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小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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葉月の頃、海に寄せて





 「人を殺した事がある」と、その男は言った。



 地下へと続く黒い扉を開ければ、微かな音楽が流れて来る。適度な明るさに調節された照明を頼りに、慣れた様子で光一は階段を下りて行った。彼が声を発するより先に、フロアマネージャーが気付いて親しげな笑みを見せる。
「こんばんは、光一さん。そろそろいらっしゃる頃だと思っていました」
 マネージャーの言葉に、光一は分からないと言う顔で首を傾げた。
「剛さんが歌う時にしかいらしてくれないじゃないですか」
「あ……あ、そっか。……他の日も来ようとは思ってるんやけど、なかなか……」
 瞬時に顔を赤くして言い訳じみた言葉を並べる光一を、柔らかく遮った。
「週に一度で充分ですよ。忙しい合間を縫って来て下さっているんですし」
 光一の成長を見守って来た彼の口調は、接客中と言うよりは兄のそれに近い。この街に住んでいる殆どの人間が同じような態度を取るだろう。
「今頃厨房で気合い入れて光一さんの料理作ってますよ」
「はは。あんま此処で食べると、ウチのシェフが機嫌悪なるからなあ」
 どちらの料理も同じ位美味しいから比べる事等出来ないのに、妙な敵対心を生んでしまった。元々食に執着のない人間だから温かければ何でも良い、なんて思っている事は、きっとシェフを泣かせるだろうから言わないでおこう。
 こちらへどうぞ、と促されて席に着いた。何度も断っているのに、いつも通されるのは奥まった場所にある一番良い席だ。
 剛の歌を聴いて帰るだけだから、普通の席で良いのに。けれど、毎回断るのも段々申し訳なくなって来てしまって、結局そのまま座る事にしていた。
「今、オーナー呼んで来ますね」
「ええって……」
「いえ。オーナーも光一さんがいらっしゃるのを楽しみにしていますから」
 にこやかな表情のまま去って行った背中を見送りながら、ざっと店内を見回す。ほぼ席は埋まっていて、剛のおかげかななんて思ってしまった。
 ひいき目だと言うのは良く分かっているのだけれど、それでも自分と同じように剛の歌を待っている人がいるのは間違いない。彼の声を独り占めしたいと言う傲慢な独占欲は、嫉妬と共にいつもあったけれど。
「こんばんは」
 穏やかな声と共にこのクラブのオーナーである呉野が現れる。光一は立ち上がって一礼すると、目尻に笑みを乗せて呉野を見上げた。
「こんばんは。いつも何か甘やかしてもらうばっかですみません」
「良いんだよ。彼らも好きでやっている事だからね。まあ、座って」
「あ、はい」
 まるでホテルマンのような印象をこの経営者は抱かせる。すらりとした身体に仕立ての良いスーツを着て、セットされた髪型にはいつでも清潔感が漂う。柔らかい眼差しは、一緒にいる人間を安心させた。
 およそクラブの経営者には見えない。同じ事が、光一の所の経営者にも言えた。
 呉野の同級生であり自分の義父でもある叶は、ホテルのオーナーにはとても見えない。海の男と言った感じの風貌は、逞しいと言うよりも怖いと言う印象の方が強いだろう。
 挑発的な言葉遣いや人を真っ直ぐに見詰める強過ぎる瞳は、接客業にはとても向いていない。多分、呉野と叶は経営を逆にした方が印象通りなのかも知れなかった。
 それでも、この街にはそのアンバランスさがしっくり来るのだ。
「また、痩せた?」
「そんな事ないですよ。ちゃんと食べてるし」
「じゃあきっと働き過ぎだね。光一は少し休んだ方が良いよ」
 小さな頃から光一の変化に聡い呉野の言葉はひたすら優しい。
「最近経営の方にも手伸ばしてるんだって? アシスタントマネージャーってだけでも充分大変なのに」
 それには苦笑だけで答える事にする。いずれ自分があのホテルを継がなければならなかった。今は勉強の時期だと思う。
「そう言う笑い方をされると、僕はもう何も言えなくなるよ。しょうがない子だな。……もうすぐシェフの自慢の一品が出て来る筈だから、ゆっくりしておいで」
「はい」
「またね」
 自分より余程忙しい呉野は、他の従業員に呼ばれるとゆったりした足取りでフロアから消えて行った。
 光一はひっそりと溜息を零す。別に自分がステージへ上がる訳でもないのに、始まる前はいつも緊張した。こんな事を話したら揶揄われるだけなのを分かっているから、絶対に言わないけれど。
 もうすぐ、甘い声がこのフロア一杯に広がる。空間全部を奪い尽くすような剛の歌が大好きだった。勿論二人の時に自分の為だけに囁くように歌ってくれるのも好きだけど。
 剛の声に落とされた自覚が多分にある光一は、本人の前でその声を誉める事は絶対にしない。けれど、言葉より雄弁に思いを語る瞳で剛にはしっかりばれているのだと言う事には、気付いていなかった。
 知らず知らず笑みが広がる。
 ゆっくりと照明が落とされて行った。



