小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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彼に恋とも憧れともつかない気持ちを抱いたのは、自分がまだ幼い頃だった。事務所に入って僅かの、戸惑いがまだあった頃。年齢の近い彼は、その時既に手の届かない存在になっていた。人見知りで他人との接触を嫌う人が、手を伸べてくれた優しさを生涯忘れない。
あの時からずっと、堂本光一は特別な存在だった。
+++++
地方公演は楽しい。一緒に食事出来るし、一緒の部屋で過ごす事も出来た。今の自分のポジションはなかなか良いと思う。大っぴらに愛の告白は出来るし、じっと見詰めていても不審がられなかった。打ち上げで隣の席を堂々と陣取っても文句を言われない(若干メンバーの嫌な視線は感じるけれど)。光一のバックと言えばMA、と定着しつつあるのも嬉しかった。
唯一つ問題があるとすれば、彼の態度だ。俺のこの気持ちを本気にしてくれない。本音とネタの間にある言葉を笑って流された。あの綺麗な顔で笑まれては、何も出来ない。多分、光一には俺の恋を理解する気がないのだろう。
地方公演の一日目。明日は夜だけだから、と当たり前に打ち上げの店を用意されていた。予約を入れたスタッフによれば「光一さん本人の希望です」との事だ。
今回のツアーは光一の様子が少し可笑しかった。ステージそのものは相変わらず追い込み過ぎだと呆れる位完璧を目指していたが、現場を離れれば途端に甘えた素振りを見せる。一人を好むのが常なのに、一人になりたがらなかった。接触すら厭う人が、他人の体温を欲しがる。
飢えた様な寂しさを持て余している瞳で、甘やかしてくれる場所を探していた。どう言う心境の変化なのか、と言うよりも押さえ込んでいた内面を見せられる様になったのだと思う。別に、これと言った変化はなかったから。
悔しいけれど相変わらず剛君とはラブラブだし、昔に比べれば仕事も自分の意思でこなしている筈だ。きっと、極度の人見知りで他人を信用しない光一君が、やっと俺達に馴染んで来たのだろう。嬉しいと思う気持ちと、素直に甘えられて狼狽える理性が音を立ててせめぎ合っていた。
「光一君、これ食べて下さい。美味しいっすよ」
「いや、もうお腹いっぱい……」
「ビールばっかりじゃないですか!あんなに動いたんだから、もっとしっかり食べないと」
「あ……じゃあ、もずく」
「光ちゃん。もずくで栄養になると思ってんの」
MAの三人に構われて(絡まれて、か)、隣に座る光一は拗ねた表情を見せる。「だって」とか「いらんもん」なんて言葉を口の中で小さく呟いていた。
確かに彼は食べていない。食べるのは好きやないけど、この雰囲気の中にいたいんや。何度となく聞いた言葉が蘇って来た。自分だって彼の小食は心配だけれど(必要な時は、誰よりも厳しいと思う)、三対一の状況では光一に付くのが得策だろう。楽しく此処にいたい、と言う気持ちを優先したかった。
「光一君、シャーベット頼みません?」
なるべく可愛いおねだりを心掛けて、首を少し傾げると明るく問うてみる。この仕草は光一から盗んだものだったけれど。子供の素直さで、膨れていた表情がぱっと全開の笑顔に変わった。
大好きな、花が綻ぶ様な柔らかい表情。ステージを降りても、彼はきらきらした空気を纏わせる。
「それええな。町田も食べる?」
「勿論ですよ。オーダーだってお供します!」
力強く宣言すれば、少し困った顔でこちらを向かれた。水分を多く含んだ黒目がちの瞳にどきりとする。
「お前は、いっつも俺が好きやなあ」
「大好きですよ!いつだって僕は、光一君の味方です」
「うん、知ってる。……たまに怖いけどな」
「それも愛故です」
真顔で答えれば、声を上げて笑われた。一瞬不貞腐れてやろうかとも思ったけれど、せっかく楽しそうに笑っているのだから押し留める。彼が信用しないのは、俺がなるべく言葉を軽い響きで渡しているからだった。臆病なのは仕方ない。勝ち目のない恋なら、良い後輩でいたかった。真っ向勝負をする気もない癖に、光一だけを詰るのはお門違いだ。
「オレンジとゆずとどっちが良いですか?」
「うーん、町田は?」
「俺はどっちも好きなんで」
「そっか。……じゃあ、お前ゆずな。俺、オレンジ」
こんな時だけ先輩らしい居丈高な態度で、勝手に決められる。勿論、それに異論はないから店員を呼んですぐに注文した。光一は皿に取り分けられた唐揚げを食べるともなしに箸で弄っている。
「光一君、全然食べる気ないでしょ」
正面に座る米花は優しく咎めると、箸を持っている白い手の甲を柔らかい仕草で叩いた。言われた事は間違いないので、また唇を尖らせて不貞腐れる。甘えたいのだと、その横顔を見てつくづく思った。一人になりたくないから、構って欲しい。誉められるのは怖いから、叱って欲しい。一足先に大人にならざるを得なかった子供は、今になってやっと愛情を素直に欲する事が出来たのかも知れない。
ずっと押し込めていた衝動。家族には甘やかされて育った印象がある人だから、この世界に入ってどれ程の我慢を重ねたのか。あんな小さい頃に親元を離れるなんて考えられなかった。意地を張って誰にも弱みを見せずに立っていなければ、今の位置まで上り詰める事は出来ない。
十年以上前の大人びた表情が蘇った。「町田は頑張ってるよ」そう言って厳しい目許を少し和らげた。あの時どれ程自分が救われたか。きっと彼には理解出来ないだろう。些細な出来事だった。でも、あの時の気持ちがあるから今の自分がいる。何も知らずに唯バックに付いているだけだったら気付かない彼の優しさ。他人には威嚇とも思える程、張り詰めた空気を見せる人だった。それが自分を守る為の虚勢だと言う事も今なら分かる。注意深く見ていなければ知らなかった事ばかりだ。
あの時から随分と長い時間が経ってしまったけれど、その横顔は多分子供の頃より幼い。無防備に甘えて、傍若無人な振る舞いで我儘を言った。けれど、座っている場所からも分かる様に、誰にでもその表情を晒している訳ではない。光一を囲む席配置は、決して彼の奪い合いの為ではなかった。
新しいスタッフもいて女性ダンサーも舞台等で馴染んだとは言っても、彼の性格から甘える事は出来ない。舞台の上で接触するのは平気なのに、其処から離れると途端に臆病になった。ずっと不思議に思っているのだけれど、光一は少し女性に対して引いている所がある。嫌いとまでは行かないが、不必要に近付かなかった。アイドル故の対策かと考えた事もある。けれど、自分が知る限りこの事務所に所属しているからと言って女性と付き合うのが駄目な訳ではないし、まして友達付き合いを止められた事はなかった。自分にも女性の友人はいるし、今はいないけれど彼女だって勿論作っている。
剛と付き合っているからと言って、光一はゲイではなかった。潔癖な所のある人だから、同性愛は精神的にも拒絶しそうな位だ。許せるのは、剛だからと知っている。そんなに何もかもを許容してしまうのを凄いと思った。長年連れ添ったパートナー。自分には仲間がいるし、グループが違っても仲の良い友達は事務所の中にもいる。一人だと感じた事はなかった。それ以上に、二人きりだと感じる苦痛も知らない。未知の感覚だった。
彼らは幼い頃からずっと二人きりだ。友人も親友もいるけれど、究極の所で言ったら二人だけで生きて来た。誰とも手を繋ぐ事は許されず、それが世界の秩序の様に互いだけを信用している。傍目には美しい愛情だけれど、趣味も嗜好も違う二人が狭い鳥籠で生き抜くのは辛かっただろう。冷めた表情は、全ての感情を押し止めた理性だった。望まなければ絶望を知らずに済むと言う諦念は、忍耐力ではなく唯の苦痛だ。
そうやって生きて来た人が、今隣で笑顔を見せてくれるのは嬉しい。二人きりじゃないと気付いてくれた。自分はずっと光一の背中を見て来たけれど、あの初めて言葉を掛けてくれた時には既に剛と共に生きていたのだ。嫉妬ではなく、自分は一人きりの光一を見た事がないのだとぼんやり思う。たった一人で立っていた頃の彼を想像しようとして失敗した。分からない。今の光一は、剛と歩いて来た道程で形成されて来た。もし一人で生きていたらどうなっていただろう。今とは全然違う人になっただろうと思うけれど、その先が描けない。剛のいない光一。光一のいない剛。どちらも想像を絶していて、形にならなかった。
改めて、堂本光一と言う人格を考えると相方の影響力を思い知らされる。悔しいと少しだけ思って、でもと考え直した。臆病な彼が、一人きりじゃなくて良かった、と。大分長い事一緒に過ごした自分達ですら、やっと光一の領域に入る事が出来たのだ。簡単に心を許さない事は、この世界での処世術だけれど彼は余りに頑なだった。自分達が強引にそして辛抱強く傍にいたから許される関係。言葉すら交わす事の出来なかった人が、今手の届く所にいる。それだけで幸福だと、強欲な自分は思えないけれど。少しだけ神様に感謝したくなった。
「町田ー」
不意に呼ばれて、固まってしまう。気の抜けた呼び方。呂律が怪しいのは、食事もせずにアルコールばかりを運んだせいだった。幼い響きに苦笑して、固まった身体を光一へ向ける。
「はい?」
「もう俺いらんー。食べて」
オーダーしたシャーベットは、自分の手で一瞬でなくなった。こんな小さなデザートすら食べられない光一が本気で心配になる。普段も食べない人だけど、公演中は更に食欲が落ちた。舞台中は話に聞くだけだから、実感が余りなかったのだ。けれど、今回のツアーは一緒にいる時間が長いから彼の生活が見えてしまう。これだけの摂取量で、どうしてあんなに踊れるんだろう。いつか本気で舞台の上で死んでしまいそうで、怖くなる。
「もう少し食べた方が良いっすよ」
屋良がすかさず口を挟んだ。人の事を言える程食べている訳じゃないけれど、少なくとも光一よりは彼の方が食べている。人に指図されるのは嫌いな癖に、わざとらしく顰めた眉と反対に堪え切れず緩んだ口許が彼の心情を物語っていた。
「こんなに食べれんもん、俺。腹壊したらどうすんの」
「そんなもんで壊す訳ないでしょ。……って、何シャーベットに力入れてるんだ俺」
食べさせなければと言う事にばかり意識が向いている事に気付いて、自問自答している。考えるの苦手な癖に。頭を抱える屋良を置いて、素直にシャーベットを受け取った。
「じゃ、頂きますね。うわー、光一君と間接キスだ。どうしよ、俺」
少しだけテンションが上がって(実際に想像するのはやめた。薄桃色の唇に銀色のスプーンが滑り込む映像なんて、身体に悪過ぎる)、光一を見詰めたまま食べる。ひやりとした感触と、オレンジの甘い味。光一と同じ匂いだと思うと嬉しくて、へへと笑ってみた。それはいつも通りのやり取りで、いつも通り流される筈の感情だ。彼を好きな気持ちは本当だけれど、迂闊に本音で迫る事は出来なかった。
けれど次の瞬間、光一はその場に相応しくない表情を見せる。悲しみを堪える痛ましい瞳と、下唇を噛み締める白い歯。どうしたのか分からなくて、ひやりとした。何か彼を悲しませる事をしただろうか。楽しい席で、いつも通りの軽口と一人だけ飲むアルコール。自分に落ち度はなかった筈だ。
「……町田さん」
「っはい!何ですか」
弱い声を恐れて返した言葉は、みっともなくひっくり返ってしまった。情けない。前に座る三人も、どうしたものかと固まっている。光一の周りだけ雰囲気が変わってしまった。困った顔で真正面から見上げられると、どうしたら良いのか分からなくなる。
「俺、ずっと思ってたんやけど」
「はい」
「俺は楽しいからええの。会場盛り上がるし、飲み行っても盛り上がるし。でもな」
「はい」
言いたい事が分からず、素直に返事をした。仕事以外での、特に自分の感情を言うべき場所で彼が要領を得ない喋り方になるのは知っている。内面を言葉にするのが苦手だった。
「そんな無理せんでええよ。せっかくお前も仕事終わってご飯来てるんやからさ」
「……何がですか?」
「え、やから。頑張らんでええって事」
「主語が抜けてます」
「あー、えと」
「はい」
「俺ん事好きなキャラは、舞台の上だけでええよ。ずっとそんなん演じてたら辛いやろ?普通にしててええよ。そやって嬉しい振りしたり緊張したり、お前気ぃ遣い過ぎや。MAが気ぃ遣いなんは知ってるけど、俺と一緒におる間そんなんやと、大変やん」
言われた言葉が瞬時に理解出来なくて、シャーベットを置いた。辛い?気を遣っている?彼が他人の感情に疎いのは知っていた。自分が意識してネタの様に振る舞っているのも自覚している。けれど、これは。
自分の愛情を全て否定された気分だった。光一は自分が人に好かれる人間ではないと思い込んでいる節がある。誰にも愛されない。剛しか愛してくれない。それはほとんど自己暗示だったけれど、だからこそ自分は柔らかく愛情を示して来た筈だ。剛の熱情も秋山の包容力も自分にはなかった。それでも自分が本当に彼を尊敬して、親愛の念よりも少しずれた感情で思っている事を信じて欲しい。裏切られた気分だった。
「俺の今までの言葉、全然信じてなかったんですね……」
怒りよりもショックが強過ぎて、上手く言葉にならない。光一なりの優しさだったのかも知れないが、見当違いだった。人の感情を全然分かっていない。
「町田?」
「俺は、光一君の事が好きです。振りでも何でもなくて、唯好きだから好きって言ってるし、一緒にいたら嬉し過ぎて緊張します。何処にも嘘なんかなかった。演技なんかしてない。俺っ……」
その先は言葉にならなくて、唇を噛んだ。小さい頃から憧れて来た人。手に入らないと知りながらも、愛したいと願った人。大切に捧げて来た思いを否定された気持ちに陥って、席を立つ。これ以上此処にいたら、どうしようもない事を言ってしまいそうで怖かった。信じて貰えないのは分かっていたけれど、それならもっと真剣に愛を告げた方が良かったのかと考えると違う気がする。
「俺、少し頭冷やして来ます」
立ち上がって、席を離れた。日本家屋の作りになっている個室は、部屋を出なくても庭に面した縁側に出る事が出来る。声を掛けて来るスタッフに適当な返事をして、障子を開けた。どの地方に行っても夜はもう冷える。硝子を通して伝わる冷気が縁側になっている廊下を満たしていた。頭を冷やすには丁度良いと一人笑った。打ちのめされた気分のまま、板張りの床に座り込む。何処で間違えたんだろうと、答えのない思考に嵌って行った。
「なあ、あれ。俺のせい?」
「そうです」
「当たり前です」
「言葉が足りない癖に、どうして一言多いんですか」
一斉に責められて、負けた気分になる。この席配置では、自分の分が悪かった。否、席の問題ではないようだ。
あの時からずっと、堂本光一は特別な存在だった。
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地方公演は楽しい。一緒に食事出来るし、一緒の部屋で過ごす事も出来た。今の自分のポジションはなかなか良いと思う。大っぴらに愛の告白は出来るし、じっと見詰めていても不審がられなかった。打ち上げで隣の席を堂々と陣取っても文句を言われない(若干メンバーの嫌な視線は感じるけれど)。光一のバックと言えばMA、と定着しつつあるのも嬉しかった。
唯一つ問題があるとすれば、彼の態度だ。俺のこの気持ちを本気にしてくれない。本音とネタの間にある言葉を笑って流された。あの綺麗な顔で笑まれては、何も出来ない。多分、光一には俺の恋を理解する気がないのだろう。
地方公演の一日目。明日は夜だけだから、と当たり前に打ち上げの店を用意されていた。予約を入れたスタッフによれば「光一さん本人の希望です」との事だ。
今回のツアーは光一の様子が少し可笑しかった。ステージそのものは相変わらず追い込み過ぎだと呆れる位完璧を目指していたが、現場を離れれば途端に甘えた素振りを見せる。一人を好むのが常なのに、一人になりたがらなかった。接触すら厭う人が、他人の体温を欲しがる。
飢えた様な寂しさを持て余している瞳で、甘やかしてくれる場所を探していた。どう言う心境の変化なのか、と言うよりも押さえ込んでいた内面を見せられる様になったのだと思う。別に、これと言った変化はなかったから。
悔しいけれど相変わらず剛君とはラブラブだし、昔に比べれば仕事も自分の意思でこなしている筈だ。きっと、極度の人見知りで他人を信用しない光一君が、やっと俺達に馴染んで来たのだろう。嬉しいと思う気持ちと、素直に甘えられて狼狽える理性が音を立ててせめぎ合っていた。
「光一君、これ食べて下さい。美味しいっすよ」
「いや、もうお腹いっぱい……」
「ビールばっかりじゃないですか!あんなに動いたんだから、もっとしっかり食べないと」
「あ……じゃあ、もずく」
「光ちゃん。もずくで栄養になると思ってんの」
MAの三人に構われて(絡まれて、か)、隣に座る光一は拗ねた表情を見せる。「だって」とか「いらんもん」なんて言葉を口の中で小さく呟いていた。
確かに彼は食べていない。食べるのは好きやないけど、この雰囲気の中にいたいんや。何度となく聞いた言葉が蘇って来た。自分だって彼の小食は心配だけれど(必要な時は、誰よりも厳しいと思う)、三対一の状況では光一に付くのが得策だろう。楽しく此処にいたい、と言う気持ちを優先したかった。
「光一君、シャーベット頼みません?」
なるべく可愛いおねだりを心掛けて、首を少し傾げると明るく問うてみる。この仕草は光一から盗んだものだったけれど。子供の素直さで、膨れていた表情がぱっと全開の笑顔に変わった。
大好きな、花が綻ぶ様な柔らかい表情。ステージを降りても、彼はきらきらした空気を纏わせる。
「それええな。町田も食べる?」
