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小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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「いや、コウイチさんが今まで綺麗でいられた感謝を、今度米花辺りに言ってやろう思ってな」
「ヨネ、お前ん事になると機嫌悪くなるんやから、あんま逆撫でんなや」
「気を付けます。ほい、ちょぉ詰めて」
「先シャワー、浴びて」
「あんな、何でバスローブ着てたと思ってるのよ。もう洗いました」
 腰にタオルを巻いた状態で、ツヨシは遠慮なくバスタブに入って来る。予想通り二人で入っても広いその中で、向かい合って膝を抱えた。ツヨシはあぐらをかいている。
 そして、左手には何かを握っていた。
「はい、手ぇ出して」
「え」
「言う通りにせぇ」
「……なん」
「プレゼント」
「わ……これ」
 コウイチの掌に乗せられたのは、銀色のネックレスだった。トップには、光る一つの石。
「綺麗やろ?」
「……本物?」
「当たり前やん」
「嫌や。こんなん貰えん」
「コウイチ。俺はな、ダイヤモンドやから贈るんやない。お前に似合うやろな、思ったから買って来たんや。お前は、金で物事を判断するんか?」
「ちゃうけど……。やって、こんなん貰えへん」
「俺の為に、付けて欲しい」
「ツヨシ……その言い方、狡い」
「狡くても何でもええわ。お前がしてくれるんなら」
 シンプルなカットのダイヤモンドは、コウイチの手の中できらりと光る。綺麗だ、と単純に思った。けれど。
「ツヨシ……どうして、こんなに」
「やって、嫌やったんやもん」
「な、に?」
 ゆっくりとツヨシの手が伸ばされる。またいつもの様にキスをされるのかと思って、コウイチは身構えた。
 けれど、その繊細な指先は鍛えても薄いままの胸へと落ちる。
「っな……」
「これ、あの女の子から、やろ?」
「……リカ、や」
「そうそう、リカちゃんな。何で、こんなんしてるん? ジェラシーしちゃってもええやん」
「ジェラシーって、お前」
「それを外せなんて言わんよ。でも、これも付けて」
「我儘や」
「うん。お前の事になると、俺は我儘なの。付けてくれるやろ?」
「ツヨシの喋り方は、何処にも拒否権が見当たらへん……」
「ほら、首。こっち来ぃ」
 あっと言う間にコウイチの首には二つ目のネックレスが掛かってしまう。まるで、銀色の鎖だった。繋ぎ止められる錯覚。
「うん、やっぱ綺麗やな」
「……終わったら、返すからな」
「コウイチ。プレゼントやで」
「納得行かんわ。もう、出る」
「つれないなあ」
 ツヨシの言葉を背中で聞いて、コウイチは乱暴にバスローブを羽織ると浴室を後にした。
 どうせ今日はこのまま一緒にいるのだろうけど、どうにもならない胸の内で感情が暴れてしまう。抑えようとして、一つ息を吐き出した。
 基本的にどんな事でも耐えられるつもりだ。けれどこの、首を絞める様な感覚には耐えられなかった。
 ツヨシにどんどん縛られて行く。
 今まで生きて来て、一度も感じた事のない感覚だった。指先から一つ一つ、ツヨシは慎重にコウイチを染め変える。
 どうして自分のテリトリーに入って来る男を拒めないのだろう。こんなネックレス一つで、離れられない気分に陥った。
 ツヨシが出るまでに気分を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。駄目だと思った。感情を他人に晒すのは好きじゃない。いつでも冷静に、舞台全体を見ていられる人間で在りたかった。
 泣きそうになる。ツヨシの眼差し。ツヨシの体温。真っ直ぐ過ぎるその愛情。
 どれも苦痛ではない事が、こんなにもコウイチを苦しめる。家族とすら呼べるカンパニーのメンバーはともかく、それ以外の人間は全て他人だった。
 他人に心を許したくない。弱さを見られる事が怖かった。誰かに自分を預ける事は出来なかった。
 二つのネックレス。リカのプレゼントを拒んだ事は一度もなかった。昔から何かの折にプレゼントをするのが好きな子だったから、いつもいつもコウイチはそれを使う様にしている。
 今は、此処にいる自分に不安そうな目を向けるから外せないだけだった。コウイチの中に特別な感情はない。
 もう一つのネックレスはどうだろう。特別な意味を持っていた。勝手にツヨシが持たせた特別かも知れない。けれど、受け入れた時点でコウイチも同罪だった。
 そう、罪なのだ。
 誰か一人の愛情を受け入れる事はしたくなかった。カンパニーの皆はそれぞれ大好きだけれど、一人を選ぶなんて考えた事もない。皆が等しく大切だった。リカのネックレスも同じ次元の話だ。
「俺……何で……」
 ツヨシを見ると懐かしさがこみ上げた。訳の分からない感情に翻弄されている。手を引かれても平気なのは? キスを許すのは? 一緒にバスタブに入れるのは? 他の人間だったら望まれても出来ない事を、彼にだけ許していた。
 心臓を占める懐かしさ。これを突き止めなければいけない。
「コウイチ」
「っ! な、なに?」
「何でそんな驚いてんのよ。水、飲むか?」
「あ、ああ。うん」
 ペットボトルを受け取りながら、ツヨシの顔を見詰める。どうして、知っているんだろう。どうして、こんなに全て受け入れられるんだろう。
「どうした? のぼせた?」
「ううん」
「ネックレス、よぉ似合ってるで」
 先刻の事なんかなかった様にツヨシは笑う。バスローブを纏っただけの格好で、デスクへと向かった。この部屋はコウイチの物だけれど、余りに物を置かないから、少しずつツヨシの物が増えて行く。
 デスクの上にはスケッチブックと契約書、それから分厚い手帳。恐らく、こんな場所に無防備に置いていて良い物ではない。デザイナーのトップシークレットを、平気でコウイチの前に晒した。
 何枚かのファックスを斜め読みした後、おもむろに先刻錦戸が置いて行った薬の袋を手にする。当たり前の仕草。コウイチはそれをじっと見ていた。
「なん? 薬が珍しいか?」
「ツヨシ……病気?」
「ちゃうよ。仕事が立て込むとな、どうしても身体悪くするから」
「そんな無理して仕事してんの?」
「お前やって、無理な舞台の立ち方してるやろ? それと一緒や」
「俺は、薬なんか飲まへんもん」
「コウイチさんは薬が嫌いなだけやろ? 俺は、あんま無理するの得意やないから。具合悪くして言い訳しないように、飲んでんの」
「ホンマに?」
「うん」
「病気じゃないん?」
「何? 心配してくれんの?」
「そ、そりゃ、薬飲んでたら心配するやろ。普通」
「普通の話やなくて、コウイチは俺ん事心配してんのか、って訊いてんの」
「……心配したらあかんのか」
「ううん。嬉しいなって事」
 会話の合間に薬を嚥下したツヨシは、嬉しそうに笑った。胸が締め付けられる様な笑顔。
「ツヨシ。俺、やっぱお前ん事知ってる気ぃする」
「そうか?」
「お前は、分かってるんやろ?」
「さあ、どうやろな。そろそろ寝よか」
「ツヨシ!」
「お前の記憶まで、俺は分からんもん。俺が言えるのは、お前を愛してるって事だけや」
 答えてくれるつもりはないらしい。同じ名字だけれど、絶対に親戚ではなかった。ずっとカンパニーの中で育って来たから、知り合いは少ない。バイト先や観客で顔見知りの人は勿論いるけれど、そんな遠い存在ではなかった。
 泣きたくなる。そんな懐かしさだった。
 ツヨシはコウイチの胸の内を知っているのかどうか、優しい口付けを一つ落とすと「寝よう」と寝室へ誘う。一緒に眠る事すら慣れてしまった。怖くない。嫌じゃない。
 なのに、思い出せない。記憶の底を掻き回しても、まだ答えは見えて来なかった。



