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小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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 翌日、正午を回りチェックインする客のリストを、光一は最終確認していた。いつもと変わらない午後になる筈だったのに。
 冬の温度を何処にも感じさせないフロントに、黒いスーツを着た男が四人やって来た。フロアにいた従業員全員が、その場で少し動きを止める。いつもとは違う緊張感だった。昨日剛の話を聞いたせいだろうか。
 スーツを着てビジネスマンの装いではあるけれど、放つ雰囲気が違い過ぎた。剛の事を連想せずにはいられない。
「いらっしゃいませ」
 声には緊張感を乗せず、平常通りの対応をする。一番背の高い男が、平坦な声で行った。
「叶君に会いたいんだが」
「叶、ですか? 何かお約束を?」
 義父の名が出た事で、営業用の笑顔が僅かに曇る。何故今此処で、義父の名前が彼の口から発せられるのだろう。
「否、でも会ってくれる筈だ」
 訝しげな視線をちらりと見せ、一瞬の間が生まれる。何処の誰なのかは全く分からないけれど、とりあえず普通の人間じゃない事だけは確かだった。
「……分かりました。お名前は?」
「東京から来た、とだけ言えば分かる」
 通常通りの対応に戻した光一は、内線で社長室をコールした。六コール目で繋がった叶に伝えると、通せと言う声が返って来る。義父のいつになく重い声が気に掛かった。
 エレベーターに乗り込む四人の後ろ姿を見詰めながら、訳の分からない焦燥感が高まって行った。



