小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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多分、最初から。
あれは、恋だった。
時間がなかった。他に方法は幾らでもあっただろうけど、自分に出来る一番早い方法を取る。
とにかくもう、時間がないのだ。
カンパニーの千秋楽。オフブロードウェーと言っても、コウイチ達の公演は成功の部類に入るだろう。劇場のオーナーである大倉は、誇らしげに打ち上げで盛り上がっているメンバーを見た。
その輪の中心にいるのは、カンパニーになくてはならない存在、コウイチだ。あの小さな身体にどれだけの輝きを秘めているのか。ともすれば女の子のように可愛らしい顔立ちで、けれど多分カンパニーの中で一番男らしい人物だった。
今はステージの上の神々しいまでの煌めきを置いて、ひたすらに愛らしい笑顔を振りまいている。コウイチの笑顔を見ると、何だか幸せな気分のなるのだから不思議だった。
その一番近くにいるのは町田だ。本気なのか冗談なのか、恐らく本人にも区別のつかないところで彼はコウイチが大好きだった。恋に近い羨望の情。周囲の人間も微笑ましく見ていられるのだから、問題はないだろう。
何より、その愛情を一身に受けているコウイチ自身が平気な顔で無防備に笑っているのだ。心配すべき事はどこにもなかった。
輪から一つ離れた場所、昔から一緒にいる割には大倉と同じ様に外側からコウイチを見守るのが米花だ。時に兄の様に、時に父の様に、そして大事な大事な幼馴染みの一人として側にいた。
愛情の深さでは町田に劣らないかも知れないけれど、彼の場合はきちんと仲間としての情愛だ。間違えずに側にいる所が米花の米花たる所以だろうか。
町田とポジションを奪う様にして笑顔を見せるのが、リカだった。彼女もまた幼馴染みの一人だけれど、昔からコウイチ一筋と言う点では町田とはライバルに当たる。
子供の頃の感情そのままに恋をしている姿は可愛らしいものだった。本人が気付きそうもない時点でかなり望みは薄い。めげない強さが彼女の良い所だった。
そして、リカを密かに思っているのが屋良だ。負けん気の強さと彼女への恋から、コウイチへの敵対心は人一倍強かった。とは言っても、兄弟の様に育って来た二人だ。コウイチも屋良の気持ちを分かりながら、楽しんで対決している様な節があった。
いつか、屋良が主役を張る日が来る。
大倉にだけ小さく小さく零したコウイチの横顔は綺麗なものだった。当分渡してやらんけどな、と笑った彼の表情に屋良に向けた愛情を知る。
仲間でありライバルであり、そして家族でもあった。このカンパニーの絆の強さを大倉は誇りに思っている。皆一緒に、これからも良い舞台を作り上げて行きたかった。
「さ! そろそろ解散してよー! 電気代だって馬鹿になんないんだからさー!」
「はーい。全く、大倉さんは固いんやからなあ」
「そうだよ。せっかく千秋楽だってのにさ。まあ、そろそろ終わりにしますか。明日もバイトの奴多いんだろ?」
「うーわー! 米花さーん! いきなり現実に戻さんでもええやんー」
「あ、コウイチ。現実戻った? それは良かった。じゃあ、ウチのオーナーが泣き出す前に解散しましょ。俺は明日、ペンキ屋でバイトなの」
米花はコウイチの肩を抱くと、問答無用で帰ろうと促す。カンパニーの連中を一人一人帰す様仕向けるよりも、彼一人を追い出した方が効率が良かった。
「あ! 私も帰るー!」
「ちょ! リカ! コウイチの腕組むな!」
相変わらず騒がしいメンバーを連れ出してくれた米花に感謝をしつつ、大倉はオーナーとして戸締まりを始める。父親から受け継いだ大切な劇場だった。オフではあるけれども、立派な場所だと思っている。
この劇場のステージでコウイチ達が踊るのが好きだった。演技者である以上、高見を目指したい気持ちはあるけれど。
まだ、ここで踊っていたかった。
全ての場所の消灯と戸締まりを確認して、劇場を出る事にする。大倉も明日はバイトがあった。オーナーとは言えども、カンパニーを食わせて行く為には働かなければならない。
明日も頑張ろう、と伸びをした時だった。一人の黒ずくめの男が立っているのに気付く。
華やかな場所であっても、ここはニューヨークだった。用心するに越した事はない。じ、と相手を見詰めた。サングラスで、その双眸は伺い知れない。
小柄な男だから、もし襲われても逃げ切れるのではないか。いや、そもそも教われると限った訳ではない。
お人好しの大倉は、明らかに怪しい男を前にして迷ってしまった。もしこれが暴漢であったなら、確実に身ぐるみを全部剥がれていただろう。
あいにく、黒ずくめの男の目的は金銭ではなかった。
「このカンパニーのオーナーですか?」
流暢な日本語に、大倉はまず驚く。カンパニーの中では日本語を使う事が多いし、未だにコウイチなんかは慣れた人間の前では故郷の訛りが抜けていなかった。
けれど、一歩外に出て日本語で話し掛けられる事は滅多にあるものではない。思わず、はい、と頷いてしまった。
「そうでしたか。ワタクシ、堂本と申します」
怪しげな男が差し出したのは一枚のシンプルな名刺。そこには、デザイナーと言う肩書きと堂本だけのミドルネーム。
思わず大倉が固まったのは、その名字の男をもう一人知っているからだ。ニューヨークに住む日本人で同じ名字の人間には会った事がない、と本人も言っていた。日本でもあんまない名字らしいわ。そう呟いた彼の表情を思い出す。
大倉は差し出された名刺を呆然と見遣った。他人、だと思う。だって、コウイチに親族は一人もいないのだから。
「大倉さん?」
「あ、は、はい」
「是非、貴方のカンパニーとビジネスをさせて頂きたい」
夜の闇に溶け込んでしまいそうな風貌のまま、男は笑った。
動き出した歯車を止められる人間は、どこにもいない。出会うべくして出会った者、起こるべくして起こった事。もし神がいるのなら、慈悲はどこにあるのか、と問うてみたかった。
+++++
翌日、バイトが終わったメンバーだけでショーを見に行った。根っからのショー好きの人間達だ。劇場を出ても興奮冷めやらず、と言った所だった。
皆であそこが良かった、此処が足りなかった、と論評しながら電車代を節約して歩いて劇場まで戻る。ショーを見ていたら、自分達も踊りたくなってしまった。
次の公演の準備と称して、皆で踊ろうと見終わってすぐに決めたのだ。屋良を先頭に劇場へ着くと、見慣れない車が止まっていた。
コウイチの隣にいた大倉が、びくりと怯む。知らない車は怖いけれど、そこまで警戒する事もなかった。ん? とコウイチは首を傾げる。
「どしたん? 大倉」
言い終わるのと同時に車のドアが開き、一人の男が現れた。見た事のない顔だ。スーツからネクタイ、シャツに靴、そしてサングラスに至るまで全てが真っ黒で異様な威圧感を醸し出していた。
真っ直ぐにコウイチの元へ歩いて来るのに、思わず身体を強張らせる。ショーの世界に身を置きながら、人見知りな性格は変えられなかった。物怖じしない性格ではあるけれど、対人関係に関しては駄目だ。
こんなコウイチを、カンパニーのメンバーは嫌になる位知っていた。愛すべき座長の敵になり得るものは、何であれ排除して行きたい。
す、と米花が守る様に一歩前へ出た。
「こんにちは」