+++++



 いよいよ初日まで一週間を切った。ツヨシは忙しそうに飛び回っているけれど、衣装合わせには必ずいてくれる。用意された衣装は、さすがにプロの仕事だった。
 女性陣は、ほうと溜息さえ漏らす。これを着れるかと思うと、格別の思いがあるのだろう。
「コウイチ! 見て見て! スペインの衣装! 可愛い?」
「うん、可愛い」
「感情が籠ってなーい!」
 リカがくるくる回って楽しそうにしている。衣装合わせは女の子の楽しみなんだなあ、なんて思っていたら別の場所からも嬉しそうな声が聞こえて来た。
「コウイチ! 見て見て見て! 可愛い? 可愛い? 可愛い?」
「……町田。落ち着け」
 可愛い訳はないのだが、町田も嬉しそうに衣装を見せに来た。和装の装いは、見慣れない分確かに可愛くない事もない。
「うーん、可愛い……かな」
「ホントに? コウイチのもあるから、早く着てみて!」
「俺は後ででええって。ほら、まだ裾直しの途中やろ? ピンが付いてる」
「あーそうだった! 屋良のやってる隙に来ちゃったんだ! 怒られるー!」
 まるで嵐だった。町田の、自分に向けられる感情は心地良いものだった。安心する。いつも側にいてくれて、飽きる事なく優しい愛情を傾けてくれた。
 大切な存在だ。町田もリカも、屋良や米花、大倉も。このカンパニーにいる全員が大好きだった。自分の中にある愛情すら心地良い。
 けれど、ツヨシの愛は違った。ツヨシに向けた自分の感情さえ。
 どうしたら良いのだろう。
「コウイチ」
「あ、ヨネ。衣装合わせは? 終わったん?」
「うん、次はコウイチの番。なあ、大丈夫か?」
「……ツヨシん事?」
「当たり前だろ。他に何があるんだよ」
「平気」
「ホントか? 何もされてない? つーか、一緒にさせられてる事言ってみろ」
「えー。米花さん、心配し過ぎや。大した事してへん」
「大した事かどうかは俺が判断するし。ほら」
「うー、まずキスやろ。それから、一緒に風呂入って一緒に寝て、後は飯を食わさせられる、かな。それ位ちゃう?」
「……コウイチ、お前それ絶対他の奴らには言うなよ」
「え」
「約束!」
「は、はい」
 基本的に勢いで押し通せば、コウイチは素直に頷く。今羅列された全部を、本当に何の疑問も抱かずにやっているのだろうか。……やってるんだろうな。
 米花は頭が痛くなって来た。ツヨシが強引なだけなら理由をつけてどうにでも出来るけれど、本人が嫌がっていない以上向こうに分があるのは目に見えている。
 どうせなら、リカを恋人にさせれば良かった。大事に大事に守って来た代償がこれでは、余りにも自分達が可哀相だ。
「なあ、ヨネ。俺、思い出したいんや」
「何を?」
「多分俺、ツヨシと会った事ある」
「また、そんな事言って。催眠術でも掛けられてんじゃねえの?」
「俺は其処まで抜けてへん!」
 ツヨシの所業を許している時点で、コウイチの言葉に説得力はさっぱりなかった。はあ、と溜息を吐くと早く公演を終わらせよう、と密かに気合いを入れる。
「あ、俺呼びに来たんだった。コウイチも衣装合わせだよ」
「え、俺ほとんど終わってる筈やで?」
「ジャパネスクの和装の衣装が出来たってさ」
「ホンマに? わざわざ日本まで行ったって言ってたからなあ」
 心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいではなかった。すっかり手懐けられている。裏通りにいる野良猫より余程扱い辛いコウイチを良く此処まで無防備にした物だと、つい感心してしまった。
「あれ、コウイチ」
「なにー」
「そのネックレス、どうしたの?」
「あ……」
 一瞬、恥ずかしそうに瞳を伏せる。その仕草にどれだけ相手が煽られるかなんて、まるで分かっていないのだろう。
 リカのプレゼントと別のシルバーに輝くそれは、一度も見た事がなかった。きらびやかな衣装を着こなす癖に、コウイチはアクセサリーには無頓着だったから、自分で選んだとはとても思えない。
「ツヨシに貰った」
 予想通りの言葉。特定の人間に興味を示さないのは、自分達が仕向けたせいもあるけれど彼自身の性質だった。だから何となく安心していたのだ。
 コウイチは誰の物にもならない、と。
 ツヨシのいる衣装部屋へ駆けて行く小さな背中に、米花は今までにない不安を覚えた。



