小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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ふたりLesson
最後に残されるのはいつも俺だという気がする。
嫌味とか自分を卑下してとかじゃなく、それは事実として。
あの人はさっきまで柔らかい体をゆったりその辺に預けていたはずなのに、ふと見ると、いつの間にかどこまでも行っていて、あやうく姿を見失いそうになることが、時々。
無事に捕まえるたび、胸を撫で下ろす。
静かなやわらかいネコの匂い。
手触りのいい雲みたい。
白い。
言ったら、「なにそれ」、と少しタチの悪そうな笑いを見せて、それで、すぐに忘れてしまうんだろう。
リーダーが舞台の製作発表をやったというのを聞いて、俺はさっそく携帯Webの会見レポートを読むことにした。
目新しいことは特になかった。
大体本人から聞いていたことばかりだったし。
でも字面で読むと、確定事項として目に見えてなんか安心できる。
カンフー超得意じゃん。よかったな、楽勝だろ。
同じスタッフと三回目だしね。
慣れたカンパニーでのびのびやれるなら、余計なことに神経使わず芝居に集中できるだろう。
慣れない環境でピリピリすんのも成長できていいと思うけど…。
彼氏としては避けたいわけだ。
なぜかと言うと、難しい所にぶちあたってる時やしんどい時は、あの人連絡取れなくなる。音信不通。
メールも電話も完無視される。ってことが分かってからは、もう送らないけど。
俺はその間ひとりで仏像みたいに携帯持って憮然としてます。
ようやく帰ってきたときは、あいつは変わらずへらへらしてます。
『大事な電話だったらどうするんだよ』
『あー…そしたらマネージャーに伝言するっしょ』
伝言なんかするか馬鹿。
元気かよ? ってききてぇだけなんだよこっちは。
つうか生きて仕事行ってる事ぐらい、本人に電話しなくてもそれこそマネ経由で即分かるんだよ。
なんか軽くイライラしながら画面をスクロールしていくうちに、目新しい情報が脳に飛び込んできた。
その部分は、まったく、初耳だった。
…ふーん。
ラブシーン。
似合あわねぇー。
てか、稽古をビデオ撮りして復習する…って、そこそんな重要なのかよ。
死ぬほど練習しなきゃいけないのは殺陣だろ、他の役者との呼吸とかタイミングとかさ。
俺はWebの接続を切ってマネージャーに電話した。
こないだの会見の映像をくれと言ったら、パソコンに転送してくれることになった。
で、それを見てから出かけた。
ちょっと間が悪いとは自分でも思った。
久しぶりに智と二人で会ってから、そのままお互い仕事に行く予定だった。
俺はデート前になに無駄にナイーブになってんだ。
相手役の女優は綺麗な子だった。
「なに買ったの?」
「板と塗料とー、マスキングテープ」
「なにに使うの」
「えー、いろいろ。曲線をぴったり塗るのに便利なんだよ」
色を塗るのにテープがなんでいるのかよく分からなかった。いつもだったら分かるまで訊くんだけど、俺はてんで上の空でそれはもうどうでもよかった。
一度会計を済ませたのにまだ棚の間をうろうろする智のうなじを後ろから見ていた。
キャップかぶって、短い襟足の髪が押さえつけられてぎゅっとその下から覗いていて、パーカーのフードが後ろにぐっと下がってるから、白いうなじが結構な面積むき出しだ。
シルバーのチェーンが一筋、首に掛かっているのが見える。
前に俺があげたやつ。
なんで鎖だけで分かるかって、智はこれ以外ほとんどネックレス持ってないし。
俺がプレゼントしたのはチェーンがちょっと変わっていてすぐ分かる。
二人で会うときは、なるべく、付けてきてくれる。
この人が忘れなきゃだけど。
「まだなんか欲しいの?」
「キリないんだよなぁ。みてるとどれも欲しくなっちゃうしさー」
「分かる」
「だろっ?」
智は振り返って笑った。
今日、この店入ってから初めて俺の顔見た。
茶色のくりっとした目。
俺あんたのパーツどれも好きだけど、やっぱ目が超かわいいよ。
うなじとセットで。
「松本さんなんか買わねぇの?」
「見てるのは楽しいけど買っても使う場面がない」
つうか、画材屋でMAXイキイキしてるあんたを見てるのが楽しい。
「マジかよ、和紙とかすげぇ食いついてたじゃん」
「ああ…あーいう模様の行灯とかあったら綺麗だろうなって」
「あんどん?! あー、なんか作れそう~!」
作っちゃえるんだろうな、さくっと。
「すっげシュールな行灯できそう」
「普通に売ってるみたいなの作ったっておもしろくねぇだろ」
うふふと笑う。
なんかを作ること考え出すとそれでもう頭一杯になっちゃう智の肩をポンと抱くと、びくっと俺を見上げた。
「まだなんか見たい?」
「あ、うん。もういいよアリガト。また明日来るかもしんないし」
は?
