小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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「」
椿本 爽
多分、最初から。
あれは、恋だった。
時間がなかった。他に方法は幾らでもあっただろうけど、自分に出来る一番早い方法を取る。
とにかくもう、時間がないのだ。
カンパニーの千秋楽。オフブロードウェーと言っても、コウイチ達の公演は成功の部類に入るだろう。劇場のオーナーである大倉は、誇らしげに打ち上げで盛り上がっているメンバーを見た。
その輪の中心にいるのは、カンパニーになくてはならない存在、コウイチだ。あの小さな身体にどれだけの輝きを秘めているのか。ともすれば女の子のように可愛らしい顔立ちで、けれど多分カンパニーの中で一番男らしい人物だった。
今はステージの上の神々しいまでの煌めきを置いて、ひたすらに愛らしい笑顔を振り撒いている。コウイチの笑顔を見ると、何だか幸せな気分のなるのだから不思議だった。
その一番近くにいるのは町田だ。本気なのか冗談なのか、恐らく本人にも区別のつかない所で彼はコウイチが大好きだった。恋に近い羨望の情。周囲の人間も微笑ましく見ていられるのだから、真っ直ぐな愛情だ。
何より、その愛情を一身に受けているコウイチ自身が平気な顔で無防備に笑っているた。心配すべき事は何処にもない。
輪から一つ離れた場所、昔から一緒にいる割には大倉と同じ様に外側からコウイチを見守るのが米花だった。時に兄の様に、時に父の様に、そして大事な大事な幼馴染みの一人として側にいる。
愛情の深さでは町田に劣らないかも知れないけれど、彼の場合はきちんと仲間としての情愛だった。間違えず側にいる所が米花の米花たる所以だろうか。
町田とポジションを奪う様にして笑顔を見せるのが、リカだった。彼女もまた幼馴染みの一人だけれど、昔からコウイチ一筋と言う点では町田のライバルに当たる。
子供の頃の感情そのままに恋をしている姿は可愛らしいものだった。当人が気付きそうもない時点で、かなり望みは薄い。めげない強さが彼女の良い所だった。
そして、リカを密かに思っているのが屋良だ。負けん気の強さと彼女への恋から、コウイチへの敵対心は人一倍強かった。とは言っても、兄弟の様に育って来た二人だ。コウイチも屋良の気持ちを理解ながら、楽しんで挑発している様な節があった。
――いつか、屋良が主役を張る日が来る。
大倉にだけ小さく小さく零したコウイチの横顔は綺麗なものだった。当分渡してやらんけどな。笑った彼の表情に屋良へ向けた愛情を知る。
仲間でありライバルであり、そして家族でもあった。このカンパニーの絆の強さを大倉は誇りに思っている。皆一緒に、これからも良い舞台を作って行きたかった。
「さ! そろそろ解散してよー! 電気代だって馬鹿になんないんだからさー!」
「はーい。全く、大倉さんは固いんやからなあ」
「そうだよ。せっかく千秋楽だってのに。まあ、そろそろ終わりにしますか。明日もバイトの奴多いんだろ?」
「うーわー! 米花さーん! いきなり現実に戻さんでもええやんー」
「あ、コウイチ。現実戻った? それは良かった。じゃあ、ウチのオーナーが泣き出す前に解散しましょ。俺は明日、ペンキ屋でバイトなの」
米花はコウイチの肩を抱くと、問答無用で帰ろうと促す。カンパニーの連中を一人一人帰す様仕向けるよりも、彼一人を追い出す方が効率は良かった。
「あ! 私も帰るー!」
「ちょ! リカ! コウイチの腕組むな!」
相変わらず騒がしいメンバーを連れ出してくれた米花に感謝をしつつ、大倉はオーナーとして戸締まりを始める。父親から受け継いだ大切な劇場だった。オフではあるけれども、立派な場所だと思っている。
この劇場のステージでコウイチ達が踊るのが好きだった。演技者である以上、高みを目指したい気持ちはあるけれど。
まだ、此処で踊っていたかった。
全ての場所の消灯と戸締まりを確認して、劇場を出る事にする。大倉も明日はバイトがあった。オーナーと言えども、カンパニーを食わせて行く為には働かなければならない。
明日も頑張ろう、と伸びをした時だった。一人の黒ずくめの男が立っているのに気付く。
華やかな場所であっても、此処はニューヨークだった。用心するに越した事はない。じ、と相手を見詰めた。サングラスで、その双眸は伺い知れない。
小柄な男だから、もし襲われても逃げ切れるのではないか。いや、そもそも襲われると限った訳ではない。
お人好しの大倉は、明らかに怪しい男を前にして迷ってしまった。もしこれが暴漢であったなら、確実に身ぐるみ全部剥がれていただろう。
あいにく、黒ずくめの男の目的は金銭ではなかった。
「このカンパニーのオーナーですか?」
流暢な日本語に、大倉はまず驚く。カンパニーの中では日本語を使う事が多いし、未だにコウイチなんかは慣れた人間の前では故郷の訛りが抜けなかった。
けれど、一歩外に出て日本語で話し掛けられる事は滅多にあるものではない。思わず、はい、と頷いてしまった。
「そうでしたか。ワタクシ、堂本と申します」
怪しげな男が差し出したのは一枚のシンプルな名刺。そこには、デザイナーと言う肩書きとドウモトと言うミドルネームだけ。
思わず大倉が固まったのは、その名字の男をもう一人知っているからだ。ニューヨークに住む日本人で同じ名字の人間に会った事はない、と本人も言っていた。日本でもあんまない名字らしいわ。そう呟いた彼の表情を思い出す。
大倉は差し出された名刺を呆然と見遣った。他人、だと思う。だって、コウイチに親族は一人もいないのだから。
「大倉さん?」
「あ、は、はい」
「是非、貴方のカンパニーとビジネスをさせて頂きたい」
夜の闇に溶け込んでしまいそうな風貌のまま、男は笑った。
動き出した歯車を止められる人間は、何処にもいない。出会うべくして出会った者、起こるべくして起こった事。もし神がいるのなら、慈悲はどこにあるのか、と問うてみたかった。
+++++
翌日、バイトが終わったメンバーだけでショーを見に行った。根っからのショー好きの人間達だ。劇場を出ても興奮冷めやらず、と言った所だった。
皆であそこが良かった、此処が足りなかった、と論評しながら電車代を節約して歩いて劇場まで戻る。ショーを見ていたら、自分達も踊りたくなった。
次の公演の準備と称して、皆で踊ろうと見終わってすぐに決めたのだ。屋良を先頭に劇場へ着くと、見慣れない車が止まっていた。
コウイチの隣にいた大倉が、びくりと怯む。知らない車は怖いけれど、そこまで警戒する事もなかった。ん? とコウイチは首を傾げる。
「どしたん? 大倉」
問い掛けるのと同時に車のドアが開き、一人の男が現れた。見た事のない顔だ。スーツからネクタイ、シャツに靴、そしてサングラスに至るまで全てが真っ黒で異様な威圧感を醸し出していた。
真っ直ぐにコウイチの元へ歩いて来るのに、思わず身体を強張らせる。ショーの世界に身を置きながら、人見知りな性格は変えられなかった。物怖じしない性格ではあるけれど、対人関係に関しては駄目だ。
こんなコウイチを、カンパニーのメンバーは嫌になる位知っていた。愛すべき座長の敵になり得るものは、何であれ排除して行きたい。
す、と米花が守る様に一歩前へ出た。
「こんにちは」
男がゆっくりと笑う。嫌な感じだ、と米花は眉を顰めた。サングラスの所為で瞳は見えないけれど、他人を値踏みする気配が見える。何より、これだけ人数がいるのにコウイチにしか目を向けていないのが不愉快だった。
「初めまして。貴方が、コウイチさんですね?」
ふっと笑った表情に、コウイチが表情を強張らせる。日本語の安心感以上に警戒心を募らせた屋良が口を開いた。
「初めて会った人間には、自分から挨拶するのが礼儀だろ?」
「……ああ、昨日大倉さんにはご挨拶したんですけどねえ。お話しになられていないようだ。……僕から話させて頂いても?」
「いえ! 俺が話すんで! と言うより、そのお話は昨日お断りした筈です!」
滅多にない大倉の怒りの滲んだ声に、ただ事ではないと全員で警戒心を強める。コウイチは、呆然と目の前の男を見ていた。
この男は、自分達の空間に何か悪いものを持ち込もうとしている。嫌だ、と思うのに目を逸らす事すら出来なかった。サングラスの奥、その瞳は間違いなく笑っている。
「違うやろ? あんたの判断なんてどうでもええ」
いきなり語調を変えた男に、全員が明確な敵意を持った。こいつを、コウイチの側に行かせてはならない。リカすら厳しい表情でコウイチの後ろに立っていた。
怯む事なく一歩前に出た男は、優雅な仕草でサングラスを抜き取る。コウイチは逃げる事も出来ず、真正面からその闇色の瞳を見返した。
「申し遅れました。堂本ツヨシと申します」
「……どーもと?」
「はい」
含みを持たせた笑み。ニューヨークで生きて来て、一度もその名字を聞いた事はない。唯の偶然か、それとも。
名字一つで動揺したコウイチの手を、ツヨシは簡単に引き寄せる。拒絶する暇もなかった。
手の甲にそっと、口付けを落とされる。唇を付けたまま上目遣いに見詰められて、コウイチは完全に固まった。ツヨシの口許が意地悪げに歪む。
「お前の為に、劇場を建てた。其処で、踊って欲しい」
一言一言、言い聞かせる様な声音だった。コウイチだけではなくその場にいた全員が呆然とツヨシの言葉を反芻する。劇場を建てた、なんて何を酔狂な。
一番最初に立ち直ったのは、既に話を聞いていた大倉だ。
「堂本さん! そのお話はお断りした筈です。お引き取り下さい」
「うっさい奴やなあ。俺は、コウイチに踊って欲しいんや。一応礼儀通そう思うてお伺い立てただけやし。……此処じゃ何やな。場所、移そか」
「待って下さい。コウイチだって断るに決まっています」
挑む様な目線だったけれど、米花は事態を悪化させない為に、余り声を荒げず言う。左手を取られたままのコウイチが、その声にゆっくりと反応した。緩い瞬きすら、優雅なものに見える。
「うん。……申し訳ありませんが、いきなりそんな事を言われても、応じかねます。私は、このカンパニーの一員ですし」
やんわりと断ったコウイチの言葉の固さに、メンバーは内心で安堵する。彼の警戒心の強さであれば、何も怖がる事はなかった。人に対しては周囲が心配になる程臆病な所があるけれど、根本的には毅然とした姿勢で臨む強い人だ。
「まあ、そう言うやろうと思ってたわ。お前の頑固は聞いとったし。でも、こっちも真剣なんや。簡単には引けへん」
「堂本さん。私は、一人では踊れません。一人ではステージを完成させる事が出来ません。カンパニーがあるから踊れるんです。このカンパニーで生きて行こうと思っています。だから、お話はお受け出来ません」
怯えも迷いもない澄んだ目で、ツヨシを見詰める。コウイチの言葉に今此処にいる人間がどれだけ救われるのか、彼は知らないだろう。座長の為に、なんて言ったら大袈裟だけれど、彼がいるからカンパニーは一つでいられた。
「あんたの意思が固いんは知っとるけどな。こっちも本気なんや。お前の為のもんやから、一度見て欲しい」
「え! わ、わっ!」
ぐい、と腕を引っ張られたかと思うと誰も対応出来ない位の素早さで、コウイチを自分の車に押し込む。誰一人動く事が出来なかった。
「すぐ返すわ~。探さんでええからな~」
車を出しながらツヨシが叫ぶのを、カンパニーは信じられない思いで聞く。探さなくて良いなんて言われて、そのままいられる筈はなかった。
「おい! 待てよ!」
走り出したのは屋良だ。その後を着いて全員が追い掛けた。
が、走る距離は短い。大倉の劇場の隣、随分長い間工事中の白い幕が張られた場所にツヨシの車が止まっていた。
「なあ、これ……」
「俺もおんなじ事思った」
「の、覗いてみる?」
「ねえ、やっぱりコウイチが帰って来るの待たない?」
「何で?」
「だって多分、大丈夫だから。あいつ、コウイチを踊らせたいんでしょ? そんなのコウイチはやんないだろうし、下手に動いて弱味を握られるのも嫌じゃない。幸い、隣は私達の劇場だし大人しく待ってましょうよ」
「逃げんのかよ」
「そうじゃなくて!」
「うん、俺も賛成だな。必ずコウイチは帰って来るよ。な?」
リカの言葉に同意した米花は、納得のいかない屋良の肩を抱いて劇場へと進む。あの男が何を考えて言い出したのかは分からないけれど。
