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小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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 約束通り、芹沢の為に。
 芹沢は、成瀬と生活しながら変わって行く自分の感情に気付き始めていた。気付きながら、止めるつもりもなく日々感情は成長して行く。
 同じ部屋で生活しているせいだろうか。それともこれは、定められた変化なのだろうか。一緒に生きる為の手段なのかも知れないと考えた事もある。
 でも、違った。唯、運命のように惹かれている。
 愛しいと思う感情を止める術がなかった。成瀬の一挙手一投足に惹かれている。当たり前なのかも知れなかった。眠る彼の表情を飽きる事なく半年以上、眺めていたのだ。
 目が覚めて、自分の傍で生活している彼を目で追ってしまうのは仕方ない事だった。優しい眼差しに、ふとした瞬間に見せる物憂げな表情に抵抗する事も出来ず、堕ちて行く。
 隣で眠る彼を見るのが好きだった。朝食を向かい合って摂るのが好きだった。帰って来た時、静かな声で「お帰りなさい」と言ってもらえるのが嬉しかった。
 幸福になる事は許されない。分かっていた。けれど、この恋は成就したとしても幸福にはなれない類いのものだ。
 日曜日の夕刻、成瀬はソファに座り沢山の手紙を読み返していた。姉からの手紙は大切にしまわれた事を知っている。何度も読めるものではないのだろう。机の上に明日の会議の資料を広げながら、芹沢はその横顔を盗み見た。
 彼がここにいる奇跡を噛み締める。幸福になる事は出来ないけれど、自分の中にある感情を止める術が見つけられなかった。受け入れられても拒絶されても、どちらにしろ幸福からは程遠い感情だ。
 告げてしまう事が、互いの距離を広げるかも知れなかった。それでも。
 芹沢はゆっくりと立ち上がる。大事に手紙を読んでいる成瀬の隣へと腰掛けた。驚いたように顔を上げるのすら愛しいと思う。
「どう、したんですか……」
「話がしたいな、と思って」
「仕事の話ですか?」
「いや、世間話」
「どうぞ?」
 成瀬は、最初の頃こそ自分との距離を測りかねていたけれど、最近では当たり前のように会話もするし笑う事さえあった。嬉しいと単純に思う。
「成瀬さん、貴方が好きです」
「ええ、そうですか。……え」
「貴方が、好きです」
 手にしていた手紙がはらりと絨毯の上へ落ちた。成瀬は動く事も出来ずに、瞳を見開いている。上手く躱されてしまうかも知れないと思っていただけに、その反応でも十分嬉しかった。
 真っ直ぐに、怯む事なく見詰め返す。自分のどこにも偽りはないのだと、教えるかのように。
「何を、言ってるんですか……貴方は」
「何って、告白です。分かりませんでした?」
「分かりたくないですね。どうして貴方はそう、簡単に口に出すんですか」
「好きだからです」
「っ、……そう言うのを、軽卒だって言うんですよ」
「軽卒なんかじゃないです。ずっとずっと、考えていました」
「……僕は、考えた事なんかありません」
「当たり前じゃないですか。俺には、貴方を見続けた半年分があるんですから。貴方よりは半年長く、貴方の事を考えていますよ」
「それなら、僕だって……」
「十一年間、俺の事考えてくれましたよね」
 反論の言葉は、重くならないように遮った。自分が真実を捩じ曲げたせいで、彼の十一年は狂ってしまったのだ。その罪の重さを忘れた事はなかった。
 二人の間にある感情は複雑に入り組んでいる。愛情だけでも憎悪だけでも表現し切れなかった。成瀬には、芹沢にだけ向けた感情がある。芹沢にも成瀬にだけ向けた感情があった。
 その過程に恋が潜んでしまっても、仕方のない事だと思う。互いの関係は、誰にも分からなかった。世界中で二人きり、自分達だけしか理解は出来ないだろう。
 成瀬は、小さな溜息を零した。絨毯の上に散らばった手紙を拾って脇に置くと、悲しそうに表情を歪ませる。瞳だけが、優しく芹沢へ向けられた。

「僕の存在がまた、貴方を苦しめているんですね」

 柔らかい響きは、決して望んだものではなかった。拒絶でもなく、受け入れる事さえ放棄している。手を伸ばした。成瀬の目尻に、そっと指先を滑らせる。温かな感触に安堵した。
 ソファから立ち上がると、成瀬の前に立つ。無防備に見上げる瞳は、悲しみで彩られていた。幸せになれない事は分かっている。自分達が幸せになってはいけない事も。
 けれど、抑え切れない衝動が胸の内にある。幸せなんていらないと思いながら、ゆっくりと顔を近付けた。
「……っ」
「怖がらないで。逃げないで」
 最初は、額へ。それから鼻、頬、顎と下り耳朶へと移動する。一つ一つに口付けを施しながら、どうしたら分かってもらえるのかと模索した。
「……僕に、愛される資格なんかない」
「そう言うと、思ってました」
 僅かに震える指先を取って、中指の爪にも口付ける。愛しかった。どんな理由も言い訳もなく、唯欲しいと思う。
 順番に口付けながら、彼への感情を確認した。こうして触れれば、愛しさは増幅する。
「どうしたら、分かってもらえるのかな」
「……分かりません」
「この身体が、この存在が、俺にとってどれだけ大切か、どうしたら貴方は分かってくれるんだろう」
「……大切なんかじゃ、ありません」
「大切だよ。もう、俺には何もないけど、成瀬さんだけは大切にしたいと思う。俺は、貴方を自分の半身とすら思ってる」
「そんな事、考えないで下さい。僕が貴方の為に生きます。だから、貴方は僕の事なんか考えなくて良い」
「成瀬さん」
 この人は、何も分かっていない。憎しみだけで生きて来た十一年と、彼が本来持つ優しさのせいだろう。愛を受け入れないのは、弱さではなく捩じれてしまった自分との関係故なのかも知れなかった。
 何度も何度も口付けを繰り返す。この身体が愛しいものなのだと理解して欲しかった。世界中で一番、大切にしたいものなのだと。
「好きです。貴方がどう思おうと、俺は貴方を愛したい」
「憎んで、下さい……」
「言ってるでしょう。俺はもう、貴方を許してるんだ。今更憎む事なんか出来ません」
「僕の事なんか、どうして……」
「どうしてでしょうね。それが分かれば、俺も好きになる前にやめたかも知れません」
「今からだって、やめれば良い」
「やめません。やめたくありません。貴方が好きなんです」
「芹沢……」
「幸せになれるとも、幸せになりたいとも思っていない。でも、貴方を愛したいんだ」
 もう我慢出来ずに、赤い唇へ口付けた。重ね合わせた体温が心地良い。成瀬は拒絶しなかった。出来なかったのかも知れない。
 分からないけれど、口付けの合間に呟いた言葉は「ごめんなさい」だった。彼は多分、今も自分を許せないでいる。



 あの夜から、一年が経った。何ヶ月か前の告白は受け止める事も拒絶される事もない代わりに、二人の距離をぎこちないものにしている。大体は、成瀬が逃げていた。
 この部屋から出て行こうとしたらさすがに対策を考えるけれど、顧問弁護士として今も同じ部屋で過ごしている。最近は、前と同じように弱者に手を差し伸べるような弁護活動も行っていた。
 何も自分の傍で自分の為だけに生きていて欲しい訳ではないから、芹沢は精力的に活動する成瀬を止める事はしない。彼なりの償いなのだろうと思った。世界中全てに、今も自分が生きている事に対しての。
 芹沢は芹沢で、海外への進出が決まって大忙しだった。息つく暇もない程に会議やら出張やらを繰り返している。まさかこんなに忙しいとは思わなかった。
 体力には自信があるけれど、さすがに辛いと思う。ある程度の見通しが立った頃、芹沢は体調を崩した。
 部屋に呼んだ医師によれば、診断は単純な過労だ。少しは休んだ方が良いと言われ、部下もスケジュールを調整してくれた。二日間の休息。それが長いのか短いのかは分からないけれど、走り続けた身体はベッドに横たわっただけで大分楽に感じられる。
 久しぶりのゆったりとした睡眠だった。父や兄は、こんなスケジュールを平気な顔で乗り切っていたのだ。今更ながら、凄いなと思った。体力では絶対に負けないと思っていたのに、世の中のビジネスマンは頭も使う上に体力も相当備えていなければならないらしい。
 深い眠りだった。夢も何も見ず、眠る為に眠る。途中、意識がふっと楽になった。暗闇の中で眠っていたのに、まるで白い闇の中に漂っているかのような。
 随分と楽になった。白い闇の心地良さにも満足して、ゆっくりと瞼を持ち上げる。目の前には木目調の天井、そして。
「……成瀬さん」
「ああ、起きましたか? 大丈夫ですか?」
 ベッドサイドには成瀬が座って本を読んでいた。
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 手紙をどうにか読み終えると、耐え切れずに涙が溢れた。自分も法では裁く事の出来ない罪を負っている。その事を今、どの瞬間よりも実感した。
「成瀬さん……ごめ、ごめんなさい……っ」
 早く目覚めて欲しい。泣き濡れた瞳のまま、眠る彼を見詰めた。動く事のない人形のような指先を力一杯握り締める。
「ごめ、なさい……。でも俺は、貴方の傍にいたい。貴方と一緒に生きたい。貴方が目覚めるのを、こんなにも待っているんですっ……え……?」
 言い募る芹沢の言葉を止めたのは、成瀬の指先だった。ほんの僅かだったけれど、自発的に動きはしなかっただろうか。芹沢は必死に呼び掛ける。
「成瀬さん。俺は、俺の事を許しました。貴方の事を許しました。聞こえていますか? 聞いてくれてますか? 俺は、生きる事が、生き続ける事だけが、彼らへの償いだと思っています。どうか、貴方も逃げないで下さい」
 沢山の罪と後悔が、芹沢の胸を締め付ける。それでもあの夜、お互いを許し合った事が真実だった。あの時に、自分達の命は繋がったのだと思っている。
 成瀬は目覚めない。目覚める事を恐れているのか、自分と生きる事を拒絶しているのか。もう、長い時間が経った。いい加減、彼の黒い瞳を見詰めたい。彼の言葉が聞きたかった。
 あの夜、朦朧とした意識の中彼の呼び掛けだけが耳に鮮明に残っている。「芹沢!」と叫んだ悲痛な声。本当にそれだけで良いとすら思った。
「成瀬さん……俺は、貴方を待っています」
 僅かに反応を示した手紙を頼りに、芹沢は行動に出たのだ。

 真紀子の手紙を読んでから、芹沢は毎日成瀬の枕元で手紙を読む事にした。今まで沢山の人から届いていたけれど、他人が開いて良いものではないだろうと積み上げたままだったのだ。
 しおりや弁護士事務所の人、成瀬に弁護された沢山の人から届いたお見舞いの手紙。その一通一通を芹沢は丁寧に読み進めた。
 ここに来る事はせず、しおりは週に一度手紙を送ってくれる。本当は彼女が側にいた方が良いのかも知れないと思いながら、ここまで連れて来た罪悪感もあった。
 彼女は、自分の葛藤を知っているのか、成瀬と同じように自分にも手紙を書いてくれる。他愛もない日常を綴った手紙に、心が落ち着いた。
 成瀬へ宛てた手紙も、内容は似た感じのもので安心する。季節の移り変わりを感じさせる花の話や、最近読んだ本の事、ガランサスへコーヒーを飲みに来て欲しいと言うささやかな願い。どの手紙も、彼女の優しさを感じさせてくれた。
 毎日毎日、芹沢は成瀬宛の手紙を読む。仕事が忙しくても深夜に帰って来てスーツを脱ぐより先にベッドサイドの椅子に腰掛けた。沢山の人が成瀬へ愛情を向けている。その事に早く気付いて欲しかった。
 手紙を読み始めて、どれ位経った頃だろうか。社長室にいた自分を慌てて看護士が呼びに来た。信じられない心地で、目と鼻の先にある成瀬の部屋へと戻る。
 毎日毎日目覚める事を待っていたのに、これは夢なのではないかと疑う自分がいた。「成瀬さんが目覚めました」と焦った声で呼びに来た看護士は近くの病院にいる医師を手配しにすぐ部屋を出て行く。
 ベッドの上。もしかしたら永遠に目覚めないのかも知れないと思った事もある。彼の側にいる事しか出来ない自分がむかついた事も何度だってあった。
「……成瀬、さん」
 恐る恐る近付けば、湖面のような眼差しが、確かに向けられる。ずっと見たいと切望していたその色。静かな表情に言葉をなくし、唯芹沢は涙を零した。
 あの夜から長い時間が経っている。何も言えずに、動く事の出来ない成瀬の手を掴んだ。乱暴な仕草だったと思う。ベッドサイドに跪いて、その手を胸に抱いた。
「っ良かった……」
 ベッドの上の成瀬は何も言わず、静かに目尻へと一筋の涙を零した。半年ぶりの目覚めに、世界を一つ一つ確かめているような。まだ生きているのだと言う事を実感しているような。そんな静けさだった。



 成瀬が目覚めてから、芹沢はタイミング悪く出張が入ってしまった。まあ、意識のない彼を置いて行くよりは幾らか気分が楽だけれど、ろくに話す事も出来ず旅立つのは不本意だ。
 今置かれている状況をきちんと説明したかった。自分の思いも、生き残った自分達の命も。
 この半年間、成瀬を見続けて辿り着いた結論を話したい。幸い、出張は一週間だった。体力が落ちている彼が話を聞けるようになるには、時間が掛かる。食事も直接入れられない状態だから、自分がいなければリハビリに専念出来て良いのかも知れなかった。
 成瀬はぼんやりと世界を見詰めている。どこにも障害は残っていないと言うから、体力の回復を待つしかないだろう。一週間、出張先でもマメに医師へ連絡を入れながら、芹沢は過ごした。
 勿論、まだまだ仕事が完璧ではないから手抜きをするとすぐ追い付けなくなるのを分かって、きっちり取り組んだつもりだ。部下のサポートがなければ、すぐにでも自分は社長職から逃げていた。
 彼らに報いる為にも、必死に仕事をこなす。有能な部下は、出張から戻ったら成瀬と過ごせる時間を用意してくれていた。詳しい事を話してはいないけれど、こうして一緒に住まわせているのだ。簡単な関係でない事はすぐに分かる筈だった。
 どうにか仕事を終えて、芹沢は自分の部屋へと戻る。医師の話では、やっと昨日口から食べ物を受け付けるまでになったと言う事だった。
 ホテルに戻ると、もう外は暗い。成瀬は食事を摂ってしまっただろう。どんなものであれ、一人で食べるよりは良いと思ったのだけれど。
 残念に思う気持ちはそっとしまっておく。これから先、幾らだって機会はあった。離れず、ここにいてもらう為に。
 目覚めてから面と向かって話すのは今日が初めてだった。少し緊張する。部屋の前で芹沢は足を止めたけれど、今更躊躇しても仕方なかった。それ以上に、目覚めた事の嬉しさが強い。
 もう、一人じゃなかった。芹沢は、この出張で気付いている。あの夜から半年間、寂しくて仕方なかったのだ。目覚めない彼の傍で、ひとりぼっちの心地だった。
 どれだけ沢山の人が傍にいようとも、自分が欲しいのは成瀬の存在だったから。深呼吸を一つして、部屋をノックした。
「戻りました。成瀬さん、具合はどうですか? ……え」
 思い切って扉を開ければ、そこにいる筈の存在は見当たらなかった。トイレだろうか。否、部屋の中で全て出来るようになっているのだから、ここにいないと言うのはおかしい。
「成瀬さん? どこですか?」
 嫌な予感がした。半年以上ベッドの上にいた成瀬の身体は、相当弱っている。歩く事も容易ではない筈だった。けれど、部屋の中に気配はない。
 バッグを置いてジャケットを放り投げると、そのまま芹沢は走り出した。刑事時代の勘だ。成瀬はまだ、この世界から逃げたがっていた。
 ホテルを飛び出すと、迷わず海へと走る。海へと辿り着くのは、人間の本能だった。生かされた命を、例え成瀬自身でさえ奪う事は許されない。逃げて欲しくなかった。
 夜の海は、全てを素知らぬ顔で飲み込んでしまう。波の音。塩を含んだ夜風。怖がってはならなかった。生きる事から逃げる事は許されない。
「成瀬さん! 成瀬さん!」
 叫びながら、芹沢は砂浜を走った。デスクワークになってから少し体力は落ちたけれど、それも現役刑事と比べての事だ。スーツが動きを妨げていると感じる位、芹沢は走り続けた。
「成瀬、さん……成瀬さん! 駄目だ!」
 小さなシルエットを、黒い海の中に見つける。歩く事すらままならない人間が海になんて入ったら浅瀬でも溺れ死ぬだろう。名前を呼びながら、シャツが濡れるのも構わずにその背中を追い掛けた。
「成瀬さん!」
 勢い込んで、背中から抱き締める。羽交い締めにするまでもなかった。それ程に、彼の身体に力はない。
「何、やってるんですか!」
 目一杯叱ってやりたかった。けれど、海の中にいればいただけ成瀬の体力は奪われる。抵抗出来ないのを良い事に、軽くなってしまった身体を抱き上げると、浜辺へと戻った。
 砂浜に濡れた身体を下ろす。本当はすぐにでも部屋に戻るべきなのだろうけれど、身体より彼の心の方が大切だった。
「成瀬さん」
「……」
「真中さん、とお呼びした方が良いんですか?」
「違っ、……そうじゃない」
「俺は、貴方が貴方であるなら、何でも良い。どうしてですか! どうして、この身体をまた死なせようとするんですか!」
 肩を掴んで、力の限り叫んだ。許しがたい事だった。これだけの長い時間を、自分はたった一人で待っていたのに。すぐにまた、彼は旅立とうとする。
「貴方の命は、もう貴方だけのものじゃない! 生きて下さい!」
「出来ない……僕は、」
「生きて下さい。貴方に、それ以外の術はないんだ」
「僕は、生きている資格がない」
「でも、死ぬ資格だってない。どんなに逃げても、どんなに苦しくても、貴方はここで生きるしかないんです」
「嫌だ……出来ない」
 成瀬は、怯えたように瞳を潤ませる。彼から復讐と言う動機を取ったら、無防備なまでの本性が現れた。肩を掴んでいた手を、引き寄せる為のものに変える。成瀬を緩く抱き締めた。冷えて行く身体を海風から守るように。
「生きて、下さい」
「出来ない」
「なら、貴方のせいで命を落とした人の為に、貴方のおかげで救われた人の為に、生きて下さい」
「……出来ない。俺は、誰も救った事なんかない」
 成瀬の言葉に嘘はないのだろう。あれだけのお見舞いをもらいながら、天使の弁護士はあくまでも自分を優しいものだと認めようとはしなかった。
 芹沢とて、父と兄、そして友人達を奪われたのだ。何度も何度も憎もうとした。けれど、憎む時期はとっくに過ぎてしまった。今は唯、一緒に生きたいと願っている。腕の中にある存在は、自分の半身だった。
「成瀬さん」
「……嫌だ。僕はもう、ここにいたくない」
「駄目です。逃げるなんて駄目だ」
「貴方だって、俺を憎んでいるだろう」
「……あの時、言いましたよね? 俺はもう、貴方を許しました。俺自身も許した。今出来るのは、生き続ける事だけなんです」
「僕は、僕を許せない……」
「それなら、俺の為に生きて下さい」
「な、に……」
「俺の為に、俺だけの為に。生きて下さい。生き続けて下さい。俺と一緒に、皆の分まで」
 成瀬の冷えた身体を抱き締めた。目を見て言う事は出来ない。まるで、愛の告白だった。彼がどう捉えるかは分からない。けれど、憎しみだけで生きて来た彼の為に、新しい場所を用意する事もまた自分の償いだと思っていた。
「生きて下さい。貴方は、俺のものだ」
「芹沢……」
「そして、俺も貴方のものだ」
 成瀬はもう、何も言わなかった。唯、されるがままに抱き締められている。拒絶がないのを肯定の意と取って、芹沢は帰りましょうかと促した。
 生きて欲しい。自分の傍で、一緒に。
 少しずつ変わり始めた成瀬への感情に、芹沢はまだ気付いていなかった。



 成瀬が目覚めてから三ヶ月が経った。リハビリに勤しみながら、芹沢リゾートの顧問弁護士として、辣腕を奮っている。他の弁護は受けず、今は顧問弁護士としてだけ動いていた。
 完全に回復したら動き出すだろうけれど、今はまだこの部屋で出来る仕事だけに限られている。医師からも過信するな、と言われていた。元々体力があるようにも見えないから、芹沢が怪我をしたのとは根本的に回復速度が違うのだろう。
 日々、成瀬は静かに生活している。あの海での出来事以来、逃げる事もなかった。時々辛そうに眉を顰める程度で、芹沢と一緒の部屋にも文句は言わない。言えなかっただけなのかも知れないけれど、気付かない振りで今も同じ部屋で生活していた。目の届く場所にいると、安心する。
 成瀬は、成瀬領と言う名前を捨てなかった。真紀子からの手紙の効果もあったのだろうけれど、今更真中友雄に戻る事も出来ないと、いつかの夜に自嘲気味に話してくれている。
 過去を消す事は誰にも出来なかった。その代わり、過去に出会った人達との優しい交流もある。しおりも、一度だけここに来てくれた。一緒に生活する二人を見て、彼女は温かい涙を零したのだ。
 自分にとっても成瀬にとっても、彼女は天使だった。光を見せてくれる人だったと思う。成瀬に向けられた恋心は、彼に届く前に上手く隠してしまったらしい。曇りのない笑顔のどこにも、恋の色は見つけられなかった。
 少しずつ、変わり始めている。中西も何度か足を運んでくれた。ここなら近いから良い、と笑っては自分が育てた野菜を持って来る。一緒に仕事をしていた自分よりも、成瀬に多く言葉を掛けるのは年長者の気遣い故か、それとも単純に成瀬へ向けられた愛情なのかは分からないけれど。
 天使の弁護士の名に恥じない、穏やかな人だと改めて思った。彼のどこに悪魔が潜んでいたのか、見つける事はとても出来ない。法では裁けない罪を身の内に秘めながら、成瀬は生きていた。
 僕は、あの日確かに僕自身へと戻った。
 けれど、十一年と言う歳月は、成瀬領を真中友雄へと戻すには長過ぎたのだ。友人に成り代わっただけの筈なのに、気が付けば自分は真中友雄であり同時に成瀬領でもあった。
 あの日、終わったと思った自分の生。
 言い訳の出来ない罪を犯した。決して許される事のない罪を抱えて地獄に堕ちようと、決意していた。止められない自分の狂気は、あの日終わりを見たのに。
 地獄の門は未だ自分の前に現れなかった。ずっと、白い世界を漂っている。
 僕の世界はまだ、終わる事が出来なかった。



 あの日、潰えたかと思った二人の命はしおりの手によって救われていた。一度は絶望を見た彼女だったけれど、早急に救急車と中西を呼び救急士の指示通り応急処置を施したのが良かったのだろう。
 辛うじて、と言う言葉ではあるものの成瀬も芹沢も一命を取り留めた。このまま死んではいけないと強く思ったしおりの願いが効いたのだろうと、中西は後日笑う事になる。
 事件から一週間後、芹沢はゆっくりと眠りから覚めるように目を開けた。
「俺……何で……」
 その時傍にいたのは、高塚だった。仕事の合間を見ては、何度も何度も病院に足を運んでいたと言う。鉛の弾を身体に受けた芹沢は、重体まで陥っていたのだけれど彼の生命力の強さが回復へと繋がった。
「芹沢君、分かる?」
 ぼんやりとした意識の中、高塚の呼び掛けが聞こえたらしい。視線を上げて、問うた言葉。
「……成瀬、さんは……?」
 憎しみよりも強い執着は、芹沢の心すら奪っていた。あの夜、この世界から旅立っていたら生まれなかった感情がある。それは、憎悪であり同時に深く強い絆でもあった。

 芹沢は、目覚めて生きている自覚が出たからなのか驚異的な回復を見せた。元々、丈夫な男だ。命の危機に晒されたとは思えない程、順調にリハビリもこなしていた。
 あの日から一ヶ月、そろそろ退院の日取りも決まるだろう。けれど、同じように傷を受け倒れた成瀬は、未だ目覚める事がなかった。傷の度合いで言えば、命の危険性があったのは同じでも僅かに成瀬の方が程度は軽かったのに。
 傷は治りつつあり、何か障害を生むような危険もなかった。医師に芹沢は何度も問うたけれど、後は本人の気持ち次第だと言われてしまう。
 気持ちと言う点で言えば、成瀬が目覚められる訳がなかった。あの夜、成瀬と真中の間で揺れ動き苦しんでいた人。彼の涙が忘れられなかった。多分あれこそが、彼の真実なのだと思う。
 十一年間、同じだけの月日を苦しんでいた。失われた命のどれもが重く、どれもが芹沢にとって大切なものだ。かけがえのない存在を奪われた。
 けれど、だからと言って成瀬に死んで欲しいとは思わない。出来る事なら生きて欲しかった。否、生きなければならない。
 俺はもう、貴方を許した。そして、自分自身さえ許したのだ。
 早く目覚めて欲しかった。そして、話がしたい。あの夜、確かに見つけた彼の真実。復習の鬼ではなく、一人の優しい人間として。彼の優しさを、今はもう信じる事が出来た。
 朦朧とした意識の中、必死に呼び掛けていた成瀬の声。涙を零す柔らかな頬。そして、自分を抱き締めた腕の強さ。
 全部、覚えている。
 命を留めたのなら、まだこの世界で生きる義務があった。死ぬ事が償いだとは、どうしても思えない。いなくなった彼らの分まで生きなければならなかった。
 二ヶ月が過ぎ、芹沢が退院を迎えても未だ成瀬は目覚めない。いつまで逃げ続けるのか。どれだけ待っても、貴方に死と言う救いは訪れない。貴方は、沢山の命を背負って生き続けなければならないんです。
 早く彼の目が見たいと、純粋な欲求で芹沢は思った。

 リハビリと平行して行っていたのは、これからの自分の身の処し方だった。あの夜の一件は、不慮の事故として処理されている。彼の得意な正当防衛が適用されたものの、芹沢が無断で銃を持ち出した事が責任問題となって中西を左遷させた。
 その処分を聞いたのは、中西の異動が既に決まってからで芹沢は何も言う事が出来なかったのだ。何度も謝る芹沢の肩を優しく抱いた中西は、父親のように温かく強かった。
 お前らが生きてるんだから、十分だろ。俺もそろそろのんびりしたかったしな。
 平気な顔で笑う偉大な先輩に、もう何を言う事も出来なかった。お前はお前の道をしっかり行け。送り出す言葉には、謝罪ではなく感謝で応えたいと思う。
 芹沢は、今まで関わった全ての人達の事を思いそして成瀬の眠る顔を見ながら、一つの決断をした。警察に辞表を書き、父と兄が築いた芹沢リゾートの為に生きようと決める。
 頭で考えるより動いてしまう事が得意な自分には、高いハードルだと思ったけれど。入院中に、兄の妻であった麻里が相当な尽力をしてくれたと言う。上が崩れれば、ピラミッド式の会社はすぐに形を無くしてしまうだろう。会長が死に社長が死に、そしてその秘書さえ死んだ。
 様々な憶測が流れたけれど、麻里は彼らの名誉を守ろうと必死に動いたそうだ。そして、手続きの中で全ての権利を引き継いだのが芹沢自身だった。麻里は一度も病室を訪れなかったけれど、彼女の思いは痛い程に伝わる。
 本来なら、芹沢リゾートで働いていた人間がトップになるべきだろう。何度もその方が良いと考えたけれど、そこに働いている人間が無学な自分に協力してくれた。
 芹沢の元で働くのだから、と躊躇なく言ってくれた彼らの言葉に甘えてみようと思う。そして、現在芹沢は芹沢リゾートの社長となった。
 考えていたより……勿論、知らない世界に飛び込むのだ。辛いだろう事は分かっていた。けれど、想像を遥かに超える大変さに芹沢はもう傷も癒えたのに、痛みで死にそうだった。
 人間、一度生死を彷徨えば大概の事は越えられると言うけれど。社長職と言うのは、想像を絶していた。増して、素養の無い芹沢にはスーツを着こなすだけで精一杯だ。
 身近な部下の協力を得て平気な顔で振る舞うようにはしていた。唯でさえいきなり飛び込んで来てトップに立った人間だ。快く思われていない事位、分かっていた。生死を越えて、一つだけ強くなった事がある。
 彼らの遺したものを大切にしようと言う気持ち。
 心だけでこなせる程、楽ではないけれど今はもういない彼らの顔を思い浮かべれば、どうにか頑張る事が出来た。それから、我儘を一つ。
 今も芹沢リゾートの顧問弁護士は、成瀬領になっていた。彼が目覚めた時、自分から離れないように先に縛り付けている。今は、彼の事務所の人に頼んで代理の弁護士を立ててもらっていた。
 勿論、大きな会社だから弁護士のつては幾らでもあったけれど、成瀬が帰って来た時に揉める事を恐れたのだ。顧問弁護士の場所を他の人間に譲るつもりはなかった。今来ている代理の弁護士は、その辺を十分に理解してくれている。
 後は、成瀬が目覚める事、そして一日でも早く社長職の役目を十分に果たす事。忙しい日々に押し潰されそうになりながら、一日たりとて成瀬を忘れた事はなかった。



 あの事件の夜から三ヶ月が経った。未だ、成瀬は目覚めない。心は死にたいと願っているのだろう。逃避でしかないそれに、芹沢はいい加減腹が立って来た。
 生きなければならない。辛くても悲しくても、逃げてしまいたくても。
 社長職にどうにか追い付けるようになった頃、芹沢は一つの決断を下した。本当に正しいのかどうか不安になって、一度中西にも相談している。すっかりリラックスした表情で迎えてくれた大先輩は、良いんじゃないのかと笑ってくれた。
 芹沢リゾートは主に市街地のシティホテルが有名だけれど、リゾートの名に相応しくリゾートホテルも各地に所有している。その中の一つ。東京からも程近く、仕事をするには十分な距離にあるホテルに、芹沢は社長室を移した。都内にある方が良いのは勿論分かっているけれど、今は通信も交通も手段が発達しているからそこまで困る事はないだろう。部下達も特に反対せず、サポートを約束してくれた。
 社長室の隣には、成瀬の為の部屋を用意する。医師の見立てでは、生命の危機はとっくに越えているとの事だった。後はもう、本人の意思だけだと。
 長い時間、恐らく休息も取らずに生きて来た人だった。目覚めるまできちんと休めば良い。そして、目覚めてからもどこにも行かず生きて行けるように。
 唯、彼の為だけにこの場所を用意した。海の見える部屋。客室の一つを潰して、入院時と変わらない快適な空間を作った。成瀬はまだ、芹沢リゾートの顧問弁護士だ。彼が目覚めた時に彼を生に繋ぎ止める為の枷だった。
 こうして二人共生き残った以上、自分の寿命を全うする必要がある。眠っている今はまだ良いけれど、意識が戻ったら絶対に彼は向こうの世界へ行きたがるだろう。地獄の門を目指すのは明白だった。
 自分の元に留まらせる為に。芹沢は、二度と後悔したくなかった。彼は優しい人だったのだと思う。あの夜でさえ、彼の優しさを感じる事が出来た。
 十一年間を取り戻す事も修復する事も出来はしない。それならばせめて、未来位は自分達の手で築いて行きたい。勿論、失われた命の分まで。

