミ製の机と小さな箪笥が一つ。本棚には、職業柄必要なPCシステムの雑誌と、捨てずに残された教育関連の書籍、そして剛の成長を記録した二人だけのアルバムが並んでいる。他の誰も映っていない、二人きりの密やかな記憶。
 その部屋の中央に布団が敷かれている。寝汚い部屋の主は、毛布を抱きしめたまま身じろぎ一つしなかった。声を発する手前で一瞬躊躇する。
 足下で蹲る小柄な姿に見蕩れた。寝癖で乱れた髪も少し伸びた髭も、布団からはみ出した骨張った足も、確かに男の物であるのに。毛布を掴んだ幼い指先や柔らかな髪の間から覗く額に僅かに残る傷跡、薄く開かれた誘う唇、晒された肌の発光しているかの様な白に。惑乱される。
 不覚にも欲情し掛けた自分を自覚して、剛は焦った。制服の裾を握り締めて、己の劣情を遣り過ごす。あかんわ、俺。朝っぱらから何考えてんねん。自分の年齢を考えれば寧ろ当たり前の事なのだが、何せ相手が悪過ぎる。今はまだ、駄目だ。
 すっと息を吸い込んで、今度こそ声を張り上げた。夢の世界にいる彼にもきちんと届く大声。近所迷惑にならないかと、密かに案じてはいるけれど。
「光一さーん!朝ですよー」
 言いながら、細い身体を跨いで窓へ向かう。ベージュのカーテンを開ければ、心地良い朝の光が入って来た。彼にとっては、安眠を遮る強い明かり。
「……うー」
 後ろから呻く声が聞こえて、剛は間髪入れずに光一を包んでいる毛布を剥がす。尚も呻きながら、やっと瞼を持ち上げた。
「お早う。目、覚めたか?」
「……はよ」
「そろそろ支度せんと、ホンマに遅刻するで」
「……んん」
 ぐずる光一の腕を引いて、身体を起こしてやる。其処まで手伝えば、後は身体が勝手に動く筈だった。脳味噌が機能するのは、まだまだ先の事だ。起動の遅いコンピューター。
「俺もう行くかんな。弁当テーブルの上に置いてあるし、ワイシャツも其処に掛けてあるから」
「ありがと」
「なら、後でな」
「うん。……あ、何時?」
「三時半。遅刻せんといてな。昼休みに携帯に連絡入れよか?」
「大丈夫。お前の大事、やもん」
「……うん」
 幼い響きで、それでも真面目な言葉を綴る。剛には、それが少し面白くなかった。贅沢な不機嫌だとは分かっていても、嫌な物は嫌なのだ。
「じゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃーい」
 ひらりと手を振る光一を視界の隅に残して、朝の光が射し込んだ部屋を出た。焼き上がったトーストにバターを塗って、口に銜える。制服のボタンを留めながら、剛は自分の状況に少し笑った。
 朝にこんな時間の余裕がある男子高校生なんかおらんやろなあ。原因は確実に彼にある。睡眠第一と言えば聞こえは良いが、地震が起きても起きないだろう眠り方には辟易した。他の人間だったら、絶対に放っておく。
 鞄に弁当を入れて、家を出た。安アパートの階段は、体重を掛ける度に軽快な音を立てる。住み慣れたこの街の玩具みたいなアパート。二人の記憶が全て詰まった場所だった。蒼天を見上げて、僅かに眉を顰める。強い光に目が眩んだのではなかった。自分と彼の距離を思う度、胸が疼く。
 光一と剛の関係を示す言葉は簡単だった。戸籍にも勿論明記されている。俺達は、『親子』だった。

+++++

 小さな手をぎゅっと握り締めていた。それははぐれない為の物だったし、不安そうな瞳を隠そうともしない子供が伸ばして来た温もりを受け止める為でもある。光一は、今もその体温を明確に思い出す事が出来た。
 あの時は分からなかったけれど、今ならちゃんと分かる。現実を自分の愚かさを、逃げずに理解していた。繋いだ指の先で怯えていたのは自分の方だ。彼は、子供特有の敏感さで一番正しい方法、安心出来る術を差し出しただけ。
 東京行きの最終の新幹線だった。新神戸駅のホームは寒くて、剛にもう一枚着させるべきだったと後悔する。自分の荷物は全て先に送ってしまった。肩から掛けているスポーツバックの中は、剛の物しか入っていない。もう二度とあの家に帰る事はないかも知れないから、と持ち出したい物を全部入れさせた。全部とは言っても、決して多い量ではない。元々持っている物の少なさを示すだけだった。
「寒ない?」
「平気。光ちゃんは?手、冷たいで」
 繋いだ指先を引っ張って問われる。吐き出す息がぞっとする程白かった。
「大丈夫や。俺、元々冷たいねん」
「そうなん?やったら僕があっためたるわ」
 言って笑う剛の目許と口許には、痛々しい傷が残っていた。彼の父親が付けた暴力の証だ。
 ホームに新幹線が滑り込んで来た。手を繋いだまま自由席の車両に乗り込んで席を確保する。窓側に剛を座らせた。シートに凭れると、ほっと息を吐いたのに気付く。緊張しているのだろう。
 一週間前の夜、いつもの様に傷の手当をして一緒に夕食を食べている時だった。母親は、剛の父親に再三の勧告を言いに出ている。児童福祉士を長い事続けている母にとって、近所の家庭環境は放っておけなかったのだろう。自分は多分、そんな母親の影響でこの子供が気になっているんだと思う。
 口の傷に染みるだろうと少し冷ました食事を剛は黙って食べていた。あの父親と二人では、普段碌な物を食べていない筈だ。
「美味しい?」
 光一の問い掛けに剛は頷く。食べる事に夢中な感じだった。子供らしい、本能に忠実な行動。
「……なあ」
 呼び掛ければ、視線だけを向けて来る。目を合わせて、光一は少し躊躇った。子供の瞳、肉親に傷付けられても濁る事のない純真な色を持っている。彼に、果たして告げても良い事なのだろうか。
 自分は来週、東京へ引っ越す事が決まっている。大学生活を終えて、社会人になる為だった。警備会社のシステムエンジニアとして働き始めるのだ。本来なら、言うべきはお別れの言葉の筈だった。
「何?光ちゃん」
 言葉の続きを待っていた剛に促される。その小さな身体の至る所に傷があるのに、彼の目は人を信じる強さを持っていた。環境も何も関係ない、この子供が持っている強い性質だ。
「うん、俺な東京で就職するんよ」
「……そーなん」
 吃驚した顔に安堵した心は、罪に値するだろうか。大人の卑怯を、彼は受容してくれるだろうか。
「でな、剛さえ良かったら……」
 少なくとも、小学四年生の子供に言って良い台詞ではなかった。頭では分かっているのに、言葉は身勝手に零れて行く。
「俺と一緒に、行かへん?」
 目を見る事は出来なかった。一瞬の空白が、光一には永遠の審判の様に感じられる。唇を噛み締めようとした瞬間、呆気無く返答が落ちて来た。目の前には、光がある。
「うん、ええよ」
 まるで、明日遊ぶ約束をしたみたいな軽い同意だった。視線を向けると、大人びた表情で笑っていた。幼い顔に浮かぶ理知的な色に、怯む。
「光ちゃんが連れ出してくれるんやろ?それやったら、東京でもアメリカでも何処でもええ。あの家やなければ、構へん」
 答えた言葉は真剣だった。自分の言葉の意味をしっかり受け止めている。理解して考えて出してくれた結論だ。自分の中にある迷いや罪悪が綺麗に浄化されて行く感覚。剛を、このしっかりした強い子供を、自分が守るのだ。

「剛、一緒に行こう。一緒に生きよう」

 窓の外は暗い。時々明かりが直線を引いては消えて行った。剛は深く眠っている。その表情に翳りは見られなかった。指先は緩く絡めたまま、膝の上にある。
 もうすぐ名古屋に着く筈だった。剛がいなくなった事に、あの父親は気付くだろうか。ちょっと考えて、すぐに無理だと結論付ける。いなくなった事に気付ける位の人間だったら、息子を奪う様な真似はしなかった。この手を取ってしまった以上、手放す気はない。
 多分一番に母親から連絡があるだろう。逃げない事は決めている。本当はそれが浅はかで無謀な事も知っていた。実の親子を引き離すのが難しい事位、母の仕事を見ていれば簡単に分かる。
 今の児童福祉法や児童養護施設に、剛を守る事は出来なかった。ならいっそ、自分が守ってみせる。誘拐犯になっても構わなかった。何を犠牲にしても、この小さな手を守り抜きたい。
 社会人にすらなっていない光一が、剛と二人で生活するのは困難だった。逃げ出したあの夜から八年の月日が経っている。二人の生活を支えたのは、沢山の優しい大人達が差し伸べた手によってだった。
 あの時の不安も芽生えた罪悪も、胸の裡にある。けれど何より強いのは、繋いだ指先を離さないと言う使命感だった。剛は、自分が大人にする。それだけが、自分の夢であり希望だった。

