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小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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 三年と言う月日が、彼らにとって長いのか短いのか、年を重ね過ぎた自分には分からない。あの後の彼らは順調に一人の道を歩いているように見えた。想像もつかなかった未来が、今現実のものとして此処にある。
 光一は、舞台人間としてすっかり定着していた。アイドルの枠は、独立しても取り払われていない。それはきっと、彼自身がアイドルとしての商品価値を捨てなかったからだろう。
 同じ畑にいる剛よりも光一を気に掛けてしまうのは仕方なかった。手の届かない場所で、けれど相変わらず黙々と働いている。
二人でいた時よりも体型は健康的になっていた。細いのは変わらないけれど、人間らしい細さと言うか見ただけで心配してしまう程ではない。
 一人になる事で、常に張り詰めていた糸が緩んだのだろう。光一と共に異動したスタッフは、彼が心地良い場所を作る為に一生懸命だったし、舞台で共演するジャニーズのタレントも彼に愛情を注いでいた。
 愛される環境が整っているのだ。愛する事はもう出来なくても、愛情を享受しさえすれば、幸福な場所が用意されていた。
 あの、二人でいる時の危うげな雰囲気が好きだったのに、と吉田は少し残念に思う。傍らに立つ人への恋情と罪悪感の狭間でいつも揺れ動いていた。今の光一は落ち着き過ぎていてつまらない。
 そもそも三十路を過ぎた男にそんな雰囲気を求めても仕方ないのだが、安定した姿を見る度に嬉しいような悲しいような感情が胸に広がった。
一番大切なものを捨てた時に、自分の感情すら見限ってしまったのではないかと余計な心配をしてしまう。
 お前は、もう平気なのか。問いたくなる。愛する人に背を向けて生きるのは、辛い事ではないのだろうか。





 十八時と指定して、稽古場へ車を迎えにやった。吉田健を迎えに来させる人間は光一位のものだ。ミュージシャン仲間が知ったら、驚くか信じてくれないかのどちらかだった。
 帽子を深く被った変わらないスタイルで待っている彼を助手席に乗せて、車を走らせる。今日の目的地は決まっていた。あれから幾度となく二人で飲みに行っている。店にこだわりのない光一は人任せにする事が多いから、大抵は吉田が決めた場所に連れて行った。
 何処に行っても美味しそうに酒を飲んでまずそうに食べ物を口に運ぶ人間だ。提供される物の善し悪しよりも店内の雰囲気に気を遣った。
 連れて行く店を考えていると、若い愛人を持った気分に陥る。あながち間違ってもいないところが間違っていると思って、頭を抱えるのもしばしばだった。
 けれど、仕事を詰め込まなくても生きて行ける事を知った光一のスケジュールは、一時期を思えばゆったり組まれている。空いた時間を有効に使う術を知らない彼の手を引いてやりたかった。
一人でいさせたくない。独立して管理体制の厳しい事務所から出たのだから自由になるのだろうと思っていたのに、逆に過保護になっていたのは難点だったが。
 近くの駐車場に車を止めて、連れ出したのはライヴハウスだった。都内の一等地にある癖に、時代から取り残されたようなビルの地下にある。彼らしい選択だと、吉田は密かに笑った。
「此処……」
「ちゃんと知ってるんだな。安心した」
「健さん」
「入るぞ」
 不安そうな顔をする光一の腕を引いて、階段を降りる。一瞬抵抗し掛けた身体は、それでも大人しく付いて来た。
 入り口で料金を払って、ドリンクを受け取る。暗い空間は、隣に立つ光一の顔さえ分からなくさせた。地下独特の埃っぽい匂いに懐かしさを覚える。自分も昔は良く出入りしていた。
 僅かに屈んで帽子を被った顔を覗き込む。所在なさげに立つ姿が迷子みたいで、思わずその肩を抱いた。光一は素直に身体を預ける。
「大丈夫か」
「こんな、小さいとこじゃステージから見えてまう」
「中はもっと暗いから全然顔なんか見えないよ」
「でも、結構目良いんです」
「光一。あいつにとっての本当の意味での再出発なんだ。見てやれ」
 重い扉を押し開けて中に入る。赤いライトが小さな空間を照らしていた。足許は暗闇に飲まれていて良く見えない。
 光一を離さないように気を付けながら、ステージから遠い後ろの壁際に落ち着いた。困惑した素振りでステージを見詰める瞳は、照明の色を受けてうっすらと赤く染まっている。
「今回の話、どれ位知ってる?」
「話?」
「独立した事だよ」
「……あー、ニュースで見る位です。うちのスタッフ気ぃ遣って触れないようにしてるから。名前も出さないんですよ」
「愛されてるんだな」
「はは。はい」
 光一が安定した雰囲気を保っているのは、単純に周囲の人間に大切にされているからだ。政治的背景が少なくなった分、ダイレクトに愛情が届くようになった。スタッフの思い遣りを分かっているから、光一自身も問う事が出来ないのだろう。
 独立した、剛の事を。
「お前が出て行ってから、剛もずっと事務所と話し合っていたらしいんだ」
「はい」
「あいつ言ってた。光一が守ってくれた場所なのは分かってる。でも、だからこそ一人立ちしなきゃいけないってね」
「そんな……」
「剛なりの正義だと思うよ、俺は」
 グラスを両手で包んで、光一は押し黙った。吉田も剛に相談された時、事務所にとどまるべきだと話したのだ。一人で音楽をやるのはきつい、と。
 それでも彼は決断した。光一の時とは違い、その独立に事務所の人間は付いて行っていない。孤独な再出発だった。
「独立して全部自分で始めた。それが今日、やっと形になる。お前が見てやるべきだよ」
「今更、俺なんか」
「剛が事務所出たの、いつだか知っているか」
 光一は首を振る。余り大きく取り上げられなかったから、契約的な面は報道されていなかった。
「一月一日だ。……これが意味するところ、考えてやれ」
 困った顔で見上げられる。噛み締めた唇が乾いていた。赤い照明が光一を不安定なものに見せる。
 ああ、こんなところにいたのか。好きだった、不安定で危うげな空気は剛故のものだった。剛だけが彼を左右する。三年と言う月日は、彼らの根本を変える程のものではなかった。
「あれから、剛に会ったか」
「一度も」
「なら、ちゃんと見ていてやれ」
 ドームを埋める事の出来る人間が、わざわざこんな小さな箱でスタートする。大々的な広告を打てる訳ではないから、彼のファンが此処にどれ位いるのか分からなかった。曲を届ける事だけを目指していたから、堂本剛と言う名前は全面的に伏せてある。
 光一こそが、此処にいるべきだった。誰も剛の事を知らなくても、彼だけはこの日を見る責任がある。手を離した、その責任だった。
 照明が落ちて、ステージにはおざなりなスポットライトが当てられる。ギター一本を抱えて、剛が現れた。あの姿では、すぐには気付かないだろう。
 売り出し前のミュージシャンと同じ雰囲気だった。着崩した格好はわざとだろうが、上手い具合に音楽だけに全てを賭けて他には手が回らない若者の印象を出している。短くした髪と大きなサングラスが、彼のイメージを狂わせた。
 不思議な魅力は相変わらずだった。人を惹き付ける力がある。
 中央の椅子に座って、ゆっくりと歌い始めた。愛の歌だ。どれだけ傷付いても、剛は愛を諦めなかった。
 早い時期に生温い理想を捨てた光一とは正反対だ。傷付いても希望を失っても、愛する心だけは手放さなかった。
 けれど、それならば何故一番近くに存在していた愛を受け止めなかったのだろうか。きちんと識別出来ない百の愛より、光一一人の愛の方が深い筈だ。
 同性愛がどうのと倫理的な事で話すつもりはなかった。そんな論理で割り切れる程、彼の愛情は曖昧ではない。
 剛は何を恐れたのだろう。ずっと分からなかった。意識的にしろ無意識にしろ、彼が抱えたのは恐怖だ。相方からのひた向きな愛情に生まれた感情。
 二曲目が終わったところで、光一が縋るように吉田の右腕に掴まった。反射的に見下ろして、声を上げそうになる。
真っ直ぐステージに向けられた瞳からは、止め処なく涙が零れていた。拭う事も隠す事もしない、無防備な状態だ。
「光一……」
 泣き方を覚えないまま大人になった。泣く、と言う行為にしては静か過ぎる。もっと色々な事を教えてやりたかった。悔やんでも遅いけれど。
 涙に濡れた目は、小さな頃から変わらないひた向きさを見せる。世界中で唯一、彼の恋情が向けられたのは、一番近くにいる存在だった。
 ステージの上にいる剛は、悲しい恋の唄を歌う。終わる事のない悲しみ。
「光一、もう許してやれ」
 祈るように囁いた。二人が二人で存在しなくなった時から、彼らの世界は崩壊し続けている。
「剛を、許してやれ」
 剛の歌は悲しみに彩られていた。恋を失うよりもっと、切実な喪失がある。必要なものが傍になかった。彼を形成する要素が欠けている。
 それは、光一も同じだった。体内に空洞を抱えて、どうして幸せに笑う事が出来る?
「許してやれ」
「何を……許すんですか」
 濡れた瞳を向けられた。可哀相なまでに真っ直ぐな視線。それで傷付く事を知りながら、変える事すらしなかった。
「許すも許さないもないですよ」
「お前のしている事は、復讐に見える」
 断定した響きは硬質だった。少女めいた黒めがちな瞳が一瞬揺らいだかと思うと、次の瞬間には平静を取り戻してまたステージの上へ視線を戻す。
涙を吸い込んだ頬があどけなかった。光一は、決して純真なものばかり持っているのではない。その見た目を裏切った狡猾さが潜んでいた。
 彼が真実を語る日は来ない。永遠を賭けた最後の恋を見ない振りで生きる剛への復讐だった。
十代の幼い頃から別れを告げる三年前まで、光一の恋が報われた瞬間は一度もない。長い時間を唯傍にいた。
 愛情ではなくその苦しみを、共有させているのではないか。吉田が気付いたのは、剛が独立を決めた時だった。
長い孤独の道を歩き始める彼の瞳は、今の光一と同じようにひた向きで。多分最初からこれが目的だったのだと知る。
 光一が最終的に渡したのは、愛情ではなかった。愛する人の幸福を願いながら、同時に呪詛を掛け続ける行為だ。果たして何処までの自覚があるのかは分からないけれど。

 剛の歌う恋の唄が、何よりの答えだった。





「送ろうか」
「いえ、大丈夫です。一度稽古場戻るから」
「タクシー乗るまでは送るよ」
「ホンマに大丈夫ですよ。この顔で乗りたくないから、ちょっと歩きます」
 泣き腫らした瞳は真っ赤なのに、その口許は穏やかだった。先刻の不安定さはもうない。
 結局剛は八曲を歌ってステージを去った。赤い照明に戻って、光一は涙を拭う事もせず地下から抜け出そうとする。
「……健さん」
「ん?」
 一人になりたいだろう彼の気持ちを汲んで素直に壁に凭れた吉田を小さな声で振り返った。困ったように笑うのは、もう癖なのかも知れない。心から笑えなくなってしまった。
「復讐、する位やったら、最初から愛さなかった。でも、悔しくて八つ当たりしてたのはホンマです」
 泣いているのか笑っているのか分からない瞳に見蕩れていると、小さく会釈をして扉の外に消えて行った。吉田は溜息を零す。
計りがたい内面を持っている子だった。それは、幼い彼が汚れた世界で生きる為に身に着けてしまったものだ。
 剛が一人になる事を知って、光一は何を考えただろう。疼く恋情を押さえ込んで、きっと優しい微笑を崩さないまま。暗い欲望を飼い馴らすのだ。
「健さん!」
 はっきりと呼ばれて振り向くと、ステージの袖から駆け寄って来る姿があった。剛だ。
「おう」
「来てくれたんですね。ありがとうございます」
「お疲れさん。良かったよ」
 この暗がりの中、良く気付いたものだと感心する。相変わらず警戒心のない人懐こい笑みを見せた。剛の中にも大人になり切れない子供の影がある。
「健さん。……誰と、いました?」
「さすがだなあ。見えたのか」
「……はい」
 慎重に頷いて、扉の方へ僅かに視線を向けた。光一の残像は既にない。初めてのステージの上から、壁際にいる小さな姿を見つけるのは容易な事ではなかった。今もまだ、二人の間には引力があるのだと思わざるを得ない。
 光一は、これから先も剛と会わないつもりだった。遠い場所から見詰め続けて、そうして内側から朽ちて行くのを待っている。
そんな悲しい生き方をして欲しくはなかった。
「なあ、剛」
「はい」
「今でも光一の事、怖いか」
「怖いなんて、そんな事……」
「あいつの恋は真っ直ぐ過ぎて、お前には脅威だった。違うか」
 年寄りは口を出し過ぎていけない。分かってはいたけれど、自分が言わなければ彼らの関係は永遠に喪われたままだ。遠くに在る違和感に、気付いて欲しかった。
 剛は、濃い眉を顰めて怒ったように瞳を上げる。彼の中でずっと燻り続けた感情が、光一の残した復讐なのだとしたら。
「俺は……分からんのです。光一を好きなのか、どうか。あいつの怯まない横顔が大切やった。でも、それが自分に向けられると、どうしたらええのか分からなくなる。離れてからも考えてた。俺には簡単な事やない。答えなんて、一生出せないのかも知れない。こんな状態で、あいつに渡せるものなんか何もないんです」
 だから、追い掛ける事はしないのだと。感情に名前を付けるなんて滑稽な事だと吉田は思った。
建前とか論理とか、常識なんかに縛られて必要なものを見失うのは悲しい。惹かれ合う魂だけが真実ではないのか。
「仕事の関係が終わったからって、二人の関係まで終わらせなきゃいけない理屈はないんだ。お前が今でも光一をすぐに見つけ出してやれるんなら、それを理由にしたら良いんじゃないか。俺には、やっぱりお互いが必要な存在に見えるよ」
「健さん」
「理由なんて、死ぬ時に考えりゃ良い」
 光一を泣かせないで欲しい。吉田の思う理屈は、これだけだった。離れている事が互いの幸福に繋がるなら構わない。でも、今のお前らに幸せは見えないよ。
「……光一、何処行きましたか」
「稽古場って言ってたよ。途中まで歩いてタクシー乗るって」
「ありがとうございます」
「おい!何処だか分かるのかよ!」
「はい。……光一の事やから」
 駆け出した剛は、一瞬躊躇してそれでも強気に言い切った。光一と同じように、重い扉を押し開けて外へ出て行く。取り残された吉田は、小さく笑ってのんびりとドリンクを口にした。
 二人の関係が変わるかどうかは分からない。光一は今でも頑なだったし、剛は未だ答えに辿り着いていなかった。
 それでも。三年の月日が、二人に答えを出してくれれば良いと思う。一人の時間が無駄ではなかったと思える日が来たら、それはきっと幸福に近い事だろう。










【了】
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 光一が独立すると言う事を知ったのは、例年通りキンキのコンサートのバックに付く事を知らされた時の事だ。いつもはいない事務所の人が一緒に会議室にいたから、おかしいなとは思っていた。聞かされた時の感覚は、例えようがない。
 町田にとっては、二人の解散より光一の独立の方が気掛かりだった。現金と言われればそれまでだけど、仕方のない事だ。自分は、光一が大切なのだから。それは多分、他のメンバーも同じだった。
 光一と一緒にいられなくなる。その事を思って泣きそうになった。離れるなんて考えたくない。素直に漏らした言葉に、それは問題ないよと冷静に言われた。
 彼を外に出したくない社長が、事務所の人間に出向させる形で会社を興すらしい。だから、この先も同じように仕事が出来る。事務所の傘下、と言う位置付けだから何も不安はないのだと言っていた。
 唯、音楽はやらないからコンサートのバックに付くのは、これが最後になる。キンキキッズのラストコンサートに付く事。光一の後ろで踊る事。
 其処まで考えて、初めて解散の意味に気付いた。事務所を出て、音楽をやめて、そうして光一が求めたもの。
 彼が剛を好きな事は知っていた。長過ぎる恋を諦めさせてやりたいと何度思った事か。自分を選んでくれなくても構わない。唯、もう少し楽に生きて欲しいと願った。自分の為だけに呼吸する術を覚えて欲しいと。
 踊る為には音楽が必要だった。光一が好きなものを捨てる理由は、たった一つだ。
 キンキと言うしがらみを剛から外して、自由に歌えるように。確信だった。あの人は、何処まで自分を捨てるのだろう。
 考えると悲しくなる。叶う事のない恋だった。これから先も多分、苦しい恋を抱えて生きるのだろう。愛する人と離れて、一人で生き抜く事。
 町田は、光一の代わりに泣いた。彼を幸せにしたい。願っても願っても、自分の無力さに気付かされるだけだった。
 彼を幸せにしてくれるのは、一体誰なのか。