 芹沢は、毎日成瀬に話し掛けた。他愛もない事ばかり。今日の仕事の話や出会った人の事、腹が立った事や嬉しかった事、何でも良かった。彼が目覚めたら、話さなければいけない事は沢山あるけれど、今は唯どうでも良い話を繰り返す。
 成瀬の部屋は、基本的に二人で過ごせるように造られていた。ほとんどを社長室で過ごしてはいても、プライベートの時間は成瀬の部屋にいる。眠る時も朝食を摂る時も彼の傍にいた。少しでも離れず一緒にいたいと思う。
 あの夜、自分達の命は一つのものになったのだと芹沢は信じていた。離れる事の出来ない命として。離れたら死んでしまう存在だと思う。
 目覚めない成瀬を毎日毎日、芹沢は見詰め続けた。白くなってしまった頬の丸みや、目元に掛かる黒髪、こうして見ると「天使の弁護士」と言う評価は言い得て妙だなと思う。顔立ちが幼かった。全く気付かなかったそれらに一つずつ気付く作業が楽しい。指が綺麗だったり肩が薄かったり、唇が赤かったり、数え上げればキリがないのは、ずっと見続けているからだった。
 あの夜からもうすぐで半年が経とうとしている。芹沢が行動を起こしたのは、悲しい出来事の知らせによってだった。目覚めない成瀬に業を煮やしていた事も勿論あるけれど。
 成瀬の姉が亡くなった。重い病気を患い、失明までしていた彼女は弟と会う事だけを楽しみに生きていたと言う。あの時、一度だけ会った彼女は優しい顔をしていた。諦めではなく、弟を思う姉として最大限の愛情を見せていたのだ。
 そんな彼女の生きる希望を奪ったのは、間違いなく自分だった。もう一度、手掛かりがないかと病院に足を運んだ事がある。看護士に話を訊いたけれど、事件の事よりも彼女の目に見える衰弱を心配していた。
 当たり前だ。後にして思えば、彼女は成瀬を庇っていた。庇うと言う事は、真実に辿り着いたと言う事だ。彼ら姉弟の間にどんな言葉が交わされたのかは分からない。
 けれど、世界でたった一人の家族を互いから奪ったのは間違いなく芹沢だった。自分にも、この十一年間で降り積もった沢山の罪がある。
 成瀬領から奪った沢山のもの。
 その最上を成す成瀬真紀子が亡くなった。成瀬の弁護士事務所から電話をもらい、無縁仏になってしまうから弔わなくてはと言う話をそのまま引き受けたのだ。成瀬が意識を取り戻さない以上、当然の使命だった。
 簡素な葬式を上げた後(本人の希望だった)、彼女の少ない遺品を看護士から受け取った時の事だ。長い間看護をしていたと言う女性が、一通の手紙を差し出した。
 『貴方に託して良いのか分かりませんが』と悲しそうな表情で、それでも真っ直ぐとした看護士らしい強さで彼女は渡してくれたのだ。目が見えない真紀子の代わりに書いたと言う手紙の宛先は、成瀬領。最愛の弟に向けての最後の言葉だった。
 ホテルに戻り、すぐに成瀬の眠る部屋へと入る。二人きりになると、ほうと一つ息を吐いた。ジャケットを脱いで、預かって来た遺品を枕元に置く。姉の物が側にあったら安心するかも知れないと思っての事だった。
 ベッドサイドに椅子を引き寄せると、彼に宛てられた手紙を読む事に決める。本当は、姉と弟の間でだけ読み交わされるべきものなのだろうけど、目覚めない成瀬が悪いと芹沢は身勝手に結論付けた。
 椅子に座って、両肘をベッドにつく。ごく近い距離に眠る成瀬の横顔があった。何の表情も浮かべない彼は、今どこにいるのだろう。まだ姉に会って欲しくはなかった。
 一つの命になった自分達は、離れて生きる事が出来ない筈だから。どうしてもここで繋ぎ止めたかった。
 封筒から手紙を取り出す。亡くなる一週間前に書かれたそれは、遺書に近いものだった。弟の為に遺した最後の言葉。
 芹沢は、成瀬にだけ聞こえるように、静かな声で読み始めた。
「成瀬領様。この手紙を書いて良いものかどうか、私は凄く悩みました。でも、貴方にさよならを告げてから、ずっとずっと伝えたい事があったから、こうして残す事にしました。姉の最後の我儘を聞いてくれる?」
 優しい面立ちが瞼の裏に蘇る。仲の良い二人を永遠に引き裂いてしまった。実の姉でない事も実の弟でもない事を互いに知りながら、そして知らない振りをしながら過ごした時間。
 それは決して偽りなんかじゃなかった。
「貴方は、私の光でした。私の、希望でした。領が領でない事をずっと知っていて、でも毎週貴方が来る事が嬉しかった。最後の我儘です。もう貴方とは永遠に会えない。貴方が苦しんでいても、私は何もしてあげられない。もし私が領だったら、本当の貴方を救う事が出来たのかも知れない、なんてこんな身体でも考えてしまいます」
 芹沢は、声を震わせずに読む事が出来なかった。真紀子の思いを痛い程に感じる。何物にも代え難い家族の深い深い愛情だった。
「ねえ、領。覚えている? 貴方が最初に私の部屋に来てくれた時の事。本当に本当に嬉しかった。貴方が誰であっても、私にとって貴方はたった一人の弟です。離れてからもずっと、貴方の幸せばかりを祈っていました。もし、貴方が嫌でないのなら」
 芹沢は唇を噛み締めた。姉と弟の時間。永遠に喪われた平穏。成瀬の唯一の場所を、自分は奪った。
「ずっと、私の弟でいて下さい。今の私が望むのはそれだけです。出来る事なら永遠に、成瀬領でいて欲しい。私は、貴方の優しさを持ってこの世界を旅立ちます。ありがとう。私の、領。成瀬真紀子」



「」

桜上 水





 好きだと思う。愛しているとさえ思う。
 勿論、好かれている事も愛されている事も分かっていた。彼の愛情を疑った事はない。
 けれど、大野にはどうしても理解出来なかった。付き合ってもう、四年以上が経つ。自分でも驚く事に浮気はした事がないし、今までの人生で一番長い恋人になってしまった。
 今更後悔はない。だって、櫻井以上の存在など自分の人生に現れないだろう事に気付き始めていた。
 自分でも吃驚する程、櫻井を愛しく思う。側にいたかった。優しくされたいし、もっと触れたいとも思う。
 なのに。
 櫻井は、自分と二人でいる事から逃げているように思えた。



 もうすぐ、大野の誕生日が来る。男だから記念日になんて余り拘った事はないけれど、幸か不幸か嵐と言うグループはイベントごとが大好きだった。
 相葉のお祭り気質と、根っからのエンターテーナーな松本、それに人の為に尽くす事が好きな櫻井が加われば、何事もなくイベントが過ぎる筈もない。毎年毎年、誕生日当日は難しくとも五人でそれぞれの誕生日を祝う習慣が根付いてしまった。
 十一月に入れば、櫻井はいつもの笑顔を崩さないまま問う。今年は誰と祝うの?と。あの綺麗な笑顔で、裏表なんかどこにも感じさせない声で。
 「今年は家族? それとも友達?」なんて、およそ彼氏のものとは思えない質問だった。櫻井は一緒にいたがる癖に、二人きりになる事を避けている。
 付き合い始めた頃から、それはずっと変わらなかった。例えば、五人の楽屋ではと側にいる事が多い。帰りは方向が一緒だから、途中まで送ってもらう事もあった。地方での食事会でも隣に座る事が多かったし、ツインルームともなれば一緒に眠るのが普通だ。
 そして、毎年毎年櫻井の態度に不満を覚えるのが大野の誕生日だった。櫻井の誕生日の時は、是が非でも一緒にいたがる癖に、訳が分からない。
「リーダー!」
「おー相葉ちゃん」
 いつも通りの楽屋風景。二宮はまだドラマの圧英現場から到着していない。櫻井は打ち合わせがあるとかで、荷物は既に楽屋にあるけれど会議室に行ってしまった。
 テーブルを挟んだ向こう側のソファに松本は猫のように丸まり、相葉は先刻まで畳の上に寝転んで本を読んでいた筈だ。大野は大野で、ソファに寝そべって釣りの雑誌を読んでいた。
「何が良い?」
「シーバス!」
「じゃなくてー」
「んー?」
「何欲しい?」
「カツオを釣る技術!」
「そぉじゃなくてね。ええと、」
「誕生日プレゼント」
「え」
「相葉ちゃんは、リーダーが誕生日に何が欲しいかリサーチしてんの。魚も良いけど、出来ればプレゼントに出来る物にしてあげてよ」
「さすが、松潤!」
「お前は、主語がなさ過ぎる」
 松本に怒られて、相葉は健やかに伸びた手足をソファの影で縮こまらせる。その姿が可愛くて、思わず頭を撫でてしまった。
「じゃあね、プレゼントね。何が欲しい?」
「……欲しいもん?」
「うん。魚じゃなくて。あ、出来れば釣り竿とかもやめて。俺、分かんないし」
「うーん」
「何か、欲しいものないの?」
「ある」
「何?」
「……翔君の本音」
「え?」
「は?」
 しまった、と思う。相葉の真っ直ぐな表情に絆されてつい、胸の中に留めていた感情が出てしまった。
 誕生日が近付く度に、櫻井は自分の事なんか好きじゃないんじゃないか、と思ってしまう。普段あれだけの愛情をもらっていても信じられなかった。贅沢だとは分かっている。疑うべくもない愛情を注がれて、あの優しい眼差しで守られて。
 けれど、理解出来なかった。どうして、二人でいる事を嫌がるの? 本当は何を考えてるの?
「……リーダー。ちょっと詰めて」
 相葉はそう言うと、難しい顔をして大野の座るソファに無理矢理乗り込んで来た。身体を起こしてスペースを空けてやると、至近距離で見詰められる。
 いつ見ても、彼の瞳の純然とした色には驚かされた。繊細で優しい子だけれど、変わらないでいる為の強さを持っている。
「あのね、りーだ」
 舌足らずな言葉遣いと真剣な表情がアンバランスだった。松本は黙ったまま見守る事に決めたようだ。読んでいた資料をテーブルの上に放る音が聞こえた。
「リーダーと翔ちゃんが付き合ってどれ位になるっけ? もう結構長い時間が経つよね?」
「……うん」
「俺さ、翔ちゃんが片思いしてる時に、訊いてみた事があるの」
「相葉ちゃんは、知ってたの?」
「うん。てゆーか、あん時翔ちゃんの周りで知らなかったのって、大野君だけじゃない? ねえ、松潤」
「まあ、多分」
 櫻井が片思いをしていたのなんて、ずっと昔の事だった。モラリストの彼の事だ。自分を好きになるなんて、随分戸惑ったんじゃないかと思う。彼は、沢山の愛情を注いでくれながらも自身の恋について余り話してくれなかった。
 一見、感情のコントロールも人付き合いも器用に見える櫻井が、自分にだけ見せる不器用さ。実際沢山の友人がいる彼は、人間関係を円滑にこなす術を持っていた。
 でも、不意に言葉をなくして手を伸ばす瞬間だとか、優しさを持て余して立ち尽くす瞬間が大野は愛しいと思う。いつだって、彼は真っ直ぐに自分へ愛情を向けてくれた。
 なのに、どうして。
 どんな答えが返って来るか分からなくて訊く事も出来ないなんて、今までの恋にはない事だった。こんなにも、不安になる。
「翔ちゃんね、告白しないの? って訊いたら『俺は大野君の人生に入り込むつもりはないんだ』って」
 そっと相葉に指先を緩く絡め取られる。馬鹿だな、と思った。同じグループで活動しているんだから、もうとっくに入り込んでるのに。
「俺は、大野君の側にいられれば良い、それで十分。だから、ずっとずっと一緒にいる為に嵐を大きくして、解散なんて考えられない位になりたい、って。凄く真剣に話してくれた」
「今も、ずっと頑張ってるよな。すっかりパイオニアって表現も定着して来たし」
 松本が静かに同意する。櫻井の思い。一番近くに自分はいるつもりだけれど、彼が何を考え何を自分に優先してくれているのか、もしかしたらメンバーの方が分かっているのかも知れない。
「翔ちゃんね、今も怖いんだと思う」
「怖い?」
「うん、多分だけどね。翔ちゃんは、今でもリーダーの人生に入り込んじゃいけないって考えてるんじゃないかな、って」
「入り込まないで一緒にいられる訳ねえだろ」
「ね? ホントだよね。でも、それが翔ちゃんの愛情だと思う。ずっとずっと、一緒にいる為にも嵐のままでいたいって。だから、疑わないであげて」
「……疑ってなんか、ないよ?」
「ああ、そっか。うん。じゃあ、そんな悲しい事言わないで。翔ちゃんの一番はいつだって、リーダーなんだよ」
「ありがと」
「どーいたしまして。あ、でもプレゼント! 何が欲しいか考えててね」
 相葉はにこりと邪気なく笑う。その表情に、つい言葉を重ねてしまった。繋いだ指先が温かかったから、勘違いしてしまう。彼は、強い人なのではないかと。
「なあ、相葉ちゃん」
「んー?」
「相葉ちゃんも、ずっと嵐でいたい?」
「当たり前でしょ!」
「ずっと、メンバーのままでも……?」
「リーダー、ちょっと待て」
 相葉への問いは、咎める声に遮られた。見上げれば、向かいのソファにいた筈の松本が眉を顰めている。
 そのまま相葉の肩を抱き寄せると、自分の胸に小さな頭を抱えた。慈しむ動作に、思わず見とれる。
「分かってて、そう言う事言うのは反則だよ」
「松潤。……良い。言わないで」
「相葉ちゃん、俺はお前が不用意に傷付くのも嫌だ。で、リーダーが傷付くのも嫌なんだよ。相葉ちゃん傷付けて、その傷、結局あんた自身にも付けてるじゃねえか」
「ごめん……」
 松本の指先は大野にも伸びて、そっと頭を撫でる。彼の優しさも器用と呼べる部類のものではなかったけれど、恋ではないメンバーの親愛で四人を深く愛してくれていた。
「リーダー。俺ね、……ずっと嵐でいたいよ」
 松本の胸に顔を埋めながら、気丈に相葉は言い切る。彼は、辛い思いを一人で抱えていた。自分達よりも長い時間を一緒に過ごした、親友とすら呼べる存在に恋をしている。
 相葉は頑なに、自分の恋を否定した。絶対に告げたくはない、と。彼の綺麗な愛情はどこにも行き着く事なく、唯捨て続けられていた。
「見ているだけで、良いの? 一番に、なりたくないの?」
「……俺はもう、とっくに一番だもん。ニノの一番近くにいる、ニノの一番の友達。家族より長い時間を一緒にいるんだよ? だから、言うつもりもないけど一番を譲る気もないの。これから先、ニノが結婚してもずっと、一番だから」
「相葉ちゃん、もう良い。言わなくて」
 松本は、相葉の長過ぎる恋を知っていた。櫻井と大野の恋よりも長い時間を、彼はつかず離れずの距離で見守っている。
「俺は、俺の選んだやり方で一緒にいるだけ。でも、翔ちゃんとリーダーは一緒にいるんだから、ちゃんと話さなきゃ駄目だよ。ね」
 繋いだ指の先、松本に守られながら相葉は綺麗に笑った。彼のアンバランスな美しさは、二宮への恋故だと知っている。
 ごめんね、ともう一度呟いて、痛む心臓に正直になろうと決めた。彼が怖がるのなら、自分が踏み込めば良いだけだ。


 十一月二十六日。元々年齢差があるから、先に誕生日を迎える事は嫌ではなかった。櫻井は年下である事を気にしているみたいだけど、ここまで来たら二つ三つの歳の差なんて関係ない。
 その日は、嵐での仕事だった。誕生日はもう特別な日でもないけれど、祝ってもらえれば嬉しいし、やっぱりメンバーで過ごせるのは嬉しいと思う。
 櫻井は相変わらず優しい表情で側にいてくれた。誕生日じゃなくても多分、三百六十五日ずっとこんな風にいてくれていると知っているけれど。
 収録時間の合間に、メンバーからプレゼントをもらう。スタッフがこっそり用意していてくれたらしいケーキもあって、嬉しかった。
 櫻井はメンバーの顔をして、普通にプレゼントをくれる。恋人らしくない、いわばメンバーの域を出ないプレゼントが嬉しいけれど、物足りないように思った。
 仕事の時は自我の塊みたいな事もあるのに、自分に対するスタンスだけはいつも弱気で頼りない。最初から離れる事を覚悟しているような、離れても最小限の傷で澄むような、そんな気弱さだった。
 なあ、翔君。俺と、離れるつもりなの?
 一生懸命、訊かないようにしていた。もしかしたら、不用意なその言葉が別れの原因になってしまうかも知れないから。
 大野だって、十分に不安なのだ。男同士で同じグループで、リスクなんて考えるまでもなかった。嵐は、自分一人のものではない。相葉がいて二宮がいて松本がいた。だから、慎重にならざるを得ない。
 この恋が、何者をも傷つけないものであれば良いと。
 櫻井すら傷つけたくはなかった。けれど、手放すつもりもないのだ。彼が臆病に逃げるのなら、面倒臭くても負い掛けなければならなかった。
「翔君」
 俺といるの嫌? その言葉を必死に飲み込んで、櫻井が振り返るのを待った。楽屋の隅で、メンバーは気付かない振りでいてくれる。収録も終わったし、誕生日祝いもひとまずは終了だった。
 櫻井は、何でもない振りで雑誌に視線を落としていたけれど、本当は大野がどこに出掛けるのかどこに帰るのかを凄く気にしている。ばればれなのに、必死で大人の顔をしたがった。
「どうしたの?」
「話がある」
「……え」
 分かりやすくはっきりと、櫻井は固まった。自分で思っていたよりも低い声が出たから、恐らくは嫌な事を思いついたのだろう。
 二宮が離れたところで笑っている。全部分かった上で何も知らない不利をする人だった。嵐の実情を把握しながら、二宮はいつも遠い場所にいる。
「ここで?」
「今は無理」
「何で……?」
「真面目な話だから」
「っ智くん!」
 話を重いものと勘違いした櫻井は、慌てた様子で大野の腕を掴んだ。こんな時に愛されていると実感するのがおかしいと言うのは分かっていた。
 でも、櫻井の愛情や独占よくはこんな時でしか見えなかった。
「来る、だろ?」
「う、うん……」
「車、出して」
「はい」
 高圧的とも取れる態度で、櫻井を促した。本当の本当は、緊張している。彼を誘い出す事に、彼に自分の恋を伝える事に。
 ここまで来て、躊躇していた。
 今日は誕生日だから、少し位は多めにみてもらおうと、思っていたのだけれど。慣れない事をするのは、大野とて緊張するのだ。
「リーダー……」
「ん?」
「別れたり、しないよね?」
 ここにも意味を取り違えた優しい子が一人。相葉は遠慮がちに、けれど必死の表情で大野に問い掛ける。
 他人の痛みを自分の痛みとして受け入れる人だった。その優しさと柔らかさに、惹き付けられるのだろう。
「相葉ちゃん」
「ん? 何?」
 手を出せば、素直にそこに掌を重ねてくれる。素直で可愛い相葉。へら、と笑えば崩れそうな笑みを作った。優しくて愛しくて不器用で、誰よりもひた向きだ。
「パワー、ちょうだい」
「パワー? 俺の?」
「うん。ちゃんと、翔君に言えるように」
「リーダー!」
「……一緒にいたい、ってちゃんと」
 間違えないように、言葉にしたい。もう、限界だった。櫻井の不必要な気遣いをそのままでいたら、きっと後悔する。待っているのも受身でいるのも疲れてしまった。
「うん、分かった。それなら良い。全部、持ってって」
「馬鹿。全部持ってかれたら帰れなくなるだろ」
「良いじゃーん。松潤いるもん」
「送ってかないからな」
「えー何でー」
 ぎゅっと手を握り合う大野と相葉の傍に来た松本が呆れた声音で言う。松本は、相葉の事をすっと心配していた。勿論、メンバー全員の事を見守る優しさを持っているけれど、諦め切れない恋を抱え続ける相葉が潰れてしまいはしないかと、適度な距離を保ちながらけれど誰よりも考えている。
 二宮は素知らぬ振りで衣装を着替えていた。多分、と大野は思う。勘の良い彼の事だから、ずっと一緒にいる相葉の気持ちに気付かない筈はないんじゃないだろうか。
 何も言わないのは、二宮は冷たいからでも思いがないからでもなく、彼もまた相葉を大切にしているからなのだと思う。同性の恋は、リスクが高過ぎた。世の中を良い意味でも悪い意味でもきちんと計算出来る二宮だからこそ、大切な相葉に不必要なリスクを背負わせたくないのだろう。
 全部、大野の推測だけど。多分。
 傍にいて、一番に愛する特権を得る事だけが、相手を思うと言う事ではなかった。離れた場所で見守る二宮も、少しだけ距離を置いて手を伸ばす松本も、そして二宮だけを思う相葉も。
 全部全部、愛情でしかないのに。
「ほら、リーダー。そろそろ行ってあげないと、翔君がますます不安になるんじゃねえの」
「あ、そっか。相葉ちゃん、ありがとね。……この間、ごめんね」
「この間……? ああ、全然! 全然平気だよ!」
 相葉の笑顔は周囲を明るくさせる。最後にもう一度ぎゅっと手を握ると、立ち上がった。優しさに甘えてばかりもいられない。
「リーダー、よい誕生日を!」
「うん、ありがと」
「お疲れ様」
「うん」
「あら、やっと帰るんですか?」
「ニノ」
「翔ちゃん、上着を忘れて行っちゃいましたから、一緒に持って行ってあげて」
「……あ、ありがと」
 今まで何も言わなかった二宮が、櫻井のジャケットを差し出してくれた。その瞳は、相葉と同じ優しい色をしている。
「リーダー」
「ん?」
「あんた、買い物は下手なんだから、他は全部選んでもらうんだよ」
「……なんで、死ってんの」
「リーダーの忘れ物。これがないと、入れないよ」
 反対の手が差し出したのは、書類を入れた封筒だった。その中で小さく金属音もする。
「あ、」
「ちゃんと、男らしく決めてくるんですよ」
「うん、分かった」
「お誕生日、おめでとうございます」
 二宮は、沢山の言葉を知っているのに必要な事は僅かしか言わなかった。だから、どんな時でも彼の言葉は信用に値する。天邪鬼だ何だと言われているけれど、ちゃんと聞いていれば分かった。
 器用な癖に不器用な、彼の真実。
「お疲れ様。相葉さん」
「え」
「飯、食いに行くぞ」
「ちょ、何」
「お前んとこの中華が食いたい」
「ニノ!」
 彼らの声を背中で聴きながら、大野は心地良い楽屋を後にした。二宮の真実は簡単だ。唯、望むものが違うだけ。幸福だと思う事が、ほんの少し他の人と違っていた。
 地下駐車場へと急ぐ。掌には、相葉からもらったパワーと櫻井のジャケット、そして大事な封筒がある。彼の気持ちを試すようで、居心地が悪いけれど。
 今日一日は我儘に過ごしてしまおう。
「しょーくん、お待たせ」
「あーやっと来た! 俺、ちょっともう泣きそうだったんだけど!」
「何で、泣くんだよ」
「だって……って、良いの?」
「何が?」
 当たり前に助手席に乗り込むと、櫻井のジャケットを後ろの席に置いた。ありがとうと言いながら車を発進させた彼は、前を向いたまま困ったように眉を顰める。
「今日、誕生日でしょ? 家族とか友達とか、誰か一緒に過ごすんじゃないの? それとも、話が終わったらどこか、送る?」
「……しょーくん」
「地元の友達? それとも舞台関係の人? たまには家族に祝ってもらうのも良いよね」
「しょーくん」
 櫻井は、何も分かっていない。分かってくれない。俺よりも俺の事をわかっている時があるのに、二人の問題になると、途端に鈍くなった。
「話は後で。予定は翔君しかないから、どこにも送ってくれなくて良い。分かる?」
「何が?」
「誕生日は、翔君と過ごすって決めてた」
「……無理、しなくて良いよ。智君の誕生日なんだから、智君のしたい事をしなくちゃ駄目だよ」
 分かってくれない。自分の言葉が少ないのは分かっていた。でも、言葉以上の思いを櫻井は汲んでくれるから。
 どうして、俺が一緒にいたくないなんて思うと思い込んでいるのだろう。一緒にいたくない人と付き合う程、もう若くないよ、俺。
「翔君……ここまで連れて行って」
 用意していた紙を差し出す。そこには、住所が記されてあった。勘の良い人ではないから、二宮のようには気付かないだろう。
 不安になるならなれば良い。そう思って、車の中では一言も喋らなかった・



「智君、住所だとここら辺なんだけど、合ってる?」
「うん」
「じゃあ、近くで駐車場探そうね」
「良い。そのまんま前の駐車場入って。六番に止めて」
「え」
「良いから」
 多くは告げずに、櫻井を促す。自分の全てを拒絶しない癖に、欲しがる事もしない人。それが、優しさの産物だとしたら無駄遣いな事この上なかった。
 櫻井は、知らないのだろうか。自分が彼を愛している事を。
 丁寧な運転で車を止める。伺うように覗き込むから、僅かに笑ってみせた。多分、自分も緊張している。どこまで受け入れてくれるのか、どこまでの我儘なら許されるのか。
 長い時間を一緒に過ごして来た筈なのに、未だに距離を測りかねていた。
「智君?」
「行こっか」
「……どこに」
「誕生日プレゼント」
 大野のバッグの中には、メンバーからとスタッフからのプレゼントが全部詰まっていた。今年の櫻井からのプレゼントは、マフラーだった。物凄く選んでくれたのだとは思うけれど、当たり障りのない物だ。
 恋人として主張出来るようなプレゼントではなかった。指輪でも婚姻届出も持って来てみれば良いのに。
「ほら、置いてくよ」
 車を降りてエレベーターホールへ向かう。櫻井は、状況が飲み込めないと言う顔で、それでも迷わず大野の後をついて来た。
 エレベーターは二人を乗せて、十二階へと上がる。どこでも良かった。二人きりになれるのなら、本当はこのエレベーターの中でも良い。永遠に閉じ込められてしまいたいなんて、昏い欲望すら抱えていた。
「……しょーくん」
「ん?」
 優しい声。指先が伸びて、大野の手を緩く握り締める。優しくするのが上手な人だった。大人の振りで、全部を包み込もうとする。
「今日、おいらの誕生日だよな」
「勿論」
「マフラーじゃなくて、欲しい物があるの」
「何? 何でも言ってよ。いっつも智君欲しい物ないって言うから、悩むんだよ。俺。あ、でも船とかは駄目だよ。帰って来なくなっちゃいそうだから」
「翔君は、俺がいなくなったら寂しい?」
「当たり前でしょ」
「ホントに?」
「うん。何、言ってんの。智君がいなくなったら、俺死んじゃうかも」
 本当に偽りのない声で、櫻井は言う。ここに間違いのない愛情が存在するのに。どうして、彼は傲慢に奪おうとしないのだろうか。
「俺も、寂しい。翔君と一緒にいられないの、寂しい」
「智君……」
「欲しいの」
 振り返って、櫻井を見上げる。真っ直ぐな瞳、包み込む掌の温度。大野に向けられたものは、全部優しかった。
 でも、本当に欲しいものは違う。
 エレベーターが目的階へ到着した。櫻井と手を繋いだまま、誰もいない廊下を歩く。外で手を繋ぐ事も怖くないのに、本当は何を恐れているのだろう。
「着いた」
「え。智君、ここ……」
「誕生日プレゼント。これ、ちょーだい」
「何、言ってんの」
「ここ、買って」
 一緒に持って来た封筒の中から、ぺらりと契約書を見せた。櫻井は、声も出せずに驚いている。
「翔君と一緒に、二人きりで過ごせる場所。欲しかった」
 固まったまま動けない櫻井の掌に、真新しい鍵を乗せた。嫌がられるかも知れない。それならそれで、一人暮らしを始めてみれば良いと思った。実家の居心地の良さよりも、いつの間にか自分の一番は櫻井の傍になっている。
 何も言わない恋人をじっと見詰めた。駄目かも知れない。でも、未来に後悔をするよりは、今動いてしまいたかった。
「……智君。ここ、いつの間に? ずっと、忙しかったでしょ?」
「マネージャーに頼んでた。一人暮らしするから、マンション探して欲しいって」
「ここに、暮らすの?」
「分かんない。ホントは翔君と一緒が良いけど、翔君は嫌がるかも知れないし。駄目だったら一人で暮らすつもりしてる。でも、今更一人で暮らせるか分かんないし、生活は出来なくても俺、アトリエ持ってみたかったし」
 どうとでも使えるだろうと思った。自分から自分へのプレゼントでも構わない。でも、一緒にいたかった。
「……ここを、俺が買ったら、智君はここに暮らしてくれるの」
「うん。でも、無理しなくて良い。翔君は翔君の生活があるだろうし、これは俺の我儘だから。今日、誕生日だし、少し言ってみたかっただけ」
「智君は、俺がここを買うって言ったら、ここに住むの」
「だから、無理しなくて良いって」
「住むの?」
「……一緒にいる時間、増やしたい」
「俺と、いる時間?」
「そうだよ」
 櫻井は、一瞬痛みを堪えた表情を見せ繋いだ指先を引いた。誰が通るかも分からない廊下で、性急な口付けをされる。遠慮も何もない暴力的なそれに安心する事を、櫻井は知っているだろうか。
 抵抗もせずに、唯蹂躙するのに任せた。口内を暴れ回る舌の感触。これが、愛に起因する行為であれば良い。
 櫻井も、一緒にいたいのだと信じられれば良かった。
「っここ、廊下なのに……ごめん」
「俺は、廊下でも道の真ん中でも、どこでも良いよ」
「智君……」
「そんな情けない顔すんな」
「俺は、貴方を大切にしたいよ」
「知ってる」
「……入ろうか」
「入って、くれんの?」
「だって、ここはもう俺達の物なんだろ?」
 櫻井は、やっと落ち着きを取り戻したらしい。掌にあった鍵で、部屋の扉を開けた。繋いだ指先は、離れないまま。
 一緒にいたいと願うのは、我儘な事なのだろうか。恋人になれば、二人きりでいるのが当たり前だと思っていた。今まで、それを疑った事なんてなかったのに。
 櫻井といると分からなくなる。大切にされているのに、離れたがっているような。
 どこで間違えたのかは分からないけれど。
 一緒にいたかった。豪華なプレゼントもムードのあるレストランもいらないから、唯傍に。
「ねえ、智君」
 靴を脱いでリビングに上がれば、櫻井は小さな声で囁いた。誰もここにはいないのに、大野以外には聞かれたくないとでも言うような声音で。顔を上げれば、暗がりの中でも優しい表情をしているのが分かる。
 入ったリビングは、がらんとしていた。家具も何も運び込まれていない部屋。二人で作って行けば良いと思って家以外の何も用意しなかった。
 まだ、始まってもいない場所に二人でいる。今日が終わるまで後どれ位だろうか。自分が我儘でいられる残り時間を計る。
「俺は、智君が好きだよ」
「……うん」
「凄く好き。好きとか愛してるとか、そんなんじゃ足りない位智君の事を想ってる。貴方が俺を嫌いになっても憎んでも、多分それは変わらない」
「嫌いになる訳ないだろ」
「そうだと良いけど、先の事は分かんないでしょ」
「分かる。翔君との事だったら、分かる」
 大野の言葉に、櫻井は切なく眉を寄せた。そんな表情すら愛しくて堪らない。どうしたら、自分の気持ちを分かってくれるのだろう。確かに、櫻井が告白してくれなければ始まらなかった関係だ。
 けれど、好きじゃない人間と付き合える程自分は器用じゃなかった。知っている癖に、ちゃんと賢い人なのに、どうして離れる素振りばかり見せる?
「俺、智君には自由でいて欲しいの。無理はさせたくないし、あんたは知り合いも多いんだから、自由に動いてくれれば良いと思ってる。俺になんか、縛られなくて良いんだよ」
「それは、翔君が束縛したくない、って事?」
 距離を詰めて、櫻井を見上げた。ずっと繋いだままの指先は同じ温度になっている。愛しくて欲しくて、自分の全部にしたかった。誰かの事をこんなにも大切に思える日が来るなんて考えた事もない。
 櫻井が愛しかった。櫻井だけを、この世界で唯一人欲しいと思う。
「束縛されて欲しくない」
「違う。訊きたいのは、翔君が俺の事を束縛したくないのか、って事だよ」
「俺は、……そうだね。正直、束縛したくなる時があるけど」
「じゃあ、縛れば良いじゃん。俺の事」
「だからね、智さん」
「そうやって何でも分かってるって顔して、平気な振りして。俺、嬉しくない。俺は翔君といたい。ずっと思ってた。何で? 俺達付き合ってるんじゃないの? いっつもいっつも、翔君は俺のしたい事優先してくれて、家に送ってくれたり地方のホテルの時位なんだよ、二人っきりなのって。分かってる?」
「分かってる。そんなの、俺が一番良く分かってるよ……」
「ねえ、何で? 俺といたくないの?」
 珍しく饒舌に喋る大野に気圧される。勿論、好かれている事は分かっていた。自分の気持ちが向かない事をわざわざやるような人じゃない。
 抱き締めたいな、と思った。この人の存在ごと全て愛している。一緒にいてくれなくても良かった。彼を縛る枷にはなりたくなかったから。
 けれど今、目の前で大野は一生懸命自分に愛情を向けてくれている。嬉しくない訳がなかった。
「ホントは、いたいよ。智君とずっとずっと」
「じゃあ、言えよ!」
「貴方の時間は貴方のものだから」
「俺は、そーゆー事言う翔君が嫌い。大っ嫌い!」
「智くん……」
 嫌いと言いながらも、大野は櫻井の胸へ飛び込んだ。どんな時でも受け止めてくれると信じている。信じさせてくれる人だった。だから多分、自分はどこにも行かずここにいるのだ。
「何も言わないで諦めてる翔君が嫌い。俺の話だろ? 俺と翔君の事だろ? 嫌かどうかは二人で決める事なんじゃねえの?」
 知って欲しい。分かって欲しい。自分は櫻井を好きなのだと、気付いて。
「俺は嫌だったらちゃんと嫌だって言う。俺の性格、知ってるだろ?」
「知ってるけど、でも。最初から、俺が引き込んだ関係だし」
「嫌だったら、引き込まれてなんかやらない」
「智くん」
「……何だよ」
 ぎゅっと抱き締め直される。心地良い束縛。もっとして欲しいと思うなんて、自分も大概Mだった。他の誰でも面倒臭いし鬱陶しいなあと思うけれど、櫻井にだけは許しても良い。
 俺の事だけ見て。俺の事だけ考えて。
 そんな馬鹿みたいな事を本気で考えた。翔君だけなんだよ、俺の人生の中で自分よりも大切に思える存在は。自分一人の時間より優先したいと思う人は。
「俺、メチャメチャ独占欲が強いんだよ」
「知ってる」
「こんなとこ用意してもらったら、智さんの事家に帰してあげられないかも」
「それが良い」
「良いの?」
「俺、……翔君が好きなんだよ?」
「知ってるけど、俺、貴方が思ってるより重たいよ」
「とっくに知ってるってば。何言ってんの。あ、翔君、最近ちょっと太ったよね」
「その重いじゃないよ! てゆーか、智君が痩せ過ぎなんです」
「どうせすぐ戻るもん」
 櫻井が笑う。少しは伝わったのかも知れないと、大野はほっと息を吐いた。この腕の中が一番落ち着く。他のどこでもなく、ここにいたかった。
「今度の休みにさ、」
「うん?」
「家具、見に行こうね」
「車出してくれんの?」
「勿論。ベッド買ってソファ買ってテーブル買って。……って、あ!」
「な……なんだよ」
「ちゃんと言い忘れてた」
 櫻井は腕を緩めると、大野と額を合わせた。近過ぎる距離が嬉しい。瞳を上げれば、櫻井の長い睫に見とれた。綺麗な顔だな、と単純に思った。
「智君、誕生日おめでとう」
「ありがと」
「この家を、俺にプレゼントさせて下さい」
「良いの?」
「あんたさ、ここまでされて逃げてたら男がすたるだろ」
「しょーくん、ヘタレじゃん」
「ヘタレでも、ちゃんと恋人の事を守れる男になりたいよ」
「いっつも、守られてるぞ」
「智君に言ってもらえると安心するね。俺は、頼りないかも知れないし臆病かも知れない。だけど、貴方を好きな気持ちは誰にも負けないよ」
「松潤にも負けない?」
「何でそこで、松潤が出て来るんだよ」
「だって、松潤おいらん事、愛してくれてるもん」
「そうだけどさ。って言うより、あんたの周りにいる人は皆あんたが好きですよ」
「おいらも皆の事好き」
「……ジェラシーだなあ」
「翔君は、もっと好きだぞ。食べちゃいたい位」
「食べんの? 俺を? 智君が?」
「まあ、食われてるけどな。気分的に」
 至近距離で笑い合う。幸せだった。自分の中に暖かいものを詰め込んでくれる人。今まで関わった人達の中で、一番愛を教えてくれた人。
「下ネタはやめてよ。真面目な話するんだから」
「真面目な話なの?」
「大真面目です。――一緒に、暮らそう?」
「っ! しょ、くん! 反則、それっ!」
 不意打ちの甘い声は心臓に悪かった。言葉を注ぎ込むように、そのまま口付けされる。拒絶するつもりはないけれど、羊の皮を被った狼だなあとつくづく思った。
 櫻井の愛情深さに正比例するように、真っ直ぐな欲求も際限がない。同性同士の合う筈のない身体でも、彼は躊躇なく欲しがってくれた。多分、葛藤は沢山あったのだろうけど、それ以上の愛情が彼にはある。
「誰が家事やんの?」
「……練習すればどうにかなるよ」
「麦茶しか作れない癖に?」
「飯なんて食いに行けば良いじゃん」
「おいら、料理なら頑張れるかも」
「ホントに? キッチンとか、立ってくれるの?」
「しょーくん、テンション高ぇ」
「良いじゃん! 男のロマンじゃん! 智君だって分かるでしょ?」
「……いや、翔君の妄想はちょっと分かりたくないかな」
「白いエプロンだよ? 絶対可愛いって!」
「白いエプロンは可愛いと思うけど、それを俺が翔君の脳内で着てるのかと思うと、げんなりするよね」
「何でー、この前も着てたじゃん!」
「仕事だからな」
 何だか、凄く凄く悩んで迷っていたのが馬鹿みたいだ。櫻井の真っ直ぐな愛情は、変な気遣いを取り除いてしまえば、疑いようのないものになった。
 離すつもりがないのなら、離さないで欲しい。
 ずっと一緒にいても怖くないと思えた人は、初めてだった。共に過ごしてもうすぐ十年が経つ。その半分近くを恋人として過ごしていた。
 永遠を信じても良いかも知れない、なんて。夢を見る。夢をみさせてくれる。
「家具買って、お互いの荷物運んで、一緒にいよ」
「その為に買った」
「うん。俺が、買ってあげるね。プレゼント」
「……翔君、あんま太っ腹だと破産するぞ」
「しないよ。俺が金掛けたいのは、智君だけだもの」
 平気な顔で気障な事を言う。でも、信じられるだけの愛情と優しさを与えてくれた。櫻井の傍にいたい。
「俺も。翔君だけだよ、ちょっとは縛られても良いかなあって思ったのは」
「うん、ありがとう。好きだよ」
「ん」
 誕生日の我儘は成功したらしい。二人きりでいない事が櫻井の優しさなのなら、そんなものはいらなかった。全部奪って欲しい。
 何もない真っ暗の部屋の中、大野はこれ以上ない程に満ち足りた気分だった。



