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 ずっと憎んでいた。不思議と、写真の中の人達は嫌ではなかった。その憎悪は全て父親に向けられていたから、病気になったと聞いた時も辛いとは思わなかったのだ。早くいなくなれば良い、と残酷な事すら考えた。
 父親はツヨシが十五歳の時に亡くなっている。結局最後まで、姉の忘れ形見である息子は探せなかったらしい。大倉のおじさんに感謝しなければならなかった。
 八歳のあの時、一人で日本に行ったのは自分の意思だ。大倉のおじさんとコウイチの母親は同級生だった。夫を早くに亡くしていたから、頼りになる男手と言えば大倉だったらしい。
 ツヨシは、父親を介して大倉の存在を知った。演劇の勉強は小さな頃からさせられていて、大倉の劇場にも足を運んでいたのだ。
 小さいのに、期待ばっかでかくて大変だなあ。
 そう言って笑った大倉に、ツヨシは父親の姿を見たのだ。貧乏な劇団員の面倒を見るようなお人好しだった。ツヨシもその優しさに惹かれたのだ。
 演劇が面白いと知ったのは、大倉のおかげだった。
 ツヨシが写真の話をした時は、苦く笑って子供には早いかなと言っていた。けれど、大人でも子供でも等しく接する彼は、父親の感情を教えてくれたのだ。
 多分、情操教育には悪影響を与えているだろう。
 一度だけ見たあの写真。その子供の笑顔が好きだった、と何度も話した。一目惚れだったのかも知れない。
 大倉は、ツヨシの思いを知っていたのかコウイチの母親が亡くなった事を教えてくれた。勿論、日本に行って連れて来いだなんて言わなかったけれど。
 何処からか同じ話を聞いた父親の目が尋常ではなかったから、迎えに行く事を決めた。あの笑顔を守りたい。たったそれだけの淡い気持ちだった。
 初恋は実らないと言う。けれど、コウイチ以外に欲しいと思う人間はいなかった。認めたくもないけれど、父親と同じものを愛している。手に入らないもの。自分には振り向かないもの。
 あんなに忌み嫌っていた父親と好みのタイプは同じの様だ。小さくツヨシは笑った。自分の生き様の滑稽さに。
 残された時間。
 死ぬ時に後悔しない事は無理だろうけど、我儘を言った。ずっとずっと、籠の中で生活して来たのだ。最後の我儘位は聞き入れて欲しい。
 とは言っても、その本人が眠っているのでは仕方がなかった。
 コウイチ。
 もうすぐ、俺の時間は尽きてまうんよ。お願いやから、早く帰って来い。俺は多分、天国に行けないから、地上でしかお前を見る事が出来ないんや。
「ツヨシ君」
「おーリョウか。どうした? お前の引き継ぎも上手く行きそうか?」
「はい。具合は大丈夫ですか?」
「最悪や。もう一年もコウイチがいない」
「いますよ。此処に」
「眠ってるコウイチなんて、唯の綺麗なお人形さんや。つまらん」
「ツヨシ君も、看病ばっかやなくて少しは休んで下さい。本当は、貴方が看病されるべきなんやから」
「はいはい。お前はうっさいなあ。おかんか」
「おかんでも何でもええですよ。それでツヨシ君が休んでくれるんなら」
「休むわ。さすがにもう、無理も利かなくなって来とる」
「そうですか……」
「最後にもう一回、コウイチの笑う顔が見たいなあ」
「弱気な事、言わんといて下さい」
「まあ、医者に言われた余命よりはもう長く生きてんちゃうか」
「そうですね」
 ツヨシは気弱に笑うと、ベッドで眠ったままのコウイチへと手を伸ばす。未だに目覚める気配はなかった。青白い顔は、ビスクドールと変わらない。
 止まったら死んでしまう様な人だった。止まる事を恐れていたんだろうと、ツヨシは気付いている。頬に触れて、僅かに伝わる体温を確かめた。
 生きている。
 まだ、コウイチの身体は諦めていなかった。意思を感じる。またあの黒い瞳で見詰められたかった。
 愛じゃなくて良い。恋なんて、望むべくもない。
 唯、生きて欲しかった。
「もうすぐ、一年になるで。コウイチ。そろそろ休んでんのも飽きたんちゃうの?」
 答えはない。ツヨシの劇場で怪我を負ってから長い時間が経った。彼の生命力ならすぐに目覚めると思っていたのに。
 皮肉なものだ。
 余命一年を宣告された自分は、まだ辛うじて生きていた。それなのに、未来を望めるコウイチが死との境目を彷徨ったままでいる。
「なあ、リョウ」
「はい?」
「俺が欲しいんは、ずっと、コウイチだけなんや」
「知ってます」
「早く、会いたいなあ」
 思いは届かない。病室に来る度、今日こそはと期待をした。何度も何度も同じ失望を繰り返して、それでもまだ諦められない。
 なあ、コウイチ。
 最期に見たいのはお前だけなんや。お前を網膜に焼き付けて逝くのが俺の夢やったのに。
 ベッドで眠ってるお前を見ながら死ぬなんて、耐えられへんよ。



