小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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今更だ、と思った。
誰に言われなくとも自分が一番分かっている。今更過ぎた。どうして、こんなところまで生きて来て気付いてしまったのだろう。気付かれてしまったのだろう。
唯怖かった。自分が自分でなくなるような、足許が崩れ落ちて行くような、そんな不安。
けれど、何処かで納得する自分もいて。
運命なのだ、と。その手の中に堕ちる事をずっと望んでいた。他の何も見えない位滅茶苦茶にして欲しい。そんな凶暴な衝動が眠っていた。
怖くて不安で、でも堪らなく幸福な自分。
まさか、こんな場所に落ち着くなんて誰が想像しただろうか。今もまだ逃げ出したい気持ちが残る。また距離を離して今までと同じような関係に戻りたかった。
臆病な願いは永遠に果たされない。その指先が決して許しはしなかった。昏い幸福に酔いしれて、そっと目を閉じる。
当たり前にあった愛情が恋に変わった瞬間。
光一は、世界が色を変えるのを確かに感じたのだ。
+++++
今年で自分達はデビュー十周年を迎えるらしい。相変わらず時間の概念がない光一は、スタッフに説明を受けながら「もうそんなになるんや」と他人事のように考えていた。
ソロ活動が定着して大分長い時間が経つ。剛と一緒にいられるのは新曲のプリモーション時期を覗けば、冬だけだった。彼といる時間が増えると、また一年が巡ったのかと奇妙な感覚で思う。
隣に立つ男は、その風貌を徐々に変えて来てはいるけれど、基本的には何も変わらなかった。だから安心する。
会議中に資料から顔を上げて、そろりと相方の横顔を見詰めた。見慣れている筈なのに見飽きないその表情。剛がいなければ呼吸も出来なかった幼い頃を思い出す。
弱くてどうしようもなかった自分はもういないけれど、あの頃と変わらず二人一緒に生きていた。どんなに自分達を取り巻く世界が変わっても、剛に代わる人は存在しない。
一緒にいられる時間が僅かでも、仕事をする仲間が増えて行っても、それだけは変えられない事実だった。剛が良い、とこの心臓は知っている。偽りの多い世界で、数少ない真実の一つだった。
感覚に敏感な剛が、視線に気付いて顔を上げる。逸らす事も出来ずに目を合わせれば、嬉しいみたいな表情で笑われた。
「光一」
「……ん?」
「どないしてん?考えごとか?」
「え……あー」
「その顔はぼーっとしてただけやな。あかんで、ちゃんと話聞かんと」
にやりと笑われて、あ、と思った。小さな会議だ。剛の声でスタッフ全員が自分の方を向いた。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた訳ちゃうくて、その……」
「光一君、お疲れモード?」
「いや、そんな事は」
「ホントだ、疲れた顔してるね。一回休憩挟む?」
「いえ、良いです!大丈夫です」
「休憩させてもらおか。今日、結構話詰めなあかんのやろ?」
「そうですねー。大体の構成位までは考えないと厳しいですね」
「じゃあ、休憩しようや。な、光一」
「けど……」
「あ、ちょうど弁当も届いてるんですよ!ついでに昼休憩にしちゃいましょう」
あっと言う間に話は進んで、スタッフが立ち上がり始める。「光一君もあんまり詰め過ぎないで休憩した方が良いよー」なんて声を掛けられて、居た堪れない気持ちになった。
「剛」
座ったまま動かない剛の名を呼ぶ。振り返った彼に甘やかす仕草で頭を撫でられた。もうすぐ三十を迎える男にして良い事じゃないのに、嫌じゃないから不思議だ。
「ええタイミングやったやん。お前もちゃんと休み」
「俺、疲れてへんよ?」
「うん。大丈夫や、分かってる」
当たり前の顔をして頷かれる。互いの健康状態がどんなものかなんて、言葉にしなくても分かっていた。だから多分、剛はタイミングを伺っていたのだ。休憩に入る為の、上手なきっかけ。
それが我儘ではないのは、剛が自分の事をちゃんと分かっているからだ。確かに、ぼんやりして話を聞いていなかったから。
剛自身と自分の為に、早めの休憩が取れるように周囲を誘導した。狡いな、と思う時もあるけれど、彼がいなければ自分は休憩すら取れずのめり込んでしまうだろうから丁度良い。
「喫煙所行くけど、一緒に行くか?」
「……何で、一緒に行くん」
「ええやん。どうせ行くのに別々で行く事ないやろ。ほら」
椅子の背を引かれて仕方なく起ち上がる。強引なように見えるかも知れないけれど、多分彼なりの優しさだった。いつでも自分の事を見ていてくれる。何をしたいのか何処に行きたいのか、多分自分以上に自分の事を分かっていた。
きっとニコチン切れなんだろうと思って、素直に彼の後を付いて行く。振り返りもしない剛は、非常階段を上ると屋上の扉の手前にある踊り場で立ち止まった。
「此処ええやろ?」
「うん」
「喫煙所も混んでるやろうしな」
「……ありがと」
「何が?」
分からない素振りで剛は笑う。いつまでたっても人に慣れる事が出来なかった。喫煙所と言う狭いスペースで何人もの人間に囲まれるのは苦痛だ。リラックスする為の時間に緊張していてはしょうがなかった。
剛が階段に腰を降ろすのにならって、隣に座る。地面が汚いと言う事よりも、唯傍に寄り添いたかった。携帯灰皿を差し出されて、素直にポケットから煙草を取り出す。
「此処、大丈夫なん?」
「ん?」
「火災報知器とか、」
「ああ、平気やろ。俺一度も鳴った事あらへんもん」
それは平気じゃないだろう、と思ったけれどまあ良いやと煙草を一本銜えて火を点けた。深く吸い込んで煙を肺に溜める。ゆっくりと紫煙を吐き出せば、やっと落ち着いた。
依存しているな、とは思うけれど今更やめ方が分からない。段々喫煙量が増えているのには気付いていた。剛は気まぐれに禁煙をする事があるから、自分程依存している訳ではないのだろう。
「なあ、剛」
「なぁに」
「煙草、やめへんの」
「……それを光一さんが言いますか」
「や、俺はええの。やめる気ないし。でも剛、やめてた事あったやん。もうしないん?禁煙」
「ああ、今んとこはなあ。必要ないし。光一やって、やめろとは言わへんけど、少し量減らした方がええで。お前の吸い方は身体悪くしそうで怖いわ」
「……悪くなんか、ならんもん」
小さく呟けば、子供やなと言われ煙草を持ったままの手で頭をぐしゃぐしゃに掻き回される。誰に触れられるのもストレスだけど、剛にこうやって気まぐれに触られるのだけは心地良かった。
馴染んだ体温のせいかも知れない。幼い頃から傍にある唯一のもの。
掌の感触が不思議な安心をもたらす。剛を見上げて、その黒い瞳を覗き込んだ。大人になっても変わらない、不安定で脆くてでも強い光の残る瞳の奥を覗き込んだ。
「剛」
「ん?」
「十年、なんやなあ」
「ああ、あっと言う間……ではなかったな」
「うん。でも、良かった」
「何が?」
「剛が一緒で」
笑って見せれば、少し驚いたように目を見開く。一瞬固まった後、誤魔化すように剛は煙草を銜えて視線を外した。
「……お前、滅多にそんなん言わん癖に。珍しい事もあるもんやな」
「きしょい……?」
「キショイなんて言うてへんやろ。吃驚しただけや。……俺も、思っとるよ」
「うん」
剛の横顔を追い掛けて見詰める。煙草を吸っているのなんて見慣れた姿なのに、何度でも格好良いと思ってしまう。剛に男性のファンが多いと言うのも頷ける気がした。
同性の自分から見ても、格好良い人だ。わざと弱く見せたり本当に脆いところだってあるけれど。
自分にはないものに憧れた。
「今日の光一はぼんやりさんやなあ。疲れたか?」
「……ううん」
「なら、今日は何でそんなに俺ん事見るん?」
「……見てる?俺」
「おん、めっちゃ気になるわ」
「ごめん」
「ええけど、別に」
ふわ、と甘く笑われて心臓が痛くなった。言葉を紡がない自分に呆れるでもなく、剛にしか出来ない甘やかす遣りようで肩を抱き寄せられる。
促されるまま肩に頭を乗せれば、少し眠りと言われた。別に眠くない、とは言わない。剛の匂いと煙草の匂いが混ざり合って鼻腔を擽った。
安心出来る場所。
刷り込みのように体へ馴染んだ感覚は、いつか剛がいなくなっても変わらないんだろうと思った。唯一絶対の空間。
目を閉じたまま、光一はふと気付いてしまった。
本当は気付かずにいなければならないものだったのかも知れない。そうすれば、今までと変わりのない穏やかな未来が用意されていた筈だ。
けれど、光一は自分の中に根付いたそれを見つけてしまった。
抱き寄せた剛の手が一定のリズムで肩を叩く。とん、とん、と繰り返される仕草に幸福感がこみ上げた。離れたくない、と思ってしまう。
剛は、自分の中で最後に残された「絶対」だった。
捨てる事の多い自分の生き方に後悔はないけれど。いつの間にか、曖昧で不安定な自分の心の中に住んでいるのは、もう剛だけだ。他の誰にも踏み込ませない領域に彼はいた。
この先の人生で、剛以上の存在は現れないだろう。人並みに恋をして、それ以上に仕事にのめり込んで来た自分の人生。好きも嫌いも飛び越えたところで当たり前になってしまった存在。
怖い事だ、と思った。剛以外にも大切な人は沢山いる。今の自分の生活の中で剛との時間が占める割合は少なかった。
それでも。
肩に触れる温もりが心地良い。肩を抱く手のリズムに安心した。唯一の安息の地。