 大野の誕生日の後、二人の雰囲気が変わった事に松本は気付いている。二人でいる事が増えたし、櫻井は前ほど怖がらなくなった。一緒にいたい時はちゃんと
エピソードⅡ.「六人目の嵐」



 何だかんだと波乱含みの大野の妊娠だったが、幸いに健康そのもので子供は産まれた。出産へ向かう大野より付き添った櫻井の方が余程悲壮だったのは、ご愛嬌だ。
 マタニティブルーも育児ノイローゼもどこ吹く風で、妊娠中に作った作品で開催した個展は、再び好評の内に終了した。産休を取っている割に、いつも通り忙しそうだった。
 産まれたのは女の子。「嵐って名前にするんじゃないの?」と真顔で問うた相葉は置いておいて、家族も含め皆で考えた赤ちゃんの名前は「彼方」。
これまた再び、「かれかた?」と問うた相葉は放っておく……事は出来なかった。「かなた」と読むんだよ、と教えたのは松本だ。
広い視野を持って、遥か彼方まで見渡せるように。考えたのはほとんど櫻井だったけれど、大野も気に入っているようだ。
産休はあっと言う間に終わり、大野が健康なのを良い事に、嵐は相変わらず嬉しくもコンサートの日々で忙しい。
「かーなーちゃーーーん! ミルク飲む? 飲むよね? お腹空いたよね?」
「相葉さん、うるさい。姫が泣いたらどうすんの」
「泣かないよ。仲良しだもん。ねー、かなちゃん」
「大体、かなじゃなくて彼方だろ。間違えて育ったらどうすんだよ」
「良いじゃん。かなちゃんもかなたちゃんもどっちも可愛いもん」
 二宮が嗜めても松本が怒っても、相葉は聞かない。愛すると言う意味では一番直球勝負なのだけれど、子供の教育に悪影響が出そうで怖かった。
「あ、ほら。やっぱお腹空いてたね」
 彼方を抱くと、子供と同じ笑顔で相葉はミルクを与え始める。食欲旺盛の健康優良児は、一生懸命飲んでいた。
 相葉は、子供を抱くのが上手い。言葉を持っていない生き物との方が相性が良いんですよ、と言うのは二宮の嫌味だがあながち間違ってもいなかった。
 確実に父親である櫻井よりあやすのが上手い。大野と三人でいる図は、本当に周囲の心を和ませた。
「おー、かなー。相葉ちゃんにミルク飲ませてもらってんのかー」
 遅れて楽屋に戻って来た大野が、嬉しそうに彼方の頭を撫でる。母親が「かな」と呼んでいては、松本の苦言など意味がなかった。櫻井が一生懸命付けた名前なのにな、と少し寂しくなる。
 そんな松本は、メンバーの中で一番ミルクを作るのが上手かった。もうすぐ離乳食も始まるから、大野は一緒の仕事の時は甘えるつもりだ。
 松本も今から離乳食の研究を始めているらしく、レシピのような物を見ては、どうしようかなーと楽しそうだった。
 けれど、今のところ彼方は松本に懐いていない。まあ、俺子供には怖がられるから。と、濃い顔を顰めて言う姿が可哀相で、大野は早く慣れてくれないかな、と思っていた。
 自分がこんなに松本の事を好きなのだから、きっと多分絶対に、彼方も好きになる筈なのだ。愛さずにはいられない、優し過ぎる人だった。
「もう、良いの? あれ? かなちゃん? 眠くなっちゃった?」
「あ、ホントだ。えーと、相葉ちゃん、寝ちゃう前に、下。置こう。抱っこしたまんまじゃ駄目だし。寝かそ」
「うん。えーと、どこに寝かす? ベッドは?」
「そんなもんある訳ないでしょ。ほら、座布団敷いたから、ここ」
 相葉と大野がおろおろするのを見かねて(そもそも、相葉はともかく大野が困っているのは納得が行かない)、二宮は声を掛ける。はあ、と溜息を吐くと、相葉から彼方を奪った。
 子供になんか興味がないように見えるのに(実際メンバー以外の子供だったら興味はない)、二宮は寝かし付けるのが上手い。地方に連れて行ったときも、慣れない環境に泣き喚く彼方を静かにさせた実績があった。
 こんなの、コツですよ。笑う二宮は、更に「だって、普段から赤んぼみたいなのと一緒にいますからね」とのたまっていた。全員心の中で同意したが案の定相葉が怒って、「誰もあんたの事だなんて言ってませんよ?」と躱されていたけれど。
 座布団の上で眠った彼方に二宮が毛布を掛けていると、やっと櫻井が戻って来た。お疲れ、と言う声を慌てて相葉が止める。
「かなちゃん、今寝たとこだから!」
「……雅紀のが確実にうるさいでしょ」
 反対に、相葉の口を掌で塞いだ櫻井は、視線を彼方へと向けた。予想通りと言うか、親馬鹿ぶりは相当なもので、これから先が思い遣られる。女の子だから大切にしたいのはメンバー全員良く分かるけれど、その内「おとーさんウザい」とか言われるだろう。
「ニノが寝かしつけてくれたの? ありがと」
「いーえ。
エピソードⅡ.「六人目の嵐」



 何だかんだと波乱含みの大野の妊娠だったが、幸いに健康そのもので子供は産まれた。出産へ向かう大野より付き添った櫻井の方が余程悲壮だったのは、ご愛嬌だ。
 マタニティブルーも育児ノイローゼもどこ吹く風で、妊娠中に作った作品で開催した個展は、再び好評の内に終了した。産休を取っている割に、いつも通り忙しそうだった。
 産まれたのは女の子。「嵐って名前にするんじゃないの?」と真顔で問うた相葉は置いておいて、家族も含め皆で考えた赤ちゃんの名前は「陽向」。
これまた再び、「ようこう?」と問うた相葉は放っておく……事は出来なかった。「ひなた」と読むんだよ、と教えたのは松本だった。
産休もあっと言う間に終わり、大野が健康なのを良い事に、嵐は相変わらず嬉しくもコンサートの日々で忙しい。
「ひーなーちゃーーーん! ミルク飲む? 飲むよね? お腹空いたよね?」
「相葉さん、うるさい。姫が泣いたらどうすんの」
「泣かないよ。仲良しだもん。ねー、ひなちゃん」
 ずっと憎んでいた。不思議と、写真の中の人達は嫌ではなかった。その憎悪は全て父親に向けられていたから、病気になったと聞いた時も辛いとは思わなかったのだ。早くいなくなれば良い、と残酷な事すら考えた。
 父親はツヨシが十五歳の時に亡くなっている。結局最後まで、姉の忘れ形見である息子は探せなかったらしい。大倉のおじさんに感謝しなければならなかった。
 八歳のあの時、一人で日本に行ったのは自分の意思だ。大倉のおじさんとコウイチの母親は同級生だった。夫を早くに亡くしていたから、頼りになる男手と言えば大倉だったらしい。
 ツヨシは、父親を介して大倉の存在を知った。演劇の勉強は小さな頃からさせられていて、大倉の劇場にも足を運んでいたのだ。
 小さいのに、期待ばっかでかくて大変だなあ。
 そう言って笑った大倉に、ツヨシは父親の姿を見たのだ。貧乏な劇団員の面倒を見るようなお人好しだった。ツヨシもその優しさに惹かれたのだ。
 演劇が面白いと知ったのは、大倉のおかげだった。
 ツヨシが写真の話をした時は、苦く笑って子供には早いかなと言っていた。けれど、大人でも子供でも等しく接する彼は、父親の感情を教えてくれたのだ。
 多分、情操教育には悪影響を与えているだろう。
 一度だけ見たあの写真。その子供の笑顔が好きだった、と何度も話した。一目惚れだったのかも知れない。
 大倉は、ツヨシの思いを知っていたのかコウイチの母親が亡くなった事を教えてくれた。勿論、日本に行って連れて来いだなんて言わなかったけれど。
 何処からか同じ話を聞いた父親の目が尋常ではなかったから、迎えに行く事を決めた。あの笑顔を守りたい。たったそれだけの淡い気持ちだった。
 初恋は実らないと言う。けれど、コウイチ以外に欲しいと思う人間はいなかった。認めたくもないけれど、父親と同じものを愛している。手に入らないもの。自分には振り向かないもの。
 あんなに忌み嫌っていた父親と好みのタイプは同じの様だ。小さくツヨシは笑った。自分の生き様の滑稽さに。
 残された時間。
 死ぬ時に後悔しない事は無理だろうけど、我儘を言った。ずっとずっと、籠の中で生活して来たのだ。最後の我儘位は聞き入れて欲しい。
 とは言っても、その本人が眠っているのでは仕方がなかった。
 コウイチ。
 もうすぐ、俺の時間は尽きてまうんよ。お願いやから、早く帰って来い。俺は多分、天国に行けないから、地上でしかお前を見る事が出来ないんや。
「ツヨシ君」
「おーリョウか。どうした? お前の引き継ぎも上手く行きそうか?」
「はい。具合は大丈夫ですか?」
「最悪や。もう一年もコウイチがいない」
「いますよ。此処に」
「眠ってるコウイチなんて、唯の綺麗なお人形さんや。つまらん」
「ツヨシ君も、看病ばっかやなくて少しは休んで下さい。本当は、貴方が看病されるべきなんやから」
「はいはい。お前はうっさいなあ。おかんか」
「おかんでも何でもええですよ。それでツヨシ君が休んでくれるんなら」
「休むわ。さすがにもう、無理も利かなくなって来とる」
「そうですか……」
「最後にもう一回、コウイチの笑う顔が見たいなあ」
「弱気な事、言わんといて下さい」
「まあ、医者に言われた余命よりはもう長く生きてんちゃうか」
「そうですね」
 ツヨシは気弱に笑うと、ベッドで眠ったままのコウイチへと手を伸ばす。未だに目覚める気配はなかった。青白い顔は、ビスクドールと変わらない。
 止まったら死んでしまう様な人だった。止まる事を恐れていたんだろうと、ツヨシは気付いている。頬に触れて、僅かに伝わる体温を確かめた。
 生きている。
 まだ、コウイチの身体は諦めていなかった。意思を感じる。またあの黒い瞳で見詰められたかった。
 愛じゃなくて良い。恋なんて、望むべくもない。
 唯、生きて欲しかった。
「もうすぐ、一年になるで。コウイチ。そろそろ休んでんのも飽きたんちゃうの?」
 答えはない。ツヨシの劇場で怪我を負ってから長い時間が経った。彼の生命力ならすぐに目覚めると思っていたのに。
 皮肉なものだ。
 余命一年を宣告された自分は、まだ辛うじて生きていた。それなのに、未来を望めるコウイチが死との境目を彷徨ったままでいる。
「なあ、リョウ」
「はい?」
「俺が欲しいんは、ずっと、コウイチだけなんや」
「知ってます」
「早く、会いたいなあ」
 思いは届かない。病室に来る度、今日こそはと期待をした。何度も何度も同じ失望を繰り返して、それでもまだ諦められない。
 なあ、コウイチ。
 最期に見たいのはお前だけなんや。お前を網膜に焼き付けて逝くのが俺の夢やったのに。
 ベッドで眠ってるお前を見ながら死ぬなんて、耐えられへんよ。



+++++



 誰かの泣いている声がする。

 真っ白の世界の中、小さなその声だけが響いていた。誰だろう。俺を呼ぶ声。俺の為に誰かが泣いていた。
 もう、ええよ。
 泣かないで。俺は此処にいるから。大丈夫やから。
 ああ、もう。
 俺が行かないと泣き止まないんか、お前は。しょうがない。この白い世界は心地良かったけれど、お前の為に目を覚ます事にするよ。



 気が付いたら、劇場にいた。いつの間に、と思うけれど考え事をしているとアパートに到着していたなんて事はしょっちゅうだったから、余り考えない様にする。
 慣れた大倉の劇場。自分が入院していた時間はどれ位だったのだろう。随分とさびれてしまった。年代物ながらも愛情の沢山詰まった優しい劇場だったのに。
 大倉の父親の様に温かく大倉の様に穏やかな空間だった。

「コウイチッ!」

「わ! 何やねん……って、リカ」
 カンパニーの皆を驚かすつもりが、結局リカに驚かされてしまった。必死に抱き着かれて、心配させたのだと思い知る。入院期間は一年だと言っていた。それならば、リカが涙ぐむのも分かると言う。
「はい、コウイチ」
「ん? 何?」
 リカが手渡したのは、千秋楽の時にくれたネックレスだった。自分の胸元に手をやれば、確かにしていない。首にある感触は一つ。
 コウイチを縛る銀色の鎖だけが残っていた。綺羅、と光る石がリカの心を苦しめる。
「ありがとな。どうしたん?」
「……私じゃ、駄目なんだね」
「何? リカ? もう一回言って」
 声が小さ過ぎて、コウイチには聞き取れなかった。首を横に振ると、もう良いのとリカは笑う。随分と大人びた表情だった。
「ねえ、コウイチ。忘れないでね」
「え」
「私、コウイチが好き」
「……リカ」
「ずっとずっと、大好き。忘れないで。覚えてて」
「何、急に……」
「急じゃないよ。コウイチにもし会う事が出来たら、言おうと思ってた」
「リカ、俺」
「良いの。コウイチが私の事どう思ってるかなんて、ずっと知ってた。唯ね、気持ちを伝える事すら出来ずに離れるのは嫌なの」
「……分かった。ありがとう。俺は、リカが大事だよ。凄く」
「うん、それも知ってる」
「そっか」
 リカの瞳が僅かに潤む。けれどそれは、すぐに笑顔に隠れてしまった。リカもカンパニーの皆も同じ様に好きだと思う。家族がいたら、多分こんな感情を持つのだろう。
 愛情に種類なんてなければ良いのに。
 思いながらもコウイチは、たった一人を選ぶ残酷さに気付き始めていた。心臓の底の底。恋ではないかも知れないけれど、会いたい人がいる。会わなければならなかった。
 心臓が痛い。
 こんなにも自分の感情を動かす事が出来るのは、たった一人だった。



+++++



 コウイチの真実に、誰もが言葉を失う。
 死が、こんなにも呆気なく訪れるだなんて誰が思っただろうか。コウイチ自身さえ、認めたくない程。
 屋良が泣いている。リカも泣いている。
「ごめん……ごめん、コウイチ」
 泣き崩れる屋良の背を抱きながら、自分の身体を一つ一つ確かめた。ああ、そうや。ホンマに俺は死んでる。屋良の体温すら感じる事が出来なかった。
 悔しいと思う。悲しいと思う。
 けれど、今此処で自分が崩れたら屋良は罪悪感に苛まれて生きる事さえ出来ないだろう。平気な振りをした。屋良も、希望を見出そうとした。
 最期の舞台。
 悪くない。それで、屋良が過去を振り切れるのなら。一年間、彼を縛り続けた自分から解放されるのなら。
 運命を受け入れるなんて、容易い事ではないけれど。
 死はどうやら、足掻いた所で自分から離れてくれそうもなかった。此処に帰って来た意味。自分自身を過去にする為。我儘にも、カンパニーの未来を見届ける為。
「屋良。ありがとうな」
「……っ、何でそんな事言う……!」
「やって、俺の為に苦しんで傷付いて、この一年、ずっと俺の事考えててくれたんやろ」
「……俺は、コウイチが欲しかった。コウイチになりたかった」
「うん」
 羨望と欲の狭間に屋良は堕ちてしまった。自分が気付かなかったのもいけない。そのひた向きさは、決して舞台へのものだけではなかったのに。知らない振りをして、身勝手に傷付けてしまった。
 泣き止まない屋良を胸に抱える。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「町田も、ありがとう。俺をずっと大事に思ってくれて。ごめんな、もっと一緒に踊りたかったよ」
「コウイチく……っ! 嫌だ! 俺、まだ側にいたい! 離れたくなんかない!」
「ずっと、側におるよ。お前の事、ずっとずっと見てる。約束する」
「やだ! 約束なんかいらない! コウイチの立つ舞台に俺も立ちたい……!」
 後はもう、言葉にならなかった。泣き崩れる町田を米花が支える。ああ、此処は本当に、優しい場所だった。
「ヨネも、いつもありがと。お前がおらんかったら、俺、まともに生活も出来んかったわ」
「ホントだよ。舞台の申し子の癖に、何にも出来ないんだから」
「うん、ごめん。俺がいなくなったら、俺の部屋、片付けてくれる?」
「当たり前でしょ。他に誰がやんのよ。衣装も台本も全部、俺が仕舞っとく」
「ん、ありがとう」
 米花に涙はなかった。町田を支えながら、いつも通り笑う。
「大倉も。お前は、おじさん時からずっと世話になったからなあ。懐かしなあ。一緒にご飯食べたり、一緒に出掛けさせて貰ったり。それから、此処で踊る楽しさも教えて貰った」
「うん……そう、だね」
「ずっと、大倉ん事は弟みたいやって思ってた。俺は、此処で育てて幸せやった。ごめん、もっと一緒にいたかったな」
「俺も……っど、して……いなくならないでよ……ずっと、一緒に、いようよ……」
 綺麗な涙を零す。大倉は、本当に自分の家族だった。大切だった。優しく愛していた。
 此処で育たなければ知らなかった、沢山の幸い。
 本当は自分だって、まだ此処で生きていたかった。途切れてしまった未来を、考える事すら出来ない。
「俺が踊る最後や。その時が来るまで、一緒におって」
 願いにも似たコウイチの言葉に、全員が静かに頷いた。



 最後の舞台を作り始める前に、どうしても会いたい人がいた。自分を呼ぶ声。ずっと泣いている、子供みたいな声。
 劇場を飛び出すと、ツヨシがいるだろう病院へと向かった。途中、錦戸に電話を入れる。息を呑む音と、すぐに状況を把握した冷静な対応。有能だな、なんてこんな時にさえ思った。
 病院の最上階。最近は持ち込める仕事の全てを此処でこなしていると言う。最期までデザイナーでいたいと言う彼も、人の事を笑えない位舞台に魅せられていた。
 病室の前に立つ。ネックレスを握り締めて、深呼吸を一つ。目覚めた時にも離れる事なく自分を縛っていた銀色。
 多分これが、全ての答えだった。
 ノックさえせずに、ドアを開ける。ベッドの上でスケッチブックに向かっている姿は、とても末期の患者とは思えなかった。一年前と変わらない姿。少し、痩せただろうか。
「……ツヨシ?」
 そっと、声を掛ける。案外恐がりだから、自分の姿を見て驚いたりはしないだろうか。ゆっくりと、視線が上がる。暗がりに目を凝らす様な仕草。存在を確認して、驚愕に瞳を見開いた。
「コウイチ!」
 叫んだツヨシは、ベッドを降りると一目散に駆け寄る。少しの躊躇もなく、地上のものではなくなったコウイチを抱き締めた。
「コウイチ! コウイチ! コウイチ!」
 きつく抱き締めたまま、何度も何度も名前を呼ぶ。確かめる声ですらなかった。コウイチには、愛していると同じ響きに聞こえる。
「ツヨシ……やっぱり、お前やったんやな」
「……何が」
「俺を呼んでる声がした。俺は眠ってても良かったのに、その声が気になって起きてしもうた。ずっと、聞こえてたんよ。ツヨシの、呼ぶ声」
「コウイチ……」
「お前の声しか聞こえんかった。お前に会いたかった」
 抱き締めていた腕を緩めさせて、コウイチは視線を合わせる。泣き濡れた瞳の漆黒に吸い込まれそうだった。間違いない。自分の思いはもう、此処にしかなかった。
 ゆっくりと距離を縮める。迷いはなかった。
「ちょ、コウイチ」
「し、黙って」
 ツヨシが焦るのを無視して、そっと唇を合わせる。確かめる様に。
 あったかい。
 間違いなかった。自分は、ツヨシの為に在る。先刻、屋良の体温を感じる事は出来なかった。けれど今、唇を通してその温かさを感じている。
「……俺は、お前に呼ばれたんやな」
「俺の為に来たんか」
「うん、そうみたいや。良かったな。このネックレス。絶対これに縛られてるんやわ」
 悪戯な笑みで言えば、拘束には弱いタイプなんやな、とツヨシも笑う。額同士を合わせて、最期の場所を見極めた。ツヨシの為に、舞台に生きる。
 彼の執着は、偶像にも実像にも等しく向けられていた。一年前、やり遂げられなかった事を叶える為に。
「コウイチ」
「ん?」
「愛してる」
「うん」
「きっとお前は、俺を迎えに来たんやな」
「ツヨシはまだ、死なんよ。俺がお前の分まで死んでやるわ」
「無茶苦茶な理論やな」
「ええやん。俺が此処におんのも無茶苦茶なんやから」
「そうか。でも、ええよ。死神に迎えに来られるんなら、お前の方ずっとええ」
「当たり前や。俺と死神をおんなじ天秤に掛けんな」
「ごもっともです」
 触れ合って、自分の存在を確かめる。この身体は虚像だった。けれど、ツヨシの為に実像になる。此処に存在する意味。抱き締め直されながら、コウイチは思う。
 最後の最後まで生きてみようと思った。肉体は滅びようとも、精神はまだ生きている。この世界で成し遂げるべき最期の舞台を、仲間の為にツヨシの為に。そして、自分自身の為に。
 コウイチは、最後の時間を生き始める。


+++++



 皆、最後の瞬間に怯える暇はなかった。コウイチの出演した舞台の中で最良のものとなる様練習を繰り返す。
 時間はなかったけれど、コウイチがいない一年間で失ってしまったものを少しずつ取り戻し始めている。生きる事を、もうこの世界の住人ではない彼に教えられた。
 コウイチは一度も取り乱す事なく、気丈に主演の勤めを果たす。これこそが周囲の人間を心配される要因なのだけれど、賢い割に鈍感な座長は恐らく最後まで気付く事はないだろう。
 コウイチの明るさに引き摺られて、皆笑顔だった。初日の幕が開けば、連日客席は満員になる。最期の舞台と言う話を聞きつけて、沢山の舞台ファンが押し寄せた。
 ツヨシは一度も見に来ていない。彼自身も病を抱えている身だった。そう簡単に動く事は出来ないだろう。仕事は既に錦戸に全権を譲っているらしいけれど、唯治療に専念するとも思えなかった。
 日々は確実に過ぎて行く。コウイチは自分でさえ、自分がいつ消えるのか分からなかった。時が来るまで。
 それはきっと、ツヨシが見に来る時だろう。予感がした。この世界での時間はもう僅かだ。千秋楽が迫っていた。少しずつ、カンパニーの雰囲気が暗くなる。仕方のない事だけれど、皆には笑っていて欲しかった。

 千秋楽。
 自分の最期の日。確信を持って、コウイチは思う。やっと今日、ツヨシが見に来ていた。この舞台を終えれば、自分の存在価値は失われるだろう。
 悔やんでも悔やみきれない事は沢山あるけれど、でももう後悔と呼べる程の強い感情もなかった。穏やかに、開演の合図を待つ。
 ツヨシは客席で、自分の姿を見届けてくれるだろう。最後列。暗過ぎて舞台の上からでは見られないけれど、意識を持って行かれなくて良いのかも知れない。最期はちゃんと、舞台だけに集中したかった。
 開演のベルが鳴る。
 カウントダウンが始まった。恐怖はもう、何処にもない。あるのは、仲間を思う気持ちと舞台を愛する気持ち。そして、ツヨシへの言葉にならない思い。
 幕が開く。ステップを踏む。光の洪水の中、目を凝らした。客席を見れば、其処には、舞台を愛する沢山の人がいる。
 自分の後ろには、自分を支えてくれた仲間達。何も、怖くなかった。優しい場所で生きていたのだ。今更ながらに思い知った。
 これからはきっと、この場所に屋良が立つだろう。痛みを知った彼は、きっと素晴らしい演者になる。見届けられない事だけは、僅かに悔しかった。
 舞台は着実に進んで行く。ジャパネスクは、ツヨシが最も衣装に拘った場面だった。赤の和装を身に纏う。これに袖を通す事も最後になりそうだ。
 短い人生だった。幸せな人生だった。
 小さな頃は母親と二人の小さな世界だったけれど、母の愛情は自分を幸福にした。ツヨシと過ごした僅かな時間も、痛く苦しい思い出の中優しい記憶へと変わる。
 そして、この劇場で過ごした年月。愛していた。愛されていた。この劇場が自分の世界の全てだった。
 オフブロードウェイに甘んじようと思った訳ではない。オンのその先さえ、見据えていた。けれど、此処に自分の全てが詰まっている。
 なあ、ツヨシ。お前の愛情を受け止める事すら出来んかったな。もっと触らせてやれば良かったかな、なんて思う。真っ直ぐな愛は、心臓をざわめかせた。
 もしかしたら、これから先、もっと長い時間を掛ければツヨシとの関係は変わっていたのかも知れない。
 ……そんなん、考えても仕方ないか。
 なあ、見てる? こっからじゃ、暗過ぎて後ろの席なんか見えへんよ。
 赤い衣装。月明かりを模した光の中、仲間達と踊る。舞台が全てだった自分の人生。
 ああ、身体が軽くなって来た。光に目が眩む。終わりが、すぐ其処まで来ていた。
 ごめんな、ありがとう。もう、最期みたいや。
 見上げれば、降り注ぐは桜の花片。
 コウイチの瞳に最後に映った光景だった。