+++++

 会社に着いて、まず早退届を提出する事から始めた。随分前に上司には伝えてある。書類上必要な形式的な作業だった。
 本部で勤務している光一は、直接警備とは関係がない。警備用のシステムのメンテナンスを主に担当していた。設置している施設への外回りはあるけれど、内勤が多くシステム異常等の緊急事態にならない限りは定時で帰る事が出来る。まだ学生の剛と生活するのには、丁度良い職場環境だった。
 書類を提出しに行く為に廊下を歩いていると、後ろから騒音とも呼べる程の大きな足音が近付いて来る。振り返るより先に、足音の持ち主が光一を捕えた。
「光一ー!おっはよー!」
 不意の襲撃を受けて、前のめりによろめく。後ろからこんな大男に乗られては、潰れてしまうではないか。不満たっぷりの声を同僚にぶつけた。勿論そんな言葉が通用しない相手である事は、経験から十分分かっている。
「長瀬!重いっちゅーねん」
「えー、朝のスキンシップじゃーん」
 蛇に睨まれた蛙の様に肩を竦めて、大男は渋々離れて行った。大型犬が飼い主に叱られたみたいな表情は可愛い。しょうがないなあと言う気分にさせるのだから、侮れない奴だとは思っていた。
 彼は、職場で唯一気の置けない存在だ。と言うよりも、上京した光一の数少ない友人だった。何で其処で親友って言わないかなーと、心の中を読まれていたら突っ込まれるだろう。
「ウチの子達は全然嫌がんないよ?パパーって大はしゃぎだぜー」
「子供と俺を一緒にすんな」
 連れ立って歩きながら、背の高い彼を睨み付ける。身長差が邪魔をして、まあそれ以前に光一の顔立ちが愛らしい小動物と同じ物で出来ているから、そんな顔されても怖くない、と言うのが長瀬の意見だった。睨む友人の瞳は可愛いから、余計な事は言わないけれど。
 長瀬と光一の始まりは、入社してすぐの事だった。光一は今でも最初の事を覚えている。新人研修の時に馴れ馴れしく声を掛けられた。同期は他に何人もいたし、長身で目立っていた彼がわざわざ女子にさえ埋もれてしまうんじゃないかと言う(身長は同じ位だけど、勢い的に)自分に真っ直ぐ向かって来る意味が分からない。仲良くなって来た今でも理解出来なかった。
 だって、光一がダントツで好みだったんだもん。あっけらかんと言う長瀬は良い奴だと思うが、言っている事が自分の常識の範囲を超えていた。それでも仲良くなれたのだから、自分もこの規格外の男が好きなのだろう。
 彼の押しの強さは関西の物に似ていた。当時はホームシックになるどころではなかったから思い当たらなかったけれど、多分その懐かしさに惹かれたのかも知れない。強気な姿勢が余り得意ではない自分が、最初から彼の存在を疎ましいと思わなかった。全然タイプの違う人間だけど、波長が合うと言った感じかも知れない。
 一緒に行われた研修だが、自分はシステム管理に長瀬は警備部に入ったから、なかなか会う事は出来なかった。人付き合いの苦手な自分がそれでも関係を続けていられるのは、この友人が見た目の印象よりもずっと繊細で几帳面だからだろう。定時で上がれる自分と違って、四十八時間勤務もこなす警備部は想像以上に大変だと思う。警備の仕事を元気に続けられるのは、守る者がいるせいかも知れなかった。
 ちなみに今は二人の娘に溺愛中で、親友と豪語される自分でも余り構って貰えなかったりする。全然構わないのだけど、ほんの少し寂しいと思ってしまうのは、自分の性質が我儘だからだった。
 こんなお父さんやったら、子供は大らかに育つやろな。また他の家族と比較しそうになって、慌ててその思考を追い払った。他人と自分を比べるのは悪い癖だ。剛にも嗜められた事がある。他人は他人、ウチはウチ。強い息子の言葉を思い出して、弱気な思考を追い払った。
「何?光一。今日早退すんの」
 手に持った書類を覗き込まれる。綺麗とは言えない署名と、形式通りの書面。
「うん。今日、三者面談やねん」
「あー、剛の。あいつ幾つだっけ?」
「おっちゃん、それこの間も聞いたで。高三、受験生」
「ごめんごめん。俺、頭悪いからさ。そっかー、あいつもそんな大きくなったか。そりゃ、俺も年取る訳だ」
 長瀬は、剛が中一の時から知っている。面倒見が良く情の厚い彼は、自分達の生活を知ってから何気なく気に掛けてくれていた。異質な親子関係に口を挟むでもなく、旅行に行けば二人分のお土産を買って来てくれたし、インドアな養父の知らない遊びにも躊躇なく誘ってくれる。
 親友の大事なもんは、俺にも大事。シンプルな発想で生きている長瀬に何度も救われていた。
「長瀬は初めて会った時から変わってへんよ。年取ったようにも見えん」
「それは光一だろ。お前年々若返ってく気するんだけど」
「そんな事あらへんわ。おっさんやもん」
「うん、知ってる。じゃなくて、見た目とか。入社したてん時とか、髪きっちり分けてて、スーツじゃない時も色のない物ばっか着ててさ。手とか唇とか荒れててもクリーム塗るの嫌がってたし。勿体無いなあって思ってた」
「……よぉ覚えとんな」
 あの頃は生きる為に精一杯だった。連れ出した幼い命を自分の手で守りたくて、自分自身の事なんてどうでも良かったのだ。今も本当はどうでも良いと思っていた。元々関心がないと言う自覚はある。
「でも、最近変わったよね。ネクタイの趣味も違うし、前髪可愛いし」
「可愛いって言うな」
「剛のおかげなんだろうな。全部あいつがやってるんだろ」
「……何で分かるん」
 吃驚した顔で見詰められると、苦笑するしかない。何年自称親友を続けていると思っているのだ。光一の身体にフィットする細身のスーツも、物が入っていれば紙袋でも構わないと言う思考の人が持つには機能的なバッグも、ふわりと香るシャンプーの匂いも、丁寧にファイリングされた爪も全部。
 無頓着な光一が出来る事ではなかった。父親の世話を進んで焼いている、マメで凝り性な息子の顔を思い出す。きっと、美容院すら一緒に行って美容師に要望を言っているに違いなかった。顔の周りでバランス良く揺れる茶色の髪は、彼の年齢を分からなくさせる。
「剛は、親の手伝いやから当たり前やって言うんやけどね」
「お前ら、段々どっちが親でどっちが子供か分かんなくなって来たな」
 言った途端、長瀬は後悔した。光一が立ち止まって傷付いた顔を見せる。悲しい瞳。彼の黒い目は吸い込まれそうに綺麗だけれど、いつも罪悪の色があった。消えないその色の原因を知っている。
「……そうやね。剛はしっかりしてるからなあ。しっかりせな、あかんかったから」
「光一」
「あの子をゆっくり育てたいって思ったのに、結局俺が大人になるの急かしてる」
「光一、お前のせいじゃない。おいつは元々しっかりした人間なんだ。知ってるだろ」
「うん。向こうにいた時から、しっかりした子供やった」
 剛は、自分がきちんとしていなければ家庭環境のせいにされる事を分かっている。あんな若い父親だから、と光一に責任を向けられる事を酷く嫌がった。
「今日の三面って、進路の話?」
「うん」
「剛は、どうすんの」
「……分からん」
 暗く沈んだ声。傷付いた顔をさせたくなかった。
「話してないの」
「話そうとは、してる。でも言うてくれん。もう俺は自分の進路位自分で決められる年やから、って。ちゃんと決められたら話もするって。それっきりや」
 剛が光一に話さないなんて、あり得ない事だった。この父親は連れ出してしまったその日から、不必要な罪悪感を抱いているせいで、時々過剰かと思う程息子になった子供の事を理解しようと必死になる。全て理解している事が義務だとでも言うように。
 そんな光一の心を知ってか知らずか、剛は自分の事を何でも話した。学校であった事、夜中に布団の中で考えた事、街で聞いた音楽が良かった事、釣りに行って何が釣れたのか、帰り道に見上げた空の神秘的な色も。何もかも、自分を形成する全ての事を伝えていた。
 基本的にこの二人に隠し事はない。光一は余り自分の事を話さないけれど、それは黙っているだけで嘘や誤摩化しはしない人だった。
 だから、剛の行動は可笑しい。初めての事かも知れない。何か考えがあっての事なのは間違いないだろうが、暗い表情で思い詰める親友を見て掛ける言葉は何も見付からなかった。

+++++

 柔らかな陽射しが射し込む菜園は、剛達のお気に入りだった。学校内の敷地に於いて、これ以上完璧な優しさを有している場所はない。と言うのが親友の見解だった。
 緑が褪せ始め少し肌寒くなっても、昼休みは此処で過ごしている。口数の少ない親友は、本を捲りながら、大して美味しくなさそうにパンを齧っていた。食事に楽しみを見出さない所は、あの養父と似ている。彼の事を思い出して、それから午後の憂鬱な予定を思って、剛は深い溜め息を吐いた。
「……どうしたん」
 やっと本から顔を上げて、隣で膝を抱える陰気な人を見詰める。相談したいのなら、素直に言えば良いのに。手を差し伸べるように仕組む癖は、あの人の甘い教育の賜物だ。
 彼なりに厳しく育てたつもりなのだろうが、最後の最後で甘さが残った。社会的には問題がないし、何より結局苦しむのは優しい彼なのだ。自分が嗜める事でもなかった。
「岡田ぁ、俺どないしよ」
「何が」
「まだ、進路の話してないねん」
「……ホンマに?」
 黒い双眸を瞬かせて、信じられないと言う表情を作った。まさかとは思っていたのだが。決意を固めているのに言葉にしないのは罪に値する。少なくとも、剛と光一にとっては。
 他人だからこそ、目を見ても手に触れても通じない。通じ合わせてはいけない。だから、どんな些細な事でも告げようと言うのが彼らのルールだった。
「言おう言おうとは思ってたんやけど、言えんくて」
「光一君は、大学進学希望しとんのやろ」
「ぉん。公立でも私立でも構わないから、行きたいとこ行けって」
「……ホンマ、良いお父さんやなあ。今時言えへんで、そんなん」
 感心した口振りに剛は嬉しくなる。自分の大切な人が誉められるのは、優越感だった。慣れた感覚のまま笑おうとして失敗する。その、『良い父親』こそが今自分を苦しめているものだった。
 相反する感情に結局剛は表情を消す。優しさも苦痛も、自分の中にある感情を左右するのは光一だけだった。小さな頃からずっと、自分の行動原理は彼にある。
「良い父親なんかやなくてもええねん」
「それでも、光一君は剛君の父親や。良い父親であろうとしてくれてるんやよ」
 静かな声で岡田は嗜める。ついこの間合った時も優しい目で「学校どうなん?」と聞かれた。自分には入り込めない場所での息子の事を心配している真っ直ぐな感情だ。大切にしている愛情しか見出せない瞳。
 岡田は、自分で認識している以上に彼の事を気にしているのだと知った。不器用な仕草で、でも迷わない意思の中剛だけに向けられる白い手が好きだ。
「分かってる。ずっと分かってたつもりやし、これからもちゃんと親子でいなきゃあかん事も知ってるんや」
 剛は、自分の養父である人を愛してしまった。十八にもなれば、自分の恋が気の迷いではない事位分かる。幼い頃から面倒を見てくれた人だ。自分が他人を怖がらずに受け入れられるのは、彼のおかげだった。
 彼に恋とも憧れともつかない気持ちを抱いたのは、自分がまだ幼い頃だった。事務所に入って僅かの、戸惑いがまだあった頃。年齢の近い彼は、その時既に手の届かない存在になっていた。人見知りで他人との接触を嫌う人が、手を伸べてくれた優しさを生涯忘れない。
 あの時からずっと、堂本光一は特別な存在だった。