「明日来るのになんで今日俺と来たの?」
「…明日つってもちょっとまだわかんないし、今日、来たかったんだもん…」
段々語尾が小さくなる。
えーと、この店飛ばせばプラス30分はゆっくりメシ食えたんですけど。
あんたは舞台稽古、俺はもうすぐドラマ撮りに入る。次に俺らの予定が合う日が来るのは、明日のあんたの予定より不確定で、ぶっちゃけ、俺はすごく二人でいる時間が貴重だ。まぁ今も二人といえばそうだけど、ここにいた間、あんたの意識は95%画材にロックオンで、俺はいてもいなくても関係ないよな。
さすがに空気を読んだか、智は少しひっそりした様子で俺を見上げる。
そして、なぁ、と呟いた。
「ごはん、何食う?」
「…和食でいい?」
「うん、和食がいい」
早く食おう、すぐ食おう、みたいに輝く目。
だから俺はこいつに飯を食わせるのが好きだ。
それにね…うまいものを食べながら怒り続けるっていうのは難しいな、と思った。
目の前に好きな人がいて。
しかもそいつはさっきのことなんかさっぱり知らないみたいに、目を細めてうまいうまいと炊き込みご飯をほおばっている。
何を食ってもうまいと言うのは番組上のキャラだけじゃなくて割と普段もだけど、本当に味オンチかというと少し違くて、リアルにウマいものを口にしたときは「うまい」の響きが実に溌剌として、ピカピカしてる。それは冷や飯と炊き立てのご飯ぐらい違う。
食ってるときと寝てるときのこの人は最高に幸せそうな子供だ。(作っているときもそうかもしれないが、俺はほとんど見たことがない)。俺の3コ上ってどんな魔法だよ。
飯に夢中かとおもえば、智はふと俺の手元を覗き込んだ。
「まつもっさん、くわねぇの?」
「…食ってるよ。あ、この牡蠣うまい。食う?」
「食う! ちょっとでいいよ~」
昼と夕方の間、変な時間に、他に一組しか客の居ない和食屋の隅っこ。
二人で遅い朝昼ご飯を平らげる。
ぱらっとメニューを見て、智は「ここ日本酒揃ってるなー」と飲みたそうな顔をした。
「今度夜来よう。奥に小上がりあるから予約しとけばそっちで食えるよ」
俺の言葉に、うん、と頷いて、智は微笑んだ。
「なに?」
「えー、よかったなぁと思って」
「なにが?」
「松本さんが上がってきた」
「…そう?」
「うん。今日会ったときからなんか機嫌悪かったから」
責めるでもなくそう言う智に、ぐっと飯が喉につかえた気がした。
煎茶を一口飲みこんで、俺は箸を置いた。
「舞台、がんばれよ」
「え? うん。…がんばるけど」
自分でも出し抜けすぎたと思うセリフに、当然智も面食らったみたいで、困ったように笑った。
あ、このふにゃふにゃした笑顔を間近で独占して見られるのもしばらくないな、と思ったら、とてつもなく、愛おしくなった。
あの柔らかいピンクの唇。
…なに悠長にメシとか食ってんだ俺。
こんなことなら朝からどっか連れ込めばよかった。
「さと…」
「あのさぁ」
言いかけた言葉は、俯き加減の智の小さな声にさえぎられた。
「…それってどうやんの?」
「は?」
なんかしらんが、智はテーブルの向こうで挙動不審だ。
シラフなのになんでちょっとほっぺ赤くしてんの。平熱でも微熱呼ばわりされる潤みぎみの目が、おもいきり俺から反れて泳いでる。
「なに、どした」
「だから…なんでいつもそーやって、いきなりエロい目とかできんのって」
「エロ…いつ?! いま?」
声が裏返りそうになった。やべぇ。
智は唇を尖らせて愚痴るように言う。
「いますぐ食わせろみてぇなさぁ…ずりーよ~」
ずるいのか? それが。
そんな顔に出てたかと思うと、うっかりこっちも赤面しそうになって、とりあえず無造作に椅子に置かれている智のバッグとかを凝視してみた。
…あ、大丈夫そう。
肘を突いて智の方に身を乗り出した。
「…しょうがなくね? そういう気分て、突然来るじゃん」
智がこっちを見る。
にこっと笑って見せた。
智は何かムッとしたように眉を寄せ、なのにますます目が潤んで見える。
…なんだよ。そっちこそ分かってねぇし。
あんたこそ普段子供みたいな顔しといてさ…。
「…自信ねぇ~」
急に両手で顔の脇を押さえて、智が弱い声を出した。
なんとなく分かったが、「なんの?」と知らん振りして訊く。
智はぼそぼそと白状し出した。
「舞台…相手役の子と、あるわけさ…絡みが…」
「ふーん。前もちょろっとあったじゃん」
わざとわからないフリをする。智はイラッとしたらしかった。
「違う。今度はもっとはっきりしたの…だって」
なかなか『ラブシーン』とはいえない智が、俺はおかしくてしょうがなかった。一応あるのかね、なんか、俺に対する気兼ねみたいなの。
つか、仕事だろ。って、さっきまでの自分をタナに上げて、俺は智を勇気付けたくなった。
「楽しみじゃん。俺、最前で見ようかな」
智は潤んだ目でじろっと俺を見る。顔を押さえていた両手がいつのまにかグーになってる。
「…んなことしたら絶交だ」
思わず吹いた。絶交って。小学生かよ。
「俺、智のチュー顔好きなんだもん」
「チューするなんていってねぇだろ!」
「ないの? キスシーン」
なかったらラブシーンでもなんでもねぇだろ。
智は詰まって、そして認めた。
「…わかんねぇ。ある…らしい」
「あるんじゃん。なにそんなイヤがってんの」
「イヤがってない」
あ、そう。いやそこはイヤがれよ。俺の前だけでも。
「じゃ、なんで困ってんの」
智はいろいろ抵抗するのを諦めたようで、湯飲みをのろのろ掴んで、お茶を一口啜った。
「やったことないから…わかんねぇんだよ」
「いつも俺としてるでしょ」
「芝居でだよ! おめーバカだろっ」
あー、キレた。