男がゆっくりと笑う。嫌な感じだ、と米花は眉を顰めた。サングラスの所為で瞳は見えないけれど、他人を値踏みする気配が見える。何より、これだけ人数がいるのにコウイチにしか目を向けていないのが不愉快だった。
「初めまして。貴方が、コウイチさんですね?」
ふっと笑った表情に、コウイチが表情を強張らせる。日本語の安心感以上に警戒心を募らせた屋良が口を開いた。
「初めて会った人間には、自分から挨拶するのが礼儀だろ?」
「……ああ、昨日大倉さんにはご挨拶したんですけどねえ。お話しになられていないようだ。……僕から話させて頂いても?」
「いえ! 俺が話すんで! と言うより、そのお話は昨日お断りした筈です!」
滅多にない大倉の怒りの滲んだ声に、ただ事ではないと全員で警戒心を強める。コウイチは、呆然と目の前の男を見ていた。
この男は、自分達の空間に何か悪いものを持ち込もうとしている。嫌だ、と思うのに目を逸らす事すら出来なかった。サングラスの奥、その瞳は間違いなく笑っている。
「違うやろ? あんたの判断なんてどうでもええ」
いきなり語調を変えた男に、全員が明確な敵意を持った。こいつを、コウイチの側に行かせてはならない。リカすら厳しい表情でコウイチの後ろに立っていた。
怯む事なく一歩前に出た男は、優雅な仕草でサングラスを抜き取る。コウイチは逃げる事も出来ず、真正面からその闇色の瞳を見返した。
「申し遅れました。堂本ツヨシと申します」
「……どーもと?」
「はい」
含みを持たせた笑み。ニューヨークで生きて来て、一度もその名字を聞いた事はない。唯の偶然か、それとも。
名字一つで動揺したコウイチの手を、ツヨシは簡単に引き寄せる。拒絶する暇もなかった。
手の甲にそっと、口付けを落とされる。唇を付けたまま上目遣いに見詰められて、コウイチは完全に固まった。ツヨシの口許が意地悪げに歪む。
「お前の為に劇場を建てた。そこで、踊って欲しい」
一言一言、言い聞かせる様な声音だった。コウイチだけではなくその場にいた全員が呆然とツヨシの言葉を反芻する。劇場を建てた、なんて何を酔狂な。
一番最初に立ち直ったのは、一度話を聞いていた大倉だ。
「堂本さん! そのお話はお断りした筈です。お引き取り下さい」
「うっさい奴やなあ。俺は、コウイチに踊って欲しいんや。一応礼儀通そう思うてお伺い立てただけやし。……ここじゃ何やな。場所、移そか」
「待って下さい。コウイチだって断るに決まっています」
挑む様な目線だったけれど、米花は事態を悪化させない様、余り声を荒げずに言う。左手を取られたままのコウイチが、その声にゆっくりと反応した。緩い瞬きすら、優雅なものに見える。
「うん。……申し訳ありませんが、いきなりそんな事を言われても、応じかねます。私は、このカンパニーの一員ですし」
やんわりと断ったコウイチの言葉の固さに、メンバーは内心で安堵する。彼の警戒真の強さであれば、何も怖がる事はなかった。人に対しては周囲が心配になる程臆病なところがあるけれど、根本的には毅然とした姿勢で臨む強い人だ。
「まあ、そう言うやろうとは思ってたわ。お前の頑固は聞いとったし。でも、こっちも真剣なんや。簡単には引けへん」
「堂本さん。私は、一人では踊れません。一人ではステージを完成させる事が出来ません。カンパニーがあるから踊れるんです。このカンパニーで生きて行こうと思っています。だから、お話はお受け出来ません」
怯えも迷いもない澄んだ目でツヨシを見詰める。コウイチの言葉に今此処にいる人間がどれだけ救われるのか、彼は知らないだろう。座長の為に、なんて言ったら大袈裟だけれど、彼がいるからカンパニーは一つでいられた。
「あんたの意思が固いんは知っとるけどな。こっちも本気なんや。お前の為のもんやから、一度見て欲しい」
「え! わ、わっ!」
ぐい、と腕を引っ張られたかと思うと誰も対応出来ない位の素早さで、コウイチを自分の車に押し込む。誰も動く事が出来なかった。
「すぐ返すわ~。探さんでええからな~」
車を出しながらツヨシが叫ぶのを、カンパニーは信じられない思いで聞く。探さなくて良いなんて言われて、そのままいられる筈はなかった。
「おい! 待てよ!」
走り出したのは屋良だ。その後を着いて全員が追い掛けた。
が、走る距離は短い。大倉の劇場の隣、随分長い間工事中の白い幕が張られた場所にツヨシの車が止まっていた。
「なあ、これ……」
「俺もおんなじ事思った」
「の、覗いてみる?」
「ねえ、やっぱりコウイチが帰って来るの待たない?」
「何で?」
「だって多分、大丈夫だから。あいつ、コウイチを踊らせたいんでしょ? そんなのコウイチはやんないだろうし、下手に動いて弱味を握られるのも嫌じゃない。幸い、隣は私達の劇場だし大人しく待ってましょうよ」
「逃げんのかよ」
「そうじゃなくて!」
「うん、俺も賛成だな。必ずコウイチは帰って来るよ。な?」
リカの言葉に同意した米花は、納得のいかない屋良の背中を抱いて劇場へと進む。あの男が何を考えて言い出したのかは分からないけれど。
コウイチを信じるのが最善の策だと、米花は信じていた。
「うわ……」
「凄いやろ? お前んとこの劇場じゃ、この手の機材は入れられんからな。重過ぎて建物が耐えられん。でも、お前こう言うの好きやろ?」
「うん」
見るだけ、と念押しをして入った白幕の内側。其処には既に完成した劇場があった。大倉の、自分達の劇場のすぐ隣。何かを建設している事には気付いていたけれど、まさか同じ様に劇場が建てられるとは思わなかった。
車の中で運転の為に離していた手は、劇場内に入ってまた引かれてしまう。温い体温がコウイチは得意ではなかった。潔癖のケがある事は自覚している。カンパニーの人間でも全員が大丈夫な訳ではなかった。さすがに、幼い頃から一緒にいる屋良達は平気だったけれど。
触れる事が得意ではないのが、対人関係の苦手な大きな一因だった。なのに今、引かれた腕に嫌悪感がない事が不思議で仕方ない。
どうして。
良い印象を持つ事の出来ない相手だった。それでも、離すつもりもない強い拘束が気持ち悪くはない。
座り心地の良さそうな客席を通って、ステージに上がった。真新しい匂いのする板の上から見渡す景色は、ここで踊りたいと思う程素晴らしいものだ。
手摺から天井に至るまで、細かい装飾がなされていた。今時珍しい木の造りは、恐らく音も綺麗に響き渡るだろう。
「どうや? 気に入ったか?」
「凄いなあ、これ」
「俺が設計図引いたんや」
「……え?」
「専門外やけどな。ああ、言ってなかったか。俺、デザイナーなんよ」
「デザイナー?」
「うん。メインは、舞台の衣装デザイン。このステージで踊ってくれたら、お前の衣装も作りたい」
「俺は、貴方に此処までしてもらう覚えはないよ」
「貴方じゃなくて、ツヨシな。覚えて?」
「……ツヨシさん」
「ツヨシでええよ」
「なら、ツヨシ。此処は凄く綺麗やし、素晴らしい劇場になると思う。けど、俺には踊る場所と一緒にいたい仲間がいる。だから、此処では踊れない」
繋いだ手の先で、ツヨシは痛そうに顔を歪めた。サングラスを外してしまえば、怖い男じゃない事が分かる。劇場を案内してくれた表情は明るく優しいものだったし、先刻の高圧的な態度が素なのか演技なのか、分からなかった。
けれど、どちらにしろ自分は踊れない。踊りたい場所があった。彼らと一緒にこれから先も光の先を目指して行く。
「お前に立ってもらわんと、この劇場は生きる事すら出来んのや」
