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 つよし。

 小さな声が聞こえる。
 耳に届く事の無い、心に響く声だった。

 つよし。

 まただ。
 背中でその声なき声を受け止めて、剛はひっそり笑った。
 部屋には、自分の指先が奏でる弦の音と、魚達が生きる為の空気の弾ける音だけ。
 静かな空間で、彼の声だけが響く。

 つよし。

 つよし。

 つよし。

 声に出すと言う事を、彼は結局覚えなかった。
 それは弱さだと決め付けて、孤独のまま誰にも理解されない事を望んで生きている。
 独りで良いのだと。
 柔らかく零す彼の笑顔が優し過ぎて、泣きそうになった事を不意に思い出した。
 可哀相な人だと思う。
 彼の力になれれば良いけれど、残念ながら自分は役不足だった。
 だから、せめて。
 彼がこの世界から消えてしまわないように、傍にいてやりたい。

「光一」
「……ん?」
「こっちおいで」

 ギターをケースに戻して、ゆっくりと振り返る。
 其処には膝を抱えて広いソファに小さく納まる相方の姿があった。
 家になんて寄り付きもしなかった癖に、最近こうして何をするでもなく部屋にいる事が多い。
 原因は分かり過ぎる位に分かるから、敢えて何も言わなかった。
 光一にだって呼吸をする場所が必要なのだから。
 手招きすれば、嫌そうに眉を顰めて首を振る。

「いや」
「なんでやの」
「だって……」
「抱っこしたるよ」

 両腕を広げて笑顔を作れば、更に身体を丸めて拒絶を示す。
 猫は飼い主に懐かずに家に懐くと言うけれど、まさにその通りだなと頭の片隅で微かに考えた。
 ……いや、違うか。
 こいつは飼い猫なんて可愛いもんじゃない。

「俺、子供やないで」
「子供みたいなもんやんか」
「何処が」
「僕にとっては、光ちゃんはいつまでたっても可愛い子ですよ」
「……むかつく」

 言いながらも、諦めたように抱えた膝を離して、フローリングにぺたりと降りた。
 四つん這いになって近付いて来る姿に苦笑を零す。
 これが三十前の男だと言うのだから、世も末だった。
 近付いて来た光一の頭を撫でてやると、腕を引いてギターの代わりに抱える。
 彼の身体は冷え切っていて暖まる事がなかった。
 体温を分け与えるように、ぎゅっと抱き締める。
 他人を拒絶して生きて来た身体は、僅かに怯えて竦んだ。

「大丈夫やで」
「……なにが」
「全部やよ」
「なにそれ」
「ええよ。此処にいる間は」
第十三話
┗真実は涙する頬にある

蛇荷に乗り込んだ時、向こうはほとんど何の構えもしていなかった。
情報が漏れているということだけでも驚きだったのだろうが、何より情報局ではなく港湾局が乗り込んできたということがうろたえる原因だったのだろう。

周囲を姦しく喚き立てる男達が次々連行されていくのを、二宮はじっと聞き続けた。
自分が何を探しているかは知っている。
そして部下達も二宮が誰を探しているのか、わかっているはずだった。

次第に人の気配が消えていく建物の中で、二宮は椅子に腰掛け、待ち続ける。

やがて、周囲が再び静まり返ったころ、ふと空気が微かに動いた。
見えない目を見張ってそちらへ顔を向ける。

頬に空気の流れを感じる。
髪にも風が当たる。

常人なら感じない、微かな微かなその動きを二宮は確実に捉えていった。

誰かがいる。

騒ぎがおさまるまで静かに息を殺し潜んでいた何ものかが、今明かりを落とした部屋を移動して出ていこうとしている。

「今井、か?」
「!」

誰何にぎくりと相手が立ち止まった。

明け始めたとは言え、薄暗がりの部屋の中に人が潜んでいるとは思わなかったのだろう。
振り返った気配と同時に金属音が響いた。

「………二宮」
「物騒なものを見せるな」
「見えないだろ、あんたには」
「なるほど」

くすりと笑い返すと、相手が息を抜いた。

「油断も隙もねえ………情報局とつるんでたのかよ?」
「人聞きの悪いことを言うな。港湾があいつらと手を組むはずがないだろう」
「じゃあ、なんで同時に動いてるんだ?」
「なに?」
「情報局が山風を締めてるぜ」
「ふん……」

櫻井のやつ、やっぱり裏で妙な動きをしていたのか、と鼻で笑う。
いや、櫻井というより、これは松本の匂いがする。
一つの石で何羽もの鳥を落としておいて、偶然でした、と笑うようなしたたかさだ。

「松本が噛んでるのか」

今井が同じことを問いかけてきて苦笑した。

「なぜ?」
「いや、この遣り口ってのが似てるから」

ぶつぶつぼやく相手の声にはうんざりした響きがある。
すると、大陸をまたにかけて動き回ってるこいつも松本に煮え湯を飲まされたことがあるのだろう。

軽く吐息をついて、二宮は立ち上がった。
ちゃきっ、と鋭い音がまた響いて緊迫した空気が漂う。

「何する気だ」
「白鷺はどこだ?」
「え?」
「迎えに来た。連れていけ」
「………もう………正気じゃねえよ」

低い声が微かに揺れて応じた。

「そんなにもたねえ」
「関係ない」

胸を貫いた傷みを押し殺して二宮は続けた。

「あれは俺のものだ。返してもらう」
「……散々、男どもに抱かれてよがってたぜ?」
「………」
「ひいひい言いながらケツ振って。何人ものやつに同時にやられて。それでも満足しねえ淫乱だ」
「…………あたりまえだ」
「は?」
「あれが俺以外に満足するわけない」
「おいおい……」

急に気配が側に寄り、額にぴたりと冷たいものが当たった。

「大人しく聞いてりゃ、いい気になりやがって。ここで撃ち殺してもいいんだぜ?」
「………お前がほしいと言われたか」

二宮は薄笑いを浮かべた。
びく、と揺れた筒先になおも冷ややかな声を投げる。

「側にいてくれと頼まれたか」
「………俺にすがった」
「『夢幻』をねじ込んで、だろ」
「……ふざけんな、何様のつもりなんだ」

今井の声がいら立ちに荒れる。

「撃ちたければ撃て」
「お仲間が飛んでくるって寸法か」
「あれはどうせお前の手に入らない」
「…………くそっ」

鋭い舌打ちが響いてなおも額に筒先が押し付けられたが、やがて深い溜息が漏れた。ずるずると銃が降ろされる。

「なんて自信だよ」
「………自信じゃない」
「え?」
「事実」
「ちっ……わかった、連れていってやる」
「ん」

まっすぐに手を伸ばした二宮に、一瞬間を置いて、乾いた手が握り返してくる。

「あんたら、絶対どっか壊れてるぜ」
「うん?」
「今俺が階段から突き落としたらとか考えねえのか?」
「…………なぜ、白鷺が壊れている?」
「……同じことしたからだよ。殺す気だった俺に身体を委せた。媚びねえで………誘惑しやがった」
「ん、ふふ」
「笑い事じゃねえ」

ぶすっとした声に思わず笑うと、なおふて腐れた声が響いた。

「地下室だ………階段は急だ、ゆっくり降りろ」
「突き落とさないのか?」
「千年ほど化けて出られそうだ」
「ふん」

今井が導く地下室に近づくに従って、ひんやりとした空気に濃厚な汗と体液の匂いが混じり始めた。
動かない空気の中に粒で浮かんでいるそれに次々ぶつかっていくような重さ、予想していなければ喉を詰まらせそうだ。
階段を降り切っても自分達以外に呼吸音が聞こえない。

「居るのか?」
「………寝そべってるよ、隅に。倒れてると言ったほうがいいか。さっきまでやられてたから………いつもなら、俺が『夢幻』で楽にしてやるんだが、あんたらが来たからな、放っとくしかなかった」
「側まで連れていって」
「……」

今井が黙り込んで、それでようやく聞き逃しそうな微かな息が聞こえた。

「もういいか?」
「ああ」

ゆっくりとしゃがみ込み床に手をつくと、ざらついたコンクリートの手触りとべたべたした液体に触れる。

「今井」

そろそろと後ずさりして行こうとする気配に声をかける。

「駅と港を避けろ。大中筋なら人員を配置していない」
「逃がして………くれるのか」
「逃がすんじゃない。獲物を残しておくだけだ」

「…………食えねえね、あんたも」

吐き捨てるような声が響いて、階段を上がっていく気配に変わった。
遠ざかる足音に、そろそろとまた床に手を這わせる。

空気中の匂いは血や精液や汗で汚れ腐っている。
伸ばした手がなかなか相葉に辿りつかない。

弱々しく響く呼吸を頼りに進むのがじれったくなって、そっと呼んだ。

「雅紀」

ふ、と一瞬呼吸音が止まってぞっとした。
見えない自分が苛立たしく、けれど傷つきずたずたになっているだろう相葉を他の誰にも委せたくなくて、声を強めて呼ばわる。

「雅紀、どこにいる」
「………の……」

今にも途切れそうな声が応じた。
耳を澄ませて距離と方向を探る。


生きている。

まだ生きている。


少しでも早くその身体を抱きしめてやりたくて必死に床を探る。

と、伸ばした指が固く強ばった塊に触れた。
弾力のない冷えた感触、素早く指先で探ってそれが脚だと気づく。

上下を確かめて指を滑らせていくと、べたべたとした液体に塗れた腰に辿りついた。
すぐ側に棒状のものが触れ、そちらへもう片方の手を乗せて腕だと気づいて愕然とする。

覚えているよりもうんと細い。
手首が掌に握り込めそうだ。

「雅紀、大丈夫か」
「え………」

ぎく、とはっきりと手の下の身体が硬直した。

「に、……に……の……?」
「ああ、そうだ。遅くなってごめん」
「……う……そ……」

掠れた声が小さく響く。
その声の漏れた場所を探して二宮は相葉の身体に手を這わせた。

どこもかしこもねっとりとした感触、あちらこちらに指に絡む不快な手触りがある。

だが、それを拭う間に相葉から手を離すのが不安で、夢中で顔へと身体を辿った。

「うそ……だ……」
「嘘じゃない、大丈夫か、答えろ、雅紀」
「そ……な……こ………ない……」
「雅紀?俺がわかる?」
「………」
「雅紀」
「………わか……る……」

声がふいにゆるんだ。

「に………の……」
「ああ、ああ、そうだ」

その声に滲んだ潤みに一気に記憶が甦った。


腕の中で甘く鳴いてすがってきた身体、
涙を零しながらねだる声、
駆け上がりながら微笑む顔に弾けた喜びの表情。


同時に探った手がようやく相葉の上半身を捉えて、二宮は力委せにうつぶせになっている相葉を引き起こした。

「あ、ああ……っ」

微かな悲鳴を上げて相葉が腕の中に崩れ落ちてくる。
だが、それはもう苦痛ではなかったらしい。
のろのろと上がってきた腕がしがみつくように抱きしめてくるのを、深く強く抱き込んでやると、とろけるような声を上げた。

「に……のぉ……」
「雅紀」

擦り寄せた頬が濡れている。
奪った唇をなおも次々と零れ落ちてくる涙ごと貪って、どこか力の入らない、ひどく細くなってしまった身体をしっかり抱き寄せた。

「ん………んっ……んう」
「雅紀……雅紀」


ふいに視界に見たはずのない光景が広がった。

真っ暗な空。

視界の端に紅蓮の炎。


「にのっ!」


悲鳴に似た声が何度も呼ぶ。


「にのっっ!」


白い頬に涙を零しながら、震える相葉の顔。


「に、のっっっっっ!」


目の奥に激痛が走る。



ああ、そうだ、あの夜。



二宮は全てを失ったと思った。

相葉の心も。
妹の命も。
自分の未来も。

落ちてきた荷に打ちのめされて崩れ、けれどそれでも憎しみに目を見開いて、駆け寄ってきた相葉に呪詛を叩きつけようとした、そのとき。

視界に飛び込んできたのは我を失うほど泣きじゃくっている相葉の顔で。
引き裂かれるような悲鳴を上げて、すがりついている相葉の顔で。


ああ、もう、いい。

そう思った。


この相葉の顔さえ覚えておけるのなら、他の全てを失ってもいい。
いつも微笑む、優しい男の、壊れそうなほど追いつめられ二宮を求めるこの顔さえ、覚えておけるのなら。




そして次の瞬間、視界は暗転し…………二宮は視力を失ったのだ。

「うっ」
「に…の……?」

強くなった目の痛みに、二宮は口付けを離して呻いた。
相葉が不安気な声をかけてくる。

その声がいつかの夜のものにそっくりで、濡れた頬の感触もあの夜と見事に重なって。

同じ顔で泣いているのだろうか、と思った。
同じ顔で、紛れもなく二宮を、二宮だけを求める顔で泣いているのだろうか。


もう一度………見てみたい。


ずきずきする目を押さえ、零れた涙を拭って瞬きし………違和感に気づく。
目の前の闇に濃淡がある。いや、これは。

「に、の?」
「………雅紀……?」

腕の中で細い身体を震わせながら見上げてくる顔。
涙をいっぱいにたたえた瞳、小刻みに震える唇が白く色を失っている。
のろのろと視線を動かすと、だらりと伸ばした真下の身体には無数の鬱血にすり傷、縛られたような跡まである。
しかも全身透き通るほど白く、ひどく痩せ細っていて、あまり強く抱きしめるとそれだけで呼吸を止めてしまいそうな薄い胸が忙しく動いている。

冷えた感触に我に返って、足元に広がっていた毛布を引きずりあげようと手を伸ばし、二宮は固まった。

「なに……?」
「にの………見えてる……?」

相葉の声に振り向いた。
唇を震わせている相葉を凝視しながら、そっと口を重ねてみる。
見えているものと感触が一致する。

今度は相葉の口に閃く舌だけそっと吸いついてみる。

「っう……ん」

切なげな声を上げて目を閉じた相葉の目から涙が零れ落ちた。

「に………の……」
「雅紀………」

瞬きして目を開ける、その相葉の目に強ばった顔で目を見張る自分の顔が映っている。

二宮はゆっくり深く息をついた。
毛布を掴み、がたがた震えている相葉の身体を包み込むと、立ち上がってゆっくり抱き締めた。

信じられないほど軽くなってしまった身体に怒鳴り出したくなった衝動を押さえ込み、低く囁く。


「帰ろう、雅紀」


ぎゅ、と辛そうに眉を潜めた相葉が竦んだ。
安心させるように髪に頬を擦り寄せ、きっぱりとした声で告げた。



「お前は俺のものだ」



第十四話
┗繰り返した虚しい夜の果て

二宮が相葉を抱えて戻ったのは『夢幻屋』だった。

「二宮!相葉!」
「悪いけど床を用意して。それと………湯の用意を」

湯、のことばにびくっと腕の中の相葉が震える。

『夢幻屋』は情報局出入りということもあって湯屋も併設されている。
情報局の無駄金使いと苦々しく思っていたが、今回ばかりは助かった。

相葉を抱えて用意ができるまで一階の小部屋で待つ。細い身体がどんどん冷えてくるようで、二宮は不安になった。

「医者も頼む!」
「わかってる!」

はきはきした声が戻ってほっと息を吐くと、

「にの……」
「ん、どうした」

小さな声が呼んで、相葉を覗き込んだ。
いつもの微笑がかけらも残っていないぼうっとした顔で、半眼になった瞳も遠い。

「僕………生きてるの……」
「当たり前だ」

むっとして唸った。

「死なせてたまるか」
「なんか………あちこち痛くて………しんどい……」
「……あたりまえだ……」

今度は辛くてことばを絞り出すのが精一杯だった。
あんな冷えたところで、何人もの男に弄ばれて。

視力が戻れば、それはまた地獄絵図を見る思いだった。
周囲に散った体液や変色した血液が腐臭を放って胸を抉る。
千切られた衣類や汚れた紐、敷かれた布団も掛け物もじっとりとした湿りを帯びて。

「あたりまえだろう………」

どうしてもっと早く動かなかった、どうしてもっと強硬に踏み込まなかった。
その思いに歯を食いしばると、滝沢が湯の用意ができたと告げてきた。
抱きかかえて立ち上がると微かに相葉が身をよじる。

「………いい……」
「うん?」
「………僕………汚れてるから………」
「かまわん」
「………にの………汚れちゃう……」
「……かまわんと言ったはずだ」

後は聞かずにさっさと湯屋に運び込んだ。
衣服を脱ぎ捨て、相葉の毛布をそっと剥がし、日の光の下に晒された薄い身体にところかまわずつけられた鬱血と傷に凍りつく。

ひどく淡く存在感のない身体になっていた。
まるで腕からぼろぼろと崩れていってしまいそうだ。
滲みかけた悔し涙を唇を噛んでこらえ、洗い場に座って膝に抱きあげる。
ぞっとするほど軽かった。
吹き上がるような怒りを必死に逃してゆっくり湯をかけた。

「あ……ああっ……」

それがもう相葉には耐えられないほどの刺激だったらしく、悩ましい声を上げながら身悶え、それがまた二宮を強く煽った。
勃ちあがっていく自分自身を、相葉の求めるままに突き立てて慰めてやれば、相葉も喜び自分もまた相葉を取り返したと安堵できる、そう思いながら、最後の一線を越えないまま洗い終えたのは、相葉の声がいつもと違って響いたからだ。
二宮の腕で喜びに放っていたはずの声が、苦しげに切なげに聞こえる。
暴走する身体に翻弄される相葉の心が悲鳴を上げているようで、とても抱けない。

「はっ……あううっ………うっ……に…の……っ」

幾度目かの大きな波に揺さぶられて、相葉が身体を震わせて達した。
二宮のものに手を伸ばし、必死に手繰り寄せようとする手を束ねて抱きかかえ、ただ口だけを合わせてやる。

「んっん………んうっ………うっ」

汚れた下半身を静かに洗い直しながら、何度も息を吐いて自分を鎮めた。
きりきりしてくるほどの緊張を堪える術は身についている。
泣きながら自分を求めてくる相葉が哀れというより愛おしくて、二宮は洗い終えた細い身体を抱えて、ゆっくり湯舟に沈んだ。


「あ………あ……」

温かな湯に浸されて、少し気持ちが落ち着いたのか、相葉がふわりと力を抜く。
ことりともたれてきた頭をそっと撫でながら、二宮は口を開いた。

もーりもいーやーがーる、
ぼんからさーきーは。



「!」

相葉が大きく震えた。

「………に………の……」

一瞬逃げようとするように体を竦ませたのを、しっかり抱きかかえて唇を寄せる。
濡れた髪から温かな香り、それは紛れもなく懐かしい相葉の匂いだ。失わずに済んだ、とふいに強烈な痛みが胸を突き上げてきた。



ゆーきもちーらーつーくし、
こーもーなーくーし。



「僕………赤ん坊じゃ………ない…」
「……同じようなものだろ」
「え……」
「自分が何が欲しいのかもわかってないくせに」
「っ」

それは俺も同じだが、と胸の内側で二宮はつぶやいた。

視界を失ったのは相葉の顔だけ覚えていたかったからだ。
視界を取り戻したのは相葉の顔を見たかったからだ。



こーのこよーなーくー、
もりをばいーじーるー。



相葉の歌をいつの間にか覚えてしまっていた。
その歌をこの一年聞けなかったことが今さらながらに悔しいと思った、自分の甘さに気づいて苦笑する。



もーりもいーちーにーち、
やーせーるーやーら。



低い声で歌いながら、そっと相葉を揺すってやった。
小さく細くなってしまった体をこのうえなく愛しいと思った。

「………もう………僕………抱いてくれないの……」
「抱いてるじゃないか」
「……そうじゃ………なくて……」

半泣きになってすがりついてくる相葉に頬を擦り寄せる。

「僕が………あんなところに……いたから……?」
「ばか」
「だって……」

ぐすぐす鼻をすすりながら、小さく相葉がしゃくりあげた。

にの、もう僕のことなんか嫌いになったでしょ、でもあれはお仕事だったんだよ、抱かれて気持ちいいのはにのだけだもん。

掠れた声で甘ったれてくるのに、ようやくほっとした。

「……抱いてやる」
「!」
「いくらでも抱いてやる」
「にの……?」
「……だから早く元気になれ」
「………うん………」

 滲んだ声で相葉は二宮の肩にもたれてきた。
零れる涙が湯で温まった肩にひんやりと冷たい。

「…………うん………にの……」
「あいばか」

それ、ひどい、僕のことそんなふうに言うの、にのぐらいだよ。

なおも甘える声に二宮は静かに笑みを深めた。



最終話
┗暁に鳴く烏は喜びを歌う

「おー、お揃いで」

『夢幻屋』の滝沢は櫻井と松本を見て、目を細めた。

「白鷺……いや、相葉はどうですか?」
「元気?」

事件から一ヶ月後、白鷺はずっと『夢幻屋』で養生中だ。
一時は医師が付き添うほど危なかったのだが、今は3日に一度の往診になったとかで、ようやく松本達にも面会の許可が出た。

もっとも、情報局の白鷺という花魁は、蛇荷貿易の『夢幻』密輸入に絡んだ事件で死亡したことになっており、今『夢幻屋』の二階で療養中の男は、港湾局二宮の遠縁にあたる相葉雅紀という人間、たちの悪い友人から『夢幻』を進められて際どいところまで崩れかけたのを二宮が治療に協力しているという名目だ。


「元気……ってか……」
「会えますか?」

生真面目に尋ねる櫻井に滝沢はくすぐったい顔になった。

「んーー……今は無理だと思うな」
「え?」
「あ」

松本が素早く二階に視線を投げた。

「ニノ、来てるんだ?」
「ん、そう。あのな……」

滝沢の声を遮って、柔らかな甘い声が響いた。

「あ……あっ………あんっ」

「うあ」

それと察した松本が見る見る赤くなる。

「何だよ、何おぼこぶってんだよ」
「いや、だって、あれ……相葉?なんか聞いたことないような声なんだけど」
「二宮があんな風にあんあん言うとでも?」
「うあああ、それもあんまり」

松本が引きつった。

「うっうんっ、う……ふっ」

明るい日射しが入り込む床にうつ伏せにされて、相葉は二宮に抱かれている。
背中から覆い被さってきた二宮が耳を優しく舐め上げる。
脇から滑った手が浮いた胸を、そこに宿った実を指先で嬲っていくのに、腰が揺らしてしのぐが間に合わない。
あまつさえ、残った片手が命じるように腰の前に入り込んできて、快感に翻弄されながら膝を立て、腕を突っ張った。

「あっ……ああっ………」

押さえつけられずに自由になった手が胸をまさぐる。
前は既に濡れそぼって張り詰めている、それを柔らかく表面を掠めるように撫で摩られて、相葉は喘いだ。
身体に溜まった熱を放ちたいのに、二宮はそこまで追い上げてくれない。
後ろから犯しているものも動かされずに銜えさせられたまま、けれどそれがそこにあるということがもう快感で、首を振り悶えながらねだる。


「に、に……の……っ……も……おね……がい……っ」
「………」
「んぅ……っ、んっ………あんっ………んんっ、ん、あっ」

声を堪えて駆け上がろうとしたら、胸をいじっていた指を口に突っ込まれた。
指を傷つけたくなくて口を開けば、何本も入れてかき回され、よだれを流しながら二宮に全てを委せて開いていく。

「あっ………あんっ………んう……は……っあんっ」

前も後ろももうとろけて涙を流し続けている。
それでも二宮の指もものも優しく緩やかに相葉をいたぶり続け、どれほど頼んでも容赦なく、決まった手順で何度も何度もぎりぎりまで追い詰めるだけ、決して最後の一戦を越えさせてくれない。

「も………もう……あ……んっ」

霞む意識に気を失いそうになると、少し刺激を止められて、感覚が戻ってきはじめると、まるでこれまでのことなどなかったように一から攻めたてられていく。

「雅紀?」
「んっ……ん……は………はい……っう」
「一生俺から離れるな」
「あっ、あ……ん……」
「返事は?」
「んっ、んっ………んあ……っん」
「返事」
「んっ…………あああっ」 

ゆっくり動き出されて相葉は跳ね上がった。

一ヶ月前とは言え、身体は『夢幻』も、その快楽も覚え込んでいて、同じ条件になると一気に記憶と快感を引きずり出してくる。

「はっ……はっ………はうっ……うんっ………あ」

震えだした脚に二宮が動きを止めて、相葉は喘ぎながら俯いた。
もう頭の中はぐずぐずにとろけていて、視界も歪んで揺れて見える。
一旦引き抜かれてもう一度、今度は前から抱きしめながらゆっくり差し込んできてくれて、その甘ったるい感覚に目を閉じて浸っていると二宮が再び耳元でささやいた。
 
「返事」
「は……い……」

答えると同時に溢れだした涙を二宮の掌が受け止め拭った。
なおも零れる涙を唇で吸ってくれ、乾いいた口に温かな舌で湿りをくれた。
舌を絡ませるだけで奥が疼くのを感じ取った二宮が、柔らかく突いてくれ、それでまた溶かされて舌を舐め回す。