+++++

 地方公演は楽しい。一緒に食事出来るし、一緒の部屋で過ごす事も出来た。今の自分のポジションはなかなか良いと思う。大っぴらに愛の告白は出来るし、じっと見詰めていても不審がられなかった。打ち上げで隣の席を堂々と陣取っても文句を言われない(若干メンバーの嫌な視線は感じるけれど)。光一のバックと言えばMA、と定着しつつあるのも嬉しかった。
 唯一つ問題があるとすれば、彼の態度だ。俺のこの気持ちを本気にしてくれない。本音とネタの間にある言葉を笑って流された。あの綺麗な顔で笑まれては、何も出来ない。多分、光一には俺の恋を理解する気がないのだろう。
 地方公演の一日目。明日は夜だけだから、と当たり前に打ち上げの店を用意されていた。予約を入れたスタッフによれば「光一さん本人の希望です」との事だ。
 今回のツアーは光一の様子が少し可笑しかった。ステージそのものは相変わらず追い込み過ぎだと呆れる位完璧を目指していたが、現場を離れれば途端に甘えた素振りを見せる。一人を好むのが常なのに、一人になりたがらなかった。接触すら厭う人が、他人の体温を欲しがる。
 飢えた様な寂しさを持て余している瞳で、甘やかしてくれる場所を探していた。どう言う心境の変化なのか、と言うよりも押さえ込んでいた内面を見せられる様になったのだと思う。別に、これと言った変化はなかったから。
 悔しいけれど相変わらず剛君とはラブラブだし、昔に比べれば仕事も自分の意思でこなしている筈だ。きっと、極度の人見知りで他人を信用しない光一君が、やっと俺達に馴染んで来たのだろう。嬉しいと思う気持ちと、素直に甘えられて狼狽える理性が音を立ててせめぎ合っていた。
「光一君、これ食べて下さい。美味しいっすよ」
「いや、もうお腹いっぱい……」
「ビールばっかりじゃないですか!あんなに動いたんだから、もっとしっかり食べないと」
「あ……じゃあ、もずく」
「光ちゃん。もずくで栄養になると思ってんの」
 MAの三人に構われて(絡まれて、か)、隣に座る光一は拗ねた表情を見せる。「だって」とか「いらんもん」なんて言葉を口の中で小さく呟いていた。
 確かに彼は食べていない。食べるのは好きやないけど、この雰囲気の中にいたいんや。何度となく聞いた言葉が蘇って来た。自分だって彼の小食は心配だけれど(必要な時は、誰よりも厳しいと思う)、三対一の状況では光一に付くのが得策だろう。楽しく此処にいたい、と言う気持ちを優先したかった。
「光一君、シャーベット頼みません?」
 なるべく可愛いおねだりを心掛けて、首を少し傾げると明るく問うてみる。この仕草は光一から盗んだものだったけれど。子供の素直さで、膨れていた表情がぱっと全開の笑顔に変わった。
 大好きな、花が綻ぶ様な柔らかい表情。ステージを降りても、彼はきらきらした空気を纏わせる。
「それええな。町田も食べる?」
「勿論ですよ。オーダーだってお供します!」
 力強く宣言すれば、少し困った顔でこちらを向かれた。水分を多く含んだ黒目がちの瞳にどきりとする。
「お前は、いっつも俺が好きやなあ」
「大好きですよ!いつだって僕は、光一君の味方です」
「うん、知ってる。……たまに怖いけどな」
「それも愛故です」
 真顔で答えれば、声を上げて笑われた。一瞬不貞腐れてやろうかとも思ったけれど、せっかく楽しそうに笑っているのだから押し留める。彼が信用しないのは、俺がなるべく言葉を軽い響きで渡しているからだった。臆病なのは仕方ない。勝ち目のない恋なら、良い後輩でいたかった。真っ向勝負をする気もない癖に、光一だけを詰るのはお門違いだ。
「オレンジとゆずとどっちが良いですか?」
「うーん、町田は?」
「俺はどっちも好きなんで」
「そっか。……じゃあ、お前ゆずな。俺、オレンジ」
 こんな時だけ先輩らしい居丈高な態度で、勝手に決められる。勿論、それに異論はないから店員を呼んですぐに注文した。光一は皿に取り分けられた唐揚げを食べるともなしに箸で弄っている。
「光一君、全然食べる気ないでしょ」
 正面に座る米花は優しく咎めると、箸を持っている白い手の甲を柔らかい仕草で叩いた。言われた事は間違いないので、また唇を尖らせて不貞腐れる。甘えたいのだと、その横顔を見てつくづく思った。一人になりたくないから、構って欲しい。誉められるのは怖いから、叱って欲しい。一足先に大人にならざるを得なかった子供は、今になってやっと愛情を素直に欲する事が出来たのかも知れない。
 ずっと押し込めていた衝動。家族には甘やかされて育った印象がある人だから、この世界に入ってどれ程の我慢を重ねたのか。あんな小さい頃に親元を離れるなんて考えられなかった。意地を張って誰にも弱みを見せずに立っていなければ、今の位置まで上り詰める事は出来ない。
 十年以上前の大人びた表情が蘇った。「町田は頑張ってるよ」そう言って厳しい目許を少し和らげた。あの時どれ程自分が救われたか。きっと彼には理解出来ないだろう。些細な出来事だった。でも、あの時の気持ちがあるから今の自分がいる。何も知らずに唯バックに付いているだけだったら気付かない彼の優しさ。他人には威嚇とも思える程、張り詰めた空気を見せる人だった。それが自分を守る為の虚勢だと言う事も今なら分かる。注意深く見ていなければ知らなかった事ばかりだ。
 あの時から随分と長い時間が経ってしまったけれど、その横顔は多分子供の頃より幼い。無防備に甘えて、傍若無人な振る舞いで我儘を言った。けれど、座っている場所からも分かる様に、誰にでもその表情を晒している訳ではない。光一を囲む席配置は、決して彼の奪い合いの為ではなかった。  
 新しいスタッフもいて女性ダンサーも舞台等で馴染んだとは言っても、彼の性格から甘える事は出来ない。舞台の上で接触するのは平気なのに、其処から離れると途端に臆病になった。ずっと不思議に思っているのだけれど、光一は少し女性に対して引いている所がある。嫌いとまでは行かないが、不必要に近付かなかった。アイドル故の対策かと考えた事もある。けれど、自分が知る限りこの事務所に所属しているからと言って女性と付き合うのが駄目な訳ではないし、まして友達付き合いを止められた事はなかった。自分にも女性の友人はいるし、今はいないけれど彼女だって勿論作っている。
 剛と付き合っているからと言って、光一はゲイではなかった。潔癖な所のある人だから、同性愛は精神的にも拒絶しそうな位だ。許せるのは、剛だからと知っている。そんなに何もかもを許容してしまうのを凄いと思った。長年連れ添ったパートナー。自分には仲間がいるし、グループが違っても仲の良い友達は事務所の中にもいる。一人だと感じた事はなかった。それ以上に、二人きりだと感じる苦痛も知らない。未知の感覚だった。
 彼らは幼い頃からずっと二人きりだ。友人も親友もいるけれど、究極の所で言ったら二人だけで生きて来た。誰とも手を繋ぐ事は許されず、それが世界の秩序の様に互いだけを信用している。傍目には美しい愛情だけれど、趣味も嗜好も違う二人が狭い鳥籠で生き抜くのは辛かっただろう。冷めた表情は、全ての感情を押し止めた理性だった。望まなければ絶望を知らずに済むと言う諦念は、忍耐力ではなく唯の苦痛だ。
 そうやって生きて来た人が、今隣で笑顔を見せてくれるのは嬉しい。二人きりじゃないと気付いてくれた。自分はずっと光一の背中を見て来たけれど、あの初めて言葉を掛けてくれた時には既に剛と共に生きていたのだ。嫉妬ではなく、自分は一人きりの光一を見た事がないのだとぼんやり思う。たった一人で立っていた頃の彼を想像しようとして失敗した。分からない。今の光一は、剛と歩いて来た道程で形成されて来た。もし一人で生きていたらどうなっていただろう。今とは全然違う人になっただろうと思うけれど、その先が描けない。剛のいない光一。光一のいない剛。どちらも想像を絶していて、形にならなかった。
 改めて、堂本光一と言う人格を考えると相方の影響力を思い知らされる。悔しいと少しだけ思って、でもと考え直した。臆病な彼が、一人きりじゃなくて良かった、と。大分長い事一緒に過ごした自分達ですら、やっと光一の領域に入る事が出来たのだ。簡単に心を許さない事は、この世界での処世術だけれど彼は余りに頑なだった。自分達が強引にそして辛抱強く傍にいたから許される関係。言葉すら交わす事の出来なかった人が、今手の届く所にいる。それだけで幸福だと、強欲な自分は思えないけれど。少しだけ神様に感謝したくなった。
「町田ー」
 不意に呼ばれて、固まってしまう。気の抜けた呼び方。呂律が怪しいのは、食事もせずにアルコールばかりを運んだせいだった。幼い響きに苦笑して、固まった身体を光一へ向ける。
「はい?」
「もう俺いらんー。食べて」
 オーダーしたシャーベットは、自分の手で一瞬でなくなった。こんな小さなデザートすら食べられない光一が本気で心配になる。普段も食べない人だけど、公演中は更に食欲が落ちた。舞台中は話に聞くだけだから、実感が余りなかったのだ。けれど、今回のツアーは一緒にいる時間が長いから彼の生活が見えてしまう。これだけの摂取量で、どうしてあんなに踊れるんだろう。いつか本気で舞台の上で死んでしまいそうで、怖くなる。
「もう少し食べた方が良いっすよ」
 屋良がすかさず口を挟んだ。人の事を言える程食べている訳じゃないけれど、少なくとも光一よりは彼の方が食べている。人に指図されるのは嫌いな癖に、わざとらしく顰めた眉と反対に堪え切れず緩んだ口許が彼の心情を物語っていた。
「こんなに食べれんもん、俺。腹壊したらどうすんの」
「そんなもんで壊す訳ないでしょ。……って、何シャーベットに力入れてるんだ俺」
 食べさせなければと言う事にばかり意識が向いている事に気付いて、自問自答している。考えるの苦手な癖に。頭を抱える屋良を置いて、素直にシャーベットを受け取った。
「じゃ、頂きますね。うわー、光一君と間接キスだ。どうしよ、俺」
 少しだけテンションが上がって(実際に想像するのはやめた。薄桃色の唇に銀色のスプーンが滑り込む映像なんて、身体に悪過ぎる)、光一を見詰めたまま食べる。ひやりとした感触と、オレンジの甘い味。光一と同じ匂いだと思うと嬉しくて、へへと笑ってみた。それはいつも通りのやり取りで、いつも通り流される筈の感情だ。彼を好きな気持ちは本当だけれど、迂闊に本音で迫る事は出来なかった。
 けれど次の瞬間、光一はその場に相応しくない表情を見せる。悲しみを堪える痛ましい瞳と、下唇を噛み締める白い歯。どうしたのか分からなくて、ひやりとした。何か彼を悲しませる事をしただろうか。楽しい席で、いつも通りの軽口と一人だけ飲むアルコール。自分に落ち度はなかった筈だ。
「……町田さん」
「っはい!何ですか」
 弱い声を恐れて返した言葉は、みっともなくひっくり返ってしまった。情けない。前に座る三人も、どうしたものかと固まっている。光一の周りだけ雰囲気が変わってしまった。困った顔で真正面から見上げられると、どうしたら良いのか分からなくなる。
「俺、ずっと思ってたんやけど」
「はい」
「俺は楽しいからええの。会場盛り上がるし、飲み行っても盛り上がるし。でもな」
「はい」
 言いたい事が分からず、素直に返事をした。仕事以外での、特に自分の感情を言うべき場所で彼が要領を得ない喋り方になるのは知っている。内面を言葉にするのが苦手だった。
「そんな無理せんでええよ。せっかくお前も仕事終わってご飯来てるんやからさ」
「……何がですか?」
「え、やから。頑張らんでええって事」
「主語が抜けてます」
「あー、えと」
「はい」
「俺ん事好きなキャラは、舞台の上だけでええよ。ずっとそんなん演じてたら辛いやろ?普通にしててええよ。そやって嬉しい振りしたり緊張したり、お前気ぃ遣い過ぎや。MAが気ぃ遣いなんは知ってるけど、俺と一緒におる間そんなんやと、大変やん」
 言われた言葉が瞬時に理解出来なくて、シャーベットを置いた。辛い?気を遣っている?彼が他人の感情に疎いのは知っていた。自分が意識してネタの様に振る舞っているのも自覚している。けれど、これは。
 自分の愛情を全て否定された気分だった。光一は自分が人に好かれる人間ではないと思い込んでいる節がある。誰にも愛されない。剛しか愛してくれない。それはほとんど自己暗示だったけれど、だからこそ自分は柔らかく愛情を示して来た筈だ。剛の熱情も秋山の包容力も自分にはなかった。それでも自分が本当に彼を尊敬して、親愛の念よりも少しずれた感情で思っている事を信じて欲しい。裏切られた気分だった。
「俺の今までの言葉、全然信じてなかったんですね……」
 怒りよりもショックが強過ぎて、上手く言葉にならない。光一なりの優しさだったのかも知れないが、見当違いだった。人の感情を全然分かっていない。
「町田?」
「俺は、光一君の事が好きです。振りでも何でもなくて、唯好きだから好きって言ってるし、一緒にいたら嬉し過ぎて緊張します。何処にも嘘なんかなかった。演技なんかしてない。俺っ……」
 その先は言葉にならなくて、唇を噛んだ。小さい頃から憧れて来た人。手に入らないと知りながらも、愛したいと願った人。大切に捧げて来た思いを否定された気持ちに陥って、席を立つ。これ以上此処にいたら、どうしようもない事を言ってしまいそうで怖かった。信じて貰えないのは分かっていたけれど、それならもっと真剣に愛を告げた方が良かったのかと考えると違う気がする。
「俺、少し頭冷やして来ます」
 立ち上がって、席を離れた。日本家屋の作りになっている個室は、部屋を出なくても庭に面した縁側に出る事が出来る。声を掛けて来るスタッフに適当な返事をして、障子を開けた。どの地方に行っても夜はもう冷える。硝子を通して伝わる冷気が縁側になっている廊下を満たしていた。頭を冷やすには丁度良いと一人笑った。打ちのめされた気分のまま、板張りの床に座り込む。何処で間違えたんだろうと、答えのない思考に嵌って行った。