 今日が二人のレギュラー番組の最後の収録だと聞いていた。十二月に入った、コンリハの狭間の日だ。打ち上げを盛大にやって、別れを惜しむのだろう。
 恐らく光一は全てを語らず、悲しそうな瞳すら見せていない。誤解されやすい人だった。誤解を甘んじて受け入れる強い人だった。
 理解されないのを分かって、それでも自分を変える事が出来ない。年上の尊敬する先輩なのに、そんな不器用さを目の当たりにする度愛しさが募った。可愛らしいと素直に思う。
 剛は死ぬ程泣いて、メンバーやスタッフとの別れを惜しむだろう。彼は愛される人だった。愛される事を素直に望める。
 そんな相方を遠くに眺めて、光一は穏やかな表情を崩さないんだろう。痛む心臓を堪えて、相方の為に笑う。彼の痛ましさに、果たしてどれ位の人間が気付いてくれるのか。
 不器用な彼の悲しみや辛さを理解してくれる人が、少しでも多ければ良い。自分は傍にいられないから。此処でこうして、思いやる他ない。
 光一のマネージャーに事前に相談して、打ち上げが終わった頃を見計らって電話をした。四人一緒の方が良いかな、とも思ったけれど自分の思いを優先させる。
「あ、光一君。お疲れ様です」
 なるべく明るさを装って話し掛けた。電話はいつまで経っても緊張する。
「今、大丈夫ですか」
「うん。ちょうど帰るとこ」
 電話の向こうで光一の笑った気配がある。先輩らしい、余裕のある笑い方。繕わないで欲しいとは、言えなかった。
「こら、マネージャー。町田に俺のスケジュール漏らしたやろ」
 どうやら車の中にいるようで、大きな声と何か不穏な音が聞こえる。多分、マネージャーの座るシートを蹴ったんじゃないだろうか。
「あの!」
「んー」
 光一の声は柔らかい。何処にも暗いものは見出せなかった。緊張していた自分の強張りさえ解いてしまうのだから、凄い人だった。
 前から計画していた事を、意を決して告げる。
「もし良ければ、これから飲みに行きませんかっ!」
「町田と二人で?」
「はい!」
「……俺、襲われない?」
「保証はしません!」
「お前、その答えはあかんやろー」
 予想していたのと違う反応に吃驚して、上手い切り替えしが出来なかった。光一はからからと機嫌良さげに笑う。痛みも悲しみも伝わって来なかった。でも、自分は彼の不器用な強さを知っている。
「俺もう飲んでんのよ」
「はい。……やっぱり駄目ですよね」
「そーやなくて。どっか行くのしんどいから、ウチおいで」
「え!」
「あ、俺んちが嫌やったら……」
「そんな訳ないじゃないですか。目茶目茶行きたいです!」
「よし、決まりな。このまま車回してもらうから、下で待っとき」
 それに何度も頷いて通話を終わらせた。一応光一のマネージャーが気を遣って店をピックアップしてくれていたけれど、本人が望むのならそれが一番良い。
 程なくしてやって来た車に乗り込んで、家へと向かった。車内では緊張し過ぎて、ほとんど話す事が出来ない。何度もシュミレーションをして今日を迎えたのに、やっぱり駄目だった。仕方ない。
 自分の役目は、一緒にいる事だけだった。彼の痛みを癒す術はない。
 でも、一人で夜を越えさせるよりはずっと良かった。少しでも悲しいものを取り除いてあげたい。
 マネージャーは、いつものようにエントランスで光一を見送っただけだった。この先は本当に二人きりなのだと思うと死にそうになる。手を出すとかそんな次元ではなかった。秋山を連れて来た方が良かった、と今更思う。
 深呼吸を繰り返していると、光一に笑われた。部屋に入って酒を出されても緊張は解けない。こんな役立たずでいる訳にはいかないのに。
 思っても、心拍数は治まらなかった。光一が目の前にいる。その事実だけで眩暈した。
 互いのグラスを鳴らして飲み始める。ソファに座った光一はいつものバスローブスタイルだった。襲って下さいと言わんばかりだったが、今の自分にそんな気概はない。
 じっと見詰めて飲んでいると、ふと光一が笑った。柔らかい、粉雪みたいな微笑。
「ホンマにお前らは、俺の世話焼き過ぎや」
「え」
「今日、最後やったから心配してくれたんやろ?」
「あ……はい。すいません」
「何で謝るの。嬉しいで、俺」
「はい!ありがとうございます」
「それも変やろー。町田は相変わらずやなあ」
「光一君」
「ん?」
 グラスを傾けて笑う姿に違和感はなかった。繋げる言葉を口に出来ずに、再び沈黙が落ちる。駄目だ、こんなんじゃ。
「なあ、町田」
「はい」
「俺さ、事務所出るけど。これからも、こやって遊んでな」
「はい!勿論です」
「うん、良かった」
 ゆったりとした仕草は、いつもと変わらない。真っ直ぐに見詰める瞳の強さも、甘いイントネーションも、全部。
「あんな、お前らも連れて行きたいって社長に言ったんよ」
「え!ホントですか」
「うん。そしたらな、社長にこれ以上僕の財産を奪わないでって怒られた」
 彼が自分達を望んでくれた事が単純に嬉しかった。愛した人には真っ直ぐな愛情を向ける人だ。子供の愛情と同じ透明度。時々怖くなる位。
 嬉しかった。だからやっぱり自分も聞かなければならない。言葉が必要かどうかは、今も分からなかった。けれど、口にしなければきっと自分は後悔する。
「光一君」
「なぁに」
「光一君」
「はいはい。お前、人の名前呼ぶばっかりやなあ」
「俺が、こんな事聞いたらいけないのかも知れない。でも、」
「……町田」
「剛君を好きな気持ちはどうするんですか。一人になって、光一君は……」
 その先を紡ぐ事は出来なかった。光一の顔が悲しさで歪められたからだ。取り繕う事に慣れた狡猾さを持っているのに、彼は最後の最後でそれを放棄する。だから愛しいのだと、自分達は知っていた。
「町田」
「俺は、光一君が心配です」
「町田、俺……」
「はい」
 その指先からグラスが落ちる。カーペットの上に落ちたおかげで、大きな音は響かなかった。琥珀色の液体が染み込んで行く。
 平気な筈がなかった。身を切るような痛みがその内部に潜んでいる。
 持つ物を失った右手に自分の手を絡めた。何でこの人は可哀相なんだろう。成功者なのに、その手の中に一番欲しいものはなかった。自ら遠ざけているようにさえ見える。
 腕を引き寄せて、薄い背中を抱いた。きっと彼は泣かない。涙を見せる日は来ないだろう。
 それでも、ずっとずっとその心は涙で濡れている。我慢をし続けて生きている人だった。自分の手で守りたいと思う。
「町田」
「はい、俺は此処にいます」
 泣けない人だった。悲しいまでに強く生きる。誰の手も突っ撥ねて、剛とだけ生きる事を選び続けて来た。
 光一の手が背中に縋る。他人に臆病で、でもそれ以上に彼の痛みは強かった。もう癒えないまでに深く深く抉られた傷。
 膿んで腐って、死ぬ事でしか開放されない痛みだった。せめて、同じ痛みを共有したいと願う。愚かな事は分かっていた。
「……もう、嫌や」
「はい」
「二人でいるのは辛い。一人になる事考えただけで死にそうになる」
「はい」
 こんなに呆気なく弱さを露呈する人ではなかった。自分の腕の中で痛みを堪えるのが、誰なのか分からなくなりそうだ。
 光一の傷口は何処に潜んでいるのだろう。探ろうと伸ばした手を彼の背中に滑らせた。
 顔を上げさせて、柔らかな頬に口付ける。罪悪感はなかった。接触でしか癒せない痛みがある。光一も拒絶しなかった。
 これ以上の苦痛を与えないように注意しながら、ソファに押し倒す。上から見下ろすと、何て小さな人なのだろうと驚いた。この身体で、二人に掛かる全ての負担を背負い続けて来たのか。
 目を閉じた光一の唇に、そっと口付けを落とす。安心したように吐かれる吐息。愛情に餓えている人だ。他人の体温には無条件で安堵するのだろう。
 最後の収録をどんな風に終えたのかは知らない。オンエアは見るだろうけど、彼に聞く事はないだろう。体内には、どんな痛みが潜んでいるのか。
「離れたくない。……でも、もう決めた。俺が、決めた」
「……はい」
 掛ける言葉が見つからなかった。光一は、痛過ぎる。こんな感情を体内で飼い続けてどうして生きていられるのか。自分には理解出来なかった。
 愛する人を遠ざけてまで、その幸せを願うなんて、そんな。
 欲しがらない事が光一の強みだった。彼は全てを諦めてしまっている。だからいつも優しい。
「全部、滅茶苦茶にして欲しい」
 光一の願いを叶える事は出来ない。このまま抱くのは簡単だろう。彼には自分の身体を大切にすると言う観念がないから、躊躇なく受け入れられる筈だ。
 けれど、自分が望むのはそんな事じゃない。彼の痛みを、傍で感じる事。何を失っても、自分は離れないと信じさせたかった。俺達は、絶対に貴方の傍にいます。
 気が付けば、泣いているのは自分だった。細い身体を抱き締めて、その指先を握り締めて、静かにしている彼の悲しみを共有する。
 もう一度口付けた。温もりを与える為に。
 光一の傍にいたかった。年が明けても、仕事じゃなくても。彼はきっと、これから先もずっと恋情を抱えて一人で生きて行くのだろう。
 その痛みを少しで良いから分けて欲しい。俺達に預けて、僅かな間でも心安らかにいて欲しかった。
 身体を離して、ソファの上に二人で座る。視線を合わせて泣いた顔のまま笑えば、光一もつられて目尻を綻ばせた。悲しみを隠して、痛みを堪えて、彼はこれからも生きていかなければならないのだから。
「俺、ずっとちゃんと光一君の傍にいますよ。光一君が呼んだら、絶対にいつでも駆け付けられる場所にいます」
「ん、ありがとう」
 守る仕草で抱き締めた。少しでも光一の傍にいたい。一人で生きて行く事を決めた強い人。愛する人の幸福を願う優しい人。
 自分は無力で役に立たないかも知れないけれど、貴方の代わりに泣く事が出来る。だから、悲しい夜を一人で越えないで下さい。
「屋良でも呼びましょうか?」
「屋良?」
「そうです。あいつ今三線の練習してるんですよ」
「三線?」
「はい。ちゃんと弾けるようになったら光一君にも見せるって言ってたんで、此処でやらせましょう」
 なるべく明るい声を意識して提案する。半分は光一の為、半分は二人きりでいる事が怖いせいだった。臆病な自分。この期に及んでも理性が擦り切れる事を恐れていた。
「まだ練習中だと思うんですけどねー」
「それ、絶対嫌がられるやん」
「良いです良いです。ちょっと虐めてやりましょう。ついでに酒ももっと買って来させて」
「ええな。酒盛り?」
「そうです。米花も呼んじゃいましょうか。秋山には内緒で、今度悔しがらせましょうよ」
「うわ。それ賛成。それで行こ」
 楽しそうに笑った光一は、また痛みを隠してしまった。それが分かったけれど、あえて言葉にはしない。自分達には彼を楽しませる力があった。笑わせてあげれば良い。ほんの僅かでも苦痛の消える瞬間を作ってあげられれば、それだけで。
 結局光一の家にMA全員集まって、朝まで下らない話をして過ごした。お酒と音楽とダンスと。彼を笑顔にする要素を全て持ち寄って。
 光一の幸福を皆で祈っていた。





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 吉田健がキンキキッズの解散を知ったのは、剛が事務所から言い渡されるよりもずっと前の事だった。光一が事務所外で初めて伝えた人間らしい。
 真剣な顔で「何処かで時間作ってもらえますか」と言われた時から、何となく予想は付いていた。これまでの短くはない人生で、解散と言う場面には何度も遭遇している。
 二人きりで飲みに行くのは初めてで、緊張させたら可哀相だと思い雰囲気の良い店を選んだ。店の一番奥のテーブルに座って、ボトルを頼むと人払いをしてもらう。聞かれたくない話だろうと思ったからだ。店員は嫌な顔一つせず頷いて、パーテーションも用意してくれた。
「健さん」
 光一の声は、いつもと変わらなかった。強い瞳も毅然とした態度も変わらない。もっと言えば、変える事すら出来なかった。自分にとっては可愛くて仕方のない子だ。
 不器用で愛される事に臆病で、それでもいつもひた向きだった。逃げる事も躱す事も知らない無防備な瞳。
 彼らの周囲の人間の大半と同じように、吉田は光一が大切だった。贔屓とかのレベルではなく、放っておく事が出来ない。怖がりの癖に不用意で、一人にしたら死んでしまうんじゃないかと冷や冷やさせられた。
 剛はまだ、生きる術を知っている。あの繊細さは時々怖くなるけれど、人に寄り掛かる方法をちゃんと知っていた。
 けれど、光一のアンバランスな強さは、周囲の大人の庇護欲を駆り立てる。手を伸ばしてやりたかった。せめて、自分の目の届く場所位は守りたい。
「俺、キンキ解散しようと思うんです」
「……そうか」
「ふふ。やっぱり驚かれんかった」
「え」
 暗がりの中で、光一は上手に笑う。不器用な心はそのままなのに、隠す事ばかり覚えてしまった。
「マネージャーにね、健さんには自分の口から話したいって言うたんです。解散決まったら番組も終わらせなあかんやろうし、お世話になった分迷惑も掛けるやろうな、って。そしたら、マネージャーがきっと健さんは驚かないよって」
「まあ、いつかはこんな話聞かされるだろうなって思ってたよ。限界は、周りの方が見えるんだ」
「そう、なんですか」
「ああ。解散なんて、一杯見てるからな」
 ミュージシャンとアイドルの解散では、全く意味が違うのだろうが、大体その時が来ると分かってしまう。そんなものだ。
 光一のグラスに酒を注いで、仕方のない事だと笑ってやった。形あるものはいつか壊れる。
「実はまだ、剛に言うてないんです」
「……二人で決めたんじゃないのか」
「俺が、我儘言うたんです。もう無理や、って」
「どうして」
 少なくとも、光一は剛を愛している。そんな事は、二人に出会ってすぐに気が付いた。今でも好きな筈だ。確信を持って言える。
 自分の問いに、光一は綺麗な笑顔を見せた。計算も駆け引きもない彼の素直な表情が好きだと思う。
「俺は、剛を解放したい。キンキが枷になってるの分かってて、ずっと一緒にはいられない。あいつを、幸せな場所に連れ出したい」
「お前の気持ちは?」
「……え」
「剛が、好きなんだろ」
「……健さんは何でも知ってるんですね。凄いなあ」
「茶化すなよ」
 厳しい声音で返せば、僅かに眉を顰めさせる。敵わないなあと小さく呟いて、煽るようにグラスを開けた。
 更に継ぎ足してやりながら、因果な子だと悲しい気持ちになる。もっと単純に生きていれば良かったのに。
「俺の気持ちは、最初から何処へも辿り着かんものやったから、ええんです」
 長い事一緒にいて、一度も彼の恋を聞いた事はなかった。プライベートに立ち入るのは趣味じゃなかったし、決して楽しい話ではない事を分かっていたからだ。
 けれど、今聞かなければ彼の恋は自分の前から永遠に失われてしまう。
「光一はそれで良いのか」
「はい。決めました」
「……笑うなよ」
「うん、俺他にどうしたらええんか分からんのです」
「しょうがない奴だな」
「はい」
 困ったように笑われて、泣いてくれたらどれだけ楽だろうと思った。光一は泣く事を潔しとしない。心臓が悲鳴を上げても、平気な顔で笑う男だった。
「健さん」
「ん?」
「色々迷惑掛けますけど、最後まで宜しくお願いします」
「ああ。見ててやる、ちゃんと」
 頷いて、乱暴に頭を撫でてやった。お前達の終わりを、いつも通り後ろから見届けてやる。
 光一の長い恋の終焉と永遠に行き場をなくした恋の始まる瞬間を。





 最後の収録の時も、彼は予想通り泣かなかった。穏やかな瞳のまま、共演者やスタッフに頭を下げる。申し訳ありません、と全てを引き受ける強さと共に。
 泣きじゃくる剛の事を時々気遣って、そっと背中を撫でていた。気付きにくい僅かな仕草だ。可哀相な子だとつくづく思った。
 薄情な人間だと思われる事まで想定して、それでも笑う。「解散」を自分の手許だけに置く為だった。公の場で何度も、自分が切り出したと言い切る。そのリスクを果たして剛は気付いているのか。
 師走とは良く言ったもので、幾ら噛み締めて過ごそうとしてもあっと言う間に最終のコンサートの日程になってしまった。何度も練り直したコンサートの構成は、最後を彩るのに相応しい出来となったのではないかと思う。
 光一は三十日も大晦日もいつも通りだった。拍子抜けする位普通に立っているから、自分でも騙されそうになる。MCでは、今までの感謝だけを口にした。何度も何度も繰り返される言葉の真意を、ファンは汲み取る必要がある。そう思わざるを得ない空気だった。
 収録スタジオより、ドーム内の方が反応は顕著だ。光一は、全ての批難を受け入れる覚悟だった。解散を決めた事、事務所を出る事、マイナスイメージがきちんと自分に流れるよう計算されている。
 毅然とした背中を見詰めながら、今すぐ抱き締めてやりたいと思った。あいつは、人を怖がって優しさに怯えていた幼い頃から、何一つ変わらないのに。
 ずっと瞳は優しく場内を見渡していた。それが辛くて、何度も彼の傍に行って肩を叩いてやる。お前は一人じゃないと伝える為だった。
けれど、それにも律儀に振り返って光一は笑う。苦しくないと、強がりではなく真っ直ぐに言っていた。