+++++



 剛は決意を固めて、光一の部屋の前に立っていた。深夜のこの時間なら仮眠を取っている頃だろう。それともいつものように、見ていないテレビの前でぼんやりしているだろうか。
 多分起きているだろうと思い、廊下に響かない程度の小さなノックをする。案の定扉はすぐに開いた。
「剛……」
 いつもならすぐに口許を綻ばせ、嬉しそうに笑ってくれるのに。今日の光一は、何だか不安定な顔をしている。その表情に不安を覚えたけれど、今はそんな事に構っていられなかった。
「ギター、もらいに来てん」
 眠れずにいた自分の所に剛が来るのは何処か運命に似ている、と光一はいつも思っていた。けれど今日は。
 何かが違う。きっと、何かが始まるのだ。開口一番言われた言葉よりも、剛の表情に目を奪われる。
「なんで?」
「何でって……俺のもんやん」
「ちゃう。そう言う事言うてるんやなくて。……入り」
 光一の声音にやはり黙って出て行く事は不可能だったのだと知る。部屋に入ると、窓際に置いてある椅子に二人向かい合って座った。そう言えば、この部屋に入って椅子に座る機会は余りなかったと下らない事を考える。
「俺な、行かなあかんとこあんねん」
「それは、出掛けて帰って来るん? それとも、出て行ったきり戻って来ないん?」
「……すぐ、帰って来る」
 真っ直ぐな、嘘を許さない瞳。それでも自分は愛しさに負けて、嘘の言葉を重ねてしまうのだ。
「今日ホテルに、って言うか社長の所に変な客が来た。それと何か関係ある?」
 聡い光一に、剛は言葉を失う。見た目の仕草や愛らしさについ忘れてしまうのだが、頭の良い人間だった。このホテルを仕切れる程には。
「光一。俺の話、聞いてくれるか」
「何でも。剛の事だったら何でも知りたい」
 今まで自分の過去を決して話そうとしない剛だったから言わなかっただけで、彼の事ならどんな小さな事でも余す事なく覚えておきたいと言うのが本音だった。
「今俺を追い掛けてるんは、俺の親父やねん」
 真剣な瞳で語り出した剛の過去は、自分の生きている世界とは違い過ぎた。全てを受け止められるか不安になる。
「剛のお父さんが、何で?」
「俺が殺したんが母親やからな」
 穏やかとさえ言える表情で言った言葉の重さに、光一は顔色を失った。剛はそんな彼の変化を気にしつつも、真実を愛情の代わりに渡して行く。
「俺の親父な、博徒の親分やねん。で、母さんは親父の情婦の一人やった。な、どうしようもない所に生まれたやろ」
 咄嗟に返す言葉を持てずに、光一は黙り込む。それでも、彼らがいなければ剛は生まれなかった。光一は痛む心臓に手を当てて、剛の話を聞く。
「まあ、でもそれなりに幸せやってん。母さんはシャンソン歌手でな。親父はその歌声に惚れたんやて。だから、上手く行ってたんや。……俺が生まれるまでは」
 急にトーンを落とした声にぞくりとする。
「俺が生まれて全部変わってもうた。親父な、俺が自分の子ぉやって信じなかってん。母さんがどっかの男に孕まされた言うてな。そっからはもう、地獄やった」
 父親が何故剛を自分の子だと認めなかったのかは今も分からなかった。けれど、何かどうしようもない理由があるのだろう。でなければ、愛した人間に出来る仕打ちではなかった。父親の狂気は、自分の中にも流れている。
 剛が中学生になる前に母親は地下に軟禁状態となり、薬物中毒者にされた。正気の沙汰ではない。日々狂って行く母親を剛は見る事しか出来なかった。
「俺が十八になる事には、もう廃人同然でな。多分親父はあれでもゆっくり壊して行ったつもりなんやろうけど。俺が行っても、分からんねん。いっつも歌ばっか歌ってたなあ」
 物悲しい母の歌声が今でも聞こえて来そうな気がした。何も映してはいない虚ろな瞳が今も忘れられない。
「それでも生きてる間は一緒にいようって思ってたんや。俺が誰か分からんくても、俺が母さんを分かってれば良いって。そしたら……」
 剛はあの時の様子を鮮やかに思い浮かべる事が出来る。いつもと変わらず母は歌っていた。見えない空を見上げて、子供のように。シャンソンの悲しい声だけが、母を人間だと証明する唯一の物だった。
 そんないつもの光景が、突然壊れたのだ。
「母さんの目が、もう何年も合う事のなかった目が合ってん。目が覚めたみたいな表情で母さんは其処にいた。何処にもいないと思っていた人が、ちゃんとおんねん。……ほんのちょっと、母さんが意識を正気に戻したんよ」
 それは、奇跡としか言いようがなかった。二度と会えないと思っていた母が。あの一瞬、世界は喜びに溢れていた。
 けれど。思い出したくない光景に剛は唇を噛む。光一が心配そうに見詰めていた。その真っ直ぐな瞳は、あの時の母に少し似ている。
「母さんな、俺に言うんよ。自分の息子にしか頼めないって。最後のお願いを聞いて欲しいって」
 剛は弱々しく笑いながら、それでも必死に言葉を紡ぐ。光一に全部渡すと決めた。
「殺してくれ、って。こんな姿になってまで生きたくない。あの人を憎みたくないからって。あんな奴憎めばええのにって、思うたけどな」
