忍者ブログ
小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
[25]  [24]  [23]  [20]  [19]  [16]  [14]  [13]  [9]  [8]  [7
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 二人だけのこの部屋は、いつでもままごとの気配。少しでも均衡を崩せば消えてしまう、脆く甘い匂いがした。
 此処は、御伽話の世界。閉じられた綺羅綺羅の宝石箱の中。手を伸ばせば届く場所にある青い羽根。臆病な僕達は、まだ夢の途中にいる。

 彼の寝起きの悪さにはもう慣れた。毎日繰り返される朝の光景に飽きない辺り、自分は良く出来た人間だと思う。間取り二Kの決して広くはない部屋に、剛の声が響き渡った。
「光一!朝やでー!ええ加減起きんと遅刻するわ」
 まずは一回目。二人分の弁当を作る手は止めずに叫んだ。こんなもんで彼が起きる等とは勿論思っていない。低血圧で夜型人間の寝起きの悪さは、軽く想像を絶していた。
 今日の弁当は、卵焼きとウインナーといんげんのバターソテー。定番メニューはたまに恋しくなるから不思議だ。未だ起きる気配のない光一の白米には、嫌味たらしくハート形に切った海苔を乗せた。我ながら繊細な出来栄えだと満足して、剛は朝食用のトーストをオーブンに入れると二回目に取り掛かる。
 部屋の仕切りは全て襖だった。これではプライベートも何もあった物ではないと他人に眉を顰められた事もあったけれど、自分達にはこれ位が丁度良い。近過ぎる距離。安心出来る不可侵領域。二人肩を寄せ合って生きて行く為に必要な場所だった。
 遠慮も何もなく襖を開ける。光一の部屋は、いつも簡素な雰囲気だった。六畳の空間には、本棚とアルミ製の机と小さな箪笥が一つ。本棚には、職業柄必要なPCシステムの雑誌と、捨てずに残された教育関連の書籍、そして剛の成長を記録した二人だけのアルバムが並んでいる。他の誰も映っていない、二人きりの密やかな記憶。
 その部屋の中央に布団が敷かれている。寝汚い部屋の主は、毛布を抱きしめたまま身じろぎ一つしなかった。声を発する手前で一瞬躊躇する。
 足下で蹲る小柄な姿に見蕩れた。寝癖で乱れた髪も少し伸びた髭も、布団からはみ出した骨張った足も、確かに男の物であるのに。毛布を掴んだ幼い指先や柔らかな髪の間から覗く額に僅かに残る傷跡、薄く開かれた誘う唇、晒された肌の発光しているかの様な白に。惑乱される。
 不覚にも欲情し掛けた自分を自覚して、剛は焦った。制服の裾を握り締めて、己の劣情を遣り過ごす。あかんわ、俺。朝っぱらから何考えてんねん。自分の年齢を考えれば寧ろ当たり前の事なのだが、何せ相手が悪過ぎる。今はまだ、駄目だ。
 すっと息を吸い込んで、今度こそ声を張り上げた。夢の世界にいる彼にもきちんと届く大声。近所迷惑にならないかと、密かに案じてはいるけれど。
「光一さーん!朝ですよー」
 言いながら、細い身体を跨いで窓へ向かう。ベージュのカーテンを開ければ、心地良い朝の光が入って来た。彼にとっては、安眠を遮る強い明かり。
「……うー」
 後ろから呻く声が聞こえて、剛は間髪入れずに光一を包んでいる毛布を剥がす。尚も呻きながら、やっと瞼を持ち上げた。
「お早う。目、覚めたか?」
「……はよ」
「そろそろ支度せんと、ホンマに遅刻するで」
「……んん」
 ぐずる光一の腕を引いて、身体を起こしてやる。其処まで手伝えば、後は身体が勝手に動く筈だった。脳味噌が機能するのは、まだまだ先の事だ。起動の遅いコンピューター。
「俺もう行くかんな。弁当テーブルの上に置いてあるし、ワイシャツも其処に掛けてあるから」
「ありがと」
「なら、後でな」
「うん。……あ、何時?」
「三時半。遅刻せんといてな。昼休みに携帯に連絡入れよか?」
「大丈夫。お前の大事、やもん」
「……うん」
 幼い響きで、それでも真面目な言葉を綴る。剛には、それが少し面白くなかった。贅沢な不機嫌だとは分かっていても、嫌な物は嫌なのだ。
「じゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃーい」
 ひらりと手を振る光一を視界の隅に残して、朝の光が射し込んだ部屋を出た。焼き上がったトーストにバターを塗って、口に銜える。制服のボタンを留めながら、剛は自分の状況に少し笑った。
 朝にこんな時間の余裕がある男子高校生なんかおらんやろなあ。原因は確実に彼にある。睡眠第一と言えば聞こえは良いが、地震が起きても起きないだろう眠り方には辟易した。他の人間だったら、絶対に放っておく。
 鞄に弁当を入れて、家を出た。安アパートの階段は、体重を掛ける度に軽快な音を立てる。住み慣れたこの街の玩具みたいなアパート。二人の記憶が全て詰まった場所だった。蒼天を見上げて、僅かに眉を顰める。強い光に目が眩んだのではなかった。自分と彼の距離を思う度、胸が疼く。
 光一と剛の関係を示す言葉は簡単だった。戸籍にも勿論明記されている。俺達は、『親子』だった。