 最終日、そんな簡単な言葉で表して良いのだろうかと思う。彼らの終わりの日だった。二人の時間は、今日で止まる。
 そして、一月一日は光一の誕生日だった。二十代最後の一年が始まる日。彼がこの世に生を受けた記念すべき時。
 多分自分は、最初から分かっていた。
 珍しく楽屋にいる事を嫌がった光一は、ドームのスタンド席でギターの練習をしている。公の場で弾くのは今日が最後だった。自分と音楽を繋いでくれたものだから、と光一は愛しそうに六弦に触れて笑う。
 そんなに大切なものを、どうして簡単に捨ててしまうんだ。叱り飛ばしてやりたくても、全てを分かっている確信犯には何も言えなかった。あんなにも潔く愛を貫かないで欲しい。
 音響調節の為にステージの上に立つ吉田は、小さく丸まる姿を見付けて溜息を零した。微かに爪弾く音すら聞こえる。
 昨晩のカウントダウンコンサートで一度解散したも同然だった。調光卓からステージを見ていた吉田は、笑顔を見せる彼らを馬鹿だと思ったのだ。他のグループの痛ましい視線に気付かないのだろうか。
 互いを気遣って、でも見ない振りをして、ステージの上を走り回っていた。光一は、零時を過ぎても落ち着いていたと思う。だから、今日も大丈夫だ。
 今日が終わるまで、彼はきっと取り乱さない。自身に課した事は必ず成し遂げる男だった。死にそうな痛みを抱えて、それでも多分最後のステージですら笑ってみせるだろう。
 何の為に「今日」を選んだのか。その決意を思えば、キンキキッズを全うするまで絶対に崩れない。
 そう確信していた吉田の思惑は、光一の一場所から聞こえた大きな音によってかき消された。ギターを落とした音だ。
振り返って、スタンド席に目を凝らす。ドーム内は寒い位だったから、手がかじかんで滑ってしまったのだろう。
 声でも掛けてやろうかと思って見ていたら、一向に動く気配がない。椅子の下に蹲ったままだ。
 不安に思って、ステージを降りるとスタンド席まで駆け寄った。スタッフには調整を進めていて良い、と言い置く。まさか、と思った。
「光一!」
 近付けば、指先が震えているのが見える。とりあえず大切なギターを椅子の上に置いて、光一の後ろに回り込んで肩を掴んだ。少し乱暴な動作でゆする。
「光一。どうした」
「……っ」
 息を飲む音と同時に、きつく抱き着かれた。子供の仕草だ。首に腕を回して、光一は叫んだ。
「どうしよっ、俺!手動かん!」
「光一」
「怖い!嫌や、今日で全部……っ!」
 しゃくり上げて泣く光一は初めてだった。身体を震わせて、何度も怖いと口にする。
 吉田は気付いていた。
 最後の日を、自分の誕生日にしたいと願った意味。光一の決意は痛い程分かっていた。
 彼は、一生引きずる覚悟なのだ。キンキキッズと言う名前を背負って生きて行くつもりだった。二人で生きて来た日々も、解散の決意も、全部その心臓に囲おうとしている。
 そして、剛を愛し続ける覚悟すら。
 自分が生まれた日、新しい年を迎えるその度に、光一は決意する。罪を負う事。離れていても愛する人の幸福だけを願う事。
一人きりで、この長い年月の全てを抱えようとしていた。剛には飛び立って欲しいと願って。
 その明るくない未来に足が竦む事を、誰が責められると言うのだ。
「光一」
「っく……俺、こわぃ」
「そうだな。俺だって怖いよ。お前がそんな風に生きるのは」
「健さ……」
「まだ、本番まで時間はあるから。今は寝ろ。最後なんだ。今までで一番良いもの見せてやらなきゃ、嘘だろ?」
「……は、い」
「お休み」
 泣き疲れた光一は、素直に身体の力を抜いた。眠りに落ちるまで、その身体を抱き締める。彼は愛情にも温もりにも飢えていた。自分でそれに気付こうとしないだけで、寂しいと小さな身体は訴える。
 呼吸が規則正しいペースになった頃、マネージャーが慌ててやって来た。それに小さく笑って、光一の身体を楽屋まで運ぶ。
 剛はまだ来ていなかった。僅かな安息で構わない。最後の時を、光一は笑って迎えなければならないのだから。





 目覚めた光一は、もう弱さを見せる事がなかった。吉田に罰の悪そうな笑顔を向けると、ステージにいた剛にも声を掛ける。
 もう大丈夫だと、安堵した。彼の仮面は剥がれない。明日からの事ではなく、今は唯今日の事だけを考えようと思った。
 最後の公演だからと特別に張り切る二人ではない。今までと同じクオリティーのものを変わらずに提供する事。笑顔を失わない事。いつもと同じだ。
 会場は最初から涙で溢れていた。彼らの持ち味であるメロディーラインと相俟って、場内は哀愁に染まる。
 光一は震えなかった。何度も剛を振り返って、それから会場を見回す。広過ぎる場内の何処まで見えているのかは分からなかった。一人一人慈しむように視線が動く。悲しいメロディーを優しく歌っていた。
 もう彼が歌う事はない。剛に音楽を託して、この場所から去って行くのだ。確かに剛とは音楽に対する思い入れが違っていた。でも、光一は光一なりの方法で音楽を愛していたのだと思う。
 終わりに近付くと、客席もバックに付いている四人も、バンドも、そして剛さえ涙で動けなくなった。立ち尽くす会場を見渡して、光一は穏やかに笑む。あの体内の何処に恐怖が沈んでいるのか不思議だった。何の悩みもない表情を見せる。
 けれど、その目尻には僅かに朱が残っていた。恐怖の欠片に気付くのは、あの四人位のものだろうか。何度も確認するように伺っていたのを後ろで見ていた。
剛はきっと気付かない。光一の強さに圧倒されて、眩し過ぎる幻影を映してしまうのだろう。
「今まで、本当にありがとうございました。此処で生きられて、本当に幸せでした」
 柔らかな声が会場に響く。光一は叫んでいた。悲しい、辛いと。助けを求める子供の呼び声。けれど、それを客席には決して見せない。ステージの上で生きるとは、そう言う事だった。
 黙する事を美徳として、不当な批判すら真正面から受け止めていた。酷い中傷も野次も気にする素振りすら見せずに。
 光一が選んだ道を否定しない。けれど、幸せになってもらいたいと願う人間もいるのだと言う事を忘れないで欲しかった。
「僕達は離れてしまうけど、キンキキッズがいた事を忘れないで下さい」
 最後だ。
 十五年以上の長い時間を大人の力によって二人生かされて来た。光一は、自分達の手で幕を引く事を望んだのだ。
 彼に涙はない。剛は歪む視界を堪えて、相方の横顔を見詰め続けた。自分はいつまでも彼らの後姿を覚えているだろう。
 静まった会場に深く頭を下げて、二人でステージを去った。終幕に相応しい沈黙が大きな会場を満たす。もう二度と二人が並ぶ姿を見る事は出来ない。
 その事実を、恐らく誰も受け止め切れていなかった。





 会場の静けさを背負って、二人が降りて来る。打ち上げは予定していなかった。此処でお別れだ。
 二人並んでスタッフや共演者に頭を下げた。剛が泣き止むのを待って、別れの挨拶をそれぞれが静かに語る。寄り添うように立つ距離ではなかった。もう彼らは別の道を歩き始めている。
 二人に拍手を送って、最後の瞬間を見届けた。剛は泣き腫らした顔で、それでも小さく笑う。光一は真っ直ぐに顔を上げて、暖かな拍手を受け止めた。
 楽屋に入れば、もう彼らが顔を合わす事はない。それぞれ捌けようとした瞬間、剛が声を掛けた。
「光一」
 はっきりと名前を呼んで、歩き出そうとした光一の足を止める。
「何や」
「うん」
 小さな会話は、彼ら特有の呼吸だった。何度も繰り返されたやり取り。それは、最後の時であっても変わらない。向かい合ってお互いを見詰める二人に視線を向けて、動向を見守った。
「ありがとな。色々迷惑掛けてごめん」
「迷惑なんかない。それは、俺の方や」
 吉田は輪の中から外れて見詰める。これが、彼らの亀裂なんだと気付いた。光一と剛、その立ち位置がはっきり分かれている。二分された状態に彼らの現状を見た。光一の周りにはMAとダンサーが、剛の後ろにはバンドメンバーが立っている。
 こんなにも対極にある二人は、どんな引力で惹かれ合ったのか。それは、やはり「奇跡」に近いものなのだと思う。
 剛の指先が、そっと光一の目尻へ伸ばされた。当たり前のようにその感触を受け止めて、真っ直ぐに見詰め返す瞳に困惑はない。離れる事も一人になる事も恐れていない純真な色だった。
 指先を滑らせて、剛は苦く笑う。ああ、あいつはちゃんと気付いていたんだ。相方が黙って苦しんでいる事をきちんと見抜いている。重ねた時間は、決して無駄ではなかった。
「一杯、泣かせてもうたな」
「泣いてへん」
「俺の前では、な」
 強がる光一を、剛はもう甘やかさなかった。遠く離れる相方への最後の優しさだ。目尻に触れた指先に光一は自分の左手を重ねて、包み込むように握り締めた。
 接触が簡単ではない事を知っている。それでも、お互い最後の瞬間に怯えていた。当たり前だった体温が失われてしまう。二度と彼らが手を繋ぐ事はなかった。
「元気で」
 自然な動作で握り締めた手を握手の形に変える。剛もそれに頷いて、白々しい程他人行儀な笑みを見せた。
 別れの時を見るのは辛い。互いの事を思って泣く事はなかった。最後は笑顔で、なんて映画のワンシーンみたいな光景に苦笑を漏らす。彼ららしかった。本心は、心臓の奥深くに仕舞い込む。

 それが、二人の終わりだった。





+++++





 剛に劣情を抱いたのは、本当に幼い頃だった。まだ合宿所の同じ部屋で生活していた時の事だ。
 誰も信じられない世界で唯一の存在だった。何の経験もない人見知りの子供は、この世界で生きるには弱過ぎたから。
一緒にいた彼に全てを預けてしまった。今振り返ると、本当にどうしようもない子供だったと思う。
 朝目覚めてから夜眠るまで、剛がいない時間はとにかく不安で仕方なかった。この世界に自分しかいないような恐怖。いつでも彼の姿を探していた。
 恋と依存と、果たしてどちらの感情が先だったのか。
 唯一のものを愛するのは自然な流れだったと思う。それが普通の恋と違っていても構わなかった。
気付いた時には、隠しようもないまでに根付いていた気持ちだ。自分の心は、同性である違和感を抱かなかった。否定する気さえ起きない。
 剛が大切だった。剛しか愛していなかった。
 あの頃、自分の世界は本当に剛が中心で。心臓を侵食する感情を抑えるには、思春期の自分は幼過ぎた。
 好き過ぎて苦しい。女の子を思うのとは違っていた。もっと横暴で、抑制の出来ないものだ。
 あの時、自分には彼女がいた。人見知りでも何でも、芸能界と言う場所は確実に男女の距離を近付ける。多分、童貞を捨てる手前だった。
夏の暑い夜。初めては好きな人と、なんて女の子みたいな事を考えていた。浅はかな考えだ。
 蒸し暑い合宿所の部屋。剛は眠っていた。
 誰にも気付かれない完全犯罪。剛に知られてはならない。ひっそりと深夜を待った。幼い恋は真剣で、痛々しい。
 今なら何て事のない素振りで躱せる事も、真っ直ぐ受け止めてしまう頃だった。キス位、そう思える程大人ではなかったのだ。
 僅かな接触を命と同じ位大切に思った。剛にキスをする。自分の最初を誰にも気付かれないまま、渡したかった。
近い内に自分は、彼女と寝てしまうだろう。恋情を逃がす為の行為に罪悪感はなかった。
 最初の時を好きでもない人間に渡す事は出来ない。幼い自分の純情を笑う気にはならなかった。仕事でも欲求の為でもない接触を。
 あの夜に、二人の距離は決まってしまった。何度後悔しても、心臓を蝕む痛みは消えない。
 剛のベッドの脇に立って、眠りの深さを確かめた。規則正しい呼吸に安堵する。もう一時間以上、大きな変化を見せなかった。深い眠りの中にいるのだ。
 気付かれないように、そっと枕元へ近付く。幾ら幼くても、自分の恋が間違いである事は分かっていた。同性に思いを寄せるなんて、嫌悪の対象でしかない。
 だから、大して愛情もない女の子と付き合った。剛ばかりを見詰めないように気を付ける。
結局はその彼女すら少しも信用していなかった。明日彼女が消えても、きっと自分は泣く事が出来ない。
 何度季節が巡ろうとも、剛が唯一で他は何もいらなかった。勘違いでは納まらない感情だ。彼は、自分にとって「絶対」だった。
 幼い妄執に怖くなる。自分はこのままどうなってしまうのか。剛だけで生きてはいけない。彼に恋を抱く事は許されなかった。
 止まらない気持ちを持て余して、言い訳を重ねながらベッドサイドに立っている。気付かれなければ、存在しないのと同じだった。
幼い欲を剛が知らなければ構わない。この夜に二度と戻らないから。自分一人の秘め事にするつもりだった。
 最初の恋を永遠にする為に。
 枕元に跪いて、剛の寝顔を見詰める。強い瞳がなくても、意志の強さは全ての造作に顕れていた。自分とは違うものだから憧れるのだろうか。
 出会った時からずっと、彼だけを見詰めて生きて来た。運命だと錯覚してしまう位には共有するものが多い。男同士にそんなものはないのだと分かっていながら、尚惹かれた。
 手に入らないものだと、きちんと理解している。だからこそ、この闇の中動いていた。誰にも気付かれてはならない恋。
 剛の黒い髪をそっと梳いた。規則正しい呼吸は乱れない。息すら押し殺して、静寂を保った。この夜に生きる者全てが、自分の行為を見過ごしてくれるように。
 後どれ位子供の振りをしていられるだろう。ずっと一緒にいたい。でも、気持ちが溢れてしまいそうだった。隠し通せない。
いつか、好きと告げて二人の関係を壊してしまうのではないかと不安だった。
 頬に手を伸ばす。緊張した。指先が感電した時のように痺れている。ドラマの時とは比べものにならなかった。怖いと言う感情よりも触れたがる指の欲求が強い。
自分一人の秘密だった。剛にも気付かれないように近付く。
 この夜だけの、一人きりの秘め事だった。
 ベッドに体重を掛けて上から覆い被さる。呼吸を止めて、唇を近付けた。最初で最後になる可能性は高い。二度と触れられない覚悟は固まっていたから、せめて一度きりの接触をきちんと覚えておきたかった。
 眠りから覚める気配はない。心臓が馬鹿みたいに早く鳴っていてうるさかった。慎重に唇を重ねる。
 呼吸を妨げないよう軽く触れただけの口付けは緊張の方が強くて、覚えていられそうもなかった。好きな人にキスをすると言うのは、何て大変な事なんだろう。緊張で死ねるとさえ思った。
 唇を離す。至近距離にあるのは、剛の長い睫毛。焦点がぶれて上手く像を結べなかった。それでも良い。せめて、この距離にある剛の顔位は覚えておこうと思った。
 暗闇の中で、光一の完全犯罪は終わる筈だったのに。明日も同じ朝が巡ると信じていた。けれど。
「光ちゃん……」
「……っ」
 何の前触れもなく名前を呼ばれて、思わず仰け反った。ベッドに付いていた手が離れると、バランスを崩してそのまま尻餅をつく。何が起きたのか分からなかった。
この部屋で、自分の名前を呼ぶ人は一人しかいない。当たり前の事実を噛み締めようとして失敗した。どうして。
 ぼんやりした寝起きの風情を崩さないまま、剛は身体を起こす。自分は指先一つ、思考一つ動かなかった。光を失ったままの瞳に見詰められる。
 剛は寝惚けていた。今此処で冗談にしてしまえば、何も問題はない。笑え。それだけで良かった。明日も同じ朝を迎えられる。
「ごめん」
 呆然としたまま零れ落ちたのは、取り繕いようのない一言だった。謝ったら認めた事になってしまう。頭と身体が連動していない。
 何を思って近付いたのか。何の為にキスをしたのか。こんな時間に、誰にも分からないよう仕組んだ意味を。悟られてしまう。彼は勘の良い人だから、きっと自分の思いに気付いた。
 謝罪の言葉をどう受け取ったか。考えるのも怖かった。
 怖い。目を合わせる事は出来ない。こんなに慎重に動いたのに、彼に対する言い訳の一つも考えていなかった。どうしようもない。
 阿呆や、俺。剛への恋は、この世界にあってはならないものだった。
「もう遅いから、早よ寝ぇ」
 動く事も出来ずにいた自分へ剛が言ったのは、それだけだった。静かな声音。いつもと変わらない穏やかな響きだ。起き上がった時と同じように、何の感情も感じさせずベッドに入った。
 どうして、の言葉を飲み込む。動かない身体を叱咤して、どうにか自分のベッドへ戻った。剛には、自分を責める権利がある。彼の優しさだろうか。それとも口をきく事すら拒絶したのだろうか。丸まった背中を見ても、答えは見つからない。
 寝込みを襲うなんて、恐ろしくおぞましい事をしてしまった。剛の真意は分からない。けれど、彼が自分の思いを肯定してくれるとは思えなかった。
 ずっと隣にいたいのなら、何もしてはいけなかったのだと気付く。例え今、誰にもばれずに口付けられたとしても、自分の中に事実は残るのだ。
それは、罪悪を抱えると言う事。彼の隣に躊躇なく立てなくなってしまう。今更指先が震えて来た。
 今更、だ。剛は気付いた。自分は彼にキスをしてしまったのだ。震える手で口許を抑える。取り返しのつかない事をしてしまった。自分と剛を隔てる壁を、自らの手で築いている。
 彼がどんな風に笑ってくれても、これから先その瞳を真っ直ぐ見詰め返す事は出来ないだろう。事あるごとにこの夜を持ち出して、自分はきっと後悔する。
 朝が来ても眠れなかった。唯々怖くて、震えていたのだ。
 目覚めてからも剛は普通だった。もしかしたら、寝惚けていたのかも知れない。彼は真顔で寝言を言う人だった。そうあって欲しいと何度も願う。
 僅かに浮かんだ前向きな考えを砕かれたのは、一週間後の事だった。絶望と後悔と、微かな希望の中で生きていた時間。
 剛が、合宿所を出た。自分と同じ部屋を捨てて、一人で暮らすのだと言う。当たり前だった。
 同性のルームメイトに狙われた挙げ句、寝込みを襲われるなんて。剛は寝惚けていない。互いにあの夜の記憶を残した。優しい人だから何も言わなかっただけで、気持ち悪かっただろう。
 その後も普通に接してくれた剛に感謝こそすれ、出て行った事実に何かを思う事は許されない。原因を作ったのは自分だった。言い訳も後悔もしてはならない。
 多分、この時からだ。自分の恋にはっきりとした罪悪感を抱くようになった。態度に出さなくとも抱えているだけで、罪となる忌むべき感情。
 剛の反応は正しい。自分がおかしいだけだった。嫌悪感を持たれるのも自業自得でしかない。
 気持ちの悪い、蔑まれるべき感情。この世で最も醜い恋。
 けれど、同時に悲しい事実にも気付かされた。一人きりの部屋で、何があっても剛を嫌いになれない自分を知る。例え彼が嫌がっても、隣に立つ事すら拒絶されても、好きだろうと思った。恋の深さに絶望する。
 馬鹿だと思った。女の子と恋をしていれば、職業上スキャンダルではあるけれどいつか幸福になれる。その道を捨ててまで抱える価値はなかった。
 どうして俺は剛なのか。手に入らなくとも傍にいられるだけで満足だった。剛は合宿所を出ただけで、二人でいる事については何も言わない。それに救われたのか傷付いたのか、自分でも分からないけれど。
 隣にまだいる事を許されるのなら。二度と、この恋を出してはいけない。心臓の奥深くに仕舞い込んで、自身ですら忘れる位遠くに追い遣ってしまいたかった。
 きっとそれが、一緒にいる為の方法で、自分に課された償いだ。
 剛の幸福が自分の幸福と言う暗示は、幼い自分が剛の拒絶に耐える為の防衛手段だった。臆病な心を誰にも明かさず生きる為に。剛の隣に立ち続ける為に。
 捨てられない恋を忘れようとした。心臓に巣食うこの感情から目を背けてしまえば良い。なかった事にするのは、自分には容易だった。ゆっくりと見えなくして行く。
 仕事の相手として大切なんだと強く思い込んだ。あの夜は悪夢でしかないのだと、お互いに信じさせる為に振る舞う。自分の心を騙し続ける事に痛みはなかった。痛む事すら忘れてしまった。
 長い時間を掛けて、悪夢すら二人の間から消してしまう。簡単だった。新しい、二人の優しさで出来た記憶を重ねて行けば良いのだから。
 剛が苦しんでも思い悩んでも、自分は穏やかでいられた。彼の隣で真っ直ぐ立ち続ける事だけが必要で、笑っていようと決めている。お互いの心に温かい思い出ばかりが降り積もって行くように。
 あの夜を剛は忘れてしまっただろう。話せばきっと思い出すだろうけれど、二人で重ねた記憶に埋もれて行った。それで良い。
 自分は一人、剛を愛し続ける。誰も知らなくて良かった。剛と生きられるのなら、それで。
 一緒にいる事だけを考えて、自分は此処に立つ。けれど、その幸福な時間にも終わりが来た。一度重なった筈の運命は、またゆっくりと離れて一生を共にさせてくれる事はない。
 違い過ぎる二人だから一緒にいられるのだと思っていた。否、思い込もうとした。何があっても、一緒に生きて行きたい。願ったのは自分だけだと知っていた。
 剛が病気で苦しむ度、キンキキッズと言うグループが彼の足を留める度に。
 彼の幸福を考えた。自分の恋を思った。本当は、もっと早くに出すべき結論だったのだ。引き延ばしたのは、自分の醜い恋情だった。忘れ去る事の出来ない、心臓の一番奥にある厭うべき心。
 一緒に生きる事は、もう出来ない。剛を解放する事だけが自分に出来る事だった。自分の手で出来る、最後で唯一の。
 その繊細な心を壊してしまう前に、選ばなければならない。自由に生きて欲しかった。この世界でたった一人愛した人だ。幸福に生きてと願った。
 一年以上前、事務所に申し入れた事を後悔していない。正しい事をしたのだと信じている。
 例え今、剛の目の前に座る事がどれ程苦痛であっても。





