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小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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[a Stray Boy-another side]







「・・・あれ」

相葉ちゃんの家に向かう途中のコンビニで、雑誌を立ち読みしている彼を見つけた。何してんだ?こんなとこで。

「相葉ちゃん」

「おー、マツジュン!」

「何してんの?」

「んー、家に何もなかったから買い出しにきた」

「こんな薄着で?」

「帰りは乗っけてもらおうと思ったからさぁ」

「けど俺がここ寄るとは限らないじゃん」

「そしたらケータイでさ・・・あれ、忘れちった。鍵もないや」

「バカ・・・」

「まっ、会えたからいーじゃん!結果オーライですよ」

相葉ちゃんがけたけた笑って、俺は反対にため息をついた。

「で?買うもんはそれで全部?」

「えーと・・・・・・あ!ユウのコーラ・・・」

「へぇ、ユウ君いるんだ?」

コーラのペットボトルを選別し始めた相葉ちゃんを肩から覗き込む。別にどれも同じだと思うけど。

「よっし。マツジュン何か買うものあんの?」

「ああ・・・コレ。」

彼が持っていたカゴに小さな箱を入れる。相葉ちゃんが呆れたような顔をした。

「ゴムかよ・・・」



清算を終えて財布につり銭をしまっている横から袋を持ち上げて車まで先に歩く。

「いつ使うの、それ」

「ん?ゴム?家でって思ってたんだけど・・・」

箱を取り出して見せ付けるようにくちづけると、相葉ちゃんの顔がひきつった。

「家にユウ君いるんじゃ、今しかないじゃん?」

「ばっ・・・」

相葉ちゃんが顔を真っ赤にして、口をぱくぱくさせてる。

「別に俺はいいよ?隣にユウ君いたって…相葉ちゃんが声我慢すればいいことだしね」

ぐっと唇を噛んで、相葉ちゃんが睨み付けてくる。そもそも根本的に『したくない』とは言わないんだね。

「どっちがいい?」

極上の笑みで問い掛けると、相葉ちゃんは消え入りそうな声で「・・・今」と答えた。




* ・ * ・ * ・ *




「・・・っ」

車中とはいえ、エンジンを入れていないひんやりとした空気に触れて、はだけさせた胸の突起が勃ち上がるのを目で楽しむ。

ドライバーズシートに座る俺の膝に乗せられた彼は、満足に抵抗もできずにそのままで俺から視線を逸らしていた。

ゆっくりと舌を伸ばして、薄っぺらいだけじゃない胸を嬲ると、肩を掴んでる彼の指が震えた。

相葉ちゃんが好んで使うボディソープの香りが鼻腔をくすぐる。そういえば風呂入ったって言ってたっけ。

「ちょ、・・・そこばっか・・・っ」

唾液に濡れて充血している胸を喘がせ、相葉ちゃんが身じろぎする。多分無意識なんだろうけど、俺のフトモモに腰を擦り寄せるさまに煽られる。

「・・・ねぇ」

服から取り出した相葉ちゃんのを握り込んで刺激しながら声をかけると、切なそうに閉じられていた目がうっすらと開いた。

「独りで入った?風呂。」

「・・・ユウと・・・」

「ふぅん」

じゃあ気付いたかな、あの鋭い弟くんは。

たまに相葉ちゃんちで顔を合わせる彼は、本能と野性の勘で生きてる兄とは正反対なくらい冴えてる。彼ならきっと、俺が相葉ちゃんにつけた印を全部見つけてるだろう。

以前風呂場で目が合った時に、茫然と立ち尽くしていたユウ君を思い出して、ちょっと笑った。

滲みだしてきた体液を掬って広げるみたいに塗り付けると、内腿が引きつれて俺を挟んだ。小さな水音がやけに大きく響く。

胸へのイタズラを続けながら、濡れた手をゆっくりと後ろに滑らせて双丘の奥をつついてみる。今はまだ頑ななソコは、僅かな刺激にも怯えるように窄まった。

こういう狭いトコでやる時は、オンナノコみたいに勝手に濡れないのがちょっと面倒。

だったらこんなトコですんな!って怒られそうだけどね。

横になれるなら引っ繰り返して腰上げさせて舐めて解すのになあ。

相葉ちゃん的にはそれは最高に恥ずかしいコトらしいんだけど、でも実は凄く好きってことも知ってたりする。この人、自分で思ってるよりMだから。

堪えきれない声で鳴いて腰を震わせる相葉ちゃんが脳裏に浮かんで、下腹部に熱が集まるのがわかった。肌とかピンクに染まって吸い付くみたいで、たまんないんだよね。

「っ・・・」

とか何とか考えながら後ろを指の腹で撫でていたら、いきなり相葉ちゃんに耳たぶを噛まれた。

「ってー・・・」

「考え事すんな」

あら、バレてたんだ?

相葉ちゃんが拗ねた表情で見下ろしてくる。

「相葉ちゃんのこと考えてたんだけど」

「・・・嘘つけ」

「本当だって。ウシロ舐めてあげるといい声出 「わーっっ!!」

相葉ちゃんがあわてて俺の口を塞ぐ。別に聞いてる人なんて誰もいないよ?

「・・・・・・でもさ、それだって」

言葉を止められたままで、相葉ちゃんが小さく漏らした声に耳を傾ける。

「オレじゃ、ないじゃん」

「―――・・・・・・・」

つまりそれって、今この場にいる自分じゃない自分に嫉妬してるってこと?

うわ・・・

「・・・マツジュン?」

何秒か停止してしまった俺の口から、相葉ちゃんが掌を外して覗き込んでくる。

「不意打ち・・・」

「え?」

不覚にも、純粋に可愛いと思ってしまったことは言えなくて、ぎゅっと抱き締めてみる。

相葉ちゃんは多分よくわかってないだろうに、それでも俺の頭をよしよしと撫でてくれた。


ごめん、ユウ君。

やっぱこの人は、もう返せない。





* ・ * ・ * ・ *





「っあ、ぁ・・・っ」

指を増やして奥を暴くみたいに広げると、無意識に腰が浮く。

逃げたがる身体を片腕で抱き込んで、こめかみにくちづけると首筋に頬を摺り寄せてきた。

「ま、つじゅん・・・」

舌足らずな声が俺を呼ぶ。欲しくて仕方ない時の、合図。

「何?」

相葉ちゃんの要求はわかってるけど、敢えて尋ねてみる。今の相葉ちゃんじゃ、睨まれたって怖くないよ。

「ちゃんと言って。」

自分でも気持ち悪いくらい優しい声で囁く。優しさの中に嗜虐心を込めて。

「・・・・・っ」

それでも黙ってる彼の中を指でちょっとだけ進むと、長い睫毛に引っかかっていた涙が一粒零れ落ちた。

「ほら・・・」

ぐちゅりと鳴らした音に耐え切れなくなったのか、相葉ちゃんは力の限り俺に抱きついて、それから湿った吐息とともに吐き出した。

「・・・も、ほしい・・・」

「んー、何が?」

そんなの口に出して言えるわけないだろバカっ!!

って言いたそうな目で、相葉ちゃんが睨みつけてくる。泣きそうに引き結ばれた唇が美味しそうだね。

「・・・・じゃあさ、言わなくてもいいから」

火照って熱い頬にキスを落として。

「つけてよ。相葉ちゃんが。」

箱から出してナヴィシートに放り投げておいた包みを拾って眼前に持ってくと、相葉ちゃんは諦めたように少し震える指でそれを受け取った。

相葉ちゃんがソレを俺に装着するのをただ見てるだけってのも何だったので、耳やら鎖骨やら尾骨やらにイタズラをしてみる。

「やっ、・・・やめ・・・」

俺の舌や指先が触れるたび、汗ばんだ身体が跳ねる。ちょっとの刺激でも勝手に快感に変換されるらしい。

それが自分の思考で処理しきれなくて、ぐずぐずと泣き出す彼が本当に可愛くて、俺は薄く笑った。

オトコって、かなりの割合が支配欲で出来てるんだよね。

屈服させて、自分のものにして、自分しか見てない瞳に酷く満足する。

今だってほら・・・・・・真っ赤に染まった目元が潤みきって俺を映すのに、どうしようもなく欲情している自分がいる。

僅かな気まぐれの愛撫に負けてしまいそうな指先を懸命に操って、どうにか相葉ちゃんは俺にゴムを着け終えた。

「入れるよ?」

ゆっくりゆっくり、相葉ちゃんに腰を下ろさせる。

眉を寄せて耐えるのははじめのうちだけで、一番幅のある部分を過ぎれば、俺のカタチに馴染んだ内部はしっとりと絡み付いてくる。

身体中のどこよりも熱い粘膜に包まれて、首の後ろのあたりが快感に疼いた。

「・・・痛くない?」

「へ・・・き・・・」

ふわりと笑って、相葉ちゃんがこつりと額に自分のそれを寄せてきた。

悦楽を得ようと多分無意識に揺れ始める相葉ちゃんの腰に合わせて、律動を大きくしてゆく。

されるままに俺にしがみついて鳴く相葉ちゃんは幼子のようで、それでいて怖いくらい艶麗だった。

「――――そういえば、鍵忘れたんだっけ?」

身体を揺さぶりながら世間話みたいに言うと、相葉ちゃんがきょとりとこちらを見る。

「ケータイも?」

「あ・・・っ、う、ん・・・」

「じゃあ・・・」

ゴムと一緒にシートに投げておいた自分のケータイを取り上げて、リダイヤルボタンを押す。

「あっ・・・」

相葉ちゃんが珍しく俺の思惑を察知して手を伸ばしたけど、俺はそれを巧みにかわしてやった。

「だめ、まつじゅ・・・ひ、ぁっ」

制止の声は、彼の好きな場所を抉った動作によってただの喘ぎ声に変わった。そうこうしているうちにも、呼び出し音が微かに響く。

やがて・・・

『・・・もしもし?』

狙い通り、聞こえてきたのはユウ君の声。

「もしもし?」

相葉ちゃんは、俺からケータイを取り上げることを諦めた代わりに、声が出ないように口元を手で覆っている。

『あー・・・あの、兄貴ケータイ家に忘れてったみたいなんだけど・・・』

「あぁ、うん、知ってるよ。今ここにいるから」

にっこり笑って言ってやる。ユウ君が息を呑むのが聞こえた。

「あと30分くらいしたら行くから、家の鍵開けておいてくれる?この人鍵も忘れたみたいだからさ」

相葉ちゃんが目だけで俺を睨んでるけど、それは俺のゾクゾク感を増大させただけだった。

「ほら、相葉ちゃんも何か喋る?」

手を口から無理やり外させる。

「いい、よっ、ばか・・・!っぁ」

手を振り払おうとして動いた弾みにどこかを擦られたのか、悪態をつきながら相葉ちゃんはびくりと震えた。

「あ、感じた?」

くっと咽喉で笑ってやる。ユウ君にも聞こえるように。

ちょうどそこで、相葉ちゃんが必死に伸ばした手でケータイを奪い取り、ばちんと閉じた。

あーあ、切れちゃった。

「・・に、やってんだよ・・・っ」

「聞かれちゃったねえ。二回目かな?」

「バカっ」

べしっと頭を叩かれた。だけどそれが弱い力なのは、自分を解放させてくれるのが俺しかいないってわかってるから。

「わかったわかった。もういじめないよ」


一緒に気持ちよくなろうか。





* ・ * ・ * ・ *





それから、散々相葉ちゃんに文句を言われながら車を運転して、彼の自宅に向かった。

電話で頼んでた通りに、ちゃんと鍵を開けて待っていた弟君は、さすが相葉ちゃんの弟だけあって優しいと思った。

俺がユウ君だったら絶対家に入れないけど。

俺が支えてた相葉ちゃんに触ろうとしたから、その手にコーラを押し付けてやった。

どこか恨めしそうにこちらを見ているユウ君に、目だけで笑って見せる。

幸せな相葉ちゃんは、俺らの見えない火花に全然気付かないで俺に凭れている。

一緒に風呂に入ろうかと提案したら、またバカと怒られた。照れ隠しだって、わかってるけどね。


幸せなキモチは他人に分けてあげたいって言うけど、このキモチはユウ君にはあげられないな、なんて思った。




end.
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I×V 2


→[Stage-2]


熱い。酷くアツい感覚。

全身が心臓になっちゃったみたいな・・・・ていうかオレ、心臓動いてないんだけど。例えね、例え。

熱にうかされたような原色の光の中で、オレの肌を這い回る手が妙にリアルで。

その指が触れるごとに、身体が震えて追い詰められてゆく。

どこに?なんてそんなのわかんない。ただ、そんな気がするだけ。

眼下に広がるのは眩く煌くネオンの灯り。

向かいのビルの航空障害灯の灯りが近いような遠いような、変な遠近感で迫ってくる。

ソコに人はいない筈なのに、誰かに見られてるみたいな。

熱と、あるはずの無い視線から逃れようと額を押し付けた硝子が、オレの荒い息で白く曇る。

かたちの良い爪で先端を引っ掻かれて、でも堰き止められてるから解放は出来なくて・・・・・さっきから繰り返されるそんな凌虐に気が触れてしまいそう。

窓に縋って立ってるのだってやっとだ。

「イキたい?」

甘い棘を持つ声が耳を嬲る。オレはただコクコクと頷いた。

ほっぺが、熱くて冷たい。泣いてんのかな。

自分のカラダなのに、そうじゃないような感覚。神経の一本一本が支配されてるっていったらいいのかな。何か、そんな感じ。

オレの腰元にまわってるヤツの腕をぎゅっと掴んで無言でせがむと、後ろで笑う気配がした。

「まだダメ。」

だったらさいしょからきくなっ!

と悪態をつく前に、オレを襲った灼熱の楔に貫かれる感触と、狂いそうな絶頂の予感。

「ぅあ!・・ぁああっ・・・・」

自分の声とは思えないような悲鳴を聞いて、消えてしまいたいと思った。

目を背けたくなるくらい淫靡なカオが硝子に浮かび上がる。これ、ホントにオレ・・・・?

後ろからぎゅっと身体を密着させてくるヤツの吐息が、耳にかかる。それがもう息が詰まるくらいに気持ち良くって、

心底色魔というのはコワイ魔物なのだと震えた。

だって、じゃなきゃこんな風に抱かれて感じてるなんて・・・・・それこそ末代までの恥だって。

ぐ、といきなり腰の角度が変わって、目の前がチカチカした。

思わず衝撃から硝子に爪を立てる。

「・・・・爪、割れるよ」

思いがけなく囁かれた言葉に顔を上げると、ヤツの手が労わるようにオレの指を包んだ。

少し驚いて振り向けば、思いのほか優しい瞳。紫色の、発情した色魔の目になってたけど・・・・何だか妙に安堵する自分が居た。

「アンタ、名前なんてゆーの?」

まるで世間話でもするかのような口振り。突然のことに面食らっていると中心を掴んだ指に力を込められて、慌てて口を開く。

「雅紀・・・・」

何でそんなことを訊くのかと目で訴えると、ヤツは紅い唇を綺麗に歪めた。

「イク瞬間に呼んだ方がイイかなって思って。雅紀ね。」

確かめるように、何度もオレの名を囁く。それを耳元でやるもんだから、そのたんびにオレは肩を竦めるハメになる。

「・・・おまえは・・・・?」

何となく訊くと、ヤツはびっくりしたような顔でオレを見た。でっかい目が零れ落ちそう。

「・・・・んだよ」

「いや・・・・襲われてるのによくそんなこと言ってくるなあと思って」

うるせーな、訊きたかったんだからいいじゃん。それとも他のヤツの名前呼んで欲しいわけ?

軽く睨み付けると、ヤツはごめん、と苦笑してオレの頬にキスをした。

「潤って呼んで。」

とびっきりエロい低音で、耳たぶを食みながらのその言葉に、思わずびくりと震える。同時に動きを再開されて、オレは壊れたみたいに頷いた。

ものすごい浮遊感と、どろどろに蕩けている繋がった部分のアツさ。

「ん・・・・じゅん・・・・っ」

「そ。」

優しい優しい声が、低い響きで鼓膜に浸透する。まるで自分が彼の、トクベツになったかのような錯覚。声だけで感じてるみたいだ。

それに気付いた潤がさらにぐっと腰を押し付けてきて、カラダが前に押し出される。

「やっ、・・・・も、おちちゃう・・・・っ」

途端に、ナカに居た潤の質量が増した。

「―――ひゃ!・・・・・・あ、」

それに伴って潤を締め付けてしまって、内壁で感じたそのリアルなカタチに羞恥する。

ぞくぞくと背筋を浸蝕する快感。眼前に迫るような錯覚をもたらす硝子の向こうの夜景。

「堕ちればいい。」

低い嗤いとともに深さを増す注挿に合わせて蠢く自分の腰が、もう自分のものではないようで。

オレは迫り来るサイゴに逆らわず理性と意識を手放した。






背中越しに感じる潤の肌の熱が、やたらと鮮明で――――





それから、潤が囁いた言葉も。








       おちよう。いっしょに・・・・・・













てっぺんから。















*  *  *  *  *  *  *  *  *


→[Reset]






ふと目覚めると、そこはシーツの海だった。

独りじゃ余りあるほどの大きなベッド。目の前には見慣れない天井。

・・・・・・・ああ、そっか。あの後・・・・あの路地で逆に色魔に捕まって、連れてこられたんだっけ。でもこのだるさは一体何?

何か重要なことを忘れてる気がする。

あちこちが痛む身体をゆっくりと起こして、薄闇の部屋を見回す。窓はカーテンが引かれていた。良かった。朝陽浴びたら灰になっちゃう。

一箇所だけ明かりが漏れているのは・・・・・バスルームだろうか。

ぼんやりと眺めているとやがて水音が止んで、バスローブ姿のヤツが出てきた。手にはタオルを持ってがしがしと髪を拭いている。

その手がちょっと止まったのは、オレのことを見つけたから。

「おはよう。」

さらりと言って、ベッドの端っこに色魔が座る。そのまんまヤツをじっと見ていると、怪訝そうな顔でこちらを覗き込んできた。

「・・・・まさか目開けて寝てんの?」

起きてるよっ。いくらなんでもそこまで抜けてねーっての。

むっとしてぷいっと顔を背ける。するとやけにゴキゲンな笑い声が背中に降ってきた。

「やっぱ噂はホントだったね。」

ウワサ?

その言葉が気になって振り返る。ヤツはタオルをベッドサイドに放り投げ、ベッドの上のオレににじり寄ってきた。

「オイシかったよ?ゴチソウサマ。」

ちゅ。という音と、頬に濡れた感触。

・・・・・・・・なっ!

「な、何だよおまえっ!なにがごちそうさまなわけ!?」

意味わかんなくて(わかりたくなかったからかもしれないけど)飛び退いたオレを、ヤツの長い腕が引き寄せる。

「ココも、ココも、このナカも、すっげぇ美味かった。」

ニヤニヤ笑うヤツの指が示したのは、オレの唇と、ムネと、・・・・・・下半身。

熱っぽくオレを見てくるヤツの目に、昨夜の記憶が断片的に蘇る。一気に顔に熱が上がった。

「はっ、離せっ!!」

腕の中でじたばたと暴れると、苦笑しながら解放してくれる。なんだ、案外そんなに厄介なヤツでもないのかも?

なんて思いながらそれでもオレはベッドの端っこまで這って行ってヤツから距離を取って、更に枕を二つ抱えて全裸な身体をガードした。

この色魔、オレのこと喰いやがったのかよ・・・・!

オレが腹ペコだったってのに、自分だけイイ思いしやがって・・・・・って、あれ?

「・・・・・・腹、いっぱいになってる・・・・」

昨夜あれだけオレを苦しめていた空腹感がキレイさっぱりなくなっている。どういうこと・・・・?

「アンタ、俺の生気貰ってったじゃん」

繋がりながら。というヤツの言葉に思わず耳を塞ぎたくなったけど、確かにこの充実感は生気をもらった後のモンだ。

「で、俺はアンタの精気を貰ったわけ。」

いつのまにやらまた近くまできていたヤツに腕をとられ、ゆっくりと唇の上から牙の辺りを撫でられた。

「ギブアンドテイクってやつだろ?そんな怒るなって」

だからってどさくさにまぎれてキスすんなー!

牙を剥きそうなオレの頭をよしよしと撫でて、ヤツは極上の笑みでにっこりと微笑んだ。

「これで俺ら、一蓮托生なわけだ。」

「はっ?」

開いた口がそのままのかたちで固まってしまう。そのせいで力の抜けた腕から枕を奪って排除し、ヤツが間合いをつめてくる。

ぎゃー、腰抱くなよ!

「意味わかる?一生一緒ってことね」

「うるせーな、そんくらいオレだってわかるっての」

ってか、そうじゃなくて、何でイチレンタクショウなのかってことだろ問題は!

「色魔と交わった奴は死ぬまで虜だろ?」

そうだけど・・・・・・あ・・・!

「で、アンタは吸血鬼だから死ねない。つまりアンタはずっと俺のモノってわけ」

何だよそれー!!

あんまりなショックに口をパクパクさせるしか出来ないオレに、ヤツの唇が再び迫る。

「ん・・・・ふ、・・・ぁ」

ねっとりと絡め取られた舌が熱い。そのままベッドにそっと押し倒されてしまったことに気付いて慌てて、オレはヤツの肩を押しのけた。

「アンタもう、俺以外に抱かれらんないようになってるハズだぜ?」

キスだけで息が上がってしまってるオレにそんなことを言って、ヤツは心底嬉しそうに首筋に吸い付いた。

「・・・・・・・。」

悔しいけど、反応してるよこのやろう。

「・・・・生気。」

「ん?」

「くれんなら、一緒にいてもいい。」

睨みつけながら言った台詞に、ヤツは満足そうに頷いて笑った。




「・・・・あ。」

「どうしたの?」

「たまには血も飲ませろ」

「気が向いたらね。」

ヤツの唇がムネに寄せられる。ぎゅっと髪を掴んで、名前を呼ぼうとして・・・・・オレは半開きの唇で停止した。

「おまえ、名前は?」

「昨日教えただろ?」

昨日?昨日・・・・・飛んじゃっててよく覚えてないんだよ残念ながら。

頭を捻っているオレをよそに、ヤツの標的はどんどん下っていって。

徐に、その紅い唇がオレを包み込んだ。途端に襲う、爪先まで痺れるような感覚。

「ぁっ、じゅ、・・・」

・・・・・・思い出した。潤だ。条件反射ってやつだろうか。こんなことされて思い出すなんて、ちょっと自分が恨めしい。



一晩ですっかり『潤用』に変えられてしまったカラダを嘆きつつ、それでも心地よい愛撫に身を任せてオレは、そっと目を閉じた。





end.



間違っているのは、だあれ?




[トリプル・トリップ]






オカシイよね。

みんなみんな、間違ってるって言うんだ。



オレはただ、二人が好きなだけなのに。










遮光カーテンのスキマから、陽の光が零れてくる。

細い細い線を描くそれは、シーツの足元を横切って。

白い布の下で脚を動かすたびに、直線が歪んでオレを責めているみたいだった。

あの向こうのセカイは、オレたちを疎外する光に満ち溢れた空間だ。

大きなこの部屋は、淀んだ空気と噎せるような色の香で埋め尽くされた檻。

ぴちゃり。

灯りを落としている闇の中に響く水音。

絡めた舌と脚と指とで紡ぐのは、何モノをも生み出さない退廃的な行為であると、そんなことはオレたちが一番良く知ってることで。

ひび割れたモラルと埃の積もった固定観念で武装したヤツらに言われるまでもない。

   知らないくせに。

キモチとキモチがあるだけで、こんなにも気持ち良くなれるなんて、知らないくせに。

「・・・・・相葉さん」

静寂を継続するように耳朶に密かに滑り込んだ囁きにふるりと震える。

「な、に・・・」

悪戯に肌をくすぐる指に声を弾まされながらオレを見下ろしてくる顔を見上げると、起き抜けの重い瞼にキスが落ちた。

「寝ないでくださいよ」

「寝れねーよ・・・」

オレの強情な眠気が脳を夢へと戻そうとしたけれど、もう身体は良く知った愛撫に律儀に熱を返し始めている。

わかっているだろうに小言を言うさまが、ほんの少しだけ憎い。

かり、と目の前の顎に噛み付いてやると、お返しにと言わんばかりに手にした中心を引っ掛かれた。

「あっ、にの・・・」

背筋が疼いて思わずシーツを蹴る。光の線がまた歪んだ。

しぃ、とオレの唇に空いた方の指を当てて、ニノが額にくちづける。

「声出さないで。起きちゃうよ」

「だって・・・っぁ!」

出させてるのそっちじゃん、と批難しようと開けた唇は、ぐっと先端に押し込まれるようにされた指によって悲鳴を上げる羽目になった。

眠りに落ちる直前までどろどろに蕩かされていた体のそこここが、僅かな愛撫で花開くように熱を孕む。

息を呑むようにして抑えようとする声が、春を迎えた猫の鳴き声みたいで耳を塞ぎたかった。

「にの・・・・っ」

ゆるゆるとした動作は繰り返すくせになかなか決定打を与えてくれないニノが焦れったくって、縋るように腕を掴む。

ニノはそんなオレにふわりと微笑むと、煽り立てる掌に力を込めた。

「ぁ、あっ・・・」

意識が、原色のセカイを疾走する。

ふわふわしたトコロへダイブしていくような感覚だけが身体を支配して・・・・

「――――俺も混ぜてよ」

唐突に掛けられた低い声にびくりと身体を竦ませると、剥き出しの肩に優しいキスが落ちた。

「潤・・・」

「あーあ、相葉さんが声出すから起きちゃった」

ニノの些か残念そうな声音に苦笑した松潤の指がオレの前髪をさらりと梳く。

「ダメでしょ?」

俺抜きでキモチ良くなったりして。

耳元に刻み込まれるような、優しい優しい声。でもオレは、この声がどんなに甘くて残酷か知ってる。

ニノの指とくちづけ。

松潤の声と愛撫。

どっちも蜂蜜のような灼け付く甘さと痛みをくれて・・・・オレはいつだって理性の向こうのホンノウを引き摺り出されてしまう。

だけどそれはオレ自身が望んでることなんだって。こころのずうっと、奥底で。

「もうこんなになってるの?」

シーツを剥がれて剥き出しになったオレの身体を見下ろして、松潤が笑った。

恥ずかしさのあまり閉じようとした大腿を、ニノが掴んでとめる。

二人分の視線をソコに感じて、何もされていないのに蜜が溢れてゆくのが自分でもわかった。

「ゃ・・・・」

耐え切れなくて両腕で目元を覆うと、ふわりと空気が動く気配。

ちゅ、と可愛らしい音に反して身体を襲った衝撃に、びくりと震えて慌てて視界を晴らす。

目線の先では松潤の綺麗な唇が、オレのを包み込んでいた。

だめ、と力なく呟いた声は、その強い猫みたいな目に跳ね除けられる。

「だめは相葉さんの方だよ。ちゃんと見て」

ぐいっとニノが腕を掴んで、上体をベッドの上へ起こす。後ろから抱きかかえられて、目を閉じるなと優しい声で拘束された。

松潤が動くたびについさっき押し留められた欲望がせり上がってきて、頭の芯が軽く痺れる。

解放したくてねだるように髪をくしゃくしゃとすると、松潤が目だけで笑って、ゆるく歯を立てたまま頭を引いた。

痛みと気持ちよさがごちゃ混ぜになって出口に向けて疾走する。

高い声と共に放たれた絶頂の証が、松潤の頬を白濁で汚した。

「――――あーあ」

震えるようにして息を整えていると、ニノのからかうような声が聞こえた。

「どうすんの相葉さん?潤君の顔汚して。」

くすくすと愉しそうな笑い声が鼓膜に響く。

松潤の、白に汚れた肌をぼんやり眺めながらニノが言ったことを頭の中で繰り返そうとしたけれど、

つまびくみたいに胸元を弄る彼の指に思考が崩されていく。

それでも、ごめんなさい、と半ば無意識に小さく呟くと、にっこりと笑った松潤が音も無く間合いを詰めた。

「怒らないよ。・・・・・きれいにしてくれれば、ね」

きれいに・・・・。

松潤の、強い目線に引き寄せられるように彼を抱き寄せて、そっとその肌に舌を這わせる。

苦味が口腔に広がったけど、松潤が嬉しそうに笑うからこれはイイことなんだと思った。

暫く松潤の頬を『きれいに』していると、何だか腰の辺りがぞくぞくしてきた。いつもこうだ。

舌を絡めてキスをしたり、ニノや松潤に奉仕したりしていると、身体が疼いてくる。

舌もキモチイイトコロだからだって、ニノが言ってた。

「また元気になってきたね」

「ぁ!」

遠慮の無いニノの指が、勃ち上がりかけていたトコロを妙にゆっくりと撫でる。

ギターの弦を操る硬化した表皮が擦れて、思わず松潤の首に縋った。

「舐めるの大好きだから」

あやすみたいにオレの髪を撫でながら、松潤はそう言ってニノと笑い合う。

ニノの指が止まってくれなくて背筋がぞくぞくとするけれど、頑張って松潤についた液を全部舐め取る。

最後の一滴をちゅ、と吸い取ったら、いい子だと頭を撫でられた。



* * * * *



「ゃ・・・んっ」

押し広げられる感覚を、手繰り寄せた枕を抱き締めて耐える。

うつ伏せで腰だけを抱え上げられた、酷く恥ずかしい格好で、ニノの指がナカに入ってくる。

「解れてんじゃん」

背骨に沿ってキスを落としていた松潤が、ソコを覗き込みながら楽しそうに呟いた。

「ゆうべいっぱいしたもんね?・・・・ほら、オンナノコみたい」

蠢くニノの指を貪欲に喰い締めてるソコは、オレが息をする度に引き込むように動いて卑猥な音をシーツへと零した。

「とろとろだね、相葉さん」

「ぁ、あっ」

くちゅりという音が耳につく。枕を握り締めている手が白くなるのは、キモチイイせいだけじゃなくて。

「こっちもね」

松潤の手が、身体とシーツの間に入ってきて、リングに戒められて痛いくらい膨張しているソコに触れた。それだけで腰が震える。

「真っ赤になってる」

「や、くるし・・・・・」

ニノがどっからか買ってきたシリコン製のコレは、いっつもこうやってオレを苦しめるから嫌い。

でも・・・・

「でも、好きでしょ?」

ぐり、と先端に力を入れられて、目の前に火花が散る。松潤の手の中のものが、

体液をだらしなく零したのが自分でもわかった。ほらね、と耳元で囁かれる。

「ふふ、ニノ、もっとしてってさ」

「ヨダレ垂らしてる?」

「うん」

シーツの上で震える腰の下を覗いて、二人がくすくすと笑い合う。

「ねえ相葉さん、ほしい?」

ニノの声が、ふわふわと霞がかったように聞こえる。

なにを、くれるの・・・?