コウイチを信じるのが最善の策だと、米花は思っていた。
「うわ……」
「凄いやろ? お前んとこの劇場じゃ、この手の機材は入れられんからな。重過ぎて建物が耐えられん。でも、お前こう言うの好きやろ?」
「うん」
見るだけ、と念押しをして入った白い幕の内側。其処には既に完成した劇場があった。大倉の、自分達の劇場のすぐ隣。何かを建設している事には気付いていたけれど、まさか同じ様に劇場が建てられているとは思わなかった。
車の中で運転の為に離していた手は、劇場内に入ってまた引かれてしまう。温い体温がコウイチは得意ではなかった。潔癖のケがある事は自覚している。
カンパニーの人間でも全員が大丈夫な訳ではなかった。さすがに、幼い頃から一緒にいる屋良達は平気だったけれど。
触れる事が得意ではないのが、対人関係の苦手な大きな原因だった。なのに今、引かれた腕に嫌悪感がない事が不思議で仕方ない。
どうして。
良い印象を持つ事は出来ない相手だった。それでも、離すつもりもない強い拘束が気持ち悪くない。
座り心地の良さそうな客席を通って、ステージに上がった。真新しい匂いのする板の上から見渡す景色は、此処で踊りたいと思う程素晴らしいものだ。
手摺から天井に至るまで、細かい装飾がなされていた。今時珍しい木の造りは、恐らく音も綺麗に響き渡るだろう。
「どうや? 気に入ったか?」
「凄いなあ、これ」
「俺が設計図引いたんや」
「……え?」
「専門外やけどな。ああ、言ってなかったか。俺、デザイナーなんよ」
「デザイナー?」
「うん。メインは、舞台の衣装デザイン。このステージで踊ってくれたら、お前の衣装も作りたい」
「俺は、貴方に此処までして貰う覚えはないよ」
「貴方じゃなくて、ツヨシな。覚えて?」
「……ツヨシさん」
「ツヨシでええよ」
「なら、ツヨシ。此処は凄く綺麗やし、素晴らしい劇場になると思う。けど、俺には踊る場所と一緒にいたい仲間がいる。だから、此処では踊れない」
繋いだ手の先で、ツヨシは痛そうに顔を歪めた。サングラスを外してしまえば、怖い男じゃない事が分かる。劇場を案内してくれた表情は明るく優しいものだったし、先刻の高圧的な態度が素なのか演技なのか、分からなかった。
けれど、どちらにしろ自分は踊れない。踊りたい場所があった。彼らと一緒にこれからも光の先を目指して行く。
「お前に立ってもらわんと、この劇場は生きる事すら出来ん」
「うん、ごめんな」
「どうしても、駄目か?」
「あかんよ。大倉の劇場は隣やもん。俺が此処で踊るんはおかしいやろ」
「すぐに帰れる場所がええやろ思って、此処に建てたんや」
余りの真剣さに絆されて、コウイチは言葉遣いを崩していた。自身で気付く事も出来ず、唯どうしたら良いのかを考える。
初対面の人間に、こんなにも真っ直ぐ思いをぶつけられたのは初めてだった。自分の為に、と言う男。
「どうして、ツヨシはそんなに……」
「あかんか? 一人のダンサーに惚れた。そのダンサーに踊って欲しいと思った。一度で良い、自分の場所で。思うんは、おかしい事か?」
「おかしいやろ、それ。何で、俺なん……?」
「お前の踊りに惚れたからや。今まで沢山の舞台を見て来た。沢山の衣装を手掛けた。でも、お前程心を揺さぶる踊り手はおらんかった。これが、理由の全てや」
「……分からん」
「もう一度言う。お前に、此処で、踊って欲しい」
「出来ん。……っん」
拒絶の言葉を零すのと、ツヨシに抱き寄せられたのは同時だった。唇に生温い感触。ぼやけた視界には、ほんの数十分前に出会った男の顔がある。
舞台の上では経験した事があった。虚構の物語の完成度を上げる為なら、どんな事でも出来ると思っている。けれど、人と触れ合う事が苦手なコウイチは、プライベートでの経験が極端に少なかった。
ファーストキス。そう呼んでも差し障りない程だった。
コウイチの反応で分かったのか、ツヨシも余り攻め立てる事はせず、優しく唇を押し当てるだけ。ゆっくり離れれば、呆然と言った表情で立ち竦んでいた。其処に嫌悪の色がないだけでもよしとしたい所だ。
「大丈夫か? 俺の気持ち伝わった?」
不器用と言う意味では、ツヨシもコウイチと大差なかった。お互いに自覚がない分、気付く事はなかったけれど。カンパニーの誰かが見ていたら確実に、「そんなもんで伝わるか!」と突っ込めていた筈だ。
「なあ、」
不器用ではなかなか右に出る者のいないコウイチは、呆然としたまま唇を撫でる。感情の不器用さで言ったら、恐らく彼に勝つ事は難しいだろう。
「……ホントに、会うの初めて……?」
ツヨシは、その言葉に何も答えてはくれなかった。
+++++
「お帰り」
「あ、ヨネ。待っててくれたん?」
「ああ。皆もさっきまで一緒だったんだけどな。あんまりコウイチが遅くて心配しちゃってさ。そろそろ帰って来るからって説得して、今夕飯の買い出しに行かせてる」
「ヨネは?」
「買い物行くの面倒臭かったから、色々言いくるめてお留守番役になりました」
ほとんどが同年代のメンバーで構成されているカンパニーの中でも、米花は兄的な役割を担っている。顔の割に優しい、と言うと怒られるけれどもしかしたら大倉より穏やかな性質を持っているのかも知れなかった。
人に頼る事を潔しとしないコウイチでも、少しだけ米花には寄り掛かれる。柔らかな表情にほっとした。
「で、どうだったの?」
「最新の機材満載だった!」
「……そうじゃなくて」
「あ、ごめん。ええと」
舞台の上の表現力は抜きん出たものがあるのに、役を離れると一人で生きて行けるのか不安になる程、コウイチは説明がおぼつかない。勿論そんな事は分かっているから、急かさずに話を聞く事にした。買い出し班には車を与えなかったから、まだ時間が掛かるだろう。
「キス」
「は?」
「キス、された」
「何だってっ?」
「なあ、ヨネ。俺、あいつと会うのホンマに初めてかなあ」
「ちょっ! コウちゃん! キスって何? 何されたの?」
思わず幼い頃の呼び方に変わってしまう程、米花は動揺した。大事な大事な座長様を傷物にしたくはない。
大人だから大丈夫、と皆を帰した手前もあり、あり得ない位焦っていた。コウイチは、きょとんと愛らしく首を傾ける。
「やから、キス」
「キスって! 何処にっ? 挨拶の範囲なら、俺の胸だけに留めとくから」
「ええと、手の甲」
「それは、さっき俺も見たよ! 二人ん時も手の甲だったの?」
「……ヨネ、怒らん?」
「事と次第によっては怒るかも知んないけどね」
「じゃあ、言わへん」
「さっきの」
「……え」
「会うのが初めてかどうか、って奴」
「ヨネ、知ってんのっ?」
「何処にキスされたか、正直に話したら教えてあげます」
米花とて、コウイチを虐めたい訳ではない。唯、事実は事実として把握しておきたかった。今後、あの男に対する警戒が変わって来るからだ。
んー、と少し躊躇う素振りを見せた後、基本的に素直なコウイチは口を開いた。ある意味、舞台だけで生きて来た純粋培養な人だ。駆け引きや計算からは、最も遠い所にいた。
「くちびる」
「あーーー! やっぱりー! コウちゃん!」
「ほらー、怒るやんかー」
「当たり前でしょ! 何で、あんな男にあっさり許してんの! コウイチの身体は、コウイチだけの物じゃないんだよ! カンパニー全員の物なんです! ……あーもう、こんな事なら大人の振りして送り出すんじゃなかった。俺達の今までの苦労って何だったんだろう……。大事に大事に育てて来たのに……皆で牽制し合って、抜け駆けだって禁止にしたから、あのリカもあの町田も、大人しく頑張ってたのに……。それを、あんな得体の知れないマフィア紛いに奪われるなんて。あーどうしよう、どうするか。俺が今此処で消毒と称してキスしても良いけど。でもなあ、それじゃビジュアル的にイケてないよなー。あいつら帰って来たら、リカに……いや、それも駄目だろう。じゃあ、屋良かな。……普通に無理か。んー、町田は論外だ。キスなんかしたら、そのまま昇天しかねない。大倉……は、ビジュアル的に保たれるけど、あいつ固いからなあ。断固拒否っぽいよなあ。……そうだ! 次の公演にキスシーン入れれば良いんだな。そうしよう、うん。で、何度もこなせば、その内消毒されるだろ」
「……あ、あの。米花さん……?」
後半から独り言になってしまった米花の鬼気迫る顔が怖くて、コウイチは恐る恐る声を掛けた。唯でさえ、はっきりした顔立ちは日本人がメインのカンパニー内でちょっと怖い時があるのに。
コウイチの声で我に返ると、ごめんごめんといつも通りの顔に戻った。
「まあ、その話は置いておいて」
「やっぱり、どっかで会うた事あるん?」
「いや、会ったって言うか。客席にいたよ。俺は二回、見た事ある。でも、随分前の話。コウイチが舞台に上がった最初の頃じゃないかな。暗い場内でサングラス掛けたまんまだから、あいつ見てんのかよって他の奴らと話してたの覚えてる」
「でも、そんなんじゃ顔分からんよ」
「分かるって! あのマフィア紛いのオーラは間違いない」
「マフィアって……もっと言いようがあるやろ。それだけ? 話した事とかはない?」
「ああ、多分。コウイチはいっつも誰かと一緒にさせてるから、話までした事あったら、絶対誰かが覚えてる。……ストーカーとかかな」
「それは違う気、する。ストーカーやったらこんな堂々とせえへんやろ」
「うーん、どっちにしろ厄介だなあ。劇場建てるなんて、何億ドル掛かるんだよ……。対策立てねえとな」
「大丈夫やって。俺が何とかする」
「駄目! コウイチが自分で決断するとロクな事ないから!」
過去の彼の判断と言えば、酷い物だった。表に出るものとしては最高であっても、彼は彼自身に優しくない。
カンパニー全体でどうにかしなければならない問題のようだ。
「ま、とりあえずそろそろ皆帰って来るだろ。さっきのキスの話は内緒な」
「うん、分かった」
「どうせテイクアウトのもんしか買って来ないだろうし、準備して待っててやろうか」
兄の顔で笑った米花にうん、と頷いて応える。年下なのに時々本気で兄の様に思う事があって、コウイチはその情に時々自分で吃驚した。米花は優しい。大好きだな、と思いながらキッチンへ向かったその背中を追い掛けた。
+++++
米花の嫌な予感は的中した。
と言うか、あのまま終わるだなんて誰も考えていない。またすぐに来るだろうと思っていた。
さすがに、翌日訪れる事は予想外だったけれど。
「こんにちは」
「……何しに来たんですか」
いつもは穏やかな町田が、入り口に立ったツヨシの前に立ちはだかる。あいにくその威圧感に勝てる訳もなく、軽く押し退けられてしまった。
「コウイチの事でお話に伺いました。大倉オーナー?」
「ウチは弱小カンパニーです。今の所、客演であっても外部の劇場にウチの人間を出すつもりはありません」
「んー、分からんやっちゃなあ。俺は、やると決めたらやる。コウイチが欲しい。隣に劇場も建てた。何も、引き抜きたいって話をしている訳ちゃう。ほんの少し貸して頂けませんか? ってお願いしてるんやで」
とてもお願いをしている風には見えなかった。カンパニー全員が座りもせずに、招かれざる来訪者に警戒心を剥き出しにする。この男の雰囲気が怖かった。本気で連れ去られてしまうのではないかと、不安になる。
「コウイチ……何処におんの?」
「此処にはいません。お引き取り下さい」
「コウイチ! 出て来ぃ!」
いきなり壁をがん! と叩いたかと思うと、二階を見上げてツヨシは叫ぶ。昨日コウイチの一番近くにいた米花の姿はなかった。と言う事は、二人で上にいると考えるのが妥当だろう。
あの頑固者がメンバーを置いて、自分の為に来る人間がいる事を知りながら、何処かに行く事は出来ない筈だ。もう一度壁を叩くと、出て来いと念じた。
「……ツヨシ、此処年代物なんやから。そぉ言うんやめて」
「お前が俺の前にいれば済む話や」
床を踏み締める音が微かに響いたかと思えば、ゆっくりコウイチが階段を降りて来る。後ろには予想通り米花の姿もあった。
ツヨシは真っ直ぐに、階段を降りるコウイチだけを見詰める。
「昨日、断った筈やで」
「俺はイエスの言葉しか聞きとうない」
「阿呆か。自分勝手なのもいい加減にせえ」
その言葉の親しさに驚いたのは、カンパニーの人間だった。自分達の中にいる時は安心したように柔らかな言葉で話すけれど、外部の人間に接する時は舞台の上と同じ様にピンと張り詰めた空気を纏っている。
