小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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三年と言う月日が、彼らにとって長いのか短いのか、年を重ね過ぎた自分には分からない。あの後の彼らは順調に一人の道を歩いているように見えた。想像もつかなかった未来が、今現実のものとして此処にある。
光一は、舞台人間としてすっかり定着していた。アイドルの枠は、独立しても取り払われていない。それはきっと、彼自身がアイドルとしての商品価値を捨てなかったからだろう。
同じ畑にいる剛よりも光一を気に掛けてしまうのは仕方なかった。手の届かない場所で、けれど相変わらず黙々と働いている。
二人でいた時よりも体型は健康的になっていた。細いのは変わらないけれど、人間らしい細さと言うか見ただけで心配してしまう程ではない。
一人になる事で、常に張り詰めていた糸が緩んだのだろう。光一と共に異動したスタッフは、彼が心地良い場所を作る為に一生懸命だったし、舞台で共演するジャニーズのタレントも彼に愛情を注いでいた。
愛される環境が整っているのだ。愛する事はもう出来なくても、愛情を享受しさえすれば、幸福な場所が用意されていた。
あの、二人でいる時の危うげな雰囲気が好きだったのに、と吉田は少し残念に思う。傍らに立つ人への恋情と罪悪感の狭間でいつも揺れ動いていた。今の光一は落ち着き過ぎていてつまらない。
そもそも三十路を過ぎた男にそんな雰囲気を求めても仕方ないのだが、安定した姿を見る度に嬉しいような悲しいような感情が胸に広がった。
一番大切なものを捨てた時に、自分の感情すら見限ってしまったのではないかと余計な心配をしてしまう。
お前は、もう平気なのか。問いたくなる。愛する人に背を向けて生きるのは、辛い事ではないのだろうか。
十八時と指定して、稽古場へ車を迎えにやった。吉田健を迎えに来させる人間は光一位のものだ。ミュージシャン仲間が知ったら、驚くか信じてくれないかのどちらかだった。
帽子を深く被った変わらないスタイルで待っている彼を助手席に乗せて、車を走らせる。今日の目的地は決まっていた。あれから幾度となく二人で飲みに行っている。店にこだわりのない光一は人任せにする事が多いから、大抵は吉田が決めた場所に連れて行った。
何処に行っても美味しそうに酒を飲んでまずそうに食べ物を口に運ぶ人間だ。提供される物の善し悪しよりも店内の雰囲気に気を遣った。
連れて行く店を考えていると、若い愛人を持った気分に陥る。あながち間違ってもいないところが間違っていると思って、頭を抱えるのもしばしばだった。
けれど、仕事を詰め込まなくても生きて行ける事を知った光一のスケジュールは、一時期を思えばゆったり組まれている。空いた時間を有効に使う術を知らない彼の手を引いてやりたかった。
一人でいさせたくない。独立して管理体制の厳しい事務所から出たのだから自由になるのだろうと思っていたのに、逆に過保護になっていたのは難点だったが。
近くの駐車場に車を止めて、連れ出したのはライヴハウスだった。都内の一等地にある癖に、時代から取り残されたようなビルの地下にある。彼らしい選択だと、吉田は密かに笑った。
「此処……」
「ちゃんと知ってるんだな。安心した」
「健さん」
「入るぞ」
不安そうな顔をする光一の腕を引いて、階段を降りる。一瞬抵抗し掛けた身体は、それでも大人しく付いて来た。
入り口で料金を払って、ドリンクを受け取る。暗い空間は、隣に立つ光一の顔さえ分からなくさせた。地下独特の埃っぽい匂いに懐かしさを覚える。自分も昔は良く出入りしていた。
僅かに屈んで帽子を被った顔を覗き込む。所在なさげに立つ姿が迷子みたいで、思わずその肩を抱いた。光一は素直に身体を預ける。
「大丈夫か」
「こんな、小さいとこじゃステージから見えてまう」
「中はもっと暗いから全然顔なんか見えないよ」
「でも、結構目良いんです」
「光一。あいつにとっての本当の意味での再出発なんだ。見てやれ」
重い扉を押し開けて中に入る。赤いライトが小さな空間を照らしていた。足許は暗闇に飲まれていて良く見えない。
光一を離さないように気を付けながら、ステージから遠い後ろの壁際に落ち着いた。困惑した素振りでステージを見詰める瞳は、照明の色を受けてうっすらと赤く染まっている。
「今回の話、どれ位知ってる?」