「ほし・・・・」

よくわからないまま何とか頷く。何でもいいから、出させて。楽にして。

「どっちがいい?」

  俺と、潤君と。

ニノの丸い指が、髪を撫でて耳介を掠める。左耳のピアスがちょっと引っ掛かって、それにすらオレは肩を竦ませた。

「どっち・・・?」

「そう、選んで?」

ニノと、松潤と・・・・・?

オレは、どっちも好きだよ。選ぶなんて。

「・・・・・・りょうほう・・・」

一瞬、空気が止まって。

それから、松潤が軽く噴き出した声でまたほどけた。

「・・・・欲張りだね」

低く笑った唇が、目尻にキスを落とす。

二人が、前と後ろどっちがいい?とか話してたけど、そんなのどうでもいいから早くコレをどうにかしてほしかった。

「相葉ちゃん、力抜いててね?」

松潤が、オレの頭を撫でてくれる。ふにゃふにゃになってるオレを、ニノが抱き起こして後ろ向きに抱きかかえた。

「んぁ・・・っあ―――・・」

柔らかくなっちゃってるナカの壁を押し広げて、ニノが入ってくる。自分の体重でずるりと奥まで達したのがわかったけど、痛みは無かった。

キモチイイ。気持ちいい。

胸の前にまわされてるニノの腕に縋り付いて、細く長く声を上げると、なだめるみたいにうなじにくちづけられる。

「脚、開いて」

松潤が囁く。頭で考えるよりも先に勝手に脚が開いて、繋がってる部分にニノが指を這わせた。

「や・・・にの」

それ以上触られたらおかしくなっちゃう。たたでさえイケなくてもどかしいのに。

「広げなきゃ痛いでしょ?それとも自分でやりたいの?」

力なくニノの手を引っ掻いたオレの指を軽く撫でて、優しく笑ったニノがぐっと両の親指を挿し入れた。

「――――ひっ」

視界が真っ白になるかと思った。束縛されているところがまた、雫を零す。

「力抜けって」

「や、ぁっ・・・・ゆるし、・・」

痛いのか気持ちいいのか、それすらもよくわからなくて、だけど粘膜が広げられてゆく未知の恐怖とリアルな感触に、そんなことを口走った。

オレは誰に赦しを請うているのだろう。


  はいるかな?

  大丈夫だよ。


そんな言葉を夢うつつのどこかで聞いて、その後は、意識が飛んだ。












女の子みたいな声が聞こえる。

泣いてる。――――鳴いてる。

下半身が、熱くてだるい。

思わず目の前の肩にしがみついたら、優しく髪を撫でられた。

「ァあ、あっ」

可愛いね、と背後から睦言を囁かれる。

ふわふわで、とろとろ。

そんな桃色の空間に浮いてるような感覚。

二つのカタマリが、ナカを掻き乱す。

否応無しに引き出される快感が、大きな波となって襲い来る絶頂が。

「ぁ・・・・に、のぉ・・・、っじゅん・・・」

ストロボに包まれた錯覚とともに、オレの何もかもを、攫っていった。



ニノも松潤も、だいすき。

ふたりとも、オレだけを見ていてくれるから。

ねえ。

ずっとずっと、三人でいようね。

この、熟れ切った果肉のような甘い甘い、檻の中で。










――――――それがオレの、しあわせ。










end.
大野くんの、元気がすこぶるない。


嵐って不思議な感覚がある。

俺らの世代の皆、それこそグループ同士でも何でも、
仲が悪い奴らってのはさほどいない。
いくらなんでも、20歳を過ぎた頃から皆、大人になって、
互いが互いにとっていい位置をきちんと見つけて、
仲良くやっていた。



3  竹本  2008/07/17(Thu) 22:56



でも嵐は、20歳を過ぎた大人の距離じゃなくて、
本当にあの昔のレッスン室で、
昼の休憩をもらってみんなでたわいのない話で盛り上がって、
レッスン終わった後もフローリングの地べたに座ってぐだぐだ話すような、
体験したことはないけど学校の部活動の仲間のような、
そんな雰囲気がいつでもあって。
かと思えば互いに踏み込めない位置や、気を使う部分も多いようで、
なんとも絶妙な5人だなと、他人事のように思うこともあった
(って他人だけどさ)


4  竹本  2008/07/17(Thu) 22:57




ずっとずっとずっとずっと、それこそ兄弟よりも家族よりも恋人よりも、
とほうもないぐらいに長い時間ずっと一緒にいる5人は、
年を重ねるほどにおおらかで、子供っぽくて、嵐らしい。
そんな空気になっていっていた。


何度か邪魔したことのある、楽屋の雰囲気。
大野くんはいつだってぼけーっとしていたけど、
話をしている輪から外れることなく、たまにぽつぽつ会話に参加したり、
俺らの話を聞いて首の後ろの髪をいじっていたりした。
かと思えば手をいじりだしたり、色々だ。
その時の表情は「無心」って感じで、なんか面白かった。



5  竹本  2008/07/17(Thu) 22:58


ドラマの役が抜けないのか、
大野くんはいつだって、1人座って出番を待っていた。
共演者が話しかけると、きちんと顔を上げて大野くんとして接している。
色濃く残る疲れの色は、さすが嵐だ。
レギュラー3本かかえて、新曲リリース決まって。
(つり、行きたいんだろうな)
やっと時間のつくれた日、CDをどさどさ買っていたら、
大野くんのぼんやりした顔が頭について離れなかった。
自分のこの趣味のようには、気軽にいけない事を楽しみにしている彼だ。
(明日は、ご飯さそって食べよう)


6  竹本  2008/07/17(Thu) 23:00


















7  竹本  2008/07/17(Thu) 23:01



「めし、いらねーやおいら」
(おいら、って言った)
勝手にほっとしながらも、そういったぼんやりした顔を見て、思わず顔をしかめた。
最近、大野くんと会話を交わすとき、
大野くんの事を探してしまう。
スーツ姿でぼんやり佇む大野くんは、半分役につかっているみたいだ。
それは自分の勝手な意見であって、
大野くんは役につかっているわけではないだろうけど。
「食べないの?ダメだよ、ちゃんと食べないと」
今日は弁当ではなくて、せっかくのそろったロケだったから、
共演者と皆で近くにご飯を食べに行こうと言っていた。
もう、皆は衣装のままだけど、ちらほら準備をしている。
時計は午後2時をさした。遅い昼だ。入りはほぼ2人同時。
朝から今までずっと。



8  竹本  2008/07/17(Thu) 23:02


「なんか、弁当は食べれそうにないからさ、マネージャーに頼んだ」
ただぼんやりと、そう答える大野くん。
「外は行かない?軽いものもあるような場所だよ。」
「うーん。いいわ。もう頼んじゃったよ」
簡素なパイプ椅子に座っている。
スーツジャケットを脱いで、ネクタイもゆるい格好ならよかった。
今の大野くんは、成瀬のスーツをきっちり着込んでいて、
首の後ろの髪をいじった。
大野くんのくせ。上に上げた腕、
スーツから見える手首の細さに口を尖らせた。



9  竹本  2008/07/17(Thu) 23:03




大野くんは、まわりを見ていないようで、結構見ている。
「だいじょうぶだって。行ってこいよ。いいよ、おいらは」
渋い顔をした俺に軽く笑いながらいって、目をそらさない。




10  竹本  2008/07/17(Thu) 23:05


「大野さん、いかないんですか?」
少し成り行きを見守っていた声がした。
ジャケットを脱ぎ、眼鏡を外した圭だった。
それでも大野くんはますます明るく、
行きたかったけど、頼んじゃったよ。と言う。
「いいよ、ごめん。俺、マネージャーにもう頼んだからさ、」
圭はその言葉と大野くんの笑顔を見て、少し心配そうな顔を覗かせた。
(おーちゃんは本当に、人に好かれるのがうまいな)
2人の表情と、少し止まってしまった空気に口をつぐむ。
その時。


11  竹本  2008/07/17(Thu) 23:06




「こんにちはー。」
なんとも落ち着いた声がした。聞き覚えのある声に、
俺も、大野くんも、圭もいっせいにそちらを見る。

「、翔くん、」
「いやー。皆さんお疲れー。」


12  竹本  2008/07/17(Thu) 23:08



翔くんは、Tシャツにジーパンというラフな格好で、
サングラスを外しながら笑っていた。ていうか、いきなり現れた。
手ぶらだ。なんでここに?




13  竹本  2008/07/17(Thu) 23:10



「とうま、おー、久しぶりー。あ、どうも始めまして。櫻井です。」
翔くんは軽く手をあげながら俺に、そして初対面の圭に挨拶した。
「どうも、初めまして」
「翔くん、どうしたの。いきなりだなー。」
動いた空気にすがるように大き目の声を出してしまった。
大野くんは、翔くんを見て、なぜか何も言わない。
眉にしわをちょっとだけ寄せて、
びっくりしているのか、何なのか分からない表情だった。
「マネージャーから連絡入ってさ。今からちょっと急用で、別行くみたい」
「マジで?誰?」
「松潤かなぁ。智くん、携帯今持ってないでしょ。電話したんだけどって、
俺、ちょうど智くんのとこ行く予定って言ってあったからさ。」
たんたんと交わされる会話。
そっか、と大野くんは下を見て、考え込んだ。
その手はまた、首の後ろにある。


14  竹本  2008/07/17(Thu) 23:11



「ね、じゃあ翔くんも一緒にさ、ご飯いかない?
今、皆と外行こうっていってたんだ」
思い切って、切り出してみた。
共演者の中に1人だけ、っていうのも、翔くんだったら絶対大丈夫だ。
なんだかんだ、認識ありの人も1人ぐらい、いるかもしれない。
「そうだね、ぜひ」
圭も翔くんの顔をみて誘った。
今日の昼休憩は、少し長めになったのだ。
今から皆で出かけても、きっと急いだ昼にはならない。




15  竹本  2008/07/17(Thu) 23:12




大野くんは、顔をあげて、でも立っている俺らまでは上げないで、
「じゃあ・・・」ともらした。
そして翔くんを見上げると、伺うような目になる。
(あれ?)
その時、笑顔で翔くんが言った。


16  竹本  2008/07/17(Thu) 23:13


「あ、ごめん。実は俺、智くんと話すことがあるんだ。」
大野くんの表情が、別のものに変わる。
でも、その表情が何を意味するかは、とっさには分からなかった。
「ライブのことで、まぁ急ぎじゃないんだけどさ。
ごめん、誘ってくれたのに。」
翔くんは本当に申しわけなさそうに言う。
「・・・そ、っか。分かった。」
もうこれで、大野くんは今日の皆とのお昼には不参加だ。
自分から誘ったのに、一緒に行きたいと思ったのに、
なぜだかほっとした自分がいて、
「でも!ちゃんと昼あとには返してよ?俺らの魔王なんだから」
ふざけて、翔くんに返した。
「そりゃもう、ちゃんと日焼けさせないように帰すよ」
ははは、と笑いながら翔くんが返す。
「田中さんも、今度機会があればぜひ。」
笑顔で言われて、圭もこちらこそ、と返した。


外に向かって歩きだすと、すぐ後ろで翔くんの声がする。
「じゃ、俺らも行きますか。ラーメンにしようか、智くん」
大野くんの立ち上がる音がした。でも、返答がなくて。
耳に少しだけ神経をとがらせると、次に聞こえたのも翔くんの声だった。
「それとも他のがいい?近く、あまり知らないけど」
2人も、離れて自分達と同じ方向に向かってくる音がする。
その、かすかな足音にもかきけされそうな、
大野くんの返答をかろうじて聞き取った。
「ラーメンでいい」とだけ、小さく答えていた。





「どうしたんだよ、いきなり」
こんな深夜に掴まってくれるとは思わなかった、と思いつつ、
翔くんの言っていた事を思い出した。
「いや、なんかさー、今日おーちゃんのお昼がラーメンだったから。食べたくなって」
「んだよ、それ」
笑いながらサングラスを取り、松潤はコップに注がれた水を飲む。
深夜1時を回っていた。そんなことを忘れさせるこってりとした匂いが、
店に立ち込めていて、でもクーラーが涼しくきいていて、
おなかがぐうとなった。
「リーダー昼飯ちゃんと食ってる?」
「・・・・・・」
黙ってしまった俺を見て、松潤が唇を少しつきだして、?という表情を作る。
誰が言ったんだっけ。ファンの子だっけ。
今の松潤は、髪型のせいか、犬みたいだ。





ちらほら集まっていた皆のもとへいくと、
俺らの乗り込もうとしていた車の後ろから、ガチャリと音がした。
待っていてくれた共演者にあやまりながら少し振り返ると、
翔くんがこちらに向かって礼をしていた。
大野くんが助手席に乗り込む。笑顔で軽くあいさつを投げた翔くんも、
運転席に収まった。
「大野さんも?」
「ううん、大野さんは、櫻井さんが少し用事あるから、別でとるって」
聞かれて、圭が答える。
2台になるから、場所が分かるか、じゃあ先に出るから後からついてきて、
そんなやり取りをしている間に、後ろにいた翔くんの車の方が先に発進した。
そばを通り過ぎる時、ちゃんとあけた窓から、翔くんが声をかけた。
「じゃあ、すいません。少しの間、うちのリーダー借りますね。」
誰にでも好かれる人だ。初めての人ばかりなのに、
しかも翔くんめっちゃ私服なのに、
皆もいえー、という感じで軽く会釈した。
(・・・おーちゃん、)
思わず、地面を見てしまった。











「翔くん行ったんだ」
「うん、そう。俺さ、なんか、おーちゃんに何にもできてないんだよ。」
選ぶのに時間がかかったラーメンはまだ到着していない。
おーちゃんは、一体何味のラーメンを食べたんだろう。
どこにつれていってもらったんだろう。
突然現場に現れた翔くんに。
「リーダーきつそう?」
「・・・きついんだろうと思う。朝はやいし、夜遅いし。でもそれだけじゃなくて、
おーちゃん最初で言ってたけど、役のことあるから、あんまり話せないね、って。
だから、おーちゃんご飯もあんまり皆とは食べないし、会話にも入ってこないし、
でも話しかけたら当たり前だけどおーちゃんだから、なんか・・・
俺が何かしたいんだけど、何もできなくてさ」


つりに行くのを我慢していた大野くんは、
でも現場ではつり雑誌なんて読まなかった。
嵐の楽屋では最近ずっとそうしていると聞いていたのに、
少しの時間休む為の部屋にも、鞄からも、
そういった類のものは一切出てこなかった。


体力的な疲れもあるんだろうけど、
スーツ姿でぼんやりしている大野くんは、
ただじっと耐えているみたいだった。



今日、翔くんの車の助手席に座る大野くんの表情は、見えなかった。
ただ、笑顔で挨拶をする翔くんごし、
少しだけ確認できた大野くんは、
少しシートを倒して、何かジャケットを上からかけて、
顔は帽子で隠れていた。
眠っているみたいに、シートに収まっていたのだ。


「翔くんがラーメン食べに連れ出したんでしょ?」
「そう」
「今はね、皆がリーダー甘やかしたいんだよ。
翔くんなんて、久しぶりのオフ、しかも午前中だけだよ多分。」
「すごいね」
「翔くんはまぁ、特別っていえば、特別だけどね。」


話は聞いていて、不思議に思いつつも
2人が揃う場面に出くわす機会が、そう思えばなかったんだ。
大野くんの今まで見たこともない表情や、
いつもと変わらない翔くんや、
倒された助手席のシートで眠るように収まる大野くんを見て、
なんだか複雑な気分になった。


翔くんにとっての大野くんは、なんとなく分かる。
大野くんにとっての翔くんは、どんな感じなのだろう。
あの大野くんがみせた、表情が忘れられなかった。
「ニノの時も思ったけどさ。おーちゃん、嵐の誰かがいるとき、
すげーほっとしてる気がする。動きがのびのびしてるし、
ぼーっとしてても、安心できる。」
ははっ、と声を出して松潤が笑った。
「俺も行っちゃおうかな、ドラマ現場。
ぼーっとしてるのに安心できないリーダー、見てみたい」



ラーメンの味は、リーダーが最近ハマってるっていってたよ、
と松潤が漏らしたとんこつにした。
深夜のラーメン屋は、不思議な特別感、
こんなこと深夜にやってやってるぜ、的な空気がして、
すがすがしかった。
(明日もお昼さそうぞ、)
決意して、起床時間を想定しつつ、水を頼んだ。







(圭くんとか松潤も書いてしまいました。皆、大野さんが心配!
 次から大野さん視点ですー)








疲れると甘いものが欲しくなると聞いたことがあるけど、
俺は翔くんばかりが欲しかった。
どんなに忙しいときでもかまってくれたあのやさしさを、
ただ受け取れる時間さえあればよかった。
(なんで翔くんなんだろう、)
翔くんは時折、多分信号待ちのたびに、
俺の手にふれてくれる。
自然に息が吸える気すらするような、ただやわらかいもの。
(泣いちまいそう、)
体の力が抜けて、そのまま眠りたかった。
向かう場所は2人きりになれるところがいい。
少しでもいいから、体全体をぎゅっと抱きしめて欲しかった。
(大野さんは疲れると甘えたになっちゃうね)
ニノが最近言っていた言葉を思い出しながら、そのまま眠ってしまった。


「・・くん、智くん。」
呼びかけに気付いて、浅い眠りから目を開けると、
どこか薄暗い場所に車は停止していた。
隣には、翔くんの笑顔。
眉がちょっとさがってるし。
(きっと、心配させてるんだろうな)
でも、本当に本当に、本当に体力的に限界で、
今は翔くんしかいないから、ただぼんやりとした目だけで起きた事を伝えた。


「・・・大丈夫?」
前髪にふれながら問いかけてくる声に、また眠くなってしまう。
うん、と頷くだけで返すと、
翔くんはドアを開けて運転席からおり、
わざわざ助手席に回ってきて、ドアを開けて、体を潜りこませてきた。
「つれてってあげる」
腕に腕をさしいれて、腰を引き寄せられる。



キザだって笑ってやりたいけど、声が反則的に低くて、穏やかで、
途方もなくやさしくて、不意に泣き出したくなってしまった。
自分が本当に疲れているのだ、と自覚してしまうような、
ものすごい甘い声だった。
本当は断りたいのに、
まだ安静にしていてほしい右手を握るだけでいいのに、
泣きたくなった顔を見られたくなくて、自らすがって首に腕を回した。





首元に顔をおしつけるように、しがみつく。
真昼間から、スーツ姿の男をお姫様抱っこするジーパン野郎って、
なんかこう色々すごすぎるだろ。
だけどそんなこと言えずに、
翔くんのにおいがとたんにして、たまらなくなる。


ベッドにそのまま座らされて、翔くんは車を閉めに行った。
ただぼーっとしている。
ここがどこかも知らないし、自分がどれだけ寝ていたかも、
(そういえば、休憩何時までなんだろ)
ドアの閉まる音。翔くんも隣にきて、
ジャケットを脱がしてくれた。
ネクタイまでゆるめて、何してくれるんだろ。



「・・・っ、翔くん」
翔くんて本当に何がしたいんだろ。
知ってる、翔くんだってしぬほど忙しくて、
その中でやっととれた休日だったはずなんだ。
明日からもまた朝から5人そろっての仕事がつまっていて、
何かするなら今日の今の時間しかないはずなんだ。

なのにどうして俺の現場に現れて、俺を連れ出して、
わけわかんねー事に腕枕で寝かせようとするんだろうか、
バカじゃねーの、キザかよ、俺以外にしたら絶対ひくよ、

(だから俺以外の人になんか絶対やらないで、)

少しでもいいなんて大嘘。
ずっとこうしてたい。

「ていうかここ何処だよ・・・」
説得力なく、必死に翔くんのシャツにすがりながら言えば、
押し付けた俺の髪に頬をすりよせて、翔くんは腕を回した。
「智くん、寝ていいよ。」
肩をゆるく引きよせて、ぎゅっと全体を抱き込まれる。



朝早く起きて、ずっとスーツを着込んで、集中して演技して、
深夜遅く帰宅して、また朝起きる。
その繰り返しで、先が長くて、
鉛のように蓄積される疲れを、どうやってほぐせばいいのか、
自分の体なのだから自分が一番よく知っている。
ただ、人肌の温かみを感じて、そのまましばらくくっついていたかった。
嵐の現場にいる時はほっとできた。
皆がいて、ただいるだけでよくて、ニノは手を繋いでくれたし、くっついてくれた。
自分の中の疲れと向き合えて、それを癒そうと力を抜ける。


だから翔くんしばらくこのまま、離れないで欲しい。


「眠っていいよ・・・起こしてあげる。」
(翔くんが好きだよ。)
こめかみに落とされたキスと、近づかないと聴こえない音量の声で、
体の奥底に沈んでいた疲れが、じわりとにじみ出た。
重いだろうに、俺の肩を一層引き寄せて、
深いため息を吐き出して、翔くんは俺の前髪をひとたば撫でる。





(頑張ってるから、少しだけ休ませて。)




翔くんにだって声ではいえない気持ちを、
いつも俺からすくい上げてくれて、ありがとう。
 もう、過去の事だ。
 そう割り切るには、今も光一の心臓が痛み過ぎる。思い出す、なんて行為にすらならなかった。いつでも意識の片隅にある、あの頃の剛の姿。
 大人と呼ばれる年になっても、相方に劇的な変化は訪れなかった。病院通いは変わらなかったし、すぐに死に引きずり込まれるのも相変わらず。
 夜を恐れているのに、闇に簡単に飲み込まれる彼の脆い精神。
 光一は、出来る事なら自分一人で弱い相方を救いたかった。たった一人の人。
 もう、あの頃には自分の最後の人だと決めていた。彼と生きる事、彼を支える事に少しの迷いもない。
 罵られてもこの手を振り払われても、無理矢理に蹂躙されても。心にある愛は少しも曇らなかった。
 汚く淀んだ世界で見つけた、唯一美しい人。剛だけが愛しい。欲しいと思った訳ではなかった。
 でも、奪われても良いと思った。
 それだけが真実だ。



 夜は剛を苦しめる。一日の精神状態を見て、彼に付き添うか決めるのも仕事に組み込まれているに等しかった。剛の暗闇に入って行けるのは自分だけ。それ
は優越感であり、痛みでもある。
 周囲の優しい大人は、光一が其処まで深入りするのを嫌がった。自分の事だけで良いと、言ってくれた言葉が愛情で満ちている事を知っている。けれど、こ
の役目は誰にも譲れなかった。
 そして、一人にした途端、剛は死んでしまう。社会的に、と言う意味で。
 今日は危ないと踏んで、帰り際剛に悟られないようにマネージャーへ告げた。マネージャーは一緒に闘ってくれる人だ。剛の闇に引きずられないように、光
一を見守ってくれていた。
 仕事の一環と言われればそれまでだけど、それ以上の心配と心遣いを感じられる。深く沈んだ瞳で、けれど尚優しく笑ってくれた。宜しくな、とバックミ
ラー越しに言われて、光一は頷く。
 これから訪れるのは、決して楽しい時間ではなかった。彼は多分、自分が剛に何をされているのか知っている。知っていて何も言わなかった。
 朝、剛と手を繋いで出て行く自分がどんな風になっているのか、分かっている。
 口の端に傷を作った日もあった。鎖骨に消えない歯型を残されたり、手首に癒えにくい擦り傷を付けられた事さえも。
 全部知っていて、大切に手当てまでしてくれて尚、何も言わない。全部、仕事をする為だった。仕事でしか繋がっていられない、光一の臆病な人間関係。
 剛に、光の世界で生きてもらう為に。
 彼がどんなに拒絶しようとも、スポットライトはその存在を待ち構えている。立ち直る日を、じっと。
 だから光一は頑張らなければならない。剛の為だけにしか存在価値を見出せなかった。不要な人間でも構わない。この光に拒絶されようとも仕方なかった。
だって、自分には剛のような才能がない。
 唯、彼を救いたいと願うだけだった。