「勿論ですよ。オーダーだってお供します!」
力強く宣言すれば、少し困った顔でこちらを向かれた。水分を多く含んだ黒目がちの瞳にどきりとする。
「お前は、いっつも俺が好きやなあ」
「大好きですよ!いつだって僕は、光一君の味方です」
「うん、知ってる。……たまに怖いけどな」
「それも愛故です」
真顔で答えれば、声を上げて笑われた。一瞬不貞腐れてやろうかとも思ったけれど、せっかく楽しそうに笑っているのだから押し留める。彼が信用しないのは、俺がなるべく言葉を軽い響きで渡しているからだった。臆病なのは仕方ない。勝ち目のない恋なら、良い後輩でいたかった。真っ向勝負をする気もない癖に、光一だけを詰るのはお門違いだ。
「オレンジとゆずとどっちが良いですか?」
「うーん、町田は?」
「俺はどっちも好きなんで」
「そっか。……じゃあ、お前ゆずな。俺、オレンジ」
こんな時だけ先輩らしい居丈高な態度で、勝手に決められる。勿論、それに異論はないから店員を呼んですぐに注文した。光一は皿に取り分けられた唐揚げを食べるともなしに箸で弄っている。
「光一君、全然食べる気ないでしょ」
正面に座る米花は優しく咎めると、箸を持っている白い手の甲を柔らかい仕草で叩いた。言われた事は間違いないので、また唇を尖らせて不貞腐れる。甘えたいのだと、その横顔を見てつくづく思った。一人になりたくないから、構って欲しい。誉められるのは怖いから、叱って欲しい。一足先に大人にならざるを得なかった子供は、今になってやっと愛情を素直に欲する事が出来たのかも知れない。
ずっと押し込めていた衝動。家族には甘やかされて育った印象がある人だから、この世界に入ってどれ程の我慢を重ねたのか。あんな小さい頃に親元を離れるなんて考えられなかった。意地を張って誰にも弱みを見せずに立っていなければ、今の位置まで上り詰める事は出来ない。
十年以上前の大人びた表情が蘇った。「町田は頑張ってるよ」そう言って厳しい目許を少し和らげた。あの時どれ程自分が救われたか。きっと彼には理解出来ないだろう。些細な出来事だった。でも、あの時の気持ちがあるから今の自分がいる。何も知らずに唯バックに付いているだけだったら気付かない彼の優しさ。他人には威嚇とも思える程、張り詰めた空気を見せる人だった。それが自分を守る為の虚勢だと言う事も今なら分かる。注意深く見ていなければ知らなかった事ばかりだ。
あの時から随分と長い時間が経ってしまったけれど、その横顔は多分子供の頃より幼い。無防備に甘えて、傍若無人な振る舞いで我儘を言った。けれど、座っている場所からも分かる様に、誰にでもその表情を晒している訳ではない。光一を囲む席配置は、決して彼の奪い合いの為ではなかった。
新しいスタッフもいて女性ダンサーも舞台等で馴染んだとは言っても、彼の性格から甘える事は出来ない。舞台の上で接触するのは平気なのに、其処から離れると途端に臆病になった。ずっと不思議に思っているのだけれど、光一は少し女性に対して引いている所がある。嫌いとまでは行かないが、不必要に近付かなかった。アイドル故の対策かと考えた事もある。けれど、自分が知る限りこの事務所に所属しているからと言って女性と付き合うのが駄目な訳ではないし、まして友達付き合いを止められた事はなかった。自分にも女性の友人はいるし、今はいないけれど彼女だって勿論作っている。
剛と付き合っているからと言って、光一はゲイではなかった。潔癖な所のある人だから、同性愛は精神的にも拒絶しそうな位だ。許せるのは、剛だからと知っている。そんなに何もかもを許容してしまうのを凄いと思った。長年連れ添ったパートナー。自分には仲間がいるし、グループが違っても仲の良い友達は事務所の中にもいる。一人だと感じた事はなかった。それ以上に、二人きりだと感じる苦痛も知らない。未知の感覚だった。
彼らは幼い頃からずっと二人きりだ。友人も親友もいるけれど、究極の所で言ったら二人だけで生きて来た。誰とも手を繋ぐ事は許されず、それが世界の秩序の様に互いだけを信用している。傍目には美しい愛情だけれど、趣味も嗜好も違う二人が狭い鳥籠で生き抜くのは辛かっただろう。冷めた表情は、全ての感情を押し止めた理性だった。望まなければ絶望を知らずに済むと言う諦念は、忍耐力ではなく唯の苦痛だ。
そうやって生きて来た人が、今隣で笑顔を見せてくれるのは嬉しい。二人きりじゃないと気付いてくれた。自分はずっと光一の背中を見て来たけれど、あの初めて言葉を掛けてくれた時には既に剛と共に生きていたのだ。嫉妬ではなく、自分は一人きりの光一を見た事がないのだとぼんやり思う。たった一人で立っていた頃の彼を想像しようとして失敗した。分からない。今の光一は、剛と歩いて来た道程で形成されて来た。もし一人で生きていたらどうなっていただろう。今とは全然違う人になっただろうと思うけれど、その先が描けない。剛のいない光一。光一のいない剛。どちらも想像を絶していて、形にならなかった。
改めて、堂本光一と言う人格を考えると相方の影響力を思い知らされる。悔しいと少しだけ思って、でもと考え直した。臆病な彼が、一人きりじゃなくて良かった、と。大分長い事一緒に過ごした自分達ですら、やっと光一の領域に入る事が出来たのだ。簡単に心を許さない事は、この世界での処世術だけれど彼は余りに頑なだった。自分達が強引にそして辛抱強く傍にいたから許される関係。言葉すら交わす事の出来なかった人が、今手の届く所にいる。それだけで幸福だと、強欲な自分は思えないけれど。少しだけ神様に感謝したくなった。
「町田ー」
不意に呼ばれて、固まってしまう。気の抜けた呼び方。呂律が怪しいのは、食事もせずにアルコールばかりを運んだせいだった。幼い響きに苦笑して、固まった身体を光一へ向ける。
「はい?」
「もう俺いらんー。食べて」
オーダーしたシャーベットは、自分の手で一瞬でなくなった。こんな小さなデザートすら食べられない光一が本気で心配になる。普段も食べない人だけど、公演中は更に食欲が落ちた。舞台中は話に聞くだけだから、実感が余りなかったのだ。けれど、今回のツアーは一緒にいる時間が長いから彼の生活が見えてしまう。これだけの摂取量で、どうしてあんなに踊れるんだろう。いつか本気で舞台の上で死んでしまいそうで、怖くなる。
「もう少し食べた方が良いっすよ」
屋良がすかさず口を挟んだ。人の事を言える程食べている訳じゃないけれど、少なくとも光一よりは彼の方が食べている。人に指図されるのは嫌いな癖に、わざとらしく顰めた眉と反対に堪え切れず緩んだ口許が彼の心情を物語っていた。
「こんなに食べれんもん、俺。腹壊したらどうすんの」
「そんなもんで壊す訳ないでしょ。……って、何シャーベットに力入れてるんだ俺」
食べさせなければと言う事にばかり意識が向いている事に気付いて、自問自答している。考えるの苦手な癖に。頭を抱える屋良を置いて、素直にシャーベットを受け取った。
「じゃ、頂きますね。うわー、光一君と間接キスだ。どうしよ、俺」
少しだけテンションが上がって(実際に想像するのはやめた。薄桃色の唇に銀色のスプーンが滑り込む映像なんて、身体に悪過ぎる)、光一を見詰めたまま食べる。ひやりとした感触と、オレンジの甘い味。光一と同じ匂いだと思うと嬉しくて、へへと笑ってみた。それはいつも通りのやり取りで、いつも通り流される筈の感情だ。彼を好きな気持ちは本当だけれど、迂闊に本音で迫る事は出来なかった。
けれど次の瞬間、光一はその場に相応しくない表情を見せる。悲しみを堪える痛ましい瞳と、下唇を噛み締める白い歯。どうしたのか分からなくて、ひやりとした。何か彼を悲しませる事をしただろうか。楽しい席で、いつも通りの軽口と一人だけ飲むアルコール。自分に落ち度はなかった筈だ。
「……町田さん」
「っはい!何ですか」
弱い声を恐れて返した言葉は、みっともなくひっくり返ってしまった。情けない。前に座る三人も、どうしたものかと固まっている。光一の周りだけ雰囲気が変わってしまった。困った顔で真正面から見上げられると、どうしたら良いのか分からなくなる。
「俺、ずっと思ってたんやけど」
「はい」
「俺は楽しいからええの。会場盛り上がるし、飲み行っても盛り上がるし。でもな」
「はい」
言いたい事が分からず、素直に返事をした。仕事以外での、特に自分の感情を言うべき場所で彼が要領を得ない喋り方になるのは知っている。内面を言葉にするのが苦手だった。
「そんな無理せんでええよ。せっかくお前も仕事終わってご飯来てるんやからさ」
「……何がですか?」
「え、やから。頑張らんでええって事」
「主語が抜けてます」
「あー、えと」
「はい」
「俺ん事好きなキャラは、舞台の上だけでええよ。ずっとそんなん演じてたら辛いやろ?普通にしててええよ。そやって嬉しい振りしたり緊張したり、お前気ぃ遣い過ぎや。MAが気ぃ遣いなんは知ってるけど、俺と一緒におる間そんなんやと、大変やん」
言われた言葉が瞬時に理解出来なくて、シャーベットを置いた。辛い?気を遣っている?彼が他人の感情に疎いのは知っていた。自分が意識してネタの様に振る舞っているのも自覚している。けれど、これは。
自分の愛情を全て否定された気分だった。光一は自分が人に好かれる人間ではないと思い込んでいる節がある。誰にも愛されない。剛しか愛してくれない。それはほとんど自己暗示だったけれど、だからこそ自分は柔らかく愛情を示して来た筈だ。剛の熱情も秋山の包容力も自分にはなかった。それでも自分が本当に彼を尊敬して、親愛の念よりも少しずれた感情で思っている事を信じて欲しい。裏切られた気分だった。
「俺の今までの言葉、全然信じてなかったんですね……」
怒りよりもショックが強過ぎて、上手く言葉にならない。光一なりの優しさだったのかも知れないが、見当違いだった。人の感情を全然分かっていない。
「町田?」
「俺は、光一君の事が好きです。振りでも何でもなくて、唯好きだから好きって言ってるし、一緒にいたら嬉し過ぎて緊張します。何処にも嘘なんかなかった。演技なんかしてない。俺っ……」
その先は言葉にならなくて、唇を噛んだ。小さい頃から憧れて来た人。手に入らないと知りながらも、愛したいと願った人。大切に捧げて来た思いを否定された気持ちに陥って、席を立つ。これ以上此処にいたら、どうしようもない事を言ってしまいそうで怖かった。信じて貰えないのは分かっていたけれど、それならもっと真剣に愛を告げた方が良かったのかと考えると違う気がする。
「俺、少し頭冷やして来ます」
立ち上がって、席を離れた。日本家屋の作りになっている個室は、部屋を出なくても庭に面した縁側に出る事が出来る。声を掛けて来るスタッフに適当な返事をして、障子を開けた。どの地方に行っても夜はもう冷える。硝子を通して伝わる冷気が縁側になっている廊下を満たしていた。頭を冷やすには丁度良いと一人笑った。打ちのめされた気分のまま、板張りの床に座り込む。何処で間違えたんだろうと、答えのない思考に嵌って行った。
「なあ、あれ。俺のせい?」
「そうです」
「当たり前です」
「言葉が足りない癖に、どうして一言多いんですか」
一斉に責められて、負けた気分になる。この席配置では、自分の分が悪かった。否、席の問題ではないようだ。
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「生まれ変わったら、また出会えるとええね」
剛の夢見がちな台詞を怖がらなくなったのは、いつからだろう。その瞳に俺が映っていない気がして、もっときらきらした何かを見詰めている気がして、いつも怖かった。
そのきらきらはきっと、剛が描いた『堂本光一』の理想像だろうから。
今は怖がらずに、うっとりと細められた瞳を見詰め返す事が出来る。ベッドで腕枕をされたまま、間近にある彼の肌に触れた。
男の身体だった。それに抱かれて安心する自分を、否定する事すらもうしない。けれど、出来る事ならばと思う自分もいた。
「そーやなあ。また会ってもええけど、そん時はどっちかが女やとええね。そしたら幸せやんなあ」
どうせ、何度巡り会っても恋に落ちる運命なのだ。それならば、今度生まれ変わる時は、幸せになりたい。彼を、幸せにしてやりたい。どちらかが女だったら、この恋は正しい物だったのに。
胸に当てた掌から体温が伝わる。彼の温度すら正確に記憶しているこの恋を、否定される事は辛かった。
少しだけ黙り込んだ剛が、困った顔をして手を伸ばす。柔らかい仕草で髪を撫でられた。甘える様に、身体を剛に近付ける。
そうすれば、当たり前みたいに抱き締められた。素肌が触れ合う感触すら馴染んだ物だ。安堵の溜息を零す。
「光ちゃんは、幸せになりたかった?」
腕の中から見上げれば、甘い声の響きとは裏腹な寂しい瞳。深く淀んだ沈黙の黒。彼を悲しませてしまったのかと、反射的に後悔する。
剛の胸に額を寄せて、目を閉じた。自分の何処が痛んでも構わないけれど、彼が悲しいのは嫌だ。
「ちゃうけど、でも……」
「でも?」
言葉の続きを促そうとする指先が、俯いた俺の項を辿る。そのまま素肌を覆う様に、シーツで優しく包まれた。あやす仕草。甘やかす指先。
そっと耳朶に口付けられて、仕方なく口を開いた。掠れた声は、小さく震えている。心の奥にある、怯えた自分だった。
「俺かお前が女やったら、お前は苦しい気持ち抱えんで済んだ」
「……そうやね」
剛は否定しない。苦しんだ彼が過ごした十代を、お互い知り過ぎていた。呼吸を止めそうな位傷付いて泣いて、それでもやめなかった恋。
過ちなのも間違いなのも分かっていて、今もまだ一緒にいる。何もかも自分達が選んだ生き方だった。
「もう後悔なんてしてへんし、今更離れたいなんて言わん。でも、今度があるんなら……」
包まれた腕に縋る。俺達は、何度でも恋をする。輪廻も運命も、本当は信じていないけれど、此処に在る気持ちは本物だ。
否定して逃げ回って、そうして諦めた。この恋は、理性や意志なんかでは消せない。
宿命だった。
「ホントは、お前を幸せにしてやりたい。楽に生きて欲しい」
元々ストレスを抱えやすい繊細な人だった。秘めた恋を心臓で飼うには弱過ぎる。どれ程強く抱き締めても、彼の痛みは変わらなかった。泣き濡れた顔を今でも鮮明に覚えている。
もっと、簡単に生きる方法は幾らでもあった。出会わなければ、剛はこんな崩れそうな笑い方をしなかったと思う。
鼓動の音。彼が生きている証。こうして、傍にいて確かめられる時しか安心出来なかった。別の場所で生きている時、もうこの体温はないのではないかと不安になる。二度と抱き締められないのではないかと、心臓の片隅がいつも凍えていた。
縋った腕を優しく解かれて、そっと指先を絡められる。穏やかな動作だった。
「……俺は、生まれ変わっても男でええよ。幸せやなくても、上手く息出来んくても、お前に会えるならええ。堂本光一が、また一緒に歩いてくれるんなら、俺は良い」
深く笑みを刻んだ気配。その心臓は規則正しいリズムだった。真っ直ぐな言葉が、胸を灼く。
「幸せやなくても良いって、……そんなん」
「あかんか?」
「剛には、幸せになって欲しい」
「俺は、光一を幸せにする気なんてあらへんよ」
それでもええの?問うた声は、暗く淀んでいた。彼の中にある光の届かない暗い場所からの言葉。
未だ一緒に堕ちる事の出来ない、不可侵領域だった。
「俺は、お前が一生罪悪感抱えたまんまやったらええのに、って思う。幸せなんかやなくて、ずっとずっと俺ん事で苦しんでて欲しい。……こんな俺を幸せにしたいなんて、言うな。俺は出来ん」
きつく掻き抱かれて、息が詰まった。乱れた呼吸は、彼の心そのままだ。雁字搦めに縛り付けて、死ぬまで離さないなんて、呪縛の言葉じゃない。
それは、愛の告白だ。
「生まれ変わっても、俺が男でも、また好きになってくれるん?」
「ぉん。何度やって、好きになる」
「……なら、俺らは何度でも一緒になってええんやね?」
「そうや」
力強い肯定と、深い口付けを与えられた。祈りのキスは優しくない。感情の深さを示す乱暴な行為だった。
俺らは、幸福な星の元には生かされていないらしい。何度でも傷付いて、それでも離れる事は出来ないんだろう。
「……つよし」
「ん?」
「好き、や」
「俺らの行く先が何処でも、絶対手放さん」
「死ぬまで、一緒?」
「死んでも一緒や」
嗚呼、やはり彼を幸福にしてやりたい。何処に行けば、俺達はこの痛みを無くす事が出来るのだろう。
優しく眠れる夜なんて、何処にもなかった。
剛の夢見がちな台詞を怖がらなくなったのは、いつからだろう。その瞳に俺が映っていない気がして、もっときらきらした何かを見詰めている気がして、いつも怖かった。
そのきらきらはきっと、剛が描いた『堂本光一』の理想像だろうから。
今は怖がらずに、うっとりと細められた瞳を見詰め返す事が出来る。ベッドで腕枕をされたまま、間近にある彼の肌に触れた。
男の身体だった。それに抱かれて安心する自分を、否定する事すらもうしない。けれど、出来る事ならばと思う自分もいた。
「そーやなあ。また会ってもええけど、そん時はどっちかが女やとええね。そしたら幸せやんなあ」
どうせ、何度巡り会っても恋に落ちる運命なのだ。それならば、今度生まれ変わる時は、幸せになりたい。彼を、幸せにしてやりたい。どちらかが女だったら、この恋は正しい物だったのに。
胸に当てた掌から体温が伝わる。彼の温度すら正確に記憶しているこの恋を、否定される事は辛かった。
少しだけ黙り込んだ剛が、困った顔をして手を伸ばす。柔らかい仕草で髪を撫でられた。甘える様に、身体を剛に近付ける。
そうすれば、当たり前みたいに抱き締められた。素肌が触れ合う感触すら馴染んだ物だ。安堵の溜息を零す。