+++++



 ツヨシが千秋楽を選んだのは、早い時期に見に行ったらコウイチが消えてしまうのではないかと思ったからだ。もし本当に自分が彼を呼んだのだとしたら。自分の望みを叶えれば、其処でコウイチの存在意義は失われる。
 それから単純に、身体が限界を迎えているいるせいもあった。医者にすら生きているのが奇跡と言われた程だった。もしかしたら自分もまた、コウイチに生かされているのかも知れない。
 全ての手続きを終えて、大倉の劇場へと向かった。隣にある自分の劇場はそのまま残している。それを横目に見ながら、錦戸を連れて場内へ入った。自分の跡を継いだ義弟は勿論忙しかったけれど、長い間コウイチを見て来たのだ。
 最後の演技を見て欲しいと単純に思った。錦戸は、自分の目だ。これからも彼には覚えていて欲しかった。堂本コウイチと言う存在を。
 時間通りに幕が開く。コウイチはいつもと変わらず、舞台の上で輝いていた。彼の生きる場所は此処だったのだと、何の迷いもなく思う。
 舞台の上でしか生きられない人だった。その光に憧れた人間がどれだけいるだろう。今も尚消えない思いを抱えて、同じ舞台に立つ仲間達。
 舞台を見て嫉妬するなんて、相変わらず自分はどうしようもない。コウイチが綺麗に笑う度、心臓がぎしりと軋んだ。短い人生の中で愛した、たった一人の人。
 愛してる。
 何度も何度も思う。彼と過ごした日々はほんの僅かだったけれど、初めてその存在を知った日からずっと、恋い焦がれて来た。
 最期の時が刻一刻と迫っている。和装を纏ったコウイチは、本当に綺麗だった。客席からも溜息が溢れる。人を魅了する力を持っている演者だった。
 自分だけではない。観客も共演者もスタッフさえも、彼を愛していた。
「リョウ」
「はい」
「もう、行く」
「はい」
「お前の目は、俺の代わりにきちんとコウイチを見たか」
「はい」
「これから先も、俺の目であってくれ」
「分かっています」
 舞台の上に視線を向けたまま、小さな声で錦戸に言う。観客は全て、コウイチに魅せられていた。張り詰めた空気を動かさない様に、そっと劇場を出る。
 最初から、その瞬間は見ないと決めていた。自分にはまだ、やるべき事がある。
 劇場を出れば、秘書の頃と同じまま錦戸が運転した。助手席に、もう余り自由にならない身体を沈める。
「空港で良いんですよね」
「ああ、チケットの手配は出来とるか」
「お任せ下さい」
「もう社長やのに、悪いなあ」
「ツヨシ君に謝られると、逆に怖いわ」
「失礼な奴やなあ。なあ、お前にはデザイナーとしての才能とビジネスマンとしての才覚がある。デザイナーDのプロジェクトを永遠に途切れさせないようにな」
「ホンマに、誉めるとかも怖いからやめて下さい」
「ええやん。最期なんやし」
「ツヨシ君!」
「最期やもん。俺な、言い残した事がない様にしときたいんや。リョウには、言葉にならない位感謝しとる。お前がおらんかったら、俺はとっくにあの家出てコウイチ追い掛けてたわ。リョウが俺の目になってくれたから、逃げずに生きられた」
「逃げなかったんは、ツヨシ君の努力やないですか」
「そんな事あらへん。お前が弟で、ホンマに良かった」
「ツヨシ君……」
「後の事は頼んだで」
「はい」
 苦しそうに息を吐くと、ツヨシはそれ以上話さなかった。身体を支えているのは精神力だけだ。医師には何も言わず、日本へ戻る事を決めた。長いフライトに身体が耐えられるのかは分からないけれど。
 多分、大丈夫だ。自分もまたやり残した事があるのだから。



+++++



 予想通り、千秋楽の公演でコウイチは消えたらしい。錦戸からの報告をツヨシは一つの墓石の前で聞いた。誰にも気付かれない様、ひっそりと丘の上に立つそれを椅子に持たれながら見詰める。
 桜の大木がある丘。ちらちらと、花片が舞い落ちていた。春の色に心が和む。
 穏やかな風が吹くこの場所に揺り椅子を運ばせて、ツヨシは一人静かにその時を待った。病院で死ななければ色々と後が面倒なのは知っていたけれど、死後の事は自分には関係ない。
 そっと、目を閉じた。風が頬を撫でる。綺麗に手入れされた芝の匂い。さらさらと儚く舞い散る桜。椅子を揺らせば、すぐにでも眠ってしまいそうな程心地良い。
 墓石の下で眠るのは、コウイチの両親だった。遺骨すら欲しがりかねない父親を恐れて、大倉のおじに協力を請うてツヨシが立てたのだ。静かに眠って欲しかった。誰にも邪魔されない場所で。
 別の墓にあった父親の遺骨も運んで、穏やかな永遠を用意した。
 此処に来るのは初めてだ。病を宣告されてからずっと、終わりの場所を求めていた。本当はコウイチの腕の中が良かったけれど、先立たれてしまったから。
 柔らかな陽射しが降り注ぐ。その温かささえ感じられなくなって来た。思い出すのは、最後に交わした口付けの感触ばかり。
 風が通る音すら、聞き分けられなくなって来た。椅子の揺れも曖昧になる。頬に触れた桜の花片だけが、鮮明に感触を伝えた。
 閉じた瞼の裏で、コウイチの赤い衣装が翻る。
 ああ。
 本当に。
 愛していた。

『ツヨシ』
 不意に聞こえたのは、懐かしい呼び声。夢と現の狭間でたゆたう意識。
『ツヨシ。こんなとこで、何しとんの』
 目を開けたら夢が終わってしまう。分かっているのに、ツヨシは止められなかった。舌足らずな声音に愛しさを覚える。
『……コウイチ』
『何、吃驚した顔してんねん』
『やって……』
『こんなとこで寝てんなや。ほら、』
 目を開けても、夢は終わらなかった。記憶の中と寸分違わないコウイチが、手を差し出している。
 背後には、終わりを迎えようとする桜。圧倒的な美しさに声も出なかった。
『ツヨシ? 行くで』
 じっと見詰めたまま動かない自分の手を引いて、揺り椅子から立ち上がらされる。温かい掌。冷え性だといつかの夜に笑っていたけれど、其処にはきちんと体温があった。
『コウイチ』
『んー?』
 少し先を歩くコウイチが、笑顔で振り返る。進む足はそのままで。
『愛してる』
『耳タコやわ』

 やっと今、ツヨシはコウイチを手に入れた。



+++++



 大倉の劇場の隣の空き地には、二本の木が植えられていた。春になると淡い色の花を咲かせるそれを、カンパニーのメンバーは毎年嬉しそうに見に行く。
「やっぱりさー、日本人のDNAの為せる業だろうねー」
「まあ、日本で育ってなくても俺らだって桜は好きだしな」
「おい! サボってないで、ばらし手伝えよー」
「米花さーん。俺ら、もう年なんだからコキ使うのやめてってば」
 町田の泣き言には耳を貸さず、米花はにっこりと笑う。何年経っても力関係も、ちょっと怖いその顔も変わってはいなかった。
「誰だっけ? 年代物も良いけど、最新機材入れたいからリフォームしたいって言い出したのは?」
「俺です……」
「そうだね、屋良君。正解。大倉オーナー殿の反対押し切ってやったから、ウチは今非常に」
「経営難です。はい」
「よし、迷惑を掛けてるんだから」
「働きますよ! 働けば良いんだろ!」
「トモユキー!」
 階段を駆け上がる音と共に、リカの声が聞こえる。かなり焦った呼び掛けに、米花の怖い顔も忘れて駆け寄った。
「どうしたんだよ」
「コウイチがいないの!」
「はあ? どうせまた劇場のどっかで遊んでるんだろ」
「いないから言ってんじゃない! 馬鹿!」
「馬鹿はないだろ! 馬鹿は!」
「……まーた、始まった」
「痴話喧嘩も此処まで回数多いと、本気で仲悪いんじゃねえかと思うよな」
 町田と米花は、見慣れた光景に溜息を吐く。まあ、感情をぶつけ合えるのは悪い事ではないだろう。余りうるさいと、その内「ベテランがそんなんじゃ示しがつかない」とか何とか言いながら、オーナーが直々に叱りに来る筈だった。
「全部捜したわよ! 自分の子が心配じゃない訳?」
「心配に決まってるだろ! でも、お前の場合早とちりも多いじゃねえか!」
「失礼ね! 人をおっちょこちょいみたいに!」
「……ママー」
「ほら見ろ」
「っ……!」
 悔しくて声も出ないと言った所か。けれど、最愛の息子の声を無視する事も出来ず、思い切り屋良の足を踏み付けると階下へと声を掛けた。
「コウイチー! こっち。何処行ってたの?」
「隣。桜、見てた」
「ああ、そんな所にいたの」
「うん、でね」
 階段を上りながら、コウイチは自分のポケットの中に入っている物を取り出そうとする。ふらふらとした足取りは、階段の上にいる大人達を不安にさせた。
 何処も似る筈なんかないのに、こんな所は良く似ているなと思う。唯、名前が同じだけなのに錯覚しそうになった。
「これ、見つけたの」
「……コウイチ」
「綺麗じゃない?」
 階段を上り切った所で、探し物は見つかったらしい。屈んで待っていた母親の前に、コウイチは誇らしげにそれを掲げた。
「……っ」
「ね、ママ? 綺麗でしょ?」
 小さな手にあるのは、銀色のネックレス。光る石が一つ、綺羅と反射する。外にあったと言うのに、その輝きは一切失われていなかった。
 まるで、つい先刻まで大事に付けていたかの様だ。
「……何処に、あったの……?」
「桜の枝、の、真ん中」
「真ん中?」
 震えるリカの代わりに、屋良が尋ねる。視線を合わせると、コウイチはにこりと笑った。
「木、二本あるでしょ?」
「うん」
「その間で、枝と枝が、ばってんになってるとこ」
 舌足らずな喋り方は、子供特有の物なのに、全員が同じ様に顔を歪めた。彼の在った場所に残されていたのは、リカのプレゼントしたネックレスだけだったのだ。
 もう一つ、その首に下がっていたネックレスは彼と一緒に消えてしまった。同じ物が今、コウイチの手の中にある。
「あれー、皆何してんの? ばらし、終わってないよ」
「大倉……っ」
「な、ちょっと待って。町田、どうしたの? ねえ、いきなり泣くなってば」
 工具を取りに来た大倉は、ベテラン勢の様子に首を傾げる。町田は元々泣き虫だけれど、だからと言って理由もなく泣く筈はなかった。米花に視線を向けても、辛そうに唇を噛み締めるだけ。
「オーナー」
「お、コウイチ。さっき、桜んとこにいただろ? 桜、綺麗だっただろ?」
「うん。でもね、これも綺麗でしょ?」
「っそれ……」
「駄目? 綺麗じゃない? 皆、綺麗って言ってくんないの」
 コウイチの手にある物。考えなくとも大倉には分かった。先刻、踊り場の階段から桜の木の間で手を伸ばすコウイチを見ている。桜の花に触れたいのだろうと思っていたけれど。
「綺麗だよ、コウイチ」
「パパ! ね、そうだよね!」
 大人の反応に不安を感じていたコウイチは、屋良の言葉に嬉しそうに笑った。どうして、なんて考えても仕方がない。現に此処には彼のネックレスがあって、きらきらと光っていた。
 コウイチの頭を撫でると、屋良はそれを小さな掌から受け取る。ひやりとした感触に、一瞬どうしようか悩んだけれど。
 隣で泣くリカも、同じ感情を持つ大倉達も許してくれるだろう。このネックレスは多分、見つけられるのを待っていた。見つける人間を最初から選んでいる。
「綺麗だな。コウイチ、お前が見つけたんだからお前のもんだぞ」
「良いの? 誰かの落とし物かも」
「いや、大丈夫。ほら、後ろ向け。付けてやっから」
「うん!」
「……良いよな?」
「勿論」
 コウイチの細い首に付けてやりながらリカに問えば、すぐに答えが返って来る。大倉も米花も町田も、同じ様に小さく頷いた。
「はい。付いた」
「わー、綺麗だね」
「コウイチ」
「ん?」
「絶対に、なくすなよ」
「うん、分かった! 皆にも見せて来るー!」
 子供らしい笑顔で頷くと、再び階段を駆け下りて行った。残された五人は、沢山の思いを飲み込む。涙を止めるだけで精一杯だった。
 頬を伝う雫を拭き取ったリカは、気丈に笑う。自分の胎内に屋良の子供が宿っていると知った時から、二人が愛した人の名前を付けようと決めていた。不思議と、絶対に男の子が生まれると信じていたのだ。
 最後の瞬間の、赤い衣装を思い出した。
「……コウイチは、此処で生き続けるのね」
 今、彼の命は巡った。同じ物ではない。同じ命ではないけれど。
「ずっと見てるって、言ってくれたもんな」
「俺達が幸せになった分、今度はコウイチを幸せにしてやらなきゃな」
「沢山、愛してやろうな」
「それじゃ、コウイチの時と変わらないじゃない。ずっとずっと、愛してたし愛されてた」
「俺達は、コウイチを愛するのが好きだからなあ」
 米花の言葉に、皆で笑い合う。痛みを超えて、彼の笑顔を思い出しながら。命は巡る。そして、愛もまた、巡るのだろう。

 桜の花片が舞う。彼らの劇場を包む様に。
 まるでそれは、愛の様だった。
「いや、コウイチさんが今まで綺麗でいられた感謝を、今度米花辺りに言ってやろう思ってな」
「ヨネ、お前ん事になると機嫌悪くなるんやから、あんま逆撫でんなや」
「気を付けます。ほい、ちょぉ詰めて」
「先シャワー、浴びて」
「あんな、何でバスローブ着てたと思ってるのよ。もう洗いました」
 腰にタオルを巻いた状態で、ツヨシは遠慮なくバスタブに入って来る。予想通り二人で入っても広いその中で、向かい合って膝を抱えた。ツヨシはあぐらをかいている。
 そして、左手には何かを握っていた。
「はい、手ぇ出して」
「え」
「言う通りにせぇ」
「……なん」
「プレゼント」
「わ……これ」
 コウイチの掌に乗せられたのは、銀色のネックレスだった。トップには、光る一つの石。
「綺麗やろ?」
「……本物?」
「当たり前やん」
「嫌や。こんなん貰えん」
「コウイチ。俺はな、ダイヤモンドやから贈るんやない。お前に似合うやろな、思ったから買って来たんや。お前は、金で物事を判断するんか?」
「ちゃうけど……。やって、こんなん貰えへん」
「俺の為に、付けて欲しい」
「ツヨシ……その言い方、狡い」
「狡くても何でもええわ。お前がしてくれるんなら」
 シンプルなカットのダイヤモンドは、コウイチの手の中できらりと光る。綺麗だ、と単純に思った。けれど。
「ツヨシ……どうして、こんなに」
「やって、嫌やったんやもん」
「な、に?」
 ゆっくりとツヨシの手が伸ばされる。またいつもの様にキスをされるのかと思って、コウイチは身構えた。
 けれど、その繊細な指先は鍛えても薄いままの胸へと落ちる。
「っな……」
「これ、あの女の子から、やろ?」
「……リカ、や」
「そうそう、リカちゃんな。何で、こんなんしてるん? ジェラシーしちゃってもええやん」
「ジェラシーって、お前」
「それを外せなんて言わんよ。でも、これも付けて」
「我儘や」
「うん。お前の事になると、俺は我儘なの。付けてくれるやろ?」
「ツヨシの喋り方は、何処にも拒否権が見当たらへん……」
「ほら、首。こっち来ぃ」
 あっと言う間にコウイチの首には二つ目のネックレスが掛かってしまう。まるで、銀色の鎖だった。繋ぎ止められる錯覚。
「うん、やっぱ綺麗やな」
「……終わったら、返すからな」
「コウイチ。プレゼントやで」
「納得行かんわ。もう、出る」
「つれないなあ」
 ツヨシの言葉を背中で聞いて、コウイチは乱暴にバスローブを羽織ると浴室を後にした。
 どうせ今日はこのまま一緒にいるのだろうけど、どうにもならない胸の内で感情が暴れてしまう。抑えようとして、一つ息を吐き出した。
 基本的にどんな事でも耐えられるつもりだ。けれどこの、首を絞める様な感覚には耐えられなかった。
 ツヨシにどんどん縛られて行く。
 今まで生きて来て、一度も感じた事のない感覚だった。指先から一つ一つ、ツヨシは慎重にコウイチを染め変える。
 どうして自分のテリトリーに入って来る男を拒めないのだろう。こんなネックレス一つで、離れられない気分に陥った。
 ツヨシが出るまでに気分を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。駄目だと思った。感情を他人に晒すのは好きじゃない。いつでも冷静に、舞台全体を見ていられる人間で在りたかった。
 泣きそうになる。ツヨシの眼差し。ツヨシの体温。真っ直ぐ過ぎるその愛情。
 どれも苦痛ではない事が、こんなにもコウイチを苦しめる。家族とすら呼べるカンパニーのメンバーはともかく、それ以外の人間は全て他人だった。
 他人に心を許したくない。弱さを見られる事が怖かった。誰かに自分を預ける事は出来なかった。
 二つのネックレス。リカのプレゼントを拒んだ事は一度もなかった。昔から何かの折にプレゼントをするのが好きな子だったから、いつもいつもコウイチはそれを使う様にしている。
 今は、此処にいる自分に不安そうな目を向けるから外せないだけだった。コウイチの中に特別な感情はない。
 もう一つのネックレスはどうだろう。特別な意味を持っていた。勝手にツヨシが持たせた特別かも知れない。けれど、受け入れた時点でコウイチも同罪だった。
 そう、罪なのだ。
 誰か一人の愛情を受け入れる事はしたくなかった。カンパニーの皆はそれぞれ大好きだけれど、一人を選ぶなんて考えた事もない。皆が等しく大切だった。リカのネックレスも同じ次元の話だ。
「俺……何で……」
 ツヨシを見ると懐かしさがこみ上げた。訳の分からない感情に翻弄されている。手を引かれても平気なのは? キスを許すのは? 一緒にバスタブに入れるのは? 他の人間だったら望まれても出来ない事を、彼にだけ許していた。
 心臓を占める懐かしさ。これを突き止めなければいけない。
「コウイチ」
「っ! な、なに?」
「何でそんな驚いてんのよ。水、飲むか?」
「あ、ああ。うん」
 ペットボトルを受け取りながら、ツヨシの顔を見詰める。どうして、知っているんだろう。どうして、こんなに全て受け入れられるんだろう。
「どうした? のぼせた?」
「ううん」
「ネックレス、よぉ似合ってるで」
 先刻の事なんかなかった様にツヨシは笑う。バスローブを纏っただけの格好で、デスクへと向かった。この部屋はコウイチの物だけれど、余りに物を置かないから、少しずつツヨシの物が増えて行く。
 デスクの上にはスケッチブックと契約書、それから分厚い手帳。恐らく、こんな場所に無防備に置いていて良い物ではない。デザイナーのトップシークレットを、平気でコウイチの前に晒した。
 何枚かのファックスを斜め読みした後、おもむろに先刻錦戸が置いて行った薬の袋を手にする。当たり前の仕草。コウイチはそれをじっと見ていた。
「なん? 薬が珍しいか?」
「ツヨシ……病気?」
「ちゃうよ。仕事が立て込むとな、どうしても身体悪くするから」
「そんな無理して仕事してんの?」
「お前やって、無理な舞台の立ち方してるやろ? それと一緒や」
「俺は、薬なんか飲まへんもん」
「コウイチさんは薬が嫌いなだけやろ? 俺は、あんま無理するの得意やないから。具合悪くして言い訳しないように、飲んでんの」
「ホンマに?」
「うん」
「病気じゃないん?」
「何? 心配してくれんの?」
「そ、そりゃ、薬飲んでたら心配するやろ。普通」
「普通の話やなくて、コウイチは俺ん事心配してんのか、って訊いてんの」
「……心配したらあかんのか」
「ううん。嬉しいなって事」
 会話の合間に薬を嚥下したツヨシは、嬉しそうに笑った。胸が締め付けられる様な笑顔。
「ツヨシ。俺、やっぱお前ん事知ってる気ぃする」
「そうか?」
「お前は、分かってるんやろ?」
「さあ、どうやろな。そろそろ寝よか」
「ツヨシ!」
「お前の記憶まで、俺は分からんもん。俺が言えるのは、お前を愛してるって事だけや」
 答えてくれるつもりはないらしい。同じ名字だけれど、絶対に親戚ではなかった。ずっとカンパニーの中で育って来たから、知り合いは少ない。バイト先や観客で顔見知りの人は勿論いるけれど、そんな遠い存在ではなかった。
 泣きたくなる。そんな懐かしさだった。
 ツヨシはコウイチの胸の内を知っているのかどうか、優しい口付けを一つ落とすと「寝よう」と寝室へ誘う。一緒に眠る事すら慣れてしまった。怖くない。嫌じゃない。
 なのに、思い出せない。記憶の底を掻き回しても、まだ答えは見えて来なかった。



+++++



 いよいよ初日まで一週間を切った。ツヨシは忙しそうに飛び回っているけれど、衣装合わせには必ずいてくれる。用意された衣装は、さすがにプロの仕事だった。
 女性陣は、ほうと溜息さえ漏らす。これを着れるかと思うと、格別の思いがあるのだろう。
「コウイチ! 見て見て! スペインの衣装! 可愛い?」
「うん、可愛い」
「感情が籠ってなーい!」
 リカがくるくる回って楽しそうにしている。衣装合わせは女の子の楽しみなんだなあ、なんて思っていたら別の場所からも嬉しそうな声が聞こえて来た。
「コウイチ! 見て見て見て! 可愛い? 可愛い? 可愛い?」
「……町田。落ち着け」
 可愛い訳はないのだが、町田も嬉しそうに衣装を見せに来た。和装の装いは、見慣れない分確かに可愛くない事もない。
「うーん、可愛い……かな」
「ホントに? コウイチのもあるから、早く着てみて!」
「俺は後ででええって。ほら、まだ裾直しの途中やろ? ピンが付いてる」
「あーそうだった! 屋良のやってる隙に来ちゃったんだ! 怒られるー!」
 まるで嵐だった。町田の、自分に向けられる感情は心地良いものだった。安心する。いつも側にいてくれて、飽きる事なく優しい愛情を傾けてくれた。
 大切な存在だ。町田もリカも、屋良や米花、大倉も。このカンパニーにいる全員が大好きだった。自分の中にある愛情すら心地良い。
 けれど、ツヨシの愛は違った。ツヨシに向けた自分の感情さえ。
 どうしたら良いのだろう。
「コウイチ」
「あ、ヨネ。衣装合わせは? 終わったん?」
「うん、次はコウイチの番。なあ、大丈夫か?」
「……ツヨシん事?」
「当たり前だろ。他に何があるんだよ」
「平気」
「ホントか? 何もされてない? つーか、一緒にさせられてる事言ってみろ」
「えー。米花さん、心配し過ぎや。大した事してへん」
「大した事かどうかは俺が判断するし。ほら」
「うー、まずキスやろ。それから、一緒に風呂入って一緒に寝て、後は飯を食わさせられる、かな。それ位ちゃう?」
「……コウイチ、お前それ絶対他の奴らには言うなよ」
「え」
「約束!」
「は、はい」
 基本的に勢いで押し通せば、コウイチは素直に頷く。今羅列された全部を、本当に何の疑問も抱かずにやっているのだろうか。……やってるんだろうな。
 米花は頭が痛くなって来た。ツヨシが強引なだけなら理由をつけてどうにでも出来るけれど、本人が嫌がっていない以上向こうに分があるのは目に見えている。
 どうせなら、リカを恋人にさせれば良かった。大事に大事に守って来た代償がこれでは、余りにも自分達が可哀相だ。
「なあ、ヨネ。俺、思い出したいんや」
「何を?」
「多分俺、ツヨシと会った事ある」
「また、そんな事言って。催眠術でも掛けられてんじゃねえの?」
「俺は其処まで抜けてへん!」
 ツヨシの所業を許している時点で、コウイチの言葉に説得力はさっぱりなかった。はあ、と溜息を吐くと早く公演を終わらせよう、と密かに気合いを入れる。
「あ、俺呼びに来たんだった。コウイチも衣装合わせだよ」
「え、俺ほとんど終わってる筈やで?」
「ジャパネスクの和装の衣装が出来たってさ」
「ホンマに? わざわざ日本まで行ったって言ってたからなあ」
 心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいではなかった。すっかり手懐けられている。裏通りにいる野良猫より余程扱い辛いコウイチを良く此処まで無防備にした物だと、つい感心してしまった。
「あれ、コウイチ」
「なにー」
「そのネックレス、どうしたの?」
「あ……」
 一瞬、恥ずかしそうに瞳を伏せる。その仕草にどれだけ相手が煽られるかなんて、まるで分かっていないのだろう。
 リカのプレゼントと別のシルバーに輝くそれは、一度も見た事がなかった。きらびやかな衣装を着こなす癖に、コウイチはアクセサリーには無頓着だったから、自分で選んだとはとても思えない。
「ツヨシに貰った」
 予想通りの言葉。特定の人間に興味を示さないのは、自分達が仕向けたせいもあるけれど彼自身の性質だった。だから何となく安心していたのだ。
 コウイチは誰の物にもならない、と。
 ツヨシのいる衣装部屋へ駆けて行く小さな背中に、米花は今までにない不安を覚えた。



「コウちゃん、やっぱ綺麗だねえ」
 感嘆の声を漏らしたのは大倉だ。ツヨシが選んだ布地で作ったコウイチの為の和装は、本当に良く似合っていた。演技者の為の衣装を作る、と言う言葉通り恐らく彼が一番映える赤で作られている。
「どうや。会心の出来やろ!」
「悔しいけど、すげえ似合う」
 屋良ですら目を逸らす事が出来ないとでも言う様に、じっと見詰めていた。観客からの視線は平気な癖に、屋良の目に照れたコウイチはそっと俯く。
「これ着て月夜やったら、絶対良いよ!」
「当たり前やろ。あの曲考えて作ったんやから」
「……すいません」
 町田の賞賛を一蹴すると、ツヨシはコウイチへ手を伸ばす。帯の長さを微調整すれば、完成だった。此処までの仕事をされては、さすがに文句も言えない。
 唯のストーカーかと思っていた部分もあるだけに、正真正銘のデザイナーだったのかと皆やっと理解した。あの、トニー賞を取った人間が自分達の為に衣装を作る。しかも、オフブロードウェイのカンパニーだからとありきたりな材料を使わずに、一つ一つ上質な布に丁寧な装飾がされていた。
 こんなに素晴らしい衣装でステージに上がったら、どれだけ幸せだろうか。皆、同じ事を思っていた。根っからの舞台人間だ。当たり前だった。
「リョウ、帯は二センチ短くしといて」
「分かりました」
 驚いたのは、唯の(と言っても有能なのは誰の目にも明らかだ)秘書と思われていた錦戸の手さばきの素晴らしさだった。訊けば、服飾の学校を出ているらしい。几帳面な針仕事は、彼の衣装への愛情を示していた。
「ちょぉ、一本電話して来るわ。戻るまでに直しとけや」
「はい」
 本当は此処で仕事をしていられない位忙しいのだろう。携帯を耳に当てながら出て行くツヨシを、ぼんやりコウイチは見詰めていた。衣装にしても自分へ向けられた愛情にしても、彼の何処にも嘘がない。首を絞める銀色の感触すら、もう怖くなかった。
 彼が建てた劇場で彼の為の公演が、もうすぐ始まる。チケットは当日券を残して、ほとんど売れていた。大倉と錦戸のPR活動が良かったらしい。ビジネスとプライベートの差がほとんど分からない様な公演だけど、きちんとビジネスとして成立していた。
 後は、本番で自分達がどれだけパーフェクトな演技をするかだ。綺麗な衣装と綺麗な劇場だけで集まる程、観客の目は安くなかった。満足出来る公演にしたい。コウイチの望みは、それだけだった。
扉を閉める手すら追い続ける。錦戸が、帯の端を直していた。町田は嬉しそうに側で見ている。屋良は衣装を脱ぐと、ステップを踏み始めた。じっとしていられない性分だ。米花は衣装を直されながら、台本に目を落としていた。
 全てが、日常の中にある。
 けれど。
 コウイチの目は、真っ直ぐにツヨシだけを追っていた。
 扉から離れた手。携帯の落ちる音。扉の隙間から見えたのは。

「ツヨシ!」

 悲痛な響きだった。転んだ訳じゃない。あれは、確実に倒れた。衣装を直されている事さえ忘れて、コウイチは走る。
「ツヨシ! どうしたん!」
 すぐに追い掛けたのは錦戸だった。扉を開ければ、其処には顔色を失ったツヨシの姿がある。床に倒れ込んで、意識はない様だった。
「ツヨシ! ツヨシ!」
「コウイチさん、落ち着いて下さい。大丈夫です」
「大丈夫な訳ないやろ!」
「ああもう、衣装が崩れます。離れていて貰えますか?」
「衣装より、ツヨシやろ!」
「それは! 社長が大事に作った衣装です! この人と同じ位大切な物だ!」
 一喝されて、コウイチは黙り込んだ。錦戸は針を扱うのと同じ慣れた手つきでツヨシの脈や瞳孔を確認する。衣装を気遣いながら、大倉がコウイチの肩を抱いた。安心しろ、とでも言う様に。
 錦戸は、スーツのポケットから携帯を取り出すと、病院に連絡をしていた。此処までの人間ともなれば、掛かり付けの医者がいて当たり前だろう。
「今、タクシーを呼びましたので。申し訳ありませんが、下まで運ぶのを手伝って頂けますか?」
「あ、じゃあ俺が」
 コウイチの肩を抱いていた大倉が進み出る。離れた途端にぐらりと揺れた身体を、咄嗟に屋良が支えた。勿論、大倉は其処までを見越して離れたのだけれど。
 思わず受け止めた身体に、屋良は眉を顰める。彼が、ライバルとしてでも敵対心からでもない所でコウイチを意識している事位、皆知っていた。
「なあ、ツヨシ、病気なん?」
「そう言う事は、本人から聞いて下さい。俺に言える事ではないんで」
「でも、今意識ないんやろ? ホンマに大丈夫なん?」
「安易に大丈夫とは言えませんが、この分なら多分大丈夫です。意識が痛みに負けたんでしょう」
「……痛み?」
「ええ。最近仕事を詰めていたし、無理が祟ったんでしょうね。元々強い方ではないですから。では、すいません。手伝って貰えますか?」
 意識のないツヨシの身体は、錦戸と大倉によって運ばれて行った。病気? 唯の過労? 分からない。でも、必ずと言って良い程ツヨシは一緒にいる時も薬を飲んでいた。病気を持っていると考える方が自然だ。
 答えをくれる人は、残念ながら此処にはいなかった。無意識にネックレスを握り締める。強気で傲慢で、でも真っ直ぐな愛情を向けて来る男だった。あんな風に倒れるなんて思いもしない。
「……コウイチ」
「……」
「コウイチ!」
「何、屋良」
「別に、平気だろ。あの男に何の思い入れがある訳? 勝手にお前の所に来て権威振り翳してお前の事連れ去って。最低な男だろ」
「屋良……」
「なあ、最低だろ? どう考えても。なのに、何でそんな悲しそうな顔してんだよ! おかしいだろ」
「うん、そうやな。でも、お前やって少しでも知ってる人に何かあったら、嫌やろ? 悲しいやろ?」
「俺は、……」
 その先に続く言葉を、コウイチ以外の人間は知っていた。「俺は、コウイチ以外の人間がどうなろうと構わない」。屋良の歪んだ思いを、皆痛い程に感じていた。