剛の弱さも強さも、全部が大切だった。当たり前の感情だと思っていた。彼が大切なのは当たり前で、今まで意識もしなかったのに。
強烈に湧き上がった感情に光一は戸惑った。デビューしてからは十年だけれど、一緒にいた時間は多分十五年位だ。
何を、今更。
ずっと傍にいたのだから、大切で当たり前だった。自分も剛も嫌いな人間と人生を共に出来る程器用なタチではない。
だとしたら、今この胸の中に広がる感情は何なのだろう。目を閉じたまま、そっとシャツの胸元を押さえた。
体内から変わって行くような感触に上手く対処出来ない。剛の体温が傍にあるだけで安心して、それ以上に大切だと言う感情がこみ上げた。
十年。
そして、多分これから先の人生も。
剛と共に。否、剛とだけ共に生きて行く。
それが嬉しい事なのか怖い事なのか、まだ光一には分からなかった。
+++++
今年は、剛といられる時間がいつもより多い。とは言っても、例年が例年なのでずっと一緒と言う訳ではなかったけれど。
嬉しい、と素直に思って光一は小さく笑みを零す。十周年のイベントは無事に終了した。あれだけで良かったとは思えないけれど、今の自分達が出来る精一杯だったと思う。
もっと一緒に沢山の事が出来たら。
そうは思うけれど、ビジネスとして動いている以上我儘は言えなかった。
……我儘、なんかな。
キンキキッズとして、長い時間を活動する事はいけない事なのだろうか。間違っているのだろうか。一人で動いた方が実益が高いのは勿論分かっている。
けれど、二人で一つだと思っていた。一人の時間が増えても、剛の知らない表情が増えても、ずっと。
いつの日か、そんな話をスタッフにしたら眉を顰めて悲しい顔をされた。肯定の言葉も否定の言葉もなく唯、「光一君は剛君が大事なんですね」とだけ告げられて何だか自分も悲しくなったのを覚えている。
大事だった。唯それだけの感情にどうして悲しい顔をされるのかが分からない。
大切じゃなきゃ一緒にいられないよ。遠く離れていても、ずっと一緒だと思ってるよ。言葉にする事が苦手な自分の、それでも間違いのない本音だった。
季節は秋を迎えている。十周年の記念アルバムの為のレコーディングの真っ最中だった。記念と言っても、いつもと何も変わらない。
常に全力で打ち込むべきだから、変えてはならなかった。いつもと同じテンション、いつもと同じ姿勢。一人でレコーディングするのもいつもの事だった。
先に収録されていても剛の声を聴く事は余りない。聞いてしまってイメージがぶれてしまうのは嫌だったし、聴かなくともちゃんと分かっていた。
それから、誰にも言わないけれど。少しだけ悔しい気持ちもある。剛の歌が上手いのなんて誰でも知っている事だった。今更誉める事も誉められる事もない、当たり前の事実。
綺麗な剛の歌声に自分の声が重なるのは、いつまでたっても慣れなかった。いつも、出来上がりを聴く時に躊躇する。
そうしていつも安心するのだ。上手いや下手ではなく、剛と自分の声は綺麗に重なった。最初から一つのものだったみたいにぴたりと寄り添う。
この世界で生きていて良かったと思える瞬間だった。
一人で入るブースの中。静寂しかない空間で、神経を集中させる。大体、剛が日中に録って自分が夜中に録ると言うのが常だから、スタジオ入りした段階で二十二時を回っていた。
眠気はないけれど、のんびりとしたスタッフの空気のせいかも知れない。ふわ、と意識が途切れる瞬間があって慌てて目を瞑った。
「光一君?」
「すいません!」
ブースの外から名前を呼ばれて、慌てて顔を上げた。このところ、レコーディングにだけ集中出来るから平和ボケしているのだろう。一つの仕事だけに集中出来る時間は少なかったから。
「いや、謝らなくても良いんだけど。眠い?頭痛い?」
「……いや、眠くはないです。ちょっと最近ぼーっとしてもうて」
「まあ、光一君がぼんやりしてるのは、むしろいつもの事だけどねー」
「はは、酷いなあ」
慣れたスタッフといる空間は心地良い。プロ失格ですね、と笑って再び集中すべくヘッドフォンの位置を調整した。
今日中に二曲。上手く行けば夜の内に終わる筈だ。ふ、と息を吐いて雑念を追い払った。最近、気を抜くと剛の事ばかり考えている。
十年って、思ってたより大事なんかも知れん。
自分では通過点に過ぎないと思っていたし、祝われるような事でもないと考えていた。十年は、長くはないけれども短くもない時間だ。
その全てを共有して来た人。
剛。
頭で呼び掛けても意味がない事位分かっていた。こんなに気になるのに、避けている自分にも気付いている。
夏の頃からおかしかった。訳もなく軋む心臓が苦しい。剛を見るだけで、剛の事を考えるだけで不規則に跳ねる心拍。
剛と一緒にいて緊張する事なんてなかった。どんなに辛い事があっても剛のいる場所に帰るのだと思えば平気だと思えた幼い自分がいる。
今は一人でいる事にも慣れたけれど、幼い自分が消えた訳じゃなかった。剛に触れるだけで無条件に安心する心。
ずっとずっと、自分の安息の地は此処だけだと思っていたのに。
裏切りですらあると思った。ひとりでに変わってしまった自分の心臓。
どうして、心拍は勝手に上がってしまうのだろう。目を逸らしたくなる程の強烈な感覚に身動き出来なかった。
曲が上手く耳に入って来ない。どうしよう、と思って視線を彷徨わせた。その刹那。
「光一」
聞き慣れたイントネーションにびくりと肩を震わせた。恐る恐るブースの外へ視線を遣れば、見慣れた姿がある。
どくん、と跳ねた心臓の音を確かに光一は聞いた。あり得ない。剛のレコーディングは、夕方に終了したと聞いていた。
「……つよし」
「どうしてん。おばけ見たみたいな顔して。そんなんや仕事にならへんから、こっち来ぃ」
「え、けど……」
「光一君。根詰め過ぎだよ。休憩にしましょう」
最近、剛に促されて休憩する事が多いな、と反省しつつ重い扉を押し開けた。
「お疲れ」
「……ん」
狭いスタジオで距離を置く事は出来なくて、剛の隣に立つ。穏やかな声音に心臓がぎゅっとされたような気がした。
(ホンマに何なんやろ、これ)
もしかしたら病気だったりするんだろうか。こんな心拍は尋常じゃない。左胸に手を当てて、深く息を吸い込んだ。
「光一?平気か?」
「……っうん。へい、き」
「全然平気じゃない顔して、何言うてんの」
剛の甘い声が耳元で聞こえて反射的に顔を上げた。けれど、その動きを許さずにぎゅっと抱き締められる。
確かに、スキンシップ過剰な部分はあるけれど、カメラも観客もない状態でいきなり触れられたのは初めてだった。
「つ、よし……?」
「光一、キンキでいるとしんどそうやなあ」
「そんな事あらへん」
「じゃあ、何でこんなドキドキしとんの」
不意に剛の右手が首筋に伸びて、頚動脈を押さえられる。隠しようもなく明白なそれに、羞恥心がこみ上げた。
耐え切れずに、剛の肩へ額を押し付けた。恥ずかしくて顔なんか上げられない。
自分がおかしくなってしまったのか。剛の態度がおかしいのか。それすら判別出来ない。
触れた指先の感触が怖かった。少しだけ硬い剛の指。それが、自分の無防備な首に触れている。
「剛……」
「なぁに、泣きそうな声出しとんの。やっぱ子供のようにはいかんなあ。ちっちゃい子はこれで結構落ち着くんやけどな」
「……俺はちっちゃい子やない」
「知っとるよ。でもな、ここんとこ会うたんびにお前子供みたいな顔してるんや。心配にもなるで」
「……心配なんて、せんでええよ」
ふう、と息を吐くと身体を離した。少しだけ俯いて、視線は逸らしたまま。剛を見て緊張するなんて言ったら、きっと傷付けてしまう。
今年は、どうしてもキンキの事を考える時間が多かったから。そう結論付けて、ゆっくりと顔を上げた。
真正面に見詰めれば、見慣れた表情は怖いものではない。心拍だけが警鐘を鳴らしていた。
意味が分からない。こんなに大事な人を目の前にして、自分は何に怯えているのか。見返す漆黒の瞳は光一が信じられる数少ないものだった。
どんなに剛が不安定なところまで堕ちても信じられるのは、この瞳が光を失わないせいだ。手を伸ばせばきっと大丈夫だと、躊躇なく思って今日までを生きて来た。
その存在を自分が疑う訳にはいかない。剛は、今までもこれからもずっと、大切な相方だった。
「光一」
「なぁに?」
「……可哀相やなあ」
「つよし?」
ぽつりと零された言葉の意味が分からない。哀れむような色を持つ視線を向けられて、また怖くなった。剛以外に絶対を持たない自分は、彼を信じられなくなったらこの手に何も残らないのに。
「さ、今日は光ちゃんのレコーディングに立ち会おう思って来たんや。そろそろ準備しよか」
「立ち会う?……聞いてへん」
「今言うたからなあ」
「剛!」
「ごめん。ほら、また一緒に曲作るやろ?やっぱりお前の声のイメージ合った方が作りやすいやろ思って」
上手く話を逸らされた事に光一は気付かず、言われた言葉だけに面食らった。わざわざずらして、なるべくこの心臓を平常に戻そうと思っていたのに。
剛に見られて歌うなんて、絶対に今の自分じゃ出来る筈がない。スタッフもマネージャーも教えてくれないなんて意地悪だった。
もう何年も一緒に録る事はしていない。まるで取り決められた約束事のようにスタジオにいるのは一人だった。打ち合わせで詰めているから、何も話す事はないと言うのが自分達のスタンスだ。
何度でも拍動を早くする心臓に呆れて、思わず溜息を零した。目の前に立つ剛が僅かに眉を顰めたのに気付いたけれど、言い訳する気にもならない。
