小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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恒温動物の恋
この恋が明日終わるかも知れない。そんな事を夢想してみる。
まだ予感すらない別れを考えても仕方ないのは分かっていた。考えて辛くなるのは自分なのに。
悪い癖だった。
路肩に車を止め、強い陽射しの中冷房も付けずに、剛は光一の事を考える。
コンサートの打ち合わせの合間に出来た時間を会議室で過ごしたくなくて、車を出した。マネージャーは心配そうに引き止めたけれど、言っても聞かない性格である事は彼も良く知っている。フロントガラス越しの太陽に灼かれながら、煙草を灰皿へ押し付けた。
今に始まった事でもないけれど、最近光一の事ばかり考えている。とっくにそんな時期も過ぎて、空気よりも馴染んだ相手なのに。
彼を思って不安になる事をもう何度繰り返しただろう。いつまでも不安定に揺れる自分を嫌悪した。
理不尽とは分かっていても彼にその感情をぶつけそうになる。昔より傷付ける事は少なくなったけれど、こうして一人でバランスを取る時間は増えた。
光一の恋の温度はいつも変わらないから安心する分、不安にもなる。大事にされているのは分かっていても、自分と彼とでは余りにも恋のスタンスが違っていた。
恋ではなく、愛を望む人だから。
差し込む陽射しが痛かった。真夏の二十九度が肌を灼く。可笑しくなりそうだ。
煙草を銜えて火を点けた。光一の、涼しささえ漂う後ろ姿を思い出す。振り返らない肩を掴んで、無理矢理振り向かせたのは自分だった。
奪って縛り付けて、閉じ込めたくて。
彼への恋情は、そんな身勝手な物ばかりで出来ていた。
冷房を入れていない車内の温度は、どんどん上昇して行く。じりじりと肌を焦がす熱が、思考を奪う。もっと上がれば狂えるのに。
纏わり付く熱気は肌の上にだけ狂気を生んで、心臓まで届かない。三十℃までの後一℃が足りなかった。
手を伸ばしても掴めない熱がある。三十℃に届けば何かが見える気がするのに。
光一の恋の温度は、楽園を見せてくれない。三十℃の楽園は何処にあるのだろう。
+++++
最近剛が可笑しいことには気付いていた。原因が自分だと言う事も勿論分かっている。
せっかく前向きになって来たのに、いつまでも変わらない暗闇が彼の中にはあった。子供の様に欲しい欲しいと駄々を捏ね、大人の瞳で暗い思考へと沈んで行く。
こんなにも全てを渡しているのに。剛は何が足りないと言うのだろう。
まだ帰っていない事は分かっていたから、合鍵を使って部屋に入る。愛犬が駆け寄って来て、嬉しそうに足元に纏わり付いた。
「けんしろ。元気やったか?」
屈んで頭を撫でてやる。ケンシロウを抱え上げて部屋へ入ると、予想通りの乱雑さに溜息を吐いた。忙しいのは分かっているけれど、彼の精神状態も同時に表している様で。
苦しくなる。
「お前よぉこんな部屋でお留守番出来るなあ。良い子やね。ご飯、しよな」
フローリングにケンシロウを降ろすと、キッチンへ向かった。食事を与えている間にリビングの片付けを始める。散らばった荷物を纏めて静かな吐息を漏らした。
「弱いんは、俺も一緒やな」
こうして態と剛がいないと分かり切っている時間を選んで来る。引き摺られそうな自分が怖くて、剛を避けていた。
彼となら、何処までも落ちて行ける。
真っ直ぐ前を向いて生きたいと思っているのに。剛の瞳がそれを分からなくさせた。
洗濯機を回すと、今度は雑誌や楽譜を拾って行く。相変わらず統一性のない雑誌は、纏めて棚へ仕舞った。それから楽譜を片付けようとして、ふと手を止めてしまう。既製の五線譜に手書きの物が混じっていた。
見慣れた癖のある文字を辿って行く。マイナーのメロディーに乗せられた言葉は、剛の心理を良く表していた。
想っても願っても叶わない恋の歌。