基本温厚なんだけど、智はたまにガラが悪くなるというか江戸っ子みたいになる。別に下町育ちでもないのに。
超かわいい。
「智」
「…」
「さーとーし」
「なんだよ」
どうしようどうしよう言ってうろうろしてる迷子の子猫ちゃん。
…は嫌がるか。じゃ、おっきい猫さん。
猫さとしさん。
あんたが困ったときに助けたがる人はいっぱいいるけど、とりあえず、その誰にも付いていくなよ? 俺が行くまで。
「なぁ」
「なんだよ」
「練習したらいいんじゃない? 俺と」
ハートをつけて言ったら、智は目を丸くして俺を見て、それからへっと笑った。
「…なんだその豪華な練習」
とか言って、微妙に赤いほっぺ。
急に嬉しくなった。
湯飲みを握ったままの智の手と、湯のみと、それぞれ掴んでそっと離させた。
腕の時計を見て考える。
「ギリ何時入りなら間に合う? 今日」
「…えっと…」
智の予定と自分の予定、移動時間まで考えると、あと正味一時間もない。が。
「だいじょぶ。全然イケるわ」
「え、なにが?」
立ち上がった俺をぼうっと見上げる智を、俺は目力こめて見返した。
「もう、ごちそうさまだよな?」
「…うん、ごちそーさま」
智はこくんと頷き、俺について素直に席を立った。
多少びっくりしたみたいだけど、智は嫌がりはしなかった。
逆に、連れてこられたホテルの窓に額をつけて外を見ながら、「松本さんはかっけぇなぁ…」とか言ってる。
そうか? これかなりカッコ悪いと思うけど。
「こっち来て。時間ない」
「ないって、どんくらい?」
智は時計をしてない。
「にじゅう…ご、分ぐらいかな。ここにいれるの。俺のが先に出ることになる」
「マジもったいねぇ~! それで一泊分の金払うのかよっ」
智は本気で呆れた風に俺を見る。
「俺が払うんだよ」
「おまえ金銭感覚ぶっこわれてる」
「いーから来いって」
ラブホならもっと安いのにとかなんとかぶつぶつ言いながら、智は少し翳ってきた窓から離れて、ソファに座る俺のところまで来た。
こんな明るいうちから男連れでラブホなんか行けるか。カラオケ屋もバツ。店員が来るあの微妙な間とか気にしてる時間の余裕がないし。
金なんかどうだっていい。なんのために稼いでんだ。
好きなときに好きなこと好きなようにやるための金なんだから。
「とかいってるうちに五分ぐらい使っちゃったじゃん」
「すっげ、時は金なりだ」
智は目を見開いて俺の隣に座り、それからふと肩を丸めて、ふふっと笑った。
「…おもしれぇ」
俺の太ももにぽん、と手を置く。
軽く首をかしげて、俺を斜めから覗き込む、茶色い目。
「ちゅー、しねぇの?」
意識してるんだかしてないのか、ものすごく、甘い。
「俺からしたら意味なくね?」
「…そか」
智はいまさら納得したように、真面目な顔をして俺を見る。
「セリフは?」
「まだそこまで覚えてない」
「じゃなんか適当にアドリブで」
「えー…ムズいな~」
智は少し考えていたが、また、戸惑うような笑みを浮かべて俺を見た。
「ちょ…待って、やっぱいきなりは入りづれぇよ」
「おまえプロだろ、やれ」
あー、弱い。我ながら超今更感だ。
元をただせばただのスケベ根性なわけで。突っ込まれるまで言わないけどそれは。
智は「ええ~」と口を尖らせて、それから目を伏せた。
「とりあえず普通にしようよ。一回」
つるりとした瞳が睫毛の向こうに覗いていて、目蓋の中の暗がりから、ちらりとこっちを伺う。
ヤバイ、と思う。
さっきからこの人になんかしたくて、そんで薄暗い場所で二人きりになって、でもあれこれフルコースでやる時間は全然なくて、それなのに智はもう、俺の前でその気になってしまった。
誰も見たことないと思うし、死んでも見せないけど、俺とキスやエッチしたくなってるときの智は一発でそれと分かる匂いをさせて、えろい。
できるだけ何気なく無造作に智の頬に手を添えてキスをした。
記憶通りに柔らかい唇を、軽く二、三回ついばんで離す。
離れても智はすぐには目を開けなかった。
「智?」
と、ふにっと唇が笑う。
それから目を開けて俺を見て、智は「よし」と言った。
「よしなんだ?」
「うん、分かった」
「…なにが分かったのか俺は全然分かんないけど」
まぁいいや、と思っていると、智は俺の肩を押さえつけてソファに深く沈むようにさせた。それから俺の膝に横抱きの形で座ってくる。
ちょっとこれは、このまま、普通に、いただきたい…。
「ダメ」
「え」
エスパー?!
「エロい顔すんな。少し恥ずかしそうにしてくんねぇ? 女の子なんだから」
普通にダメ出しして、智はなんだか得意げに俺の肩に腕を回し、俺を見下ろす。
あ、なに、俺女役か。
え、そうか、これ伸長差ってこと?
それじゃ頑張ろ。
俺は抱き寄せられるまま智の胸に頬をうずめた。
「あたしたち、これからどうなるの?」
って、そんな話か知らねぇけど。やばい笑いそう。
智も噴出すだろうなと思ったのに。
笑わなかった。
ぎゅっと頭を抱きしめられた。
一言落ちる声。
「俺にもわからない」
…それは、そんなに芝居がかってる声ではなくて。
舞台で放たれるには張りが弱い、でも智の普段の話し方とは明らかに違う響きだった。
おれにもわからない。
ああ、この人にもわからない、誰も知らないのだという悲しい迷子のような気持ちに、連れて行かれる。
両手で、しがみつくようにして彼を抱きしめた。
「もう、会えないのかな」
それは何故かお別れのキスのような気がしていた。
だから、そう言ったのかもしれない。
最後のキスをしてもらいたくて。
けれど彼は俺を抱いたまま、ふと明るく笑った。
「あはは、なんで? 会えなくなったりしないよ」
髪をなでる手。
「一緒にいくんだろ?」
一緒に?