たった一晩で、どうして。
コウイチに訊いた所で明確な答えは返って来ないだろう。唯、本気で来られると本気で返したくなる性分だったから、取り繕っている暇がなかったのだ。
今まではずっとカンパニーの誰かが守っていたけれど、今回は唐突過ぎて誰もフォローする事が出来なかった。本当はこんな場所に、大切な座長をいさせたくない程なのだ。
「じゃあ、言葉変えるわ」
「え、何……」
「ま! 待って下さい!」
声を荒げたのは大倉だった。けれど、間に合う筈もない。引かれる力のまま距離を縮めたコウイチは、昨日と同じ様に口付けを許してしまった。町田の、お前ホントに男か? と疑いたくなる悲鳴が響き渡る。
「ツ、ツヨシ……」
「お前を愛してる。ずっと、なんて言わん。ほんの少しでええ。俺の為に踊ってくれ」
「そんなもん許せるかーーー!」
叫んだのは勿論町田だった。その後ろで、リカも激しく同意している。概ね、カンパニーの意思はずれていないだろう。
屋良だけが一人、神妙な顔で眉を顰める。何かを考える様な、そんな仕草だった。
「許す許さない、の話やったら俺にも考えがあるわ。リョウ」
「はい」
音もなく其処に入って来たのは、ツヨシと同じ様に黒いスーツに身を包んだ男だった。何かの資料を手渡すが、その仕草はまるで影と同じだ。静寂を纏っていた。
「此処の劇場、大分老朽化が進んどるな。土地を買い取って、新しい施設を建てようかと考えている」
「何を、言っているんですか。此処は、僕の劇場です」
「経営、厳しいやろ? お前、自分の貯金崩しながらこのカンパニー持たせてるし」
「な……!」
それは、大倉が今まで誰にも話した事のない経営状況だった。厳しい事は勿論伝えている。唯、この劇場を維持したいのは自分の意志だったから、話す必要はないと思っていた。
彼らは踊れるのであれば此処でなくても良い事を、大倉自身良く知っている。ニューヨークで踊っている人間なら当たり前だった。誰もが此処ではなく、オンを目指している。
「大倉……お前、」
「良いんだ。それは今関係のない話です。だからと言って、貴方にとやかく言われる筋合いはありません」
「まあ、そやな。でも、俺が此処を潰しに掛かるって言うたら、どうする……?」
コウイチを右手で繋ぎ止めたまま、ツヨシは人の悪い笑みを浮かべる。得体の知れない物に対する恐怖。大倉はそれでも気丈に視線を合わせた。
「潰させません。もし此処で踊れなくなっても、コウイチ達にはまだまだ道がある。あんたの思い通りにはならない」
「どうかな? 他の劇場に立てなくする事も、俺には可能なんやで」
「何を言って……」
「ここら辺の人間には、ちょーっと顔が利くんや。俺が出さんで欲しい、って言って回ったらお前らを使う劇場はないやろな」
「一体、貴方は何なんですか」
「……皆さん、ご存知ないんですか?」
影の様にツヨシの後ろに控えていた錦戸が、不意に声を上げる。計算しての事なのか、純粋な疑問としてなのか、其処にいた人間には判断出来なかった。
「知らないよ、こんなマフィア」
「マフィアやあらへんわ。お前、おもろい事言うな」
町田の言葉にすら笑みで答える。コウイチに向ける必死さと、場を自分のペースに持って行く傲慢さと。良く分からない男だった。
「デザイナーDの名を、ご存知ない……?」
「あ!」
声を上げたのはリカだった。口許に手を当てて、まるで怯えた様に一歩後ろに下がる。
「そんな……だって、賞を取ったのはもう、十年も前の事でしょ。あり得ない。だって、この人若いじゃない」
「リカ? どう言う事? 知ってんの?」
「トモユキは知らないの?」
「え……ごめん。俺もこんなマフィア知らねえ」
「もし、あの人の言う事が本当なら、デザイナーDと言えばトニー賞で演劇衣装デザイン賞を受賞した鬼才よ。一切公の場所には姿を見せず、公演すら見た事がないのにその舞台にはD以外の衣装はないと思える程、完璧に舞台を引き立てる衣装を作るの。但し、素材の値段にも糸目を付けないから報酬は法外で、オンブロードウェイ以外では依頼する事すら出来ない人」
「良く、知っていらっしゃる」
「私、少しだけ演劇学校行っていたから。其処で衣装は勉強したの」
「そうでしたか。今こちらにいらっしゃるのは、間違いなくそのデザイナーDです」
錦戸は、初めて満足げににこりと笑った。リカの説明がお気に召したようだ。
けれど、カンパニーの人間にしてみればそれどころではない。トニー賞なんて取った人間なら、顔が利くと言うのは間違いなかった。実績のある人間しか、ニューヨークでは相手にされない。自分達がどれだけ実力を持っていたとしても、認められなければ意味はなかった。
「まあ、俺もあんまり振りかざしたない権威やけどな。とりあえず、力も金もあるのは事実や。さ、もう一度訊くで。コウイチに俺の劇場に立ってもらいたい。公演期間は一ヶ月。きちんと報酬も払う。公演が終わったら、この劇場にコウイチを返す。悪い話やないと思う」
「……俺も、悪い話じゃないと思う」
今まで黙っていた屋良がおもむろに口を開いた。ツヨシは興味深げに視線を向ける。
「別に、仕事のオファーってだけだろ? 一ヶ月位、コウイチがいなくたって舞台は出来るよ」
俺がいるんだし。と言う言葉は、さすがに言えなかったようだ。けれど、コウイチには明確にその意図が伝わっていた。
好戦的な瞳。自分にはない剥き出しの闘争心が、嫌いではなかった。いつだって真っ直ぐに向かって来る。
時々度が過ぎる事もあるけれど、屋良の強さが彼を成長させていた。コウイチも上手にその闘争心を煽って稽古をしている。
「劇場だって近いし、それ相応のギャラだって出るんだろ? 何が問題なのか、寧ろ俺には分かんねえ。なあ、リカ? コウイチ抜きでも出来るよな」
「トモユキ! 私はコウイチのいない舞台は立たない。コウイチのいないカンパニーなんか意味がない」
きっぱりと言い切ったリカの潔さもまた、コウイチが尊敬する部分だった。自分にはないもの。可愛いと思う。小さな頃から一緒にいるからだろう。ずっと、妹の様に大切な存在だった。
「リカ、そんな事言うなや。なあ、俺もええと思う。大倉、あかんかな? ちゃんとギャラはカンパニーに振り込んでもらうようにするし」
「コウちゃん……」
「多分、この人本気やで。俺があの劇場に立つまで諦めへんわ。今もほら、腕すら離してもらえへん」
冗談めかしてコウイチは笑う。繋がれたままの右手を翳して、さっさと降参を認めた。今までこんな人間に出会った事はない。手段を選ばない様は、王様と言うより唯の子供だった。
「俺もな、いつまでも追い掛けられんのしんどいし。この間公演が終わって、次までまだ時間があるやん? ちょっとしたバイトみたいなもんやって。な? あかん?」
コウイチの問い掛けに、大倉は応じる事が出来ない。本音を言えば、彼をこのカンパニーから出したくはなかった。いつかは旅立ってしまうかも知れないけれど、今はまだその時期ではない。
嫌だ、と幼い子の様に叫ぶ事すら出来なかった。
「堂本さん」
「ん?」
「俺達は、コウイチを他に出したくありません。彼が座長だって事もあるし、単純に大切な存在だからです」
「そうやろな」
「でも、コウイチの頑固さも知っている。この人が結論を出した以上、俺達はそれを曲げる事が出来ない」
「ヨネ……」
「違うか? コウイチ」
大倉の代わりに米花が話を進める。ツヨシの条件ばかりを飲んでいる訳には行かなかった。トニー賞を取っていようがコウイチを愛していようが関係ない。
「舞台は、一人で作る事が出来ません。共演者もスタッフも必要だ」
米花は距離を縮めて、コウイチの左手を取った。ツヨシの手に堕ちるのを阻止する為に。
「もし、コウイチをどうしても貴方の劇場に立たせたいなら、俺達も一緒に出ます。それが、コウイチを出す条件です」
「ふうん。お前、米花やっけ? 確かに、言う通りやな。共演者やスタッフは俺が見つけよう思ってたけど、そうやな。ええわ。今の条件は飲んだる。……俺が飲んだって事は、契約成立でええんかな」
「はい。コウイチも、異存はないだろ?」
「ヨネ……良いん?」
「ああ、俺達もバイトだと思えば良いし。ペンキ屋のバイトもそろそろ飽きて来たしな。なあ、町田?」
「うん、勿論! コウイチがステージ出るのに、俺達が出ないなんて意味分かんないよ! な、リカ?」
「うん、そうね。一ヶ月離れているより、ずっと安心」
「だよねー。なあ、屋良も。反対しないだろ? あんな綺麗な劇場に立てるんだぞ」
「まあ、そうだな。……うん」
いまいち納得していない屋良に苦笑を返すと、町田はオーナーへ視線を向けた。先刻から困った顔で固まったままの大倉は、ようやっと意思を固めたようだ。
「一ヶ月以上って言うのは、どんな脅しをされても許可しませんよ」
「ああ、勿論。俺のモットーは嘘を吐かない事なんや」
「……説得力がなさそうですけどね」
「お前も言うなあ。まあ、ええわ。契約成立な。細かい話はこいつがやるから。リョウ、後は頼んだで」
「はい」
「さ、話も纏まったし。コウイチ行こか」
「え……な、なんで?」
「お前の一ヶ月分を契約したんや。当たり前やろ?」
「今受けたのは、舞台の話だけですよ」
反対側からコウイチの腕を掴んでいた米花が、我慢ならないと言う様に声を荒げた。そんな態度もものともせず、ツヨシはゆっくり笑う。
「そうやで。舞台の細かい話を、座長殿とするんや。契約はオーナーの仕事、現場の話は座長とせなしゃあないやろ」
「なら、俺達も」
「いらんわ。面倒臭い。ごちゃごちゃ言うんやったら、契約条件変えてもええよ」
「ツヨシ! ええから、行くから。もうこれ以上、話をややこしくすんな」
「ほなな。一ヶ月後にはちゃんと返してやるわ。リョウ、後は頼んだで」
「承知しました」
誰も動く事が出来なかった。黙って二人の背中を見送る。今まで、色々な類いの人間がコウイチに近付こうとして来た。その全てを防いで来たつもりだ。
まさか、あんな男に持って行かれるなんて、思いもよらなかった。今までの人間とは違う。どいつもこいつも気持ち悪い程コウイチに執着していたけれど、ツヨシは「堂本コウイチ」と言う生身の人間を欲している様に見えた。偶像への執着ではなく、認めたくはないけれど強い愛情を感じる。
出来る事ならコウイチを守ってやりたかったけれど。残念ながら、いつまでも付きっきりで側にいる事は出来ない。靄々した気持ちを持て余した米花は、先刻いち早くコウイチを手放そうとした屋良の頭を小突いてから二階へと戻った。
契約の話なら、大倉に任せておけば安心だ。ああ見えて商人魂が強い。不利な条件は飲まないだろう。
コウイチ自身を人身御供に出した様な後味の悪さ。後ろから付いて来る町田の足音を聞きながら、米花は深い溜息を零した。
+++++
ツヨシの劇場へと連れ去られたコウイチは、大倉達の事だけを考えていた。煩わされる必要のない事に巻き込んでしまったのだ。自分一人で解決出来れば良かったのに。
まだまだ夢半ばの自分達は、こんな場所で仲間の庇い合いをしている場合ではなかった。オフを超えてオンへ、そしてオンの先へと。絶えず前を見て走り続けなければ、光は見えて来ない。
「ツヨシ」
「んー?」
敬語を使うのはやめた。気を遣う必要のない男だ。手を引かれるのもキスをするのも苦手だけれど、彼が敵意を持っているんじゃない事位は十分分かったから、無理はしなかった。
多分、ツヨシは自分が人見知りだと言う事を知っている。
「前に、来た事あんの?」
「何処に?」
「俺らのステージ。見に来てた、って」
「……誰が?」
「ヨネ」
「ああ、あの顔のはっきりした奴か。よぉ覚えてんなあ」
「ヨネは人の名前と顔覚えんの得意やねん。だから、レストランで働いててた時も常連さんすぐ分かるから、チップ一杯貰えるんやって」
「そっか。見た事あるで。でも、ずっと前」
「どうして?」
「どうしてって……勉強の為や。ニューヨーク中のミュージカルやら芝居やら片っ端から見て、衣装の研究してたんや」
「オフの芝居も?」
「ああ。予算がないから出来が悪いって訳でもないしな。沢山良い芝居は転がってる。俺は、オンとオフに差なんてないと思う」
「……それは、成功者の言う台詞やわ」
「お前やって、成功者になるんやろ?」
