小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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三年前にも似たような事があった。一緒に暮らし始めて五年、剛が高校受験を控えた冬の事だ。二人で肩を寄せ合って生きていたからと言って、全ての生活が上手く行っていた訳ではなかった。離れそうになる手を何度も繋ぎ直して生きている。
あの時も同じように、光一は剛の高校進学を希望していた。私立でも公立でも資金面で問題がないよう、ずっと積立を続けている。自分の力不足で、剛の未来を狭めたくはなかった。なのに、彼が望んだのは夜間学校への進学だった。
剛の葛藤が分からなかった訳ではない。全くの他人である自分に頼って生きるのは、気が引けたのだろう。中学校までは義務教育だけど、これからは違った。生き方の選択が出来るのだ。社会生活への第一歩と言っても過言ではなかった。
と言っても、今の時代は高校へ行くのが当然の選択で、光一自身もその感覚のまま大学まで進学している。まさか、こんなところで躓くなんて思っていなかった。剛の幼い時から変わらない強い瞳に、真摯な決意を見付けてぞっとする。どうしてそんなに潔く決断出来るのか。当たり前と思って進学を薦めた自分と、悩みに悩んで自分の人生を選んだ剛とでは、厳然たる差があった。彼の結論を覆す説得力がない。
あの時焦っていたのは、光一だった。自分の思うようにならない事実を変えようとする様は、まるで幼い駄々っ子だ。みっともないと今なら言えるけれど、剛の瞳に気圧されて唯ひたすら必死だった。その為に、彼を傷付けてしまう位には。
今でも、何が決定的な理由だったのかは分からない。幾つも投げた言葉の内のどれが剛の心臓を抉ってしまったのか。優しい少年は、今も黙秘権を行使したままだった。明確な理由は分からないけれど、新月の夜剛は家を出たのだった。
まだあの頃は、一緒に布団を並べて眠っていたように思う。どうしても思い留まって欲しくて、剛の作った夕食を食べながら不用意に言葉を重ねてしまった。借り物の、頭ごなしの説教ばかり。あの敏感な子供が、偽物の言葉で納得する筈なかったのに。不器用でも足りなくても、ちゃんと自分の言葉で話せば良かったのだと今は分かる。
剛はずっと、しっかりした息子だった。連れ出したあの時から、自分の事は自分で出来たし甘えたがりではあるけれど、一人で夜を過ごさせても我儘は言わない。この頃の光一は、システム開発と言う今とは違う部署に所属していた。営業が取って来る納期はいつもぎりぎりで、残業は日常茶飯事の部署だ。休日出勤をしなければ間に合わない事もままあり、剛と一緒に過ごせる時間はずっと少なかった。
それでも生活の為には仕方ない、と何処かで言い訳している自分がいる。もっと早くに引き返せば良かった。自分一人の生活ではなく、剛と二人の生活なのに、いつの間にか大事なものを見失っていたのかも知れない。
遅い夕食を気まずい雰囲気で終えた後、いつも通り布団を敷いた。二人きりだと言う事を思い出させる至近距離。電気を消した室内には、互いの押し殺した呼吸音だけが広がっていた。すぐ傍にある体温。何度も抱き締めて朝を迎えて来たのに、気付けば剛は自分で人生を選ぶまでになっていた。随分遠くまで歩いて来てしまったのだと思う。
「……光ちゃんは、いつになったら分かってくれるんかな」
「俺は、分かってなんかやらん」
「もう、子供やないで?」
「剛は、一生俺の子供や。阿呆な事言うな」
迷いのない言葉に、剛の胸の内はすっかり混乱してしまった。「一生」と「俺の子供」。泣きたい位の喜びと死にそうな絶望が血流に乗って、全身へ充満した。一生傍にいられる。子供と言う距離から抜け出す事は永遠に叶わない。気付いてしまった恋は、自覚したその瞬間から剛の身を苛んでいた。何故自分は他の同級生と同じように女の子を好きにならなかったのだろう。若い故の熱情が、剛を甘く苦しめる。
「そんなに早く大人にならんでええよ」
目を閉じて聞く光一の声は、いつも通り優しかった。愛する人を苦しめている。愛してはいけない人に恋を抱く自分は、彼の望む普通の子にはなれなかった。父親も母親も兄弟もいる同級生と同じように成長出来ないのが、環境のせいだとは思いたくない。
「こういち……」
普段は口にしない呼び名で小さく彼を呼ぶ。「父さん」と言わない事に苦痛を感じないでいてくれるのが、せめてもの救いだった。この人を父と呼ぶ事は、一生出来そうにない。
「ん?何……剛?」
名前を呼んだきりの自分に焦れて光一が動くのを、気配だけで感じた。目は閉じたまま。彼の舌足らずな発音が愛しい。可愛いなんて言ったら怒られるだろうか。
「剛。寝たん?」
思い掛けず近い場所で声が聞こえて、反射的に目を開けてしまう。
「っ光ちゃん!」
「……ああ、吃驚したあ。寝てなかったんやね」
自分の切迫した声とは対照的に、光一はのんびり笑った。元々近い距離にいる二人だ。僅かの差を縮めるなんて、容易い事だった。頭では分かっていても勝手に走り始めた心臓は止められない。無防備な光一は、すぐ手に入る位置にいるのだと思い知らされた。
反応のない自分を不審がって身体を起こした事もこちらを伺っていた事も分かる。けれど、自分の頭を跨ぐように手を着いて、髪が触れ合う程の至近距離にいるとは思わなかった。光一の黒目がちな瞳は、薄い闇の中にあっても綺麗だ。頬をくすぐる柔らかい猫っ毛も、微かに見える額の傷跡も、筋張った腕の内側の白い肌も全て。剛の目には魅惑的に映る。
まともに視線を合わせてまずい、と思った。正直な身体に打ちのめされる。下半身に集まる熱は、明確に彼への劣情を示していた。絶望的な欲だ。自分が抱いている恋だと思っていたものが、呆気無く浅ましい欲望に飲み込まれた。
「剛?」
「っ何でもあらへん!もう寝るわ!お休みっ」
無理矢理顔を背けて、きつく目を瞑る。己の劣情を恥じた。これは、光一を傷付ける感情だった。同じ部屋で生きて行くのに、こんな感情を抱いて良い筈がない。
