小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
手紙をどうにか読み終えると、耐え切れずに涙が溢れた。自分も法では裁く事の出来ない罪を負っている。その事を今、どの瞬間よりも実感した。
「成瀬さん……ごめ、ごめんなさい……っ」
早く目覚めて欲しい。泣き濡れた瞳のまま、眠る彼を見詰めた。動く事のない人形のような指先を力一杯握り締める。
「ごめ、なさい……。でも俺は、貴方の傍にいたい。貴方と一緒に生きたい。貴方が目覚めるのを、こんなにも待っているんですっ……え……?」
言い募る芹沢の言葉を止めたのは、成瀬の指先だった。ほんの僅かだったけれど、自発的に動きはしなかっただろうか。芹沢は必死に呼び掛ける。
「成瀬さん。俺は、俺の事を許しました。貴方の事を許しました。聞こえていますか? 聞いてくれてますか? 俺は、生きる事が、生き続ける事だけが、彼らへの償いだと思っています。どうか、貴方も逃げないで下さい」
沢山の罪と後悔が、芹沢の胸を締め付ける。それでもあの夜、お互いを許し合った事が真実だった。あの時に、自分達の命は繋がったのだと思っている。
成瀬は目覚めない。目覚める事を恐れているのか、自分と生きる事を拒絶しているのか。もう、長い時間が経った。いい加減、彼の黒い瞳を見詰めたい。彼の言葉が聞きたかった。
あの夜、朦朧とした意識の中彼の呼び掛けだけが耳に鮮明に残っている。「芹沢!」と叫んだ悲痛な声。本当にそれだけで良いとすら思った。
「成瀬さん……俺は、貴方を待っています」
僅かに反応を示した手紙を頼りに、芹沢は行動に出たのだ。
真紀子の手紙を読んでから、芹沢は毎日成瀬の枕元で手紙を読む事にした。今まで沢山の人から届いていたけれど、他人が開いて良いものではないだろうと積み上げたままだったのだ。
しおりや弁護士事務所の人、成瀬に弁護された沢山の人から届いたお見舞いの手紙。その一通一通を芹沢は丁寧に読み進めた。
ここに来る事はせず、しおりは週に一度手紙を送ってくれる。本当は彼女が側にいた方が良いのかも知れないと思いながら、ここまで連れて来た罪悪感もあった。
彼女は、自分の葛藤を知っているのか、成瀬と同じように自分にも手紙を書いてくれる。他愛もない日常を綴った手紙に、心が落ち着いた。
成瀬へ宛てた手紙も、内容は似た感じのもので安心する。季節の移り変わりを感じさせる花の話や、最近読んだ本の事、ガランサスへコーヒーを飲みに来て欲しいと言うささやかな願い。どの手紙も、彼女の優しさを感じさせてくれた。
毎日毎日、芹沢は成瀬宛の手紙を読む。仕事が忙しくても深夜に帰って来てスーツを脱ぐより先にベッドサイドの椅子に腰掛けた。沢山の人が成瀬へ愛情を向けている。その事に早く気付いて欲しかった。
手紙を読み始めて、どれ位経った頃だろうか。社長室にいた自分を慌てて看護士が呼びに来た。信じられない心地で、目と鼻の先にある成瀬の部屋へと戻る。
毎日毎日目覚める事を待っていたのに、これは夢なのではないかと疑う自分がいた。「成瀬さんが目覚めました」と焦った声で呼びに来た看護士は近くの病院にいる医師を手配しにすぐ部屋を出て行く。
ベッドの上。もしかしたら永遠に目覚めないのかも知れないと思った事もある。彼の側にいる事しか出来ない自分がむかついた事も何度だってあった。
「……成瀬、さん」
恐る恐る近付けば、湖面のような眼差しが、確かに向けられる。ずっと見たいと切望していたその色。静かな表情に言葉をなくし、唯芹沢は涙を零した。