「コウちゃん、やっぱ綺麗だねえ」
 感嘆の声を漏らしたのは大倉だ。ツヨシが選んだ布地で作ったコウイチの為の和装は、本当に良く似合っていた。演技者の為の衣装を作る、と言う言葉通り恐らく彼が一番映える赤で作られている。
「どうや。会心の出来やろ!」
「悔しいけど、すげえ似合う」
 屋良ですら目を逸らす事が出来ないとでも言う様に、じっと見詰めていた。観客からの視線は平気な癖に、屋良の目に照れたコウイチはそっと俯く。
「これ着て月夜やったら、絶対良いよ!」
「当たり前やろ。あの曲考えて作ったんやから」
「……すいません」
 町田の賞賛を一蹴すると、ツヨシはコウイチへ手を伸ばす。帯の長さを微調整すれば、完成だった。此処までの仕事をされては、さすがに文句も言えない。
 唯のストーカーかと思っていた部分もあるだけに、正真正銘のデザイナーだったのかと皆やっと理解した。あの、トニー賞を取った人間が自分達の為に衣装を作る。しかも、オフブロードウェイのカンパニーだからとありきたりな材料を使わずに、一つ一つ上質な布に丁寧な装飾がされていた。
 こんなに素晴らしい衣装でステージに上がったら、どれだけ幸せだろうか。皆、同じ事を思っていた。根っからの舞台人間だ。当たり前だった。
「リョウ、帯は二センチ短くしといて」
「分かりました」
 驚いたのは、唯の(と言っても有能なのは誰の目にも明らかだ)秘書と思われていた錦戸の手さばきの素晴らしさだった。訊けば、服飾の学校を出ているらしい。几帳面な針仕事は、彼の衣装への愛情を示していた。
「ちょぉ、一本電話して来るわ。戻るまでに直しとけや」
「はい」
 本当は此処で仕事をしていられない位忙しいのだろう。携帯を耳に当てながら出て行くツヨシを、ぼんやりコウイチは見詰めていた。衣装にしても自分へ向けられた愛情にしても、彼の何処にも嘘がない。首を絞める銀色の感触すら、もう怖くなかった。
 彼が建てた劇場で彼の為の公演が、もうすぐ始まる。チケットは当日券を残して、ほとんど売れていた。大倉と錦戸のPR活動が良かったらしい。ビジネスとプライベートの差がほとんど分からない様な公演だけど、きちんとビジネスとして成立していた。
 後は、本番で自分達がどれだけパーフェクトな演技をするかだ。綺麗な衣装と綺麗な劇場だけで集まる程、観客の目は安くなかった。満足出来る公演にしたい。コウイチの望みは、それだけだった。
扉を閉める手すら追い続ける。錦戸が、帯の端を直していた。町田は嬉しそうに側で見ている。屋良は衣装を脱ぐと、ステップを踏み始めた。じっとしていられない性分だ。米花は衣装を直されながら、台本に目を落としていた。
 全てが、日常の中にある。
 けれど。
 コウイチの目は、真っ直ぐにツヨシだけを追っていた。
 扉から離れた手。携帯の落ちる音。扉の隙間から見えたのは。

「ツヨシ!」

 悲痛な響きだった。転んだ訳じゃない。あれは、確実に倒れた。衣装を直されている事さえ忘れて、コウイチは走る。
「ツヨシ! どうしたん!」
 すぐに追い掛けたのは錦戸だった。扉を開ければ、其処には顔色を失ったツヨシの姿がある。床に倒れ込んで、意識はない様だった。
「ツヨシ! ツヨシ!」
「コウイチさん、落ち着いて下さい。大丈夫です」
「大丈夫な訳ないやろ!」
「ああもう、衣装が崩れます。離れていて貰えますか?」
「衣装より、ツヨシやろ!」
「それは! 社長が大事に作った衣装です! この人と同じ位大切な物だ!」
 一喝されて、コウイチは黙り込んだ。錦戸は針を扱うのと同じ慣れた手つきでツヨシの脈や瞳孔を確認する。衣装を気遣いながら、大倉がコウイチの肩を抱いた。安心しろ、とでも言う様に。
 錦戸は、スーツのポケットから携帯を取り出すと、病院に連絡をしていた。此処までの人間ともなれば、掛かり付けの医者がいて当たり前だろう。
「今、タクシーを呼びましたので。申し訳ありませんが、下まで運ぶのを手伝って頂けますか?」
「あ、じゃあ俺が」
 コウイチの肩を抱いていた大倉が進み出る。離れた途端にぐらりと揺れた身体を、咄嗟に屋良が支えた。勿論、大倉は其処までを見越して離れたのだけれど。
 思わず受け止めた身体に、屋良は眉を顰める。彼が、ライバルとしてでも敵対心からでもない所でコウイチを意識している事位、皆知っていた。
「なあ、ツヨシ、病気なん?」
「そう言う事は、本人から聞いて下さい。俺に言える事ではないんで」
「でも、今意識ないんやろ? ホンマに大丈夫なん?」
「安易に大丈夫とは言えませんが、この分なら多分大丈夫です。意識が痛みに負けたんでしょう」
「……痛み?」
「ええ。最近仕事を詰めていたし、無理が祟ったんでしょうね。元々強い方ではないですから。では、すいません。手伝って貰えますか?」
 意識のないツヨシの身体は、錦戸と大倉によって運ばれて行った。病気? 唯の過労? 分からない。でも、必ずと言って良い程ツヨシは一緒にいる時も薬を飲んでいた。病気を持っていると考える方が自然だ。
 答えをくれる人は、残念ながら此処にはいなかった。無意識にネックレスを握り締める。強気で傲慢で、でも真っ直ぐな愛情を向けて来る男だった。あんな風に倒れるなんて思いもしない。
「……コウイチ」
「……」
「コウイチ!」
「何、屋良」
「別に、平気だろ。あの男に何の思い入れがある訳? 勝手にお前の所に来て権威振り翳してお前の事連れ去って。最低な男だろ」
「屋良……」
「なあ、最低だろ? どう考えても。なのに、何でそんな悲しそうな顔してんだよ! おかしいだろ」
「うん、そうやな。でも、お前やって少しでも知ってる人に何かあったら、嫌やろ? 悲しいやろ?」
「俺は、……」
 その先に続く言葉を、コウイチ以外の人間は知っていた。「俺は、コウイチ以外の人間がどうなろうと構わない」。屋良の歪んだ思いを、皆痛い程に感じていた。