「なあ、あれ。俺のせい?」
「そうです」
「当たり前です」
「言葉が足りない癖に、どうして一言多いんですか」
 一斉に責められて、負けた気分になる。この席配置では、自分の分が悪かった。否、席の問題ではないようだ。
「生まれ変わったら、また出会えるとええね」
 剛の夢見がちな台詞を怖がらなくなったのは、いつからだろう。その瞳に俺が映っていない気がして、もっときらきらした何かを見詰めている気がして、いつも怖かった。
 そのきらきらはきっと、剛が描いた『堂本光一』の理想像だろうから。
 今は怖がらずに、うっとりと細められた瞳を見詰め返す事が出来る。ベッドで腕枕をされたまま、間近にある彼の肌に触れた。
 男の身体だった。それに抱かれて安心する自分を、否定する事すらもうしない。けれど、出来る事ならばと思う自分もいた。
「そーやなあ。また会ってもええけど、そん時はどっちかが女やとええね。そしたら幸せやんなあ」
 どうせ、何度巡り会っても恋に落ちる運命なのだ。それならば、今度生まれ変わる時は、幸せになりたい。彼を、幸せにしてやりたい。どちらかが女だったら、この恋は正しい物だったのに。
 胸に当てた掌から体温が伝わる。彼の温度すら正確に記憶しているこの恋を、否定される事は辛かった。
 少しだけ黙り込んだ剛が、困った顔をして手を伸ばす。柔らかい仕草で髪を撫でられた。甘える様に、身体を剛に近付ける。
 そうすれば、当たり前みたいに抱き締められた。素肌が触れ合う感触すら馴染んだ物だ。安堵の溜息を零す。
「光ちゃんは、幸せになりたかった?」
 腕の中から見上げれば、甘い声の響きとは裏腹な寂しい瞳。深く淀んだ沈黙の黒。彼を悲しませてしまったのかと、反射的に後悔する。
 剛の胸に額を寄せて、目を閉じた。自分の何処が痛んでも構わないけれど、彼が悲しいのは嫌だ。
「ちゃうけど、でも……」
「でも?」
 言葉の続きを促そうとする指先が、俯いた俺の項を辿る。そのまま素肌を覆う様に、シーツで優しく包まれた。あやす仕草。甘やかす指先。
 そっと耳朶に口付けられて、仕方なく口を開いた。掠れた声は、小さく震えている。心の奥にある、怯えた自分だった。
「俺かお前が女やったら、お前は苦しい気持ち抱えんで済んだ」
「……そうやね」
 剛は否定しない。苦しんだ彼が過ごした十代を、お互い知り過ぎていた。呼吸を止めそうな位傷付いて泣いて、それでもやめなかった恋。
 過ちなのも間違いなのも分かっていて、今もまだ一緒にいる。何もかも自分達が選んだ生き方だった。
「もう後悔なんてしてへんし、今更離れたいなんて言わん。でも、今度があるんなら……」
 包まれた腕に縋る。俺達は、何度でも恋をする。輪廻も運命も、本当は信じていないけれど、此処に在る気持ちは本物だ。
 否定して逃げ回って、そうして諦めた。この恋は、理性や意志なんかでは消せない。
 宿命だった。
「ホントは、お前を幸せにしてやりたい。楽に生きて欲しい」
 元々ストレスを抱えやすい繊細な人だった。秘めた恋を心臓で飼うには弱過ぎる。どれ程強く抱き締めても、彼の痛みは変わらなかった。泣き濡れた顔を今でも鮮明に覚えている。
 もっと、簡単に生きる方法は幾らでもあった。出会わなければ、剛はこんな崩れそうな笑い方をしなかったと思う。
 鼓動の音。彼が生きている証。こうして、傍にいて確かめられる時しか安心出来なかった。別の場所で生きている時、もうこの体温はないのではないかと不安になる。二度と抱き締められないのではないかと、心臓の片隅がいつも凍えていた。
 縋った腕を優しく解かれて、そっと指先を絡められる。穏やかな動作だった。
「……俺は、生まれ変わっても男でええよ。幸せやなくても、上手く息出来んくても、お前に会えるならええ。堂本光一が、また一緒に歩いてくれるんなら、俺は良い」
 深く笑みを刻んだ気配。その心臓は規則正しいリズムだった。真っ直ぐな言葉が、胸を灼く。
「幸せやなくても良いって、……そんなん」
「あかんか?」
「剛には、幸せになって欲しい」
「俺は、光一を幸せにする気なんてあらへんよ」
 それでもええの?問うた声は、暗く淀んでいた。彼の中にある光の届かない暗い場所からの言葉。
 未だ一緒に堕ちる事の出来ない、不可侵領域だった。
「俺は、お前が一生罪悪感抱えたまんまやったらええのに、って思う。幸せなんかやなくて、ずっとずっと俺ん事で苦しんでて欲しい。……こんな俺を幸せにしたいなんて、言うな。俺は出来ん」
 きつく掻き抱かれて、息が詰まった。乱れた呼吸は、彼の心そのままだ。雁字搦めに縛り付けて、死ぬまで離さないなんて、呪縛の言葉じゃない。
 それは、愛の告白だ。
「生まれ変わっても、俺が男でも、また好きになってくれるん?」
「ぉん。何度やって、好きになる」
「……なら、俺らは何度でも一緒になってええんやね?」
「そうや」
 力強い肯定と、深い口付けを与えられた。祈りのキスは優しくない。感情の深さを示す乱暴な行為だった。
 俺らは、幸福な星の元には生かされていないらしい。何度でも傷付いて、それでも離れる事は出来ないんだろう。
「……つよし」
「ん?」
「好き、や」
「俺らの行く先が何処でも、絶対手放さん」
「死ぬまで、一緒?」
「死んでも一緒や」
 嗚呼、やはり彼を幸福にしてやりたい。何処に行けば、俺達はこの痛みを無くす事が出来るのだろう。
 優しく眠れる夜なんて、何処にもなかった。
 なあ、剛。俺、思うんよ。
 毎日仕事して、帰ってご飯食べて眠って、時々お酒を飲んで。永遠に続きそうな日々の積み重ねをたった一人で繰り返して行く事はとても簡単なのに。どうして、その毎日に剛が必要なんだろうって。
 勿論仕事をする上で、「相方」として単純に必要だとは思う。けれど、呼吸をする為に生き続ける為に、自分には剛が必要だった。その意味を、お前は知っているだろうか。
+++++
 日付が十日に変わった深夜、光一はこっそり恋人の家に忍び込んだ。侵入者に気付いたケンシロウが近付いて来たけれど、心得ているとばかりに鳴く事はない。足元に擦り寄って来る柔らかい毛並を撫でると、真っ直ぐ寝室に向かった。
 連絡はしていない。きっと来る事は分かっているだろうし、せっかくの誕生日に気を遣わせたくなかった。
 静かに扉を開けて寝室に滑り込む。家で風呂には入って来たし現場で夕食も摂ったから、後はもう寝るだけだった。
 いつでも少しだけ空いているスペースに(剛は右側を、自分は左側を空けて眠るらしい。全く厄介なものだ)潜り込む。剛の体温で温まった布団の中は心地良かった。冷えてしまった身体を擦り寄せる。
 闇に慣れた目で剛の寝顔を見詰めた。子供の様に無心なその表情は幸せな、とまではいかないが安心して眠れている様だ。
 顔に掛かった前髪を冷たい指先で掬い上げた。剛が此処に在る奇跡に感謝する儀式。誕生日の夜にひっそり行う様は、さながら敬虔なクリスチャンだ。
 彼がその生に感謝出来ないと言うのなら、自分がその分もその何倍も喜んでやろうと思った。堂本剛と言う存在がこの世に生を受け、今日まで自分の隣で生きて来たこの事実。離れずに離さずに縋り付いて来た自分の我執は胸の奥に仕舞い込んで。
 二十六歳になった彼は、昨日と何も変わらない。二十五歳の最後に交わした言葉はいつも通り「お疲れ」だった。日付を境に何かが変わるなんて期待するのは、寧ろ剛の方だ。
 それでも一つ年を重ねた恋人が、もっとずっと愛しいと思う。彼への思いは、日々を生きる中で呼吸をする事と同義だった。
 この思いがなければ生きて行けない。否、生きては行けるだろうけど、それは文字通り「生きる」だけだった。
 剛を愛し続ける事。虚構だらけのこの世界で、たった一つの真実だった。彼が好きだと思う。凄く。
 目を閉じて、祈る。その生が自分と共に在る様に。剛が早く、自分の生を愛せる様に。
 大好きだと、簡単には告げられない自分だけど。いつもいつも、心から思っていた。
 愛してる。愛してる。愛してる。
 心拍の度に、呼吸の度に、ずっと。唯ひたすら。俺にはそれしか出来ないから。剛を彼自身の闇から救い出す術は今でも分からなかった。
 いつの間にか彼の中に巣食っていた黒い塊に、自分の事ばかりで精一杯だった俺は気付かなかった。知った時にはもう、手遅れで。それは既に彼の一部と化してしまったのだ。十代の剛は、ずっと闇の中で生きていた。
 俺が泣いても叫んでも必死で腕を伸ばしても届かない。深い心の底は、見通せなかった。剛の声は返って来ない。
 あれから幾度の春秋を経て、いつの間にか彼は自分の隣に帰って来ていた。本当に、ひょっこりと。何でもない顔で「ごめんな」なんて笑いながら。
 二十歳を過ぎてから少しの間は、平穏な日々が続いた。剛は良く笑ったし、手を伸ばせばしっかりと握り返してくれる。ささやかで幸福な日常が自分のものだと錯覚しかけた頃。
 剛の闇は呆気なく彼を連れ戻してしまった。どちらかと言えば、心の奥底に押し込んでいた塊が再浮上してしまった素振りで。まるで躁鬱の様に、彼は喜怒哀楽が激しくなった。十代の頃の後悔を繰り返さない為に、それはもう必死になって剛を引き留めた。
 抜け出せない心地良い闇と、目の眩む一条の光と。今も剛は両極の世界を彷徨っている。
 眠る彼の表情は穏やかだ。せめて今日位、光の中で生きて欲しかった。ささやかで我儘な願いが叶えられると良い。
 瞼にキスをして、最後の祈りを捧げた。
 剛が、好きです。だから神様、どうか。剛の隣を俺に下さい。彼が欲しいだなんて、もう言いません。
 その心を狂った様に欲した自分も未だ心の深い所にいるのだけれど。剛の幸せを願いながら、身勝手な祈りを捧げる自分は誰よりも罪深い。
 死んだ後、地獄に行ったって構わないから、だから。せめて、この地上では共に生かして下さい。
 心拍の度に、呼吸の度に、瞬きの瞬間にすら、愛を囁いて。こんなにも剛を必要としている人間は、この世で唯一人自分だけだと思う。
 なあ、剛。朝目覚めたら誰よりも先に俺をその瞳に映して。世界中で一番初めに俺を見詰めて。俺に気付いて。
 そうしたら「おめでとう」って笑うから。何の事か分からないなんて表情を見せる貴方にキスをして。祝う意味を知って。