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 事務所の計らいなのか、用意されたのは最上階のスウィートルームだった。ゆっくり話しなさいとマネージャーは言ってくれたけれど、先刻の光一の取り乱し方が忘れられない。こんなに長い時間一緒にいたのに、ほとんど見た事のない姿だった。どうして、と問う事すら許されないような。
 同じ場所へ向かうのに、車は別々にされた。チーフマネージャーが光一の肩を抱いて守るように車へ乗り込むのを見て、僅かに胸が痛む。
 悪い事をしているような感覚だった。キンキのスタッフといると、自分が悪者になる事が多い。自覚がない訳でもないが、今回の事に関して言えば解散を持ち出したのは光一で、自分に非はなかった。納得がいかない。
 けれど、年が明けて光一が事務所を出る時に相当の移動があるだろうと言われていた。キンキに付いていたスタッフは、独立して構える彼の事務所に行く者が多い、と。
 決定事項で話されているのであれば、実際自分は四面楚歌の状態と言う訳だ。皆光一の味方と知るのは辛い。
 解散なんて事態を引き起こしたのは彼なのに、皆その張本人を守るように動いていた。それが気に入らない。
 悪いのは俺か?違うやろ。相方さえ動かなければこんな事にはなっていなかった。
 部屋に先に入って、光一を待つ。広い部屋だったが、室内を見て回る気にはならなかった。夜景の見える窓際に据えられたソファーに身体を沈める。話を始める前から疲れていた。
 目を閉じて、先刻の光一を思い出す。デビューしてから何度も辛い場面に立たされて来たが、一度も拒絶する姿は見せなかった。どんな仕事でも前向きに、努力以上の努力で立ち向かって来た人だ。彼に不可能はないとすら、自分は思っていた。
 過去を辿っても思い出すのは笑っている顔ばかりだ。出会った頃の怯えていた幼い顔は、もう見る事がないと思っていた。先刻の光一は、あの頃の表情と同じだ。
 聞かなければならない。最後のコンサートに入る前に、きちんと話すべきだった。自分は、彼の口から何も聞いていない。
 どうして解散なのか。離れなければならないのか。自分は例え二人の活動がなくなっても、キンキキッズと言う名前を背負って行くつもりだった。あんなにも大事にしていた光一が、どうして。
 考えを巡らせても仕方ない。遠回りをしている時間すらなかった。
 十五分位待っていると、やっと扉の開く音が聞こえる。ソファから立ち上がる事はせずに、振り返って相方が入って来るのを見詰めた。俯きがちな姿勢すら、いつもの彼らしくない。
 「大丈夫か」と問うマネージャーの声に静かに頷いて、ゆっくりと扉は閉められた。二人きりになる。
「待たせたな。ごめん」
 顔を上げた光一の表情はいつも通りだった。一瞬前の空気すら払って、多分彼は舞台の上と同じように仮面を被る。自分自身を取り繕う透明の仮面。
俺は、そんなものに騙されてやらない。唯本心だけを求めていた。
「ルームサービス取る?マネージャーがええよ、って言うてた。お前、飯食ったか。俺食うてへんのや」
「そんなんいらんから、こっち来ぃ」
 明るい声で紛らわそうとする光一の意図を押さえ込んで、自分の隣に座らせた。途端に困った顔をする彼の横顔を見て、それで良いのだと思う。余計な計算は必要なかった。俺は、今更優しくするつもりはあらへんよ。
 窓の外に視線を映して、動き出すのを待った。彼の視線も同じように向けられる。東京の夜景は、無機質に明るかった。
「……あんな、剛。今日……」
「うん。お前とちゃんと話そうと思ってる。解散の事。二人きりのグループやのに、俺はお前と何も話してへん」
 「解散」と言う言葉を出しただけで、光一の肩が揺れる。強く握り締めた両手が白くなった。心臓が痛いのだろうと思ったけれど、そんな風に痛む事を何故持ち出したのか分からない。
 多分彼が口にさえしなければ、これからもキンキキッズは続いていた。
「事務所の人間の決定事項やなくて、お前の口から聞きたかった。正直契約とかそんな形式上の事はどうでもええねん。唯、理由が知りたい」
「……ごめん」
「いつから、考えてた?」
「え……」
「解散の事。事務所に話したのは、一年以上前なんやろ」
「……うん」
「俺が聞いたんは、ほんの二、三週間前や。お前は、いつから考えてた」
 詰問する声音で、自分の中にあるのが怒りだと気付いた。
 一緒にいる時も別れを見ていた光一の裏切りに対して、抑えようもない程はっきりと苛立っている。お前の一番近くにいたのは、俺やないのか。
 隠し事があっても構わない。嘘を吐いても良い。けれど、これは二人の事だった。言い訳も懺悔もいらない。
「お前はずっと、俺の隣で俺を見てる振りしながら、俺と離れる事を」
「剛!違う!そんなんじゃ、」
「ええんや。俺は本当の事知りたい。お前の事、ちゃんと」
 重ねた声に、光一は黙り込んだ。唇を噛んで俯く様は、見慣れたものだ。彼はこうして、色々なものを諦めて来た。生き抜く為に。
 こんな場所を作らなければ、多分光一は何も言わずに離れるつもりだったのだろう。言葉が足りない事を、誰よりも自分が知っている。それで擦れ違った過去が何度もあった。
 言葉の力を信じていない光一と、言葉にこそ愛を込めて生きている自分と。価値観が合わないのは分かり切っている。違うから一緒にいられるのだと自負していた。
 足りない思いなら汲み取ってやれる。けれど、言葉にしてくれなければ、何も分からないままだった。流されるように生きるつもりはない。
「きっと、これが最後や。もうすぐ最後の収録が来て、コンサートのリハも始まる。動き始めたらあっと言う間や」
 光一が当たり前のように横に立つ事は、もうない。自由と引き換えに失うものを、まだきちんと把握出来ていなかった。
 今はこの怒りを伝えて、彼の思いを汲む事だけを考える。思えば、こうして向き合うのも久しぶりだった。離れていた時間が、溝を作ったのだろうか。そう思いたくはなかった。離れていたからこそ、ちゃんと生きていられたと思っている。
 お前は、何を考えて切り出した?その瞬間、少しも二人の遠い未来は考えなかった?一緒に描く未来を。
「聞かせて、光一」
「……最後やから、今日話した事は元旦過ぎるまで思い出さないって約束して」
 光一はもう、未来を見ている。一人の未来を。
「分かった。約束する。お前との、最後の約束なんやな」
「そうや」
 素直に頷いたのに、痛そうに眉を顰めた。レールを用意したのはお前やのに、変やで。言ってやる事は出来ない。自分はまだ、現実を見るので精一杯だった。
「解散って言葉、最初に浮かんだのは随分前や。……お前が、病気になった頃」
 恐らく彼の指す病気は、十代の頃のものだ。そんなに、昔から?あの時もそれから後も、思い悩んでいる素振りは見せなかった。
 あの頃の光一は、強い人間のイメージばかりがある。きらきらと輝いて、何者にも立ち向かう毅然とした姿を覚えていた。弱くなっていた自分にとっては、畏怖の対象ですらあったのだ。
 その胸に解散を抱えて、でも優しく笑っていた。唯黙って傍にいてくれた。
「お前のやりたい事と、キンキで出来る事の差が広がって行くんが辛かった。お前はそぉゆうのに耐えられんかったから、余計。辛い思いさせてるなあって。此処にいなかったら、苦しまんで済むのに、って何度も思うたよ」
 視線を上げた光一は、あの頃と寸分違わぬ強い笑みを見せる。後悔している声音だった。二人でいる事に違和感を覚えたのは、彼の方だったのか。
「キンキでいたいのは、俺の我儘やった」
「そんな事あらへん。俺やって……」
「うん。分かってるよ。剛がキンキ大事にしてくれてるの、ちゃんと分かってた。でも、無理させてるのも知ってたから。お前の為に、って何度も思って、でも言えんかった」
 苦く笑って、光一は呟く。皆の言う俺の為、と言う意味をまだ把握出来ていなかった。でも、辿り着いた事が一つだけある。彼のソロ活動は、キンキキッズがしがらみにはなっていなかった。差異に拘ったのは、自分だ。
「俺が二人でいたかった、ずっと。俺の相方は、剛だけやから。……こんなん言われても嫌だろうって思った。聞いても面白くないやろ。ごめんな」
「今は?」
「え」
「もう、一人になりたい?」
 光一の言葉は、全てが過去の思い出のように紡がれる。まだ一緒にいるのに。終わったみたいな言い方が気に入らなかった。
「そんな事、ない。ある訳ないやん」
「じゃあ、何で解散するんや」
「それは……」
「俺の為、なんてそんな建前いらん」
 そんな自己犠牲で生きて欲しくなかった。きちんと自分の為に決断するべきだ。他人の為に決めたのだとしたら、光一自身に余りにもリスクが大き過ぎた。これからの周囲の反応を思うだけでぞっとする。
 けれど、彼は時々酔狂な、と思う事を真剣にやる事があった。何処に本心があるのか分からない。一緒にいると生きづらいのはお互い様だった。
 互いにリスクを背負って、それでも二人きりのグループを大事にして来たつもりだ。光一にだって自分と一緒ではやれない事が沢山あったのではないか。
「……俺は、あかんのや。お前の隣にいる資格がない」
「資格って、何やそれ。そんなん……」
 顔を歪めて、光一は首を横に振った。先刻楽屋で見たのと似た種類の否定だと思う。優しくしてやりたいのに、方法が見つからなかった。手を伸ばす事も言葉を掛ける事も出来ないような。
 彼の否定は、絶望の匂いがする。
「……剛、一回しか言わん。二度と言わないから、聞いて。忘れてくれて良い」
「うん」
 もう一度首を僅かに振って真っ直ぐ合わされた瞳は、僅かに濡れていた。可哀相だと、切実に思う。けれど、彼の身体は全ての優しさを拒絶していた。鋭利な空気を纏わせて、一人で在ろうとしている。
「俺は、お前が大切や。多分、今までもこれからも変わらん。ずっと一番に大切やった」
「うん」
「お前以外に、俺の隣に立つ奴なんかおらん。剛だけしかいらんと思ってる。今も、ちゃんと」
「うん」
「でも、傍にいられない。限界なんや。……お前には幸せになって欲しい。俺の隣にいたら、あかん」
 切実に零される言葉は、切ない位の愛情に満ちている。相方としての親愛が見えるのに、どうして泣きそうになっているのだろう。パートナーを思うのは必要な感情だった。何故、彼は自身の愛情に怯えているのか。
「光一……もう少し分かりやすく言うて。俺分からん」
 逸らさない瞳が、いっそ痛々しかった。彼は自身に泣く事を許していない。強く在る事だけを常に課していた。
 せめて、自分位は彼に優しくしてやりたいと願う。自分で自分を追い詰める人だった。小さな頭を撫でてやろうとそっと腕を伸ばす。
 小さい頃は、こんな些細な仕草ですっと落ち着いていた。自分が触れると、光一は驚く程緊張が緩んだのだ。
 そんな昔を思い出して伸ばした手は、けれど邪険に振り払われた。明確な拒絶に驚く。彼は、いつでも無条件に自分が差し出したものは受容していたから。
「あ!……あ、ごめっ。ごめん。触らんといて。俺、汚いから。お前に優しくしてもらう訳にはいかんのや」
 狼狽し切った表情で、視線を彷徨わせた。振り払った手を反対の手で押さえ込む光一の精神的な潔癖に、疑問を抱く。
 汚い?それが指す意味は何処にあるのか。分からなかった。どうして、今此処でそんな表現が出て来るのか。
 きつく掴んでいる光一の指先を呆然と見詰めて、気付いてはいけない可能性に行き当たる。まさか、と思った。そんな筈はない。
「剛が大切や。それはホント。信じて。でも、だから一緒にはいられない。このままやと、いつか俺はお前を壊してしまう」
 光一の言葉は抽象的過ぎて分かりにくかった。今夜の事はその時が過ぎるまで忘れて欲しいと言った表情。あれと同じような顔を見た事がある。遠い昔。
 記憶を辿るのは容易ではなかった。でも、知っている。思い出さなければならなかった。今夜しか、光一と向き合う時間はない。
 思い出せ。一緒にいられないと言い募る光一の苦しそうな表情。振り払われた手と直後に浮かんだ罪悪の色。自分の幸福だけを願う人。
 答えは、すぐ近くにあるのに。探し出せなかった。思い出す事がきっと、彼の真意を見出す鍵になる。
「……もう、動き出した事や。後ちょっとやから、我慢して。いつも通り、俺の事なんか考えんでええから」
 一方的に言って、光一は逃げようとした。立ち上がり掛けた彼の手を掴んで、強引に引き留める。先刻の拒絶を考えて、痛む程の力を込めた。
「つよ……!やっ、触らんで!」
「何で」
「あかん!ホント、駄目んなるから……ちゃんと最後まで、一緒にいたいんや。離して……」
「何、言うてんの」
「離して。汚いから」
「阿呆か。お前はいっつも綺麗やん」
「そんな事ない。あかん、離して」
 ほとんど泣いている顔を見せる。潤んだ瞳からは、今にも涙が零れそうだった。本気で嫌がって、光一は自分の手から逃れようともがく。
 ステージの上やカメラの前ではもっと過剰なまでに触れていた。必要以上のスキンシップは、体温を分け与える為でもある。幼い頃の名残だった。緊張する光一に笑ってもらう為。初めてだった、こんな拒絶は。
「お前、俺ん事嫌いになったんか?触れられるのも嫌な位」
「そんな訳あるか!俺は今でも、剛が好きや!」
 怒鳴った光一の言葉に幼い頃の記憶が呼び起こされた。鍵が手の届く場所まで近付いている。
 合宿所の暗がりで、泣きそうな瞳を見た。今と同じ、困惑と衝動が混ざり合った表情。
「……あ」
 何故、自分は今まで一度も思い出さなかったのか。「ごめん」と呟いたあの声と同じだった。光一の言葉は、あの夜と同じ響きで綴られている。
 幼い夏の夜。お互いに暗示を掛けて仕舞い込んだ筈の記憶だった。光一が忘れさせようとしているのが分かったから、自分も思い出さないように消したのだ。あの夜の温度も感触も全て。
 なかった事にする為に、部屋を出た。二人で仕事をして行くのに、一緒にい過ぎるのは良くないと思ったのだ。あのまま二人きりの場所に留まっていたら、きっと今頃自分達の関係は崩壊している。
 あの時の光一は、本気だった。怖くなった弱い自分も真実だ。男だからではなく、あんな熱情は初めてだったから。ひた向きに寄せられる感情に怯えたのだ。
 真摯な恋を受け止められる程、自分は強くなかった。だから、二人の世界を壊して、忘れた振りをしたのだ。
 心臓の奥へ押し込んだ記憶は、今もまだ鮮明に蘇らせる事が出来た。掴まれた腕の先にいる光一は、あの時の気持ちを抱いたままでいるのか。
「光一」
「……離して」
「質問に答えたら、離してやる」
「嫌や。離して」
「聞け。イエスかノーで良いから」
 譲らずに言えば、素直に腕を預けた。光一の方が力は強い。こんな拘束を解く事位簡単だった。
多分、此処にも彼の感情が存在する。いつもいつも、気付かないところで当たり前に愛情を差し出していた。
「お前は、今でも、俺の事愛してるんか」
 慎重に言葉を渡す。今でも、の言葉に反応して光一は目を見開いた。自分も同じ言葉を使ったのに。
可哀相だと思う感情が強い。誰でも今の彼の表情を見たら抱き締めてやりたくなるだろう。
「相方として、で聞いてるんやないよ。意味分かるな?ちゃんと答え」
 追い詰めてどうしたいのかは分からなかった。唯、真実が知りたい。光一の中にある答えをきちんと見つけたかった。
 どうして、解散するのか。もし今でも俺の事を思っているのなら、やはりおかしな決断だった。納得の行く理由を求める自分が、残酷な事をしているのは分かっている。
「……ノーや」
 僅かの沈黙の後、言い切った光一の瞳は一瞬で落ち着きを取り戻した。彼は、強い。揺るがない決意の色を見せた。この瞳に随分と救われて来たのだ。どんな時も自分を真っ直ぐ見詰めてくれた。
「でも、大切なのは本当。それだけは、今も昔も変わらない」
 光一は笑う。自分の感情を置き去りにして、その瞬間に相応しい表情を繕った。自分を悲しませない為に。
「俺の事なんか、忘れてくれてええよ。年が明けたら、お前は自由や」
 穏やかな表情で、真実を眩ませる。俺は、気付いてしまったのに。弱さと共に隠し通そうとする恋情。きっと二度と表れない本心。暴くつもりが、逃げられてしまった。
 再び口を開こうとして、躊躇する。知ったところで、自分にはどうにも出来なかった。彼の恋情を掬う事は出来ない。
 それなら、終わりの瞬間まで見ない振りをするべきなのだろうか。夏の夜の幻として、あの接触をなかったものにしたのと同じように。今夜の記憶も、深く深く闇の中へ沈めてしまえば良い。
「俺、もう帰るな。外にマネージャー待たせてあんねん。剛は、せっかくやから泊まって行けば?」
「光一」
 するりと腕を離して、何事もなかったように部屋を出て行こうとする。外に待たせていると言う事は、最初から長く話すつもりなどなかったのだ。真実すら告げずに、繕った言葉だけを並べて。
「後、一ヶ月ちょいや。それまでは、一緒におらせて。お疲れ様」
 言い切って光一は出て行った。止める隙を与えさせない。一人残された自分は、仕方なくソファに座り直した。夜景を見下ろして、深い溜息を吐き出す。
 用意周到に差し出された解散へのシナリオは、光一自身の防衛術だった。不当に傷付けられない為の彼一人の作戦だ。
 このレールを修正する事は出来ない。離れた方が良いだろう事も分かっていた。これ以上、光一を傷付けるつもりはない。今までの二人の時間を思って、泣きそうになった。
 自分は彼と共にいて、一体何をしてあげただろう。振り返る事もせずに過ごした時間がある。繋いだ手を離したいと願った瞬間が。それでも、彼は隣にいた。全ての感情を受け止めて笑っていた。
 光一の心は、何処へ行くのだろう。抱き続けた恋情は、いつ捨てられるのか。どうやって仕舞われるのか。
 どうして、ずっと一緒にいたのに彼の心を見つけられなかったのだろう。頭を抱えて、出て行った相方の表情を思い出す。いつもと寸分違わない穏やかで綺麗な笑い方だった。
 別れを目前に控えて気付いても、どうにもならない。知っていたからと言って、結末が変わるかどうかは分からなかった。でも、もう少し光一の近くで光一を救う方法を見つけられたかも知れない。
 長い時間一人で解散を悩んでいた。触れられる事に怯える程、深い恋を抱えて俺の隣に立ち続けた。
 俺の為の解散ではなく、光一の為の解散を考えてあげたい。あんな顔をさせて、自分だけが自由な空に飛び立つ事は出来なかった。
 二人きりのグループなのに。こんな瞬間ですら、俺達はアンバランスだ。光一の愛はずっと、見えないところで注がれて来た。
 俺がもっと彼を見れば良かったのだ。あんな風に色の変わる瞳だった、と初めて知った。見ていなかった。
 当たり前に隣にいたから。振り返らなくても差し出される優しさがあったから。
 シナリオは変えられない。二人の距離は変わらないまま。唯、小さな棘だけが剛の心に残って行く。