+++++



 ツヨシは、そのまま入院したらしい。らしい、と言うのは何も教えて貰えなかったからだ。錦戸は、頑なに口を閉じていた。けれど、引き下がる訳にはいかない。初日には間に合う様にする、と言われても今がどんな状態なのか知りたかった。
 いつも通り、きちんと準備を見に来た錦戸を捕まえる。少しだけ迷惑そうな顔をしたのには、気付かない振りをした。
「ツヨシは? どうなん?」
「順調ですよ」
「初日は明後日やで? ホントに大丈夫なん?」
「大丈夫です」
「なあ。俺、錦戸に訊きたい事あるんや」
「病院は教えませんよ」
「それは諦めた。違う。あんな、ツヨシと俺、どっかで会った事ない?」
「……はい?」
「ずっと考えてるんやけど、どうしても思い出せんのや。俺、絶対あいつの事知ってんの。でも、思い出せへん」
「コウイチさん、貴方は本当に覚えていないんですか?」
「……それは、知ってるって事?」
「俺から話せる事はありません」
「錦戸!」
「ツヨシ君にも言われてるんや」
 不意に、錦戸が口調を崩す。初めてだった。いつもいつも必要以上の距離を保って接しているみたいで。何を考えているのか、分からなかった。
 くしゃ、と顔を歪めたかと思うと、スーツのポケットから手帳を取り出す。ページの間に挟んであった物を差し出された。
「俺は、ずっと貴方の事を見ていました」
「え」
「俺はツヨシ君の目やから。ツヨシ君が見たくても見れないもの、全部見て来ました。一番に見ていたのは、貴方です」
「何、この写真……」
 渡されたのは、一枚の古ぼけた写真だった。其処には幼い日の自分の姿がある。子供なのに、何の表情も見せず唯ぼんやりと佇んでいた。着ているのは黒い服。制服だろうか。記憶になかった。
「俺が、一番最初に見たコウイチさんです」
「最初……?」
「ずっと、貴方の事を見て来ました。貴方の成長を、ツヨシ君の代わりに」
「何で?」
「僕が出せるヒントは此処までです。この写真を見ても何も思い出せませんか?」
「……分からん」
「そうですか。なら、思い出さない方が良いんかも知れん」
「俺は、思い出したい」
「多分、貴方は辛過ぎるから記憶を曖昧にしているんです。俺もツヨシ君も思い出さなくて良いって思っとる。俺は唯、明後日からの一ヶ月の公演を成功させて、ツヨシ君の為に踊ってくれる事だけを願ってます」
「嫌や。訳も分からんまま一緒におって、終わった途端いなくなるなんて嫌や」
「良いんです。最初から、我儘な契約だ。ツヨシ君の望みを叶えてくれるだけで十分です」
「でも……」
「じゃあ、もう一つヒントをあげましょ。これは、俺の独断やからツヨシ君には言わんといて下さいね」
「うん」
「デザイナーDは、一つのプロジェクトなんです」
 声を潜めて錦戸は言った。その言葉の意味をゆっくりと咀嚼する。掌には自分の写真。ツヨシとの記憶を辿りたかった。
「トニー賞を取った事は間違いありません。けれど、それはツヨシ君の功績じゃない。彼のお父さんが獲った賞です。意味、分かりますね?」
「ああ、それなら納得やわ。リカがおかしいって言うてたから」
「ツヨシ君と貴方を繋ぐヒントです」
「なあ、ツヨシが継いでるって事は……?」
「ええ、父上は既に亡くなられています。此処まで言っても、まだ思い出せませんか?」
「……考えてみる」
 言っている事の意味位は分かる。でもそれが、どうして自分とツヨシに関わって来るのだろう。分からなかった。
「その写真は貴方に差し上げます。僕も、長い事縛られて来てしまいました」
 後悔を僅かに滲ませて錦戸は笑う。もう、いつも通りの読めない表情に戻ってしまった。
「では、明日は此処に寄る事が出来ませんので。次は初日ですね。必ず堂本は連れて参ります」
 一礼して去って行く背中を止める事は出来なかった。コウイチは手の中の写真を見詰める。毎日が慌ただしく過ぎて行くこの世界で生きていたから、昔の事を思い出す時間は少なかった。
 コウイチの時間は、このカンパニーに来た頃から始まっている。けれど、その前はどうしていただろうか。普通に学校に行っていた? 考えようとして、良く覚えていない事に気付く。
 錦戸は辛過ぎるから、と言っていた。思い出したくない様な事が幼い頃にあったのだろうか。此処に来る前、自分は何処にいたのだろうか。この写真は、何処で撮られたのか。分からなかった。
 振り返らずに前だけを見て生きて行く。自分の生き方に後悔はなかった。
 ツヨシが自分の人生の何処で関わっていたのか。分からない。思い出せない。胸を締める懐かしさ。触れられて、心地良いとすら感じた。
 写真をじっと見詰める。何処かに手掛かりがある筈だった。



+++++



 もう少しで初日の幕が上がる。稽古も入念に行ったし、ツヨシの手掛けた衣装のおかげで出演者のテンションも上がっていた。コウイチは、自分の楽屋で一人深呼吸を繰り返す。
 朝一番で楽屋に訪れたツヨシは、元気そうに笑っていた。過労やって、ごめんな。何事もなく言うから、コウイチは問い詰める事も出来なかった。
 錦戸のヒントは、今の所何の効果も出していない。今日からの公演の事以外は、全てツヨシの事で思考が埋め尽くされていた。彼を見た最初を思い出せない。
 そして、思った以上に幼い頃の記憶が曖昧な事にも驚いた。ぼんやりと朧げに思い出せるのは、母親の優しい笑顔と、此処に連れて来られた時に温かく迎えてくれた大倉の父親の姿だけ。
 もう既に、大倉の父親はいない。あの頃小さかった大倉に訊いても覚えていないだろう。八方塞がりとでも言おうか。ツヨシの事はおろか、自分がどんな子供だったのかすら思い出せなかった。
「コウイチ! 十分前! そろそろ行くよー!」
「はーい」
 大倉の声に応えると、衣装を確認して立ち上がる。今日の為に、沢山の練習を積んで来た。集中して臨まなければいけない。
 客席でツヨシが待っていた。デザイナーDの名に恥じないステージを行う責任がある。皆の待つ楽屋袖へとコウイチはゆっくり歩いて行った。

 いつどんな時でも、幕が上がる瞬間は怖い。ブロードウェイは、博打打ちに良く似ていた。今日成功しても、明日にはステージに立てないかも知れない。光が強ければ強い程、その影も深くなって行った。
 足許に迫る闇から逃げ切らなければならない。その為に、最高の、自分の限界以上のステージを作って行くのだった。
 緊張する。心臓があり得ない位の早さで拍動を刻む。
 緊張なんてしない、とつい言ってしまうけれど、この瞬間に緊張しない術があるのなら教えて欲しかった。出来る事をやるだけだ。分かっていても、心臓は落ち着かなかった。
 光の中に立つ。客席は満員だった。良かった、と安心する。彼らの営業能力は優秀だった。真正面からの照明に目を灼かれながら、コウイチはたった一人を探す。
 ステップを踏んで、客席に笑顔を向けて。淀みのない動き。それは、彼自身の努力の賜物だった。
 カウントを取りながら、全員でターンする。一瞬たりとも止まらない、怒濤の構成だった。その中で客席を見るのは容易ではない。コウイチは、衣装よりも眩しい笑顔を客席へ向けた。顔の造形さえ、実力の内だ。
 目を凝らす。たった一人。今日は、彼の為に踊らなければならなかった。
 いた。
 真正面の席、前から五列目。この劇場の造りであれば、ベストポジションだろう。スーツ姿のツヨシと目が合った気がした。それを確かめる余裕はなかったのだけれど。