 二十四時間祝い続ける事なんて自分には出来ないから、朝の一時だけ貴方の為に祈らせて欲しい。そしたらもう、次の瞬間にはいつも通り「おはよう」って言うよ。
 いつか剛が気付くまで、ずっと。その生を祝福し続けるよ。
 剛を取り巻く全てに。
 おめでとう。
 まだ、光一の笑顔が特定の人にしか向けられなかった頃。恐らく、その花の様な笑顔を自分が一番見ていただろう。
 少しの優越感の下で、まだ認めたくない恋心を抱いていた。もう、この気持ちに抗う事など出来ないと知りながら。
「つよ?もうやらんの」
 ダンスの練習を休憩していた剛の所へ、頭にタオルを被った光一が近付いて来た。流れる汗の滴と顔に張り付いた長い髪が、やけに色っぽい。
「も、帰るか?」
 練習等、とっくに終わっている。誰もいなくなってから練習をし直す光一と、それに付き合う剛の姿を知っている者は、ほとんどいないだろう。
「光ちゃんの気が済むまで、やったらええよ。俺此処におるし」
 剛の言葉にふうわり笑って、光一がタオルを外した。一つ一つの仕草が可愛くて、普段見せているクールな印象等何処にもない。年上の男に抱く感情ではないと思ったが、つられるように剛も笑みを返す。
「帰ろ」
 単語だけで告げられる言葉。
「腹も減ったし。明日は、帰らなあかんしな」
「何やねんなあ。もっとやってたいんやろ。俺見とるから、練習したらええねん」
 光一を見ている事は飽きないから、苦痛にはならないのだ。
「ん、でもいい。帰りとうなった」
 帰りたいと言うのが本当かどうかは分からなかったけれど、さっさと帰りの仕度を始めてしまう。バッグに荷物を詰め込んで、光一が立ち上がった。
「……光ちゃん。ジャージのまま帰るんか?」
「ええやろ?帰るだけなんやし」
 光一は自身の容姿にひたすら無頓着で、どうすれば自分が映えるのかを知らない。勿体無いとは思うが、彼のそんな所も魅力の一つなんだろう。
「まあ、ええわ。帰ろか」
「うん」
 レッスン室の電気を消して時計を見ると、十時を回っていた。腹も減る訳だと剛が一人納得していたら、向こうから誰か歩いて来るのが見えた。
 人見知りの剛は、その姿を見て拒絶反応を起こしそうになる。しかし、それ以上に体を強張らせて他人を拒絶する光一の体が後ろに回りこんで来たから、しっかりしなければと言う気持ちの方が、人見知りする気持ちよりも勝ってしまった。
 光一と二人だけの時に人に会った場合、剛は自分の緊張等お構いなしになってしまう。
「お疲れ様でした」
 挨拶は基本中の基本だと、散々教え込まれていた。
「お疲れさん。こんな遅くまで練習してるの?熱心なんだねえ」
「はあ」
 上手く返答が返せないのは、仕方がない。
「もしかして、関西から来た二人組って君らの事?」
「多分そうですけど……」
 気さくな人らしく立ち止まって話をしてくれているのだが、剛としては非常に不本意だった。
(早よ、行ってくれや……)
 それでもどうにか会話を続けられているのは、なかなか成長したと自分で思う。しかし、隣に立っている光一が、俯きかけたまま動けないでいた。この世界に入って、彼も大分人見知りをしなくなったのだが、まだ突発的に会った人にはぎこちなくなってしまう。
「そっちの子、疲れちゃってるんじゃない?」
 やっと光一の様子に気付いて、話を切り上げてくれた。
「ごめんね、話なんかしちゃって。気を付けて帰りなさいね」
「はい、ほな失礼します」
「……お疲れ様でした」
 光一がやっと聞き取れる位の声で、挨拶をした。
「じゃあねー」
 元気に挨拶をしてくれたが、剛は光一を連れてエレベーターへと急いだ。
「すまんな」
 申し訳なさそうに光一が呟いた。
「ええって、気にせんとき。辛い時はお互い様やん。たまにはこんな光ちゃんもええしな」
 頭をポンポンと軽く叩く。エレベーターに乗り込んでも俯いたままの光一が、ぽつりと言った。
「俺、剛大好きやなあ」
 その言葉に他意がないのは、充分分かっている。それでも、嬉しくなる自分を感じながら、剛は光一を抱き締めた。
「俺も大好きやー」
「おい、つよっ。抱き着くなって。俺、汗臭い」
「光ちゃん、ええ匂いするで?」
「だあっ。匂いかぐなあ、阿呆っ」
 思い切り抱き締めて、告白をする。この鈍感な人に届かないのは、分かり切っている事だから気にしない。本当に彼は、良い匂いがした。くらくらする。
(俺って、変態やんなあ)
 髪の毛に顔を埋めると、いつものシャンプーの匂い。湿った髪が、鼻先をくすぐる。光一の背中を撫でてから、離れた。
「大好きやで」
 念を押す様にもう一度、目を見ながら告げる。隠された気持ちはまだ包み込んで、優しさだけが届く様に。
「うん、知っとるよ」
 何て、綺麗に笑うのだろう。心を許した者だけに見せる、花の笑顔。想いが伝わらなくても、この笑顔を見ていられるのなら良いと思う。自分にだけ向けられた表情は、何物にも代え難い宝物だった。
「つーよし?着いたで」
 固まってしまった剛の顔を覗き込みながら、足取り軽く光一が降りる。
「行ってまうよ?」
 まだ動かない彼の為に、エレベーターのボタンを押しておく。半秒後、我に返ったかのように剛が降りた。
「光一」
「ん?」
 建物を出て、街灯だけが明るい道を二人で歩く。肩を並べて隣を歩くこの人に、何と言えば伝わるだろう。幸せだと告げれば良いのだろうが、それだけでは余りにも足りない。言葉では言い尽くせない想いを、どうすれば分かってもらえるのか。
 光一が大切だと、過不足なく伝えられる方法を自分は知らない。
 続くだろうと思っていた言葉が来ないでいるのを不思議そうに見ている人。首を傾げながらもじっと待っている光一の髪を緩く掴んで、立ち止まる。表せない想いを言葉を、この人ならどう言うだろう。
「あのな」
「うん」
 街灯に照らされて、淡い印象が儚さを増す。
「どうすればええ?」
「何が?」
 困らせるのを分かっているのに、それでも伝えたかった。恋じゃなくても良いから、光一への愛情をどうすれば。
「分からんねん」
「うん」
「此処にな、言いたい事はあんねん。でも、どうしたらええんか分からん」
 心臓の辺りに手を当てて言う。
「光一に言いたい気持ちはあるのに、どうしたら伝えられるか分からんのや」
 視界が滲んだと思ったら、すぐに涙が零れた。光一が大切で、光一と一緒にいられる時間が幸せなのに、どうして涙が止まらないんだろう。
「っく、……ひっく」
 しゃくりを上げて泣く剛に困った顔も見せず、光一は微笑む。
「剛はきっと知っとるよ。俺にどうすれば伝わるのか」
 自信に溢れた言い方の根拠が、何処にあるのかは分からない。光一自身、はっきりとした理由には思い当たらなかったが、自分の心には確かに彼から伝染している気持ちがあった。
「剛、しゃがんでみ」
 変わった事を言うのは今に始まった事じゃないし、今の自分をどう扱ったら良いのかも分からなかったから、言われるままに歩道の真ん中でしゃがんだ。
「これ、通行人にメッチャ迷惑やないか?」
「大丈夫やって。時間ももう遅いねんから」
 光一は、見上げて来る剛の前に膝立ちで座る。目線が合わないと思っていたら、ぎゅっと抱き締められた。
「光ちゃん?」
「ホントは立ったままで出来たらええんやけど、タッパが足りひんからなあ」
 上から降って来る声は優しくて、また涙が零れた。聞こえるのは、静かな鼓動。少しだけ、くすぐったい。
「な、剛。お前はきっと難しく考え過ぎなんやって。もっと楽にしてみ」
 光一の背中に手を回した。
「俺な、きっと分かってるんやと思うよ。剛の伝えたい事」
「ホンマに分かるんか?」
「何や、その言い方。他の人のは絶対分からんけど、剛やったら分かる自信ある」
 時々、彼は素直に自分との繋がりを強調する事がある。呆気無い程簡単に紡がれる言葉は、容易く剛の心に届いた。
 こうすれば良いのだと。言葉にし切れなかった思いをお互いにきちんと汲めるのだから、もっと単純に思えば良い。
「何かな、心がふわふわするねん。光一といると光が差し込んだみたいになる」
「うん。分かるよ」
 光一は、きっと本当に分かっている。
「お前がおるだけでええねん。光一の隣にいたい。光一がいないと、暗なんねん。周りが全部」
「うん」
 慎重に頷かれる。回された腕が微かに震えた。
「光一がおらんと嬉しゅうない。光一がおらんと、生きて行けへんのやないか思うわ」
「大袈裟やなあ」
 そう言って笑い飛ばすけれど、耳に響く鼓動が、しっかり伝わっている事を教えてくれる。
「好きじゃ、足りひん」
「うん」
「俺には、光一だけが必要なんや」
「プロポーズやん、それ」
 軽く笑う。
「やって、そおやもん。光一と一生一緒にいたいんや」
「恥ずかしいやっちゃなあ」
「光ちゃんは、嫌か?」
 下から光一の表情を窺うと、照れた様にはにかんでいるのが見えた。
「嫌ちゃうよ。俺はな、つよといると、暖ったかなる。俺も剛がおらんと駄目になる思うわ」
「ホンマに?」
 光一の言葉を受けて、目線を合わせるべく膝立ちになった。肩に手を置いて、額をくっ付ける。誰も通らない静けさに、本当に自分には剛だけが必要なんだと思ってしまう。そんな事、あってはならないのに。
 錯覚しそうな心を押さえようと、光一は目を閉じた。
「光一、今幸せ?」
「ん」
「俺といるから?」
「そおやな」
「ふふ」
 一方的ではない気持ちを確認して、それでも収まらない心に押されるように、彼の額にキスをした。
「なっ、何すんねん!」
「誓約の儀式」
「阿呆かっ」
 真っ赤になってしまった光一の手を取って、帰り路に促す。
「ずーっと、一緒やで」
 満足げに笑う剛と、光一の想いが少しずつずれていたとしても、幸せだと感じるのは同じだった。いつか、この鮮やかな笑顔を独占したくなる日が来るだろう。彼が傷つく事を分かっていても、止められない想いが溢れ出す予感を剛は感じていた。
 二人の関係がいつまでも同じではない事に、光一は気付かない。それでもいつかが来るまでは、一番近くでこの笑顔を守っていよう。
 肩を並べて歩く人を、もう一度見詰め直した。
 剛は深海での呼吸を覚えてしまった。
 苦しみ抜いた彼が見つけたのは、光一が決して辿り着けない場所だった。