「絶対に、口出しせんといてな」
「阿呆か。俺がお前にそんな失礼な事する訳ないやろ」
「うん。そうやな。ちょっと聴いたらすぐ帰るんやろ?もう、時間遅いし」
「ああ、まあなあ。でも、イメージ沸かんかったら意味ないしな。適当に見させてもらうわ」
「……あんま、見んなや」
「何やの、それ。恥ずかしいんか」
「恥ずかしい」
素直に言えば、心底吃驚した顔で剛は絶句した。何やねん、その顔。失礼な奴やな。普段の自分を棚に上げると、心の中だけで毒づく。
下らない自分達の会話を黙って聞いていたスタッフに「そろそろ始めても良い?」と声を掛けられたからまたブースの中へと戻った。静寂の空間。
でも、外に剛がいると思うだけで心臓は駄目な事になっていた。どうしよう。緊張する。
剛の視線が向けられているのを見ずとも感じた。ヘッドフォンをつけて集中しようと目を閉じる。今まで一度だって感情に左右されて仕事をした事なんかなかった。
大丈夫。大丈夫。
剛の事を考える時間が増えたから、ほんの少し心臓がいつもと違う反応をしているだけだ。きっと。
言い聞かせる自分自身が納得していないのは分かっていたけれど、剛を意識の外に追いやる為に光一は正直な心臓を意図的に欺いた。
+++++
結局、レコーディングは明け方まで掛かってしまった。スタッフにこんなに迷惑を掛けたのは久しぶりだ。たまにはこんな時もないとね、とスタッフは笑ってくれたけれど。
スケジュールでの上がり時間は二十六時だった。窓の外は既に白んでいる。仕事に没頭し過ぎて時間を忘れるのならまだ良かった。今日は完璧に自分のミスだ。
きちんと制御する事が出来なかった。仕事をしている以上、どうしたって腹が立つ事も悲しい事も沢山あったけれど。いつでもきちんとコントロールをして、自分で軌道修正を掛けていた。今日みたいなのは、本当に久しぶりの事で。
最後まで帰らなかった剛に視線を向けるのすら、今は苦痛だった。まさか無視をして帰る事は出来ないのは分かっている。
「お疲れ」
「お疲れさん。大丈夫か?」
「うん、ごめんな」
「何で俺に謝るねん。まあ、時間掛かったけど、大体のイメージは出来たし」
「出来たん?」
「うん。冬っぽいええのが出来そうやで」
柔らかく笑われて、思わずつられて笑みが零れる。夜は強くない剛の目は少しだけ赤かった。付き合わせてしまったのだと知るのは、やはり苦しい。
「やぁっと笑ったなあ」
「つよ」
「お前、俺といると全然笑わなくなったから。今日もちょっと悪いなあ思ってたんよ」
「今日のは、俺が……」
「うん、まあええわ。終わったんやし。さ、帰ろうか」
「……え」
「もうマネージャー帰したし。一緒、帰ろ」
自分もおかしいけれど、大概剛もおかしい。確かに家は近いから、一緒に帰ったところでそこまでの手間にはならないだろう。
でも。
「……ええよ、俺。タクシー呼ぶし」
明け方まで起きていた剛に少しでも早くゆっくりしてもらいたかった。一緒に車に乗ったら気ぃ遣いの相方は、助手席の自分の事を考えてしまうだろう。
「じゃあな、お疲れさん。剛もレコーディング頑張ってな」
引き留められる前にテーブルの上に放ったままの煙草と携帯を掴んで、スタジオを出た。通りすがりのスタッフに挨拶をしながらも決して後ろは振り返らずに。
もっと上手く躱せれば良かったのだろうけど、自分もまた限界だった。剛の優しい声を聞いてしまうと、訳も分からず手を伸ばしそうになる。
「あ、タクシーないんやっけ……」
さすがにタクシー位は呼べるけれど、とりあえず大通りに出れば捕まるだろうと考える。今立ち止まりたくはなかった。
剛に気遣われるのは心地良い。いつもなら安心する事だった。その好意を受け入れても受け入れなくても、冷たい自分の身体に温かい何かが流れ込んでくる感触が確かにある。
今日は、本当にもう駄目だった。どんどん心臓が壊れている気がする。こんなに痛んでいては、一緒にいられなくなってしまうのに。
外に出ると、朝の冷たい空気に晒されて思わず立ち止まった。剛みたいに一人で出歩く事がないから、明け方の人通りのない時間であっても、不安が先に立つ。
この仕事を始めてから一人で動いている時に良い思いはした事がなかった。本当に何年ぶりかで外に出ている。あ、無理かも。
自分が弱い方だとは思っていないし、一人でどうとでもなると考えているけれど。外を歩く、唯それだけの事が光一には酷く困難だった。
「……っいち!」
背後からの声に、仕方ないなと言う気持ちで振り返る。スタジオを出て十メートルもない所で立ち止まっているのだ。心配性の彼が追い掛けて来る事なんて分かり切っていた。
唇を噛み締めると、振り返る事も出来ずに立ち尽くす。弱い自分が嫌いだった。
名前を呼ばれただけで跳ねる心拍も。
大嫌い。
三十歳を目前にして、こんな子供じみた幼い感情があるなんて思いもしなかった。今更、揺れる感情なんてないと信じていたのに。
剛の手が自分の肩を掴んで強引に振り返らされる。肩で息をしているのが少しおかしくて、噛み締めた唇を解いた。俺の為に一生懸命になる必要ないのにな。
几帳面で優しい、俺の相方。
「っ大丈夫、か!」
「え、あ。うん……」
剛は、自分が外を駄目な事を勿論知っている。ごめんなさい、と思うのはこんな時だった。彼の優しさを全部受け止められるだけの容量が自分にはないのだ。
「ほら、強情張らんと一緒に帰ろ。タクシー呼ぶより早いし、俺も送って行った方が安心やわ。な?」
「……ん」
もう逆らう事など出来なかった。腕を引かれて一度建物の中へ戻ると、エレベーターで地下駐車場へと向かう。この時間でもレコーディング中の人間は多いらしかった。
エレベーターには何人か人が乗っていて、不躾ではない視線が向けられるのに気付く。別に此処で芸能人に遭遇するのは珍しい事ではなかった。
何だろう、と考えてあ、と気付く。剛の手が自分の左手首を捕らえていた。違和感がなかったから、そのままにしていたらしい。
外すべきかどうか悩んで、まあ良いやと其処から視線を外した。顔を見るだけで駄目だったのに、こうして体温が繋がっているだけで不思議な程安心している。
この近い距離にほっとした。
エレベーターを降りると、見慣れた剛の車がすぐ近くに止められている。手を引かれたまま、後を着いて行った。何も不安なものがない感覚。
先刻抱き締められた時は、本当に逃げ出したい程だった。でも、今剛の掌に包まれた左手から全身に温かいものが流れ込んで来ている。安心し過ぎて、溶けてしまいそうだった。
「光一」
「なん?」
剛の声が妙に反響して響いた。車のロックを外した後、助手席の側で向かい合わせで立つ。一番端に止められていたから、必然的に壁と剛に挟まれる事になった。
狭い空間。至近距離で見詰められて、息が詰まった。誰もいない空間でも、剛がいれば怖くない。
そう思って、けれど心臓が裏切った。
剛の闇色の瞳が、ゆっくりと迫って来る。避ける事も逸らす事も出来なかった。
感情を乗せない表情は、整っている分怖く見える。左手を掴んでいた筈の手が背中を抱いた。熱い掌。
どうして自分達は、地下駐車場でこんな距離で向かい合っているのだろう。妙に冷静な自分が、遠くから疑問を投げ掛ける。
その問いに答える前に、剛の唇が頬に触れた。柔らかな接触は光一の心拍を変える事がない。いつもならうるさい筈のそれは、いつも通りのリズムを刻んでいた。
「つ……よ、し?」
「ぉん。やっぱ、お前可哀相やからな」
一瞬で離れた剛は、そのまま額を合わせるから焦点を失った視界は上手く像を結べない。目を瞑るのは癪だったから、真っ直ぐ見詰め続けた。
「何で、可哀相なん?」
先刻も同じ事を言われた。可哀相な事なんか少しもない。思うのに、可哀相だったら剛に優しくされるかも知れないと期待する自分は愚かだった。
「光一が、自分の感情も分からんと、それに振り回されとるから」
「自分の?」
「うん。放っといてやった方がええと思ってたんやけど、いい加減俺も我慢の限界やわ。光一、今自分がどんな顔してるか分かる?」
「……顔?」
「まあ、光ちゃんは鈍い子ぉやからね、しょうがないけども。そんな顔、他の男の前ですんなや」
言いながら、剛の顔がまた近付いて来て今度は反対の頬に口付けられる。もう訳が分からなかった。
でも、怖くない。剛の事を考えている時よりずっと、心臓は穏やかだった。
「剛。お前には、俺ん事分かるの?」
「うん」
「俺は、分かんないよ」
「そうやろな。光ちゃんの苦手分野やもん。な、どんな感じなのか教えて?どんな風に苦しいのか」
「……やや」
「何で?」
「剛ん事……」
「俺?」
「傷付けてまう」
「光ちゃんは優しいなあ。ええよ、大丈夫。絶対に傷付かへんから。教えて?」
優しいのは剛や。俺はお前の優しいの受け止められなくて逃げたのに。
苦しい心臓。ぎゅっと掌で押さえて、恐る恐る最近の変化を話した。
「夏の、頃から……ずっと俺、おかしいんや。剛の傍いたり剛の事考えたりするだけで、凄く心臓が痛くなる。走ったみたいに心拍が早くなって、お前ん事見てられない。さっきも、そうや。お前が優しくしてくれたのに、心臓痛くて一緒にいられんかった。……ごめん」
「謝る事ちゃうで。よぉ言えました。な、光一。これは
苦しい?」
言い終わるか終わらないかのタイミングで、笑みを象ったままの唇が自分のそれに触れた。うわ、と思ったけれど背中を強く抱かれて逃げる事が出来ない。
抱き締められただけでも駄目なのに、こんな。
心臓が毀れる!