+++++

 小さな手をぎゅっと握り締めていた。それははぐれない為の物だったし、不安そうな瞳を隠そうともしない子供が伸ばして来た温もりを受け止める為でもある。光一は、今もその体温を明確に思い出す事が出来た。
 あの時は分からなかったけれど、今ならちゃんと分かる。現実を自分の愚かさを、逃げずに理解していた。繋いだ指の先で怯えていたのは自分の方だ。彼は、子供特有の敏感さで一番正しい方法、安心出来る術を差し出しただけ。
 東京行きの最終の新幹線だった。新神戸駅のホームは寒くて、剛にもう一枚着させるべきだったと後悔する。自分の荷物は全て先に送ってしまった。肩から掛けているスポーツバックの中は、剛の物しか入っていない。もう二度とあの家に帰る事はないかも知れないから、と持ち出したい物を全部入れさせた。全部とは言っても、決して多い量ではない。元々持っている物の少なさを示すだけだった。
「寒ない?」
「平気。光ちゃんは?手、冷たいで」
 繋いだ指先を引っ張って問われる。吐き出す息がぞっとする程白かった。
「大丈夫や。俺、元々冷たいねん」
「そうなん?やったら僕があっためたるわ」
 言って笑う剛の目許と口許には、痛々しい傷が残っていた。彼の父親が付けた暴力の証だ。
 ホームに新幹線が滑り込んで来た。手を繋いだまま自由席の車両に乗り込んで席を確保する。窓側に剛を座らせた。シートに凭れると、ほっと息を吐いたのに気付く。緊張しているのだろう。
 一週間前の夜、いつもの様に傷の手当をして一緒に夕食を食べている時だった。母親は、剛の父親に再三の勧告を言いに出ている。児童福祉士を長い事続けている母にとって、近所の家庭環境は放っておけなかったのだろう。自分は多分、そんな母親の影響でこの子供が気になっているんだと思う。
 口の傷に染みるだろうと少し冷ました食事を剛は黙って食べていた。あの父親と二人では、普段碌な物を食べていない筈だ。
「美味しい?」
 光一の問い掛けに剛は頷く。食べる事に夢中な感じだった。子供らしい、本能に忠実な行動。
「……なあ」
 呼び掛ければ、視線だけを向けて来る。目を合わせて、光一は少し躊躇った。子供の瞳、肉親に傷付けられても濁る事のない純真な色を持っている。彼に、果たして告げても良い事なのだろうか。
 自分は来週、東京へ引っ越す事が決まっている。大学生活を終えて、社会人になる為だった。警備会社のシステムエンジニアとして働き始めるのだ。本来なら、言うべきはお別れの言葉の筈だった。
「何?光ちゃん」
 言葉の続きを待っていた剛に促される。その小さな身体の至る所に傷があるのに、彼の目は人を信じる強さを持っていた。環境も何も関係ない、この子供が持っている強い性質だ。
「うん、俺な東京で就職するんよ」
「……そーなん」
 吃驚した顔に安堵した心は、罪に値するだろうか。大人の卑怯を、彼は受容してくれるだろうか。
「でな、剛さえ良かったら……」
 少なくとも、小学四年生の子供に言って良い台詞ではなかった。頭では分かっているのに、言葉は身勝手に零れて行く。
「俺と一緒に、行かへん?」
 目を見る事は出来なかった。一瞬の空白が、光一には永遠の審判の様に感じられる。唇を噛み締めようとした瞬間、呆気無く返答が落ちて来た。目の前には、光がある。
「うん、ええよ」
 まるで、明日遊ぶ約束をしたみたいな軽い同意だった。視線を向けると、大人びた表情で笑っていた。幼い顔に浮かぶ理知的な色に、怯む。
「光ちゃんが連れ出してくれるんやろ?それやったら、東京でもアメリカでも何処でもええ。あの家やなければ、構へん」
 答えた言葉は真剣だった。自分の言葉の意味をしっかり受け止めている。理解して考えて出してくれた結論だ。自分の中にある迷いや罪悪が綺麗に浄化されて行く感覚。剛を、このしっかりした強い子供を、自分が守るのだ。