+++++



 ツヨシは、そのまま入院したらしい。らしい、と言うのは何も教えて貰えなかったからだ。錦戸は、頑なに口を閉じていた。けれど、引き下がる訳にはいかない。初日には間に合う様にする、と言われても今がどんな状態なのか知りたかった。
 いつも通り、きちんと準備を見に来た錦戸を捕まえる。少しだけ迷惑そうな顔をしたのには、気付かない振りをした。
「ツヨシは? どうなん?」
「順調ですよ」
「初日は明後日やで? ホントに大丈夫なん?」
「大丈夫です」
「なあ。俺、錦戸に訊きたい事あるんや」
「病院は教えませんよ」
「それは諦めた。違う。あんな、ツヨシと俺、どっかで会った事ない?」
「……はい?」
「ずっと考えてるんやけど、どうしても思い出せんのや。俺、絶対あいつの事知ってんの。でも、思い出せへん」
「コウイチさん、貴方は本当に覚えていないんですか?」
「……それは、知ってるって事?」
「俺から話せる事はありません」
「錦戸!」
「ツヨシ君にも言われてるんや」
 不意に、錦戸が口調を崩す。初めてだった。いつもいつも必要以上の距離を保って接しているみたいで。何を考えているのか、分からなかった。
 くしゃ、と顔を歪めたかと思うと、スーツのポケットから手帳を取り出す。ページの間に挟んであった物を差し出された。
「俺は、ずっと貴方の事を見ていました」
「え」
「俺はツヨシ君の目やから。ツヨシ君が見たくても見れないもの、全部見て来ました。一番に見ていたのは、貴方です」
「何、この写真……」
 渡されたのは、一枚の古ぼけた写真だった。其処には幼い日の自分の姿がある。子供なのに、何の表情も見せず唯ぼんやりと佇んでいた。着ているのは黒い服。制服だろうか。記憶になかった。
「俺が、一番最初に見たコウイチさんです」
「最初……?」
「ずっと、貴方の事を見て来ました。貴方の成長を、ツヨシ君の代わりに」
「何で?」
「僕が出せるヒントは此処までです。この写真を見ても何も思い出せませんか?」
「……分からん」
「そうですか。なら、思い出さない方が良いんかも知れん」
「俺は、思い出したい」
「多分、貴方は辛過ぎるから記憶を曖昧にしているんです。俺もツヨシ君も思い出さなくて良いって思っとる。俺は唯、明後日からの一ヶ月の公演を成功させて、ツヨシ君の為に踊ってくれる事だけを願ってます」
「嫌や。訳も分からんまま一緒におって、終わった途端いなくなるなんて嫌や」
「良いんです。最初から、我儘な契約だ。ツヨシ君の望みを叶えてくれるだけで十分です」
「でも……」
「じゃあ、もう一つヒントをあげましょ。これは、俺の独断やからツヨシ君には言わんといて下さいね」
「うん」
「デザイナーDは、一つのプロジェクトなんです」
 声を潜めて錦戸は言った。その言葉の意味をゆっくりと咀嚼する。掌には自分の写真。ツヨシとの記憶を辿りたかった。
「トニー賞を取った事は間違いありません。けれど、それはツヨシ君の功績じゃない。彼のお父さんが獲った賞です。意味、分かりますね?」
「ああ、それなら納得やわ。リカがおかしいって言うてたから」
「ツヨシ君と貴方を繋ぐヒントです」
「なあ、ツヨシが継いでるって事は……?」
「ええ、父上は既に亡くなられています。此処まで言っても、まだ思い出せませんか?」
「……考えてみる」
 言っている事の意味位は分かる。でもそれが、どうして自分とツヨシに関わって来るのだろう。分からなかった。
「その写真は貴方に差し上げます。僕も、長い事縛られて来てしまいました」
 後悔を僅かに滲ませて錦戸は笑う。もう、いつも通りの読めない表情に戻ってしまった。
「では、明日は此処に寄る事が出来ませんので。次は初日ですね。必ず堂本は連れて参ります」
 一礼して去って行く背中を止める事は出来なかった。コウイチは手の中の写真を見詰める。毎日が慌ただしく過ぎて行くこの世界で生きていたから、昔の事を思い出す時間は少なかった。
 コウイチの時間は、このカンパニーに来た頃から始まっている。けれど、その前はどうしていただろうか。普通に学校に行っていた? 考えようとして、良く覚えていない事に気付く。
 錦戸は辛過ぎるから、と言っていた。思い出したくない様な事が幼い頃にあったのだろうか。此処に来る前、自分は何処にいたのだろうか。この写真は、何処で撮られたのか。分からなかった。
 振り返らずに前だけを見て生きて行く。自分の生き方に後悔はなかった。
 ツヨシが自分の人生の何処で関わっていたのか。分からない。思い出せない。胸を締める懐かしさ。触れられて、心地良いとすら感じた。
 写真をじっと見詰める。何処かに手掛かりがある筈だった。



+++++



 もう少しで初日の幕が上がる。稽古も入念に行ったし、ツヨシの手掛けた衣装のおかげで出演者のテンションも上がっていた。コウイチは、自分の楽屋で一人深呼吸を繰り返す。
 朝一番で楽屋に訪れたツヨシは、元気そうに笑っていた。過労やって、ごめんな。何事もなく言うから、コウイチは問い詰める事も出来なかった。
 錦戸のヒントは、今の所何の効果も出していない。今日からの公演の事以外は、全てツヨシの事で思考が埋め尽くされていた。彼を見た最初を思い出せない。
 そして、思った以上に幼い頃の記憶が曖昧な事にも驚いた。ぼんやりと朧げに思い出せるのは、母親の優しい笑顔と、此処に連れて来られた時に温かく迎えてくれた大倉の父親の姿だけ。
 もう既に、大倉の父親はいない。あの頃小さかった大倉に訊いても覚えていないだろう。八方塞がりとでも言おうか。ツヨシの事はおろか、自分がどんな子供だったのかすら思い出せなかった。
「コウイチ! 十分前! そろそろ行くよー!」
「はーい」
 大倉の声に応えると、衣装を確認して立ち上がる。今日の為に、沢山の練習を積んで来た。集中して臨まなければいけない。
 客席でツヨシが待っていた。デザイナーDの名に恥じないステージを行う責任がある。皆の待つ楽屋袖へとコウイチはゆっくり歩いて行った。

 いつどんな時でも、幕が上がる瞬間は怖い。ブロードウェイは、博打打ちに良く似ていた。今日成功しても、明日にはステージに立てないかも知れない。光が強ければ強い程、その影も深くなって行った。
 足許に迫る闇から逃げ切らなければならない。その為に、最高の、自分の限界以上のステージを作って行くのだった。
 緊張する。心臓があり得ない位の早さで拍動を刻む。
 緊張なんてしない、とつい言ってしまうけれど、この瞬間に緊張しない術があるのなら教えて欲しかった。出来る事をやるだけだ。分かっていても、心臓は落ち着かなかった。
 光の中に立つ。客席は満員だった。良かった、と安心する。彼らの営業能力は優秀だった。真正面からの照明に目を灼かれながら、コウイチはたった一人を探す。
 ステップを踏んで、客席に笑顔を向けて。淀みのない動き。それは、彼自身の努力の賜物だった。
 カウントを取りながら、全員でターンする。一瞬たりとも止まらない、怒濤の構成だった。その中で客席を見るのは容易ではない。コウイチは、衣装よりも眩しい笑顔を客席へ向けた。顔の造形さえ、実力の内だ。
 目を凝らす。たった一人。今日は、彼の為に踊らなければならなかった。
 いた。
 真正面の席、前から五列目。この劇場の造りであれば、ベストポジションだろう。スーツ姿のツヨシと目が合った気がした。それを確かめる余裕はなかったのだけれど。

 順調に舞台は進む。舞台袖で和装を纏うと、ステージに出るまで共演者の姿を見詰めていた。この日本式の殺陣が終われば、ツヨシが会心の作だと言っていた赤の着物を纏う。
 曲が変わった瞬間、ステージへと出た。今の所、客席の反応は上々だ。誰も席を立っていない。最後まで見て欲しかった。
 ツヨシの真っ直ぐな視線は、きちんと感じている。衣装デザイナーらしく、コウイチだけを見ると言う事はなかったけれど。
 集中力を途切れさせないまま、思考の片隅にはずっとツヨシの事があった。思い出せない過去。其処に何があったのか。ツヨシと自分を繋ぐ糸は、確実に其処にあるのに。
 殺陣は、ひたすらに体力勝負だった。呼吸も整わないままにクライマックスのダンスへと移る。常に自分の限界を超えて行かなければ、生き残る事さえ出来なかった。
 指先まで張り詰めた緊張感。何処にも意識は逸れていなかった。
 けれど。
 不意に、ツヨシの視線に神経の一部を絡め取られる。群舞が続くから、一つ一つ立ち位置を確認して動かなくてはならなかった。
 その隙間。意識の僅か上を掠める様に、ツヨシへ意識を奪われた。身体だけが、機械仕掛けの人形と変わらず、寸分の狂いもなく踊り続ける。
 フラッシュバック。深く眠っていた記憶が、ゆっくりと呼び起こされた。悲しくて心細かった幼い日。
 光が闇を灼く。音が背後へと流れる。何一つ、コウイチの意識の内側になくなった。
 それは、集中力が高まって、意思ではなく本能で近い場所で踊っているのと同じ様な感覚だ。本来ならば、ベストコンディションと言えるだろう。しかし今、コウイチの脳内を占めるのは過去の記憶だ。
 ――あった。
 ツヨシと自分を繋ぐ糸。
 思い出す。どうして、今まで彼の顔に思い当たらなかったのか。仕方のない事かも知れない。
 だって、ツヨシの記憶は小さな頃に亡くなった母の思い出に直結するのだから。

 ライトの中、誰にも気付かれない様にひっそりとコウイチは唇を噛み締める。慌ただしい日々の中に、過去を置いて来てしまった。
 母の記憶も、ツヨシと過ごしたあの、短い日々さえも。



+++++



 コウイチは、母親と共に日本で生活していた。二人きりの、決して豊かとは言えない生活。
 母は身体が弱かったけれど、それでも息子を守る為に必死に働いていた。誰もいない日々。母は、何かから逃げる様にコウイチと暮らしていた。
 人目に触れる事すら嫌い、コウイチは関西でも山側の地域で育ったのだ。母は、息子の自分から見ても綺麗な人だった。彼女が望む事なら何でもしてあげたいと、幼心にも思ったものだ。
 そんな綺麗な母親は、元来の身体の弱さと働き過ぎによる過労で風邪をこじらせて呆気なく逝ってしまった。コウイチは僅か十歳だった。
 父親はいない。もっと小さな頃に亡くなったらしい。
 誰もいない世界で、コウイチは途方に暮れた。
 一人きりの部屋。どれ位其処にいたのかは分からない。どうやって母を弔ったのかも覚えていなかった。
 多分、コウイチの人生であの時程悲しみに沈む瞬間はこれからもないだろう。悲しくて悲しくて、母と一緒の世界に旅立ってしまおうかと思っていた。一人で生きていても辛いだけなんじゃないか、と。
 そんな時だった。
「コウイチ?」
 親しげに自分の名前を呼ぶ声音に声を上げる。コウイチの世界への闖入者。アパートの部屋の入り口に立っていたのは、大して歳の変わらない少年だった。
「……?」
 コウイチは誰かと話す事に慣れていない。増して、同年代の子供とは喋った事がなかった。この文明国家の日本で、小学校にすら行かなかったのだ。世界中から存在を隠す様に、母と生きて来た。
「初めまして。僕は、ツヨシ」
「……うん」
「こう言う時はな、ちゃんと挨拶せなあかんよ。こんにちは」
「こんにちは……?」
「そう。あんな、僕はコウちゃんを連れ出さなあかんの」
「連れ出すって?」
「コウちゃんをな、安全な場所に連れてきたい。ホンマは大人の方が都合ええんやろうけど、子供の方が動き易いっちゅー事もあるからな。僕が迎えに来た」
「何処、行くん?」
「木を隠すなら森の中、や」
「?」
「分からんか。そうやな。コウちゃんのお母さんが分からんようにちゃんと、して来たんやもんな」
 利発そうな少年は、距離を保ったまま話し続ける。真っ黒な瞳が綺麗だ、と思った。
「僕と、一緒に、行こ?」
 手を差し出されて、コウイチは戸惑う。どうしたら良いのかなんて、分からなかった。今までずっと母とだけ生きて来たのだ。突然現れた見知らぬ少年にどう対応したら良いのか、分かる筈もなかった。
「このまま此処にいると、あの親父に見つけられる。時間の問題や。日本におるんはバレとるし、コウちゃんのお母さんが死んだなんて分かったら、絶対何が何でも捜すやろうし。もう、此処はコウちゃんのお母さんが守ってくれた安全な場所やないんよ。おいで」
 その手を取ったのは、どうしたら良いのか分からなかったからだ。ツヨシと言う少年の真摯さにどうにか応えなければと思ったせいもあるだろう。
 悲しみの底にいた自分を連れ出した存在。覚えていなかったのは、思い出すと辛いからだった。母の死と環境の変化。
 世界を知らなかったコウイチには、到底耐えられるものではなかった。
「行き先は、ニューヨーク。まさか親父も、近くにいるとは思わんやろうしな」
「ニューヨークって、何処?」
「こっから、飛行機で長い時間が掛かる。大丈夫やよ。僕も一緒に帰るし」
「なあ、ツヨシ君は僕の何なん?」

「ツヨシでええよ。――僕は、コウちゃんの従兄弟や」

 思い出した。全部、全部。母は、自分の弟から逃げていた。姉に向けた愛情よりももっと暗く、強い感情に縛られない為に。
 そしてその弟が、ツヨシの父親だった。
 日本からニューヨークへ。どれだけの時間をツヨシと一緒に過ごしたのかは覚えていない。直通で行ける筈の飛行機を、何便も乗り継いでいた。子供二人の搭乗は目立つ。けれど、行き先がカモフラージュされてしまえば、「子供二人」と言うキーワード以外、案外覚えていないものだった。
「大丈夫? もうすぐ着くからな」
 ツヨシは、ずっと自分と手を繋ぎながら色々な話をしてくれた。ろくに言葉を返せない自分を嫌がるでもなく、ずっと笑っていた。その表情に、コウイチの悲しみは少しだけ癒される。
 本当に、世界の終わりを見たかの様だった。
 母親しか世界にはいなかったから。この少年が連れ出してくれなかったら、どうなっていたのか。あの部屋で、一人。
「コウちゃん」
「ん?」
「僕がきっと守ったるから、これから行く場所で、コウちゃんは幸せに生きるんやで」
「幸せ?」
「そう。約束して」
「僕、幸せになれるんかな」
「ならなきゃ、あかんよ。僕はもう、コウちゃんに会う事は出来んけど」
「どうして」
 長い旅路で、コウイチは母親以外の人間で初めて怖くない人を見つけたのだ。繋いだ指先を離さなかったのは、自分の意志だった。他人との接触の経験がないコウイチに、安心感をくれた人。
「やって、従兄弟なんやろ? 親戚なんちゃうの?」
「うん、そうやけどな。僕は、これから沢山勉強せなあかんし。今回もめっちゃ我儘行って出て来たから、そうそう逃げれんくなると思う」
「ツヨシも逃げてんの?」
「コウちゃんを見届けるまではな。そっから先は、僕も闘おう思ってんねん」
「闘うの?」
「うん。あの親父を思い通りにさせない為に、僕は色々な事を覚えるんや」
 この時、ツヨシは九歳だった。幼い頃からの教育と、偉大過ぎる父親の後を継ぐと言うプレッシャーから、大分早熟ではあったけれど。
 反抗期ではなく、ツヨシはずっと父親が嫌いだった。これからも好きになる事はないだろう。母親よりも実の姉を愛した男を、愛せる筈はない。
「ほら。此処やで。コウちゃんがこれから暮らす場所」
「え」
「今まではお母さんと二人っきりやったから、ちょぉ賑やか過ぎるかも知らんけど。きっとコウちゃんは、こう言う場所の方がええ」
 タクシーが止められたのは、大きな建物の前だった。もうすぐ日の暮れる時間。抱えて来たバッグとツヨシの手だけが拠り所だった。
「大倉のおじさーん!」
「お、ツヨシ。来たな。待ってたぞ」
「やっと帰って来たわー。長い旅やったー」
「ホントだよ。お父さん、怒り通り越してるぞ。覚悟しとけよー」
「はは。覚悟なんてとっくにしてるわ。何? ニューヨーク中でも捜索されとる?」
「ああ。凄いよ。だから、とりあえず入れ。ウチの劇場の前で見た、なんて言われたら堪んねえからな。さ、そっちの可愛い子かな」
「うん。コウちゃん」
「あ、……こんにちは」
 ツヨシに教えられた通り挨拶をする。見上げた大男は、嬉しそうに笑った。
「初めまして。今日から俺が、君の親代わりになるから宜しくな」
 頭を撫でられて吃驚する。こんな風にスキンシップを図る事を知らなかった。
「なら、俺戻ります」
「……ツヨシ。大丈夫なのか」
「まあ、大丈夫やないでしょうけどね。良いんです。コウイチは僕の手で連れて来たかった。コウちゃん?」
「ツヨシ、帰んの?」
「そうや。あそこは檻の中と変わらんから、大きくなるまで自由には出来んくなると思うけど」
「もう、会えんの?」
「うん」
「何で」
「コウちゃんは、此処で暮らして行くんや。すぐいなくなる僕なんか、どうでもええんよ」
「嫌や。だって、ずっと一緒やった」
「ずっと、やないよ。飛行機の中だけや。なあ、約束して」
「ん?」
「親父には絶対捕まらん事。此処で、幸せになる事。僕を、忘れる事」
「……分かった」
「ええ子やな」
 ツヨシは優しく笑ってくれた。繋いだ指先をそっと引かれて唇に優しい感触が落ちる。甘い味。でも、最初で最後の感触。
 目線を合わせてもう一度笑うと、ツヨシは大倉へと向き直った。
「じゃあ、大倉のおじさん。コウイチの事、ホンマに頼みます」
「ああ、何処にもやらないでちゃんとウチの家族にしてみせるよ。ウチの子なら、幸せ間違いなしだからな」
「ありがとうございます」
 繋いだ手は、呆気なく離れてしまった。言葉の通り、二度とツヨシは現れる事なく、そして大倉の父親の劇場で育ったコウイチは幸せに育ったのだ。
 どうして、忘れていられたのか。ツヨシがいなければ、自分は此処で生きる事すら出来なかったのに。
 掌に馴染むあの感触は、幼い日の記憶があるせいだ。ツヨシに触れられて嫌な筈はなかった。全ての糸が繋がって、コウイチに真実を教える。
 分からないのは、ツヨシの本当の望みだけだった。過去を持ち出しもせず、唯自分を欲しいと言って。彼の建てた劇場で踊る事。
 果たして本当に、それだけが望みなのだろうか。



+++++



 新しい公演は、オフブロードウェイでありながら絶賛された。だからと言って、迂闊に喜ぶ事も出来ない。光のすぐ側には、必ず影が潜んでいた。コウイチは、いつもそれを考えている。
 自分達カンパニーが賞賛の代償に得た影は、仲間達の心がちりぢりになる事だった。どうすれば良かったのか。屋良が上を目指す気持ちも分かる。でもまだ、あいつは影の恐ろしさを分かっていなかった。
 今日はツヨシのいない日だ。アパートの部屋で、一人カンパニーとツヨシの事を考えていた。明日も公演はある。心が離れた状態で、良いものなんか出来はしないのに。
「コウイチ、いる?」
 控えめなノックであっても、安普請のアパートではその音も声も良く聞こえる。大倉だった。
「おるよ。入り」
「お邪魔します」
 わざわざ来てくれる辺りが、大倉の律儀さと言うか。オーナーとして信用に足る男だった。父親の後を継いでいるだけとは言っても、きちんとした責任感がなければ、誰もあの劇場に集わないだろう。
「大丈夫か?」
「俺? 俺は、大丈夫。先刻はちょぉ、腹立ってもうたけどな。俺の言った事に嘘はないから、ええの」
「なあ、もう少し屋良の気持ち、考えてやる事出来ないかな」
「あいつのやる気は認めるし、ほとんど主役みたいなもんやんか」
「そうじゃなくて」
「え」
「ステージの上の事じゃなくて、って言ってるの。屋良の事、ちゃんと考えてあげてよ」
「考えてるで?」
「あーもう! どうしてコウイチは人の事見てるのに、人の感情に疎いんだろう!」
「な……何やねん。人を阿呆みたいに」
「阿呆だよ、阿呆。屋良も勿論ね! あいつは、町田よりタチが悪い。んでもって、コウイチは更にタチが悪くて手の施しようがない」
「大倉さーん、酷い言いようやなあ。本人目の前にして」
「陰口叩くよりは良いでしょ」
「まあ、そうやけど。屋良の事は考えてるよ。あいつのやりたい事、もっと出来る様にするにはどうしたらええんかな、って」
「……何か俺、屋良に同情しちゃうな」
 納得してくれない大倉が呟くのをあえて聞き流す。コウイチとて、彼の言いたい事が分からない程鈍感ではなかった。けれど、屋良の感情は愛情だけで括れる程単純なものではない。
 知らない振り、気付かない振りをしていれば、きっといつか元々なかったものになると思っていた。
 立ったままの大倉に冷蔵庫に入っていたコーラを渡すと、違う話題に変える。先刻の事はもう起きてしまった。明日、劇場入りしない限り状況は動き出さない。
「なあ、大倉」
「ん?」
「俺な、ツヨシの事思い出した」
「は?」
「ずっとな、知ってる様な気がしてたんやけど、分からんかったの。ヨネに訊いてもいまいちすっきりせえへんかったし」
 今思えば、ツヨシは見えない所からずっとコウイチを見ていてくれたのだろう。首を絞める銀色の鎖が、しゃらんと音を立てる。会う事もせず、恐らくはひたすらに衣装の勉強をしていたのだ。
「知ってる人なの? てゆーか、コウイチが知ってて俺らが知らない人なんかいないでしょ」
「うん、そう。でもな、ツヨシがおらんかったら、俺。此処にいなかったんや」
「どう言う事?」
「俺、小さい頃日本にいたやろ。母親がなくなって一人ぼっちだった俺を大倉のおじさんのとこまで連れて来てくれたのがツヨシやった。恩人みたいなもんやねん」
「何、それ。だって、あの人そんな話一度もしなかったじゃん」
「うん、だからちゃんと話訊いてみよう思って」
「そっか。コウイチの話がホントだとしたら、俺もちょっと見方が変わるかも。だって、今此処にコウイチがいなかったらって考えるだけで、俺ちょっと泣きそうだもん」
「大袈裟やなあ。でも、ありがと。俺もお前らがいない人生やったらって思うと、怖いわ」
「今、こんな事言うのは不謹慎かも知んないけど。これからも、ずっと一緒にいような」
「ずっと、は分からんよ。皆、目指す先が違うもん。お前の劇場の事もあるしな」
「コウイチ、こう言う時は嘘でも合わせるのが人情ってもんだよ。お前は少し、情緒に欠け過ぎです」
「はいはい。冷たくてすいませんねー」
 それから、日が暮れるまで大倉と話をした。劇場の事、これからの公演の事。皆唯、舞台が好きなだけだった。けれど、それぞれ何を一番にするかが決定的に違っている。
 出来てしまった溝を埋めるのは容易ではなかった。それでも、光の先へ。進む事を考えなければならない。

 夜を待って、コウイチは錦戸へ連絡した。こっちから連絡をするのは初めてで、電話越しに感情を見せない彼が動揺したのが分かる。今日はもうツヨシと会う事は出来ないと言われ、けれど思い出したのであれば自分も少し話したいと言われた。
 すぐに向かいます、の言葉通り十分後には今日二人目の訪問者がコウイチの部屋の中にいる。
「僕はもう、貴方は思い出せないんやろう思ってました。ツヨシ君もそれで良いって。無理に思い出させても、また悲しい思いをさせるだけやからって」
「悲しい思い?」
「ええ。だから、ツヨシ君は何も言わんかった。唯、幸せに生きてる貴方を舞台の上で見たい、言うて」
「なあ」
「はい?」
「錦戸は、ツヨシの何なん?」
「……弟です。母は、違いますが」
「そうか。やから、俺の事も知ってたん」
「はい。家出をした後、正確には貴方をニューヨークに連れて来た後、ツヨシ君には自由が残されてなかったんです。やから、俺があの人の目になりました。貴方の成長を、貴方の幸せを、知る事だけがツヨシ君の幸せやった」
「どうして、其処まで……」
「最初に言いませんでした? 貴方を愛しているからです」
「やって、そんな」
「初めて会った小さな頃から、いえそれよりも前から、ずっとツヨシ君は貴方を想っていました」
 あの日、忘れろと言ったのはツヨシなのに。彼だけが一人、不自由な世界で自分の事を思っていてくれたなんて。
 そんな理不尽な話はないと思った。ぎゅ、とネックレスを握り締める。外す事の出来ないそれは、ツヨシの愛の深さを感じられた。
「なあ、ツヨシの望みは本当にそれだけなんか」
「と、言いますと?」
「本当に、俺が一ヶ月あいつの舞台で踊れば満足なん? 他にもっとさせたい事とかないん?」
「ありません。あの人の望みは、自分自身が覚えておく事だけです。他には何も、考えていない」
「どうして。あん時は確かに会えんくなるからしょうがなかったのかも知れんけど、今回は違うやん。父親の後継いで、忙しくてもちゃんと自由の身やろ?」
「今回も、同じです」
「何で。だって……」
「また、会う事が出来なくなるからです。絶対に、二度と」
「意味が分からん」
「そのままですよ」
 錦戸は昏い笑いを見せた。諦めの表情ではない。世界の不条理に怒りを覚えている様な、真っ直ぐな目だった。ツヨシに似ている、と今更ながらに思う。

「あの人はもう、長く生きられません」

「何……」
「最後に望んだのが、貴方の舞台です。だから俺は、ツヨシ君の望む事を全て叶えてあげたい。俺達も必死だった。正攻法で話を進める時間がなかった。無礼だった事はお詫びします」
「ちょ、待って。なあ、どう言う……それ。何で。え……やって、この間ん時も過労やって……」
「過労にも間違いはありません。自分の死後もデザイナーDを生かし続ける為に、あの人は今動いている。最も忌み嫌った父親の名前を継承する為に」
「ツヨシ……」
「ツヨシ君は、余命を宣告された時から、本当の意味で生き始めています。まだ、その時は遠い。やから、大丈夫です」
「大丈夫な訳、ないやん……」
「今日明日にいなくなる訳じゃないんで」
「でも、いつかはいなくなるんやろ」
「それは、誰しも同じじゃないですか」
 錦戸の言う事は正論だけれど、納得出来る筈もない。あんなに元気そうだった。薬を沢山飲んでいた。真っ直ぐな目で愛を語った。けれど、過労と言って入院してしまった。
 分からない。どれも本当のツヨシで、どれもが偽りの姿なのかも知れなかった。「愛してる」と言う言葉すら慣れてしまったのに、今更忘れる事は出来ない。
 思い出せば、確かに彼の持つ光も強かった。影が濃いのは当たり前だ。
「貴方は唯、千秋楽までツヨシ君の為に走り続けて下さい。他には何もいりません」
 きっぱりと言い切った錦戸の言葉は、恐らくツヨシ自身の本音でもあるのだろう。あの掌から温もりが失われる日が来るなんて。
 分からなかった。分かりたくなかった。
 今、自分に出来る事は舞台を全うする事だけ。けれど、千秋楽の後も忘れたくはなかった。次に会った時に、全部の話をしようと思う。そして、少しも彼の愛情を嫌がっていない自分の事も、隠さずに全部。

 世界の理が全て運命と言う言葉で片付けられるのなら、どうして神は残酷な運命ばかりを運ぶのだろうか。
 Show must go on.
 その時は、刻一刻と迫っていた。



+++++



 コウイチが公演中に事故に遭ったと報せを受けた時、ツヨシは別の舞台の打ち合わせの真っ只中だった。けれど、秘書である錦戸はツヨシの優先順位をきちんと分かっている。
 さすがに打ち合わせを放り出す様な事はなかったけれど、会議室を出てすぐに病院へと向かった。事故に遭った、と言う表現が正しいのかどうか。錦戸はその伝え方を迷っていた。
 屋良の瞳のひた向きさには気付いている。あれは、ツヨシの瞳の色と同じだった。深過ぎる愛情は、複雑に絡み合って結局コウイチを傷付けてしまった。
 傷が深くなければ良い。
 それだけを思いながら、病室へと急いだ。ICUに入っているらしい。病室へ着いたら、カンパニーの全員が顔面蒼白と言った感じで佇んでいた。世界の終わりの様な顔をしているのは大倉だ。彼が真剣を渡したのだと聞いていた。
「屋良……」
 ツヨシはゆっくりと、ICUの一番近くに立つ屋良へと近付く。詳しく話していない筈なのに、衣装に付いたままの生々しい血痕とその表情だけで状況を把握したのだろう。
 問答無用で、ツヨシは屋良の顔を殴った。軽い身体は衝撃で飛んでしまう。痛みを甘んじて受け入れている様にも見えた。
「大事なもんを守れもしないで傷付けるんは、唯の子供や」
「……」
「お前は、コウイチがどれだけお前の事を大切に思ってたんか知らな過ぎる」
「何も知らないあんたに、とやかく言われたくない……」
「知ってるわ、阿呆。お前の気持ちは、俺とおんなじ種類のもんなんやから」
「違う……俺は、リカが好きだ」
「そうやな。それも本当やろ」
「コウイチは……兄だった。家族だった。ライバルだった。友達だった。仲間だった。……俺の、全部だった」
「うん」
「何で、コウイチはショーを続ける?」
「それは、目が覚めたら本人に訊けばええ」
「俺は、やめたかった。嫌だったのに……」
「コウイチが何を考えていたかは、直接訊いたらええ。それから、お前の気持ちも直接言ったらええ」
「俺は、何も……」
 床に倒れこんだまま、屋良は力なく話した。その頬が涙で濡れている。唇を噛んで、感情を堪えていた。
 屋良の痛みは屋良にしか分からない。コウイチはICUのベッドで眠っていた。辛そうな表情はない。こんな時ですら美しいと思った。
 色を失くした顔は、穏やかに見える。
「コウイチの容態が安定したら、病院を移動する」
「そんな!」
「待って下さい」
「勿論、俺だけが見るなんて事はせえへん。ちゃんと移転先も教える。でも、せめて設備が全部整ってるとこに入れてやりたい。此処はERや。どっちにしろ転院が必要になる。……あかんか?」
「いえ、お願いします。僕達に医療の知識はありません。コウイチが助かる事は全てやってやりたい」
 答えたのは大倉だった。唇が震えている。責任を負う必要なんか何処にもないのに、責任感の強いオーナーは、顔を歪めた。
「ありがとな。俺も、俺に出来る事を全部したい」
 ツヨシは、屋良を殴った右手に視線を落としながら一つ息を吐き出した・本当なら、全員追い払って自分だけで看病をしたい。絶対にコウイチは助かるだろう。
 けれど、病を抱えた自分が出来る事は少なかった。一人で動ける時間も後僅かだろう。
医者の宣告は余命一年。
 時間があるとも言えるし、全く足りないとも言える時間。そのほとんどをコウイチの為に使いたかった。その場を立ち去ると、錦戸に病院の手配をさせて、自分もまた診察室へと向かう。
 彼らがいなくなってから、また行けば良い。傷の深さはどれ位なのだろうか。早く目覚めて、いつもの様に笑って欲しかった。



+++++



 ツヨシの記憶にある父親と言うのは、自分達母子を省みない人だと言う事だけだ。愛情を感じた事すらなかった。それは多分、義兄弟である錦戸の家庭にも言える事だろう。
 あの男が愛したのは、実の姉だけだった。他に大切なものなどない。だから簡単に沢山の女を相手にしたし、ファッション界の重鎮であるデザイナーを父に持つ娘と結婚した。
 愛は何処にもない。
 一度だけ、オフィスに行く機会があった。父親のデスクの上、飾られていたのは父の姉と、その息子の写真。
 柔らかな表情で写っていた。彼女は、弟の愛に気付いて早い内に結婚すると家を出て行方知れずになったと言う。恐らく、あらゆる手段を使って父親は写真を手に入れたに違いなかった。
 この写真がいつ撮られたものかは分からないが、幸せなのだろう。父親の執着は常軌を逸していた。愛と憎しみの狭間で、姉を縛ろうとしていたと言う。
 本来は自分達の写真を飾るべきなのに、デスクの上に家族の物は何一つ見当たらなかった。この時に多分、ツヨシは父親に対する愛情を全て諦めたのだと思う。
「」