本気でそう思った。けれど、何度も啄ばまれる浅いだけの接触に、心臓は徐々に落ち着いて行く。
え、あれ?
胸で握り締めていた掌をゆっくりと解く。死んでしまうかも知れないと思っていた口付けで、安定して行く心。
「どうや?痛くないやろ?」
「……うん。何で?」
「俺は、結構お前ん事愛して来たつもりなんやけど、やっぱ二人っきりってのは良くなかったなあ」
「どうして、そんな事言うの?俺は二人で良かった」
「ちゃうよ。お前と二人が嫌な訳ちゃう。唯なあ、もっと沢山の人に愛されて、愛されてる事を感じる子に育てたかったなー思ってん。今も十分、お前は愛されてるけどな」
顔の距離を離して、甘やかな表情で剛は笑う。子供にする遣りようだった。ああ、きっと剛は良いお父さんになるな。
人を穏やかにさせる力を持った人だった。俺やって、愛されてる事位分かるよ。でも、どうしたら良いんか分からん。
「こぉんなに可愛いのにな。何処が冷たいんじゃ、って怒りたくなる。でもな、」
言葉を切った剛がまた近付いて、同じように唇に触れられる。安心した。
「俺だけがお前ん事可愛いって知ってればええんかなって思う時もある。こう言うの、何て言うか分かるか?」
「……なに?」
分からなくて、だけど剛が話してくれているのなら何でも良い、と思った。胸の前で解いた両手を注意深く伸ばす。
剛のシャツの裾をぎゅっと握り締めた。ふ、と息を吐いて彼の言葉を待つ。
「なに?」
「うん。光ちゃんがな、このまんま一生気付かないなら俺も知らない振りしておこうと思ったんよ」
「何で」
「お前が、可哀相やから。今よりずっと苦しむの分かってて、俺はそんな事出来ん」
「剛は、何を知ってるん?」
「お前の、大事な、気持ち」
大切に大切に紡がれた言葉にどきりとする。夏からずっと痛む心臓は、もしかしたらもう今までとは全く違うものになっているのかも知れなかった。
痛くて、痛くて。
剛の事を考える度に毀れかけた心臓が、今剛の手で治してもらえるような気がした。彼の言葉に不安と安心を同時に覚える。
今より痛くても良い、剛が全部知っていてくれるのなら。
「俺、苦しくてもええよ?剛、知っとんのやろ?全部」
「うん、そうやな」
「なら、良い。教えて。俺もう、剛ん事見て苦しいの嫌や。お前ん事、好きやのに」
「うん、俺も好きやよ。どんなに離れてても傍にいられなくても、お前が一番大切や」
「うん」
ゆっくりと、目を閉じた。次に目を開けた時に違う世界が広がっていたとしても、剛が離れずにいてくれるなら何も怖くない。
「光一はな、」
「うん」
「俺ん事好きなんよ」
「うん。ん?……え、何それ」
告げられた言葉は、何を今更と言うものだった。剛を好きなのなんて、当たり前過ぎる。
「あー、光ちゃんには難しいかな。言葉より、簡単に分かるもんがあるよ」
「なに?……っ、つ」
名前は、剛の唇に飲み込まれた。深く深く重ねられた口付け。背中を抱く手の力が強まる。抗う術を持たずに、剛の手管に翻弄された。
此処が駐車場である事とか、何で相方に、とか色々抵抗すべき要素はある筈だ。もし、これが剛以外の人間なら確実に抵抗しただろう。
でも、相手は何をされても許してしまう「絶対」の存在だった。
剛から渡されたものを拒絶する方法なんて知らない。全部欲しかった。全部あげたかった。それが危険な衝動だなんて、誰も教えてくれない。
「つ……っ、もう!むり!」
呼吸困難の一歩手前で、どうにか開放された。相方相手に、何をやっているんだろう。思うけれど、身体から余計な力が抜けて行くのをはっきりと感じて、ああこの事かと光一は気付く。
言葉では伝わらないもの。言葉より分かりやすい行為。
彼の思惑はきちんと分かったけれど、だとしたらこの感情は一体何なのか。まだ不安で、離れた剛をしっかりと見詰めた。
この苦しさに名前が欲しい。
「……分かるか?って、分からんって顔してんな」
「うん……」
濡れた唇が、今していた行為をはっきりと示していて恥ずかしくなった。剛と、キス。ネタでドラマのキスシーンを持ち出す事は良くあるけれど、こんな誰もいない所でキスをしたのは初めてだ。
剛は、気持ち悪くないんかな。
自分の為にしてくれたのは、彼にとって苦痛ではなかっただろうか。光一の卑屈な思考が進む前に剛の声が掬い上げる。
「こぉいち」
「……つよ、俺」
「うん、ええのよ。何も心配せんで。お前は、理屈に適ってないとすぐ不安になるからなあ」
よしよし、と頭を撫でられると、どうしようもなく嬉しい気持ちが生まれた。子供扱いは嫌いなんやけどな。
剛だけが、自分の内側に入り込む事が可能なのだ。彼になら、全てをあげても良い。本気で思って、怖くなった。
この感情を、何と呼べば良いのか。
「お前が夏からおかしな事になってんの知ってた。すぐに消えてまうんやったら良いかなって思ってたんやけど。いつまでたっても苦しそうやから、もう手ぇ出してまおうと思ったんよ。お前が一人で苦しいよりは一緒に苦しい方がええしな。……光ちゃん、俺ん事好き?」
「うん。好きやよ?」
「でも、苦しいやろ」
「……ん」
「それな、光一。お前、俺に惚れとんのや」
「ほれる?」
「そ、俺に恋してるって事。やから苦しいし、俺といられんのよ」
唐突な言葉に、光一は声が出なかった。……恋ってあの恋か?池に泳いでる奴ちゃうよな。ベタな事を考えながら、剛の顔をじっと見詰める。
冗談を言っている顔じゃなかった。恋って、普通女の子にするもんちゃうの?俺が剛ん事そう言う意味で好きっておかしいやろ?