「剛、一緒に行こう。一緒に生きよう」

 窓の外は暗い。時々明かりが直線を引いては消えて行った。剛は深く眠っている。その表情に翳りは見られなかった。指先は緩く絡めたまま、膝の上にある。
 もうすぐ名古屋に着く筈だった。剛がいなくなった事に、あの父親は気付くだろうか。ちょっと考えて、すぐに無理だと結論付ける。いなくなった事に気付ける位の人間だったら、息子を奪う様な真似はしなかった。この手を取ってしまった以上、手放す気はない。
 多分一番に母親から連絡があるだろう。逃げない事は決めている。本当はそれが浅はかで無謀な事も知っていた。実の親子を引き離すのが難しい事位、母の仕事を見ていれば簡単に分かる。
 今の児童福祉法や児童養護施設に、剛を守る事は出来なかった。ならいっそ、自分が守ってみせる。誘拐犯になっても構わなかった。何を犠牲にしても、この小さな手を守り抜きたい。
 社会人にすらなっていない光一が、剛と二人で生活するのは困難だった。逃げ出したあの夜から八年の月日が経っている。二人の生活を支えたのは、沢山の優しい大人達が差し伸べた手によってだった。
 あの時の不安も芽生えた罪悪も、胸の裡にある。けれど何より強いのは、繋いだ指先を離さないと言う使命感だった。剛は、自分が大人にする。それだけが、自分の夢であり希望だった。