「お前がいなくなると、俺は世界を失う」
「はい………あっ………あうっん」

微笑んだ瞬間に深く貫かれる。
そのまま一転して激しく追い上げられて、目を見開いて声を上げた。

「あっ……あっ……あ、ああっ………あんっ、あんっ……」

「もっと鳴け」

低い声が命じるままに声を放つ。
身体が開いて二宮の指にものにより深くまで犯されていくのを、もっともっとと求めながらすがりつく。

「俺のために、鳴け、雅紀」
「あっ…あんっ………ああっ……………あ、う、う、くふっん」

自分の声が甘えてとろけていく。
だが悲鳴には変わらない。
どこまでも溶けてねだって喜びを歌うだけの声、二宮だけが相葉の中から引き出せる声。

このまま死んでもいい、そう思える幸福の中で抱いてくれるのは二宮だけしかいない。
だから二宮は誰よりも刺激的で……

そう思った瞬間に走り上がった快感に我を忘れた。

「に、にの……あんっ………あっああっ」

身体が勝手に動く。
二宮の動きにきちんと合わせて吸いつき、引き込み、震えながらもっと先をねだり、受け止めて開かれて溶け合って、境界線が消えていく。

「あっあっあっ………あんっ…あっ………………ああっ」

腹の間で擦られて張り詰めていたものが弾けた。
ぬめりを絡ませながら揺さぶられ、疼く波が後ろへ後ろへと伝わって締め上げていくのに二宮が動きを速める。

深いところで別の快感が見る見る膨れ上がってきて、相葉は眉を寄せた。
押し上げてくる波は大きく激しい。
身体がみるみる呑み込まれていく。

「はんっ……あっ、あっ……あ……んっ……っ」

自分の上げる甘い声が腰に響いて感覚を数倍に跳ね上がらせる。
触れ合うところが全て溶けて、それが這わされた唇に吸い尽くされていくような感覚に、相葉は身をよじって歓喜の涙を零す。


この人さえ居ればいい。

二宮さえ居れば、どんな闇にだって立ち向かえる。

何度もこうして満たしてもらって、何度もこうして生き返って。



ふいに、ああ、そうか、勘違いしていた、と思った。



この人は遠い冷たい月なんかじゃなくって、地面の下を流れる溶岩なんだ。

冷えて固まっているのは表面だけで、その本質はこんなに熱い。

触れてしまえば、もう溶けるしかない、滴り落ちる快楽の雫になって。





そう思った瞬間に、相葉の視界を無数の火花が弾け飛んだ。

激しく息を吐いて目を開くのに、その視界が白熱した色に覆われて何も見えなくなる。甘い声が喉をつく。


「……とけ……ちゃう……っ」
「んっ」
「とっ…とけ……ちゃ……っ………も……っ………は、ぅんっ」

ぞくぞくした波に攫われ身体が勝手に激しく揺れる。
二宮の刃に触れたところが次々溶けて頭の芯が真っ白に燃え上がる。
零れ落ちる涙と一緒に相葉そのものが蒸発していく。

「あ……ああっ……に………の……っ」

伸ばした舌を降りてきた口が含んで吸ってくれた。
同時に身体の中心をより深く刺し貫かれ、二宮から吹き上がった塊が身体の奥の傷を直撃した。

「ぅ、あああああっっっっ!!」


相葉は絶叫し、跳ね上がった。



激痛に意識が遠のく。
呼吸が止まる。
時間が止まる。



頭が吹っ飛ばされたような衝撃に堪え切れずに二度目を吐き出しくったりすると、二宮がそっと抱き寄せてくれた。


「……ひどい……よー………」

「ごめん」

「死んじゃいそー……」


無言で二宮が口づけをくれた。


なだめるような柔らかな舌に夢中になっていると、下半身に静かで透明な温もりがじんわりと広がってきた。

二宮の熱が最後まで残っていた相葉の病んで膿んだ部分を焼灼し、そこへ新たな命を与えてくれているようだ。

不思議に穏やかな安らぎに、喘いでいた呼吸がおさまっていく。

まだ入ったままの二宮がいる、それも含めて自分であるかのような、身体がどこか大きなものに繋げられたままあるような安心感に、相葉は深い息を吐いた。

二宮が心配そうに引き寄せてくれる、それが震えるほど嬉しい。


「雅紀…?」

「でも………さい…こー……」

「……ばか」



薄赤くなった二宮の顔に、微笑みながら相葉は意識を手放していた。

身支度を整え、幸せそうに眠り込んでいる相葉に布団をきせかけて、二宮は階段を降りてきた。戸口で微妙な顔で立っている二人に薄笑みを浮かべる。

「何だ、居たんだ」
「相葉の見舞いに」

櫻井がまぶしそうな顔で笑った。

「激しかったね?」

松本がからかうような口調で言ってきたが、うっすら赤くなっているところが可愛い。

「あんたには無理だろうけどね」
「あ、のなっ」

さらっと流すと松本がかっと血を昇らせた。

「あれだけ喜ばせてやれてるの?」
「あ、う」

微妙な顔で口ごもってぶつぶつ言う。

「そりゃ、あんな声聞いたことないよ」

ちろっと櫻井を見たのは自分と比較したのだろうか、もっと小さな声で続ける。

「けどさ、そういう言い方って、まるで俺が無能みたいじゃん……」
「そうか?」
「え?」

ふいにしらっとした顔で櫻井が言い放って、松本がぎょっとした顔になった。二宮も思わず口をつぐむ。
櫻井は不思議そうに二人を見ると、

「ああいうのならよく聞いてるぞ」

妙なことを言った。

「え、ちょ、待って、翔くんっ?誰のこと言ってんの、あんた、また俺以外に」
「翔くん?」

まさかあの一件以外にも相葉と付き合ったことがあるのか、と二宮も僅かに焦る。
松本は気にならないが、櫻井は妙なところでさばけているから、相葉も嫌いではないだろう、などと考えてしまって顔をしかめた。

「え? だって」

櫻井はきょとんとした顔で松本を振り向いた。

「お前がイくときにはよくあんな声を」
「うわあああああっっ!」

滝沢が手にしていた盆を落とすような悲鳴を松本が上げた。

「あんたっ、なんてこと言うんだよっっ」
「溶けるだの、狂うだの……あ、そっか、お前には聞こえてないのか」
「わああああああ!」
「くっ」

二宮は吹き出した。

「全く、あんたと言う人は」
「何か問題が?」
「あるって、おおありだよっ、あんた根本的にやばいって!」

うろたえて言い聞かせにかかる松本を放って、二宮は滝沢を振り返った。

「今眠ったところなんだ。もうしばらく寝かせてやって」
「わかった………二宮?」
「なに?」

滝沢が微かに笑う。

「なんか………ひと回り大きく見える」
「皮肉?」
「そう聞こえた?」
「聞こえた」
「じゃあ、皮肉」
「そう」

苦笑すると、通りの向こうから子どもの歌う歌が聞こえた。


もーりもいやーがーる、
ぼんからさーきーは。


思わずニ階を振仰ぐ。
そこで本当に相葉が安らかに眠っているか確かめたくなる気持ちを殺して、二宮は櫻井を振り返った。

「翔くん」
「ん?」
「大宮物産、叩きますよ。覚悟しておいて下さい」

もう辛い夢に傷つけさせない。
『夢幻』をこの港から一掃してやる、と腹を括る。

「わかった。智っさんにも伝えておくか?」
「御自由に」

にこりと笑った相手に言い捨てて、二宮は胸を張って吹きつける寒風に向かって歩き始めた。
第十話
┗不器用に踊る恋人達

櫻井は混乱している。

穏やかな昼下がり、落ち着いたかふぇには人が少なくて快い。

だが、櫻井の心は嵐の小舟だ。

「な、もう4日にもなるんだよ、それなのに、松本も大野も動かない、これどういうこと?」

一つは目の前で5個めのけーきを平らげようとしている男性の胃袋についてだ。一体幾つこの体に入るのだろう。それとも、ここのけーきは人間の体に入ると縮んだりするのだろうか。

「いくら、白鷺が慣れてるからって4日音信不通、心配ぐらいしてもいいだろ?」

もう一つは彼の口からぶちまけられる、櫻井の知らない情報局の動きだ。

滝沢は何と言っている?
あの白鷺が単身蛇荷貿易に潜入したのに、4日戻ってないばかりか、連絡も取れない、そう滝沢は怒っているのではないのか。
滝沢はきりきりしながら6個目のちょこれーとけーきに手を伸ばそうとしている。

「どうなってんだよ」
「どうなってるんだ」
「え?」

ことばが重なって滝沢が瞬きした。櫻井が眉を寄せて顔を上げる、その顔にみるみるひきつった笑顔になる。

「あ、ひょっとして……櫻井……」
「白鷺、というのは、あの白鷺?」
「うん……今回のこと……」
「知らない」
「あー………まずかった………かな……」

そろそろと滝沢は6個目のけーきを皿に戻した。

「まとめるとこうだね?蛇荷に輸入品があるということでその日時をはっきりさせるために白鷺が出かけたまま帰らない、それも既に4日目になろうとするが、松本も大野もまともに返答しない、思い余って俺に相談するため呼び出した、と」
「あ、そう……まあ………そういうことだけど……」

滝沢は上品なグレイの洋装の袖をそっといじった。櫻井を見、険しく寄るばかりの眉に忙しく瞬きして口ごもる。

「あの………とすると……どこまで櫻井は知ってるの…かな?」
「蛇荷の確認は松本が担当していて、まだ確実な情報が掴めていないので引き続き張り込んでいる、と」
「あ……そ……」

櫻井は唇を尖らせて目を落とした。

確かにここ数日、松本は部署にいることが少ない。いつもならうるさいほどにまとわりついてくるのだが、帰宅時にも戻ってこないときがあって気にはしていた。

もっとも全く違うところ、港湾局の者から、二宮を冷えるかふぇで松本が待たせていたので困ると話を聞いてはいる。
港湾局の二宮と松本とは妙な取り合わせで、どちらかというと犬猿の仲だったはず、それがかふぇなどで一緒に座っているところなぞ想像がつかない。唯一つながりがあるとすれば、それこそ白鷺がらみぐらいかと思っていた矢先の滝沢の呼び出しだった。

「俺には………関係ない……ってことか……」
「や、ちょっと、櫻井」

ぼそぼそとつぶやいた櫻井の不穏な気配に気づいたのだろう、滝沢が慌てて繕った。

「じゃ、じゃあ、俺の勘違いなんだな、うん。松本くんが白鷺のつなぎに入ってくれてるだよな」
「…………俺には知らせないで?」
「あ」

白鷺のところへ一時櫻井が出入りしていたのは仕事がらみだけだと松本は知っているが、どのあたりまで仕事がらみだったかとなると断言できない。
何せ相手は白鷺だし、二宮が出入りしなくなった後は誰かれ構わずといったところもなきにしもあらずだったのだから。

「俺だって……………惑わされたし」
「……………」
「潤だって……そりゃ………」

櫻井は瞬きした。
何だか一気に落ち込んできて、それが止められないのが情けなかった。無意識に頭の中で自分と白鷺を比べるなどということまでしてしまい、はたと我に返ってぶんぶんと首を振る。

「さ、櫻井?」
「……いや、うん、わかった」

ぐ、と腹に力を込めて顔を上げる。強ばったままの滝沢にできるだけ愛想よく応じた。

「貴重な情報をありがとう。たぶん、潤が繋いでくれているんだろうけど、俺からも確認しとく。事実、現実に情報局が動いていないのは確かだし、4日というのも長過ぎる」
「あ、あの」
「大丈夫、まかせて」

にこりと笑うと相手がひくりと引きつった。

「うん、じゃ、おまかせしちゃおうかなっっと」

うろたえた様子で手元の珈琲を飲み干し、立ち上がりながら滝沢がおそるおそると言った調子で呼び掛けてきた。

「櫻井?」
「何?」
「あの………ここにこれ入れたまんまで笑われても、怖いんだけど」

眉間に人さし指を立てられて、櫻井は笑みを消した。瞬きしながら指先で眉間を押さえる。確かに寄っている、今までよりもずっと深く。

そそくさ立ち去る滝沢の後姿を見送りながら、なおもぐいぐい眉間を押さえる。

「………いつも笑わないからかな」

俺といるときぐらい笑ってよ、翔くん。
そう言って苦笑する松本を思い出した。

櫻井にくらべれば白鷺はにこにこいつも優しい笑みを浮かべている。
ああいう雰囲気が、男を安心させ落ち着かせ、自分が頼りがいのある人間だと思わせてくれるのかもしれない。
港湾局の気難しい二宮が白鷺にだけ通ったのも、ああいうところがいいのかもしれない。

きゅ、と口を窄めて眉間を押した。瞬きが妙に増えて視界が曇る。

「俺だって」

白鷺を抱いたのだし、そういう意味では松本が白鷺を抱こうと何しようと咎める筋はないのだろう。
櫻井に知らせず、蛇荷に張りついているのも松本なりの思い遣りなのかもしれない。

それとも、櫻井に知られては困るほど、実は白鷺に本気だということだろうか。

櫻井は残っている珈琲をぼんやりと見た。

これを教えてくれたのも松本だ。大陸に渡っていたということもあって、いろんなことをよく知っている。その松本から見れば櫻井はもの知らずでつまらない男なのかもしれない。

口を窄めて歯を食いしばる。
しばらく力を込めていたが、ふう、と深い息をついた。
自分は振られてしまったのかもしれない、とようやくそこへ思考が辿りついた。

「……なら」

やることは一つだ、と珈琲を煽った。

白鷺の一件を確かめ、蛇荷を早急に叩く。
大野の話では山風運輸へ『夢幻』ルートを繋げということだったが、何かまうものか。
もともと櫻井には不本意な仕事、『夢幻』の危険性を知っている今となっては白鷺がいつか望んだように燃やしてしまうのが一番いい。
それで処罰を食らおうが、もうどうでもいい、そんな気分になってきた。

それで、松本と、松本が好きなやつが幸せになるんだもんな、と胸でつぶやいて、また眉をしかめ口を窄めてしまう。
はっとして眉間を指で押し掛け、一体何をしてるんだと苦笑いした。不機嫌な顔をしてようとしてまいと、もう関係なんかなくなるのだ。

…が、席を立とうとしたとたん、明るい声が響いた。

「あれ、翔くん?」
「じ……潤……」

できたら今は見たくなかった顔だったと一瞬固まった櫻井に、松本が不審そうな顔になる。

「珍しいね、翔くんがかふぇ来るなんて?誰と……」

素早くテーブルを探った松本の目が、櫻井の残したカップに止まった。

滝沢はああいう仕事をしている所以か、出かける際はいつも薄く化粧をしていた。
今日だって例にもれなかったわけで、白いカップには紅の跡が残っている。
どきりとして目を上げると、まじまじとこちらを見る松本の視線を浴びた。

「女と来たんすか?」
「あ、いや」
「………何も隠さなくたっていいでしょ……別に……仕事なら」
「あ……」

これは仕事に入るのかな、と一瞬首を傾げた間合いに松本がきつい顔になった。

「違うの」
「いや、その」
「ふうん。……そういう人がいたんなら、さっさと教えてくんなきゃ」
「は?」
「俺が馬鹿みるでしょ?」
「は……?」
「俺一人、翔くん、翔くんってくっつき回ってさ。迷惑してんならちゃんとそう言ってくんなきゃ」
「……それは潤の方だろ」

思わずむかっとして櫻井は松本をにらみつけた。

「……なんでさ」
「白鷺の繋ぎに入ってるんだって?」
「あ」
「俺は知らないぞ」
「…………それは」
「お前こそ、仕事と個人的な事情は分けろ」
「なんだよ、それ!」

松本がぐい、と唇を曲げた。
いら立ちを露にした顔で櫻井をねめつける。

「自分のこと棚に上げて!」
「自分のことって何だよ、俺はただ滝沢くんから白鷺の相談を受けただけだろ!」
「白鷺?」
「俺に黙ってこそこそしてんのはそっちじゃないか!」
「っ!それはないっ」
「何か文句あっか、どうせ俺はいつも不機嫌だよ!」
「はああ?何言ってんの、翔くん」

きょとんとされて、またその顔がいいな、などと思ってしまう自分が悔しくて、櫻井は吐き捨てた。

「白鷺みたいに可愛く笑えねえよっ」

ぎょろりと松本が目を剥く。

「あんたはもう十分可愛いでしょうが!そのうえ可愛く誰に笑おうっての!」
「俺が誰に笑おうと勝手だろっ!」
「あーっ、何それっ! 俺以外に誰を落とす気なのっ!!」
「はあ~い、そこまで」

今にも顔をぶつけそうに松本に詰め寄った櫻井の前に掌が割って入った。

「あのね………お二人さん、頼むからここがどこだか思い出して」
「あ」

どろどろした大野の声に櫻井が我に返ると、静まり返ったかふぇの中で抱き合わんばかりの距離に松本と近寄っていて、一気に顔が熱くなった。

「引いて、松潤」
「ちっ」
「………で、翔くん」
「…」

口を尖らせ目を逸らせると、大野の溜息まじりの声が響いた。

「局に戻って詳しく話すから。とりあえず、こっから退却しよう。…視線が痛いわ」

「………ということで、わかった、翔くん」
「……わかった」
「さっき白鷺が一時的に『夢幻屋』に戻った。衣類を取りに戻ったらしい。その際、情報を伝えていった。取り引きは2日後の夜、山風港の第ニ埠頭付近だ」

大野が松本にうなずきかけて呆れ顔になる。

「松潤もいい加減そっぽ向いてるな」
「だって!この人、俺を全然信じてないし!」

はあ、と大野は大きく溜息をついた。
憮然とした表情で口を尖らせている櫻井が納得なかばなのは仕方ないとして、本来なら櫻井をおさめる側に回ってるはずの松本までふて腐れていて頭が痛い。

「おまけに、誰と一緒だったのやら」
「っ!だからっ、あれは『夢幻屋』の滝沢くんとっ!」
「へー、ほー、俺、滝沢くんが口紅つけてかふぇへ行くなんて知らなかったー、よっぽど翔くんと一緒に行くの楽しいんだねーーっ」
「白鷺みたいな言い方するなっ」
「ふーん、そー、口調一つでもわかんだ、なるほどねー、一回抱いただけでもずいぶん覚えるんだなあああ」
「潤っ!」
「ちぇ、こんなことなら俺が行けばよかったっ」

口をヘの字に曲げて松本がつぶやき、ようやく大野は気づいた。

何のことない、松本は櫻井が白鷺に落とされたことを根に持ってるのだ。
手っ取り早く言えば、櫻井が自分以外を相手にしたとずっと密かに拗ねていたわけだ。
そのくせ、白鷺に何かあったら櫻井が苦しむと、仕事の合間はほとんど蛇荷に張りついていて、他ではずる賢いほどしたたかなのに、どうして櫻井にはここまで手も足もでないんだか。

まったく、簡単なことじゃないか、俺はあんたに嫌われたかと不安なんです、そうあっさり言ってしまえばいいのにとにやにやしかけた大野は、続いたやりとりに含みかけていた茶を吹きそうになった。

「潤?潤を潜入させるわけないだろ」
「何で?へー、俺じゃあてにならないってこと?」
「違う」
「それじゃなんで」
「俺が潤を手放すわけがないだろ」
「げ……げふっ!」

ごほごほ咳き込みながら櫻井を見ると、これがまた当たり前のことを口にしただけだと言わんばかりに、生真面目な顔で松本を見ている。
何か反論しようとしていたらしい松本がぽかんと口を開いたまま、やがてじんわりと薄赤くなっていった。

「どうしてそんな恥ずかしいことを平然と…」
「ん?」
「もう……たまんないなあ…」

自分が何を言ったのか今一つ自覚のない櫻井に、大野もぐったりしてきた。赤くなった松本が、くすぐったい顔で鼻をかき、ふいに気づいたように、櫻井の眉間に触れた。

「どうしたの、ここ?赤くなってる」
「ああ……」

櫻井が戸惑った顔で瞬きした。

「俺の皺が不愉快だと、滝沢くんに言われた」

少し小さな声になって、

「だから…お前もそうなのかと」

そう言えば、ここへ戻る最中も思い出したみたいにぐいぐい押していたな、そうつぶやいた大野の頭を殴りつけるように、松本が嬉しそうにへらへら笑った。

「んなわけ、ないじゃない」
「そう?」
「そう。むしろ、俺、ここが翔くんらしくていいかなあと」
「そっか」
「そう。あ、そりゃ、翔くんが縦皺寄せなくなるようにはしてあげたいけど」

ちゅ、と松本が櫻井の額に口を寄せる。

「ほら、翔くんの縦皺だって愛してるもん」
「そっか」

それをまた当然のように受け止めた櫻井が笑う。

「………あの………お二人さん?」

そのまま抱擁になだれ込みそうになった二人をかろうじて大野は制した。

「頼むから、もう少し周囲ってものを考えてくれ」
「へ?」
「は?」

松本はもう無理だとしても、こいつまで松本化してないか最近、と櫻井をにらむと、あ、と相手が声を上げた。
今にも抱きかかえようとしていた松本の腕をすり抜けて、電話を取り上げる。

「翔くん?」
「………もしもし?あ、ニノか?」

し、と唇に指を当ててこれまた腹が立つほど綺麗に微笑むと、櫻井は電話の向こうの声に軽くうなずいた。

「忙しいところごめん。実は蛇荷の視察を何時に決めたのか聞こうと思って」

電話の向こうできりきりした声が響いている。
大野は溜息まじりに松本を突いた。

「なに?」
「煙草よこせ」
「吸うの?」
「吸わなきゃ、この部屋から出られないだろ」
「あ」

大野はこのやりとりを知らぬこと、そう気づいた松本がにやりと笑って煙草とマッチをよこす。

「俺達二人にしちゃうの?」
「職場では襲うなよ」
「はあい」

部屋を出ながら、大野はやっぱり俺っていい上司だよなあ、と一人ごち、明後日に食らうだろう説教に覚悟を決めて昇り始めた月を見た。



第十一話
┗胸の中で鳴る歌と白い月

「っは、ああっ…」

掠れた声を上げて相葉は仰け反った。
背中から抱えられて貫かれながら、口を奪われ舌を吸われる。
開かれた脚の間に蹲った男が十分に育った相葉のものを深く強く吸い上げて、体中を震わせながら、声を封じられたまま駆け上がる。

「んっ、んっ、んううううっ……ああああっ」

激しく腰を揺さぶられて、堪え切れずに首を振り、声を上げながら身悶えた。
痙攣するように震える手足が空中で揺れる。
二人の男に貪られながら、朦朧として灰色の天井を見上げると、そこに幻の月が見えた。

「…に……の…っ…」

いつだっただろう、二人で月を眺めたのは。
煙る濃紺の空に浮かんでいた、細い脆そうな月だった。
ふんわりと優しく背中から抱かれて、その温もりにまどろむような気持ちで頭を二宮の肩に預けていると、そっと耳を啄まれた。
甘い愛撫。
相葉を酔わせ、憩わせてくれる、ただ一人の人の胸は遠くに消え去るばかりだ。

諦めて薄笑いし、自分の身体にむしゃぶりついている男の髪を探りながらねだる。

「………もっと……」
「あいかわらずだな、白鷺」
「いいのか、それほど?」

くすくす笑う男達に微笑を返し、目を閉じた。

抱かれる前に飲まされた『夢幻』は快く効いている。
男の違いなどわからない。
快感を全て二宮に与えられたものに摺り替えれば、何度だって駆け上がれる。

目を閉じた視界は二宮と同じだろうか。
二宮の失った視界に最後に映ったのが自分だったら嬉しかったが、それはもう確かめる術がない。
背後の男がまたゆっくり動き始め、相葉は眉をひそめた。

「あ……ああ……あっ………は……っ」
「絡みついてくるぞ、白鷺」
「……ん……うっ………は、うっ」
「またその気になってきたのか」

男が形を入れ替えた。
ぬめる舌が耳を探り、胸の粒を武骨な指が摘まみ上げる。
喉を握られ顎を上げられ、開いた口の奥まで舌が入り込む。腰を抱えた男が脚を開き、指で開くのさえ惜しむように直接そそり立ったものを突き入れてくる。
半勃ちの相葉のものを握りしめ、力委せに扱き上げる。

「あ、あううっ」

仰け反った身体の奥深くに入り込む、それでも二宮が付けた傷までは届かない。
濡れた音を響かせて出し入れされながら、快感とは違った思いに微笑んだ。

きっと誰も、二宮ほど相葉を傷つけられない。
二宮ほど相葉を狂わせられない。
二宮ほど相葉を安らがせることなどできはしない。

繰り返し何人もの男に抱かれながら、それは日増しにはっきりと感じる実感になる。
腕をねじ上げられ、一度に何人も受け入れても、それでも相葉の一番深く、一番強く、一番奥まで入り込めたのは二宮だけ。

「あっ、あっ、あっ…………ああっ」

扱かれ吸われ抉られれば、身体は勝手に追い上げられる。
快感を拾い、『夢幻』で増幅された感覚を受け止め、跳ね上がって反応し、男達を喜ばせる。



だが、それだけのことだ。

相葉はずっと胸の中で子守唄を歌っている。


もーりもいーやーがーる。
ぼんからさーきーはー。


あの寒い村で、次々人が倒れていく腐臭漂う場所で、痩せこけた小さな体を幾つ抱き締めただろう。
きつく力をいれるとぽきりと折れてしまうような細い腕を、脚を、あばらの浮いた胸を、温めるように懐に抱えて、その呼吸が止まっていくのをじっと最後まで感じていた。