「うん、ごめんな」
「どうしても、駄目か?」
「あかんよ。大倉の劇場は隣やもん。俺が此処で踊るんはおかしいやろ」
「すぐに帰れる場所がええやろう思って、此処に建てたんや」
余りの真剣さに絆されて、コウイチは言葉遣いを崩していた。自身で気付く事も出来ず、唯どうしたら良いのかを考える。
初対面の人間に、こんなにも真っ直ぐ思いをぶつけられたのは初めてだった。自分の為に、と言う男。
「どうして、ツヨシはそんなに……」
「あかんか? 一人のダンサーに惚れた。そのダンサーに踊って欲しいと思った。一度で良い、自分の場所で。思うんは、おかしい事か?」
「おかしいやろ、それ。何で、俺なん……?」
「お前の踊りに惚れたからや。今まで沢山の舞台を見て来た。沢山の衣装を手掛けた。でも、お前程心を揺さぶる踊り手はおらんかった。これが、理由の全てや」
「……分からん」
「もう一度言う。お前に、此処で、踊って欲しい」
「出来ん。……っん」
拒絶の言葉を零すのと、ツヨシに抱き寄せられたのは同時だった。唇に生温い感触。ぼやけた視界にはほんの数十分前に出会った男の顔がある。
舞台の上では経験した事があった。虚構の物語の完成度を上げる為なら、どんな事でも出来ると思っている。けれど、人と触れ合う事が苦手なコウイチは、プライベートでの経験が極端に少なかった。
ファーストキス。そう呼んでも差し障りない程だった。
コウイチの反応で分かったのか、ツヨシも余り責め立てる事はせず、唯優しく唇を押し当てるだけ。ゆっくりと離せば、呆然と言った表情で立ち竦んでいた。其処に嫌悪の色がないだけでもよしとしたいところだ。
「大丈夫か? 俺の気持ち伝わった?」
不器用と言う意味では、ツヨシもコウイチと大差なかった。お互いに自覚がない分、気付く事はなかったけれど。カンパニーの誰かが見ていたら確実に、「そんなもんで伝わるか!」と突っ込めていた筈だ。
「なあ、」
不器用ではなかなか右に出る者のいないコウイチは、呆然としたまま唇を撫でる。感情の不器用さで言ったら、恐らく彼に勝つ事は難しいだろう。
「……ホントに、会うの初めて……?」
ツヨシは、その言葉に何も答えてはくれなかった。
+++++
「お帰り」
「あ、ヨネ。待っててくれたん?」
「ああ。皆もさっきまで一緒だったんだけどな。あんまりコウイチが遅くて心配しちゃってさ。きっとそろそろ帰って来るからって説得して、今夕飯の買い出しに行かせてる」
「ヨネは?」
「買い物行くの面倒臭かったから、色々言いくるめてお留守番役になりました」
ほとんどが同年代のメンバーで構成されているカンパニーの中でも、米花は兄的な役割を担っている。顔の割に優しい、と言うと怒られるけれどもしかしたら大倉より穏やかな性質かも知れなかった。
人に頼る事を潔しとしないコウイチでも、少しだけ米花には寄り掛かれる。柔らかな表情にほっとした。
「で、どうだったの?」
「最新の機材満載だった!」
「……そうじゃなくて」
「あ、ごめん。ええと」
舞台の上の表現力は抜きん出たものがあるのに、役を離れると一人で生きて行けるのか不安になる程、コウイチは説明がおぼつかない。勿論そんな事は分かっているから、急かさずに話を聞く事にした。買い出し班には車を与えなかったから、まだ時間が掛かるだろう。
「キス」
「は?」
「キス、された」
「何だってっ?」
「なあ、ヨネ。俺、あいつと会うのホンマに初めてかなあ」
「ちょっ! コウちゃん! キスって何? 何されたの?」
思わず幼い頃の呼び方に変わってしまう程、米花は動揺した。大事な大事な座長様を傷物にしたくはない。
大人だから大丈夫、と皆を帰した手前もあり、あり得ない位焦っていた。コウイチは、きょとんと愛らしく首を傾ける。
「やから、キス」
「キスって! 何処にっ? 挨拶の範囲なら、俺の胸だけに留めとくから」
「ええと、手の甲」
「は、さっき俺も見たよ! 二人ん時も手の甲だったの?」
「……ヨネ、怒らん?」
「事と次第によっては怒るかも知んないですけどね」
「じゃあ、言わん」
「さっきの」
「……え」
「会うのが初めてかどうか、って奴」
「ヨネ、知ってんのっ?」
「何処にキスされたか、正直に話したら教えてあげます」
米花とて、コウイチを虐めたい訳ではない。唯、事実は事実として把握しておきたかった。今後、あの男に対する警戒心が変わって来るからだ。
んー、と少し躊躇う素振りを見せた後、基本的に素直なコウイチは口を開いた。ある意味、舞台だけで生きて来た純粋培養な人だ。駆け引きや計算からは、最も遠い所にいた。
「くちびる」
「あーーー! やっぱりー! コウちゃん!」
「ほらー、怒るやんかー」
「当たり前でしょ! 何で、あんな男にあっさり許してんの! コウイチの身体は、コウイチだけの物じゃないんだよ! カンパニー全員のものなんです! ……あーもう、こんな事なら大人の振りして送り出すんじゃなかった。俺達の今までの苦労って何だったんだろう……。大事に大事に育てて来たのに……皆で牽制し合って、抜け駆けだって禁止にしたからあのリカも、あの町田も大人しく頑張ってたのに……。それを、あんな得体の知れないチンピラに奪われるなんて。あーどうしよう、どうするか。俺が今此処で消毒と称してキスしても良いけど。でもなあ、それじゃビジュアル的にイケてないよなー。あいつら帰って来たら、リカに……いや、それも駄目だろう。じゃあ、屋良かな。無理か。んー、町田は論外だ。キスなんかしたら、そのまま昇天しかねない。大倉……は、ビジュアル的に保たれるけど、あいつ固いからなあ。断固拒否っぽいよなあ。……そうだ! 次の公演にキスシーン
入れれば良いんだな。そうしよう、うん。で、何度もこなせば、その内消毒されるだろ」
「……あ、あの。米花さん……?」
後半から独り言になってしまった米花の鬼気迫る顔が怖くて、コウイチは恐る恐る声を掛けた。唯でさえ、はっきりした顔立ちは日本人がメインのカンパニー内でちょっと怖い時があるのに。
コウイチの声に我に返ると、ごめんごめんといつも通りの顔に戻った。
「まあ、その話は置いておいて」
「やっぱり、どっかで会うた事あるん?」
「いや、会ったって言うか。客席にいたよ。俺は二回、見た事ある。でも、随分前の話だよ。コウイチが舞台に上がった最初の頃。暗い場内でサングラス掛けたまんまだから、あいつ見てんのかよって他の奴らと話してたから覚えてる」
「でも、そんなんじゃ顔分からんよ」
「分かるって! あのマフィアまがいのオーラは間違いない」
「マフィアって……もっと言いようがあるやろ。それだけ? 話した事とかはない?」
「ああ、多分。コウイチはいっつも誰かと一緒にさせてるから、話までした事あったら、絶対誰かが覚えてる。……ストーカーとかかな?」
「それは違う気、する。ストーカーやったらこんな堂々とせえへんやろ」
「うーん、どっちにしろ厄介だなあ。劇場建てるなんて、何億ドル掛かるんだよ……。対策立てねえとな」
「大丈夫やって。俺が何とかする」
「駄目! コウイチが自分で決断するとロクな事ないから!」
過去の彼の判断と言えば、酷い物だった。表に出るものとしては最高であっても、彼は彼自身に優しくない。
カンパニー全体でどうにかしなければならない問題のようだ。
「ま、とりあえずそろそろ皆帰って来るだろうし。さっきのキスの話は内緒な」
「うん、分かった」