+++++



 ホテルの一日は長く早い。
 光一は早朝からディナー前までの時間を仕切り、その後を引き継いだ。一日の業務を終えると自室へ向かう。殆ど家に帰らず従業員用の仮眠室で過ごしてしまう光一を見兼ねて、叶がホテルの一室を彼に与えてしまった。
 ルームナンバーを表示したプレートまで外した叶の本気に光一は諦めて、素直に使っている。自室にしたと言っても寝る時にしか部屋にいる事がなかったし、余り飾り立てるタイプでもないから他の部屋と印象は余り変わらなかった。
 襟元を緩めながら部屋へ入ると、テーブルの上に見慣れない物が置いてある。備え付けのグラスには、一輪の薔薇が挿してあった。
(来てるんか……)
 きっとシャワーでも浴びているのだろう。赤い薔薇を見詰めながら、それにしてもと思う。
 今時こんな気障な事をするのは、剛位しかいないんじゃないだろうか。彼らしさに小さく笑みを漏らすと、いきなり後ろから抱き締められる。
「うわっ!」
 慌てた声を上げて振り返ると、口許だけで笑う剛がいた。
「お前、どうしてそぉやって気配消すねん! 吃驚するやろっ!」
 薄く笑うだけで何も言わない剛は、抱き締める腕の力を強めてすぐにキスを仕掛けて来る。蕩けるような接触、に抵抗する事すら忘れてしまった。
 剛のキスは上手過ぎる。
 あっと言う間にベッドへ倒され鮮やかに服を剥ぎ取って行く様は、手慣れ過ぎていた。制服のスーツを皺にならないようにと気遣ってハンガーに掛けて行く余裕も嫌だ。その癖、替えると分かっているシャツは、ちゃんと脱がせてくれなかった。
 優しく身体の線を辿って行く剛の指先が、腰の辺りにぐずぐずと熱を溜める。彼に触れられていると思うだけで、心拍数は上がって行った。
 溺れている、とは思う。
 耳許を掠める甘過ぎる声にも、全てを暴くような黒く澄んだ瞳にも。どんどん落ちて行って抜け出す事が出来ない。
 男に抱かれるなんて、剛に会うまで考えた事もなかった。今まで何度か同性に迫られた事はあるけれど、自分の倫理観ではとてもじゃないが無理だと思っていたのに。
 何故、こんなにも溺れてしまうのか。この男の事なんて何も知らない。
 深い傷を受けて自分の腕の中に倒れ込んで来たのが、全ての始まりだった。何処かから逃げて来たのだろう。この街には唯流されて来てそのまま住み着いてしまった人間が何人もいるけれど、そのどれとも剛は違っていた。自分も同じ漂流者だと彼は言うけれど。
 その瞳の煌めきが違う事が、何よりも正直に違いを語っていた。きっといつか、剛は此処からいなくなってしまうだろう。流れるのではなく逃げる為に。
 そんな不安を内包したまま、今日も抱き合う。縋るようにして。いつ消えてなくなっても良いように、いつもいつも確かめた。
 剛の体温を、唇を。甘い囁きを。
 今日が最後かも知れないと思いながら、必死に腕を伸ばした。刹那の恋だった。