「光ちゃんは、幸せになりたかった?」
腕の中から見上げれば、甘い声の響きとは裏腹な寂しい瞳。深く淀んだ沈黙の黒。彼を悲しませてしまったのかと、反射的に後悔する。
剛の胸に額を寄せて、目を閉じた。自分の何処が痛んでも構わないけれど、彼が悲しいのは嫌だ。
「ちゃうけど、でも……」
「でも?」
言葉の続きを促そうとする指先が、俯いた俺の項を辿る。そのまま素肌を覆う様に、シーツで優しく包まれた。あやす仕草。甘やかす指先。
そっと耳朶に口付けられて、仕方なく口を開いた。掠れた声は、小さく震えている。心の奥にある、怯えた自分だった。
「俺かお前が女やったら、お前は苦しい気持ち抱えんで済んだ」
「……そうやね」
剛は否定しない。苦しんだ彼が過ごした十代を、お互い知り過ぎていた。呼吸を止めそうな位傷付いて泣いて、それでもやめなかった恋。
過ちなのも間違いなのも分かっていて、今もまだ一緒にいる。何もかも自分達が選んだ生き方だった。
「もう後悔なんてしてへんし、今更離れたいなんて言わん。でも、今度があるんなら……」
包まれた腕に縋る。俺達は、何度でも恋をする。輪廻も運命も、本当は信じていないけれど、此処に在る気持ちは本物だ。
否定して逃げ回って、そうして諦めた。この恋は、理性や意志なんかでは消せない。
宿命だった。
「ホントは、お前を幸せにしてやりたい。楽に生きて欲しい」
元々ストレスを抱えやすい繊細な人だった。秘めた恋を心臓で飼うには弱過ぎる。どれ程強く抱き締めても、彼の痛みは変わらなかった。泣き濡れた顔を今でも鮮明に覚えている。
もっと、簡単に生きる方法は幾らでもあった。出会わなければ、剛はこんな崩れそうな笑い方をしなかったと思う。
鼓動の音。彼が生きている証。こうして、傍にいて確かめられる時しか安心出来なかった。別の場所で生きている時、もうこの体温はないのではないかと不安になる。二度と抱き締められないのではないかと、心臓の片隅がいつも凍えていた。
縋った腕を優しく解かれて、そっと指先を絡められる。穏やかな動作だった。
「……俺は、生まれ変わっても男でええよ。幸せやなくても、上手く息出来んくても、お前に会えるならええ。堂本光一が、また一緒に歩いてくれるんなら、俺は良い」
深く笑みを刻んだ気配。その心臓は規則正しいリズムだった。真っ直ぐな言葉が、胸を灼く。
「幸せやなくても良いって、……そんなん」
「あかんか?」
「剛には、幸せになって欲しい」
「俺は、光一を幸せにする気なんてあらへんよ」
それでもええの?問うた声は、暗く淀んでいた。彼の中にある光の届かない暗い場所からの言葉。
未だ一緒に堕ちる事の出来ない、不可侵領域だった。
「俺は、お前が一生罪悪感抱えたまんまやったらええのに、って思う。幸せなんかやなくて、ずっとずっと俺ん事で苦しんでて欲しい。……こんな俺を幸せにしたいなんて、言うな。俺は出来ん」
きつく掻き抱かれて、息が詰まった。乱れた呼吸は、彼の心そのままだ。雁字搦めに縛り付けて、死ぬまで離さないなんて、呪縛の言葉じゃない。
それは、愛の告白だ。
「生まれ変わっても、俺が男でも、また好きになってくれるん?」
「ぉん。何度やって、好きになる」
「……なら、俺らは何度でも一緒になってええんやね?」
「そうや」
力強い肯定と、深い口付けを与えられた。祈りのキスは優しくない。感情の深さを示す乱暴な行為だった。
俺らは、幸福な星の元には生かされていないらしい。何度でも傷付いて、それでも離れる事は出来ないんだろう。
「……つよし」
「ん?」
「好き、や」
「俺らの行く先が何処でも、絶対手放さん」
「死ぬまで、一緒?」
「死んでも一緒や」
嗚呼、やはり彼を幸福にしてやりたい。何処に行けば、俺達はこの痛みを無くす事が出来るのだろう。
優しく眠れる夜なんて、何処にもなかった。
なあ、剛。俺、思うんよ。
毎日仕事して、帰ってご飯食べて眠って、時々お酒を飲んで。永遠に続きそうな日々の積み重ねをたった一人で繰り返して行く事はとても簡単なのに。どうして、その毎日に剛が必要なんだろうって。
勿論仕事をする上で、「相方」として単純に必要だとは思う。けれど、呼吸をする為に生き続ける為に、自分には剛が必要だった。その意味を、お前は知っているだろうか。
+++++
日付が十日に変わった深夜、光一はこっそり恋人の家に忍び込んだ。侵入者に気付いたケンシロウが近付いて来たけれど、心得ているとばかりに鳴く事はない。足元に擦り寄って来る柔らかい毛並を撫でると、真っ直ぐ寝室に向かった。
連絡はしていない。きっと来る事は分かっているだろうし、せっかくの誕生日に気を遣わせたくなかった。
静かに扉を開けて寝室に滑り込む。家で風呂には入って来たし現場で夕食も摂ったから、後はもう寝るだけだった。
いつでも少しだけ空いているスペースに(剛は右側を、自分は左側を空けて眠るらしい。全く厄介なものだ)潜り込む。剛の体温で温まった布団の中は心地良かった。冷えてしまった身体を擦り寄せる。
闇に慣れた目で剛の寝顔を見詰めた。子供の様に無心なその表情は幸せな、とまではいかないが安心して眠れている様だ。
顔に掛かった前髪を冷たい指先で掬い上げた。剛が此処に在る奇跡に感謝する儀式。誕生日の夜にひっそり行う様は、さながら敬虔なクリスチャンだ。
彼がその生に感謝出来ないと言うのなら、自分がその分もその何倍も喜んでやろうと思った。堂本剛と言う存在がこの世に生を受け、今日まで自分の隣で生きて来たこの事実。離れずに離さずに縋り付いて来た自分の我執は胸の奥に仕舞い込んで。
二十六歳になった彼は、昨日と何も変わらない。二十五歳の最後に交わした言葉はいつも通り「お疲れ」だった。日付を境に何かが変わるなんて期待するのは、寧ろ剛の方だ。
それでも一つ年を重ねた恋人が、もっとずっと愛しいと思う。彼への思いは、日々を生きる中で呼吸をする事と同義だった。
この思いがなければ生きて行けない。否、生きては行けるだろうけど、それは文字通り「生きる」だけだった。
剛を愛し続ける事。虚構だらけのこの世界で、たった一つの真実だった。彼が好きだと思う。凄く。
目を閉じて、祈る。その生が自分と共に在る様に。剛が早く、自分の生を愛せる様に。
大好きだと、簡単には告げられない自分だけど。いつもいつも、心から思っていた。
愛してる。愛してる。愛してる。
心拍の度に、呼吸の度に、ずっと。唯ひたすら。俺にはそれしか出来ないから。剛を彼自身の闇から救い出す術は今でも分からなかった。
いつの間にか彼の中に巣食っていた黒い塊に、自分の事ばかりで精一杯だった俺は気付かなかった。知った時にはもう、手遅れで。それは既に彼の一部と化してしまったのだ。十代の剛は、ずっと闇の中で生きていた。
俺が泣いても叫んでも必死で腕を伸ばしても届かない。深い心の底は、見通せなかった。剛の声は返って来ない。
あれから幾度の春秋を経て、いつの間にか彼は自分の隣に帰って来ていた。本当に、ひょっこりと。何でもない顔で「ごめんな」なんて笑いながら。
二十歳を過ぎてから少しの間は、平穏な日々が続いた。剛は良く笑ったし、手を伸ばせばしっかりと握り返してくれる。ささやかで幸福な日常が自分のものだと錯覚しかけた頃。
剛の闇は呆気なく彼を連れ戻してしまった。どちらかと言えば、心の奥底に押し込んでいた塊が再浮上してしまった素振りで。まるで躁鬱の様に、彼は喜怒哀楽が激しくなった。十代の頃の後悔を繰り返さない為に、それはもう必死になって剛を引き留めた。
抜け出せない心地良い闇と、目の眩む一条の光と。今も剛は両極の世界を彷徨っている。
眠る彼の表情は穏やかだ。せめて今日位、光の中で生きて欲しかった。ささやかで我儘な願いが叶えられると良い。
瞼にキスをして、最後の祈りを捧げた。
剛が、好きです。だから神様、どうか。剛の隣を俺に下さい。彼が欲しいだなんて、もう言いません。
その心を狂った様に欲した自分も未だ心の深い所にいるのだけれど。剛の幸せを願いながら、身勝手な祈りを捧げる自分は誰よりも罪深い。
死んだ後、地獄に行ったって構わないから、だから。せめて、この地上では共に生かして下さい。
心拍の度に、呼吸の度に、瞬きの瞬間にすら、愛を囁いて。こんなにも剛を必要としている人間は、この世で唯一人自分だけだと思う。
なあ、剛。朝目覚めたら誰よりも先に俺をその瞳に映して。世界中で一番初めに俺を見詰めて。俺に気付いて。
そうしたら「おめでとう」って笑うから。何の事か分からないなんて表情を見せる貴方にキスをして。祝う意味を知って。
二十四時間祝い続ける事なんて自分には出来ないから、朝の一時だけ貴方の為に祈らせて欲しい。そしたらもう、次の瞬間にはいつも通り「おはよう」って言うよ。
いつか剛が気付くまで、ずっと。その生を祝福し続けるよ。
剛を取り巻く全てに。
おめでとう。
毎日仕事して、帰ってご飯食べて眠って、時々お酒を飲んで。永遠に続きそうな日々の積み重ねをたった一人で繰り返して行く事はとても簡単なのに。どうして、その毎日に剛が必要なんだろうって。
勿論仕事をする上で、「相方」として単純に必要だとは思う。けれど、呼吸をする為に生き続ける為に、自分には剛が必要だった。その意味を、お前は知っているだろうか。
+++++
日付が十日に変わった深夜、光一はこっそり恋人の家に忍び込んだ。侵入者に気付いたケンシロウが近付いて来たけれど、心得ているとばかりに鳴く事はない。足元に擦り寄って来る柔らかい毛並を撫でると、真っ直ぐ寝室に向かった。
連絡はしていない。きっと来る事は分かっているだろうし、せっかくの誕生日に気を遣わせたくなかった。
静かに扉を開けて寝室に滑り込む。家で風呂には入って来たし現場で夕食も摂ったから、後はもう寝るだけだった。
いつでも少しだけ空いているスペースに(剛は右側を、自分は左側を空けて眠るらしい。全く厄介なものだ)潜り込む。剛の体温で温まった布団の中は心地良かった。冷えてしまった身体を擦り寄せる。
闇に慣れた目で剛の寝顔を見詰めた。子供の様に無心なその表情は幸せな、とまではいかないが安心して眠れている様だ。
顔に掛かった前髪を冷たい指先で掬い上げた。剛が此処に在る奇跡に感謝する儀式。誕生日の夜にひっそり行う様は、さながら敬虔なクリスチャンだ。
彼がその生に感謝出来ないと言うのなら、自分がその分もその何倍も喜んでやろうと思った。堂本剛と言う存在がこの世に生を受け、今日まで自分の隣で生きて来たこの事実。離れずに離さずに縋り付いて来た自分の我執は胸の奥に仕舞い込んで。
二十六歳になった彼は、昨日と何も変わらない。二十五歳の最後に交わした言葉はいつも通り「お疲れ」だった。日付を境に何かが変わるなんて期待するのは、寧ろ剛の方だ。
それでも一つ年を重ねた恋人が、もっとずっと愛しいと思う。彼への思いは、日々を生きる中で呼吸をする事と同義だった。
この思いがなければ生きて行けない。否、生きては行けるだろうけど、それは文字通り「生きる」だけだった。
剛を愛し続ける事。虚構だらけのこの世界で、たった一つの真実だった。彼が好きだと思う。凄く。
目を閉じて、祈る。その生が自分と共に在る様に。剛が早く、自分の生を愛せる様に。
大好きだと、簡単には告げられない自分だけど。いつもいつも、心から思っていた。
愛してる。愛してる。愛してる。
心拍の度に、呼吸の度に、ずっと。唯ひたすら。俺にはそれしか出来ないから。剛を彼自身の闇から救い出す術は今でも分からなかった。
いつの間にか彼の中に巣食っていた黒い塊に、自分の事ばかりで精一杯だった俺は気付かなかった。知った時にはもう、手遅れで。それは既に彼の一部と化してしまったのだ。十代の剛は、ずっと闇の中で生きていた。
俺が泣いても叫んでも必死で腕を伸ばしても届かない。深い心の底は、見通せなかった。剛の声は返って来ない。
あれから幾度の春秋を経て、いつの間にか彼は自分の隣に帰って来ていた。本当に、ひょっこりと。何でもない顔で「ごめんな」なんて笑いながら。
二十歳を過ぎてから少しの間は、平穏な日々が続いた。剛は良く笑ったし、手を伸ばせばしっかりと握り返してくれる。ささやかで幸福な日常が自分のものだと錯覚しかけた頃。
剛の闇は呆気なく彼を連れ戻してしまった。どちらかと言えば、心の奥底に押し込んでいた塊が再浮上してしまった素振りで。まるで躁鬱の様に、彼は喜怒哀楽が激しくなった。十代の頃の後悔を繰り返さない為に、それはもう必死になって剛を引き留めた。
抜け出せない心地良い闇と、目の眩む一条の光と。今も剛は両極の世界を彷徨っている。
眠る彼の表情は穏やかだ。せめて今日位、光の中で生きて欲しかった。ささやかで我儘な願いが叶えられると良い。
瞼にキスをして、最後の祈りを捧げた。
剛が、好きです。だから神様、どうか。剛の隣を俺に下さい。彼が欲しいだなんて、もう言いません。
その心を狂った様に欲した自分も未だ心の深い所にいるのだけれど。剛の幸せを願いながら、身勝手な祈りを捧げる自分は誰よりも罪深い。
死んだ後、地獄に行ったって構わないから、だから。せめて、この地上では共に生かして下さい。
心拍の度に、呼吸の度に、瞬きの瞬間にすら、愛を囁いて。こんなにも剛を必要としている人間は、この世で唯一人自分だけだと思う。
なあ、剛。朝目覚めたら誰よりも先に俺をその瞳に映して。世界中で一番初めに俺を見詰めて。俺に気付いて。
そうしたら「おめでとう」って笑うから。何の事か分からないなんて表情を見せる貴方にキスをして。祝う意味を知って。
二十四時間祝い続ける事なんて自分には出来ないから、朝の一時だけ貴方の為に祈らせて欲しい。そしたらもう、次の瞬間にはいつも通り「おはよう」って言うよ。
いつか剛が気付くまで、ずっと。その生を祝福し続けるよ。
剛を取り巻く全てに。
おめでとう。
まだ、光一の笑顔が特定の人にしか向けられなかった頃。恐らく、その花の様な笑顔を自分が一番見ていただろう。
少しの優越感の下で、まだ認めたくない恋心を抱いていた。もう、この気持ちに抗う事など出来ないと知りながら。
「つよ?もうやらんの」
ダンスの練習を休憩していた剛の所へ、頭にタオルを被った光一が近付いて来た。流れる汗の滴と顔に張り付いた長い髪が、やけに色っぽい。
「も、帰るか?」
練習等、とっくに終わっている。誰もいなくなってから練習をし直す光一と、それに付き合う剛の姿を知っている者は、ほとんどいないだろう。
「光ちゃんの気が済むまで、やったらええよ。俺此処におるし」
剛の言葉にふうわり笑って、光一がタオルを外した。一つ一つの仕草が可愛くて、普段見せているクールな印象等何処にもない。年上の男に抱く感情ではないと思ったが、つられるように剛も笑みを返す。
「帰ろ」
単語だけで告げられる言葉。
「腹も減ったし。明日は、帰らなあかんしな」
「何やねんなあ。もっとやってたいんやろ。俺見とるから、練習したらええねん」
光一を見ている事は飽きないから、苦痛にはならないのだ。
「ん、でもいい。帰りとうなった」
帰りたいと言うのが本当かどうかは分からなかったけれど、さっさと帰りの仕度を始めてしまう。バッグに荷物を詰め込んで、光一が立ち上がった。
「……光ちゃん。ジャージのまま帰るんか?」
「ええやろ?帰るだけなんやし」
光一は自身の容姿にひたすら無頓着で、どうすれば自分が映えるのかを知らない。勿体無いとは思うが、彼のそんな所も魅力の一つなんだろう。
「まあ、ええわ。帰ろか」
「うん」
レッスン室の電気を消して時計を見ると、十時を回っていた。腹も減る訳だと剛が一人納得していたら、向こうから誰か歩いて来るのが見えた。
人見知りの剛は、その姿を見て拒絶反応を起こしそうになる。しかし、それ以上に体を強張らせて他人を拒絶する光一の体が後ろに回りこんで来たから、しっかりしなければと言う気持ちの方が、人見知りする気持ちよりも勝ってしまった。
光一と二人だけの時に人に会った場合、剛は自分の緊張等お構いなしになってしまう。
「お疲れ様でした」
挨拶は基本中の基本だと、散々教え込まれていた。
「お疲れさん。こんな遅くまで練習してるの?熱心なんだねえ」
「はあ」
上手く返答が返せないのは、仕方がない。
「もしかして、関西から来た二人組って君らの事?」
「多分そうですけど……」
気さくな人らしく立ち止まって話をしてくれているのだが、剛としては非常に不本意だった。
(早よ、行ってくれや……)
それでもどうにか会話を続けられているのは、なかなか成長したと自分で思う。しかし、隣に立っている光一が、俯きかけたまま動けないでいた。この世界に入って、彼も大分人見知りをしなくなったのだが、まだ突発的に会った人にはぎこちなくなってしまう。
「そっちの子、疲れちゃってるんじゃない?」
やっと光一の様子に気付いて、話を切り上げてくれた。
「ごめんね、話なんかしちゃって。気を付けて帰りなさいね」
「はい、ほな失礼します」
「……お疲れ様でした」
光一がやっと聞き取れる位の声で、挨拶をした。
「じゃあねー」
元気に挨拶をしてくれたが、剛は光一を連れてエレベーターへと急いだ。
「すまんな」
申し訳なさそうに光一が呟いた。
「ええって、気にせんとき。辛い時はお互い様やん。たまにはこんな光ちゃんもええしな」
頭をポンポンと軽く叩く。エレベーターに乗り込んでも俯いたままの光一が、ぽつりと言った。
「俺、剛大好きやなあ」
その言葉に他意がないのは、充分分かっている。それでも、嬉しくなる自分を感じながら、剛は光一を抱き締めた。
「俺も大好きやー」
「おい、つよっ。抱き着くなって。俺、汗臭い」
「光ちゃん、ええ匂いするで?」
「だあっ。匂いかぐなあ、阿呆っ」
思い切り抱き締めて、告白をする。この鈍感な人に届かないのは、分かり切っている事だから気にしない。本当に彼は、良い匂いがした。くらくらする。