「当たり前や。そのつもりがなくてこんなんしてたら、すぐ駄目んなる」
「まあ、そうやろな。コウイチは見た目お人形さんみたいに可愛らしいのに、メチャメチャ男気溢れる奴やなあ」
「……可愛くなんかない」
「可愛いで。俺には、世界で一番可愛らしいもんに見える」
「頭、おかしいんちゃう?」
「そうかな?」
劇場の階段を昇って三階のフロアに着いた。其処は今までの場所と違い、生活出来るスペースになっている。一番手前の扉を開けて部屋の中に入ったと思ったら、扉に背中を押し付けていきなり口付けられる。遠慮なしに深く合わさった唇。探る様に伸ばされた舌を歯を食いしばって拒絶した。
「……ん! っく、ん、ん、んぅ」
「……強情っぱりやなあ」
言ったかと思うと、顎を掴んで強引に口を開かせる。契約にこんなのは入っていない、と突っ撥ねられれば一番良かったのだけれど、あいにくコウイチは決定的に言葉が足りなかった。
翻弄されるまま、舌を絡め取られてしまう。他人との接触が苦手なコウイチに、此処までの事が出来たのは奇跡と言っても良かった。他の人間だったら舌を噛み切っていたかも知れない、と熱に潤んだ頭で思う。
けれど、何故ツヨシなら平気なのか、と言う問いの答えはコウイチ自身でさえ持っていなかった。最初に触れた時、何処か懐かしい気がしてしまったのだ。
今深く口付けている時でさえ、懐かしさの糸口を見つけて辿りたくなった。何処かで会っている。客席なんて遠い場所ではなく、もっと近く。
俺は多分、この体温を知っている。
忘れているだけなのか、思い出したくないのか。けれど、先刻の様子ではツヨシは教えてくれそうもなかった。懐かしさの意味。
その糸を辿ろうとして、手を伸ばした。ツヨシの背中を抱き締める。この体温、この感触。
思い出す事は出来なかった。
「さ、この辺にしとこか。コウイチ」
「……っはぁ。……なん?」
「お前、あんま無防備におったらあかん。本気で襲ってまうわ」
「今、十分襲われたけど」
「まだまだ止めてた方や。お前、潔癖性ちゃうの? 気持ち悪くないん?」
「よぉ知ってんなあ。んー、気持ち悪い……気もするし、平気な気もするなあ。何か、考え事してたら平気やった」
「考え事してたんかい!」
まるで漫才のタイミングで突っ込んだツヨシは、まあ拒絶されるよりはええかとか何とか言いながらコウイチを部屋へと促した。
「今日から、舞台の終わる日まで此処で生活したらええよ。コウイチ用に作った部屋やから」
ステージの華やかさは大好きな癖に、余り装飾品で部屋を飾り立てるのが好きではない事を知っていた。楽屋ではなく生活出来る部屋をイメージして作ったから、居心地は良いと思う。
鏡台とソファと冷蔵庫。風呂が好きなコウイチの為に、浴室と洗面所は広く取った。全体をアイボリーで統一したコウイチの部屋は、我ながらセンスが良いなとツヨシは思う。
「此処……俺が?」
「おん。気に入らんか? 嫌なら、今からでも内装変えるけど」
「や! そうやなくて! 俺が使ってええの? こんな広いとこ、初めてやから吃驚するわ。俺の部屋と屋良の部屋と、町田の部屋合わせた位の広さあるんやけど」
自分達の住むアパートは狭い。ほとんどを劇場かバイト先で過ごしているから不便を感じた事はないけれど、広過ぎて落ち着かなかった。
「いづらいんなら、俺が此処いる時だけでもええから。多分、そんなに一緒にいられる事もないやろしな」
「ツヨシやって、仕事忙しいんやろ?」
「まあ、暇ではないわ。来週は、パリに行かなきゃあかんし」
「パリ?」
「布地の買い付けにな」
「忙しいんや」
「おかげさまで。あ、でもお前の衣装はきっちり俺が作ってやるから、楽しみにしといてな」
「……デザイナーDの衣装は、オートクチュールとか平気で使うから、気ぃ遣いそうやわ」
「好きに着たらええんよ。俺は、綺麗に見せたいから綺麗な布やレースを使う。演技者が丁寧に使うんやなくて、演技者が一番映える衣装を俺らは作るだけや」
「そっか。……凄いな、ツヨシ。唯の変な男かと思ったけど。今、デザイナーの顔してたわ」
「どんな顔やねん」
「そんな顔。うん、分かった。何か、お前訳分からん奴やけど、とりあえずマフィアやなさそうやし。ええよ。乗り掛かった船や」
「それは、意味違うんちゃう?」
「違った? 大体合ってるやろ。うん、よし。お前の好きにしたらええよ。何で俺なんかは、よぉ分からんけどな」
「コウイチ」
「何?」
「愛してる」
「さっきも聞いた」
「何度でも言わせろや。減るもんやなし」
「耳にタコ出来るわ」
「お前は、ムードのない奴やなあ」
言いながら、ツヨシに抱き締められる。その腕の中が案外心地良い事を、コウイチは知り始めていた。胸の中にある懐かしさのせいか、触れられる事が怖くない。
「愛してる」
「ツヨシ……」
「愛してくれなんて言わんから、少しの間俺の側にいてくれ」
「……お前は、傲慢なんか謙虚なんか分からんわ」
抱き締められたまま笑えば、ツヨシも同じ様に笑っていた。彼の「愛してる」を受け止める事は出来なくても。
真っ直ぐな思いを無碍にしたくなかった。長い人生の中で、少し位道が逸れても良いんじゃないかと思う。カンパニーの皆には迷惑を掛けてしまうけれど。
準備期間も含めて、三ヶ月と言う所だろうか。皆の優しさに甘えて、この我儘な王様に付き合う事を決めた。
+++++
ツヨシが忙しいと言うのは本当の事だったようで、本格的に準備が始まると劇場に現れる回数は減っていた。自分達も、新しい劇場で舞台をすると言う意識に変わりつつある。
浮かない顔をしているのは、リカだけだった。
「リカ? どうした? 具合でも悪いん?」
「コウイチ……。ううん、別に、そうじゃないけど」
「なら、悩み事か?」
「うーん、悩んでるって言うか」
はっきりと言葉に出すリカにしては珍しく、視線を足許に向けて言い難そうに躊躇っている。衣装部屋の手前の廊下で二人、向かい合った。この劇場に来てから、リカはいつもの明るさがない。
「ねえ、コウイチ」
「ん?」
「ホントに、大丈夫?」
「何が?」
「あの男、ホントのホントに平気?」
「ホントのホントって……リカ。全然平気やって。なーに心配してんの」
「だって、あの人此処にいるとコウイチはアパートにも戻らないし、契約以上の事してる気がするんだもん」
「あいつは、俺を側に置いておきたいだけ。リカにも見せたやろ? 三階の部屋。あんな凄いの作ってもらって、住まないまんま終わっちゃうのも申し訳ないしなあ」
「それ! コウイチのそう言う義理堅さって言うか、普段冷たい癖に無駄に優しいとこがあるから、心配なの。分かってる? あの男は、コウイチの事が好きなんだよ?」
「んー、まあなあ」
「何でコウイチは変な所で暢気なの?」
「暢気って……酷いなあ。俺、生まれて初めて愛してるとか言われたから、吃驚しとんのかもなー」
まるで他人事の様に言うコウイチを呆然とリカは見上げた。小さな頃から大好きで仕方のない人だけれど、時々何かがこの人には足りないんじゃないかと思う。それは、彼自身の責任でもあるし、彼を甘やかし過ぎた周囲のせいでもあった。
コウイチは世間知らずだ。勿論、オフで生きていると言う事はそれなりの苦労もあるし、仮にも座長だった。大変なのは分かっている。
けれど、世間にはとんでもなく疎かった。コウイチを目指して来る輩は彼の元に辿り着く前に米花達によって防がれていたし、彼を引き抜こうとするビジネスなんだか趣味なんだか分からない演劇界のお偉方には大倉が率先してやんわりと話をない物にしている。
彼には舞台の上で生きる事だけを考えて欲しかった。カンパニー全体の願いでもあるそれに、リカは時々首を傾げてしまう。
コウイチが、直接愛の言葉を受けない為に色々な手を使って守って来た米花達が不憫過ぎた。
「コウイチは、好きって言われたら誰でも許しちゃう訳?」
「そんな事あらへん」
「じゃあ、何であの男は良いの?」
「俺も、分からんのや。でも、うーん。何でかな。何か、懐かしい気する」
「懐かしい? あんなマフィアが?」
「やから、マフィアちゃうって。ちゃんとしたデザイナーやったやろ」
「うん、それなんだけど」
リカは眉を顰めて、ずっと思っていた事をコウイチにぶつけた。
「デザイナーDが受賞したのって、十年以上前の話なの」
「うん。この間言ってたな」
「おかしいと思わない?」
「何が?」
「だって、十年も前だったらあの男もまだ子供でしょ? どう見たって同年代じゃない」
「んー、天才なんちゃう?」
「あのね。ニューヨークで生きてて良くそんな事が言えるわね。確かに実力主義だけど、ガキにチャンス与える程、此処の人間は甘くない」
「言われてみれば、そんな気もするな」
「ね? だから、心配なの。私達、騙されてるんじゃないかって。この劇場があの男の持ち物じゃなくたって構わない。何処でだって公演は出来る。でも、私はホントにコウイチが心配なの」
「ありがとな」
「コウイチ!」
「リカに心配されるようになるとはなー。俺も、ホンマにしっかりしないといかんな」
「私は本気で……!」
「うん。分かってる。でも、大丈夫やよ」
「大丈夫とか、軽々しく言わないで」
瞳を簡単に潤ませるリカが可愛いと思った。コウイチはゆったりと笑う。
「大丈夫やもん。やって、このネックレスが守ってくれるんやろ?」
「あ……」
コウイチが見せたのは、千秋楽の時にプレゼントしたネックレスだ。まさかちゃんと付けてくれているだなんて思わなかったから、リカは素直に嬉しかった。
「な? 大丈夫やろ? リカのお守り、強力っぽいしな。……さ、稽古始めよか」
ぽん、と兄の仕草で頭を叩くとコウイチはステージへ歩き出す。置いて行かれない様にと、リカもすぐに駆け出した。
+++++
今日はツヨシの戻って来る日だから、と錦戸はコウイチを迎えに来た。いつも通り劇場の三階へと向かう。
「こーぉーちゃーーーん!」
「わ、何やの! ツヨシ!」
「やって、会いたくて会いたくて死にそうやったんやもん!」
扉を開けるなり、バスローブを着たツヨシに抱き着かれてコウイチは驚いた。後ろに付いていた錦戸は別段何の反応も見せずに、部屋に入ると書類とそれから小さな袋をデスクの上に置く。
「此処に薬、置いておきますね」
「ああ、ありがとな。リョウ、お前はもう帰り。ずっと、此処の様子見ててくれたんやろ」
「はい。失礼します」
静かに部屋を出て行く錦戸を、ツヨシに抱き締められたまま見詰める。空気の静かな男だけれど、職務に忠実と言うか、話はしなくとも彼の真剣な目線が舞台への情熱を物語っている気がした。
ツヨシの言葉通り、毎日毎日自分達の稽古を見に来ては何も言わずに去って行く。舞台の上で、彼の視線を痛い程感じていた。
「ホンマに毎日、来るんやで。あいつも忙しいんちゃうの?」
「俺の秘書やからな。忙しくない事はないやろ」
「別に見張らんでも、俺らはちゃんとやるで」
「そんなん心配してへんわ。あいつは、俺の目や。俺が見れない事全部、あいつに見てて欲しい」
「あんま、無茶ばっか言うなや」
「何? リョウの肩持つん?」
「そう言う訳ちゃうけど……」
「ならええやん。さ、一緒に風呂入ろ」
「……一緒?」
「何や? 何か問題でもあるん?」
「や、ないっちゃないけど、あるっちゃあるやろ……」
「何処がー? 別に、やらしい事せえへんて。あ、もしかして、して欲しいん?」
「んな訳あるか! 阿呆」
「コウイチさん、俺ね、疲れてんの。パリの後に日本も行って来たからな。一緒に風呂入って疲れを癒して貰おうって言う、俺のこの繊細な乙女心が分からんかなあ」
「分かるか、ボケ。ほら、疲れてんなら、とっとと入ろうや」
身の危険は本当になさそうだから、コウイチは先に浴室へと向かった。誰かと一緒に風呂に入る事なんかない。緊張しないと言えば嘘になるけれど、契約だからとかそんな理由ではなくまあ良いかと思えた。
警戒心が強そうで存外無防備なコウイチを、カンパニーの面々は本当に心配しているのだけれど、勿論本人は知る由もない。
シャワーをさっと浴びると、既にお湯が張ってあるバスタブに身体を沈めた。男同士だし、広過ぎるバスタブだし、其処まで嫌ではないだろう。
「コウイチ」
「ん? 何?」
「お前、ホンマに今まで誰にも襲われた事ないん?」
「俺、男やで? 襲われる訳ないやん」