 だから、溺れる事が出来る。



 抱き合った熱を皮膚に残したまま、剛は浅い眠りに落ちた。抱き留める腕をそっと抜け出すと、光一はシャワーを浴びる。
 心地良い気怠さが全身を覆っていた。夢の中にいるようだと、幸せに侵された頭で思う。
 髪を伝い落ちる雫をタオルで拭いながら、ベッドサイドへと静かに近付いた。穏やかな呼吸で眠る剛は、起きている時からは考えられない程あどけない。頬に影を作る長い睫毛と、薄く開かれた唇が子供っぽくて可愛い。
 剛が起きないよう注意しながら枕元にしゃがみ込んだ。じっと、その横顔を見詰める。どうしてこの男にこんなにも惹かれてしまうのか。何度も繰り返した自問は、きっと答えを導く事がない。
 溺れるのに理由なんていらなかった。
 剛の湿り気を帯びた髪に触れようとして、指先が躊躇する。代わりに、吐息のような密やかな言葉を零した。

「何処も行かんで……此処にいて。俺だけ見て」

 躊躇った指先は、シーツの上を滑る。それは光一の本音だった。決して剛には言えない、届けてはならない言葉。
 彼はいつか間違いなく此処を去って行くのだから。それまでの、たったそれだけの情でなくてはならない。
 永遠の愛を望んでいる訳じゃなかった。諦めを口許に乗せようとした瞬間、白いシーツを撫でていた指先が掴まれる。
「そう言う事は起きている時に言いなさいよ」
 いつから起きていたのだろう。どうしようもない羞恥心に襲われて、剛の手から逃れようとするのだけれど、思い掛けず強い力が逃げる事を許さない。
「何やねん。……離せや」
 目を合わす事も出来ずに、光一は口先だけの抵抗をする。あんな事、口に出して言うべきではなかった。一生胸の中に秘めておくべき言葉だったのに。
 剛の枷になりたくない。そんな光一の心情に何処まで気付いているのか、指先を繋ぎ止めたままの剛がゆっくりと言葉を紡いだ。
「今度、どっか行こうか」
 光一を見詰めたまま嬉しそうに目を細める。いきなりの話題転換に付いて行けなかった光一は、不思議そうな顔をしてじっと剛を見詰めた。繋いだ指先が、ゆっくりと同じ温度になって行く。
「光一と会うのって此処かクラブだけやん? いつも誰かに見られてるみたいで胸くそ悪いねん。やからさ、誰も俺達を知らない所、行こうや」
「……よっぽど遠出しなきゃ、此処ら知ってる人ばっかやで」
 別に知っている人間に見られたからと言って、剛は光一との事を隠す気は更々なかった。むしろ積極的に二人の関係を言い触らしたい位だ。人目を避けたいのではなく、単純に光一を独り占めしたかった。
「んー、なら俺ん家来ぉへん? 周り知ってる人ばっかやけど、とりあえず部屋ん中までは邪魔されんからな」
 此処で抱き合っていてもたまに呼び出されて行ってしまう事があった。剛の家ならばとりあえずその心配はない。
 光一は、剛が何処に住んでいるのかを知らなかった。その事を彼は気にするけれど、剛のアパートに剛自身の痕跡は余りない。この街に流れ着いた時、自分が持っていたのはギターケースだけだった。
 剛の全財産とも言えるそれは、今この部屋にある。
「俺、有給一杯貯まってんねん」
 なかなか感情を表に出せない光一が、嬉しさを滲ませて言った。ふわりと笑う表情は、食べてしまいたい程可愛い。
「そしたら泊まり込みで来て下さいよ。大体君は働き過ぎなんやから、少し休んだ方がええで」
「うん。じゃ、約束な」
「おう、掃除して待っとくわ」
 見詰め合って笑って、それから軽く唇を重ねた。剛はベッドから起き上がると、素早く支度を始める。ゆっくりして行かないのはいつもの事だから、光一は黙って見詰めているだけだった。
 約束やなんて、大層な事してもうたなあ。
 後悔ではないけれど、それに似た苦い気持ちが剛の胸を占める。もしかしたら、自分は明日いないかも知れないのに。
 きっとそんな事は光一も良く分かっている。それでも、約束と言う呆気無くて優しいものが欲しかったのだ。およそ欲とは無縁のこの人が、欲しいと思ってくれる事が単純に嬉しかった。
 叶える事は出来ないけれど、自分の全てをあげたいと本気で思う。
「帰るわ」
「うん」
 別れ際の光一は、いつも寂しそうで見ていられない。多分本人にその自覚はないだろうけど。
「じゃあな」
「ん」
 別れの言葉が言えない臆病な光一を愛しいと思う。そして、こんな愛しか与えられない自分が心底嫌だった。
 ほんの小さな約束だけど、絶対に叶えてやりたい。