+++++



 誰かの泣いている声がする。

 真っ白の世界の中、小さなその声だけが響いていた。誰だろう。俺を呼ぶ声。俺の為に誰かが泣いていた。
 もう、ええよ。
 泣かないで。俺は此処にいるから。大丈夫やから。
 ああ、もう。
 俺が行かないと泣き止まないんか、お前は。しょうがない。この白い世界は心地良かったけれど、お前の為に目を覚ます事にするよ。



 気が付いたら、劇場にいた。いつの間に、と思うけれど考え事をしているとアパートに到着していたなんて事はしょっちゅうだったから、余り考えない様にする。
 慣れた大倉の劇場。自分が入院していた時間はどれ位だったのだろう。随分とさびれてしまった。年代物ながらも愛情の沢山詰まった優しい劇場だったのに。
 大倉の父親の様に温かく大倉の様に穏やかな空間だった。

「コウイチッ!」

「わ! 何やねん……って、リカ」
 カンパニーの皆を驚かすつもりが、結局リカに驚かされてしまった。必死に抱き着かれて、心配させたのだと思い知る。入院期間は一年だと言っていた。それならば、リカが涙ぐむのも分かると言う。
「はい、コウイチ」
「ん? 何?」
 リカが手渡したのは、千秋楽の時にくれたネックレスだった。自分の胸元に手をやれば、確かにしていない。首にある感触は一つ。
 コウイチを縛る銀色の鎖だけが残っていた。綺羅、と光る石がリカの心を苦しめる。
「ありがとな。どうしたん?」
「……私じゃ、駄目なんだね」
「何? リカ? もう一回言って」
 声が小さ過ぎて、コウイチには聞き取れなかった。首を横に振ると、もう良いのとリカは笑う。随分と大人びた表情だった。
「ねえ、コウイチ。忘れないでね」
「え」
「私、コウイチが好き」
「……リカ」
「ずっとずっと、大好き。忘れないで。覚えてて」
「何、急に……」
「急じゃないよ。コウイチにもし会う事が出来たら、言おうと思ってた」
「リカ、俺」
「良いの。コウイチが私の事どう思ってるかなんて、ずっと知ってた。唯ね、気持ちを伝える事すら出来ずに離れるのは嫌なの」
「……分かった。ありがとう。俺は、リカが大事だよ。凄く」
「うん、それも知ってる」
「そっか」
 リカの瞳が僅かに潤む。けれどそれは、すぐに笑顔に隠れてしまった。リカもカンパニーの皆も同じ様に好きだと思う。家族がいたら、多分こんな感情を持つのだろう。
 愛情に種類なんてなければ良いのに。
 思いながらもコウイチは、たった一人を選ぶ残酷さに気付き始めていた。心臓の底の底。恋ではないかも知れないけれど、会いたい人がいる。会わなければならなかった。
 心臓が痛い。
 こんなにも自分の感情を動かす事が出来るのは、たった一人だった。