+++++

 会社に着いて、まず早退届を提出する事から始めた。随分前に上司には伝えてある。書類上必要な形式的な作業だった。
 本部で勤務している光一は、直接警備とは関係がない。警備用のシステムのメンテナンスを主に担当していた。設置している施設への外回りはあるけれど、内勤が多くシステム異常等の緊急事態にならない限りは定時で帰る事が出来る。まだ学生の剛と生活するのには、丁度良い職場環境だった。
 書類を提出しに行く為に廊下を歩いていると、後ろから騒音とも呼べる程の大きな足音が近付いて来る。振り返るより先に、足音の持ち主が光一を捕えた。
「光一ー!おっはよー!」
 不意の襲撃を受けて、前のめりによろめく。後ろからこんな大男に乗られては、潰れてしまうではないか。不満たっぷりの声を同僚にぶつけた。勿論そんな言葉が通用しない相手である事は、経験から十分分かっている。
「長瀬!重いっちゅーねん」
「えー、朝のスキンシップじゃーん」
 蛇に睨まれた蛙の様に肩を竦めて、大男は渋々離れて行った。大型犬が飼い主に叱られたみたいな表情は可愛い。しょうがないなあと言う気分にさせるのだから、侮れない奴だとは思っていた。
 彼は、職場で唯一気の置けない存在だ。と言うよりも、上京した光一の数少ない友人だった。何で其処で親友って言わないかなーと、心の中を読まれていたら突っ込まれるだろう。
「ウチの子達は全然嫌がんないよ?パパーって大はしゃぎだぜー」
「子供と俺を一緒にすんな」
 連れ立って歩きながら、背の高い彼を睨み付ける。身長差が邪魔をして、まあそれ以前に光一の顔立ちが愛らしい小動物と同じ物で出来ているから、そんな顔されても怖くない、と言うのが長瀬の意見だった。睨む友人の瞳は可愛いから、余計な事は言わないけれど。
 長瀬と光一の始まりは、入社してすぐの事だった。光一は今でも最初の事を覚えている。新人研修の時に馴れ馴れしく声を掛けられた。同期は他に何人もいたし、長身で目立っていた彼がわざわざ女子にさえ埋もれてしまうんじゃないかと言う(身長は同じ位だけど、勢い的に)自分に真っ直ぐ向かって来る意味が分からない。仲良くなって来た今でも理解出来なかった。
 だって、光一がダントツで好みだったんだもん。あっけらかんと言う長瀬は良い奴だと思うが、言っている事が自分の常識の範囲を超えていた。それでも仲良くなれたのだから、自分もこの規格外の男が好きなのだろう。
 彼の押しの強さは関西の物に似ていた。当時はホームシックになるどころではなかったから思い当たらなかったけれど、多分その懐かしさに惹かれたのかも知れない。強気な姿勢が余り得意ではない自分が、最初から彼の存在を疎ましいと思わなかった。全然タイプの違う人間だけど、波長が合うと言った感じかも知れない。
 一緒に行われた研修だが、自分はシステム管理に長瀬は警備部に入ったから、なかなか会う事は出来なかった。人付き合いの苦手な自分がそれでも関係を続けていられるのは、この友人が見た目の印象よりもずっと繊細で几帳面だからだろう。定時で上がれる自分と違って、四十八時間勤務もこなす警備部は想像以上に大変だと思う。警備の仕事を元気に続けられるのは、守る者がいるせいかも知れなかった。
 ちなみに今は二人の娘に溺愛中で、親友と豪語される自分でも余り構って貰えなかったりする。全然構わないのだけど、ほんの少し寂しいと思ってしまうのは、自分の性質が我儘だからだった。
 こんなお父さんやったら、子供は大らかに育つやろな。また他の家族と比較しそうになって、慌ててその思考を追い払った。他人と自分を比べるのは悪い癖だ。剛にも嗜められた事がある。他人は他人、ウチはウチ。強い息子の言葉を思い出して、弱気な思考を追い払った。
「何?光一。今日早退すんの」
 手に持った書類を覗き込まれる。綺麗とは言えない署名と、形式通りの書面。
「うん。今日、三者面談やねん」
「あー、剛の。あいつ幾つだっけ?」
「おっちゃん、それこの間も聞いたで。高三、受験生」
「ごめんごめん。俺、頭悪いからさ。そっかー、あいつもそんな大きくなったか。そりゃ、俺も年取る訳だ」
 長瀬は、剛が中一の時から知っている。面倒見が良く情の厚い彼は、自分達の生活を知ってから何気なく気に掛けてくれていた。異質な親子関係に口を挟むでもなく、旅行に行けば二人分のお土産を買って来てくれたし、インドアな養父の知らない遊びにも躊躇なく誘ってくれる。
 親友の大事なもんは、俺にも大事。シンプルな発想で生きている長瀬に何度も救われていた。
「長瀬は初めて会った時から変わってへんよ。年取ったようにも見えん」
「それは光一だろ。お前年々若返ってく気するんだけど」
「そんな事あらへんわ。おっさんやもん」
「うん、知ってる。じゃなくて、見た目とか。入社したてん時とか、髪きっちり分けてて、スーツじゃない時も色のない物ばっか着ててさ。手とか唇とか荒れててもクリーム塗るの嫌がってたし。勿体無いなあって思ってた」
「……よぉ覚えとんな」
 あの頃は生きる為に精一杯だった。連れ出した幼い命を自分の手で守りたくて、自分自身の事なんてどうでも良かったのだ。今も本当はどうでも良いと思っていた。元々関心がないと言う自覚はある。
「でも、最近変わったよね。ネクタイの趣味も違うし、前髪可愛いし」
「可愛いって言うな」
「剛のおかげなんだろうな。全部あいつがやってるんだろ」
「……何で分かるん」
 吃驚した顔で見詰められると、苦笑するしかない。何年自称親友を続けていると思っているのだ。光一の身体にフィットする細身のスーツも、物が入っていれば紙袋でも構わないと言う思考の人が持つには機能的なバッグも、ふわりと香るシャンプーの匂いも、丁寧にファイリングされた爪も全部。
 無頓着な光一が出来る事ではなかった。父親の世話を進んで焼いている、マメで凝り性な息子の顔を思い出す。きっと、美容院すら一緒に行って美容師に要望を言っているに違いなかった。顔の周りでバランス良く揺れる茶色の髪は、彼の年齢を分からなくさせる。
「剛は、親の手伝いやから当たり前やって言うんやけどね」
「お前ら、段々どっちが親でどっちが子供か分かんなくなって来たな」
 言った途端、長瀬は後悔した。光一が立ち止まって傷付いた顔を見せる。悲しい瞳。彼の黒い目は吸い込まれそうに綺麗だけれど、いつも罪悪の色があった。消えないその色の原因を知っている。
「……そうやね。剛はしっかりしてるからなあ。しっかりせな、あかんかったから」
「光一」
「あの子をゆっくり育てたいって思ったのに、結局俺が大人になるの急かしてる」
「光一、お前のせいじゃない。おいつは元々しっかりした人間なんだ。知ってるだろ」
「うん。向こうにいた時から、しっかりした子供やった」
 剛は、自分がきちんとしていなければ家庭環境のせいにされる事を分かっている。あんな若い父親だから、と光一に責任を向けられる事を酷く嫌がった。
「今日の三面って、進路の話?」
「うん」
「剛は、どうすんの」
「……分からん」
 暗く沈んだ声。傷付いた顔をさせたくなかった。
「話してないの」
「話そうとは、してる。でも言うてくれん。もう俺は自分の進路位自分で決められる年やから、って。ちゃんと決められたら話もするって。それっきりや」
 剛が光一に話さないなんて、あり得ない事だった。この父親は連れ出してしまったその日から、不必要な罪悪感を抱いているせいで、時々過剰かと思う程息子になった子供の事を理解しようと必死になる。全て理解している事が義務だとでも言うように。
 そんな光一の心を知ってか知らずか、剛は自分の事を何でも話した。学校であった事、夜中に布団の中で考えた事、街で聞いた音楽が良かった事、釣りに行って何が釣れたのか、帰り道に見上げた空の神秘的な色も。何もかも、自分を形成する全ての事を伝えていた。
 基本的にこの二人に隠し事はない。光一は余り自分の事を話さないけれど、それは黙っているだけで嘘や誤摩化しはしない人だった。
 だから、剛の行動は可笑しい。初めての事かも知れない。何か考えがあっての事なのは間違いないだろうが、暗い表情で思い詰める親友を見て掛ける言葉は何も見付からなかった。