光一が好きや。どうしようもない程に。本能から生まれた欲は、醜い分はっきりと分かりやすく剛に愛を示す。自分の中にある全ての愛すると言う感情は光一に向いているのだと思い込める程だった。
小さく溜息を零すと、諦めたように布団に包まる気配がある。離れた距離に安堵して、同時に泣きたくなった。一緒にいられない。このままでは遠くない未来に父親である彼を壊してしまう。確信だった。大切に慈しみ育ててくれたこの年月を全て粉々に砕いてしまう。怖かった。唯、彼を誰よりも愛したいだけなのに。
剛に優しい眠りは訪れなかった。行く先はない。それでも、今の気持ちのまま此処にはいられないと思った。真夜中、光一の眠りを確かめる為首筋に触れる。小さく呻いた彼にごめんなと囁いた。いつも使っているバッグ一つを抱えて、二人きりの部屋を出る。蒼い空に浮かぶ月の頼りない明かりに照らされて、剛は歩き出した。
「つ、よし……」
白い光が射し込む部屋で取り残された声は、何処にも届く事なく光の粒子と混ざり合って溶けて行った。置き手紙があるのでも、荷物が全てなくなっているのでもない。けれど、律儀に畳まれた布団や温められるのを待つだけの朝食に、剛の不在を悟った。
この場所を飛び出したのだ。どうしよう。何処にも剛の気配がない。優しさの残されていない部屋で呆然とした。「家出」と言う言葉さえ思いつかない。
何から始めれば良いのかすら分からず、とりあえずいつものように顔を洗った。冷たい水も、思考を働かせる助けにはならない。悩む事すら出来ず、困った時の一一〇番通報をした。警察ではなく、城島へのホットラインだ。
「おはよう、光ちゃん。どうかしたんかー」
「っ茂君、どうしよ!……俺」
「おいおいおいおい。落ち着き落ち着き。剛がどうかしたんか」
「茂君……」
城島の声を聞いた途端、置き去りにした感情が追い付いて来てパニックを起こす。要領を得ない自分の話を丁寧に聞き取って(と言っても「光ちゃんが焦る理由なんて一つやから簡単やったで」と笑われたのは、勿論後日談だ)、穏やかな声のまま必要な事を指示してくれた。
「それは、男の子が通る『家出』っちゅう成長過程やね。焦ったらあかんでー。あの子にも反抗期が来たんやな、って成長を思ったらええのよ」
「……うん」
「よしよし、ええ子や。これから探しに行くんやろ」
「うん」
即答した。自分が探さないで、誰があの子を追い掛けると言うのだ。
「したら、まずは会社に休みの連絡を入れなさい」
「……あ」
「やっぱり忘れてるやろ。普段仕事馬鹿の振りしとる癖に、唯の親馬鹿やないの」
気の抜けた声で笑われて、緊張が解ける。親馬鹿で構わなかった。一生剛を守ると決めたのだ。誰よりも愛して、愛し抜いてやるのだと誓った。
城島の指示通り会社に病欠の連絡を入れ、動き出す前に心当たりのある所へ連絡をしてみる。案の定学校には行っていないようで、何食わぬ顔でこちらも病欠を伝えた。それから、休み時間を狙って岡田の携帯に掛けてみたが、今日は会っていないと言われる。クラスが違うのだから、当たり前と言えば当たり前だった。落胆し掛けた自分を、察しの良い岡田は気遣ってくれる。
「後で、剛君のクラスに様子見に行って来ますよ。学校は僕が気を付けておきます。光一君は、他の場所を探して下さい」
高校生に嗜められるのはどうなんだろうと思ったけれど、今の自分がどうしようもない程不安定な事は知っていたから、素直に頼む事にした。自分の身体は一つで、そんなに手広く探せる訳ではない。行為は甘んじて受け入れるべきだ。
午後は、自宅から離れていない場所で剛の行きそうな所を探した。公園、ゲームセンター、ファーストフード店、図書館、レコードショップ。何処にも目当ての姿はなくて泣きそうになる。いつでも傍にいた少年。自分の中の喪失感が大き過ぎて、怖くなった。慣れないこの土地で、文字通り二人きり生きて来たのだ。考えていたよりずっと、彼に救われていた事に気付いた。こんな風に離れているのは初めてだから、持て余した感情をどうすれば良いのか分からない。
剛。何処にも行かないで。此処にいて。こんなにも切迫した感情を初めて知った。胸が痛い。誰もいない夕暮れの路地裏で蹲った。普段の強がりすら保てない。このまま、声を上げて泣き出してしまいそうだと思った。心臓の辺りを両手で押さえて、その衝動を押さえ込む。
一日中歩き続けて、何処にも剛の気配を見付けられなかった。城島に連絡を入れると、もう帰りなさいと諭される。剛が帰って来た時、光ちゃんは笑顔で迎えて、それからたっぷり叱らんとあかんのやから、元気残しとかんとあかんで。明るい声に慰められて、素直に家へと向かった。もし剛が近くまで戻って来たのに窓に明かりがなかったら、もっと遠くに行ってしまうかも知れない。
俯いたまま階段を上って行くと、自分の部屋の前に人影があった。
「剛っ!」
反射的に叫んで、残りの階段を駆け上がる。それが違う人だと気付くのに時間は掛からなかった。大きな背中、着古しているのに汚い印象を与えないジーンズ、振り返った顔は翳りのある剛のそれよりずっと明るい。太陽のような男だった。
「なが、せ……?」
「あー光一いたー!今日休んだって言うから心配になっちゃってさー、慌てて仕事終わらせて来てみたら誰もいないし。病院行ったのかとも思ったんだけど、せっかく来たからもう少し待とうと思ってさ。……でも、病院行って来た感じじゃないね?顔色悪いけど、さっき、剛って言った?」
動物的勘で生きている友人は、確信を持った事実を違える事はない。長瀬の大きな顔のパーツは、彼の感情を豊かに表現した。心配している顔。何の打算もない優しさに、光一の張り詰めた糸が切れた。
「剛がっ……帰って来ないんや!今朝起きたら布団綺麗で、一人でっ。俺が、あいつの希望素直に聞いてやれば良かったんかっ?夜学なんて、行って欲しくない!何でいらん苦労背負わせなかんの!あの子は、俺の子供やっ。俺が大人にするって決めた!何で、一人で先進もうとするん?俺のせいか?俺が頼りないからあかんの?どうして……っ」
光一の細い身体を、その叫びごと長瀬は胸に受け止めた。これ以上、不安を与えないようきつく抱き締める。元々口数の少ない友人だから、光一と剛の関係を深く知っている訳ではなかった。今日までの道程は、多分誰にも分からない。けれど、長瀬にとってそんな事はどうでも良かった。今此処にある光一の愛情が全てだ。泣かない彼の精一杯の激昂。