思うのに、すとんと納得する心臓があった。
「す、き……なん、俺」
「うん。違うか?」
「剛は、それでええの」
「ええも何も……相変わらずお前鈍いなあ」
柔らかく笑んだ剛は、大切なものを守る仕草で自分を抱き締めた。其処に愛情を感じずにはいられない。長く一緒にいた自分達は、言葉にしなくても全部が伝わってしまうから」
「俺、剛が好きやったんや……」
「苦しいのなくなったやろ?」
「苦しいよ、今も。やって、」
「光ちゃん。俺も、好きなんやよ。何も怖い事ないやん」
「怖い事ばっかや」
抱き締められる身体に甘えて、力を抜いた。何で今更。剛とは一生を共に生きて行く運命共同体だった。
恋になんてしなくても良かったのに。
けれど、正直な心臓は剛の腕の中で穏やかに拍動を刻む。此処にいたいのだと、身体はもう気付いていた。
相方に恋をする。そのリスクの高さも今は見ない振りをして。久しぶりに穏やかになった心臓の導き出す答えを、今は受け入れてみる事にした。
【了】
誰に言われなくとも自分が一番分かっている。今更過ぎた。どうして、こんなところまで生きて来て気付いてしまったのだろう。気付かれてしまったのだろう。
唯怖かった。自分が自分でなくなるような、足許が崩れ落ちて行くような、そんな不安。
けれど、何処かで納得する自分もいて。
運命なのだ、と。その手の中に堕ちる事をずっと望んでいた。他の何も見えない位滅茶苦茶にして欲しい。そんな凶暴な衝動が眠っていた。
怖くて不安で、でも堪らなく幸福な自分。
まさか、こんな場所に落ち着くなんて誰が想像しただろうか。今もまだ逃げ出したい気持ちが残る。また距離を離して今までと同じような関係に戻りたかった。
臆病な願いは永遠に果たされない。その指先が決して許しはしなかった。昏い幸福に酔いしれて、そっと目を閉じる。
当たり前にあった愛情が恋に変わった瞬間。
光一は、世界が色を変えるのを確かに感じたのだ。
+++++
今年で自分達はデビュー十周年を迎えるらしい。相変わらず時間の概念がない光一は、スタッフに説明を受けながら「もうそんなになるんや」と他人事のように考えていた。
ソロ活動が定着して大分長い時間が経つ。剛と一緒にいられるのは新曲のプリモーション時期を覗けば、冬だけだった。彼といる時間が増えると、また一年が巡ったのかと奇妙な感覚で思う。
隣に立つ男は、その風貌を徐々に変えて来てはいるけれど、基本的には何も変わらなかった。だから安心する。
会議中に資料から顔を上げて、そろりと相方の横顔を見詰めた。見慣れている筈なのに見飽きないその表情。剛がいなければ呼吸も出来なかった幼い頃を思い出す。
弱くてどうしようもなかった自分はもういないけれど、あの頃と変わらず二人一緒に生きていた。どんなに自分達を取り巻く世界が変わっても、剛に代わる人は存在しない。
一緒にいられる時間が僅かでも、仕事をする仲間が増えて行っても、それだけは変えられない事実だった。剛が良い、とこの心臓は知っている。偽りの多い世界で、数少ない真実の一つだった。
感覚に敏感な剛が、視線に気付いて顔を上げる。逸らす事も出来ずに目を合わせれば、嬉しいみたいな表情で笑われた。
「光一」
「……ん?」
「どないしてん?考えごとか?」
「え……あー」
「その顔はぼーっとしてただけやな。あかんで、ちゃんと話聞かんと」
にやりと笑われて、あ、と思った。小さな会議だ。剛の声でスタッフ全員が自分の方を向いた。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた訳ちゃうくて、その……」
「光一君、お疲れモード?」
「いや、そんな事は」
「ホントだ、疲れた顔してるね。一回休憩挟む?」
「いえ、良いです!大丈夫です」
「休憩させてもらおか。今日、結構話詰めなあかんのやろ?」
「そうですねー。大体の構成位までは考えないと厳しいですね」
「じゃあ、休憩しようや。な、光一」
「けど……」
「あ、ちょうど弁当も届いてるんですよ!ついでに昼休憩にしちゃいましょう」
あっと言う間に話は進んで、スタッフが立ち上がり始める。「光一君もあんまり詰め過ぎないで休憩した方が良いよー」なんて声を掛けられて、居た堪れない気持ちになった。
「剛」
座ったまま動かない剛の名を呼ぶ。振り返った彼に甘やかす仕草で頭を撫でられた。もうすぐ三十を迎える男にして良い事じゃないのに、嫌じゃないから不思議だ。
「ええタイミングやったやん。お前もちゃんと休み」
「俺、疲れてへんよ?」
「うん。大丈夫や、分かってる」
当たり前の顔をして頷かれる。互いの健康状態がどんなものかなんて、言葉にしなくても分かっていた。だから多分、剛はタイミングを伺っていたのだ。休憩に入る為の、上手なきっかけ。
それが我儘ではないのは、剛が自分の事をちゃんと分かっているからだ。確かに、ぼんやりして話を聞いていなかったから。
剛自身と自分の為に、早めの休憩が取れるように周囲を誘導した。狡いな、と思う時もあるけれど、彼がいなければ自分は休憩すら取れずのめり込んでしまうだろうから丁度良い。
「喫煙所行くけど、一緒に行くか?」
「……何で、一緒に行くん」
「ええやん。どうせ行くのに別々で行く事ないやろ。ほら」
椅子の背を引かれて仕方なく起ち上がる。強引なように見えるかも知れないけれど、多分彼なりの優しさだった。いつでも自分の事を見ていてくれる。何をしたいのか何処に行きたいのか、多分自分以上に自分の事を分かっていた。
きっとニコチン切れなんだろうと思って、素直に彼の後を付いて行く。振り返りもしない剛は、非常階段を上ると屋上の扉の手前にある踊り場で立ち止まった。
「此処ええやろ?」
「うん」
「喫煙所も混んでるやろうしな」
「……ありがと」
「何が?」
分からない素振りで剛は笑う。いつまでたっても人に慣れる事が出来なかった。喫煙所と言う狭いスペースで何人もの人間に囲まれるのは苦痛だ。リラックスする為の時間に緊張していてはしょうがなかった。
剛が階段に腰を降ろすのにならって、隣に座る。地面が汚いと言う事よりも、唯傍に寄り添いたかった。携帯灰皿を差し出されて、素直にポケットから煙草を取り出す。
「此処、大丈夫なん?」
「ん?」
「火災報知器とか、」
「ああ、平気やろ。俺一度も鳴った事あらへんもん」
それは平気じゃないだろう、と思ったけれどまあ良いやと煙草を一本銜えて火を点けた。深く吸い込んで煙を肺に溜める。ゆっくりと紫煙を吐き出せば、やっと落ち着いた。
依存しているな、とは思うけれど今更やめ方が分からない。段々喫煙量が増えているのには気付いていた。剛は気まぐれに禁煙をする事があるから、自分程依存している訳ではないのだろう。
「なあ、剛」
「なぁに」
「煙草、やめへんの」
「……それを光一さんが言いますか」
「や、俺はええの。やめる気ないし。でも剛、やめてた事あったやん。もうしないん?禁煙」
「ああ、今んとこはなあ。必要ないし。光一やって、やめろとは言わへんけど、少し量減らした方がええで。お前の吸い方は身体悪くしそうで怖いわ」
「……悪くなんか、ならんもん」
小さく呟けば、子供やなと言われ煙草を持ったままの手で頭をぐしゃぐしゃに掻き回される。誰に触れられるのもストレスだけど、剛にこうやって気まぐれに触られるのだけは心地良かった。
馴染んだ体温のせいかも知れない。幼い頃から傍にある唯一のもの。
掌の感触が不思議な安心をもたらす。剛を見上げて、その黒い瞳を覗き込んだ。大人になっても変わらない、不安定で脆くてでも強い光の残る瞳の奥を覗き込んだ。
「剛」
「ん?」
「十年、なんやなあ」
「ああ、あっと言う間……ではなかったな」
「うん。でも、良かった」
「何が?」
「剛が一緒で」
笑って見せれば、少し驚いたように目を見開く。一瞬固まった後、誤魔化すように剛は煙草を銜えて視線を外した。
「……お前、滅多にそんなん言わん癖に。珍しい事もあるもんやな」
「きしょい……?」
「キショイなんて言うてへんやろ。吃驚しただけや。……俺も、思っとるよ」
「うん」
剛の横顔を追い掛けて見詰める。煙草を吸っているのなんて見慣れた姿なのに、何度でも格好良いと思ってしまう。剛に男性のファンが多いと言うのも頷ける気がした。
同性の自分から見ても、格好良い人だ。わざと弱く見せたり本当に脆いところだってあるけれど。
自分にはないものに憧れた。
「今日の光一はぼんやりさんやなあ。疲れたか?」
「……ううん」
「なら、今日は何でそんなに俺ん事見るん?」
「……見てる?俺」
「おん、めっちゃ気になるわ」
「ごめん」
「ええけど、別に」
ふわ、と甘く笑われて心臓が痛くなった。言葉を紡がない自分に呆れるでもなく、剛にしか出来ない甘やかす遣りようで肩を抱き寄せられる。
促されるまま肩に頭を乗せれば、少し眠りと言われた。別に眠くない、とは言わない。剛の匂いと煙草の匂いが混ざり合って鼻腔を擽った。
安心出来る場所。
刷り込みのように体へ馴染んだ感覚は、いつか剛がいなくなっても変わらないんだろうと思った。唯一絶対の空間。
目を閉じたまま、光一はふと気付いてしまった。
本当は気付かずにいなければならないものだったのかも知れない。そうすれば、今までと変わりのない穏やかな未来が用意されていた筈だ。
けれど、光一は自分の中に根付いたそれを見つけてしまった。
抱き寄せた剛の手が一定のリズムで肩を叩く。とん、とん、と繰り返される仕草に幸福感がこみ上げた。離れたくない、と思ってしまう。
剛は、自分の中で最後に残された「絶対」だった。
捨てる事の多い自分の生き方に後悔はないけれど。いつの間にか、曖昧で不安定な自分の心の中に住んでいるのは、もう剛だけだ。他の誰にも踏み込ませない領域に彼はいた。