「……何か、カンパニーの苦労が今分かったわ。こりゃ、俺も睨まれるわな」
「何やねん」
椿本 爽
多分、最初から。
あれは、恋だった。
時間がなかった。他に方法は幾らでもあっただろうけど、自分に出来る一番早い方法を取る。
とにかくもう、時間がないのだ。
カンパニーの千秋楽。オフブロードウェーと言っても、コウイチ達の公演は成功の部類に入るだろう。劇場のオーナーである大倉は、誇らしげに打ち上げで盛り上がっているメンバーを見た。
その輪の中心にいるのは、カンパニーになくてはならない存在、コウイチだ。あの小さな身体にどれだけの輝きを秘めているのか。ともすれば女の子のように可愛らしい顔立ちで、けれど多分カンパニーの中で一番男らしい人物だった。
今はステージの上の神々しいまでの煌めきを置いて、ひたすらに愛らしい笑顔を振り撒いている。コウイチの笑顔を見ると、何だか幸せな気分のなるのだから不思議だった。
その一番近くにいるのは町田だ。本気なのか冗談なのか、恐らく本人にも区別のつかない所で彼はコウイチが大好きだった。恋に近い羨望の情。周囲の人間も微笑ましく見ていられるのだから、真っ直ぐな愛情だ。
何より、その愛情を一身に受けているコウイチ自身が平気な顔で無防備に笑っているた。心配すべき事は何処にもない。
輪から一つ離れた場所、昔から一緒にいる割には大倉と同じ様に外側からコウイチを見守るのが米花だった。時に兄の様に、時に父の様に、そして大事な大事な幼馴染みの一人として側にいる。
愛情の深さでは町田に劣らないかも知れないけれど、彼の場合はきちんと仲間としての情愛だった。間違えず側にいる所が米花の米花たる所以だろうか。
町田とポジションを奪う様にして笑顔を見せるのが、リカだった。彼女もまた幼馴染みの一人だけれど、昔からコウイチ一筋と言う点では町田のライバルに当たる。
子供の頃の感情そのままに恋をしている姿は可愛らしいものだった。当人が気付きそうもない時点で、かなり望みは薄い。めげない強さが彼女の良い所だった。
そして、リカを密かに思っているのが屋良だ。負けん気の強さと彼女への恋から、コウイチへの敵対心は人一倍強かった。とは言っても、兄弟の様に育って来た二人だ。コウイチも屋良の気持ちを理解ながら、楽しんで挑発している様な節があった。
――いつか、屋良が主役を張る日が来る。
大倉にだけ小さく小さく零したコウイチの横顔は綺麗なものだった。当分渡してやらんけどな。笑った彼の表情に屋良へ向けた愛情を知る。
仲間でありライバルであり、そして家族でもあった。このカンパニーの絆の強さを大倉は誇りに思っている。皆一緒に、これからも良い舞台を作って行きたかった。
「さ! そろそろ解散してよー! 電気代だって馬鹿になんないんだからさー!」
「はーい。全く、大倉さんは固いんやからなあ」
「そうだよ。せっかく千秋楽だってのに。まあ、そろそろ終わりにしますか。明日もバイトの奴多いんだろ?」
「うーわー! 米花さーん! いきなり現実に戻さんでもええやんー」
「あ、コウイチ。現実戻った? それは良かった。じゃあ、ウチのオーナーが泣き出す前に解散しましょ。俺は明日、ペンキ屋でバイトなの」
米花はコウイチの肩を抱くと、問答無用で帰ろうと促す。カンパニーの連中を一人一人帰す様仕向けるよりも、彼一人を追い出す方が効率は良かった。
「あ! 私も帰るー!」
「ちょ! リカ! コウイチの腕組むな!」
相変わらず騒がしいメンバーを連れ出してくれた米花に感謝をしつつ、大倉はオーナーとして戸締まりを始める。父親から受け継いだ大切な劇場だった。オフではあるけれども、立派な場所だと思っている。
この劇場のステージでコウイチ達が踊るのが好きだった。演技者である以上、高みを目指したい気持ちはあるけれど。
まだ、此処で踊っていたかった。
全ての場所の消灯と戸締まりを確認して、劇場を出る事にする。大倉も明日はバイトがあった。オーナーと言えども、カンパニーを食わせて行く為には働かなければならない。
明日も頑張ろう、と伸びをした時だった。一人の黒ずくめの男が立っているのに気付く。
華やかな場所であっても、此処はニューヨークだった。用心するに越した事はない。じ、と相手を見詰めた。サングラスで、その双眸は伺い知れない。
小柄な男だから、もし襲われても逃げ切れるのではないか。いや、そもそも襲われると限った訳ではない。
お人好しの大倉は、明らかに怪しい男を前にして迷ってしまった。もしこれが暴漢であったなら、確実に身ぐるみ全部剥がれていただろう。
あいにく、黒ずくめの男の目的は金銭ではなかった。
「このカンパニーのオーナーですか?」
流暢な日本語に、大倉はまず驚く。カンパニーの中では日本語を使う事が多いし、未だにコウイチなんかは慣れた人間の前では故郷の訛りが抜けなかった。
けれど、一歩外に出て日本語で話し掛けられる事は滅多にあるものではない。思わず、はい、と頷いてしまった。
「そうでしたか。ワタクシ、堂本と申します」
怪しげな男が差し出したのは一枚のシンプルな名刺。そこには、デザイナーと言う肩書きとドウモトと言うミドルネームだけ。
思わず大倉が固まったのは、その名字の男をもう一人知っているからだ。ニューヨークに住む日本人で同じ名字の人間に会った事はない、と本人も言っていた。日本でもあんまない名字らしいわ。そう呟いた彼の表情を思い出す。
大倉は差し出された名刺を呆然と見遣った。他人、だと思う。だって、コウイチに親族は一人もいないのだから。
「大倉さん?」
「あ、は、はい」
「是非、貴方のカンパニーとビジネスをさせて頂きたい」
夜の闇に溶け込んでしまいそうな風貌のまま、男は笑った。
動き出した歯車を止められる人間は、何処にもいない。出会うべくして出会った者、起こるべくして起こった事。もし神がいるのなら、慈悲はどこにあるのか、と問うてみたかった。
+++++
翌日、バイトが終わったメンバーだけでショーを見に行った。根っからのショー好きの人間達だ。劇場を出ても興奮冷めやらず、と言った所だった。
皆であそこが良かった、此処が足りなかった、と論評しながら電車代を節約して歩いて劇場まで戻る。ショーを見ていたら、自分達も踊りたくなった。
次の公演の準備と称して、皆で踊ろうと見終わってすぐに決めたのだ。屋良を先頭に劇場へ着くと、見慣れない車が止まっていた。
コウイチの隣にいた大倉が、びくりと怯む。知らない車は怖いけれど、そこまで警戒する事もなかった。ん? とコウイチは首を傾げる。
「どしたん? 大倉」
問い掛けるのと同時に車のドアが開き、一人の男が現れた。見た事のない顔だ。スーツからネクタイ、シャツに靴、そしてサングラスに至るまで全てが真っ黒で異様な威圧感を醸し出していた。
真っ直ぐにコウイチの元へ歩いて来るのに、思わず身体を強張らせる。ショーの世界に身を置きながら、人見知りな性格は変えられなかった。物怖じしない性格ではあるけれど、対人関係に関しては駄目だ。
こんなコウイチを、カンパニーのメンバーは嫌になる位知っていた。愛すべき座長の敵になり得るものは、何であれ排除して行きたい。
す、と米花が守る様に一歩前へ出た。
「こんにちは」
男がゆっくりと笑う。嫌な感じだ、と米花は眉を顰めた。サングラスの所為で瞳は見えないけれど、他人を値踏みする気配が見える。何より、これだけ人数がいるのにコウイチにしか目を向けていないのが不愉快だった。
「初めまして。貴方が、コウイチさんですね?」
ふっと笑った表情に、コウイチが表情を強張らせる。日本語の安心感以上に警戒心を募らせた屋良が口を開いた。
「初めて会った人間には、自分から挨拶するのが礼儀だろ?」
「……ああ、昨日大倉さんにはご挨拶したんですけどねえ。お話しになられていないようだ。……僕から話させて頂いても?」
「いえ! 俺が話すんで! と言うより、そのお話は昨日お断りした筈です!」
滅多にない大倉の怒りの滲んだ声に、ただ事ではないと全員で警戒心を強める。コウイチは、呆然と目の前の男を見ていた。
この男は、自分達の空間に何か悪いものを持ち込もうとしている。嫌だ、と思うのに目を逸らす事すら出来なかった。サングラスの奥、その瞳は間違いなく笑っている。
「違うやろ? あんたの判断なんてどうでもええ」
いきなり語調を変えた男に、全員が明確な敵意を持った。こいつを、コウイチの側に行かせてはならない。リカすら厳しい表情でコウイチの後ろに立っていた。
怯む事なく一歩前に出た男は、優雅な仕草でサングラスを抜き取る。コウイチは逃げる事も出来ず、真正面からその闇色の瞳を見返した。
「申し遅れました。堂本ツヨシと申します」
「……どーもと?」
「はい」
含みを持たせた笑み。ニューヨークで生きて来て、一度もその名字を聞いた事はない。唯の偶然か、それとも。
名字一つで動揺したコウイチの手を、ツヨシは簡単に引き寄せる。拒絶する暇もなかった。
手の甲にそっと、口付けを落とされる。唇を付けたまま上目遣いに見詰められて、コウイチは完全に固まった。ツヨシの口許が意地悪げに歪む。
「お前の為に、劇場を建てた。其処で、踊って欲しい」
一言一言、言い聞かせる様な声音だった。コウイチだけではなくその場にいた全員が呆然とツヨシの言葉を反芻する。劇場を建てた、なんて何を酔狂な。
一番最初に立ち直ったのは、既に話を聞いていた大倉だ。
「堂本さん! そのお話はお断りした筈です。お引き取り下さい」
「うっさい奴やなあ。俺は、コウイチに踊って欲しいんや。一応礼儀通そう思うてお伺い立てただけやし。……此処じゃ何やな。場所、移そか」
「待って下さい。コウイチだって断るに決まっています」
挑む様な目線だったけれど、米花は事態を悪化させない為に、余り声を荒げず言う。左手を取られたままのコウイチが、その声にゆっくりと反応した。緩い瞬きすら、優雅なものに見える。
「うん。……申し訳ありませんが、いきなりそんな事を言われても、応じかねます。私は、このカンパニーの一員ですし」
やんわりと断ったコウイチの言葉の固さに、メンバーは内心で安堵する。彼の警戒心の強さであれば、何も怖がる事はなかった。人に対しては周囲が心配になる程臆病な所があるけれど、根本的には毅然とした姿勢で臨む強い人だ。
「まあ、そう言うやろうと思ってたわ。お前の頑固は聞いとったし。でも、こっちも真剣なんや。簡単には引けへん」
「堂本さん。私は、一人では踊れません。一人ではステージを完成させる事が出来ません。カンパニーがあるから踊れるんです。このカンパニーで生きて行こうと思っています。だから、お話はお受け出来ません」
怯えも迷いもない澄んだ目で、ツヨシを見詰める。コウイチの言葉に今此処にいる人間がどれだけ救われるのか、彼は知らないだろう。座長の為に、なんて言ったら大袈裟だけれど、彼がいるからカンパニーは一つでいられた。
「あんたの意思が固いんは知っとるけどな。こっちも本気なんや。お前の為のもんやから、一度見て欲しい」
「え! わ、わっ!」
ぐい、と腕を引っ張られたかと思うと誰も対応出来ない位の素早さで、コウイチを自分の車に押し込む。誰一人動く事が出来なかった。
「すぐ返すわ~。探さんでええからな~」
車を出しながらツヨシが叫ぶのを、カンパニーは信じられない思いで聞く。探さなくて良いなんて言われて、そのままいられる筈はなかった。
「おい! 待てよ!」
走り出したのは屋良だ。その後を着いて全員が追い掛けた。
が、走る距離は短い。大倉の劇場の隣、随分長い間工事中の白い幕が張られた場所にツヨシの車が止まっていた。
「なあ、これ……」
「俺もおんなじ事思った」
「の、覗いてみる?」
「ねえ、やっぱりコウイチが帰って来るの待たない?」
「何で?」
「だって多分、大丈夫だから。あいつ、コウイチを踊らせたいんでしょ? そんなのコウイチはやんないだろうし、下手に動いて弱味を握られるのも嫌じゃない。幸い、隣は私達の劇場だし大人しく待ってましょうよ」
「逃げんのかよ」
「そうじゃなくて!」
「うん、俺も賛成だな。必ずコウイチは帰って来るよ。な?」
リカの言葉に同意した米花は、納得のいかない屋良の肩を抱いて劇場へと進む。あの男が何を考えて言い出したのかは分からないけれど。
コウイチを信じるのが最善の策だと、米花は思っていた。
「うわ……」