「どうせテイクアウトのもんしか買って来ないだろうから、準備して待っててやろうか」
兄の顔で笑った米花にうん、と頷いて応える。年下なのに時々本気で兄のように思う事があって、コウイチはその情に時々自分で吃驚した。米花は優しい。大好きだな、と思いながらキッチンへ向かったその背中を追い掛けた。
+++++
米花の嫌な予感は的中した。
と言うか、あのまま終わるだなんて誰も考えていない。またすぐに来るだろうと思っていた。
さすがに、翌日訪れる事は予想外だったけれど。
「こんにちは」
「……何しに来たんですか」
いつもは穏やかな町田が、入り口に立ったツヨシの前に立ちはだかる。あいにくその威圧感に勝てる訳もなく、軽く押し退けられてしまった。
「コウイチの事でお話に伺いました。大倉オーナー?」
「ウチは弱小カンパニーです。今の所、客演であっても外部の劇場にウチの人間を出すつもりはありません」
「んー、分からんやっちゃなあ。俺は、やると決めたらやる。コウイチが欲しい。隣に劇場も建てた。何も、引き抜きたいって話をしている訳ちゃう。ほんの少し貸して頂けませんか? ってお願いしてるんやで」
とてもお願いをしている風には見えなかった。カンパニー全員が座りもせずに、招かれざる来訪者に警戒心をむき出しにする。この男の雰囲気が怖かった。本気で連れ去られてしまうのではないかと、不安になる。
「コウイチ。……どこにおんの?」
「此処にはいません。お引き取り下さい」
「コウイチ! 出て来ぃ!」
いきなり壁をがん! と叩いたかと思うと、二階を見上げてツヨシは叫ぶ。此処に昨日コウイチの一番近くにいた米花の姿はなかった。と言う事は、二人で上にいると考えるのが妥当だろう。
あの頑固者がメンバーを置いて、自分の為に来る人間がいる事を知りながら何処かに行く事は出来ない筈だ。もう一度壁を叩きながら、出て来いと念じた。
「……ツヨシ、此処古いんやから。そぉ言うんやめて」
「お前が俺の前にいれば済む話や」
床を踏み締める音が微かに響いたかと思うと、ゆっくりコウイチが階段を降りて来る。後ろには予想通り米花の姿もあった。
ツヨシは真っ直ぐに階段を降りるコウイチだけを見詰める。
「昨日、断った筈やで」
「俺はイエスの言葉しか聞きとうない」
「阿呆か。自分勝手なのもいい加減にせえ」
その言葉の親しさに驚いたのは、カンパニーの人間だった。自分達の中にいる時は安心したように柔らかな言葉で話すけれど、外部の人間に接する時は舞台の上と同じ様にピンと張り詰めた空気を纏っている。
たった一晩で、どうして。
コウイチに訊いた所で明確な答えは返って来ないだろう。唯、本気で来られると本気で返したくなる性分だったから、取り繕っている暇がなかったのだ。
今まではずっとカンパニーの誰かが守っていたけれど、今回は唐突過ぎて誰もフォローする事が出来ていなかった。本当はこんな場所に大切な座長をいさせたくない程なのだ。
「じゃあ、言葉変えるわ」
「え、何……」
「ま! 待って下さい!」
声を荒げたのは大倉だった。けれど、間に合う筈もない。引かれる力のまま距離を縮めたコウイチは、昨日と同じ様に口付けを許してしまった。町田の、お前ホントに男か? と疑いたくなる悲鳴が響き渡る。
「ツ、ツヨシ……」
「お前を愛してる。ずっと、なんて言わん。ほんの少しでええ。俺の為に踊ってくれ」
「そんなもん許せるかーーー!」
叫んだのは勿論町田だった。その後ろで、リカも激しく同意している。概ね、カンパニーの意思はずれていないだろう。
屋良だけが一人、神妙な顔で眉を顰める。何かを考える様な、そんな仕草だった。
「許す許さない、の話やったら俺にも考えがあるわ。リョウ」
「はい」
音もなく其処に入って来たのは、ツヨシと同じ様に黒いスーツに身を包んだ男だった。何かの資料を手渡すが、その仕草はまるで影と同じだ。静寂を纏っていた。
「此処の劇場、大分老朽化が進んでるな。土地を買い取って、新しい施設を建てようかと考えている」
「何を、言っているんですか。此処は、僕の劇場です」
「経営、厳しいやろ? お前、自分の貯金崩しながらこのカンパニーを持たせてるし」
「な……!」
それは、大倉が今まで誰にも話した事のない経営状況だった。厳しい事は勿論伝えている。唯、この劇場を維持したいのは自分の意志だったから話す必要はないと思っていた。
彼らは、踊れるのであれば此処でなくても良い事を大倉自身良く知っている。ニューヨークで踊っている人間なら当たり前だった。誰もが此処ではなく、オンを目指している。
「大倉……お前、」
「良いんだ。それは今関係のない話です。だからと言って、貴方にとやかく言われる筋合いはありません」
「まあ、そやな。でも、俺が此処を潰しに掛かるって言うたら、どうする……?」
コウイチを右手で繋ぎ止めたまま、ツヨシは人の悪い笑みを浮かべる。得体の知れない物に対する恐怖。大倉はそれでも気丈に視線を合わせた。
「潰させません。もし此処で踊れなくなっても、コウイチ達にはまだまだ道がある。あんたの思い通りにはならない」
「どうかな? 他の劇場に立てなくする事も、俺には可能なんやで」
「何を言って……」
「ここら辺の人間には、ちょーっと顔が利くんや。俺が出さんで欲しい、って言って回ったらお前らを使う劇場はないやろな」
「一体、貴方は何なんですか」
「……皆さん、ご存知ないんですか?」
影の様にツヨシの後ろに控えていた錦戸が、不意に声を上げる。計算しての事なのか、純粋な疑問としてなのか、其処にいた人間には判断出来なかった。
「知らないよ、こんなマフィア」
「マフィアやあらへんわ。お前、面白い事言うな」
町田の言葉にすら笑みで答える。コウイチに向ける必死さと、場を自分のペースに持って行く傲慢さと。良く分からない男だった。
「デザイナーDの名を、ご存知ない……?」
「あ!」
声を上げたのはリカだった。口許に手を当てて、まるで怯えた様に一歩後ろに下がる。
「そんな……だって、賞を取ったのはもう、十年も前の事でしょ。あり得ない。だって、この人若いじゃない」
「リカ? どう言う事? 知ってんの?」
「トモユキは知らないの?」
「え……ごめん。俺もこんなマフィア知らねえ」
「もし、あの人の言う事が本当なら、デザイナーDと言えばトニー賞で演劇衣装デザイン賞を受賞した鬼才よ。一切公の場所には姿を見せず、公演すら見た事がないのにその舞台にはD以外の衣装はないと思える程、完璧に舞台を引き立てる衣装を作るの。但し、素材の値段にも糸目を付けないから報酬は法外で、オンブロードウェイ以外では依頼する事すら出来ない人」
「良く、知っていらっしゃる」
「私、少しだけ演劇学校行っていたから。其処で衣装は勉強したの」
「そうでしたか。今こちらにいらっしゃるのは、間違いなくそのデザイナーDです」
錦戸は、初めて満足げににこりと笑った。リカの説明がお気に召したようだ。
けれど、カンパニーに人間にしてみればそれどころではない。トニー賞なんて取った様な人間なら、顔が利くと言うのは間違いなかった。実績のある人間しか、ニューヨークでは相手にされない。自分達がどれだけ実力を持っていたとしても、認められなければ意味はなかった。
「まあ、俺もあんまり振りかざしたくない権威やけどな。とりあえず、力も金もあるのは事実や。さ、もう一度問う。コウイチに俺の劇場に立ってもらいたい。公演期間は一ヶ月。きちんと報酬も払おう。公演が終わったら、きちんとこの劇場にコウイチを返す。悪い話ではないと思う」