+++++



 コウイチの真実に、誰もが言葉を失う。
 死が、こんなにも呆気なく訪れるだなんて誰が思っただろうか。コウイチ自身さえ、認めたくない程。
 屋良が泣いている。リカも泣いている。
「ごめん……ごめん、コウイチ」
 泣き崩れる屋良の背を抱きながら、自分の身体を一つ一つ確かめた。ああ、そうや。ホンマに俺は死んでる。屋良の体温すら感じる事が出来なかった。
 悔しいと思う。悲しいと思う。
 けれど、今此処で自分が崩れたら屋良は罪悪感に苛まれて生きる事さえ出来ないだろう。平気な振りをした。屋良も、希望を見出そうとした。
 最期の舞台。
 悪くない。それで、屋良が過去を振り切れるのなら。一年間、彼を縛り続けた自分から解放されるのなら。
 運命を受け入れるなんて、容易い事ではないけれど。
 死はどうやら、足掻いた所で自分から離れてくれそうもなかった。此処に帰って来た意味。自分自身を過去にする為。我儘にも、カンパニーの未来を見届ける為。
「屋良。ありがとうな」
「……っ、何でそんな事言う……!」
「やって、俺の為に苦しんで傷付いて、この一年、ずっと俺の事考えててくれたんやろ」
「……俺は、コウイチが欲しかった。コウイチになりたかった」
「うん」
 羨望と欲の狭間に屋良は堕ちてしまった。自分が気付かなかったのもいけない。そのひた向きさは、決して舞台へのものだけではなかったのに。知らない振りをして、身勝手に傷付けてしまった。
 泣き止まない屋良を胸に抱える。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「町田も、ありがとう。俺をずっと大事に思ってくれて。ごめんな、もっと一緒に踊りたかったよ」
「コウイチく……っ! 嫌だ! 俺、まだ側にいたい! 離れたくなんかない!」
「ずっと、側におるよ。お前の事、ずっとずっと見てる。約束する」
「やだ! 約束なんかいらない! コウイチの立つ舞台に俺も立ちたい……!」
 後はもう、言葉にならなかった。泣き崩れる町田を米花が支える。ああ、此処は本当に、優しい場所だった。
「ヨネも、いつもありがと。お前がおらんかったら、俺、まともに生活も出来んかったわ」
「ホントだよ。舞台の申し子の癖に、何にも出来ないんだから」
「うん、ごめん。俺がいなくなったら、俺の部屋、片付けてくれる?」
「当たり前でしょ。他に誰がやんのよ。衣装も台本も全部、俺が仕舞っとく」
「ん、ありがとう」
 米花に涙はなかった。町田を支えながら、いつも通り笑う。
「大倉も。お前は、おじさん時からずっと世話になったからなあ。懐かしなあ。一緒にご飯食べたり、一緒に出掛けさせて貰ったり。それから、此処で踊る楽しさも教えて貰った」
「うん……そう、だね」
「ずっと、大倉ん事は弟みたいやって思ってた。俺は、此処で育てて幸せやった。ごめん、もっと一緒にいたかったな」
「俺も……っど、して……いなくならないでよ……ずっと、一緒に、いようよ……」
 綺麗な涙を零す。大倉は、本当に自分の家族だった。大切だった。優しく愛していた。
 此処で育たなければ知らなかった、沢山の幸い。
 本当は自分だって、まだ此処で生きていたかった。途切れてしまった未来を、考える事すら出来ない。
「俺が踊る最後や。その時が来るまで、一緒におって」
 願いにも似たコウイチの言葉に、全員が静かに頷いた。