 光一の瞳が驚きに見開かれる。他人の手で幸せに育てられた光一には、想像もつかない世界だろう。
「母さんの手は薬でどうやっても力が入らんかったから、自分で死ぬ事も出来なかったんや。何度も何度も殺してくれ言われてな。やろうって決めたわ。このまんま生きてたってどうしようもないのは良く分かってたし、俺が息子として出来る唯一の事やったから」
 俺が生まれたせいで、父は母を愛せなくなった。生まれなければ良かったと、何度思ったか知れない。
「なるべく痛ぁないように、睡眠薬で眠らせてから喉をかっ切った。母さんが死ねたら自分はどうなっても良いって思ってたんやけど、最後に……」
 光一は剛の人生を運命を全て心に受け止めたかった。ほんの少しも零したくはないと、不可能な願いを抱きながら。こんなにも愛を知っている人が、何故哀しみばかりを享受しなければならなかったのか。
「最期に言うんよ。『こんな事やらせてごめんな。お前はちゃんと生きるんやで。生きて、母さんに歌を聴かせて』なんて」
 剛が言葉を詰まらせる。母を殺して尚、母の為に逃げ母の為に歌っていた。それはきっと、愛情と言う枠に納まるような思いではないだろう。
「母さんの脈が消えて、きちんと死体を浄める所までは良かってんけどな。逃げる事全然考えてなかってん。其処が失敗やったなあ」
 すぐに見つかってしまった剛は、組の人間が総出で探している東京を逃げ回った。自分の出入りする所は全部押さえられていたから、車一台手に入れる事も出来ない。
 母の約束の為に、こんな風に逃げた所ですぐに見つかるのは分かっていた。一日中走り回って疲れ果てた剛は、公園のベンチに座り込む。
「もう終わりやなって思った。立ち止まったら殺されるって。それでも良かってん。ちょっとしたら本当に組の人間がやって来て。囲まれたわ」
 その中に、もう何年も姿を見ていなかった父が立っていた。ヤクザになる気は元々なかったし、母親の事もあったからなるべく会わないようにしていたのに。母を不幸にした張本人が、目の前にいたのだ。
「俺をわざわざ追っ掛けたんは、面子の為やと思ってん。したらな、親父泣いてんねん。博徒の親分がやで? 自分の女を薬漬けにした男がやで? 俺は見間違えたんかと思った」
 周りを囲まれた剛は、まさしく人生最期の瞬間だったと言うのに。妙に冷静な自分がいるのを感じていた。
「何であいつを殺したんやって、俺に詰め寄るん。母さんを廃人にした男が、愛してたのにって泣き崩れたんや。俺は親父が母さんを愛しているだなんて思った事、一度もなかった」
 不器用な男だったのだろう。愛を愛と言えずに、壊す事でしか表現出来なかった哀れな男。
「愛して、たんなら、もっと方法はあったのに。短絡的でどうしようもないわ。俺も母さんもあんな親父の為に生きる方法間違えて……っ」
「もう、もうええ。剛」
 剛の瞳から涙が溢れた瞬間、黙って聞いていた光一が立ち上がって剛の手を強く掴む。
「俺はそんな話聞きたない。剛に泣いて欲しい訳ちゃう。唯、今此処にいて笑って欲しいだけやねん」
 駄目だ、と剛は思った。この愛しい人を置いて行く事なんで出来る訳がない。
「剛は此処を出て、また逃げるん?」
 遠く、遠くへ。二度と手の届かない所まで。
「……ああ」
 父親の告白を呆然と聞いていたら、突然横から腹を刺された。その瞬間、何処からか母のあの物悲しい歌声が聞こえた気がして。
 逃げなければ、と強く思ったのだ。腹に残った短刀を引き抜いて、父親の足を思い切り刺した。そうすれば、周囲の人間に隙が生じると思ったのだ。自分は腹を刺されているから動けないと思っている可能性も高かった。
 案の定逃げる隙を作った剛は、血の流れる腹を押さえながら走った。自分の何処にこんな力が残されていたのかと思う程。あの時の自分は間違いなく、気力だけで走っていた。
 そうして、この街に辿り着いたのだ。自分はきっと、この街に来て本当の意味で生きる事を始めた。目の前にいる彼に出会ってから。でも。
「お前は、大事にされて育ったんやな」
 苦々しく笑って関係のない話を持ち出した剛の意図が読めずに、光一は困惑する。
「この街が好きか?」
 それはまるで、二択の問いに聞こえた。俺とこの街とどちらが好きなのかと。自分の答え一つで。二人の人生は離れてしまう。
「好きや。この街も人も、全部」
 答えは出ている。愛しさよりも苦しさが滲む声で言うと、剛は小さく「そっか」と呟いた。剛の前に立ったままの光一はどうしたら良いのか分からずに、愛しい男の顔を見詰める。
 静かに時間が流れていた。自分と剛の、長くはない時が。
「……愛してる」
 光一の手を握って立ち上がった剛は、そのまま細い身体を抱き締めた。強く強く。離れても忘れないように、その匂いを感触を温度を全て覚えておこうと思った。
 宝物は、返さなければならない。
 暫く経つと「帰るわ」と呟いて、ギターケースを片手に剛は出て行った。光一は何も言う事が出来ずに、唯唇をきつく噛み締めた。