「凄いやろ? お前んとこの劇場じゃ、この手の機材は入れられんからな。重過ぎて建物が耐えられん。でも、お前こう言うの好きやろ?」
「うん」
見るだけ、と念押しをして入った白い幕の内側。其処には既に完成した劇場があった。大倉の、自分達の劇場のすぐ隣。何かを建設している事には気付いていたけれど、まさか同じ様に劇場が建てられているとは思わなかった。
車の中で運転の為に離していた手は、劇場内に入ってまた引かれてしまう。温い体温がコウイチは得意ではなかった。潔癖のケがある事は自覚している。
カンパニーの人間でも全員が大丈夫な訳ではなかった。さすがに、幼い頃から一緒にいる屋良達は平気だったけれど。
触れる事が得意ではないのが、対人関係の苦手な大きな原因だった。なのに今、引かれた腕に嫌悪感がない事が不思議で仕方ない。
どうして。
良い印象を持つ事は出来ない相手だった。それでも、離すつもりもない強い拘束が気持ち悪くない。
座り心地の良さそうな客席を通って、ステージに上がった。真新しい匂いのする板の上から見渡す景色は、此処で踊りたいと思う程素晴らしいものだ。
手摺から天井に至るまで、細かい装飾がなされていた。今時珍しい木の造りは、恐らく音も綺麗に響き渡るだろう。
「どうや? 気に入ったか?」
「凄いなあ、これ」
「俺が設計図引いたんや」
「……え?」
「専門外やけどな。ああ、言ってなかったか。俺、デザイナーなんよ」
「デザイナー?」
「うん。メインは、舞台の衣装デザイン。このステージで踊ってくれたら、お前の衣装も作りたい」
「俺は、貴方に此処までして貰う覚えはないよ」
「貴方じゃなくて、ツヨシな。覚えて?」
「……ツヨシさん」
「ツヨシでええよ」
「なら、ツヨシ。此処は凄く綺麗やし、素晴らしい劇場になると思う。けど、俺には踊る場所と一緒にいたい仲間がいる。だから、此処では踊れない」
繋いだ手の先で、ツヨシは痛そうに顔を歪めた。サングラスを外してしまえば、怖い男じゃない事が分かる。劇場を案内してくれた表情は明るく優しいものだったし、先刻の高圧的な態度が素なのか演技なのか、分からなかった。
けれど、どちらにしろ自分は踊れない。踊りたい場所があった。彼らと一緒にこれからも光の先を目指して行く。
「お前に立ってもらわんと、この劇場は生きる事すら出来ん」
「うん、ごめんな」
「どうしても、駄目か?」
「あかんよ。大倉の劇場は隣やもん。俺が此処で踊るんはおかしいやろ」
「すぐに帰れる場所がええやろ思って、此処に建てたんや」
余りの真剣さに絆されて、コウイチは言葉遣いを崩していた。自身で気付く事も出来ず、唯どうしたら良いのかを考える。
初対面の人間に、こんなにも真っ直ぐ思いをぶつけられたのは初めてだった。自分の為に、と言う男。
「どうして、ツヨシはそんなに……」
「あかんか? 一人のダンサーに惚れた。そのダンサーに踊って欲しいと思った。一度で良い、自分の場所で。思うんは、おかしい事か?」
「おかしいやろ、それ。何で、俺なん……?」
「お前の踊りに惚れたからや。今まで沢山の舞台を見て来た。沢山の衣装を手掛けた。でも、お前程心を揺さぶる踊り手はおらんかった。これが、理由の全てや」
「……分からん」
「もう一度言う。お前に、此処で、踊って欲しい」
「出来ん。……っん」
拒絶の言葉を零すのと、ツヨシに抱き寄せられたのは同時だった。唇に生温い感触。ぼやけた視界には、ほんの数十分前に出会った男の顔がある。
舞台の上では経験した事があった。虚構の物語の完成度を上げる為なら、どんな事でも出来ると思っている。けれど、人と触れ合う事が苦手なコウイチは、プライベートでの経験が極端に少なかった。
ファーストキス。そう呼んでも差し障りない程だった。
コウイチの反応で分かったのか、ツヨシも余り攻め立てる事はせず、優しく唇を押し当てるだけ。ゆっくり離れれば、呆然と言った表情で立ち竦んでいた。其処に嫌悪の色がないだけでもよしとしたい所だ。
「大丈夫か? 俺の気持ち伝わった?」
不器用と言う意味では、ツヨシもコウイチと大差なかった。お互いに自覚がない分、気付く事はなかったけれど。カンパニーの誰かが見ていたら確実に、「そんなもんで伝わるか!」と突っ込めていた筈だ。
「なあ、」
不器用ではなかなか右に出る者のいないコウイチは、呆然としたまま唇を撫でる。感情の不器用さで言ったら、恐らく彼に勝つ事は難しいだろう。
「……ホントに、会うの初めて……?」
ツヨシは、その言葉に何も答えてはくれなかった。
+++++
「お帰り」
「あ、ヨネ。待っててくれたん?」
「ああ。皆もさっきまで一緒だったんだけどな。あんまりコウイチが遅くて心配しちゃってさ。そろそろ帰って来るからって説得して、今夕飯の買い出しに行かせてる」
「ヨネは?」
「買い物行くの面倒臭かったから、色々言いくるめてお留守番役になりました」
ほとんどが同年代のメンバーで構成されているカンパニーの中でも、米花は兄的な役割を担っている。顔の割に優しい、と言うと怒られるけれどもしかしたら大倉より穏やかな性質を持っているのかも知れなかった。
人に頼る事を潔しとしないコウイチでも、少しだけ米花には寄り掛かれる。柔らかな表情にほっとした。
「で、どうだったの?」
「最新の機材満載だった!」
「……そうじゃなくて」
「あ、ごめん。ええと」
舞台の上の表現力は抜きん出たものがあるのに、役を離れると一人で生きて行けるのか不安になる程、コウイチは説明がおぼつかない。勿論そんな事は分かっているから、急かさずに話を聞く事にした。買い出し班には車を与えなかったから、まだ時間が掛かるだろう。
「キス」
「は?」
「キス、された」
「何だってっ?」
「なあ、ヨネ。俺、あいつと会うのホンマに初めてかなあ」
「ちょっ! コウちゃん! キスって何? 何されたの?」
思わず幼い頃の呼び方に変わってしまう程、米花は動揺した。大事な大事な座長様を傷物にしたくはない。
大人だから大丈夫、と皆を帰した手前もあり、あり得ない位焦っていた。コウイチは、きょとんと愛らしく首を傾ける。
「やから、キス」
「キスって! 何処にっ? 挨拶の範囲なら、俺の胸だけに留めとくから」
「ええと、手の甲」
「それは、さっき俺も見たよ! 二人ん時も手の甲だったの?」
「……ヨネ、怒らん?」
「事と次第によっては怒るかも知んないけどね」
「じゃあ、言わへん」
「さっきの」
「……え」
「会うのが初めてかどうか、って奴」
「ヨネ、知ってんのっ?」
「何処にキスされたか、正直に話したら教えてあげます」
米花とて、コウイチを虐めたい訳ではない。唯、事実は事実として把握しておきたかった。今後、あの男に対する警戒が変わって来るからだ。
んー、と少し躊躇う素振りを見せた後、基本的に素直なコウイチは口を開いた。ある意味、舞台だけで生きて来た純粋培養な人だ。駆け引きや計算からは、最も遠い所にいた。
「くちびる」
「あーーー! やっぱりー! コウちゃん!」
「ほらー、怒るやんかー」
「当たり前でしょ! 何で、あんな男にあっさり許してんの! コウイチの身体は、コウイチだけの物じゃないんだよ! カンパニー全員の物なんです! ……あーもう、こんな事なら大人の振りして送り出すんじゃなかった。俺達の今までの苦労って何だったんだろう……。大事に大事に育てて来たのに……皆で牽制し合って、抜け駆けだって禁止にしたから、あのリカもあの町田も、大人しく頑張ってたのに……。それを、あんな得体の知れないマフィア紛いに奪われるなんて。あーどうしよう、どうするか。俺が今此処で消毒と称してキスしても良いけど。でもなあ、それじゃビジュアル的にイケてないよなー。あいつら帰って来たら、リカに……いや、それも駄目だろう。じゃあ、屋良かな。……普通に無理か。んー、町田は論外だ。キスなんかしたら、そのまま昇天しかねない。大倉……は、ビジュアル的に保たれるけど、あいつ固いからなあ。断固拒否っぽいよなあ。……そうだ! 次の公演にキスシーン入れれば良いんだな。そうしよう、うん。で、何度もこなせば、その内消毒されるだろ」
「……あ、あの。米花さん……?」
後半から独り言になってしまった米花の鬼気迫る顔が怖くて、コウイチは恐る恐る声を掛けた。唯でさえ、はっきりした顔立ちは日本人がメインのカンパニー内でちょっと怖い時があるのに。
コウイチの声で我に返ると、ごめんごめんといつも通りの顔に戻った。
「まあ、その話は置いておいて」
「やっぱり、どっかで会うた事あるん?」
「いや、会ったって言うか。客席にいたよ。俺は二回、見た事ある。でも、随分前の話。コウイチが舞台に上がった最初の頃じゃないかな。暗い場内でサングラス掛けたまんまだから、あいつ見てんのかよって他の奴らと話してたの覚えてる」
「でも、そんなんじゃ顔分からんよ」
「分かるって! あのマフィア紛いのオーラは間違いない」
「マフィアって……もっと言いようがあるやろ。それだけ? 話した事とかはない?」
「ああ、多分。コウイチはいっつも誰かと一緒にさせてるから、話までした事あったら、絶対誰かが覚えてる。……ストーカーとかかな」
「それは違う気、する。ストーカーやったらこんな堂々とせえへんやろ」
「うーん、どっちにしろ厄介だなあ。劇場建てるなんて、何億ドル掛かるんだよ……。対策立てねえとな」
「大丈夫やって。俺が何とかする」
「駄目! コウイチが自分で決断するとロクな事ないから!」
過去の彼の判断と言えば、酷い物だった。表に出るものとしては最高であっても、彼は彼自身に優しくない。
カンパニー全体でどうにかしなければならない問題のようだ。
「ま、とりあえずそろそろ皆帰って来るだろ。さっきのキスの話は内緒な」
「うん、分かった」
「どうせテイクアウトのもんしか買って来ないだろうし、準備して待っててやろうか」
兄の顔で笑った米花にうん、と頷いて応える。年下なのに時々本気で兄の様に思う事があって、コウイチはその情に時々自分で吃驚した。米花は優しい。大好きだな、と思いながらキッチンへ向かったその背中を追い掛けた。
+++++
米花の嫌な予感は的中した。
と言うか、あのまま終わるだなんて誰も考えていない。またすぐに来るだろうと思っていた。
さすがに、翌日訪れる事は予想外だったけれど。
「こんにちは」
「……何しに来たんですか」
いつもは穏やかな町田が、入り口に立ったツヨシの前に立ちはだかる。あいにくその威圧感に勝てる訳もなく、軽く押し退けられてしまった。
「コウイチの事でお話に伺いました。大倉オーナー?」
「ウチは弱小カンパニーです。今の所、客演であっても外部の劇場にウチの人間を出すつもりはありません」
「んー、分からんやっちゃなあ。俺は、やると決めたらやる。コウイチが欲しい。隣に劇場も建てた。何も、引き抜きたいって話をしている訳ちゃう。ほんの少し貸して頂けませんか? ってお願いしてるんやで」
とてもお願いをしている風には見えなかった。カンパニー全員が座りもせずに、招かれざる来訪者に警戒心を剥き出しにする。この男の雰囲気が怖かった。本気で連れ去られてしまうのではないかと、不安になる。
「コウイチ……何処におんの?」
「此処にはいません。お引き取り下さい」
「コウイチ! 出て来ぃ!」
いきなり壁をがん! と叩いたかと思うと、二階を見上げてツヨシは叫ぶ。昨日コウイチの一番近くにいた米花の姿はなかった。と言う事は、二人で上にいると考えるのが妥当だろう。
あの頑固者がメンバーを置いて、自分の為に来る人間がいる事を知りながら、何処かに行く事は出来ない筈だ。もう一度壁を叩くと、出て来いと念じた。
「……ツヨシ、此処年代物なんやから。そぉ言うんやめて」
「お前が俺の前にいれば済む話や」
床を踏み締める音が微かに響いたかと思えば、ゆっくりコウイチが階段を降りて来る。後ろには予想通り米花の姿もあった。
ツヨシは真っ直ぐに、階段を降りるコウイチだけを見詰める。
「昨日、断った筈やで」
「俺はイエスの言葉しか聞きとうない」
「阿呆か。自分勝手なのもいい加減にせえ」
その言葉の親しさに驚いたのは、カンパニーの人間だった。自分達の中にいる時は安心したように柔らかな言葉で話すけれど、外部の人間に接する時は舞台の上と同じ様にピンと張り詰めた空気を纏っている。
たった一晩で、どうして。