「話?」
「独立した事だよ」
「……あー、ニュースで見る位です。うちのスタッフ気ぃ遣って触れないようにしてるから。名前も出さないんですよ」
「愛されてるんだな」
「はは。はい」
光一が安定した雰囲気を保っているのは、単純に周囲の人間に大切にされているからだ。政治的背景が少なくなった分、ダイレクトに愛情が届くようになった。スタッフの思い遣りを分かっているから、光一自身も問う事が出来ないのだろう。
独立した、剛の事を。
「お前が出て行ってから、剛もずっと事務所と話し合っていたらしいんだ」
「はい」
「あいつ言ってた。光一が守ってくれた場所なのは分かってる。でも、だからこそ一人立ちしなきゃいけないってね」
「そんな……」
「剛なりの正義だと思うよ、俺は」
グラスを両手で包んで、光一は押し黙った。吉田も剛に相談された時、事務所にとどまるべきだと話したのだ。一人で音楽をやるのはきつい、と。
それでも彼は決断した。光一の時とは違い、その独立に事務所の人間は付いて行っていない。孤独な再出発だった。
「独立して全部自分で始めた。それが今日、やっと形になる。お前が見てやるべきだよ」
「今更、俺なんか」
「剛が事務所出たの、いつだか知っているか」
光一は首を振る。余り大きく取り上げられなかったから、契約的な面は報道されていなかった。
「一月一日だ。……これが意味するところ、考えてやれ」
困った顔で見上げられる。噛み締めた唇が乾いていた。赤い照明が光一を不安定なものに見せる。
ああ、こんなところにいたのか。好きだった、不安定で危うげな空気は剛故のものだった。剛だけが彼を左右する。三年と言う月日は、彼らの根本を変える程のものではなかった。
「あれから、剛に会ったか」
「一度も」
「なら、ちゃんと見ていてやれ」
ドームを埋める事の出来る人間が、わざわざこんな小さな箱でスタートする。大々的な広告を打てる訳ではないから、彼のファンが此処にどれ位いるのか分からなかった。曲を届ける事だけを目指していたから、堂本剛と言う名前は全面的に伏せてある。
光一こそが、此処にいるべきだった。誰も剛の事を知らなくても、彼だけはこの日を見る責任がある。手を離した、その責任だった。
照明が落ちて、ステージにはおざなりなスポットライトが当てられる。ギター一本を抱えて、剛が現れた。あの姿では、すぐには気付かないだろう。
売り出し前のミュージシャンと同じ雰囲気だった。着崩した格好はわざとだろうが、上手い具合に音楽だけに全てを賭けて他には手が回らない若者の印象を出している。短くした髪と大きなサングラスが、彼のイメージを狂わせた。
不思議な魅力は相変わらずだった。人を惹き付ける力がある。
中央の椅子に座って、ゆっくりと歌い始めた。愛の歌だ。どれだけ傷付いても、剛は愛を諦めなかった。
早い時期に生温い理想を捨てた光一とは正反対だ。傷付いても希望を失っても、愛する心だけは手放さなかった。
けれど、それならば何故一番近くに存在していた愛を受け止めなかったのだろうか。きちんと識別出来ない百の愛より、光一一人の愛の方が深い筈だ。
同性愛がどうのと倫理的な事で話すつもりはなかった。そんな論理で割り切れる程、彼の愛情は曖昧ではない。
剛は何を恐れたのだろう。ずっと分からなかった。意識的にしろ無意識にしろ、彼が抱えたのは恐怖だ。相方からのひた向きな愛情に生まれた感情。
二曲目が終わったところで、光一が縋るように吉田の右腕に掴まった。反射的に見下ろして、声を上げそうになる。
真っ直ぐステージに向けられた瞳からは、止め処なく涙が零れていた。拭う事も隠す事もしない、無防備な状態だ。
「光一……」
泣き方を覚えないまま大人になった。泣く、と言う行為にしては静か過ぎる。もっと色々な事を教えてやりたかった。悔やんでも遅いけれど。
涙に濡れた目は、小さな頃から変わらないひた向きさを見せる。世界中で唯一、彼の恋情が向けられたのは、一番近くにいる存在だった。
ステージの上にいる剛は、悲しい恋の唄を歌う。終わる事のない悲しみ。
「光一、もう許してやれ」
祈るように囁いた。二人が二人で存在しなくなった時から、彼らの世界は崩壊し続けている。
「剛を、許してやれ」
剛の歌は悲しみに彩られていた。恋を失うよりもっと、切実な喪失がある。必要なものが傍になかった。彼を形成する要素が欠けている。
それは、光一も同じだった。体内に空洞を抱えて、どうして幸せに笑う事が出来る?