 事務所の車に送られて、剛のマンションに到着する。目を瞑ったままの彼の手を引くと、そっと声を掛けた。不機嫌な目をちらりと向け、光一の手は簡単に
振り払われる。
 心が痛むのにも頓着せず、後を付いて車を降りた。マネージャーの方は振り返らない。
 これから、現実を捨てて闇へ堕ちるのだ。優しさは欲しくなかった。エレベーターも無機質に明るい廊下も、窒息しそうな沈黙で満たされる。
 辛い。苦しい。怖い。帰りたい。嫌だ。
 自分の中にはまだ、正常な恐怖があった。狂気を飼っている人間の中に進んで飛び込める程、自分は強くない。
 無言で促された真っ暗な部屋には、いつも迎えてくれる温もりがなかった。これから忙しくなるからと、彼の家族が連れ帰ったのだろう。
 温度のない部屋で、主人を待つのは辛い。この冷気に触れるのは、自分だけで良かった。
 これが、自分に与えられた使命。この世界で生きる意味。
 自分自身の事を頑張るのは当たり前だった。居場所を与えられて、其処で自分を磨くのは使命ではない。
 ならば、今此処で必死に繋ぎ止めようと足掻いている自分の存在こそが、生きている証。誰にも渡せない使命。
 剛。お前の手が何度俺を拒もうと、何度でも俺は手を伸ばす。お前を光の下に連れ戻す為に。
 其処に互いの感情が介在しないから辛いのだと気付いていた。剛は戻る事を望んでいない。俺は。
 剛が苦しいのなら、そっとしておいてやりたい。
 誰にも言えない、自分自身さえ偽りたい本音だった。光の世界で生きて欲しいと願う正常な希望すら潰えるような闇の中。何も産まない世界で心安らかにい
られるのなら、それで構わなかった。
 だから、辛い。でも決して弱音は吐きたくなかった。剛を光の射す場所に連れ戻す事が自分に課された使命だと信じている。
 事務所初の二人だけのグループだった。長年子供を育てて来た事務所の人間ですら、きっと俺たちの扱い方を知らない。
 二人きりでずっと乗り越えて来た。失敗だなんて言われたくない。
 光一には負い目があった。幼い頃、剛の後ろに隠れてばかりいた事。剛だけを信じていた事。
 だから、この世界の重圧に耐え切れず壊れてしまったのは、自分に原因がある。同年代の子供が救える筈もないのに、そうして光一は弱音を閉じ込めてし
まった。幼い頃の罪悪感の為に。
 周囲の大人も光一は強く在るのだと疑わない。剛は、真っ直ぐ自分を見詰める相方といると苦しくなった。置いて行かれたのだと、子供の身勝手さで思って
いる。
 最初から、分かっていた。
 許されない関係だと知りながら手を伸ばしたのは、唯好きだったから。お互いを、誰よりも愛していたから。誰にも渡したくなかったから。
 理由は単純で、けれど他人に理解されることはないのだということも充分に分かっている。誰も、許してくれなかった。
 離れたら死んでしまうと思うのに、周囲の大人は自分たちの手を解こうと必死だったのだ。無理なのだと気付いてくれることはなかった。互いの手を離したら、僕たちは死んでしまうのに。
 まだ幼い頃に、自分たちの判断で手を離したことがある。本当は離した訳じゃなかった。離した振りをしただけ。
 大人に隠れて繋いだ手は、一度も離れることがない。多分、これから先もずっと。
 けれど、剛は知っていた。
 大人に嘘を吐いたあの日から、光一は苦しんでいる。間違っているものを許容出来ない潔癖の精神は、剛に好ましいものに映ったし、同時に嫌悪すべき対象でもあった。
 どうして。
 俺はお前がおればそれだけで良いのに、お前はあかんの? 勝手に作られた常識に縛られるの?
 幼い自分は、どうしても納得出来なかった。振り返れば、あれは光一の優しさなのだと気付くことも出来る。臆病で他人との接触が苦手だった彼が、懸命に自分のことを考えてくれた。それだけのことだったのに。
 大人になった剛は、今も残る光一の幼さに気付いている。彼はまだ、怯えていた。
 自分との関係の異常性に。正しくないものを抱えている二人に。
 怖がる光一が可愛くないと言ったら嘘になるけれど。
 もっと信じて欲しかった。この愛を。逃れることの出来ない宿命を。



「パズル」



 近年、仕事では別々が当たり前になってしまった。グループでいられる時間は少ない。
 誰も口にしないけれど、多分みんな気付いているだろう。俺たち二人を一緒にいさせない為に、グループでの活動を減らしたのだということに。
 その理由を、光一は自分以上に背負っていた。本当は、仕事だけの関係であれば良かったのだと思う。今更考えても仕方のないことを、臆病な恋人の為に考えた。
 自分たちは、最初に間違えている。出会ったあの日からずっと、必要なのは互いだけだった。
 二人きりになったのは、大人の強制だった筈だ。どうしようもなく不安で怖くて、だから互いに手を伸ばした。体温でしか癒せないものがあることを、多分他の子供たちより切実に感じていたのだ。
 伸ばした手を、後悔することなんて出来ない。光一を愛した記憶全てが剛にとっての宝物だった。
 彼が罪悪感を抱く度、辛い気持ちと堪え切れない幸福感が剛の心臓を支配する。愛されているのだと、実感出来た。
「こぉいちさん」
「……ん?」
 呼んだ先の反応は遅い。ソファに懐いていた光一は、先刻から余り動いていなかった。眠ったのかとも思ったけれど、唯微睡んでいるだけだ。
 同じ部屋で同じ時間を過ごす。何でもないことで満ち足りた気持ちになった。光一が傍にいる。それだけで良かった。
 同じソファに座って、剛は雑誌を読む。長い沈黙の後に普通の声で名前を呼ぶのも慣れた光景だった。
 仕事で一緒にいられないのなら、二人の時間を二人で作るしかない。近い場所に住んだのもその為だった。一緒にいたい。単純な欲求だった。
 雑誌に目を遣ったまま、手探りで光一のうなじに触れる。俯せになった状態で、何をするでもなく傍にいる彼は、本物の猫のようだった。
 剛が猫を飼う気にならないのは、大きな猫が一緒にいるせいなのだと思う。光一以外の猫はいらなかった。これ以上気分屋の生き物を飼う精神的余裕は、剛にない。
 おざなりに髪を梳きながら、なるべく何でもない仕草で呟いた。触れたうなじがびくりと揺れるのを感じる。
「明後日な、飲み会あるん。一緒に行こ?」
「……行かへん」
「何で?」
「何でも何も。行かんもんは行かんの」
 顔を上げないまま、子供の声音で呟いた。光一ともうずっと、一緒に出掛けていない。二人のレギュラー番組はさすがに一緒に参加するけれど、それ以外では頑なに彼が拒んだ。
 二人でいることに怯えて、二人でいるリスクを恐れて。強い精神を持つ光一が、唯一弱く幼くなる瞬間だった。
 俺はもう、お前と一緒にしか生きられんのにな。
 誰に何を言われても、離れることなんか出来ない。弱かった自分を殴ってやりたくなった。あの日の弱さがあるから、光一は今も怯える。
 二人でいることに罪悪感ばかりを抱いた。彼が安心して手を伸ばせるのは、二人きりの部屋だけだ。
 可哀相に、と思った。愛することに手を繋いだことに、彼は後悔ばかりを重ねる。
「光ちゃんに会いたいってみんな言うとったで?」
「みんな?」
「ぉん、昔少し一緒になったスタッフさんがおるんや。テレビでしか見ないけど、変わってませんか? 言われてな。じゃあ、今度連れて来る言うたんや」
「勝手に約束すんな。大体俺、仕事」
「ちゃんと大丈夫な時間やもん。駄目? あかん?」
「……あかん」
「光一」
 呼んで、今度はおざなりではなくきちんと手を伸ばした。嫌がる光一の腰を抱えて、膝の上に移動させる。向かい合う形で見上げれば、困ったように瞳を伏せた。可愛い人だと思う。
 何年も長い時間を過ごしているのに、未だに恥ずかしそうなうぶな反応を見せた。だから、飽きないのだろう。一つ一つの仕草を記憶に留めても、まだ足りない。
「そんなに、俺と一緒にいるの嫌?」
「違う!……けど、でも」
「仕事ん時に、あーんな強気の癖して。どうして、俺とのことはいつまでたっても逃げたがるんやろな」
「剛」
「もう、俺は離れる気あらへんよ」
「俺は……お前が悪く言われんのやだ」
「光一と、男と、付き合ってるから?」
「ん」
「阿呆やな、光ちゃん。何度も言うてるやろ。お前が恋人なんて知ったら、嫌がられるどころか羨ましがられるわ」
「あり得へん」
「強情っぱりやなあ。そこが可愛いとこやけどね」
「可愛い言うな」
「こぉちゃん。俺が、守ったる」
「……違う。守るのは、俺」
「やったら、逃げんのやめよ。一緒に出掛けたって、誰も怪しまんよ。俺らはおんなじグループなんやからさ。不思議なことなんて一個もない」
「行って、ええの? 平気?」
 ぎゅっと抱き着いて来た光一を、しっかりと抱き締める。強い精神を持った彼の、唯一の弱点。
 唯一のものになれるのならば、弱点でも良いと剛は思っていた。目一杯悩んで苦しんで、誰にも見せない部分を自分に渡して欲しい。それが、剛の強さになった。
 世界から目を背けて深い闇に落ちた精神を救った、光一の弱さ。端から見れば、確かに自分たちはおかしいのだろう。
 同性だから、なんて理由ではない。おかしいと糾弾されるべき部分は、外聞的なところになかった。手を繋いで立っている、その足許にある。
 支えることではなく、互いの弱さに依存することで成り立っている関係だった。けれど、なければもう生きて行けない。愚かだと笑われても良かった。
「ええよ。たまには、外に出ようや。お前最近、仕事以外で飯食ってへんやろ? ちゃんと美味しいもの食わなあかんよ」
「いらん。めんどくさいし」
「なら、おっちゃんが食わしたるわ」
「……一人で食える」
「相変わらずつれへんなあ」
「つられてたまるか」
 憎まれ口を叩く位がちょうど良い。離れたがる光一が、こうして腕を伸ばして来るのが嬉しかった。
 いつでも一緒にいることなんて到底無理だけれど。許された時間を、互いに許した空間を共にしたい。
 人に怯えたまま大人になった光一が本当に安心出来る場所は、自分の腕の中だけだと知っていた。だからまだ、自分は闇に飲まれる訳にはいかない。
 いつか、彼が消えてしまったら足許にある暗闇に全て渡しても良いと思っていた。けれど、いつかのその日まで。
 痛くても苦しくても、死んでしまいたくても。ここから逃げるつもりはなかった。
 死にたい、と全身が叫んでいる。細胞の一つ一つまで悲鳴を上げているのに。
 必死に無視をして、唯愛する人の為に生き残る。自分が逃げたら多分、彼も死んでしまうから。
 脆く強いアンバランスな身体。大切な、優しく愚かなその肌の隅々まで自分のものだった。
 誰にも渡さないし、きっと誰の腕の中にも納まらない。例え、愛以外のもので自分たちが繋がっていたとしても。誰かが彼を深く愛しても。
 離れることなんて、出来なかった。生きる為に傍にいる。愛する為に手を繋ぐ。他人の目を欺いても、誰に何を言われても、二人で生きて行きたかった。
 静かになった光一を抱き締めたまま、剛は祈る。けれどもう、それが祈りだったのか呪いだったのかは分からなかった。
 強過ぎる感情は、互いを縛る呪詛となる。



+++++



 案の定、飲み会を参加しないで帰るつもりだった光一を駐車場で捕まえた。一人で帰ろうと思っているのだから、たいがい彼も考えなしだ。
 マネージャーにもきちんと根回しをしていた。帰ることなんて出来る訳がないのに。小さな逃避を重ねる。
 しっかりと手を繋いで車に乗り込めば、眉を寄せて光一は黙り込んだ。そんな仕草も可愛くしか見えない剛には逆効果だということに、彼は気付いていない。
 店に入ると、繋いだ指先が強張るのを感じた。手を離したいとか、そう言う類いの緊張ではない。むしろもう、手を繋ぐことについては考えられていないだろう。
 光一の癖。一人でいる時は堂々たるものなのに、剛が一緒だと途端に子供返りを起こす。初めての場所、知らない人、賑やかな空気、そんなものに光一は怯える。
 小さく苦笑して、剛はその手を引いた。多少、見せ付ける気持ちはあったかも知れない。しかもそれは、相方や恋人としてではなく、自慢の子供を見せる父親の心境に近かった。
 可愛く綺麗な光一を傍に置いている優越感が強いことに、剛自身が気付いている。自慢したくて仕方なかった。同時に誰にも見せたくなかった。
 一通り挨拶をさせると、自分の隣に座らせる。声を掛けて来る人間を把握しておきたかったからだ。
「なあ、剛」
「ん?」
「俺、ええのかな。全然知らん人たちばっかりなんやけど」
「ええの、ええの。俺の相方なんやから。何の問題もあらへんやろ」
「そりゃ、そうやけど……」
「気にしないで、たまにはちゃんと食べて飲みなさい」
「……ちゃんと食ってる」
「はいはい」
 BGMに負けてしまいそうな音量で呟く光一の背中を撫でてやると、適当に置かれたアルコールを手にした。今日の集まりは、剛のスタッフを中心に音楽関係の仲間が集まったものだ。
 剛が知らない人間も沢山いた。たまには大きなお疲れさん会でもやるか、と言い出したのは剛本人だけど、セッティングをしたのはスタッフだから、黙って店内を観察した。
 スタッフの知人とか、友人の友人なんていうのも混じっているのだろう。基本は音楽業界の人間だから、どこのテーブルでも大体が音楽談義になった。剛と光一の座るテーブルも、知っている人間知らない人間を混ぜながら、近年の音楽の多様性についての話になる。
 隣に座る光一は、小さく頷くだけだった。普段の会議中の我の強さすら感じる姿はどこにもない。完全オフの恋人は、庇護欲をそそるばかりだった。
「光一さんは、自分で作曲もされますよね? 打ち込みですか? それとも生で?」
「……基本は、打ち込みが多いです。俺、あんま楽器いじれんから」
「いやいや、打ち込み出来るだけでも凄いですよ。僕はギター一筋だから、機械はからっきしなんですよね」
 にこやかに話し掛けている男は直接の知り合いではないけれど、見たことがある。真っ直ぐ過ぎる視線が、光一への好意を示していた。
 基本的に女より男にもてる人間である。大体予想していたことだから驚くこともないけれど、三十手前になってもまだそのあどけなさで人を誘惑するのかと思うと、少し笑えた。
 瞳を伏せて、手許ではグラスを弄りながら、それでも懸命に笑おうとしている姿が、どれだけこの男を煽っているのか。同性の愛に怯える位なら、まずその態度を直せと言ってやりたかった。
 自分との関係から逃げようとする癖に、今この瞬間でさえ雄を誘うその矛盾。
「光一」
「なに?」
 勝手に光一を誉めて盛り上がっている会話の中から連れ出すべく声を掛ける。救われたように顔を上げるから居た堪れなかった。
「何飲む?」
「……何でも」
「相変わらず主体性ない子ぉやね。酒飲むか? ウーロン茶にしとく?」
「任せる。帰りも一緒やろ?」
「うん、ならウーロン茶にしよな。帰れなくなると困るし」
「ん」
 素直に頷いた光一の頭を撫でてやれば、柔らかい表情を見せる。目の前の男が僅かに息を呑んだ。光一の表情の変化をきちんと見つめている。
 誰の手にも懐かない猫は、唯一の場所でだけ柔らかな息遣いに変わった。家の中にいる時には感じられない変化だ。
 光一に会いたいと言っていたスタッフがいたのは本当だけど、多分自分はこの表情を見たかった。他人に怯えて、唯一のものになる感覚。これからの人生で二人の関係がどう変わっていくかは分からないけれど、こんな風に光一が手を伸ばすのは生涯自分一人だと思う。
 せっかく連れて来たのに、今すぐ二人きりになりたくなってしまった。現金な自分を笑うことすら出来ない。
 光一は、運ばれて来たウーロン茶をちびちび口に含みながら、別のテーブルから話し掛けて来るスタッフの言葉に耳を傾けていた。そのスタッフは一緒に仕事をしたことがあるから、少し警戒心は薄い。目の前で動かない男が、何かに気付いたように剛を見た。
 勘は良い。でも、だからといって何が変わる訳でもなかった。
 今度は声に出さず、そっと光一の指先に触れる。きっとそれだけで理解すると思った。顔には出さず、でも全て理解したようにゆっくり瞬く。小さな合図。
 鈍感な癖に、自分とのことだけには随分と察しが良い。嬉しくなった。やはり、今すぐ二人きりになりたい。
「ちょぉすいません。俺、トイレ」
 立ち上がった光一は剛を振り返りもせずに席を立った。誰も気付かない。この喧騒の中で二人が欠けても、問題はないだろう。一応、発案者なのだからまだ帰る訳にはいかないけれど。
 少し間を空けて、剛も席を立った。相方とタイミングが同じなんて恥ずかしいですわ、なんて言い訳をしながら。騙されなかったのは、光一に好意を向けていたあの男だけだろう。
 今日は店自体を貸切にしている。トイレには行っていないだろうと思い、そのまま外に出た。案の定、扉の脇でちょこんと光一がしゃがんでいる。
「光一」
「帰るの?」
「違う。二人になりたかった」
「……っそんなんやったら、俺戻る」
「光ちゃん」
「やだ」
「強情張らんで。みんなのいる前では我慢したんやから」
「当たり前や、そんなん」
「言うこと、聞いて? ホントは帰りたいんやけど、さすがにまだ出れへんからさ」
「……やから、剛と一緒は嫌なんや」
「誰も見てへんよ」
 店は地下にある。外に出たといっても、誰かの目に触れる心配はほとんどなかった。きちんと計算して、今日ここに光一を呼んでいる。彼が嫌がるリスクはなるべく抑えてやりたかった。
 一緒に隣に座り込む。視線を合わせない光一が何を考えているのかなんて、分かりすぎる位分かっていた。
 彼が考えるのは、いつだって自分のリスクだ。手を繋いでしまった罪悪感を、常に胸に抱いていた。一緒にいてくれるのは、後悔よりも強い愛情があるから。
「こぉいち。手、繋いでもええ?」
「……嫌、言うたらやめてくれんの?」
「はは。お前は俺んこと、よぉ分かってんなあ」
「誰でも分かるわ、そんなん」
 言いながら、控えめに差し出された手を握り締める。なるべく優しい力を心掛けた。無理やり奪うような時期は、とうに過ぎている。
 掌を重ねて、指先を絡めた。近い体温は、何よりも尊いものに感じた。剛はキスが好きだけど、光一は手を繋ぐのが好きだ。
 安心した分だけ痛みを負うのに、彼は臆することなく繋がれた手を愛しいものだと言った。苦しい気持ちを持て余しながら、それでも尚愛を信じる。
 最後の最後で強い人だった。守ってやりたくなる程臆病なのに、痛みを超える強さを持っている。だから、目を離すことが出来なかった。
 アンバランスな光一の手を、ずっと繋いでいたい。
「いつになったら、光一は怖がるのやめるんかなあ」
「お前が結婚するまで」
「光ちゃんと?」
「阿呆か」
「阿呆とちゃうよ。やって俺、お前以外と結婚する気あらへんもん」
「俺はいやや」
「うん、お前はな。お前がそうやって我儘通すんなら、俺やって通したる。俺は、光一以外の人間の手を取るつもりはあらへん。光一が嫌がっても逃げ出したくても、離さへんよ」
「俺なんかの、どこがええの?」
「全部。……じゃあ、光ちゃんは俺のどこが良くて、俺と一緒にいてくれるの?」
「剛は……」
「ん?」
「良いとか、悪いとか。そんなんで考えられへん。剛やから、ええの」
「じゃあ、俺もおんなじ。な? あんま難しく考えんな」
「難しくない。でも、俺と一緒にいるのはあかん」
「光一。俺、強くなったよ? お前と一緒にいることを怖がらない位、強くなった」
 言いながら、顔を覗き込む。いつまでたっても愛情は堂々巡りだった。お互いシンプルなところに立ち返れば、単純に互いが好きなだけなのに。
 長い年月と二人の臆病さが、全てを駄目にする。光一はいつまでも前に進もうとしなかった。離れる術を今もまだ探している。
 不毛だと思うのに、その愛情が嬉しいとも思った。長い時間が自分の愛情を複雑なものにしている。
「何で、こんな、なんやろな……」
「うん?」
「何でこんな、剛だけなんやろ」
「運命だから?」
「そんな運命いらん」
「俺は、欲しいよ。光一が俺のものになるんなら、愛情でも運命でも他人の誹謗中傷でも、何でも欲しい」
「つよ、」
「そろそろ観念しようや。もう、三十路やで? こっから俺、新しい人見つけなあかんの?」
「……うん」
「そしたら、俺生涯一人やぞ」
「違う。きっと、ちゃんとした運命の人みつかる」
「ちゃんとした、って何なん? 俺は、光一しか欲しくないの。お前が離れるんやったら、俺はもう一人になるしかないで」
「何でそんな、哀しいこと……」
「哀しいこと言ってんのはお前やし、言わせてんのもお前。分かってる?」
 恋人を待つ辛抱強さはきちんと持ち合わせているつもりだが、残念ながら剛は気が長い方ではない。重い溜め息を零すと、腕を引いて抱き締めるのではなく肩を引き寄せた。
 相方という関係で言い訳出来るぎりぎりのライン。何も、光一ばかりが気にしているのではない。剛も剛なりに、世間的な立場を考えていた。
 理性で懸命に抑えながら傍にいる。多分、何が最後に残るか、なのだ。世間の目や一般論なんかより、光一への愛情が最優先された。光一より余程残酷だろう。
 剛の中に、「幸福」という選択肢はなかった。唯、欲しいものを欲しいと言うだけ。魂の欲求のまま手を伸ばす。そこに、計算はなかった。不幸でも構わない。彼が、傍にいるのなら。
「お前は、いつになったら俺を選んでくれるんやろな」
「嫌や。剛なんか選ばへん」
「いつもの強気で、俺んことも欲しがってくれればええのにな。もう、手遅れなんよ」
「そんなん言うな。俺は、苦しそうな剛を見たくない。お前には、ずっと笑ってて欲しい」
「ぉん、だから一緒にいてくれるんちゃうの? 俺は光一が一緒やから笑えるし、光一がいるから、まだ生きて行こう思えるんよ」
「……生き、て?」
「うん。光ちゃんが傍にいないんやったら、この世界にいる意味ない」
「っ駄目」
 光一は、剛の足元に巣食う闇に酷く怯えた。十代の頃の苦い記憶。この恋に苦しんで、いっそ闇に堕ちてしまおうと思った。
 あの時の恐怖を明確に思い出した顔で、光一は唇を噛んだ。可哀相で可愛い表情だ。
「やろ? やったら、傍におって。お前、俺が好きやろ?」
「好きなのなんて、当たり前や。でも、こんな風にずっと傍にいられない」
「何で?……ってもう、何度も繰り返したな。ええよ、そしたら。お前が一生を怖がるんなら、先のことなんて考えんのやめよ」
「剛?」
「いつもみたく、『今』のことだけ考えよ。今が積み重なれば、きっと永遠になる」
 幾ら言葉を尽くしても、多分逃げることばかりを考える光一には理解出来ないだろう。それなら、もっともっと時間を掛ければ良い。構わない。ここに来るまでだって、十年以上掛かったのだ。
 死が二人を分かつまで、堂々巡りを続ければ良い。何度だって言ってやる。傍にいて欲しい、と。お前だけが全てなのだと。
 愛よりも強い、呪詛の言葉で。
「さ、とりあえず戻るか。まだ盛り上がってるやろなあ」
「……うん」
 繋いだ手を引いて立ち上がった。まだ状況を飲み込めてないみたいな表情が愛しい。やっぱり勿体ないから、仕事以外は部屋に閉じ込めてしまおうと決めた。
 こんな頼りなげな光一は、心臓に悪過ぎる。指先を解くこともせず見つめて来るなんて、凶悪以外の何物でもなかった。



 繋いだ指の先から融合して、一つのものになりたいと何度も思った。
 けれど、その度に思い知らされる。別々の存在だから、確かめることが出来るのだと。違う体温が心地良いのだと。
 光一は、今もまだ逃げ続ける。二人の関係の距離感が掴めないまま、いつまでも幸福の道を探していた。
 ここにあるよ、と教えてやりたい。俺の幸せは、お前が全部持ってる。
 一向に理解しようとしない頭の固い恋人を抱き寄せて、何度も何度も繰り返せば良かった。愛してる、と傍にいて。その細胞まで記憶する程に。逃げ道なんて用意させない。
 ちょっと異質で異端な二人の関係は、きっとこれからも飽きることなく続いていくだろう。彼と手を繋いでいられるのなら、それも悪くない。
 永遠に解けないパズルが目の前にあるようなものだった。光一の望む幸福は、どこにもない。

 剛は小さく笑って、隣に座る恋人のうなじを撫でた。臆病な猫は、その仕草に敏感に反応する。可愛いな、と思いながら喧騒の中で早く帰ることばかりを考えていた。



おしまい
BUENA SUERTE !