ゆーきもちーらーつーくし。
こーもーなーくーし。


泣く元気のある子どもなどいなかった。
生まれてもう、これはもたないとわかるような青白い赤ん坊ばかりで、産み捨てるように仕事に薬に戻っていく親を求めて声を上げるものも、すぐに静かになっていく。
その子守唄は日本に来てから覚えたのだけど、聞いたとたんに涙が零れた。

死んでいった赤ん坊に流した、そしてそれを抱くしか力がなかった自分に向けた、最初で、最後の涙だった。


こーのこよーうなーく。
もりをばいーじーるー。


抱かれることに抵抗などない。
男に貪られるのも気にならない。
どれほど身体を虐めても、どれほど心を追い詰めても、相葉の凍り付いた闇には届かない。

あの村の夜、最後の一人の赤ん坊を抱き、死体転がる道をとぼとぼと村を離れていった、あの夜に見上げた月に囚われ動けない。
小さな口が、はあ、と最後の息を吐いた、その瞬間にも月は見事に明るかった。


もーりもいーちーにーち。
やーせーるーやーら。


人の死など瑣細なものだ。
悲劇も喜劇も同じことだ。
『夢幻』に狂う男も女も、わが子を見捨ててよしとする親達も、誰も相葉は責められない。

神がいれば『夢幻』なんぞ作らなかっただろう。
仏がいれば『夢幻』なんぞはたちまち滅ぼしてくれただろう。

けれどこの現実の世に『夢幻』は流通し、増え、人々を闇に狂気に追い落とす。

相葉のすることなど、それこそその流れの前では幻のようなものだ。
どれほど燃やし爆破しても、『夢幻』は人々が求める限りなくならない。
凍りついた心が疲れ切り、果てしない虚無に落ち込もうとするときに唯一支えてくれる温かな腕を失った今、相葉にはもう生きる術がない。

男達がまた形を変えた。
相葉を這わせ、後ろから貫きながら扱き上げ、声を上げる口に前から深く押し入れてくる。

「あ、あぐ……っ……ぐぅっ……うっ」
「どうした白鷺」
「これほどやられてもまだ欲しいのか」
「うっぐ………うっ」

唇から滴るよだれを喉から胸に塗りつけられ摩られる。
限界に揺れるものの根元を締め上げられて、なお深く揺さぶられ、籠った声で悲鳴を上げた。

「くうぅっ……ああっ」
「どうだ?もっとか?」
「お願い……」
「はっきり言えよ」
「もぉ……いかせて………っ」

切ない声で涙ぐみながら見上げると、男が切羽詰まった顔になった。

「あ、ああ」
「……く、ううっ…………あ、ああ……ああああーっ」

激しく追い立てられて何度目かの精を吐く。
それと同時に叩きつけられるように注ぎ込まれ浴びせられ、突き放すように引き抜かれて相葉は床に転がった。
咳き込みながら身体を竦める。
がたがた震えるのをそのまま放り捨てられて、振り返りもせずに笑いながら男達が遠ざかる。

その背中、喘ぎながら見開いた目に二宮の幻が見えた。
さすがに苦笑して目を閉じる。
べたべたに汚れた口元を拭う気力さえ残っていない。

昨日から身体の痛みがわからない。
人肌から離されたとたんに細かな震えが始まり、寒さに縮こまる。
予想以上に『夢幻』に心身を侵されている。

それほど、もたないか、と胸の中でつぶやいた。
読みでは5日ほどは持つつもりだったのだが、一番始めに後ろから『夢幻』を擦り込まれたのが効いた。
何とか色仕掛けでごまかして、衣類を取りに帰ったのは正解、ぼつぼつ自分で後始末ができなくなってきている。
それでも、蛇荷貿易の8割ほどは相葉の色香に溺れていて、頼めば多少は面倒を見てくれた。
けれど、それももう限界か。


どれほど震えていたのだろう。
少し意識が戻ってきて、のろのろと手をついて身体を起こす。
あっという間に細くなった手首に力が入らなくて、またずるりと寝そべった。
床に布団は敷いてもらえたし、周囲に掛け物も用意してもらえたが、そこに戻る体力さえなくなってきた。

「は……」

くたんと倒れたまま苦笑する。

「………も一度…………にのに………会いたかったな……」

できればもう一度だけ抱いてほしかった。

また白い月を思い出す。
暖かくて気持ちよかった、あの腕にずっといられれば、それだけで本当はよかったのだけど。

男達から聞き出した取り引き日時は『夢幻屋』を通して情報局に伝わったはずだ。
情報局が乗り込んでくれば、相葉は拉致されていた花魁白鷺として、しかも既に死んでいたとして始末されるだろう。
蛇荷貿易が『夢幻』を扱っているとの情報で踏み込んでみたが空振り、ただそれ以外の不審な取り引きが見つかったために交易免許取り消しとなり、蛇荷貿易は山風運輸に吸収される、そういう筋書きだ。
そして『夢幻』の取り引き自体は情報局の支配下に置かれながら蛇荷運輸に引き継がれていく。
そのためには、拉致されていた花魁が生きていては都合が悪い。
後々どんな災いになるかわからない。

言わば相葉は、捨て駒なのだ。

実際相葉の身体は『夢幻』と乱交でもうぼろぼろだ。
何とか生き延びても、この先長い療養が必要になる。
情報局にそんな部下を飼っておく義理はないし、そうして生き延びた果てに誰が待つわけもない。

「あー……やっぱりー…………もっかい………会いたかったかも……」

くふふ、と相葉は笑った。
裸で放置された身体が痛くて冷たい。
きっとあの子ども達もそうだったのだろう。

「差し引きぜろ………ってこと……かな……」

『夢幻』が切れてきたのだろうか、息苦しくなってきて相葉は喘いだ。
震えながら顔を両手で拭った。
唇は何度か強めに擦る。
嫌な味は消えない。
呑み込みかけた唾液を吐き捨て、こぶしを握りしめて胸に引き寄せ丸まった。
冷や汗が止まらない。
胸が激しく打ち始める。
かたかた勝手に震え出す体をのたうたせて呻く。

いつもなら、終わればそうそうに今井がやってきて何くれとなく世話を焼きつつ『夢幻』を補充してくれるのだが、今日はその気配もない。

もう今井も相葉には飽きたということかもしれない。

「は、あ……っ……あ」

ぼろぼろと涙が零れた。
霞んでいく視界の彼方に懐かしい顔の幻をまた見た気がして、少し微笑む。
白い月のような面立ち。
きれいで静かで整った姿の愛しい人。

「に………の…………」

目を閉じると、その顔だけが視界に残った。

「よか…た…」

ただそれだけにほっとして、相葉は闇に落ちていった。



第十二話
┗暗躍跳梁、魑魅魍魎

に……の……。

「ま、さきっ!」

甘やかな呼び声に激しく息を吐いて目を覚まし、二宮は悟った。
目をきつく閉じる。
視力を失ってから、自分の闇に怯えたことなどなかった。

もう限界だ。
情報局は動かない。

わかっていることだ。
はなから捨てる駒として投入された潜入工作員は自害用の毒を渡されて入る。
それでなくても、相葉はあれこれ情報局の裏側を知り過ぎているし、それを漏らした可能性さえある。
情報局が入ったら最後、息があろうとなかろうと死体の扱いをされるのは明らかだ。

「く」

きつく歯を食いしばって顔を覆った。

恨みがなくなったわけではない。
二宮の世界を破壊したのは紛れもなく相葉で、妹も視力も相葉が奪ったものだ。
このまま生かしておけば、相葉は何度でも二宮を裏切るだろう。

だが、それも相葉の生き抜いた地獄を聞かされた後では、その強さ激しさが掛け替えなく愛おしく、胸を揺さぶってくるばかりで。

「く、そ……っ!」

明日の夜には相葉の命はなくなる。

ただでさえ、滝沢からひどく痩せていたと聞かされた。
衣類を取りに戻ってきたのだが、屈強な男二人に付き添われているのが滑稽なほど細くなっていたと。

もとから華奢な骨格だった。
体つきはしっかりしていたが、抱きしめるとしなしなと崩れるように腕におさまる、実体の感じられない危うさがあった。
なのに、そこからなお痩せたという。

満足に食事をしていないのか。
それとも、それほどいいように弄ばれているのか。

二宮は目を見開いた。

限界だ。
もう、耐え切れない。

「誰か居るか!」
「はい、ここに」

すぐにふすまの向こうから声が応じた。

「出る、支度をしろ!」
「出来ております」

跳ねるように起き上がり、身繕いを整える。
形だけの懐中時計を投げ捨てる。

「何時だっ」
「もうすぐ5時に」
「召集をかけろっ、蛇荷貿易を視察するっ。書類を整えておけっ」
「済んでおります」
「なにっ」
「既に人員は揃っております、昨夜のうちに」

微かに笑みを含んだ声が続けた。

「情報局にくれてやることはありません」

きり、と二宮は歯を鳴らした。

「………そうだな。では………」

ふいに荒々しい喜びが胸を満たした。



「全て奪いに行こう。喜多の顔を青ざめさせるほど、な」

情報局の電話が鳴った。
早朝にも関わらず、局には大野櫻井を始めとする顔が揃っている。
受話器を取り上げた大野が響いた声ににやりと笑って櫻井を見た。

「ニノが動いた」
「………」

無言で櫻井が黒コートを閃かせながら局を出ていく。
その後に続々情報局の精鋭が続く。行き先は山風運輸。
二宮が蛇荷を叩くのと同時に、かねてより入り込ませていたものからの情報に従い、倉庫の抜き打ち検分に入る。
蛇荷を叩く二宮の陽動を兼ねて、『夢幻』ルートの掌握と追い出しにかかるのだ。

だが、櫻井を筆頭とするその一群の中に松本はいない。

大野は受話器を一旦置くと、別の番号を回した。
すぐ出た相手の脳天気な明るい声に溜息まじりに命じる。

「動いたぞ。翔くんはもう出た」
『さっすが、ニノ!早起きだわ』
「しくじるなよ、松潤?」
『誰に言ってんの、誰に。じゃ、いってくる』


松本の向かった先は大宮物産。

「ううー、さむい、おはようございまーす」
「は?」

大宮物産の夜勤警備員が訝しげに顔を上げるのに、肩を竦めて体を摩りながら松本は笑いかけた。

「あ、遅れちゃいました?俺」
「何、あんた」
「あれ?聞いてませんか?今朝から交代勤務に入る松本ですけど」

笑みを零すと、相手は不審そうに眉を寄せた。

「聞いてないけど」
「えーっ、そんな、俺せっかく早起きしてきたのに。飯もまだなんすよ!」
「知らねえよ!」
「確かめてくれません?」
「まだ誰もでてこねえよっ、何時だと思ってる、まだ6時だぞ、6時」
「じゃあ、何時頃出てこられるんです?」
「早くて7時………重役なら8時回るな」
「じゃ、じゃあ、それまで中で待たして下さいよ」
「わけのわかんないやつを入れるわけにいかねえだろうが!」
「じゃ、この守衛室でいいから!ね、ほら、この握り飯だけ食わして?」

懐から出した竹皮の包みを振り回すと、相手がやれやれと言った顔になった。

「そいつ食うだけか?」
「あ、できれば便所も貸して! 寒くって寒くって、もう漏らしそうで!」
「上も下も一緒かよ、どうしようもない餓鬼だな!ほらよっ、便所はそこだ」
「あ、すいませーん」

竹皮の包みを手にのこのこ便所に入ろうとする松本に相手が嫌な顔をした。

「それ持って入んなよ、ここに置いておけ」
「あ、そうですね、どーも」

進められて警備員の座っている机に包みを置き、いそいそと便所へ飛び込む。
扉を閉めて間もなく、ごとごとごとごとと鈍い音が響いてきた。

「なんだ……?」

不安そうな声ももっとも、机の上の竹皮包みがぶるぶる震えて動きだしたのだ。
それを背中にのんびりと小用を足し出した松本に、警備員が声をかけてくる。

「おい、何かおかしいぞ、これ」
「え、なんすか?」
「何か、動いてるぞ」
「動くわけないでしょ、握り飯が」
「いや、でも確かに……なあ、おい、ちょっと見てみろ」
「急に止まるもんじゃないって」
「早く済ませろっ」
「ったく、ポンプや水道じゃないんだから」

ぶつぶつ言いながら扉を開けて出ていくと、警備員は強ばった顔でじっとごとごと動く包みを凝視している。
松本の気配にほっとした顔で振り返ったとたんに、大きく口を開けた。
だが、既に遅かった。
思いっきり派手に松本に殴られて床にのびる。

のびた警備員の服をさっさと剥いで縛り上げ、猿ぐつわをかませて便所の中に放り込むと、松本は包みを取り上げた。
何のことない、中身はゼンマイ仕掛けのおもちゃで手を離せばゼンマイがきれるまでごとごと動くだけの代物だ。

奪った警備員の制服を着込み、懐にそれを入れて机についたとたん、道路の向こうに自動車のライトが見えた。

「ぎりぎり、だったかな?」

薄く笑って帽子を深めに被る。
出入を記載したノートに屈み込むふりをしていると、重い音をたてて近づいてきた自動車が止まり、運転席から男が一人降りてきた。
助手席にもう一人だけ、二人ともひどく慌てた顔だ。

「おい!」
「はい?おはようございます、何でしょう」
「八草さんを呼んでくれっ」
「は?八草?通信の八草でしょうか、事務の八草でしょうか、企画の八草でしょうか」

すっとぼけて聞いてやると相手がいらいらと声を張り上げた。

「八草俊二だっ!いいから呼べっ、こっちは急いでるんだ!」
「ああ、八草、俊二さんね。あ、でも、今朝はまだお見えになってないんですよ」
「ちっ………まず安全だと言ってたからな………仕方ねえ、東方観光の大西に連絡をよこせと伝えろ、わかったなっ」
「あ、はい、じゃあ、すぐに」

男は慌てて自動車に戻っていく。
名簿を調べながら松本が頭を下げると急げ、と手を振って、自動車のエンジンをかけた。
そのまま走り出していく自動車に、松本がちらと鋭い視線を近くの茂みに走らせる。
茂みから立ち上がった男がうなずいて、自動車の後を追い掛けるのに薄笑いして、松本は八草俊二に電話をかけた。

「もしもし、朝早くからすみません。東方観光の大西です」

電話の向こうの男はひどく驚いて、なんだ、手違いか、と唸った。

「どこかから情報が漏れました、蛇荷に港湾局が入って、山風に情報局が乗り込んでます、どうしますか」

大西は逡巡したが、決断は早かった。
わかった、今夜に俺が引き取ろう、今夜ならまだ港湾局も情報局も動かないだろう、と応じてすぐに切れる。

「あまーい」

松本はにやにや笑いながらもう一度受話器を取り上げた。

「もしもし、キャプテン?面白いものが引っ掛かった。大宮物産も噛んでる。八草俊二ってのが請け負ってるみたいで、蛇荷に流れそこねた品物、今夜大宮物産に渡りそうです。東方観光の大西ってのも調べておいてください。手柄もう一つぐらいあげりゃ、あんたの首も繋がるでしょ?」
第六話
┗騙し合いと騙され合い

「今井さん」
「はい?」

地下室へ戻ろうとした今井を亀梨が引き止めた。いぶかしく振仰ぐと笑ってるんだか笑ってないんだかわからないような曖昧な目を眼鏡の奥で細めて、こちらを手招きしている。

「何?」
「ちょっと見てもらえませんか?」
「は?」
「気になる人が来てて」

ひょいと視線を移す。壁に掛かった布の向こうには小さな穴が開いている。そこから壁一枚を隔てた来客用の応接室の絵画の目を通して、来客者の素性を確かめることができる。

「今、赤西が応対してるんです。華族だって言うんですが、年鑑にも載ってないし」
「僕にはわからないでしょう、華族なら」

唇の片端を上げながら皮肉る。

「何せ地下で夢をむさぼる『もぐら』ですから」
「その『もぐら』の方の知識を頂けないかと」
「裏社会の人間?まさか、こんな昼間っから、正面切って乗り込んでくるような……」

いいかけて今井は顎に手を当てた。思い出したのは数年前の大陸での一悶着だ。『夢幻』絡みだが、当局にも鼻薬を嗅がせてすんなりと通ったはずの仕事を引っ掻き回された覚えがる。

「……あれも真っ昼間に乗り込んできたか」

つぶやいて我知らず溜息をつく。

とにかく眩しい男で、やることは汚いのにやり方が堂々としているあたりが性質の悪さを物語っていた。もっとも、こちらもぱっと見には優男に見えたし、表面だけの官僚視察と甘くみたのがまずかったのだが。

もし、あの男だったとしたら、確かに蛇荷に『夢幻』が動いてると知れば昼間から妙な手を打ってこないこともない。そうして、あの男の後ろには剛直一本、引くことを知らぬ櫻井が居る。櫻井が出てくれば、遅から早かれ、蛇荷が叩かれるのは時間の問題だ。

どのあたりで引くかと算段し始めながら、今井は階段を昇った。亀梨の示した覗き穴に目を当てる。

部屋の中には洋風の応接間に凝った刺繍のソファが配されている。テーブルも飾り棚も欧州輸入の一目みて金がかかっているとわかる代物だ。そんなものをさあどうぞと見せびらかす部下の神経にはうんざりだが、そこにちんまりおさまっている男にはなおうんざりした。

生白い顔。濃い茶色のスーツにこれ見よがしの金時計、ネクタイまで黄金色というのはどうにも頂けない。くわえて髪の毛はふわふわと半端に解き流して、固めてもいない。どこから見ても苦労しらずのぼやんとしたお坊っちゃん顔はすべすべして、細い指先も荒れていない。

「どうですか?」
「さあ………覚えはないですねえ」
「………じゃあ、言う通り、東山さまの御子息の一人なのかな」
「何の用なんです?」
「珍しい本を取り寄せたいって言うんですよ。貴重な本で『極彩色熱帯魚図鑑』の続きものだとか」
「………」
「ええ、そうなんです」

 今井が眉を上げて、亀梨はうなずいた。

「『熱帯魚』は合い言葉ですからね。さっきから赤西が真意を探り出そうとしてるんですが、これがのらりくらりと話をうまくかわされてばかりで」
「ほう………赤西が」

今井は改めて男に視線を注いだ。

にこにこ無難に笑っている顔は目を見張る美形というのではないが、どこか妙な色気がある。ときどき伏せてちらりと上げてくる視線に見られるたび、赤西がうっすら赤くなって微妙にうろたえている。

赤西とて、伊達や酔狂で蛇荷貿易の表の顔をつとめているわけではない。客の選別もまかされているのだが、この客ばかりは扱いあぐねているようだ。

「東山さまの方は?」
「それがただいま商談にお出かけとかで。夕刻過ぎないと帰られないそうなんですが、あの方もどうしても取り寄せできないのなら、山風運輸に頼みにいきたいと」
「ふうむ」

 山風運輸も『夢幻』を動かしている。だが、珍しい書物の取り寄せとなると、このあたりでは山風か蛇荷、少し足を伸ばして大宮物産ぐらいだろう。

「僕が出ましょう」
「よろしいですか」
「ちょっと………気になることもありますから」
「よろしくお願いします」
「ああ……もし、十五分たって帰らないようなら、お茶、入れ替えて下さい」
「は、ああ、はい、わかりました」

 亀梨がうなずくのを背中に今井は通路を通り抜けた。

小部屋の鏡で身だしなみを整える。鬚はいいとして乱れ落ちた癖のある髪は整髪料で軽くまとめ、黒シャツ黒ネクタイ黒スーツのいかにもうさんくさげな格好ににやりと笑った。
まずはどう反応するかを見るつもりだったが、ふと窓の外に目をやって、正面のかふぇを通り過ぎる懐かしい顔を見かけて目を見開く。

「おやおや………松本さん」

忘れもしないあけっぴろげな明るい笑顔は変わっていない。通りでぶつかりかけた小僧にしゃがみ込んで説教し始める姿を見ていると、相手の視線がちら、と一瞬鋭い光を帯びてこちらを見た。
今井の姿はカーテンの影で見えなかっただろうが、明らかに仕事中の殺気を漲らせた視線、それもたまたま蛇荷貿易を掠めたというのではなくて、小僧と別れてからのんびりと煙草を銜える、その視線が何度かこちらに投げかけられる。

「……なるほど」

 く、と今井は笑った。

「いらっしゃってるのは、お仲間ということか」

今井がここにいたことが不運だったのか、松本の勘が平和な日本で鈍ってしまったのか。大陸ではぎらぎらした刃を前にしているような気がしたものだが。

「なら、さっさと動かねえとやばいな」

今井が有利なのは、こちらが松本の関与を知っているというその一点でしかない。正体がばれているとなれば、もっと素早く容赦ないやり方に出てくるだろう。それで大陸では散々な目にあって、結果、組織を一つ手放さなくてはならなかった。

「亀」
「あ、はい?」
「お茶、すぐに下さい」
「というと?」
「あれは潜入工作員でしょう。どこまで何を知ってるのか…………吐かせてみます」
「よろしくお願いします」

亀梨が頭を下げるのに、今井は薄笑いを浮かべてネクタイを締め直した。

「で、僕、本当にかんどーしちゃって!」
「はあ」
「ほんの僅かな水温や育て方の違いで、そりゃあ、全く発色が違うんですよ!」
「は、あ……」

目の前の顔の男はぼんやりとうなずいた。

無理もない。もう延々30分は『熱帯魚がどれほど素晴らしいのか』について聞かされ続けているのだ。

「お父様に頼んで、ぶっひゃ、とかべりめろすとか、取り寄せてもらったんですけど、そーだなー、水槽が一部屋占めてます」
「は…………あ………あ?今井さん?」
「はい?」

幽体離脱一歩手前じゃないかと言うほど惚けていた相手がふいに我に返って背後に呼び掛け、相葉も振り返った。

「こんにちは………お魚について詳しい方が来られたとかで、お話に加わりたいとつい」

 全身黒づくめの男だった。細身仕立てのスーツもネクタイもシャツも黒い。それぞれに織りが違っていて高価なことはわかる。顔に微笑みを浮かべ、声は高めで優しい。

「ああ………初めまして、僕、東山雅紀といいます。今井……?」
「いや、もう名乗るほどのものでは……今井と呼び捨てて下されば」

立ち上がって差し出した相葉の手を如才なく今井は握り返した。

「よろしいですか…………あ、赤西、新しいお茶をお願いしたいのですが」
「え、ああ、はい、承知しました」

赤西がはっとしたように立ち上がり、そそくさと部屋を出て行く。その後姿を見送りながら、相葉はゆっくりつぶやいた。

「へえ…………今井さんってこちらに長くいらっしゃるんですね。それとも、こちらとの取り引きの?」

くるりと振り返ってにっこり笑ってやる。

ソファの方へ移動していた今井が一瞬動きを止めたが、にこやかに笑い返してきた。

「どうしてですか?」
「いえ………赤西さん、こちらの番頭のようなもの、とおっしゃってたからー。番頭の上となると、大番頭、あるいは御主人ぐらいですよねー?」

 にこにこしながら相葉もソファに腰を降ろす。

「ああ、なるほど。これは鋭い。いや、そうですね、まあ言えば、海外担当と申しますか」
「ああ、そうなんですか」

今井が鋭い視線を返してきて、相葉はなおにこにこした。

「じゃあ、僕の欲しいものは今井さんにお頼みするといいのかな」
「そうですね、何をお望みなんですか?」
「えーっとね、赤西さんにもお話ししてたんですが、『極彩色熱帯魚図鑑』の改訂版が出たって聞いたんですよ。前のうぃんぐ・ぱるさー社のは持ってるんですが、新しいのがどうしても欲しくなって」
「ああ、なるほど」

今井が笑みを深める。

「それはひょっとすると、うぃんぐ・ぱるさーではなく、どりーむ・いりゅーじょん社ではなかったですか?」

相葉は目を細めた。今井は微笑みの顔を保ってはいるが、目は笑っていない。

「うーん、そーだったかな」
「外国のことばは難しいですからね。覚え間違いだったのでは?」
「あの」
「はい?」
「僕、何だか脅されてるみたいな気がしちゃうんですけど」

へらんと笑うと相手がゆっくり腕を組んだ。それが癖なのか、顎に指先を当ててこちらを覗き込むような仕草をする。

「心外ですね」
「そうですか?僕って、ほら、いろいろすぐ不安になるたちで。夜眠れなくなることもあるんですよ。心配だったり、調子が悪かったりするとすぐ、ね、いろんなものが欲しくなって」