+++++

 剛の部屋のソファで俯せになっている光一は静かに溜息を吐く。この場所に足を踏み入れた瞬間から手持ち無沙汰だった彼の、感情を読み取り辛い瞳の先には、ギターを抱えたいつも通りのスタイルで構成表にカラフルなペンで書き込みをしている相方の姿があった。仕事を終えて真っ直ぐ此処に帰ってから、一度もまともにこちらを向いてくれない。
 いつもの事と諦めて最初の内はケンシロウと遊んだり熱帯魚に餌をやったりしていたのだが、遊び疲れたケンシロウは眠ってしまい熱帯魚にも早々に飽きてしまった。結局一人のままの光一は見詰める事以外、本当に何もする事がなくなってしまったのである。
 時間は既に深夜へと足を踏み入れていた。剛は手許から視線を上げない。
 此処は決して俺の立ち入る事の出来ない領域だった。支える事も見守る事さえさせて貰えずにいる。俺は、剛の音楽に必要ない存在だった。
 一人で闘っている彼の傍に光一の姿はない。それは覆される事のない現実だった。
 こうして彼は俺を置いて行く。心に積もった痛みは、見過ごせない所まで来ていた。剛の与える物ならこの痛みすら愛しいと思うけれど。自分の存在を排除された場所に留まるのは苦痛だった。
 ソロコンサートの事にだけ集中している剛は前向きだ。苦しさは変わらないのかも知れないけれど、その瞳はきちんと未来を見詰めていた。
 長時間コンタクトをしているせいで霞んで来た視界に映る剛の横顔は「独り」だった。誰の手も要らないと、光一の手は必要ないとはね除けられる。
 苦しかった。彼が指先をほんの少しでも伸ばしてくれたら、自分は何があっても何を捨てても助けに行くけれど、今の剛は縋る手を求めてはいない。繊細な指先でアコースティックギターから音が紡ぎ出された。余りにも馴染んだ彼の音楽に目を閉じる。
 そのメロディーが穏やかな程、自分は苦しくなるばかりだ。爪弾かれる音の軽やかさが怖かった。
 乾いた瞳をゆっくりと開けてその手許に視線を向ける。彩られた指先が信じられない程優しく弦を弾いた。
 剛は、ずっと愛の歌を歌っているのに、俺達の間にもう愛はない。視界を遮る長い前髪を払って、きちんと彼の存在を確かめた。眠りに落ちそうな頭の中で甘い言葉を零す。
 あまいこいをうたうつよしはすき。
 ギターをひいているつよしはきれい。
 彼にはずっとずっと歌い続けて欲しい。眠りに落ちる為に目を閉じて剛を消した。その歌が自分の為じゃなくなっても甘い音色は心地良く身体に染み込んで行く。
 剛は深海に住処を見つけてしまったから。眠りに引き摺られる頭で思う。
 二人だけに照らされたスポットライト、見詰める無数の瞳、空気が割れそうな程の歓声。真っ暗な会場は暗い海の底だった。其処で苦しんでいたのは彼だったのに。息が出来ないともがき手を伸ばして助けを求めていた。その手を掴んだのは確かに自分だったと。
 今更そんな事を大切な思い出の様に反芻しても仕方なかった。色鮮やかに塗られた指先は、もう縋らない。
 優しいメロディー、厳しい眼差し、知らない恋を歌う甘い声、そして触れる事のない体温。こんなに近くにいるのに、剛は遠かった。
 俺は、深海で呼吸する術を知らない。それは一緒にいられないと言う事と同義だった。

+++++

 光一の寝息が聞こえ始めてからそろそろ一時間になる。壁に掛けられた時計は午前三時を示していた。抱えていたギターをゆっくり降ろして、ソファの方を振り返る。其処には余りにも無防備な寝顔があって、剛はつい笑みを零してしまった。
 まだ、お前の事でちゃんと笑える俺がおるんやな。他人事のように思って、それから光一へと近付いた。彼を遠ざけている自覚は勿論ある。それがこの人を傷付けているという事も。
 優しい人、俺を愛してくれる人。俺の事には吃驚する位勘の良い人だから、きっととっくに気付いてるんやろうな。
 もう、俺が光一を必要としていない事に。
 目覚めそうにない事を確認してから嘘みたいに軽い身体を抱き上げた。スケジュールが緩くなっても一向に戻らない体重に眉を顰める。いつか本当に背中から羽根が生えて飛んで行きそうだと思った。俺の見通せない遠い空の彼方へと。
 一人で眠るには広過ぎるベッドへと光一を降ろす。昔は狭いベッドで二人手を繋いで眠ったのに。幼い記憶は甘美な陶酔を伴って、脳内で幾度となく再生される。そんな日が帰って来ない事はお互い分かり過ぎる程気付いていた。
 眠り易い体勢を取らせて毛布を掛けると、枕元に腰を降ろす。サイドランプの温かな光に照らされた表情は寂し気だった。起きている時には絶対こんな顔せえへんのにな。柔らかな髪に指を滑らせて、そっと頬を撫でる。深い眠りに落ちているのか、目覚める気配はなかった。
 夢でも見ているのだろう。仄かに光一が口許だけで笑む。その方が良い。夢の中でなら、夢の中の俺ならきっと優しく出来るだろうから。
 そのまま指先を下ろして柔らかな唇に触れた。どうしてこの人が必要じゃないんだろう。どうして俺は独りじゃなきゃ駄目なんだろう。自分はこんなにも傲慢に生きようとしている。その事を光一が許してくれるから、諦めたように笑うから、俺は深く深く自意識の底へ沈んで行ってしまう。暗い海の様な場所へと。
 思えば、苦しくて苦しくて死にそうだったあの時期が一番幸福だったのかも知れない。光一に手を引かれて抱き締められて、守られながら生きていたあの頃が恋だったのだと思う。
 今度は彼の手を引きたいと思った訳じゃなかった。自分はもっと身勝手な理由で光一を突き放そうとしている。一番酷いやり方で離れて行こうと。
 触れていた指先をそっと離す。その手を握り締めた、強く。
 光一は、俺にとって空だった。
 見上げればいつも其処にあって、優しく見守ってくれる。そして、その空と共生している鳥でもあった。決して掴まらない、誰の物にもならない真っ白な翼で俺を導いてくれた。
 必要だったのに。彼だけが全てだった。貴方への思いだけを歌って来たのに。今では、全部が過去になろうとしている。俺が生きて行く為に光一は必要なかった。俺達が一緒にいる必然なんて、存在しないのだ。
 握り締めた拳をもう片方の掌で包んだ。もう、触れ方も分からない。そう遠くない未来に俺は一人で歩き始めるだろう。一人で生きて行く為の準備はほとんど整っていた。その瞬間が訪れても、光一は曖昧に笑ったまま頷くのだと思う。
 俺達のこの時間は必然だったけれど、運命ではなかった。だから、一生を共に歩む事は出来ない。
 サイドランプを消すと寝室を闇が浸食して行く。それに身を委ねたまま、手探りでもう一度光一に触れた。冷えた項をそっと撫でる。
 この肌もこの髪もこの唇も、繰り返される吐息さえ。剛の物だと彼は言うのに。
 俺は、要らないんや。お前の何一つ必要としていない。
 それでも。
 信じてもらえないだろうけど。
「……愛してるんや」
 今でも。
 愛を誓う事もその手を取る事も出来ないけれど。俺が愛するのは光一だけや。それが身勝手な戯れ言だとは知っていた。光一に届かない事も。
 それで良い。彼に幸福を与える事は自分には出来ないから。
 指先を離して、ベッドから立ち上がる。「お休み」とは言えないまま扉を閉めた。優しい言葉を掛ける自信はもう何処にもない。
 不意に心臓の近くで音が生まれる。光一に触れた方の手で胸の辺りを押さえた。零れる音色は、きっと彼への歌だと思う。
 彼の為だけに奏でられる最期の。
 ソファの横に置かれたギターが俺を呼ぶ。自分に必要なのはこれだけだった。光一、お前も気付いているんやろうけど、俺達は最初から住む場所が違ったんよ。それは出会う前から決められていた事やから仕方ないねん。
 俺は海の底に、光一は空の彼方に。
 水平線でどれ程似た碧に染まっても、決して一緒にはなれない。例え、其処に愛があったとしても。
 ギターを手に取って弦を弾く。零れるのは恋の歌ばかりだった。
 光一があの部屋で目覚めても幸福な朝は訪れない。愛を、少しでも渡せたら良かったのに。