そうか、行くんだ。二人で。
髪に頬を押し当て、彼が願うように言う。
「…きてくれるだろ?」
黙って頷いた。
ぎゅっと抱きしめる腕に力がこもる。
この人を安心させてあげられた。よかったと思う。
彼の手がうなじから顎へ滑り込んでくる。顔を上げさせられて、髪を撫で付けられ、ああ顔が見たいと思ったけど、そのまますりつけられた額と、最初から深く重なった唇に、叶わない。
きっと初めてのキスなんだろうけど、俺たちはよく知ってる。
入り込んでくる柔らかい舌。
唇と舌、触りあって、馴染む熱い感触に体の隙間がじわりと汗ばむ。
顔にかかる短い息使い、指も胸も熱い。
守るように抱きしめてくれる体が可愛くて、もっといっぱい触りたい。
腰に腕を回したタイミングで、自分のパンツに入れていた携帯がいきなり振動した。
智がびくっと体を起こし、俺たちは慌てて離れた。
「やっべ、時間」
夢中になって遅刻なんて目も当てられないと思って、アラームかけといたのにほんと助けられたというか邪魔されたというか…。
でもマジやばかった。
智に全部持っていかれて気持ちよく飛んじゃった。こえーこえー。
まだ胸がドキドキと早い俺とは反対に、智はあっさりした顔ですとんと俺の膝から降りて、背伸びをする。
「おーしごーとデース」
「って、智も出ないと」
「俺の方が近いし、ちょっとまだ余裕あるから。お前先行きな」
チェックアウト俺がしとくよ、と智が言う。
「大して変わらねぇだろ。一緒に…って、バラの方がいいか…」
ラブホじゃないけど、さっき入ってった二人がものの30分で即出てくって、なぁ。智も苦笑めいた表情だ。
「うん。だからほら」
俺をドアの方に押していって、智はそういえばさっきから俺の顔を見ないな、と思う。
「あんたも遅れんなよ? あ、金、これでね」
「お釣りは貰っちゃお~」
「なんでだよ。…いいけど。じゃ稽古がんばれよ、またあとでメールするから」
「分かったよー。早く行けよ」
笑いながら、でもなんでさっきから俺の靴ばかり見てるの。
「智」
顎を取って軽く口付ける。
「好きだよ。…じゃ行ってきます」
ドアを閉めながら、赤い顔をして丸い目で俺を睨む智に笑いかけ、俺はホテルの固い絨毯の上を走った。
本当は、あと1分でいいから一緒にいれたらいいのにな。
それでも10分遅刻して、道路が混んでたとベタな言い訳で頭を下げて、取材、また取材。
だから俺は全然しらなかった。
下手したらそろそろ日付が変わるってころにやっと自由の身になって、俺はとにかく携帯を開いた。
受信メールをあけると珍しく智から。
『仕事終了。待ってま~す(ハート)』
添付ファイルあり
スクロールすると。
なんだか見覚えがあるようなソファに、これでもかみたいにけだるく体を投げ出した智。白いバスローブ、肩半分出てますけど。
それだけやった上に、というかやりすぎて、サミー全開みたいな眉を寄せたうっふん顔。
残念なことにエロさは空振り、ぶさカワイイ。
俺は荷物持ったまま一人の控え室で携帯片手に爆笑した。
速攻掛けたら、聞いてるくせに(いや寝てたかも?)6コールくらいでやっと本人が。
『おっす、こん・ばん・みー!』
「…おまえ飲んでんだろ?」
『シ・ラ・フ・でーす!』
うひひと向こう側で笑う声。
「びっくりしたわ、ちょっと、おい」
智は今度は声を潜めて、まるで携帯に内緒話でも吹き込むように小さく笑う。
『チャックアウトしちゃうのもったいなかったんだもん…。もう、家帰っちゃった?』
「…まだ」
そか、と静かな声。
『こっち来る?』
ぞくぞくっときた。
ずるい。あんたはほんとに、ずるい。一緒に行くんだと言ったり、先に行けと言ったり、なのに最後は、「来てくれ」ではなくて。
ただ来るのかどうか、の質問。
「…寝るなよ? 20分ぐらいで着くから」
その答えは、智の気に入ったらしかった。携帯の向こうでニヤニヤした声を出す。
『えー…そんなかかんのぉ。待てねぇなー、ひとりでしてよっかなぁ』
困った人だ本当に。
どうしたら俺がますますあんたに落ちるのか、全部知ってるんだろうって、問い詰めたくなる。
俺はまたしてもスタジオの廊下を走って表に飛び出しながら、智を脅した。
「いいけど…やるならそれ、ムービーで撮って送れよ? じゃないとすげぇ目に合わす」
『うっわ、出た。ヘンタイ。ドS』
言うだけ言って、智はぷっつり黙った。どした?とこっちがタクシーを止めながら息を切らして問うと、今度は少し、泣きそうな声が聞こえた。しかもドンッと壁を蹴るような音まで聞こえる。
『…もー! ほんと俺、我慢しすぎて、も…バカッおまえのせいだんな!』
ベッドに転がって駄々っ子モード発動で壁に足技をかましてるのが目に浮かぶって。
「あと10分。智」
『チューとかしたからだかんな、マジむかつくっ』
「大好き、でしょ」
『…』
「聞いてる? あと7分ぐらい」
『潤』
はやくこい、それだけ言って、通話は切れた。
…ずるい。
あんたは本当に、俺の骨を一本残らず溶かしてなくしてしまう方法知ってるくせに。