「そうか、剛が家出かー。あいつも大人になったもんだなあ」
「俺は、一度も家出なんてした事あらへん。そんなんせんでも大人になれるわ」
「うーん、光一はホントに真面目だからなあ。家出は男のロマンよ」
「分からん!」
友人のこんな怒った声は初めて聞いた。騒ぐ事を何処かに忘れて来たような物静かな男だったから、長瀬の目には新鮮なものに映る。小さく笑ったら、しっかりばれてしまった。
「光一が会社休むのなんて初めてじゃん?だからよっぽど具合悪いんだって思って。でも、それ以上の事が起きてたんだなあ。今日一日、良く頑張ったね」
「どんな頑張ったって、見付からんかったら意味あらへん……」
「明日俺休みだからさ。一緒に探すの手伝うよ」
困ったように眉を顰めて断るだろう事が分かっていたから、先回りをして明日の時間を決めてしまう。こんな風に参っている友人を一人にする事はとても出来なかった。
「じゃあ、明日ね!俺の事忘れて先に出たら駄目だよー。じゃあねー」
するりと身体を離して、一方的な約束を告げる。本当は一緒に夜を過ごしてあげたいけれど、自分は其処まで踏み込めなかった。近所の野良猫より扱い難いと、長瀬は一人笑う。せめて、一人の夜が絶望に包まれませんようにと、祈る事しか出来なかった。
剛が見付かったのは、長瀬に手伝って貰った翌日の、彼がいなくなってから三日目の事だ。城島から連絡が入った。息を詰めて、携帯から零れる言葉を一つも落とさないように。
「今な、ウチにおるから。光ちゃんは、今何処?……そうか。なら、ゆっくり来なさい。もう、剛は逃げへんよ」
「……はい。ありがとうございました」
声が震えた。自分は今、怒れば良いのだろうか。喜べば良いのだろうか。頭が真っ白で、何の感情も思い浮かばない。携帯を握り締めたまま動けないでいると、着信を告げる振動が伝わった。城島が何か言い忘れたのだろうと思い表示を見ると、画面には岡田と出ている。
「……もしもし」
「あ、光一君ですか?今、連絡が来て」
「剛から?」
「はい」
「そうか。俺も今、茂君から連絡あったとこ」
「あ、そうだったんですか。じゃあ……」
「うん、ありがとな。気ぃ遣ってくれて」
「いえ、別に僕は」
「ううん。ありがとう」
重ねて礼を言う。空虚に優しい響きだった。あの聡い少年には気付かれたかも知れないと思いながら、繕う言葉を持たずに通話を終える。
会ったら何を言おう。この三日間をどう表現したら良いのだろう。分からなかった。あの夜の響きが、鼓膜に蘇る。光一、と呼ばれたのは初めてだった。予兆はあったのだ。いつもと違う事が。なのに、気付く事が出来なかった。甘い響きの後の焦ったような声音。きちんと覚えている。剛の言葉の一つ一つを。
城島に迎えられ、しっかり怒ってやるんやよと優しく言われた。曖昧に頷くと、今は使われていない子供部屋へ入る。二人きりにしたるから、ゆっくり話してみたらええよ。日本茶と軽食を載せたお盆を渡しながら、下にいるから何かあったら呼ぶんやで、と言い置いて城島は去って行った。
小さな四畳半の部屋へ足を踏み入れると、窓際に立っている小さな後ろ姿が目に入る。三日ぶりの剛の背中だった。今までだって修学旅行や合宿で三日以上顔を見ない事もあったのに。午後の陽射しを浴びた横顔は、酷く大人びて見える。この三日間が、彼に変化を与えたのだろうか。
「光ちゃん……」
振り返って向き合った瞳には、罪悪の色があるものの落ち着いていた。既に城島から何か言われているのだろう。自分の方がきっと、どうにもならない表情をしているのだと思う。まず叱って、この三日間何処にいたのかを問い質して、それからきちんと話し合わなければならなかった。
唇を噛む。胸の中にある感情が、何なのか分からなかった。剛の切迫した響きの声も、今目の前にある瞳の色も、自分の知っているものではない。怖かった。そう、怖いと認めるのが怖かったのだ。
「光ちゃん、ごめんなさい」
何も言わずに立ち竦む養父が戸惑ったように瞳を揺らすのを見て、剛の口からは素直に謝罪の言葉が零れた。きつく噛み締めた唇は柔らかな色が失われている。光一は何も言わなかった。剛は困った顔で一歩踏み出す。父親であるこの人の事は、自分が一番良く知っていた。言葉の足りない人。きっと、叱る言葉を組み立てているに違いない。
入口までは数歩の距離だった。光一の手にあるお盆を取り上げて、部屋の隅にある文机の上へ置く。剛のその動きにつられるようにして、光一は部屋に入った。傾き始めた太陽の橙が、日焼けした畳に鈍く反射する。
光一は、剛の顔を見るばかりで黙ったままだった。茶色い髪の隙間から覗く瞳の中には、様々な色が映り込んでいる。怒りと哀しみ、焦燥と安堵、子供の臆病と大人の理不尽。剛は更に言葉を重ねようとした。この三日間の養父の事は、既に城島から聞いている。彼が仕事を休むなんて信じられなかった。それを聞いて初めて罪悪感が芽生えたのだ。どんな事があっても、二人生きて行く為だと働き続ける人だった。今目の前にいる彼は、自分より大きい筈なのに、酷く小さく見える。
一緒に生きて行けないと思った。でも、帰って来て良かったと今、心から思う。未だこの身体に消えない劣情を抱えていたとしても。
「光ちゃん、本当にごめんなさい。俺、勝手な事した」
此処に辿り着くまで本当に逃げようと思ったし、死んでしまおうかと安易に考えた瞬間もある。離れても欲望は消えなかった。三日間、光一が好きなのだと言う実感しか持てずに歩き続けたのだ。何処に逃げても、この恋は追い掛けて来る。それならば、ちゃんと向き合ってしまおうと思った。若気の至り、と言う言葉が現実になる可能性は低かったけれど。
俯いてしまった光一の肩が震えている。どんな言葉で叱られても良かった。なのに、彼は慎重に選ぼうとする。俺達は本当の親子じゃないから。距離を迷うのは、いつも彼だった。
「ごめんな。俺ん事殴ってもええよ」