08/05/03 issue



■Greeting■
こんにちは。もしくは初めまして。椿本 爽と申します。今回は委託での参加となりました。桜井さん、本当にありがとうございます。相変わらずお世話になっています。
さて、「スシ王子」のPRに踊らされた4月でしたが、司ちゃんのシングル発売で一応打ち止めですかね。本当に忙しかった……。追いかける方でこれなんだから、光一さんはどれだけ忙しかったんだか。
残念なことに、まだCDを引き取りに行けてません(泣)。DVDが素敵らしいとの話なので早く見たいです。こんなに可愛い光一さんばかり見られて良いのかな、とちょっと不安になる位なんですけどね。
映画は普通に楽しかったです♪色々とホントに下らない感は満載でしたが、でもエンターテイメントとしては良いのかも知れません。ドラマをほとんど見ないで行ったので、あーこう言うことをやりたかったんだな、ってやっと分かった気もします。
ファミマでうっかりレインボーロールを買ってみたり、ちょいちょいスシ王子に踊らされております(笑)。おかしいなあ。あんまり食い付いていない筈だったのになー。
そんなこんなでのんびりキンキさんを追いかけている今日この頃です。どんな〆だって感じですが、この辺で。またどこかでお会いしましょう。

■information■
 普段は、亀より遅いサイトの運営をしております。宜しければ、ふらりと立ち寄って下さいませ。
「SUERTE」   http://tomorrow02.hp.infoseek.co.jp/

■Ahead communicating■
 感想・苦情等何でも受け付けております。……お手柔らかにお願い致します。
mail:happy_21@mac.com

■Guide of book■
<新刊>
「blanco SUERTE 01」 P100/\1,000-
+合同誌総集編です。2003年から2006年に掛けての7冊分のお話を収録しました。残念ながら、書き下ろしはありません。あしからず。

<既刊>
「空に憧れた魚、海の底を夢見た鳥」 P36/¥300-
+禁断の「解散」話。2006年の年末から2008年頭に掛けての設定です。暗い話を淡々とした筆致で書く、と言うのを目指しました。余り後味悪くないように書いたつもりですが、お口に会わない方は多そうです……。

+++++



 翌日、正午を回りチェックインする客のリストを、光一は最終確認していた。いつもと変わらない午後になる筈だったのに。
 冬の温度を何処にも感じさせないフロントに、黒いスーツを着た男が四人やって来た。フロアにいた従業員全員が、その場で少し動きを止める。いつもとは違う緊張感だった。昨日剛の話を聞いたせいだろうか。
 スーツを着てビジネスマンの装いではあるけれど、放つ雰囲気が違い過ぎた。剛の事を連想せずにはいられない。
「いらっしゃいませ」
 声には緊張感を乗せず、平常通りの対応をする。一番背の高い男が、平坦な声で行った。
「叶君に会いたいんだが」
「叶、ですか? 何かお約束を?」
 義父の名が出た事で、営業用の笑顔が僅かに曇る。何故今此処で、義父の名前が彼の口から発せられるのだろう。
「否、でも会ってくれる筈だ」
 訝しげな視線をちらりと見せ、一瞬の間が生まれる。何処の誰なのかは全く分からないけれど、とりあえず普通の人間じゃない事だけは確かだった。
「……分かりました。お名前は?」
「東京から来た、とだけ言えば分かる」
 通常通りの対応に戻した光一は、内線で社長室をコールした。六コール目で繋がった叶に伝えると、通せと言う声が返って来る。義父のいつになく重い声が気に掛かった。
 エレベーターに乗り込む四人の後ろ姿を見詰めながら、訳の分からない焦燥感が高まって行った。



+++++



 剛は決意を固めて、光一の部屋の前に立っていた。深夜のこの時間なら仮眠を取っている頃だろう。それともいつものように、見ていないテレビの前でぼんやりしているだろうか。
 多分起きているだろうと思い、廊下に響かない程度の小さなノックをする。案の定扉はすぐに開いた。
「剛……」
 いつもならすぐに口許を綻ばせ、嬉しそうに笑ってくれるのに。今日の光一は、何だか不安定な顔をしている。その表情に不安を覚えたけれど、今はそんな事に構っていられなかった。
「ギター、もらいに来てん」
 眠れずにいた自分の所に剛が来るのは何処か運命に似ている、と光一はいつも思っていた。けれど今日は。
 何かが違う。きっと、何かが始まるのだ。開口一番言われた言葉よりも、剛の表情に目を奪われる。
「なんで?」
「何でって……俺のもんやん」
「ちゃう。そう言う事言うてるんやなくて。……入り」
 光一の声音にやはり黙って出て行く事は不可能だったのだと知る。部屋に入ると、窓際に置いてある椅子に二人向かい合って座った。そう言えば、この部屋に入って椅子に座る機会は余りなかったと下らない事を考える。
「俺な、行かなあかんとこあんねん」
「それは、出掛けて帰って来るん? それとも、出て行ったきり戻って来ないん?」
「……すぐ、帰って来る」
 真っ直ぐな、嘘を許さない瞳。それでも自分は愛しさに負けて、嘘の言葉を重ねてしまうのだ。
「今日ホテルに、って言うか社長の所に変な客が来た。それと何か関係ある?」
 聡い光一に、剛は言葉を失う。見た目の仕草や愛らしさについ忘れてしまうのだが、頭の良い人間だった。このホテルを仕切れる程には。
「光一。俺の話、聞いてくれるか」
「何でも。剛の事だったら何でも知りたい」
 今まで自分の過去を決して話そうとしない剛だったから言わなかっただけで、彼の事ならどんな小さな事でも余す事なく覚えておきたいと言うのが本音だった。
「今俺を追い掛けてるんは、俺の親父やねん」
 真剣な瞳で語り出した剛の過去は、自分の生きている世界とは違い過ぎた。全てを受け止められるか不安になる。
「剛のお父さんが、何で?」
「俺が殺したんが母親やからな」
 穏やかとさえ言える表情で言った言葉の重さに、光一は顔色を失った。剛はそんな彼の変化を気にしつつも、真実を愛情の代わりに渡して行く。
「俺の親父な、博徒の親分やねん。で、母さんは親父の情婦の一人やった。な、どうしようもない所に生まれたやろ」
 咄嗟に返す言葉を持てずに、光一は黙り込む。それでも、彼らがいなければ剛は生まれなかった。光一は痛む心臓に手を当てて、剛の話を聞く。
「まあ、でもそれなりに幸せやってん。母さんはシャンソン歌手でな。親父はその歌声に惚れたんやて。だから、上手く行ってたんや。……俺が生まれるまでは」
 急にトーンを落とした声にぞくりとする。
「俺が生まれて全部変わってもうた。親父な、俺が自分の子ぉやって信じなかってん。母さんがどっかの男に孕まされた言うてな。そっからはもう、地獄やった」
 父親が何故剛を自分の子だと認めなかったのかは今も分からなかった。けれど、何かどうしようもない理由があるのだろう。でなければ、愛した人間に出来る仕打ちではなかった。父親の狂気は、自分の中にも流れている。
 剛が中学生になる前に母親は地下に軟禁状態となり、薬物中毒者にされた。正気の沙汰ではない。日々狂って行く母親を剛は見る事しか出来なかった。
「俺が十八になる事には、もう廃人同然でな。多分親父はあれでもゆっくり壊して行ったつもりなんやろうけど。俺が行っても、分からんねん。いっつも歌ばっか歌ってたなあ」
 物悲しい母の歌声が今でも聞こえて来そうな気がした。何も映してはいない虚ろな瞳が今も忘れられない。
「それでも生きてる間は一緒にいようって思ってたんや。俺が誰か分からんくても、俺が母さんを分かってれば良いって。そしたら……」
 剛はあの時の様子を鮮やかに思い浮かべる事が出来る。いつもと変わらず母は歌っていた。見えない空を見上げて、子供のように。シャンソンの悲しい声だけが、母を人間だと証明する唯一の物だった。
 そんないつもの光景が、突然壊れたのだ。
「母さんの目が、もう何年も合う事のなかった目が合ってん。目が覚めたみたいな表情で母さんは其処にいた。何処にもいないと思っていた人が、ちゃんとおんねん。……ほんのちょっと、母さんが意識を正気に戻したんよ」
 それは、奇跡としか言いようがなかった。二度と会えないと思っていた母が。あの一瞬、世界は喜びに溢れていた。
 けれど。思い出したくない光景に剛は唇を噛む。光一が心配そうに見詰めていた。その真っ直ぐな瞳は、あの時の母に少し似ている。
「母さんな、俺に言うんよ。自分の息子にしか頼めないって。最後のお願いを聞いて欲しいって」
 剛は弱々しく笑いながら、それでも必死に言葉を紡ぐ。光一に全部渡すと決めた。
「殺してくれ、って。こんな姿になってまで生きたくない。あの人を憎みたくないからって。あんな奴憎めばええのにって、思うたけどな」
 光一の瞳が驚きに見開かれる。他人の手で幸せに育てられた光一には、想像もつかない世界だろう。
「母さんの手は薬でどうやっても力が入らんかったから、自分で死ぬ事も出来なかったんや。何度も何度も殺してくれ言われてな。やろうって決めたわ。このまんま生きてたってどうしようもないのは良く分かってたし、俺が息子として出来る唯一の事やったから」
 俺が生まれたせいで、父は母を愛せなくなった。生まれなければ良かったと、何度思ったか知れない。
「なるべく痛ぁないように、睡眠薬で眠らせてから喉をかっ切った。母さんが死ねたら自分はどうなっても良いって思ってたんやけど、最後に……」
 光一は剛の人生を運命を全て心に受け止めたかった。ほんの少しも零したくはないと、不可能な願いを抱きながら。こんなにも愛を知っている人が、何故哀しみばかりを享受しなければならなかったのか。
「最期に言うんよ。『こんな事やらせてごめんな。お前はちゃんと生きるんやで。生きて、母さんに歌を聴かせて』なんて」
 剛が言葉を詰まらせる。母を殺して尚、母の為に逃げ母の為に歌っていた。それはきっと、愛情と言う枠に納まるような思いではないだろう。
「母さんの脈が消えて、きちんと死体を浄める所までは良かってんけどな。逃げる事全然考えてなかってん。其処が失敗やったなあ」
 すぐに見つかってしまった剛は、組の人間が総出で探している東京を逃げ回った。自分の出入りする所は全部押さえられていたから、車一台手に入れる事も出来ない。
 母の約束の為に、こんな風に逃げた所ですぐに見つかるのは分かっていた。一日中走り回って疲れ果てた剛は、公園のベンチに座り込む。
「もう終わりやなって思った。立ち止まったら殺されるって。それでも良かってん。ちょっとしたら本当に組の人間がやって来て。囲まれたわ」
 その中に、もう何年も姿を見ていなかった父が立っていた。ヤクザになる気は元々なかったし、母親の事もあったからなるべく会わないようにしていたのに。母を不幸にした張本人が、目の前にいたのだ。
「俺をわざわざ追っ掛けたんは、面子の為やと思ってん。したらな、親父泣いてんねん。博徒の親分がやで? 自分の女を薬漬けにした男がやで? 俺は見間違えたんかと思った」
 周りを囲まれた剛は、まさしく人生最期の瞬間だったと言うのに。妙に冷静な自分がいるのを感じていた。
「何であいつを殺したんやって、俺に詰め寄るん。母さんを廃人にした男が、愛してたのにって泣き崩れたんや。俺は親父が母さんを愛しているだなんて思った事、一度もなかった」
 不器用な男だったのだろう。愛を愛と言えずに、壊す事でしか表現出来なかった哀れな男。
「愛して、たんなら、もっと方法はあったのに。短絡的でどうしようもないわ。俺も母さんもあんな親父の為に生きる方法間違えて……っ」
「もう、もうええ。剛」
 剛の瞳から涙が溢れた瞬間、黙って聞いていた光一が立ち上がって剛の手を強く掴む。
「俺はそんな話聞きたない。剛に泣いて欲しい訳ちゃう。唯、今此処にいて笑って欲しいだけやねん」
 駄目だ、と剛は思った。この愛しい人を置いて行く事なんで出来る訳がない。
「剛は此処を出て、また逃げるん?」
 遠く、遠くへ。二度と手の届かない所まで。
「……ああ」
 父親の告白を呆然と聞いていたら、突然横から腹を刺された。その瞬間、何処からか母のあの物悲しい歌声が聞こえた気がして。
 逃げなければ、と強く思ったのだ。腹に残った短刀を引き抜いて、父親の足を思い切り刺した。そうすれば、周囲の人間に隙が生じると思ったのだ。自分は腹を刺されているから動けないと思っている可能性も高かった。
 案の定逃げる隙を作った剛は、血の流れる腹を押さえながら走った。自分の何処にこんな力が残されていたのかと思う程。あの時の自分は間違いなく、気力だけで走っていた。
 そうして、この街に辿り着いたのだ。自分はきっと、この街に来て本当の意味で生きる事を始めた。目の前にいる彼に出会ってから。でも。
「お前は、大事にされて育ったんやな」
 苦々しく笑って関係のない話を持ち出した剛の意図が読めずに、光一は困惑する。
「この街が好きか?」
 それはまるで、二択の問いに聞こえた。俺とこの街とどちらが好きなのかと。自分の答え一つで。二人の人生は離れてしまう。
「好きや。この街も人も、全部」
 答えは出ている。愛しさよりも苦しさが滲む声で言うと、剛は小さく「そっか」と呟いた。剛の前に立ったままの光一はどうしたら良いのか分からずに、愛しい男の顔を見詰める。
 静かに時間が流れていた。自分と剛の、長くはない時が。
「……愛してる」
 光一の手を握って立ち上がった剛は、そのまま細い身体を抱き締めた。強く強く。離れても忘れないように、その匂いを感触を温度を全て覚えておこうと思った。
 宝物は、返さなければならない。
 暫く経つと「帰るわ」と呟いて、ギターケースを片手に剛は出て行った。光一は何も言う事が出来ずに、唯唇をきつく噛み締めた。



+++++



 何か得体の知れない物が光一を取り巻いていて、その流れに翻弄されているような気がした。
 それでも日々は、同じ速度で過ぎて行く。光一は何も変わる事がないまま、今日も仕事をしていた。けれど確実に何かが動き出している。
 叶は東京から来たと言う人間が帰ってから、忙しなく動き回っていた。そして、呉野の様子が可笑しい。何故彼まで動き出すのか、光一には全く分からなかった。
 叶の部屋にコールを入れても出ないので、直接光一は社長室に向かっていた。義父が社長室で寝てしまうのは日常茶飯事だ。
 ノックをしようとして、扉が僅かに開いている事に気付く。そっと中を覗くと、予想通り机の上で突っ伏して寝ている叶と、その寝顔を見詰める呉野の姿があった。
 そろそろ開店時刻になるこの時間に彼がいるのは珍しい。何が起きているのか。分からない。分からなくても良いと思った。
 呉野の表情に、光一は胸を突かれる。優しいような、壊れそうな顔をして。指先が愛しさを伴って叶の毛先を梳いていた。
 その光景の美しさに見蕩れていると、不用意に光一は音を立ててしまう。呉野が気付いて顔を上げた。
「……光一」
 バツが悪そうに呟いた呉野は、眠る叶をそのままに部屋を出る。
「何か義父さんに用あったんやないんですか?」
「あー、うん。もう終わったから大丈夫。光一、今平気かな」
「平気、ですけど。呉野さんこそ、お店平気なんですか?」
 光一の言葉に笑うだけの呉野の後を付いて、二人並んで外を少し歩いた。
「光一にずっと話してなかったなあと思って」
「何をです?」
「どうして僕の子じゃなくて、叶の養子にしたかって話。光一、ずっと気になってただろうに、今まで一度も聞いた事なかっただろ」
 それは確かに気になっていた事だけど。それよりも何故今こんな話を持ち出すのかが気になった。悪い、予感がする。
「光一を叶の子にすれば」
 その理由を何度も何度も考えた。結局答えが一つしかない事に気付いたのは、随分と昔の事になる。
「僕と叶の間に、消える事のない繋がりが出来ると思ったんだ」
 自分の考えと寸分も違わない答えを呉野は渡した。彼の考えを狡いとか利用されたとか思った事は一度もない。
 その言葉は、絶対的な告白だった。彼は自分が剛を好きなのと同じように、叶の事が好きなのだろう。
「僕達が生まれたのは、北の寒い所で……。其処で叶は僕の太陽だったんだ」
 淡々といつも通りの静かなトーンで彼は話す。幼馴染みだった呉野は、どんどん荒れて行く叶が心配でしょうがなかったと言う。
 近付いては離れると言う関係を続けながら、呉野は地元で普通に就職をした。そのまま静かな生活をして行けば良かったのに。東京に行った叶の噂を聞き、いてもたってもいられず地元の生活を全て捨てて出て来てしまったのだ。
「どうしても足を洗って欲しくて。色々な事をしたよ。痛い目にも沢山あったし、少しでも叶の事が分かりたくて、夜の仕事もやったしね」
 呉野がクラブを始めたのも、きっと叶が影響しているのだろう。
「真っ当な職に就いて欲しいって何度も言って。ちゃんと生きなかったら、僕が死ぬって脅したんだ。今考えると、何て傲慢で考えなしだったんだろうって思う。でもね、本気だったんだよ。本当に死んでも良いって思ってた。約束を、して欲しかった」
 呉野が叶に抱く思い。それを愛と呼んで良いのかどうか、光一には量り兼ねた。彼もまた、約束を求めている。約束の出来ない男を相手に。
「……約束、守ってくれたから。僕は、幸せ者だな」
 呟いた言葉は冬の風に流されて、光一の耳に上手く届かなかった。暗い表情を振り払うように、呉野は立ち止まる。
「僕の人生はほとんど叶を追い掛けてしまったけれど、人間が太陽を求めて生きるのは本能だから。だから、僕の人生は他人にどう思われても、幸せなものだったんだよ」
 そう言って笑う呉野が余りにも綺麗で、本当に幸せなのだと分かる。悲しそうな声とは裏腹な穏やかな表情だった。
 ふと、彼がいつもと違う服装である事に気付く。スーツを着ているのは変わらないけれど、手にしたコートやセットされていないままの髪が、店に出ている時と違った。
「これから、どっか行くんですか?」
「……ああ」
 少し含みを持たせて呉野が頷く。風が強かった。嫌な予感ばかりが胸を占める。優しい表情に差す僅かな闇を見逃す程、光一は疎くなかった。
 呉野はそれを知りながら、闇を隠す事なく笑う。揺るがない意思が、其処にあった。光一は何も言えずに、その強さを見詰める。最期の肉親である彼の横顔を。

「大丈夫。昔から、運は良い方なんだ」

 独り言のように呟くと、歩かせ過ぎたねと笑んだ。呉野と別れて逆方向に歩き出すと、不安に駆られて振り返る。彼が今このタイミングであんな話をするから。小さくなって行く後ろ姿が、堪らなく怖かった。

 その日を境に、二度と呉野の姿を見る事はなかった。



+++++



 事態をきちんと把握出来ないまま、光一は決断を迫られていた。何を決めたら良いのかすら分からないのに、焦燥感だけが此処にある。
 昨日の夕方に別れてから、呉野の姿が見えなかった。自宅も荒らされていて明らかに普通ではないのに、叶は動こうとしない。朝からじっと籠っている義父に焦れて、光一は社長室の扉を乱暴に開けた。
「義父さん! 呉野さんいないんやで。何で探しに行かんの!」
 朝からクラブの従業員と、手の空いている街の人間が皆で探していた。呉野の告白を聞いたせいかも知れない。動揺一つ見せない表情に苛立った。
「何でっ。呉野さんは、義父さんの事っ……!」
「光一!」
 いつになく強い叶の声に、光一は息を飲む。義父が落ち着いていられる筈はなかった。じっと座って耐えてはいるものの、その瞳は必死の色を見せている。
「それ以上、言わなくて良い。俺はあいつと二つ、約束事があるんだ。一つはどんな事があっても友人である事。……意味、分かるな?」
 光一は静かに頷いた。彼らは互いに思いを通じ合わせていながら決して触れる事はなく、唯ずっと傍にいたのだ。そんな愛情がある事も分かる。何が幸せかなんて人それぞれだった。
 けれど、叶に触れた呉野の指先を思い出す。柔らかな仕草には、愛しさだけ。哀しい、と思った。手を伸ばせば触れられる場所で、互いに耐えるよう遠く距離を保つなんて。
「もう一つの、約束は?」
「……そっちは、果たせそうもねえんだよな」
 ぽつりと漏らしたその声は、いつもの義父らしくなかった。普段は晒す事のない、叶の弱さ。呉野が、彼の弱点である事位とっくに分かっていた。
 けれど、すぐにいつもの強い瞳に戻して、父親の顔で笑う。長い時間ずっと、この強さに守られて来た。
「触れられずに終わる思いもある。それで良い人間も確かにいるんだ。でも、お前達はそうじゃないだろ?」
 光一は驚いた表情で叶を見詰める。今まで賛成も反対もしなかった義父が、初めて踏み込んで来た。許してくれているのだと、気付く。
 剛を愛する事。遠くで見守る事なんて出来ない恋だった。手に入れて、触れて、確かめたい。
「剛に会ってお前は嬉しそうに笑うようになったよ。綺麗なだけの笑顔じゃなくて、ちゃんと生きてる顔だ。溺れられる位の恋なんて、しようと思って出来るもんじゃねえんだから。お前は欲がなさ過ぎるよ。もっと、欲張りに生きろ」
 剛はこのホテルの三階にいると、教えてくれた。



+++++



 三階の三〇一七号室。この位置は、一階が丁度光一の部屋になる。ドア一枚隔てているだけで遠く感じるのに、こんなにも一緒にいたのだと思う自分がいた。
 思い切って部屋をノックする。剛と出会ってからの日々の中で、今が一番緊張しているかも知れない。程なくして扉が開いた。
 警戒されてると思うから例えお前でも簡単には開けてくれねえぞ、と叶に言われていたのに。余りに呆気無く開いた部屋には、ちゃんと剛が立っていた。
 手に持った銃が剛の緊張感と、そして自分達の世界の隔たりを教える。部屋に入るとすぐにロックされた。緊張と高揚。どうしたら良いのか分からない。
 ほんの少し会っていないだけだったのに、零れそうな程の愛情が胸に迫った。剛が何も言わずに抱き締める。銃ごと抱き締められて、背中に硬い感触が当たった。
 鉄の塊を持っているだけで、全然知らない人間に見える。そう思ってしまう自分が怖かった。腕を回すと、今此処にいるのは剛だと確かめる。
 こんなにも、愛しいなんて。
「俺も、お前と一緒に行く」
 その言葉に、剛は慌てて身体を離した。拒絶の言葉を向けられる事が容易く分かって、僅かに光一は笑う。
「光一!」
「行く。もう決めた」
 拙い言葉は、駄々を捏ねる子供のようなのに。揺るがない決意を剛に教えた。
「俺とおったら死ぬかも知れん」
 呉野のように、とは言えなかった。死体を決して見つからないようにしてこちらの哀しみを煽るのは、彼らの常套手段だ。
「一緒に死ぬか離れて死ぬかの差やろ? それなら俺はお前といる」
 素直に生きると決めた。剛にも自分の気持ちにも。欲しい物は欲しいのだから。
 自分の人生と引き換えにしても、剛が欲しかった。
「それに。俺が離れたらお前終わるけど、俺が隣におったら、死ねんやろ?」
「……お前、いつからそんな男前になったんや」
 こんなに素直な光一を剛は知らない。そして、こんなに愛しい存在だと言う事も知らなかった。改めて、心臓に根付いた恋を知る。
 愛しくて切なくて、もうこの思いだけで満ちてしまう。いっそこのまま、と思ってしまうような。
「何か、持って行くものとかは?」
「何も」
「俺も光ちゃんおったら何もいらんわ」
 二人して額を合わせて笑い合う。まるで思春期の恋人がする絵空事の駆け落ちのようだった。



+++++



 風が、冷たい。
 この辺りの寒さは、十二月より一月の方が厳しかった。街を飲み込むかのように雪が降り続ける。二人してコートを着込んで、通用口から出る為に廊下を歩いていた。ひっそりと、誰にも見つからないように。
 ギターも置いて来た。剛はどうやらギターケースの底に隠した銃を取り戻したいだけだったらしい。
 しっかりと手を繋いで扉を開けようとした時、後ろから名前を呼ばれた。振り返れば其処には叶が立っている。掌から剛の緊張感が伝わった。
「……剛?」
 叶を前に、何故剛がこんなにも緊張を募らせるのかが分からない。
「ちょっとこっち来い」
 通用口から一番近い部屋に入って行く叶の後を、光一を庇うように付いて行く。部屋に入ると落ち着いた様子を見せて、叶は椅子に座った。剛と光一は寄り添うように立ったままだ。
「……あんたやろ?」
 静かに重く口を開いた剛に「そうだ」と叶は頷いた。光一一人だけが取り残され、会話に付いて行けない。そんな息子に気付いた叶は、事態を説明する為に口を開いた。
「俺が東京に、剛を追い掛ける人間に、此処にいるって連絡した」
「え、何で義父さんが……」
 そんな所と関わりがあるのかと言い掛けて、呉野の言葉を思い出す。約束を守れない男達。
「俺は別に、完全に堅気の人間になれた訳じゃねえんだ。足を洗ってやりたいとは思ってたんだけどな。このホテルの経営を任せてもらう形で、一応形式的に普通の職に就いた」
 呉野が追い掛けて来てこんなどうしようもない人間に一生懸命になってくれる姿を見て、何としても足を洗おうと決意した。だからと言って、そう簡単に抜けられる世界じゃない。必死にもがいて出口を見つけようとしていた時に、組の親からこのホテルの経営をやってみないかと言われた。そうすれば、約束は守った事になるだろうと。
 呉野と交わしたもう一つの約束。「真っ当な道を生きる事。太陽の下を真っ直ぐ歩けるように」と。
 その代わり、この街を叶の縄張りにして流れ着いた人間を必ず捕える事。これが組の条件だった。結局自分は、呉野との約束等何一つ守れていない。
「お前が此処に来てすぐに報告しちまったんだよ。まさか光一がこんなに惚れてるなんて思わなかったからな。……後悔、してるよ」
 この街は自分の縄張りなのだから、多少のリスクはあるが報告しなければ見つかる可能性は低い。今更、何を思っても言い訳にしかならなかった。呉野は、帰って来ないのだから。
「でも、あんたぎりぎりまで粘ったやろ。この一年で充分過ぎるわ」
「お前達は必ず守る。光一に哀しい顔、させたくないしな。俺だって人並みに親馬鹿なんだ。呉野を不幸にしちまった分、お前らには幸せになってもらわねえと」
 その言葉で、叶が呉野を探さなかった理由が分かる。絶対的な確信でもって死を分かっていた。
「東京からあいつらが来た時、揉めたやろ。素直に俺を渡せば、オーナーあんな目に遭わずに済んだのに」
「……それは、出来ねえよ。俺もあいつも光一が一番可愛いんだ。お前達には生きてもらわなきゃ困る」
 その瞳の優しさに、光一は胸が痛んだ。自分を犠牲にした優しさなんていらない。今更ながらに彼らの愛情を知って、後悔にも似た苦い思いが広がった。
「二人で生きて生きて、その果てを俺達に見せてくれよ」
 スーツのポケットから二人分のパスポートと、航空券を取り出し剛の手に渡す。
「偽造物なんて、久しぶりに作ったよ。これなら安全だから。裏に車も用意してある。せめてもの、罪滅ぼしだ」
 早く行け、と叶に促され部屋を出ようとする。ずっと黙ったままだった光一がゆっくりと義父を振り返って、口を開いた。
「……でも、幸せやったって。義父さんとずっと一緒にいられたから幸せやったって、呉野さん言うてたよ」
 あれは、遺言だった。そして、最期の愛の告白。
 叶は噛み締めるように、瞳を閉じた。きっとこの人はもう泣けないのだろうと思う。ずっと繋いだままの手を緩く引かれた。
「ちょぉ社長に最後に言っときたい事あるから、先行ってエンジンあっためといて」
 耳朶にキスを落としながら言うと、光一を一人外へ送り出す。剛はもう一度部屋に入った。叶が気付いて視線を上げる。
「気持ちはありがたいんやけど、此処までしてくれれば充分や。前、言うたやろ? 宝物は返すって」
 一人分のパスポートと航空券を叶へと返した。
「どうして……」
「俺は一緒に逃げられるんなら、死んでもええと思ったん。けど、生きなあかんよな。今は不幸にしてまうけど、いつか絶対あいつを幸せにする」
「お前……」
「甲斐性なしやねん、俺」
 剛のその台詞に叶は笑った。この男に光一を託すのは正解かも知れない。
 その時、冷たい夜の隅々まで行き渡るような銃声の音が響いた。
「っ光一!」
 二人とも瞬時の判断で外へ飛び出す。
「光一の方へ行け! 俺が必ず食い止めるから」
 その言葉は限りなく死に近かったけれど、頷く他なかった。通用口を抜けて光一の元へ走りながら、剛は強く思う。