 最後の舞台を作り始める前に、どうしても会いたい人がいた。自分を呼ぶ声。ずっと泣いている、子供みたいな声。
 劇場を飛び出すと、ツヨシがいるだろう病院へと向かった。途中、錦戸に電話を入れる。息を呑む音と、すぐに状況を把握した冷静な対応。有能だな、なんてこんな時にさえ思った。
 病院の最上階。最近は持ち込める仕事の全てを此処でこなしていると言う。最期までデザイナーでいたいと言う彼も、人の事を笑えない位舞台に魅せられていた。
 病室の前に立つ。ネックレスを握り締めて、深呼吸を一つ。目覚めた時にも離れる事なく自分を縛っていた銀色。
 多分これが、全ての答えだった。
 ノックさえせずに、ドアを開ける。ベッドの上でスケッチブックに向かっている姿は、とても末期の患者とは思えなかった。一年前と変わらない姿。少し、痩せただろうか。
「……ツヨシ?」
 そっと、声を掛ける。案外恐がりだから、自分の姿を見て驚いたりはしないだろうか。ゆっくりと、視線が上がる。暗がりに目を凝らす様な仕草。存在を確認して、驚愕に瞳を見開いた。
「コウイチ!」
 叫んだツヨシは、ベッドを降りると一目散に駆け寄る。少しの躊躇もなく、地上のものではなくなったコウイチを抱き締めた。
「コウイチ! コウイチ! コウイチ!」
 きつく抱き締めたまま、何度も何度も名前を呼ぶ。確かめる声ですらなかった。コウイチには、愛していると同じ響きに聞こえる。
「ツヨシ……やっぱり、お前やったんやな」
「……何が」
「俺を呼んでる声がした。俺は眠ってても良かったのに、その声が気になって起きてしもうた。ずっと、聞こえてたんよ。ツヨシの、呼ぶ声」
「コウイチ……」
「お前の声しか聞こえんかった。お前に会いたかった」
 抱き締めていた腕を緩めさせて、コウイチは視線を合わせる。泣き濡れた瞳の漆黒に吸い込まれそうだった。間違いない。自分の思いはもう、此処にしかなかった。
 ゆっくりと距離を縮める。迷いはなかった。
「ちょ、コウイチ」
「し、黙って」
 ツヨシが焦るのを無視して、そっと唇を合わせる。確かめる様に。
 あったかい。
 間違いなかった。自分は、ツヨシの為に在る。先刻、屋良の体温を感じる事は出来なかった。けれど今、唇を通してその温かさを感じている。
「……俺は、お前に呼ばれたんやな」
「俺の為に来たんか」
「うん、そうみたいや。良かったな。このネックレス。絶対これに縛られてるんやわ」
 悪戯な笑みで言えば、拘束には弱いタイプなんやな、とツヨシも笑う。額同士を合わせて、最期の場所を見極めた。ツヨシの為に、舞台に生きる。
 彼の執着は、偶像にも実像にも等しく向けられていた。一年前、やり遂げられなかった事を叶える為に。
「コウイチ」
「ん?」
「愛してる」
「うん」
「きっとお前は、俺を迎えに来たんやな」
「ツヨシはまだ、死なんよ。俺がお前の分まで死んでやるわ」
「無茶苦茶な理論やな」
「ええやん。俺が此処におんのも無茶苦茶なんやから」
「そうか。でも、ええよ。死神に迎えに来られるんなら、お前の方ずっとええ」
「当たり前や。俺と死神をおんなじ天秤に掛けんな」
「ごもっともです」
 触れ合って、自分の存在を確かめる。この身体は虚像だった。けれど、ツヨシの為に実像になる。此処に存在する意味。抱き締め直されながら、コウイチは思う。
 最後の最後まで生きてみようと思った。肉体は滅びようとも、精神はまだ生きている。この世界で成し遂げるべき最期の舞台を、仲間の為にツヨシの為に。そして、自分自身の為に。
 コウイチは、最後の時間を生き始める。


+++++



 皆、最後の瞬間に怯える暇はなかった。コウイチの出演した舞台の中で最良のものとなる様練習を繰り返す。
 時間はなかったけれど、コウイチがいない一年間で失ってしまったものを少しずつ取り戻し始めている。生きる事を、もうこの世界の住人ではない彼に教えられた。
 コウイチは一度も取り乱す事なく、気丈に主演の勤めを果たす。これこそが周囲の人間を心配される要因なのだけれど、賢い割に鈍感な座長は恐らく最後まで気付く事はないだろう。
 コウイチの明るさに引き摺られて、皆笑顔だった。初日の幕が開けば、連日客席は満員になる。最期の舞台と言う話を聞きつけて、沢山の舞台ファンが押し寄せた。
 ツヨシは一度も見に来ていない。彼自身も病を抱えている身だった。そう簡単に動く事は出来ないだろう。仕事は既に錦戸に全権を譲っているらしいけれど、唯治療に専念するとも思えなかった。
 日々は確実に過ぎて行く。コウイチは自分でさえ、自分がいつ消えるのか分からなかった。時が来るまで。
 それはきっと、ツヨシが見に来る時だろう。予感がした。この世界での時間はもう僅かだ。千秋楽が迫っていた。少しずつ、カンパニーの雰囲気が暗くなる。仕方のない事だけれど、皆には笑っていて欲しかった。