力で解決する訳じゃないけれど、今の自分に出来る償いはこれ位だ。三日間光一は何を考えていた?恋は消えない。でも、親子として生きて行く。だから、ちゃんと知りたかった。逃げないで、この熱を飼い馴らしてみせる。光一のいない世界で生きる事なんて出来なかった。
じっと動き出すのを待つ。目の前に立つ彼の目線の位置がほとんど変わらない事に気付いた。これからもっと大きくなる予定だけど、いつの間にか見上げるばかりだった人と肩を並べるまでになっている。息を潜めて、沈黙に耐えた。光一が動き出すのを、その心情を晒してくれるのを。
「……っせっかく、無事に帰って来たのに。何で……俺が怪我させなきゃあかんの」
零れた声は掠れていた。髪に隠されて表情が見えない。橙色の夕日が、畳の上に二人分の影を作っていた。
「剛の阿呆!……っ」
その後は言葉にならない。反射的に震える薄い身体を抱き締めていた。
「ごめんっごめん!光一、ごめん!」
何度も繰り返す。光一は泣いていた。彼の涙を見るのは初めてで、どうしたら良いのか分からない。いつものように気丈に叱られるのだと思っていた。不安も弱音も全部隠して、父親の顔をするのだろうと。
それでも構わなかった。一緒に居続けて、彼の見せたがらない内側にも気付けるようになっていたから。怒りの裏側に息衝く弱さを見抜く自信がある。自分が思う愛情とは違っても、光一の中にある執着が垣間見られれば良かった。
なのに。今腕の中で子供のように泣きじゃくるこの人は誰だ。俺は泣かへんから、と笑う強気な人だった。こんな光一は、知らない。
「ごめんな、光一」
「剛……」
「うん、ごめん。ごめん、光一」
名前を呼んで、しっかりと抱き締めた。俺は、世界で一番大切な人を傷付けたのだ。どんな言い訳も出来ない。こんなにも大事にされていたのに。心臓の奥で、恋情がざわめいている。浅ましいこの感情も自分のものだけど、今は光一を抱き締めている両腕の優しさを信じたかった。俺にはまだ、親子の親愛がある。これから先も此処にある優しさと生きて行こう。
光一の目が真っ赤に染まり、持って来た日本茶も冷めた頃、城島が様子を見に来てくれた。二人を見て笑った表情が優しい。もう、彼は笑うだけで何も言わなかった。お茶を入れ直すと冷えたタオルを用意してくれる。三人でお茶を飲んで、日が沈んでから二人で家路に着いた。
彼の子供として生きる。それは、一生の決意ではなかった。自分が大人になるまで、対等な場所に立てるまでの僅かな時間の話だ。それまでは、彼の望む子供でいようと決めた。並べて敷いた布団の中で、普通科の公立高校に行くと言った。まだ腫れの引かない瞳で嬉しそうに笑ってくれた。光一を悲しませずに生きて行こう。眠りに落ちる寸前、胸に秘めた決意は多分一生のものだった。
彼が会社に転属願いを出したのは、自分が進路変更の希望を出したすぐ後の事だ。大事にされている事を実感して、深く考えないようにしようと決める。どうせ、好きな事には変わりないのだ。傍にいられるのなら、それだけで良かった。
光一は泣くのを見たのは、後にも先にもこの一度きりだ。
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剛の考えている事が分からない。血の繋がった親子であっても全てを理解出来る訳ではないのだから、仕方なかった。一人で帰って来て夕食の支度をする気にもならず、スーツを着たまま剛の帰りを待つ。暗くなった部屋で、先刻の事を何度も何度も考えた。
就職を希望するなんて。三年前のあの時、きちんと話し合った筈だ。自分の保護下にある間は子供でいる事。他の子供にない負担を背負わせているのは、自分が若過ぎるせいかも知れなかった。剛の目には、父と呼べる程信頼出来る人間として映っていないのだろう。どうしてもっと年が離れていなかったのか。親子の年齢差があれば楽だった。十二歳差と言うのは、どう足掻いても親子の距離ではない。
覆す事の出来ない事だから、他で補おうと頑張って来たつもりだった。父親としての落ち度を最小限に留めたいと願う。剛がいつか本当の親だと思ってくれたら、自分は幸せだった。
何の負担も背負わせたくない。大学に行って欲しかった。まだ十八歳なのだから、自分の元にいて良いのに。焦って大人にならないで。一人で飛び立たないで。それが果たして父親として正しい感情なのか、光一は分かっていなかった。
「……ただいま」
静かに扉が開く。人工の光が射し込んで、何度か目を瞬かせた。
「光一、こんな暗いまんまで……目ぇ悪くなるで」
そう言えば、あの時から剛は「光一」と呼ぶようになったのだ。少し寂しかったのを今でも覚えていた。本当に、家出が彼を一歩大人に近付けた。
「スーツ、皺んなるで。明日は違うのにした方がええかなあ」
どうやって切り出そうと不安になりながら剛は帰って来たのに、真っ暗な部屋で動かずにいる光一を見たら、頭より身体が先に動く。部屋の明かりを点けて、カーテンを閉めた。光一を立たせるとスーツを脱がせる。夕飯の支度をしようと動き掛けて、それよりも話が先だと思い直した。光一は、待っている。何も言わないけれど、間違いなかった。
「ずっと、考えてたんや。最初に光一に言うべきやったんは分かってたけど、反対されるの分かってたから。言えんかった。ごめん」
光一の顔を見るのが怖くて、並んで座る。お気に入りのソファは、小さな部屋に少し不釣り合いだけど二人を程良く近付けてくれた。優先順位を間違えないように、ゆっくりと話す。
「俺、別に大学行くん嫌やないよ。でも、目的が見付からんのや。何となくで、光一が積み立ててくれたもん使いたくない」
「……何となくでもええやん。皆、最初から決まってる訳ちゃう。四年間過ごして、やっと進みたい道が見えるんちゃうの?」
「俺は、進みたい先、決まってるで」
迷いのない剛は怖かった。繊細で傷付きやすい心を守ってやろうと思うのに、ずっと強い精神を有している。もしかしたらもう、この子は大人になってしまったのかも知れない。自分の手を必要としない遠くへ行きたいのだろうか。
「何処に、行きたいん?」
「光一と同じ場所」
「……俺と?」
意味が分からない。自分達はずっと同じ場所で生きて来た。今更望まなくとも、同じ所にいるのに。