 順調に舞台は進む。舞台袖で和装を纏うと、ステージに出るまで共演者の姿を見詰めていた。この日本式の殺陣が終われば、ツヨシが会心の作だと言っていた赤の着物を纏う。
 曲が変わった瞬間、ステージへと出た。今の所、客席の反応は上々だ。誰も席を立っていない。最後まで見て欲しかった。
 ツヨシの真っ直ぐな視線は、きちんと感じている。衣装デザイナーらしく、コウイチだけを見ると言う事はなかったけれど。
 集中力を途切れさせないまま、思考の片隅にはずっとツヨシの事があった。思い出せない過去。其処に何があったのか。ツヨシと自分を繋ぐ糸は、確実に其処にあるのに。
 殺陣は、ひたすらに体力勝負だった。呼吸も整わないままにクライマックスのダンスへと移る。常に自分の限界を超えて行かなければ、生き残る事さえ出来なかった。
 指先まで張り詰めた緊張感。何処にも意識は逸れていなかった。
 けれど。
 不意に、ツヨシの視線に神経の一部を絡め取られる。群舞が続くから、一つ一つ立ち位置を確認して動かなくてはならなかった。
 その隙間。意識の僅か上を掠める様に、ツヨシへ意識を奪われた。身体だけが、機械仕掛けの人形と変わらず、寸分の狂いもなく踊り続ける。
 フラッシュバック。深く眠っていた記憶が、ゆっくりと呼び起こされた。悲しくて心細かった幼い日。
 光が闇を灼く。音が背後へと流れる。何一つ、コウイチの意識の内側になくなった。
 それは、集中力が高まって、意思ではなく本能で近い場所で踊っているのと同じ様な感覚だ。本来ならば、ベストコンディションと言えるだろう。しかし今、コウイチの脳内を占めるのは過去の記憶だ。
 ――あった。
 ツヨシと自分を繋ぐ糸。
 思い出す。どうして、今まで彼の顔に思い当たらなかったのか。仕方のない事かも知れない。
 だって、ツヨシの記憶は小さな頃に亡くなった母の思い出に直結するのだから。

 ライトの中、誰にも気付かれない様にひっそりとコウイチは唇を噛み締める。慌ただしい日々の中に、過去を置いて来てしまった。
 母の記憶も、ツヨシと過ごしたあの、短い日々さえも。



+++++



 コウイチは、母親と共に日本で生活していた。二人きりの、決して豊かとは言えない生活。
 母は身体が弱かったけれど、それでも息子を守る為に必死に働いていた。誰もいない日々。母は、何かから逃げる様にコウイチと暮らしていた。
 人目に触れる事すら嫌い、コウイチは関西でも山側の地域で育ったのだ。母は、息子の自分から見ても綺麗な人だった。彼女が望む事なら何でもしてあげたいと、幼心にも思ったものだ。
 そんな綺麗な母親は、元来の身体の弱さと働き過ぎによる過労で風邪をこじらせて呆気なく逝ってしまった。コウイチは僅か十歳だった。
 父親はいない。もっと小さな頃に亡くなったらしい。
 誰もいない世界で、コウイチは途方に暮れた。
 一人きりの部屋。どれ位其処にいたのかは分からない。どうやって母を弔ったのかも覚えていなかった。
 多分、コウイチの人生であの時程悲しみに沈む瞬間はこれからもないだろう。悲しくて悲しくて、母と一緒の世界に旅立ってしまおうかと思っていた。一人で生きていても辛いだけなんじゃないか、と。
 そんな時だった。
「コウイチ?」
 親しげに自分の名前を呼ぶ声音に声を上げる。コウイチの世界への闖入者。アパートの部屋の入り口に立っていたのは、大して歳の変わらない少年だった。
「……?」
 コウイチは誰かと話す事に慣れていない。増して、同年代の子供とは喋った事がなかった。この文明国家の日本で、小学校にすら行かなかったのだ。世界中から存在を隠す様に、母と生きて来た。
「初めまして。僕は、ツヨシ」
「……うん」
「こう言う時はな、ちゃんと挨拶せなあかんよ。こんにちは」
「こんにちは……?」
「そう。あんな、僕はコウちゃんを連れ出さなあかんの」
「連れ出すって?」
「コウちゃんをな、安全な場所に連れてきたい。ホンマは大人の方が都合ええんやろうけど、子供の方が動き易いっちゅー事もあるからな。僕が迎えに来た」
「何処、行くん?」
「木を隠すなら森の中、や」
「?」
「分からんか。そうやな。コウちゃんのお母さんが分からんようにちゃんと、して来たんやもんな」
 利発そうな少年は、距離を保ったまま話し続ける。真っ黒な瞳が綺麗だ、と思った。
「僕と、一緒に、行こ?」
 手を差し出されて、コウイチは戸惑う。どうしたら良いのかなんて、分からなかった。今までずっと母とだけ生きて来たのだ。突然現れた見知らぬ少年にどう対応したら良いのか、分かる筈もなかった。
「このまま此処にいると、あの親父に見つけられる。時間の問題や。日本におるんはバレとるし、コウちゃんのお母さんが死んだなんて分かったら、絶対何が何でも捜すやろうし。もう、此処はコウちゃんのお母さんが守ってくれた安全な場所やないんよ。おいで」
 その手を取ったのは、どうしたら良いのか分からなかったからだ。ツヨシと言う少年の真摯さにどうにか応えなければと思ったせいもあるだろう。
 悲しみの底にいた自分を連れ出した存在。覚えていなかったのは、思い出すと辛いからだった。母の死と環境の変化。
 世界を知らなかったコウイチには、到底耐えられるものではなかった。
「行き先は、ニューヨーク。まさか親父も、近くにいるとは思わんやろうしな」
「ニューヨークって、何処?」
「こっから、飛行機で長い時間が掛かる。大丈夫やよ。僕も一緒に帰るし」
「なあ、ツヨシ君は僕の何なん?」