相葉は唇に当てた指を滑らせた。ちろ、と舐めてみせながら微笑む。

「きっとできそこないなんですよ」
「そんなことはないでしょう」

今井は微笑を崩さない。

「あなたは…………ずいぶん賢い方のようだ」
「そんなこと言って頂いたの初めてです。ありがとう」
「本当に欲しいものは何ですか?」
「言ったら、くれる?」

唇に指を差し込み、舌で嬲った。相手の視線がそこに引き寄せられるのを確かめて、軽く吐息をついて指を離し、困ったように呟いてみせる。

「僕……一人で寝られないんです」
「ほう……」
「それも、誰かを抱いていたいんじゃなくて、抱かれていたい方」
「………」
「でも……そう誰もが応じてくれない………だから、お薬に頼る。気持ちよく眠れますもんね?」

立ち上がると今井が追うように視線を上げた。

「ぼちぼち………なくなるんです、お薬」

すう、と今井の視線が落ちて相葉の手に向かう。その視線の先にある手が微かに震えているのを相葉も感じていた。だからこそ、あえて晒すように立ち上がったのだ。大野が用立てた『夢幻』はほぼ使いきりつつあった。後はそれこそ、山風からでも手に入れるしかない。

「欲しいんですか?」
「はい………欲しいです」

今井が立ち上がった。そのまま相葉に近づくのかと思いきや、側を通り抜け、背後の扉へ向かって、そこで茶を受け取って戻ってくる。テーブルにそれを盆ごと置いた今井の手を相葉は捉えた。半身振り返る相手をじっと見つめて甘え声でねだる。

「あなたが………くれる……?」
「何を?」
「まずは………唇から……」

体を寄せた相葉の顎を今井が掴んだ。舌を待って開いた相葉の口へ、ためらいなく唇を重ねてくる。
滑り込んでくる舌が容赦なく口の中を探り回って、『夢幻』が切れかけ敏感になっている相葉の感覚を見る間に煽った。

「っん、んんっ」

何度か繰り返し重ね直されて上がり始めた息に喘ぎながら目を開くと、今井がじっとこちらを覗き込んでいた。

「情報局に白鷺という花魁がいるそうですね?」
「っ」

 体を引き寄せていた龍村の手がするりと滑り降りた。

「男のくせに、女に負けないいい体を持っていて」
「っあ」

勃ちあがりかけていた相葉の前をゆっくりと摩り上げる。

「敏感で、淫乱で」
「…っ……あ、ああっ」
 囁かれながら耳から首筋に口を落とされ吸い付かれる。思わず崩れそうになってすがりつくと、相手が強く上半身を抱き込んでくる。煽り立てるもう片方の手に体が揺れて跳ね上がるのに唇を噛んで首を振る。

「けど………その人が『夢幻』中毒で、こんなに容易くこっちの手に落ちてくれると思いませんでしたよ」
「……うっ」

限界近くまで一気に追い上げられてよろめいたところへ、素早く近づいた口が相葉の口に茶を流し込んできた。びくりと大きく体が震える。その味にはこの数日でなじんでいる。

「『夢幻』………」
「よくご存知でしょう? けど、これは改良作………どこかどう違うかは」
「っは、あ……っ」

もう一度口を吸われ、舌で犯され、すぐに気づいた。炎の立ち上がりが数倍早い。疼く体を抱えて撫で回されただけで声を上げて身悶えてしまう。スラックスの前を開かれ、下着を濡らし始めていたものを引きずり出され、直接に扱きあげられて悲鳴をあげる。

「あ、あ、ああっ」
「いい声ですね? ………感度もずいぶんよさそうだ」

容赦なく追い立てられながらスラックスを引き落とされる。崩れそうに震える脚にしゃがみ込んだ今井の肩にすがると、そのまま腰を引き寄せられてずぶりと深く含まれた。

「……うくっ……ああっ………っっ」

温かな口でしゃぶり回される。腰を揺らせる相葉の後ろに指が這う。柔らかな手付きで広げられて、細い指先が滴ったぬめりを押し入れてくる。弱い部分はすぐに見つけられた。繰り返しそこを探られながら、巧みな舌を這わされて、相葉は堪えきれずに呻いて放った。まるで特別な飲み物でも口にしたようになおも吸い付かれ、引こうとした腰を強く押されて銜えこまれ、身をよじってもがく。

「や………ああっ………っっはぅ…っ」

次々に駆け上がってくる快感に視界が白く霞む。限界を越えているはずなのに、なお追い上げられて仰け反りながら悲鳴をあげる。後ろを犯した指がふいに深くねじ込まれた。

「あ………ああああっ……ああっ……ああ!」

ずきり、と鋭い白い刃に意識を切り裂かれた気がして、相葉の体から力が抜けた。



第七話
┗罠にはまった一人の男

少し気を失っていたのだろう。

気がつくと、相葉はいつの間にか薄暗い部屋に連れ込まれていた。 ひんやりした空気から地下室らしいと見当をつける。コンクリートで囲まれた箱のような部屋、留置場のような鉄格子が数カ所に区切っていて、その一室にスーツを剥がれ、カッターシャツ一枚で手錠をはめられ拘束されている。シャツの下の素肌が空気に晒され粟立っている。

両腕を上げて座り込んだ状態で鉄格子に張り付けられている相葉の前に、今井が冷ややかな笑みを浮かべてしゃがみ込んでいた。

「さあ……話してもらいましょうか、白鷺さん」
「何を…でしょ?」

 まだ少し整わない呼吸で尋ねた。

「確かに僕は白鷺だけど……どうしてこんなこと、するの?」

今井に不安そうに笑いかけてみせる。

「さっきのは………凄く気持ちよかった……でも」

周囲を見回して溜息をついた。

「僕、抱かれるなら、もっと柔らかいとこの方がいーんだけど」
「……思ったより、強いんですね、あなたは」

今井が低く笑う。

「それはそれで楽しい……まあ、ゆっくりと吐いてもらいましょう」

「ちょ、ちょっと待って」

ゆらりと立ち上がった相手が掌にさらさらとした粉を落とすのに、相葉は目を見開いた。

「それって………『夢幻』……?」
「そう。欲しかったんでしょう?」
「いや、でも、ちょ…………あ、ああああっ!」

今井は掌に落とした粉を指に擦りつけると、相葉の脚を開いた。背後には格子、体を引く空間もなく脚を持ち上げられ、晒された後ろに『夢幻』をまぶした指を突き込まれて悲鳴を上げる。二宮に傷つけられた部分はもっと奥ではあるけれど、それでもまだあちこち傷が残っている状態、そんなところへ『夢幻』を擦りつけられては一気に血液に薬が入る。ただでさえ飲むより吸収のいい腸管に押し込まれているのに、そこに傷があってはたまらない。

「う、うあ、ああっ!」

強く擦りつけられ指を回され、焼けるような痛みに叫ぶ。竦んだ相葉に容赦なく脚を広げさせたまま、一旦引き抜いた指に今井がまた『夢幻』を絡ませる。濡れた指に白い粉がべっとりとまとわりつくのを見せつけて、そのまま相葉の後ろへねじ込んだ。

「やっ、やめっ………あっあああっっ!」

必死に抵抗するのも虚しく、なお多くの『夢幻』を擦り込まれて相葉は絶叫した。ぞくぞくと駆け上がる悪寒、すぐに乱れて激しく打ち始める心臓、息が上がって胸が苦しい。硬直した脚をなお引き上げられて、今井の指が相葉の中を蹂躙する。増やされる指が弱いところを何度もひっかいていくが、かき回される指の感触はまるで巨大なすりこぎを突っ込まれている感覚、本来なら快感につながるはずの刺激がきつ過ぎて吹き零れた涙と一緒に吐き気が込み上げる。

「ぐ、うっ、うあっ、あっあああっ」
「言いなさい、どうしてあなたはここへ来たんですか?」

熱く籠った声が命じた。喘ぐ相葉が首を振るのに、なお指を回して中身を抉る。耳鳴りがして、がしゃがしゃと耳障りな金属音が頭上の手錠から降ってくるのがみるみる遠ざかっていく。

「あっ……あふっ……くうっ、う」
「白鷺さん?」

 視界が眩んで俯き喘ぐ相葉に、今井が呼び掛けてくるがそれに応えることすらできない。

「…………あなた………怪我してるんですか……?」

快感に狂うというよりはいきなりぐったりと身動きできなくなってしまった相葉に、今井も不審を感じたらしい。指を引き抜き、しばらく沈黙した後、ぼそりとつぶやいた。

「血まみれになってる」
「う……くっ………」
「大丈夫ですか?」
「うっんっ………っは」

息を荒げる相葉の顔を掬いあげて覗き込む今井の顔が僅かに白くなっている。

「……だから……待って…て………いったのに……」

朦朧としながら、相葉は弱々しくつぶやいた。流れ落ちる汗が唇に落ちてくる。苦痛に噛み切ったのか、ぴりっと染みて顔をゆがめる。

様子がただ事ではないと思ったらしい今井が、とろんと見上げた相葉に少し息を呑み、やがて引きつった顔になっておどおどと謝った。

「………すみません」
「……もー………」

『夢幻』のせいで感覚も鋭くなっているが、痛みは鈍くなっている。目を閉じ眉をしかめて堪えていると少しずつましになってきた。『夢幻』を多少なりとも服用していて幸いだった。もし、初めてこんなことをされたら、急性中毒で死んでいるところだ。

もっとも、予想していないことではなかったが。

乱れた呼吸を繰り返していると、今井が唇を重ねてきた。舌を這わせる仕草が優しい。相葉の唇を舐め回し、首筋の汗を吸い取ってから、掠れた声でつぶやいた。

「………ひどい抱き方されたんですね……」
「あなたが言うの………間違ってるよぉ……」
「………それは……そうですが………」

今井は奇妙な顔をしながら、そろそろと相葉の体を拭った。下半身が妙にべっとりしていると思ったら、再度出血してしまったらしい。

「ね?………ついでに手錠外して?……逃げられっこないし……」
「まあ……はい」

固い金属音が響いて両手が自由になった。そのままくたりと今井にもたれ掛かると、相手が硬直する。

「…なに」
「いや………まさか懐かれるとは」
「懐きたくて懐いてんじゃないもん………うー………吐きそう」
「え!」
「どんだけ………使ったの……『夢幻』………」
「……あ………えーと……すみません……」
「悪いけど………しばらく抱いててくれない?………くるし……」
「あ、はい」

妙な展開に飲まれてしまったのか、ごくりと生々しい気配で唾を呑んだ相手が我に返ったように、ゆっくりと相葉の背中を摩り始めた。

「あ、それ楽かも……」
「楽ですか」
「ん……」
「大丈夫ですか」
「なんとか……はぁ……死ぬかと思った……ひさびさに」

今井が、またこくん、と喉を鳴らす。熱っぽい目で喘ぐ相葉を見つめ、軽く喉に吸いついた。動いた舌に小さく呻くと、ひくりと震えて抱く腕に力が籠る。相葉は笑って片手を相手の股間に滑らせた。ぎくりと固まる相手に掠れた声で囁いてやる。

「元気になったら抱いてもいーから………」
「あ、はい?」
「どして……いきなり情報局だのって……?」
「ああ、だって」

今井が居心地悪そうに腰を揺らす。相葉の指先から逃れ損ねて、勃ちあがったものを撫で回され、唾を呑み込み小さく息を吐いた。

「外に松本さんを見かけて」
「あら…」

松潤のばかとつぶやいて見せると、今井が体を起こさせた。思い詰めた顔でまた口を寄せてくるのに、微笑んで口を合わせる。舌を滑り込ませて、入ってきた舌を弄ぶ。相葉がその気になって煽られない男はまずいない。

「っん、おいし」
「っは」
「僕今こんな状態だから」

相葉はにんまりと笑った。

「口でごほーししてあげよーか」

今井は目を見開いてためらい、やがてゆっくりうなずいた。



第八話
┗力とそれを操るもの

「……っん」

相葉と入れ替わって鉄格子にもたれた今井の、スラックスから引きずり出されたものを、相葉はゆっくり口を開いて銜え込んだ。今井を誘惑するためだけではなく、身体に入れられた『夢幻』がじわじわと熱を追い上げてきている、その熱を逃がすためもあった。

「ふ……」

ちらっと目を上げると、相手は食い入るような目で見下ろしていた。目を伏せながら口を半開きにし、入り込んでいるものを舌を絡みつけながら見せつけてやる。ごく、と唾を呑んだ相手の気持ちに素直に反応して、また嵩を増やしたものが口に入り切らなかったふうを装って、眉をしかめて呻いた。

「あ……う……っ」

喘ぎながらもがいて舌を押し出すように顔を引くと、今井が頭の後ろを押さえた。そのまま頭を押さえつけながら腰を進めてくるのを、今度は諦めたように舌を伸ばしながら喉深くまで受け入れる。

「うぐ…う……っ」
「どうしました?さっきの強気はどこへ行ったんです?」

今井が薄笑いを浮かべて腰を揺らし、口の中を膨れあがったもので満たされて、相葉は目を閉じた。

眉を潜めながら舌を動かし、奥を突かれて呻き、瞬きして懇願するように今井を見上げる。どきりとしたような今井の顔を目を潤ませて見つめれば、相手が逃がすまいとするように一層強く頭を押さえつけてくる。

「くふっ」
「もっと奥まで……」

命じる声が掠れてきた。その今井の気持ちを煽りながら、口を犯しているものを自分で気持ちいい部分に銜え込むことで快楽を拾う。

「う…うぅ……っ」

低く今井がうなった。相葉の唇から零れ落ちたよだれが滑り落ちて喉を這い胸へ流れる。相葉が喘ぐのに煽られて、ゆっくり頭を押さえたまま今井が腰を動かし始める。

「何もの……なんだ…あなたは」
「あ…むっ…」
「なんて……顔するんですか…」
「は…ぐっ……う……」
「こっちが………たまら……ない…」

相葉は眉を寄せて今井のものを舐め回しながら、伝ったよだれで濡れた胸に自分の指を這わせた。ゆっくり摘んで嬲り、立ち上がってからはよだれを指に絡めてくすぐり高めていく。もう片方の手は下に降ろして、汚れ濡れたものに絡めて扱き始める。
濡れた音が相葉の口と身体から広がり、コンクリートの壁に響いて異様に大きく聞こえた。

「とんだ淫乱だ……」

今井の嘲笑う声に軽く首を振ってやった。泣きそうな顔を演じるのはお手のもの、流れてくる汗に目を閉じ、腰を揺らせて、勃ち上がったものを握り強弱をつける。

「あ……っ」

ひくりと身体が震えた。
思い出したのは二宮の指。忘れ切っていたと思った手順、甘くて柔らかくて容赦がない指の動きを思い出して、相葉は自分の声が濡れたのを感じた。

にの。

胸の中でつぶやけば、粒がしこり、二宮の舌を待ち望む。そこを濡らした指で軽く撫で摩ると、舌の感触を甦らせることができて、相葉は身体を震わせた。
演技だけではないくらりとした波が頭に広がり、痺れを産む。それが舌の愛撫にも繋がったのか、

「う……おっ……」

今井が切羽詰まった呻きを上げて相葉の頭を抱えた。苦しげに眉を寄せて呼吸を荒げる。がたん、と鉄格子が鳴ったのはよろめいた今井が身体を打ちつけた音、その音にさっき手錠で縛られたまま抉られた感覚が甦り、相葉は唇を上げた。
今井のものをより深く銜え込み、それが無理に自分を犯し、敏感なところを攻め立てられていると想像する。縛られ拘束され逃れようのない快感に晒されている、と。

「んうううっ」

その手順は二宮が教えたもの。ぎりぎりまで追い立てて、なのになかなかイかせてはくれなくて、何度もねだって懇願して待って焦れてするうちに、意識に霧がかかって視界が霞む。縛りも拘束もしないけれど、二宮の柔らかな声で

「だめ、雅紀」、

そう命じられるだけで相葉は縛られたも同然だ。上からも下からも切ない涙を絞り出しながら、いいと言われるまで耐え続けるのがまた壮絶な快感を産む。

「んっ……んぐ……っ…んっん」

まだだよ、雅紀。
うん、にの。
もう少し我慢。
うん……にの。
もっと鳴け。
うん…うん…にの……。

命令は絶対、一度耐え切れなくて零してしまったら、その後イかされないまま延々と責められ続けて、さすがに意識が擦り切れそうになった。

けれど、その後はいつもうんと優しくて。全てを手放して眠り込む相葉をじっと抱いててくれたことさえあって。目が覚めたときに綺麗な額に髪を乱して眠る顔に驚き、ひどく嬉しくて、起こさないようにそっとまた胸に潜り込んで眠った、至福の時間。

「ぐ、うっ……んぅ…っ………んう」

胸を突き上げた切なさに一つ顔を振って現実に戻った。

今井のものを何度も吸いあげ、舌を這わせる。ひくひく動き始めるのを軽く噛み、尖らせた舌で先端を探り突き立てる。

「う、うあっ……あ」

今井が堪え切れぬように叫んだのをいいことに、身体が揺れたふりをして口を放した。弾けたものが音をたてて顔を横切り、喉から胸へ散るのを受け止めながら、自分もしごき上げて駆け上がり、

「はあ……う……ぅうっ」

声を上げて仰け反りながら放つ。今井が朦朧とした顔で見下ろす足元に倒れる相葉の身体は自分のものと今井のものでべとべとになっている。
なおも寝そべったまま、股間のものを絞りながら、胸を弄り、切ない声を上げて身悶えてみせた。

「あ……ああっ………あ」
「ふ……う……っ」

ゆらっと鉄格子から体を起こした今井の目に獣の火が灯る。

「なに………してるんです……」
「う…んっ……だってー……う、ふっ」

浴びせられたものを掬い、身体に塗りたくる。自分のものも濡らしたまま、なお弄んでいると、再び勢いを取り戻して勃ちあがりはじめた。

「『夢幻』……使われたちゃったから……辛いんだよ……っ」

はあ、と息を吐きながら腰をうねらせた。さっき嬲られ傷つけられた後ろが今井の前でゆらゆら揺れて、それに相手が目を奪われているのを感じとりながら、

「今井さん……もう……だめでしょ…?…いっちゃったもんね…ぇ…っ……だから……っは」
「馬鹿にしないでください」

今井が低くうなって、体を起こした。スラックスを脱ぎ落とす。反応し始めたものを見せつけるように相葉の側に近寄って仁王立ちになる。

「あなたぐらい、どうとでもできる」
「………どう……とでも…?」

相葉は濡れた指を口元に運んだ。今井の目を見返しながら、指を舐め回し、それを顎から喉、首の付け根と滑り降ろしていく。胸を嬲って微かに喘ぎ、腹から脇へ動かして身をよじり、へそへもどって脚の付け根へと辿りながら、乱れ始めた呼吸で呻いた。

「は……う…っ……あ………どう………してくれる……の……?」

勃ちあがったものは新しい涙を零して揺れつつある。それを放置して相葉は両手を股間に降ろした。
ぬめりを掌で広げながら右膝をゆっくりと抱え上げ、開かれた場所にもう片方の手の指を埋める。

「あ……うううっ」

さすがに痛みがきつくて、視界が滲んだ。息を荒げながら、それでもずぶずぶと指を埋め込み、今井を潤んだ目で見上げる。

「んっ…だめ…かなぁ…痛い…よぅ……」
「あたりまえ、でしょう。さっき、怪我してるって言ったじゃないですか」

茫然とした顔になった今井が、誘われるように膝を落として跪き、相葉の指を引き抜こうとする。
それに抵抗してなお深く自分で差し込もうと力を入れた指が、勢いよく突き刺さり、相葉はまた悲鳴を上げた。

「あ…あっう…ふ…くぅん……っ」
「ばか、そんなことしたら」
「だって……っ……足りないん……だもん……っ」
「やめなさい、また血が」
「ひぃっ」

力まかせに今井に抜かれた指に内側を強く擦られ、相葉は芝居ではなく仰け反った。激痛が走り、とろとろと濡れたものが滴るのを感じる。

「あ…うんっ……」

泣きながら今井を見た。

「たす…けて……っ………今井さん……っ」

今井が大きく体を震わせ、目を大きく開いて息を呑む。それから突然、吊られた糸が切れたように相葉の股間に覆い被さった。脚を大きく開き顔を埋める。傷ついた後ろに温かな舌を感じて、相葉は小さく鳴いた。

「あ…あっ……今井、さ…ん…っ」
「もう…無理だ……だから……」

くぐもった声が苛立ったように戸惑いを宿して続く。

「私が……してあげます………どうすればいい……?どうすれば………楽になります…?」
「舐めて……もっと………ああ……舌……入れて……くふっ………んうう……」

両膝を押し上げられ、相葉は今井の舌に舐め回されながら喘いだ。濡れた音を響かせて、今井が必死に舌を使う。弄ばれているはずの相葉が甘い声でねだるたび、今井は何かに憑かれたようにそれに従った。

「あう……んっ………んっ……ん、あああっ」
「ここは?こっちは?」
「は、あっ………あああっ」

身体をうねらせ、声を上げるだけで今井は相葉の求めに従った。快感を貪りながらうっそり笑った相葉が、今井の頭をそっと両手で抱える。

「い…まい…っ…さ…僕……も…狂い……そ…」
「いいん、ですか」
「…んんっ…も……だめ…っ…あ…そこ…やめ…っ…あああっ」

相葉が軽く拒んでみせたところへ吸い寄せられるように今井が顔を落とす。望んだ通りの快感を手に入れて、相葉は、笑った。

今井がそそり立った相葉のものまで含みながら扱き上げてくれ、相葉は高い声をあげながら腰を振った。疼いてきた後ろに今井の指を導く。

「いや…しかし…」
「今井…さんなら…いいから……っ」
「そ…うですか…」
「でも……今日は…大きいの…いれないで…?」
「わかりました」

泣きそうな顔で唇を震わせて懇願すると相手は神妙にうなずいた。

「だから……ね…指で……慰めて…」
「はい」

今井が指を差し込み、やがて相葉の反応に夢中になって突き入れかき回し始める。痛みもあるが、それより勝る快楽に、相葉も身体を開いて今井の指を味わう。

「あ……っ………あああっ」

声を上げて舌を閃かせると、待ちかねたように口を重ねてきて舌を絡ませられた。肩を抱きかかえられ、指で犯されながら悶える相葉の耳元で今井が囁く。

「心配すんな………あんたは俺が……面倒をみる」

掠れて飢えた声音に、相葉は今井に見えない位置で目を細めて笑った。


潜入、完了。


第九話
┗金波銀波の海越えて

ふと、側に人の気配がして二宮は顔を上げた。鼻先を掠めたのは覚えのある煙草の匂いだ。

「………情報局の駄犬か」
「御挨拶だね」

許可する間もなく、同じテーブルにどさりと腰を降ろす音がした。

「……他に席があるでしょ」

冬のかふぇの外側に並べられているテーブルに着く物好きが二宮以外にいるとは思えない。部下が連れてきてくれたときも、他に誰もいません、いいんですか、と繰り返し尋ねたほどだから、よほど奇異に思ったのだろう。

「何してんの、こんなところで、港湾のお偉いさんがたった一人で?」

松本は二宮の拒否に平然と尋ね返してきた。相変わらずの不作法さに溜息をつく。

「そっちこそ、こんなところで油を売ってるほど暇なの、情報局は」

暗に今潜入工作をしている相葉のことを匂わせると、新しい煙草に火をつけたのか、マッチを擦る音がしてきつい匂いが漂った。

「……ちょっと野暮用でね」

声が動いて蛇荷貿易の方向を振り返ったようだ。露骨すぎる動作に眉をしかめる。

「正面で監視もないだろ」
「監視なんてしてないよ?あん中にはウチの切れ者が入ってる。俺がうろうろするだけで余計なことを考えて奥深く連れ込んでくれた今井ってお人好しもいたしね。楽な潜入だったよ」

くす、と微かな笑い声はしたたかな響きを宿している。

「言ったろ?俺は野暮用なの」

声はふわりと淡い調子で続いた。

「あんたこそ、気になんの、白鷺のこと?」

一瞬、松本の吐いた『白鷺』の名前に微かな優越感を感じた自分が忌々しくて、二宮はコートに入れた両手を握りしめた。

「俺がなんで気にしなくちゃいけない?」
「またまた強がっちゃって」

一体何の用、と苛立って尋ね返そうとしたら、あ、ここね、と軽い声を響かせて給仕を呼ぶのが聞こえた。陶器の触れ合う音がして、目の前のテーブルに温かな匂いが立ち上る。

「どうぞ?奢るよ」
「……馴れ合うつもりはない、って言ったはすだけど?」
「違うよ、これは、さむそーに部下の一人もつけずにこんなところでじっと動きを見張ってる同業者への同情」
「動きなんて見張って……」
「白鷺、あんたを裏切ったよね?」
「……」

反論しかけたとたんに切り込まれて二宮は黙り込んだ。

昔から松本は苦手だった。無神経に人の弱身を突き回る。

黙ったままなのがしゃくで、コートから出した手をテーブルに滑らせて端を探りながら、カップの位置を確認した。右手でソーサーを押さえ、左手でカップを取り上げる。ゆっくり持ち上げて、左手の親指に一瞬唇を触れてからカップに口を当てた。香り高い珈琲に濃いミルクの匂い、甘めに入れた砂糖も行き届いた量でむかつく。