剛の言いたいのは、もっと抽象的な意味なのだ。視線を合わせない横顔を見詰めた。誰よりも近くで見守って来た少年は、気が付けば随分と男らしくなっている。これもまた血が繋がっていない事を示しているだけなのだが、細い印象ばかり与える自分の容姿とは全然違った。余り女の子の話はしないけれど、もてるのではないだろうか。意志の強い瞳は、自分でもどきりとする瞬間があった。決意を秘めた横顔は、逞しささえ覗かせる。
自分と同じ場所。剛になくて、自分にあるものは少なかった。年齢の差と社会経験と父親と言う立場。後は一緒だと思う。二人の間に優劣の差はなかった。ふと、精悍な表情に遠い距離を思う。彼は、自分に言っていない事がある筈だ。直感だった。
「もしかして、父親になるんか?」
「……は?」
「いや、やって。俺と同じ場所言われてもよお分からんやん。社会に早く出たいなんて、結婚したいとかそぉ言うんやないの?」
剛にこれ見よがしの溜息を零される。我ながら頭が悪いとは思った。でも、他に何も思い付かない。自分の子供なのに分かってやれないこの苛立ちは、親にしか分からない。きちんと視線を合わせれば、諦めに近い笑い方をされる。どうにもならない現実を受け入れる為の、大人の処世術だった。そんなの、身に着けて欲しくない。どうして、子供は大人になってしまうの。
「何で俺が、結婚したいなんて言うねん。彼女もおらんのに」
「……あ、そうなんや。剛、全然そおゆうん話してくれんから、俺とはしたくない話題なんや思うてた」
「まあ、改めてする話でもないから、言わんかったけど。光一の方が、彼女の話とか嫌がりそうやったで」
あからさまにほっとした顔をしないで欲しいと、剛は思った。絶望しかないのに、可能性を見出してしまいそうになる。何度も塗り潰した未来を、また描きそうになった。
「俺は、やって彼女ずっとおらんし」
「不思議やったんやけど、何で?多分やけど、光一東京来てから一人もおらんやろ」
「……よぉ知っとんなあ」
「そりゃ、いたら気付くもん。光一もてるやろ?会社に女の人もおるんちゃうの?」
「おる、けど。欲しいって思った事ない」
「何で?」
「そんなの……剛と一緒にいたかったし。東京来て気付いたんやけど、俺女の人苦手なんや」
光一の言葉に含みはない。確かに、剛の朧げな記憶でも関東と関西では女性の雰囲気が全然違った。でも、それが一人でいる理由にはならない。
「光一は、結婚する気ないん?」
「ない」
「俺がいなくなっても?」
「……やっぱり、家出る気なんや」
自分は何と愚かなのだろう。先刻から、自分で自分の首を絞めている。不可能だと思っていた未来を夢見てしまいそうだった。そんな未来は永遠に来ない。悲しく眉を顰めた人に笑い掛けた。
「何で、俺が出て行く話になるねん。俺は、光一と対等になりたいんや」
「対等?」
「そう。一緒に生きて行く為に。もう、守られるだけの子供は嫌や」
優先順位は、一緒に生きる事。恋なんて必要なかった。全ての情を、親子のものに置き換える。光一の望む子供ではいられないけれど、不用意に恋情を漏らしたくはなかった。
「一緒にいるなら、大学行ったってええんやないの。四年後やって、別に構わんやん」
「俺は、四年も待てへん。早く大人になりたい」
「……剛。俺、よお分からん。何でそんな焦って……」
城島の言う通りだった。光一は混乱している。恋に触れず説得するつもりだった。光一が自分を望んでくれる限り、息子でいるつもりだ。それなのに。
「此処にいてくれる言う事は、俺の子供でいる言う事や。剛が出て行きたい思うんなら、いつ出てってもええ。でも、焦らんかてええやん」
「俺は、光一の子供でいるのが嫌なんや」
「剛……」
しまった、と思った。これでは、自分の願いは伝わらない。簡単に傷付いた顔を見せると動きを止めた。一緒にいたい。子供のままでいたくない。理由は凄くシンプルなのに、言葉にする事は叶わなかった。
「そうやって、最初から素直に言ってくれたら良かったんや。お前の子供は嫌や、もう解放してくれって。それだけで良かったのに……」
丸い指先で目許を覆う。弱々しい響きに何と返せば良いのか分からなかった。ああ、茂君。俺、全然覚悟なんて出来てなかったです。これから辛くなると言う言葉の意味を軽んじていた。口を閉ざせば閉ざした分だけ、光一は離れてしまう。引き留める術が選べなかった。
「光一、違うんや。分かってくれ」
「分からん」
「……俺は、光一が好きや。大切なんや」
入れは、何処に進めば良い?手の届く距離にいる人。今すぐ抱き締めてやりたかった。目許を隠されているから、光一の事がきちんと分からない。俺の為に傷付かないで。
「俺の方が、ずっと好きやわ。そんな口先だけの言葉なんか、いらん」
手を伸ばして良いのだろうか。体内で飼い馴らした筈の激情が暴れている。一生秘めていると決意した。この距離のまま傍にいるのだと。やっぱり、はぐらかしながら喋るなんて出来んもんやなあ。黙すれば黙する程、光一が傷付いて行く。
動く事で更に傷付けると分かっていても、立ち止まっていられなかった。偽らず、生きる。その為に、一生傍にいられなくなったとしても、だ。アドバイス、何の意味もなかったな。そっと右手を伸ばす。躊躇する気持ちが自分の中から消えて怖くなった。光一を手放したくはないけれど、無闇に傷付けたくもない。
「光一」
「っお前が、大人になりたいんなら、一人になりたいんなら、応援する」
「光一。違うんや。大人になるのと一人になるのは、違う。一緒の事やない」
頬に触れれば、冷たい感触に驚いた。血の気を失った肌はさらりと滑って、何も教えてくれない。白い頬の上で蛍光灯の光が無機質に反射した。光一は視線を上げ、真っ直ぐに見詰めて来る。自分と向き合う事ばかりを優先して来た養父のその瞳は、ずっと変わらなかった。
この世界で「絶対」の確信を持って信じられる、唯一の人だ。
「俺はきっと、何処まで行っても剛の父親にはなれないんやね」
「違う、光一。一緒に東京に来てからずっと、光一が一番大切や。他の何もいらない位」
「……剛」
「お前が嫌がるから言わんでおこうと思った。色々考えるんは目に見えてたし、それで後悔するだろう事も分かってる。光一に余計な負担掛けたくなかった。でも、俺これ以上何て言ったら良いのか分からん。光一を納得させる理由が思い付かんのや」