+++++



 光一の部屋から出るとすぐにポケットから煙草を取り出す。さすがに火は点けないけれど、銜えるだけで安心した。
 歌い手は喉が命だと分かっていても、これだけはやめられそうもない。
「おい、廊下は禁煙だぞ」
「……社長」
 声のする方向を振り返れば、このホテルのオーナーである叶が立っていた。相変わらずラフな服装で、青年みたいな笑みを浮かべている。
 剛は、この男が余り得意ではなかった。
「あいつに、あんま変な癖つけんなよ」
 意地の悪い笑い方をして、剛を見下ろして来る。最初に見つかったときはどうしたものかと思ったが、別に自分の息子が男に抱かれているのを止める気はないらしい。
 器が大きいと言うか、とにかく良く分からない人間だった。
「そんなん言われんでも充分分かってるわ。あいつは此処らの人間にしたら『宝物』みたいなもんやろ」
「そうだな。大事に扱ってくれ。ちゃんと返してもらわんと困る」
「誰が持ってけるっちゅうねん。――ちゃんと、置いてくわ」
 まるで独り言のように零すと、自嘲気味に笑った。光一がこの街でどれだけ愛されているのかは、少なくとも光一以上に理解している。
 瞳を伏せて、繋いだ指先を思い出した。先刻約束して来たのと同じ口で、よくもこんな事が言えたもんやな。
 結局自分は光一に何一つ真実を渡せないと言う事だ。
「お前が分かってるのはありがたい事なんだがな。どうも光一の方が分かっていない……」
 全然困っていない口調で困った顔をしてみせる。光一は俺に惚れてるんやから、そんなん分からなくて当たり前や。
「いざって時にあんたらが止めたらええだけの話やろ」
「まあ、そうだな。邪魔して悪かった」
 あっさりと去って行く背中を見送って、どう考えてもあの男は好きになれないと改めて思う。何しに来たんや、あのおっさん。釘を刺しに来たのは間違いないだろう。
 その時が来たら置いて行くと言うのは、最初に抱いた時から決めていた。自分と光一とでは、余りにも生きている世界が違い過ぎる。けれど、そうして自分を戒めていなければどんどん深みに嵌まって行くのも分かっていた。
 触れた瞬間に、本当は離れるべきだったのに。
 この手は光一を汚してしまうだけだ。あの、最初の夜を思い出す。朦朧とした意識の中で、やけにはっきりと映った光一の顔。髪の一筋まで思い描ける。
 出会った瞬間にきっと、始まっていた。
 必死に俺の傷を押さえながら話し掛けて来る様子が、余りにも綺麗で。傷の痛みさえ遠退くような気がした。
 思わずその頬に手を伸ばすと、自分の掌に付いていた血が彼の頬を濡らしてしまう。いけない、と強く思った。繊細な硝子細工のようなこの人を汚してしまうと、強く。
 あの時の強烈な衝動は、今も鮮明に残っている。愛しているのだろう、光一を。それでもいつか必ず別れる時が来る。
 「その時」は、三ヶ月後かも知れないし明日かも知れなかった。でもその瞬間までは光一の傍にいたい。彼も自分も決して認めないけれど、この恋はきっと刹那のものなんかじゃない。
 一生に一度の、命懸けの恋だった。
 今この瞬間にしか溺れる事が出来なくても、二人は幸せを知っている。とにかく今は、約束を叶える事だけ考えよう。
 ホテルを後にする剛も、部屋で一人剛の匂いが残るベッドで眠る光一も、まだ知らない。
 その約束が果たされずに終わる事を。



「人を殺した事がある。だから歌えるのだ」
 そう呟いた男の瞳を、俺は決して忘れない。



【了】
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