松本の不快なところは、これほど無遠慮で不躾なやつなのに、人が何を必要としているかを的確に把握しているということだ、と二宮は思った。寒さで凍えた体にじんわりと温かな飲み物が染み渡って、思わずほっとする。部下の迎えはまだ先のはずで、さすがに何か頼もうかと思っていたところだった。

だから櫻井、あの男が臆面もなくこいつを侍らせて喜んでいるのかと納得しかけ、二宮はなお不快になった。一口二口飲んだところで、右手に軽くカップを触れて場所を辿りながらソーサーに戻す。

「さすがにちょっと言っとこうかと思ってさ」
「何を」
「………白鷺、同じことがあったら、きっと何度でもあんたを裏切るよ」

「情報局の切れ者だからだろ?」

間髪入れずに返すと、相手がカップを取り上げる音が響いた。まだ熱いそれを煽る気配に、松本もかなり長い間外にいたのだと気づく。

「それか、あいつが節操がないから」
「節操がないってのは認めるけど」

再びマッチを擦る音が響いた。

「あいつは『夢幻』を憎んでるから」
「………憎む?」

松本の声が微かに憂えてそちらへ顔を向けた。

「………あのさ、ちょっと尋ねたいんだけど」
「何」
「あんた、あのときに『夢幻』横流しして、その後どうなったと思う?」
「?」
「あんたが市場に放った『夢幻』が何を引き起こすか、わかってた?」

そこまで聞いてようやく二宮は松本の言わんとすることがわかった。吐息をついて前を向く。

「強度の習慣性を持つ麻薬なため、試した9割が依存する。離脱するものは極端に少ない。しかも、飲み始めはむしろ体調の保持や改善に繋がるから、止められなくなるまで一気に量は増える。習慣化して中毒症状で死亡するものは5割を越える、と聞いた」
「……それ、わかってたんだ?」
「……ああ」

 自分の汚さぐらいわかっている、そう続けかけたが、松本の低い声がそれを遮った。

「じゃあ、母子汚染は?」
「え?」
「『夢幻』中毒の母親が妊娠した場合、ほぼ間違いなく赤ん坊も中毒になる。生まれたときから『夢幻』の虜だ」
「………それは……」

二宮が怯んだところへ畳み掛けるように松本が続けた。

「生まれた子どもは母乳しか受けつけない。母親の体内にある『夢幻』を必要とするから。他の何を飲ませても吐いて、吐きまくって衰弱していく。けれど、母乳をやった場合、『夢幻』の体内濃度が一気にあがって、早ければ数日で死亡する」
「…………」

二宮は黙った。そこまで詳しくは知らなかった。だが、それが何を意味するのかを考えれば、微かな寒気が這い上がった。『夢幻』中毒になったものは子どもを残せないのだ。

今上層部に広がっている『夢幻』中毒がもっと進めば、次の世代はかなりの率で減少する。貴族階級に大きな変動があらわれるかもしれない。

「…………白鷺はね、大陸の出なんだ。知ってた?」
「……いや……?」

松本の話が急に飛んで、二宮は戸惑った。

「………日本に入る前に大陸の方で『夢幻』は広がってた。山奥で、土地が痩せてて、他にこれと言った産業もない村とかでは『夢幻』精製を主にしてるところもあってさ、白鷺、そこの出身なんだって」
「皮肉だね。作り手が異国で『夢幻』を燃やすのか」
「皮肉?違うよ、当然だ」
「当然?」
「わかんないの、二宮さん?『夢幻』精製を仕事にしてる村って数年で壊滅するんだよ」
「!」
「………そ。仕事はきついし、楽しみもないからね、つい手を出す。始めは仕事も進むし、陽気に楽しくやれるからね、管理してる方もむしろ進めたりしてさ」

松本の声は虚ろで暗い。

「でも………そのうち、赤ん坊がいなくなる。子どもがいなくなって、どんどんみんな『夢幻』に侵されてって…………そして誰もいなくなるとさ、新しい村に精製場所が移る。村に残ってるのは干涸びた死体だけだ」
「……そこから………逃げ出したのか、あいつは」
「…………なら、よかったんだと思うよ」

新しい煙草に火がついた。

「………白鷺、そこで何やってたかっていうとさ、赤ん坊の首、締めてたんだって」
「っ!」

今度ははっきりとした悪寒が二宮の背中を駆け上がった。

「生まれた赤ん坊、どっちにしても死ぬってみんな知ってるから。生まれてあやうくなったらさっさと始末するんだって。手ぇ、かかるから。白鷺、子ども好きだったから、それでも面倒みてたらしい。けど、何も受けつけないでしょ?吐くしさ。痩せ細ってくけど、母乳飲ませるわけにいかないしさ、で、腕の中で冷たくなるの何回も抱えてるうちに、さっさと楽にしてやろうって思うようになったんだってさ」

かたかた、と小さな音が自分の掌で響いている、と二宮は気づいた。震えているのだ。無意識に体が震えている。


細くて白い顔。邪気のないふわんとした笑み。


その笑みの後ろにあったのは、暗黒だったのだ。

紅蓮の炎を背中に笑う顔が甦る。殺気に満ちた満足気な笑み。

壮絶な光を宿した、あの笑みの意味は。


もーりもいやーがーる、ぼんからさーきーは。

いつかの床で微かに小さな声で歌を口ずさんでいたことがあった。それは何かと聞くと、優しく笑って、子守唄だよ、と答えた。

ゆーきもちーらーつーくし、こーもーなーくーし。

好きなのかと聞くと珍しく目を逸らせて、好きだな、とつぶやいた。

子守唄は好きだな、
何度歌っても足りない気がして。
ちゃんと眠らせてやりたいから。
いい子ばっかりなんだから、と。

あのことばの意味は。


「…………村であいつが最後に生き残ったのは、あいつ一人だけが『夢幻』をやらなかったから」

もう、やめてくれ、と叫びそうになって二宮は歯を食いしばった。

「………だから、白鷺は『夢幻』を許さない、けど」
「………け、ど?」

必死に体に力を込めて問い返す。


「今、あいつ、あそこに『夢幻』飲みながら入ってるんだ」

「な……に……?」

魂を引き抜かれた、というのはこういう気持ちなのかと思った。相葉に裏切られたときも、世界が崩壊するような思いだったが、これは全く別の、まるで自分が消え失せたような衝撃に二宮は茫然とした。

「なん……だと……?」
「『夢幻』中毒って設定だから。一週間、連絡がなかったら俺達が入る予定になってる」
「一週間?」

見えない視界が揺れるのを感じた。今日でもう丸3日、白鷺は全く『夢幻屋』に戻っていない。そんなに長く『夢幻』を服用すれば完全に中毒化してしまう。

「遅い……遅すぎる」
「大野君から聞かなかった?大きな取り引きがある。あそこには十数人が出入りしてて、その情報を掴むにはそれぐらいいるからって白鷺が言ったんだ」
「そんな……」
「………さ、て、じゃ、行くね」
「ま、待てっ!」

松本が椅子を鳴らして立ち上がる気配に、二宮はうろたえた。

「あ、何、奢ってくれんの?」
「いや、待て、それを」
「ちぇ、けち」
「違う!なぜそれを俺に教えた!なぜ貴様らは、雅紀を見捨てるっ!」
「………へえ……あいつの名前、雅紀って言うんだ?」
「あ……」

松本の声がふいに和らいでくすりと笑い、二宮はひやりと口をつぐんだ。

「じゃあ……やっぱ……あんたが本命なんだ?」
「………」
「………俺の勘も満更じゃないなぁ…………なら、なぜ俺があんたに教えたか、わかってんじゃない?」
「………」

松本の声がちりちりしたものを含んだ。

「俺達は情報局だ。目的は『夢幻』ルートの確保。けど、白鷺の目的は『夢幻』の消失。前のときは何とかしたけど、今回またやったら俺達は動きが封じられちまう。だが、港湾局が張り合って乗り込まれた分にはどうしようもないしさ?」
「……俺に…裏工作に付き合え、と?」
「まさかぁ。俺が?情報局の松本が?そんなこと言うわけないでしょ?俺は昔話をちょっとして、『夢幻』のコワさについて独り言言っただけだよ?」

急に声が近づいた。煙草の匂いがきつくなる。眉をしかめた二宮の耳元で静かな声が響く。

「あんた、俺が嫌いでしょ?俺もあんた、苦手。すぐ翔くんを馬鹿にするしさ?」
「………」
「けど、俺はあいつが抱えてるものはわかるから。それを守るためなら、矜持曲げるのも嫌いじゃないんだ」

その声に響いた微かな揺らぎに二宮は気づいた。

「………櫻井、か」
「え?」
「………櫻井があいつを心配してるんだな?」

ち、と舌打ちの音がして、松本が体を引くのがわかった。

「他は鈍いくせに」
「駄犬とは違う」
「あんたに振るシッポなんて持ってないよ」
「………せいぜい櫻井に振ってやれ、俺はもう間に合ってる」

ひゅう、と微かな口笛が響き、くすくす笑いが続いた。

「期待してるよ、二宮さん?」

軽い足音が走り去り、二宮は肩の力を抜いた。

『夢幻』の作用を理解しているはずの相葉が潜入するのに服用していくとは思えない。それとも、口八丁ではごまかせないほど難しい仕事だったのか、そう思って気づく。


無言の、あの日の逢瀬は。


「生きて………戻らないつもり……だったのか……」

腕の中で崩れた体の浅い呼吸を思い出す。焼け付くような焦りが広がった。

「雅紀………」
第一話
┗その名、伏せるべし

「だけどなぁ~」

 大野は眉を寄せて、情報局内でも堅物の男をまじまじと眺めた。

「翔くんには無理だと思うよ?」
「…なんでさ」

 きりきりと眉を寄せて櫻井は顎を上げた。

「繋ぎの娼妓の相手ぐらい、俺にだってできる」
「や、娼妓って言っても、相手は白鷺太夫、『夢幻屋』の花魁だよ?あいつは……いろいろと好き嫌いが激しいし………」

 大野は顔を引きつらせながら笑った。

「妙なやつなんだよ」
「いくら花魁とはいえ、同じ情報局の一員だろ?」
「それが通れば心配しないんだけど……」

 大野の歯切れの悪さに痺れを切らせて、櫻井は立ち上がった。黒コートを掴み、手早く羽織る。

「話はついてるんだろ。なら、さっさと行ってくる」
「うん………まあ………いっか、何ごとも経験だし」

 曖昧な物言いでなおもぼやく声を背中に、櫻井は局を出た。

 賑やかな通りを右に折れ、こんなところで見世が成り立つのかと思うような場所に『夢幻屋』はあった。櫻井だとて全く遊廓を知らないわけではない。しかも、今夜は既に話が通してあって、余計な手続きを踏むことは不要、すぐにニ階へ通されて待つまでもなく、おあがりぃ、の声が響く。
 それでもいささか緊張して、膝を揃え直したのは櫻井生来の几帳面さだ。

「白鷺でありんす」
「………は?」

 うなずいて、前に座った相手を見つめ、櫻井は凍りついた。

「ごめん………お前が白鷺?」
「あい、あちきが確かに」

 白と青を基調の仕掛けには、確かに真っ白な鷺の柄、だが、問題は小さく笑って胸元に手を当てた相手の奇妙なほどのあどけなさで。へたをすれば先日禿から上がったばかりと言っても通る幼い笑顔をにっこり向けられて、なお櫻井は凍り付く。




…待て。こんなのを大野は抱いてるのか?

「大野さまの繋ぎ、白鷺、と申しんす」

 軽やかな声で応じられてますます身動き取れなくなった櫻井に、白鷺はふ、といきなり大人びた吐息をついた。

「あのね?いつまでも固まってられても困るの」
「は?」
「大ちゃんの代わりなら床も済ませてく?初めてだったりする?」
「あ、い、いや」
「なら、どうしましょ。床?それとも情報?」
「あ」

 はっと我に返って櫻井は瞬きした。床か情報?じゃあ、どちらかでもいいのか?ほっとして慌てて大きくうなずく。

「俺は情報だけでいい」
「そっかー、残念」
「へ?」
「櫻井さん、けっこー、僕の好みかもって思ったのに」

 にこにこさらりと笑われて、何だか顔に一気に血が昇った。

「えーと、それじゃね、港湾局の内偵が本決まり。明後日の早朝6時に山風運輸乗り込みね」
「あ、うん、明後日、早朝6時だな」
「そう。人員早めに引き上げといてね。あそこの二宮さん、早起き大好きって人だから」

 くすくすと笑った赤い唇が蠱惑的に閃いて、思わずごくりと唾を呑む。それを見て取った白鷺は、薄笑みを浮かべながらふいに仕掛けを滑り落とした。細い肩が薄い襦袢一枚でさらされて、思わず見つめたその視線の先で、なおも白鷺が襦袢を滑らせる。

 ぬめるような光を帯びた肌だった。目が引き付けられて離せない。するする落ちていく襦袢に遮られていた胸元にほんのりと赤い実が宿って膨らんでいる。その実にほっそりとした白鷺の指が絡んで摘むように動いた。

「っふ」
「!」

 柔らかく息を吐いた唇が微かに開く。

「櫻井、さん?」
「う」

「ねえ?」

 抱いて、とは誘われなかった。けれど、つい伸ばした指を絡めとられて引き寄せられ、口を口で塞がれて、すぐに入り込んできた舌の甘さに、櫻井は我を失った。

 櫻井が帰ると相葉はすぐに床を立った。湯屋でゆっくり身体を休めて洗い流し、さっぱりとして上がってくれば、帳場で滝沢が眉を寄せている。

「どうしたの、たっきぃ?」
「あーいーばー、またただで御奉仕しちゃったの?」
「違うよー、御奉仕したのはあっち」

 にっこり笑って言い返す。

「これで上客、一人増えた」
「………落としたんだ」
「そ。大ちゃんの知り合いなら、まーいいかと思って」
「かわいらしい笑い方すんのな、怖いくせに」
「怖くないよ、職務に忠実なだけじゃんか」
「やめろよな、情報局一得体の知れない男のくせして、かわいこぶんの」
「あれー、しんがいー」

 くすくす笑う華奢な男を滝沢は心底怖いと思う。この顔、この姿、この年齢にして、相葉は情報局子飼いの切れ者、しかも常識も節操もないと来るから頭が痛い。気に入った相手とは好き勝手に誘惑して寝てしまうし、そのくせ夢中になるのは相手ばかり、本人はいつもしらっと明るくて、その明るさが気味悪い。なにせ「たっきぃも一回寝る?男犯すのやってみる?」なんて平然と誘いをかけるような人間なのだ。

 相葉が情報局の人間でよかった、こんなのが犯罪者だったら今頃巷は阿鼻叫喚だ、と溜息をつくと、相手はふあぅ、と眠そうにあくびした。細い両腕を伸ばす、その仕草にも人目を魅きつける媚びがあって、滝沢は思わずうんざりする。

「寝てこい?今夜は仕事ないんだろ?」
「そうする、櫻井さんってば予想以上にやらしいんだもん」
「はぁ」

 櫻井は確か情報局の中堅クラス、後には局長とも噂される人物を一晩で落として「やらしい」で済ませるあたり、性格の悪さがにじみ出ている。

「おやすみなさーい」
「おやすみ」

 くふんと鼻を鳴らしてひょいひょい上がる素足の踵にそれでもつい目を奪われて、滝沢は忌々しげに舌打ちした。

「翔くん、翔くんっ!」

 呼ばれてはっと我に返る。目の前に覗き込んでいる男の顔にぎょっとして慌てて目を逸らせた。大きな瞳はいつも意外なほど鋭い。しかも。

「香の匂い?」
「!」

 くん、と鼻を動かされて固まった。そうだった、こいつは神経も鋭いんだったと思う間もなく、押し倒されてうろたえる。

「翔くーん?」
「じ、潤」

 いくら私室とはいえ官舎の一画、同じ情報局の部下と上司と言えど、この状況ではただならない関係だと誰もがわかる。
 ねじあげられた両手を頭の上に押さえられて、じたばたもがく櫻井に、松本が薄笑いを浮かべる。

「離せっ」
「そっちこそ、話しんさい?」
「なっ、何を」
「今日の夕方、何してきた?」
「え、ええっ」
「『夢幻屋』行ってきたでしょ?」
「え、えええっ」
「ついでに白鷺抱いてきたでしょ」
「ええええええっ」
「……………そんなに真っ赤になったらもろばれだって」

 はぁ、と溜息をついた松本が櫻井の首に鼻を押し付けた。くんくん、とまた微かに鼻を鳴らす。

「せめてちゃんと風呂入っといてよ。他の男の匂いつけられてちゃ」
「じ、じゅっ」
「何かむきになっちまうでしょ?」
「っん、くんっ」

 首筋から耳元へ舐め上げられて、櫻井は唇を噛み目を閉じた。白鷺で放ったはずの気持ちがみるみる追い上げられてきて、自分がどれほどこの男に弱いのか自覚する。

「やつに誘惑されちゃった?」
「うっ」

 ちゅ、と口を吸われて目を開けると、滅多に見ない冷ややかな目が光っててどきりとした。

「まあ、仕方ないけど。あれは別格だし。あんたをそこへやったのキャプテン?」
「いや、その、俺が「また苛立って自分で乗り込んだ?」
「……」
「でおいしく頂いて……いや、頂かれてきちゃったわけね?」
「………」
「ま、いいや。キャプテンには俺が後で話つけるから」

 いや、待て、話って何のことだ、と焦った櫻井をよそに、松本が腕を押さえつけるのを片手にまとめ、もう片方の手で服を暴きにかかってなお焦る。

「こ、こら、潤、待て、それこそ風呂ぐらい」
「で?白鷺、自分のことどう名乗った?」
「え?いや、白鷺太夫、って……」
「ふうん………じゃ、あんたはお客なんだ……」
「は?」
「いや、白鷺が本名名乗るときがあって、どうもそのときの相手が本命らしいんだよね」
「ふう……ん?」

 何だいやによく知ってるな、ひょっとしてこいつも、と考え始めた櫻井の心を読んだように、ふいに松本が腕をきつく押さえた。
 痛みに顔を歪めて仰け反った櫻井の脚の間に身体を滑り込ませてきながらぼそりとつぶやく。

「どっちにせよ………今夜眠らせねえから」
「へ?」
「やつの匂い、消してやる」
「っ」

 膝で股間を押し上げられて、櫻井の微かな悲鳴は松本の口に吸い取られた。



第二話
┗射干玉の夢をご覧あれ

「………っ」

 目覚めての暗闇にはまだ慣れない。事件で視力を失ってからもう一年にもなるのだが。
 それでも、その間に身の回りのことが一通り自分でできるようになったのは二宮の感覚と記憶が鋭いことに関係するのかもしれない。
 無駄だとわかっても目を見開いて瞬きし、微かな光を求めて凝らしてみる。

「……」

 しばらく待っていると密かな時計の音が響いた。ふすまの向こうに人の気配が動く。

「おはようございます」

 家の細々としたことを片付けてくれている部下の声に体を起こす。

「二宮さま?」
「起きてる」
「失礼いたします」

 ふすまが開いて薄寒い風が入り込んできた。

「本日は」
「山風運輸へ行く」
「御視察は8時とお聞きしておりますが」

 二宮の肩にふわりとかけられたのは薄手のセーター、外の冷え込みはここからでもわかった。

「どうも気になる。早く出向く。朝食は不要だ」
「はい」

 すぐに部下は側を離れた。床から立ち上がり、枕元の服を手早く身につけていく。
 時計を懐中におさめようとして珍しく指が滑った。転がってどこかに消えていく音を必死に追う。


ごろごろ……ごろごろ……ごろ。


 その音が何かに似ている、そう思った瞬間に脳裏に鮮やかな閃光が走った。



 雨にずぶぬれになった薄い身体。

 振り向いた無邪気そうな顔に赤い唇が綻ぶ。

 透けるシャツ、張りつくスラックス、巻き締めたベルトが妙に妖しく絡むようで。

 稲光りの一瞬に、一重の瞳が薄笑いしてこちらを見ているのがわかった。

 その目に潜んでいたのは明らかな、殺意。



「っ!」

 険しく鋭い息を吐いて、二宮は音を頼りに懐中時計を拾い上げ、懐にねじ込んだ。

「雅紀……」

 つぶやく自分の声が不安定に揺れた。

一年前、二宮は港湾局上げての舶来船舶の監視についていた。

 開国に伴い様々な品物や文化がどんどん日本に流入してくる。それらは新しい国を作り、新しい文明を導くものではあったが、同時にそれまで日本になかった巨大な闇の流れを運ぶものでもあった。

 異国渡来の怪しげな薬、呪術、無気味な慣習と用具、珍品奇品。

 中でも阿片をしのぐとされる『夢幻』と呼ばれた薬は眠り薬の一種らしいが、これをある配分で従来の胃薬とまぜると胃炎を劇的に押さえるばかりか、痛みをひどく伴う病気の鎮痛に多大な効果があることがわかり、港周辺から一気に広まった。


 しかし、その『夢幻』が実は習慣性の高い、しかも手に入りにくい麻薬の一種であるとわかったのは、その味を十分にお偉方が堪能してからだった。

 港湾局は『夢幻』を厳しく取り締まった。だが、同時に情報局は『夢幻』を自白を強要するときの切り札に使っていたためにこれに抵抗、上層部で激しいやりとりがあった結果、政府御用達として限られた量が公的に輸入されることになった。

だが、既に上流階級の間では横流しだけではおさまらないほど薬に侵されたものもおり、必然的に金や権力にものを言わせて情報局や港湾局に無理難題を押しつけてくるようになった。

 時に二宮には妹がいて、悪質の病気に侵されており、激しい痛みに苦しんでいた。見兼ねた二宮はただの一度、『夢幻』流用に便宜をはかった。それで妹が高名な医者の治療を受けられるはずだった。

 その荷を積んだ船が着く夜、二宮は自ら現場に赴いた。

 だが、それを情報局は関知していた。大野櫻井松本を始めとする切れ者ぞろいが雁首揃えた中で、二宮の手は悲しいほどに無力だった。

 荷は情報局管轄となり押収されることになったが、その時、まさかの事故が起こった。

 積み荷の一部に発火性の薬品があり、折から降り出した雨に化学反応を起こしたとかで船で大爆発が起こったのだ。

 情報局へ入ったなら、それなりのつてもある、取り引き相手に交渉を持ちかけることもできる。

 そう一縷の望みを繋いでいた二宮の目の前で『夢幻』は全て灰になった。

 だが、降りしきる雨の中、驚くこともない情報局の面子を見て、二宮は悟った。これは計画されていたことなのだ、と。

大野が笑いながらコートを翻し立ち去る直前、それまで人影にひっそりと立っていた一人の男の肩を叩いた。

 雨にずぶぬれになっていたその男は軽くうなずき、何かに呼ばれたように二宮を振り返った。

 その顔を見た瞬間、二宮の胸に衝撃が走った。


 それは相葉、二宮が唯一気を許し入れ揚げていた花魁、白鷺太夫だった。



 白鷺が情報局の手先。



 茫然とする二宮の前で相葉は嫣然と笑った。床に誘うその顔で。二宮の下で喘ぎ悶える、その顔で。

 紅蓮の炎を背に微笑みかける相葉に思わず駆け寄ろうとした矢先、燃え上がった船が支えていた半端な位置の荷が二宮の上に崩れ落ちた。

 そして目が醒めたときには二宮は視力を失ってしまっていたのだ。


 妹はそれからまもなく十分な治療もできぬまま逝った。荷が燃え上がり、『夢幻』の存在もなかったことにされ、結果的に二宮もお咎めなしとなったが、それに何の意味があっただろう。

 二宮は全てを失ったも同然、世界は闇に閉ざされたままだ。


 あの日からずっと。



「準備が整いました」
「…出る」
「はい」

 二宮は顔を上げ、気を引き締めた。



第三話
┗紅蓮の波のその向こう

「なあ、白鷺」
「あい」
「今度の仕事の見返りだけど」

 相葉は大野を振り返る。今まで仕事の見返りを始めに匂わされたことなどない。

「ふうん」
「なんだ、ふうんって」
 床の中で煙草盆を引き寄せた相手がのんびりとキセルに葉を詰めながら尋ねてくるのに、くふんと笑った。

「だって大丈夫だよ、そんなことしなくても」
「ん?」
「ちゃんとどんな仕事でも受けるもん」
「ああ、わかってる」
「ならなんで?」
「………にの、に繋いでやろうか」

 大野に背中を向けていてよかった、と思った。襦袢を羽織りながらで助かったと思った。咄嗟に身体が揺れて、肩が震えた。大野の沈黙は冷ややかで重い。

「…潜入?」
「ああ」
「それほどまずい?」

 情報局と港湾局は犬猿の中だ。この間の捕り物が空振りだったことで、港湾局はますます情報局にぴりぴりしてきている。証拠が一切上がらなくても、裏で情報局が動いたことはお見通し、かといって、落ち度がなかった山風運輸をどう処分するわけにもいかず、『夢幻』の裏取り引き最大の経路と疑われたまま監視中だ。