あの夜から長い時間が経っている。何も言えずに、動く事の出来ない成瀬の手を掴んだ。乱暴な仕草だったと思う。ベッドサイドに跪いて、その手を胸に抱いた。
「っ良かった……」
ベッドの上の成瀬は何も言わず、静かに目尻へと一筋の涙を零した。半年ぶりの目覚めに、世界を一つ一つ確かめているような。まだ生きているのだと言う事を実感しているような。そんな静けさだった。
成瀬が目覚めてから、芹沢はタイミング悪く出張が入ってしまった。まあ、意識のない彼を置いて行くよりは幾らか気分が楽だけれど、ろくに話す事も出来ず旅立つのは不本意だ。
今置かれている状況をきちんと説明したかった。自分の思いも、生き残った自分達の命も。
この半年間、成瀬を見続けて辿り着いた結論を話したい。幸い、出張は一週間だった。体力が落ちている彼が話を聞けるようになるには、時間が掛かる。食事も直接入れられない状態だから、自分がいなければリハビリに専念出来て良いのかも知れなかった。
成瀬はぼんやりと世界を見詰めている。どこにも障害は残っていないと言うから、体力の回復を待つしかないだろう。一週間、出張先でもマメに医師へ連絡を入れながら、芹沢は過ごした。
勿論、まだまだ仕事が完璧ではないから手抜きをするとすぐ追い付けなくなるのを分かって、きっちり取り組んだつもりだ。部下のサポートがなければ、すぐにでも自分は社長職から逃げていた。
彼らに報いる為にも、必死に仕事をこなす。有能な部下は、出張から戻ったら成瀬と過ごせる時間を用意してくれていた。詳しい事を話してはいないけれど、こうして一緒に住まわせているのだ。簡単な関係でない事はすぐに分かる筈だった。
どうにか仕事を終えて、芹沢は自分の部屋へと戻る。医師の話では、やっと昨日口から食べ物を受け付けるまでになったと言う事だった。
ホテルに戻ると、もう外は暗い。成瀬は食事を摂ってしまっただろう。どんなものであれ、一人で食べるよりは良いと思ったのだけれど。
残念に思う気持ちはそっとしまっておく。これから先、幾らだって機会はあった。離れず、ここにいてもらう為に。
目覚めてから面と向かって話すのは今日が初めてだった。少し緊張する。部屋の前で芹沢は足を止めたけれど、今更躊躇しても仕方なかった。それ以上に、目覚めた事の嬉しさが強い。
もう、一人じゃなかった。芹沢は、この出張で気付いている。あの夜から半年間、寂しくて仕方なかったのだ。目覚めない彼の傍で、ひとりぼっちの心地だった。
どれだけ沢山の人が傍にいようとも、自分が欲しいのは成瀬の存在だったから。深呼吸を一つして、部屋をノックした。
「戻りました。成瀬さん、具合はどうですか? ……え」
思い切って扉を開ければ、そこにいる筈の存在は見当たらなかった。トイレだろうか。否、部屋の中で全て出来るようになっているのだから、ここにいないと言うのはおかしい。
「成瀬さん? どこですか?」
嫌な予感がした。半年以上ベッドの上にいた成瀬の身体は、相当弱っている。歩く事も容易ではない筈だった。けれど、部屋の中に気配はない。
バッグを置いてジャケットを放り投げると、そのまま芹沢は走り出した。刑事時代の勘だ。成瀬はまだ、この世界から逃げたがっていた。
ホテルを飛び出すと、迷わず海へと走る。海へと辿り着くのは、人間の本能だった。生かされた命を、例え成瀬自身でさえ奪う事は許されない。逃げて欲しくなかった。
夜の海は、全てを素知らぬ顔で飲み込んでしまう。波の音。塩を含んだ夜風。怖がってはならなかった。生きる事から逃げる事は許されない。
「成瀬さん! 成瀬さん!」