「ツヨシでええよ。――僕は、コウちゃんの従兄弟や」

 思い出した。全部、全部。母は、自分の弟から逃げていた。姉に向けた愛情よりももっと暗く、強い感情に縛られない為に。
 そしてその弟が、ツヨシの父親だった。
 日本からニューヨークへ。どれだけの時間をツヨシと一緒に過ごしたのかは覚えていない。直通で行ける筈の飛行機を、何便も乗り継いでいた。子供二人の搭乗は目立つ。けれど、行き先がカモフラージュされてしまえば、「子供二人」と言うキーワード以外、案外覚えていないものだった。
「大丈夫? もうすぐ着くからな」
 ツヨシは、ずっと自分と手を繋ぎながら色々な話をしてくれた。ろくに言葉を返せない自分を嫌がるでもなく、ずっと笑っていた。その表情に、コウイチの悲しみは少しだけ癒される。
 本当に、世界の終わりを見たかの様だった。
 母親しか世界にはいなかったから。この少年が連れ出してくれなかったら、どうなっていたのか。あの部屋で、一人。
「コウちゃん」
「ん?」
「僕がきっと守ったるから、これから行く場所で、コウちゃんは幸せに生きるんやで」
「幸せ?」
「そう。約束して」
「僕、幸せになれるんかな」
「ならなきゃ、あかんよ。僕はもう、コウちゃんに会う事は出来んけど」
「どうして」
 長い旅路で、コウイチは母親以外の人間で初めて怖くない人を見つけたのだ。繋いだ指先を離さなかったのは、自分の意志だった。他人との接触の経験がないコウイチに、安心感をくれた人。
「やって、従兄弟なんやろ? 親戚なんちゃうの?」
「うん、そうやけどな。僕は、これから沢山勉強せなあかんし。今回もめっちゃ我儘行って出て来たから、そうそう逃げれんくなると思う」
「ツヨシも逃げてんの?」
「コウちゃんを見届けるまではな。そっから先は、僕も闘おう思ってんねん」
「闘うの?」
「うん。あの親父を思い通りにさせない為に、僕は色々な事を覚えるんや」
 この時、ツヨシは九歳だった。幼い頃からの教育と、偉大過ぎる父親の後を継ぐと言うプレッシャーから、大分早熟ではあったけれど。
 反抗期ではなく、ツヨシはずっと父親が嫌いだった。これからも好きになる事はないだろう。母親よりも実の姉を愛した男を、愛せる筈はない。
「ほら。此処やで。コウちゃんがこれから暮らす場所」
「え」
「今まではお母さんと二人っきりやったから、ちょぉ賑やか過ぎるかも知らんけど。きっとコウちゃんは、こう言う場所の方がええ」
 タクシーが止められたのは、大きな建物の前だった。もうすぐ日の暮れる時間。抱えて来たバッグとツヨシの手だけが拠り所だった。
「大倉のおじさーん!」
「お、ツヨシ。来たな。待ってたぞ」
「やっと帰って来たわー。長い旅やったー」
「ホントだよ。お父さん、怒り通り越してるぞ。覚悟しとけよー」
「はは。覚悟なんてとっくにしてるわ。何? ニューヨーク中でも捜索されとる?」
「ああ。凄いよ。だから、とりあえず入れ。ウチの劇場の前で見た、なんて言われたら堪んねえからな。さ、そっちの可愛い子かな」
「うん。コウちゃん」
「あ、……こんにちは」
 ツヨシに教えられた通り挨拶をする。見上げた大男は、嬉しそうに笑った。
「初めまして。今日から俺が、君の親代わりになるから宜しくな」
 頭を撫でられて吃驚する。こんな風にスキンシップを図る事を知らなかった。
「なら、俺戻ります」
「……ツヨシ。大丈夫なのか」
「まあ、大丈夫やないでしょうけどね。良いんです。コウイチは僕の手で連れて来たかった。コウちゃん?」
「ツヨシ、帰んの?」
「そうや。あそこは檻の中と変わらんから、大きくなるまで自由には出来んくなると思うけど」
「もう、会えんの?」
「うん」
「何で」
「コウちゃんは、此処で暮らして行くんや。すぐいなくなる僕なんか、どうでもええんよ」
「嫌や。だって、ずっと一緒やった」
「ずっと、やないよ。飛行機の中だけや。なあ、約束して」
「ん?」
「親父には絶対捕まらん事。此処で、幸せになる事。僕を、忘れる事」
「……分かった」
「ええ子やな」
 ツヨシは優しく笑ってくれた。繋いだ指先をそっと引かれて唇に優しい感触が落ちる。甘い味。でも、最初で最後の感触。
 目線を合わせてもう一度笑うと、ツヨシは大倉へと向き直った。
「じゃあ、大倉のおじさん。コウイチの事、ホンマに頼みます」
「ああ、何処にもやらないでちゃんとウチの家族にしてみせるよ。ウチの子なら、幸せ間違いなしだからな」
「ありがとうございます」
 繋いだ手は、呆気なく離れてしまった。言葉の通り、二度とツヨシは現れる事なく、そして大倉の父親の劇場で育ったコウイチは幸せに育ったのだ。
 どうして、忘れていられたのか。ツヨシがいなければ、自分は此処で生きる事すら出来なかったのに。
 掌に馴染むあの感触は、幼い日の記憶があるせいだ。ツヨシに触れられて嫌な筈はなかった。全ての糸が繋がって、コウイチに真実を教える。
 分からないのは、ツヨシの本当の望みだけだった。過去を持ち出しもせず、唯自分を欲しいと言って。彼の建てた劇場で踊る事。
 果たして本当に、それだけが望みなのだろうか。