(俺って、変態やんなあ)
髪の毛に顔を埋めると、いつものシャンプーの匂い。湿った髪が、鼻先をくすぐる。光一の背中を撫でてから、離れた。
「大好きやで」
念を押す様にもう一度、目を見ながら告げる。隠された気持ちはまだ包み込んで、優しさだけが届く様に。
「うん、知っとるよ」
何て、綺麗に笑うのだろう。心を許した者だけに見せる、花の笑顔。想いが伝わらなくても、この笑顔を見ていられるのなら良いと思う。自分にだけ向けられた表情は、何物にも代え難い宝物だった。
「つーよし?着いたで」
固まってしまった剛の顔を覗き込みながら、足取り軽く光一が降りる。
「行ってまうよ?」
まだ動かない彼の為に、エレベーターのボタンを押しておく。半秒後、我に返ったかのように剛が降りた。
「光一」
「ん?」
建物を出て、街灯だけが明るい道を二人で歩く。肩を並べて隣を歩くこの人に、何と言えば伝わるだろう。幸せだと告げれば良いのだろうが、それだけでは余りにも足りない。言葉では言い尽くせない想いを、どうすれば分かってもらえるのか。
光一が大切だと、過不足なく伝えられる方法を自分は知らない。
続くだろうと思っていた言葉が来ないでいるのを不思議そうに見ている人。首を傾げながらもじっと待っている光一の髪を緩く掴んで、立ち止まる。表せない想いを言葉を、この人ならどう言うだろう。
「あのな」
「うん」
街灯に照らされて、淡い印象が儚さを増す。
「どうすればええ?」
「何が?」
困らせるのを分かっているのに、それでも伝えたかった。恋じゃなくても良いから、光一への愛情をどうすれば。
「分からんねん」
「うん」
「此処にな、言いたい事はあんねん。でも、どうしたらええんか分からん」
心臓の辺りに手を当てて言う。
「光一に言いたい気持ちはあるのに、どうしたら伝えられるか分からんのや」
視界が滲んだと思ったら、すぐに涙が零れた。光一が大切で、光一と一緒にいられる時間が幸せなのに、どうして涙が止まらないんだろう。
「っく、……ひっく」
しゃくりを上げて泣く剛に困った顔も見せず、光一は微笑む。
「剛はきっと知っとるよ。俺にどうすれば伝わるのか」
自信に溢れた言い方の根拠が、何処にあるのかは分からない。光一自身、はっきりとした理由には思い当たらなかったが、自分の心には確かに彼から伝染している気持ちがあった。
「剛、しゃがんでみ」
変わった事を言うのは今に始まった事じゃないし、今の自分をどう扱ったら良いのかも分からなかったから、言われるままに歩道の真ん中でしゃがんだ。
「これ、通行人にメッチャ迷惑やないか?」
「大丈夫やって。時間ももう遅いねんから」
光一は、見上げて来る剛の前に膝立ちで座る。目線が合わないと思っていたら、ぎゅっと抱き締められた。
「光ちゃん?」
「ホントは立ったままで出来たらええんやけど、タッパが足りひんからなあ」
上から降って来る声は優しくて、また涙が零れた。聞こえるのは、静かな鼓動。少しだけ、くすぐったい。
「な、剛。お前はきっと難しく考え過ぎなんやって。もっと楽にしてみ」
光一の背中に手を回した。
「俺な、きっと分かってるんやと思うよ。剛の伝えたい事」
「ホンマに分かるんか?」
「何や、その言い方。他の人のは絶対分からんけど、剛やったら分かる自信ある」
時々、彼は素直に自分との繋がりを強調する事がある。呆気無い程簡単に紡がれる言葉は、容易く剛の心に届いた。
こうすれば良いのだと。言葉にし切れなかった思いをお互いにきちんと汲めるのだから、もっと単純に思えば良い。
「何かな、心がふわふわするねん。光一といると光が差し込んだみたいになる」
「うん。分かるよ」
光一は、きっと本当に分かっている。
「お前がおるだけでええねん。光一の隣にいたい。光一がいないと、暗なんねん。周りが全部」
「うん」
慎重に頷かれる。回された腕が微かに震えた。
「光一がおらんと嬉しゅうない。光一がおらんと、生きて行けへんのやないか思うわ」
「大袈裟やなあ」
そう言って笑い飛ばすけれど、耳に響く鼓動が、しっかり伝わっている事を教えてくれる。
「好きじゃ、足りひん」
「うん」
「俺には、光一だけが必要なんや」
「プロポーズやん、それ」
軽く笑う。
「やって、そおやもん。光一と一生一緒にいたいんや」
「恥ずかしいやっちゃなあ」
「光ちゃんは、嫌か?」
下から光一の表情を窺うと、照れた様にはにかんでいるのが見えた。
「嫌ちゃうよ。俺はな、つよといると、暖ったかなる。俺も剛がおらんと駄目になる思うわ」
「ホンマに?」
光一の言葉を受けて、目線を合わせるべく膝立ちになった。肩に手を置いて、額をくっ付ける。誰も通らない静けさに、本当に自分には剛だけが必要なんだと思ってしまう。そんな事、あってはならないのに。
錯覚しそうな心を押さえようと、光一は目を閉じた。
「光一、今幸せ?」
「ん」
「俺といるから?」
「そおやな」
「ふふ」
一方的ではない気持ちを確認して、それでも収まらない心に押されるように、彼の額にキスをした。
「なっ、何すんねん!」
「誓約の儀式」
「阿呆かっ」
真っ赤になってしまった光一の手を取って、帰り路に促す。
「ずーっと、一緒やで」
満足げに笑う剛と、光一の想いが少しずつずれていたとしても、幸せだと感じるのは同じだった。いつか、この鮮やかな笑顔を独占したくなる日が来るだろう。彼が傷つく事を分かっていても、止められない想いが溢れ出す予感を剛は感じていた。
二人の関係がいつまでも同じではない事に、光一は気付かない。それでもいつかが来るまでは、一番近くでこの笑顔を守っていよう。
肩を並べて歩く人を、もう一度見詰め直した。
少しの優越感の下で、まだ認めたくない恋心を抱いていた。もう、この気持ちに抗う事など出来ないと知りながら。
「つよ?もうやらんの」
ダンスの練習を休憩していた剛の所へ、頭にタオルを被った光一が近付いて来た。流れる汗の滴と顔に張り付いた長い髪が、やけに色っぽい。
「も、帰るか?」
練習等、とっくに終わっている。誰もいなくなってから練習をし直す光一と、それに付き合う剛の姿を知っている者は、ほとんどいないだろう。
「光ちゃんの気が済むまで、やったらええよ。俺此処におるし」
剛の言葉にふうわり笑って、光一がタオルを外した。一つ一つの仕草が可愛くて、普段見せているクールな印象等何処にもない。年上の男に抱く感情ではないと思ったが、つられるように剛も笑みを返す。
「帰ろ」
単語だけで告げられる言葉。
「腹も減ったし。明日は、帰らなあかんしな」
「何やねんなあ。もっとやってたいんやろ。俺見とるから、練習したらええねん」
光一を見ている事は飽きないから、苦痛にはならないのだ。
「ん、でもいい。帰りとうなった」
帰りたいと言うのが本当かどうかは分からなかったけれど、さっさと帰りの仕度を始めてしまう。バッグに荷物を詰め込んで、光一が立ち上がった。
「……光ちゃん。ジャージのまま帰るんか?」
「ええやろ?帰るだけなんやし」
光一は自身の容姿にひたすら無頓着で、どうすれば自分が映えるのかを知らない。勿体無いとは思うが、彼のそんな所も魅力の一つなんだろう。
「まあ、ええわ。帰ろか」
「うん」
レッスン室の電気を消して時計を見ると、十時を回っていた。腹も減る訳だと剛が一人納得していたら、向こうから誰か歩いて来るのが見えた。
人見知りの剛は、その姿を見て拒絶反応を起こしそうになる。しかし、それ以上に体を強張らせて他人を拒絶する光一の体が後ろに回りこんで来たから、しっかりしなければと言う気持ちの方が、人見知りする気持ちよりも勝ってしまった。
光一と二人だけの時に人に会った場合、剛は自分の緊張等お構いなしになってしまう。
「お疲れ様でした」
挨拶は基本中の基本だと、散々教え込まれていた。
「お疲れさん。こんな遅くまで練習してるの?熱心なんだねえ」
「はあ」
上手く返答が返せないのは、仕方がない。
「もしかして、関西から来た二人組って君らの事?」
「多分そうですけど……」
気さくな人らしく立ち止まって話をしてくれているのだが、剛としては非常に不本意だった。
(早よ、行ってくれや……)
それでもどうにか会話を続けられているのは、なかなか成長したと自分で思う。しかし、隣に立っている光一が、俯きかけたまま動けないでいた。この世界に入って、彼も大分人見知りをしなくなったのだが、まだ突発的に会った人にはぎこちなくなってしまう。
「そっちの子、疲れちゃってるんじゃない?」
やっと光一の様子に気付いて、話を切り上げてくれた。
「ごめんね、話なんかしちゃって。気を付けて帰りなさいね」
「はい、ほな失礼します」
「……お疲れ様でした」
光一がやっと聞き取れる位の声で、挨拶をした。
「じゃあねー」
元気に挨拶をしてくれたが、剛は光一を連れてエレベーターへと急いだ。
「すまんな」
申し訳なさそうに光一が呟いた。
「ええって、気にせんとき。辛い時はお互い様やん。たまにはこんな光ちゃんもええしな」
頭をポンポンと軽く叩く。エレベーターに乗り込んでも俯いたままの光一が、ぽつりと言った。
「俺、剛大好きやなあ」
その言葉に他意がないのは、充分分かっている。それでも、嬉しくなる自分を感じながら、剛は光一を抱き締めた。
「俺も大好きやー」
「おい、つよっ。抱き着くなって。俺、汗臭い」
「光ちゃん、ええ匂いするで?」
「だあっ。匂いかぐなあ、阿呆っ」
思い切り抱き締めて、告白をする。この鈍感な人に届かないのは、分かり切っている事だから気にしない。本当に彼は、良い匂いがした。くらくらする。
(俺って、変態やんなあ)
髪の毛に顔を埋めると、いつものシャンプーの匂い。湿った髪が、鼻先をくすぐる。光一の背中を撫でてから、離れた。
「大好きやで」
念を押す様にもう一度、目を見ながら告げる。隠された気持ちはまだ包み込んで、優しさだけが届く様に。
「うん、知っとるよ」
何て、綺麗に笑うのだろう。心を許した者だけに見せる、花の笑顔。想いが伝わらなくても、この笑顔を見ていられるのなら良いと思う。自分にだけ向けられた表情は、何物にも代え難い宝物だった。
「つーよし?着いたで」
固まってしまった剛の顔を覗き込みながら、足取り軽く光一が降りる。
「行ってまうよ?」
まだ動かない彼の為に、エレベーターのボタンを押しておく。半秒後、我に返ったかのように剛が降りた。
「光一」
「ん?」
建物を出て、街灯だけが明るい道を二人で歩く。肩を並べて隣を歩くこの人に、何と言えば伝わるだろう。幸せだと告げれば良いのだろうが、それだけでは余りにも足りない。言葉では言い尽くせない想いを、どうすれば分かってもらえるのか。
光一が大切だと、過不足なく伝えられる方法を自分は知らない。
続くだろうと思っていた言葉が来ないでいるのを不思議そうに見ている人。首を傾げながらもじっと待っている光一の髪を緩く掴んで、立ち止まる。表せない想いを言葉を、この人ならどう言うだろう。
「あのな」
「うん」
街灯に照らされて、淡い印象が儚さを増す。
「どうすればええ?」
「何が?」
困らせるのを分かっているのに、それでも伝えたかった。恋じゃなくても良いから、光一への愛情をどうすれば。
「分からんねん」
「うん」
「此処にな、言いたい事はあんねん。でも、どうしたらええんか分からん」
心臓の辺りに手を当てて言う。
「光一に言いたい気持ちはあるのに、どうしたら伝えられるか分からんのや」
視界が滲んだと思ったら、すぐに涙が零れた。光一が大切で、光一と一緒にいられる時間が幸せなのに、どうして涙が止まらないんだろう。
「っく、……ひっく」
しゃくりを上げて泣く剛に困った顔も見せず、光一は微笑む。
「剛はきっと知っとるよ。俺にどうすれば伝わるのか」
自信に溢れた言い方の根拠が、何処にあるのかは分からない。光一自身、はっきりとした理由には思い当たらなかったが、自分の心には確かに彼から伝染している気持ちがあった。
「剛、しゃがんでみ」
変わった事を言うのは今に始まった事じゃないし、今の自分をどう扱ったら良いのかも分からなかったから、言われるままに歩道の真ん中でしゃがんだ。
「これ、通行人にメッチャ迷惑やないか?」
「大丈夫やって。時間ももう遅いねんから」
光一は、見上げて来る剛の前に膝立ちで座る。目線が合わないと思っていたら、ぎゅっと抱き締められた。
「光ちゃん?」
「ホントは立ったままで出来たらええんやけど、タッパが足りひんからなあ」
上から降って来る声は優しくて、また涙が零れた。聞こえるのは、静かな鼓動。少しだけ、くすぐったい。
「な、剛。お前はきっと難しく考え過ぎなんやって。もっと楽にしてみ」
光一の背中に手を回した。
「俺な、きっと分かってるんやと思うよ。剛の伝えたい事」
「ホンマに分かるんか?」
「何や、その言い方。他の人のは絶対分からんけど、剛やったら分かる自信ある」
時々、彼は素直に自分との繋がりを強調する事がある。呆気無い程簡単に紡がれる言葉は、容易く剛の心に届いた。
こうすれば良いのだと。言葉にし切れなかった思いをお互いにきちんと汲めるのだから、もっと単純に思えば良い。
「何かな、心がふわふわするねん。光一といると光が差し込んだみたいになる」
「うん。分かるよ」
光一は、きっと本当に分かっている。
「お前がおるだけでええねん。光一の隣にいたい。光一がいないと、暗なんねん。周りが全部」
「うん」
慎重に頷かれる。回された腕が微かに震えた。
「光一がおらんと嬉しゅうない。光一がおらんと、生きて行けへんのやないか思うわ」
「大袈裟やなあ」
そう言って笑い飛ばすけれど、耳に響く鼓動が、しっかり伝わっている事を教えてくれる。
「好きじゃ、足りひん」
「うん」
「俺には、光一だけが必要なんや」
「プロポーズやん、それ」
軽く笑う。
「やって、そおやもん。光一と一生一緒にいたいんや」
「恥ずかしいやっちゃなあ」
「光ちゃんは、嫌か?」
下から光一の表情を窺うと、照れた様にはにかんでいるのが見えた。
「嫌ちゃうよ。俺はな、つよといると、暖ったかなる。俺も剛がおらんと駄目になる思うわ」
「ホンマに?」
光一の言葉を受けて、目線を合わせるべく膝立ちになった。肩に手を置いて、額をくっ付ける。誰も通らない静けさに、本当に自分には剛だけが必要なんだと思ってしまう。そんな事、あってはならないのに。
錯覚しそうな心を押さえようと、光一は目を閉じた。
「光一、今幸せ?」
「ん」
「俺といるから?」
「そおやな」
「ふふ」
一方的ではない気持ちを確認して、それでも収まらない心に押されるように、彼の額にキスをした。
「なっ、何すんねん!」
「誓約の儀式」
「阿呆かっ」
真っ赤になってしまった光一の手を取って、帰り路に促す。
「ずーっと、一緒やで」
満足げに笑う剛と、光一の想いが少しずつずれていたとしても、幸せだと感じるのは同じだった。いつか、この鮮やかな笑顔を独占したくなる日が来るだろう。彼が傷つく事を分かっていても、止められない想いが溢れ出す予感を剛は感じていた。
二人の関係がいつまでも同じではない事に、光一は気付かない。それでもいつかが来るまでは、一番近くでこの笑顔を守っていよう。
肩を並べて歩く人を、もう一度見詰め直した。
剛は深海での呼吸を覚えてしまった。
苦しみ抜いた彼が見つけたのは、光一が決して辿り着けない場所だった。
+++++
剛の部屋のソファで俯せになっている光一は静かに溜息を吐く。この場所に足を踏み入れた瞬間から手持ち無沙汰だった彼の、感情を読み取り辛い瞳の先には、ギターを抱えたいつも通りのスタイルで構成表にカラフルなペンで書き込みをしている相方の姿があった。仕事を終えて真っ直ぐ此処に帰ってから、一度もまともにこちらを向いてくれない。
いつもの事と諦めて最初の内はケンシロウと遊んだり熱帯魚に餌をやったりしていたのだが、遊び疲れたケンシロウは眠ってしまい熱帯魚にも早々に飽きてしまった。結局一人のままの光一は見詰める事以外、本当に何もする事がなくなってしまったのである。
時間は既に深夜へと足を踏み入れていた。剛は手許から視線を上げない。
此処は決して俺の立ち入る事の出来ない領域だった。支える事も見守る事さえさせて貰えずにいる。俺は、剛の音楽に必要ない存在だった。
一人で闘っている彼の傍に光一の姿はない。それは覆される事のない現実だった。
こうして彼は俺を置いて行く。心に積もった痛みは、見過ごせない所まで来ていた。剛の与える物ならこの痛みすら愛しいと思うけれど。自分の存在を排除された場所に留まるのは苦痛だった。
ソロコンサートの事にだけ集中している剛は前向きだ。苦しさは変わらないのかも知れないけれど、その瞳はきちんと未来を見詰めていた。
長時間コンタクトをしているせいで霞んで来た視界に映る剛の横顔は「独り」だった。誰の手も要らないと、光一の手は必要ないとはね除けられる。
苦しかった。彼が指先をほんの少しでも伸ばしてくれたら、自分は何があっても何を捨てても助けに行くけれど、今の剛は縋る手を求めてはいない。繊細な指先でアコースティックギターから音が紡ぎ出された。余りにも馴染んだ彼の音楽に目を閉じる。
そのメロディーが穏やかな程、自分は苦しくなるばかりだ。爪弾かれる音の軽やかさが怖かった。
乾いた瞳をゆっくりと開けてその手許に視線を向ける。彩られた指先が信じられない程優しく弦を弾いた。
剛は、ずっと愛の歌を歌っているのに、俺達の間にもう愛はない。視界を遮る長い前髪を払って、きちんと彼の存在を確かめた。眠りに落ちそうな頭の中で甘い言葉を零す。
あまいこいをうたうつよしはすき。
ギターをひいているつよしはきれい。