+++++

 柔らかな陽射しが射し込む菜園は、剛達のお気に入りだった。学校内の敷地に於いて、これ以上完璧な優しさを有している場所はない。と言うのが親友の見解だった。
 緑が褪せ始め少し肌寒くなっても、昼休みは此処で過ごしている。口数の少ない親友は、本を捲りながら、大して美味しくなさそうにパンを齧っていた。食事に楽しみを見出さない所は、あの養父と似ている。彼の事を思い出して、それから午後の憂鬱な予定を思って、剛は深い溜め息を吐いた。
「……どうしたん」
 やっと本から顔を上げて、隣で膝を抱える陰気な人を見詰める。相談したいのなら、素直に言えば良いのに。手を差し伸べるように仕組む癖は、あの人の甘い教育の賜物だ。
 彼なりに厳しく育てたつもりなのだろうが、最後の最後で甘さが残った。社会的には問題がないし、何より結局苦しむのは優しい彼なのだ。自分が嗜める事でもなかった。
「岡田ぁ、俺どないしよ」
「何が」
「まだ、進路の話してないねん」
「……ホンマに?」
 黒い双眸を瞬かせて、信じられないと言う表情を作った。まさかとは思っていたのだが。決意を固めているのに言葉にしないのは罪に値する。少なくとも、剛と光一にとっては。
 他人だからこそ、目を見ても手に触れても通じない。通じ合わせてはいけない。だから、どんな些細な事でも告げようと言うのが彼らのルールだった。
「言おう言おうとは思ってたんやけど、言えんくて」
「光一君は、大学進学希望しとんのやろ」
「ぉん。公立でも私立でも構わないから、行きたいとこ行けって」
「……ホンマ、良いお父さんやなあ。今時言えへんで、そんなん」
 感心した口振りに剛は嬉しくなる。自分の大切な人が誉められるのは、優越感だった。慣れた感覚のまま笑おうとして失敗する。その、『良い父親』こそが今自分を苦しめているものだった。
 相反する感情に結局剛は表情を消す。優しさも苦痛も、自分の中にある感情を左右するのは光一だけだった。小さな頃からずっと、自分の行動原理は彼にある。
「良い父親なんかやなくてもええねん」
「それでも、光一君は剛君の父親や。良い父親であろうとしてくれてるんやよ」
 静かな声で岡田は嗜める。ついこの間合った時も優しい目で「学校どうなん?」と聞かれた。自分には入り込めない場所での息子の事を心配している真っ直ぐな感情だ。大切にしている愛情しか見出せない瞳。
 岡田は、自分で認識している以上に彼の事を気にしているのだと知った。不器用な仕草で、でも迷わない意思の中剛だけに向けられる白い手が好きだ。
「分かってる。ずっと分かってたつもりやし、これからもちゃんと親子でいなきゃあかん事も知ってるんや」
 剛は、自分の養父である人を愛してしまった。十八にもなれば、自分の恋が気の迷いではない事位分かる。幼い頃から面倒を見てくれた人だ。自分が他人を怖がらずに受け入れられるのは、彼のおかげだった。
PR
<<< ソルダムの唇 HOME 悲しい曲 >>>
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新CM
最新記事
最新TB
プロフィール
HN:
年齢:
42
HP:
性別:
女性
誕生日:
1982/05/16
職業:
派遣社員
趣味:
剛光
バーコード
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.