+++++



 新しい公演は、オフブロードウェイでありながら絶賛された。だからと言って、迂闊に喜ぶ事も出来ない。光のすぐ側には、必ず影が潜んでいた。コウイチは、いつもそれを考えている。
 自分達カンパニーが賞賛の代償に得た影は、仲間達の心がちりぢりになる事だった。どうすれば良かったのか。屋良が上を目指す気持ちも分かる。でもまだ、あいつは影の恐ろしさを分かっていなかった。
 今日はツヨシのいない日だ。アパートの部屋で、一人カンパニーとツヨシの事を考えていた。明日も公演はある。心が離れた状態で、良いものなんか出来はしないのに。
「コウイチ、いる?」
 控えめなノックであっても、安普請のアパートではその音も声も良く聞こえる。大倉だった。
「おるよ。入り」
「お邪魔します」
 わざわざ来てくれる辺りが、大倉の律儀さと言うか。オーナーとして信用に足る男だった。父親の後を継いでいるだけとは言っても、きちんとした責任感がなければ、誰もあの劇場に集わないだろう。
「大丈夫か?」
「俺? 俺は、大丈夫。先刻はちょぉ、腹立ってもうたけどな。俺の言った事に嘘はないから、ええの」
「なあ、もう少し屋良の気持ち、考えてやる事出来ないかな」
「あいつのやる気は認めるし、ほとんど主役みたいなもんやんか」
「そうじゃなくて」
「え」
「ステージの上の事じゃなくて、って言ってるの。屋良の事、ちゃんと考えてあげてよ」
「考えてるで?」
「あーもう! どうしてコウイチは人の事見てるのに、人の感情に疎いんだろう!」
「な……何やねん。人を阿呆みたいに」
「阿呆だよ、阿呆。屋良も勿論ね! あいつは、町田よりタチが悪い。んでもって、コウイチは更にタチが悪くて手の施しようがない」
「大倉さーん、酷い言いようやなあ。本人目の前にして」
「陰口叩くよりは良いでしょ」
「まあ、そうやけど。屋良の事は考えてるよ。あいつのやりたい事、もっと出来る様にするにはどうしたらええんかな、って」
「……何か俺、屋良に同情しちゃうな」
 納得してくれない大倉が呟くのをあえて聞き流す。コウイチとて、彼の言いたい事が分からない程鈍感ではなかった。けれど、屋良の感情は愛情だけで括れる程単純なものではない。
 知らない振り、気付かない振りをしていれば、きっといつか元々なかったものになると思っていた。
 立ったままの大倉に冷蔵庫に入っていたコーラを渡すと、違う話題に変える。先刻の事はもう起きてしまった。明日、劇場入りしない限り状況は動き出さない。
「なあ、大倉」
「ん?」
「俺な、ツヨシの事思い出した」
「は?」
「ずっとな、知ってる様な気がしてたんやけど、分からんかったの。ヨネに訊いてもいまいちすっきりせえへんかったし」
 今思えば、ツヨシは見えない所からずっとコウイチを見ていてくれたのだろう。首を絞める銀色の鎖が、しゃらんと音を立てる。会う事もせず、恐らくはひたすらに衣装の勉強をしていたのだ。
「知ってる人なの? てゆーか、コウイチが知ってて俺らが知らない人なんかいないでしょ」
「うん、そう。でもな、ツヨシがおらんかったら、俺。此処にいなかったんや」
「どう言う事?」
「俺、小さい頃日本にいたやろ。母親がなくなって一人ぼっちだった俺を大倉のおじさんのとこまで連れて来てくれたのがツヨシやった。恩人みたいなもんやねん」
「何、それ。だって、あの人そんな話一度もしなかったじゃん」
「うん、だからちゃんと話訊いてみよう思って」
「そっか。コウイチの話がホントだとしたら、俺もちょっと見方が変わるかも。だって、今此処にコウイチがいなかったらって考えるだけで、俺ちょっと泣きそうだもん」
「大袈裟やなあ。でも、ありがと。俺もお前らがいない人生やったらって思うと、怖いわ」
「今、こんな事言うのは不謹慎かも知んないけど。これからも、ずっと一緒にいような」
「ずっと、は分からんよ。皆、目指す先が違うもん。お前の劇場の事もあるしな」
「コウイチ、こう言う時は嘘でも合わせるのが人情ってもんだよ。お前は少し、情緒に欠け過ぎです」
「はいはい。冷たくてすいませんねー」
 それから、日が暮れるまで大倉と話をした。劇場の事、これからの公演の事。皆唯、舞台が好きなだけだった。けれど、それぞれ何を一番にするかが決定的に違っている。
 出来てしまった溝を埋めるのは容易ではなかった。それでも、光の先へ。進む事を考えなければならない。

 夜を待って、コウイチは錦戸へ連絡した。こっちから連絡をするのは初めてで、電話越しに感情を見せない彼が動揺したのが分かる。今日はもうツヨシと会う事は出来ないと言われ、けれど思い出したのであれば自分も少し話したいと言われた。
 すぐに向かいます、の言葉通り十分後には今日二人目の訪問者がコウイチの部屋の中にいる。
「僕はもう、貴方は思い出せないんやろう思ってました。ツヨシ君もそれで良いって。無理に思い出させても、また悲しい思いをさせるだけやからって」
「悲しい思い?」
「ええ。だから、ツヨシ君は何も言わんかった。唯、幸せに生きてる貴方を舞台の上で見たい、言うて」
「なあ」
「はい?」
「錦戸は、ツヨシの何なん?」
「……弟です。母は、違いますが」
「そうか。やから、俺の事も知ってたん」
「はい。家出をした後、正確には貴方をニューヨークに連れて来た後、ツヨシ君には自由が残されてなかったんです。やから、俺があの人の目になりました。貴方の成長を、貴方の幸せを、知る事だけがツヨシ君の幸せやった」
「どうして、其処まで……」
「最初に言いませんでした? 貴方を愛しているからです」
「やって、そんな」
「初めて会った小さな頃から、いえそれよりも前から、ずっとツヨシ君は貴方を想っていました」
 あの日、忘れろと言ったのはツヨシなのに。彼だけが一人、不自由な世界で自分の事を思っていてくれたなんて。
 そんな理不尽な話はないと思った。ぎゅ、とネックレスを握り締める。外す事の出来ないそれは、ツヨシの愛の深さを感じられた。
「なあ、ツヨシの望みは本当にそれだけなんか」
「と、言いますと?」
「本当に、俺が一ヶ月あいつの舞台で踊れば満足なん? 他にもっとさせたい事とかないん?」
「ありません。あの人の望みは、自分自身が覚えておく事だけです。他には何も、考えていない」
「どうして。あん時は確かに会えんくなるからしょうがなかったのかも知れんけど、今回は違うやん。父親の後継いで、忙しくてもちゃんと自由の身やろ?」
「今回も、同じです」
「何で。だって……」
「また、会う事が出来なくなるからです。絶対に、二度と」
「意味が分からん」
「そのままですよ」
 錦戸は昏い笑いを見せた。諦めの表情ではない。世界の不条理に怒りを覚えている様な、真っ直ぐな目だった。ツヨシに似ている、と今更ながらに思う。