 千秋楽。
 自分の最期の日。確信を持って、コウイチは思う。やっと今日、ツヨシが見に来ていた。この舞台を終えれば、自分の存在価値は失われるだろう。
 悔やんでも悔やみきれない事は沢山あるけれど、でももう後悔と呼べる程の強い感情もなかった。穏やかに、開演の合図を待つ。
 ツヨシは客席で、自分の姿を見届けてくれるだろう。最後列。暗過ぎて舞台の上からでは見られないけれど、意識を持って行かれなくて良いのかも知れない。最期はちゃんと、舞台だけに集中したかった。
 開演のベルが鳴る。
 カウントダウンが始まった。恐怖はもう、何処にもない。あるのは、仲間を思う気持ちと舞台を愛する気持ち。そして、ツヨシへの言葉にならない思い。
 幕が開く。ステップを踏む。光の洪水の中、目を凝らした。客席を見れば、其処には、舞台を愛する沢山の人がいる。
 自分の後ろには、自分を支えてくれた仲間達。何も、怖くなかった。優しい場所で生きていたのだ。今更ながらに思い知った。
 これからはきっと、この場所に屋良が立つだろう。痛みを知った彼は、きっと素晴らしい演者になる。見届けられない事だけは、僅かに悔しかった。
 舞台は着実に進んで行く。ジャパネスクは、ツヨシが最も衣装に拘った場面だった。赤の和装を身に纏う。これに袖を通す事も最後になりそうだ。
 短い人生だった。幸せな人生だった。
 小さな頃は母親と二人の小さな世界だったけれど、母の愛情は自分を幸福にした。ツヨシと過ごした僅かな時間も、痛く苦しい思い出の中優しい記憶へと変わる。
 そして、この劇場で過ごした年月。愛していた。愛されていた。この劇場が自分の世界の全てだった。
 オフブロードウェイに甘んじようと思った訳ではない。オンのその先さえ、見据えていた。けれど、此処に自分の全てが詰まっている。
 なあ、ツヨシ。お前の愛情を受け止める事すら出来んかったな。もっと触らせてやれば良かったかな、なんて思う。真っ直ぐな愛は、心臓をざわめかせた。
 もしかしたら、これから先、もっと長い時間を掛ければツヨシとの関係は変わっていたのかも知れない。
 ……そんなん、考えても仕方ないか。
 なあ、見てる? こっからじゃ、暗過ぎて後ろの席なんか見えへんよ。
 赤い衣装。月明かりを模した光の中、仲間達と踊る。舞台が全てだった自分の人生。
 ああ、身体が軽くなって来た。光に目が眩む。終わりが、すぐ其処まで来ていた。
 ごめんな、ありがとう。もう、最期みたいや。
 見上げれば、降り注ぐは桜の花片。
 コウイチの瞳に最後に映った光景だった。