 自分に残された最後の選択だと思った。

正しい道を選ばなければならない。間違った感情を抱えて生きているのだから、それ以外は全て真っ当なものを選びたかった。
 どうにもならない恋を抱いて生きる。一生付き合う覚悟すら出来ていた。捨てられない。忘れる事すら出来ない。心臓にある醜い欲求は、いつまでも己を蝕んで腐って行った。
 こんな忌々しい感情を向けているのは、唯一のパートナー。仕事をして行く上で必要不可欠な人だった。禁忌の恋だと知っている。
 俺は、幼い頃からずっと剛だけが好きだった。相方である彼に恋をした醜悪な自分。生きて行く上での優先順位は、決まっている。
 剛の幸福こそが自分の幸福だった。それは、忌むべき恋情を向けている彼へのせめてもの罪滅ぼしだ。
 この恋を消す事は出来ない。でも、こんな心を向けられている剛に申し訳ないと言う気持ちも強かった。
 だから、彼が幸福になれるだろう道をいつでも選択して来たつもりだ。勿論、彼の事だけが全てではなかったけれど、優先されるべき理由である事は間違いなかった。
 十周年を前にして、自分の為すべき事は唯一つ。剛を解放する事だった。
 事務所にその事を切り出したのは、半年以上前の去年の暮れの事だ。二人のソロライブが終わるのと前後してだった。切り出すタイミングをずっと窺っていたのだ。
 ソロ活動は何の問題もなく成功し、数字の意味でも事務所には満足の行くものだった。切り出すのに最適の時期だったと思う。
 もう長い事一人でいる事に慣らされていた。二人でいると、周囲の人間に「何かあるの」と聞かれる始末。キンキキッズと言うグループがあるのに、一人でいる事が当たり前だった。
 二人でいる意味はあるのだろうか。キンキキッズである意味は何なのだろう。剛がその事で悩んでいるのも知っていた。
 アイドルである事、二人で在る事、活動もしていないのにグループ名が一人の活動にも付いて回る事。自分には負担にならない事でも、剛の音楽活動には支障を来す程。
 単純に可哀相だと思った。必要のないものを抱えて行くのは、苦痛でしかない。
 事務所の決断は早かった。自分が提示したのは、二つの要望だ。一つ目の「解散」についてはすぐに返答があった。もう一つの自分に関する要望は、保留と言われ結論が出るのに時間が掛かった。これについては、ほんの一ヶ月前に許可されたのだ。
 剛は、二十五枚目のシングルが出た今もまだ知らない。早くに知らせる必要はなかった。
 事務所が出したシナリオは、年が明けて十周年の終わりと共に解散をすると言うものだ。なるべくこの一年も二人の活動を抑え、十周年についても静かに過ごして準備をして行く。
 年末のコンサートに解散と銘打って、自分の誕生日を最終公演にする予定だった。来年の一月一日を以て、キンキキッズは解散する。
 剛を解放しようと決めた。次の彼の誕生日を祝ってやる事は出来ない。
 考え込みやすい性格を考慮して、事務所は十周年に当たる七月を越えてから打ち明ける事を決めていた。それで良いと思う。シナリオは用意された。剛が知っていても知らなくても、歯車は動き出したのだ。
 彼が怖がらなければ良いと思った。臆病な人だから、一人になって新しい環境にすぐに適応出来るかどうか不安だった。
 そう思ってすぐ、もう平気なのだと僅かな奢りを否定する。今は信頼出来るバンドメンバーがいるのだから安心だった。自分がいる必要性は何処にもない。
 昔はあんなに傍にいたのに。どうにもならない感傷は、心臓を浸食してゆっくりと腐らせて行った。
 今は、剛の事を何も知らない。好きで好きで死にそうになる位の恋を抱えていても、彼に関するデータは少なくなる一方だった。手を伸ばせば届く所にいた人が、こんなにも遠い。
 離れる事を望んだのは自分だった。いつ、自分のこの汚い気持ちがばれてしまうか不安で。彼の眼は残酷な程真実を見抜いてしまうから。
 怖かった。あの黒い瞳に侮蔑の色が浮かぶ様を想像して、泣きそうになる。気付かれたくなかった。
 彼から別離を言い渡されたら、きっと生きて行けない。
 自分の本音が何処にあるのか分からなかった。結局はエゴなのかも知れない。剛の為と言いながら、自分の弱い心を守る為の。
 そう考えると悲しくなった。彼の為の選択なのだと、自信を持って言いたい。きちんとしなければ、これから起こるだろう様々な対応に自分は耐えられなくなってしまう。
 解散を剛のせいにするつもりはなかった。それに付随して起こる世間やマスコミの言葉は、自分が全て受けると決めている。相方を傷付けさせる気はなかった。





+++++





 彼らが何を言っているのかが分からない、と言うのが剛の本音だった。話が見えない。突飛過ぎる。
 解散?何を言っているのだろう。十周年をやっと迎えたところで、年末のコンサートはそれを軸に構成して行くのではないだろうか。
 思っても、声は出せなかった。事務所の人間が話しているのは、決定事項だ。自分が何かを言う隙はなかった。
 つい先日、デビュー十周年のお祝いをしたばかりなのに。あの時、光一はいつも通りだったように思う。思考が追い付かなかった。彼らは、何を言っているのだ。
 事務所の会議室で話されると、何もかも無機質な事に思えて嫌だった。普段は表情豊かなマネージャーさえ、無機物に思える。
 剛は困惑した。もう全てが動き出している。自分の事なのに、止める術はなかった。
 何で、急に。本来前向きに動いて行くこの時期に、何故。大体、自分達のスケジュールと言うのは、一年先まで決まっているのだ。急追決められる事ではなかった。
 だとすれば、いつから動き出していた?
「光一は、もう知ってるんですか」
「そうだね」
 チーフマネージャーは、抑揚なく答える。彼が知っていて自分が知らない事は、今までも多かった。けれど、今回の話に関しては平等に開示されるべきだ。
「なら、何でもっと前に!」
 此処で怒ろうが喚こうが事態が変わらない事など分かっていた。分かっていて、剛は叫ぶ。
 もう手遅れだった。プロジェクトとして始まったものを止める力はない。手渡された資料には、「解散」までのスケジュールが記されていた。決められた人生のシナリオ。
 自分の生き方すら決められないこの仕事が嫌いだった。思うように生きられない。事務所に生かされている気さえした。
 淡々と今後のスケジュールが説明される。年が明けて、光一の誕生日と共に解散。それ以降はソロとして活動をして行く。音楽の仕事を中心に、と言うのは配慮なのかどうかすら分からなかった。
 確かに、自分は音楽だけで生きて行きたい。けれど。
「どうせ分かる事だから、先に話しておく」
「はい」
「光一は、独立するよ」
「え、どう言う……」
「まあ、完璧に個人の事務所を構える訳じゃない。あいつに経営のハウツーはないし、社長も手放したくはないからね。事務所の全面バックアップの形でなら、って事で話はついてる」
 光一が要望したもう一つの案件だ。剛の動きやすさを考えると、一緒の事務所にいる事は出来ないと判断した。どうしようかと考えて、結局社長の手に決断を委ねていたのだ。
 手放さないでいてもらえるのはありがたいと、光一は思っていた。まだ商品価値があると言う事だ。剛の知り得ない話だった。
 チーフマネージャーを始め、キンキに付いていたスタッフが何名か移動する事になる。剛に付く人間が手薄にならないようにするからと、マネージャーは言った。独立する事で掛かるリスクはなるべく少なくしたい、と。
 剛は、ますます分からなくなった。解散だけでも自分の許容範囲を超えているのに、相方が独立するなんて。考えもつかない事だ。あの、事務所の申し子のような人間が、どうして。
「何で、其処まで……」
「全部、光一の意志だよ」
「光一の?」
「そう。解散も独立も、あいつが望んで事務所が動いたんだ」
「……俺が、好き勝手やってるから?」
「違う。……いや、ある意味そうなのかも知れない。少なくとも、僕達は光一の考えを聞いてそれが互いの為になると思った」
 此処最近の光一の姿を辿っても、何処にも変化は見られなかった。「解散」と言う重い計画を隠している素振りは一切見えなかったのだ。
 お前にとって、キンキキッズは一体何やったんや。こんな簡単に、俺の隣にいても平静を保てる程のものでしかなかったのか。
 彼が壊す事だけはないと思っていた。いつかキンキがなくなる時が来たら、それは絶対に自分が原因だと。
 俯いて、唇を噛んだ。悔しい。何も気付かなかった。一緒にいる時間が少ないからではない。
 俺が、光一を見ていないせいだった。あいつを見る事は、随分前にやめてしまったのだ。自分とは違う彼の生き方を見ていると苦しくなる。
 相容れない存在だった。だから、隣に立つ人を遠ざけて生きる事を覚えたのだ。そのツケが回って来たのだろうか。
「剛。お前、ずっと動きにくかっただろ。これで楽になるな」
 マネージャーが優しく笑う。彼の言っている事は正しかった。動きやすくなる。しがらみがなくなって、自分の事だけで生きて行けば良いのだ。
 光一と生きる事は義務だった。其処から解放される。だからと言って、単純に喜べる事ではなかった。
 彼は何を思ったのだろう。何を考えて何を見据えて、「解散」に辿り着いたのか。
 知りたいと思った。ずっと隣にいるのが当たり前で見向きもしなかった相方を、こんな時になって思うだなんて。