 今回大野が持ち込んできたのは、その監視の直中に乗り込むような仕事だった。
 白鷺は『夢幻』中毒を装って、もう一ケ所『夢幻』取り引きがあるとされている蛇荷貿易に入り込み、そこの『夢幻』の情報を港湾局に流し、蛇荷貿易を落とすと同時に蛇荷経路を山風運輸に引きずり込むのだ。

「無茶な仕事だもんね」
「……」
「喜多さんのお望みですかー?」
「……」

 大野の沈黙は肯定の意だ。


 情報局局長の喜多には20歳下の花街上がりの妾がいて、妻子を放置してまでのめり込んでいる。その妾が『夢幻』の重度の中毒患者だとは局の間では暗黙の了解で、櫻井や松本などは露骨に嫌がっているが、間を繋ぐ大野としては無碍に断れもできないのだろう。

「そっか」

 応えない大野に相葉は笑う。仇のような二宮にまで繋ぎを取ろうとすれば、きっと動きを疑われる。半分は港湾局を利用してこの目論見を潰そうという発想、もう半分は途切れたままになっている相葉と二宮を危ない仕事の前に一目会わせておいてやろうという大野なりの配慮だろう。

 そして、それは、相葉が生きて戻れないと大野が考えているということでもある。

「……にのは、僕をもう抱かないよ、だって裏切りものだもの」
「二宮はまだ目が見えない」

 大野がゆっくりと煙を吐いた。

「声を出すな。そうすれば、あいつだって」

 お前を抱いても知らないふりができるじゃないか。

 そのことばを口におさめて見上げてくる大野に、相葉は昏く微笑んだ。

「そんな鈍い人じゃない」
「白鷺」
「………けど」

 揺らいだ自分の甘さを嘲笑いながら、大野の頭に口付けを落とす。

「……試してみてもいいかも………ありがとー、キャプテン」

「二宮さま」

 警戒を満たした部下の声がした。

「何?」
「大野さんがお見えです」
「キャプテンが?」

 二宮は眉をしかめた。
 先日の視察が空振りに終わった後ろに相葉の動きがあるのを感じている。相葉は未だ情報局の一員として健在で、ことあるごとに二宮の前に立ち塞がる。
 視察を8時と定めていた。それが漏れているのは予想していたが、まさか一時間半も突然繰り上げたのを読んでいるとは思わなかった。それとなく大野に疑問をぶつけてみると、微かに笑って「早起きなんだってね」と応じた。大きな視察の前は目が早く醒める。その癖を相葉は忘れていなかった。二宮の命令一下、港湾局がすぐに準備を整える手はずの良さも過小評価しなかった。「6時だと聞いてたぞ」。自慢気につぶやいた大野の、懐刀を誇る声に感じた苛立ちが甦る。

 この男の下に、相葉はいる。無意識に唇を噛んで我に返った。

 あれほど手酷く裏切られたのに、まだ私はあいつを待っているのか。低く笑ってしまった。

「通ってもらってくれ」

「おう、にの」
「おはようございます、キャプテン」
「元気そうだな」
「ええ。そちらも順調だと聞いてます」

 響いた声に顔を向けて形ばかりの笑みを作る。

「ああ、それで忙しくてなあ、通える所へも通ってやれない。いいかげん焦れてうるさくって」
「朝からする話じゃないように思いますが」
「ここだけの話」

 すい、と間近に声が近寄って、一瞬体が竦んだ。耳元で低い声が囁く。

「頼まれたんだよ、白鷺に」
「ま………白鷺、ですか」

 雅紀、と呼び掛けて制した。一年も前に呼ぶことのなくなった名前を後生大事に覚えている自分の記憶力が恨めしい。

「お前に抱かれたいんだと」
「……冗談」

 二宮は笑った。

「情報局と馴れ合うつもりはありません」
「泣くんだよなー、にのを呼んでくれって」
「………」

 あからさまな誘いにうんざりと吐息をつく。

「キャプテン」
「ん?」
「それが用でしたら、私には急ぐ仕事がありますから」
「部下から聞いたぞ?午後から体が空くんだろ?」

 あのばか、とそれは口に出していないつもりだったが、大野が声をたてて笑った。

「俺が送るさ。白鷺の機嫌を損ねると、情報局があがったりだ」

「私にはその方が好都合です」
「相変わらず冷たいなー、にのちゃんは」
「性分ですから」
「わかった、とっておきのネタをやるから」

 大野の声が僅かに張って、二宮は顔を向けた。

「近々蛇荷の方で取り引きがあるらしい」
「山風、貿易ですか?」
「知ってた?」
「名前ぐらいは」
「大掛かりな『夢幻』の取り引きだ」
「………どういう風の吹き回しですか」

 二宮でなくとも、これは警戒していい内容だった。

「情報局がそんなことを私に?ブラフですか?」
「違うよ、にのちゃん」

 大野は声に笑みを含ませた。

「白鷺が潜入するから、何でも願いを聞いてやると言ったからさ」
「潜入」

 胸の奥に不安な波が揺れた。蛇荷貿易は荒っぽいのでも有名だ。港湾局相手にも丁々発止を辞さないところさえある。そんなところへ相葉を入れて大丈夫なのか。

「だからさ、お前に会いたいんだと。けど、あの一件があるからさ」
「………過ぎたことです」
「ならいい。じゃあ、午後迎えに来るから」
「あ、キャプ………」

 足音がたちまち遠ざかって、二宮は深い溜息をついた。



第四話
┗鳴かない鳥の羽は白

相葉が自分を呼んでいる?

 そんなことはありえない、と二宮は送られた『夢幻屋』で座して白鷺を待ちながら思っている。
 部屋に焚きしめられた香の匂いが懐かしかった。一時は週に一度はここに入り込み、細い身体を抱き締めた。幾ら抱いても汗一つかかない、さらりと軽い情交は相葉と二宮には似合いのもので、疲れ切るまで求めたこともない。

「泣いた?まさか。あいつが泣くわけない」

 手持ち無沙汰に一人つぶやく。

「いつだって半端に笑っていて、あたりのいいことばかり言って」

 あげくのはてに見事に二宮を裏切ってみせた。

 なのに、のこのここんなところへやってきてしまう自分が、どうにも腹立たしい。

階段を上がる音がして、やがてからりとふすまが開く。

「?」

 いつもならすぐに強く漂う相葉の香が鼻先にも掠めなくて、二宮は眉を寄せた。そういえば、滝沢の声もしなかった。
 部屋に入ってくる気配に視線を向けてみると、一瞬驚いたように立ち竦むのがわかって、ますます訝しい想いになる。

「……白鷺?」
「………」

 雅紀とまた呼びかけて、危うく制した。
 気配はじっと固まっていたが、やがて静かにふすまを閉めた。部屋にゆっくり満ちてくるのは淡い石鹸の香りだ。ついさっきまで湯屋に籠ってでもいたような、清潔で温かな匂いもする。それとも、これは昼日中の部屋だからだろうか。

 さらさらと衣擦れの音をさせて、側に気配が座った。膳の上のとっくりを探ったのか、硬質な音が手元で響く。二宮は酒を呑まないことを、相葉が知らないわけがない。
 とすると、これはひょっとすると相葉ではなく、二宮は大野に担がれたのだろうか。

「ごめん。俺は酒は呑まない」

 かちゃん、と微かな音をたてて動きが止まった。そのまままじっと動かない。

「白鷺か?そうじゃないのか?」
「…………」

 相手は何も言わなかった。

そっと膝に乗せた手に細い指が降りてきて、少し待ってから二宮の手を取り上げる。やがて両手で包まれて、より温かで滑らかなものにすり寄せられた。

 これは頬だ、そう気づいたのが伝わったように、しっとりと濡れたものが指先に押しつけられ、戸惑う間もなく吸い付かれる。

「っ」

 舐め回しながら、それ以上触れてこないのに苛立って、手首を掴んで引き寄せる。

「白鷺?」
「……」
「違うのか?」
「………」

 返事は一切返ってこないが、引き寄せられたまま二宮の膝に乗り上げてくる重み、甘えかかるように首筋に腕を巻き付けてくるのは相葉そのものだ。

「…………そういう、ことか」

 二宮は苦笑した。香の匂いを消し、声を出さないでいれば、二宮が相葉だと気づかない、そんな甘い発想で抱かれにきたのかと思うと、暗い怒りが渦巻いた。

「どういう趣向かは知らないけど」
「っ!」

 二宮が差し入れた手にすがりついていた相手が身体を跳ねさせた。懐に差し込んだ指で胸に膨らむ粒を摘みあげる。すぐに固くなったそれを力を入れて押し揉めば、びくびくと震えた身体が逃げるように揺れる。

「いつまで黙っていられるか、試してみようか」

 首に回した腕に堪え切れないように顔を伏せる気配があった。せわしく吐き出される息がみるみる熱くなってくる。もがくように頭を振ったのに、指を下へ擦り降ろす。

「っ、っ、っ」

 二宮は忘れていない。相葉がどこからどうされると追い上げられていくのか、それこそ飽きるほどに繰り返した手順は二宮の身体にしみついている。
 それは相葉しか抱かなかったということでもある、そう気づいて、二宮はいら立ちに奥歯を噛み締めた。
 下着をつけていない股間で勃ちあがっているのもわかったこと、それを柔らかく握り込み、一気に扱いて追い上げる。

「っ………っ、っ……」

 は、は、はっ、と激しく息を漏らした相手がひくりと大きく仰け反った。声をたてないままなのが一層煽ってしまったのか、手の中で弾けたのは覚えているより随分早い。しっとりと汗ばんできた肌も今まであまり感じたことがなく、二宮は思わず喉を鳴らした。
 まだ余韻に浸ってる相手の奥へぬめりを押し込みながら攻め込むと、拒むように膝が閉じる。

「このままでいいの?」

 指先を温かなへこみに押し付けたまま尋ねると、震えながら膝が開いた。腕を潜り込ませ、指を進めると、また強く息を吐いて相手が跳ねる。
 まだ一言もしゃべらない。声も上げない。いつもの相葉との手順なら、もうとっくに蕩けるような声を上げて、二宮の次をねだっているはずだ。

 ふとまた、これは相葉ではないのか、たまたま相葉そっくりな抱かれ方をする娼妓なのかと戸惑った。

 その二宮の戸惑いを見抜いたように、唇が口に触れてくる。舌が迎えて二宮の口を吸い寄せる。
 思わずぐ、と指を進めると、小さい悲鳴が口の中で弾けたような気がした。こんなところで相葉は感じただろうか、そう思いながら指を動かす。

「っん、っん………んうっ!」

 口を突き放すように突然解放してやったが、相手は熱い息を吐いて腕に仰け反っただけ、やはり声は戻ってこない。

 相葉よりも感度がいいような気もする。相葉より一所懸命にすがりついてきているような気がする。

 ふと全てを相葉と比べて考えている自分に気づき、二宮は苦笑した。

「もう大丈夫?」

 あんまり痛々しい感じがしてきたので、いつもより長く指で慣らしていると、耐えかねたように腰が揺れて指の場所を探し始めた。我に返って、耳元で喘いでいる顔のあたりに囁いてやる。微かにうなずく気配があったので、指を引き抜くと、またはあっ、と強い息を漏らして硬直した。震える身体が熱くなって、また勃ちあがったものが触れ、ようやく自分が服さえ脱いでないことに気づく。何時のまにか相手のペースに巻き込まれ、翻弄されている。

「ちょっと待って。俺も脱ぐから」

 俺も?

 そこでまた気づいて相手を探ると、相手もまだ襦袢も仕掛けもそのままだ。一体何を焦っている、初めての子どもでもあるまいし、と二宮は一つ息を吐いて、相手の身体を押し退けた。

「悪いけど床まで連れていってほしい。新しいところではよくわからないんだ」
「……」

 衣擦れの音がして、二宮の指をそっと相手が握って立ち上がった。
 頑是無い子どものような握り方、大切な親の手を失うまいとするような握り方にまた首をかしげる。どうも相葉ではないような気がする。
 かといって、『夢幻屋』にこんな娼妓がいるとは聞かない。

 促されるままに導かれた床で相手にそっと衣服を脱がされた。優しい丁寧な手付き、自分も相手の仕掛けを解いてやろうとすると、相手が二宮の服を片付けているのに気づく。
 はっとして耳を澄ませて気配を伺えば、スーツは皺にならぬように衣桁へ、残りももきちんとまとめているようだ。

「よれよれの格好で送りだすわけにはいかないもん」

 へらんと笑った顔が甦った。

「にのは港湾局の長なんだから。びしっとかっこよく居て欲しいから」

 舌たらずな口調でつぶやく横顔が妙に真剣で、素っ裸なのにそんなことをするのがおかしくて、二宮が笑った出来事だ。
 だが、奔放で何ごとにも構わぬ相葉が、そこにだけこだわるのが、どれほど二宮を大事にしているかの証に思えていたのも確かだった。

「雅紀?」
「っ!」

 ぎくっ、と相手が動きを止めた。そのままじっと動かない。さっきまで籠った熱も一気に冷めたように、凍りついたように動かない。

 やがて、ふい、と気配が弛んだ。二宮の探る手に手を重ねてくると、次の瞬間二宮の口を覆ってのしかかってくる。熱い身体で濡れたものを擦り付けてくる、その動きに煽られかけて二宮は必死に相手を押しとどめた。

「待て、これは何の冗談だ。お前は何がしたいんだ」
「………」
「お前は俺を裏切った、このうえ何が望みだ」
「………」

 自分にのしかかっていた男がそっと頭を垂れてきた。口付けされそうな気がして顔を背けると、一瞬動きが固まったが、やがてのろのろと首筋に額を押し付けてくる。
 短く熱い息を吐きながら、もう十分に身体が限界なのを必死に堪えている気配、それでもまだ無言を通す相手に二宮も意地になった。

「………わかった、抱いてやる」
「……」
「どこまで我慢できるか、遊びに付き合ってやる」
「っ」

 身体を引き起こして口を吸った。指で胸の粒を摘んだ。もう片方の手で腰を引き寄せ、脚を開かせ膝立ちで保たせる。濡れて待ち構えているところに指を突き入れる。

「っっ、っっ!」

 容赦はしなかった。慣らしたはずだと締めつけ拒むのを無理に押し込む。ぎくりと仰け反った身体が痛みに喘いだのを確認しながら、なおも今度は後ろから丸みを両手で押し開き、指を数本秘所に突き立てた。

「っ、っっ…………っ……」

 息が吐き出される。鋭く、強く。けれど、声にならない。
 今度は痛みのせいで萎えた前を擦りあげながら、指を突っ込んだまま腰を揺さぶる。跳ね上がった身体が身もがいて逃げかけるのを許さず、そのまま一気に自分の上に引き落とした。

「っ、…っっ、……………っ、っ、っ」

 細い骨格が大きくしなった。押し返すようにあててくる掌に怒りが倍加する。必死に膝で自分の身体の重みを支えようとしているような仕草、それが自分の痩身を嘲笑うように感じて二宮は吠えた。

「声さえ出さなければ、わからないとでも思ったか、この俺が、お前の身体をわからないと、思ったのか!」

 下腹に力を込めて相手の腰を引き降ろし、同時に強く突き立てる。

「っっ………っ」

 ひ、と呼吸が千切れたような音をたてた。深くまで一気に入った二宮のものに、全身震わせながら拒む気配は相葉になかったもの、それがなおさら二宮を煽る。腰を強く引き寄せながら揺さぶると、がたがた脚を震わせながらも、二宮の両脇についた手を突っ張って、相手がなお身体を浮かそうとする。

「だめだ」
「っっっっ!!」

 いつもならそんな無茶はしない、けれど制していた欲望を二宮は追った。

 逃げかけた身体を引き寄せながらなおも開き、そそり立った前を扱き上げる。がく、と何度か不安定に体勢が崩れ、その都度落ちてくる重みを二宮は力を込めて押し返した。
 全身が猛り汗が滲む。荒い呼吸音が引きつれるように止まっては、激しく顔を振るように相手の身体が揺れ、悶える。だが、それでも声が聞こえない。代わりのように汗だろうか、ぱらぱらと水滴が降ってくるのを感じて、二宮は薄笑いした。

「まだ大丈夫だろ?」
「っ、っ……っ……っっ!」

 一旦引き抜いて体勢を入れ替え、四つ這いになった相手の後ろから犯した。
 反り返る背中、痙攣するように跳ねる腰、激しい呼気が空を打つ。

「俺には見えない。お前が声を出さない限り、何も伝わらない」

 二宮の手に指がかかった。そのまま引き上げられる。身を屈めたのだろう、微かに震えながら相手が二宮の指に唇を当てる。微かな呼気だけの声。

おねがい。ゆる、して。

そう聞こえた気がした。

「だめだ」
「っっ!」

 一言で断じて、手を相手の手から抜いた。なおも深く進めながら股間を煽った。大きく震えた相手が二宮の手を外そうとするのを振り払い、腕をひねって押し倒す。どさっと床に崩れた相手の首を探り、無理に引き上げて耳元でつぶやいた。

「俺は、お前を、許さないぞ、雅紀」

 震える口がまた二宮の指に触れようとするのに、手を振り払った。倒れた上半身を押さえつけ、下半身だけ引き上げて深く押し込み、中を抉り、一気に引き抜いては押し入れる。
 根元を握った手の力も緩めず責め立てると、必死に顔を振っているのか、はあはあ喘ぐ呼吸音が動く。

「鳴け」

 二宮は低く命じた。
 びくりと相手が動きを止める

「やめてくれ、と言え。そうすれば………やめてやる」

 微かに引き付けるようなうめきが響いた気がした。だが、相手が激しく顔を横に振った。固く締まった身体が二宮の手を拒む。もう限界さながらで切れ切れになっている息を整えてなおも堪える相手に、ふつっ、と二宮の何かが切れた。無言で叩きつけるように相手を開いて奥まで押し入る。

 入ったことのないほど深みに抉り込んだその瞬間、鋭い呼吸が響いた。

 きん、と声は聞こえないのに空気が鳴ったような気配がして、ふいに相手の身体から力が抜ける。二宮のものを銜え込んだまま、相手の身体が前のめりにずるりと崩れた。
 手の中で弾けたものがべたりと濡れる。そこへ何かとろとろと伝ってくるものがある。

「雅紀?」
「………」

 速くて浅い呼吸だけが答える。さっきまでの返事にも似た動きがない。汗で濡れた身体は蕩けるように広がって二宮の手を拒まないし、反応もしない。

 気を失った、そう気づいて、二宮はいささかうろたえた。

 自分のものを抜き去ると、手探りで相手の身体を引き寄せる。改めて探ると、萎えたものとその周囲を汚す液体の感触があって、その手触りが妙にざらついた。指についたものを顔に寄せると鉄の匂いがする。

「あ」

 見えない視界を真っ赤な色が覆った気がした。
 自分が盲目であることにふいにぞっとする。相葉の状態がわからない。
 微かな吐息が次第に弱まってくような気がして、二宮は声を上げた。

「たきっ………たきざわっ!」
「はあい………お呼びで………入ってもよろしいですか?」
「ごめん、手貸して」
「はいよ………あっ!」

 滝沢の声が緊迫して事態が思った通りなのがわかった。

「なんで………どうしたの!」
「どうなってる、どうしたの?」
「どうしたもこうしたも………なんでこんなこと」
「出血、したのか?」
「したってもんじゃ………ごめん、お医者呼んでくるから!」
「あ、ああ」
「その前に、服、着てて、大野くん呼ぶから、もうお帰りになってください」

 手早く手や身体を手ぬぐいで拭われ、服を押し付けられて部屋の隅に退けられ、二宮は顔を歪めた。

「雅紀は」

 ぴくりと相手が動きを止め、やがて静かに答える。

「こちらで面倒を見ます」
「いや、でも」
「もう………十分だろ?」
「あ……ご、ごめん」

 滝沢の声に責める響きが加わったのに、二宮は項垂れた。

懐かしい愛しい匂いに満たされていた、そこから急に引き剥がされて相葉は目を覚ました。

 何時の間にか布団に寝かされていて、側に滝沢が座っている。すぐさっきまでくっついていた温もりを求めて見回したが、相手はどこにもいない。

「あれ………にのは?」
「帰ってもらった。どうした、相葉、あんなことされるまで、どうして黙ってた、らしくない」

 珍しく険しい顔でにらみつける滝沢をぼんやりと見る。

 身体がけだるくて苦しい。微かに残っている二宮の匂いに少し目を閉じる。

「…………そっか………にの…………帰っちゃったのか……」

 暗くなった視界がいきなりじんわり熱くなった。

「聞いてる?ちょっと、あい……ば………泣いてんのか?」

 滝沢が茫然とした声で尋ねてくるのに苦笑いする。

「泣いてちゃ、おかしい?」
「………そんなに………痛いのか」
「じゃなくて」
「は?」
「なんか………たまんなく、なっちゃった」
「何が」
「………にの………僕の抱き方、覚えてるんだもん」

 つぶやいたとたん、頬を涙が伝った。

「僕は………忘れちゃったのに……」
「相葉……」
「どうしよー………どうしよーか、たっきぃ」
「………ばか…」
「馬鹿なの?僕」
「………そんなに好きなのに」

 滝沢が静かに溜息をつく。

「どうして裏切る仕事なんか引き受けたんだよ」
「……どうしてなんでしょ………でも………もうどうでもいいことだよね」
「え?」
「僕………もうあの人に二度と会えないんだから………」

 相葉は口だけ笑って歪んだ顔を両腕で隠した。



第五話
┗終わりを告げる者の名

「松潤」

 大野が呼び掛けると、松本が俺、と鼻を指差して首を傾げた。部下と話し込んでいる櫻井に視線を投げ、顎をしゃくる。
 櫻井には聞かれたくない話だと察した相手が、さりげなく煙草を手に席を立つ。

「なに?」

 煙草を銜えて覗き込んでくるのに、大野は松本に目を据えたままつぶやいた。

「『明烏』を使う」
「………白鷺、潜入させるんだ、山風」

 一瞬ぴくりと眉を上げて、松本が煙草に火を付ける。
 上司を上司と思わない不遜な態度は上には不評だが、大野は嫌いではない。

「また繋ぎ頼む」
「はいはい………あ、そだ」

 ひょいと煙草の先を上げて松本が向きをかえ、机に手をついてもたれながらさり気なく視線を逸らせた。

「あんたに文句言っとこうかと思って」
「翔くんか」
「どうしてやつに会わせたりしたの」

 大野は口を歪めた。松本の口調にぴりぴりしたものが混じっているのに薄笑いしながら、

「不安?」
「は?」
「白鷺に寝取られたんだろ」
「そっちは御心配なく。寝取り返してるから」

 きわどい台詞をさらりと返されて苦笑した。

「けど、どうして?」
「………まあ社会経験も必要かなって」

 まっすぐすぎる友人の横顔を見ながらにやにやすると、松本が小さく舌打ちした。

「あんなのに関わらなくても生きてける」
「ここは情報局だぞ?」

 大野はぼそりと言い返す。

「翔くんはいずれここの長になる。癖のある人間を扱うのにも慣れてもらわんと」
「慣れるわけないでしょ、あの人が」

 低いつぶやきに苦いものが混じった。

「人を道具に使えるわけない。そんなことは俺がやる」
「………お前はほんと翔くんに甘いな?」
「甘いよ」

 松本の声は暗い。

「あの人はあのまんままっすぐ行ってほしいから、今まで白鷺がらみに手ぇ出させてないでしょ?」
「ああ、なるほど」
「今頃気づいたの」
「だけど、それは無理だ」
「わかってる。けど、『明烏』使うつもりだったんなら、翔くんに関わらせてほしくなかった。あの人、背負っちゃう」
「………ああ、にのか」
「それとなく気にしてる、ずっと。この前だって、港湾局の視察すり抜けたのもどっかで気にしてるし」

 きつい顔になった松本を見上げた。

「で?お前はどうするんだ?」

 先を促した大野に視線を落とした松本が特徴のある大きな目を細めた。
 そうすると一転して冷ややかに見える顔に似合いの醒めた笑みが広がる。

「ああ、あんた、計算してたの」
「何を」
「俺が翔くん庇うの」

 にやりと笑って応えないと忌々しげに煙草を吸いつけた。

「なるほど、はい、確かにこうなった以上、俺はきちんと仕事しますよ、白鷺も守る、あいつのためじゃなくて、翔くんのためにね…………それ、考えに入れてたんでしょ?」
「まあな」
「それほど………やばい?」
「………正直、受けたくなかった仕事だ」
「翔くん、それ知ってる?」
「ああ」
「ちっ」

 舌打ちした松本が目を逸らせ、大野も櫻井に視線を戻した。

「やな人。翔くんが『明烏』入ったの知ったら、必死になるよ、あの人」
「そうだろうな」
「……………一度でも………抱いてるし」

 微かに松本の声が沈む。思わずもう一度見上げた。

「なんだ、やっぱり気にしてるのか」
「…………俺と似てるから」
「ん?」
「白鷺、俺と似てる。だから、あの人、見捨てられなくなる」

 ゆらゆら揺れた瞳が恋しそうに遠くを見た。

「じゃあ………守るしかない。あの人が見捨てられないなら、俺が守るしかない」

 声が切なく潤んだのに、大野は咳払いした。
 ふ、と櫻井が振り返り、大野の席で煙草をふかしている松本に目をやってぎょっとした顔になる。

「潤っ!」
「はっ、はいっ、はいっ!」

 びくっと跳ね上がった松本がうろたえた顔で煙草を揉み消す。

「ところ構わず煙を吹かないっ!」
「ごめんなさいっ、すぐ消す、はい、消しましたっ」

 櫻井の声におたおたと席を離れていく松本が大野を振り返って歯を剥き出して睨み付けた。
 それをまた櫻井が見つけて、潤っ、なんて顔してるんだっ、と喚くのに、飼い主に怒られた犬よろしく慌てて櫻井の元に戻る松本に、確かに似てる、と嘆息する。