「あの人はもう、長く生きられません」

「何……」
「最後に望んだのが、貴方の舞台です。だから俺は、ツヨシ君の望む事を全て叶えてあげたい。俺達も必死だった。正攻法で話を進める時間がなかった。無礼だった事はお詫びします」
「ちょ、待って。なあ、どう言う……それ。何で。え……やって、この間ん時も過労やって……」
「過労にも間違いはありません。自分の死後もデザイナーDを生かし続ける為に、あの人は今動いている。最も忌み嫌った父親の名前を継承する為に」
「ツヨシ……」
「ツヨシ君は、余命を宣告された時から、本当の意味で生き始めています。まだ、その時は遠い。やから、大丈夫です」
「大丈夫な訳、ないやん……」
「今日明日にいなくなる訳じゃないんで」
「でも、いつかはいなくなるんやろ」
「それは、誰しも同じじゃないですか」
 錦戸の言う事は正論だけれど、納得出来る筈もない。あんなに元気そうだった。薬を沢山飲んでいた。真っ直ぐな目で愛を語った。けれど、過労と言って入院してしまった。
 分からない。どれも本当のツヨシで、どれもが偽りの姿なのかも知れなかった。「愛してる」と言う言葉すら慣れてしまったのに、今更忘れる事は出来ない。
 思い出せば、確かに彼の持つ光も強かった。影が濃いのは当たり前だ。
「貴方は唯、千秋楽までツヨシ君の為に走り続けて下さい。他には何もいりません」
 きっぱりと言い切った錦戸の言葉は、恐らくツヨシ自身の本音でもあるのだろう。あの掌から温もりが失われる日が来るなんて。
 分からなかった。分かりたくなかった。
 今、自分に出来る事は舞台を全うする事だけ。けれど、千秋楽の後も忘れたくはなかった。次に会った時に、全部の話をしようと思う。そして、少しも彼の愛情を嫌がっていない自分の事も、隠さずに全部。

 世界の理が全て運命と言う言葉で片付けられるのなら、どうして神は残酷な運命ばかりを運ぶのだろうか。
 Show must go on.
 その時は、刻一刻と迫っていた。



+++++



 コウイチが公演中に事故に遭ったと報せを受けた時、ツヨシは別の舞台の打ち合わせの真っ只中だった。けれど、秘書である錦戸はツヨシの優先順位をきちんと分かっている。
 さすがに打ち合わせを放り出す様な事はなかったけれど、会議室を出てすぐに病院へと向かった。事故に遭った、と言う表現が正しいのかどうか。錦戸はその伝え方を迷っていた。
 屋良の瞳のひた向きさには気付いている。あれは、ツヨシの瞳の色と同じだった。深過ぎる愛情は、複雑に絡み合って結局コウイチを傷付けてしまった。
 傷が深くなければ良い。
 それだけを思いながら、病室へと急いだ。ICUに入っているらしい。病室へ着いたら、カンパニーの全員が顔面蒼白と言った感じで佇んでいた。世界の終わりの様な顔をしているのは大倉だ。彼が真剣を渡したのだと聞いていた。
「屋良……」
 ツヨシはゆっくりと、ICUの一番近くに立つ屋良へと近付く。詳しく話していない筈なのに、衣装に付いたままの生々しい血痕とその表情だけで状況を把握したのだろう。
 問答無用で、ツヨシは屋良の顔を殴った。軽い身体は衝撃で飛んでしまう。痛みを甘んじて受け入れている様にも見えた。
「大事なもんを守れもしないで傷付けるんは、唯の子供や」
「……」
「お前は、コウイチがどれだけお前の事を大切に思ってたんか知らな過ぎる」
「何も知らないあんたに、とやかく言われたくない……」
「知ってるわ、阿呆。お前の気持ちは、俺とおんなじ種類のもんなんやから」
「違う……俺は、リカが好きだ」
「そうやな。それも本当やろ」
「コウイチは……兄だった。家族だった。ライバルだった。友達だった。仲間だった。……俺の、全部だった」
「うん」
「何で、コウイチはショーを続ける?」
「それは、目が覚めたら本人に訊けばええ」
「俺は、やめたかった。嫌だったのに……」
「コウイチが何を考えていたかは、直接訊いたらええ。それから、お前の気持ちも直接言ったらええ」
「俺は、何も……」
 床に倒れこんだまま、屋良は力なく話した。その頬が涙で濡れている。唇を噛んで、感情を堪えていた。
 屋良の痛みは屋良にしか分からない。コウイチはICUのベッドで眠っていた。辛そうな表情はない。こんな時ですら美しいと思った。
 色を失くした顔は、穏やかに見える。
「コウイチの容態が安定したら、病院を移動する」
「そんな!」
「待って下さい」
「勿論、俺だけが見るなんて事はせえへん。ちゃんと移転先も教える。でも、せめて設備が全部整ってるとこに入れてやりたい。此処はERや。どっちにしろ転院が必要になる。……あかんか?」
「いえ、お願いします。僕達に医療の知識はありません。コウイチが助かる事は全てやってやりたい」
 答えたのは大倉だった。唇が震えている。責任を負う必要なんか何処にもないのに、責任感の強いオーナーは、顔を歪めた。
「ありがとな。俺も、俺に出来る事を全部したい」
 ツヨシは、屋良を殴った右手に視線を落としながら一つ息を吐き出した・本当なら、全員追い払って自分だけで看病をしたい。絶対にコウイチは助かるだろう。
 けれど、病を抱えた自分が出来る事は少なかった。一人で動ける時間も後僅かだろう。
医者の宣告は余命一年。
 時間があるとも言えるし、全く足りないとも言える時間。そのほとんどをコウイチの為に使いたかった。その場を立ち去ると、錦戸に病院の手配をさせて、自分もまた診察室へと向かう。
 彼らがいなくなってから、また行けば良い。傷の深さはどれ位なのだろうか。早く目覚めて、いつもの様に笑って欲しかった。



+++++



 ツヨシの記憶にある父親と言うのは、自分達母子を省みない人だと言う事だけだ。愛情を感じた事すらなかった。それは多分、義兄弟である錦戸の家庭にも言える事だろう。
 あの男が愛したのは、実の姉だけだった。他に大切なものなどない。だから簡単に沢山の女を相手にしたし、ファッション界の重鎮であるデザイナーを父に持つ娘と結婚した。
 愛は何処にもない。
 一度だけ、オフィスに行く機会があった。父親のデスクの上、飾られていたのは父の姉と、その息子の写真。
 柔らかな表情で写っていた。彼女は、弟の愛に気付いて早い内に結婚すると家を出て行方知れずになったと言う。恐らく、あらゆる手段を使って父親は写真を手に入れたに違いなかった。
 この写真がいつ撮られたものかは分からないが、幸せなのだろう。父親の執着は常軌を逸していた。愛と憎しみの狭間で、姉を縛ろうとしていたと言う。
 本来は自分達の写真を飾るべきなのに、デスクの上に家族の物は何一つ見当たらなかった。この時に多分、ツヨシは父親に対する愛情を全て諦めたのだと思う。
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