+++++



 何か得体の知れない物が光一を取り巻いていて、その流れに翻弄されているような気がした。
 それでも日々は、同じ速度で過ぎて行く。光一は何も変わる事がないまま、今日も仕事をしていた。けれど確実に何かが動き出している。
 叶は東京から来たと言う人間が帰ってから、忙しなく動き回っていた。そして、呉野の様子が可笑しい。何故彼まで動き出すのか、光一には全く分からなかった。
 叶の部屋にコールを入れても出ないので、直接光一は社長室に向かっていた。義父が社長室で寝てしまうのは日常茶飯事だ。
 ノックをしようとして、扉が僅かに開いている事に気付く。そっと中を覗くと、予想通り机の上で突っ伏して寝ている叶と、その寝顔を見詰める呉野の姿があった。
 そろそろ開店時刻になるこの時間に彼がいるのは珍しい。何が起きているのか。分からない。分からなくても良いと思った。
 呉野の表情に、光一は胸を突かれる。優しいような、壊れそうな顔をして。指先が愛しさを伴って叶の毛先を梳いていた。
 その光景の美しさに見蕩れていると、不用意に光一は音を立ててしまう。呉野が気付いて顔を上げた。
「……光一」
 バツが悪そうに呟いた呉野は、眠る叶をそのままに部屋を出る。
「何か義父さんに用あったんやないんですか?」
「あー、うん。もう終わったから大丈夫。光一、今平気かな」
「平気、ですけど。呉野さんこそ、お店平気なんですか?」
 光一の言葉に笑うだけの呉野の後を付いて、二人並んで外を少し歩いた。
「光一にずっと話してなかったなあと思って」
「何をです?」
「どうして僕の子じゃなくて、叶の養子にしたかって話。光一、ずっと気になってただろうに、今まで一度も聞いた事なかっただろ」
 それは確かに気になっていた事だけど。それよりも何故今こんな話を持ち出すのかが気になった。悪い、予感がする。
「光一を叶の子にすれば」
 その理由を何度も何度も考えた。結局答えが一つしかない事に気付いたのは、随分と昔の事になる。
「僕と叶の間に、消える事のない繋がりが出来ると思ったんだ」
 自分の考えと寸分も違わない答えを呉野は渡した。彼の考えを狡いとか利用されたとか思った事は一度もない。
 その言葉は、絶対的な告白だった。彼は自分が剛を好きなのと同じように、叶の事が好きなのだろう。
「僕達が生まれたのは、北の寒い所で……。其処で叶は僕の太陽だったんだ」
 淡々といつも通りの静かなトーンで彼は話す。幼馴染みだった呉野は、どんどん荒れて行く叶が心配でしょうがなかったと言う。
 近付いては離れると言う関係を続けながら、呉野は地元で普通に就職をした。そのまま静かな生活をして行けば良かったのに。東京に行った叶の噂を聞き、いてもたってもいられず地元の生活を全て捨てて出て来てしまったのだ。
「どうしても足を洗って欲しくて。色々な事をしたよ。痛い目にも沢山あったし、少しでも叶の事が分かりたくて、夜の仕事もやったしね」
 呉野がクラブを始めたのも、きっと叶が影響しているのだろう。
「真っ当な職に就いて欲しいって何度も言って。ちゃんと生きなかったら、僕が死ぬって脅したんだ。今考えると、何て傲慢で考えなしだったんだろうって思う。でもね、本気だったんだよ。本当に死んでも良いって思ってた。約束を、して欲しかった」
 呉野が叶に抱く思い。それを愛と呼んで良いのかどうか、光一には量り兼ねた。彼もまた、約束を求めている。約束の出来ない男を相手に。
「……約束、守ってくれたから。僕は、幸せ者だな」
 呟いた言葉は冬の風に流されて、光一の耳に上手く届かなかった。暗い表情を振り払うように、呉野は立ち止まる。
「僕の人生はほとんど叶を追い掛けてしまったけれど、人間が太陽を求めて生きるのは本能だから。だから、僕の人生は他人にどう思われても、幸せなものだったんだよ」
 そう言って笑う呉野が余りにも綺麗で、本当に幸せなのだと分かる。悲しそうな声とは裏腹な穏やかな表情だった。
 ふと、彼がいつもと違う服装である事に気付く。スーツを着ているのは変わらないけれど、手にしたコートやセットされていないままの髪が、店に出ている時と違った。
「これから、どっか行くんですか?」
「……ああ」
 少し含みを持たせて呉野が頷く。風が強かった。嫌な予感ばかりが胸を占める。優しい表情に差す僅かな闇を見逃す程、光一は疎くなかった。
 呉野はそれを知りながら、闇を隠す事なく笑う。揺るがない意思が、其処にあった。光一は何も言えずに、その強さを見詰める。最期の肉親である彼の横顔を。

「大丈夫。昔から、運は良い方なんだ」

 独り言のように呟くと、歩かせ過ぎたねと笑んだ。呉野と別れて逆方向に歩き出すと、不安に駆られて振り返る。彼が今このタイミングであんな話をするから。小さくなって行く後ろ姿が、堪らなく怖かった。