彼にはずっとずっと歌い続けて欲しい。眠りに落ちる為に目を閉じて剛を消した。その歌が自分の為じゃなくなっても甘い音色は心地良く身体に染み込んで行く。
剛は深海に住処を見つけてしまったから。眠りに引き摺られる頭で思う。
二人だけに照らされたスポットライト、見詰める無数の瞳、空気が割れそうな程の歓声。真っ暗な会場は暗い海の底だった。其処で苦しんでいたのは彼だったのに。息が出来ないともがき手を伸ばして助けを求めていた。その手を掴んだのは確かに自分だったと。
今更そんな事を大切な思い出の様に反芻しても仕方なかった。色鮮やかに塗られた指先は、もう縋らない。
優しいメロディー、厳しい眼差し、知らない恋を歌う甘い声、そして触れる事のない体温。こんなに近くにいるのに、剛は遠かった。
俺は、深海で呼吸する術を知らない。それは一緒にいられないと言う事と同義だった。
+++++
光一の寝息が聞こえ始めてからそろそろ一時間になる。壁に掛けられた時計は午前三時を示していた。抱えていたギターをゆっくり降ろして、ソファの方を振り返る。其処には余りにも無防備な寝顔があって、剛はつい笑みを零してしまった。
まだ、お前の事でちゃんと笑える俺がおるんやな。他人事のように思って、それから光一へと近付いた。彼を遠ざけている自覚は勿論ある。それがこの人を傷付けているという事も。
優しい人、俺を愛してくれる人。俺の事には吃驚する位勘の良い人だから、きっととっくに気付いてるんやろうな。
もう、俺が光一を必要としていない事に。
目覚めそうにない事を確認してから嘘みたいに軽い身体を抱き上げた。スケジュールが緩くなっても一向に戻らない体重に眉を顰める。いつか本当に背中から羽根が生えて飛んで行きそうだと思った。俺の見通せない遠い空の彼方へと。
一人で眠るには広過ぎるベッドへと光一を降ろす。昔は狭いベッドで二人手を繋いで眠ったのに。幼い記憶は甘美な陶酔を伴って、脳内で幾度となく再生される。そんな日が帰って来ない事はお互い分かり過ぎる程気付いていた。
眠り易い体勢を取らせて毛布を掛けると、枕元に腰を降ろす。サイドランプの温かな光に照らされた表情は寂し気だった。起きている時には絶対こんな顔せえへんのにな。柔らかな髪に指を滑らせて、そっと頬を撫でる。深い眠りに落ちているのか、目覚める気配はなかった。
夢でも見ているのだろう。仄かに光一が口許だけで笑む。その方が良い。夢の中でなら、夢の中の俺ならきっと優しく出来るだろうから。
そのまま指先を下ろして柔らかな唇に触れた。どうしてこの人が必要じゃないんだろう。どうして俺は独りじゃなきゃ駄目なんだろう。自分はこんなにも傲慢に生きようとしている。その事を光一が許してくれるから、諦めたように笑うから、俺は深く深く自意識の底へ沈んで行ってしまう。暗い海の様な場所へと。
思えば、苦しくて苦しくて死にそうだったあの時期が一番幸福だったのかも知れない。光一に手を引かれて抱き締められて、守られながら生きていたあの頃が恋だったのだと思う。
今度は彼の手を引きたいと思った訳じゃなかった。自分はもっと身勝手な理由で光一を突き放そうとしている。一番酷いやり方で離れて行こうと。
触れていた指先をそっと離す。その手を握り締めた、強く。
光一は、俺にとって空だった。
見上げればいつも其処にあって、優しく見守ってくれる。そして、その空と共生している鳥でもあった。決して掴まらない、誰の物にもならない真っ白な翼で俺を導いてくれた。
必要だったのに。彼だけが全てだった。貴方への思いだけを歌って来たのに。今では、全部が過去になろうとしている。俺が生きて行く為に光一は必要なかった。俺達が一緒にいる必然なんて、存在しないのだ。
握り締めた拳をもう片方の掌で包んだ。もう、触れ方も分からない。そう遠くない未来に俺は一人で歩き始めるだろう。一人で生きて行く為の準備はほとんど整っていた。その瞬間が訪れても、光一は曖昧に笑ったまま頷くのだと思う。
俺達のこの時間は必然だったけれど、運命ではなかった。だから、一生を共に歩む事は出来ない。
サイドランプを消すと寝室を闇が浸食して行く。それに身を委ねたまま、手探りでもう一度光一に触れた。冷えた項をそっと撫でる。
この肌もこの髪もこの唇も、繰り返される吐息さえ。剛の物だと彼は言うのに。
俺は、要らないんや。お前の何一つ必要としていない。
それでも。
信じてもらえないだろうけど。
「……愛してるんや」
今でも。
愛を誓う事もその手を取る事も出来ないけれど。俺が愛するのは光一だけや。それが身勝手な戯れ言だとは知っていた。光一に届かない事も。
それで良い。彼に幸福を与える事は自分には出来ないから。
指先を離して、ベッドから立ち上がる。「お休み」とは言えないまま扉を閉めた。優しい言葉を掛ける自信はもう何処にもない。
不意に心臓の近くで音が生まれる。光一に触れた方の手で胸の辺りを押さえた。零れる音色は、きっと彼への歌だと思う。
彼の為だけに奏でられる最期の。
ソファの横に置かれたギターが俺を呼ぶ。自分に必要なのはこれだけだった。光一、お前も気付いているんやろうけど、俺達は最初から住む場所が違ったんよ。それは出会う前から決められていた事やから仕方ないねん。
俺は海の底に、光一は空の彼方に。
水平線でどれ程似た碧に染まっても、決して一緒にはなれない。例え、其処に愛があったとしても。
ギターを手に取って弦を弾く。零れるのは恋の歌ばかりだった。
光一があの部屋で目覚めても幸福な朝は訪れない。愛を、少しでも渡せたら良かったのに。
空と海は近い場所に存在するように見えて、何処まで行っても交わる事がない。
苦しみ抜いた彼が見つけたのは、光一が決して辿り着けない場所だった。
+++++
剛の部屋のソファで俯せになっている光一は静かに溜息を吐く。この場所に足を踏み入れた瞬間から手持ち無沙汰だった彼の、感情を読み取り辛い瞳の先には、ギターを抱えたいつも通りのスタイルで構成表にカラフルなペンで書き込みをしている相方の姿があった。仕事を終えて真っ直ぐ此処に帰ってから、一度もまともにこちらを向いてくれない。
いつもの事と諦めて最初の内はケンシロウと遊んだり熱帯魚に餌をやったりしていたのだが、遊び疲れたケンシロウは眠ってしまい熱帯魚にも早々に飽きてしまった。結局一人のままの光一は見詰める事以外、本当に何もする事がなくなってしまったのである。
時間は既に深夜へと足を踏み入れていた。剛は手許から視線を上げない。
此処は決して俺の立ち入る事の出来ない領域だった。支える事も見守る事さえさせて貰えずにいる。俺は、剛の音楽に必要ない存在だった。
一人で闘っている彼の傍に光一の姿はない。それは覆される事のない現実だった。
こうして彼は俺を置いて行く。心に積もった痛みは、見過ごせない所まで来ていた。剛の与える物ならこの痛みすら愛しいと思うけれど。自分の存在を排除された場所に留まるのは苦痛だった。
ソロコンサートの事にだけ集中している剛は前向きだ。苦しさは変わらないのかも知れないけれど、その瞳はきちんと未来を見詰めていた。
長時間コンタクトをしているせいで霞んで来た視界に映る剛の横顔は「独り」だった。誰の手も要らないと、光一の手は必要ないとはね除けられる。
苦しかった。彼が指先をほんの少しでも伸ばしてくれたら、自分は何があっても何を捨てても助けに行くけれど、今の剛は縋る手を求めてはいない。繊細な指先でアコースティックギターから音が紡ぎ出された。余りにも馴染んだ彼の音楽に目を閉じる。
そのメロディーが穏やかな程、自分は苦しくなるばかりだ。爪弾かれる音の軽やかさが怖かった。
乾いた瞳をゆっくりと開けてその手許に視線を向ける。彩られた指先が信じられない程優しく弦を弾いた。
剛は、ずっと愛の歌を歌っているのに、俺達の間にもう愛はない。視界を遮る長い前髪を払って、きちんと彼の存在を確かめた。眠りに落ちそうな頭の中で甘い言葉を零す。
あまいこいをうたうつよしはすき。
ギターをひいているつよしはきれい。
彼にはずっとずっと歌い続けて欲しい。眠りに落ちる為に目を閉じて剛を消した。その歌が自分の為じゃなくなっても甘い音色は心地良く身体に染み込んで行く。
剛は深海に住処を見つけてしまったから。眠りに引き摺られる頭で思う。
二人だけに照らされたスポットライト、見詰める無数の瞳、空気が割れそうな程の歓声。真っ暗な会場は暗い海の底だった。其処で苦しんでいたのは彼だったのに。息が出来ないともがき手を伸ばして助けを求めていた。その手を掴んだのは確かに自分だったと。
今更そんな事を大切な思い出の様に反芻しても仕方なかった。色鮮やかに塗られた指先は、もう縋らない。
優しいメロディー、厳しい眼差し、知らない恋を歌う甘い声、そして触れる事のない体温。こんなに近くにいるのに、剛は遠かった。
俺は、深海で呼吸する術を知らない。それは一緒にいられないと言う事と同義だった。
+++++
光一の寝息が聞こえ始めてからそろそろ一時間になる。壁に掛けられた時計は午前三時を示していた。抱えていたギターをゆっくり降ろして、ソファの方を振り返る。其処には余りにも無防備な寝顔があって、剛はつい笑みを零してしまった。
まだ、お前の事でちゃんと笑える俺がおるんやな。他人事のように思って、それから光一へと近付いた。彼を遠ざけている自覚は勿論ある。それがこの人を傷付けているという事も。
優しい人、俺を愛してくれる人。俺の事には吃驚する位勘の良い人だから、きっととっくに気付いてるんやろうな。
もう、俺が光一を必要としていない事に。
目覚めそうにない事を確認してから嘘みたいに軽い身体を抱き上げた。スケジュールが緩くなっても一向に戻らない体重に眉を顰める。いつか本当に背中から羽根が生えて飛んで行きそうだと思った。俺の見通せない遠い空の彼方へと。
一人で眠るには広過ぎるベッドへと光一を降ろす。昔は狭いベッドで二人手を繋いで眠ったのに。幼い記憶は甘美な陶酔を伴って、脳内で幾度となく再生される。そんな日が帰って来ない事はお互い分かり過ぎる程気付いていた。
眠り易い体勢を取らせて毛布を掛けると、枕元に腰を降ろす。サイドランプの温かな光に照らされた表情は寂し気だった。起きている時には絶対こんな顔せえへんのにな。柔らかな髪に指を滑らせて、そっと頬を撫でる。深い眠りに落ちているのか、目覚める気配はなかった。
夢でも見ているのだろう。仄かに光一が口許だけで笑む。その方が良い。夢の中でなら、夢の中の俺ならきっと優しく出来るだろうから。
そのまま指先を下ろして柔らかな唇に触れた。どうしてこの人が必要じゃないんだろう。どうして俺は独りじゃなきゃ駄目なんだろう。自分はこんなにも傲慢に生きようとしている。その事を光一が許してくれるから、諦めたように笑うから、俺は深く深く自意識の底へ沈んで行ってしまう。暗い海の様な場所へと。
思えば、苦しくて苦しくて死にそうだったあの時期が一番幸福だったのかも知れない。光一に手を引かれて抱き締められて、守られながら生きていたあの頃が恋だったのだと思う。
今度は彼の手を引きたいと思った訳じゃなかった。自分はもっと身勝手な理由で光一を突き放そうとしている。一番酷いやり方で離れて行こうと。
触れていた指先をそっと離す。その手を握り締めた、強く。
光一は、俺にとって空だった。
見上げればいつも其処にあって、優しく見守ってくれる。そして、その空と共生している鳥でもあった。決して掴まらない、誰の物にもならない真っ白な翼で俺を導いてくれた。
必要だったのに。彼だけが全てだった。貴方への思いだけを歌って来たのに。今では、全部が過去になろうとしている。俺が生きて行く為に光一は必要なかった。俺達が一緒にいる必然なんて、存在しないのだ。
握り締めた拳をもう片方の掌で包んだ。もう、触れ方も分からない。そう遠くない未来に俺は一人で歩き始めるだろう。一人で生きて行く為の準備はほとんど整っていた。その瞬間が訪れても、光一は曖昧に笑ったまま頷くのだと思う。
俺達のこの時間は必然だったけれど、運命ではなかった。だから、一生を共に歩む事は出来ない。
サイドランプを消すと寝室を闇が浸食して行く。それに身を委ねたまま、手探りでもう一度光一に触れた。冷えた項をそっと撫でる。
この肌もこの髪もこの唇も、繰り返される吐息さえ。剛の物だと彼は言うのに。
俺は、要らないんや。お前の何一つ必要としていない。
それでも。
信じてもらえないだろうけど。
「……愛してるんや」
今でも。
愛を誓う事もその手を取る事も出来ないけれど。俺が愛するのは光一だけや。それが身勝手な戯れ言だとは知っていた。光一に届かない事も。
それで良い。彼に幸福を与える事は自分には出来ないから。
指先を離して、ベッドから立ち上がる。「お休み」とは言えないまま扉を閉めた。優しい言葉を掛ける自信はもう何処にもない。
不意に心臓の近くで音が生まれる。光一に触れた方の手で胸の辺りを押さえた。零れる音色は、きっと彼への歌だと思う。
彼の為だけに奏でられる最期の。
ソファの横に置かれたギターが俺を呼ぶ。自分に必要なのはこれだけだった。光一、お前も気付いているんやろうけど、俺達は最初から住む場所が違ったんよ。それは出会う前から決められていた事やから仕方ないねん。
俺は海の底に、光一は空の彼方に。
水平線でどれ程似た碧に染まっても、決して一緒にはなれない。例え、其処に愛があったとしても。
ギターを手に取って弦を弾く。零れるのは恋の歌ばかりだった。
光一があの部屋で目覚めても幸福な朝は訪れない。愛を、少しでも渡せたら良かったのに。
空と海は近い場所に存在するように見えて、何処まで行っても交わる事がない。
彼がとてもとても大切だった。
出会ってからずっと二人で一緒にいて、二人でいる事が自分達も周囲も当たり前になっている。
だから、当たり前に大切な存在だった。とても、愛おしい人だった。
優しくしたくてしょうがない。誰よりも近くにいたい。誰にも傷つけさせたくないと思っていた。
この愛しさが、恋だと気付いたのはいつだったろう。ある日突然、目が醒める様な感覚で自覚したのは覚えている。
何故か酷く嬉しかった。剛を一番知っている自分が、その優しさや繊細さに惹かれない筈はないのだと。
訳の分からない、多分親心と言う感情に一番近い物を抱いてしまった。可笑しな感情だと言う自覚はあったのだけれど。
そうして、自分の恋情に気付いてから彼の思いに気付くのに時間は掛からなかった。その心は純粋過ぎて、自分に向けられた感情としてはちょっと残酷な位。
余りにも綺麗なそれは、心臓に深い痛みを残した。自分に彼の美しさはない。同じ思いを抱いても、同じ心臓にはなれないのだと気づいた時の、絶望。
剛から貰う全ての感情が愛しかった。同じ物を渡せない自分を恨んだ。今もあの生々しい痛みは巣食っている。
それでも。どんなに思っても。結ばれる事だけが、思いを通わせた者達の行方ではない事を知っていた。
二人にそんな未来が訪れない事実を。剛も俺も良く、理解していた。
目覚めたこの情は消える事なく、痛みと近い場所で一生俺の心臓にあるのだろう。それが、どんな罪に因る物かは分からなかったけれど。
+++++
不覚だった。俺はずっと自分で丈夫だと思っていたし、実際この合宿所で色々な人の看病はしたけれど、逆の立場になった事等一度もなかったのに。何度か具合が悪くなり掛けた事はあるが、割と気力で治して来たから(病は気からと言う言葉を相方に教えてやりたい位だ)、本当にこんな風に寝込むのは初めてだった。
「……カッコ悪ぃ」
呟いた声が掠れているのも許せない事態だった。朝起きた時はどうにか持ち堪えられると思っていたのだが、剛に連れられて行く食堂で思い切り倒れてしまったのだ。
その後の事は、余り覚えていない。唯、剛が必死に俺の手を掴んで『光ちゃん』と、何度も悲痛な叫びを上げていた事は鼓膜が鮮明に記憶していた。
部屋に相方の姿は見えないから、恐らくきちんと学校に行ったのだろう。今日は仕事がなくて本当に良かったと思う。二人にグループ名が与えられてから、仕事は格段に増えていた。
ああ、そう言えば。今日から彼の期末テストが始まるのだ。その為に少し前まで仕事を詰めて、どうにかスケジュールの調整をした。でもこの分やと、結果はあんま見込めんやろなあ。
剛の声が耳から離れない。キンキキッズは二人で一つだから。二人とも万全やないとあかんねん。
そんな阿呆みたいな本当の事を考えながら、また熱に飲まれて行った。
熱で上手く働かない思考の片隅で、次に目覚めた時にはきっと泣きそうな相方の顔があるんだろうと、妙に確信めいて考えていた。
+++++
光一が予想した通り、剛のテストは散々だった。答案用紙を返されなくても分かる程に。頭にあるのは倒れた相方の事ばかり。
本当に、死んでしまうと思ったのだ。
食堂の床に崩れ落ちたその顔は真っ白で。唇の色も血が通っていないのではないかと思う位、青かった。
朝起きた瞬間から、ずっと一緒にいたのに。気付けなかった。
意地っ張りの相方が自己申告をする性格じゃない事は、もう嫌と言う程分かっていた。だからその分、常に注意深く見ていなければならないのに。
早く、早く光一の元に帰りたかった。死んでしまうと思った時の不安は容易に消えはしない。あの熱い手を一晩中でも良いから握っていてあげたかった。
それよりも。
光一に告げたかった。この思いを。恋情の全てを。
言わなければならない、と強く思った。お互い知っていて言わなかったのは、先の事を考えたからだ。
これからもずっと二人でこの世界にいる為に。恋よりも深い絆で結ばれていた。
二人だけで簡単に切り離せるような絆ではなかったから。言えなかった。でも。
もし、言えなくなったら?光一が俺の隣から消えてしまったら?