そして最後の最後には惜しげもなくそれを使いまくってさ。
ずるいだろ。
だから、今日悪いのは俺かもしれないけど、ワルなのはあんただから。
俺なんかバカのひとつ覚えですから。
好きだ、ぐらいしかないから。
ありったけ、かわりばえもせずそれだけ持って、大事なネコさんのところに、いま帰るよ。
最後に残されるのはいつも俺だという気がする。
嫌味とか自分を卑下してとかじゃなく、それは事実として。
あの人はさっきまで柔らかい体をゆったりその辺に預けていたはずなのに、ふと見ると、いつの間にかどこまでも行っていて、あやうく姿を見失いそうになることが、時々。
無事に捕まえるたび、胸を撫で下ろす。
静かなやわらかいネコの匂い。
手触りのいい雲みたい。
白い。
言ったら、「なにそれ」、と少しタチの悪そうな笑いを見せて、それで、すぐに忘れてしまうんだろう。
リーダーが舞台の製作発表をやったというのを聞いて、俺はさっそく携帯Webの会見レポートを読むことにした。
目新しいことは特になかった。
大体本人から聞いていたことばかりだったし。
でも字面で読むと、確定事項として目に見えてなんか安心できる。
カンフー超得意じゃん。よかったな、楽勝だろ。
同じスタッフと三回目だしね。
慣れたカンパニーでのびのびやれるなら、余計なことに神経使わず芝居に集中できるだろう。
慣れない環境でピリピリすんのも成長できていいと思うけど…。
彼氏としては避けたいわけだ。
なぜかと言うと、難しい所にぶちあたってる時やしんどい時は、あの人連絡取れなくなる。音信不通。
メールも電話も完無視される。ってことが分かってからは、もう送らないけど。
俺はその間ひとりで仏像みたいに携帯持って憮然としてます。
ようやく帰ってきたときは、あいつは変わらずへらへらしてます。
『大事な電話だったらどうするんだよ』
『あー…そしたらマネージャーに伝言するっしょ』
伝言なんかするか馬鹿。
元気かよ? ってききてぇだけなんだよこっちは。
つうか生きて仕事行ってる事ぐらい、本人に電話しなくてもそれこそマネ経由で即分かるんだよ。
なんか軽くイライラしながら画面をスクロールしていくうちに、目新しい情報が脳に飛び込んできた。
その部分は、まったく、初耳だった。
…ふーん。
ラブシーン。
似合あわねぇー。
てか、稽古をビデオ撮りして復習する…って、そこそんな重要なのかよ。
死ぬほど練習しなきゃいけないのは殺陣だろ、他の役者との呼吸とかタイミングとかさ。
俺はWebの接続を切ってマネージャーに電話した。
こないだの会見の映像をくれと言ったら、パソコンに転送してくれることになった。
で、それを見てから出かけた。
ちょっと間が悪いとは自分でも思った。
久しぶりに智と二人で会ってから、そのままお互い仕事に行く予定だった。
俺はデート前になに無駄にナイーブになってんだ。
相手役の女優は綺麗な子だった。
「なに買ったの?」
「板と塗料とー、マスキングテープ」
「なにに使うの」
「えー、いろいろ。曲線をぴったり塗るのに便利なんだよ」
色を塗るのにテープがなんでいるのかよく分からなかった。いつもだったら分かるまで訊くんだけど、俺はてんで上の空でそれはもうどうでもよかった。
一度会計を済ませたのにまだ棚の間をうろうろする智のうなじを後ろから見ていた。
キャップかぶって、短い襟足の髪が押さえつけられてぎゅっとその下から覗いていて、パーカーのフードが後ろにぐっと下がってるから、白いうなじが結構な面積むき出しだ。
シルバーのチェーンが一筋、首に掛かっているのが見える。
前に俺があげたやつ。
なんで鎖だけで分かるかって、智はこれ以外ほとんどネックレス持ってないし。
俺がプレゼントしたのはチェーンがちょっと変わっていてすぐ分かる。
二人で会うときは、なるべく、付けてきてくれる。
この人が忘れなきゃだけど。
「まだなんか欲しいの?」
「キリないんだよなぁ。みてるとどれも欲しくなっちゃうしさー」
「分かる」
「だろっ?」
智は振り返って笑った。
今日、この店入ってから初めて俺の顔見た。
茶色のくりっとした目。
俺あんたのパーツどれも好きだけど、やっぱ目が超かわいいよ。
うなじとセットで。
「松本さんなんか買わねぇの?」
「見てるのは楽しいけど買っても使う場面がない」
つうか、画材屋でMAXイキイキしてるあんたを見てるのが楽しい。
「マジかよ、和紙とかすげぇ食いついてたじゃん」
「ああ…あーいう模様の行灯とかあったら綺麗だろうなって」
「あんどん?! あー、なんか作れそう~!」
作っちゃえるんだろうな、さくっと。
「すっげシュールな行灯できそう」
「普通に売ってるみたいなの作ったっておもしろくねぇだろ」
うふふと笑う。
なんかを作ること考え出すとそれでもう頭一杯になっちゃう智の肩をポンと抱くと、びくっと俺を見上げた。
「まだなんか見たい?」
「あ、うん。もういいよアリガト。また明日来るかもしんないし」
は?