深呼吸をして、僅かに潤んだ光一の瞳を見詰め返す。いつも俯きがちに話す彼が、自分から逃げない為に取った手段だった。言葉には表れない感情を読む為に、必ず合わされる黒目がちの瞳はいつでも綺麗だ。怯まない瞳の底に、戸惑いや恐怖が潜んでいる事も知っていた。全部理解しているのに、こんな事をする自分は卑怯だ。
随分と長い時間見詰めて来た養父へ近付いて行った。黒曜石の瞳は、尚怯まずに煌めいている。唇が自分の名前を象る前に、優しく塞いだ。唇を重ねただけの、幼い仕草。近過ぎて焦点の合わなくなった視界の中でも、光一が瞼を降ろしていない事は分かった。
乾いた感触を確かめて、ゆっくりと離れる。思考回路の停止した光一を可愛いと思った。状況を把握するだけで精一杯の幼い表情だ。触れていた掌も離せば、二人を繋ぐものはなくなった。
「分かった?親としてとか、家族としてなんかやない。俺は、堂本光一が好きや。やから俺、お前と同じになりたい。早く対等になりたいんや」
「……剛」
涙一つ零さない感情表現の乏しい光一が、唇を噛んで感情を押さえ込んでいた。多分、彼の中では色々な衝動がせめぎ合っている。原因は自分なのだから、落ち着かせてやりたかった。いつも冷静に見える彼の脆さを知っている。光一が揺れていた。子供だと思って暮らしていた自分に告白されたのだから当たり前だ。でも、渡してしまった言葉を後悔してはならなかった。例え、光一を苦しめても。
「光一、ごめんな。本当の事なんて言ったらあかんのやろうけど。お願いやから、傍におらせて。一緒にいたい」
「……どうして」
「どうして、やろなあ。気付いたらお前しかおらんかった。光一以上に愛せる人なんて見付からんかった」
言葉を発する度、光一の顔が歪む。可哀相で仕方なかった。けれど、離れない為に言葉を重ねる。
「光一が好きや。光一だけをずっと。愛してる」
痛みを抱えて尚、彼は泣かない。堪える事ばかりを覚えてしまった不器用な大人が、何処かいたいけな存在に思えた。とっくに父親として光一を見ていない事に改めて気付いて、剛はひっそり笑う。今更、何処にも引き返せなかった。
空気を変える為に立ち上がると、夕飯の支度に取り掛かる。プライベートのない小さなこの部屋では、一人で悩む事も出来ないから。なるべく視線を合わせなくても済むように、少しの距離を取った。
冷蔵庫を覗き込みながら、光一と同じように痛む心臓を押さえる。告げて良い感情ではなかった。一生親このまま生きて行くべきだった事は分かっている。受け入れられる筈のない恋。
それでも。光一が一番大切にしているのは、奢りでも何でもなく自分だった。感情の種類が違うだけなのだと、甘く夢を見る事位は許して欲しい。
+++++
光一の額には、今も消えない傷痕が残っていた。うっすらと見えるそれを目にする度、剛は泣きたくなる。陶磁器みたいな綺麗な彼の肌に刻まれた線は、剛の本当の父親が付けたものだった。これ位の傷で済んだのだからと光一は思っているけれど、優しい子供が「ごめんなさい」と何度も言って泣きじゃくるのが嫌で、隠す為にずっと前髪を降ろす事にしている。童顔に見えれば、信頼度が落ちるのは分かっていた。でも、そんな薄っぺらな事より剛の方が大事だったから構わない。顔を合わせる度に泣かれるのはさすがに辛かった。
剛の父親に会いに行ったのは、東京で小学校の入学手続きを終えてすぐの事だ。気の早い桜が舞い始める歩道を二人で歩いた。母親に立ち会って貰い、同意書に署名させる為の帰郷だ。剛としっかり手を繋いで入った部屋では、もう既に彼の父親は酒を呑んでいた。同じ事を繰り返すだけの日々。子供の不在も気に留めない生活は変わっていない。剛が怒りを抑えるように繋いだ手の力を強めるのが苦しかった。
結局、話し合いは行われず、暴れ出した父親を止める為の傷を一つ作っただけ。最後まで剛への言葉はなかった。それ以来二度と父親と会う事はないまま。剛と二人きりの人生を深く決意したのは、多分この時だった。
母親とは毎月連絡する事を約束し、長期休暇の度に帰って来なさいと言われる。剛の成長を目で確認したいから、と笑った母は、もう自分の決意を変えようとはしなかった。剛を連れてすぐの時は、電話口で何度も怒鳴られたのに。頑固なんは私譲りやね、と優しく笑った母親もまた、見守る決意をしたのかも知れない。ずっと最後まで、実の親子で暮らす事を望んではいたけれど。
余り鳴る事のない自宅の電話の呼び出し音が響いたのは、剛が中学二年生の時だった。まだシステム開発部にいた光一を待って、遅い夕食を摂っている時の事だ。嫌な予感がした。電話を取る前から剛は悲しそうな瞳をしている。
「はい、堂本です」
「もしもし、光ちゃん?」
母親からだった。いつにない緊迫した声に息を飲む。静かに告げられたのは、剛の父親が亡くなったと言う事だった。今すぐ戻ってらっしゃいと言われ、食べ掛けの夕食をそのままに家を出る。新幹線の中で剛にゆっくり説明をすれば、「やっと要ったんか」と何の感情も宿さない声で呟いた。今も鮮明に残る暴力の記憶は、そう簡単に彼を悲しませてはくれない。安堵の色すら見せて、隣に座る自分の方が苦しくなった。剛と父親を引き離したのは自分だ。永遠に和解する機会を奪ってしまった。罪は重い。背負うべき罪状は分かっていた。一生を賭けて償って行くべき事も。
葬式を出す親戚もいなかったらしく、遺体安置所には光一の母親だけが待っていた。結局、彼女が納骨までの全ての手続きを行ってくれたのだ。剛のお父さんやから、と笑んだ表情には強さばかりが見えた。逃げずに向き合う事を良しとする潔さが好きだと思う。
遺体を前にしても、剛は涙一つ零さなかった。無表情のまま、じっと父親の顔を見詰めている。まるで、網膜に焼き付けるかのように。母親は悲しそうに、その様子を見ていた。
「なあ、光ちゃん」
「うん」
「分かってると思うけど、言わせてな」
視線を剛から外さないまま、独り言のように言われる。自分は続くであろう言葉を分かっていた。けれど誰かが言葉にしなければならない事なのだと母親は気付いている。