そんな可能性は考えたくない。いつまでもずっと俺の隣にいなくてはならなかった。あり得ない未来に背筋がすっと冷えて行く。
だけど。本当に。
本当に、死んでしまうと思ったのだ。
+++++
息が苦しい。心臓の音が煩い。病気は恋に似ている、と相方に植え付けられたロマンティストな感情でそんな事を考えた。
左手がじっとりと汗ばんでいる。その感触が不思議で、重い瞼をゆっくり持ち上げた。霞む視界は、もしかしたらまともな映像を見せてくれないかも知れない。
水分が膜を張っているから、一度きつく目を閉じた。
「光ちゃん?」
不意に、耳元で甘い音が聞こえる。舌っ足らずな、大切な相方の大好きな声。この声音は自分を呼ぶ時だけにして欲しい。
水分を払ってもう一度目を開ければ、見慣れた顔が間近にあった。予想通り目覚めて最初に剛を見る事が出来て、何だか嬉しい。
涙を大きな瞳に一杯溜めた彼は、『心配』を思い切り表現していた。こんな素直な所が堪らず愛しい。
「大丈夫か?どっか痛いとこない?」
名前を呼んだのと同じ声で問われて、静かに首を横に振った。ほんの微かな動きだけれど、やっぱりちゃんと分かってくれる。意味もなく、あー剛やなあと思ってしまった。
心臓が、痛んだ。
「……つよ、テスト、は?」
出るのは掠れた声だけで、余計その繊細な心を揺さぶってしまうかも知れない。安心させてやりたいのに。
「あー……うん。どうにかなるやろ」
苦笑して僅かに身体を離した剛は、思った通り。俺らはどうしようもないな、と心の中だけで笑った。
「追試、でちゃんと取り返せや。出席日数、足りてないんやから」
「うん。てかなー、病人がそんな説教せんでも」
苦笑して優しく笑う穏やかさに気を許して、つい間違えた言葉を落としてしまう。
「やって、俺が言ったらお前頑張るやろ」
いけないと、思った時には既に遅く。踏み込んではならない一線を僅かに越えてしまった。
今のは相方として、適切な言葉じゃない。何もかもを手後れにしてしまう危険を孕んでいた。敏感な相方はすぐに反応して、肩を揺らす。
そして、左手に痛みを覚えた。汗ばんだ手の感触に思い当たる。
「……手、いたい……」
二人の間に落ちた言葉は、まるで子供の響きだった。どうしようもない。訴えて見上げると、漆黒の瞳に強い光が見えた。
どうしよう。部屋の空気が。密度が、増している。
剛が何かを抱えて今目の前にいることは分かっていた。穏やかな瞳の奥にある思い詰めた色が、教えてくれていたのに。
越えたのは。不用意な自分の一言だった。
剛を包んでいる空気が変わる。瞳の色一つで印象を変えてしまう彼は苦手だった。
いつものあの、捨てられた子犬みたいな色の方が好きなのに。俺が守ってやらなければと思わせる透明な瞳。
それがこんな風に、不意にどろりと深くなる。底を探ろうとすれば、引き込まれて嵌まってしまいそうな。恋の意味を知っている男の瞳に変わってしまうのだ。確かな変化を優越感だけで見返すには、自分はまだ子供過ぎた。
まだ光一は、恋の本質を瞳の奥底を知らなかった。
「つ……よし」
真っ直ぐに見詰められる事に耐え切れず、慣れた名前を呼んでしまう。そうすれば相方の距離に戻れる様な。淡い期待だった。
無駄な抵抗だと分かっている。でも剛が怖い、から。
「こぉいち」
不意に耳慣れない音が肌をざわめかせた。こんな呼び方をされた事はない。
知らない。こんな剛、俺は知らない。これは、恋をする男の瞳だ。恋に溺れる男の温度だ。
恋を知った、男の声だった。
「つよ……」
「光一、聞いて」
反射的に左手が剛の手の中から逃げて、無理矢理身体を起こした。
目が眩む。剛が、触れてはならないことに踏み込もうとしていることはわかった。
くらくらする。気持ち、悪い。
「光ちゃんっ。具合悪いんやから、無理な事したらあかん」
「っつよし。……あかんよ」
「ええから、逃げないで。此処におって」
この状況で何処にも逃げる場所等ないと言うのに。あやす様な剛の優しい掌に騙されて、再び布団の中へと身体を戻した。
呼吸が苦しい。もう何度こんな危うい瞬間を越して来た事だろう。剛の瞳に流され掛けた事か。でも、まだ。
どんなに辛くても破綻の時を迎える事は出来なかった。二人が思いを通じ合わせると言うのは、そう言う事だった。
どうして、自分はこんなにも臆病なのだろう。
「なあ、聞いて」
甘えを含んだ声は、どんな音楽よりも心地良く染み込む。いつもいつも特別な剛の全て。
なあ、俺怖いねん。お前を手放したくない。どんな形でも良いから、縋ったって構わないから、どうしても隣にいたかった。その為には。
「光ちゃん」
「……ん」
「あんな、俺死んでまうと思ったんや。朝倒れた時」
温かい感触が頬に触れる。ゆっくりと掌が辿って行くのが気持ち良くて、ひっそり目を閉じる。
俺は、この温もりだけで充分だった。心は、穏やかに静まって行く。
「だから、もうあかんと思った。俺嫌なんや、このまま言えないまんま……」
「大丈夫やよ」
「え」
「俺、分かっとるから。俺もお前もよう知っとるやろ」
剛の思いがそんな事を望んでいる訳じゃない事は、良く分かっていた。お互いの思いを知っているから、とかじゃなくて。伝えなければ始まらない思いを。
「違う、違うんや。俺はお前にちゃんと伝えたいねん、俺の口から」
「言った、あかんよ」
声が掠れる。剛の思いなんて痛い程分かっていた。心臓の辺りに燻っていた痛みが、鮮明さを取り戻す。
今此処で、彼の思いをこの耳で聞けたら、と言う思いは確かにあった。何もかもを捨てて二人だけで走れる位、まだ分別のないままで良かった。
けれど。自分の恋情を信じられる程、強くはない。剛の愛を信じ切れない自分がいた。
「こおいち……」
「な、俺一人でも大丈夫やから。今日は誰かの部屋行き」
「ちゃんとっ話、聞いてや!」
「あかん」
いつもの守ってあげたくなる剛に戻って来る。そうすればもう、年上の振りをするのは簡単だった。
「俺は絶対お前より先に死なん。お前の隣から、いなくなったりしない。だから、二度とそんな事言おうとするな」
何も言えなくなってしまった剛を優しく見上げた。澄んだ瞳に安心する。名残惜しそうにその場から動かない彼にゆっくりと微笑んでみせた。
「俺は、剛が大切やよ。一番大切。これで充分やろ?」
全てを告げたらきっと、粉々になってしまう。今まで大切に作って来た時間も、ゆっくりと探り当てたお互いの距離も。痛みを抱えたこの心臓も、全て。二人の間にある全てと引き換えに得るには、この恋は少し強過ぎた。
「明日がっこ行く前に顔見せて」
「うん」
「俺のせいでお前の点下がるのは勘弁やわ」
笑顔で促してやると、素直に扉の方へ向かった。
「何かあったら呼んでや。絶対来るから」
それはきっと、テレパシーの域での事を言っているんだろう。実際間違いなく届いてしまうのだから、余り笑えなかった。
「じゃ、お休み。……ごめんな」
「うん。でも……俺は謝らんから」
「ええよ。つよは、それがええんや」
真っ直ぐな瞳に罪悪感を覚えるのは、もうとっくに慣れてしまった。自分の方が大人な訳じゃない。唯、剛より感情が屈折しているだけ。彼の様に純粋でいられたら良いのに。
自分とは全く種類の違う人間だという事は、分かっている。けれど、だからこそ憧れは留まる事を知らない。
ゆっくりと閉じた扉を霞んだ視界で見詰めた。剛はあんなにも鮮明に見えたのに。笑って良い物かどうか悩んでしまう現象に、瞳から水分が溢れ出した。
本当は。剛の告白が聞きたかった。あの甘い声を耳元で囁いて欲しかった。そして、優しい腕で抱き締めて欲しかった。
熱のせいで、こんなにも弱くなっているのだろうか。いつもなら、抱き締められるより抱き締めたいと願うのに。繊細な剛を守りたいのに。
そう、全ては熱のせいなのだ。こんな風に、涙が溢れてしょうがないのも。
「……好きやよ」
唇から勝手に言葉が零れ落ちる。
「好きやよ。好きや……剛」
きっと一生届かない言葉。決して届けてはならない言葉。それでもずっと、剛には聞こえているだろう思い。
こんな恋じゃなくても良いのに。もっと楽に楽しくいたら良い。こんなに苦しい想いを抱え続けたら。いつか壊れてしまう。二人の破綻よりも先に訪れるだろう未来に、背筋が知らず震えるけれど。
言ってはならないと告げたのは自分だった。大切なのは剛だけで。自分の全てと引き換えにしても守りたいと思える人は、この世にたった一人。いつか、恋は愛に変わるだろうか。この心臓の痛みが和らぐ時が来たら。その時は、思いを告げても大丈夫だろうと思う。
今はまだ、怖かった。この恋だけに生きられると錯覚しそうになる位。けれど、いつか。愛と言う優しさだけで、お互いを思える日が来るまで。
例え死んでも、告げてはならない言葉だった。
+++++
思いの強さが怖くて、彼の瞳の深さを見詰められなくて。唯、怖かったあの日。確証のない破綻に怯えていたのは、彼よりも余程幼い自分だった。
熱から逃れる様に、それでも繋いだ左手を離さない様に。三十九度で駆け抜けた子供たち。
まだ、心臓は痛むだろうか。
永遠を信じられなかった、十五の夜。
出会ってからずっと二人で一緒にいて、二人でいる事が自分達も周囲も当たり前になっている。
だから、当たり前に大切な存在だった。とても、愛おしい人だった。
優しくしたくてしょうがない。誰よりも近くにいたい。誰にも傷つけさせたくないと思っていた。
この愛しさが、恋だと気付いたのはいつだったろう。ある日突然、目が醒める様な感覚で自覚したのは覚えている。
何故か酷く嬉しかった。剛を一番知っている自分が、その優しさや繊細さに惹かれない筈はないのだと。
訳の分からない、多分親心と言う感情に一番近い物を抱いてしまった。可笑しな感情だと言う自覚はあったのだけれど。
そうして、自分の恋情に気付いてから彼の思いに気付くのに時間は掛からなかった。その心は純粋過ぎて、自分に向けられた感情としてはちょっと残酷な位。
余りにも綺麗なそれは、心臓に深い痛みを残した。自分に彼の美しさはない。同じ思いを抱いても、同じ心臓にはなれないのだと気づいた時の、絶望。
剛から貰う全ての感情が愛しかった。同じ物を渡せない自分を恨んだ。今もあの生々しい痛みは巣食っている。
それでも。どんなに思っても。結ばれる事だけが、思いを通わせた者達の行方ではない事を知っていた。
二人にそんな未来が訪れない事実を。剛も俺も良く、理解していた。
目覚めたこの情は消える事なく、痛みと近い場所で一生俺の心臓にあるのだろう。それが、どんな罪に因る物かは分からなかったけれど。
+++++
不覚だった。俺はずっと自分で丈夫だと思っていたし、実際この合宿所で色々な人の看病はしたけれど、逆の立場になった事等一度もなかったのに。何度か具合が悪くなり掛けた事はあるが、割と気力で治して来たから(病は気からと言う言葉を相方に教えてやりたい位だ)、本当にこんな風に寝込むのは初めてだった。
「……カッコ悪ぃ」
呟いた声が掠れているのも許せない事態だった。朝起きた時はどうにか持ち堪えられると思っていたのだが、剛に連れられて行く食堂で思い切り倒れてしまったのだ。
その後の事は、余り覚えていない。唯、剛が必死に俺の手を掴んで『光ちゃん』と、何度も悲痛な叫びを上げていた事は鼓膜が鮮明に記憶していた。
部屋に相方の姿は見えないから、恐らくきちんと学校に行ったのだろう。今日は仕事がなくて本当に良かったと思う。二人にグループ名が与えられてから、仕事は格段に増えていた。
ああ、そう言えば。今日から彼の期末テストが始まるのだ。その為に少し前まで仕事を詰めて、どうにかスケジュールの調整をした。でもこの分やと、結果はあんま見込めんやろなあ。
剛の声が耳から離れない。キンキキッズは二人で一つだから。二人とも万全やないとあかんねん。
そんな阿呆みたいな本当の事を考えながら、また熱に飲まれて行った。
熱で上手く働かない思考の片隅で、次に目覚めた時にはきっと泣きそうな相方の顔があるんだろうと、妙に確信めいて考えていた。
+++++
光一が予想した通り、剛のテストは散々だった。答案用紙を返されなくても分かる程に。頭にあるのは倒れた相方の事ばかり。
本当に、死んでしまうと思ったのだ。
食堂の床に崩れ落ちたその顔は真っ白で。唇の色も血が通っていないのではないかと思う位、青かった。
朝起きた瞬間から、ずっと一緒にいたのに。気付けなかった。
意地っ張りの相方が自己申告をする性格じゃない事は、もう嫌と言う程分かっていた。だからその分、常に注意深く見ていなければならないのに。
早く、早く光一の元に帰りたかった。死んでしまうと思った時の不安は容易に消えはしない。あの熱い手を一晩中でも良いから握っていてあげたかった。
それよりも。
光一に告げたかった。この思いを。恋情の全てを。
言わなければならない、と強く思った。お互い知っていて言わなかったのは、先の事を考えたからだ。
これからもずっと二人でこの世界にいる為に。恋よりも深い絆で結ばれていた。
二人だけで簡単に切り離せるような絆ではなかったから。言えなかった。でも。
もし、言えなくなったら?光一が俺の隣から消えてしまったら?
そんな可能性は考えたくない。いつまでもずっと俺の隣にいなくてはならなかった。あり得ない未来に背筋がすっと冷えて行く。
だけど。本当に。
本当に、死んでしまうと思ったのだ。
+++++
息が苦しい。心臓の音が煩い。病気は恋に似ている、と相方に植え付けられたロマンティストな感情でそんな事を考えた。
左手がじっとりと汗ばんでいる。その感触が不思議で、重い瞼をゆっくり持ち上げた。霞む視界は、もしかしたらまともな映像を見せてくれないかも知れない。
水分が膜を張っているから、一度きつく目を閉じた。
「光ちゃん?」
不意に、耳元で甘い音が聞こえる。舌っ足らずな、大切な相方の大好きな声。この声音は自分を呼ぶ時だけにして欲しい。
水分を払ってもう一度目を開ければ、見慣れた顔が間近にあった。予想通り目覚めて最初に剛を見る事が出来て、何だか嬉しい。
涙を大きな瞳に一杯溜めた彼は、『心配』を思い切り表現していた。こんな素直な所が堪らず愛しい。
「大丈夫か?どっか痛いとこない?」
名前を呼んだのと同じ声で問われて、静かに首を横に振った。ほんの微かな動きだけれど、やっぱりちゃんと分かってくれる。意味もなく、あー剛やなあと思ってしまった。
心臓が、痛んだ。
「……つよ、テスト、は?」
出るのは掠れた声だけで、余計その繊細な心を揺さぶってしまうかも知れない。安心させてやりたいのに。
「あー……うん。どうにかなるやろ」
苦笑して僅かに身体を離した剛は、思った通り。俺らはどうしようもないな、と心の中だけで笑った。
「追試、でちゃんと取り返せや。出席日数、足りてないんやから」
「うん。てかなー、病人がそんな説教せんでも」
苦笑して優しく笑う穏やかさに気を許して、つい間違えた言葉を落としてしまう。
「やって、俺が言ったらお前頑張るやろ」
いけないと、思った時には既に遅く。踏み込んではならない一線を僅かに越えてしまった。
今のは相方として、適切な言葉じゃない。何もかもを手後れにしてしまう危険を孕んでいた。敏感な相方はすぐに反応して、肩を揺らす。
そして、左手に痛みを覚えた。汗ばんだ手の感触に思い当たる。
「……手、いたい……」
二人の間に落ちた言葉は、まるで子供の響きだった。どうしようもない。訴えて見上げると、漆黒の瞳に強い光が見えた。
どうしよう。部屋の空気が。密度が、増している。
剛が何かを抱えて今目の前にいることは分かっていた。穏やかな瞳の奥にある思い詰めた色が、教えてくれていたのに。
越えたのは。不用意な自分の一言だった。
剛を包んでいる空気が変わる。瞳の色一つで印象を変えてしまう彼は苦手だった。
いつものあの、捨てられた子犬みたいな色の方が好きなのに。俺が守ってやらなければと思わせる透明な瞳。
それがこんな風に、不意にどろりと深くなる。底を探ろうとすれば、引き込まれて嵌まってしまいそうな。恋の意味を知っている男の瞳に変わってしまうのだ。確かな変化を優越感だけで見返すには、自分はまだ子供過ぎた。
まだ光一は、恋の本質を瞳の奥底を知らなかった。
「つ……よし」
真っ直ぐに見詰められる事に耐え切れず、慣れた名前を呼んでしまう。そうすれば相方の距離に戻れる様な。淡い期待だった。
無駄な抵抗だと分かっている。でも剛が怖い、から。
「こぉいち」
不意に耳慣れない音が肌をざわめかせた。こんな呼び方をされた事はない。
知らない。こんな剛、俺は知らない。これは、恋をする男の瞳だ。恋に溺れる男の温度だ。
恋を知った、男の声だった。
「つよ……」
「光一、聞いて」
反射的に左手が剛の手の中から逃げて、無理矢理身体を起こした。
目が眩む。剛が、触れてはならないことに踏み込もうとしていることはわかった。
くらくらする。気持ち、悪い。
「光ちゃんっ。具合悪いんやから、無理な事したらあかん」
「っつよし。……あかんよ」
「ええから、逃げないで。此処におって」
この状況で何処にも逃げる場所等ないと言うのに。あやす様な剛の優しい掌に騙されて、再び布団の中へと身体を戻した。
呼吸が苦しい。もう何度こんな危うい瞬間を越して来た事だろう。剛の瞳に流され掛けた事か。でも、まだ。
どんなに辛くても破綻の時を迎える事は出来なかった。二人が思いを通じ合わせると言うのは、そう言う事だった。
どうして、自分はこんなにも臆病なのだろう。
「なあ、聞いて」
甘えを含んだ声は、どんな音楽よりも心地良く染み込む。いつもいつも特別な剛の全て。
なあ、俺怖いねん。お前を手放したくない。どんな形でも良いから、縋ったって構わないから、どうしても隣にいたかった。その為には。
「光ちゃん」
「……ん」
「あんな、俺死んでまうと思ったんや。朝倒れた時」
温かい感触が頬に触れる。ゆっくりと掌が辿って行くのが気持ち良くて、ひっそり目を閉じる。
俺は、この温もりだけで充分だった。心は、穏やかに静まって行く。
「だから、もうあかんと思った。俺嫌なんや、このまま言えないまんま……」
「大丈夫やよ」
「え」
「俺、分かっとるから。俺もお前もよう知っとるやろ」
剛の思いがそんな事を望んでいる訳じゃない事は、良く分かっていた。お互いの思いを知っているから、とかじゃなくて。伝えなければ始まらない思いを。
「違う、違うんや。俺はお前にちゃんと伝えたいねん、俺の口から」
「言った、あかんよ」
声が掠れる。剛の思いなんて痛い程分かっていた。心臓の辺りに燻っていた痛みが、鮮明さを取り戻す。
今此処で、彼の思いをこの耳で聞けたら、と言う思いは確かにあった。何もかもを捨てて二人だけで走れる位、まだ分別のないままで良かった。
けれど。自分の恋情を信じられる程、強くはない。剛の愛を信じ切れない自分がいた。
「こおいち……」
「な、俺一人でも大丈夫やから。今日は誰かの部屋行き」
「ちゃんとっ話、聞いてや!」
「あかん」
いつもの守ってあげたくなる剛に戻って来る。そうすればもう、年上の振りをするのは簡単だった。
「俺は絶対お前より先に死なん。お前の隣から、いなくなったりしない。だから、二度とそんな事言おうとするな」
何も言えなくなってしまった剛を優しく見上げた。澄んだ瞳に安心する。名残惜しそうにその場から動かない彼にゆっくりと微笑んでみせた。
「俺は、剛が大切やよ。一番大切。これで充分やろ?」
全てを告げたらきっと、粉々になってしまう。今まで大切に作って来た時間も、ゆっくりと探り当てたお互いの距離も。痛みを抱えたこの心臓も、全て。二人の間にある全てと引き換えに得るには、この恋は少し強過ぎた。
「明日がっこ行く前に顔見せて」
「うん」
「俺のせいでお前の点下がるのは勘弁やわ」
笑顔で促してやると、素直に扉の方へ向かった。
「何かあったら呼んでや。絶対来るから」
それはきっと、テレパシーの域での事を言っているんだろう。実際間違いなく届いてしまうのだから、余り笑えなかった。
「じゃ、お休み。……ごめんな」
「うん。でも……俺は謝らんから」
「ええよ。つよは、それがええんや」
真っ直ぐな瞳に罪悪感を覚えるのは、もうとっくに慣れてしまった。自分の方が大人な訳じゃない。唯、剛より感情が屈折しているだけ。彼の様に純粋でいられたら良いのに。
自分とは全く種類の違う人間だという事は、分かっている。けれど、だからこそ憧れは留まる事を知らない。
ゆっくりと閉じた扉を霞んだ視界で見詰めた。剛はあんなにも鮮明に見えたのに。笑って良い物かどうか悩んでしまう現象に、瞳から水分が溢れ出した。
本当は。剛の告白が聞きたかった。あの甘い声を耳元で囁いて欲しかった。そして、優しい腕で抱き締めて欲しかった。
熱のせいで、こんなにも弱くなっているのだろうか。いつもなら、抱き締められるより抱き締めたいと願うのに。繊細な剛を守りたいのに。