叫びながら、芹沢は砂浜を走った。デスクワークになってから少し体力は落ちたけれど、それも現役刑事と比べての事だ。スーツが動きを妨げていると感じる位、芹沢は走り続けた。
「成瀬、さん……成瀬さん! 駄目だ!」
小さなシルエットを、黒い海の中に見つける。歩く事すらままならない人間が海になんて入ったら浅瀬でも溺れ死ぬだろう。名前を呼びながら、シャツが濡れるのも構わずにその背中を追い掛けた。
「成瀬さん!」
勢い込んで、背中から抱き締める。羽交い締めにするまでもなかった。それ程に、彼の身体に力はない。
「何、やってるんですか!」
目一杯叱ってやりたかった。けれど、海の中にいればいただけ成瀬の体力は奪われる。抵抗出来ないのを良い事に、軽くなってしまった身体を抱き上げると、浜辺へと戻った。
砂浜に濡れた身体を下ろす。本当はすぐにでも部屋に戻るべきなのだろうけれど、身体より彼の心の方が大切だった。
「成瀬さん」
「……」
「真中さん、とお呼びした方が良いんですか?」
「違っ、……そうじゃない」
「俺は、貴方が貴方であるなら、何でも良い。どうしてですか! どうして、この身体をまた死なせようとするんですか!」
肩を掴んで、力の限り叫んだ。許しがたい事だった。これだけの長い時間を、自分はたった一人で待っていたのに。すぐにまた、彼は旅立とうとする。
「貴方の命は、もう貴方だけのものじゃない! 生きて下さい!」
「出来ない……僕は、」
「生きて下さい。貴方に、それ以外の術はないんだ」
「僕は、生きている資格がない」
「でも、死ぬ資格だってない。どんなに逃げても、どんなに苦しくても、貴方はここで生きるしかないんです」
「嫌だ……出来ない」
成瀬は、怯えたように瞳を潤ませる。彼から復讐と言う動機を取ったら、無防備なまでの本性が現れた。肩を掴んでいた手を、引き寄せる為のものに変える。成瀬を緩く抱き締めた。冷えて行く身体を海風から守るように。
「生きて、下さい」
「出来ない」
「なら、貴方のせいで命を落とした人の為に、貴方のおかげで救われた人の為に、生きて下さい」
「……出来ない。俺は、誰も救った事なんかない」
成瀬の言葉に嘘はないのだろう。あれだけのお見舞いをもらいながら、天使の弁護士はあくまでも自分を優しいものだと認めようとはしなかった。
芹沢とて、父と兄、そして友人達を奪われたのだ。何度も何度も憎もうとした。けれど、憎む時期はとっくに過ぎてしまった。今は唯、一緒に生きたいと願っている。腕の中にある存在は、自分の半身だった。
「成瀬さん」
「……嫌だ。僕はもう、ここにいたくない」
「駄目です。逃げるなんて駄目だ」
「貴方だって、俺を憎んでいるだろう」
「……あの時、言いましたよね? 俺はもう、貴方を許しました。俺自身も許した。今出来るのは、生き続ける事だけなんです」
「僕は、僕を許せない……」
「それなら、俺の為に生きて下さい」
「な、に……」
「俺の為に、俺だけの為に。生きて下さい。生き続けて下さい。俺と一緒に、皆の分まで」
成瀬の冷えた身体を抱き締めた。目を見て言う事は出来ない。まるで、愛の告白だった。彼がどう捉えるかは分からない。けれど、憎しみだけで生きて来た彼の為に、新しい場所を用意する事もまた自分の償いだと思っていた。
「生きて下さい。貴方は、俺のものだ」
「芹沢……」
「そして、俺も貴方のものだ」
成瀬はもう、何も言わなかった。唯、されるがままに抱き締められている。拒絶がないのを肯定の意と取って、芹沢は帰りましょうかと促した。
生きて欲しい。自分の傍で、一緒に。
少しずつ変わり始めた成瀬への感情に、芹沢はまだ気付いていなかった。