「あの子の人生を滅茶苦茶にしたとは言わん。光ちゃんのおかげで、救われた事も沢山あると思う。あんたがあの子に一生懸命なのは分かっとるつもり。でもな」
「うん」
「剛の価値観や生き方を変えてしまった事、それだけは絶対に忘れんといて」
「ん、うん。ごめん」
「謝る暇あったら、あの子の事沢山抱き締めてやんなさい」
悲しい時も嬉しい時も、傍に居続ける事。それが罪を償う事なのだとしたら、優しくて甘いばかりの罪だった。剛の事だけを生涯の家族とするなんて、難しい事ではない。彼の小さな手を取ったその時から、自分は運命を選択してしまった。いつか、自分の元から旅立つその日が来ても。
養子縁組の手続きをしたのはそれから二年後の、剛が高一になってからの事だった。絵空事の覚悟が自分の身体に完全に染み込むまでに二年の月日が必要だったのだ。まだ、親子になって二年。本当の家族にはどう足掻いてもなれないけれど、剛の父親らしく生きる事ばかりを考えていた。まさか、こんなところで思い知る事になるなんて。
「愛している」と言われた瞬間、目の前が真っ暗になった。お前は父親になれない。そう言われているみたいで。
+++++
三者面談の日から一週間が経った。剛は呆れる位いつも通りで、逆に取り付く島がない。あの夜のキスなんて夢だったんじゃないかと思ってしまう程だった。悩むのにもいい加減疲れた頃、久しぶりに長瀬から飯でも行かないかと誘われる。珍しいと思ったけれど、多分自分の変化に気付いたのだろう。彼には動物的嗅覚が備わっていた。近くの居酒屋に入ってメニューを全部任せると、自分はアルコールだけを待つ。
「光一。ちゃんと食べなきゃ駄目だよ。お前、顔色悪過ぎ」
「大丈夫。食べとるから」
「何でそんな小食なのかなー、光一は」
長瀬に世話を焼かれるのは楽しかった。自分が何も出来ない子供に戻ってしまう感覚は、絶対に居心地の良いものなんかじゃない筈なのに。彼の雰囲気の成せる技だろう。
「で?」
「……え?」
「三面。どうだったの」
「……大学なんか行かん。就職するんやって言われた」
「立派だなあ」
「何処が!」
悲しそうに顔を歪めた光一に長瀬は笑った。取り皿にサラダを載せてやりながら思う。モラリストの友人は、剛を「普通の子」にさせようと必死だった。普通の家庭で普通の愛情を受けて育った普通の大学生になって欲しいのだろう。
規格外の自分には、彼の願いを上手く理解してやる事は出来なかった。大体、光一の愛し方はとっくに「普通の愛情」を超えている。自分も子供を溺愛しているとは思うけれど、その情の深さは全く性質の異なるものだった。
「今の子なんて、何となく大学行って何となく就職するんだよ。其処に自分の意志なんてない。でも、剛は自分で選ぼうとしてるんだから凄いじゃん」
「あんな子供の内から選ばんでええ」
「光一」
苦笑して、長瀬は思わずその小さな頭を撫でてしまった。娘にするのと同じ仕草だ。
「剛はもう、小っちゃい子供なんかじゃねえよ」
甘やかして、行く先を導いて、光一の手の中で守られるような事、あの強い瞳を持つ子供は望んでいない。無邪気とは程遠い、大人びた笑顔を思い出した。
「子供やもん。ずっとずっと、剛は俺の子供や……」
「……光一?」
「俺だけが、あいつの父親なんや」
「お前……剛に何言われた?」
光一を纏う空気が変質して、長瀬は慌てた。冷静に繕えないなんて珍しい。今日誘って良かったと心底思った。光一が本音を話せる友人は、きっと自分だけだから。
「愛してる、って……」
「それは、親子としてじゃなくって意味だな」
小さく頷いた光一の方が、余程子供じみていた。剛にばかり目を向けて生きて来たせいか、それとも彼が本質的に持っているものなのか。分からないけれど。
「でも、何も変わらん。いつも通りなにゃ。だから、どうしたら良いんか分からん。進路の事も、剛の気持ちも……」
「光一がそうやって軌道修正しようって考えている内は、多分変わんないよ」
剛の気持ちは光一を前にして、こんなにもはっきりと伝わって来る。愛しいと訴える彼の瞳は、確かに親子以上の愛情を含んでいた。それが果たして本当に悪い事なのかどうか、長瀬には判別がつかない。だって、この二人はずっと、互いへの愛情によって生かされて来た。
「俺は、どうするんがええんやろ」
「んー、そう言う難しい事は、城島先生に教えて貰った方が良いと思うけど。俺が言えるのは、初心忘るべからず、って事かな。俺は今でも覚えてるよ。剛に会わせてくれた日の事」
「長瀬……」
「覚えてる?光一が俺に紹介してくれたのって、三年も経ってからなんだぜ。俺、お前の事親友だって思ってたのに、一番大切なもの教えてくれないんだもん。結構傷付いたなあ」
「……ごめん」
「まあ、時効だけどね。ちょっと悔しかったな、あん時は。光一に秘密があるのは分かってたよ。お前いっつも真っ直ぐ帰るから、大事な彼女でもいるんだと思ってた。でも違った。もっと大事なもんだったね」
出会った頃の光一は何処か頼りなくて、自分の庇護欲を駆り立たせる存在だった。それは今も変わらないけれど、あの時からずっと、彼の瞳には揺るぎない信念が見え隠れしている。
剛を紹介されて、その色の意味に気付いた。光一が大切に守る唯一の宝物。中学生になった剛は、勿論守られるだけの弱い生き物ではなかった。故郷を離れて血の繋がっていない二人が一緒に生きて行くのは、大変だろう。それでも、光一は自ら選択した。あの子供と、東京で生き抜く事を。
「俺はね、光一。二人の事全部知ってる訳じゃないから、あんまりおこがましい事なんて言えないんだけどさ。光一は、剛を息子以上に大事にしてると思うよ。それがどんな愛情かは、別にしてさ。光一の一番は、ずっと剛じゃん。違う?」
「違わない。でも……」
「光一。二十二の男が十のガキ連れて全部面倒見て、二人だけで生活して来たんだろ。それって凄い事じゃん。お前、誰も頼んなかった。誰が何と言おうと、剛の父親は光一だよ。もっと、自分の事誉めてやれって。お前みたいな父親だったから、剛は人を愛する事やめずに済んだんだろ。あいつの本当の父親の話聞いてたら、剛が愛情を失わなかったのは奇跡に見える。その奇跡を起こしたのは、光一なんだよ」