剛は自分と違って、今までの経験や心情をありのまま伝えるのを好む人だった。だから失恋や恋の苦しみが歌われる度、少しだけ胸が痛む。手に取ったこの歌は、ダイレクトに心臓を刺した。
上手く君を愛せないんだ
君といた楽園 今は何処にあるの
何度も恋をして、何度も傷付いて。もう恋と言う感情だけで一緒にいる事なんて出来なくなってしまったのに。恋の為なのか仕事の為に離れられないのか、そんな事すら分からなかった。
今頃リハーサルをしているだろう剛を思う。綺麗なメロディーを響かせて、恋の歌を歌っている筈だ。
恋を捨てようと思った事だって何度もあった。辛くて苦しくて、離れた方が幸せになれるんじゃないかと。
けれど、離れる事も出来ず二人で苦しみを共有していた。何度考えても、指先を繋いだままでいる理由は一つ。
自分の中にはまだこんなにも、恋情だけで構築されている情がある。雁字搦めにされた二人の関係の中に確かに存在する純粋な恋情は、自分にとって救いだった。
だからこそ、剛との関係に悲観的にならずに済む。部屋を片付けながら、静かに一人ごちた。
「お前はいっつも悩み過ぎやねん……」
考える事なんかやめて、奪ってくれれば良いのに。同意を示す様に、食事を終えた愛犬が光一の膝に擦り寄って来た。
+++++
恋を知らない光一に本当の熱を教えたのも、全て奪ったのも自分だった。彼は、色恋に関して決定的に無知で。
幼い光一を自分だけの物にしたくて、初めて肌に触れたのは確か夏だったと思う。こんな風に蒸し暑い夜だった。
怯える彼の瞳が指先が肌が、俺の思考を奪い尽くして。結局奪われたのはどちらなのか分からなくなってしまった。
八月に入ってスケジュールが死ぬ程忙しくなってから、部屋が綺麗に片付いている。今日も同じ様に整然とした部屋と、満足して眠る愛犬の姿があった。
これ位のスケジュールになれば、ケンシロウを預けるのは常である。自分の仕事の合間を見つけては甲斐甲斐しく世話を焼く相方に苦笑した。
部屋の片付けなんかええから、会いに来て欲しいのに。思いはいつも上手く伝わらない。
わざわざスケジュールの確認をして、いない時間を狙って来る光一にもどかしさは感じるけれど。避けさせてしまっているのは自分だから仕方なかった。
部屋で待つ事もせずメールの一つすら寄越さず、唯優しさだけを残して行く。余りにも光一らしくて泣きたくなった。
綺麗に片付けられたリビングのローテーブルの上に、紙の束が置いてある。其処には、自分の思いを乗せただけの音が記してあった。肩に掛けたバッグをソファに放って、何気なく手に取ってみる。
手書きの五線にマイナーなコード進行。光一がほんの少しだけ瞳を曇らせるだろう曲だった。
見られたくなかったなと苦く笑った瞬間、見慣れない文字に気付く。この譜面にある筈のない、余りに馴染んだ彼の少し汚い文字だった。弱いメロディーの上に書き込まれた力強い言葉をゆっくりと指先で辿る。
どうして、彼は。こんなにも自分の望む物ばかり与えてくれるのだろう。
いつでもここにあるよ。
俺の弱さも醜さも全部飲み込んで白い光を与えてくれる光一を、今すぐ抱き締めたいと思った。日が落ちても治まらない熱が心臓を焦がす。
二十九℃が加速して。
光一に会いに行こうと決めた。彼の肌が冷たくても、自分の思いが狂気に近くても。離れられないのなら、もう一緒にいるしかないではないか。
例え、此処が楽園じゃなくても。
楽譜をテーブルに置くと、携帯と車のキーだけを持って部屋を後にする。外に出た途端、未だ燻る熱気が全身に纏わり付く。息が出来なくなりそうだった。
東京の夜は暑い。気が狂いそうなこの熱は、楽園から遠い温度だと思った。
表示された時間は、午前三時を回っている。迎えは七時だと言っていたけれど、そんな事には構っていられなかった。エアコンも付けずに車を走らせる。
死にそうな位暑いのに。まだ足りないと全身が訴えている。
一℃足りないもどかしさが、すっかり肌を覆っていた。光一の温度が思い出せずに。
三十九℃の楽園は、何処にあるのだろう。
+++++