「光一と話したい」
 事務所を出て車に乗り込んでから、すぐにマネージャーに言った。バックミラー越しに困った瞳を向けられる。
「言うと思ったよ。……でも、今更何を?」
「今更なのは、そっちやろ。俺は今更なんかやない」
「そうだったな。ごめん」
「ええんや。事務所の動きに気付かんかった俺も悪い」
「それはしょうがないよ。剛に気付かれないように動いていたんだから」
 マネージャーの言葉に眉を顰めた。彼らが何を考えているのか、ますます分からない。
「意味分からん。俺の事やんか」
「光一の希望だったんだよ。全て用意出来てから話す事。あんまり早くに話すと、きっと悩むだろうからって」
 先刻から気に入らない。何でもかんでも主語に「光一」と付いていた。彼の意思で事務所が動き過ぎている気がする。
 タレントの言い分なんて聞いてくれない事が多いのに。マネージャーも事務所の人間も光一の意に沿う形で話を進めていた。
「俺も二人で話す事は、必要だと思う。でも、剛自身が正義感の為だけに何かを言おうとするなら、やめておいた方が良い」
「正義感なんて、そんなんやない」
「じゃあ、剛は何を思って光一と話す?光一に何を話したい?」
「分からん。でも、このまんまじゃあかん」
「そう言うのを正義感って言うんだよ」
 マネージャーは、時々子供に向けるような笑顔を向ける。諭し方を考えている、親みたいな表情だった。そんなものを向けられる程、自分は幼くない。
 どちらかと言えば、光一にこそ相応しい表情だった。彼は時々、不安になる位成長していない部分がある。
「剛の中に何もないのに、とりあえずで話し合いをするのは良くないと思う。剛にとっても、光一にとっても」
「ん。それは、分かる」
「場を設けるんなら、いつでも調整するから。今は、その書類読んでこれからの事考えて。もし出来るなら、二人の事も考えてみて。その時に光一と話したい事がちゃんと見えたら、俺達に言って欲しい」
「分かった」
「話し合いは必要だよ。でも、必要なものにする為には、良く考えた方が良い。まだ、話を聞いただけなんだから」
 解散したいのかしたくないのか。怒りたいのか泣きたいのか。分からなかった。
 今は唯、「解散」の事実を受け止めるのに精一杯だ。自分の心を正確に見極める力はなかった。
 今此処にあるこの感情が、自分の全てだとは思いたくない。
 言い渡された時、確かに自分の心には安堵があった。一人になれる。開放される。張り詰めていた糸が緩んだ感触。
 もう、光一と二人で生きなくて良い。
 運命を分けた相手だった筈なのに、いつの間にこんな気持ちが芽生えていたのだろう。デビューして十年、二人でと言う意味でなら十五年以上一緒にいる人だった。家族の縁を切るような痛みがある。
 安堵だけではなかった。ちゃんと痛む心臓が此処にあって、離れる事に疑問を抱く自分がいる。
 光一は、「解散」を見据えていた。俺の隣で、俺と離れる事を考えて一緒にいたのだ。自分にとっては裏切りですらあった。
 彼が結論を出したのは、一体いつのことなのか。その変化を見抜けなかった事が悔しい。





+++++





 仕事で会う時に、と思ってもなかなか一緒になる事はなかった。もしかしたら、解散を控えて調節されているのかも知れない。
 今思えば、十周年と言う区切りの時期だったのに二人でいる事は少なかった。キンキと平行してずっとソロ活動も続けていたのだ。
 二人の番組は一つだけになっていて、新曲の時期でなければ月に一、二回顔を合わせる程度で済んでいた。会わなくても仕事が出来ると言う事実に今更ながら胸が痛む。
 二人きりのグループなのに、一緒にいる事が特別になっていた。いつの間にこんなに一人で生きるようになっていたのか。
 マネージャーに事前に話して、収録の後近くのホテルを用意してもらった。時間に追われずに話したら良いと、チーフマネージャーは言ってくれる。
 彼と言葉を交わせるのは、後どれ位だろう。終わりを見始めている自分に愕然として、それでも話し合おうと思った。
 二人の事なのだから、例え現実が変わらないとしてもちゃんと向き合いたい。彼の口から真実が聞きたかった。
 事実ばかりが耳に入って、肝心の彼の心は何も分からないままだ。お前は何を考えて、解散に踏み込んだ?
 スタジオに入る前に、背後から呼び止められる。振り返ると長年お世話になっている大先輩、吉田健がいた。
 この番組は解散と共に終わる。残りの収録も簡単に数えられるまでになった。終わりは近い。風が冷たくなって行く度に、「解散」を意識した。
 季節は、秋の終わりだ。来年の自分がどうなっているかなんて、少しも分からなかった。
「お疲れ様です」
「お疲れ。元気か」
「はい」
「大丈夫そうだな。安心したよ」
 吉田の瞳は、どんな時も真っ直ぐ向けられる。音楽だけで生きて来たせいだろうか。言葉よりも他の感触に敏感な人だった。彼には嘘を吐いてもすぐばれてしまう。
「二人のコンサートに参加出来るのも、今回が最後なんだな」
「……急な事ですいません」
「いや、急でもないだろ。一年、までは行かなくても去年の終わり位だもんな、決まったの」
「……え」
 落ち着いた吉田の言葉は、剛にとって衝撃だった。去年の終わり?自分が話を聞いたのは、ほんの二、三週間前の話だ。
「光一が珍しく一緒に飲みたいって言うから、何かあるんだろうとは思ったんだけどさ。行ったら解散の話だもんなあ」
 解散は、全て光一の手で用意されたものだ。彼が切り出して、そのレールの上を俺は歩いている。では、いつから用意されていたレールなのだろう。
 事務所の人間ではない吉田に話せると言う事は、年末には決まっていたのだ。十周年なんて、解散の為でしかない。
 光一は、解散を決めながら「十年一緒にいられて良かった」と笑っていたと言う事だ。何を求めているのか分からない。あんな風に笑う人が、どうして。
 嘘吐き、と罵ってやりたかった。
「剛は、音楽を続けるのか」
「……はい。そのつもりです。最近はもう、音楽しかやりたくなかったから」
「そうか」
 吉田は悲しそうに目を細める。労わる表情だった。
「光一がお前の為に棄てるものだ。大事にしろよ」
「どう言う、意味ですか」
「……やっぱり、聞いてないのか」
「はい」
「解散してからの条件の一つだよ。光一は音楽の仕事をしない。二人の接点を少しでもなくす為だって」
 解散に付随する細かな事は書類で渡されていたけれど、きちんと目を通していない。その後を考えられる程、現状を受け止められていないせいだった。
 何処までの取り決めがなされているのか。事務所を出る光一の方が条件が多いのは分かる。
商品価値の高い人だから、相当揉めたんだろう。事務所の人間は、今でも彼を引き留めようとした。

 けれど、それではまるで。
 全て自分の為に用意されたシナリオではないか。





 日付を越える手前で、やっと収録が終わった。疲れていない訳ではないけれど、必要な話し合いだ。少なくとも、自分にとっては。
 光一が見えない。傍にいる時間は少なくなっても、長い年月を一緒に過ごして来たから、全てを分かっているつもりだった。
 「解散」なんて言葉を聞いて、初めて二人の距離を思い知るなんて。俺はもうずっと、隣に立つ人を見ていない。
 支度を済ませて楽屋で一人待っていると、隣が騒がしくなった。一緒だった楽屋は、解散の話を聞いてから別々にされている。一人になる為の準備だった。
 隣は光一の楽屋だ。気になって、扉からそっと覗いた。中には自分の所とは違い、何人もの人間がいる。その中心に座るのは光一だった。
 息を詰めて、彼らのやり取りを聞く。周囲にいるのはチーフマネーシャーを始め、事務所の人間ばかりだった。光一が首を横に振る。
「嫌や。剛と話す事なんか、何もない。行かない」
「今日時間を作るって話した時は、平気だっただろ。何で」
 椅子に座った光一の真正面に跪くと、彼のマネージャーは顔を覗き込んでその手を握る。駄々を捏ねているだけなのに、他の人間も心配そうに見守っていた。
「無理。駄目や。俺を剛と二人にさせないで」
 涙を見せない光一が、泣きそうに顔を歪めて小さく叫ぶ。剛は、その光景を身動き一つせずに見ていた。誰も扉の外に立つ存在には気付かない。
「一度は向き合わなきゃいけない事、分かってただろ」
「……今更、何もない。無駄な時間や」
「じゃあ、直接そうやって言いなさい。剛の為に決めたなんて言って、お前が本人を一番混乱させてる」
 チーフマネージャーが、厳しい声で諭す。言葉を紡げなかった光一は、目許を右手で覆った。
唇を噛み締めて耐える姿は見慣れたものなのに。その対象が自分自身だと知るのは辛かった。
「仕事だと思って、きちんと説明して来い。光一の気持ちは、此処に置いて行けば良い。僕達が持っている。だから、何も怖がらずに行っておいで」
 厳しい口調の中に、抑え切れない優しさがある。彼の周りには、いつも柔らかい感情が溢れていた。それが羨ましくて、自分は自分だけの優しい環境を築こうと思ったのだ。
 良い意味でも悪い意味でも比較されやすい二人だった。他人に比べられるのが嫌で、けれどいつの間にか自分自身が光一との差異を気にしている。
 音を立てないよう楽屋に戻って、マネージャーに呼ばれるのを待った。彼もまた、隣の部屋にいる。
 あんなに取り乱した光一を見るのは久しぶりだった。冷静でいるのが当たり前になって、自分の後ろに隠れていた幼い頃の面影は既にない。
怜悧な瞳は、いつでも真っ直ぐ現実を捉えていた。濁らないあの視線は、弱い自分にとって凶器だ。
 十周年も解散も淡々とこなして行くんだと思っていた。
 健さんもマネージャーも当然のように言う。剛の為、だと。そんな筈はない。二人の為になるからこそ、光一は決断した。キンキと言うしがらみから自由になる為に。
 違うのだろうか。彼らが口にする言葉の意味が見えて来なかった。それは、光一と向き合っていないせいだと思う。
 拒絶を見せた相方に傷付く心が確かにあった。あんな風に嫌がられるなんて思いもしない。どうして。
 此処で思い悩むよりも口にすべきだった。時間は少ない。乗せられたレールが、完璧に彼と離れる前に。
 話をしなければならない。気にする事すら少なくなった光一をちゃんと見詰めてやりたかった。
「Buena Suerte !」 2007/06/10 issue vol.8


 こんにちは。お久しぶりです。秋山 爽です。今回はちょっと、ペーパーの作りを変えてみました。B5もたまには新鮮。
 いよいよのオンリーですよ!物凄く前から気合を入れていたのに、相変わらずの撃沈ですが(笑)。つよこーが一杯!そんな場所がある事が嬉し過ぎます♪
 10周年がどうなるのか、未だに分からない怖い感じですが、きっと何かある事を願っています。今不安なのは、デビュー時と同じ二人しかいないのに、一人が海外ロケと言う状態……。これ、怖いよねー。光一さんの映画のクランクイン時期を考えると嫌過ぎます(泣)。
 さて、楽しみにしていたのに新刊がこんなのでごめんなさい!と平謝りな感じです。うわー、申し訳ない!やってはいけない、禁断のネタ(しかもこの時期に)を書いてしまいました。今回は特に、剛さんファンに謝罪したい感じです。ごめんなさい……。光一さん寄りで書いたら、酷い事になってしまいました。相変わらずと言えば相変わらずなんですが。お手に取る際はお気を付け下さい。
 その代わり、合同誌とペーパーは可愛い話を目指してみました!合同誌はまだ見ていないので、ドキドキなんですが、きっと可愛い筈。装丁が(笑)。本の作りと他の皆様の話を読むのが楽しみですvv
 ペーパーの話がやっぱり長くて、ゆっくりお話も出来ません。ではでは、またいつかどこかでお会いしましょう。次回未定です(笑)。


■information■
更新頻度は、しょーますとごーおん並なサイトですが。基本はウェブ上生息です。
「SUERTE」
URL:http://tomorrow02.hp.infoseek.co.jp/
mail:happy_21@mac.com

■guide of books■
<新刊>
「寿」 ¥1,000-
+合同誌です。総勢6名の素敵な本となりました。
+テーマはずばり「結婚」。明るく可愛い話になったと思います。

「空に憧れた魚、海の底を夢見た鳥(永遠に交わらない蒼についての考察)」 ¥300-
+「解散」をテーマに、設定は2006年年末から2007年年明けまでで書いてみました。本当に解散するお話なので、苦手な方はお気を付け下さい。
 また、剛さんにも余り配慮がなっていません。その辺ご理解頂ける方にお手に取ってもらえれば、と。読まれる方を選ぶものを書いてしまいごめんなさい!

<再コピ本>                  <既刊>
「桜色の恋」 ¥200-              「帰る場所」 ¥600-
「唇にあまい夢のつづきを」 ¥200-       「黎明の檻」 ¥300-
「冬の恋」  ¥400-
 そっと目を閉じて、世界を見詰めてご覧。
 きらきらと光るあたたかいものが見えるでしょう?
 この世界は君が恐れている程怖いものではないんだよ。
 泣かないで。唯、僕の隣にいて。
 海の底に沈んだ自分を救い上げた言葉。優しい人。
 傍にいる温もりをいつでも変わらずに大切にしたい。





「きらきら」





レギュラー番組の収録の為にスタジオ入りすると、廊下で剛のマネージャーに呼び止められた。
「おはようございます」
「はよーです」
「光一君ごめんね。悪いんだけど、剛寝てるから静かに入ってもらえるかな」
「了解です。具合、悪かったりします?」
「ううん。唯の二日酔い。昨日飲みに行っちゃってね」
「はは。そぉなんや。あいつ弱いからなあ」
「僕が止めた頃には、時既に遅しって感じで……。朝迎え行った時から頭痛いって言うもんだから、薬飲ましてとりあえず寝てもらってるんだ」
「大人しくしときます」
「申し訳ないね」
「いえいえー」
 携帯を片手に持ったマネージャーは、会釈をするとそのまま急ぎ足で去って行った。ぼんやりと見送って、自分のマネージャーを探す。
 あれ。一緒に入って来なかったっけ?
 振り返っても姿が見えなくて、光一は首を傾げる。本当は車を降りた時にスタッフと打ち合わせがあると言って別れたのだが、その経緯を聞いていなかった。
 立ち止まって考えても答えは見つからない。溜息を一つ零して、まあ良いやと楽屋へ向かった。
 マネージャーがいれば、楽屋に行かず喫煙室か喫茶店にでも連れて行ってもらおうと思ったのだ。一人で動くと言う発想は光一になかった。諦めて剛と同じ部屋の扉を開く。
 二部屋分の広さがある楽屋だから、離れていればそんなに気にならない筈だった。手前にある剛の名前が書いてあるドアではなく、奥の自分用のそれから入る。
 いつもは面倒臭がって剛の方から入るのだが、一応気を遣ってみた。そっと扉を開く。
「……わ」
 小さく声を上げてしまった。てっきり自分のスペースで寝ているだろうと思ったのに、扉を開けてすぐの所に相方が眠っていたのだ。声を上げたのは、不可抗力だった。
 畳の上に身体の左側を下にして横たわっている。光一のスペースである鏡台前に、何故か光一専用のブランケットを被って剛は寝息を立てていた。
 呼吸が苦しそうではないから、少し安心する。三本撮りのこの収録は、はっきり言って体力勝負だった。二日酔いが自業自得と言えばそれまでだけど、なるべく相方には元気であって欲しい。
 この気持ちは多分、十代の辛い時期を一緒に過ごしているせいだった。剛が元気だと無条件で嬉しくなる。怖くなかった。
 アルコールが残っていたのだろうか。ぼーっとした頭で、何も考えず落ち着く奥まで来てしまったのかも知れない。剛側の鏡台には、ちゃんと彼の鞄とギターが置いてあった。覚束無い足取りで此処に来てしまったのだと結論付ける。
 しょうがないなあ。眠る剛が可愛いような愛しいような気持ちになって、光一はそっと笑った。
 扉を静かに閉めて、彼の頭の所にしゃがみ込む。奥を向いているせいでその表情は見えない。肩が規則正しく上下していた。小さく丸まって眠る姿は、幼い記憶を呼び起こす。
 こんな風に、眠れない夜は剛を眺めていた。緊張と恐怖と、張り詰めた神経が眠気を押し退けていた子供の頃。隣のベッドに歩いて行っては、剛のいるこの空間だけは怖くないのだと言い聞かせていた。
 眠れない自分に気付いて、一緒にベッドに入れてくれた事もある。大丈夫やよ、と繋いでくれた温かい手。あの頃、剛は自分にとってヒーローだった。必ず俺を救ってくれる存在。
 幼い記憶を呼び起こして、光一は指先を伸ばした。彼を起こさないように、黒い髪に触れる。不思議な髪型ばかりする人だった。不規則に揃えられた毛先を梳く。
 あの世界からは遠く、二人きりの場所は崩壊してしまった。もう二度と戻らない場所。あんなに苦しい思いをするのなら、戻れなくて良いとお互いが思っていた。
 二人で生きて行くのは悲しい。
 少しずつ信頼出来る人を作って行った。繋いでいた手を離しても怖くないように。恐怖の支配する心を解き放つ為に。
 今はちゃんと大切な人が沢山存在する。二人きりの寂しい世界は終わった。お互いを別の存在と認識して、良い距離を保っていると思う。切迫した感情で相方を求める事はなかった。
 二人で未来を見て、必要な時は手を伸ばす。伸ばされた手を必ず繋ぎ止める。長過ぎる時間を掛けて辿り着いた距離は、こんなにも心地良いものだった。
 外から見れば、遠く離れてしまったように感じるのかも知れない。でも、違うのだ。この場所で立つ事に意味があった。それぞれがきちんと一人で立つから、お互いを支えられる。
 剛は、今も昔も変わらず大切なパートナーだった。他人には理解されにくい関係なのだと思う。けれど、此処が幸福なのだと、二人とも痛い程知っていた。
「……よぉ寝てんなあ」
 ほとんど音にならない声で呟く。ゆっくりと髪を梳いて、眠る相方を飽きずに眺めた。メイクをしたり衣裳に着替えたりとやらなければならない事はあるけれど、誰かが起こしに来るまでは自分もこのままでいようと思う。どうせ一人だけ準備が出来ていたって仕方ないのだ。
 癖のある黒い髪は、ふわふわと跳ねていて可愛い。長い時間見続けて、見飽きてもおかしくない位の人。
 自分のものだとお互いに錯覚して、けれどそれが不幸なのだと気付く事が出来た。全く別の存在だからこそ大切にする。愛しく思う。
「つよし」
 呼び掛けても起きる気配はなかった。勿論起こす気も光一にはない。傍にいるのに、違う世界にいるような気がした。
 届かないのではない。この場所で生きて行こうと二人で選んだ。光一は静かに笑う。二日酔いの相方は、きっとマネージャーが起こしに来るまで目覚めないだろう。
「ずっと、一緒にいような」
 好き。愛してる。囁きに愛を込めた。指先を頬に滑らせる。温かい感触があった。
 剛は生きている。そう実感する度に、幸福な気持ちが込み上げた。同じ世界で、今も彼は此処にいるのだ。
 それだけで良い。他には何も必要ないとすら思えた。
「……ん」
「あ」
 僅かに身じろいだかと思うと、剛がゆっくりと仰向けになる。濃い睫毛に縁取られた瞳がぼんやりと開かれた。起こしてしまったか、と反射的に引いた腕を寝起きの熱い手が掴む。
「良い夢、見てた。これのおかげやな」
 ゆったりと笑んで、掌に口付けられた。気取った仕草を恥ずかしげもなく出来る人だ。
「おはよう」
「……おはよ。二日酔い、平気か?」
「うん。目ぇ覚めて光一の顔見れたからな」
「そ、か」
「なぁに。照れてんの?」
「違う」
 全てを見透かすように笑われて、瞳を逸らした。剛は嬉しい事ばかり言う。自分の欲しい言葉をちゃんと知っていた。把握されているのは、安心感と羞恥心が紙一重だ。嬉しくて恥ずかしい。
「さ、支度しよか」
「うん」
 寝起きの良い剛に促されて、一緒に衣裳に着替え始めた。もう子供じゃないのに、自分の衣裳を取られてわざわざ着替えさせられる。文句を言っても聞き入れられなくて、為すがままになった。剛は楽しそうに笑う。
 良い夢見せてもらったお礼、と言われてもうどうにもならないから一緒に笑ってみた。