コウイチに訊いた所で明確な答えは返って来ないだろう。唯、本気で来られると本気で返したくなる性分だったから、取り繕っている暇がなかったのだ。
今まではずっとカンパニーの誰かが守っていたけれど、今回は唐突過ぎて誰もフォローする事が出来なかった。本当はこんな場所に、大切な座長をいさせたくない程なのだ。
「じゃあ、言葉変えるわ」
「え、何……」
「ま! 待って下さい!」
声を荒げたのは大倉だった。けれど、間に合う筈もない。引かれる力のまま距離を縮めたコウイチは、昨日と同じ様に口付けを許してしまった。町田の、お前ホントに男か? と疑いたくなる悲鳴が響き渡る。
「ツ、ツヨシ……」
「お前を愛してる。ずっと、なんて言わん。ほんの少しでええ。俺の為に踊ってくれ」
「そんなもん許せるかーーー!」
叫んだのは勿論町田だった。その後ろで、リカも激しく同意している。概ね、カンパニーの意思はずれていないだろう。
屋良だけが一人、神妙な顔で眉を顰める。何かを考える様な、そんな仕草だった。
「許す許さない、の話やったら俺にも考えがあるわ。リョウ」
「はい」
音もなく其処に入って来たのは、ツヨシと同じ様に黒いスーツに身を包んだ男だった。何かの資料を手渡すが、その仕草はまるで影と同じだ。静寂を纏っていた。
「此処の劇場、大分老朽化が進んどるな。土地を買い取って、新しい施設を建てようかと考えている」
「何を、言っているんですか。此処は、僕の劇場です」
「経営、厳しいやろ? お前、自分の貯金崩しながらこのカンパニー持たせてるし」
「な……!」
それは、大倉が今まで誰にも話した事のない経営状況だった。厳しい事は勿論伝えている。唯、この劇場を維持したいのは自分の意志だったから、話す必要はないと思っていた。
彼らは踊れるのであれば此処でなくても良い事を、大倉自身良く知っている。ニューヨークで踊っている人間なら当たり前だった。誰もが此処ではなく、オンを目指している。
「大倉……お前、」
「良いんだ。それは今関係のない話です。だからと言って、貴方にとやかく言われる筋合いはありません」
「まあ、そやな。でも、俺が此処を潰しに掛かるって言うたら、どうする……?」
コウイチを右手で繋ぎ止めたまま、ツヨシは人の悪い笑みを浮かべる。得体の知れない物に対する恐怖。大倉はそれでも気丈に視線を合わせた。
「潰させません。もし此処で踊れなくなっても、コウイチ達にはまだまだ道がある。あんたの思い通りにはならない」
「どうかな? 他の劇場に立てなくする事も、俺には可能なんやで」
「何を言って……」
「ここら辺の人間には、ちょーっと顔が利くんや。俺が出さんで欲しい、って言って回ったらお前らを使う劇場はないやろな」
「一体、貴方は何なんですか」
「……皆さん、ご存知ないんですか?」
影の様にツヨシの後ろに控えていた錦戸が、不意に声を上げる。計算しての事なのか、純粋な疑問としてなのか、其処にいた人間には判断出来なかった。
「知らないよ、こんなマフィア」
「マフィアやあらへんわ。お前、おもろい事言うな」
町田の言葉にすら笑みで答える。コウイチに向ける必死さと、場を自分のペースに持って行く傲慢さと。良く分からない男だった。
「デザイナーDの名を、ご存知ない……?」
「あ!」
声を上げたのはリカだった。口許に手を当てて、まるで怯えた様に一歩後ろに下がる。
「そんな……だって、賞を取ったのはもう、十年も前の事でしょ。あり得ない。だって、この人若いじゃない」
「リカ? どう言う事? 知ってんの?」
「トモユキは知らないの?」
「え……ごめん。俺もこんなマフィア知らねえ」
「もし、あの人の言う事が本当なら、デザイナーDと言えばトニー賞で演劇衣装デザイン賞を受賞した鬼才よ。一切公の場所には姿を見せず、公演すら見た事がないのにその舞台にはD以外の衣装はないと思える程、完璧に舞台を引き立てる衣装を作るの。但し、素材の値段にも糸目を付けないから報酬は法外で、オンブロードウェイ以外では依頼する事すら出来ない人」
「良く、知っていらっしゃる」
「私、少しだけ演劇学校行っていたから。其処で衣装は勉強したの」
「そうでしたか。今こちらにいらっしゃるのは、間違いなくそのデザイナーDです」
錦戸は、初めて満足げににこりと笑った。リカの説明がお気に召したようだ。
けれど、カンパニーの人間にしてみればそれどころではない。トニー賞なんて取った人間なら、顔が利くと言うのは間違いなかった。実績のある人間しか、ニューヨークでは相手にされない。自分達がどれだけ実力を持っていたとしても、認められなければ意味はなかった。
「まあ、俺もあんまり振りかざしたない権威やけどな。とりあえず、力も金もあるのは事実や。さ、もう一度訊くで。コウイチに俺の劇場に立ってもらいたい。公演期間は一ヶ月。きちんと報酬も払う。公演が終わったら、この劇場にコウイチを返す。悪い話やないと思う」
「……俺も、悪い話じゃないと思う」
今まで黙っていた屋良がおもむろに口を開いた。ツヨシは興味深げに視線を向ける。
「別に、仕事のオファーってだけだろ? 一ヶ月位、コウイチがいなくたって舞台は出来るよ」
俺がいるんだし。と言う言葉は、さすがに言えなかったようだ。けれど、コウイチには明確にその意図が伝わっていた。
好戦的な瞳。自分にはない剥き出しの闘争心が、嫌いではなかった。いつだって真っ直ぐに向かって来る。
時々度が過ぎる事もあるけれど、屋良の強さが彼を成長させていた。コウイチも上手にその闘争心を煽って稽古をしている。
「劇場だって近いし、それ相応のギャラだって出るんだろ? 何が問題なのか、寧ろ俺には分かんねえ。なあ、リカ? コウイチ抜きでも出来るよな」
「トモユキ! 私はコウイチのいない舞台は立たない。コウイチのいないカンパニーなんか意味がない」
きっぱりと言い切ったリカの潔さもまた、コウイチが尊敬する部分だった。自分にはないもの。可愛いと思う。小さな頃から一緒にいるからだろう。ずっと、妹の様に大切な存在だった。
「リカ、そんな事言うなや。なあ、俺もええと思う。大倉、あかんかな? ちゃんとギャラはカンパニーに振り込んでもらうようにするし」
「コウちゃん……」
「多分、この人本気やで。俺があの劇場に立つまで諦めへんわ。今もほら、腕すら離してもらえへん」
冗談めかしてコウイチは笑う。繋がれたままの右手を翳して、さっさと降参を認めた。今までこんな人間に出会った事はない。手段を選ばない様は、王様と言うより唯の子供だった。
「俺もな、いつまでも追い掛けられんのしんどいし。この間公演が終わって、次までまだ時間があるやん? ちょっとしたバイトみたいなもんやって。な? あかん?」
コウイチの問い掛けに、大倉は応じる事が出来ない。本音を言えば、彼をこのカンパニーから出したくはなかった。いつかは旅立ってしまうかも知れないけれど、今はまだその時期ではない。
嫌だ、と幼い子の様に叫ぶ事すら出来なかった。
「堂本さん」
「ん?」
「俺達は、コウイチを他に出したくありません。彼が座長だって事もあるし、単純に大切な存在だからです」
「そうやろな」
「でも、コウイチの頑固さも知っている。この人が結論を出した以上、俺達はそれを曲げる事が出来ない」
「ヨネ……」
「違うか? コウイチ」
大倉の代わりに米花が話を進める。ツヨシの条件ばかりを飲んでいる訳には行かなかった。トニー賞を取っていようがコウイチを愛していようが関係ない。
「舞台は、一人で作る事が出来ません。共演者もスタッフも必要だ」
米花は距離を縮めて、コウイチの左手を取った。ツヨシの手に堕ちるのを阻止する為に。
「もし、コウイチをどうしても貴方の劇場に立たせたいなら、俺達も一緒に出ます。それが、コウイチを出す条件です」
「ふうん。お前、米花やっけ? 確かに、言う通りやな。共演者やスタッフは俺が見つけよう思ってたけど、そうやな。ええわ。今の条件は飲んだる。……俺が飲んだって事は、契約成立でええんかな」
「はい。コウイチも、異存はないだろ?」
「ヨネ……良いん?」
「ああ、俺達もバイトだと思えば良いし。ペンキ屋のバイトもそろそろ飽きて来たしな。なあ、町田?」
「うん、勿論! コウイチがステージ出るのに、俺達が出ないなんて意味分かんないよ! な、リカ?」
「うん、そうね。一ヶ月離れているより、ずっと安心」
「だよねー。なあ、屋良も。反対しないだろ? あんな綺麗な劇場に立てるんだぞ」
「まあ、そうだな。……うん」
いまいち納得していない屋良に苦笑を返すと、町田はオーナーへ視線を向けた。先刻から困った顔で固まったままの大倉は、ようやっと意思を固めたようだ。
「一ヶ月以上って言うのは、どんな脅しをされても許可しませんよ」
「ああ、勿論。俺のモットーは嘘を吐かない事なんや」
「……説得力がなさそうですけどね」
「お前も言うなあ。まあ、ええわ。契約成立な。細かい話はこいつがやるから。リョウ、後は頼んだで」
「はい」
「さ、話も纏まったし。コウイチ行こか」
「え……な、なんで?」
「お前の一ヶ月分を契約したんや。当たり前やろ?」
「今受けたのは、舞台の話だけですよ」
反対側からコウイチの腕を掴んでいた米花が、我慢ならないと言う様に声を荒げた。そんな態度もものともせず、ツヨシはゆっくり笑う。
「そうやで。舞台の細かい話を、座長殿とするんや。契約はオーナーの仕事、現場の話は座長とせなしゃあないやろ」
「なら、俺達も」
「いらんわ。面倒臭い。ごちゃごちゃ言うんやったら、契約条件変えてもええよ」
「ツヨシ! ええから、行くから。もうこれ以上、話をややこしくすんな」
「ほなな。一ヶ月後にはちゃんと返してやるわ。リョウ、後は頼んだで」
「承知しました」
誰も動く事が出来なかった。黙って二人の背中を見送る。今まで、色々な類いの人間がコウイチに近付こうとして来た。その全てを防いで来たつもりだ。
まさか、あんな男に持って行かれるなんて、思いもよらなかった。今までの人間とは違う。どいつもこいつも気持ち悪い程コウイチに執着していたけれど、ツヨシは「堂本コウイチ」と言う生身の人間を欲している様に見えた。偶像への執着ではなく、認めたくはないけれど強い愛情を感じる。
出来る事ならコウイチを守ってやりたかったけれど。残念ながら、いつまでも付きっきりで側にいる事は出来ない。靄々した気持ちを持て余した米花は、先刻いち早くコウイチを手放そうとした屋良の頭を小突いてから二階へと戻った。
契約の話なら、大倉に任せておけば安心だ。ああ見えて商人魂が強い。不利な条件は飲まないだろう。
コウイチ自身を人身御供に出した様な後味の悪さ。後ろから付いて来る町田の足音を聞きながら、米花は深い溜息を零した。
+++++
ツヨシの劇場へと連れ去られたコウイチは、大倉達の事だけを考えていた。煩わされる必要のない事に巻き込んでしまったのだ。自分一人で解決出来れば良かったのに。
まだまだ夢半ばの自分達は、こんな場所で仲間の庇い合いをしている場合ではなかった。オフを超えてオンへ、そしてオンの先へと。絶えず前を見て走り続けなければ、光は見えて来ない。
「ツヨシ」
「んー?」
敬語を使うのはやめた。気を遣う必要のない男だ。手を引かれるのもキスをするのも苦手だけれど、彼が敵意を持っているんじゃない事位は十分分かったから、無理はしなかった。
多分、ツヨシは自分が人見知りだと言う事を知っている。
「前に、来た事あんの?」
「何処に?」
「俺らのステージ。見に来てた、って」
「……誰が?」
「ヨネ」
「ああ、あの顔のはっきりした奴か。よぉ覚えてんなあ」
「ヨネは人の名前と顔覚えんの得意やねん。だから、レストランで働いててた時も常連さんすぐ分かるから、チップ一杯貰えるんやって」
「そっか。見た事あるで。でも、ずっと前」
「どうして?」
「どうしてって……勉強の為や。ニューヨーク中のミュージカルやら芝居やら片っ端から見て、衣装の研究してたんや」
「オフの芝居も?」
「ああ。予算がないから出来が悪いって訳でもないしな。沢山良い芝居は転がってる。俺は、オンとオフに差なんてないと思う」
「……それは、成功者の言う台詞やわ」
「お前やって、成功者になるんやろ?」
「当たり前や。そのつもりがなくてこんなんしてたら、すぐ駄目んなる」
「まあ、そうやろな。コウイチは見た目お人形さんみたいに可愛らしいのに、メチャメチャ男気溢れる奴やなあ」