 その日を境に、二度と呉野の姿を見る事はなかった。



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 事態をきちんと把握出来ないまま、光一は決断を迫られていた。何を決めたら良いのかすら分からないのに、焦燥感だけが此処にある。
 昨日の夕方に別れてから、呉野の姿が見えなかった。自宅も荒らされていて明らかに普通ではないのに、叶は動こうとしない。朝からじっと籠っている義父に焦れて、光一は社長室の扉を乱暴に開けた。
「義父さん! 呉野さんいないんやで。何で探しに行かんの!」
 朝からクラブの従業員と、手の空いている街の人間が皆で探していた。呉野の告白を聞いたせいかも知れない。動揺一つ見せない表情に苛立った。
「何でっ。呉野さんは、義父さんの事っ……!」
「光一!」
 いつになく強い叶の声に、光一は息を飲む。義父が落ち着いていられる筈はなかった。じっと座って耐えてはいるものの、その瞳は必死の色を見せている。
「それ以上、言わなくて良い。俺はあいつと二つ、約束事があるんだ。一つはどんな事があっても友人である事。……意味、分かるな?」
 光一は静かに頷いた。彼らは互いに思いを通じ合わせていながら決して触れる事はなく、唯ずっと傍にいたのだ。そんな愛情がある事も分かる。何が幸せかなんて人それぞれだった。
 けれど、叶に触れた呉野の指先を思い出す。柔らかな仕草には、愛しさだけ。哀しい、と思った。手を伸ばせば触れられる場所で、互いに耐えるよう遠く距離を保つなんて。
「もう一つの、約束は?」
「……そっちは、果たせそうもねえんだよな」
 ぽつりと漏らしたその声は、いつもの義父らしくなかった。普段は晒す事のない、叶の弱さ。呉野が、彼の弱点である事位とっくに分かっていた。
 けれど、すぐにいつもの強い瞳に戻して、父親の顔で笑う。長い時間ずっと、この強さに守られて来た。
「触れられずに終わる思いもある。それで良い人間も確かにいるんだ。でも、お前達はそうじゃないだろ?」
 光一は驚いた表情で叶を見詰める。今まで賛成も反対もしなかった義父が、初めて踏み込んで来た。許してくれているのだと、気付く。
 剛を愛する事。遠くで見守る事なんて出来ない恋だった。手に入れて、触れて、確かめたい。
「剛に会ってお前は嬉しそうに笑うようになったよ。綺麗なだけの笑顔じゃなくて、ちゃんと生きてる顔だ。溺れられる位の恋なんて、しようと思って出来るもんじゃねえんだから。お前は欲がなさ過ぎるよ。もっと、欲張りに生きろ」
 剛はこのホテルの三階にいると、教えてくれた。



+++++



 三階の三〇一七号室。この位置は、一階が丁度光一の部屋になる。ドア一枚隔てているだけで遠く感じるのに、こんなにも一緒にいたのだと思う自分がいた。
 思い切って部屋をノックする。剛と出会ってからの日々の中で、今が一番緊張しているかも知れない。程なくして扉が開いた。
 警戒されてると思うから例えお前でも簡単には開けてくれねえぞ、と叶に言われていたのに。余りに呆気無く開いた部屋には、ちゃんと剛が立っていた。
 手に持った銃が剛の緊張感と、そして自分達の世界の隔たりを教える。部屋に入るとすぐにロックされた。緊張と高揚。どうしたら良いのか分からない。
 ほんの少し会っていないだけだったのに、零れそうな程の愛情が胸に迫った。剛が何も言わずに抱き締める。銃ごと抱き締められて、背中に硬い感触が当たった。
 鉄の塊を持っているだけで、全然知らない人間に見える。そう思ってしまう自分が怖かった。腕を回すと、今此処にいるのは剛だと確かめる。
 こんなにも、愛しいなんて。
「俺も、お前と一緒に行く」
 その言葉に、剛は慌てて身体を離した。拒絶の言葉を向けられる事が容易く分かって、僅かに光一は笑う。
「光一!」
「行く。もう決めた」
 拙い言葉は、駄々を捏ねる子供のようなのに。揺るがない決意を剛に教えた。
「俺とおったら死ぬかも知れん」
 呉野のように、とは言えなかった。死体を決して見つからないようにしてこちらの哀しみを煽るのは、彼らの常套手段だ。
「一緒に死ぬか離れて死ぬかの差やろ? それなら俺はお前といる」
 素直に生きると決めた。剛にも自分の気持ちにも。欲しい物は欲しいのだから。
 自分の人生と引き換えにしても、剛が欲しかった。
「それに。俺が離れたらお前終わるけど、俺が隣におったら、死ねんやろ?」
「……お前、いつからそんな男前になったんや」
 こんなに素直な光一を剛は知らない。そして、こんなに愛しい存在だと言う事も知らなかった。改めて、心臓に根付いた恋を知る。
 愛しくて切なくて、もうこの思いだけで満ちてしまう。いっそこのまま、と思ってしまうような。
「何か、持って行くものとかは?」
「何も」
「俺も光ちゃんおったら何もいらんわ」
 二人して額を合わせて笑い合う。まるで思春期の恋人がする絵空事の駆け落ちのようだった。