 一つの世界が崩壊して、新しい世界が始まる。二人で生きる事は出来ないけれど、お互いを幸福にする方法を知った。
 きらきらと光る世界を、ずっと生きて行く。


【了】
 ずっと、好きだった。
 何度季節が巡っても、この恋が消えた事はない。大切に育んで来た思いだった。
 同姓である事、仕事仲間である事、運命を共有してしまった人だからこその戸惑いも多い。この恋を終わらせるべきだと考えた事も何度かあった。
 それでも。
 長くこの世界で生きて来て汚れてしまった自分の中で、唯一残った綺麗な感情だったから。彼への思い以外に綺麗なものを体内で幾ら探しても見つからない。
 彼を幸せにしたいとか、そう言う優しい感情ではなかった。自分もまだ綺麗なのだと思っていたい。
 彼を愛しく思う透明な感情が、濁った身体に今も存在していた。
 光一を自分のものにしたいと言う、甘やかな恋心。

+++++

 慣れたメンバーにスタッフ、いつも通りのスタジオ。この場所で緊張した自分はもういない。安心してギターを弾いて、相方に進行を任せて必要な時だけ言葉を発せば良かった。
 二人一緒の番組は、これ一つになってしまったけれど。一人の時間を増やしたがったのは自分だから仕方ない。好きな事をやれる時間が欲しかった。彼に迷惑を掛けずに生きられる瞬間が欲しかった。
 そんな思いがいつしか二人を離してしまうとは気付かずに。手遅れとは言わないけれど、光一が自分を見ない瞬間は増えた。人見知りで愛想のない人だから、意識を外に向けるのは良い事だと思う。
 最近は先輩後輩問わずに誘われるようになったみたいだし、素直に甘える術も覚えて来た。彼にとっては、成長なのだろう。
 けれど、二人きりの世界を知っている自分には苦しい事だった。光一が自分だけを見て自分だけを信頼して生きていた時間を知っているから。あの小動物みたいな瞳が自分を探して揺れているのが嬉しかった。
 もう、過去の話だ。光一は外を向く。自分は一人の世界に没頭する。
 幼い頃の異常なまでの至近距離から、健全な場所まで来た。今でも光一は綺麗に笑ってくれるし、自分を見つけると嬉しそうに駆け寄って来る。何の不満もない筈だった。
 いつか、可愛い女の子と結婚して子供が生まれて、家族ぐるみの付き合いをする。そうすればきっと、年を取っても一緒にいられるだろう。近過ぎる距離に崩壊を恐れる事はない。
 けれど、自分の心が悲鳴を上げた。辛い、苦しいと啼く汚れた心臓。そんな距離は望んでいない。俺は、光一を手の中に納めたい。
 大人になりきれない自分が抱える、子供の我儘だった。でも、ずっと自分のものだったのだ。出会った瞬間からずっと、手の届く場所にいたのに。
 独占欲は膨らむばかりで、どうしようもなかった。俺だけに笑って欲しい。俺だけに触れて欲しい。俺だけを見て欲しい。
 このままでは、狂ってしまいそうだった。曖昧な、相方と言う距離に甘んじているのは限界で。はっきりと自分のものにしてしまいたい。恋でも愛でも構わないから。
 スタッフと打ち合わせをしている光一を見詰めた。進行役は完璧に任せてしまったから、自分はステージの上でメンバーとギターを弾いている。セッションをしながら、スタジオの隅に視線を遣った。
 真剣な表情の合間に見える柔らかな微笑。慣れたスタッフなのだから、リラックスした表情は当たり前だ。本番前の時間位は緊張せずにいられた方が良い。
 頭では分かっていても、心は別だった。嫉妬深いのか子供なのかは分からない。唯、傲慢に純粋に光一は自分のものだと思っていた。
 何処にも行かず此処にいるのだと、無条件に信じているのは自分だ。仕事の距離よりも近くにいた時間が長過ぎたせいかも知れない。光一が自分以外に懐かなかったせいかも知れない。自分が彼を守るべき存在だと思い込んでしまったせいかも知れない。
 色々な要因が複雑に絡まって、今自分の体内に恋があった。唯一のきらきらした感情。捨てたら死んでしまうと思える程の強い恋だった。
 光一は俺を大切にしてくれているけれど、恋情を抱いている訳ではない。苦しいのは自分だけだった。彼の感情は仕事仲間と家族とのちょうど間にある柔らかな優しさだ。運命を共にする者への絶対の信頼はあるけれど、恋はその体内の何処にもなかった。
 同じ感情を共有していなくても良い。けれど、自分のものにしてしまいたい。
 スタッフと笑い合う光一を見詰めた。楽しそうな顔。俺を見ない瞳。同じ空間にいるのに。
 お前のいる場所は其処じゃない。いつだって、俺の隣だけやろ。
 セッションの音すら遠くなる。自分が今どのコードを押さえているのか分からなくなった。
 光一のいる場所だけが、明るく見える。神様に愛された証。白い光が降り注ぐ場所。俺からは遠い場所。
 離れたのは自分だった。欲しいものがあった。光一と二人では目指せない場所にあったから。
 彼に一人の居場所を与えてしまったのは、自分だ。分かっている。欲しがってはいけなかった。一人で生きる光一を責めてはならない。
 心拍が乱れて荒れ狂った。あれを掌中に出来るのは、俺だけ。世界中でたった一人。そうやろ?お前は、俺のもんちゃうの?
 スタッフの手が、光一の肩に触れる。あの特別な人に触れて良いのは、自分だけだった。他人との接触にすら怯えて、俺の後ろに隠れている子供だったのに。
 成長させたのは自分のエゴだった。そして、手許に置いておきたいと願うのも紛れもないエゴだ。
 唇を噛んで、弦を弾いた。開放弦。左手が追い付かない。光一しか見えなかった。奏でる音色が分からない。
 一緒に演奏しているメンバーが、自分の方を見た。おかしな旋律に気付かない訳がない。
 光一は笑っていた。親密な素振りで、俺以外の人間に。
 自分の音が追えない。どうしてお前は、そんな遠くにいるんや。お前が欲しい。
 発作だ、と思った。あの呼吸が出来なくなる感じとはまた違う。不治の病。恋の発作。
 あの光が欲しい。
 コードをろくに押さえずに鳴らす耳障りな音に耐え切れず、コードを引き抜いた。メンバーが驚いて、動きを止める。けれど自分は光一しか見えなかった。
 不自然に終わったステージの上のセッションに気付いて、打ち合わせをしていたスタッフと光一が振り返る。動きに従って揺れる髪すら、俺のものだった。
 愛している。ずっと一緒にいられなくても、一人で生きる手段を見付けても。幼い時に生まれた感情は、今も心臓を占めていた。
「光一!」
 手近にあったマイクを掴んで、スタジオの隅にいる人を呼ぶ。自分の不可思議な行動に慣れたスタッフすら眉を顰めていた。呼ばれた光一だけが、何の疑問もない顔で「なに?」と首を傾げる。少女めいた仕草だった。
 手に負えない程綺麗になって行く彼を繋いでしまいたい。はっきりと自分のものにしたかった。抗い難い独占欲だ。光一の気持ちなんて考えていない横暴な。
 けれど、止まらない。この心臓を押さえ込んだらきっと、死んでしまう。
「光一!」
「はいはい。なぁにー」
 周囲の人間は身動き一つせずに二人の動向を見守った。狂気に近い場所にいる自分と、いつもと変わらない穏やかな光一。静まり返ったスタジオに、自分の声だけが響き渡った。

「光一、結婚しよう!」

 自分でも何を言ったのか一瞬分からなかった。スタジオの時間が止まってしまったのかと思う程の静寂。誰も動かない。
 今、俺は何て言った?光一が欲しくて、誰にも渡したくなくて。引き止めたかった。彼が誰かのものになる前に、誰かを決めてしまう前に。お前と一緒にいたのは俺だけや。今更他の人間に渡せるものは何もない。
 自分の恋情と、皆に愛される光一への恐怖。焦燥感が恋に拍車を掛けた。口に出してはならない恋を、耐え切れずに零してしまったのは失態でしかない。
 けれど、問題はそんな事ではなかった。好きだ、愛している、ならまだ良い。愛を告げるにはそれで充分だった。なのに。
 まさか自分が「結婚」と言う言葉を出すとは思いもよらなかった。しかも、相手は光一だ。常識的に考えて、同性同士で結婚は出来ない。
 同性愛を自覚しながら考えるのは今更のような気もするが、根本的には常識人なのだ。法を変えようと思ったことはないし、その為に国外逃亡を目論むつもりも今のところなかった。
 二人には遠い言葉だ。例え光一が自分を受け入れてくれたとしても、その言葉を持ち出す日は来ないだろう。
 衝動に任せて言ってしまったとはいえ、何と自分は馬鹿なのだろう。スタジオの温度が下がった気がして、恋に狂い掛けた心臓が冷静さを取り戻す。
 スタッフもメンバーも誰も動かなかった。多分、俺の次の動きを待っている。

「ええよー」

 其処に場違いな程明るい声が響いた。
http://kurocoroku.web.fc2.com/index.html

http://www.geocities.jp/inuusa8/

http://www.eieio.jp/~arashinomori/index.html

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/6170/words.html

http://dekirudake.blog.shinobi.jp/
 季節が巡るのが余りにも早過ぎて、その早さにいつも飲み込まれそうな気がしていた。隣に立つ彼は時の巡りになど惑わされない強さで、真っ直ぐ前を向いていたから敵わないと思う。
 彼の強さは、強い事ではなく強く在ろうとする事だった。

+++++

 今年こそもしかしたら二人だけで過ごせるかも知れないと思っていた年越しは、結局例年通りドームで迎えてしまった。彼と二人でいたいだなんて、今更無理な願いなのかもしれない。
 コンサートが終わると恒例の初詣にも行って、解放されたのは明け方になってからだった。皆と別れてホテルの部屋へと向かう。
 隣同士の俺達の部屋。マネージャーとはエレベーターで別れ二人きりだった。
 まだ明け切っていない早朝のホテルの廊下で、やっと二人になれた。ちらりと見た腕時計の針は五時三分を示している。微かに指先を触れ合わせたまま、人気のない廊下でお互い何も言えずにいた。

 光一はもしかしたら忘れているのかも知れない。
 時間が、彼の周りだけせわしなく動き回っているような、見慣れたと言うには余りにも痛い日々を過ごしているから。
 その中で約束を置いて来てしまったとしても、責められなかった。
 しかし、剛の思考とは裏腹に光一は黙ったまま剛の部屋に真直ぐ進んで行く。
 眠たそうな瞬きを繰り返しながら、それでもしっかりとした足取りで。
 剛の約束を果たそうとしてくれているのだ、この人は。

 「…覚えてたんや」

 剛の呟きに光一は不服そうな顔をする。
 さらりとした髪が頬に掛かった。

 「何や、忘れてた方が良かったんか」

 少しだけ唇を突き出してむくれた表情を作るのは、照れているからかもしれない。
 光一は剛の願いをそのまま受け入れ叶えようとする時、いつも決まり悪そうな後悔に満たない小さな痛みを抱えたような、そんな顔をした。
 その表情は、光一の脆さに起因するのだろう。

 「ううん。嬉しいんや」

 カードキーを通しながら滑らかな頬に唇を触れさせた。
 軽い感触に光一の瞳が揺れる。

 「お前はホンマ場所をわきまえん奴っちゃなあ」

 てっきり怒られると思ったのに(本心はどうであれ、口先だけは)、呆れたように笑うだけだった。
 崩れそうな柔らかな笑みを口許に刻む。
 疲れているのだろうか。
 先刻から彼は無防備とも言える程に素直だった。
 触れた跡を辿るように頬に指先を滑らせる。

 「ほら、入り」
 「ん」

 促されるまま部屋に入った光一は、剛の一歩先を歩く形で進んでいった。
 窓際に置かれた椅子の上にある荷物へ視線が滑る。
 いつでも焦点が曖昧な光一の瞳は、真直ぐに見据え過ぎるから居たたまれなくなる事があった。
 思わず言わなくても良い事まで口にしてしまう。

 「もうプレゼントはないから安心し」
 「…そんなん何も言うてへん」

 声に強い反発を込めて光一が振り返った。
 明りのついていない室内で、それでもこの人は綺麗だ。
 見上げて来る瞳が妙に潤んでいたからどきりとした。
 自分より背が高い癖に、こうして上目遣いをするのは卑怯だと思う。

 「何も贈らんし、何も言わんから」

 物よりも言葉よりも、彼が望むのはもっと別の事だった。
 もっと、容易くて呆気無いものを愛していた。
 振り返ったまま動かない光一を残して、剛はベッドに腰を降ろす。
 その動きを瞳だけで追っていた光一が、ゆっくりと口を開いた。

 「お前に言われるのは嬉しいわ、阿呆」

 はっきりと拗ねた口調で言い放たれた言葉に吃驚する。
 只それを顔には出さず、手招きをして彼を呼んだ。
 目の前に立って見下ろして来る光一の丸い指に手を絡める。

 「そっか。じゃあ、お誕生日おめでとう」
 「ありがと」

 照れたように瞳を細めて、あどけなく笑った。
 剛だけに向けられる、光一の本質に近い笑い方だ。

 「二十五歳やなあ」
 「うん」
 「早いな」
 「うん」
 「おめでと」
 「…言い過ぎや、お前」

 苦笑と共に零された言葉は柔らかだった。

 「嬉しいねん、お前の誕生日」
 「俺も」

 指先をもう少し引いて、そのまま細い腰を抱き締める。
 光一の腹部に額を当てると、小さな呟きを落とした。

 「一時間だけな。一時間だけ独り占めさせて」
 「ん」

 クリスマスの時に交わした約束を光一が覚えていてくれただけで、こんなにも嬉しい。
 一月一日、彼の誕生日の一時間だけを剛に渡す。
 祝われるべき光一から与えられるのは良く考えれば可笑しな事だったが、二人の間に違和感はないから間違っていないのだと思った。
 それにしても、と剛は光一に分からないように苦く笑う。
 明け方のこんな時間に約束を果たさせるなんて、我儘以外の何者でもなかった。

 抱き寄せた腕を緩めて促すと、簡単に光一は剛の上に跨がる。
 いつもは何だかんだと理由を付けて嫌がるのに。
 その上、何気ない仕草で剛の首に腕を回してくるからさすがに驚いた。

 「光ちゃん、今日はえらい素直やなあ」
 「誕生日やからやろ」

 いつにない積極性を自覚しているらしい光一は、照れた表情を隠し切れずにいる。
 そんな顔を愛しく眺めながら、きちんと目を合わせた。

 「せやな。たまにはこんな光ちゃんもええな」
 「いつもは無理やで」
 「知ってる。それでええよ」

 光一の好きな顔で笑って、怯えさせないようにする。
 どんな光一でも、彼が彼であるなら全て愛しいのだ。
 天の邪鬼なところも強がりなところも、本当は寂しがり屋なところも、全て。

 薄い身体を引き寄せて、心音を聞く。
 少しだけ早い鼓動は戸惑っているのだろうか。
 ふと、光一に渡したい言葉を見つけた。

 「…俺、あの日お前に会えてホンマ良かった」

 響いているのは彼の命が刻まれている音。
 優しさより愛しさより、懐かしさが胸を占める。

 あの時この人に会えていなかったら、自分は今頃。
 何処で何をしているのか、生きていられるのかさえ分からなかった。
 あの日出会えたのはどんな奇跡によるものだろう。
 光一がいたから、今自分は此処で生きていられる。
 この世界で彼と二人きりで生きて来たから。
 
 「…そんなことないよ」

 剛の声とは全く違う優しさを含ませた光一が、剛の髪を梳きながら囁く。
 何を否定されているのか分からず、抱き締めた腕を解いて彼を見上げた。
 声と同じ優しく甘い表情は、何処まで甘くなっても不安定で。
 光一の優しさは、いつでも崩れてしまいそうな危うさを持つ。