「明日来るのになんで今日俺と来たの?」
「…明日つってもちょっとまだわかんないし、今日、来たかったんだもん…」
段々語尾が小さくなる。
えーと、この店飛ばせばプラス30分はゆっくりメシ食えたんですけど。
あんたは舞台稽古、俺はもうすぐドラマ撮りに入る。次に俺らの予定が合う日が来るのは、明日のあんたの予定より不確定で、ぶっちゃけ、俺はすごく二人でいる時間が貴重だ。まぁ今も二人といえばそうだけど、ここにいた間、あんたの意識は95%画材にロックオンで、俺はいてもいなくても関係ないよな。
さすがに空気を読んだか、智は少しひっそりした様子で俺を見上げる。
そして、なぁ、と呟いた。
「ごはん、何食う?」
「…和食でいい?」
「うん、和食がいい」
早く食おう、すぐ食おう、みたいに輝く目。
だから俺はこいつに飯を食わせるのが好きだ。
それにね…うまいものを食べながら怒り続けるっていうのは難しいな、と思った。
目の前に好きな人がいて。
しかもそいつはさっきのことなんかさっぱり知らないみたいに、目を細めてうまいうまいと炊き込みご飯をほおばっている。
何を食ってもうまいと言うのは番組上のキャラだけじゃなくて割と普段もだけど、本当に味オンチかというと少し違くて、リアルにウマいものを口にしたときは「うまい」の響きが実に溌剌として、ピカピカしてる。それは冷や飯と炊き立てのご飯ぐらい違う。
食ってるときと寝てるときのこの人は最高に幸せそうな子供だ。(作っているときもそうかもしれないが、俺はほとんど見たことがない)。俺の3コ上ってどんな魔法だよ。
飯に夢中かとおもえば、智はふと俺の手元を覗き込んだ。
「まつもっさん、くわねぇの?」
「…食ってるよ。あ、この牡蠣うまい。食う?」
「食う! ちょっとでいいよ~」
昼と夕方の間、変な時間に、他に一組しか客の居ない和食屋の隅っこ。
二人で遅い朝昼ご飯を平らげる。
ぱらっとメニューを見て、智は「ここ日本酒揃ってるなー」と飲みたそうな顔をした。
「今度夜来よう。奥に小上がりあるから予約しとけばそっちで食えるよ」
俺の言葉に、うん、と頷いて、智は微笑んだ。
「なに?」
「えー、よかったなぁと思って」
「なにが?」
「松本さんが上がってきた」
「…そう?」
「うん。今日会ったときからなんか機嫌悪かったから」
責めるでもなくそう言う智に、ぐっと飯が喉につかえた気がした。
煎茶を一口飲みこんで、俺は箸を置いた。
「舞台、がんばれよ」
「え? うん。…がんばるけど」
自分でも出し抜けすぎたと思うセリフに、当然智も面食らったみたいで、困ったように笑った。
あ、このふにゃふにゃした笑顔を間近で独占して見られるのもしばらくないな、と思ったら、とてつもなく、愛おしくなった。
あの柔らかいピンクの唇。
…なに悠長にメシとか食ってんだ俺。
こんなことなら朝からどっか連れ込めばよかった。
「さと…」
「あのさぁ」
言いかけた言葉は、俯き加減の智の小さな声にさえぎられた。
「…それってどうやんの?」
「は?」
なんかしらんが、智はテーブルの向こうで挙動不審だ。
シラフなのになんでちょっとほっぺ赤くしてんの。平熱でも微熱呼ばわりされる潤みぎみの目が、おもいきり俺から反れて泳いでる。
「なに、どした」
「だから…なんでいつもそーやって、いきなりエロい目とかできんのって」
「エロ…いつ?! いま?」
声が裏返りそうになった。やべぇ。
智は唇を尖らせて愚痴るように言う。
「いますぐ食わせろみてぇなさぁ…ずりーよ~」
ずるいのか? それが。
そんな顔に出てたかと思うと、うっかりこっちも赤面しそうになって、とりあえず無造作に椅子に置かれている智のバッグとかを凝視してみた。
…あ、大丈夫そう。
肘を突いて智の方に身を乗り出した。
「…しょうがなくね? そういう気分て、突然来るじゃん」
智がこっちを見る。
にこっと笑って見せた。
智は何かムッとしたように眉を寄せ、なのにますます目が潤んで見える。
…なんだよ。そっちこそ分かってねぇし。
あんたこそ普段子供みたいな顔しといてさ…。
「…自信ねぇ~」
急に両手で顔の脇を押さえて、智が弱い声を出した。
なんとなく分かったが、「なんの?」と知らん振りして訊く。
智はぼそぼそと白状し出した。
「舞台…相手役の子と、あるわけさ…絡みが…」
「ふーん。前もちょろっとあったじゃん」
わざとわからないフリをする。智はイラッとしたらしかった。
「違う。今度はもっとはっきりしたの…だって」
なかなか『ラブシーン』とはいえない智が、俺はおかしくてしょうがなかった。一応あるのかね、なんか、俺に対する気兼ねみたいなの。
つか、仕事だろ。って、さっきまでの自分をタナに上げて、俺は智を勇気付けたくなった。
「楽しみじゃん。俺、最前で見ようかな」
智は潤んだ目でじろっと俺を見る。顔を押さえていた両手がいつのまにかグーになってる。
「…んなことしたら絶交だ」
思わず吹いた。絶交って。小学生かよ。
「俺、智のチュー顔好きなんだもん」
「チューするなんていってねぇだろ!」
「ないの? キスシーン」
なかったらラブシーンでもなんでもねぇだろ。
智は詰まって、そして認めた。
「…わかんねぇ。ある…らしい」
「あるんじゃん。なにそんなイヤがってんの」
「イヤがってない」
あ、そう。いやそこはイヤがれよ。俺の前だけでも。
「じゃ、なんで困ってんの」
智はいろいろ抵抗するのを諦めたようで、湯飲みをのろのろ掴んで、お茶を一口啜った。
「やったことないから…わかんねぇんだよ」
「いつも俺としてるでしょ」
「芝居でだよ! おめーバカだろっ」
あー、キレた。