あれは、恋だった。
時間がなかった。他に方法は幾らでもあっただろうけど、自分に出来る一番早い方法を取る。
とにかくもう、時間がないのだ。
カンパニーの千秋楽。オフブロードウェーと言っても、コウイチ達の公演は成功の部類に入るだろう。劇場のオーナーである大倉は、誇らしげに打ち上げで盛り上がっているメンバーを見た。
その輪の中心にいるのは、カンパニーになくてはならない存在、コウイチだ。あの小さな身体にどれだけの輝きを秘めているのか。ともすれば女の子のように可愛らしい顔立ちで、けれど多分カンパニーの中で一番男らしい人物だった。
今はステージの上の神々しいまでの煌めきを置いて、ひたすらに愛らしい笑顔を振りまいている。コウイチの笑顔を見ると、何だか幸せな気分のなるのだから不思議だった。
その一番近くにいるのは町田だ。本気なのか冗談なのか、恐らく本人にも区別のつかないところで彼はコウイチが大好きだった。恋に近い羨望の情。周囲の人間も微笑ましく見ていられるのだから、問題はないだろう。
何より、その愛情を一身に受けているコウイチ自身が平気な顔で無防備に笑っているのだ。心配すべき事はどこにもなかった。
輪から一つ離れた場所、昔から一緒にいる割には大倉と同じ様に外側からコウイチを見守るのが米花だ。時に兄の様に、時に父の様に、そして大事な大事な幼馴染みの一人として側にいた。
愛情の深さでは町田に劣らないかも知れないけれど、彼の場合はきちんと仲間としての情愛だ。間違えずに側にいる所が米花の米花たる所以だろうか。
町田とポジションを奪う様にして笑顔を見せるのが、リカだった。彼女もまた幼馴染みの一人だけれど、昔からコウイチ一筋と言う点では町田とはライバルに当たる。
子供の頃の感情そのままに恋をしている姿は可愛らしいものだった。本人が気付きそうもない時点でかなり望みは薄い。めげない強さが彼女の良い所だった。
そして、リカを密かに思っているのが屋良だ。負けん気の強さと彼女への恋から、コウイチへの敵対心は人一倍強かった。とは言っても、兄弟の様に育って来た二人だ。コウイチも屋良の気持ちを分かりながら、楽しんで対決している様な節があった。
いつか、屋良が主役を張る日が来る。
大倉にだけ小さく小さく零したコウイチの横顔は綺麗なものだった。当分渡してやらんけどな、と笑った彼の表情に屋良に向けた愛情を知る。
仲間でありライバルであり、そして家族でもあった。このカンパニーの絆の強さを大倉は誇りに思っている。皆一緒に、これからも良い舞台を作り上げて行きたかった。
「さ! そろそろ解散してよー! 電気代だって馬鹿になんないんだからさー!」
「はーい。全く、大倉さんは固いんやからなあ」
「そうだよ。せっかく千秋楽だってのにさ。まあ、そろそろ終わりにしますか。明日もバイトの奴多いんだろ?」
「うーわー! 米花さーん! いきなり現実に戻さんでもええやんー」
「あ、コウイチ。現実戻った? それは良かった。じゃあ、ウチのオーナーが泣き出す前に解散しましょ。俺は明日、ペンキ屋でバイトなの」
米花はコウイチの肩を抱くと、問答無用で帰ろうと促す。カンパニーの連中を一人一人帰す様仕向けるよりも、彼一人を追い出した方が効率が良かった。
「あ! 私も帰るー!」
「ちょ! リカ! コウイチの腕組むな!」
相変わらず騒がしいメンバーを連れ出してくれた米花に感謝をしつつ、大倉はオーナーとして戸締まりを始める。父親から受け継いだ大切な劇場だった。オフではあるけれども、立派な場所だと思っている。
この劇場のステージでコウイチ達が踊るのが好きだった。演技者である以上、高見を目指したい気持ちはあるけれど。
まだ、ここで踊っていたかった。
全ての場所の消灯と戸締まりを確認して、劇場を出る事にする。大倉も明日はバイトがあった。オーナーとは言えども、カンパニーを食わせて行く為には働かなければならない。
明日も頑張ろう、と伸びをした時だった。一人の黒ずくめの男が立っているのに気付く。
華やかな場所であっても、ここはニューヨークだった。用心するに越した事はない。じ、と相手を見詰めた。サングラスで、その双眸は伺い知れない。
小柄な男だから、もし襲われても逃げ切れるのではないか。いや、そもそも教われると限った訳ではない。
お人好しの大倉は、明らかに怪しい男を前にして迷ってしまった。もしこれが暴漢であったなら、確実に身ぐるみを全部剥がれていただろう。
あいにく、黒ずくめの男の目的は金銭ではなかった。
「このカンパニーのオーナーですか?」
流暢な日本語に、大倉はまず驚く。カンパニーの中では日本語を使う事が多いし、未だにコウイチなんかは慣れた人間の前では故郷の訛りが抜けていなかった。
けれど、一歩外に出て日本語で話し掛けられる事は滅多にあるものではない。思わず、はい、と頷いてしまった。
「そうでしたか。ワタクシ、堂本と申します」
怪しげな男が差し出したのは一枚のシンプルな名刺。そこには、デザイナーと言う肩書きと堂本だけのミドルネーム。
思わず大倉が固まったのは、その名字の男をもう一人知っているからだ。ニューヨークに住む日本人で同じ名字の人間には会った事がない、と本人も言っていた。日本でもあんまない名字らしいわ。そう呟いた彼の表情を思い出す。
大倉は差し出された名刺を呆然と見遣った。他人、だと思う。だって、コウイチに親族は一人もいないのだから。
「大倉さん?」
「あ、は、はい」
「是非、貴方のカンパニーとビジネスをさせて頂きたい」
夜の闇に溶け込んでしまいそうな風貌のまま、男は笑った。
動き出した歯車を止められる人間は、どこにもいない。出会うべくして出会った者、起こるべくして起こった事。もし神がいるのなら、慈悲はどこにあるのか、と問うてみたかった。
+++++
翌日、バイトが終わったメンバーだけでショーを見に行った。根っからのショー好きの人間達だ。劇場を出ても興奮冷めやらず、と言った所だった。
皆であそこが良かった、此処が足りなかった、と論評しながら電車代を節約して歩いて劇場まで戻る。ショーを見ていたら、自分達も踊りたくなってしまった。
次の公演の準備と称して、皆で踊ろうと見終わってすぐに決めたのだ。屋良を先頭に劇場へ着くと、見慣れない車が止まっていた。
コウイチの隣にいた大倉が、びくりと怯む。知らない車は怖いけれど、そこまで警戒する事もなかった。ん? とコウイチは首を傾げる。
「どしたん? 大倉」
言い終わるのと同時に車のドアが開き、一人の男が現れた。見た事のない顔だ。スーツからネクタイ、シャツに靴、そしてサングラスに至るまで全てが真っ黒で異様な威圧感を醸し出していた。
真っ直ぐにコウイチの元へ歩いて来るのに、思わず身体を強張らせる。ショーの世界に身を置きながら、人見知りな性格は変えられなかった。物怖じしない性格ではあるけれど、対人関係に関しては駄目だ。
こんなコウイチを、カンパニーのメンバーは嫌になる位知っていた。愛すべき座長の敵になり得るものは、何であれ排除して行きたい。
す、と米花が守る様に一歩前へ出た。
「こんにちは」
男がゆっくりと笑う。嫌な感じだ、と米花は眉を顰めた。サングラスの所為で瞳は見えないけれど、他人を値踏みする気配が見える。何より、これだけ人数がいるのにコウイチにしか目を向けていないのが不愉快だった。