+++++



 ツヨシが千秋楽を選んだのは、早い時期に見に行ったらコウイチが消えてしまうのではないかと思ったからだ。もし本当に自分が彼を呼んだのだとしたら。自分の望みを叶えれば、其処でコウイチの存在意義は失われる。
 それから単純に、身体が限界を迎えているいるせいもあった。医者にすら生きているのが奇跡と言われた程だった。もしかしたら自分もまた、コウイチに生かされているのかも知れない。
 全ての手続きを終えて、大倉の劇場へと向かった。隣にある自分の劇場はそのまま残している。それを横目に見ながら、錦戸を連れて場内へ入った。自分の跡を継いだ義弟は勿論忙しかったけれど、長い間コウイチを見て来たのだ。
 最後の演技を見て欲しいと単純に思った。錦戸は、自分の目だ。これからも彼には覚えていて欲しかった。堂本コウイチと言う存在を。
 時間通りに幕が開く。コウイチはいつもと変わらず、舞台の上で輝いていた。彼の生きる場所は此処だったのだと、何の迷いもなく思う。
 舞台の上でしか生きられない人だった。その光に憧れた人間がどれだけいるだろう。今も尚消えない思いを抱えて、同じ舞台に立つ仲間達。
 舞台を見て嫉妬するなんて、相変わらず自分はどうしようもない。コウイチが綺麗に笑う度、心臓がぎしりと軋んだ。短い人生の中で愛した、たった一人の人。
 愛してる。
 何度も何度も思う。彼と過ごした日々はほんの僅かだったけれど、初めてその存在を知った日からずっと、恋い焦がれて来た。
 最期の時が刻一刻と迫っている。和装を纏ったコウイチは、本当に綺麗だった。客席からも溜息が溢れる。人を魅了する力を持っている演者だった。
 自分だけではない。観客も共演者もスタッフさえも、彼を愛していた。
「リョウ」
「はい」
「もう、行く」
「はい」
「お前の目は、俺の代わりにきちんとコウイチを見たか」
「はい」
「これから先も、俺の目であってくれ」
「分かっています」
 舞台の上に視線を向けたまま、小さな声で錦戸に言う。観客は全て、コウイチに魅せられていた。張り詰めた空気を動かさない様に、そっと劇場を出る。
 最初から、その瞬間は見ないと決めていた。自分にはまだ、やるべき事がある。
 劇場を出れば、秘書の頃と同じまま錦戸が運転した。助手席に、もう余り自由にならない身体を沈める。
「空港で良いんですよね」
「ああ、チケットの手配は出来とるか」
「お任せ下さい」
「もう社長やのに、悪いなあ」
「ツヨシ君に謝られると、逆に怖いわ」
「失礼な奴やなあ。なあ、お前にはデザイナーとしての才能とビジネスマンとしての才覚がある。デザイナーDのプロジェクトを永遠に途切れさせないようにな」
「ホンマに、誉めるとかも怖いからやめて下さい」
「ええやん。最期なんやし」
「ツヨシ君!」
「最期やもん。俺な、言い残した事がない様にしときたいんや。リョウには、言葉にならない位感謝しとる。お前がおらんかったら、俺はとっくにあの家出てコウイチ追い掛けてたわ。リョウが俺の目になってくれたから、逃げずに生きられた」
「逃げなかったんは、ツヨシ君の努力やないですか」
「そんな事あらへん。お前が弟で、ホンマに良かった」
「ツヨシ君……」
「後の事は頼んだで」
「はい」
 苦しそうに息を吐くと、ツヨシはそれ以上話さなかった。身体を支えているのは精神力だけだ。医師には何も言わず、日本へ戻る事を決めた。長いフライトに身体が耐えられるのかは分からないけれど。
 多分、大丈夫だ。自分もまたやり残した事があるのだから。



+++++



 予想通り、千秋楽の公演でコウイチは消えたらしい。錦戸からの報告をツヨシは一つの墓石の前で聞いた。誰にも気付かれない様、ひっそりと丘の上に立つそれを椅子に持たれながら見詰める。
 桜の大木がある丘。ちらちらと、花片が舞い落ちていた。春の色に心が和む。
 穏やかな風が吹くこの場所に揺り椅子を運ばせて、ツヨシは一人静かにその時を待った。病院で死ななければ色々と後が面倒なのは知っていたけれど、死後の事は自分には関係ない。
 そっと、目を閉じた。風が頬を撫でる。綺麗に手入れされた芝の匂い。さらさらと儚く舞い散る桜。椅子を揺らせば、すぐにでも眠ってしまいそうな程心地良い。
 墓石の下で眠るのは、コウイチの両親だった。遺骨すら欲しがりかねない父親を恐れて、大倉のおじに協力を請うてツヨシが立てたのだ。静かに眠って欲しかった。誰にも邪魔されない場所で。
 別の墓にあった父親の遺骨も運んで、穏やかな永遠を用意した。
 此処に来るのは初めてだ。病を宣告されてからずっと、終わりの場所を求めていた。本当はコウイチの腕の中が良かったけれど、先立たれてしまったから。
 柔らかな陽射しが降り注ぐ。その温かささえ感じられなくなって来た。思い出すのは、最後に交わした口付けの感触ばかり。
 風が通る音すら、聞き分けられなくなって来た。椅子の揺れも曖昧になる。頬に触れた桜の花片だけが、鮮明に感触を伝えた。
 閉じた瞼の裏で、コウイチの赤い衣装が翻る。
 ああ。
 本当に。
 愛していた。