両親に愛されなかった子供に最初に愛情を与えたのは光一だ。決して言葉数が多い訳じゃない。触れ合う事も得意じゃなかった。だからこそ、幼い心に彼の愛情は染み込んだのだろう。
光一は、悲しげに瞼を伏せた。自分を愛させる為に愛した訳じゃないのだと言いたいのかも知れない。無償の愛情は、子供の成長を願うだけだった。
手を伸ばして、彼の白い頬に触れる。びくりと揺れる肩。こんなに愛情を傾けても、その身体は全力で拒絶を示した。少しだけ痛む心には見ない振りをする。触れる事で癒える心の痛みもあった。遠慮もせずに撫でてやれば、身体の強張りを解いて嬉しそうに笑う。ほらね。人の体温は魔法なんだよ。
「……俺な」
「うん」
「困ってんの」
素直になった光一の唇から、繕わない言葉が零れた。揃った睫毛が頬に落とす影が綺麗で思わず見蕩れてしまう。彼は、笑った顔よりもこんな風に愁いを帯びた表情の方が似合っていた。可哀相だな、と思うけれど、今更幸福だけの満たされた光一なんて想像が出来ない。
「どう言う事?話してくんなきゃ分かんないよ」
「……剛には言わんといてな」
「うん。勿論」
「俺、嫌じゃなかってん。剛に好きって言われて、少しも嫌な気持ちにならんかったん」
「……光一」
「自分で怖くなった。そりゃ、あかんってすぐ思ったよ。聞いたら駄目やって。でも、全然嫌やないの」
舌足らずに言葉を重ねる光一は、分かっていないのだろうか。世間体や体裁を取り払った後に残る自分の気持ちを。困惑した表情で話す彼は、きっと気付いていない。伸ばした指先で髪を梳くと、頑張り屋の親友を甘やかした。光一を生かしているのは、間違いなく剛だ。
「嫌じゃなくて当たり前だろ。愛される事を嫌がるような酷い人間じゃないよ、光一は。剛に愛される事の、何が怖いんだよ」
「っだって、意味が違うやんか!あいつの愛してるは、普通の愛情やない」
「光一はさ、頭良いし物事を整理して考えるのが一番簡単なんだろうけどさ。意味って何?愛情に違いなんて絶対ないんだよ。剛が一番大切にしている心を拒絶して、お前はどうしたいの」
「普通、に、生きて欲しい」
「剛はとっくに普通より良い男だって」
「長瀬……」
「さっきの」
「え?」
「初心忘るべからず。あれね、子供が産まれてすぐお前と城島先生んとこ行った事あったじゃん。覚えてるかな」
「……ああ、うん。何となく」
「その時に教えて貰ったんだ。子供が成長するって事は、親も一緒に成長して行く事だって。でもいつか生活している内に悩んだり息詰まる時がある。そんな時に思い出しなさい、って言われたんだ。子供が産まれた時の喜びとか、初めて顔見た時一生守ってやるって誓った事とか。最初には皆愛しかないから、辛くなったら自分の中に眠る愛情を思い出してやんなさいって」
剛に最初に執着したのは光一だ。傷だらけの小さな子供を力の足りない手で守ろうとした。自分の愛情を全て渡して、人を愛する気持ちを失わないで欲しいと願った。確かに、剛は愛を失わずに生きている。
「何であの時剛を一緒に連れ出したのか、その意味をもう一度考えてみなよ」
「最初……」
「うん。俺には、つよちゃんが間違った道を歩いているようには見えねえよ」
長瀬は頼もしく笑って、光一の髪をかき混ぜた。今、自分が親友に抱いているように。不器用な彼が精一杯の愛情を他人の子供に注いでいるように。剛が光一へ向けた愛情も揺るぎなく力強い。きらきらと光る真っ直ぐな愛が間違ったものだなんて、長瀬は絶対に思いたくなかった。
+++++
むしむしとした梅雨が明けたばかりの頃だったと思う。剛の記憶に残るのは肌の感触ばかりで、正確にいつ頃の事なのか思い出す事は出来なかった。多分、中学生だったのではないだろうか。
同級生に告白をされて、初めての彼女が出来た。友人よりも先に作れた優越感が強くて、別にその子は好きでも何でもない存在だったのだ。好奇心と、剛の心にいつも引っ掛かりを生む「普通」である事。一緒に暮らす年上の人をもう特別の意味で愛していたけれど、その彼が「普通」である事を望むのだから仕方ない。
「普通」に女の子を好きになって、「普通」の交際であるように女の子を抱いた。特別な感情は生まれなかった。身体が持ち合わせた欲求に自身を委ねるのは簡単だったけれど、光一を愛しているのだと実感させられただけだった。そして、欲の吐き出し方を覚えた身体は、彼を目の前にして呆気なく熱を持つ。一緒に暮らしているのだから当たり前だけど、光一は無防備過ぎて、いつ欲望のまま押し倒してしまうのか自分で怖かった。
二人の生活を続ける為に、剛が決めた儀式。一人きりの習慣だった。眠る光一に口付ける事。治まらない欲を逃がす為の卑怯な行為だとは分かっていた。けれど、歯止めが利かなくなるよりはマシだ。もし目が覚めても躱す自信はあった。光一は自分が子供らしく甘えて来る事に弱かったから。
女の子を抱く度に光一に口付ける。彼に自分と同じような欲求はないのだろうかと下世話な想像もした。一緒に眠るこの部屋に一人の場所はない。いつも穏やかな光一が理性を失う瞬間。何度考えてもイメージ出来なかった。彼は自分の感情が乱されるのを極端に嫌がる。恋と言うよりも、女性そのものを遠ざけているように見えた。
自分のせいなのかな、と思うと少しだけ寂しくて、でもそれ以上に嬉しい。光一を独り占めしている感覚は、間違いなく「普通」から逸脱しているけれど構わなかった。誰にも告げなければ、この恋は存在しないのと同義だ。彼はきっと、自分が「好きだ」なんて言ったら離れて行ってしまう。二人でいられるのならそれだけで十分だと言える程、大人にはなれなかった。欲望を身体の奥で飼い馴らしながら、暮らして行く。光一に恋人でも出来ない限りは、自分を抑え込めるだろうと思った。「恋人」になれなくても、今の「親子」と言う関係は唯一のものだ。
触れてしまいたい欲求と闘いながら今日まで生きて来た。もう、限界なのかも知れない。飼い殺した筈の熱は、すぐにでも光一の前で溢れ出してしまいそうだった。
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