 空と海は近い場所に存在するように見えて、何処まで行っても交わる事がない。
 彼がとてもとても大切だった。
 出会ってからずっと二人で一緒にいて、二人でいる事が自分達も周囲も当たり前になっている。
 だから、当たり前に大切な存在だった。とても、愛おしい人だった。
 優しくしたくてしょうがない。誰よりも近くにいたい。誰にも傷つけさせたくないと思っていた。
 この愛しさが、恋だと気付いたのはいつだったろう。ある日突然、目が醒める様な感覚で自覚したのは覚えている。
 何故か酷く嬉しかった。剛を一番知っている自分が、その優しさや繊細さに惹かれない筈はないのだと。
 訳の分からない、多分親心と言う感情に一番近い物を抱いてしまった。可笑しな感情だと言う自覚はあったのだけれど。
 そうして、自分の恋情に気付いてから彼の思いに気付くのに時間は掛からなかった。その心は純粋過ぎて、自分に向けられた感情としてはちょっと残酷な位。
 余りにも綺麗なそれは、心臓に深い痛みを残した。自分に彼の美しさはない。同じ思いを抱いても、同じ心臓にはなれないのだと気づいた時の、絶望。
 剛から貰う全ての感情が愛しかった。同じ物を渡せない自分を恨んだ。今もあの生々しい痛みは巣食っている。
 それでも。どんなに思っても。結ばれる事だけが、思いを通わせた者達の行方ではない事を知っていた。
 二人にそんな未来が訪れない事実を。剛も俺も良く、理解していた。
 目覚めたこの情は消える事なく、痛みと近い場所で一生俺の心臓にあるのだろう。それが、どんな罪に因る物かは分からなかったけれど。
+++++
 不覚だった。俺はずっと自分で丈夫だと思っていたし、実際この合宿所で色々な人の看病はしたけれど、逆の立場になった事等一度もなかったのに。何度か具合が悪くなり掛けた事はあるが、割と気力で治して来たから(病は気からと言う言葉を相方に教えてやりたい位だ)、本当にこんな風に寝込むのは初めてだった。
「……カッコ悪ぃ」
 呟いた声が掠れているのも許せない事態だった。朝起きた時はどうにか持ち堪えられると思っていたのだが、剛に連れられて行く食堂で思い切り倒れてしまったのだ。
 その後の事は、余り覚えていない。唯、剛が必死に俺の手を掴んで『光ちゃん』と、何度も悲痛な叫びを上げていた事は鼓膜が鮮明に記憶していた。
 部屋に相方の姿は見えないから、恐らくきちんと学校に行ったのだろう。今日は仕事がなくて本当に良かったと思う。二人にグループ名が与えられてから、仕事は格段に増えていた。
 ああ、そう言えば。今日から彼の期末テストが始まるのだ。その為に少し前まで仕事を詰めて、どうにかスケジュールの調整をした。でもこの分やと、結果はあんま見込めんやろなあ。
 剛の声が耳から離れない。キンキキッズは二人で一つだから。二人とも万全やないとあかんねん。
 そんな阿呆みたいな本当の事を考えながら、また熱に飲まれて行った。
 熱で上手く働かない思考の片隅で、次に目覚めた時にはきっと泣きそうな相方の顔があるんだろうと、妙に確信めいて考えていた。
+++++
 光一が予想した通り、剛のテストは散々だった。答案用紙を返されなくても分かる程に。頭にあるのは倒れた相方の事ばかり。
 本当に、死んでしまうと思ったのだ。
 食堂の床に崩れ落ちたその顔は真っ白で。唇の色も血が通っていないのではないかと思う位、青かった。
 朝起きた瞬間から、ずっと一緒にいたのに。気付けなかった。
 意地っ張りの相方が自己申告をする性格じゃない事は、もう嫌と言う程分かっていた。だからその分、常に注意深く見ていなければならないのに。
 早く、早く光一の元に帰りたかった。死んでしまうと思った時の不安は容易に消えはしない。あの熱い手を一晩中でも良いから握っていてあげたかった。
 それよりも。
 光一に告げたかった。この思いを。恋情の全てを。
 言わなければならない、と強く思った。お互い知っていて言わなかったのは、先の事を考えたからだ。
 これからもずっと二人でこの世界にいる為に。恋よりも深い絆で結ばれていた。
 二人だけで簡単に切り離せるような絆ではなかったから。言えなかった。でも。
 もし、言えなくなったら?光一が俺の隣から消えてしまったら?
 そんな可能性は考えたくない。いつまでもずっと俺の隣にいなくてはならなかった。あり得ない未来に背筋がすっと冷えて行く。
 だけど。本当に。
 本当に、死んでしまうと思ったのだ。
+++++
 息が苦しい。心臓の音が煩い。病気は恋に似ている、と相方に植え付けられたロマンティストな感情でそんな事を考えた。
 左手がじっとりと汗ばんでいる。その感触が不思議で、重い瞼をゆっくり持ち上げた。霞む視界は、もしかしたらまともな映像を見せてくれないかも知れない。
 水分が膜を張っているから、一度きつく目を閉じた。
「光ちゃん?」
 不意に、耳元で甘い音が聞こえる。舌っ足らずな、大切な相方の大好きな声。この声音は自分を呼ぶ時だけにして欲しい。
 水分を払ってもう一度目を開ければ、見慣れた顔が間近にあった。予想通り目覚めて最初に剛を見る事が出来て、何だか嬉しい。
 涙を大きな瞳に一杯溜めた彼は、『心配』を思い切り表現していた。こんな素直な所が堪らず愛しい。
「大丈夫か?どっか痛いとこない?」
 名前を呼んだのと同じ声で問われて、静かに首を横に振った。ほんの微かな動きだけれど、やっぱりちゃんと分かってくれる。意味もなく、あー剛やなあと思ってしまった。
 心臓が、痛んだ。
「……つよ、テスト、は?」
 出るのは掠れた声だけで、余計その繊細な心を揺さぶってしまうかも知れない。安心させてやりたいのに。
「あー……うん。どうにかなるやろ」
 苦笑して僅かに身体を離した剛は、思った通り。俺らはどうしようもないな、と心の中だけで笑った。
「追試、でちゃんと取り返せや。出席日数、足りてないんやから」
「うん。てかなー、病人がそんな説教せんでも」
 苦笑して優しく笑う穏やかさに気を許して、つい間違えた言葉を落としてしまう。
「やって、俺が言ったらお前頑張るやろ」
 いけないと、思った時には既に遅く。踏み込んではならない一線を僅かに越えてしまった。
 今のは相方として、適切な言葉じゃない。何もかもを手後れにしてしまう危険を孕んでいた。敏感な相方はすぐに反応して、肩を揺らす。
 そして、左手に痛みを覚えた。汗ばんだ手の感触に思い当たる。
「……手、いたい……」
 二人の間に落ちた言葉は、まるで子供の響きだった。どうしようもない。訴えて見上げると、漆黒の瞳に強い光が見えた。
 どうしよう。部屋の空気が。密度が、増している。
 剛が何かを抱えて今目の前にいることは分かっていた。穏やかな瞳の奥にある思い詰めた色が、教えてくれていたのに。
 越えたのは。不用意な自分の一言だった。
 剛を包んでいる空気が変わる。瞳の色一つで印象を変えてしまう彼は苦手だった。
 いつものあの、捨てられた子犬みたいな色の方が好きなのに。俺が守ってやらなければと思わせる透明な瞳。
 それがこんな風に、不意にどろりと深くなる。底を探ろうとすれば、引き込まれて嵌まってしまいそうな。恋の意味を知っている男の瞳に変わってしまうのだ。確かな変化を優越感だけで見返すには、自分はまだ子供過ぎた。
 まだ光一は、恋の本質を瞳の奥底を知らなかった。
「つ……よし」
 真っ直ぐに見詰められる事に耐え切れず、慣れた名前を呼んでしまう。そうすれば相方の距離に戻れる様な。淡い期待だった。
 無駄な抵抗だと分かっている。でも剛が怖い、から。
「こぉいち」
 不意に耳慣れない音が肌をざわめかせた。こんな呼び方をされた事はない。
 知らない。こんな剛、俺は知らない。これは、恋をする男の瞳だ。恋に溺れる男の温度だ。
 恋を知った、男の声だった。
「つよ……」
「光一、聞いて」
 反射的に左手が剛の手の中から逃げて、無理矢理身体を起こした。
 目が眩む。剛が、触れてはならないことに踏み込もうとしていることはわかった。
 くらくらする。気持ち、悪い。
「光ちゃんっ。具合悪いんやから、無理な事したらあかん」
「っつよし。……あかんよ」
「ええから、逃げないで。此処におって」
 この状況で何処にも逃げる場所等ないと言うのに。あやす様な剛の優しい掌に騙されて、再び布団の中へと身体を戻した。
 呼吸が苦しい。もう何度こんな危うい瞬間を越して来た事だろう。剛の瞳に流され掛けた事か。でも、まだ。
 どんなに辛くても破綻の時を迎える事は出来なかった。二人が思いを通じ合わせると言うのは、そう言う事だった。
 どうして、自分はこんなにも臆病なのだろう。
「なあ、聞いて」
 甘えを含んだ声は、どんな音楽よりも心地良く染み込む。いつもいつも特別な剛の全て。
 なあ、俺怖いねん。お前を手放したくない。どんな形でも良いから、縋ったって構わないから、どうしても隣にいたかった。その為には。
「光ちゃん」
「……ん」
「あんな、俺死んでまうと思ったんや。朝倒れた時」
 温かい感触が頬に触れる。ゆっくりと掌が辿って行くのが気持ち良くて、ひっそり目を閉じる。
 俺は、この温もりだけで充分だった。心は、穏やかに静まって行く。
「だから、もうあかんと思った。俺嫌なんや、このまま言えないまんま……」
「大丈夫やよ」
「え」
「俺、分かっとるから。俺もお前もよう知っとるやろ」
 剛の思いがそんな事を望んでいる訳じゃない事は、良く分かっていた。お互いの思いを知っているから、とかじゃなくて。伝えなければ始まらない思いを。
「違う、違うんや。俺はお前にちゃんと伝えたいねん、俺の口から」
「言った、あかんよ」
 声が掠れる。剛の思いなんて痛い程分かっていた。心臓の辺りに燻っていた痛みが、鮮明さを取り戻す。
 今此処で、彼の思いをこの耳で聞けたら、と言う思いは確かにあった。何もかもを捨てて二人だけで走れる位、まだ分別のないままで良かった。
 けれど。自分の恋情を信じられる程、強くはない。剛の愛を信じ切れない自分がいた。
「こおいち……」
「な、俺一人でも大丈夫やから。今日は誰かの部屋行き」
「ちゃんとっ話、聞いてや!」
「あかん」
 いつもの守ってあげたくなる剛に戻って来る。そうすればもう、年上の振りをするのは簡単だった。
「俺は絶対お前より先に死なん。お前の隣から、いなくなったりしない。だから、二度とそんな事言おうとするな」
 何も言えなくなってしまった剛を優しく見上げた。澄んだ瞳に安心する。名残惜しそうにその場から動かない彼にゆっくりと微笑んでみせた。
「俺は、剛が大切やよ。一番大切。これで充分やろ?」
 全てを告げたらきっと、粉々になってしまう。今まで大切に作って来た時間も、ゆっくりと探り当てたお互いの距離も。痛みを抱えたこの心臓も、全て。二人の間にある全てと引き換えに得るには、この恋は少し強過ぎた。
「明日がっこ行く前に顔見せて」
「うん」
「俺のせいでお前の点下がるのは勘弁やわ」
 笑顔で促してやると、素直に扉の方へ向かった。
「何かあったら呼んでや。絶対来るから」
 それはきっと、テレパシーの域での事を言っているんだろう。実際間違いなく届いてしまうのだから、余り笑えなかった。
「じゃ、お休み。……ごめんな」
「うん。でも……俺は謝らんから」
「ええよ。つよは、それがええんや」
 真っ直ぐな瞳に罪悪感を覚えるのは、もうとっくに慣れてしまった。自分の方が大人な訳じゃない。唯、剛より感情が屈折しているだけ。彼の様に純粋でいられたら良いのに。
 自分とは全く種類の違う人間だという事は、分かっている。けれど、だからこそ憧れは留まる事を知らない。
 ゆっくりと閉じた扉を霞んだ視界で見詰めた。剛はあんなにも鮮明に見えたのに。笑って良い物かどうか悩んでしまう現象に、瞳から水分が溢れ出した。
 本当は。剛の告白が聞きたかった。あの甘い声を耳元で囁いて欲しかった。そして、優しい腕で抱き締めて欲しかった。
 熱のせいで、こんなにも弱くなっているのだろうか。いつもなら、抱き締められるより抱き締めたいと願うのに。繊細な剛を守りたいのに。
 そう、全ては熱のせいなのだ。こんな風に、涙が溢れてしょうがないのも。
「……好きやよ」
 唇から勝手に言葉が零れ落ちる。
「好きやよ。好きや……剛」
 きっと一生届かない言葉。決して届けてはならない言葉。それでもずっと、剛には聞こえているだろう思い。
 こんな恋じゃなくても良いのに。もっと楽に楽しくいたら良い。こんなに苦しい想いを抱え続けたら。いつか壊れてしまう。二人の破綻よりも先に訪れるだろう未来に、背筋が知らず震えるけれど。
 言ってはならないと告げたのは自分だった。大切なのは剛だけで。自分の全てと引き換えにしても守りたいと思える人は、この世にたった一人。いつか、恋は愛に変わるだろうか。この心臓の痛みが和らぐ時が来たら。その時は、思いを告げても大丈夫だろうと思う。
 今はまだ、怖かった。この恋だけに生きられると錯覚しそうになる位。けれど、いつか。愛と言う優しさだけで、お互いを思える日が来るまで。
 例え死んでも、告げてはならない言葉だった。

+++++

 思いの強さが怖くて、彼の瞳の深さを見詰められなくて。唯、怖かったあの日。確証のない破綻に怯えていたのは、彼よりも余程幼い自分だった。
 熱から逃れる様に、それでも繋いだ左手を離さない様に。三十九度で駆け抜けた子供たち。
 まだ、心臓は痛むだろうか。