 「もし、…もし今、此処にいなくても」

 大切な事を渡す時の悲しい位真剣な瞳。
 幼さを残す指先の感触が皮膚の上で憧憬と交錯した。

 「あの日、会ってなくても」

 歌うように光一は続ける。
 穏やかな表情が剛を惑わせた。

 「こやって二人で仕事してなくても」

 朝の光はまだ差し込まない。
 剛の瞳の中で、光一だけが一筋の強い光だった。

 「全然違う場所で違う名前で生きてたとしても。それでも――」

 光一の瞳も剛しか見ていない。
 剛しか見えないと視線だけで語っていた。

 「俺達は一緒やった思うよ」

 渡された言葉は抽象的過ぎて意味を掴み切れない。
 現実的な言葉を好む人だから、普段ならこんな言葉は紡がなかった。
 それでも伝えようとするのは、剛の為だと分かっている。

 「いつでも、どこでも」
 「うん」
 「『お前』と『俺』やったら、必ずどこかで巡り合えるんや」

 その言葉に剛は息を飲んだ。
 余りに強い台詞は、剛を縛り付けるものではない。
 自分の言葉は彼を雁字搦めにするばかりなのに。
 光一はこうやって俺を解放し続ける。

 「…光ちゃんが誕生日やのに、俺がプレゼントもらってもうたな」
 「こんな日にしか言わんで」

 特別な日だから、剛の為だから。
 自分の生より愛しい彼の為に。
 二十四時間だけの。
 剛の為だけの魔法。
 その愛情を余すところなく受け止めて、剛が悪い男の声で囁いた。

 「なあ、セックスしよか」
 「なっ…!?」

 急に思い切り大事にしたくなった。
 優しくしたい。
 身勝手な束縛を運命として受け取る強い人が。
 この腕の中にいる幸福を噛み締めたくて。
 焦って逃れようともがいていた光一だったが、諦めたようにそっと額にキスを落とした。

 「一回だけな」

 時計をちらりと見遣る。
 約束の時間まで、まだ少しあった。
 ゆっくりと細い身体をベッドに横たえる。
 見上げる光一の瞼に軽く唇を触れさせて、緩やかにその身体を開いていった。

+++++

 一回だけの優しいセックスは、光一の身体に負担をかける事なく終わった。
 「大丈夫」と拒絶する彼の言葉は聞かない振りをして、綺麗に身体を洗ってやる。
 浴室を出て時計を見ると、約束の一時間を少し過ぎたところだった。

 もう、解放してやる時間だ。

 バスローブを纏った光一は、乱れていない方のベッドに腰掛けていた。
 情事の後特有の物憂げな表情は、純粋に綺麗だと思う。
 肩に掛けたタオルで自分の髪を拭いながら光一の傍へ歩み寄った。
 カーテンの隙間から一条の光が差し込んでいる。
 光一の前にしゃがんで、彼の膝に手を乗せた。

 「ありがとな。もう充分や。お前の誕生日やのに、俺の方が祝ってもらったみたいやね」

 約束の終わりを告げると、何故か途端に拗ねた顔をする。
 感情表現が素直な光一なんて滅多にない事で、剛は慌てた。
 唇を突き出した子供っぽい表情でじとっと剛を睨み付けてから、ぼそりと低い声で呟く。

 「こんなカッコで追い出すんか」

 『追い出す』と言う表現に益々慌てた剛は余裕をなくして口を開いた。

 「え!え!?やって、隣の部屋やし!!」

 剛の慌てっぷりになどお構いなしで、冷たく一瞥するとベッドに上半身を倒す。
 そして、剛の視線から逃れるように反対側に身体ごと向いた。

 「光ちゃんっ」
 「………ゃ」

 光一が何か小さく言ったけれど、上手く聞き取れない。

 「何?光一」

 ちゃんと聞こうと光一の身体に覆い被さるようにベッドに乗り上げた。
 覗き込むと更に顔を背けて俯せになってしまう。
 根気強く促していると、くぐもった声でやっと口を開いた。

 「…俺やって、一緒にいられるんやったらおりたいんじゃ、ボケ」

 投げ付けられた言葉に、剛は光一の隣へ倒れ込む。
 何て可愛い子だろうと涙が出る程幸せな気分に浸りながら、その強情な肩を抱き寄せる。
 後ろからでも分かる位耳を赤くして、それでも大人しく剛の腕の中に納まった。

 「迎え来るまで一緒にいよな」

 もう寝た振りを決め込んだらしい光一は、何も言わなかったけれど。
 まだ濡れた髪に鼻先を埋めた剛は、暖かい気持ちで眠りに落ちていった。

+++++

 マネージャーが迷う事なく剛の部屋に光一を迎えに来るのは、それから数時間後の事で。
 甘い気分で寝惚けていた光一は、隣に剛がいない事に気付いてまた子供のように拗ねるのだけれど。
 密かに誕生祝いを計画していた剛は、会場に着いて真っ先に文句を言いに来た可愛い恋人にも余裕の表情を見せるのだった。
 結婚したいと最初にマネージャーに持ち掛けた時、彼は泣いて喜んだ。別に、俺の結婚を祝福しての事じゃない。今まで散々スキャンダルの揉み消しに奔走させられていたから、それがなくなると思って嬉しくなったのだろう。
 相手は二歳年下の売れない女優だ。ドラマの打ち上げで知り合ったのがきっかけで、明らかにファンだと言うのは分かっていたけれど、付き合い始めるのに時間は掛からなかった。
 本気で女優になりたかった訳でもなく、結婚が決まると俺の希望通り専業主婦になってくれて。今は郊外の小さなマンションを購入して暮している。
 理想通りの幸せな生活だった。彼女だったから結婚を決めた訳じゃない。結婚したいと思った時に一番深く付き合っていた女、それだけだった。
 もうすぐ二年、子供も一歳になった。光一は今も俺の隣で仕事をしている。

+++++

 子供が出来てからはなるべく一緒に過ごしたくて、滅茶苦茶なスケジュールの組み方はしないようにしていた。仕事よりも家庭を優先したスケジュールだと体調も良い。元々、俺の病気は精神的な部分が多かったのだから当たり前だ。
 俺の心を蝕んでいたのは、恋だった。
 自分の仕事の穴を埋めるように、この二年光一は無茶な仕事の仕方をしている。結婚後、彼がきちんと休んでいるのを見た事がない。理由は明白で、迂闊に優しい言葉は掛けられなかった。
 けれど、彼の強がりな性格故か相方のポジションは崩さず、妻や子供とも仲良くしている。特に子供は良く懐いていて、なかなか離れなかった。実の親より甘えられては立場もないのだが、俺の子供だと言う事を考えれば当然かも知れない。
 今日は仕事場に連れて来た子供に案の定泣かれて、たまたまその後仕事がなかった光一を一緒に俺の家に帰った。子供を抱いて入って来た相方を見た途端、妻は張り切って夕飯の仕度を始めてしまい、俺達は子供部屋へと追いやられる。
 絨毯の上に子供を降ろせば、光一は視線を合わせる為俯せに寝転がった。手近にある玩具を手に取って動かしながら子供に話し掛けている。俺は少し離れた所に座って、光一だけを見詰めていた。
 昔、俺の部屋で見せていたのと変わらない笑顔に胸が痛む。光一は、あの日から何も言わない。

 いつものように俺の部屋で、いつも通りの穏やかな時間が流れていた。TVゲームに夢中になっていた彼の背中へ静かに切り出したのだ。
 「別れよう」の一言もなく、唯「結婚する」とだけ告げた俺を光一は黙って見ていただけだった。その瞳は硝子色に変質して、感情の全てを閉じ込めてしまった事が分かったけれど。
 光一は何も言わなかった。
 非難や侮蔑の言葉もなく。強がる為だけの祝福の言葉すら。多分それが、彼の答えなのだと思う。
 断罪されるのは俺だ。この世で最も愛する人を捨てた。
 けれど他に方法は思いつかない。彼を救う為には離れるしかなかった。
 光一はニ度と本当の事を言わないだろう。硝子色は拒絶の意志だ。
 目の前で無邪気な笑顔を晒している光一は何一つ変わらないように見えて、錯覚しそうになる。
 まだ、恋人のような気がして。愛しているのだと自覚した。
 けれど、必死に光一に伸ばされる小さな手が現実を思い出させる。もう二度と、あの日々は還らないのだ。
 キッチンからは妻の作る料理の匂いが漂って来る。自分の家庭を持つ事が夢だった。綺麗な奥さんと元気な子供、両親の喜ぶ顔。
 ――その夢が叶わなくても良いと思っていたのに。
 伸ばされた手が光一の髪を捕まえて、嬉しそうな声を上げる。彼の子供ならどれだけ綺麗な子が生まれるのかと、真剣に考えた事もあった。今でも彼の子供は見たいと思う。けれど、男でも女でも彼を他の人間に渡したくなかった。
 離れても尚、こんなに欲深い自分がいる。もっと穏やかに、光一の愛情のように愛せたら良かった。彼の眼差しは優しく子供に向けられている。
 ずっと憧れ続けた瞳はまだ此処にあった。慈愛を深く成した色は、今も俺を強欲にする。
 その視線が欲しくて、声を発した。
「お前も結婚したらええのに」
 言葉はいつも空虚で意味がない。本当に伝えたい事なんて、言葉に出来る筈がなかった。
 子供の指先に明るい色の髪が絡む。そんな事にすら未だに嫉妬する自分が可笑しかった。
「せえへんよ」
 子供を見詰めたまま、光一が無感動に言い放つ。優しい視線が向けられる事はなかった。
 言ってからはっと気付いたように剛を振り返る。硝子の瞳はそのまま、けれどしっかりとした笑顔で。それがテレビ用に作られた偽物の事位、充分知っていた。
 俺の罪は重い。
「彼女おらへんしな」
 取り繕うような言葉に、胸の痛みを思い出す。光一との恋から逃げていたのは、間違いなく自分だ。
 好きで好きで、それだけで狂える程愛していたから。俺の愛で殺してしまう前に、手を離した。
 それなのに。光一は変わらない瞳で見詰めて来る。意識せずに向けられる視線は、今も変わらなかった。慈愛と優しさと、少しの寂しさを含んだ色で。
 硝子の瞳が感情の全てを隠す事はなかった。剛に捕われたまま、光一は此処にいるのだ。
 十二の、初めて会ったあの日から。
「ご飯出来たわよー」
 リビングから明るい声が聞こえて、後戻り出来ない現実に引き戻される。光一は不自然に視線を外すと、子供を抱えて部屋を出て行った。
 あの日閉じ込められた恋情は、もう二度と光一の瞳を染める事がない。
 何も言えないまま、俺達は今も恋を持て余していた。
 今でも、剛の温度を覚えている。
 心細くて仕方なかった新幹線の中で繋いだ手、二人だけと言う恐怖に耐えかねて重ねた身体、優しく触れる唇。
 どれもが鮮明に思い出された。その感触を痛みではなく、懐かしさとして認識出来るようになるまで、後どれ位掛かるのだろう。

+++++

「堂本さん、稽古再開しまーす」
「……っはい」
 ノックの音と共に掛けられた言葉に反射的に返事をして、自分が思考に沈んでいた事を知る。こう言うのは剛の専売特許やったのに。口許に笑みを刻もうとして、出来ずに動きを止めた。
 頬が濡れている。
 楽屋を見回して誰もいない事を確認すると、ジャージの袖口で涙を拭った。あの日からずっと涙腺は緩みっぱなしだ。鏡に視線を移して、自分の目が赤くなっている事を認識する。人に悟られないように目薬を差してから楽屋を後にした。
 もうすぐ舞台の幕が上がる。
 毎年繰り返されたこの公演は、共演者もスタッフも気心の知れた人達ばかりでやりやすかった。舞台の上を自分の生きる場所と決めたのだ。一切の妥協や諦めはしたくなかった。
 だから今は余計な事を考えてはならない。
 目尻を染めた朱が共演者を心配させる事には気付けず、稽古へと入って行った。

+++++

 剛は自分の仕事に余裕があれば、必ず楽屋まで迎えに来る。「お帰り」なんて言いながら抱き締めてくれた。それに安心して、舞台の上から引き摺って来た緊張をやっと解く事が出来る。
 剛は良く「光一が隣にいるとほっとする」なんて言っていたけれど、俺にとっても同じ事だった。彼は俺にとっての「精神安定剤」だ。
 本当に安らげるのは、剛の傍だけだった。それはきっと、小さな頃に刷り込まれたものだ。
 俺達は世界で二人きりだったから。剛しか見てはいけないと思って来た。
 この関係の異常さに気付いていない訳じゃなかったけれど。
 稽古が終わり、いつものようにマネージャーが運転するバンに乗り込もうとする。星のない夜だった。扉を開けた瞬間、後ろから大きな声で呼び止められる。
「光一君っ!」
 余りにも耳慣れた声に、苦笑と共に振り返った。心配性の共演者は大きな身体を縮めて光一の目線に合わせると、本当に心配している声で問う。
「光一君、大丈夫ですか?」
「何が」
 事務所の中で誰よりも近しい人間だと思っているのに、未だに秋山は敬語を崩さない。濃い眉を顰めて、悲しそうに呟いた。
「だって、泣いたでしょう?」
 優しい仕草で目尻に触れられる。洞察力の鋭さは、親愛の情故だろう。
 秋山は光一の事を良く見ている。
「今でも光一君は……」
「言わんでええよ」
 言いたい事はお互い分かり過ぎていた。彼はもう過去の事だ。
「駄目です、言わせて下さい。俺は今でも、剛君の事許せません」
「秋山……」
 指先が冷たい。体温はどこかに置いて来てしまった。否、ずっと昔に彼に渡してしまったのだ。
「光一君にこんな顔させてるのに、傍にいなくちゃいけない人なのに……」
 「剛」と言う名前だけで、こんなにも心拍数は正直に反応する。いつでも手を伸ばせば届く所にいたのに。
 俺達の人生は、きっと二度と重ならない。
「秋山、解散はあいつが一人で決めた事やない。二人で決めた事や。やから、お前がそんな顔しなくてもええよ」
 剛は今どこにいるんだろう。
 この世界に留まった俺は剛から見えているのだろうけど、こちらから剛は見えない。見ないようにしたのは自分だから仕方なかった。もう会わないと二人で決めたのだ。
 けれど、指先が剛を焦がれていた。

+++++

 解散して剛と離れてから、一番最後にしたのは携帯を捨てる事だった。誰からも剛の話を聞かないように、自分から連絡が取れないように。
 最後に会った時これからの事を尋ねたら、「美大受験するとか留学するとかしたいなあ」と呑気に笑っていた。引退を真っ先に決めた彼だから、それなりの展望はあるのだろう。
 今頃絵の勉強か異国の空の下にいる剛は、もう知らない人だ。幸せに生きて欲しいとだけ願う人。
 もう一つ、解散してからバラエティーや音楽番組には出演しなくなった。いつ自分が彼の事を口にするか分からなくて、怖かったから。
 思いをそのまま口にする事がないように、ずっと舞台に専念している。舞台は「演じて」いる事が出来るから楽だった。堂本光一はどこにもいない。
 ここが自分の生きる場所だった。俺は剛と違って、他に生き甲斐を見つける事は出来ない。彼のようにはなれなかった。
 解散したいと言った時、 反対せずに話を聞いてくれたのは社長だけだ。俺達の話を最後まで聞くと長い沈黙の後、「しょうがないね」と笑った。それだけ。
 何もかも限界だった事を社長も気付いていたのだろう。今まで散々理不尽なまでに留めさせられていたのに、呆気無い程簡単に解放された。
 お互い深く話し合って決めた事じゃない。唯、時期が来た事に気付いただけだ。ずっと恐れていた「いつか」に。
 周りの人間に勝手に決められた相方と言う存在を、自分の物だと告げる為に。解散する事を、手を離す事を自分達で決めた。
 今なら、剛は確かに自分の物だったのだと確信出来る。小さな頃大人達に繋がされた指先を離す事だけは、二人で選んだ。淋しさを覚えてはならない。
 歪んだ関係は、正常に戻される必要があった。離れる事は必然でしかなかったのだ。

+++++

 舞台が始まると、日々の流れがまた一段と早くなる。流されて生きる事に慣れてしまった身体は、疲れを訴える事もない。それに少し恐怖を感じて、畳の上に身体を投げ出していた。
 幕が上がるまで、まだ時間はある。仰向けになって台詞を呟いた。何度も何度も繰り返された言葉は、無意味な響きとなって消えて行く。
 思い出したら辛くなるのは自分なのに、一人の空間では彼の事しか思い出せなかった。寄り添って眠る体温、耳を掠める熱い吐息、髪を梳く指先の心地良い温度。今でも自分の心を揺らすのは剛だった。
 別れたかった訳じゃない。今この瞬間でさえ変わらず愛していた。
 視界が曇って行く。彼と離れてからずっと、世界はモノクロだった。秋山にまた心配されるとは分かっていても、堪え切れず涙が溢れる。
 剛の傍にいたかった。二人でいる意味も周りの人間の考えもこの世界にいる自分もどうでも良くて。

 会いたい。

 繋いだ手は離さなければならなかった。そんな事も全部分かって一緒にいたのに。
 俺達は離れる事が自然で、一緒にいる事が不自然だった。真っ直ぐ横に伸ばした腕を目で辿って、曖昧に開かれた指先を見詰める。
「……剛……」
 指の向こうに相方の姿が見える気がしたのに。
 冷えた指先を温めてくれる人は、もういない。
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