夢を見る事は苦手だった。元々性格として持っていた部分もあるけれど、常に現実を見据えないと生きられない場所に立っていたから。
それに、隣にいた人がいつでも夢を見ていた。自分の見る事の出来ない分まで見て、一緒に見ようと与えてくれる人だった。
どれ程深く落ちても夢を見る事を諦めない剛は、強い人だと思う。傷付く事を恐れない彼に憧れた。
俺は怖い物だらけだから。
夢を見る事だけじゃない。この仕事を失う事も大切な友人を失う事も。優しくて傲慢な彼の指先を離す事も、全て。
今ある状態が崩れるのは怖い。だから、未来も見ない様にした。今とは違う自分を想像するのは怖い。
それなのに、剛は変わろうとする。自分は今あるものを守るだけで精一杯なのに、違う場所へ行こうと手を引かれた。
二人だけの楽園を探そうと笑う。そんな物、何処にもないのに。
ソファに体を投げ出して微睡んでいた光一は、今更ながらに部屋が真っ暗な事に気付いた。
「……あかん。剛が伝染しとる」
感情の動きはまるで違うタイプなのに、うっかりしているとすぐ感化してしまう。夫婦が似て来る原理と正に同じだろうと思いながら、部屋の明かりを点けた。
あんな暗いのに流されたらあかん。剛が落ちれば落ちる程、自分はポジティブに上を向いていなければならなかった。いつ手を伸ばして来ても引き上げられる様に、高い場所にいる必要がある。
それが二人でいる為のバランスだった。他の生き方等知らない。
身体を起こすと、テーブルの上に置いていた紙を手に取った。もしかしたら困るかも知れないと思ったけれど、置いて行く事も出来なくて。コンサートでは使わないから大丈夫だと思う。
それは昔、剛が戯れに作った曲だった。いつ頃なのかは思い出せなくて、でもメロディーだけは鮮明にある。剛の甘い歌声を覚えていた。
馬鹿みたいに甘ったるい記憶は、何処か曖昧で上手く繋がらない。何でこんな曲を作ったのかとか、季節はいつだったのかとか。
けれどまだ、この楽譜があった事が単純に嬉しい。
「……ああ、そうや」
この曲は確か、拓郎さんのいる場所で剛が歌った。やめろと言っても聞かなかったのは、きっと酔っていたせいだ。余りにも直接的なラブソングは、誰が聞いても自分への物だと分かっただろう。
拓郎さんも酔っ払っていて、一緒にギターを弾き始めるから収拾が付かなかった。あれだけ繊細な神経を持っている癖に、何て男だと思う。最後には、優しい瞳で見詰めたまま歌うから。
死ぬかと思った。
拓郎さんがギターを片付けて俺の方へ来ると、「カメラ回ってる時は歌わせんなよ」なんて、全然酔ってない声で言いながら頭を撫でられて。そんな事分かってると強がる事も出来なかった。
懐かしくて遠い光景に胸が痛い。譜面の文字は、メロディーと同じ様に楽しそうで安心した。剛の部屋に置いて来た楽譜とは全然違う。
けれど、自分にとってはどちらの曲も一緒だった。甘ったるい恋も苦しい恋も、剛から与えられる物なら構わない。
そんな単純な事を、彼は全然分かっていなかった。俺は剛以外望んでへんよ。お前以外の何もこの両手に抱える事は出来ないけれど、お前の物なら何でも欲しい。
剛は恋を望むけれど、俺は彼の感情なら何でも良かった。例えそれが憎悪でも。
メロディーをそっと口ずさむ。こんなに優しい歌も作れる事を、剛はちゃんと覚えているだろうか。
僕の左で眠る人
幸せに見えるのは 僕のひいき目かな
同じ愛を歌っているのに。
けれど、と光一は思う。あの部屋で纏められた束の中に、この二曲が同じ様に紛れていた事に安心した。矛盾せず混在せずに、二つの感情が存在する。
それが何処か、救いの光に思えた。
+++++
彼の部屋には季節がない。
十九℃に設定されたこの場所は、真夏の温度など忘れてしまった様に静まり返っていた。肌に纏わり付く熱気は、すっかり遮断されてしまう。
真夜中にも関わらず起きていたらしい光一は、何も言わず優しく迎えてくれた。コーラを注いだグラスを二つテーブルに置くとソファに座る。
「お前も座り」