『ツヨシ』
 不意に聞こえたのは、懐かしい呼び声。夢と現の狭間でたゆたう意識。
『ツヨシ。こんなとこで、何しとんの』
 目を開けたら夢が終わってしまう。分かっているのに、ツヨシは止められなかった。舌足らずな声音に愛しさを覚える。
『……コウイチ』
『何、吃驚した顔してんねん』
『やって……』
『こんなとこで寝てんなや。ほら、』
 目を開けても、夢は終わらなかった。記憶の中と寸分違わないコウイチが、手を差し出している。
 背後には、終わりを迎えようとする桜。圧倒的な美しさに声も出なかった。
『ツヨシ? 行くで』
 じっと見詰めたまま動かない自分の手を引いて、揺り椅子から立ち上がらされる。温かい掌。冷え性だといつかの夜に笑っていたけれど、其処にはきちんと体温があった。
『コウイチ』
『んー?』
 少し先を歩くコウイチが、笑顔で振り返る。進む足はそのままで。
『愛してる』
『耳タコやわ』

 やっと今、ツヨシはコウイチを手に入れた。



+++++



 大倉の劇場の隣の空き地には、二本の木が植えられていた。春になると淡い色の花を咲かせるそれを、カンパニーのメンバーは毎年嬉しそうに見に行く。
「やっぱりさー、日本人のDNAの為せる業だろうねー」
「まあ、日本で育ってなくても俺らだって桜は好きだしな」
「おい! サボってないで、ばらし手伝えよー」
「米花さーん。俺ら、もう年なんだからコキ使うのやめてってば」
 町田の泣き言には耳を貸さず、米花はにっこりと笑う。何年経っても力関係も、ちょっと怖いその顔も変わってはいなかった。
「誰だっけ? 年代物も良いけど、最新機材入れたいからリフォームしたいって言い出したのは?」
「俺です……」
「そうだね、屋良君。正解。大倉オーナー殿の反対押し切ってやったから、ウチは今非常に」
「経営難です。はい」
「よし、迷惑を掛けてるんだから」
「働きますよ! 働けば良いんだろ!」
「トモユキー!」
 階段を駆け上がる音と共に、リカの声が聞こえる。かなり焦った呼び掛けに、米花の怖い顔も忘れて駆け寄った。
「どうしたんだよ」
「コウイチがいないの!」
「はあ? どうせまた劇場のどっかで遊んでるんだろ」
「いないから言ってんじゃない! 馬鹿!」
「馬鹿はないだろ! 馬鹿は!」
「……まーた、始まった」
「痴話喧嘩も此処まで回数多いと、本気で仲悪いんじゃねえかと思うよな」
 町田と米花は、見慣れた光景に溜息を吐く。まあ、感情をぶつけ合えるのは悪い事ではないだろう。余りうるさいと、その内「ベテランがそんなんじゃ示しがつかない」とか何とか言いながら、オーナーが直々に叱りに来る筈だった。
「全部捜したわよ! 自分の子が心配じゃない訳?」
「心配に決まってるだろ! でも、お前の場合早とちりも多いじゃねえか!」
「失礼ね! 人をおっちょこちょいみたいに!」
「……ママー」
「ほら見ろ」
「っ……!」
 悔しくて声も出ないと言った所か。けれど、最愛の息子の声を無視する事も出来ず、思い切り屋良の足を踏み付けると階下へと声を掛けた。
「コウイチー! こっち。何処行ってたの?」
「隣。桜、見てた」
「ああ、そんな所にいたの」
「うん、でね」
 階段を上りながら、コウイチは自分のポケットの中に入っている物を取り出そうとする。ふらふらとした足取りは、階段の上にいる大人達を不安にさせた。
 何処も似る筈なんかないのに、こんな所は良く似ているなと思う。唯、名前が同じだけなのに錯覚しそうになった。
「これ、見つけたの」
「……コウイチ」
「綺麗じゃない?」
 階段を上り切った所で、探し物は見つかったらしい。屈んで待っていた母親の前に、コウイチは誇らしげにそれを掲げた。
「……っ」
「ね、ママ? 綺麗でしょ?」
 小さな手にあるのは、銀色のネックレス。光る石が一つ、綺羅と反射する。外にあったと言うのに、その輝きは一切失われていなかった。