基本温厚なんだけど、智はたまにガラが悪くなるというか江戸っ子みたいになる。別に下町育ちでもないのに。
超かわいい。
「智」
「…」
「さーとーし」
「なんだよ」
どうしようどうしよう言ってうろうろしてる迷子の子猫ちゃん。
…は嫌がるか。じゃ、おっきい猫さん。
猫さとしさん。
あんたが困ったときに助けたがる人はいっぱいいるけど、とりあえず、その誰にも付いていくなよ? 俺が行くまで。
「なぁ」
「なんだよ」
「練習したらいいんじゃない? 俺と」
ハートをつけて言ったら、智は目を丸くして俺を見て、それからへっと笑った。
「…なんだその豪華な練習」
とか言って、微妙に赤いほっぺ。
急に嬉しくなった。
湯飲みを握ったままの智の手と、湯のみと、それぞれ掴んでそっと離させた。
腕の時計を見て考える。
「ギリ何時入りなら間に合う? 今日」
「…えっと…」
智の予定と自分の予定、移動時間まで考えると、あと正味一時間もない。が。
「だいじょぶ。全然イケるわ」
「え、なにが?」
立ち上がった俺をぼうっと見上げる智を、俺は目力こめて見返した。
「もう、ごちそうさまだよな?」
「…うん、ごちそーさま」
智はこくんと頷き、俺について素直に席を立った。
多少びっくりしたみたいだけど、智は嫌がりはしなかった。
逆に、連れてこられたホテルの窓に額をつけて外を見ながら、「松本さんはかっけぇなぁ…」とか言ってる。
そうか? これかなりカッコ悪いと思うけど。
「こっち来て。時間ない」
「ないって、どんくらい?」
智は時計をしてない。
「にじゅう…ご、分ぐらいかな。ここにいれるの。俺のが先に出ることになる」
「マジもったいねぇ~! それで一泊分の金払うのかよっ」
智は本気で呆れた風に俺を見る。
「俺が払うんだよ」
「おまえ金銭感覚ぶっこわれてる」
「いーから来いって」
ラブホならもっと安いのにとかなんとかぶつぶつ言いながら、智は少し翳ってきた窓から離れて、ソファに座る俺のところまで来た。
こんな明るいうちから男連れでラブホなんか行けるか。カラオケ屋もバツ。店員が来るあの微妙な間とか気にしてる時間の余裕がないし。
金なんかどうだっていい。なんのために稼いでんだ。
好きなときに好きなこと好きなようにやるための金なんだから。
「とかいってるうちに五分ぐらい使っちゃったじゃん」
「すっげ、時は金なりだ」
智は目を見開いて俺の隣に座り、それからふと肩を丸めて、ふふっと笑った。
「…おもしれぇ」
俺の太ももにぽん、と手を置く。
軽く首をかしげて、俺を斜めから覗き込む、茶色い目。
「ちゅー、しねぇの?」
意識してるんだかしてないのか、ものすごく、甘い。
「俺からしたら意味なくね?」
「…そか」
智はいまさら納得したように、真面目な顔をして俺を見る。
「セリフは?」
「まだそこまで覚えてない」
「じゃなんか適当にアドリブで」
「えー…ムズいな~」
智は少し考えていたが、また、戸惑うような笑みを浮かべて俺を見た。
「ちょ…待って、やっぱいきなりは入りづれぇよ」
「おまえプロだろ、やれ」
あー、弱い。我ながら超今更感だ。
元をただせばただのスケベ根性なわけで。突っ込まれるまで言わないけどそれは。
智は「ええ~」と口を尖らせて、それから目を伏せた。
「とりあえず普通にしようよ。一回」
つるりとした瞳が睫毛の向こうに覗いていて、目蓋の中の暗がりから、ちらりとこっちを伺う。
ヤバイ、と思う。
さっきからこの人になんかしたくて、そんで薄暗い場所で二人きりになって、でもあれこれフルコースでやる時間は全然なくて、それなのに智はもう、俺の前でその気になってしまった。
誰も見たことないと思うし、死んでも見せないけど、俺とキスやエッチしたくなってるときの智は一発でそれと分かる匂いをさせて、えろい。
できるだけ何気なく無造作に智の頬に手を添えてキスをした。
記憶通りに柔らかい唇を、軽く二、三回ついばんで離す。
離れても智はすぐには目を開けなかった。
「智?」
と、ふにっと唇が笑う。
それから目を開けて俺を見て、智は「よし」と言った。
「よしなんだ?」
「うん、分かった」
「…なにが分かったのか俺は全然分かんないけど」
まぁいいや、と思っていると、智は俺の肩を押さえつけてソファに深く沈むようにさせた。それから俺の膝に横抱きの形で座ってくる。
ちょっとこれは、このまま、普通に、いただきたい…。
「ダメ」
「え」
エスパー?!
「エロい顔すんな。少し恥ずかしそうにしてくんねぇ? 女の子なんだから」
普通にダメ出しして、智はなんだか得意げに俺の肩に腕を回し、俺を見下ろす。
あ、なに、俺女役か。
え、そうか、これ伸長差ってこと?
それじゃ頑張ろ。
俺は抱き寄せられるまま智の胸に頬をうずめた。
「あたしたち、これからどうなるの?」
って、そんな話か知らねぇけど。やばい笑いそう。
智も噴出すだろうなと思ったのに。
笑わなかった。
ぎゅっと頭を抱きしめられた。
一言落ちる声。
「俺にもわからない」
…それは、そんなに芝居がかってる声ではなくて。
舞台で放たれるには張りが弱い、でも智の普段の話し方とは明らかに違う響きだった。
おれにもわからない。
ああ、この人にもわからない、誰も知らないのだという悲しい迷子のような気持ちに、連れて行かれる。
両手で、しがみつくようにして彼を抱きしめた。
「もう、会えないのかな」
それは何故かお別れのキスのような気がしていた。
だから、そう言ったのかもしれない。
最後のキスをしてもらいたくて。
けれど彼は俺を抱いたまま、ふと明るく笑った。
「あはは、なんで? 会えなくなったりしないよ」
髪をなでる手。
「一緒にいくんだろ?」
一緒に?