椿本 爽





 多分、最初から。
 あれは、恋だった。



 時間がなかった。他に方法は幾らでもあっただろうけど、自分に出来る一番早い方法を取る。
 とにかくもう、時間がないのだ。

 カンパニーの千秋楽。オフブロードウェーと言っても、コウイチ達の公演は成功の部類に入るだろう。劇場のオーナーである大倉は、誇らしげに打ち上げで盛り上がっているメンバーを見た。
 その輪の中心にいるのは、カンパニーになくてはならない存在、コウイチだ。あの小さな身体にどれだけの輝きを秘めているのか。ともすれば女の子のように可愛らしい顔立ちで、けれど多分カンパニーの中で一番男らしい人物だった。
 今はステージの上の神々しいまでの煌めきを置いて、ひたすらに愛らしい笑顔を振り撒いている。コウイチの笑顔を見ると、何だか幸せな気分のなるのだから不思議だった。
 その一番近くにいるのは町田だ。本気なのか冗談なのか、恐らく本人にも区別のつかない所で彼はコウイチが大好きだった。恋に近い羨望の情。周囲の人間も微笑ましく見ていられるのだから、真っ直ぐな愛情だ。
 何より、その愛情を一身に受けているコウイチ自身が平気な顔で無防備に笑っているた。心配すべき事は何処にもない。
 輪から一つ離れた場所、昔から一緒にいる割には大倉と同じ様に外側からコウイチを見守るのが米花だった。時に兄の様に、時に父の様に、そして大事な大事な幼馴染みの一人として側にいる。
 愛情の深さでは町田に劣らないかも知れないけれど、彼の場合はきちんと仲間としての情愛だった。間違えず側にいる所が米花の米花たる所以だろうか。
 町田とポジションを奪う様にして笑顔を見せるのが、リカだった。彼女もまた幼馴染みの一人だけれど、昔からコウイチ一筋と言う点では町田のライバルに当たる。
 子供の頃の感情そのままに恋をしている姿は可愛らしいものだった。当人が気付きそうもない時点で、かなり望みは薄い。めげない強さが彼女の良い所だった。
 そして、リカを密かに思っているのが屋良だ。負けん気の強さと彼女への恋から、コウイチへの敵対心は人一倍強かった。とは言っても、兄弟の様に育って来た二人だ。コウイチも屋良の気持ちを理解ながら、楽しんで挑発している様な節があった。
 ――いつか、屋良が主役を張る日が来る。
 大倉にだけ小さく小さく零したコウイチの横顔は綺麗なものだった。当分渡してやらんけどな。笑った彼の表情に屋良へ向けた愛情を知る。
 仲間でありライバルであり、そして家族でもあった。このカンパニーの絆の強さを大倉は誇りに思っている。皆一緒に、これからも良い舞台を作って行きたかった。
「さ! そろそろ解散してよー! 電気代だって馬鹿になんないんだからさー!」
「はーい。全く、大倉さんは固いんやからなあ」
「そうだよ。せっかく千秋楽だってのに。まあ、そろそろ終わりにしますか。明日もバイトの奴多いんだろ?」
「うーわー! 米花さーん! いきなり現実に戻さんでもええやんー」
「あ、コウイチ。現実戻った? それは良かった。じゃあ、ウチのオーナーが泣き出す前に解散しましょ。俺は明日、ペンキ屋でバイトなの」
 米花はコウイチの肩を抱くと、問答無用で帰ろうと促す。カンパニーの連中を一人一人帰す様仕向けるよりも、彼一人を追い出す方が効率は良かった。
「あ! 私も帰るー!」
「ちょ! リカ! コウイチの腕組むな!」
 相変わらず騒がしいメンバーを連れ出してくれた米花に感謝をしつつ、大倉はオーナーとして戸締まりを始める。父親から受け継いだ大切な劇場だった。オフではあるけれども、立派な場所だと思っている。
 この劇場のステージでコウイチ達が踊るのが好きだった。演技者である以上、高みを目指したい気持ちはあるけれど。
 まだ、此処で踊っていたかった。
 全ての場所の消灯と戸締まりを確認して、劇場を出る事にする。大倉も明日はバイトがあった。オーナーと言えども、カンパニーを食わせて行く為には働かなければならない。
 明日も頑張ろう、と伸びをした時だった。一人の黒ずくめの男が立っているのに気付く。
 華やかな場所であっても、此処はニューヨークだった。用心するに越した事はない。じ、と相手を見詰めた。サングラスで、その双眸は伺い知れない。
 小柄な男だから、もし襲われても逃げ切れるのではないか。いや、そもそも襲われると限った訳ではない。
 お人好しの大倉は、明らかに怪しい男を前にして迷ってしまった。もしこれが暴漢であったなら、確実に身ぐるみ全部剥がれていただろう。
 あいにく、黒ずくめの男の目的は金銭ではなかった。
「このカンパニーのオーナーですか?」
 流暢な日本語に、大倉はまず驚く。カンパニーの中では日本語を使う事が多いし、未だにコウイチなんかは慣れた人間の前では故郷の訛りが抜けなかった。
 けれど、一歩外に出て日本語で話し掛けられる事は滅多にあるものではない。思わず、はい、と頷いてしまった。
「そうでしたか。ワタクシ、堂本と申します」
 怪しげな男が差し出したのは一枚のシンプルな名刺。そこには、デザイナーと言う肩書きとドウモトと言うミドルネームだけ。
 思わず大倉が固まったのは、その名字の男をもう一人知っているからだ。ニューヨークに住む日本人で同じ名字の人間に会った事はない、と本人も言っていた。日本でもあんまない名字らしいわ。そう呟いた彼の表情を思い出す。
 大倉は差し出された名刺を呆然と見遣った。他人、だと思う。だって、コウイチに親族は一人もいないのだから。
「大倉さん?」
「あ、は、はい」
「是非、貴方のカンパニーとビジネスをさせて頂きたい」
 夜の闇に溶け込んでしまいそうな風貌のまま、男は笑った。

 動き出した歯車を止められる人間は、何処にもいない。出会うべくして出会った者、起こるべくして起こった事。もし神がいるのなら、慈悲はどこにあるのか、と問うてみたかった。



+++++



 翌日、バイトが終わったメンバーだけでショーを見に行った。根っからのショー好きの人間達だ。劇場を出ても興奮冷めやらず、と言った所だった。
 皆であそこが良かった、此処が足りなかった、と論評しながら電車代を節約して歩いて劇場まで戻る。ショーを見ていたら、自分達も踊りたくなった。
 次の公演の準備と称して、皆で踊ろうと見終わってすぐに決めたのだ。屋良を先頭に劇場へ着くと、見慣れない車が止まっていた。
 コウイチの隣にいた大倉が、びくりと怯む。知らない車は怖いけれど、そこまで警戒する事もなかった。ん? とコウイチは首を傾げる。
「どしたん? 大倉」
 問い掛けるのと同時に車のドアが開き、一人の男が現れた。見た事のない顔だ。スーツからネクタイ、シャツに靴、そしてサングラスに至るまで全てが真っ黒で異様な威圧感を醸し出していた。
 真っ直ぐにコウイチの元へ歩いて来るのに、思わず身体を強張らせる。ショーの世界に身を置きながら、人見知りな性格は変えられなかった。物怖じしない性格ではあるけれど、対人関係に関しては駄目だ。
 こんなコウイチを、カンパニーのメンバーは嫌になる位知っていた。愛すべき座長の敵になり得るものは、何であれ排除して行きたい。
 す、と米花が守る様に一歩前へ出た。
「こんにちは」
 男がゆっくりと笑う。嫌な感じだ、と米花は眉を顰めた。サングラスの所為で瞳は見えないけれど、他人を値踏みする気配が見える。何より、これだけ人数がいるのにコウイチにしか目を向けていないのが不愉快だった。
「初めまして。貴方が、コウイチさんですね?」
 ふっと笑った表情に、コウイチが表情を強張らせる。日本語の安心感以上に警戒心を募らせた屋良が口を開いた。
「初めて会った人間には、自分から挨拶するのが礼儀だろ?」
「……ああ、昨日大倉さんにはご挨拶したんですけどねえ。お話しになられていないようだ。……僕から話させて頂いても?」
「いえ! 俺が話すんで! と言うより、そのお話は昨日お断りした筈です!」
 滅多にない大倉の怒りの滲んだ声に、ただ事ではないと全員で警戒心を強める。コウイチは、呆然と目の前の男を見ていた。
 この男は、自分達の空間に何か悪いものを持ち込もうとしている。嫌だ、と思うのに目を逸らす事すら出来なかった。サングラスの奥、その瞳は間違いなく笑っている。
「違うやろ? あんたの判断なんてどうでもええ」
 いきなり語調を変えた男に、全員が明確な敵意を持った。こいつを、コウイチの側に行かせてはならない。リカすら厳しい表情でコウイチの後ろに立っていた。
 怯む事なく一歩前に出た男は、優雅な仕草でサングラスを抜き取る。コウイチは逃げる事も出来ず、真正面からその闇色の瞳を見返した。
「申し遅れました。堂本ツヨシと申します」
「……どーもと?」
「はい」
 含みを持たせた笑み。ニューヨークで生きて来て、一度もその名字を聞いた事はない。唯の偶然か、それとも。
 名字一つで動揺したコウイチの手を、ツヨシは簡単に引き寄せる。拒絶する暇もなかった。
 手の甲にそっと、口付けを落とされる。唇を付けたまま上目遣いに見詰められて、コウイチは完全に固まった。ツヨシの口許が意地悪げに歪む。

「お前の為に、劇場を建てた。其処で、踊って欲しい」

 一言一言、言い聞かせる様な声音だった。コウイチだけではなくその場にいた全員が呆然とツヨシの言葉を反芻する。劇場を建てた、なんて何を酔狂な。
 一番最初に立ち直ったのは、既に話を聞いていた大倉だ。
「堂本さん! そのお話はお断りした筈です。お引き取り下さい」
「うっさい奴やなあ。俺は、コウイチに踊って欲しいんや。一応礼儀通そう思うてお伺い立てただけやし。……此処じゃ何やな。場所、移そか」
「待って下さい。コウイチだって断るに決まっています」
 挑む様な目線だったけれど、米花は事態を悪化させない為に、余り声を荒げず言う。左手を取られたままのコウイチが、その声にゆっくりと反応した。緩い瞬きすら、優雅なものに見える。
「うん。……申し訳ありませんが、いきなりそんな事を言われても、応じかねます。私は、このカンパニーの一員ですし」
 やんわりと断ったコウイチの言葉の固さに、メンバーは内心で安堵する。彼の警戒心の強さであれば、何も怖がる事はなかった。人に対しては周囲が心配になる程臆病な所があるけれど、根本的には毅然とした姿勢で臨む強い人だ。
「まあ、そう言うやろうと思ってたわ。お前の頑固は聞いとったし。でも、こっちも真剣なんや。簡単には引けへん」
「堂本さん。私は、一人では踊れません。一人ではステージを完成させる事が出来ません。カンパニーがあるから踊れるんです。このカンパニーで生きて行こうと思っています。だから、お話はお受け出来ません」
 怯えも迷いもない澄んだ目で、ツヨシを見詰める。コウイチの言葉に今此処にいる人間がどれだけ救われるのか、彼は知らないだろう。座長の為に、なんて言ったら大袈裟だけれど、彼がいるからカンパニーは一つでいられた。
「あんたの意思が固いんは知っとるけどな。こっちも本気なんや。お前の為のもんやから、一度見て欲しい」
「え! わ、わっ!」
 ぐい、と腕を引っ張られたかと思うと誰も対応出来ない位の素早さで、コウイチを自分の車に押し込む。誰一人動く事が出来なかった。
「すぐ返すわ~。探さんでええからな~」
 車を出しながらツヨシが叫ぶのを、カンパニーは信じられない思いで聞く。探さなくて良いなんて言われて、そのままいられる筈はなかった。
「おい! 待てよ!」
 走り出したのは屋良だ。その後を着いて全員が追い掛けた。
 が、走る距離は短い。大倉の劇場の隣、随分長い間工事中の白い幕が張られた場所にツヨシの車が止まっていた。
「なあ、これ……」
「俺もおんなじ事思った」
「の、覗いてみる?」
「ねえ、やっぱりコウイチが帰って来るの待たない?」
「何で?」
「だって多分、大丈夫だから。あいつ、コウイチを踊らせたいんでしょ? そんなのコウイチはやんないだろうし、下手に動いて弱味を握られるのも嫌じゃない。幸い、隣は私達の劇場だし大人しく待ってましょうよ」
「逃げんのかよ」
「そうじゃなくて!」
「うん、俺も賛成だな。必ずコウイチは帰って来るよ。な?」
 リカの言葉に同意した米花は、納得のいかない屋良の肩を抱いて劇場へと進む。あの男が何を考えて言い出したのかは分からないけれど。
 コウイチを信じるのが最善の策だと、米花は思っていた。

「うわ……」
「凄いやろ? お前んとこの劇場じゃ、この手の機材は入れられんからな。重過ぎて建物が耐えられん。でも、お前こう言うの好きやろ?」
「うん」
 見るだけ、と念押しをして入った白い幕の内側。其処には既に完成した劇場があった。大倉の、自分達の劇場のすぐ隣。何かを建設している事には気付いていたけれど、まさか同じ様に劇場が建てられているとは思わなかった。
 車の中で運転の為に離していた手は、劇場内に入ってまた引かれてしまう。温い体温がコウイチは得意ではなかった。潔癖のケがある事は自覚している。
 カンパニーの人間でも全員が大丈夫な訳ではなかった。さすがに、幼い頃から一緒にいる屋良達は平気だったけれど。
 触れる事が得意ではないのが、対人関係の苦手な大きな原因だった。なのに今、引かれた腕に嫌悪感がない事が不思議で仕方ない。
 どうして。
 良い印象を持つ事は出来ない相手だった。それでも、離すつもりもない強い拘束が気持ち悪くない。
 座り心地の良さそうな客席を通って、ステージに上がった。真新しい匂いのする板の上から見渡す景色は、此処で踊りたいと思う程素晴らしいものだ。
 手摺から天井に至るまで、細かい装飾がなされていた。今時珍しい木の造りは、恐らく音も綺麗に響き渡るだろう。
「どうや? 気に入ったか?」
「凄いなあ、これ」
「俺が設計図引いたんや」
「……え?」
「専門外やけどな。ああ、言ってなかったか。俺、デザイナーなんよ」
「デザイナー?」
「うん。メインは、舞台の衣装デザイン。このステージで踊ってくれたら、お前の衣装も作りたい」
「俺は、貴方に此処までして貰う覚えはないよ」
「貴方じゃなくて、ツヨシな。覚えて?」
「……ツヨシさん」
「ツヨシでええよ」
「なら、ツヨシ。此処は凄く綺麗やし、素晴らしい劇場になると思う。けど、俺には踊る場所と一緒にいたい仲間がいる。だから、此処では踊れない」
 繋いだ手の先で、ツヨシは痛そうに顔を歪めた。サングラスを外してしまえば、怖い男じゃない事が分かる。劇場を案内してくれた表情は明るく優しいものだったし、先刻の高圧的な態度が素なのか演技なのか、分からなかった。
 けれど、どちらにしろ自分は踊れない。踊りたい場所があった。彼らと一緒にこれからも光の先を目指して行く。
「お前に立ってもらわんと、この劇場は生きる事すら出来ん」
「うん、ごめんな」
「どうしても、駄目か?」
「あかんよ。大倉の劇場は隣やもん。俺が此処で踊るんはおかしいやろ」
「すぐに帰れる場所がええやろ思って、此処に建てたんや」
 余りの真剣さに絆されて、コウイチは言葉遣いを崩していた。自身で気付く事も出来ず、唯どうしたら良いのかを考える。
 初対面の人間に、こんなにも真っ直ぐ思いをぶつけられたのは初めてだった。自分の為に、と言う男。
「どうして、ツヨシはそんなに……」
「あかんか? 一人のダンサーに惚れた。そのダンサーに踊って欲しいと思った。一度で良い、自分の場所で。思うんは、おかしい事か?」
「おかしいやろ、それ。何で、俺なん……?」
「お前の踊りに惚れたからや。今まで沢山の舞台を見て来た。沢山の衣装を手掛けた。でも、お前程心を揺さぶる踊り手はおらんかった。これが、理由の全てや」
「……分からん」
「もう一度言う。お前に、此処で、踊って欲しい」
「出来ん。……っん」
 拒絶の言葉を零すのと、ツヨシに抱き寄せられたのは同時だった。唇に生温い感触。ぼやけた視界には、ほんの数十分前に出会った男の顔がある。
 舞台の上では経験した事があった。虚構の物語の完成度を上げる為なら、どんな事でも出来ると思っている。けれど、人と触れ合う事が苦手なコウイチは、プライベートでの経験が極端に少なかった。
 ファーストキス。そう呼んでも差し障りない程だった。
 コウイチの反応で分かったのか、ツヨシも余り攻め立てる事はせず、優しく唇を押し当てるだけ。ゆっくり離れれば、呆然と言った表情で立ち竦んでいた。其処に嫌悪の色がないだけでもよしとしたい所だ。
「大丈夫か? 俺の気持ち伝わった?」
 不器用と言う意味では、ツヨシもコウイチと大差なかった。お互いに自覚がない分、気付く事はなかったけれど。カンパニーの誰かが見ていたら確実に、「そんなもんで伝わるか!」と突っ込めていた筈だ。
「なあ、」
 不器用ではなかなか右に出る者のいないコウイチは、呆然としたまま唇を撫でる。感情の不器用さで言ったら、恐らく彼に勝つ事は難しいだろう。

「……ホントに、会うの初めて……?」

 ツヨシは、その言葉に何も答えてはくれなかった。



+++++



「お帰り」
「あ、ヨネ。待っててくれたん?」
「ああ。皆もさっきまで一緒だったんだけどな。あんまりコウイチが遅くて心配しちゃってさ。そろそろ帰って来るからって説得して、今夕飯の買い出しに行かせてる」
「ヨネは?」
「買い物行くの面倒臭かったから、色々言いくるめてお留守番役になりました」
 ほとんどが同年代のメンバーで構成されているカンパニーの中でも、米花は兄的な役割を担っている。顔の割に優しい、と言うと怒られるけれどもしかしたら大倉より穏やかな性質を持っているのかも知れなかった。
 人に頼る事を潔しとしないコウイチでも、少しだけ米花には寄り掛かれる。柔らかな表情にほっとした。
「で、どうだったの?」
「最新の機材満載だった!」
「……そうじゃなくて」
「あ、ごめん。ええと」
 舞台の上の表現力は抜きん出たものがあるのに、役を離れると一人で生きて行けるのか不安になる程、コウイチは説明がおぼつかない。勿論そんな事は分かっているから、急かさずに話を聞く事にした。買い出し班には車を与えなかったから、まだ時間が掛かるだろう。
「キス」
「は?」
「キス、された」
「何だってっ?」
「なあ、ヨネ。俺、あいつと会うのホンマに初めてかなあ」
「ちょっ! コウちゃん! キスって何? 何されたの?」
 思わず幼い頃の呼び方に変わってしまう程、米花は動揺した。大事な大事な座長様を傷物にしたくはない。
 大人だから大丈夫、と皆を帰した手前もあり、あり得ない位焦っていた。コウイチは、きょとんと愛らしく首を傾ける。
「やから、キス」
「キスって! 何処にっ? 挨拶の範囲なら、俺の胸だけに留めとくから」
「ええと、手の甲」
「それは、さっき俺も見たよ! 二人ん時も手の甲だったの?」
「……ヨネ、怒らん?」
「事と次第によっては怒るかも知んないけどね」
「じゃあ、言わへん」
「さっきの」
「……え」
「会うのが初めてかどうか、って奴」
「ヨネ、知ってんのっ?」
「何処にキスされたか、正直に話したら教えてあげます」
 米花とて、コウイチを虐めたい訳ではない。唯、事実は事実として把握しておきたかった。今後、あの男に対する警戒が変わって来るからだ。
 んー、と少し躊躇う素振りを見せた後、基本的に素直なコウイチは口を開いた。ある意味、舞台だけで生きて来た純粋培養な人だ。駆け引きや計算からは、最も遠い所にいた。
「くちびる」
「あーーー! やっぱりー! コウちゃん!」
「ほらー、怒るやんかー」
「当たり前でしょ! 何で、あんな男にあっさり許してんの! コウイチの身体は、コウイチだけの物じゃないんだよ! カンパニー全員の物なんです! ……あーもう、こんな事なら大人の振りして送り出すんじゃなかった。俺達の今までの苦労って何だったんだろう……。大事に大事に育てて来たのに……皆で牽制し合って、抜け駆けだって禁止にしたから、あのリカもあの町田も、大人しく頑張ってたのに……。それを、あんな得体の知れないマフィア紛いに奪われるなんて。あーどうしよう、どうするか。俺が今此処で消毒と称してキスしても良いけど。でもなあ、それじゃビジュアル的にイケてないよなー。あいつら帰って来たら、リカに……いや、それも駄目だろう。じゃあ、屋良かな。……普通に無理か。んー、町田は論外だ。キスなんかしたら、そのまま昇天しかねない。大倉……は、ビジュアル的に保たれるけど、あいつ固いからなあ。断固拒否っぽいよなあ。……そうだ! 次の公演にキスシーン入れれば良いんだな。そうしよう、うん。で、何度もこなせば、その内消毒されるだろ」
「……あ、あの。米花さん……?」
 後半から独り言になってしまった米花の鬼気迫る顔が怖くて、コウイチは恐る恐る声を掛けた。唯でさえ、はっきりした顔立ちは日本人がメインのカンパニー内でちょっと怖い時があるのに。
 コウイチの声で我に返ると、ごめんごめんといつも通りの顔に戻った。
「まあ、その話は置いておいて」
「やっぱり、どっかで会うた事あるん?」
「いや、会ったって言うか。客席にいたよ。俺は二回、見た事ある。でも、随分前の話。コウイチが舞台に上がった最初の頃じゃないかな。暗い場内でサングラス掛けたまんまだから、あいつ見てんのかよって他の奴らと話してたの覚えてる」
「でも、そんなんじゃ顔分からんよ」
「分かるって! あのマフィア紛いのオーラは間違いない」
「マフィアって……もっと言いようがあるやろ。それだけ? 話した事とかはない?」
「ああ、多分。コウイチはいっつも誰かと一緒にさせてるから、話までした事あったら、絶対誰かが覚えてる。……ストーカーとかかな」
「それは違う気、する。ストーカーやったらこんな堂々とせえへんやろ」
「うーん、どっちにしろ厄介だなあ。劇場建てるなんて、何億ドル掛かるんだよ……。対策立てねえとな」
「大丈夫やって。俺が何とかする」
「駄目! コウイチが自分で決断するとロクな事ないから!」
 過去の彼の判断と言えば、酷い物だった。表に出るものとしては最高であっても、彼は彼自身に優しくない。
 カンパニー全体でどうにかしなければならない問題のようだ。
「ま、とりあえずそろそろ皆帰って来るだろ。さっきのキスの話は内緒な」
「うん、分かった」
「どうせテイクアウトのもんしか買って来ないだろうし、準備して待っててやろうか」
 兄の顔で笑った米花にうん、と頷いて応える。年下なのに時々本気で兄の様に思う事があって、コウイチはその情に時々自分で吃驚した。米花は優しい。大好きだな、と思いながらキッチンへ向かったその背中を追い掛けた。



+++++



 米花の嫌な予感は的中した。
 と言うか、あのまま終わるだなんて誰も考えていない。またすぐに来るだろうと思っていた。
 さすがに、翌日訪れる事は予想外だったけれど。
「こんにちは」
「……何しに来たんですか」
 いつもは穏やかな町田が、入り口に立ったツヨシの前に立ちはだかる。あいにくその威圧感に勝てる訳もなく、軽く押し退けられてしまった。
「コウイチの事でお話に伺いました。大倉オーナー?」
「ウチは弱小カンパニーです。今の所、客演であっても外部の劇場にウチの人間を出すつもりはありません」
「んー、分からんやっちゃなあ。俺は、やると決めたらやる。コウイチが欲しい。隣に劇場も建てた。何も、引き抜きたいって話をしている訳ちゃう。ほんの少し貸して頂けませんか? ってお願いしてるんやで」
 とてもお願いをしている風には見えなかった。カンパニー全員が座りもせずに、招かれざる来訪者に警戒心を剥き出しにする。この男の雰囲気が怖かった。本気で連れ去られてしまうのではないかと、不安になる。
「コウイチ……何処におんの?」
「此処にはいません。お引き取り下さい」
「コウイチ! 出て来ぃ!」
 いきなり壁をがん! と叩いたかと思うと、二階を見上げてツヨシは叫ぶ。昨日コウイチの一番近くにいた米花の姿はなかった。と言う事は、二人で上にいると考えるのが妥当だろう。
 あの頑固者がメンバーを置いて、自分の為に来る人間がいる事を知りながら、何処かに行く事は出来ない筈だ。もう一度壁を叩くと、出て来いと念じた。

「……ツヨシ、此処年代物なんやから。そぉ言うんやめて」

「お前が俺の前にいれば済む話や」
 床を踏み締める音が微かに響いたかと思えば、ゆっくりコウイチが階段を降りて来る。後ろには予想通り米花の姿もあった。
 ツヨシは真っ直ぐに、階段を降りるコウイチだけを見詰める。
「昨日、断った筈やで」
「俺はイエスの言葉しか聞きとうない」
「阿呆か。自分勝手なのもいい加減にせえ」
 その言葉の親しさに驚いたのは、カンパニーの人間だった。自分達の中にいる時は安心したように柔らかな言葉で話すけれど、外部の人間に接する時は舞台の上と同じ様にピンと張り詰めた空気を纏っている。
 たった一晩で、どうして。
 コウイチに訊いた所で明確な答えは返って来ないだろう。唯、本気で来られると本気で返したくなる性分だったから、取り繕っている暇がなかったのだ。
 今まではずっとカンパニーの誰かが守っていたけれど、今回は唐突過ぎて誰もフォローする事が出来なかった。本当はこんな場所に、大切な座長をいさせたくない程なのだ。
「じゃあ、言葉変えるわ」
「え、何……」
「ま! 待って下さい!」
 声を荒げたのは大倉だった。けれど、間に合う筈もない。引かれる力のまま距離を縮めたコウイチは、昨日と同じ様に口付けを許してしまった。町田の、お前ホントに男か? と疑いたくなる悲鳴が響き渡る。
「ツ、ツヨシ……」