 まるで、つい先刻まで大事に付けていたかの様だ。
「……何処に、あったの……?」
「桜の枝、の、真ん中」
「真ん中?」
 震えるリカの代わりに、屋良が尋ねる。視線を合わせると、コウイチはにこりと笑った。
「木、二本あるでしょ?」
「うん」
「その間で、枝と枝が、ばってんになってるとこ」
 舌足らずな喋り方は、子供特有の物なのに、全員が同じ様に顔を歪めた。彼の在った場所に残されていたのは、リカのプレゼントしたネックレスだけだったのだ。
 もう一つ、その首に下がっていたネックレスは彼と一緒に消えてしまった。同じ物が今、コウイチの手の中にある。
「あれー、皆何してんの? ばらし、終わってないよ」
「大倉……っ」
「な、ちょっと待って。町田、どうしたの? ねえ、いきなり泣くなってば」
 工具を取りに来た大倉は、ベテラン勢の様子に首を傾げる。町田は元々泣き虫だけれど、だからと言って理由もなく泣く筈はなかった。米花に視線を向けても、辛そうに唇を噛み締めるだけ。
「オーナー」
「お、コウイチ。さっき、桜んとこにいただろ? 桜、綺麗だっただろ?」
「うん。でもね、これも綺麗でしょ?」
「っそれ……」
「駄目? 綺麗じゃない? 皆、綺麗って言ってくんないの」
 コウイチの手にある物。考えなくとも大倉には分かった。先刻、踊り場の階段から桜の木の間で手を伸ばすコウイチを見ている。桜の花に触れたいのだろうと思っていたけれど。
「綺麗だよ、コウイチ」
「パパ! ね、そうだよね!」
 大人の反応に不安を感じていたコウイチは、屋良の言葉に嬉しそうに笑った。どうして、なんて考えても仕方がない。現に此処には彼のネックレスがあって、きらきらと光っていた。
 コウイチの頭を撫でると、屋良はそれを小さな掌から受け取る。ひやりとした感触に、一瞬どうしようか悩んだけれど。
 隣で泣くリカも、同じ感情を持つ大倉達も許してくれるだろう。このネックレスは多分、見つけられるのを待っていた。見つける人間を最初から選んでいる。
「綺麗だな。コウイチ、お前が見つけたんだからお前のもんだぞ」
「良いの? 誰かの落とし物かも」
「いや、大丈夫。ほら、後ろ向け。付けてやっから」
「うん!」
「……良いよな?」
「勿論」
 コウイチの細い首に付けてやりながらリカに問えば、すぐに答えが返って来る。大倉も米花も町田も、同じ様に小さく頷いた。
「はい。付いた」
「わー、綺麗だね」
「コウイチ」
「ん?」
「絶対に、なくすなよ」
「うん、分かった! 皆にも見せて来るー!」
 子供らしい笑顔で頷くと、再び階段を駆け下りて行った。残された五人は、沢山の思いを飲み込む。涙を止めるだけで精一杯だった。
 頬を伝う雫を拭き取ったリカは、気丈に笑う。自分の胎内に屋良の子供が宿っていると知った時から、二人が愛した人の名前を付けようと決めていた。不思議と、絶対に男の子が生まれると信じていたのだ。
 最後の瞬間の、赤い衣装を思い出した。
「……コウイチは、此処で生き続けるのね」
 今、彼の命は巡った。同じ物ではない。同じ命ではないけれど。
「ずっと見てるって、言ってくれたもんな」
「俺達が幸せになった分、今度はコウイチを幸せにしてやらなきゃな」
「沢山、愛してやろうな」
「それじゃ、コウイチの時と変わらないじゃない。ずっとずっと、愛してたし愛されてた」
「俺達は、コウイチを愛するのが好きだからなあ」
 米花の言葉に、皆で笑い合う。痛みを超えて、彼の笑顔を思い出しながら。命は巡る。そして、愛もまた、巡るのだろう。

 桜の花片が舞う。彼らの劇場を包む様に。
 まるでそれは、愛の様だった。
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