「初めまして。貴方が、コウイチさんですね?」
ふっと笑った表情に、コウイチが表情を強張らせる。日本語の安心感以上に警戒心を募らせた屋良が口を開いた。
「初めて会った人間には、自分から挨拶するのが礼儀だろ?」
「……ああ、昨日大倉さんにはご挨拶したんですけどねえ。お話しになられていないようだ。……僕から話させて頂いても?」
「いえ! 俺が話すんで! と言うより、そのお話は昨日お断りした筈です!」
滅多にない大倉の怒りの滲んだ声に、ただ事ではないと全員で警戒心を強める。コウイチは、呆然と目の前の男を見ていた。
この男は、自分達の空間に何か悪いものを持ち込もうとしている。嫌だ、と思うのに目を逸らす事すら出来なかった。サングラスの奥、その瞳は間違いなく笑っている。
「違うやろ? あんたの判断なんてどうでもええ」
いきなり語調を変えた男に、全員が明確な敵意を持った。こいつを、コウイチの側に行かせてはならない。リカすら厳しい表情でコウイチの後ろに立っていた。
怯む事なく一歩前に出た男は、優雅な仕草でサングラスを抜き取る。コウイチは逃げる事も出来ず、真正面からその闇色の瞳を見返した。
「申し遅れました。堂本ツヨシと申します」
「……どーもと?」
「はい」
含みを持たせた笑み。ニューヨークで生きて来て、一度もその名字を聞いた事はない。唯の偶然か、それとも。
名字一つで動揺したコウイチの手を、ツヨシは簡単に引き寄せる。拒絶する暇もなかった。
手の甲にそっと、口付けを落とされる。唇を付けたまま上目遣いに見詰められて、コウイチは完全に固まった。ツヨシの口許が意地悪げに歪む。
「お前の為に劇場を建てた。そこで、踊って欲しい」
一言一言、言い聞かせる様な声音だった。コウイチだけではなくその場にいた全員が呆然とツヨシの言葉を反芻する。劇場を建てた、なんて何を酔狂な。
一番最初に立ち直ったのは、一度話を聞いていた大倉だ。
「堂本さん! そのお話はお断りした筈です。お引き取り下さい」
「うっさい奴やなあ。俺は、コウイチに踊って欲しいんや。一応礼儀通そう思うてお伺い立てただけやし。……ここじゃ何やな。場所、移そか」
「待って下さい。コウイチだって断るに決まっています」
挑む様な目線だったけれど、米花は事態を悪化させない様、余り声を荒げずに言う。左手を取られたままのコウイチが、その声にゆっくりと反応した。緩い瞬きすら、優雅なものに見える。
「うん。……申し訳ありませんが、いきなりそんな事を言われても、応じかねます。私は、このカンパニーの一員ですし」
やんわりと断ったコウイチの言葉の固さに、メンバーは内心で安堵する。彼の警戒真の強さであれば、何も怖がる事はなかった。人に対しては周囲が心配になる程臆病なところがあるけれど、根本的には毅然とした姿勢で臨む強い人だ。
「まあ、そう言うやろうとは思ってたわ。お前の頑固は聞いとったし。でも、こっちも真剣なんや。簡単には引けへん」
「堂本さん。私は、一人では踊れません。一人ではステージを完成させる事が出来ません。カンパニーがあるから踊れるんです。このカンパニーで生きて行こうと思っています。だから、お話はお受け出来ません」
怯えも迷いもない澄んだ目でツヨシを見詰める。コウイチの言葉に今此処にいる人間がどれだけ救われるのか、彼は知らないだろう。座長の為に、なんて言ったら大袈裟だけれど、彼がいるからカンパニーは一つでいられた。
「あんたの意思が固いんは知っとるけどな。こっちも本気なんや。お前の為のもんやから、一度見て欲しい」
「え! わ、わっ!」
ぐい、と腕を引っ張られたかと思うと誰も対応出来ない位の素早さで、コウイチを自分の車に押し込む。誰も動く事が出来なかった。
「すぐ返すわ~。探さんでええからな~」
車を出しながらツヨシが叫ぶのを、カンパニーは信じられない思いで聞く。探さなくて良いなんて言われて、そのままいられる筈はなかった。
「おい! 待てよ!」
走り出したのは屋良だ。その後を着いて全員が追い掛けた。
が、走る距離は短い。大倉の劇場の隣、随分長い間工事中の白い幕が張られた場所にツヨシの車が止まっていた。
「なあ、これ……」
「俺もおんなじ事思った」
「の、覗いてみる?」
「ねえ、やっぱりコウイチが帰って来るの待たない?」
「何で?」
「だって多分、大丈夫だから。あいつ、コウイチを踊らせたいんでしょ? そんなのコウイチはやんないだろうし、下手に動いて弱味を握られるのも嫌じゃない。幸い、隣は私達の劇場だし大人しく待ってましょうよ」
「逃げんのかよ」
「そうじゃなくて!」
「うん、俺も賛成だな。必ずコウイチは帰って来るよ。な?」
リカの言葉に同意した米花は、納得のいかない屋良の背中を抱いて劇場へと進む。あの男が何を考えて言い出したのかは分からないけれど。
コウイチを信じるのが最善の策だと、米花は信じていた。
「うわ……」
「凄いやろ? お前んとこの劇場じゃ、この手の機材は入れられんからな。重過ぎて建物が耐えられん。でも、お前こう言うの好きやろ?」
「うん」
見るだけ、と念押しをして入った白幕の内側。其処には既に完成した劇場があった。大倉の、自分達の劇場のすぐ隣。何かを建設している事には気付いていたけれど、まさか同じ様に劇場が建てられるとは思わなかった。
車の中で運転の為に離していた手は、劇場内に入ってまた引かれてしまう。温い体温がコウイチは得意ではなかった。潔癖のケがある事は自覚している。カンパニーの人間でも全員が大丈夫な訳ではなかった。さすがに、幼い頃から一緒にいる屋良達は平気だったけれど。
触れる事が得意ではないのが、対人関係の苦手な大きな一因だった。なのに今、引かれた腕に嫌悪感がない事が不思議で仕方ない。
どうして。
良い印象を持つ事の出来ない相手だった。それでも、離すつもりもない強い拘束が気持ち悪くはない。
座り心地の良さそうな客席を通って、ステージに上がった。真新しい匂いのする板の上から見渡す景色は、ここで踊りたいと思う程素晴らしいものだ。
手摺から天井に至るまで、細かい装飾がなされていた。今時珍しい木の造りは、恐らく音も綺麗に響き渡るだろう。
「どうや? 気に入ったか?」
「凄いなあ、これ」
「俺が設計図引いたんや」
「……え?」
「専門外やけどな。ああ、言ってなかったか。俺、デザイナーなんよ」
「デザイナー?」
「うん。メインは、舞台の衣装デザイン。このステージで踊ってくれたら、お前の衣装も作りたい」
「俺は、貴方に此処までしてもらう覚えはないよ」
「貴方じゃなくて、ツヨシな。覚えて?」
「……ツヨシさん」
「ツヨシでええよ」
「なら、ツヨシ。此処は凄く綺麗やし、素晴らしい劇場になると思う。けど、俺には踊る場所と一緒にいたい仲間がいる。だから、此処では踊れない」
繋いだ手の先で、ツヨシは痛そうに顔を歪めた。サングラスを外してしまえば、怖い男じゃない事が分かる。劇場を案内してくれた表情は明るく優しいものだったし、先刻の高圧的な態度が素なのか演技なのか、分からなかった。
けれど、どちらにしろ自分は踊れない。踊りたい場所があった。彼らと一緒にこれから先も光の先を目指して行く。
「お前に立ってもらわんと、この劇場は生きる事すら出来んのや」
「うん、ごめんな」
「どうしても、駄目か?」
「あかんよ。大倉の劇場は隣やもん。俺が此処で踊るんはおかしいやろ」
「すぐに帰れる場所がええやろう思って、此処に建てたんや」