 生きよう。一緒に生きよう、光一。

 車の脇に蹲る姿を見つけ、注意深く辺りを見回しながら傍へと急ぐ。
「大丈夫か、怪我は?」
「……さすがの運動神経やと思わん? 腕、掠っただけ」
 左腕を見せると、光一は笑った。銃と縁のない生活を送って生きている人間は、傷自体よりもショックの方が強い。身体全体が微かに震えていた。
「なあ、光一。一つだけ約束してくれ。何があっても、諦めないで生きるって」
 まるで、懇願のような響きだった。剛の眼差しが切迫感を伴っている。
「……なん? 剛。急に」
「約束、してくれ。絶対に生きるって」
「剛も約束してくれるんやったら、俺は絶対死なんよ」
 寒い寒い空気の中で、春の息吹に似た微笑みを光一は見せる。穏やかな、信頼し切った表情だった。この場所には似合わない春が、此処にある。
「いつか、必ず迎えに来るから」
「っ剛! 俺は、お前とっ……」
「そうや。お前は俺と生きるんや。だから、待ってて」
 光一を立たせてコートに着いた汚れを払ってやると、一人で車に乗り込んだ。彼は部外者だ。剛と離れてしまえば、何の関係もない一般人に戻る。
「つよっ! 剛!」
「俺のいた部屋に戻って、じっとしてるんやで」
「剛!」
 窓を開けて、光一の頬に触れた。愛しい愛しい人。
「今俺がお前にやれるんは、これだけや」
 触れるだけの口付け。出会ってから一度だってこんな軽い、気持ちだけを伝えるキスをくれた事がないのに。
「ごめんな」
「……謝んな、阿呆」
 光一の頬に一筋流れた涙を拭う事はせず、剛の体温が離れて行く。最後に視線を絡めただけで、呆気無い程素早く車は出てしまった。
 後には唯、静寂があるばかり。



+++++



 剛がいなくなってから、七年が経っていた。
 いつ戻って来ても仕事があるように、歌う場所があるように、クラブのステージは続いていた。あれからホテルは叶の物ではなくなり、オーナーをなくしたクラブの経営者に光一はなっている。
 叶と呉野は、一緒に墓を建てた。やっと、一緒にいられると光一は安心する。大切な義父と叔父は、誰にも何にも囚われず互いを愛せる場所に行った。哀しいけれど、そう思えば辛くない。
 剛が残したのは、ギター一本だけだった。コード進行も何も分からないまま、光一は時々弦を弾く。忘れてしまいそうになる剛の声を覚えておく為だった。

 そして毎年、白い薔薇が一輪届く。剛と自分の別れた日に。
 一度も会っていないし、連絡も来ないけれど、生きているのだと確信している。
 だって、生きると約束したのだから。二人で生きて行くと、あの日誓った。光一の表情は曇らない。
 生きる為に生きる。いつかまた、出会う為に。

 剛は生きている。この、同じ空の下で。
 重苦しい眠りから覚めて最初に視界に入ったのは、明るさを弱めた天井だった。人の気配を感じて痛む身体を無理矢理動かせば、オレンジのライトを柔らかく受けた人の姿がある。
 俺が目覚めた事に気付いたのか、ライトより柔らかくその人は笑った。そして、記憶を失う前の映像がフラッシュバックする。
 この男に救われた。馬鹿みたいに綺麗な顔が近付いて来て、「良かった」と至近距離で呟く。世の中にはまだまだおせっかいな人間がおるもんやな。腹を刺されて倒れ込んだ人間なんてヤバいに決まっているのに。
 俺の意識があるのを確かめながら、医者から受けた説明を辿々しく話している。何度も噛みながら喋っていたら、途中で訳が分からなくなったのだろう。「とにかく、絶対安静」と言うと、拗ねた素振りで黙り込んでしまった。
 その表情が幼かったせいだろうか、それとも単純に傷付いた身体が睡眠を欲したのだろうか、深い安堵感に包まれて眠りへと落ちて行った。



+++++



 もうすぐ日付が変わろうとしている。二十四時間体制のホテルも静かになる頃、光一は明日の確認の為にフロントに立っていた。
 秋頃アシスタントマネージャーになって以来、仕事の量は格段に増えている。それでも苦痛じゃないのだから、この仕事は合っているのだろう。ふと人気のない筈のロビーに誰かいる気がして、視線を上げた。
「義父さん、こんな時間に何処行くん」
 このホテルの経営者である叶を、勤務中には呼ばない名で呼ぶ。こっそりと出掛けるつもりだったらしい義父は、しまったと言う顔を見せた。まさかこんな時間に息子がフロントにいるとは思わなかったのだろう。
「まぁた呉野さんのとこやろ。呉野さんやって忙しいんやから、毎晩行ったら迷惑やで。客でもないのに」
 クラブを経営している呉野に会うのは、営業中の夜が一番捕まり易いと言うのは分かる。昼間の事務作業をしている時間より夜に客として行った方が会い易いのも。結局いつも通り「あんま迷惑掛けんなや」と言って、叶を送り出してしまった。
 光一がこの街に来たのは、もう随分と昔の事になる。十歳の時に両親を事故で亡くし、叔父である呉野を訪ねたのが始まりだった。
 呉野の他に親族のいなかった光一はそのまま彼に引き取られる筈だったが、何故か叶の養子になってしまった。その経緯を光一は知らない。思い当たる理由はなくもないのだけれど。
 それからずっとこの街で育った光一は、周囲の人間に本当に大事にされて来た。近くに港のある古くからの歓楽街だったこの街は排他的な所があるから、異質とすら言える光一を馴染ませるのは大変かも知れないと、叶と呉野は懸念していたと言う。
 けれど、光一が見た目やイントネーションの違う喋り方とは裏腹に、優しく大人し過ぎる子供だったからだろうか。気が付けば、街の何処へ行っても大切に扱われるようになっていた。
 光一が来た時既にホテルの経営者だった叶は、急に出来た子供を恐る恐るながらも一生懸命育ててくれた。潮の香りのするこの街で、光一は真っ直ぐ成長して来たのだ。
 だから、寂しいと思う事がなかった。寂しさを知らなかった。
 剛に会うまでは。



 光一の部屋として使われているホテルの一室で剛と一緒に食事をする事は、最近の光一の楽しみの一つとなっていた。普段全く食欲のない彼が「食べたい」と言ってくれるのが嬉しいのだろう。賄い以上の豪華な食事をシェフ達は作ってくれる。
 今日も光一と剛の間には、温かい食事が並んでいた。
「そういや、お前」
「ん?」
 オムライスを食べていた剛は、光一の言葉にぱっと顔を上げる。
「この前来た時、声掛けんかったやろー」
「やって、お前メッチャ寝とったんやで。あんな疲れてる光一さん、僕が起こせる訳ないでしょ。それも剛君の優しさやん」
「全然優しないわ。終わったらお前に会える思うて一日頑張ってんのにー」
 いきなりの甘い台詞に心臓を打ち抜かれた気分になる。無意識でこんな言葉を零されては、こっちの身が持たない。
「……ほとんど毎日会ってるやないですか」
「そうやけど」
 剛が自分の所に来る以外に会う術を持たない光一は、毎日毎日焦がれるように待っていた。恋人と言う位置を確かに占めている筈なのに、光一は余りにも剛の事を知らない。
 週に一、二度呉野のクラブで歌っている他に何か仕事をしているのかとか、剛の部屋はどんな風になっているのか。そんな、恋人なら知っていて当たり前の生活の事すら分からなかった。それでも今此処に剛がいてくれると、それだけで良いと思ってしまう。
 知る事が愛する事にはならないと知っているから。
 再び二人の間に沈黙が落ちると、光一は箸を置いて窓の外に視線を遣る。いつの間にか季節が秋から冬へと移行しようとしていた。
 一年中クーラーによって室温を保たれているこの空間に身を浸していると、季節を忘れそうになる。けれど、この一年は日々の過ぎ方に敏感になっていた。剛がいるからだろう。
「また、冬になるな」
 優しい声音に誘われて光一の顔を見た剛は、その言葉に特別な響きを捕える。この街に来て二度目の冬がもうすぐ訪れようとしていた。ゆっくりと視線を光一の口許に落として、去年の記憶を手繰り寄せる。
 この、果実のような唇に最初に触れた時の事は良く覚えていた。
 光一の部屋に運ばれてどれ位経った頃だろうか。起き上がれる程には回復していなかったから、そんなに時間は経っていなかったと思う。
 毎日毎日飽きもせず、光一は剛の看病をしていた。見ず知らずの人間にこれだけ真剣になれる彼が面白くて、剛もまた飽きる事なくそんな光一を見詰める。
 タイミングが合った、としか言いようがなかった。完璧な、用意されたような瞬間。
 剛はベッドの上で光一を引き寄せた。そして、柔らかな唇を奪ったのだ。頬に掛かる髪の繊細さや引き寄せた肩の薄さ、戸惑ったまま見開かれた真っ黒の瞳に。
 思い掛けず夢中になってしまった剛は、光一の心情にまで考えが及ぶ筈もなく、思うまま貪ろうとした。
 しかし、自分の舌に他人の舌が絡まると言う事態になって、漸くされるがままの光一が剛を引き剥がそうと抗う。肩を押された剛は必然的にベッドへ戻された。
 光一は頭の回転が追い付かないのだろうか、瞳をうろうろと彷徨わせて戸惑いを隠す事が出来ない。何か言葉を発したいのに何を言ったら良いのか分からない。そんな表情だった。
 剛は光一の瞳をじっと見上げ、彼の表情と同じ戸惑った声を出した。余りにも、光一が可哀想な目をするから不安になる。
「え、男、駄目なん……?」
 剛にしては当然の、光一にしてみれば全くの予想外の問いだった。そう言う問題じゃない、と叫びたかったけれど、吃驚し過ぎて結局剛の瞳を見詰めるばかりになってしまう。
 剛は初めて光一を見た瞬間から、彼の事を気に入っていた。愛等と言う感情ではなく、唯単純に見た目がタイプだと言う理由で。儚げな輪郭や見詰める度に深さを増す黒目がちな瞳、清廉な雰囲気を裏切る魅惑的な唇、その細過ぎる腰。全てが剛を惹き付ける。
 この傷が癒えたら抱こうと思っていた。今まで抱いたどの女もこれ位の思いで抱いて来たのだ。なのに。
 まさかこんなに嵌まるなんて、思ってもみなかった。気が付けば自分の感情は間違いなく恋情で。
 いけない、と思った時にはもう手遅れだった。今の自分にこんなにも執着する人間がいてはならないのに。
 手放そうと思えば思う程、愛しさが募る。どうしようもなかった。



+++++



 クラブで歌った翌朝、剛はオーナーと共に光一のホテルへ向かっていた。大体、この呉野と言う男は働き過ぎだと思う。
 夜も昼も働いて、いつ休んでいるのか。彼の所で歌い始めた頃、それを聞いた事がある。すると呉野は「叶と話している時が、僕の休憩時間」と曖昧に笑った。
 優しい表情の意味を剛は痛い程に理解したけれど、何故か言葉にする事は躊躇われて。それ以来、剛は彼の事が少し気に入っている。
 この小さな街では、街全体がご近所のようなものだった。街の人間も似たタイプが多い。見た目は悪そうだけど中身は善人、なんて人間がごろごろいた。
 昔悪い事を散々やり尽くして、今はもう真っ当に生きて行こうとしているのだろう。塀の中にいた、なんて話も聞いた事がある。
 だから、自分と同じ匂いがするのだろう。そして、光一みたいな人間を大切にしたくなる。当たり前の感情の流れだった。
 呉野はホテルに着くまでに会う人全てと挨拶を交わす。けれど一様に、剛への対応は素っ気なかった。此処に来てもう一年になろうとしているのに、最初の頃からこの街の男達に優しさは見えない。余所者だったし、別に仲良くする気もないから良いのだけれど。
 どうやら余所者だと言う理由からではなく、光一の特別な存在と言う事で敵視されているらしい。ホテルの敷地内に入っても挨拶されない剛を見て、呉野が小さな笑いを漏らす。
「大丈夫だって。もう一、二年経てば皆認めてくれるよ。この辺の人間は、光一が大切でしょうがないんだ」
「……そしたら、俺認められんわな」
「え?」
 小さく呟いた声は呉野に届かなかった。自分が此処にいられる時間は、そんなに長くない。今だってもう、充分過ぎる位なのだから。
 入口で呉野と別れ、剛はロビーを通り抜ける。誰よりも最初に光一が視界に入った。フロント内で従業員の一人と話をしている。仕事中の顔だった。
 剛はこの時間の彼の表情も好きだ。甘さを感じさせない大人の男の顔。それを遠くから眺めているのはお気に入りの一つだった。
 不意に光一が従業員の襟元へ手を伸ばす。ネクタイが曲がっていたのか、決して器用ではない手付きで直していた。あーあ、あの男顔真っ赤やで。
 近過ぎる距離に戸惑ったのか、困ったように光一を見下ろした。他の従業員が出て来て、その顔の赤さを笑う。光一本人は分かっていない様子で、それでも一緒になって笑っていた。
 宝物、やな。
 そんなやり取りを、余裕の表情の下に嫉妬を隠しながら見詰めた。何処まで行っても幸せが見えないたった一人の恋情と、沢山の優しい愛情のどちらが良いかなんて、自明の理だ。
 どれだけ剛が光一を愛しても、自分は何一つ彼に渡せないのだから。あるのは唯、優しさだけ。宝物なんて言葉じゃ、きっと足りない位。
 光一の指先一つでさえ、剛にとっては自分の命より大切な物だった。自分だけに見せる甘い瞳も身体も声も全部、剛の物だ。
 誰にも触れさせたくない。例え自分がいなくなったとしても、光一の肌に触れて良いのは自分だけだと、抱く度に思う。最初に触れた時から変わらない、暗く重い感情。
 光一に救われて、彼の部屋で動けるようにまで回復した頃だった。キスが挨拶程度になり、光一自身が既に剛の行為に慣れてしまった。そんな時、剛は強引に光一を抱いたのだ。彼の態度が自分を拒絶していないと充分に分かっていたから、慣れた手付きで光一の服を剥がして行った。
 本当は。本当は、触れる前に気付かなければならなかったのだ。出会ってからのこの月日の中で、多分剛は完璧に恋をしていた。こんな甘い感情を久しく持っていなかったせいかも知れない。剛自身が自分の感情に鈍感になっていた。
 軽い気持ちで触れた肌にどんどんのめり込んで行く自分に眩暈すら覚える。
 嫌がって泣いた光一は、本当の意味で拒絶していなかった。幾ら体勢的に不利と言っても立派な成人男性なのだから、抵抗しようと思えば出来た筈だった。絶対に本人には言わないけれど、それをしなかったと言う事は彼もまた抱かれる事を望んでいたのだ。
 白い陶磁器の肌は、掌や唇が触れる度に色付いて行った。きっと先に理性をなくしたのは剛だ。乱れ等知らないその整った顔が痛みに喘ぐ度、押し退けるように置かれた手が剛の肩を強く掴む度に。我を忘れる程懸命に彼の身体を開いて行った。
 抱き締めた皮膚の温度がお互い日常を取り戻す頃、光一が掠れた声で「なんで」と呟く。今まで一度も聞いた事のない、不安を強く乗せた声だった。
「一目惚れや、言うても信じない?」
 光一の声音に答えるべく真剣に渡した筈の言葉は、思った以上に軽く響いた。これでは信用されなくて当然だ。そう思ったのに。
「ものには順番っちゅーもんがあるやろ」
 柔らかな声音とやけに大人びた顔で、剛の言葉を受け取った。
 一生に一度の、真剣過ぎる恋をしている。今までの人生で執着したのは、唯一音楽だけだった。他の何もいらなかったのに、
 初めて、欲しいと思う存在だった。留まる事は出来ないと知っていながら、決して短くはない時間をこの街で過ごしていた。



+++++



 冬になっていた。
 光一と迎える二度目の冬、もう限界だと言う事は充分に分かっている。頭より先に肌が危険を察知していた。本能かも知れない。
 離れる準備を始めなければならなかった。と言っても、そんなにやらなければならない事はない。
 元々部屋には何もなかった。この街にあるのは光一だけ。自分の物として大切なのは彼だけだった。光一の他に何かある筈がない。今では、大切な音楽すら光一がいなければ意味のない物になっていた。
 最近彼の部屋に行く回数が明らかに増えている。会えば会う程離れがたくなると分かっているのに。今日が最後かも知れないと考えると、どうしても会いたくなってしまう。
 そろそろ居場所を嗅ぎ付ける筈だ。光一と接点がある事を気付かれる訳にはいかないのに。弱味を掴まれる事よりもすぐに会える距離にいて触れられない事の方が恐怖だった。
 光一の部屋に置きっ放しのギターで適当なコードを辿りながらメロディーを口ずさむ。ベッドに背中を預けて、たった一人の為に繰り返しラブソングを奏で続けた。
 微睡みの淵で聞いている恋人は、ベッドの上に白い身体を投げ出している。剛は手許に視線を落とす事なく、唯ひたすら光一を見詰めながら歌っていた。
 光一は自分の腕に頭を乗せて剛の視線を分かっているのかいないのか、うっすらと微笑んでいる。彼は剛の声が好きだった。自分の声一つでどうにでもなってしまう光一は、本当に可愛いと思う。
 零れて広がる茶色い髪が綺麗だった。綺麗過ぎた。毎日毎日確実に光一は綺麗になっている。剛が触れる度に花開くように成長していた。
 緩慢な動作でゆっくり身体を動かすと、光一が剛の手に腕を伸ばす。指と指を絡め弦の音が途切れると、光一はゆったり笑った。
「剛の指、きれーやな」
 その言葉に剛の動きが止まる。柔らかい表情が微かに強張った。光一は知らない。この手がどんな事をしたかなんて。
 本当は触れてはならない程汚れ切っている。そして、自分が汚れて行く程、光一が綺麗になる程、思い知らされた。
 自身の汚れを省みない程に、光一を愛しているのだと。
「……俺の手は、汚れとるよ。お前まで汚しそうでいっつも怖い」
 笑って流せるような軽い言葉ではなかった。変な所で繊細な剛の杞憂でもないだろう。真っ直ぐに見詰めて来る剛の瞳。底にあるのは暗い暗い色。この指はきっと本当に汚れている。それでも。
「そんな事ない。俺、剛の手好きや」
 渡した言葉は不自然な程真摯に響いた。二人の間に僅かな沈黙が落ちる。
「『俺の手』だけ、好きなん?」
 指先をきゅっと握り締めると、雰囲気を取り戻そうと明るい声音で剛が言った。意地の悪い笑みを見せる男の顔が凄く悔しいけれど。
「……お前の手、まで、好きなんや。全部、好きや」
 少し怒った表情と、それでも素直に言葉を発する光一を見詰めて、剛は不意に決心した。見た目以上に強い精神と見た目通りの壊れそうに優しい心を持つこの人に。
 打ち明けてしまおうと思う。本当は何も言わずに去ろうと思っていた。光一の為には、果たしてどちらが良かったのか。
「なあ、光一」
 二人指先を絡めたまま、ゆっくりと愛しい名を呼ぶ。誰よりも何よりも愛しい存在。幸せにすると言えない代わりに、真実を置いて行こう。
「俺は昔、人を殺した事があるんや」
 剛の重い告白は、この部屋の時間を僅かに止めた気がする。少なくとも剛にはそう思えた。すると光一は眠そうな瞬きを繰り返した後、「ふうん」と一言呟いて。
 それだけだった。繋いだ指先も全く表情を変えていない。
「光一?」
「聞いとるで」
「いや、そぉやなくて……」
 光一が今の台詞をちゃんと理解したのかどうか不安になった剛は、ギターを足許に置く。横になっていた彼の身体を起こして、自分もベッドに乗り上げた。光一は不満そうに唇を尖らせる。
「剛は人を殺した事があるんやろ? ちゃんと聞いてる。で、殺した人の家族だか恋人だかに腹刺されてこの街に辿り着いたんやろ。それでも今、此処にいる。違う?」
 何でもない事のようにあっさり言い放つと、首を僅かに傾げ上目遣いに剛を見詰めた。剛は叶に似ているから。声には出さず光一は思う。
 義父は此処に来る前、随分と後ろ暗い道を歩いていたのだと、呉野に聞いた事があった。今はこうしてまともな職に就いているけれど、昔は関東の方で相当の実力者だったらしい。
 そんな義父と剛は同じ匂いがした。優しい声と少年らしさすら残る笑顔で上手く隠してはいるけれど。その瞳が彼の本質をきちんと表していた。大体、刃物で刺された状態で現れておいて、普通の人間だと思う訳がない。
「……大体、合っとる」
 純粋な瞳とあどけない表情で大胆な事を言った光一に、剛は苦々しく笑う。絹糸の髪をくしゃくしゃに掻き混ぜると、諦めに近い音で零した。
「お前は、俺の事好きなんやなあ」
 その言葉に意地悪な響きはなくて、本当に感心したみたいに呟くから、光一は嬉しくなった。
「あ、そうや! あんな、来週やっと休み取れたんやで」
 どれ位前の事だろうか。剛は光一と約束をしていた。誰にも邪魔されない場所で二人きり過ごそうと。
 どうしても仕事優先の彼はなかなか有休を取ろうとせずにいたから、半分以上諦めていた。ずっと光一は、約束を忘れず楽しみにしていてくれたらしい。
「楽しみやね。うち、掃除しとかんと」
 嬉しそうに見上げる光一の眼差しを笑顔で受け止める。来週、と言う響きが剛を切なくさせた。
 やっと叶えられるたった一つの約束なのに。俺はその日まで、此処にいられるだろうか。


 穏やかに紡がれる時間は、いつでも心地良い。それが特別な夜だとしても。否、特別な夜だからこそかも知れない。
 どんな時でも剛と過ごす時間は変わらないのだと、二人の時間は不変だと、信じられるからだろうか。



 カウントダウンのコンサートはなくなったものの、やはり今年もコンサートで一年を締め括った二人は、ドーム近くのホテルに泊まっていた。
 毎年、この夜の部屋だけは特別だ。剛はいつも通りのツインルームなのに、光一に用意されるのは最上階にあるスイートルームだった。
 「誕生日だから、光ちゃんの方が格上だよ」なんてスタッフは笑うけれど。本当は、広い部屋に二人きりで過ごして良いよと言う優しい意図が含まれている。
 誕生日パーティーも明日が終わってから打ち上げと一緒にやる事になっていて、誰一人光一を引き留める者はいなかった。コンサートが終わるとすぐにホテルへ送られ、あっと言う間に二人きりになる。
 スタッフやマネージャーの気遣いに笑いたくなるけれど、愛されているとも実感した。剛を見詰めたままで良いんだよ、と許されて、周囲の人に大切にされて、自分はとても幸福な場所に立っていると思う。
 日付が変わるにはまだ余裕がある時刻に部屋へ入った二人は、ゆっくり風呂に入って何をするでもなく広い広いベッドの上に二人だけの世界を広げた。まだ指先や目尻の辺りにコンサートの興奮が残っているのだけれど。
 もう誰にも邪魔される事なくこの夜を過ごせるのだと思うと、圧倒的な安心感が光一の心臓を覆っていた。手を伸ばせば触れられる距離にいる。
 たったそれだけの事実に、涙が零れそうな程満たされた。離れる事には慣れた筈なのに、自分はこんなにも切実に求めていたのか、と。僅かな衝撃を伴って、自身の感情を思い知る。
 離れていた時間はそんなに長くないのに。もっと離れていた時期もあったのに。怖い位に剛を求めていた。剛が、周囲の人間が、そして自分が、剛を見詰める事を許してしまうから、思いに際限がなくなってしまうのだ。
 こんなにも、愛を。
 時々、剛しか愛せないように自分は催眠術でも掛けられているのではないかと思う時がある。そう考えなければやり切れない程、自分の中は剛ばかりだった。彼への思いがこれ以上深くならないようにと、一生懸命抑えていた時期もあったけれど、そんな事も諦めてしまって久しい。
 此処まで落ちたのなら、果てを見ようと。剛と二人だったらこの恋の終わりを見詰めるのも怖くない。
 何の意図も持たずに、彼の綺麗な形をした指先に触れた。一番落ち着く温度がゆっくり染みて来る。指先に落としていた視線を上げれば、剛がゆったりと大人の顔をして微笑んだ。
 言葉一つ交わさなくても、無音の中で気持ちが通じ合う瞬間がある。ちょうど、今みたいに。二人の心が隙間なくぴったりと重なって、完璧に近い形で一つになれるからだろう。
 言葉なんて必要ない瞬間だった。呼吸一つで、指先の小さな動き一つで、柔らかな瞬き一つで、伝わる一瞬。それは、恋人になる前から存在していた空気だった。
 ふわふわのベッドの上で大好きな剛と、特別なそして何でもない夜を過ごす。多分自分には、これ以上の幸せは存在しなかった。
 剛がきっかけの一つも持たず静かに動いた。そして、そっと唇が重なる。触れた唇から「愛してる」ばかりが伝わって、心臓が軋んだ。
 自分はいつか幸せで壊れてしまうんじゃないだろうか。剛の愛ではなく、二人の幸福によって。
 閉じていた瞼を持ち上げると、剛の顔を見詰める。男前、やなあ。いい加減見慣れれば良いと思うのに、こうして見上げる度心拍数が上がってしまう。
 再び優しいキスを繰り返す剛へと腕を伸ばして、その愛しい身体を抱き締めた。ふと思い付いて、剛に分からない程度の小さな笑いを漏らす。
 このまんま何も分からんくなって、年越すのもええなあ。日付が変わる事も誕生日の瞬間も分からずに、剛に溺れられたら。それはそれで、良い年明けかも知れない。
 抱き締めた腕に力を込めて、このまま抱かれたいなと思っていたのに。不意に剛が身体を離した。光一は分からず、真っ直ぐ剛を見上げる。
「あーあかんわ」
 心地良い沈黙は破られ、剛が困った声を上げた。
「何が?」
 何故止めたのか全く理由が分からなくて。ほんの少し離れた距離すらもどかしいと言うのに。
「俺、一年中二十四時間お前の事抱きたい思うてんねんなあ」
 別にええやん、と言おうとしたのに、剛が自分の好きな笑い方をするから言葉は腕の奥の方へ飲み込まれてしまった。本当に、俺の扱い方を良く分かっている。
「こんな特別な夜にやる事ちゃうな。よし、光一。初詣行こう!」
「はつもうでって……」
 自分達には余りにもそぐわない言葉の気がした。吃驚した顔のまま動けないでいる光一の身体を起こしてやる。
「うん。初詣やで」
 光一に拒否の言葉を上げさせない、少年らしさの残る笑顔を作って見詰める。
「えー、今から出るなんて絶対嫌や。それに神社とかってこの時間混んでるやろ。二人で行ったらあかんやん」
「大丈夫やって。逆に人多い方が案外気付かれんもんやで」
 文句は言うものの口程には嫌がっていない表情に気付いて、剛はひっそり笑う。
 光ちゃんの反応なんて、全部お見通しやっちゅー事やね。散々文句を言っている割に剛が支度を始めるとベッドから降りて後を付いて来る。
 二人ともバスローブを羽織っていただけだったから、荷物を出して服を着替えた。光一は剛が差し出した物を素直に着始める。わざと彼には女物を着せた。
 用意の良過ぎる剛の鞄の中には、服が常に余分に入っている。線の細い光一だから、女の物を着せておけば絶対にキンキキッズだとばれないのだ。
 それに、これで歩けば恋人同士にしか見えなくて、外でも気兼ねなくイチャイチャする事が出来る。普段自分達の関係を知っている人間の前でなら何の問題もないけれど、さすがに外で男同士がキスしていると注目を浴び過ぎる。光一の見た目なら納得されそうではあるが。
 彼が着て来た細身の黒いコートにストールをマフラーのように巻いてやり、顔がばれないよう深めに帽子を被せた。寒がりの癖に薄着な光一に手袋までさせると、その手をしっかり繋いで部屋を出る。
 剛は夜にも関わらずサングラスを掛けて顔が分からないようにした。一人ならば絶対に気付かれない自信があるのだけれど、どうしても二人一緒だとばれる確率が高い。
 キンキキッズとして世の中に認知されている証拠でもあるのだろうとは思った。でも、それ以上に光一が目立ち過ぎるのだろう。可哀相だな、と思っても持って生まれた光なのだから仕方ない。
 ホテルを出て手を繋いだままゆっくり歩いていると、寒さを忘れて段々幸せな気分になって来た。後一時間もしない内に日付が変わる。
「こやって初詣二人で行くの初めてやなあ」
 寒さのせいか繋いだ手のせいか、部屋を出た時から口数の少なくなっていた光一が、少し嬉しそうなトーンで呟いた。
「初めてのシチュエーションでドキドキする?」
「別にー」
 顔を覗き込めば、照れた表情を背けて嘯く。
「でも、これが初めてやないんやな」
「へ?」
「初詣。二度目なんですよ」
「えー嘘やんー」
 白い息を吐き出しながら剛の顔を見詰めた。自分より背が高い癖に、上目遣いをするのは反則だといつも思う。
「してるんやで、これが。まあ、詣でてはないけどな」
「そしたら初詣言わんやろ」
「いやいや。祈りを捧げてたんですよ、僕は」
 全く覚えていない顔をする光一が可愛くて、含みのある笑みを漏らした。あれを初詣なんて意識している筈がないのだから。
 唯、神に向けるのと同じ種類の祈りを捧げただけ。
「昔過ぎて覚えてる訳……あ!」
「思い出した? お前記憶力悪いから、もう思い出せんかなあと思ったんやけどね」
「……思い出したわ、阿呆。って言うか、あんなん初詣言わんわ」
 そう言って顔を赤くする光一を優しく見詰めた。遠い昔と呼べる程古い記憶。光一ですら覚えているのだから、余程あの時の願いは真摯だったんだろうと思う。
 まだ自分の気持ちが恋にすらなっていなかった頃。堂本光一と言う存在をひたすら優しく守りたいと願っていた幼い思いが蘇って来て、不意に胸が痛んだ。