成瀬が目覚めてから三ヶ月が経った。リハビリに勤しみながら、芹沢リゾートの顧問弁護士として、辣腕を奮っている。他の弁護は受けず、今は顧問弁護士としてだけ動いていた。
完全に回復したら動き出すだろうけれど、今はまだこの部屋で出来る仕事だけに限られている。医師からも過信するな、と言われていた。元々体力があるようにも見えないから、芹沢が怪我をしたのとは根本的に回復速度が違うのだろう。
日々、成瀬は静かに生活している。あの海での出来事以来、逃げる事もなかった。時々辛そうに眉を顰める程度で、芹沢と一緒の部屋にも文句は言わない。言えなかっただけなのかも知れないけれど、気付かない振りで今も同じ部屋で生活していた。目の届く場所にいると、安心する。
成瀬は、成瀬領と言う名前を捨てなかった。真紀子からの手紙の効果もあったのだろうけれど、今更真中友雄に戻る事も出来ないと、いつかの夜に自嘲気味に話してくれている。
過去を消す事は誰にも出来なかった。その代わり、過去に出会った人達との優しい交流もある。しおりも、一度だけここに来てくれた。一緒に生活する二人を見て、彼女は温かい涙を零したのだ。
自分にとっても成瀬にとっても、彼女は天使だった。光を見せてくれる人だったと思う。成瀬に向けられた恋心は、彼に届く前に上手く隠してしまったらしい。曇りのない笑顔のどこにも、恋の色は見つけられなかった。
少しずつ、変わり始めている。中西も何度か足を運んでくれた。ここなら近いから良い、と笑っては自分が育てた野菜を持って来る。一緒に仕事をしていた自分よりも、成瀬に多く言葉を掛けるのは年長者の気遣い故か、それとも単純に成瀬へ向けられた愛情なのかは分からないけれど。
天使の弁護士の名に恥じない、穏やかな人だと改めて思った。彼のどこに悪魔が潜んでいたのか、見つける事はとても出来ない。法では裁けない罪を身の内に秘めながら、成瀬は生きていた。
「成瀬さん……ごめ、ごめんなさい……っ」
早く目覚めて欲しい。泣き濡れた瞳のまま、眠る彼を見詰めた。動く事のない人形のような指先を力一杯握り締める。
「ごめ、なさい……。でも俺は、貴方の傍にいたい。貴方と一緒に生きたい。貴方が目覚めるのを、こんなにも待っているんですっ……え……?」
言い募る芹沢の言葉を止めたのは、成瀬の指先だった。ほんの僅かだったけれど、自発的に動きはしなかっただろうか。芹沢は必死に呼び掛ける。
「成瀬さん。俺は、俺の事を許しました。貴方の事を許しました。聞こえていますか? 聞いてくれてますか? 俺は、生きる事が、生き続ける事だけが、彼らへの償いだと思っています。どうか、貴方も逃げないで下さい」
沢山の罪と後悔が、芹沢の胸を締め付ける。それでもあの夜、お互いを許し合った事が真実だった。あの時に、自分達の命は繋がったのだと思っている。
成瀬は目覚めない。目覚める事を恐れているのか、自分と生きる事を拒絶しているのか。もう、長い時間が経った。いい加減、彼の黒い瞳を見詰めたい。彼の言葉が聞きたかった。
あの夜、朦朧とした意識の中彼の呼び掛けだけが耳に鮮明に残っている。「芹沢!」と叫んだ悲痛な声。本当にそれだけで良いとすら思った。
「成瀬さん……俺は、貴方を待っています」
僅かに反応を示した手紙を頼りに、芹沢は行動に出たのだ。
真紀子の手紙を読んでから、芹沢は毎日成瀬の枕元で手紙を読む事にした。今まで沢山の人から届いていたけれど、他人が開いて良いものではないだろうと積み上げたままだったのだ。
しおりや弁護士事務所の人、成瀬に弁護された沢山の人から届いたお見舞いの手紙。その一通一通を芹沢は丁寧に読み進めた。