「……可愛くなんかない」
「可愛いで。俺には、世界で一番可愛らしいもんに見える」
「頭、おかしいんちゃう?」
「そうかな?」
劇場の階段を昇って三階のフロアに着いた。其処は今までの場所と違い、生活出来るスペースになっている。一番手前の扉を開けて部屋の中に入ったと思ったら、扉に背中を押し付けていきなり口付けられる。遠慮なしに深く合わさった唇。探る様に伸ばされた舌を歯を食いしばって拒絶した。
「……ん! っく、ん、ん、んぅ」
「……強情っぱりやなあ」
言ったかと思うと、顎を掴んで強引に口を開かせる。契約にこんなのは入っていない、と突っ撥ねられれば一番良かったのだけれど、あいにくコウイチは決定的に言葉が足りなかった。
翻弄されるまま、舌を絡め取られてしまう。他人との接触が苦手なコウイチに、此処までの事が出来たのは奇跡と言っても良かった。他の人間だったら舌を噛み切っていたかも知れない、と熱に潤んだ頭で思う。
けれど、何故ツヨシなら平気なのか、と言う問いの答えはコウイチ自身でさえ持っていなかった。最初に触れた時、何処か懐かしい気がしてしまったのだ。
今深く口付けている時でさえ、懐かしさの糸口を見つけて辿りたくなった。何処かで会っている。客席なんて遠い場所ではなく、もっと近く。
俺は多分、この体温を知っている。
忘れているだけなのか、思い出したくないのか。けれど、先刻の様子ではツヨシは教えてくれそうもなかった。懐かしさの意味。
その糸を辿ろうとして、手を伸ばした。ツヨシの背中を抱き締める。この体温、この感触。
思い出す事は出来なかった。
「さ、この辺にしとこか。コウイチ」
「……っはぁ。……なん?」
「お前、あんま無防備におったらあかん。本気で襲ってまうわ」
「今、十分襲われたけど」
「まだまだ止めてた方や。お前、潔癖性ちゃうの? 気持ち悪くないん?」
「よぉ知ってんなあ。んー、気持ち悪い……気もするし、平気な気もするなあ。何か、考え事してたら平気やった」
「考え事してたんかい!」
まるで漫才のタイミングで突っ込んだツヨシは、まあ拒絶されるよりはええかとか何とか言いながらコウイチを部屋へと促した。
「今日から、舞台の終わる日まで此処で生活したらええよ。コウイチ用に作った部屋やから」
ステージの華やかさは大好きな癖に、余り装飾品で部屋を飾り立てるのが好きではない事を知っていた。楽屋ではなく生活出来る部屋をイメージして作ったから、居心地は良いと思う。
鏡台とソファと冷蔵庫。風呂が好きなコウイチの為に、浴室と洗面所は広く取った。全体をアイボリーで統一したコウイチの部屋は、我ながらセンスが良いなとツヨシは思う。
「此処……俺が?」
「おん。気に入らんか? 嫌なら、今からでも内装変えるけど」
「や! そうやなくて! 俺が使ってええの? こんな広いとこ、初めてやから吃驚するわ。俺の部屋と屋良の部屋と、町田の部屋合わせた位の広さあるんやけど」
自分達の住むアパートは狭い。ほとんどを劇場かバイト先で過ごしているから不便を感じた事はないけれど、広過ぎて落ち着かなかった。
「いづらいんなら、俺が此処いる時だけでもええから。多分、そんなに一緒にいられる事もないやろしな」
「ツヨシやって、仕事忙しいんやろ?」
「まあ、暇ではないわ。来週は、パリに行かなきゃあかんし」
「パリ?」
「布地の買い付けにな」
「忙しいんや」
「おかげさまで。あ、でもお前の衣装はきっちり俺が作ってやるから、楽しみにしといてな」
「……デザイナーDの衣装は、オートクチュールとか平気で使うから、気ぃ遣いそうやわ」
「好きに着たらええんよ。俺は、綺麗に見せたいから綺麗な布やレースを使う。演技者が丁寧に使うんやなくて、演技者が一番映える衣装を俺らは作るだけや」
「そっか。……凄いな、ツヨシ。唯の変な男かと思ったけど。今、デザイナーの顔してたわ」
「どんな顔やねん」
「そんな顔。うん、分かった。何か、お前訳分からん奴やけど、とりあえずマフィアやなさそうやし。ええよ。乗り掛かった船や」
「それは、意味違うんちゃう?」
「違った? 大体合ってるやろ。うん、よし。お前の好きにしたらええよ。何で俺なんかは、よぉ分からんけどな」
「コウイチ」
「何?」
「愛してる」
「さっきも聞いた」
「何度でも言わせろや。減るもんやなし」
「耳にタコ出来るわ」
「お前は、ムードのない奴やなあ」
言いながら、ツヨシに抱き締められる。その腕の中が案外心地良い事を、コウイチは知り始めていた。胸の中にある懐かしさのせいか、触れられる事が怖くない。
「愛してる」
「ツヨシ……」
「愛してくれなんて言わんから、少しの間俺の側にいてくれ」
「……お前は、傲慢なんか謙虚なんか分からんわ」
抱き締められたまま笑えば、ツヨシも同じ様に笑っていた。彼の「愛してる」を受け止める事は出来なくても。
真っ直ぐな思いを無碍にしたくなかった。長い人生の中で、少し位道が逸れても良いんじゃないかと思う。カンパニーの皆には迷惑を掛けてしまうけれど。
準備期間も含めて、三ヶ月と言う所だろうか。皆の優しさに甘えて、この我儘な王様に付き合う事を決めた。
+++++
ツヨシが忙しいと言うのは本当の事だったようで、本格的に準備が始まると劇場に現れる回数は減っていた。自分達も、新しい劇場で舞台をすると言う意識に変わりつつある。
浮かない顔をしているのは、リカだけだった。
「リカ? どうした? 具合でも悪いん?」
「コウイチ……。ううん、別に、そうじゃないけど」
「なら、悩み事か?」
「うーん、悩んでるって言うか」
はっきりと言葉に出すリカにしては珍しく、視線を足許に向けて言い難そうに躊躇っている。衣装部屋の手前の廊下で二人、向かい合った。この劇場に来てから、リカはいつもの明るさがない。
「ねえ、コウイチ」
「ん?」
「ホントに、大丈夫?」
「何が?」
「あの男、ホントのホントに平気?」
「ホントのホントって……リカ。全然平気やって。なーに心配してんの」
「だって、あの人此処にいるとコウイチはアパートにも戻らないし、契約以上の事してる気がするんだもん」
「あいつは、俺を側に置いておきたいだけ。リカにも見せたやろ? 三階の部屋。あんな凄いの作ってもらって、住まないまんま終わっちゃうのも申し訳ないしなあ」
「それ! コウイチのそう言う義理堅さって言うか、普段冷たい癖に無駄に優しいとこがあるから、心配なの。分かってる? あの男は、コウイチの事が好きなんだよ?」
「んー、まあなあ」
「何でコウイチは変な所で暢気なの?」
「暢気って……酷いなあ。俺、生まれて初めて愛してるとか言われたから、吃驚しとんのかもなー」
まるで他人事の様に言うコウイチを呆然とリカは見上げた。小さな頃から大好きで仕方のない人だけれど、時々何かがこの人には足りないんじゃないかと思う。それは、彼自身の責任でもあるし、彼を甘やかし過ぎた周囲のせいでもあった。
コウイチは世間知らずだ。勿論、オフで生きていると言う事はそれなりの苦労もあるし、仮にも座長だった。大変なのは分かっている。
けれど、世間にはとんでもなく疎かった。コウイチを目指して来る輩は彼の元に辿り着く前に米花達によって防がれていたし、彼を引き抜こうとするビジネスなんだか趣味なんだか分からない演劇界のお偉方には大倉が率先してやんわりと話をない物にしている。
彼には舞台の上で生きる事だけを考えて欲しかった。カンパニー全体の願いでもあるそれに、リカは時々首を傾げてしまう。
コウイチが、直接愛の言葉を受けない為に色々な手を使って守って来た米花達が不憫過ぎた。
「コウイチは、好きって言われたら誰でも許しちゃう訳?」
「そんな事あらへん」
「じゃあ、何であの男は良いの?」
「俺も、分からんのや。でも、うーん。何でかな。何か、懐かしい気する」
「懐かしい? あんなマフィアが?」
「やから、マフィアちゃうって。ちゃんとしたデザイナーやったやろ」
「うん、それなんだけど」
リカは眉を顰めて、ずっと思っていた事をコウイチにぶつけた。
「デザイナーDが受賞したのって、十年以上前の話なの」
「うん。この間言ってたな」
「おかしいと思わない?」
「何が?」
「だって、十年も前だったらあの男もまだ子供でしょ? どう見たって同年代じゃない」
「んー、天才なんちゃう?」
「あのね。ニューヨークで生きてて良くそんな事が言えるわね。確かに実力主義だけど、ガキにチャンス与える程、此処の人間は甘くない」
「言われてみれば、そんな気もするな」
「ね? だから、心配なの。私達、騙されてるんじゃないかって。この劇場があの男の持ち物じゃなくたって構わない。何処でだって公演は出来る。でも、私はホントにコウイチが心配なの」
「ありがとな」
「コウイチ!」
「リカに心配されるようになるとはなー。俺も、ホンマにしっかりしないといかんな」
「私は本気で……!」
「うん。分かってる。でも、大丈夫やよ」
「大丈夫とか、軽々しく言わないで」
瞳を簡単に潤ませるリカが可愛いと思った。コウイチはゆったりと笑う。
「大丈夫やもん。やって、このネックレスが守ってくれるんやろ?」
「あ……」
コウイチが見せたのは、千秋楽の時にプレゼントしたネックレスだ。まさかちゃんと付けてくれているだなんて思わなかったから、リカは素直に嬉しかった。
「な? 大丈夫やろ? リカのお守り、強力っぽいしな。……さ、稽古始めよか」
ぽん、と兄の仕草で頭を叩くとコウイチはステージへ歩き出す。置いて行かれない様にと、リカもすぐに駆け出した。
+++++
今日はツヨシの戻って来る日だから、と錦戸はコウイチを迎えに来た。いつも通り劇場の三階へと向かう。
「こーぉーちゃーーーん!」
「わ、何やの! ツヨシ!」
「やって、会いたくて会いたくて死にそうやったんやもん!」
扉を開けるなり、バスローブを着たツヨシに抱き着かれてコウイチは驚いた。後ろに付いていた錦戸は別段何の反応も見せずに、部屋に入ると書類とそれから小さな袋をデスクの上に置く。
「此処に薬、置いておきますね」
「ああ、ありがとな。リョウ、お前はもう帰り。ずっと、此処の様子見ててくれたんやろ」
「はい。失礼します」
静かに部屋を出て行く錦戸を、ツヨシに抱き締められたまま見詰める。空気の静かな男だけれど、職務に忠実と言うか、話はしなくとも彼の真剣な目線が舞台への情熱を物語っている気がした。
ツヨシの言葉通り、毎日毎日自分達の稽古を見に来ては何も言わずに去って行く。舞台の上で、彼の視線を痛い程感じていた。
「ホンマに毎日、来るんやで。あいつも忙しいんちゃうの?」
「俺の秘書やからな。忙しくない事はないやろ」
「別に見張らんでも、俺らはちゃんとやるで」
「そんなん心配してへんわ。あいつは、俺の目や。俺が見れない事全部、あいつに見てて欲しい」
「あんま、無茶ばっか言うなや」
「何? リョウの肩持つん?」
「そう言う訳ちゃうけど……」
「ならええやん。さ、一緒に風呂入ろ」
「……一緒?」
「何や? 何か問題でもあるん?」
「や、ないっちゃないけど、あるっちゃあるやろ……」
「何処がー? 別に、やらしい事せえへんて。あ、もしかして、して欲しいん?」
「んな訳あるか! 阿呆」
「コウイチさん、俺ね、疲れてんの。パリの後に日本も行って来たからな。一緒に風呂入って疲れを癒して貰おうって言う、俺のこの繊細な乙女心が分からんかなあ」
「分かるか、ボケ。ほら、疲れてんなら、とっとと入ろうや」
身の危険は本当になさそうだから、コウイチは先に浴室へと向かった。誰かと一緒に風呂に入る事なんかない。緊張しないと言えば嘘になるけれど、契約だからとかそんな理由ではなくまあ良いかと思えた。
警戒心が強そうで存外無防備なコウイチを、カンパニーの面々は本当に心配しているのだけれど、勿論本人は知る由もない。
シャワーをさっと浴びると、既にお湯が張ってあるバスタブに身体を沈めた。男同士だし、広過ぎるバスタブだし、其処まで嫌ではないだろう。
「コウイチ」
「ん? 何?」
「お前、ホンマに今まで誰にも襲われた事ないん?」
「俺、男やで? 襲われる訳ないやん」
「……何か、カンパニーの苦労が今分かったわ。こりゃ、俺も睨まれるわな」
「何やねん」
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