立ったまま動こうとしない剛を優しく促した。少しの逡巡を見せてから、光一の隣に腰を下ろす。
触れてしまうのは躊躇われて、距離を保って座った。言いたい事は沢山ある気がするのに、言葉は出て来ない。
光一の持ったグラスの中で、氷が澄んだ音を響かせた。この部屋は涼し過ぎて、剛の狂気を冷ましてしまう。
先刻からずっと光一は視線を逸らしていた。意識的なのか無意識なのかは分からないけれど、戸惑っている事は確かだ。久しぶりに見る彼の横顔は、少し緊張していた。
当たり前か。何日も避けたまま生活して、しかも避けさせていたのは自分なのだから。狂気を抱えた俺にどう対処すべきなのか、分からないのかも知れない。
「部屋、ありがとな」
「……ああ、うん」
白い指先が惑う様にソファの上を滑る。伏せた睫が影を作って綺麗だった。
光一はこうして素顔でいる時が一番美しいと思う。
「元気、なん?」
ぎこちない言葉は、そのまま彼の心情を表している様で。
「光一は?」
「え」
「元気やった?」
何気ない会話すら出来ずに、光一の肩が揺れる。噛み締めた唇が可哀相だった。
その緊張から開放したくて、白い二の腕に指先を伸ばす。狂気ではなく、優しさだけで触れたつもりだったのに。
「……っなん!」
過敏な反応だった。確かに長い事触れていなかったけれど、こんな。
こんな恋の手前みたいな表情をするのは反則だった。触れた腕を強引に引き寄せて抱き締める。
心臓の辺りが灼けそうな位熱かった。首筋に顔を埋めて、光一の匂いを吸い込む。
「つよっ……!」
何も知らない子供みたいに怯えられては、もう。
沸点を超えた血液が、全身を駆け巡る。触れた光一の肌はいつも通り冷えていた。諦めて背中に回されたその温度。
まるで夏なんか忘れた様に縋り付く指先が。
俺を狂わせる。
沸騰しない光一の肌の上にも同じ熱を纏わせたかった。ゆっくりと掌を滑らせる。
恋なんてもう、越えてしまったのに。指先だけは変わらない優しさで触れる。しがみ付いたままの彼をソファに押し倒して。
三十℃の楽園を探した。
+++++
寝室を抜け出し冷え切ったままのリビングに剛はいた。窓を開けたのは一ヶ所だから、機密性の高いこの部屋に熱気が広がる事はないだろう。
十九℃の室温が、肌に痛い。
沸騰した血液は当分治まりそうもなかった。光一は少し前に意識を手放して眠っている。そんなに長い時間抱いていた訳じゃないけれど、無茶なやり方をした。
彼が嫌がる抱き方をして、悲鳴を上げさせて。その声に満足する自分がいた。光一の体温の上げ方等知り尽くしている。焦れても求めても触れてやらず、どれ程涙を零しても離さなかった。
可哀相に、と醒めた頭で思う。自分なんかに捕まらなければ、もっと幸せになれる人だった。彼を幸せにしてくれる人間など沢山いるのに。
俺が光一でないと駄目な様に、光一もまた自分でなければならないのだ。
どんな人生の歯車が噛み合ってこうなったのかは分からない。けれどもう、離れる事はお互い出来なかった。
テーブルに置かれたままのグラスを取って、温いコーラを口に含む。表面に付いた水滴が手を伝って肌を濡らした。決して冷たい温度ではないのだけれど、今の自分には冷た過ぎて思わず舌打ちする。
気持ちが落ち込むと苛々し易いのは分かっていた。少しでも気分を鎮める為に、グラスの隣に置いてあった煙草に手を伸ばす。
火を点けて吸い込むと、小さく笑ってしまった。光一の煙草は軽過ぎて、毒素を抱えたい身体にはどうにもならない。それでも自分の物を出すのは面倒で、仕方なく吸う事にした。
立ったまま部屋を眺めていると、フローリングに置かれた一枚の紙に気付く。
彼の部屋には不自然な配置だった。台本でも資料でもきちんと片付ける光一が、こんな風に紙を置いたままにする筈がない。
ソファの脇に伏せて置かれた紙。少しだけ日に焼けた跡があるから、古い物なのかも知れない。
まるで。
自分が来た事に焦って、慌てて隠した様な。
現に今まで気付かなかったのだ。興味を引かれてソファに近づくと、屈みながら手を伸ばす。