ここに来る事はせず、しおりは週に一度手紙を送ってくれる。本当は彼女が側にいた方が良いのかも知れないと思いながら、ここまで連れて来た罪悪感もあった。
彼女は、自分の葛藤を知っているのか、成瀬と同じように自分にも手紙を書いてくれる。他愛もない日常を綴った手紙に、心が落ち着いた。
成瀬へ宛てた手紙も、内容は似た感じのもので安心する。季節の移り変わりを感じさせる花の話や、最近読んだ本の事、ガランサスへコーヒーを飲みに来て欲しいと言うささやかな願い。どの手紙も、彼女の優しさを感じさせてくれた。
毎日毎日、芹沢は成瀬宛の手紙を読む。仕事が忙しくても深夜に帰って来てスーツを脱ぐより先にベッドサイドの椅子に腰掛けた。沢山の人が成瀬へ愛情を向けている。その事に早く気付いて欲しかった。
手紙を読み始めて、どれ位経った頃だろうか。社長室にいた自分を慌てて看護士が呼びに来た。信じられない心地で、目と鼻の先にある成瀬の部屋へと戻る。
毎日毎日目覚める事を待っていたのに、これは夢なのではないかと疑う自分がいた。「成瀬さんが目覚めました」と焦った声で呼びに来た看護士は近くの病院にいる医師を手配しにすぐ部屋を出て行く。
ベッドの上。もしかしたら永遠に目覚めないのかも知れないと思った事もある。彼の側にいる事しか出来ない自分がむかついた事も何度だってあった。
「……成瀬、さん」
恐る恐る近付けば、湖面のような眼差しが、確かに向けられる。ずっと見たいと切望していたその色。静かな表情に言葉をなくし、唯芹沢は涙を零した。
あの夜から長い時間が経っている。何も言えずに、動く事の出来ない成瀬の手を掴んだ。乱暴な仕草だったと思う。ベッドサイドに跪いて、その手を胸に抱いた。
「っ良かった……」
ベッドの上の成瀬は何も言わず、静かに目尻へと一筋の涙を零した。半年ぶりの目覚めに、世界を一つ一つ確かめているような。まだ生きているのだと言う事を実感しているような。そんな静けさだった。
成瀬が目覚めてから、芹沢はタイミング悪く出張が入ってしまった。まあ、意識のない彼を置いて行くよりは幾らか気分が楽だけれど、ろくに話す事も出来ず旅立つのは不本意だ。
今置かれている状況をきちんと説明したかった。自分の思いも、生き残った自分達の命も。
この半年間、成瀬を見続けて辿り着いた結論を話したい。幸い、出張は一週間だった。体力が落ちている彼が話を聞けるようになるには、時間が掛かる。食事も直接入れられない状態だから、自分がいなければリハビリに専念出来て良いのかも知れなかった。
成瀬はぼんやりと世界を見詰めている。どこにも障害は残っていないと言うから、体力の回復を待つしかないだろう。一週間、出張先でもマメに医師へ連絡を入れながら、芹沢は過ごした。
勿論、まだまだ仕事が完璧ではないから手抜きをするとすぐ追い付けなくなるのを分かって、きっちり取り組んだつもりだ。部下のサポートがなければ、すぐにでも自分は社長職から逃げていた。
彼らに報いる為にも、必死に仕事をこなす。有能な部下は、出張から戻ったら成瀬と過ごせる時間を用意してくれていた。詳しい事を話してはいないけれど、こうして一緒に住まわせているのだ。簡単な関係でない事はすぐに分かる筈だった。
どうにか仕事を終えて、芹沢は自分の部屋へと戻る。医師の話では、やっと昨日口から食べ物を受け付けるまでになったと言う事だった。
ホテルに戻ると、もう外は暗い。成瀬は食事を摂ってしまっただろう。どんなものであれ、一人で食べるよりは良いと思ったのだけれど。