+++++



 仕事の関係でどうしても実家に帰る事が出来なくなっていた。寮に入ったのだからもう後戻りが出来ないと知っていたけれど、まさか年末年始に帰れないなんて思いもよらなかった。
 それでも仕方のない事だとは分かっている。この世界には季節の移り変わり等必要ないのだ。
 割り切れない思いを抱えたまま剛は大晦日の仕事を終えて、自分の部屋に戻って来ていた。あの頃はまだ二人一緒の仕事ばかりだったから、同室である光一もベッドに横になっていて。
 今年は彼と一緒に年を越す事になるのだと思った。そして、彼の誕生日を祝うのは自分だけになる。
 日付の変わる瞬間に一緒にいるのは俺だけだから。眠くてしょうがないのに、年を越す瞬間をちゃんと見ていたかった。横になっている光一は目を閉じているけれど、呼べばすぐその綺麗な瞳が向けられるだろう。
「光ちゃん」
「なぁに」
 少しだけ眠気を帯びた声で、それでも剛の呼び掛けに答える。出会った時からずっとこの人は、俺の言葉を零す事なく必ず掬ってくれた。
「……俺、こうやって家族以外の人と年越すの初めてやわ」
「ほんま?」
 声を掛けたまま何の話題も持ち出さなかった剛の代わりに、光一が言葉を繋げる。剛は嬉しそうな声を上げた。
 何でも光一の『最初』の相手になれるのが嬉しい。一つ年上なのに自分よりあらゆる経験の少ない光一は、時々こうやって剛を喜ばせた。
 どんな時でも彼の初めてになりたいと思ってしまう。それがどの感情から来るものかは分からなかったけれど。
「俺は去年も一昨年も友達と一緒やったなあ」
 でも、と剛は続ける。嬉しさを隠さない瞳で光一を真っ直ぐ見詰めた。お互いベッドにいる距離は、遠いようで近いようで。
「二人っきりってのは、俺も初めてやわ」
 付き合っていた彼女とも一緒に過ごしていたけれど、其処には友達もいた。こんな風に誰かを独り占めして年を越すなんて思ってもみない。しかも、誕生日を迎える特別な人と。
 贅沢だなあと思って嬉しいのに、光一は多分剛の言葉の意味を取り違えた。
 全ての声を拾ってくれるのに。きっと彼は、臆病な人なのだろう。
「……他の部屋行って皆で越してもええんやで」
 寮には半分位の人間が残っていて、皆何処かの部屋に集まって年越しをする筈だ。剛も勿論誘われている。けれど光一が慣れていない人間ばかりだから断ってしまった。彼も他の人に誘われていたのに、やっぱり此処にいる。
 どうしたいかなんて、本当はお互い分かっている。幼い感情が、心臓の近くに存在していた。
「光ちゃんと一緒に年越したいんやからええの」
 誰でもない光一を、自分の相方と言う特別な位置にある彼を。独り占めしたいと思う感情は、そんなに不自然なものではない。そうやってわざわざ思考を巡らせる時点でもう不自然だと言う事には、気付けなかったけど。
「新しい年になって光ちゃんが誕生日で、そんな特別な一瞬を過ごせるんやで? メッチャ贅沢やん」
 幸せの瞬間を一緒に過ごしたかった。誰にもこの時間を渡したくはないと思う。
「光ちゃんとまた、歳離れてまうねんなあ」
 幸せだと思うのに、寂しい声で剛が呟く。学年が違う段階で決定的な年齢差が存在するのに、剛は僅かな差をいつも埋めたがった。
 一緒になりたいと、何の含みもない声で言うのだ。
「離れるって、一つやんか」
「年下になるん、嫌や」
 年下らしい我が儘な事を言い出す剛に、光一は思わず苦笑した。意味のない独占欲は、束縛を嫌う光一を何故か喜ばせる。彼自身その感情の意味を理解出来ていなかった。
「百日なんて、あっと言う間やって」
 訳の分からない所でむくれる剛が可愛くて仕方ない。弟がいたらこんな感じなのだろうか。
 愛しくて可愛くて、ちょっと堪らない感じ。
「何でおかんもうちょい早く産んでくれんかったんやろ。そしたら光ちゃんと学校も一緒やったのに……」
 いつもいつだって一緒にいたかった。
 光一を片時も手放したくなくて。光一を誰かに奪われたくなくて。
「そんな無茶言われてもなあ」
 もう笑うしか出来なくなった光一は、少しでも近付きたくてベッドの端まで身体を移動させる。丁度良い距離感は、時々遠く感じるから。
 少し歩けば届く距離にいるのに、近付き過ぎる事を恐れる自分も存在するのに。
 情が湧くとはこう言う事なのかも知れない。今まで出会ったどんな人にもない感情だった。多分、友情とはちょっと違う。
 結局この距離に耐えられずに剛のベッドまで行くと、その隣に腰掛けた。身体が触れない距離を保つ。
 そっと頭を撫でてやれば、嬉しそうな顔をした。そんな剛を見て幸せな気持ちになる自分の感情は、一体何で出来ているのだろう。
 友情とも家族愛とも程遠く。分かっているのは、今の自分が一番大切にしたい人だと言う事だけ。
「あと十分や」
 時計を見上げて弾んだ声を上げた。そのトーンが余りにも明るかったから、やっぱりまだまだ子供だと思う。
 今となっては全くと言って良い程百日の差は関係ないのに、この時の差は何と大きかった事だろう。
 剛が可愛くて仕方なかった。
「行く年来る年見ながら、カウントダウンしようや」
 二人のベッドの間にあるテレビを点けると、日本各地の除夜の鐘が鳴り響いている。本当に年末なんだと実感して、今剛と二人きりでいる事が何だか凄く不思議に思えた。
 剛が光一の手を引き寄せ、テレビの前に座ろうと促す。先に座った剛の隣に光一も腰を降ろすと、繋いだままの腕を引っ張られてぴたりとくっ付いた。体温をはっきりと感じる距離。
 剛は時々こうして、酷く体温を求める事があった。癖なんだと思う。人と触れ合う事は苦手だったのに、剛だけは嫌じゃなかった。心地良いと思ってしまう。
「光ちゃんは、初詣ちゃんと行く方?」
「うん。家族揃って必ず行くで」
「そぉなんや。ええな、俺も一緒に光ちゃんとお参りしたい」
「外出禁止やって言われてるやろ」
 先に釘を刺しておかないと、剛は本当に実行してしまうタイプだ。不満げな唸り声を上げて、光一を見上げる。
「光ちゃんと一緒にやりたい事一杯あんのに、全然出来へん」
 しょうがないやろ。言おうとして口を噤む。仕事仲間であって友達じゃないんだから。そんな酷い事を言いそうになった。確実に剛の真っ直ぐな瞳を傷付けるだろう。
 そして、言った傍から自分も傷付く筈だ。目には見えない程の小さな傷を心臓に負ってしまう。
「あ、そうや! 剛、これ見ながら行ったつもりでお参りすればええやん」
「絶対、ご利益ないで……」
「ええやん。ようは気持ちやろ」
 剛とは出来ない事が多いと思う。
 この先も、きっと。
「そしたら、」
 不意に剛が声のトーンを落とした。思わず触れた肩がびくりと揺れる。光一はその声音が苦手だった。可愛い可愛いと思う剛が、全然知らない人になってしまう瞬間。
「俺、こんなテレビ画面の向こうの訳分からん神様より、光ちゃんにお願いするわ」
「は?」
 その声に身構えていた光一は、続いた言葉の内容に間の抜けた声を上げた。
「光ちゃんならご利益ありそうやわ」
 分からないと言う顔をして、至近距離でじっと見詰める光一に笑ってみせる。その表情にドキドキする自分に、剛はもう慣れてしまった。綺麗なものを綺麗だと思ってしまう感情はしょうがない。
「やって、光ちゃん神様にメチャメチャ守られてそうやもん」
「なぁんや、それ」
「神様に大事にされてる感じ? 黙ってれば神秘的な顔してるしなあ」
「何言うとんの」
 剛にしてみれば思った事をそのまま口にしているだけなのだろうけど、光一には余りにも恥ずかしかった。触れた体温が上がっていないか少し心配になる。
「テレビよりご利益ないで、絶対」
「ようは気持ちやー言うたの光ちゃんやん」
 もう既にやる気らしい剛を止める理由も見つからず、遊びなら付き合ってやろうかと思う。画面の端に出ている時刻をみると、日付が変わるまで後一分となっていた。
 もう少しで一年が終わる。
 去年はこうして剛と一緒に年を越すなんて思いもしなかった。いつの間に、あっと言う間に自分の中を占めて行く剛と言う存在が、時々怖くなる。剛は財布から小銭を取り出した。
「お賽銭。光ちゃん握って」
 寮の部屋で自分達は何て事をしているんだと思う。それでも、しょうがないなあと笑って小銭を受け取った。儀式めいた遊びにどんな表情で付き合えば良いのか、もう分からない。
 掌に小銭を置かれた瞬間、テレビの中で零時を告げる音が響いた。真剣な表情で、剛が光一の手を両手で包み込む。
「誕生日、おめでとう」
 新年を迎えた喜びより、彼がこの世に生を受けた事に祝福を。瞳を閉じて二人の手を胸の位置まで挙げると、それはもう祈りだった。
「光ちゃんに出会えて良かった。光ちゃんと一緒にいられるんが、ほんまに嬉しい」
 光一は何も出来ずに、剛の長い睫毛を見詰めていた。自分も同じ思いを抱えていると告げる事は、きっと出来ないだろう。
 けれど、彼なら言葉に出来ない思いに気付いてくれる。それは、余りにも奢った感情だろうか。
「……これからもずっと、一緒にいられますように」
 何よりも強い願い。そっと剛が目を開ける。瞳の中に宿った光に、思わずどきりとした。
 大人びた少し怖い位のその色は、剛の思いを痛い程表している。自分の中にも同じ種類の情が存在した。
「大好きやで」
 いきなり表情を変えて、光一が確実に照れる告白を渡す。純粋に向けた言葉は、彼の頬を朱に染めた。
「おまっ何……!」
「光ちゃん照れてるー。かわいー」
「年上に向かってそれはないやろ!」
「百日だけやもーん」
 儀式のような神聖さは部屋の中から消え、代わりに温かい笑い声が空間を占める。暫くじゃれ合っている内に、剛がプレゼントとケーキを持って来た。まさかそんな物を用意されているなんて思いもしない。
「お年玉はないけどなー。正月より光ちゃんの誕生日が優先や」
 プレゼントの中身はもう忘れてしまったけれど、その言葉が本当に嬉しくて。剛が大好きだと単純に思った。
 それから二人でケーキを食べて、朝まで近過ぎる距離のまま下らない話をした。



+++++



「やっぱりご利益あったなあ」
 寒い空気を忘れてしまう位優しい声で、剛が言う。神社の近くまで来ると、さすがに人が多かった。
 人混みをかき分けるように、手を繋いだまま歩く。きっと自分達が見つかる事はないだろう。此処にいる人達は、自分の願いで一杯だから。
「ご利益なんか、あらへんよ」
 剛の言葉から間を空けて光一が答える。テンポのずれに今更驚きもしないけれど。繋いだ指先がそっと絡められた事には、さすがに吃驚した。
「ちゃうやろ、それ。俺が何かしたんやなくて、二人で……」
 其処まで言って、恥ずかしい事を口走ろうとしている自分に気付く。
「ん?」
「何でもない」
 手を絡めただけで充分照れていたのに。これ以上言う事なんか出来ない。それに剛はもう、自分の言いたい事を完璧に理解していた。
「ちゃんと言うてや、光ちゃん。『二人で』何やの?」
「もぉ言わん。お前分かっててそう言う事すんの悪い癖やで」
「やって、光ちゃん可愛いんやもん」
「可愛い言うな」
 指先を離そうとすると、逆に強い力で腕を引かれ階段の前で抱き締められる。
「ちょっ! おまっ……!」
 本気で焦って身体を離そうとする光一を許さずに、更に抱く腕に力を込めた。
「ずっと、一緒にいたいな」
「ずっとなんて、分からん……」
 光一はもう、臆病な声音を隠さなくなった。怖い事は怖いと言う。それは微かな痛みと、確かな強さを剛に与えた。
「お前がそうやって思っても、俺が絶対一緒にいたるから」
「絶対なんて、あらへん」
「俺の執念甘くみたらあかんよ」
 笑いを含んだ声で告げると、光一が身体の力を抜いてそっと剛の腰に腕を回した。
 あの時の祈りは、今も強く深く胸の底にある。離れてなんかやらないと、もしかしたらあの頃の自分よりも幼い独占欲で思った。
「愛してるよ」
 そっと光一の頬にキスを落とす。外でこんな事をしたら怒るだろうと思ったのに。
 光一は何も言わず、剛と視線を合わせた。こんなにも人が多い場所で。二人きりのような錯覚に陥るのは何故だろう。
「お前とおると、何処におんのか分からんようになる……」
 だから、一緒に出掛けるのは嫌だと。吐息混じりに呟いた。たかだかキス一つで、何もかもどうでも良くなってしまうのだ。
 こんな恋は二度とないだろう。言葉にする事は出来ないけれど、精一杯の言葉を剛に渡した。
「今年も一緒にいような」
 そして、剛の唇に柔らかい感触が触れた。
「こうい……」
 赤くなる顔を繕う事も出来ずに剛が名前を呼ぼうとした瞬間。あの夜と同じ鐘の音が、辺りを埋め尽くした。
 光一はキスをした後すぐ、剛の肩に顔を埋めてしまう。日付が変わった。

 世界で一番愛しい人の産まれた日になる。

 冷たい髪にそっと唇を当てて囁いた。
「誕生日、おめでとう」
 
 自分達に、祈るべき神はいらない。



葉月の頃、海に寄せて





 「人を殺した事がある」と、その男は言った。



 地下へと続く黒い扉を開ければ、微かな音楽が流れて来る。適度な明るさに調節された照明を頼りに、慣れた様子で光一は階段を下りて行った。彼が声を発するより先に、フロアマネージャーが気付いて親しげな笑みを見せる。
「こんばんは、光一さん。そろそろいらっしゃる頃だと思っていました」
 マネージャーの言葉に、光一は分からないと言う顔で首を傾げた。
「剛さんが歌う時にしかいらしてくれないじゃないですか」
「あ……あ、そっか。……他の日も来ようとは思ってるんやけど、なかなか……」
 瞬時に顔を赤くして言い訳じみた言葉を並べる光一を、柔らかく遮った。
「週に一度で充分ですよ。忙しい合間を縫って来て下さっているんですし」
 光一の成長を見守って来た彼の口調は、接客中と言うよりは兄のそれに近い。この街に住んでいる殆どの人間が同じような態度を取るだろう。
「今頃厨房で気合い入れて光一さんの料理作ってますよ」
「はは。あんま此処で食べると、ウチのシェフが機嫌悪なるからなあ」
 どちらの料理も同じ位美味しいから比べる事等出来ないのに、妙な敵対心を生んでしまった。元々食に執着のない人間だから温かければ何でも良い、なんて思っている事は、きっとシェフを泣かせるだろうから言わないでおこう。
 こちらへどうぞ、と促されて席に着いた。何度も断っているのに、いつも通されるのは奥まった場所にある一番良い席だ。
 剛の歌を聴いて帰るだけだから、普通の席で良いのに。けれど、毎回断るのも段々申し訳なくなって来てしまって、結局そのまま座る事にしていた。
「今、オーナー呼んで来ますね」
「ええって……」
「いえ。オーナーも光一さんがいらっしゃるのを楽しみにしていますから」
 にこやかな表情のまま去って行った背中を見送りながら、ざっと店内を見回す。ほぼ席は埋まっていて、剛のおかげかななんて思ってしまった。
 ひいき目だと言うのは良く分かっているのだけれど、それでも自分と同じように剛の歌を待っている人がいるのは間違いない。彼の声を独り占めしたいと言う傲慢な独占欲は、嫉妬と共にいつもあったけれど。
「こんばんは」
 穏やかな声と共にこのクラブのオーナーである呉野が現れる。光一は立ち上がって一礼すると、目尻に笑みを乗せて呉野を見上げた。
「こんばんは。いつも何か甘やかしてもらうばっかですみません」
「良いんだよ。彼らも好きでやっている事だからね。まあ、座って」
「あ、はい」
 まるでホテルマンのような印象をこの経営者は抱かせる。すらりとした身体に仕立ての良いスーツを着て、セットされた髪型にはいつでも清潔感が漂う。柔らかい眼差しは、一緒にいる人間を安心させた。
 およそクラブの経営者には見えない。同じ事が、光一の所の経営者にも言えた。
 呉野の同級生であり自分の義父でもある叶は、ホテルのオーナーにはとても見えない。海の男と言った感じの風貌は、逞しいと言うよりも怖いと言う印象の方が強いだろう。
 挑発的な言葉遣いや人を真っ直ぐに見詰める強過ぎる瞳は、接客業にはとても向いていない。多分、呉野と叶は経営を逆にした方が印象通りなのかも知れなかった。
 それでも、この街にはそのアンバランスさがしっくり来るのだ。
「また、痩せた?」
「そんな事ないですよ。ちゃんと食べてるし」
「じゃあきっと働き過ぎだね。光一は少し休んだ方が良いよ」
 小さな頃から光一の変化に聡い呉野の言葉はひたすら優しい。
「最近経営の方にも手伸ばしてるんだって? アシスタントマネージャーってだけでも充分大変なのに」
 それには苦笑だけで答える事にする。いずれ自分があのホテルを継がなければならなかった。今は勉強の時期だと思う。
「そう言う笑い方をされると、僕はもう何も言えなくなるよ。しょうがない子だな。……もうすぐシェフの自慢の一品が出て来る筈だから、ゆっくりしておいで」
「はい」
「またね」
 自分より余程忙しい呉野は、他の従業員に呼ばれるとゆったりした足取りでフロアから消えて行った。
 光一はひっそりと溜息を零す。別に自分がステージへ上がる訳でもないのに、始まる前はいつも緊張した。こんな事を話したら揶揄われるだけなのを分かっているから、絶対に言わないけれど。
 もうすぐ、甘い声がこのフロア一杯に広がる。空間全部を奪い尽くすような剛の歌が大好きだった。勿論二人の時に自分の為だけに囁くように歌ってくれるのも好きだけど。
 剛の声に落とされた自覚が多分にある光一は、本人の前でその声を誉める事は絶対にしない。けれど、言葉より雄弁に思いを語る瞳で剛にはしっかりばれているのだと言う事には、気付いていなかった。
 知らず知らず笑みが広がる。
 ゆっくりと照明が落とされて行った。



+++++



 ホテルの一日は長く早い。
 光一は早朝からディナー前までの時間を仕切り、その後を引き継いだ。一日の業務を終えると自室へ向かう。殆ど家に帰らず従業員用の仮眠室で過ごしてしまう光一を見兼ねて、叶がホテルの一室を彼に与えてしまった。
 ルームナンバーを表示したプレートまで外した叶の本気に光一は諦めて、素直に使っている。自室にしたと言っても寝る時にしか部屋にいる事がなかったし、余り飾り立てるタイプでもないから他の部屋と印象は余り変わらなかった。
 襟元を緩めながら部屋へ入ると、テーブルの上に見慣れない物が置いてある。備え付けのグラスには、一輪の薔薇が挿してあった。
(来てるんか……)
 きっとシャワーでも浴びているのだろう。赤い薔薇を見詰めながら、それにしてもと思う。
 今時こんな気障な事をするのは、剛位しかいないんじゃないだろうか。彼らしさに小さく笑みを漏らすと、いきなり後ろから抱き締められる。
「うわっ!」
 慌てた声を上げて振り返ると、口許だけで笑う剛がいた。
「お前、どうしてそぉやって気配消すねん! 吃驚するやろっ!」
 薄く笑うだけで何も言わない剛は、抱き締める腕の力を強めてすぐにキスを仕掛けて来る。蕩けるような接触、に抵抗する事すら忘れてしまった。
 剛のキスは上手過ぎる。
 あっと言う間にベッドへ倒され鮮やかに服を剥ぎ取って行く様は、手慣れ過ぎていた。制服のスーツを皺にならないようにと気遣ってハンガーに掛けて行く余裕も嫌だ。その癖、替えると分かっているシャツは、ちゃんと脱がせてくれなかった。
 優しく身体の線を辿って行く剛の指先が、腰の辺りにぐずぐずと熱を溜める。彼に触れられていると思うだけで、心拍数は上がって行った。
 溺れている、とは思う。
 耳許を掠める甘過ぎる声にも、全てを暴くような黒く澄んだ瞳にも。どんどん落ちて行って抜け出す事が出来ない。
 男に抱かれるなんて、剛に会うまで考えた事もなかった。今まで何度か同性に迫られた事はあるけれど、自分の倫理観ではとてもじゃないが無理だと思っていたのに。
 何故、こんなにも溺れてしまうのか。この男の事なんて何も知らない。
 深い傷を受けて自分の腕の中に倒れ込んで来たのが、全ての始まりだった。何処かから逃げて来たのだろう。この街には唯流されて来てそのまま住み着いてしまった人間が何人もいるけれど、そのどれとも剛は違っていた。自分も同じ漂流者だと彼は言うけれど。
 その瞳の煌めきが違う事が、何よりも正直に違いを語っていた。きっといつか、剛は此処からいなくなってしまうだろう。流れるのではなく逃げる為に。
 そんな不安を内包したまま、今日も抱き合う。縋るようにして。いつ消えてなくなっても良いように、いつもいつも確かめた。
 剛の体温を、唇を。甘い囁きを。
 今日が最後かも知れないと思いながら、必死に腕を伸ばした。刹那の恋だった。

 だから、溺れる事が出来る。



 抱き合った熱を皮膚に残したまま、剛は浅い眠りに落ちた。抱き留める腕をそっと抜け出すと、光一はシャワーを浴びる。
 心地良い気怠さが全身を覆っていた。夢の中にいるようだと、幸せに侵された頭で思う。
 髪を伝い落ちる雫をタオルで拭いながら、ベッドサイドへと静かに近付いた。穏やかな呼吸で眠る剛は、起きている時からは考えられない程あどけない。頬に影を作る長い睫毛と、薄く開かれた唇が子供っぽくて可愛い。
 剛が起きないよう注意しながら枕元にしゃがみ込んだ。じっと、その横顔を見詰める。どうしてこの男にこんなにも惹かれてしまうのか。何度も繰り返した自問は、きっと答えを導く事がない。
 溺れるのに理由なんていらなかった。
 剛の湿り気を帯びた髪に触れようとして、指先が躊躇する。代わりに、吐息のような密やかな言葉を零した。