銜え煙草のまま紙を裏返して剛は硬直した。今の自分が見てはならないもの。
「……何で」
零した声は掠れて震えた。身体が竦んで動かない。
今、此処に、この紙がある不自然さ。自分が来るまでこれを見ていただろう光一の思い。
そして。
こんな愛をもう与える事が出来なくなってしまった自分。はらりと力なく紙が落ちる。明るいメロディーが其処には並んでいた。
俺には、書けへんよ。
自分の部屋にある楽譜を思い出す。もがいても光は見えなかった。俺の中にはもう暗闇しかない。一人では光など探せなかった。
此処にいると言ってくれる彼がいなければ、もう。
あの五線の上に書き込まれた言葉は光だった。落ちて行く自分に最後まで光を差し伸べてくれるのは、彼だけだろう。
けれど、光一がどんな愛を求めているか位分かっている。苦しくなって煙草を揉み消すと、寝室へ戻った。
扉を開けた途端、身体に熱気が纏わり付く。ベッドの上の光一は眠ったままだ。彼は抱かれた後も清浄な空気を纏っていて、それが不思議で悔しい。
穢したい衝動に駆られた。
そっと近付くと、起こさない様にベッドサイドへ腰掛ける。白い肌は陶磁器の様に澄んでいて、濁りがなかった。額に張り付いた濡れた髪を指先で払う。
いつまでも此処にいて、彼は苦しくないのだろうか。何処にだって行ける筈なのに。楽園じゃなくても何処でも生きられる人だった。
弱いんは俺だけや。俺が開放したら、光一は飛べる。
遠く遠くに行ってしまえば――。
そんな事を夢想して、諦めた素振りで光一の肌に触れる。彼は行かない。何処にも行かない。俺が手を離してもきっと、彼は隣にいるのだ。
それはもう、恋ではなく必然だった。
眠る光一は、綺麗で。気が付くと涙が溢れて彼の頬を濡らした。
+++++
いつだって俺はお前の物やって言ってるのに。そんな風に求めなくたって、とっくに全部剛の物だった。剛の為だった。簡単な事を彼は全然分かっていない。
頬に生温い温度を感じて目を開けた。酷い抱かれ方をしたせいで、身体の感覚が曖昧になっている。何処までが自分の物なのか分からなかった。
視線を動かせば剛の苦しげな顔が見える。
自分は意識を失ったまま眠っていたようだ。見下ろして来る瞳が濡れていた。
泣いてるんか。
頬を滑る液体は汗ではなく、剛の涙だったらしい。止め処なく溢れる雫がきらきらした結晶に見える。こんなにも暗く狂気を抱えた瞳なのに。根源的な部分で純粋な人なのだと思う。
自身を狂気の淵に追い込んで、それでも飽く事なく愛だけを求めていた。矛盾だらけの感情で必死に腕を伸ばして来る彼を、嫌いになれない。
一緒に落ちて行く事は出来ないけれど、何度でも恋をするから。お前が俺達の間にある恋情を信じられなくても、俺が信じている。
必要以上にべたべたする身体を無理矢理起こして、泣いている剛を抱き締めた。素直に身体を預ける彼の肌も汗まみれだ。
抱き合った熱ではない熱気が篭っている。自分の部屋ではあり得ない温度だった。
遮光カーテンの隙間から外の明かりが漏れている。途中でエアコンを切った事には気付いていた。抱き合っている間中狂気じみた瞳で見詰めて来る癖に、剛はもどかしく触れるばかりで。
過ぎる程泣かされた頃だった。不意に意地悪く煽るだけの手を離して剛は立ち上がり、冷房を切ると窓を全開にしたのだ。
何を思ってそんな事をしたのかは分からなかったけれど。窓から熱気が入り込んで、肌の上を通り抜けた時。
剛だと思った。
夜の温度がそのまま彼の温度の様な気がして。十九℃に保たれた空間が熱帯に変わると、再び剛が覆い被さって来た。
放っておかれた身体は、彼の温度が触れただけで敏感に快感を取り込む。部屋の温度なんか忘れてしまう位の熱に翻弄された。剛の唇が耳から首筋を辿って鎖骨に触れた瞬間、きつく噛み付かれて。
頭の中が真っ白になった。世界の全部が剛になってしまう。
けれど、思考も何もかも奪われ熱に呑まれていたのに、妙に冷静な部分が残っていて、気付いてしまった。