 白鷺も松本も一番大切な相手に不器用すぎる。ついでに相手が両方鈍感すぎ、生真面目すぎる。

「いやー、俺っていい上司だよなあ」

 大野は笑ったが、状況は軽くない。上には上の苦労があるさ、と溜息をつきながら書類を取り上げた。

「んーと、このネクタイ、じゃちょっと派手かなあ」

 鏡の前で相葉はあれこれ服を試着する。

「いいんじゃない?いかにも馬鹿で間抜けの華族さまって感じで」
「酷いなあ、たっきぃ」

 鏡の中から滝沢に笑い返してきた。

「ちょっとは見違えたとか、かっこいーとか」
「言ってほしい?」
「…………何かお金かかりそう」
「正解」

 やれやれ、と肩を竦める相葉は白いシャツに濃い茶色の三つ揃い、一目見てわかる高価な懐中時計の金鎖を嫌味なほどに煌めかせてベストに納め、今はネクタイの色を悩んでいる。今合わせている織りが複雑な銅色のネクタイは光の当たり方で黄金色にも見え、ふわんと浮かせた長めの髪が日に透けるのには良く似合っているが、滝沢はそれを褒めてやる気はない。

「それで?」
「へ?」
「体大丈夫?」
「お仕事は待ってくれないから」

 くふ、と笑った唇がにこにこしながら、

「それに『夢幻』、けっこー効いてくれてるからだいじょーぶ」

 恐ろしいことを、吐いた。

「………使ってんの……?」
「まーね。だって、僕『夢幻』中毒って設定なんだよ?感覚ぐらい知ってないと。そう言ったら、おーちゃんが用立ててくれたの」
「でも、習慣性、あるんだろ?」
「うん、けっこーキてる。薄くなってくると、喉が乾くし汗が出るし、手足震えるし息苦しいし。胸どきどきいうし、何だか妖しい気持ちになるし。薬くれるなら何でもするーって気になってくる」
「ちょっとちょっと相葉!」

 滝沢は詰め寄った。

「まずいだろ、それ」
「どーして?」

 ひょいと首だけ相葉が振り返った。邪気のなさそうな瞳が楽しげだ。

「どうしてったって」

 ようやくさっきのネクタイに決めたらしく、うなずきながら襟元をまとめていく。

「仕事好きだから。やる以上、失敗するの嫌いだから、ちゃーんとぶっ壊す。それに新しい感覚ってたのしーし」
「そういう問題じゃない!」

 滝沢は顔をしかめた。

「向こうをぶっ壊す前にお前がぶっ壊れたらどうすんの、って言ってんの」
「あ、そっか。それもあるかー」
「そ、それもあるかーって………」

 んー、とふっくらした唇に可愛らしく指をあてて視線を上げる相手に溜息をつく。

「悩むようなことじゃない………仕事より体だろ?」
「違う」
「え?」
「僕は体より仕事」

 くすくす笑いながら相葉がもう一度鏡を覗き込む。滝沢の目から見ても今日の相葉はきらきらした光を放って見えるほど華がある。

「退屈より刺激。うんざりよりどきどき」

 ちろんと見えた舌が唇を濡らして蠢き、滝沢は思わず唾を呑んだ。

「楽しませてくれるなら、どこでも誰でもいーんだけどね。今は一番情報局が刺激的」
「…………なら、二宮は?」

 一瞬相葉の顔から笑みが消えた。

「二宮は、どうすんだよ」
「…………言ったじゃん、たっきぃ」

 薄笑いが戻った。

「にねも刺激的な人だけど、もー遊んでくれない。なら仕方ないでしょ?」
「………刺激的……かあ……あの人?」
「この前なんか殺されそうになっちゃったもんね」

 うふふ、と相葉は嬉しそうに笑った。

「すんごく刺激的で楽しかった」
「…………泣いてたくせに」
「………」
「………どうしたらいーのーって泣いてたくせに。二宮恋しくて」
「恋しいよ、そりゃ今だって」

 ゆらりと相葉の目が揺れた。

「けど、仕方ないじゃん、にの、僕許さないってゆーし。嫌われてるし。僕怪我したのに放って帰られちゃったしー」

 それは違うんじゃないか、と滝沢は言いかけた。
 滝沢が帰さなければ、あのまま二宮は相葉に付き添って目覚めるのを待っていたような気がする。けれど、何だかもう見ていられなかった。真っ青になっている二宮も、妙に幼い顔をして気を失ってる相葉も。何かお互いを傷つけなくては寄り添っていられないような二人の関係が辛くて。けれど、それは間違いだったのだろうか。

「ま、いいですけどー。所詮僕とあの人は敵どーし」
「相葉…」
「それに、もー会えないし」

 ふいと相葉は遠い目を窓から外に投げた。
 それは二宮が勤める港湾局の方向、その空を何かを探すように優しい目で見ていた相葉が微かに小さくつぶやく。

「僕死んだら、会えるかな。にの、お墓参りぐらいしてくれるかな」
「あいば」
「無理か、凄く怒ってたし」
「あいば」
「でも………死んだときぐらい……優しくしてくんないかなあ」
「あいばっ!」
「へ?」
「間違ってる!」
「え?」
「なんか、お前、間違ってる!」

 きりきり眉を逆立てた滝沢に、相葉はにこりと笑った。

「間違ってる?」
「うんっ!」
「たっきぃ」
「なに」
「僕死んでもにのに知らせないでね」

「………何だよ、それ」
「…………あんまりイイ状態で死なないと思うんだ」
「………」
「………最後ぐらい、嫌がられたくないし」
「……………ばかっ!」
「あ、ひどい。これから厳しい任務に向かおうって男に」
「ばかだからばかって言ったんだ!死んだこと知らせなきゃ、お墓参りに来れないだろっ!」
「あ、そっかー………ならいーや、諦めよ」

 相葉はくす、と笑って立ち上がった。なおも罵倒しようとした滝沢を振り返る。ネクタイを締め直し、襟を引き、少しポーズをつけてみせる。

「かっこい?、たっきぃ?」
「………かっこ悪い」
「あれ」
「逃げる男なんて、すんごく格好悪いぞ!」
「は、はは。きついなー」

 じゃ、行ってくるね、と相葉は身を翻して部屋を出て行った。

「あいばか………大人しく黙ってなんかいてやらないからな」

 滲みかけた涙をぐいと擦って、滝沢は情報局の切り札と呼ばれた男、『明烏』の後ろ姿を見送った。



 諦めを覚えた夜に、僕達は何度でも逆戻りしてしまう。





 仕事が終わったのは、日付を跨ぐほんの少し前の事だった。
 忙しいのは嬉しい。それぞれが個々で仕事をもらえる今の状況にも満足していた。他の事を考える暇もない位、働きたい。
 そうすれば、心臓に今もある感情が消えてなくなるのではないかと思えた。
 知らない振りをして生きて、きっといつか失われて行く。それだけをもうずっと長い事祈っていた。
 自分が抱えているのは、不必要な恋情だ。



 車に乗り込んで、櫻井は鞄に放り込んだままの携帯を取り出した。今日はこれから彼女の家に行く予定だ。
 「遅くまで仕事してたら、ご飯億劫になっちゃうでしょ?食べて帰るだけで良いから」と、笑ってくれる彼女がとても好きだった。
 そんなに会える訳でもないし、約束を守れない事も多い。
 何度か喧嘩しそうになった時もあるけれど、大抵いつも引くのは彼女の方だった。「浮気してるんじゃなければ、全部許すよ」。涙を押しやって言い切った彼女に、自分は随分と救われている。
 仕事をして友達ともたまに遊びに行って、彼女の家に帰って。忙しくて幸せだった。
 余計な事を考えなくて済む。
 あの人を心配する心が、メンバーの域を越えてはならなかった。別に遠い場所にいる訳じゃない。
 仕事で会えるし、大っぴらに世話を焼く事も出来た。今の距離で充分なのだ。これ以上を望んではならない。
 心臓が、僅かに痛んだ。
 いつか、消えてなくなれば良い。大事な感情ではなかった。
「あれ……?」
「どうした?何か忘れたか?」
 後部座席に座った櫻井の小さな声に、助手席にいたマネージャーが振り返る。携帯画面に視線は向けられているから、忘れ物の類ではないらしかった。
 液晶の明るい画面を睨み付けた後、櫻井はゆっくり顔を上げる。
「マネージャー、今日さとっさんって仕事どんな感じ?」
「え?大野君の?……ちょっと待って……えーと」
 携帯画面には、着信履歴が表示されていた。彼から電話が来た事なんて、自分が記憶する限り一度もない。
 何か良くない事でも起きたのだろうか。それとも誰か他の人間に掛けようとして間違えたのだろうか。
 「大野智」と表示された下に、小さく着信のあった時間と何秒コールされたかが示してある。ほんの三十分前に、たった五秒のコールだった。
 あのぼんやりした人なら、操作方法を間違えて鳴らしてしまった事も考えられる。
 けれど。
「あ、あったあった。今日は朝に雑誌の取材が一つだけだね。午後はオフになってるよ」
「ありがとう」
「どうかした?大野君に連絡した方が良い?」
「……いや、良いや。ごめん、変な事聞いて。そのまま家向かってくれれば良いよ」
「ホントに?気になる事あるなら、僕から連絡しておこうか?」
「大丈夫。また明後日会うし。そん時にする」
「そう?」
 心配した顔を見せるマネージャーにもう一度頷いて、シートに深く腰を掛けると目を閉じた。
 何でもないかも知れない。何かあったのかも知れない。
 家に着くまでの僅かな時間、櫻井の心は決まらないままだった。
 このまま知らない振りをして、一度家に帰ってから彼女の家に行くのが正しいだろう。彼が何処にいるのかなんて知らなかった。知りたいとも思っていない。
 ああ、でも何かあったらきっと自分は後悔する。
 車を降りた後、一度電話をしてみよう。メールなんて送ったところで読まないだろうし、まず返信は期待出来なかった。
 ワンコールの着信が気になって電話をするのは、メンバーとしての心配の範囲内だ。
「お疲れ様でしたー」
「明日、少しゆっくりだけど、モーニングコールいる?」
「いや、大丈夫。車、下に着いたら電話してもらえれば」
「分かった。じゃ、お疲れ様でした」
 車が見えなくなってすぐ、エントランスに向かいながら彼の番号を鳴らした。
 滅多に使う事のないメモリー。多分、メンバーの中で一番使用頻度が低いだろう。ほんの少し緊張して、でも今更そんな理由は何処にもないのだと首を振った。
 コールは続いている。エレベーターに乗っても、目的階に着いてもコールは止まなかった。留守電に替わる気配もなくて、普段本当に携帯を使わない人なんだと思う。
 いい加減出て欲しかった。着信があったのは、ほんの一時間前の事なのに。
 何かあった時に、彼が自分の所に連絡を寄越さない事位分かっていた。きっとメンバーの中で最後にされるだろう。
 でも、と思って家の扉を開ける前に廊下から空を仰いだ。
 真っ黒な天空に真っ白な満月がある。
 あんなものが東京の空に大きく浮かんでいたら、感覚で生きている彼はおかしくなってしまうかも知れなかった。
 月の満ち欠けに左右されそうな、危うい印象のある人だ。知識とモラルで生きている自分とは、全く違う時間の流れの中で生きていた。
 だから、彼が今何を考えているのかは分からない。あの満月を見て、何を思うかなんて。
 耳に当てている携帯からは、途切れる事のないコールが続いていた。ほんの僅か声を聞けば安心出来るのに。
 どうしよう。
 事故とか病気とか、分かりやすいものなら自分は必要ないだろう。でも、目に見えなくても命に関わるような出来事が確かに存在する。
 僅かな仕草、たった一言の言葉で死んでしまう瞬間が。其処に嵌っていたとしたら。
 救ってやりたかった。
 自分も相当あの満月にやられているな、と小さく笑う。
 鳴り続けるコール。
 杞憂ならば構わない。相変わらずだねえ、なんて笑われて同じように笑い返せば良かった。
 靴を脱いで部屋に上がると、一度回線を切る。
「……っはあ」
 何をこんなに必死になっているのだろう。明後日会った時に「一昨日の電話何だったの?」と聞けば済む話だ。
 真っ暗な部屋に無造作に鞄を放った。手には携帯を持ったまま。
 ブラインドの隙間から差し込む月明かりが、不安を募らせた。
 もう一度発歴を表示させて、大野の携帯を呼ぶ。
 出て欲しかった。何も心配はないのだと、自分が出る幕はないのだと安心させて欲しい。
 無機質な発信音が、やけに大きく響いた。二十コール目を越えて一度切ろうかと思った瞬間、不意にコールが途切れる。
 留守電に切り替わったのかと思った。けれど、通話口から聞こえて来るのは人がいる場所のざわめきだ。
 慎重に、自分の声を選ぶ。今この瞬間に相応しい最良の、落ち着いた声を。
「智君?」
「……っ」
 一瞬詰まった息遣いは、間違いなく彼のものだった。通話ボタンを押す前に、自分からのものだとは分かる筈なのに。
 足許に視線を向けて、月明かりに反射した床を眺めながら沈黙の気配を追った。
 ふと、彼が一人で泣いている姿を想像する。大きな月の下、真っ暗な場所に座り込んで静かに涙を流していた。
「智君。電話、どうしたの?」
 そんな妄想は、必要ない。
 涙を零し続ける彼の姿を網膜から消すと、意識して冷静に問うた。
 僅かに続いた沈黙と、それから何かを振り払った気配。小さく息を吸い込んで、多分今目を閉じた。
 貴方は今、何処にいるの?
「……しょーくんだー」
 場違いな程明るく気の抜けた声は、酔っ払いのそれだった。演技の上手い人だ。一瞬前の沈黙を消し去ってしまう、圧倒的な空気だった。
 受話器越しに、彼の気持ちを探る。
「俺に連絡するなんて、何かあったの?」
「……えー、俺、しょーくんに電話なんてしてなーい」
 嘘を吐いていた。何て事のない素振りで、全てをなかった事にしてしまう。
 きっと彼は、俺からのしつこい着信に気付いていた。液晶画面を眺めて、何度も躊躇ったに違いない。
「覚えてないよー知らないー」
「智君」
 わざと空気を張り詰めさせた。
 最初に動いたのは、大野の方だ。今確かに杞憂だった事は分かったけれど、何かを隠すその声が気に入らなかった。
 何かが起きなくても、人は死ねる。目に見えない深みに嵌って、生きるか死ぬかの危うい線の上にいるような気がした。
 俺に何も言わないで、お前は何処に行くんだ?
「……」
「智」
 沈黙で答えた大野の名前をはっきりと呼ぶ。普段は決して口にする事のない、誰にも聞かせた事のない呼び方だった。
 電話の向こうで、何を思っているのか知りたい。
 ああ、俺もおかしくなっている。
 白い月の光に魅せられて、踏み込んではいけない領域に足を進めていた。
「翔君」
「ん?」
 大野の声は、いつでも柔らかく響く。相変わらず声の後ろには喧騒があった。
「……六本木」
「うん」
「外苑東通りの」
「うん」
「ドンキの向かいの、一つ角入ったとこ」
「うん」
「いつもの、地下の店」
「うん」
 いつもの、と言われても分からなかった。やはり振りだけではなく、酔っているのも確からしい。
「其処、いるから」
「うん」
 穏やかなトーンの声は、いつでも耳に心地良かった。
 安心してしまう。自分の手の中にいるような、そんな幸福な錯覚。
 再び、回線に沈黙が落ちた。張り詰めた息遣いが、声の印象を裏切る。
 何を、考えているの?

「……迎え、来て」

 静かな声。背後にある店内のざわめきも、足許にある月明かりも意識の外だった。
 大野の声しか聞こえない。
 他には、何も。
「来て」
 考えるより先に、身体が動いていた。携帯だけを持って、部屋を飛び出す。すぐ行く、とだけ告げて電話を切った。
 彼は泣いている。
 誰にも分からないように。世界の片隅で、生死の境目で。
 それを救うのは、自分しかいない。同じ感情を有する俺にしか出来ない事だった。部屋を飛び出して、タクシーを捕まえる。
 聞いた事のない言葉。
 心臓がじくじくと痛む。
 見ないように生きて来たものだった。いつか忘れなければならない、不必要な。
 同じものが、大野の心臓にも巣食っている。
 満月を見上げて、タクシーに乗り込んだ。
 携帯を握り締めたままの手で、心臓を押さえる。此処にひっそりと存在するのは、互いへの消える事のない恋情だった。





+++++





 大野は、カウンター席に当たり前の仕草で座っていた。慌てて入って来た櫻井を振り返っても、飲み友達に向けるような気安い笑顔を作る。
「智さん、帰ろ」
「……何処に?」
「何処でも良いけど、外にタクシー待たせてあるから」
「まだ、飲み途中」
 グラスを翳して、拗ねたように言った。それが口だけだと分かってしまったから、強引に会計を済ませて大野の手を引く。
 椅子から降りた身体が僅かに傾いで、留めようと腕を強く引き寄せた。
「痛い、翔君」
「あ、ごめん」
 素直に謝って、腕ではなく掌に手を伸ばす。何気ない動作で指先を絡めて、喧騒から大野を連れ出した。
 多分、仕事が終わってからずっと飲み続けていたのだろう。繋いだ掌が熱かった。
「どんだけ飲んでたんですか?」
「別に、いつも通りだよ」
「……そのいつもが摂取し過ぎなんだよ」
 前に何処かで聞いた事がある。
 アルコールや煙草を手放せない人は、感覚が鋭過ぎるのだと。自分の周りで起こっている全てに敏感に反応してしまう感覚を麻痺させる為に、摂取するらしい。
 それを聞いて、まず思い浮かんだのはこの人の事だった。なるほど、と頷けたし、鋭敏だというにはぼんやりし過ぎだなとも思う。
 酒に溺れるアイドルだと言うのに、彼のイメージが汚れないのはひとえにそのおっとりとしたキャラクターのおかげだろう。
 アルコールのせいで変化した彼を見たくなくて、手を繋いだまま視線は逸らしていた。火照った肌や潤んだ瞳に正気でいられる自信はない。
 地上に出て、待たせていたタクシーに無理矢理押し込んだ。とりあえず、彼を家まで送るべきだ。部屋に入るのを見届けなければ、また何処かで飲み始めてしまう。
 ドアが閉まって、運転手に大野の住所を告げようとした。その一瞬前に、繋いだ指先をくいと引かれる。
「なに?」
「俺、まだ帰んねーよ」
「智さん、何言ってんの?」
「帰んない」
「我儘言わないで。昼から飲んでたんなら、もう充分でしょう。家までちゃんと送るから寝なさい」
「嫌」
 運転席をちらりと見て、これ以上交通量の多い所に止めている訳にはいかないと感じた。
 指先が熱い。
 今すぐに彼を安全な場所へ帰さなければ、どうにかなってしまいそうだった。
「じゃあ、何処に行きたいの?」
「……家以外」
「なら、ホテル行く?」
 声にいやらしさは込めていないと思う。普通のシティーホテルに入って、其処に置いて行っても良かった。
 彼を救うのは自分しかいないと思って迎えに来たのに、もうぐらついている。
 何故、同じ性を持つ彼がこんなにも愛しいのか。
「ホテルなんて、やだ」
「じゃあ、」
「此処じゃない、何処か。そーゆーとこ行きたい」
「智さん……」
 やっぱり、回線越しの違和感は間違いなかった。
 危ない線の上を歩いている。満月に左右される鋭敏な心。
「運転手さん、すいません」
「はい」
 眉を顰めてバックミラー越しに伺っていた運転手に、自分の住所を告げた。速やかに走り出したタクシーのシートに身体を預ける。
「翔君……」
「これ以上の我儘は聞かないよ」
 覗き込んで来る彼の表情を見たくなくて、わざと目を閉じた。自分の家なら、此処からそんなに時間は掛からない。
 動いたのは自分だった。それならば、最後まで面倒を見るべきだ。厄介な責任感はデビューしてから強くなっているなと一人笑って、指先の人を思った。
 熱い手、まだこちらを伺っているらしい瞳、触れる薄い肩。
 ニ人きりでこんなに近くにいるのは久しぶりだった。デビューしてすぐの頃はもっと一緒にいたけれど。
 傍にいられない原因を作ったのは、他でもない自分達だったから。
 一緒にいる事は出来なかった。
 脈拍が少し速くなっている。こんな安心出来る穏やかな人を前にしても、自分は緊張するらしかった。

 消える事のない恋情。
 まだ、こんなにも鮮明に此処にある。

 大野を連れ帰って、満月の夜をきちんと越えられるのか。早く夜が明ければ良いと願いながら、深夜の道路を走るタクシーのエンジン音に耳を傾けた。





+++++





 少しだけ躊躇って付いて来る大野の手を引いて部屋に入る。
「翔君……」
「そんな、不安そうな声出さないでよ」
「別に不安なんかじゃ、」
 暗い部屋の中で、振り返って笑って見せた。僅かに怯えた目尻が愛らしくて、どうしていつまでもこの人は可愛いのだろうと疑問に思う。
「入って」
 電気を点けないまま、自分の部屋に招き入れた。月明かりの差し込むフローリングは、先刻と少しも変わらない。
 静かな夜だった。
「どうして、こんなとこ連れて来たの?」
「せっかく迎えに行ったのに、置いて行ったら意味ないでしょ。貴方まだ飲みそうだったし」
「……翔君ちじゃなくても良かった」
「家帰りたくないなんて我儘言うからだよ」
「放っておいてくれて大丈夫だった……」

「俺の携帯、鳴らしたの智さんでしょう」

 言って、真っ直ぐに見詰めれば戸惑って唇を噛んだ。暗い部屋でも分かる彼の表情が苦しい。
 離れているのが一番だと分かっているのに、連れ帰ってしまったのは心配だったからだ。
 一人で泣かれるよりは良かった。例えそれで、お互いがより苦しくなろうとも。
「翔君」
「ん?」
「朝まで一緒にいてくれるの?」
「いるよ。智さんがそう願うなら」
「うん」
「あんま飲まれても困るけど、ビールとかならあるから持って来ようか?」
「……良い。いらない」
「え、」
 首を振って一瞬俯いた次の瞬間、遠慮がちに抱き着かれた。額を押し付けて、繋いでいるのと反対の指先がシャツの背を掴む。
 けれど、身体は少し離れていて今すぐにでも突き放して欲しいと言っているようだった。
 拒絶出来る筈がない。臆病な仕草に、胸が痛かった。
「智君」
「……うん」
「今日だけ、だよ」
「分かってる。ごめん」
「謝んないで」
 嬉しいから、とは言えない。
 怖がらせないように薄い背中をそっと撫でた。びくりと揺れた肩を離さないように押さえ付ける。
 昔は見上げていたのに、いつの間にか腕の中で収まるようになっていた。最初の時から、自分達は随分歩いて来たのだと知る。
 離れる事で繋がって来られた。これからも二人で生きて行く事はない。
 今夜だけ。
 ほんの僅かな時間の幻影だった。
「翔君」
「うん、此処にいるよ」
 揺れる不安定な心ごと抱き締めて、死なせないと強く思う。
 月明かりだけが射し込む部屋は、隔離された二人の世界だった。