+++++



 風が、冷たい。
 この辺りの寒さは、十二月より一月の方が厳しかった。街を飲み込むかのように雪が降り続ける。二人してコートを着込んで、通用口から出る為に廊下を歩いていた。ひっそりと、誰にも見つからないように。
 ギターも置いて来た。剛はどうやらギターケースの底に隠した銃を取り戻したいだけだったらしい。
 しっかりと手を繋いで扉を開けようとした時、後ろから名前を呼ばれた。振り返れば其処には叶が立っている。掌から剛の緊張感が伝わった。
「……剛?」
 叶を前に、何故剛がこんなにも緊張を募らせるのかが分からない。
「ちょっとこっち来い」
 通用口から一番近い部屋に入って行く叶の後を、光一を庇うように付いて行く。部屋に入ると落ち着いた様子を見せて、叶は椅子に座った。剛と光一は寄り添うように立ったままだ。
「……あんたやろ?」
 静かに重く口を開いた剛に「そうだ」と叶は頷いた。光一一人だけが取り残され、会話に付いて行けない。そんな息子に気付いた叶は、事態を説明する為に口を開いた。
「俺が東京に、剛を追い掛ける人間に、此処にいるって連絡した」
「え、何で義父さんが……」
 そんな所と関わりがあるのかと言い掛けて、呉野の言葉を思い出す。約束を守れない男達。
「俺は別に、完全に堅気の人間になれた訳じゃねえんだ。足を洗ってやりたいとは思ってたんだけどな。このホテルの経営を任せてもらう形で、一応形式的に普通の職に就いた」
 呉野が追い掛けて来てこんなどうしようもない人間に一生懸命になってくれる姿を見て、何としても足を洗おうと決意した。だからと言って、そう簡単に抜けられる世界じゃない。必死にもがいて出口を見つけようとしていた時に、組の親からこのホテルの経営をやってみないかと言われた。そうすれば、約束は守った事になるだろうと。
 呉野と交わしたもう一つの約束。「真っ当な道を生きる事。太陽の下を真っ直ぐ歩けるように」と。
 その代わり、この街を叶の縄張りにして流れ着いた人間を必ず捕える事。これが組の条件だった。結局自分は、呉野との約束等何一つ守れていない。
「お前が此処に来てすぐに報告しちまったんだよ。まさか光一がこんなに惚れてるなんて思わなかったからな。……後悔、してるよ」
 この街は自分の縄張りなのだから、多少のリスクはあるが報告しなければ見つかる可能性は低い。今更、何を思っても言い訳にしかならなかった。呉野は、帰って来ないのだから。
「でも、あんたぎりぎりまで粘ったやろ。この一年で充分過ぎるわ」
「お前達は必ず守る。光一に哀しい顔、させたくないしな。俺だって人並みに親馬鹿なんだ。呉野を不幸にしちまった分、お前らには幸せになってもらわねえと」
 その言葉で、叶が呉野を探さなかった理由が分かる。絶対的な確信でもって死を分かっていた。
「東京からあいつらが来た時、揉めたやろ。素直に俺を渡せば、オーナーあんな目に遭わずに済んだのに」
「……それは、出来ねえよ。俺もあいつも光一が一番可愛いんだ。お前達には生きてもらわなきゃ困る」
 その瞳の優しさに、光一は胸が痛んだ。自分を犠牲にした優しさなんていらない。今更ながらに彼らの愛情を知って、後悔にも似た苦い思いが広がった。
「二人で生きて生きて、その果てを俺達に見せてくれよ」
 スーツのポケットから二人分のパスポートと、航空券を取り出し剛の手に渡す。
「偽造物なんて、久しぶりに作ったよ。これなら安全だから。裏に車も用意してある。せめてもの、罪滅ぼしだ」
 早く行け、と叶に促され部屋を出ようとする。ずっと黙ったままだった光一がゆっくりと義父を振り返って、口を開いた。
「……でも、幸せやったって。義父さんとずっと一緒にいられたから幸せやったって、呉野さん言うてたよ」
 あれは、遺言だった。そして、最期の愛の告白。
 叶は噛み締めるように、瞳を閉じた。きっとこの人はもう泣けないのだろうと思う。ずっと繋いだままの手を緩く引かれた。
「ちょぉ社長に最後に言っときたい事あるから、先行ってエンジンあっためといて」
 耳朶にキスを落としながら言うと、光一を一人外へ送り出す。剛はもう一度部屋に入った。叶が気付いて視線を上げる。
「気持ちはありがたいんやけど、此処までしてくれれば充分や。前、言うたやろ? 宝物は返すって」
 一人分のパスポートと航空券を叶へと返した。
「どうして……」
「俺は一緒に逃げられるんなら、死んでもええと思ったん。けど、生きなあかんよな。今は不幸にしてまうけど、いつか絶対あいつを幸せにする」
「お前……」
「甲斐性なしやねん、俺」
 剛のその台詞に叶は笑った。この男に光一を託すのは正解かも知れない。
 その時、冷たい夜の隅々まで行き渡るような銃声の音が響いた。
「っ光一!」
 二人とも瞬時の判断で外へ飛び出す。
「光一の方へ行け! 俺が必ず食い止めるから」
 その言葉は限りなく死に近かったけれど、頷く他なかった。通用口を抜けて光一の元へ走りながら、剛は強く思う。