「何処も行かんで……此処にいて。俺だけ見て」

 躊躇った指先は、シーツの上を滑る。それは光一の本音だった。決して剛には言えない、届けてはならない言葉。
 彼はいつか間違いなく此処を去って行くのだから。それまでの、たったそれだけの情でなくてはならない。
 永遠の愛を望んでいる訳じゃなかった。諦めを口許に乗せようとした瞬間、白いシーツを撫でていた指先が掴まれる。
「そう言う事は起きている時に言いなさいよ」
 いつから起きていたのだろう。どうしようもない羞恥心に襲われて、剛の手から逃れようとするのだけれど、思い掛けず強い力が逃げる事を許さない。
「何やねん。……離せや」
 目を合わす事も出来ずに、光一は口先だけの抵抗をする。あんな事、口に出して言うべきではなかった。一生胸の中に秘めておくべき言葉だったのに。
 剛の枷になりたくない。そんな光一の心情に何処まで気付いているのか、指先を繋ぎ止めたままの剛がゆっくりと言葉を紡いだ。
「今度、どっか行こうか」
 光一を見詰めたまま嬉しそうに目を細める。いきなりの話題転換に付いて行けなかった光一は、不思議そうな顔をしてじっと剛を見詰めた。繋いだ指先が、ゆっくりと同じ温度になって行く。
「光一と会うのって此処かクラブだけやん? いつも誰かに見られてるみたいで胸くそ悪いねん。やからさ、誰も俺達を知らない所、行こうや」
「……よっぽど遠出しなきゃ、此処ら知ってる人ばっかやで」
 別に知っている人間に見られたからと言って、剛は光一との事を隠す気は更々なかった。むしろ積極的に二人の関係を言い触らしたい位だ。人目を避けたいのではなく、単純に光一を独り占めしたかった。
「んー、なら俺ん家来ぉへん? 周り知ってる人ばっかやけど、とりあえず部屋ん中までは邪魔されんからな」
 此処で抱き合っていてもたまに呼び出されて行ってしまう事があった。剛の家ならばとりあえずその心配はない。
 光一は、剛が何処に住んでいるのかを知らなかった。その事を彼は気にするけれど、剛のアパートに剛自身の痕跡は余りない。この街に流れ着いた時、自分が持っていたのはギターケースだけだった。
 剛の全財産とも言えるそれは、今この部屋にある。
「俺、有給一杯貯まってんねん」
 なかなか感情を表に出せない光一が、嬉しさを滲ませて言った。ふわりと笑う表情は、食べてしまいたい程可愛い。
「そしたら泊まり込みで来て下さいよ。大体君は働き過ぎなんやから、少し休んだ方がええで」
「うん。じゃ、約束な」
「おう、掃除して待っとくわ」
 見詰め合って笑って、それから軽く唇を重ねた。剛はベッドから起き上がると、素早く支度を始める。ゆっくりして行かないのはいつもの事だから、光一は黙って見詰めているだけだった。
 約束やなんて、大層な事してもうたなあ。
 後悔ではないけれど、それに似た苦い気持ちが剛の胸を占める。もしかしたら、自分は明日いないかも知れないのに。
 きっとそんな事は光一も良く分かっている。それでも、約束と言う呆気無くて優しいものが欲しかったのだ。およそ欲とは無縁のこの人が、欲しいと思ってくれる事が単純に嬉しかった。
 叶える事は出来ないけれど、自分の全てをあげたいと本気で思う。
「帰るわ」
「うん」
 別れ際の光一は、いつも寂しそうで見ていられない。多分本人にその自覚はないだろうけど。
「じゃあな」
「ん」
 別れの言葉が言えない臆病な光一を愛しいと思う。そして、こんな愛しか与えられない自分が心底嫌だった。
 ほんの小さな約束だけど、絶対に叶えてやりたい。



+++++



 光一の部屋から出るとすぐにポケットから煙草を取り出す。さすがに火は点けないけれど、銜えるだけで安心した。
 歌い手は喉が命だと分かっていても、これだけはやめられそうもない。
「おい、廊下は禁煙だぞ」
「……社長」
 声のする方向を振り返れば、このホテルのオーナーである叶が立っていた。相変わらずラフな服装で、青年みたいな笑みを浮かべている。
 剛は、この男が余り得意ではなかった。
「あいつに、あんま変な癖つけんなよ」
 意地の悪い笑い方をして、剛を見下ろして来る。最初に見つかったときはどうしたものかと思ったが、別に自分の息子が男に抱かれているのを止める気はないらしい。
 器が大きいと言うか、とにかく良く分からない人間だった。
「そんなん言われんでも充分分かってるわ。あいつは此処らの人間にしたら『宝物』みたいなもんやろ」
「そうだな。大事に扱ってくれ。ちゃんと返してもらわんと困る」
「誰が持ってけるっちゅうねん。――ちゃんと、置いてくわ」
 まるで独り言のように零すと、自嘲気味に笑った。光一がこの街でどれだけ愛されているのかは、少なくとも光一以上に理解している。
 瞳を伏せて、繋いだ指先を思い出した。先刻約束して来たのと同じ口で、よくもこんな事が言えたもんやな。
 結局自分は光一に何一つ真実を渡せないと言う事だ。
「お前が分かってるのはありがたい事なんだがな。どうも光一の方が分かっていない……」
 全然困っていない口調で困った顔をしてみせる。光一は俺に惚れてるんやから、そんなん分からなくて当たり前や。
「いざって時にあんたらが止めたらええだけの話やろ」
「まあ、そうだな。邪魔して悪かった」
 あっさりと去って行く背中を見送って、どう考えてもあの男は好きになれないと改めて思う。何しに来たんや、あのおっさん。釘を刺しに来たのは間違いないだろう。
 その時が来たら置いて行くと言うのは、最初に抱いた時から決めていた。自分と光一とでは、余りにも生きている世界が違い過ぎる。けれど、そうして自分を戒めていなければどんどん深みに嵌まって行くのも分かっていた。
 触れた瞬間に、本当は離れるべきだったのに。
 この手は光一を汚してしまうだけだ。あの、最初の夜を思い出す。朦朧とした意識の中で、やけにはっきりと映った光一の顔。髪の一筋まで思い描ける。
 出会った瞬間にきっと、始まっていた。
 必死に俺の傷を押さえながら話し掛けて来る様子が、余りにも綺麗で。傷の痛みさえ遠退くような気がした。
 思わずその頬に手を伸ばすと、自分の掌に付いていた血が彼の頬を濡らしてしまう。いけない、と強く思った。繊細な硝子細工のようなこの人を汚してしまうと、強く。
 あの時の強烈な衝動は、今も鮮明に残っている。愛しているのだろう、光一を。それでもいつか必ず別れる時が来る。
 「その時」は、三ヶ月後かも知れないし明日かも知れなかった。でもその瞬間までは光一の傍にいたい。彼も自分も決して認めないけれど、この恋はきっと刹那のものなんかじゃない。
 一生に一度の、命懸けの恋だった。
 今この瞬間にしか溺れる事が出来なくても、二人は幸せを知っている。とにかく今は、約束を叶える事だけ考えよう。
 ホテルを後にする剛も、部屋で一人剛の匂いが残るベッドで眠る光一も、まだ知らない。
 その約束が果たされずに終わる事を。



「人を殺した事がある。だから歌えるのだ」
 そう呟いた男の瞳を、俺は決して忘れない。



【了】



恒温動物の恋





 この恋が明日終わるかも知れない。そんな事を夢想してみる。
 まだ予感すらない別れを考えても仕方ないのは分かっていた。考えて辛くなるのは自分なのに。
 悪い癖だった。



 路肩に車を止め、強い陽射しの中冷房も付けずに、剛は光一の事を考える。
 コンサートの打ち合わせの合間に出来た時間を会議室で過ごしたくなくて、車を出した。マネージャーは心配そうに引き止めたけれど、言っても聞かない性格である事は彼も良く知っている。フロントガラス越しの太陽に灼かれながら、煙草を灰皿へ押し付けた。
 今に始まった事でもないけれど、最近光一の事ばかり考えている。とっくにそんな時期も過ぎて、空気よりも馴染んだ相手なのに。
 彼を思って不安になる事をもう何度繰り返しただろう。いつまでも不安定に揺れる自分を嫌悪した。
 理不尽とは分かっていても彼にその感情をぶつけそうになる。昔より傷付ける事は少なくなったけれど、こうして一人でバランスを取る時間は増えた。
 光一の恋の温度はいつも変わらないから安心する分、不安にもなる。大事にされているのは分かっていても、自分と彼とでは余りにも恋のスタンスが違っていた。
 恋ではなく、愛を望む人だから。
 差し込む陽射しが痛かった。真夏の二十九度が肌を灼く。可笑しくなりそうだ。
 煙草を銜えて火を点けた。光一の、涼しささえ漂う後ろ姿を思い出す。振り返らない肩を掴んで、無理矢理振り向かせたのは自分だった。
 奪って縛り付けて、閉じ込めたくて。
 彼への恋情は、そんな身勝手な物ばかりで出来ていた。
 冷房を入れていない車内の温度は、どんどん上昇して行く。じりじりと肌を焦がす熱が、思考を奪う。もっと上がれば狂えるのに。
 纏わり付く熱気は肌の上にだけ狂気を生んで、心臓まで届かない。三十℃までの後一℃が足りなかった。
 手を伸ばしても掴めない熱がある。三十℃に届けば何かが見える気がするのに。
 光一の恋の温度は、楽園を見せてくれない。三十℃の楽園は何処にあるのだろう。



+++++



 最近剛が可笑しいことには気付いていた。原因が自分だと言う事も勿論分かっている。
 せっかく前向きになって来たのに、いつまでも変わらない暗闇が彼の中にはあった。子供の様に欲しい欲しいと駄々を捏ね、大人の瞳で暗い思考へと沈んで行く。
 こんなにも全てを渡しているのに。剛は何が足りないと言うのだろう。
 まだ帰っていない事は分かっていたから、合鍵を使って部屋に入る。愛犬が駆け寄って来て、嬉しそうに足元に纏わり付いた。
「けんしろ。元気やったか?」
 屈んで頭を撫でてやる。ケンシロウを抱え上げて部屋へ入ると、予想通りの乱雑さに溜息を吐いた。忙しいのは分かっているけれど、彼の精神状態も同時に表している様で。
 苦しくなる。
「お前よぉこんな部屋でお留守番出来るなあ。良い子やね。ご飯、しよな」
 フローリングにケンシロウを降ろすと、キッチンへ向かった。食事を与えている間にリビングの片付けを始める。散らばった荷物を纏めて静かな吐息を漏らした。
「弱いんは、俺も一緒やな」
 こうして態と剛がいないと分かり切っている時間を選んで来る。引き摺られそうな自分が怖くて、剛を避けていた。
 彼となら、何処までも落ちて行ける。
 真っ直ぐ前を向いて生きたいと思っているのに。剛の瞳がそれを分からなくさせた。
 洗濯機を回すと、今度は雑誌や楽譜を拾って行く。相変わらず統一性のない雑誌は、纏めて棚へ仕舞った。それから楽譜を片付けようとして、ふと手を止めてしまう。既製の五線譜に手書きの物が混じっていた。
 見慣れた癖のある文字を辿って行く。マイナーのメロディーに乗せられた言葉は、剛の心理を良く表していた。
 想っても願っても叶わない恋の歌。
 剛は自分と違って、今までの経験や心情をありのまま伝えるのを好む人だった。だから失恋や恋の苦しみが歌われる度、少しだけ胸が痛む。手に取ったこの歌は、ダイレクトに心臓を刺した。

   上手く君を愛せないんだ
   君といた楽園 今は何処にあるの

 何度も恋をして、何度も傷付いて。もう恋と言う感情だけで一緒にいる事なんて出来なくなってしまったのに。恋の為なのか仕事の為に離れられないのか、そんな事すら分からなかった。
 今頃リハーサルをしているだろう剛を思う。綺麗なメロディーを響かせて、恋の歌を歌っている筈だ。
 恋を捨てようと思った事だって何度もあった。辛くて苦しくて、離れた方が幸せになれるんじゃないかと。
 けれど、離れる事も出来ず二人で苦しみを共有していた。何度考えても、指先を繋いだままでいる理由は一つ。
 自分の中にはまだこんなにも、恋情だけで構築されている情がある。雁字搦めにされた二人の関係の中に確かに存在する純粋な恋情は、自分にとって救いだった。
 だからこそ、剛との関係に悲観的にならずに済む。部屋を片付けながら、静かに一人ごちた。
「お前はいっつも悩み過ぎやねん……」
 考える事なんかやめて、奪ってくれれば良いのに。同意を示す様に、食事を終えた愛犬が光一の膝に擦り寄って来た。



+++++



 恋を知らない光一に本当の熱を教えたのも、全て奪ったのも自分だった。彼は、色恋に関して決定的に無知で。
 幼い光一を自分だけの物にしたくて、初めて肌に触れたのは確か夏だったと思う。こんな風に蒸し暑い夜だった。
 怯える彼の瞳が指先が肌が、俺の思考を奪い尽くして。結局奪われたのはどちらなのか分からなくなってしまった。
 八月に入ってスケジュールが死ぬ程忙しくなってから、部屋が綺麗に片付いている。今日も同じ様に整然とした部屋と、満足して眠る愛犬の姿があった。
 これ位のスケジュールになれば、ケンシロウを預けるのは常である。自分の仕事の合間を見つけては甲斐甲斐しく世話を焼く相方に苦笑した。
 部屋の片付けなんかええから、会いに来て欲しいのに。思いはいつも上手く伝わらない。
 わざわざスケジュールの確認をして、いない時間を狙って来る光一にもどかしさは感じるけれど。避けさせてしまっているのは自分だから仕方なかった。
 部屋で待つ事もせずメールの一つすら寄越さず、唯優しさだけを残して行く。余りにも光一らしくて泣きたくなった。
 綺麗に片付けられたリビングのローテーブルの上に、紙の束が置いてある。其処には、自分の思いを乗せただけの音が記してあった。肩に掛けたバッグをソファに放って、何気なく手に取ってみる。
 手書きの五線にマイナーなコード進行。光一がほんの少しだけ瞳を曇らせるだろう曲だった。
 見られたくなかったなと苦く笑った瞬間、見慣れない文字に気付く。この譜面にある筈のない、余りに馴染んだ彼の少し汚い文字だった。弱いメロディーの上に書き込まれた力強い言葉をゆっくりと指先で辿る。
 どうして、彼は。こんなにも自分の望む物ばかり与えてくれるのだろう。

   いつでもここにあるよ。

 俺の弱さも醜さも全部飲み込んで白い光を与えてくれる光一を、今すぐ抱き締めたいと思った。日が落ちても治まらない熱が心臓を焦がす。
 二十九℃が加速して。
 光一に会いに行こうと決めた。彼の肌が冷たくても、自分の思いが狂気に近くても。離れられないのなら、もう一緒にいるしかないではないか。
 例え、此処が楽園じゃなくても。
 楽譜をテーブルに置くと、携帯と車のキーだけを持って部屋を後にする。外に出た途端、未だ燻る熱気が全身に纏わり付く。息が出来なくなりそうだった。
 東京の夜は暑い。気が狂いそうなこの熱は、楽園から遠い温度だと思った。
 表示された時間は、午前三時を回っている。迎えは七時だと言っていたけれど、そんな事には構っていられなかった。エアコンも付けずに車を走らせる。
 死にそうな位暑いのに。まだ足りないと全身が訴えている。
 一℃足りないもどかしさが、すっかり肌を覆っていた。光一の温度が思い出せずに。
 三十九℃の楽園は、何処にあるのだろう。



+++++



 夢を見る事は苦手だった。元々性格として持っていた部分もあるけれど、常に現実を見据えないと生きられない場所に立っていたから。
 それに、隣にいた人がいつでも夢を見ていた。自分の見る事の出来ない分まで見て、一緒に見ようと与えてくれる人だった。
 どれ程深く落ちても夢を見る事を諦めない剛は、強い人だと思う。傷付く事を恐れない彼に憧れた。
 俺は怖い物だらけだから。
 夢を見る事だけじゃない。この仕事を失う事も大切な友人を失う事も。優しくて傲慢な彼の指先を離す事も、全て。
 今ある状態が崩れるのは怖い。だから、未来も見ない様にした。今とは違う自分を想像するのは怖い。
 それなのに、剛は変わろうとする。自分は今あるものを守るだけで精一杯なのに、違う場所へ行こうと手を引かれた。
 二人だけの楽園を探そうと笑う。そんな物、何処にもないのに。
 ソファに体を投げ出して微睡んでいた光一は、今更ながらに部屋が真っ暗な事に気付いた。
「……あかん。剛が伝染しとる」
 感情の動きはまるで違うタイプなのに、うっかりしているとすぐ感化してしまう。夫婦が似て来る原理と正に同じだろうと思いながら、部屋の明かりを点けた。
 あんな暗いのに流されたらあかん。剛が落ちれば落ちる程、自分はポジティブに上を向いていなければならなかった。いつ手を伸ばして来ても引き上げられる様に、高い場所にいる必要がある。
 それが二人でいる為のバランスだった。他の生き方等知らない。
 身体を起こすと、テーブルの上に置いていた紙を手に取った。もしかしたら困るかも知れないと思ったけれど、置いて行く事も出来なくて。コンサートでは使わないから大丈夫だと思う。
 それは昔、剛が戯れに作った曲だった。いつ頃なのかは思い出せなくて、でもメロディーだけは鮮明にある。剛の甘い歌声を覚えていた。
 馬鹿みたいに甘ったるい記憶は、何処か曖昧で上手く繋がらない。何でこんな曲を作ったのかとか、季節はいつだったのかとか。
 けれどまだ、この楽譜があった事が単純に嬉しい。
「……ああ、そうや」
 この曲は確か、拓郎さんのいる場所で剛が歌った。やめろと言っても聞かなかったのは、きっと酔っていたせいだ。余りにも直接的なラブソングは、誰が聞いても自分への物だと分かっただろう。
 拓郎さんも酔っ払っていて、一緒にギターを弾き始めるから収拾が付かなかった。あれだけ繊細な神経を持っている癖に、何て男だと思う。最後には、優しい瞳で見詰めたまま歌うから。
 死ぬかと思った。
 拓郎さんがギターを片付けて俺の方へ来ると、「カメラ回ってる時は歌わせんなよ」なんて、全然酔ってない声で言いながら頭を撫でられて。そんな事分かってると強がる事も出来なかった。
 懐かしくて遠い光景に胸が痛い。譜面の文字は、メロディーと同じ様に楽しそうで安心した。剛の部屋に置いて来た楽譜とは全然違う。
 けれど、自分にとってはどちらの曲も一緒だった。甘ったるい恋も苦しい恋も、剛から与えられる物なら構わない。
 そんな単純な事を、彼は全然分かっていなかった。俺は剛以外望んでへんよ。お前以外の何もこの両手に抱える事は出来ないけれど、お前の物なら何でも欲しい。
 剛は恋を望むけれど、俺は彼の感情なら何でも良かった。例えそれが憎悪でも。
 メロディーをそっと口ずさむ。こんなに優しい歌も作れる事を、剛はちゃんと覚えているだろうか。

   僕の左で眠る人
   幸せに見えるのは 僕のひいき目かな

 同じ愛を歌っているのに。
 けれど、と光一は思う。あの部屋で纏められた束の中に、この二曲が同じ様に紛れていた事に安心した。矛盾せず混在せずに、二つの感情が存在する。
 それが何処か、救いの光に思えた。



+++++



 彼の部屋には季節がない。
 十九℃に設定されたこの場所は、真夏の温度など忘れてしまった様に静まり返っていた。肌に纏わり付く熱気は、すっかり遮断されてしまう。
 真夜中にも関わらず起きていたらしい光一は、何も言わず優しく迎えてくれた。コーラを注いだグラスを二つテーブルに置くとソファに座る。
「お前も座り」
 立ったまま動こうとしない剛を優しく促した。少しの逡巡を見せてから、光一の隣に腰を下ろす。
 触れてしまうのは躊躇われて、距離を保って座った。言いたい事は沢山ある気がするのに、言葉は出て来ない。
 光一の持ったグラスの中で、氷が澄んだ音を響かせた。この部屋は涼し過ぎて、剛の狂気を冷ましてしまう。
 先刻からずっと光一は視線を逸らしていた。意識的なのか無意識なのかは分からないけれど、戸惑っている事は確かだ。久しぶりに見る彼の横顔は、少し緊張していた。
 当たり前か。何日も避けたまま生活して、しかも避けさせていたのは自分なのだから。狂気を抱えた俺にどう対処すべきなのか、分からないのかも知れない。
「部屋、ありがとな」
「……ああ、うん」
 白い指先が惑う様にソファの上を滑る。伏せた睫が影を作って綺麗だった。
 光一はこうして素顔でいる時が一番美しいと思う。
「元気、なん?」
 ぎこちない言葉は、そのまま彼の心情を表している様で。
「光一は?」
「え」
「元気やった?」
 何気ない会話すら出来ずに、光一の肩が揺れる。噛み締めた唇が可哀相だった。
 その緊張から開放したくて、白い二の腕に指先を伸ばす。狂気ではなく、優しさだけで触れたつもりだったのに。
「……っなん!」
 過敏な反応だった。確かに長い事触れていなかったけれど、こんな。
 こんな恋の手前みたいな表情をするのは反則だった。触れた腕を強引に引き寄せて抱き締める。
 心臓の辺りが灼けそうな位熱かった。首筋に顔を埋めて、光一の匂いを吸い込む。
「つよっ……!」
 何も知らない子供みたいに怯えられては、もう。
 沸点を超えた血液が、全身を駆け巡る。触れた光一の肌はいつも通り冷えていた。諦めて背中に回されたその温度。
 まるで夏なんか忘れた様に縋り付く指先が。
 俺を狂わせる。
 沸騰しない光一の肌の上にも同じ熱を纏わせたかった。ゆっくりと掌を滑らせる。
 恋なんてもう、越えてしまったのに。指先だけは変わらない優しさで触れる。しがみ付いたままの彼をソファに押し倒して。
 三十℃の楽園を探した。



+++++



 寝室を抜け出し冷え切ったままのリビングに剛はいた。窓を開けたのは一ヶ所だから、機密性の高いこの部屋に熱気が広がる事はないだろう。
 十九℃の室温が、肌に痛い。
 沸騰した血液は当分治まりそうもなかった。光一は少し前に意識を手放して眠っている。そんなに長い時間抱いていた訳じゃないけれど、無茶なやり方をした。
 彼が嫌がる抱き方をして、悲鳴を上げさせて。その声に満足する自分がいた。光一の体温の上げ方等知り尽くしている。焦れても求めても触れてやらず、どれ程涙を零しても離さなかった。
 可哀相に、と醒めた頭で思う。自分なんかに捕まらなければ、もっと幸せになれる人だった。彼を幸せにしてくれる人間など沢山いるのに。
 俺が光一でないと駄目な様に、光一もまた自分でなければならないのだ。
 どんな人生の歯車が噛み合ってこうなったのかは分からない。けれどもう、離れる事はお互い出来なかった。
 テーブルに置かれたままのグラスを取って、温いコーラを口に含む。表面に付いた水滴が手を伝って肌を濡らした。決して冷たい温度ではないのだけれど、今の自分には冷た過ぎて思わず舌打ちする。
 気持ちが落ち込むと苛々し易いのは分かっていた。少しでも気分を鎮める為に、グラスの隣に置いてあった煙草に手を伸ばす。
 火を点けて吸い込むと、小さく笑ってしまった。光一の煙草は軽過ぎて、毒素を抱えたい身体にはどうにもならない。それでも自分の物を出すのは面倒で、仕方なく吸う事にした。
 立ったまま部屋を眺めていると、フローリングに置かれた一枚の紙に気付く。
 彼の部屋には不自然な配置だった。台本でも資料でもきちんと片付ける光一が、こんな風に紙を置いたままにする筈がない。
 ソファの脇に伏せて置かれた紙。少しだけ日に焼けた跡があるから、古い物なのかも知れない。
 まるで。
 自分が来た事に焦って、慌てて隠した様な。
 現に今まで気付かなかったのだ。興味を引かれてソファに近づくと、屈みながら手を伸ばす。
 銜え煙草のまま紙を裏返して剛は硬直した。今の自分が見てはならないもの。
「……何で」
 零した声は掠れて震えた。身体が竦んで動かない。
 今、此処に、この紙がある不自然さ。自分が来るまでこれを見ていただろう光一の思い。
 そして。
 こんな愛をもう与える事が出来なくなってしまった自分。はらりと力なく紙が落ちる。明るいメロディーが其処には並んでいた。
 俺には、書けへんよ。
 自分の部屋にある楽譜を思い出す。もがいても光は見えなかった。俺の中にはもう暗闇しかない。一人では光など探せなかった。
 此処にいると言ってくれる彼がいなければ、もう。
 あの五線の上に書き込まれた言葉は光だった。落ちて行く自分に最後まで光を差し伸べてくれるのは、彼だけだろう。
 けれど、光一がどんな愛を求めているか位分かっている。苦しくなって煙草を揉み消すと、寝室へ戻った。
 扉を開けた途端、身体に熱気が纏わり付く。ベッドの上の光一は眠ったままだ。彼は抱かれた後も清浄な空気を纏っていて、それが不思議で悔しい。
 穢したい衝動に駆られた。
 そっと近付くと、起こさない様にベッドサイドへ腰掛ける。白い肌は陶磁器の様に澄んでいて、濁りがなかった。額に張り付いた濡れた髪を指先で払う。
 いつまでも此処にいて、彼は苦しくないのだろうか。何処にだって行ける筈なのに。楽園じゃなくても何処でも生きられる人だった。
 弱いんは俺だけや。俺が開放したら、光一は飛べる。
 遠く遠くに行ってしまえば――。
 そんな事を夢想して、諦めた素振りで光一の肌に触れる。彼は行かない。何処にも行かない。俺が手を離してもきっと、彼は隣にいるのだ。
 それはもう、恋ではなく必然だった。
 眠る光一は、綺麗で。気が付くと涙が溢れて彼の頬を濡らした。



+++++



 いつだって俺はお前の物やって言ってるのに。そんな風に求めなくたって、とっくに全部剛の物だった。剛の為だった。簡単な事を彼は全然分かっていない。
 頬に生温い温度を感じて目を開けた。酷い抱かれ方をしたせいで、身体の感覚が曖昧になっている。何処までが自分の物なのか分からなかった。
 視線を動かせば剛の苦しげな顔が見える。
 自分は意識を失ったまま眠っていたようだ。見下ろして来る瞳が濡れていた。
 泣いてるんか。
 頬を滑る液体は汗ではなく、剛の涙だったらしい。止め処なく溢れる雫がきらきらした結晶に見える。こんなにも暗く狂気を抱えた瞳なのに。根源的な部分で純粋な人なのだと思う。
 自身を狂気の淵に追い込んで、それでも飽く事なく愛だけを求めていた。矛盾だらけの感情で必死に腕を伸ばして来る彼を、嫌いになれない。
 一緒に落ちて行く事は出来ないけれど、何度でも恋をするから。お前が俺達の間にある恋情を信じられなくても、俺が信じている。
 必要以上にべたべたする身体を無理矢理起こして、泣いている剛を抱き締めた。素直に身体を預ける彼の肌も汗まみれだ。
 抱き合った熱ではない熱気が篭っている。自分の部屋ではあり得ない温度だった。
 遮光カーテンの隙間から外の明かりが漏れている。途中でエアコンを切った事には気付いていた。抱き合っている間中狂気じみた瞳で見詰めて来る癖に、剛はもどかしく触れるばかりで。
 過ぎる程泣かされた頃だった。不意に意地悪く煽るだけの手を離して剛は立ち上がり、冷房を切ると窓を全開にしたのだ。
 何を思ってそんな事をしたのかは分からなかったけれど。窓から熱気が入り込んで、肌の上を通り抜けた時。
 剛だと思った。
 夜の温度がそのまま彼の温度の様な気がして。十九℃に保たれた空間が熱帯に変わると、再び剛が覆い被さって来た。
 放っておかれた身体は、彼の温度が触れただけで敏感に快感を取り込む。部屋の温度なんか忘れてしまう位の熱に翻弄された。剛の唇が耳から首筋を辿って鎖骨に触れた瞬間、きつく噛み付かれて。
 頭の中が真っ白になった。世界の全部が剛になってしまう。
 けれど、思考も何もかも奪われ熱に呑まれていたのに、妙に冷静な部分が残っていて、気付いてしまった。
 剛の狂気が心地良い自分に。俺を思って狂う剛が愛しいと。紛れもない本心が怖かった。
 きっと狂気を抱えているのは剛だけじゃない。抱き締める腕の力を強くした。そんな自分を隠して、これからも隣に立ち続けるのだろう。
 大丈夫や、と優しく笑って諭すのだ。それを恋と呼んで良いのかは分からないけれど。
 俺はお前が好きやよ。
 涙の止まらない目尻に唇を寄せた。抱き締めても抱き締めても足りないと泣くのなら。全てを差し出してもまだ欲しいと言うのなら。
 俺はもう、傍にいる事しか出来んよ。ずっと、俺は此処にいるから。
 擦れ違う思いはいつまでも相容れないまま、唯傍にある。