この先の人生で、剛以上の存在は現れないだろう。人並みに恋をして、それ以上に仕事にのめり込んで来た自分の人生。好きも嫌いも飛び越えたところで当たり前になってしまった存在。
怖い事だ、と思った。剛以外にも大切な人は沢山いる。今の自分の生活の中で剛との時間が占める割合は少なかった。
それでも。
肩に触れる温もりが心地良い。肩を抱く手のリズムに安心した。唯一の安息の地。
剛の弱さも強さも、全部が大切だった。当たり前の感情だと思っていた。彼が大切なのは当たり前で、今まで意識もしなかったのに。
強烈に湧き上がった感情に光一は戸惑った。デビューしてからは十年だけれど、一緒にいた時間は多分十五年位だ。
何を、今更。
ずっと傍にいたのだから、大切で当たり前だった。自分も剛も嫌いな人間と人生を共に出来る程器用なタチではない。
だとしたら、今この胸の中に広がる感情は何なのだろう。目を閉じたまま、そっとシャツの胸元を押さえた。
体内から変わって行くような感触に上手く対処出来ない。剛の体温が傍にあるだけで安心して、それ以上に大切だと言う感情がこみ上げた。
十年。
そして、多分これから先の人生も。
剛と共に。否、剛とだけ共に生きて行く。
それが嬉しい事なのか怖い事なのか、まだ光一には分からなかった。
+++++
今年は、剛といられる時間がいつもより多い。とは言っても、例年が例年なのでずっと一緒と言う訳ではなかったけれど。
嬉しい、と素直に思って光一は小さく笑みを零す。十周年のイベントは無事に終了した。あれだけで良かったとは思えないけれど、今の自分達が出来る精一杯だったと思う。
もっと一緒に沢山の事が出来たら。
そうは思うけれど、ビジネスとして動いている以上我儘は言えなかった。
……我儘、なんかな。
キンキキッズとして、長い時間を活動する事はいけない事なのだろうか。間違っているのだろうか。一人で動いた方が実益が高いのは勿論分かっている。
けれど、二人で一つだと思っていた。一人の時間が増えても、剛の知らない表情が増えても、ずっと。
いつの日か、そんな話をスタッフにしたら眉を顰めて悲しい顔をされた。肯定の言葉も否定の言葉もなく唯、「光一君は剛君が大事なんですね」とだけ告げられて何だか自分も悲しくなったのを覚えている。
大事だった。唯それだけの感情にどうして悲しい顔をされるのかが分からない。
大切じゃなきゃ一緒にいられないよ。遠く離れていても、ずっと一緒だと思ってるよ。言葉にする事が苦手な自分の、それでも間違いのない本音だった。
季節は秋を迎えている。十周年の記念アルバムの為のレコーディングの真っ最中だった。記念と言っても、いつもと何も変わらない。
常に全力で打ち込むべきだから、変えてはならなかった。いつもと同じテンション、いつもと同じ姿勢。一人でレコーディングするのもいつもの事だった。
先に収録されていても剛の声を聴く事は余りない。聞いてしまってイメージがぶれてしまうのは嫌だったし、聴かなくともちゃんと分かっていた。
それから、誰にも言わないけれど。少しだけ悔しい気持ちもある。剛の歌が上手いのなんて誰でも知っている事だった。今更誉める事も誉められる事もない、当たり前の事実。
綺麗な剛の歌声に自分の声が重なるのは、いつまでたっても慣れなかった。いつも、出来上がりを聴く時に躊躇する。
そうしていつも安心するのだ。上手いや下手ではなく、剛と自分の声は綺麗に重なった。最初から一つのものだったみたいにぴたりと寄り添う。
この世界で生きていて良かったと思える瞬間だった。
一人で入るブースの中。静寂しかない空間で、神経を集中させる。大体、剛が日中に録って自分が夜中に録ると言うのが常だから、スタジオ入りした段階で二十二時を回っていた。
眠気はないけれど、のんびりとしたスタッフの空気のせいかも知れない。ふわ、と意識が途切れる瞬間があって慌てて目を瞑った。
「光一君?」
「すいません!」
ブースの外から名前を呼ばれて、慌てて顔を上げた。このところ、レコーディングにだけ集中出来るから平和ボケしているのだろう。一つの仕事だけに集中出来る時間は少なかったから。
「いや、謝らなくても良いんだけど。眠い?頭痛い?」
「……いや、眠くはないです。ちょっと最近ぼーっとしてもうて」
「まあ、光一君がぼんやりしてるのは、むしろいつもの事だけどねー」
「はは、酷いなあ」
慣れたスタッフといる空間は心地良い。プロ失格ですね、と笑って再び集中すべくヘッドフォンの位置を調整した。
今日中に二曲。上手く行けば夜の内に終わる筈だ。ふ、と息を吐いて雑念を追い払った。最近、気を抜くと剛の事ばかり考えている。
十年って、思ってたより大事なんかも知れん。
自分では通過点に過ぎないと思っていたし、祝われるような事でもないと考えていた。十年は、長くはないけれども短くもない時間だ。
その全てを共有して来た人。
剛。
頭で呼び掛けても意味がない事位分かっていた。こんなに気になるのに、避けている自分にも気付いている。
夏の頃からおかしかった。訳もなく軋む心臓が苦しい。剛を見るだけで、剛の事を考えるだけで不規則に跳ねる心拍。
剛と一緒にいて緊張する事なんてなかった。どんなに辛い事があっても剛のいる場所に帰るのだと思えば平気だと思えた幼い自分がいる。
今は一人でいる事にも慣れたけれど、幼い自分が消えた訳じゃなかった。剛に触れるだけで無条件に安心する心。
ずっとずっと、自分の安息の地は此処だけだと思っていたのに。
裏切りですらあると思った。ひとりでに変わってしまった自分の心臓。
どうして、心拍は勝手に上がってしまうのだろう。目を逸らしたくなる程の強烈な感覚に身動き出来なかった。
曲が上手く耳に入って来ない。どうしよう、と思って視線を彷徨わせた。その刹那。
「光一」
聞き慣れたイントネーションにびくりと肩を震わせた。恐る恐るブースの外へ視線を遣れば、見慣れた姿がある。
どくん、と跳ねた心臓の音を確かに光一は聞いた。あり得ない。剛のレコーディングは、夕方に終了したと聞いていた。
「……つよし」
「どうしてん。おばけ見たみたいな顔して。そんなんや仕事にならへんから、こっち来ぃ」
「え、けど……」
「光一君。根詰め過ぎだよ。休憩にしましょう」
最近、剛に促されて休憩する事が多いな、と反省しつつ重い扉を押し開けた。
「お疲れ」
「……ん」
狭いスタジオで距離を置く事は出来なくて、剛の隣に立つ。穏やかな声音に心臓がぎゅっとされたような気がした。
(ホンマに何なんやろ、これ)
もしかしたら病気だったりするんだろうか。こんな心拍は尋常じゃない。左胸に手を当てて、深く息を吸い込んだ。
「光一?平気か?」
「……っうん。へい、き」
「全然平気じゃない顔して、何言うてんの」
剛の甘い声が耳元で聞こえて反射的に顔を上げた。けれど、その動きを許さずにぎゅっと抱き締められる。
確かに、スキンシップ過剰な部分はあるけれど、カメラも観客もない状態でいきなり触れられたのは初めてだった。
「つ、よし……?」
「光一、キンキでいるとしんどそうやなあ」
「そんな事あらへん」
「じゃあ、何でこんなドキドキしとんの」
不意に剛の右手が首筋に伸びて、頚動脈を押さえられる。隠しようもなく明白なそれに、羞恥心がこみ上げた。
耐え切れずに、剛の肩へ額を押し付けた。恥ずかしくて顔なんか上げられない。
自分がおかしくなってしまったのか。剛の態度がおかしいのか。それすら判別出来ない。
触れた指先の感触が怖かった。少しだけ硬い剛の指。それが、自分の無防備な首に触れている。
「剛……」
「なぁに、泣きそうな声出しとんの。やっぱ子供のようにはいかんなあ。ちっちゃい子はこれで結構落ち着くんやけどな」
「……俺はちっちゃい子やない」
「知っとるよ。でもな、ここんとこ会うたんびにお前子供みたいな顔してるんや。心配にもなるで」
「……心配なんて、せんでええよ」
ふう、と息を吐くと身体を離した。少しだけ俯いて、視線は逸らしたまま。剛を見て緊張するなんて言ったら、きっと傷付けてしまう。
今年は、どうしてもキンキの事を考える時間が多かったから。そう結論付けて、ゆっくりと顔を上げた。
真正面に見詰めれば、見慣れた表情は怖いものではない。心拍だけが警鐘を鳴らしていた。
意味が分からない。こんなに大事な人を目の前にして、自分は何に怯えているのか。見返す漆黒の瞳は光一が信じられる数少ないものだった。
どんなに剛が不安定なところまで堕ちても信じられるのは、この瞳が光を失わないせいだ。手を伸ばせばきっと大丈夫だと、躊躇なく思って今日までを生きて来た。
その存在を自分が疑う訳にはいかない。剛は、今までもこれからもずっと、大切な相方だった。
「光一」
「なぁに?」
「……可哀相やなあ」
「つよし?」
ぽつりと零された言葉の意味が分からない。哀れむような色を持つ視線を向けられて、また怖くなった。剛以外に絶対を持たない自分は、彼を信じられなくなったらこの手に何も残らないのに。
「さ、今日は光ちゃんのレコーディングに立ち会おう思って来たんや。そろそろ準備しよか」
「立ち会う?……聞いてへん」
「今言うたからなあ」
「剛!」
「ごめん。ほら、また一緒に曲作るやろ?やっぱりお前の声のイメージ合った方が作りやすいやろ思って」
上手く話を逸らされた事に光一は気付かず、言われた言葉だけに面食らった。わざわざずらして、なるべくこの心臓を平常に戻そうと思っていたのに。
剛に見られて歌うなんて、絶対に今の自分じゃ出来る筈がない。スタッフもマネージャーも教えてくれないなんて意地悪だった。
もう何年も一緒に録る事はしていない。まるで取り決められた約束事のようにスタジオにいるのは一人だった。打ち合わせで詰めているから、何も話す事はないと言うのが自分達のスタンスだ。