 生きよう。一緒に生きよう、光一。

 車の脇に蹲る姿を見つけ、注意深く辺りを見回しながら傍へと急ぐ。
「大丈夫か、怪我は?」
「……さすがの運動神経やと思わん? 腕、掠っただけ」
 左腕を見せると、光一は笑った。銃と縁のない生活を送って生きている人間は、傷自体よりもショックの方が強い。身体全体が微かに震えていた。
「なあ、光一。一つだけ約束してくれ。何があっても、諦めないで生きるって」
 まるで、懇願のような響きだった。剛の眼差しが切迫感を伴っている。
「……なん? 剛。急に」
「約束、してくれ。絶対に生きるって」
「剛も約束してくれるんやったら、俺は絶対死なんよ」
 寒い寒い空気の中で、春の息吹に似た微笑みを光一は見せる。穏やかな、信頼し切った表情だった。この場所には似合わない春が、此処にある。
「いつか、必ず迎えに来るから」
「っ剛! 俺は、お前とっ……」
「そうや。お前は俺と生きるんや。だから、待ってて」
 光一を立たせてコートに着いた汚れを払ってやると、一人で車に乗り込んだ。彼は部外者だ。剛と離れてしまえば、何の関係もない一般人に戻る。
「つよっ! 剛!」
「俺のいた部屋に戻って、じっとしてるんやで」
「剛!」
 窓を開けて、光一の頬に触れた。愛しい愛しい人。
「今俺がお前にやれるんは、これだけや」
 触れるだけの口付け。出会ってから一度だってこんな軽い、気持ちだけを伝えるキスをくれた事がないのに。
「ごめんな」
「……謝んな、阿呆」
 光一の頬に一筋流れた涙を拭う事はせず、剛の体温が離れて行く。最後に視線を絡めただけで、呆気無い程素早く車は出てしまった。
 後には唯、静寂があるばかり。



+++++



 剛がいなくなってから、七年が経っていた。
 いつ戻って来ても仕事があるように、歌う場所があるように、クラブのステージは続いていた。あれからホテルは叶の物ではなくなり、オーナーをなくしたクラブの経営者に光一はなっている。
 叶と呉野は、一緒に墓を建てた。やっと、一緒にいられると光一は安心する。大切な義父と叔父は、誰にも何にも囚われず互いを愛せる場所に行った。哀しいけれど、そう思えば辛くない。
 剛が残したのは、ギター一本だけだった。コード進行も何も分からないまま、光一は時々弦を弾く。忘れてしまいそうになる剛の声を覚えておく為だった。

 そして毎年、白い薔薇が一輪届く。剛と自分の別れた日に。
 一度も会っていないし、連絡も来ないけれど、生きているのだと確信している。
 だって、生きると約束したのだから。二人で生きて行くと、あの日誓った。光一の表情は曇らない。
 生きる為に生きる。いつかまた、出会う為に。

 剛は生きている。この、同じ空の下で。
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