残念に思う気持ちはそっとしまっておく。これから先、幾らだって機会はあった。離れず、ここにいてもらう為に。
目覚めてから面と向かって話すのは今日が初めてだった。少し緊張する。部屋の前で芹沢は足を止めたけれど、今更躊躇しても仕方なかった。それ以上に、目覚めた事の嬉しさが強い。
もう、一人じゃなかった。芹沢は、この出張で気付いている。あの夜から半年間、寂しくて仕方なかったのだ。目覚めない彼の傍で、ひとりぼっちの心地だった。
どれだけ沢山の人が傍にいようとも、自分が欲しいのは成瀬の存在だったから。深呼吸を一つして、部屋をノックした。
「戻りました。成瀬さん、具合はどうですか? ……え」
思い切って扉を開ければ、そこにいる筈の存在は見当たらなかった。トイレだろうか。否、部屋の中で全て出来るようになっているのだから、ここにいないと言うのはおかしい。
「成瀬さん? どこですか?」
嫌な予感がした。半年以上ベッドの上にいた成瀬の身体は、相当弱っている。歩く事も容易ではない筈だった。けれど、部屋の中に気配はない。
バッグを置いてジャケットを放り投げると、そのまま芹沢は走り出した。刑事時代の勘だ。成瀬はまだ、この世界から逃げたがっていた。
ホテルを飛び出すと、迷わず海へと走る。海へと辿り着くのは、人間の本能だった。生かされた命を、例え成瀬自身でさえ奪う事は許されない。逃げて欲しくなかった。
夜の海は、全てを素知らぬ顔で飲み込んでしまう。波の音。塩を含んだ夜風。怖がってはならなかった。生きる事から逃げる事は許されない。
「成瀬さん! 成瀬さん!」
叫びながら、芹沢は砂浜を走った。デスクワークになってから少し体力は落ちたけれど、それも現役刑事と比べての事だ。スーツが動きを妨げていると感じる位、芹沢は走り続けた。
「成瀬、さん……成瀬さん! 駄目だ!」
小さなシルエットを、黒い海の中に見つける。歩く事すらままならない人間が海になんて入ったら浅瀬でも溺れ死ぬだろう。名前を呼びながら、シャツが濡れるのも構わずにその背中を追い掛けた。
「成瀬さん!」
勢い込んで、背中から抱き締める。羽交い締めにするまでもなかった。それ程に、彼の身体に力はない。
「何、やってるんですか!」
目一杯叱ってやりたかった。けれど、海の中にいればいただけ成瀬の体力は奪われる。抵抗出来ないのを良い事に、軽くなってしまった身体を抱き上げると、浜辺へと戻った。
砂浜に濡れた身体を下ろす。本当はすぐにでも部屋に戻るべきなのだろうけれど、身体より彼の心の方が大切だった。
「成瀬さん」
「……」
「真中さん、とお呼びした方が良いんですか?」
「違っ、……そうじゃない」
「俺は、貴方が貴方であるなら、何でも良い。どうしてですか! どうして、この身体をまた死なせようとするんですか!」
肩を掴んで、力の限り叫んだ。許しがたい事だった。これだけの長い時間を、自分はたった一人で待っていたのに。すぐにまた、彼は旅立とうとする。
「貴方の命は、もう貴方だけのものじゃない! 生きて下さい!」
「出来ない……僕は、」
「生きて下さい。貴方に、それ以外の術はないんだ」
「僕は、生きている資格がない」
「でも、死ぬ資格だってない。どんなに逃げても、どんなに苦しくても、貴方はここで生きるしかないんです」
「嫌だ……出来ない」
成瀬は、怯えたように瞳を潤ませる。彼から復讐と言う動機を取ったら、無防備なまでの本性が現れた。肩を掴んでいた手を、引き寄せる為のものに変える。成瀬を緩く抱き締めた。冷えて行く身体を海風から守るように。
「生きて、下さい」
「出来ない」