余りの真剣さに絆されて、コウイチは言葉遣いを崩していた。自身で気付く事も出来ず、唯どうしたら良いのかを考える。
初対面の人間に、こんなにも真っ直ぐ思いをぶつけられたのは初めてだった。自分の為に、と言う男。
「どうして、ツヨシはそんなに……」
「あかんか? 一人のダンサーに惚れた。そのダンサーに踊って欲しいと思った。一度で良い、自分の場所で。思うんは、おかしい事か?」
「おかしいやろ、それ。何で、俺なん……?」
「お前の踊りに惚れたからや。今まで沢山の舞台を見て来た。沢山の衣装を手掛けた。でも、お前程心を揺さぶる踊り手はおらんかった。これが、理由の全てや」
「……分からん」
「もう一度言う。お前に、此処で、踊って欲しい」
「出来ん。……っん」
拒絶の言葉を零すのと、ツヨシに抱き寄せられたのは同時だった。唇に生温い感触。ぼやけた視界にはほんの数十分前に出会った男の顔がある。
舞台の上では経験した事があった。虚構の物語の完成度を上げる為なら、どんな事でも出来ると思っている。けれど、人と触れ合う事が苦手なコウイチは、プライベートでの経験が極端に少なかった。
ファーストキス。そう呼んでも差し障りない程だった。
コウイチの反応で分かったのか、ツヨシも余り責め立てる事はせず、唯優しく唇を押し当てるだけ。ゆっくりと離せば、呆然と言った表情で立ち竦んでいた。其処に嫌悪の色がないだけでもよしとしたいところだ。
「大丈夫か? 俺の気持ち伝わった?」
不器用と言う意味では、ツヨシもコウイチと大差なかった。お互いに自覚がない分、気付く事はなかったけれど。カンパニーの誰かが見ていたら確実に、「そんなもんで伝わるか!」と突っ込めていた筈だ。
「なあ、」
不器用ではなかなか右に出る者のいないコウイチは、呆然としたまま唇を撫でる。感情の不器用さで言ったら、恐らく彼に勝つ事は難しいだろう。
「……ホントに、会うの初めて……?」
ツヨシは、その言葉に何も答えてはくれなかった。
+++++
「お帰り」
「あ、ヨネ。待っててくれたん?」
「ああ。皆もさっきまで一緒だったんだけどな。あんまりコウイチが遅くて心配しちゃってさ。きっとそろそろ帰って来るからって説得して、今夕飯の買い出しに行かせてる」
「ヨネは?」
「買い物行くの面倒臭かったから、色々言いくるめてお留守番役になりました」
ほとんどが同年代のメンバーで構成されているカンパニーの中でも、米花は兄的な役割を担っている。顔の割に優しい、と言うと怒られるけれどもしかしたら大倉より穏やかな性質かも知れなかった。
人に頼る事を潔しとしないコウイチでも、少しだけ米花には寄り掛かれる。柔らかな表情にほっとした。
「で、どうだったの?」
「最新の機材満載だった!」
「……そうじゃなくて」
「あ、ごめん。ええと」
舞台の上の表現力は抜きん出たものがあるのに、役を離れると一人で生きて行けるのか不安になる程、コウイチは説明がおぼつかない。勿論そんな事は分かっているから、急かさずに話を聞く事にした。買い出し班には車を与えなかったから、まだ時間が掛かるだろう。
「キス」
「は?」
「キス、された」
「何だってっ?」
「なあ、ヨネ。俺、あいつと会うのホンマに初めてかなあ」
「ちょっ! コウちゃん! キスって何? 何されたの?」
思わず幼い頃の呼び方に変わってしまう程、米花は動揺した。大事な大事な座長様を傷物にしたくはない。
大人だから大丈夫、と皆を帰した手前もあり、あり得ない位焦っていた。コウイチは、きょとんと愛らしく首を傾ける。
「やから、キス」
「キスって! 何処にっ? 挨拶の範囲なら、俺の胸だけに留めとくから」
「ええと、手の甲」
「は、さっき俺も見たよ! 二人ん時も手の甲だったの?」
「……ヨネ、怒らん?」
「事と次第によっては怒るかも知んないですけどね」
「じゃあ、言わん」
「さっきの」
「……え」
「会うのが初めてかどうか、って奴」
「ヨネ、知ってんのっ?」
「何処にキスされたか、正直に話したら教えてあげます」
米花とて、コウイチを虐めたい訳ではない。唯、事実は事実として把握しておきたかった。今後、あの男に対する警戒心が変わって来るからだ。
んー、と少し躊躇う素振りを見せた後、基本的に素直なコウイチは口を開いた。ある意味、舞台だけで生きて来た純粋培養な人だ。駆け引きや計算からは、最も遠い所にいた。
「くちびる」
「あーーー! やっぱりー! コウちゃん!」
「ほらー、怒るやんかー」
「当たり前でしょ! 何で、あんな男にあっさり許してんの! コウイチの身体は、コウイチだけの物じゃないんだよ! カンパニー全員のものなんです! ……あーもう、こんな事なら大人の振りして送り出すんじゃなかった。俺達の今までの苦労って何だったんだろう……。大事に大事に育てて来たのに……皆で牽制し合って、抜け駆けだって禁止にしたからあのリカも、あの町田も大人しく頑張ってたのに……。それを、あんな得体の知れないチンピラに奪われるなんて。あーどうしよう、どうするか。俺が今此処で消毒と称してキスしても良いけど。でもなあ、それじゃビジュアル的にイケてないよなー。あいつら帰って来たら、リカに……いや、それも駄目だろう。じゃあ、屋良かな。無理か。んー、町田は論外だ。キスなんかしたら、そのまま昇天しかねない。大倉……は、ビジュアル的に保たれるけど、あいつ固いからなあ。断固拒否っぽいよなあ。……そうだ! 次の公演にキスシーン
入れれば良いんだな。そうしよう、うん。で、何度もこなせば、その内消毒されるだろ」
「……あ、あの。米花さん……?」
後半から独り言になってしまった米花の鬼気迫る顔が怖くて、コウイチは恐る恐る声を掛けた。唯でさえ、はっきりした顔立ちは日本人がメインのカンパニー内でちょっと怖い時があるのに。
コウイチの声に我に返ると、ごめんごめんといつも通りの顔に戻った。
「まあ、その話は置いておいて」
「やっぱり、どっかで会うた事あるん?」
「いや、会ったって言うか。客席にいたよ。俺は二回、見た事ある。でも、随分前の話だよ。コウイチが舞台に上がった最初の頃。暗い場内でサングラス掛けたまんまだから、あいつ見てんのかよって他の奴らと話してたから覚えてる」
「でも、そんなんじゃ顔分からんよ」
「分かるって! あのマフィアまがいのオーラは間違いない」
「マフィアって……もっと言いようがあるやろ。それだけ? 話した事とかはない?」
「ああ、多分。コウイチはいっつも誰かと一緒にさせてるから、話までした事あったら、絶対誰かが覚えてる。……ストーカーとかかな?」
「それは違う気、する。ストーカーやったらこんな堂々とせえへんやろ」
「うーん、どっちにしろ厄介だなあ。劇場建てるなんて、何億ドル掛かるんだよ……。対策立てねえとな」
「大丈夫やって。俺が何とかする」
「駄目! コウイチが自分で決断するとロクな事ないから!」
過去の彼の判断と言えば、酷い物だった。表に出るものとしては最高であっても、彼は彼自身に優しくない。
カンパニー全体でどうにかしなければならない問題のようだ。
「ま、とりあえずそろそろ皆帰って来るだろうし。さっきのキスの話は内緒な」
「うん、分かった」
「どうせテイクアウトのもんしか買って来ないだろうから、準備して待っててやろうか」
兄の顔で笑った米花にうん、と頷いて応える。年下なのに時々本気で兄のように思う事があって、コウイチはその情に時々自分で吃驚した。米花は優しい。大好きだな、と思いながらキッチンへ向かったその背中を追い掛けた。