剛の狂気が心地良い自分に。俺を思って狂う剛が愛しいと。紛れもない本心が怖かった。
きっと狂気を抱えているのは剛だけじゃない。抱き締める腕の力を強くした。そんな自分を隠して、これからも隣に立ち続けるのだろう。
大丈夫や、と優しく笑って諭すのだ。それを恋と呼んで良いのかは分からないけれど。
俺はお前が好きやよ。
涙の止まらない目尻に唇を寄せた。抱き締めても抱き締めても足りないと泣くのなら。全てを差し出してもまだ欲しいと言うのなら。
俺はもう、傍にいる事しか出来んよ。ずっと、俺は此処にいるから。
擦れ違う思いはいつまでも相容れないまま、唯傍にある。
+++++
コンサートの初日を明日に控え、剛は大阪にいた。久しぶりに踏む舞台は何処か懐かしい。リハーサルも終わり、後は音響の調整をするだけだった。ギターの高音が上手く響かない。
スタッフと話し合いながら調節していた。元々音響の知識がないから、自分は音を聴く事しか出来ないのだけど。
手持ち無沙汰に暗い会場を見回してみた。明日この会場中に人がいる事を想像すると呼吸が苦しくなる。それでも今は、ライヴをやりたいと言う欲求の方が強かった。
スタンド席に視線を向けた瞬間、剛の動きが止まる。動く事が出来なくなってしまった。
このホールにいる筈のない姿を捉え、本気で幻覚なんじゃないかと思ってしまう。彼が此処にいるなんてあり得なかった。
けれど吸い寄せられる様に足がその人影の方へ向く。こんな暗がりでも見つけられる程の光を持っている人だった。
目の前まで辿り着いても、まだ信じられない。光一が此処にいるなんて。
「何してるん?」
俺の唐突な言葉にも彼は相変わらずの澄んだ笑顔を見せる。まるで、此処にいるのが自然だとでも言う様に。
「仕事のついでやねん」
そんな筈はなかった。光一のスケジュールは、自分がどんなに忙しくても把握している。今日は確か、雑誌の撮影と番組の打ち合わせが入っていた。
けれど、明確な答えを聞くのは怖くて、追及する事が出来ない。都合の良い様に解釈しそうになる自分を押さえ込む。言葉を見付けられずに黙っていると、光一があっさりと剛の期待を首肯した。
「……会いたかってん」
光一は剛に少しだけ本心を渡した。彼が苦しんでいたからって一緒に苦しもうとは思わないけれど、優しくしたいのは本当だから。
二人でこんな所にいるのは良くない気がして、剛の手を取ると一緒に座席に座った。そう思ってしまうのは、疚しい部分があるからこそなのだけど。
「光一?」
不安そうな響きで、剛が名前を呼んだ。彼を甘やかしてあげたくて仕様がない。
自分のプライドとか理性とかそんな物を全て超えて、剛が大切なのだ。俺に出来る事なら何でもしたいだなんて。
こんな縋る様な目で見詰められたら、揺れるに決まっていた。
「好きやよ」
言葉の意味を取り違えたのかと思って、剛が固まる。光一の口から素面の状態で、そんな台詞が出て来るなんて。
彼が今此処にいる事以上にあり得ない事だった。暗闇でもきらきらと光る瞳が言葉通りの優しさを含んでいて、泣きそうになる。
「何処にいても誰といても、それだけは忘れんといて」
光一の目は、此処で良いと言っていた。楽園じゃなくても、此処で幸せになろうと。
丸い指先が頬に触れた。冷え性の彼の手に熱はない。
三十℃の楽園なんて知らないと突っ撥ねるのに。全てを包み込む静けさで俺を愛するのだ。
触れた手をしっかり掴むと、華奢な身体を抱き締めた。光一が腕の中で小さく笑う。
この人は、きっと何処にも行かない。楽園なんか一緒に探してくれない。
「なあ」
「ん?」
「此処に、いてな」
「……他に行くとこなんてないわ、阿呆」
どうしても超えられない一℃は、光一の爪の先にあった。
見通せない楽園が、此処に。
柔らかい髪に口付けながら、剛は思った。
案外楽園は、手の内にあるのかも知れない。
【了】
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