そう、全ては熱のせいなのだ。こんな風に、涙が溢れてしょうがないのも。
「……好きやよ」
唇から勝手に言葉が零れ落ちる。
「好きやよ。好きや……剛」
きっと一生届かない言葉。決して届けてはならない言葉。それでもずっと、剛には聞こえているだろう思い。
こんな恋じゃなくても良いのに。もっと楽に楽しくいたら良い。こんなに苦しい想いを抱え続けたら。いつか壊れてしまう。二人の破綻よりも先に訪れるだろう未来に、背筋が知らず震えるけれど。
言ってはならないと告げたのは自分だった。大切なのは剛だけで。自分の全てと引き換えにしても守りたいと思える人は、この世にたった一人。いつか、恋は愛に変わるだろうか。この心臓の痛みが和らぐ時が来たら。その時は、思いを告げても大丈夫だろうと思う。
今はまだ、怖かった。この恋だけに生きられると錯覚しそうになる位。けれど、いつか。愛と言う優しさだけで、お互いを思える日が来るまで。
例え死んでも、告げてはならない言葉だった。
+++++
思いの強さが怖くて、彼の瞳の深さを見詰められなくて。唯、怖かったあの日。確証のない破綻に怯えていたのは、彼よりも余程幼い自分だった。
熱から逃れる様に、それでも繋いだ左手を離さない様に。三十九度で駆け抜けた子供たち。
まだ、心臓は痛むだろうか。
永遠を信じられなかった、十五の夜。
視線の先には愛しい人がいて、冷えた指の先には包み込んでくれる温かい手がある。ずっと。
繋がれたこの運命が離れない様にと願う。彼と過ごした今までの春秋と、これから重ねて行くであろう途方もない歳月を思いながら。
俺は、永遠の意味を知る。
「……光一君!」
いきなり意識を呼び戻されて、はっと顔を上げた。どうやら気付かぬ内に机の上に突っ伏していたらしい。
「あれ。俺、寝てた?」
「てゆーより、気ぃ失ってたよ」
呆れた顔で秋山が笑う。身体を起こして額に張り付いている濡れた前髪をかき上げると、その深い顔立ちを見上げた。
此処はSHOCKの稽古部屋で、つい先刻まで立ち稽古をしていた筈だ。手直しが必要だと言う事に気付いて、それで。
其処から先の記憶がない。
体力には自信があるのに。歳かな、と一人ごちる。
「これからまだまだ先は長いんですから、あんま無理しないで下さいよ。俺らメッチャ心配なんだから」
今年の冬もまた、彼らと過ごせている。彼らの存在が段々と馴染んで来る感触は悪くない。
ゆっくりと自分の日常に溶け込んで行く。彼の様に。
「……お前らも多いなあ。俺の人生」
脈絡のない言葉を彼との付き合いの長さと、持ち前の勘の良さで割と正確に読み取った秋山は、小さく溜息を吐いた。いつだってこの人の思考回路の中心は彼だけなのだ。
扉の位置に人の気配を感じてそちらに視線を遣りながら答える。
「俺らも長いけどね。でも、敵わないよ」
躊躇なく入って来た部外者に笑顔を向けながら呟いた。運命よりも強くて深い、その逃れようもない束縛で難無く光一を囲う。
ナイーヴでセンシティヴな癖に誰よりも傲慢な彼の愛の形は歪だったけれど、秋山はそれが嫌いではなかった。
「お迎え来たよ」
「え?」
不思議な顔をして見上げて来る光一は、多分今日のスケジュールを知らない。全く困った先輩だと苦く笑った。
「何やお前、寝惚けとんなあ」
揶揄する口振りで、剛は光一の前に現れる。
「……つよし、あれ?」
状況把握出来ていない瞳で瞬きした。仕方なく秋山が説明してやる。
「光一君はこれから歌番の収録でしょ。それが終わったらコンサートの稽古で、また俺らと合流ですよ」
「ふーん」
感心した様な興味のない様な曖昧な音で答えた光一の視線は、既に剛に向けられていた。やれやれと秋山は頭を掻く。
目の前に立つ見慣れ過ぎた人を黒目がちな瞳が凝視していた。この二人に『飽きる』と言う単語は存在しないらしい。
机の上に置かれていた手が、不意に持ち上がる。ゆっくりとその腕は相方に差し伸べられた。無表情な硝子の瞳は澄んでいて、何も映し出してはくれない。
「お姫様、貴方のナイトがお迎えに上がりましたよ」
伸ばされた手を正確に捕まえて、剛はゆったり笑う。光一はいつもの軽口に怯む様子も見せず、重ねられた手をしっかり握り締めた。しかしそれは意識しての行動ではなかった様で、惑った瞳を迷子みたいに潤ませる。
「相変わらず冷たいな。こんなに動いとんのに」
反対側の手を使って、濡れた髪を梳いた。何もかもを理解した素振りで、座ったままの恋人を立ち上がらせる。秋山に光一の荷物を持って来させて受け取った。
「じゃ、また後でな」
「はーい、お疲れ様でした」
手を繋いだまま出て行く二人の背中に、後輩達の挨拶の声が何度も投げられた。
エレベーターに乗り込むと、漸く目覚めた恋人が繋がれた指先を不審そうに見詰める。
「剛、なんこれ?」
繋いだ指の先にいる人に声を掛けた。
「あー、やっと起きたかー。スタジオ着いても起きんかったらどうしようって悩んでたわ、今」
顔を覗き込まれて笑われると、身動き出来ない位胸が一杯になる。どうして、こんなに好きなんだろう。
そう思ってから、ふと稽古中に考えていた事を思い出した。稽古の間ではなく、夢の中で思い付いたのかも知れないけど。思考を巡らせれば、今こうして手を繋いでいる理由にも思い当たる。
「手、離そか?外じゃ嫌やろ」
「……ううん」
かぶりを振って、そのままで良いからと手に力を込めた。今はまだ、生まれた温もりを失いたくない。
指先から浸透して行く愛しさに、光一はじっと耐えた。
俺達には永遠がある。
またぐるぐると同じ事を考えている、と己を嘲笑った。剛を信じてるのに、悪い癖やな。
がたんと箱が揺れて扉が開いた。確認する目を向けられたけど、気付かない振りをして外に出る。ロビーに人がいる事は気にならなかった。
この手を永遠に自分の物にしたいと思う。剛の全てを独り占めするのは不可能だから、せめてこの温かい手だけはいつでも自分だけに向いていて欲しい。
けれど、永遠にも限りがあるから。無限とされていた宇宙にさえ果てがあるのと同じ様に。
俺達の最果てもきっと何処かに。
こんな事ばかり考えているから、彼の言葉で幸せになれないのだ。今だけを見て生きている筈なのに、俺はこんなにも永遠が欲しい。
剛は、永遠の先を知っているだろうか。
自動扉を通り抜けて寒空の下に出ると、表階段の手前で光一が急に立ち止まった。先を歩いていた剛は、既に二段降りた所で一緒に足を止める。手を引かれたから身体ごと振り返った。
また可笑しな事を考えているのには気付いている。それが夢の続きなのか、彼特有の悲観的思考故なのかは分からなかったけれど。
怖がっているのは確かだから、安心出来る様真っ直ぐに見詰める。
光一は恋人の真摯な視線を受け止めて、小さく息を吸い込んだ。冬の空気が肺に流れ込んで意識を鮮明にする。
そして、告げた。
剛から永遠を手に入れる為に。
「俺、ずっと一緒いたいねん。剛と」
白い息を吐き出しながら言えば、恋人が破顔する。ゆっくりと。
「いつも、一緒、やろ?」
余りに軽く渡された言葉の真実に光一は泣きそうになった。眉を顰める事で感情の動きに逆らうと、更に深く剛が笑む。
「我慢したあかんよ。光ちゃんはいっつもそぉやなあ」
「……んな事ない」
「俺が必ずお前を見届けるから、何も怖がらんでええよ。俺だけ、信じとき」
この人は終わりを知っているのだと思った。最後の場所を知っていながら永遠を誓うのだ。永遠が果てたらまた最初から始めれば良いと、事も無げに笑う。
その強さに甘えても良いのだろうか。
剛が繋いだ手を持ち上げて、色を失った白い手の甲に口付ける。
それは、祈りの姿だった。
騎士が忠誠を示す為の敬愛のキスは、二人にとって永遠の契りになる。
「アイシテル」
永遠に。否、永遠の先までも。
俺達は、永遠を繰り返し積み重ねて、二人になる。
繋がれたこの運命が離れない様にと願う。彼と過ごした今までの春秋と、これから重ねて行くであろう途方もない歳月を思いながら。
俺は、永遠の意味を知る。
「……光一君!」
いきなり意識を呼び戻されて、はっと顔を上げた。どうやら気付かぬ内に机の上に突っ伏していたらしい。
「あれ。俺、寝てた?」
「てゆーより、気ぃ失ってたよ」
呆れた顔で秋山が笑う。身体を起こして額に張り付いている濡れた前髪をかき上げると、その深い顔立ちを見上げた。
此処はSHOCKの稽古部屋で、つい先刻まで立ち稽古をしていた筈だ。手直しが必要だと言う事に気付いて、それで。
其処から先の記憶がない。
体力には自信があるのに。歳かな、と一人ごちる。
「これからまだまだ先は長いんですから、あんま無理しないで下さいよ。俺らメッチャ心配なんだから」
今年の冬もまた、彼らと過ごせている。彼らの存在が段々と馴染んで来る感触は悪くない。
ゆっくりと自分の日常に溶け込んで行く。彼の様に。
「……お前らも多いなあ。俺の人生」
脈絡のない言葉を彼との付き合いの長さと、持ち前の勘の良さで割と正確に読み取った秋山は、小さく溜息を吐いた。いつだってこの人の思考回路の中心は彼だけなのだ。
扉の位置に人の気配を感じてそちらに視線を遣りながら答える。
「俺らも長いけどね。でも、敵わないよ」
躊躇なく入って来た部外者に笑顔を向けながら呟いた。運命よりも強くて深い、その逃れようもない束縛で難無く光一を囲う。
ナイーヴでセンシティヴな癖に誰よりも傲慢な彼の愛の形は歪だったけれど、秋山はそれが嫌いではなかった。
「お迎え来たよ」
「え?」
不思議な顔をして見上げて来る光一は、多分今日のスケジュールを知らない。全く困った先輩だと苦く笑った。
「何やお前、寝惚けとんなあ」
揶揄する口振りで、剛は光一の前に現れる。
「……つよし、あれ?」
状況把握出来ていない瞳で瞬きした。仕方なく秋山が説明してやる。
「光一君はこれから歌番の収録でしょ。それが終わったらコンサートの稽古で、また俺らと合流ですよ」
「ふーん」
感心した様な興味のない様な曖昧な音で答えた光一の視線は、既に剛に向けられていた。やれやれと秋山は頭を掻く。
目の前に立つ見慣れ過ぎた人を黒目がちな瞳が凝視していた。この二人に『飽きる』と言う単語は存在しないらしい。
机の上に置かれていた手が、不意に持ち上がる。ゆっくりとその腕は相方に差し伸べられた。無表情な硝子の瞳は澄んでいて、何も映し出してはくれない。
「お姫様、貴方のナイトがお迎えに上がりましたよ」
伸ばされた手を正確に捕まえて、剛はゆったり笑う。光一はいつもの軽口に怯む様子も見せず、重ねられた手をしっかり握り締めた。しかしそれは意識しての行動ではなかった様で、惑った瞳を迷子みたいに潤ませる。
「相変わらず冷たいな。こんなに動いとんのに」
反対側の手を使って、濡れた髪を梳いた。何もかもを理解した素振りで、座ったままの恋人を立ち上がらせる。秋山に光一の荷物を持って来させて受け取った。
「じゃ、また後でな」
「はーい、お疲れ様でした」
手を繋いだまま出て行く二人の背中に、後輩達の挨拶の声が何度も投げられた。
エレベーターに乗り込むと、漸く目覚めた恋人が繋がれた指先を不審そうに見詰める。
「剛、なんこれ?」
繋いだ指の先にいる人に声を掛けた。
「あー、やっと起きたかー。スタジオ着いても起きんかったらどうしようって悩んでたわ、今」
顔を覗き込まれて笑われると、身動き出来ない位胸が一杯になる。どうして、こんなに好きなんだろう。
そう思ってから、ふと稽古中に考えていた事を思い出した。稽古の間ではなく、夢の中で思い付いたのかも知れないけど。思考を巡らせれば、今こうして手を繋いでいる理由にも思い当たる。
「手、離そか?外じゃ嫌やろ」
「……ううん」
かぶりを振って、そのままで良いからと手に力を込めた。今はまだ、生まれた温もりを失いたくない。
指先から浸透して行く愛しさに、光一はじっと耐えた。
俺達には永遠がある。
またぐるぐると同じ事を考えている、と己を嘲笑った。剛を信じてるのに、悪い癖やな。
がたんと箱が揺れて扉が開いた。確認する目を向けられたけど、気付かない振りをして外に出る。ロビーに人がいる事は気にならなかった。
この手を永遠に自分の物にしたいと思う。剛の全てを独り占めするのは不可能だから、せめてこの温かい手だけはいつでも自分だけに向いていて欲しい。
けれど、永遠にも限りがあるから。無限とされていた宇宙にさえ果てがあるのと同じ様に。
俺達の最果てもきっと何処かに。
こんな事ばかり考えているから、彼の言葉で幸せになれないのだ。今だけを見て生きている筈なのに、俺はこんなにも永遠が欲しい。
剛は、永遠の先を知っているだろうか。
自動扉を通り抜けて寒空の下に出ると、表階段の手前で光一が急に立ち止まった。先を歩いていた剛は、既に二段降りた所で一緒に足を止める。手を引かれたから身体ごと振り返った。
また可笑しな事を考えているのには気付いている。それが夢の続きなのか、彼特有の悲観的思考故なのかは分からなかったけれど。
怖がっているのは確かだから、安心出来る様真っ直ぐに見詰める。
光一は恋人の真摯な視線を受け止めて、小さく息を吸い込んだ。冬の空気が肺に流れ込んで意識を鮮明にする。
そして、告げた。
剛から永遠を手に入れる為に。
「俺、ずっと一緒いたいねん。剛と」
白い息を吐き出しながら言えば、恋人が破顔する。ゆっくりと。
「いつも、一緒、やろ?」
余りに軽く渡された言葉の真実に光一は泣きそうになった。眉を顰める事で感情の動きに逆らうと、更に深く剛が笑む。
「我慢したあかんよ。光ちゃんはいっつもそぉやなあ」
「……んな事ない」
「俺が必ずお前を見届けるから、何も怖がらんでええよ。俺だけ、信じとき」
この人は終わりを知っているのだと思った。最後の場所を知っていながら永遠を誓うのだ。永遠が果てたらまた最初から始めれば良いと、事も無げに笑う。
その強さに甘えても良いのだろうか。
剛が繋いだ手を持ち上げて、色を失った白い手の甲に口付ける。
それは、祈りの姿だった。
騎士が忠誠を示す為の敬愛のキスは、二人にとって永遠の契りになる。
「アイシテル」
永遠に。否、永遠の先までも。
俺達は、永遠を繰り返し積み重ねて、二人になる。
年男になる貴方へ。
また四ヶ月間年上になってしまう事への悔しさとかは、もうこの長い月日の中で薄れてしまったけれど。一つ、年を重ねる事が。また一歩、俺達の距離を縮める事になれば良いな。
二十四歳、おめでとう。
光一、今年は一緒に何しようか。いつもの素振りででも甘い声で提案したら貴方は、「じゃ、一緒に一杯仕事しよ」って言うやろね。お日様みたいな笑顔、きらきら振り撒いて。
嬉しそうな顔見たらきっと、俺も笑って頷いてしまうだろう。やっぱキンキやね、なんて事位は言うかも知れん。いつも通りの空気になって、それでも楽しいかな。
俺がもう必死に仕事に追い付かなくなってから、どれ位経つんやろ。この年月を後悔した事なんてないけれど。
一人の間、歯を食い縛って必死に頑張り続けた貴方は。俺の知らない、大人の顔をする様になったね。それを切なさと共に嬉しい気持ちで見詰められる様になった俺も、少しは大人になれたんかな。
可笑しいな。昔は大人になんて絶対ならんて思ってたのに。『大人』って呼ばれる歳になってから急に、大人になりたなったわ。あれだけ拒絶し続けた世界も、今は大切な俺の一部になっている。そう思えるようになったんは、勿論お前のおかげやで。
俺は今、お前の隣にちゃんと立ててるか?不安は今年もついて回りそうや。弱い俺の心情の揺れにも慣れて。光一は、柔らかく笑ってくれている。
ありがとう、なんて言葉じゃとても足らん位感謝しとるよ。
今年はもう少し、男前になるからな。そんで、光ちゃん守ってやんねん。
いつもいつも自覚のない君やから、この際はっきり言うとくけど。スタッフやら共演者やらが触れて来るんは、絶対セクハラやぞ!
お前は触られても仕事やからってにこにこしてるし。其処は我慢するとこちゃう。相手殴り飛ばす位の気持ちでいるべきや。
後なあ、懐いた人に見境なく触んのもやめろ。無防備過ぎんねん。絶対、絶っ対勘違いされてるからな!
本当に、自覚なさ過ぎや。俺がどれだけの人間に牽制掛けてんのか知ってんのか?……否、知られても俺がやばいだけなんやけどな。
だから、もう。それ以上綺麗になるのはやめて下さい。
毎年毎年、これ以上は無理だと思うのに、更に美しく変貌を遂げて行く貴方に。俺は気が狂うのではないかと、不安です。
今年もまた可愛くなったりでもしたら、今度こそ本当に誰の目にも触れんように閉じ込めてまうからな。これだけは、覚悟しとけよ。
プライベートも去年は充実してたから、あんま具体的な事思い付かへんなあ。今年は思い切って、完全プライベートで旅行でもしてみるか。
海外旅行。……あーでも、飛行機嫌やな。ま、そんな予定はゆっくり考える事にして。
今年こそ、ちゃんと切り出してみようか。「一緒に暮らそう」と。
基本的にどちらか片方の部屋にしかいないのだから、何の問題もないと思うのだけど。きっとまだ、怯えた心があるのだろう。
近くに行き過ぎて嫌われるのを恐れている。見せたくない部分を繕えなくなる事に恐怖を抱いていた。全てを差し出す事に今でも躊躇している。
鉄壁に守られた脆い内面は、簡単に傷つくから。
阿呆やな。これだけ光一の良い所も悪い所も全部知っていて、知り尽くしていて、それでも尚一緒にいたいと思っているのに。もう行ける所まで一緒に行くつもりなのに。
まだお前は、俺に逃げ道を用意して。自分が追い込んでしまわないようにと細心の注意を払って。そんなんいらんっちゅーねん。
なかなか思いの全部は伝わらない。もどかしい距離を埋めたかった。頭で理解出来ないのなら、温もりで溶かすしかない。そんな距離を手に入れたかった。
やっぱり早い内に提案、やな。もう、逃げ道なんか作らせへんで。
去年散々別々にされた事で、プラスに働いた事も沢山あった。お互いを遠くで見詰めて初めて気付く知らない表情、それでも一番近くにいると言う優越感。離れていても感じる信頼。自分が辛い時に黙って傍にいてくれる温もり。
全てが二人を安心させた。全てが、二人を成長させたのだと思う。二人でいる事を焦らなくなった。
離すだけ離されて気付いた、相方の存在と言う重みは、もしかしたら恋人以上かも知れない。そんな風に思えるまでに至ったのだ。もう今年は、恐れる物等何もなかった。
だからこそ、少しだけ。たった一つ。密かな願いを口にする事が許されるのなら。
今年こそは一緒にいさせて下さい。俺の目の届く所に。いつでも光一を。そんな貪欲な俺の願い。
お前が聞いたら、一体どんな顔するんやろな。
今年は。あんま頑張らんとゆっくり行こうや。厄年やしな。厄は周りの人間に迷惑掛けるんやって。お前、そう言うの一番嫌いやろ?
だからさ。
一歩一歩確実に、周りを見ながらいつも通り手繋いで歩こう。走ったりしたらあかんで?立ち止まって自分の来た道振り返んのも大事な事や。
これもきっと嫌いやろうな。でも、俺達に必要な事やねん。
立ち止まって振り返るのが怖いんなら、一緒におったるから。手を離す事だけはもう絶対にしない。
まだまだ先は長いんやから。息切れせんように、行こな。
こんな事言っても、やっぱり最初から一人で突っ走る貴方だけど。今年も一緒に頑張ろうな。
誕生日、おめでと。もうちょい待っとって。
また四ヶ月間年上になってしまう事への悔しさとかは、もうこの長い月日の中で薄れてしまったけれど。一つ、年を重ねる事が。また一歩、俺達の距離を縮める事になれば良いな。
二十四歳、おめでとう。
光一、今年は一緒に何しようか。いつもの素振りででも甘い声で提案したら貴方は、「じゃ、一緒に一杯仕事しよ」って言うやろね。お日様みたいな笑顔、きらきら振り撒いて。
嬉しそうな顔見たらきっと、俺も笑って頷いてしまうだろう。やっぱキンキやね、なんて事位は言うかも知れん。いつも通りの空気になって、それでも楽しいかな。
俺がもう必死に仕事に追い付かなくなってから、どれ位経つんやろ。この年月を後悔した事なんてないけれど。
一人の間、歯を食い縛って必死に頑張り続けた貴方は。俺の知らない、大人の顔をする様になったね。それを切なさと共に嬉しい気持ちで見詰められる様になった俺も、少しは大人になれたんかな。
可笑しいな。昔は大人になんて絶対ならんて思ってたのに。『大人』って呼ばれる歳になってから急に、大人になりたなったわ。あれだけ拒絶し続けた世界も、今は大切な俺の一部になっている。そう思えるようになったんは、勿論お前のおかげやで。
俺は今、お前の隣にちゃんと立ててるか?不安は今年もついて回りそうや。弱い俺の心情の揺れにも慣れて。光一は、柔らかく笑ってくれている。
ありがとう、なんて言葉じゃとても足らん位感謝しとるよ。
今年はもう少し、男前になるからな。そんで、光ちゃん守ってやんねん。
いつもいつも自覚のない君やから、この際はっきり言うとくけど。スタッフやら共演者やらが触れて来るんは、絶対セクハラやぞ!