「なら、貴方のせいで命を落とした人の為に、貴方のおかげで救われた人の為に、生きて下さい」
「……出来ない。俺は、誰も救った事なんかない」
成瀬の言葉に嘘はないのだろう。あれだけのお見舞いをもらいながら、天使の弁護士はあくまでも自分を優しいものだと認めようとはしなかった。
芹沢とて、父と兄、そして友人達を奪われたのだ。何度も何度も憎もうとした。けれど、憎む時期はとっくに過ぎてしまった。今は唯、一緒に生きたいと願っている。腕の中にある存在は、自分の半身だった。
「成瀬さん」
「……嫌だ。僕はもう、ここにいたくない」
「駄目です。逃げるなんて駄目だ」
「貴方だって、俺を憎んでいるだろう」
「……あの時、言いましたよね? 俺はもう、貴方を許しました。俺自身も許した。今出来るのは、生き続ける事だけなんです」
「僕は、僕を許せない……」
「それなら、俺の為に生きて下さい」
「な、に……」
「俺の為に、俺だけの為に。生きて下さい。生き続けて下さい。俺と一緒に、皆の分まで」
成瀬の冷えた身体を抱き締めた。目を見て言う事は出来ない。まるで、愛の告白だった。彼がどう捉えるかは分からない。けれど、憎しみだけで生きて来た彼の為に、新しい場所を用意する事もまた自分の償いだと思っていた。
「生きて下さい。貴方は、俺のものだ」
「芹沢……」
「そして、俺も貴方のものだ」
成瀬はもう、何も言わなかった。唯、されるがままに抱き締められている。拒絶がないのを肯定の意と取って、芹沢は帰りましょうかと促した。
生きて欲しい。自分の傍で、一緒に。
少しずつ変わり始めた成瀬への感情に、芹沢はまだ気付いていなかった。
成瀬が目覚めてから三ヶ月が経った。リハビリに勤しみながら、芹沢リゾートの顧問弁護士として、辣腕を奮っている。他の弁護は受けず、今は顧問弁護士としてだけ動いていた。
完全に回復したら動き出すだろうけれど、今はまだこの部屋で出来る仕事だけに限られている。医師からも過信するな、と言われていた。元々体力があるようにも見えないから、芹沢が怪我をしたのとは根本的に回復速度が違うのだろう。
日々、成瀬は静かに生活している。あの海での出来事以来、逃げる事もなかった。時々辛そうに眉を顰める程度で、芹沢と一緒の部屋にも文句は言わない。言えなかっただけなのかも知れないけれど、気付かない振りで今も同じ部屋で生活していた。目の届く場所にいると、安心する。
成瀬は、成瀬領と言う名前を捨てなかった。真紀子からの手紙の効果もあったのだろうけれど、今更真中友雄に戻る事も出来ないと、いつかの夜に自嘲気味に話してくれている。
過去を消す事は誰にも出来なかった。その代わり、過去に出会った人達との優しい交流もある。しおりも、一度だけここに来てくれた。一緒に生活する二人を見て、彼女は温かい涙を零したのだ。
自分にとっても成瀬にとっても、彼女は天使だった。光を見せてくれる人だったと思う。成瀬に向けられた恋心は、彼に届く前に上手く隠してしまったらしい。曇りのない笑顔のどこにも、恋の色は見つけられなかった。
少しずつ、変わり始めている。中西も何度か足を運んでくれた。ここなら近いから良い、と笑っては自分が育てた野菜を持って来る。一緒に仕事をしていた自分よりも、成瀬に多く言葉を掛けるのは年長者の気遣い故か、それとも単純に成瀬へ向けられた愛情なのかは分からないけれど。
天使の弁護士の名に恥じない、穏やかな人だと改めて思った。彼のどこに悪魔が潜んでいたのか、見つける事はとても出来ない。法では裁けない罪を身の内に秘めながら、成瀬は生きていた。
PR