「お前を愛してる。ずっと、なんて言わん。ほんの少しでええ。俺の為に踊ってくれ」

「そんなもん許せるかーーー!」
 叫んだのは勿論町田だった。その後ろで、リカも激しく同意している。概ね、カンパニーの意思はずれていないだろう。
 屋良だけが一人、神妙な顔で眉を顰める。何かを考える様な、そんな仕草だった。
「許す許さない、の話やったら俺にも考えがあるわ。リョウ」
「はい」
 音もなく其処に入って来たのは、ツヨシと同じ様に黒いスーツに身を包んだ男だった。何かの資料を手渡すが、その仕草はまるで影と同じだ。静寂を纏っていた。
「此処の劇場、大分老朽化が進んどるな。土地を買い取って、新しい施設を建てようかと考えている」
「何を、言っているんですか。此処は、僕の劇場です」
「経営、厳しいやろ? お前、自分の貯金崩しながらこのカンパニー持たせてるし」
「な……!」
 それは、大倉が今まで誰にも話した事のない経営状況だった。厳しい事は勿論伝えている。唯、この劇場を維持したいのは自分の意志だったから、話す必要はないと思っていた。
 彼らは踊れるのであれば此処でなくても良い事を、大倉自身良く知っている。ニューヨークで踊っている人間なら当たり前だった。誰もが此処ではなく、オンを目指している。
「大倉……お前、」
「良いんだ。それは今関係のない話です。だからと言って、貴方にとやかく言われる筋合いはありません」
「まあ、そやな。でも、俺が此処を潰しに掛かるって言うたら、どうする……?」
 コウイチを右手で繋ぎ止めたまま、ツヨシは人の悪い笑みを浮かべる。得体の知れない物に対する恐怖。大倉はそれでも気丈に視線を合わせた。
「潰させません。もし此処で踊れなくなっても、コウイチ達にはまだまだ道がある。あんたの思い通りにはならない」
「どうかな? 他の劇場に立てなくする事も、俺には可能なんやで」
「何を言って……」
「ここら辺の人間には、ちょーっと顔が利くんや。俺が出さんで欲しい、って言って回ったらお前らを使う劇場はないやろな」
「一体、貴方は何なんですか」
「……皆さん、ご存知ないんですか?」
 影の様にツヨシの後ろに控えていた錦戸が、不意に声を上げる。計算しての事なのか、純粋な疑問としてなのか、其処にいた人間には判断出来なかった。
「知らないよ、こんなマフィア」
「マフィアやあらへんわ。お前、おもろい事言うな」
 町田の言葉にすら笑みで答える。コウイチに向ける必死さと、場を自分のペースに持って行く傲慢さと。良く分からない男だった。
「デザイナーDの名を、ご存知ない……?」
「あ!」
 声を上げたのはリカだった。口許に手を当てて、まるで怯えた様に一歩後ろに下がる。
「そんな……だって、賞を取ったのはもう、十年も前の事でしょ。あり得ない。だって、この人若いじゃない」
「リカ? どう言う事? 知ってんの?」
「トモユキは知らないの?」
「え……ごめん。俺もこんなマフィア知らねえ」
「もし、あの人の言う事が本当なら、デザイナーDと言えばトニー賞で演劇衣装デザイン賞を受賞した鬼才よ。一切公の場所には姿を見せず、公演すら見た事がないのにその舞台にはD以外の衣装はないと思える程、完璧に舞台を引き立てる衣装を作るの。但し、素材の値段にも糸目を付けないから報酬は法外で、オンブロードウェイ以外では依頼する事すら出来ない人」
「良く、知っていらっしゃる」
「私、少しだけ演劇学校行っていたから。其処で衣装は勉強したの」
「そうでしたか。今こちらにいらっしゃるのは、間違いなくそのデザイナーDです」
 錦戸は、初めて満足げににこりと笑った。リカの説明がお気に召したようだ。
 けれど、カンパニーの人間にしてみればそれどころではない。トニー賞なんて取った人間なら、顔が利くと言うのは間違いなかった。実績のある人間しか、ニューヨークでは相手にされない。自分達がどれだけ実力を持っていたとしても、認められなければ意味はなかった。
「まあ、俺もあんまり振りかざしたない権威やけどな。とりあえず、力も金もあるのは事実や。さ、もう一度訊くで。コウイチに俺の劇場に立ってもらいたい。公演期間は一ヶ月。きちんと報酬も払う。公演が終わったら、この劇場にコウイチを返す。悪い話やないと思う」
「……俺も、悪い話じゃないと思う」
 今まで黙っていた屋良がおもむろに口を開いた。ツヨシは興味深げに視線を向ける。
「別に、仕事のオファーってだけだろ? 一ヶ月位、コウイチがいなくたって舞台は出来るよ」
 俺がいるんだし。と言う言葉は、さすがに言えなかったようだ。けれど、コウイチには明確にその意図が伝わっていた。
 好戦的な瞳。自分にはない剥き出しの闘争心が、嫌いではなかった。いつだって真っ直ぐに向かって来る。
 時々度が過ぎる事もあるけれど、屋良の強さが彼を成長させていた。コウイチも上手にその闘争心を煽って稽古をしている。
「劇場だって近いし、それ相応のギャラだって出るんだろ? 何が問題なのか、寧ろ俺には分かんねえ。なあ、リカ? コウイチ抜きでも出来るよな」
「トモユキ! 私はコウイチのいない舞台は立たない。コウイチのいないカンパニーなんか意味がない」
 きっぱりと言い切ったリカの潔さもまた、コウイチが尊敬する部分だった。自分にはないもの。可愛いと思う。小さな頃から一緒にいるからだろう。ずっと、妹の様に大切な存在だった。
「リカ、そんな事言うなや。なあ、俺もええと思う。大倉、あかんかな? ちゃんとギャラはカンパニーに振り込んでもらうようにするし」
「コウちゃん……」
「多分、この人本気やで。俺があの劇場に立つまで諦めへんわ。今もほら、腕すら離してもらえへん」
 冗談めかしてコウイチは笑う。繋がれたままの右手を翳して、さっさと降参を認めた。今までこんな人間に出会った事はない。手段を選ばない様は、王様と言うより唯の子供だった。
「俺もな、いつまでも追い掛けられんのしんどいし。この間公演が終わって、次までまだ時間があるやん? ちょっとしたバイトみたいなもんやって。な? あかん?」
 コウイチの問い掛けに、大倉は応じる事が出来ない。本音を言えば、彼をこのカンパニーから出したくはなかった。いつかは旅立ってしまうかも知れないけれど、今はまだその時期ではない。
 嫌だ、と幼い子の様に叫ぶ事すら出来なかった。
「堂本さん」
「ん?」
「俺達は、コウイチを他に出したくありません。彼が座長だって事もあるし、単純に大切な存在だからです」
「そうやろな」
「でも、コウイチの頑固さも知っている。この人が結論を出した以上、俺達はそれを曲げる事が出来ない」
「ヨネ……」
「違うか? コウイチ」
 大倉の代わりに米花が話を進める。ツヨシの条件ばかりを飲んでいる訳には行かなかった。トニー賞を取っていようがコウイチを愛していようが関係ない。
「舞台は、一人で作る事が出来ません。共演者もスタッフも必要だ」
 米花は距離を縮めて、コウイチの左手を取った。ツヨシの手に堕ちるのを阻止する為に。
「もし、コウイチをどうしても貴方の劇場に立たせたいなら、俺達も一緒に出ます。それが、コウイチを出す条件です」
「ふうん。お前、米花やっけ? 確かに、言う通りやな。共演者やスタッフは俺が見つけよう思ってたけど、そうやな。ええわ。今の条件は飲んだる。……俺が飲んだって事は、契約成立でええんかな」
「はい。コウイチも、異存はないだろ?」
「ヨネ……良いん?」
「ああ、俺達もバイトだと思えば良いし。ペンキ屋のバイトもそろそろ飽きて来たしな。なあ、町田?」
「うん、勿論! コウイチがステージ出るのに、俺達が出ないなんて意味分かんないよ! な、リカ?」
「うん、そうね。一ヶ月離れているより、ずっと安心」
「だよねー。なあ、屋良も。反対しないだろ? あんな綺麗な劇場に立てるんだぞ」
「まあ、そうだな。……うん」
 いまいち納得していない屋良に苦笑を返すと、町田はオーナーへ視線を向けた。先刻から困った顔で固まったままの大倉は、ようやっと意思を固めたようだ。
「一ヶ月以上って言うのは、どんな脅しをされても許可しませんよ」
「ああ、勿論。俺のモットーは嘘を吐かない事なんや」
「……説得力がなさそうですけどね」
「お前も言うなあ。まあ、ええわ。契約成立な。細かい話はこいつがやるから。リョウ、後は頼んだで」
「はい」
「さ、話も纏まったし。コウイチ行こか」
「え……な、なんで?」
「お前の一ヶ月分を契約したんや。当たり前やろ?」
「今受けたのは、舞台の話だけですよ」
 反対側からコウイチの腕を掴んでいた米花が、我慢ならないと言う様に声を荒げた。そんな態度もものともせず、ツヨシはゆっくり笑う。
「そうやで。舞台の細かい話を、座長殿とするんや。契約はオーナーの仕事、現場の話は座長とせなしゃあないやろ」
「なら、俺達も」
「いらんわ。面倒臭い。ごちゃごちゃ言うんやったら、契約条件変えてもええよ」
「ツヨシ! ええから、行くから。もうこれ以上、話をややこしくすんな」
「ほなな。一ヶ月後にはちゃんと返してやるわ。リョウ、後は頼んだで」
「承知しました」
 誰も動く事が出来なかった。黙って二人の背中を見送る。今まで、色々な類いの人間がコウイチに近付こうとして来た。その全てを防いで来たつもりだ。
 まさか、あんな男に持って行かれるなんて、思いもよらなかった。今までの人間とは違う。どいつもこいつも気持ち悪い程コウイチに執着していたけれど、ツヨシは「堂本コウイチ」と言う生身の人間を欲している様に見えた。偶像への執着ではなく、認めたくはないけれど強い愛情を感じる。
 出来る事ならコウイチを守ってやりたかったけれど。残念ながら、いつまでも付きっきりで側にいる事は出来ない。靄々した気持ちを持て余した米花は、先刻いち早くコウイチを手放そうとした屋良の頭を小突いてから二階へと戻った。
 契約の話なら、大倉に任せておけば安心だ。ああ見えて商人魂が強い。不利な条件は飲まないだろう。
 コウイチ自身を人身御供に出した様な後味の悪さ。後ろから付いて来る町田の足音を聞きながら、米花は深い溜息を零した。



+++++



 ツヨシの劇場へと連れ去られたコウイチは、大倉達の事だけを考えていた。煩わされる必要のない事に巻き込んでしまったのだ。自分一人で解決出来れば良かったのに。
 まだまだ夢半ばの自分達は、こんな場所で仲間の庇い合いをしている場合ではなかった。オフを超えてオンへ、そしてオンの先へと。絶えず前を見て走り続けなければ、光は見えて来ない。
「ツヨシ」
「んー?」
 敬語を使うのはやめた。気を遣う必要のない男だ。手を引かれるのもキスをするのも苦手だけれど、彼が敵意を持っているんじゃない事位は十分分かったから、無理はしなかった。
 多分、ツヨシは自分が人見知りだと言う事を知っている。
「前に、来た事あんの?」
「何処に?」
「俺らのステージ。見に来てた、って」
「……誰が?」
「ヨネ」
「ああ、あの顔のはっきりした奴か。よぉ覚えてんなあ」
「ヨネは人の名前と顔覚えんの得意やねん。だから、レストランで働いててた時も常連さんすぐ分かるから、チップ一杯貰えるんやって」
「そっか。見た事あるで。でも、ずっと前」
「どうして?」
「どうしてって……勉強の為や。ニューヨーク中のミュージカルやら芝居やら片っ端から見て、衣装の研究してたんや」
「オフの芝居も?」
「ああ。予算がないから出来が悪いって訳でもないしな。沢山良い芝居は転がってる。俺は、オンとオフに差なんてないと思う」
「……それは、成功者の言う台詞やわ」
「お前やって、成功者になるんやろ?」
「当たり前や。そのつもりがなくてこんなんしてたら、すぐ駄目んなる」
「まあ、そうやろな。コウイチは見た目お人形さんみたいに可愛らしいのに、メチャメチャ男気溢れる奴やなあ」
「……可愛くなんかない」
「可愛いで。俺には、世界で一番可愛らしいもんに見える」
「頭、おかしいんちゃう?」
「そうかな?」
 劇場の階段を昇って三階のフロアに着いた。其処は今までの場所と違い、生活出来るスペースになっている。一番手前の扉を開けて部屋の中に入ったと思ったら、扉に背中を押し付けていきなり口付けられる。遠慮なしに深く合わさった唇。探る様に伸ばされた舌を歯を食いしばって拒絶した。
「……ん! っく、ん、ん、んぅ」
「……強情っぱりやなあ」
 言ったかと思うと、顎を掴んで強引に口を開かせる。契約にこんなのは入っていない、と突っ撥ねられれば一番良かったのだけれど、あいにくコウイチは決定的に言葉が足りなかった。
 翻弄されるまま、舌を絡め取られてしまう。他人との接触が苦手なコウイチに、此処までの事が出来たのは奇跡と言っても良かった。他の人間だったら舌を噛み切っていたかも知れない、と熱に潤んだ頭で思う。
 けれど、何故ツヨシなら平気なのか、と言う問いの答えはコウイチ自身でさえ持っていなかった。最初に触れた時、何処か懐かしい気がしてしまったのだ。
 今深く口付けている時でさえ、懐かしさの糸口を見つけて辿りたくなった。何処かで会っている。客席なんて遠い場所ではなく、もっと近く。
 俺は多分、この体温を知っている。
 忘れているだけなのか、思い出したくないのか。けれど、先刻の様子ではツヨシは教えてくれそうもなかった。懐かしさの意味。
 その糸を辿ろうとして、手を伸ばした。ツヨシの背中を抱き締める。この体温、この感触。
 思い出す事は出来なかった。
「さ、この辺にしとこか。コウイチ」
「……っはぁ。……なん?」
「お前、あんま無防備におったらあかん。本気で襲ってまうわ」
「今、十分襲われたけど」
「まだまだ止めてた方や。お前、潔癖性ちゃうの? 気持ち悪くないん?」
「よぉ知ってんなあ。んー、気持ち悪い……気もするし、平気な気もするなあ。何か、考え事してたら平気やった」
「考え事してたんかい!」
 まるで漫才のタイミングで突っ込んだツヨシは、まあ拒絶されるよりはええかとか何とか言いながらコウイチを部屋へと促した。
「今日から、舞台の終わる日まで此処で生活したらええよ。コウイチ用に作った部屋やから」
 ステージの華やかさは大好きな癖に、余り装飾品で部屋を飾り立てるのが好きではない事を知っていた。楽屋ではなく生活出来る部屋をイメージして作ったから、居心地は良いと思う。
 鏡台とソファと冷蔵庫。風呂が好きなコウイチの為に、浴室と洗面所は広く取った。全体をアイボリーで統一したコウイチの部屋は、我ながらセンスが良いなとツヨシは思う。
「此処……俺が?」
「おん。気に入らんか? 嫌なら、今からでも内装変えるけど」
「や! そうやなくて! 俺が使ってええの? こんな広いとこ、初めてやから吃驚するわ。俺の部屋と屋良の部屋と、町田の部屋合わせた位の広さあるんやけど」
 自分達の住むアパートは狭い。ほとんどを劇場かバイト先で過ごしているから不便を感じた事はないけれど、広過ぎて落ち着かなかった。
「いづらいんなら、俺が此処いる時だけでもええから。多分、そんなに一緒にいられる事もないやろしな」
「ツヨシやって、仕事忙しいんやろ?」
「まあ、暇ではないわ。来週は、パリに行かなきゃあかんし」
「パリ?」
「布地の買い付けにな」
「忙しいんや」
「おかげさまで。あ、でもお前の衣装はきっちり俺が作ってやるから、楽しみにしといてな」
「……デザイナーDの衣装は、オートクチュールとか平気で使うから、気ぃ遣いそうやわ」
「好きに着たらええんよ。俺は、綺麗に見せたいから綺麗な布やレースを使う。演技者が丁寧に使うんやなくて、演技者が一番映える衣装を俺らは作るだけや」
「そっか。……凄いな、ツヨシ。唯の変な男かと思ったけど。今、デザイナーの顔してたわ」
「どんな顔やねん」
「そんな顔。うん、分かった。何か、お前訳分からん奴やけど、とりあえずマフィアやなさそうやし。ええよ。乗り掛かった船や」
「それは、意味違うんちゃう?」
「違った? 大体合ってるやろ。うん、よし。お前の好きにしたらええよ。何で俺なんかは、よぉ分からんけどな」
「コウイチ」
「何?」
「愛してる」
「さっきも聞いた」
「何度でも言わせろや。減るもんやなし」
「耳にタコ出来るわ」
「お前は、ムードのない奴やなあ」
 言いながら、ツヨシに抱き締められる。その腕の中が案外心地良い事を、コウイチは知り始めていた。胸の中にある懐かしさのせいか、触れられる事が怖くない。
「愛してる」
「ツヨシ……」
「愛してくれなんて言わんから、少しの間俺の側にいてくれ」
「……お前は、傲慢なんか謙虚なんか分からんわ」
 抱き締められたまま笑えば、ツヨシも同じ様に笑っていた。彼の「愛してる」を受け止める事は出来なくても。
 真っ直ぐな思いを無碍にしたくなかった。長い人生の中で、少し位道が逸れても良いんじゃないかと思う。カンパニーの皆には迷惑を掛けてしまうけれど。
 準備期間も含めて、三ヶ月と言う所だろうか。皆の優しさに甘えて、この我儘な王様に付き合う事を決めた。



+++++



 ツヨシが忙しいと言うのは本当の事だったようで、本格的に準備が始まると劇場に現れる回数は減っていた。自分達も、新しい劇場で舞台をすると言う意識に変わりつつある。
 浮かない顔をしているのは、リカだけだった。
「リカ? どうした? 具合でも悪いん?」
「コウイチ……。ううん、別に、そうじゃないけど」
「なら、悩み事か?」
「うーん、悩んでるって言うか」
 はっきりと言葉に出すリカにしては珍しく、視線を足許に向けて言い難そうに躊躇っている。衣装部屋の手前の廊下で二人、向かい合った。この劇場に来てから、リカはいつもの明るさがない。
「ねえ、コウイチ」
「ん?」
「ホントに、大丈夫?」
「何が?」
「あの男、ホントのホントに平気?」
「ホントのホントって……リカ。全然平気やって。なーに心配してんの」
「だって、あの人此処にいるとコウイチはアパートにも戻らないし、契約以上の事してる気がするんだもん」
「あいつは、俺を側に置いておきたいだけ。リカにも見せたやろ? 三階の部屋。あんな凄いの作ってもらって、住まないまんま終わっちゃうのも申し訳ないしなあ」
「それ! コウイチのそう言う義理堅さって言うか、普段冷たい癖に無駄に優しいとこがあるから、心配なの。分かってる? あの男は、コウイチの事が好きなんだよ?」
「んー、まあなあ」
「何でコウイチは変な所で暢気なの?」
「暢気って……酷いなあ。俺、生まれて初めて愛してるとか言われたから、吃驚しとんのかもなー」
 まるで他人事の様に言うコウイチを呆然とリカは見上げた。小さな頃から大好きで仕方のない人だけれど、時々何かがこの人には足りないんじゃないかと思う。それは、彼自身の責任でもあるし、彼を甘やかし過ぎた周囲のせいでもあった。
 コウイチは世間知らずだ。勿論、オフで生きていると言う事はそれなりの苦労もあるし、仮にも座長だった。大変なのは分かっている。
 けれど、世間にはとんでもなく疎かった。コウイチを目指して来る輩は彼の元に辿り着く前に米花達によって防がれていたし、彼を引き抜こうとするビジネスなんだか趣味なんだか分からない演劇界のお偉方には大倉が率先してやんわりと話をない物にしている。
 彼には舞台の上で生きる事だけを考えて欲しかった。カンパニー全体の願いでもあるそれに、リカは時々首を傾げてしまう。
 コウイチが、直接愛の言葉を受けない為に色々な手を使って守って来た米花達が不憫過ぎた。
「コウイチは、好きって言われたら誰でも許しちゃう訳?」
「そんな事あらへん」
「じゃあ、何であの男は良いの?」
「俺も、分からんのや。でも、うーん。何でかな。何か、懐かしい気する」
「懐かしい? あんなマフィアが?」
「やから、マフィアちゃうって。ちゃんとしたデザイナーやったやろ」
「うん、それなんだけど」
 リカは眉を顰めて、ずっと思っていた事をコウイチにぶつけた。
「デザイナーDが受賞したのって、十年以上前の話なの」
「うん。この間言ってたな」
「おかしいと思わない?」
「何が?」
「だって、十年も前だったらあの男もまだ子供でしょ? どう見たって同年代じゃない」
「んー、天才なんちゃう?」
「あのね。ニューヨークで生きてて良くそんな事が言えるわね。確かに実力主義だけど、ガキにチャンス与える程、此処の人間は甘くない」
「言われてみれば、そんな気もするな」
「ね? だから、心配なの。私達、騙されてるんじゃないかって。この劇場があの男の持ち物じゃなくたって構わない。何処でだって公演は出来る。でも、私はホントにコウイチが心配なの」
「ありがとな」
「コウイチ!」
「リカに心配されるようになるとはなー。俺も、ホンマにしっかりしないといかんな」
「私は本気で……!」
「うん。分かってる。でも、大丈夫やよ」
「大丈夫とか、軽々しく言わないで」
 瞳を簡単に潤ませるリカが可愛いと思った。コウイチはゆったりと笑う。
「大丈夫やもん。やって、このネックレスが守ってくれるんやろ?」
「あ……」
 コウイチが見せたのは、千秋楽の時にプレゼントしたネックレスだ。まさかちゃんと付けてくれているだなんて思わなかったから、リカは素直に嬉しかった。
「な? 大丈夫やろ? リカのお守り、強力っぽいしな。……さ、稽古始めよか」
 ぽん、と兄の仕草で頭を叩くとコウイチはステージへ歩き出す。置いて行かれない様にと、リカもすぐに駆け出した。



+++++



 今日はツヨシの戻って来る日だから、と錦戸はコウイチを迎えに来た。いつも通り劇場の三階へと向かう。
「こーぉーちゃーーーん!」
「わ、何やの! ツヨシ!」
「やって、会いたくて会いたくて死にそうやったんやもん!」
 扉を開けるなり、バスローブを着たツヨシに抱き着かれてコウイチは驚いた。後ろに付いていた錦戸は別段何の反応も見せずに、部屋に入ると書類とそれから小さな袋をデスクの上に置く。
「此処に薬、置いておきますね」
「ああ、ありがとな。リョウ、お前はもう帰り。ずっと、此処の様子見ててくれたんやろ」
「はい。失礼します」
 静かに部屋を出て行く錦戸を、ツヨシに抱き締められたまま見詰める。空気の静かな男だけれど、職務に忠実と言うか、話はしなくとも彼の真剣な目線が舞台への情熱を物語っている気がした。
 ツヨシの言葉通り、毎日毎日自分達の稽古を見に来ては何も言わずに去って行く。舞台の上で、彼の視線を痛い程感じていた。
「ホンマに毎日、来るんやで。あいつも忙しいんちゃうの?」
「俺の秘書やからな。忙しくない事はないやろ」
「別に見張らんでも、俺らはちゃんとやるで」
「そんなん心配してへんわ。あいつは、俺の目や。俺が見れない事全部、あいつに見てて欲しい」
「あんま、無茶ばっか言うなや」
「何? リョウの肩持つん?」
「そう言う訳ちゃうけど……」
「ならええやん。さ、一緒に風呂入ろ」
「……一緒?」
「何や? 何か問題でもあるん?」
「や、ないっちゃないけど、あるっちゃあるやろ……」
「何処がー? 別に、やらしい事せえへんて。あ、もしかして、して欲しいん?」
「んな訳あるか! 阿呆」
「コウイチさん、俺ね、疲れてんの。パリの後に日本も行って来たからな。一緒に風呂入って疲れを癒して貰おうって言う、俺のこの繊細な乙女心が分からんかなあ」
「分かるか、ボケ。ほら、疲れてんなら、とっとと入ろうや」
 身の危険は本当になさそうだから、コウイチは先に浴室へと向かった。誰かと一緒に風呂に入る事なんかない。緊張しないと言えば嘘になるけれど、契約だからとかそんな理由ではなくまあ良いかと思えた。
 警戒心が強そうで存外無防備なコウイチを、カンパニーの面々は本当に心配しているのだけれど、勿論本人は知る由もない。
 シャワーをさっと浴びると、既にお湯が張ってあるバスタブに身体を沈めた。男同士だし、広過ぎるバスタブだし、其処まで嫌ではないだろう。
「コウイチ」
「ん? 何?」
「お前、ホンマに今まで誰にも襲われた事ないん?」
「俺、男やで? 襲われる訳ないやん」
「……何か、カンパニーの苦労が今分かったわ。こりゃ、俺も睨まれるわな」
「何やねん」
リアルちゃいるどまいんだー嵐の幸福なる日常



桜上 水





エピソードⅠ. 「この男に不可能はない!」



 最近少し調子がおかしいなとは思っていた。自分の身体なのに、自分の身体じゃないような、そんな違和感。
 大野は、いつも通りソファに寝そべりながら何気なく自分のお腹をさする。うーん、と唸って早い内に病院に行くべきかな、と考えた。
 風邪でも引いていたら、皆に移しかねないし。家を出る前に測ったら、高熱とまでは行かないが熱も出ていた。仕事が終わった後、マネージャーに病院に連れて行ってもらおうと決める。
 いつもなら、周囲に強く言われるまで行きたがらない大野が自発的に行こうと思っている時点で異常だった。けれどまだ、その異常性に気付く者はいない。

 「先生! 何て言いましたっ?」

 仕事が終わってから開いている所は少ない。事務所掛かり付けの病院に連れて来てくれたのは、マネージャーではなく櫻井だった。
 いつもの過保護ぶりで「今日車だから良いよ」と申し出たのだ。唯の風邪なら処方箋をもらっておしまいだった。
 なのに何故か、良く分からないまま全身を検診されて、神妙な顔で「既婚されていますか?」と訊かれる。残念ながら恋人はいるけれど、結婚は出来なかった。相手が櫻井じゃなくても大野の所属する事務所であれば既婚者が少ない事位医師は分かっている筈なのに。
 「いません」と答えれば、医師は何て事のない顔で「最近セックスをしたのはいつですか?」と訊いて来る。普段物怖じしない大野でもさすがに驚いた。
 正直に答える事も出来ず黙っていれば、医師はゆっくりと口を開く。言いにくそうに、眉間に皺を寄せて。その言葉と、待ちくたびれた櫻井が掛かり付けの病院であると言う気安さで、診察室の扉を声を掛けながら開けたのは同時だった。
 そして、前述の櫻井の叫びへと繋がる。
「あの、申し訳ありませんが、部外者の方は待っていて頂けませんか」
「部外者じゃありません!」
「いえ、幾らメンバーとは言いましてもご家族以外の方にはお話出来ませんので……」
「智君を孕ませたのは、俺以外あり得ません!」
「……っ!」
「あ、た、多分。ですけど。……智君? 俺以外としてないよね?」
「……しょーくん、今不安になるのはそこじゃないと思う」
「あ、そっか」
「で、ではお座り下さい。大野さんは、妊娠七週目です」
「ええと、確認したいんですけど、男も妊娠するんですか?」
「いえ、私はそう言った症例は聞いた事がありません。唯、妊娠しているのは間違いのない事です」
「智君は、ホントに何でも出来る人なんだなあ……」
「だから、翔君。話が違うと思う」
「勿論、産んでくれるよね?」
「……いや、だから」
 何で自分が、櫻井に常識的な話をしようとしているんだろう。いつも大野を諭すのは櫻井だった。
 先刻の叫びなんか無に帰して、既に嬉しそうな顔で笑っている。こいつ、やっぱり常識人の仮面を被った異端児だった。
 はあ、と溜息を吐くと大野は一瞬で覚悟を決める。迷っていても仕方なかった。これから生まれる諸問題は櫻井に丸投げしてやれ。
「僕が産む事は、可能なんですか?」
「宿っている以上、不可能ではないかと思います」
「じゃあ、産みます。……ウチの事務所に産休制度なんてねえよな」
「良いじゃん。智君が作っちゃえば! 嵐はパイオニアだしね!」
「……翔君、お前が父親になるんだから、事務所への説得とかファンの子への説明とか、全部任せたかんな」
「うん、任しといてよ! 俺達の子が産まれるのかー。すげえなー」
「あ、メンバーには一緒に話すから」
「勿論! あいつら喜んでくれるかな」
「……いや、そんなに簡単には行かないと思う」
 完璧に舞い上がっている櫻井にげんなりしながらも、自分のお腹を撫でる。産めるのかどうか分からないけれど、ここに命が宿っているのなら産むしかなかった。
 下ろすと言う選択肢が頭を掠めた事は誰にも言わないでおこう。
 医師と話すのは事務所の人間を連れて来てから、と決まった。何度も同じ話をするよりは、必要な人間を集めて一度で話してもらった方が早い。
 子供が産まれる事よりも、大野と櫻井が付き合っていた事の方が問題なんじゃないだろうか。思いつつも、嬉しそうな横顔を見て何も言えなくなってしまった。



 大野の妊娠が発覚してから三週間後。打ち合わせの名目で、事務所の会議室を借りた。これから三人に話をする。
 病院から事務所に戻ってからが大変だった。まずは「何でお前達が付き合っているんだ!」と言うところから始まり、「せめて避妊をする位の知恵はなかったのか」と怒られ(これについては余りにも理不尽だと思う)、下ろして欲しいと懇願される。
 まあ、当然の流れだなと思っていたら、櫻井が得意の理論武装ではなく情に訴えると言う方法で、切々と子供への思いを説いた。
 最終的に、ファンには伝えない事、産休の時期は次回個展への準備とし、本当にその時期が来るまでに作品を作り溜めておく事、嵐として活動をし続ける事を条件付けられて許可を得た。
 本当に産めるのか、と言う不安は尽きないけれど医師が手を尽くすと言ってくれたから何も考えないようにする。自分の胎内に子供がいる事が、怖くもあり嬉しくもあった。
 櫻井は、今までだって十分優しかったのに更に優しく守ってくれる。こいつの子じゃなかったら、もっと迷っていたかも知れない。思う度、自分の愛を自覚した。
 メンバーには自分達の口から説明したい、と事務所の人間にはしつこく言って、今日の場を作ったのだ。櫻井と大野が並んで座っていると、程なくして三人が入って来た。
「おはよー!」
「……あら、二人とも一緒だったんですか」
「最近ずっと一緒だよな」
「うん、まあな。座って」
「何? 今日は翔君仕切り?」
「うん。実は、報告したい事があって」
 大野の前から、相葉・二宮・松本と並んで座る。対面になると、しなくても良いのに櫻井は緊張した。
その表情の変化に、松本は眉を顰める。
「何か、良くない話?」
「いや、違う。俺としてはすっげー嬉しい話。でも、嵐にとっては面倒臭い話になる」
「どう言う事?」
「あーうん、その……」
 櫻井が困ったように言い淀んだ。体面を重んじる人だ。仕方ないと笑って、大野は口を開いた。
「おいら、妊娠してるんだ」

 それからたっぷり三十秒。会議室の空気は固まった。ぽかん、という表情がぴったりの三人を順番に眺めながら大野は小さく笑う。
「……おじさん、それはマジな話? 俺はあんたの分かりづらい冗談も大好きなんだけど」
「マジ。笑えねえだろ。俺が妊婦とかって」
「いや、あんただったらやりかねない、と思わせてくれる辺りがさすが大野智って言うか」
「リーダー。産むの、決めてるの?」
「うん。出来るかどうか分かんないけど。やってみる」
「あんたの身体に負担は?」
「分かんない。良く言うよね。陣痛の痛みは男には耐えれないって。とりあえず、お医者さんも頑張ってくれるみたいだし」
「今は? 体調悪かったりしない?」
「大丈夫。ありがとな」
 二宮と松本のそれぞれの反応に、大野は笑みを深くする。優しい人達だった。反対されないとは思っていたけれど、こうして全部包み込もうとする強さと優しさを持っている人達だった。
 櫻井もほっとしたように息を吐く。しょうがないヘタレの旦那様だ。
「ちょ! 相葉さん! 何泣いてんの!」
「……だ、ってぇー。リーダーと翔ちゃんに子供、出来たんだよー。うー、嬉しい、じゃんかー」
「相葉ちゃん」
「リーーーダーーー!おめでとーーーーー!」
 テーブル越しに腕を伸ばして抱き締められた。素直な素直な相葉。彼の愛情の深さを疑った事なんて一度もない。
 ぐしぐしと泣きながら、涙声でおめでとうを繰り返していた。その愛らしさに大野も嬉しくなる。喜び合っている二人を置いて、二宮と松本は櫻井に真剣な目を向けた。
「結婚、っつっても出来ないもんね。どうすんの?」
「ああ、養子縁組して俺が智君の子になろうかとも思ったんだけど」
「大野翔じゃ、何かカッコ悪いでしょ?」
 横から大野が口を挟む。確かに、「おーのしょー」ではインパクトに欠けるかも知れない。と言っても、発表しないのだから活動して行く上で問題はなかった。
「どうなったの?」
「俺の親父の養子に智君が入る事になった。だから、戸籍上では智君がシングルファザーになっちゃうんだよね。残念ながら」
「リーダーの両親は、それでも良いの? 一応、あんたの方が年上でしょ?」
「うん。全然平気。何かさー、翔君の母ちゃんが張り切ってくれて、家もリフォームするとか言い出してんの。何年か前にリフォームしたばっかなのになあ」
「そうだよね。智君はウチの子になるんだから、とか言っちゃってさ。でも智君の母ちゃんもノリノリだったよ」
「そうだなー。嬉しそうだったもん、母ちゃん」
「え、ちょっと待って。実家に住むの?」
「うん。だって、子育て二人じゃ出来ないもん」
「ウチも共働きだからずっとは面倒見れないだろうけど、手伝うって言ってくれるし。甘えとこうかなあって」
「あんたら、二人でマンション借りてるでしょうが」
「うん。産まれるまではそっちに住むけど、産まれたら引っ越す」
 二宮は突っ込むのにも疲れて、櫻井を見る。隣に座る松本もげんなりと言った表情だった。
 大野の現実離れした部分は致し方ないとしても、櫻井が完璧に浮かれている事が納得出来ない。諸々の不安は、当事者ではない二人でも容易に思い付いた。
 幸せなのは良い事だけれど、先が思い遣られる。こうして話してくれたのだから、今後は一緒に自分達も口出しすべきだろう。
「でさー、翔ちゃん」
 感激屋の相葉は泣き止んだようで、大野から離れるとわくわくと言った表情で問い掛けた。
「リーダーのパパに殴られたりした?」
「何だそれ……」
「松潤! 引かないでよ! だって、デキちゃった婚だよ? ウチの大事な息子を傷物にしやがって!とか怒られてもおかしくないじゃん」
「あら、そういえば」
「ニノ!」
 不適な笑みを浮かべながら、二宮は櫻井へ手を伸ばした。唇の脇、僅かだったけれど赤くなっている。
「殴られたよ……」
「でも、おいらんちじゃなくて、翔君の父ちゃんに」
「何それー!」
「大事な嵐のリーダー孕ませるとは何事だ!つって。超キレてたよ」
「うわー修羅場じゃん」
「見てみたかったですねえ」
「つーか、翔君のお父さんも論点違うだろ」
 怖そうな外見とは裏腹に、嵐の事を好きでいてくれる父親だった。全員面識があるから、その時の様子が明確に思い描けてしまう。
「リーダーの両親は? どうだった?」
「うーん、ウチはー。まず、母ちゃんが喜んだ。んで、父ちゃんも喜んだ。姉ちゃんも喜んだ」
「さすが大野家」
「でも、翔君と住むって言ったら、寂しいって言われたから、何かあったらすぐ『実家に帰ります』って言おうと思って」
「良いなー、リーダー。俺もそんな事言ってみたーい」
「あんたが言う日は来ませんよ」
「何で?」
「俺の傍離れて、どこ行くって言うのよ」
 櫻井と大野だけでも手一杯なのに、うっかり頬を赤く染めている相葉と優しく目を細める二宮まで加わって、ウザい事この上ない。部屋の中が物凄くピンク色だった。
 松本は、これから先が思い遣られる、と頭を抱えながら、それでも幸せだなあなんて思う。ウザいし鬱陶しいけど、愛すべき人達である事に変わりはなかった。
「なあ、リーダー」
「ん?」
「本当の本当に、出産してもリーダーの身体は大丈夫なんだな」
「うん。大丈夫。……な気がしてる」
「俺は、子供が生まれてリーダーがいなくなるなんて、絶対嫌だからな。リーダーがいなくなる可能性があるなら、祝福出来ない」
「まつもっさん……」
 前例のない事に平気で臨もうとする大野が嫌だった。何よりも誰よりもまず、自分の身体を大切にして欲しい。
「大丈夫。一人じゃないし」
「……そう、だよな。翔君いるしな」
「ううん、違う。皆がいるだろ。まつもっさんも相葉ちゃんもニノも。だから、おいらは大丈夫。まだお前らと一緒にいたいもん」
 誰よりも自分が一番不安な筈なのに、大野は綺麗に笑う。命を宿したせいだろうか。元々柔らかい表情が、もっと柔いものに変化した気がする。
「おいらね、我儘かも知んないけど。この子は翔君とおいらの子で、でも嵐の子にしたいって思ってんの。……迷惑?」
「そんな事、ある訳ないじゃん! 俺も一緒にお父さんやる!」
「俺も相葉さんに賛成です。ま、この人に父親は無理だけどね」
「――松潤は?」
「当たり前だろ。翔君だけじゃ、ロクな大人にならねえよ」
「おい! どーゆー意味だよ、それ!」
 結局、いつも通りの楽屋風景になってしまった。不安は絶えず大野の心臓にある。本当に命を育めるのか。出産に耐えられるのか。嵐を続けながら子育ては出来るのか。数え上げたらキリがなかった。
 でも。
 松本がいて相葉がいて二宮がいる。勿論、いつでも櫻井は傍にいるだろう。きっと大丈夫。何の根拠もなく、大野は思った。
<入金先>
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 (普通)1251861
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426619
 多分、最初から。
 あれは、恋だった。