+++++
米花の嫌な予感は的中した。
と言うか、あのまま終わるだなんて誰も考えていない。またすぐに来るだろうと思っていた。
さすがに、翌日訪れる事は予想外だったけれど。
「こんにちは」
「……何しに来たんですか」
いつもは穏やかな町田が、入り口に立ったツヨシの前に立ちはだかる。あいにくその威圧感に勝てる訳もなく、軽く押し退けられてしまった。
「コウイチの事でお話に伺いました。大倉オーナー?」
「ウチは弱小カンパニーです。今の所、客演であっても外部の劇場にウチの人間を出すつもりはありません」
「んー、分からんやっちゃなあ。俺は、やると決めたらやる。コウイチが欲しい。隣に劇場も建てた。何も、引き抜きたいって話をしている訳ちゃう。ほんの少し貸して頂けませんか? ってお願いしてるんやで」
とてもお願いをしている風には見えなかった。カンパニー全員が座りもせずに、招かれざる来訪者に警戒心をむき出しにする。この男の雰囲気が怖かった。本気で連れ去られてしまうのではないかと、不安になる。
「コウイチ。……どこにおんの?」
「此処にはいません。お引き取り下さい」
「コウイチ! 出て来ぃ!」
いきなり壁をがん! と叩いたかと思うと、二階を見上げてツヨシは叫ぶ。此処に昨日コウイチの一番近くにいた米花の姿はなかった。と言う事は、二人で上にいると考えるのが妥当だろう。
あの頑固者がメンバーを置いて、自分の為に来る人間がいる事を知りながら何処かに行く事は出来ない筈だ。もう一度壁を叩きながら、出て来いと念じた。
「……ツヨシ、此処古いんやから。そぉ言うんやめて」
「お前が俺の前にいれば済む話や」
床を踏み締める音が微かに響いたかと思うと、ゆっくりコウイチが階段を降りて来る。後ろには予想通り米花の姿もあった。
ツヨシは真っ直ぐに階段を降りるコウイチだけを見詰める。
「昨日、断った筈やで」
「俺はイエスの言葉しか聞きとうない」
「阿呆か。自分勝手なのもいい加減にせえ」
その言葉の親しさに驚いたのは、カンパニーの人間だった。自分達の中にいる時は安心したように柔らかな言葉で話すけれど、外部の人間に接する時は舞台の上と同じ様にピンと張り詰めた空気を纏っている。
たった一晩で、どうして。
コウイチに訊いた所で明確な答えは返って来ないだろう。唯、本気で来られると本気で返したくなる性分だったから、取り繕っている暇がなかったのだ。
今まではずっとカンパニーの誰かが守っていたけれど、今回は唐突過ぎて誰もフォローする事が出来ていなかった。本当はこんな場所に大切な座長をいさせたくない程なのだ。
「じゃあ、言葉変えるわ」
「え、何……」
「ま! 待って下さい!」
声を荒げたのは大倉だった。けれど、間に合う筈もない。引かれる力のまま距離を縮めたコウイチは、昨日と同じ様に口付けを許してしまった。町田の、お前ホントに男か? と疑いたくなる悲鳴が響き渡る。
「ツ、ツヨシ……」
「お前を愛してる。ずっと、なんて言わん。ほんの少しでええ。俺の為に踊ってくれ」
「そんなもん許せるかーーー!」
叫んだのは勿論町田だった。その後ろで、リカも激しく同意している。概ね、カンパニーの意思はずれていないだろう。
屋良だけが一人、神妙な顔で眉を顰める。何かを考える様な、そんな仕草だった。
「許す許さない、の話やったら俺にも考えがあるわ。リョウ」
「はい」
音もなく其処に入って来たのは、ツヨシと同じ様に黒いスーツに身を包んだ男だった。何かの資料を手渡すが、その仕草はまるで影と同じだ。静寂を纏っていた。
「此処の劇場、大分老朽化が進んでるな。土地を買い取って、新しい施設を建てようかと考えている」
「何を、言っているんですか。此処は、僕の劇場です」
「経営、厳しいやろ? お前、自分の貯金崩しながらこのカンパニーを持たせてるし」
「な……!」
それは、大倉が今まで誰にも話した事のない経営状況だった。厳しい事は勿論伝えている。唯、この劇場を維持したいのは自分の意志だったから話す必要はないと思っていた。
彼らは、踊れるのであれば此処でなくても良い事を大倉自身良く知っている。ニューヨークで踊っている人間なら当たり前だった。誰もが此処ではなく、オンを目指している。
「大倉……お前、」
「良いんだ。それは今関係のない話です。だからと言って、貴方にとやかく言われる筋合いはありません」
「まあ、そやな。でも、俺が此処を潰しに掛かるって言うたら、どうする……?」
コウイチを右手で繋ぎ止めたまま、ツヨシは人の悪い笑みを浮かべる。得体の知れない物に対する恐怖。大倉はそれでも気丈に視線を合わせた。
「潰させません。もし此処で踊れなくなっても、コウイチ達にはまだまだ道がある。あんたの思い通りにはならない」
「どうかな? 他の劇場に立てなくする事も、俺には可能なんやで」
「何を言って……」
「ここら辺の人間には、ちょーっと顔が利くんや。俺が出さんで欲しい、って言って回ったらお前らを使う劇場はないやろな」
「一体、貴方は何なんですか」
「……皆さん、ご存知ないんですか?」
影の様にツヨシの後ろに控えていた錦戸が、不意に声を上げる。計算しての事なのか、純粋な疑問としてなのか、其処にいた人間には判断出来なかった。
「知らないよ、こんなマフィア」
「マフィアやあらへんわ。お前、面白い事言うな」
町田の言葉にすら笑みで答える。コウイチに向ける必死さと、場を自分のペースに持って行く傲慢さと。良く分からない男だった。
「デザイナーDの名を、ご存知ない……?」
「あ!」
声を上げたのはリカだった。口許に手を当てて、まるで怯えた様に一歩後ろに下がる。
「そんな……だって、賞を取ったのはもう、十年も前の事でしょ。あり得ない。だって、この人若いじゃない」
「リカ? どう言う事? 知ってんの?」
「トモユキは知らないの?」
「え……ごめん。俺もこんなマフィア知らねえ」
「もし、あの人の言う事が本当なら、デザイナーDと言えばトニー賞で演劇衣装デザイン賞を受賞した鬼才よ。一切公の場所には姿を見せず、公演すら見た事がないのにその舞台にはD以外の衣装はないと思える程、完璧に舞台を引き立てる衣装を作るの。但し、素材の値段にも糸目を付けないから報酬は法外で、オンブロードウェイ以外では依頼する事すら出来ない人」
「良く、知っていらっしゃる」
「私、少しだけ演劇学校行っていたから。其処で衣装は勉強したの」
「そうでしたか。今こちらにいらっしゃるのは、間違いなくそのデザイナーDです」
錦戸は、初めて満足げににこりと笑った。リカの説明がお気に召したようだ。
けれど、カンパニーに人間にしてみればそれどころではない。トニー賞なんて取った様な人間なら、顔が利くと言うのは間違いなかった。実績のある人間しか、ニューヨークでは相手にされない。自分達がどれだけ実力を持っていたとしても、認められなければ意味はなかった。
「まあ、俺もあんまり振りかざしたくない権威やけどな。とりあえず、力も金もあるのは事実や。さ、もう一度問う。コウイチに俺の劇場に立ってもらいたい。公演期間は一ヶ月。きちんと報酬も払おう。公演が終わったら、きちんとこの劇場にコウイチを返す。悪い話ではないと思う」
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