そうか、行くんだ。二人で。
髪に頬を押し当て、彼が願うように言う。
「…きてくれるだろ?」
黙って頷いた。
ぎゅっと抱きしめる腕に力がこもる。
この人を安心させてあげられた。よかったと思う。
彼の手がうなじから顎へ滑り込んでくる。顔を上げさせられて、髪を撫で付けられ、ああ顔が見たいと思ったけど、そのまますりつけられた額と、最初から深く重なった唇に、叶わない。
きっと初めてのキスなんだろうけど、俺たちはよく知ってる。
入り込んでくる柔らかい舌。
唇と舌、触りあって、馴染む熱い感触に体の隙間がじわりと汗ばむ。
顔にかかる短い息使い、指も胸も熱い。
守るように抱きしめてくれる体が可愛くて、もっといっぱい触りたい。
腰に腕を回したタイミングで、自分のパンツに入れていた携帯がいきなり振動した。
智がびくっと体を起こし、俺たちは慌てて離れた。
「やっべ、時間」
夢中になって遅刻なんて目も当てられないと思って、アラームかけといたのにほんと助けられたというか邪魔されたというか…。
でもマジやばかった。
智に全部持っていかれて気持ちよく飛んじゃった。こえーこえー。
まだ胸がドキドキと早い俺とは反対に、智はあっさりした顔ですとんと俺の膝から降りて、背伸びをする。
「おーしごーとデース」
「って、智も出ないと」
「俺の方が近いし、ちょっとまだ余裕あるから。お前先行きな」
チェックアウト俺がしとくよ、と智が言う。
「大して変わらねぇだろ。一緒に…って、バラの方がいいか…」
ラブホじゃないけど、さっき入ってった二人がものの30分で即出てくって、なぁ。智も苦笑めいた表情だ。
「うん。だからほら」
俺をドアの方に押していって、智はそういえばさっきから俺の顔を見ないな、と思う。
「あんたも遅れんなよ? あ、金、これでね」
「お釣りは貰っちゃお~」
「なんでだよ。…いいけど。じゃ稽古がんばれよ、またあとでメールするから」
「分かったよー。早く行けよ」
笑いながら、でもなんでさっきから俺の靴ばかり見てるの。
「智」
顎を取って軽く口付ける。
「好きだよ。…じゃ行ってきます」
ドアを閉めながら、赤い顔をして丸い目で俺を睨む智に笑いかけ、俺はホテルの固い絨毯の上を走った。
本当は、あと1分でいいから一緒にいれたらいいのにな。
それでも10分遅刻して、道路が混んでたとベタな言い訳で頭を下げて、取材、また取材。
だから俺は全然しらなかった。
下手したらそろそろ日付が変わるってころにやっと自由の身になって、俺はとにかく携帯を開いた。
受信メールをあけると珍しく智から。
『仕事終了。待ってま~す(ハート)』
添付ファイルあり
スクロールすると。
なんだか見覚えがあるようなソファに、これでもかみたいにけだるく体を投げ出した智。白いバスローブ、肩半分出てますけど。
それだけやった上に、というかやりすぎて、サミー全開みたいな眉を寄せたうっふん顔。
残念なことにエロさは空振り、ぶさカワイイ。
俺は荷物持ったまま一人の控え室で携帯片手に爆笑した。
速攻掛けたら、聞いてるくせに(いや寝てたかも?)6コールくらいでやっと本人が。
『おっす、こん・ばん・みー!』
「…おまえ飲んでんだろ?」
『シ・ラ・フ・でーす!』
うひひと向こう側で笑う声。
「びっくりしたわ、ちょっと、おい」
智は今度は声を潜めて、まるで携帯に内緒話でも吹き込むように小さく笑う。
『チャックアウトしちゃうのもったいなかったんだもん…。もう、家帰っちゃった?』
「…まだ」
そか、と静かな声。
『こっち来る?』
ぞくぞくっときた。
ずるい。あんたはほんとに、ずるい。一緒に行くんだと言ったり、先に行けと言ったり、なのに最後は、「来てくれ」ではなくて。
ただ来るのかどうか、の質問。
「…寝るなよ? 20分ぐらいで着くから」
その答えは、智の気に入ったらしかった。携帯の向こうでニヤニヤした声を出す。
『えー…そんなかかんのぉ。待てねぇなー、ひとりでしてよっかなぁ』
困った人だ本当に。
どうしたら俺がますますあんたに落ちるのか、全部知ってるんだろうって、問い詰めたくなる。
俺はまたしてもスタジオの廊下を走って表に飛び出しながら、智を脅した。
「いいけど…やるならそれ、ムービーで撮って送れよ? じゃないとすげぇ目に合わす」
『うっわ、出た。ヘンタイ。ドS』
言うだけ言って、智はぷっつり黙った。どした?とこっちがタクシーを止めながら息を切らして問うと、今度は少し、泣きそうな声が聞こえた。しかもドンッと壁を蹴るような音まで聞こえる。
『…もー! ほんと俺、我慢しすぎて、も…バカッおまえのせいだんな!』
ベッドに転がって駄々っ子モード発動で壁に足技をかましてるのが目に浮かぶって。
「あと10分。智」
『チューとかしたからだかんな、マジむかつくっ』
「大好き、でしょ」
『…』
「聞いてる? あと7分ぐらい」
『潤』
はやくこい、それだけ言って、通話は切れた。
…ずるい。
あんたは本当に、俺の骨を一本残らず溶かしてなくしてしまう方法知ってるくせに。
そして最後の最後には惜しげもなくそれを使いまくってさ。
ずるいだろ。
だから、今日悪いのは俺かもしれないけど、ワルなのはあんただから。
俺なんかバカのひとつ覚えですから。
好きだ、ぐらいしかないから。
ありったけ、かわりばえもせずそれだけ持って、大事なネコさんのところに、いま帰るよ。
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