 永遠を信じられなかった、十五の夜。
 視線の先には愛しい人がいて、冷えた指の先には包み込んでくれる温かい手がある。ずっと。
 繋がれたこの運命が離れない様にと願う。彼と過ごした今までの春秋と、これから重ねて行くであろう途方もない歳月を思いながら。
 俺は、永遠の意味を知る。
「……光一君!」
 いきなり意識を呼び戻されて、はっと顔を上げた。どうやら気付かぬ内に机の上に突っ伏していたらしい。
「あれ。俺、寝てた?」
「てゆーより、気ぃ失ってたよ」
 呆れた顔で秋山が笑う。身体を起こして額に張り付いている濡れた前髪をかき上げると、その深い顔立ちを見上げた。
 此処はSHOCKの稽古部屋で、つい先刻まで立ち稽古をしていた筈だ。手直しが必要だと言う事に気付いて、それで。
 其処から先の記憶がない。
 体力には自信があるのに。歳かな、と一人ごちる。
「これからまだまだ先は長いんですから、あんま無理しないで下さいよ。俺らメッチャ心配なんだから」
 今年の冬もまた、彼らと過ごせている。彼らの存在が段々と馴染んで来る感触は悪くない。
 ゆっくりと自分の日常に溶け込んで行く。彼の様に。
「……お前らも多いなあ。俺の人生」
 脈絡のない言葉を彼との付き合いの長さと、持ち前の勘の良さで割と正確に読み取った秋山は、小さく溜息を吐いた。いつだってこの人の思考回路の中心は彼だけなのだ。
 扉の位置に人の気配を感じてそちらに視線を遣りながら答える。
「俺らも長いけどね。でも、敵わないよ」
 躊躇なく入って来た部外者に笑顔を向けながら呟いた。運命よりも強くて深い、その逃れようもない束縛で難無く光一を囲う。
 ナイーヴでセンシティヴな癖に誰よりも傲慢な彼の愛の形は歪だったけれど、秋山はそれが嫌いではなかった。
「お迎え来たよ」
「え?」
 不思議な顔をして見上げて来る光一は、多分今日のスケジュールを知らない。全く困った先輩だと苦く笑った。
「何やお前、寝惚けとんなあ」
 揶揄する口振りで、剛は光一の前に現れる。
「……つよし、あれ?」
 状況把握出来ていない瞳で瞬きした。仕方なく秋山が説明してやる。
「光一君はこれから歌番の収録でしょ。それが終わったらコンサートの稽古で、また俺らと合流ですよ」
「ふーん」
 感心した様な興味のない様な曖昧な音で答えた光一の視線は、既に剛に向けられていた。やれやれと秋山は頭を掻く。
 目の前に立つ見慣れ過ぎた人を黒目がちな瞳が凝視していた。この二人に『飽きる』と言う単語は存在しないらしい。
 机の上に置かれていた手が、不意に持ち上がる。ゆっくりとその腕は相方に差し伸べられた。無表情な硝子の瞳は澄んでいて、何も映し出してはくれない。
「お姫様、貴方のナイトがお迎えに上がりましたよ」
 伸ばされた手を正確に捕まえて、剛はゆったり笑う。光一はいつもの軽口に怯む様子も見せず、重ねられた手をしっかり握り締めた。しかしそれは意識しての行動ではなかった様で、惑った瞳を迷子みたいに潤ませる。
「相変わらず冷たいな。こんなに動いとんのに」
 反対側の手を使って、濡れた髪を梳いた。何もかもを理解した素振りで、座ったままの恋人を立ち上がらせる。秋山に光一の荷物を持って来させて受け取った。
「じゃ、また後でな」
「はーい、お疲れ様でした」
 手を繋いだまま出て行く二人の背中に、後輩達の挨拶の声が何度も投げられた。
 エレベーターに乗り込むと、漸く目覚めた恋人が繋がれた指先を不審そうに見詰める。
「剛、なんこれ?」
 繋いだ指の先にいる人に声を掛けた。
「あー、やっと起きたかー。スタジオ着いても起きんかったらどうしようって悩んでたわ、今」
 顔を覗き込まれて笑われると、身動き出来ない位胸が一杯になる。どうして、こんなに好きなんだろう。
 そう思ってから、ふと稽古中に考えていた事を思い出した。稽古の間ではなく、夢の中で思い付いたのかも知れないけど。思考を巡らせれば、今こうして手を繋いでいる理由にも思い当たる。
「手、離そか?外じゃ嫌やろ」
「……ううん」
 かぶりを振って、そのままで良いからと手に力を込めた。今はまだ、生まれた温もりを失いたくない。
 指先から浸透して行く愛しさに、光一はじっと耐えた。
 俺達には永遠がある。
 またぐるぐると同じ事を考えている、と己を嘲笑った。剛を信じてるのに、悪い癖やな。
 がたんと箱が揺れて扉が開いた。確認する目を向けられたけど、気付かない振りをして外に出る。ロビーに人がいる事は気にならなかった。
 この手を永遠に自分の物にしたいと思う。剛の全てを独り占めするのは不可能だから、せめてこの温かい手だけはいつでも自分だけに向いていて欲しい。
 けれど、永遠にも限りがあるから。無限とされていた宇宙にさえ果てがあるのと同じ様に。
 俺達の最果てもきっと何処かに。
 こんな事ばかり考えているから、彼の言葉で幸せになれないのだ。今だけを見て生きている筈なのに、俺はこんなにも永遠が欲しい。
 剛は、永遠の先を知っているだろうか。
 自動扉を通り抜けて寒空の下に出ると、表階段の手前で光一が急に立ち止まった。先を歩いていた剛は、既に二段降りた所で一緒に足を止める。手を引かれたから身体ごと振り返った。
 また可笑しな事を考えているのには気付いている。それが夢の続きなのか、彼特有の悲観的思考故なのかは分からなかったけれど。
 怖がっているのは確かだから、安心出来る様真っ直ぐに見詰める。
 光一は恋人の真摯な視線を受け止めて、小さく息を吸い込んだ。冬の空気が肺に流れ込んで意識を鮮明にする。
 そして、告げた。
 剛から永遠を手に入れる為に。
「俺、ずっと一緒いたいねん。剛と」
 白い息を吐き出しながら言えば、恋人が破顔する。ゆっくりと。
「いつも、一緒、やろ?」
 余りに軽く渡された言葉の真実に光一は泣きそうになった。眉を顰める事で感情の動きに逆らうと、更に深く剛が笑む。
「我慢したあかんよ。光ちゃんはいっつもそぉやなあ」
「……んな事ない」
「俺が必ずお前を見届けるから、何も怖がらんでええよ。俺だけ、信じとき」
 この人は終わりを知っているのだと思った。最後の場所を知っていながら永遠を誓うのだ。永遠が果てたらまた最初から始めれば良いと、事も無げに笑う。
 その強さに甘えても良いのだろうか。
 剛が繋いだ手を持ち上げて、色を失った白い手の甲に口付ける。
 それは、祈りの姿だった。
 騎士が忠誠を示す為の敬愛のキスは、二人にとって永遠の契りになる。
「アイシテル」
 永遠に。否、永遠の先までも。

 俺達は、永遠を繰り返し積み重ねて、二人になる。
 年男になる貴方へ。
 また四ヶ月間年上になってしまう事への悔しさとかは、もうこの長い月日の中で薄れてしまったけれど。一つ、年を重ねる事が。また一歩、俺達の距離を縮める事になれば良いな。
 二十四歳、おめでとう。
 光一、今年は一緒に何しようか。いつもの素振りででも甘い声で提案したら貴方は、「じゃ、一緒に一杯仕事しよ」って言うやろね。お日様みたいな笑顔、きらきら振り撒いて。
 嬉しそうな顔見たらきっと、俺も笑って頷いてしまうだろう。やっぱキンキやね、なんて事位は言うかも知れん。いつも通りの空気になって、それでも楽しいかな。
 俺がもう必死に仕事に追い付かなくなってから、どれ位経つんやろ。この年月を後悔した事なんてないけれど。
 一人の間、歯を食い縛って必死に頑張り続けた貴方は。俺の知らない、大人の顔をする様になったね。それを切なさと共に嬉しい気持ちで見詰められる様になった俺も、少しは大人になれたんかな。
 可笑しいな。昔は大人になんて絶対ならんて思ってたのに。『大人』って呼ばれる歳になってから急に、大人になりたなったわ。あれだけ拒絶し続けた世界も、今は大切な俺の一部になっている。そう思えるようになったんは、勿論お前のおかげやで。
 俺は今、お前の隣にちゃんと立ててるか?不安は今年もついて回りそうや。弱い俺の心情の揺れにも慣れて。光一は、柔らかく笑ってくれている。
 ありがとう、なんて言葉じゃとても足らん位感謝しとるよ。
 今年はもう少し、男前になるからな。そんで、光ちゃん守ってやんねん。
 いつもいつも自覚のない君やから、この際はっきり言うとくけど。スタッフやら共演者やらが触れて来るんは、絶対セクハラやぞ!
 お前は触られても仕事やからってにこにこしてるし。其処は我慢するとこちゃう。相手殴り飛ばす位の気持ちでいるべきや。
 後なあ、懐いた人に見境なく触んのもやめろ。無防備過ぎんねん。絶対、絶っ対勘違いされてるからな!
 本当に、自覚なさ過ぎや。俺がどれだけの人間に牽制掛けてんのか知ってんのか?……否、知られても俺がやばいだけなんやけどな。
 だから、もう。それ以上綺麗になるのはやめて下さい。
 毎年毎年、これ以上は無理だと思うのに、更に美しく変貌を遂げて行く貴方に。俺は気が狂うのではないかと、不安です。
 今年もまた可愛くなったりでもしたら、今度こそ本当に誰の目にも触れんように閉じ込めてまうからな。これだけは、覚悟しとけよ。
 プライベートも去年は充実してたから、あんま具体的な事思い付かへんなあ。今年は思い切って、完全プライベートで旅行でもしてみるか。
 海外旅行。……あーでも、飛行機嫌やな。ま、そんな予定はゆっくり考える事にして。
 今年こそ、ちゃんと切り出してみようか。「一緒に暮らそう」と。
 基本的にどちらか片方の部屋にしかいないのだから、何の問題もないと思うのだけど。きっとまだ、怯えた心があるのだろう。
 近くに行き過ぎて嫌われるのを恐れている。見せたくない部分を繕えなくなる事に恐怖を抱いていた。全てを差し出す事に今でも躊躇している。
 鉄壁に守られた脆い内面は、簡単に傷つくから。
 阿呆やな。これだけ光一の良い所も悪い所も全部知っていて、知り尽くしていて、それでも尚一緒にいたいと思っているのに。もう行ける所まで一緒に行くつもりなのに。
 まだお前は、俺に逃げ道を用意して。自分が追い込んでしまわないようにと細心の注意を払って。そんなんいらんっちゅーねん。
 なかなか思いの全部は伝わらない。もどかしい距離を埋めたかった。頭で理解出来ないのなら、温もりで溶かすしかない。そんな距離を手に入れたかった。
 やっぱり早い内に提案、やな。もう、逃げ道なんか作らせへんで。
 去年散々別々にされた事で、プラスに働いた事も沢山あった。お互いを遠くで見詰めて初めて気付く知らない表情、それでも一番近くにいると言う優越感。離れていても感じる信頼。自分が辛い時に黙って傍にいてくれる温もり。
 全てが二人を安心させた。全てが、二人を成長させたのだと思う。二人でいる事を焦らなくなった。
 離すだけ離されて気付いた、相方の存在と言う重みは、もしかしたら恋人以上かも知れない。そんな風に思えるまでに至ったのだ。もう今年は、恐れる物等何もなかった。
 だからこそ、少しだけ。たった一つ。密かな願いを口にする事が許されるのなら。
 今年こそは一緒にいさせて下さい。俺の目の届く所に。いつでも光一を。そんな貪欲な俺の願い。
 お前が聞いたら、一体どんな顔するんやろな。
 今年は。あんま頑張らんとゆっくり行こうや。厄年やしな。厄は周りの人間に迷惑掛けるんやって。お前、そう言うの一番嫌いやろ?
 だからさ。
 一歩一歩確実に、周りを見ながらいつも通り手繋いで歩こう。走ったりしたらあかんで?立ち止まって自分の来た道振り返んのも大事な事や。
 これもきっと嫌いやろうな。でも、俺達に必要な事やねん。
 立ち止まって振り返るのが怖いんなら、一緒におったるから。手を離す事だけはもう絶対にしない。
 まだまだ先は長いんやから。息切れせんように、行こな。
 こんな事言っても、やっぱり最初から一人で突っ走る貴方だけど。今年も一緒に頑張ろうな。
 誕生日、おめでと。もうちょい待っとって。
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