お前は触られても仕事やからってにこにこしてるし。其処は我慢するとこちゃう。相手殴り飛ばす位の気持ちでいるべきや。
後なあ、懐いた人に見境なく触んのもやめろ。無防備過ぎんねん。絶対、絶っ対勘違いされてるからな!
本当に、自覚なさ過ぎや。俺がどれだけの人間に牽制掛けてんのか知ってんのか?……否、知られても俺がやばいだけなんやけどな。
だから、もう。それ以上綺麗になるのはやめて下さい。
毎年毎年、これ以上は無理だと思うのに、更に美しく変貌を遂げて行く貴方に。俺は気が狂うのではないかと、不安です。
今年もまた可愛くなったりでもしたら、今度こそ本当に誰の目にも触れんように閉じ込めてまうからな。これだけは、覚悟しとけよ。
プライベートも去年は充実してたから、あんま具体的な事思い付かへんなあ。今年は思い切って、完全プライベートで旅行でもしてみるか。
海外旅行。……あーでも、飛行機嫌やな。ま、そんな予定はゆっくり考える事にして。
今年こそ、ちゃんと切り出してみようか。「一緒に暮らそう」と。
基本的にどちらか片方の部屋にしかいないのだから、何の問題もないと思うのだけど。きっとまだ、怯えた心があるのだろう。
近くに行き過ぎて嫌われるのを恐れている。見せたくない部分を繕えなくなる事に恐怖を抱いていた。全てを差し出す事に今でも躊躇している。
鉄壁に守られた脆い内面は、簡単に傷つくから。
阿呆やな。これだけ光一の良い所も悪い所も全部知っていて、知り尽くしていて、それでも尚一緒にいたいと思っているのに。もう行ける所まで一緒に行くつもりなのに。
まだお前は、俺に逃げ道を用意して。自分が追い込んでしまわないようにと細心の注意を払って。そんなんいらんっちゅーねん。
なかなか思いの全部は伝わらない。もどかしい距離を埋めたかった。頭で理解出来ないのなら、温もりで溶かすしかない。そんな距離を手に入れたかった。
やっぱり早い内に提案、やな。もう、逃げ道なんか作らせへんで。
去年散々別々にされた事で、プラスに働いた事も沢山あった。お互いを遠くで見詰めて初めて気付く知らない表情、それでも一番近くにいると言う優越感。離れていても感じる信頼。自分が辛い時に黙って傍にいてくれる温もり。
全てが二人を安心させた。全てが、二人を成長させたのだと思う。二人でいる事を焦らなくなった。
離すだけ離されて気付いた、相方の存在と言う重みは、もしかしたら恋人以上かも知れない。そんな風に思えるまでに至ったのだ。もう今年は、恐れる物等何もなかった。
だからこそ、少しだけ。たった一つ。密かな願いを口にする事が許されるのなら。
今年こそは一緒にいさせて下さい。俺の目の届く所に。いつでも光一を。そんな貪欲な俺の願い。
お前が聞いたら、一体どんな顔するんやろな。
今年は。あんま頑張らんとゆっくり行こうや。厄年やしな。厄は周りの人間に迷惑掛けるんやって。お前、そう言うの一番嫌いやろ?
だからさ。
一歩一歩確実に、周りを見ながらいつも通り手繋いで歩こう。走ったりしたらあかんで?立ち止まって自分の来た道振り返んのも大事な事や。
これもきっと嫌いやろうな。でも、俺達に必要な事やねん。
立ち止まって振り返るのが怖いんなら、一緒におったるから。手を離す事だけはもう絶対にしない。
まだまだ先は長いんやから。息切れせんように、行こな。
こんな事言っても、やっぱり最初から一人で突っ走る貴方だけど。今年も一緒に頑張ろうな。
誕生日、おめでと。もうちょい待っとって。
二月は忙しい。そんなのは分かり切っている事実だし、自分で望んでやっている仕事なのだから弱音を吐く事は許されないと思っていた。
毎年恒例の舞台の為に、スタジオに行く時間もなかなか取れない光一は、帝劇の楽屋でインタビューを受けている。写真撮影は既に終わっているから、この記事は来月号にでもなるのだろう。
インタビューに来た女性はもう何年も付いてくれている人で緊張する事なく楽しく話せた。光一の姿を見るなり心配した顔ではなく「頑張ってるわね」と笑顔で言うこの人は好きだと思う。
いつもいつも心配ばかりして自分の方が痛いみたいな表情をする人を思い出して、すぐにその残像を追い払った。
質問されるのは『もしも』の事。今此処にこうして立っているのがやっとの自分に仮定の話は余り意味を為さなかった。
こんなん読んで何が楽しいんやろ、と醒めた頭で考える。けれど、淀みなく言葉は零れた。
「生まれ変わってもこの世界で働きたい?」
優しい口調で問われる。輪廻転生の是非なんて考えられた事もないのに、必ず聞かれる問いだった。
光一は苦手な質問に一瞬眉を顰めて、それでも変わらない穏やかな表情で答える。
「生まれ変わってみないと分からないけど、もしまた此処に立つ事が出来たら頑張りたいとは思いますね」
当たり障りのない答えが二人の間に置かれたレコーダーに記録されて行く。昔は自分達の言葉が曖昧で、事務所の方針通りの答えが予め決まっていた。俺達は原稿を記憶さえしていれば良かった。
でも今は、比較的自由に発言する事を許されている。この世界に慣れた俺達に放任主義を示す様になった事務所の理解もあるけれど、相方が自分の言葉を届けたいと必死に闘ったから。
剛は、強い。
自分は事務所に意見しようとも、ましてや本当の言葉を仕事で発しようとも考えなかった。偶像であれば良いと思ったのは、諦めではなく臆病だからだ。
自分の感情をぎりぎりまで抑えられる標準語は、自由な発言を許されてから使うようになったと思う。隣に彼がいない限り、俺は『堂本光一』を演じる事が出来た。
レコーダーが止まって他愛無い事を話している時だった。つい言葉が零れたのは、慣れた人だったせいかも知れない。
それは多分、言わなくて良い事だった。
「ね、今の」
「ん?」
明るい笑顔を向けられる。その笑顔に促されて仕事の範疇を越えた事を聞いてしまう。
「生まれ変わったら、って質問。剛にもする?」
「そうね、基本的には同じ事を聞くから……」
「そっか」
出来れば剛には聞いて欲しくなかった。彼に他意はなくても、その答えにきっと自分は傷付くだろう。
剛は今この瞬間でさえ、仕事を望んでいない筈だ。昔より前向きになったとは言っても、心の深い所で拒絶している。今も。
彼の言葉に打ちのめされるのは自分の勝手だと分かっていた。それでも言葉に出してしまったのは。
「光一君」
少しだけ困った表情をしていた彼女がそっと呼び掛ける。壊れやすい物を扱う様な慎重さで。その声に光一は顔を上げた。
「何?」
敬語を使わないのは、慣れた人だから。人見知りで不器用な性格なりの親愛の表れだった。感情表現が苦手な光一の甘えを周りの人間は優しく受容する。
「あんなに舞台では輝いて強く見えるのにね……」
それが自然な動作とでも言う様に、彼女は小さな頭を母親の仕草で撫でた。けれど光一の身体が反射的に他人を拒む。
彼以外、触れてはならないのだ。それを寂しさではなく、純粋な思いとして受け止める。
「剛君の事だけね。そんな顔して見せるのは」
指先を離して渡した言葉は咎めるのでもなく呆れるのでもなく、唯目の前の事実を表しただけの優しさだった。
「光一君に泣きそうな顔されると皆弱いんだから、あんまりそんな顔しちゃ駄目よ」
「泣きそうって……」
笑おうとして失敗する。彼女の視線の柔らかさに安心してしまって。隠す事は苦手じゃない筈なのに、繕い切れない本心を吐露しそうになった。
剛を、この世界に閉じ込めたいと願う自分は醜くて嫌いだ。もっと、上手く愛せたら良いのに。
「この表情をカメラに納められたらっていっつも思うのよねえ」
「え」
「光一君の一番綺麗な表情だもの。笑った顔よりずっと素直」
『泣きそうな顔』と形容しているにも関わらず、嬉しそうに彼女は言う。綺麗と言われる事には慣れてしまったけれど、そんな風に言われるのは初めてだった。分からない顔をして動けずにいる光一をそのままに、彼女はてきぱきと後片付けを始めている。もう何も告げる事はないのだとでも言う様に。
帰り支度が済むと、やっと光一の方を向いた。真っ直ぐ見詰めて来る瞳は硝子の煌きで、どんな表情もなくても綺麗なのだと思う。純潔の白を持っている人だった。
けれど、この白を鮮やかに染め上げる人間がいた。何物にも染まらない黒の瞳を思い出す。
『堂本光一』に影響出来る唯一の人。
「あんまり剛君を見縊ったら駄目よ」
硝子色の瞳が言葉の意図を探る様に光を増した。この色に、人は惹かれるのだろう。
「良いコメント取って来るから楽しみにしてなさい」
お疲れ様と明るい声を響かせながら彼女は出て行く。残された光一は言葉の意味を見付けられず、唯言わなければ良かったと後悔していた。
剛の生き方や考え方にとやかく言う事は出来ない。例え相方であっても、恋人であっても。彼の生は彼だけの物だから。
唇を噛み締めて、一人苦い気持ちを持て余していた。
+++++
いつも発売前に雑誌を見る事は出来たが、忙しかったり自分の顔を見たくなかったりで余り目を通す事はない。自分の仕事の結果を見られないのは、プロとして失格だとは思うのだが。今でも写真は嫌いだった。
そんな自分を知っているからマネージャーも何も言わないのだけれど、何故か今日はわざわざ一誌だけ持って来てくれた。「ちゃんと見て欲しいって持って来てくれたんだよ」と言ってマネージャーは光一の手に雑誌を置くと、また忙しそうに部屋を出て行った。
舞台と月末に控えているコンサートのせいで先月の遣り取り等すっかり忘れていた光一は、首を傾げながら雑誌を開く。
自分達のページを見付けて息を詰めた。あの時の会話を思い出す。
生まれ変わったら。
縛り付けておけない事位、充分分かっていた。今隣にいてくれるのだからそれで良いと。
自分のコメントを飛ばして、剛の所を開いた。瞬きもせず、暫く緊張した面持ちで文章を追って行く。
そして、泣き声とも笑い声とも付かない声を発してから全身の力を抜いた。彼女の言葉を思い出す。
「別に、見縊ってた訳やないんやけどね……」
雑誌の中の剛に額を合わせて小さく呟く。言い訳めいた言葉は誰もいない楽屋の空間に消えた。
唯。
「俺はお前を信じられんねん」
きっと、一生。死んでも。
信用出来ないのは不幸な事だと思いながら、それでも満ち足りた気分で雑誌を閉じた。
『俺は昔からこの世界が好きやなかったし、こんなとこにいる自分が嫌いやった。だから、生まれ変わったら違う仕事をしたいってずっと思ってました。
でも今は、少し違うかも知れない。もし生まれ変わった時に相方が俺の隣にいたら、もう少し頑張れるんやないかなって、そう思えるようになったんです。』
毎年恒例の舞台の為に、スタジオに行く時間もなかなか取れない光一は、帝劇の楽屋でインタビューを受けている。写真撮影は既に終わっているから、この記事は来月号にでもなるのだろう。
インタビューに来た女性はもう何年も付いてくれている人で緊張する事なく楽しく話せた。光一の姿を見るなり心配した顔ではなく「頑張ってるわね」と笑顔で言うこの人は好きだと思う。
いつもいつも心配ばかりして自分の方が痛いみたいな表情をする人を思い出して、すぐにその残像を追い払った。
質問されるのは『もしも』の事。今此処にこうして立っているのがやっとの自分に仮定の話は余り意味を為さなかった。
こんなん読んで何が楽しいんやろ、と醒めた頭で考える。けれど、淀みなく言葉は零れた。
「生まれ変わってもこの世界で働きたい?」
優しい口調で問われる。輪廻転生の是非なんて考えられた事もないのに、必ず聞かれる問いだった。
光一は苦手な質問に一瞬眉を顰めて、それでも変わらない穏やかな表情で答える。
「生まれ変わってみないと分からないけど、もしまた此処に立つ事が出来たら頑張りたいとは思いますね」
当たり障りのない答えが二人の間に置かれたレコーダーに記録されて行く。昔は自分達の言葉が曖昧で、事務所の方針通りの答えが予め決まっていた。俺達は原稿を記憶さえしていれば良かった。
でも今は、比較的自由に発言する事を許されている。この世界に慣れた俺達に放任主義を示す様になった事務所の理解もあるけれど、相方が自分の言葉を届けたいと必死に闘ったから。
剛は、強い。
自分は事務所に意見しようとも、ましてや本当の言葉を仕事で発しようとも考えなかった。偶像であれば良いと思ったのは、諦めではなく臆病だからだ。
自分の感情をぎりぎりまで抑えられる標準語は、自由な発言を許されてから使うようになったと思う。隣に彼がいない限り、俺は『堂本光一』を演じる事が出来た。
レコーダーが止まって他愛無い事を話している時だった。つい言葉が零れたのは、慣れた人だったせいかも知れない。
それは多分、言わなくて良い事だった。
「ね、今の」
「ん?」
明るい笑顔を向けられる。その笑顔に促されて仕事の範疇を越えた事を聞いてしまう。
「生まれ変わったら、って質問。剛にもする?」
「そうね、基本的には同じ事を聞くから……」
「そっか」
出来れば剛には聞いて欲しくなかった。彼に他意はなくても、その答えにきっと自分は傷付くだろう。
剛は今この瞬間でさえ、仕事を望んでいない筈だ。昔より前向きになったとは言っても、心の深い所で拒絶している。今も。
彼の言葉に打ちのめされるのは自分の勝手だと分かっていた。それでも言葉に出してしまったのは。
「光一君」
少しだけ困った表情をしていた彼女がそっと呼び掛ける。壊れやすい物を扱う様な慎重さで。その声に光一は顔を上げた。
「何?」
敬語を使わないのは、慣れた人だから。人見知りで不器用な性格なりの親愛の表れだった。感情表現が苦手な光一の甘えを周りの人間は優しく受容する。
「あんなに舞台では輝いて強く見えるのにね……」
それが自然な動作とでも言う様に、彼女は小さな頭を母親の仕草で撫でた。けれど光一の身体が反射的に他人を拒む。
彼以外、触れてはならないのだ。それを寂しさではなく、純粋な思いとして受け止める。
「剛君の事だけね。そんな顔して見せるのは」
指先を離して渡した言葉は咎めるのでもなく呆れるのでもなく、唯目の前の事実を表しただけの優しさだった。
「光一君に泣きそうな顔されると皆弱いんだから、あんまりそんな顔しちゃ駄目よ」
「泣きそうって……」
笑おうとして失敗する。彼女の視線の柔らかさに安心してしまって。隠す事は苦手じゃない筈なのに、繕い切れない本心を吐露しそうになった。
剛を、この世界に閉じ込めたいと願う自分は醜くて嫌いだ。もっと、上手く愛せたら良いのに。
「この表情をカメラに納められたらっていっつも思うのよねえ」
「え」
「光一君の一番綺麗な表情だもの。笑った顔よりずっと素直」
『泣きそうな顔』と形容しているにも関わらず、嬉しそうに彼女は言う。綺麗と言われる事には慣れてしまったけれど、そんな風に言われるのは初めてだった。分からない顔をして動けずにいる光一をそのままに、彼女はてきぱきと後片付けを始めている。もう何も告げる事はないのだとでも言う様に。
帰り支度が済むと、やっと光一の方を向いた。真っ直ぐ見詰めて来る瞳は硝子の煌きで、どんな表情もなくても綺麗なのだと思う。純潔の白を持っている人だった。
けれど、この白を鮮やかに染め上げる人間がいた。何物にも染まらない黒の瞳を思い出す。
『堂本光一』に影響出来る唯一の人。
「あんまり剛君を見縊ったら駄目よ」
硝子色の瞳が言葉の意図を探る様に光を増した。この色に、人は惹かれるのだろう。
「良いコメント取って来るから楽しみにしてなさい」
お疲れ様と明るい声を響かせながら彼女は出て行く。残された光一は言葉の意味を見付けられず、唯言わなければ良かったと後悔していた。
剛の生き方や考え方にとやかく言う事は出来ない。例え相方であっても、恋人であっても。彼の生は彼だけの物だから。
唇を噛み締めて、一人苦い気持ちを持て余していた。
+++++
いつも発売前に雑誌を見る事は出来たが、忙しかったり自分の顔を見たくなかったりで余り目を通す事はない。自分の仕事の結果を見られないのは、プロとして失格だとは思うのだが。今でも写真は嫌いだった。
そんな自分を知っているからマネージャーも何も言わないのだけれど、何故か今日はわざわざ一誌だけ持って来てくれた。「ちゃんと見て欲しいって持って来てくれたんだよ」と言ってマネージャーは光一の手に雑誌を置くと、また忙しそうに部屋を出て行った。
舞台と月末に控えているコンサートのせいで先月の遣り取り等すっかり忘れていた光一は、首を傾げながら雑誌を開く。
自分達のページを見付けて息を詰めた。あの時の会話を思い出す。
生まれ変わったら。
縛り付けておけない事位、充分分かっていた。今隣にいてくれるのだからそれで良いと。
自分のコメントを飛ばして、剛の所を開いた。瞬きもせず、暫く緊張した面持ちで文章を追って行く。
そして、泣き声とも笑い声とも付かない声を発してから全身の力を抜いた。彼女の言葉を思い出す。
「別に、見縊ってた訳やないんやけどね……」
雑誌の中の剛に額を合わせて小さく呟く。言い訳めいた言葉は誰もいない楽屋の空間に消えた。
唯。
「俺はお前を信じられんねん」
きっと、一生。死んでも。
信用出来ないのは不幸な事だと思いながら、それでも満ち足りた気分で雑誌を閉じた。
『俺は昔からこの世界が好きやなかったし、こんなとこにいる自分が嫌いやった。だから、生まれ変わったら違う仕事をしたいってずっと思ってました。
でも今は、少し違うかも知れない。もし生まれ変わった時に相方が俺の隣にいたら、もう少し頑張れるんやないかなって、そう思えるようになったんです。』
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