 時間がなかった。他に方法は幾らでもあっただろうけど、自分に出来る一番早い方法を取る。
 とにかくもう、時間がないのだ。

 カンパニーの千秋楽。オフブロードウェーと言っても、コウイチ達の公演は成功の部類に入るだろう。劇場のオーナーである大倉は、誇らしげに打ち上げで盛り上がっているメンバーを見た。
 その輪の中心にいるのは、カンパニーになくてはならない存在、コウイチだ。あの小さな身体にどれだけの輝きを秘めているのか。ともすれば女の子のように可愛らしい顔立ちで、けれど多分カンパニーの中で一番男らしい人物だった。
 今はステージの上の神々しいまでの煌めきを置いて、ひたすらに愛らしい笑顔を振りまいている。コウイチの笑顔を見ると、何だか幸せな気分のなるのだから不思議だった。
 その一番近くにいるのは町田だ。本気なのか冗談なのか、恐らく本人にも区別のつかないところで彼はコウイチが大好きだった。恋に近い羨望の情。周囲の人間も微笑ましく見ていられるのだから、問題はないだろう。
 何より、その愛情を一身に受けているコウイチ自身が平気な顔で無防備に笑っているのだ。心配すべき事はどこにもなかった。
 輪から一つ離れた場所、昔から一緒にいる割には大倉と同じ様に外側からコウイチを見守るのが米花だ。時に兄の様に、時に父の様に、そして大事な大事な幼馴染みの一人として側にいた。
 愛情の深さでは町田に劣らないかも知れないけれど、彼の場合はきちんと仲間としての情愛だ。間違えずに側にいる所が米花の米花たる所以だろうか。
 町田とポジションを奪う様にして笑顔を見せるのが、リカだった。彼女もまた幼馴染みの一人だけれど、昔からコウイチ一筋と言う点では町田とはライバルに当たる。
 子供の頃の感情そのままに恋をしている姿は可愛らしいものだった。本人が気付きそうもない時点でかなり望みは薄い。めげない強さが彼女の良い所だった。
 そして、リカを密かに思っているのが屋良だ。負けん気の強さと彼女への恋から、コウイチへの敵対心は人一倍強かった。とは言っても、兄弟の様に育って来た二人だ。コウイチも屋良の気持ちを分かりながら、楽しんで対決している様な節があった。
 いつか、屋良が主役を張る日が来る。
 大倉にだけ小さく小さく零したコウイチの横顔は綺麗なものだった。当分渡してやらんけどな、と笑った彼の表情に屋良に向けた愛情を知る。
 仲間でありライバルであり、そして家族でもあった。このカンパニーの絆の強さを大倉は誇りに思っている。皆一緒に、これからも良い舞台を作り上げて行きたかった。
「さ! そろそろ解散してよー! 電気代だって馬鹿になんないんだからさー!」
「はーい。全く、大倉さんは固いんやからなあ」
「そうだよ。せっかく千秋楽だってのにさ。まあ、そろそろ終わりにしますか。明日もバイトの奴多いんだろ?」
「うーわー! 米花さーん! いきなり現実に戻さんでもええやんー」
「あ、コウイチ。現実戻った? それは良かった。じゃあ、ウチのオーナーが泣き出す前に解散しましょ。俺は明日、ペンキ屋でバイトなの」
 米花はコウイチの肩を抱くと、問答無用で帰ろうと促す。カンパニーの連中を一人一人帰す様仕向けるよりも、彼一人を追い出した方が効率が良かった。
「あ! 私も帰るー!」
「ちょ! リカ! コウイチの腕組むな!」
 相変わらず騒がしいメンバーを連れ出してくれた米花に感謝をしつつ、大倉はオーナーとして戸締まりを始める。父親から受け継いだ大切な劇場だった。オフではあるけれども、立派な場所だと思っている。
 この劇場のステージでコウイチ達が踊るのが好きだった。演技者である以上、高見を目指したい気持ちはあるけれど。
 まだ、ここで踊っていたかった。
 全ての場所の消灯と戸締まりを確認して、劇場を出る事にする。大倉も明日はバイトがあった。オーナーとは言えども、カンパニーを食わせて行く為には働かなければならない。
 明日も頑張ろう、と伸びをした時だった。一人の黒ずくめの男が立っているのに気付く。
 華やかな場所であっても、ここはニューヨークだった。用心するに越した事はない。じ、と相手を見詰めた。サングラスで、その双眸は伺い知れない。
 小柄な男だから、もし襲われても逃げ切れるのではないか。いや、そもそも教われると限った訳ではない。
 お人好しの大倉は、明らかに怪しい男を前にして迷ってしまった。もしこれが暴漢であったなら、確実に身ぐるみを全部剥がれていただろう。
 あいにく、黒ずくめの男の目的は金銭ではなかった。
「このカンパニーのオーナーですか?」
 流暢な日本語に、大倉はまず驚く。カンパニーの中では日本語を使う事が多いし、未だにコウイチなんかは慣れた人間の前では故郷の訛りが抜けていなかった。
 けれど、一歩外に出て日本語で話し掛けられる事は滅多にあるものではない。思わず、はい、と頷いてしまった。
「そうでしたか。ワタクシ、堂本と申します」
 怪しげな男が差し出したのは一枚のシンプルな名刺。そこには、デザイナーと言う肩書きと堂本だけのミドルネーム。
 思わず大倉が固まったのは、その名字の男をもう一人知っているからだ。ニューヨークに住む日本人で同じ名字の人間には会った事がない、と本人も言っていた。日本でもあんまない名字らしいわ。そう呟いた彼の表情を思い出す。
 大倉は差し出された名刺を呆然と見遣った。他人、だと思う。だって、コウイチに親族は一人もいないのだから。
「大倉さん?」
「あ、は、はい」
「是非、貴方のカンパニーとビジネスをさせて頂きたい」
 夜の闇に溶け込んでしまいそうな風貌のまま、男は笑った。
 動き出した歯車を止められる人間は、どこにもいない。出会うべくして出会った者、起こるべくして起こった事。もし神がいるのなら、慈悲はどこにあるのか、と問うてみたかった。



+++++



 翌日、バイトが終わったメンバーだけでショーを見に行った。根っからのショー好きの人間達だ。劇場を出ても興奮冷めやらず、と言った所だった。
 皆であそこが良かった、此処が足りなかった、と論評しながら電車代を節約して歩いて劇場まで戻る。ショーを見ていたら、自分達も踊りたくなってしまった。
 次の公演の準備と称して、皆で踊ろうと見終わってすぐに決めたのだ。屋良を先頭に劇場へ着くと、見慣れない車が止まっていた。
 コウイチの隣にいた大倉が、びくりと怯む。知らない車は怖いけれど、そこまで警戒する事もなかった。ん? とコウイチは首を傾げる。
「どしたん? 大倉」
 言い終わるのと同時に車のドアが開き、一人の男が現れた。見た事のない顔だ。スーツからネクタイ、シャツに靴、そしてサングラスに至るまで全てが真っ黒で異様な威圧感を醸し出していた。
 真っ直ぐにコウイチの元へ歩いて来るのに、思わず身体を強張らせる。ショーの世界に身を置きながら、人見知りな性格は変えられなかった。物怖じしない性格ではあるけれど、対人関係に関しては駄目だ。
 こんなコウイチを、カンパニーのメンバーは嫌になる位知っていた。愛すべき座長の敵になり得るものは、何であれ排除して行きたい。
 す、と米花が守る様に一歩前へ出た。
「こんにちは」
 男がゆっくりと笑う。嫌な感じだ、と米花は眉を顰めた。サングラスの所為で瞳は見えないけれど、他人を値踏みする気配が見える。何より、これだけ人数がいるのにコウイチにしか目を向けていないのが不愉快だった。
「初めまして。貴方が、コウイチさんですね?」
 ふっと笑った表情に、コウイチが表情を強張らせる。日本語の安心感以上に警戒心を募らせた屋良が口を開いた。
「初めて会った人間には、自分から挨拶するのが礼儀だろ?」
「……ああ、昨日大倉さんにはご挨拶したんですけどねえ。お話しになられていないようだ。……僕から話させて頂いても?」
「いえ! 俺が話すんで! と言うより、そのお話は昨日お断りした筈です!」
 滅多にない大倉の怒りの滲んだ声に、ただ事ではないと全員で警戒心を強める。コウイチは、呆然と目の前の男を見ていた。
 この男は、自分達の空間に何か悪いものを持ち込もうとしている。嫌だ、と思うのに目を逸らす事すら出来なかった。サングラスの奥、その瞳は間違いなく笑っている。
「違うやろ? あんたの判断なんてどうでもええ」
 いきなり語調を変えた男に、全員が明確な敵意を持った。こいつを、コウイチの側に行かせてはならない。リカすら厳しい表情でコウイチの後ろに立っていた。
 怯む事なく一歩前に出た男は、優雅な仕草でサングラスを抜き取る。コウイチは逃げる事も出来ず、真正面からその闇色の瞳を見返した。
「申し遅れました。堂本ツヨシと申します」
「……どーもと?」
「はい」
 含みを持たせた笑み。ニューヨークで生きて来て、一度もその名字を聞いた事はない。唯の偶然か、それとも。
 名字一つで動揺したコウイチの手を、ツヨシは簡単に引き寄せる。拒絶する暇もなかった。
 手の甲にそっと、口付けを落とされる。唇を付けたまま上目遣いに見詰められて、コウイチは完全に固まった。ツヨシの口許が意地悪げに歪む。
「お前の為に劇場を建てた。そこで、踊って欲しい」
 一言一言、言い聞かせる様な声音だった。コウイチだけではなくその場にいた全員が呆然とツヨシの言葉を反芻する。劇場を建てた、なんて何を酔狂な。
 一番最初に立ち直ったのは、一度話を聞いていた大倉だ。
「堂本さん! そのお話はお断りした筈です。お引き取り下さい」
「うっさい奴やなあ。俺は、コウイチに踊って欲しいんや。一応礼儀通そう思うてお伺い立てただけやし。……ここじゃ何やな。場所、移そか」
「待って下さい。コウイチだって断るに決まっています」
 挑む様な目線だったけれど、米花は事態を悪化させない様、余り声を荒げずに言う。左手を取られたままのコウイチが、その声にゆっくりと反応した。緩い瞬きすら、優雅なものに見える。
「うん。……申し訳ありませんが、いきなりそんな事を言われても、応じかねます。私は、このカンパニーの一員ですし」
 やんわりと断ったコウイチの言葉の固さに、メンバーは内心で安堵する。彼の警戒真の強さであれば、何も怖がる事はなかった。人に対しては周囲が心配になる程臆病なところがあるけれど、根本的には毅然とした姿勢で臨む強い人だ。
「まあ、そう言うやろうとは思ってたわ。お前の頑固は聞いとったし。でも、こっちも真剣なんや。簡単には引けへん」
「堂本さん。私は、一人では踊れません。一人ではステージを完成させる事が出来ません。カンパニーがあるから踊れるんです。このカンパニーで生きて行こうと思っています。だから、お話はお受け出来ません」
 怯えも迷いもない澄んだ目でツヨシを見詰める。コウイチの言葉に今此処にいる人間がどれだけ救われるのか、彼は知らないだろう。座長の為に、なんて言ったら大袈裟だけれど、彼がいるからカンパニーは一つでいられた。
「あんたの意思が固いんは知っとるけどな。こっちも本気なんや。お前の為のもんやから、一度見て欲しい」
「え! わ、わっ!」
 ぐい、と腕を引っ張られたかと思うと誰も対応出来ない位の素早さで、コウイチを自分の車に押し込む。誰も動く事が出来なかった。
「すぐ返すわ~。探さんでええからな~」
 車を出しながらツヨシが叫ぶのを、カンパニーは信じられない思いで聞く。探さなくて良いなんて言われて、そのままいられる筈はなかった。
「おい! 待てよ!」
 走り出したのは屋良だ。その後を着いて全員が追い掛けた。
 が、走る距離は短い。大倉の劇場の隣、随分長い間工事中の白い幕が張られた場所にツヨシの車が止まっていた。
「なあ、これ……」
「俺もおんなじ事思った」
「の、覗いてみる?」
「ねえ、やっぱりコウイチが帰って来るの待たない?」
「何で?」
「だって多分、大丈夫だから。あいつ、コウイチを踊らせたいんでしょ? そんなのコウイチはやんないだろうし、下手に動いて弱味を握られるのも嫌じゃない。幸い、隣は私達の劇場だし大人しく待ってましょうよ」
「逃げんのかよ」
「そうじゃなくて!」
「うん、俺も賛成だな。必ずコウイチは帰って来るよ。な?」
 リカの言葉に同意した米花は、納得のいかない屋良の背中を抱いて劇場へと進む。あの男が何を考えて言い出したのかは分からないけれど。
 コウイチを信じるのが最善の策だと、米花は信じていた。

「うわ……」
「凄いやろ? お前んとこの劇場じゃ、この手の機材は入れられんからな。重過ぎて建物が耐えられん。でも、お前こう言うの好きやろ?」
「うん」
 見るだけ、と念押しをして入った白幕の内側。其処には既に完成した劇場があった。大倉の、自分達の劇場のすぐ隣。何かを建設している事には気付いていたけれど、まさか同じ様に劇場が建てられるとは思わなかった。
 車の中で運転の為に離していた手は、劇場内に入ってまた引かれてしまう。温い体温がコウイチは得意ではなかった。潔癖のケがある事は自覚している。カンパニーの人間でも全員が大丈夫な訳ではなかった。さすがに、幼い頃から一緒にいる屋良達は平気だったけれど。
 触れる事が得意ではないのが、対人関係の苦手な大きな一因だった。なのに今、引かれた腕に嫌悪感がない事が不思議で仕方ない。
 どうして。
 良い印象を持つ事の出来ない相手だった。それでも、離すつもりもない強い拘束が気持ち悪くはない。
 座り心地の良さそうな客席を通って、ステージに上がった。真新しい匂いのする板の上から見渡す景色は、ここで踊りたいと思う程素晴らしいものだ。
 手摺から天井に至るまで、細かい装飾がなされていた。今時珍しい木の造りは、恐らく音も綺麗に響き渡るだろう。
「どうや? 気に入ったか?」
「凄いなあ、これ」
「俺が設計図引いたんや」
「……え?」
「専門外やけどな。ああ、言ってなかったか。俺、デザイナーなんよ」
「デザイナー?」
「うん。メインは、舞台の衣装デザイン。このステージで踊ってくれたら、お前の衣装も作りたい」
「俺は、貴方に此処までしてもらう覚えはないよ」
「貴方じゃなくて、ツヨシな。覚えて?」
「……ツヨシさん」
「ツヨシでええよ」
「なら、ツヨシ。此処は凄く綺麗やし、素晴らしい劇場になると思う。けど、俺には踊る場所と一緒にいたい仲間がいる。だから、此処では踊れない」
 繋いだ手の先で、ツヨシは痛そうに顔を歪めた。サングラスを外してしまえば、怖い男じゃない事が分かる。劇場を案内してくれた表情は明るく優しいものだったし、先刻の高圧的な態度が素なのか演技なのか、分からなかった。
 けれど、どちらにしろ自分は踊れない。踊りたい場所があった。彼らと一緒にこれから先も光の先を目指して行く。
「お前に立ってもらわんと、この劇場は生きる事すら出来んのや」
「うん、ごめんな」
「どうしても、駄目か?」
「あかんよ。大倉の劇場は隣やもん。俺が此処で踊るんはおかしいやろ」
「すぐに帰れる場所がええやろう思って、此処に建てたんや」
 余りの真剣さに絆されて、コウイチは言葉遣いを崩していた。自身で気付く事も出来ず、唯どうしたら良いのかを考える。
 初対面の人間に、こんなにも真っ直ぐ思いをぶつけられたのは初めてだった。自分の為に、と言う男。
「どうして、ツヨシはそんなに……」
「あかんか? 一人のダンサーに惚れた。そのダンサーに踊って欲しいと思った。一度で良い、自分の場所で。思うんは、おかしい事か?」
「おかしいやろ、それ。何で、俺なん……?」
「お前の踊りに惚れたからや。今まで沢山の舞台を見て来た。沢山の衣装を手掛けた。でも、お前程心を揺さぶる踊り手はおらんかった。これが、理由の全てや」
「……分からん」
「もう一度言う。お前に、此処で、踊って欲しい」
「出来ん。……っん」
 拒絶の言葉を零すのと、ツヨシに抱き寄せられたのは同時だった。唇に生温い感触。ぼやけた視界にはほんの数十分前に出会った男の顔がある。
 舞台の上では経験した事があった。虚構の物語の完成度を上げる為なら、どんな事でも出来ると思っている。けれど、人と触れ合う事が苦手なコウイチは、プライベートでの経験が極端に少なかった。
 ファーストキス。そう呼んでも差し障りない程だった。
 コウイチの反応で分かったのか、ツヨシも余り責め立てる事はせず、唯優しく唇を押し当てるだけ。ゆっくりと離せば、呆然と言った表情で立ち竦んでいた。其処に嫌悪の色がないだけでもよしとしたいところだ。
「大丈夫か? 俺の気持ち伝わった?」
 不器用と言う意味では、ツヨシもコウイチと大差なかった。お互いに自覚がない分、気付く事はなかったけれど。カンパニーの誰かが見ていたら確実に、「そんなもんで伝わるか!」と突っ込めていた筈だ。
「なあ、」
 不器用ではなかなか右に出る者のいないコウイチは、呆然としたまま唇を撫でる。感情の不器用さで言ったら、恐らく彼に勝つ事は難しいだろう。

「……ホントに、会うの初めて……?」

 ツヨシは、その言葉に何も答えてはくれなかった。



+++++



「お帰り」
「あ、ヨネ。待っててくれたん?」
「ああ。皆もさっきまで一緒だったんだけどな。あんまりコウイチが遅くて心配しちゃってさ。きっとそろそろ帰って来るからって説得して、今夕飯の買い出しに行かせてる」
「ヨネは?」
「買い物行くの面倒臭かったから、色々言いくるめてお留守番役になりました」
 ほとんどが同年代のメンバーで構成されているカンパニーの中でも、米花は兄的な役割を担っている。顔の割に優しい、と言うと怒られるけれどもしかしたら大倉より穏やかな性質かも知れなかった。
 人に頼る事を潔しとしないコウイチでも、少しだけ米花には寄り掛かれる。柔らかな表情にほっとした。
「で、どうだったの?」
「最新の機材満載だった!」
「……そうじゃなくて」
「あ、ごめん。ええと」
 舞台の上の表現力は抜きん出たものがあるのに、役を離れると一人で生きて行けるのか不安になる程、コウイチは説明がおぼつかない。勿論そんな事は分かっているから、急かさずに話を聞く事にした。買い出し班には車を与えなかったから、まだ時間が掛かるだろう。
「キス」
「は?」
「キス、された」
「何だってっ?」
「なあ、ヨネ。俺、あいつと会うのホンマに初めてかなあ」
「ちょっ! コウちゃん! キスって何? 何されたの?」
 思わず幼い頃の呼び方に変わってしまう程、米花は動揺した。大事な大事な座長様を傷物にしたくはない。
 大人だから大丈夫、と皆を帰した手前もあり、あり得ない位焦っていた。コウイチは、きょとんと愛らしく首を傾ける。
「やから、キス」
「キスって! 何処にっ? 挨拶の範囲なら、俺の胸だけに留めとくから」
「ええと、手の甲」
「は、さっき俺も見たよ! 二人ん時も手の甲だったの?」
「……ヨネ、怒らん?」
「事と次第によっては怒るかも知んないですけどね」
「じゃあ、言わん」
「さっきの」
「……え」
「会うのが初めてかどうか、って奴」
「ヨネ、知ってんのっ?」
「何処にキスされたか、正直に話したら教えてあげます」
 米花とて、コウイチを虐めたい訳ではない。唯、事実は事実として把握しておきたかった。今後、あの男に対する警戒心が変わって来るからだ。
 んー、と少し躊躇う素振りを見せた後、基本的に素直なコウイチは口を開いた。ある意味、舞台だけで生きて来た純粋培養な人だ。駆け引きや計算からは、最も遠い所にいた。
「くちびる」
「あーーー! やっぱりー! コウちゃん!」
「ほらー、怒るやんかー」
「当たり前でしょ! 何で、あんな男にあっさり許してんの! コウイチの身体は、コウイチだけの物じゃないんだよ! カンパニー全員のものなんです! ……あーもう、こんな事なら大人の振りして送り出すんじゃなかった。俺達の今までの苦労って何だったんだろう……。大事に大事に育てて来たのに……皆で牽制し合って、抜け駆けだって禁止にしたからあのリカも、あの町田も大人しく頑張ってたのに……。それを、あんな得体の知れないチンピラに奪われるなんて。あーどうしよう、どうするか。俺が今此処で消毒と称してキスしても良いけど。でもなあ、それじゃビジュアル的にイケてないよなー。あいつら帰って来たら、リカに……いや、それも駄目だろう。じゃあ、屋良かな。無理か。んー、町田は論外だ。キスなんかしたら、そのまま昇天しかねない。大倉……は、ビジュアル的に保たれるけど、あいつ固いからなあ。断固拒否っぽいよなあ。……そうだ! 次の公演にキスシーン
入れれば良いんだな。そうしよう、うん。で、何度もこなせば、その内消毒されるだろ」
「……あ、あの。米花さん……?」
 後半から独り言になってしまった米花の鬼気迫る顔が怖くて、コウイチは恐る恐る声を掛けた。唯でさえ、はっきりした顔立ちは日本人がメインのカンパニー内でちょっと怖い時があるのに。
 コウイチの声に我に返ると、ごめんごめんといつも通りの顔に戻った。
「まあ、その話は置いておいて」
「やっぱり、どっかで会うた事あるん?」
「いや、会ったって言うか。客席にいたよ。俺は二回、見た事ある。でも、随分前の話だよ。コウイチが舞台に上がった最初の頃。暗い場内でサングラス掛けたまんまだから、あいつ見てんのかよって他の奴らと話してたから覚えてる」
「でも、そんなんじゃ顔分からんよ」
「分かるって! あのマフィアまがいのオーラは間違いない」
「マフィアって……もっと言いようがあるやろ。それだけ? 話した事とかはない?」
「ああ、多分。コウイチはいっつも誰かと一緒にさせてるから、話までした事あったら、絶対誰かが覚えてる。……ストーカーとかかな?」
「それは違う気、する。ストーカーやったらこんな堂々とせえへんやろ」
「うーん、どっちにしろ厄介だなあ。劇場建てるなんて、何億ドル掛かるんだよ……。対策立てねえとな」
「大丈夫やって。俺が何とかする」
「駄目! コウイチが自分で決断するとロクな事ないから!」
 過去の彼の判断と言えば、酷い物だった。表に出るものとしては最高であっても、彼は彼自身に優しくない。
 カンパニー全体でどうにかしなければならない問題のようだ。
「ま、とりあえずそろそろ皆帰って来るだろうし。さっきのキスの話は内緒な」
「うん、分かった」
「どうせテイクアウトのもんしか買って来ないだろうから、準備して待っててやろうか」
 兄の顔で笑った米花にうん、と頷いて応える。年下なのに時々本気で兄のように思う事があって、コウイチはその情に時々自分で吃驚した。米花は優しい。大好きだな、と思いながらキッチンへ向かったその背中を追い掛けた。



+++++



 米花の嫌な予感は的中した。
 と言うか、あのまま終わるだなんて誰も考えていない。またすぐに来るだろうと思っていた。
 さすがに、翌日訪れる事は予想外だったけれど。
「こんにちは」
「……何しに来たんですか」
 いつもは穏やかな町田が、入り口に立ったツヨシの前に立ちはだかる。あいにくその威圧感に勝てる訳もなく、軽く押し退けられてしまった。
「コウイチの事でお話に伺いました。大倉オーナー?」
「ウチは弱小カンパニーです。今の所、客演であっても外部の劇場にウチの人間を出すつもりはありません」
「んー、分からんやっちゃなあ。俺は、やると決めたらやる。コウイチが欲しい。隣に劇場も建てた。何も、引き抜きたいって話をしている訳ちゃう。ほんの少し貸して頂けませんか? ってお願いしてるんやで」
 とてもお願いをしている風には見えなかった。カンパニー全員が座りもせずに、招かれざる来訪者に警戒心をむき出しにする。この男の雰囲気が怖かった。本気で連れ去られてしまうのではないかと、不安になる。
「コウイチ。……どこにおんの?」
「此処にはいません。お引き取り下さい」
「コウイチ! 出て来ぃ!」
 いきなり壁をがん! と叩いたかと思うと、二階を見上げてツヨシは叫ぶ。此処に昨日コウイチの一番近くにいた米花の姿はなかった。と言う事は、二人で上にいると考えるのが妥当だろう。
 あの頑固者がメンバーを置いて、自分の為に来る人間がいる事を知りながら何処かに行く事は出来ない筈だ。もう一度壁を叩きながら、出て来いと念じた。
「……ツヨシ、此処古いんやから。そぉ言うんやめて」
「お前が俺の前にいれば済む話や」
 床を踏み締める音が微かに響いたかと思うと、ゆっくりコウイチが階段を降りて来る。後ろには予想通り米花の姿もあった。
 ツヨシは真っ直ぐに階段を降りるコウイチだけを見詰める。
「昨日、断った筈やで」
「俺はイエスの言葉しか聞きとうない」
「阿呆か。自分勝手なのもいい加減にせえ」
 その言葉の親しさに驚いたのは、カンパニーの人間だった。自分達の中にいる時は安心したように柔らかな言葉で話すけれど、外部の人間に接する時は舞台の上と同じ様にピンと張り詰めた空気を纏っている。
 たった一晩で、どうして。
 コウイチに訊いた所で明確な答えは返って来ないだろう。唯、本気で来られると本気で返したくなる性分だったから、取り繕っている暇がなかったのだ。
 今まではずっとカンパニーの誰かが守っていたけれど、今回は唐突過ぎて誰もフォローする事が出来ていなかった。本当はこんな場所に大切な座長をいさせたくない程なのだ。
「じゃあ、言葉変えるわ」
「え、何……」
「ま! 待って下さい!」
 声を荒げたのは大倉だった。けれど、間に合う筈もない。引かれる力のまま距離を縮めたコウイチは、昨日と同じ様に口付けを許してしまった。町田の、お前ホントに男か? と疑いたくなる悲鳴が響き渡る。
「ツ、ツヨシ……」
「お前を愛してる。ずっと、なんて言わん。ほんの少しでええ。俺の為に踊ってくれ」
「そんなもん許せるかーーー!」
 叫んだのは勿論町田だった。その後ろで、リカも激しく同意している。概ね、カンパニーの意思はずれていないだろう。
 屋良だけが一人、神妙な顔で眉を顰める。何かを考える様な、そんな仕草だった。
「許す許さない、の話やったら俺にも考えがあるわ。リョウ」
「はい」
 音もなく其処に入って来たのは、ツヨシと同じ様に黒いスーツに身を包んだ男だった。何かの資料を手渡すが、その仕草はまるで影と同じだ。静寂を纏っていた。
「此処の劇場、大分老朽化が進んでるな。土地を買い取って、新しい施設を建てようかと考えている」
「何を、言っているんですか。此処は、僕の劇場です」
「経営、厳しいやろ? お前、自分の貯金崩しながらこのカンパニーを持たせてるし」
「な……!」
 それは、大倉が今まで誰にも話した事のない経営状況だった。厳しい事は勿論伝えている。唯、この劇場を維持したいのは自分の意志だったから話す必要はないと思っていた。
 彼らは、踊れるのであれば此処でなくても良い事を大倉自身良く知っている。ニューヨークで踊っている人間なら当たり前だった。誰もが此処ではなく、オンを目指している。
「大倉……お前、」
「良いんだ。それは今関係のない話です。だからと言って、貴方にとやかく言われる筋合いはありません」
「まあ、そやな。でも、俺が此処を潰しに掛かるって言うたら、どうする……?」
 コウイチを右手で繋ぎ止めたまま、ツヨシは人の悪い笑みを浮かべる。得体の知れない物に対する恐怖。大倉はそれでも気丈に視線を合わせた。
「潰させません。もし此処で踊れなくなっても、コウイチ達にはまだまだ道がある。あんたの思い通りにはならない」
「どうかな? 他の劇場に立てなくする事も、俺には可能なんやで」
「何を言って……」
「ここら辺の人間には、ちょーっと顔が利くんや。俺が出さんで欲しい、って言って回ったらお前らを使う劇場はないやろな」
「一体、貴方は何なんですか」
「……皆さん、ご存知ないんですか?」
 影の様にツヨシの後ろに控えていた錦戸が、不意に声を上げる。計算しての事なのか、純粋な疑問としてなのか、其処にいた人間には判断出来なかった。
「知らないよ、こんなマフィア」
「マフィアやあらへんわ。お前、面白い事言うな」
 町田の言葉にすら笑みで答える。コウイチに向ける必死さと、場を自分のペースに持って行く傲慢さと。良く分からない男だった。
「デザイナーDの名を、ご存知ない……?」
「あ!」
 声を上げたのはリカだった。口許に手を当てて、まるで怯えた様に一歩後ろに下がる。
「そんな……だって、賞を取ったのはもう、十年も前の事でしょ。あり得ない。だって、この人若いじゃない」
「リカ? どう言う事? 知ってんの?」
「トモユキは知らないの?」
「え……ごめん。俺もこんなマフィア知らねえ」
「もし、あの人の言う事が本当なら、デザイナーDと言えばトニー賞で演劇衣装デザイン賞を受賞した鬼才よ。一切公の場所には姿を見せず、公演すら見た事がないのにその舞台にはD以外の衣装はないと思える程、完璧に舞台を引き立てる衣装を作るの。但し、素材の値段にも糸目を付けないから報酬は法外で、オンブロードウェイ以外では依頼する事すら出来ない人」
「良く、知っていらっしゃる」
「私、少しだけ演劇学校行っていたから。其処で衣装は勉強したの」
「そうでしたか。今こちらにいらっしゃるのは、間違いなくそのデザイナーDです」
 錦戸は、初めて満足げににこりと笑った。リカの説明がお気に召したようだ。
 けれど、カンパニーに人間にしてみればそれどころではない。トニー賞なんて取った様な人間なら、顔が利くと言うのは間違いなかった。実績のある人間しか、ニューヨークでは相手にされない。自分達がどれだけ実力を持っていたとしても、認められなければ意味はなかった。
「まあ、俺もあんまり振りかざしたくない権威やけどな。とりあえず、力も金もあるのは事実や。さ、もう一度問う。コウイチに俺の劇場に立ってもらいたい。公演期間は一ヶ月。きちんと報酬も払おう。公演が終わったら、きちんとこの劇場にコウイチを返す。悪い話ではないと思う」
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