+++++



 コンサートの初日を明日に控え、剛は大阪にいた。久しぶりに踏む舞台は何処か懐かしい。リハーサルも終わり、後は音響の調整をするだけだった。ギターの高音が上手く響かない。
 スタッフと話し合いながら調節していた。元々音響の知識がないから、自分は音を聴く事しか出来ないのだけど。
 手持ち無沙汰に暗い会場を見回してみた。明日この会場中に人がいる事を想像すると呼吸が苦しくなる。それでも今は、ライヴをやりたいと言う欲求の方が強かった。
 スタンド席に視線を向けた瞬間、剛の動きが止まる。動く事が出来なくなってしまった。
 このホールにいる筈のない姿を捉え、本気で幻覚なんじゃないかと思ってしまう。彼が此処にいるなんてあり得なかった。
 けれど吸い寄せられる様に足がその人影の方へ向く。こんな暗がりでも見つけられる程の光を持っている人だった。
 目の前まで辿り着いても、まだ信じられない。光一が此処にいるなんて。
「何してるん?」
 俺の唐突な言葉にも彼は相変わらずの澄んだ笑顔を見せる。まるで、此処にいるのが自然だとでも言う様に。
「仕事のついでやねん」
 そんな筈はなかった。光一のスケジュールは、自分がどんなに忙しくても把握している。今日は確か、雑誌の撮影と番組の打ち合わせが入っていた。
 けれど、明確な答えを聞くのは怖くて、追及する事が出来ない。都合の良い様に解釈しそうになる自分を押さえ込む。言葉を見付けられずに黙っていると、光一があっさりと剛の期待を首肯した。
「……会いたかってん」
 光一は剛に少しだけ本心を渡した。彼が苦しんでいたからって一緒に苦しもうとは思わないけれど、優しくしたいのは本当だから。
 二人でこんな所にいるのは良くない気がして、剛の手を取ると一緒に座席に座った。そう思ってしまうのは、疚しい部分があるからこそなのだけど。
「光一?」
 不安そうな響きで、剛が名前を呼んだ。彼を甘やかしてあげたくて仕様がない。
 自分のプライドとか理性とかそんな物を全て超えて、剛が大切なのだ。俺に出来る事なら何でもしたいだなんて。
 こんな縋る様な目で見詰められたら、揺れるに決まっていた。

「好きやよ」

 言葉の意味を取り違えたのかと思って、剛が固まる。光一の口から素面の状態で、そんな台詞が出て来るなんて。
 彼が今此処にいる事以上にあり得ない事だった。暗闇でもきらきらと光る瞳が言葉通りの優しさを含んでいて、泣きそうになる。
「何処にいても誰といても、それだけは忘れんといて」
 光一の目は、此処で良いと言っていた。楽園じゃなくても、此処で幸せになろうと。
 丸い指先が頬に触れた。冷え性の彼の手に熱はない。
 三十℃の楽園なんて知らないと突っ撥ねるのに。全てを包み込む静けさで俺を愛するのだ。
 触れた手をしっかり掴むと、華奢な身体を抱き締めた。光一が腕の中で小さく笑う。
 この人は、きっと何処にも行かない。楽園なんか一緒に探してくれない。
「なあ」
「ん?」
「此処に、いてな」
「……他に行くとこなんてないわ、阿呆」
 どうしても超えられない一℃は、光一の爪の先にあった。
 見通せない楽園が、此処に。
 柔らかい髪に口付けながら、剛は思った。



 案外楽園は、手の内にあるのかも知れない。





【了】



+++++



 スケジュールが組み直される事は、良くある事だ。今日もスタジオに籠る予定が、何故か他の仕事を急遽押し込まれて都内を走り回る羽目になった。
 昨日の光一は、明らかに様子が可笑しかった。具合が悪いのが、一番だろう。
 普段けろりとしているから丈夫な人間だと思われがちだが、強い方ではなかった。気力だけで保たれている張り詰めた身体は、綺麗だと思う。
 けれど、あれは。精神的な揺れが原因だと思う。頬を赤く染めて、俯いた光一。
 噛み締めた唇から零される筈だった言葉は、一体何だったのだろう。いつも一番傍に居たのに、いつも彼の本心は分からないままだった。
 午後、短いメールを送る。心配の気持ちだけを表現した言葉。スタジオには持ち込んでいないだろうけれど、休憩中にでも読んでくれれば良い。
 そう思っていたのに、光一からメールが返って来る事はなかった。彼とアドレスを交換して以来、一度もない事で俺は不安になる。
 他愛もないメールには返信がない事もあるけれど、質問形式の文章で送られたものには必ず答えが返って来た。それが彼の生真面目さなのだと、メールを読む度嬉しくなる。
 人と付き合うのが今も下手な光一は、自分から連絡を取る事はないけれど、その代わり俺から送ればちゃんと返してくれた。いつか、そんな話を長瀬とした事がある。
 彼は親友を自負している割に、羨ましそうに俺を見て言ったのだ。
「良いなあ。俺なんかメールしても、光一返してくんないんだもん。会ってる時は優しいけど、他ん時は俺の存在丸ごと忘れられてるんじゃないかって思うよ」
 寂しそうに笑った長瀬の表情に、優越を見出した自分は子供だと思う。俺だけの特権。相方の愛情。
 光一は、いつもどんな時でも優しかった。忘れられているなんて思った事、一度も。
 見詰めれば怯えた様に逸らす癖に、気が付けばいつでも見守る視線があった。彼の愛情を感じなかった日はない。
 仕事を終えて携帯を開いても届いていない返信が気になって、結局帰りの車の中光一のマネージャーに電話をしてしまった。
 過保護と言われても、気になる事を見ない振りで通り過ぎる事は出来ない。
「あ、遅くにごめんな」
「良いよ。どうかした?」
「うん、光一なんやけど。今日、調子悪かったりして帰った?」
「……」
「マネージャー?」
「ああ、ごめん。凄いなあと思って。お前達は、本当にコンビなんだね」
「は?」
「光一なら具合悪そうだったから、早めに帰したよ。コーラスのレコーディングにまで付き合おうとしてたからね」
 時間があれば少しでも関わりたがるのは、彼のプロ根性でもあり悪い所でもあった。具合悪いんやったら帰れば良いのに。思うのは簡単だが、彼には難しい事だ。
 変に逞しいあの精神は、俺のせいやね。
 今更否定出来ない事実は、痛みを伴う。パートナーである自分が、もっと強ければ。
 俺達の間には、後悔ばかりが積もっている。
 車を光一の家へ回してもらい、様子を見て行く事に決めた。もう、何度目の訪問だろう。失った過去の時間を取り戻す様に通ったのは、彼に負担だったろうか。
 一度も俺を拒んだ事のない人だった。緊急事態だと言い訳をして、スペアキーを使う。
 あっさりと開く扉は、光一の様だと思った。無条件で受け入れられる感覚。それが心地良いのか、悪いのか。
 分からなくなったのは、自分の心を誤摩化して生きているからだった。
(あ。具合悪いんやったら、彼女に連絡しているかも知れん)
 弱った自分を晒す人だとも思えないけれど、俺が知っているのは仕事中の光一だけだから。プライベートのこの場所なら、甘えたり弱音を吐いたりするのかも知れない。
 彼女と鉢合わせしたら嫌やなあ。エレベーターを降りて苦笑する。しんと静まり返った廊下は沈黙を保っていた。冬の冷気が肌に痛い。
 そっと扉を開けた。彼女の靴があったら帰ろうと思う。いつか、きちんと紹介されるまで会いたくなかった。
 中の様子を窺う。玄関にそれらしい物はなかった。静まり返った部屋は、廊下と同じ冷気を纏っている。静かに扉を閉めて、暗い部屋に目を凝らした。

 本当は、初めて彼の部屋に来た時から気付いている事がある。

 整然とした、体温のない部屋。独りの場所。愛されている筈の彼の部屋は、何故こんなにも冷え切っているのだろう。
 一人で住むには大き過ぎる。いずれ彼女と住むつもりなのだろうと思っていた。けれど。
 上着と荷物をソファに置いて、寝室へ向かう。ベッドサイドの明かりが扉の隙間から漏れていた。
 ベッドの様子を窺う。眠る光一。風邪を引いたのだろうと思ったから、苦しんでいる姿を想像していた。
 口許まで掛けられた毛布が上下しているのを確認する。一歩一歩近付きながら、明かりに照らされた彼の顔を見詰めた。
 死んでいるかの様な静かな姿は、小さな驚愕をもたらす。死に近い静寂だと思った。眠る彼の姿は作り物の様で怖い。
 硝子の棺に入れられた白雪姫みたいや。いつかのプロモでも思ったな。枕許に腕と顎を乗せて、整った横顔を見た。
「……こぉいち」
 不安になって、名前を呼ぶ。毒林檎を食べた美しいお姫様。
 お伽噺と重なる儚さなんて、何処にもない筈なのに。静か過ぎるこの部屋がいけないのかも知れない。
 反応はなかった。薬を飲んで眠ったのだろうから、当たり前だ。
 微動だにしない光一が怖くて、さらりと流れた癖のない髪を掬って小さく呼ぶ。
「光一」
 長瀬の言葉を思い出した。彼の中から自分が消える事なんて考えられない。傲慢な思い上がり等ではなかった。
 光一は、いつも俺の存在を胸の中に置いている。隣に寄り添う時も、遠い場所で仕事をしている時も。休息を取る時ですら、俺が消える瞬間はないと思う。
 その理由を、本当は分かっている。
 最初にこの部屋を訪れた時から気付いている事。

 彼は、ずっと一人だ。

 他人の気配のない部屋、孤独な場所。彼女の存在なんて何処にもなかった。
 光一の優しさは、俺への『特別』だ。俺に向けられているのは、この世で一番尊い感情だった。
「こういち」
 王子様が口付ける様に、甘く優しく囁き掛ける。梳いた髪は、指の間を呆気なく滑り落ちて行った。
 睫毛がふるりと揺れて、ゆっくりと覚醒する気配。潤んだ瞳が、躊躇いなく合わされる。普段は照れたみたいに逸らすのにな。
「……ょし?」
「うん」
 夢から抜け出せない声は、現実を認識出来てはいない様だ。ちゃんと分かっとんのかなあ。無理やろな。
 小さく笑んで、夢と現の狭間にいる彼へ優しく視線を向ける。
「お見舞い?」
「うん」
 子供みたいな喋り方が可愛らしかった。いつも気を張って過ごしている彼のこんな姿は、滅多に見られない。
「具合、どうや?」
「へーき」
「嘘吐き」
「剛が、来てくれた。へーき」
 毛布の中から、真っ直ぐ腕が差し出される。その瞳に迷いはなかった。抱き締められる事を望む身体。
 怯んだのは、俺の方だった。阿呆やな、今更何怖がってんねん。
 本当に怖いのなら、わざわざ此処まで来たりしない。
 そっと腕を取ると、自分の首に回した。上体を起こして、安心出来る様に抱き締めてやる。
 体温に飢えるのは、弱っているせいだった。
「あったかい」
「寒かったんか?」
「ん」
「ちゃんと暖房入れなあかんやろ」
「……喉、痛めるから」
 肩に顔を埋めながら、それでも当たり前に披露されるプロ意識に感服した。部屋は冷え切っていて、温かいのは彼の身体だけだった。
 背中に回した掌が抱き締める強度を迷っている。
「なんで、来てくれたん?」
「心配やったからに決まってるやん」
「うん」
「……光一?」
 ぎゅっと抱き着いて来た身体は、発熱のせいか震えていた。ああ、何故こんな夜に俺は足を踏み入れてしまったのだろう。
 首筋をくすぐる髪、しがみ付く薄い身体、早い鼓動の音、夢の中の彼。来ては、いけなかった。

「好きや」

 小さく零された言葉は、甘く柔らかかった。
 本当は気付いている事。光一が俺を好きな事。
 ちゃんと知っていた。思いには応えられないと思ったから、今まで目を瞑って来たのに。
 かくんと重くなった身体に驚いて様子を窺う。
「光一?」
 耳許で聞こえる規則正しい呼吸は、眠りに落ちた証拠だった。ゆっくり身体を離すと、元通りベッドに横たえる。
 毛布に包み直して、その顔を見下ろした。静かな寝顔、硬く閉じられた瞳から零れる一筋の。
「お前、阿呆やな」
 これは、恋の涙だと思った。
 透明な雫は光一の思いだ。綺麗な恋の結晶。その涙を拭って、ごめんなと囁く。
 彼の事は、勿論大切だ。相方として、仕事のパートナーとして、彼以外には考えられない。大事にしたい人だとは思う。
 どうしても『好き』の種類が違った。俺は、お前に触れたいとは思わんのよ。
 愛情と恋情の差は、俗物的な考えかも知れないが相手の身体が欲しいかどうかだと思う。俺は、光一を大事にしたかった。
 大切に仕舞って、どんな敵からも守ってやりたい。
 この感情は恋なんかじゃない。彼を欲しいと思った事は一度もなかった。
 けれど、彼がいつか誰かの物になるのは耐えられない。俺じゃない誰かに大切に囲われるのは我慢ならなかった。
 向けられる優しさの全ては、いつも俺だけの物であって欲しい。
 狡いのは、俺や。本当は、もっと底の方に真実の感情がある。彼には決して告げられない、黒い感情がずっと燻っていた。



+++++



 楽屋入りは剛の方が早かった。遅れて来た光一の顔色は、お世辞にも良いとは言えなかった。
「おはよう」
「具合、大丈夫か?」
「え、うん。知ってたん?」
 きょとんとした目で剛を見詰める。昨日の事は、覚えていないらしい。繕った表情ではなかった。
「昨日メールしたのに、返信なかったから」
「あ、そか。ごめん。携帯見てへんわ」
 資料を入れた鞄に入れたままになっている携帯は、電源が入っているかどうかも怪しい。慌てて取り出そうとすると、ええよと剛に制される。
「体調平気なん?」
「薬飲んだし、平気ちゃう?」
 相変わらず自分の体調を他人事の様に言う人だ。苦笑を零して、あったかくしときなさいよと釘を刺す。放っておくと、自分の具合の悪さなんてどうでも良くなってしまうから。
 瞳を見詰めても、狼狽える気配はない。昨日の事は、夢の中の出来事だと脳に処理されたんやろな。
 当たり前か、素面であんな事の出来る奴じゃない。素直に甘えて腕を伸ばす光一なんて、初めて遭遇した。
 恐らくこれから先も見る事はないだろう。夢の中だけの真実だった。
 その気がないなら、知らない振りをすれば良い。俺は光一を恋愛対象には出来ない。これから先も、ずっと。
 いつか結婚して子供を作り、マイホームで幸せに暮らすのが夢だ。今も、その希望は変わらない。
 光一に叶わない思いを抱かせ続けるのは、酷だった。けれど、あの優しさをあの眼差しをいつまでも独占したいと思うのも事実だった。
 衣装に着替える後ろ姿に、声を掛ける。彼が安心する甘えた発音で。
「なあ、光ちゃん」
「んん?」
 振り返った光一の目は、優しい。彼の恋情は、きっと穏やかなものなのだろう。
「昨日な、」
「うん」
 乱れた髪を撫でる指先に視線を向けた。昨日触れた髪、しがみ付いた腕。
 薄い身体を通して聞こえた早い心拍は、恋のせいだろうか。それとも単に病気のせいだったのかも知れない。
 恋を始める事も終わらせる事も出来ない癖に、こんな事を言うのは間違っていた。分かっているのに、口にしてしまうのは。
「俺、上着忘れて来たみたいやねん」
「うわ、ぎ……?」
「そ。ソファの上に置いてへんかった?」
 唯でさえ色の悪い光一の顔から、一気に血の気が引いた。狼狽える瞳、噛み締めた唇。
 ああ、これが見たかった。
「……昨日、来たん?」
「キンキさーん! 本番です。お願いしまーす」
「はーい。光一、行くで」
 時間を計算して声を掛けた。タイミングは完璧だった。笑い掛ける表情は、いつも通り。
 震える身体を押さえて立ち上がろうとした光一の足許がふらついた。
 咄嗟に差し出した手が邪険に振り払われる。先刻まで真っ青だった顔が、今は赤く染まっていた。
「ごめん。平気、やから」
 全然平気じゃない顔で、楽屋を出て行く。その後を追いながら、自分は何て冷たい男だろうと思った。
 不安定な精神状態で収録中放っておく。再び楽屋に戻った時、彼の心は何処に向かうのか。知りたかった。単純な探究心だ。
 俺の一挙手一投足に怯えながら、収録を何食わぬ顔でこなす彼が見たかった。



+++++



 呂律が上手く回らない。段取りを忘れる。ゲストの話が耳に入って来ない。
 剛の期待通り乱れた光一の精神は、どうにか進められる収録中戻る事はなかった。
 蘇るのは、夢にしては鮮やか過ぎる昨日の事だけ。頭に入れた筈の台本等、とっくに何処かへ消えてしまった。
 少し可笑しくても進められてしまうのは、長年の経験からだ。他のメンバーに突っ込まれながらも収録を終わらせて、楽屋に戻る。
 楽屋。剛と一緒んとこに戻るんか。
 嫌だ、と反射的に思って楽屋へ向かう廊下を引き返そうとした。逃げても仕方ないのは分かっているけれど、今は会いたくない。
 とりあえず誰かの楽屋へ挨拶に行こうと決めた。今日の進行は、謝罪に値するだろう。
「光一、何処行くん?」
「……っや!」
 腕を掴まれて、反射的に声を上げた。廊下には少し響き過ぎる音量だ。
「お前、相方相手に何怯えてんねん」
「吃驚、しただけや」
「この後まだ仕事やろ。何処行く気やってん」
「……トイレ」
「阿呆。トイレはあっちや」
 問答無用で腕を引かれて、楽屋へ戻った。こんな時に限って、マネージャーは忙しい。一緒にいてくれれば良いのに。
「ほら、早よ着替え」
「剛、昨日……」
「次のに遅れる」
 話をする気はないらしい。ハンガーを渡されて、仕方なく着替え始めた。
 昨日の事は、何処までが現実で何処までが夢なのか分からない。あんな風に明確に愛されている夢を見たのは初めてだった。
 感情の限界、って奴なんかな。夢ん中で妄想するとは思わんかった。思いを叶えたいなんて思った事ないのに。
 本当は、彼とそうなる事を願っている自分が潜在意識下にいると言う事だろう。
 馬鹿みたいや、俺。それで、現実の剛に思いを告げる様な真似。何処までが彼にした事なのか、思い出せないのが苦しかった。
「なあ、明後日の夜、暇?」
 唐突な台詞。今まで通りのトーンが、怖かった。どうして、先刻あんな風に射抜いたのと同じ声で、全然違う言葉が言えるのだろう。
「どうして?」
「昨日、約束駄目になったやん。その埋め合わせ。シチューの材料買ってもうたから悪くなる前に作りたいなあ思て」
 瞳を合わせる。剛は、穏やかに笑っていた。ああ、でも。
 寂しそうに曇った目に全てを悟る。
 あの体温は、ちゃんと剛のもんやったんや。俺、言うてもうたんやな。
 落胆よりも諦念が先にあった。長い間隠し続けていた感情が、露呈した。それだけだ。
 彼が嫌悪する事を恐れても諦められなかった恋情。愛してはいけない人を愛してしまった。
 剛は、視線を逸らさない。それが辛かった。
 相方だから。たった一人のパートナーだから。きっとそれだけの理由で彼は優しくしてくれる。
 気持ち悪いよな。男が男を好き、なんて。
「……もう、ええよ。優しくしてくれんでも」
 思ったより穏やかな声が出た。どうしようもない。昨日の言葉は真実で、取り消す事は出来なかった。
 目の前にいる筈の剛が遠い。その体温に触れていたいと思ったのに。
「ごめんな。ええ相方やなくて。友達になれんで、ごめん」
 俺は今、失恋してるんかな。明確な終わりのない恋。確かな拒絶だけが此処にある。
 俯いて、謝罪の言葉を繰り返した。ごめんなさい。気付いたら、剛しかいなかった。
 ぼんやりとした世界で、明確な輪郭を持っていたのはお前だけやった。
 憧れて、焦がれて、恋になった。
 ごめんなさい。大切に思うだけなら良かったのに。
 恋をした。心臓が痛かった。一人の部屋で貴方を思った。
「……お前は、そうやって俺から離れて行く気か」
 低い、地を這う様な声だった。何故、そんな事を言うの? 恐る恐る顔を上げて、相方の表情を窺う。
「つ、よし……」
 彼は、泣いていた。真っ直ぐ俺を見詰めて、零れる涙を拭いもせずに。
「離れるなんて許さへん」
「剛」
「俺は、お前に恋なんて出来ん。キスしたいって思うた事ないし、抱きたいなんて絶対思わへん」
 酷い言い草だと、笑う事も出来ない。傷付く心より、剛の涙が心配だった。
 恋でも愛でも構わない。俺の心は、真っ直ぐ彼だけに向いていた。
「でもな、俺だってお前が大切なんや。世界でたった一人のパートナーやと思てる」
「剛」
「俺を、一人にしないで」
 溢れる涙ごと抱き締める。触れる事を恐れている場合じゃなかった。
 最愛の人が泣いているのだ。出来る事は何でもしたかった。この恋を拒まれても良い。
 どんな形でも俺を必要としてくれるのなら、それで充分だった。最初から叶わぬ恋だと分かっているじゃないか。
 この恋情を永遠に封じ込めて、剛の傍にいれば良い。
「何処にも行かん。お前の傍しかいるとこないよ」
 子供みたいに涙を零す彼が愛しかった。やっぱり、好きだと思った。
 大丈夫。此処にいるよ。君が望むなら、恋が泣いても構わない。
 ずっとずっと、一人の部屋で待っているよ。



+++++



 泣き止まない剛を宥め終えた頃に、マネージャーが戻って来た。
 泣き腫らした顔を見て怪訝そうな顔をしたけれど、別に撮影はないから良いよと言われる。改めてしっかりしたマネージャーだなと思って、楽屋を後にした。
 相方の泣き顔で立ち直ったらしい光一は、その後の仕事をそつなくこなす。剛はそれが少し面白くなかった。
 もう少し、取り乱したままでいて欲しかったのにな。思っても、仕事なので仕方ない。
 日付が回る手前でやっと解放された。一緒に帰る車の中、そっと光一の横顔を盗み見る。
 硬質の表情。その下に、俺を思う恋の顔があるのだ。深い優越感だった。
 どんなに冷静に分析しても、俺の中に恋情はない。あるのは、それよりももっと深く暗い感情だった。
 平気だと気丈に言い放った青い顔を思い出す。俺を思って俺が傷付けた表情だ。
 ぞくりとした歓喜が剛を襲った。
 彼の健やかな精神では、決して理解出来ないだろう。そっと、膝の上に置かれた手に触れた。びくりと反射する身体が可愛い。
「剛?」
「手、繋いで。光ちゃん」
「……ええよ」
 伏し目がちに笑んだ優しい表情。苦痛と安寧を、俺が左右しているのだ。指先を子供の仕草で握り締める。それだけで安心する光一を知っていた。
 俺の事で苦しんでいる彼が見たい。
 光一の思いを拒んだ一番の理由だった。同性愛を恐れたのは十代の一時期だけだ。光一は、今も俺が嫌悪していると思っている様だけど。
 そんな恋の嗜好にとやかく言う気はなかった。
 俺が何より望んだ事。
 ポーカーフェイスの美しい顔を悲しみで満たす事。恋で揺れる瞳を冷静に見詰める事。間違った思いだと認識する真っ直ぐな精神を手折る事。
 どれも、彼の思いに応えては出来ない事ばかりだった。幸福な笑顔よりも苦悶する表情が良い。
 恋等要らないと突っ撥ねて、相方として必要だと彼の全てを束縛したかった。そうすれば、光一は俺で雁字搦めになる。
 何処にも行かせる気なんてなかった。永遠に、俺の傍に。
「光一」
「ん」
 指先から伝わる温もりが心地良いのだろう。半分眠りに落ちかけた彼の声は、甘く掠れていた。
「このまんま、俺ん家来ぉへん?」
「……これから?」
「うん」
 明日の入りは勿論早い。俺の家に来てのんびりしている暇はないと言いたいのだろう。
「俺、多分風邪やから。あんま一緒におらん方がええよ」
 光一らしい気遣いだった。冷えた身体を守るよりも、移る事を恐れる優しさ。
 お前は、いつまでも曇らんな。そんな風に生きたって、辛いばかりなのに。適当に折れてしまえないその姿勢が好きだった。
 凛と佇む姿は、自分の手で手折りたい衝動に駆られる。
「大丈夫や」
「明日、早いし」
「泊まってけばええやん」
「……つよし」
「あかんか?」
 追い詰めるのは得意だった。少し弱い目を見せて、繋いだ指先を解く仕草。
「っ剛」
 そうすれば、必ず彼は応えてくれる。可哀想にな。お前は俺の手の上や。
「ええよ。泊まり、行く」
「良かった」
 再び手を繋いでみせれば、安堵の溜息を零す。伏せられた瞳を覗き込んで、そっと告げた。
「大好きやよ、光ちゃん」
 残酷な台詞。何も知らない子供の声で嘯いた。
 握り返す指先は冷たいまま。俺達の関係は変わらずに続いて行く。
「……俺もや」
 痛みを抱え、彼は笑う。
 繋いだ手を引き寄せて、光一の肩に頭を乗せた。眠る振りをすれば、小さく吐息を零す。諦めて、同じ様に目を閉じる気配。

 永遠に光一を繋ぎ止める為に、僕は彼の恋を叶えない。


【終】
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