何度でも拍動を早くする心臓に呆れて、思わず溜息を零した。目の前に立つ剛が僅かに眉を顰めたのに気付いたけれど、言い訳する気にもならない。
「絶対に、口出しせんといてな」
「阿呆か。俺がお前にそんな失礼な事する訳ないやろ」
「うん。そうやな。ちょっと聴いたらすぐ帰るんやろ?もう、時間遅いし」
「ああ、まあなあ。でも、イメージ沸かんかったら意味ないしな。適当に見させてもらうわ」
「……あんま、見んなや」
「何やの、それ。恥ずかしいんか」
「恥ずかしい」
素直に言えば、心底吃驚した顔で剛は絶句した。何やねん、その顔。失礼な奴やな。普段の自分を棚に上げると、心の中だけで毒づく。
下らない自分達の会話を黙って聞いていたスタッフに「そろそろ始めても良い?」と声を掛けられたからまたブースの中へと戻った。静寂の空間。
でも、外に剛がいると思うだけで心臓は駄目な事になっていた。どうしよう。緊張する。
剛の視線が向けられているのを見ずとも感じた。ヘッドフォンをつけて集中しようと目を閉じる。今まで一度だって感情に左右されて仕事をした事なんかなかった。
大丈夫。大丈夫。
剛の事を考える時間が増えたから、ほんの少し心臓がいつもと違う反応をしているだけだ。きっと。
言い聞かせる自分自身が納得していないのは分かっていたけれど、剛を意識の外に追いやる為に光一は正直な心臓を意図的に欺いた。
+++++
結局、レコーディングは明け方まで掛かってしまった。スタッフにこんなに迷惑を掛けたのは久しぶりだ。たまにはこんな時もないとね、とスタッフは笑ってくれたけれど。
スケジュールでの上がり時間は二十六時だった。窓の外は既に白んでいる。仕事に没頭し過ぎて時間を忘れるのならまだ良かった。今日は完璧に自分のミスだ。
きちんと制御する事が出来なかった。仕事をしている以上、どうしたって腹が立つ事も悲しい事も沢山あったけれど。いつでもきちんとコントロールをして、自分で軌道修正を掛けていた。今日みたいなのは、本当に久しぶりの事で。
最後まで帰らなかった剛に視線を向けるのすら、今は苦痛だった。まさか無視をして帰る事は出来ないのは分かっている。
「お疲れ」
「お疲れさん。大丈夫か?」
「うん、ごめんな」
「何で俺に謝るねん。まあ、時間掛かったけど、大体のイメージは出来たし」
「出来たん?」
「うん。冬っぽいええのが出来そうやで」
柔らかく笑われて、思わずつられて笑みが零れる。夜は強くない剛の目は少しだけ赤かった。付き合わせてしまったのだと知るのは、やはり苦しい。
「やぁっと笑ったなあ」
「つよ」
「お前、俺といると全然笑わなくなったから。今日もちょっと悪いなあ思ってたんよ」
「今日のは、俺が……」
「うん、まあええわ。終わったんやし。さ、帰ろうか」
「……え」
「もうマネージャー帰したし。一緒、帰ろ」
自分もおかしいけれど、大概剛もおかしい。確かに家は近いから、一緒に帰ったところでそこまでの手間にはならないだろう。
でも。
「……ええよ、俺。タクシー呼ぶし」
明け方まで起きていた剛に少しでも早くゆっくりしてもらいたかった。一緒に車に乗ったら気ぃ遣いの相方は、助手席の自分の事を考えてしまうだろう。
「じゃあな、お疲れさん。剛もレコーディング頑張ってな」
引き留められる前にテーブルの上に放ったままの煙草と携帯を掴んで、スタジオを出た。通りすがりのスタッフに挨拶をしながらも決して後ろは振り返らずに。
もっと上手く躱せれば良かったのだろうけど、自分もまた限界だった。剛の優しい声を聞いてしまうと、訳も分からず手を伸ばしそうになる。
「あ、タクシーないんやっけ……」
さすがにタクシー位は呼べるけれど、とりあえず大通りに出れば捕まるだろうと考える。今立ち止まりたくはなかった。
剛に気遣われるのは心地良い。いつもなら安心する事だった。その好意を受け入れても受け入れなくても、冷たい自分の身体に温かい何かが流れ込んでくる感触が確かにある。
今日は、本当にもう駄目だった。どんどん心臓が壊れている気がする。こんなに痛んでいては、一緒にいられなくなってしまうのに。
外に出ると、朝の冷たい空気に晒されて思わず立ち止まった。剛みたいに一人で出歩く事がないから、明け方の人通りのない時間であっても、不安が先に立つ。
この仕事を始めてから一人で動いている時に良い思いはした事がなかった。本当に何年ぶりかで外に出ている。あ、無理かも。
自分が弱い方だとは思っていないし、一人でどうとでもなると考えているけれど。外を歩く、唯それだけの事が光一には酷く困難だった。
「……っいち!」
背後からの声に、仕方ないなと言う気持ちで振り返る。スタジオを出て十メートルもない所で立ち止まっているのだ。心配性の彼が追い掛けて来る事なんて分かり切っていた。
唇を噛み締めると、振り返る事も出来ずに立ち尽くす。弱い自分が嫌いだった。
名前を呼ばれただけで跳ねる心拍も。
大嫌い。
三十歳を目前にして、こんな子供じみた幼い感情があるなんて思いもしなかった。今更、揺れる感情なんてないと信じていたのに。
剛の手が自分の肩を掴んで強引に振り返らされる。肩で息をしているのが少しおかしくて、噛み締めた唇を解いた。俺の為に一生懸命になる必要ないのにな。
几帳面で優しい、俺の相方。
「っ大丈夫、か!」
「え、あ。うん……」
剛は、自分が外を駄目な事を勿論知っている。ごめんなさい、と思うのはこんな時だった。彼の優しさを全部受け止められるだけの容量が自分にはないのだ。
「ほら、強情張らんと一緒に帰ろ。タクシー呼ぶより早いし、俺も送って行った方が安心やわ。な?」
「……ん」
もう逆らう事など出来なかった。腕を引かれて一度建物の中へ戻ると、エレベーターで地下駐車場へと向かう。この時間でもレコーディング中の人間は多いらしかった。
エレベーターには何人か人が乗っていて、不躾ではない視線が向けられるのに気付く。別に此処で芸能人に遭遇するのは珍しい事ではなかった。
何だろう、と考えてあ、と気付く。剛の手が自分の左手首を捕らえていた。違和感がなかったから、そのままにしていたらしい。
外すべきかどうか悩んで、まあ良いやと其処から視線を外した。顔を見るだけで駄目だったのに、こうして体温が繋がっているだけで不思議な程安心している。
この近い距離にほっとした。
エレベーターを降りると、見慣れた剛の車がすぐ近くに止められている。手を引かれたまま、後を着いて行った。何も不安なものがない感覚。
先刻抱き締められた時は、本当に逃げ出したい程だった。でも、今剛の掌に包まれた左手から全身に温かいものが流れ込んで来ている。安心し過ぎて、溶けてしまいそうだった。
「光一」
「なん?」
剛の声が妙に反響して響いた。車のロックを外した後、助手席の側で向かい合わせで立つ。一番端に止められていたから、必然的に壁と剛に挟まれる事になった。
狭い空間。至近距離で見詰められて、息が詰まった。誰もいない空間でも、剛がいれば怖くない。
そう思って、けれど心臓が裏切った。
剛の闇色の瞳が、ゆっくりと迫って来る。避ける事も逸らす事も出来なかった。
感情を乗せない表情は、整っている分怖く見える。左手を掴んでいた筈の手が背中を抱いた。熱い掌。
どうして自分達は、地下駐車場でこんな距離で向かい合っているのだろう。妙に冷静な自分が、遠くから疑問を投げ掛ける。
その問いに答える前に、剛の唇が頬に触れた。柔らかな接触は光一の心拍を変える事がない。いつもならうるさい筈のそれは、いつも通りのリズムを刻んでいた。
「つ……よ、し?」
「ぉん。やっぱ、お前可哀相やからな」
一瞬で離れた剛は、そのまま額を合わせるから焦点を失った視界は上手く像を結べない。目を瞑るのは癪だったから、真っ直ぐ見詰め続けた。
「何で、可哀相なん?」
先刻も同じ事を言われた。可哀相な事なんか少しもない。思うのに、可哀相だったら剛に優しくされるかも知れないと期待する自分は愚かだった。
「光一が、自分の感情も分からんと、それに振り回されとるから」
「自分の?」
「うん。放っといてやった方がええと思ってたんやけど、いい加減俺も我慢の限界やわ。光一、今自分がどんな顔してるか分かる?」
「……顔?」
「まあ、光ちゃんは鈍い子ぉやからね、しょうがないけども。そんな顔、他の男の前ですんなや」
言いながら、剛の顔がまた近付いて来て今度は反対の頬に口付けられる。もう訳が分からなかった。
でも、怖くない。剛の事を考えている時よりずっと、心臓は穏やかだった。
「剛。お前には、俺ん事分かるの?」
「うん」
「俺は、分かんないよ」
「そうやろな。光ちゃんの苦手分野やもん。な、どんな感じなのか教えて?どんな風に苦しいのか」
「……やや」
「何で?」
「剛ん事……」
「俺?」
「傷付けてまう」
「光ちゃんは優しいなあ。ええよ、大丈夫。絶対に傷付かへんから。教えて?」
優しいのは剛や。俺はお前の優しいの受け止められなくて逃げたのに。
苦しい心臓。ぎゅっと掌で押さえて、恐る恐る最近の変化を話した。
「夏の、頃から……ずっと俺、おかしいんや。剛の傍いたり剛の事考えたりするだけで、凄く心臓が痛くなる。走ったみたいに心拍が早くなって、お前ん事見てられない。さっきも、そうや。お前が優しくしてくれたのに、心臓痛くて一緒にいられんかった。……ごめん」
「謝る事ちゃうで。よぉ言えました。な、光一。これは
苦しい?」
言い終わるか終わらないかのタイミングで、笑みを象ったままの唇が自分のそれに触れた。うわ、と思ったけれど背中を強く抱かれて逃げる事が出来ない。
抱き締められただけでも駄目なのに、こんな。
心臓が毀れる!