「許してやれ」
「何を……許すんですか」
濡れた瞳を向けられた。可哀相なまでに真っ直ぐな視線。それで傷付く事を知りながら、変える事すらしなかった。
「許すも許さないもないですよ」
「お前のしている事は、復讐に見える」
断定した響きは硬質だった。少女めいた黒めがちな瞳が一瞬揺らいだかと思うと、次の瞬間には平静を取り戻してまたステージの上へ視線を戻す。
涙を吸い込んだ頬があどけなかった。光一は、決して純真なものばかり持っているのではない。その見た目を裏切った狡猾さが潜んでいた。
彼が真実を語る日は来ない。永遠を賭けた最後の恋を見ない振りで生きる剛への復讐だった。
十代の幼い頃から別れを告げる三年前まで、光一の恋が報われた瞬間は一度もない。長い時間を唯傍にいた。
愛情ではなくその苦しみを、共有させているのではないか。吉田が気付いたのは、剛が独立を決めた時だった。
長い孤独の道を歩き始める彼の瞳は、今の光一と同じようにひた向きで。多分最初からこれが目的だったのだと知る。
光一が最終的に渡したのは、愛情ではなかった。愛する人の幸福を願いながら、同時に呪詛を掛け続ける行為だ。果たして何処までの自覚があるのかは分からないけれど。
剛の歌う恋の唄が、何よりの答えだった。
「送ろうか」
「いえ、大丈夫です。一度稽古場戻るから」
「タクシー乗るまでは送るよ」
「ホンマに大丈夫ですよ。この顔で乗りたくないから、ちょっと歩きます」
泣き腫らした瞳は真っ赤なのに、その口許は穏やかだった。先刻の不安定さはもうない。
結局剛は八曲を歌ってステージを去った。赤い照明に戻って、光一は涙を拭う事もせず地下から抜け出そうとする。
「……健さん」
「ん?」
一人になりたいだろう彼の気持ちを汲んで素直に壁に凭れた吉田を小さな声で振り返った。困ったように笑うのは、もう癖なのかも知れない。心から笑えなくなってしまった。
「復讐、する位やったら、最初から愛さなかった。でも、悔しくて八つ当たりしてたのはホンマです」
泣いているのか笑っているのか分からない瞳に見蕩れていると、小さく会釈をして扉の外に消えて行った。吉田は溜息を零す。
計りがたい内面を持っている子だった。それは、幼い彼が汚れた世界で生きる為に身に着けてしまったものだ。
剛が一人になる事を知って、光一は何を考えただろう。疼く恋情を押さえ込んで、きっと優しい微笑を崩さないまま。暗い欲望を飼い馴らすのだ。
「健さん!」
はっきりと呼ばれて振り向くと、ステージの袖から駆け寄って来る姿があった。剛だ。
「おう」
「来てくれたんですね。ありがとうございます」
「お疲れさん。良かったよ」
この暗がりの中、良く気付いたものだと感心する。相変わらず警戒心のない人懐こい笑みを見せた。剛の中にも大人になり切れない子供の影がある。
「健さん。……誰と、いました?」
「さすがだなあ。見えたのか」
「……はい」
慎重に頷いて、扉の方へ僅かに視線を向けた。光一の残像は既にない。初めてのステージの上から、壁際にいる小さな姿を見つけるのは容易な事ではなかった。今もまだ、二人の間には引力があるのだと思わざるを得ない。
光一は、これから先も剛と会わないつもりだった。遠い場所から見詰め続けて、そうして内側から朽ちて行くのを待っている。
そんな悲しい生き方をして欲しくはなかった。
「なあ、剛」
「はい」
「今でも光一の事、怖いか」
「怖いなんて、そんな事……」
「あいつの恋は真っ直ぐ過ぎて、お前には脅威だった。違うか」
年寄りは口を出し過ぎていけない。分かってはいたけれど、自分が言わなければ彼らの関係は永遠に喪われたままだ。遠くに在る違和感に、気付いて欲しかった。
剛は、濃い眉を顰めて怒ったように瞳を上げる。彼の中でずっと燻り続けた感情が、光一の残した復讐なのだとしたら。
「俺は……分からんのです。光一を好きなのか、どうか。あいつの怯まない横顔が大切やった。でも、それが自分に向けられると、どうしたらええのか分からなくなる。離れてからも考えてた。俺には簡単な事やない。答えなんて、一生出せないのかも知れない。こんな状態で、あいつに渡せるものなんか何もないんです」
だから、追い掛ける事はしないのだと。感情に名前を付けるなんて滑稽な事だと吉田は思った。
建前とか論理とか、常識なんかに縛られて必要なものを見失うのは悲しい。惹かれ合う魂だけが真実ではないのか。
「仕事の関係が終わったからって、二人の関係まで終わらせなきゃいけない理屈はないんだ。お前が今でも光一をすぐに見つけ出してやれるんなら、それを理由にしたら良いんじゃないか。俺には、やっぱりお互いが必要な存在に見えるよ」
「健さん」
「理由なんて、死ぬ時に考えりゃ良い」
光一を泣かせないで欲しい。吉田の思う理屈は、これだけだった。離れている事が互いの幸福に繋がるなら構わない。でも、今のお前らに幸せは見えないよ。
「……光一、何処行きましたか」
「稽古場って言ってたよ。途中まで歩いてタクシー乗るって」
「ありがとうございます」
「おい!何処だか分かるのかよ!」
「はい。……光一の事やから」
駆け出した剛は、一瞬躊躇してそれでも強気に言い切った。光一と同じように、重い扉を押し開けて外へ出て行く。取り残された吉田は、小さく笑ってのんびりとドリンクを口にした。
二人の関係が変わるかどうかは分からない。光一は今でも頑なだったし、剛は未だ答えに辿り着いていなかった。
それでも。三年の月日が、二人に答えを出してくれれば良いと思う。一人の時間が無駄ではなかったと思える日が来たら、それはきっと幸福に近い事だろう。
【了】
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