+++++





 気付いたら好きだった、と言うのは嘘臭く聞こえるだろうか。
 デビューしてからはずっと一緒にいた。最年長なのに、メンバーの誰よりも危なっかしくて放っておけない。
 リーダーになってもマイペースのまま、結局は自分が仕切る羽目になった。
 自分の性分と彼の性質がぴたりと一致していたのだろうと思う。その居心地の良さが、もしかしたら始まりだったのかも知れない。
 手を掛けるのが楽しかった。
 それなりの苦労人で、でも一人では生きられない彼の事を現場の誰よりも分かるのが嬉しかった。正確には、右脳で生きている人の事を全部理解する事は出来なかったけれど。
 安心して預けられる信頼を込めた瞳に、優越感を見出すのに時間は掛からなかった。
 仲間としての気持ちが揺らいだのがいつだったかは、分からない。ずっと彼女はいたし、自分が男に惹かれるだなんて思いもよらなかった。
 でも、大野が自分の事を好きなのだと気付いた瞬間は今でもはっきり覚えている。
 二人で飲みに行っていた。今では考えられない事だけど、未成年の癖にカウンターバーに腰を落ち着けてゆっくり話していたのだ。
 穏やかな空気と、肩の触れ合う距離。
 まだあの頃は、酒好きの彼も自分の酒量を把握していなかった。明らかな深酒で、心配するよりも前に見つけてしまった感情。
 優しい瞳の奥にある渇望の色。
 ぞくりとした。
 普段のテンションとのギャップが映える、ステージ上で感じる色気と同じ類いのもの。けれど、本来客席全てに向けられる筈のそれが今全て自分に向かっていた。
 彼は、自分の事が好きだ。
 人の感情には敏感な方だった。
 だから恋を逃す事はなかったし、人とコミュニケーションを取る時に不愉快な思いを抱かせる事も少ない。読み違える事はなかった。いつもなら隠している感情が、アルコールのせいで溢れてしまっている。
「智君」
「……っ、帰ろうか」
 慌てて逸らされた瞳の狼狽と、淡く染まった耳朶にどうしようもない愛おしさを感じた。
 抱き締めたいと思ったのだ。同じ仲間で同じ性を持つ彼に覚えた衝動に、恐ろしくなった。
 あの瞬間を彼が今でも覚えているかは分からない。でも、あの日以来二人で飲みに行く事はなくなった。
 言葉で確認した訳じゃない。
 好きだと思う事が怖かった。手に入れられる距離にいる事が辛い。
 だから、お互いに固執する前に諦めた。二人が手を取る事は、五人の破滅の始まりを意味する。
 恋なら、グループ内じゃなくて良かった。愛しいと言う感情は、女の子に向けられるべきだ。
 欲しくなかった。
 お互いを求める心と相反するように、自分の感情を捨て去りたいと願う臆病さ。
 あの夜に戻らない為に。
 大野は、櫻井の知らない人間と酒を酌み交わす。櫻井は、大野の知らない女性と付き合い続ける。
 二人が選んだ距離だった。



 月明かりの射し込むフローリングの上に、二人は直接座っていた。
 櫻井は壁に背中を預けて、足を伸ばす。大野はその横に足を投げ出すと、櫻井の胸に上半身を預けて横抱きにされていた。
 今夜だけ、と何度も心の中で言い訳をする。
 大野の左耳には、櫻井の心音が響いた。櫻井の両腕は、宝物を守るように大野の身体を抱き締める。
「……別に、翔君がいなくても俺は平気だよ」
 言い訳を零す唇を今すぐ塞いでしまいたい。自分の身体を全て預けて言う台詞ではなかった。大野の手は、櫻井のシャツの裾をしっかりと掴んでいる。
「酒飲む人は一杯いるし、作品作る仲間もいる。嵐だって、メンバーは翔君だけじゃないしね」
 ふわりふわりと落とされる言葉は、どんな感情を込めようとしても柔らかかった。優しい音階。
 ずっと、分かっていた事だ。
 二人ともとっくに決意していた。
 大野が櫻井を選ぶ事だけはないと言う事。櫻井が大野を選ぶ事だけはないと言う事。
 それが、生きて行く為の必要条件だった。手に入れたいと願う欲は、二人だけでなく周囲を巻き込んでしまう。
 強過ぎる感情だった。離れる事だけが必要だった。
「今、此処から翔君が消えても、俺は何一つ困らない」
 大野の言葉は真実なのに、シャツの裾を握る指先に可哀相な位力が込められる。
 どうしようもなかった。一つ一つの言葉が、愛していると叫んでいるみたいで。
 夜が明けないで欲しいと願う自分が怖かった。



 ふう、と息を吐いて大野は目を閉じてしまう。自分の心拍が早くなっていないか不安だった。
 この距離では全てが明らかになる。隠すべき感情が無様なまでに晒されているのに、何を恐れるのか。
 二人分の恋情が月明かりを受けて鈍く輝いていた。フローリングの板目を、櫻井は凝視する。
 恋で死にそうだった。
 取り返しのつかない場所まで来ている。
 静かに朝を待ちたかった。このままでいられれば、またお互いの記憶を閉じ込めるだけで済む。
 目を閉じて、彼の体温を記憶しておこうと思った。
 別にスキンシップと言う意味でなら、いつでも出来るけれど。僅かに恋を感じさせる距離にいる自分達を覚えておきたい。
「あ、翔君。携帯」
「え」
 ぱっと目を開けた大野が、おもむろに手を伸ばした。櫻井のジーンズの後ろポケットに押し込まれた携帯を取り出す。
 興味深げに光っている液晶を見詰めて、それからゆったり笑った。視線は上がらないまま。
「彼女からだよ」
 はい、と気軽に手渡されて狼狽えたのは櫻井だった。
 受け取った携帯を開いて、着信画面を眺める。二十秒位震えたところで、ふつりと振動は途切れた。
「……今日、終わったら飯作ってもらう約束してたんだった」
 忘れていた自分に苦笑する。
 一回目のコールで出なかったら潔く諦める人だった。もう、鳴る事はないだろう。着信画面を閉じて、メールの画面を開いた。
「何で約束してたのに、こんなとこにいるの?」
 分かっていないで聞いているとしたら、やっぱり彼は天然だ。苦笑してメールを打ちながら、どうしてこの人が良いんだろうなと思った。
 理由があったらもっと簡単だ、とはきちんと分かっている。
「智君が久しぶりに電話なんかするからだよ」
「俺のせい?」
「そう。吃驚するじゃん」
 送信ボタンを押して、空気を軽くしようと声のトーンに気を付けながら話す。
 彼女には、急な仕事が入ってしまったと言い訳した。なるべく嘘は吐かないようにしたいけれど、わざわざ言いふらしたい状態ではない。
 出来れば誰にも気付かれずに、この夜を越えたかった。
「ごめん」
「良いよ、別に」
「……今からでも、行ったら?俺へい……」
「行かない。一緒にいる」
 即答して、腕の中にいる人を見詰める。月明かりを受けた瞳に自分が映っていた。
 不安定な色。
 逃げかけた身体をもう一度抱き締め直す。満月の効力が、何処まで二人の恋を誤摩化してくれるかは分からなかった。
 言って良い言葉を上手く選択出来ない。自分の感情が制御出来なくて、怖かった。
「……泣いてるんじゃないかと思ったんだ」
 大野の瞳が簡単に滲む。何の誤摩化しもきかなかった。
 腕の中に、俺の事を好きで死にそうな人がいる。その愛しい存在を慰めたいと願う自分がいる。
 欲しがってはいけない人だった。欲しいと思った唯一の人だった。
「馬鹿だなあ、翔君は。俺、泣かないよ」
「うん、……そうだね」
 こう言う時に、彼が年上である事を知った。上手に笑んで、何て事のない素振りを見せる。
「この彼女とは、どれ位付き合ってるの?」
「一年、位かな」
「そっか。優しい?」
「優しいよ」
 大野は、二人きりの夜を壊そうとしていた。シャツの裾から手を離して、瞳を僅かに伏せて。
 朝を迎える為の準備だった。
「さとっさんは?」
「んー?」
「彼女、とか」
 大野の唇からはさらりと零れる問い掛けも、櫻井には上手く紡げなかった。
 優しくない自分に気付かされる。欲しい欲しいと泣きじゃくる子供の駄々。
「いないよー。俺、女の子大好きだけど、傍に置いときたくないんだよね。あんな、すぐ壊れちゃいそうなのは苦手。心配ばっかり増えるもの。……それに、俺には酒があるしね」
 彼もまた、自分の恋情を上手く隠せていない。彼女を作る事が俺なりの隠す術だと見抜いていた。
 消さなければならない恋情の隠し場所。俺が彼女にそれを求めるのだとしたら、彼は酒に求めている。
 言葉の欠片を零してはならなかった。大野は、それに気付いているだろうか。
「女の子と子供作るより、友達と作品作る方が良いよ」
 彼らしい極論だなと思った。大野は、不安定なものを信じていない。
 愛なんて言う最も不安で曖昧なものを信じられる訳がなかった。自分の心臓にある感情すら信用していないのだ。
 芸術家の発想とは裏腹な現実主義だった。
「あ、メール」
 邪気のない声で言って、櫻井の手から勝手に携帯を奪う。
 受信ボックスを開いて中を読むと、変な声を上げて笑った。悲しいのでも蔑むのでもない、渇いた声だった。
「人のメール勝手に読まないで下さい」
「止めなかったじゃん」
「そう言う問題じゃないでしょう。他の人にやったら絶対嫌われるよ」
「翔君は?」
「……っ」
「嘘。冗談。返信したげなよ」
 彼は、本当に上手に笑う。メンバーとしての距離感を確実に把握していた。
 自分はそんなに器用じゃない。忘れた振りで忘れてしまう事を、何処かで恐れていた。
「返信しないの?」
「……する、けど」
「お仕事頑張ってね、だって。……これ、お仕事?」
 楽しそうに大野は言う。
 携帯を手放す気はないらしく、勝手に返信画面を開いていた。器用な指先を見ながら、言葉を探す。
 彼のように上手な、真実を隠す言葉を。
「……そうだよ。リーダーの管理なんて、俺位しかやんないって」
「そーだねえ。翔君は良くやってるよなあ。俺だったら絶対やだもん」
「自分で言うなって」
 画面には、「ありがとう。おやすみ」と簡潔な文が表示されていた。ボタンを押す指先が綺麗で見蕩れていたら、躊躇なく送信される。
 まあ、良いか。メールの良いところは、心情が文に表れない事だった。今の文章と大して変わらないものを自分も送っただろうし、彼女は大野が打っただなんて絶対に気付かない。
 それが嬉しいのか悲しいのかは、今の自分には判断出来なかった。
「はい、返す。メールってつまんないね」
「智さん嫌いだもんねー」
「うん、嫌い。何処にも本当がないから」
 他人を求められる強い人だから、感情のないものを酷く嫌った。会話も酒も創作も全て、体温のあるものだ。
 誰のものにもならないけれど、大野は沢山の人を求めていた。
 俺には、出来ない。この手に抱えられるものは僅かで、出会った人全ての感情を受け取れるような度量はなかった。
 そして、大野にも僅かな人だけを受け入れて欲しいと願う身勝手な自分がいる。たった一人を、求めて欲しかった。
 俺は、智君だけだよ。
 ずっと永遠に望むのは、唯一人。同じ感情を強いる事が無理だとは知っているけれど。
 今、この夜に抱えられるのは腕の中にいる彼だけだ。彼自身がそれを望んでいないとしても。
「智君」
「んー。眠くなった?」
「眠いのは、いつだって智君の方でしょう」
「そっか。どうしたの?」
「智君」
「うん」
 大野は空気の変化を敏感に感じ取って、櫻井の胸に左半身を預けてそっと瞳を閉じた。
 早くなる心拍。強くなる拘束。
 離れられない二人。
 夜は、未だ明ける気配がない。

「俺のもんになって」

 互いの呼吸が、止まった。
 決して告げてはならない言葉。独占欲と愛情の、どちらが強いのか。
 多分、独占欲の方だった。
 誰にも奪われたくない。自分の知らない人と生きていても、その心が自分から離れる事は許せなかった。
 「愛している」より昏い、「欲しい」の言葉。
「駄目だよ」
「智君」
「……まつじゅんでも、にのでも相葉ちゃんでも良いけど、翔君だけは駄目。翔君も同じでしょ?」
「そう、だね。俺も智さんだけは駄目だわ」
 頷いて、大野は優しく笑う。互いが互いで駄目な理由は一つだけだった。
 愛し過ぎているから。
 その手を取った瞬間に、きっと全てが壊れてしまう。他の何も要らないと、この心臓はちゃんと知っていた。
 破滅する事が分かっているのに、手に入れる事は出来ない。
 二人にとって、自分の恋情より大切にしたいのは嵐と言うグループだった。五人で過ごすあの場所を、絶対に失いたくない。
 たった一人を欲しがるより、五人で一緒にいたかった。その為には、永遠にこの距離を保つ他ない。
「これからも、ずっと一緒にいるから」
「うん」
「俺、翔君いないとちゃんと仕事出来ねーし」
「そうだね」
「良い大人なんだから、俺達」
「そうだね」
「でも、」
「……智君?」
 俯いてしまった大野の頬に手を添えた。言葉を返さない彼の肩が震えている。
 大人の振りをして遣り過ごすべき瞬間を、彼の心臓が拒んでいた。
「翔君」
「なぁに」
 いけない、と大野は思った。
 自分だけを抱く腕、自分だけを呼ぶ声、自分だけに触れる唇。自分の為だけに生きる彼を想像して、ぞっとした。
 それを欲しがる己が、何より浅ましい。俺は、彼のものになるつもりなど少しもないのに。
「どうしたいの?」
 優しい声に、どうして自分は彼の携帯を鳴らしてしまったのかと大野は後悔する。あの店で一人飲んでいれば良かった。
 何度も何度も気持ちを抑えて生きて来たのだ。知らない振りをして、メンバーの距離で付き合って、その線を越えない場所で甘えていられれば良かった。
 それなのに。
 この心臓は、何と欲深いのだろう。
 ゆっくりと顔を上げて、櫻井の瞳を見詰めた。小さく息を飲む音と、困惑して歪む眉。
 ごめんなさい、と冷静な自分が思う。
「何、泣いて……」
「翔君」
 身勝手なのは、自分が一番知っている。分かっている。
 でも、どうしても止められなかった。
 右腕を彼の後頭部へ伸ばす。溢れる涙のせいで、顔が良く見えなかった。
 苦しい。
 愛しい。
 欲しい。
 他の何も要らないと願う自分は、愚か過ぎて嗤う事すら出来なかった。
 首を伸ばして、キスをねだる。その仕草だけで全てを分かった頭の良い彼は、少しだけ怖い顔をして望む通り柔らかな口付けをくれた。
 頬に添えられた手が、涙を拭う。一瞬の接触は、甘さよりも痛みが強かった。
 当たり前だ。
 決して欲してはいけないものなのだから。スキンシップでないキスは、いけない事をしているのだと自覚させた。
 痛いのに、欲しい。
 あの時、使わないメモリーなんて呼び出さなければ良かった。
「もっと」
「さ、としくん」
「もっと。駄目だ、俺。何で……」
 心臓に巣食う欲は大きくなるばかりで、死にそうだった。死んだ方が楽だと思える位。
 痛い痛い痛い。
 恋なんていらなかった。そんな怖いもの、俺に抱える事は出来ない。
 櫻井の優しい指先が、頭を撫でた。もう一度落とされたキスも、同じように優しい。
「……お願い。優しくしないで」
「優しくしたいよ」
 首を横に振った。
 夢を見たくなるから駄目だ。
 出来ない。俺は、翔君と生きて行けない。
「酷くして。もう、欲しくならないように」
 無理な事だとは分かっていた。
 彼を要らなくなる日なんて、永遠に来ない。お互い分かっている筈なのに、櫻井は小さく笑って頷いた。



 もうすぐ朝が来る。
 この夜が幻影に変わる。
 櫻井は、朝まで大野を手放す事はなかった。ずっと、優しいだけのキスを与える。
 大野の心臓で荒れ狂う恋情等無視をして、慈愛とも取れる接触だけを繰り返した。
 彼が手を伸ばしても、「もっと」と強請っても、決して望む通りにはせずに。苦しんで顰められた眉にも柔らかな口付けを落とした。
 彼が恋で死なないように、朝が来たらまた生きて行けるように。
 自分は、これ以外の遣り方を持ち合わせていない。それで良いのだと、大野はきっと思っているから構わなかった。
 緩く抱き合って、恋情を逃し合う。
 お互いがこの夜を忘れる事がないように。二度と、同じ夜に迷い込まないように。



 これが、五人で生きて行く為の、二人の方法だった。
 リハーサルも順調に進んで、後は本番に備えて体調を整えておけば良いと言う状態だった。
 全十曲、多い数ではない。
 けれど、大切に歌いたいものだった。
 俺達の軌跡を辿る公演。
 たった一度のそれに、どれだけの感情を込められるかは分からない。
 音に不安はなかった。
 選んだ曲は、どれも思い入れの強いもの。
 彼との記憶を共有するメロディー。
 空気のように密やかに、愛よりも尚深く。
 誰よりも近くにいた。
 多分これからも、傍らに立ち続ける人。
 誰がどんな思い入れを持っていても構わない。
 唯、この公演は彼と自分の為に。
 そう思う傲慢さを、俺はもう厭わない。
「光一」
 公演を明日に控えたリハーサル室で、先刻から彼の機嫌が悪くなっていた。
 思い当たる節はなくて、とりあえず呼び寄せてみる。
 少しだけ寄った眉、引き結ばれた唇、緩く握られた手。
 他の人間なら気付かないだろう変化。
 恐らく光一も誰かに当たるつもりは泣く、静かに消化したい事なのだろう。
 一人の現場なら構わない。
 そうやってなかった事にして仕事に集中するしか方法はないのだから。
 けれど。
 今は自分が傍にいる。
 一人で整理する事が上手になってしまった相方の手を引いて、甘やかしてやりたかった。
 部屋の隅に導いてその目を真っ直ぐ見詰める。
「何?」
「……どぉしたん、光ちゃん」
「どうしたって、何も……」
 困惑して揺れる黒目の煌きに見蕩れた。
 ああ、自覚はあるのだ。
 自身の感情に鈍感な人だから、もしかしたらその不機嫌に気付いていないのかもしれないと思っていた。
 分かっているのなら、自分の為すべき事は一つだ。
「何も、やあらへん。機嫌悪いやん。お前」
「悪くない」
「悪いやろ。自分で分かってんのに、俺の前で誤魔化すなや」
「……つよし」
 唇を噛んで押し黙る。
 繋いだ指先が強張って、拒絶を示していた。
 強情なところは出会った頃から変わらない。
「光ちゃん。言うて」
「嫌や。大した事あらへん」
「スタッフにセクハラされた?禁煙中?二日酔い?それとも、暑い?」
「どれも違うわ。そんな、駄々っ子みたいに扱うな」
「駄々っ子やんけ。お前なあ、せっかく俺とおるのに、何で?」
「何で、って」
「お前一人ちゃうやろ、言うてんの。溜め込まんでもええやろ」
「剛」
「うん、いるよ。此処に。一緒に」
 な、と笑ってみせて壁伝いにしゃがみ込んだ。
 手を繋いでいる光一も必然的に同じ形になる。
 壁に凭れて、隣りに座る彼の横顔を見た。
 端正な造りは、時に冷酷な表情を見せるけれど。
 いつまでも子供と同じ幼さや、不意に崩れる脆さを秘めている。
 そんな表情は、自分だけが知っていれば良い事だった。
 十年経とうが二十年経とうが、自分達は鳥籠の中から抜け出すつもりなどない。
「……何知ってんの、って思った」
「光一?」
 目線は前に向いたまま、ぽつりと零す。
 寂しそうな声音。
 繋いだだけの指先がゆっくりと動いて、指の間に絡まった。
 甘えるのを堪える仕草だ。
 抱き寄せて口付けを与えてあげたかった。
「皆おめでとうって言う。ありがとう、って言っちゃうの。俺も」
「うん」
「でも、何が?デビュー、出来たのは色んな人のおかげや。俺達が凄い訳でも偉い訳でもない」
「そうやな」
「やのに、皆俺達にだけおめでとう言う。そんな祝われる事してない」
「それが不機嫌の理由?」
「ううん。……つよし、笑わない?」
「何でお前が言う事に笑わなあかんの。笑わせたいなら別やけど」
「剛」
「はいはい。笑いませんよ。言うてごらん」
 掌をもっと深く組み合わせて、促した。
 意地っ張りで照れ屋で、変なところで臆病な恋人の内面を探るのは容易ではない。
 
行って来ました、東京ドーム。
すぐに書こうと思ったんですが、なかなか難しかったですね。
ぐうたらなもので(笑)。
例のごとく、レポは他のサイトさんでじっくり見て頂く事にして、相変わらずの主観入りまくりな感想のみを上げさせてもらいますねー。
一言で言えば、楽しかった!
こんなに不安なく楽しかったのは、Fの本公演以来かも知れない。
……それは、大事件だな。
のんびりまったりと、キンキの音楽に見合う楽しさだった気がします。
元々哀愁路線で売っている二人なので、叫んではしゃいで楽しいみたいなのは無理なんだなあと悟りました。
新潮文庫 P64 15行目〜P65 「窓辺の出来事」

「君の提案は素晴らしい」
 そう言いながら、諦めたような表情を博士は見せた。
「出来るなら、僕も君達と散歩したいんだ。でも、駄目だ。駄目なんだ。それは絶対に出来ないよ。僕にそんな勇気はないんだ。でもね、アタスン。君に会えて本当に良かった。こうやって会えた事は、僕にとって大きな喜びだ。君にもエンフィールドさんにも上がって頂きたいんだが、部屋が酷い事になってしまっているんでね」
「それなら、」
 弁護士は言って、親しげで自然な表情を作った。
「私達はここにいて、そこに座る君と話をするのが良いと思わないか」
「それはまさに私が提案しようと思っていた事だよ!」
 博士は嬉しそうに笑いながら返した。しかし、それを言葉にした直後、彼の顔から血の気が失せ絶望に塗り替えられた表情は悲壮な色に変わった。声を掛ける前と同じ表情だ。
 下からその様子見詰めていた二人は、身の毛もよだつ心境だった。すぐに窓が閉められてしまったから、彼らが博士の表情を見たのはほんの一瞬の事だ。けれど、そのたった一瞬で全ては事足りていた。
 深い沈黙に包まれた二人は、その場を立ち去るべく身体の向きを変えた。黙ったまま裏通りを歩く。
 そして、日曜日でもいくらか活気のある大通りに出てから、やっとアタスン氏は隣に立つ友人を振り返った。
 お互いの顔は青褪めており、彼らの心情を示すように目には巨富の色が浮かんでいる。
「神よ。ああ、何と言う事だ」
 アタスン氏は呟いた。エンフィールド氏は非常に深刻な顔をし、再び沈黙を保って二人歩き出した。





<感想>
 単語を調べても、文章の構成の上手さを理解するのは難しいのだなと感じました。
 自分が知っている文型と僅かに変えたニュアンスを理解する事が出来ず、こんな少ない文章でも意訳と言うのは大変だと思いました。
 アタスン氏、エンフィールド氏、ジキル博士それぞれの呼び方が文ごとで変わるのは日本語ではなかなかない感覚でした。
 呼び名を変える事によって、彼らの内面まで表現するような意図があるのではないでしょうか。
 原文に触れた事により、訳されたものを読むだけよりもより文章を理解出来ると思います。
 良い学習になりました。
INCIDENT AT THE WINDOW

IT chanced on Sunday, when Mr. Utterson was on his usual walk with Mr. Enfield, that their way lay once again through the by-street; and that when they came in front of the door, both stopped to gaze on it.

"Well," said Enfield, "that story's at an end at least. We shall never see more of Mr. Hyde."

"I hope not," said Utterson. "Did I ever tell you that I once saw him, and shared your feeling of repulsion?"

"It was impossible to do the one without the other," returned Enfield. "And by the way, what an ass you must have thought me, not to know that this was a back way to Dr. Jekyll's! It was partly your own fault that I found it out, even when I did."

"So you found it out, did you?" said Utterson. "But if that be so, we may step into the court and take a look at the windows. To tell you the truth, I am uneasy about poor Jekyll; and even outside, I feel as if the presence of a friend might do him good."

49)

The court was very cool and a little damp, and full of premature twilight, although the sky, high up overhead, was still bright with sunset. The middle one of the three windows was half-way open; and sitting close beside it, taking the air with an infinite sadness of mien, like some disconsolate prisoner, Utterson saw Dr. Jekyll.

"What! Jekyll!" he cried. "I trust you are better."

"I am very low, Utterson," replied the doctor, drearily, "very low. It will not last long, thank God."

"You stay too much indoors," said the lawyer. "You should be out, whipping up the circulation like Mr. Enfield and me. (This is my cousin--Mr. Enfield--Dr. Jekyll.) Come, now; get your hat and take a quick turn with us."

"You are very good," sighed the other. "I should like to very much; but no, no, no, it is quite impossible; I dare not. But indeed, Utterson, I am very glad to see you; this is really a great pleasure; I would ask you and Mr. Enfield up, but the place is really not fit."

"Why then," said the lawyer, good-naturedly, "the best thing we can do is to stay down here and speak with you from where we are."

"That is just what I was about to venture to propose," returned the doctor with a smile. But the words were hardly uttered, before the smile was struck out of his face and succeeded

50)

by an expression of such abject terror and despair, as froze the very blood of the two gentlemen below. They saw it but for a glimpse, for the window was instantly thrust down; but that glimpse had been sufficient, and they turned and left the court without a word. In silence, too, they traversed the by-street; and it was not until they had come into a neighbouring thoroughfare, where even upon a Sunday there were still some stirrings of life, that Mr. Utterson at last turned and looked at his companion. They were both pale; and there was an answering horror in their eyes.

"God forgive us, God forgive us," said Mr. Utterson.

But Mr. Enfield only nodded his head very seriously and walked on once more in silence.
 誰よりも何よりも、深く深く。
 体内を巡る血液すら愛していると言ったら、お前は傷付くだろうか。
 愛しくて大切で、けれど壊してしまいたくなる。
 籠の中の鳥のように、羽を捥いで自分の手の中で飼い慣らしたかった。
 死ぬまで閉じ込めて、自分しか見られないように。
 それが喩え幸福の中になくても構わなかった。
 
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