本気でそう思った。けれど、何度も啄ばまれる浅いだけの接触に、心臓は徐々に落ち着いて行く。
え、あれ?
胸で握り締めていた掌をゆっくりと解く。死んでしまうかも知れないと思っていた口付けで、安定して行く心。
「どうや?痛くないやろ?」
「……うん。何で?」
「俺は、結構お前ん事愛して来たつもりなんやけど、やっぱ二人っきりってのは良くなかったなあ」
「どうして、そんな事言うの?俺は二人で良かった」
「ちゃうよ。お前と二人が嫌な訳ちゃう。唯なあ、もっと沢山の人に愛されて、愛されてる事を感じる子に育てたかったなー思ってん。今も十分、お前は愛されてるけどな」
顔の距離を離して、甘やかな表情で剛は笑う。子供にする遣りようだった。ああ、きっと剛は良いお父さんになるな。
人を穏やかにさせる力を持った人だった。俺やって、愛されてる事位分かるよ。でも、どうしたら良いんか分からん。
「こぉんなに可愛いのにな。何処が冷たいんじゃ、って怒りたくなる。でもな、」
言葉を切った剛がまた近付いて、同じように唇に触れられる。安心した。
「俺だけがお前ん事可愛いって知ってればええんかなって思う時もある。こう言うの、何て言うか分かるか?」
「……なに?」
分からなくて、だけど剛が話してくれているのなら何でも良い、と思った。胸の前で解いた両手を注意深く伸ばす。
剛のシャツの裾をぎゅっと握り締めた。ふ、と息を吐いて彼の言葉を待つ。
「なに?」
「うん。光ちゃんがな、このまんま一生気付かないなら俺も知らない振りしておこうと思ったんよ」
「何で」
「お前が、可哀相やから。今よりずっと苦しむの分かってて、俺はそんな事出来ん」
「剛は、何を知ってるん?」
「お前の、大事な、気持ち」
大切に大切に紡がれた言葉にどきりとする。夏からずっと痛む心臓は、もしかしたらもう今までとは全く違うものになっているのかも知れなかった。
痛くて、痛くて。
剛の事を考える度に毀れかけた心臓が、今剛の手で治してもらえるような気がした。彼の言葉に不安と安心を同時に覚える。
今より痛くても良い、剛が全部知っていてくれるのなら。
「俺、苦しくてもええよ?剛、知っとんのやろ?全部」
「うん、そうやな」
「なら、良い。教えて。俺もう、剛ん事見て苦しいの嫌や。お前ん事、好きやのに」
「うん、俺も好きやよ。どんなに離れてても傍にいられなくても、お前が一番大切や」
「うん」
ゆっくりと、目を閉じた。次に目を開けた時に違う世界が広がっていたとしても、剛が離れずにいてくれるなら何も怖くない。
「光一はな、」
「うん」
「俺ん事好きなんよ」
「うん。ん?……え、何それ」
告げられた言葉は、何を今更と言うものだった。剛を好きなのなんて、当たり前過ぎる。
「あー、光ちゃんには難しいかな。言葉より、簡単に分かるもんがあるよ」
「なに?……っ、つ」
名前は、剛の唇に飲み込まれた。深く深く重ねられた口付け。背中を抱く手の力が強まる。抗う術を持たずに、剛の手管に翻弄された。
此処が駐車場である事とか、何で相方に、とか色々抵抗すべき要素はある筈だ。もし、これが剛以外の人間なら確実に抵抗しただろう。
でも、相手は何をされても許してしまう「絶対」の存在だった。
剛から渡されたものを拒絶する方法なんて知らない。全部欲しかった。全部あげたかった。それが危険な衝動だなんて、誰も教えてくれない。
「つ……っ、もう!むり!」
呼吸困難の一歩手前で、どうにか開放された。相方相手に、何をやっているんだろう。思うけれど、身体から余計な力が抜けて行くのをはっきりと感じて、ああこの事かと光一は気付く。
言葉では伝わらないもの。言葉より分かりやすい行為。
彼の思惑はきちんと分かったけれど、だとしたらこの感情は一体何なのか。まだ不安で、離れた剛をしっかりと見詰めた。
この苦しさに名前が欲しい。
「……分かるか?って、分からんって顔してんな」
「うん……」
濡れた唇が、今していた行為をはっきりと示していて恥ずかしくなった。剛と、キス。ネタでドラマのキスシーンを持ち出す事は良くあるけれど、こんな誰もいない所でキスをしたのは初めてだ。
剛は、気持ち悪くないんかな。
自分の為にしてくれたのは、彼にとって苦痛ではなかっただろうか。光一の卑屈な思考が進む前に剛の声が掬い上げる。
「こぉいち」
「……つよ、俺」
「うん、ええのよ。何も心配せんで。お前は、理屈に適ってないとすぐ不安になるからなあ」
よしよし、と頭を撫でられると、どうしようもなく嬉しい気持ちが生まれた。子供扱いは嫌いなんやけどな。
剛だけが、自分の内側に入り込む事が可能なのだ。彼になら、全てをあげても良い。本気で思って、怖くなった。
この感情を、何と呼べば良いのか。
「お前が夏からおかしな事になってんの知ってた。すぐに消えてまうんやったら良いかなって思ってたんやけど。いつまでたっても苦しそうやから、もう手ぇ出してまおうと思ったんよ。お前が一人で苦しいよりは一緒に苦しい方がええしな。……光ちゃん、俺ん事好き?」
「うん。好きやよ?」
「でも、苦しいやろ」
「……ん」
「それな、光一。お前、俺に惚れとんのや」
「ほれる?」
「そ、俺に恋してるって事。やから苦しいし、俺といられんのよ」
唐突な言葉に、光一は声が出なかった。……恋ってあの恋か?池に泳いでる奴ちゃうよな。ベタな事を考えながら、剛の顔をじっと見詰める。
冗談を言っている顔じゃなかった。恋って、普通女の子にするもんちゃうの?俺が剛ん事そう言う意味で好きっておかしいやろ?
思うのに、すとんと納得する心臓があった。
「す、き……なん、俺」
「うん。違うか?」
「剛は、それでええの」
「ええも何も……相変わらずお前鈍いなあ」
柔らかく笑んだ剛は、大切なものを守る仕草で自分を抱き締めた。其処に愛情を感じずにはいられない。長く一緒にいた自分達は、言葉にしなくても全部が伝わってしまうから」
「俺、剛が好きやったんや……」
「苦しいのなくなったやろ?」
「苦しいよ、今も。やって、」
「光ちゃん。俺も、好きなんやよ。何も怖い事ないやん」
「怖い事ばっかや」
抱き締められる身体に甘えて、力を抜いた。何で今更。剛とは一生を共に生きて行く運命共同体だった。
恋になんてしなくても良かったのに。
けれど、正直な心臓は剛の腕の中で穏やかに拍動を刻む。此処にいたいのだと、身体はもう気付いていた。
相方に恋をする。そのリスクの高さも今は見ない振りをして。久しぶりに穏やかになった心臓の導き出す答えを、今は受け入れてみる事にした。
【了】
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