小説の再編集とか、資料とか、必要な諸々を置いておくブログ
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自分の出ていた舞台を客席から見る事は、思い掛けず感情の動揺を引き起こした。
唯の観客として見るつもりだったのに。
自分にとって、どれだけこの舞台が特別なものだったのかを胸の痛みで気付かされる。
特別な舞台。
特別なカンパニー。
そして、特別な座長。
忘れる事など出来ない、冬の恋だった。
部屋の奥にしまった台本の間に挟んで終えた筈の感情がまた心をざわめかせる。
桜の花弁が彼に降り注ぐ。
幻想的な空気だった。
彼だからこそ、あの儚さとしたたかさを表現出来るのだろう。
死して尚、美しい人。
夢物語なのに説得力があるのはきっと、彼自身が夢とうつつの狭間で生きているからだった。
力強く、優しく、そして悲しい。
生き急ぎ過ぎた彼は、いつかゆっくりと眠れるのだろうか。
天国と言う、幻想の場所で。
誰にも身体を預ける事なく、孤高のまま。
独り眠るその場所が、幸福と程遠い事を、多分自分は彼と関わる誰よりも深く知っていた。
毎日毎日、この場所で彼は死んで行く。
哀しみの連鎖に、涙が溢れた。
その圧倒的な孤独に飲み込まれる。
魂ごと連れ去られるような、そんな舞台だった。
連れ去られたいと願う、愚かな自分は見ない振りをする。
だってもう、俺は此処の住人ではなかった。
離れた場所で泣く事しか出来ない。
貴方を思って。
貴方だけを愛して。
冬の恋は、今もまだ此処にある。
+++++
「お疲れ様です」
錦戸は、遠慮がちに座長の楽屋へ声を掛ける。
少しだけ時間があるから挨拶して来たら良いよ、とマネージャーに言われるまま此処に来てしまった。
まだ心臓には先刻までの感情が渦巻いていて少し怖い。
早く、自分の生きる場所へと戻らなければと思った。
仲間のいる、あの空間へと。
「おう、錦戸やん。入り」
シャワーを浴びたらしい光一は、定番のバスローブ姿で寛いでいた。
メイクを落とした表情は何も取り繕わずに向けられるから、少し怯んでしまう。
お邪魔します、と呟いて畳へ上がった。
真正面に見る久しぶりの光一は、疲労を色濃く見せてはいるけれど穏やかに笑う。
ああ、舞台を降りてもやっぱりこの人には現実味がない。
緊張して正座をすれば、小さく笑われた。
居心地悪く視線を下へ落とす。
光一の、シャンプーの匂い。
五感全てで惑わされそうで怖かった。
「久しぶりやなあ」
「……久しぶりなんかやないですよ。カウントダウンで会うてるやないですか」
「そお?」
「光一君が無視するくせに」
視線を向ければ、困ったように笑われた。
穏やかな空気。
二年前の光一より、ずっと落ち着いている。
でもこれは、前向きなものではなく諦めを積み重ねた気配だった。
スポットライトを一心に受けている人間の持つ空気ではない。
「無視、してる訳やないんよ。錦戸、忙しそうやし、二つもグループ持っとるし、年男やし。……声、掛けれらんのやもん」
「年男は関係ないんやないですか」
呆れた声で言えば、ふわと笑うから力を抜いて足を崩した。
そのついでに、ほんの少し距離を縮める。
真っ黒な瞳はあどけなさすら残しているのに。
先刻まで舞台の上にいたのと同じ人間だとは思えなかった。
柔らかくて、儚くて、抱き締めていてあげないと、生きられないんじゃないかと。
手を伸ばしたい衝動を必死に抑える。
「錦戸」
「はい」
「お前、帝劇やと真っ直ぐ見てくれるんやな」
「え?」
「他のどこで会っても、絶対目ぇ合わさへんやろ。嫌われてるんかなあって思った」
「嫌ってなんか!」
「うん。今、分かった」
焦った自分に、相変わらず穏やかな笑みが向けられた。
こんな笑い方をする人だっただろうか。
何処にも感情を見つけられない。
「……光一君」
「ん?」
「ちゃんと、……ちゃんと自分の事、大事にしてますか?」
「錦戸?」
「何か、今の光一君。何処触っても悲しいもんでいっぱいみたいに見えるから。……っすいません」
何を言っているんだろうと、目を伏せた。
こんな、接点の少ない後輩が言うべき言葉ではない。
どれだけ自分が光一を特別に思っていても。
今日は、挨拶をして帰るだけのつもりだった。
この劇場に入ると、蓋をした筈の感情が溢れ出してしまう。
愛したい。
この強い人を守りたい、と。
「錦戸には、そう見えるん?」
何でもない事みたいな目をして問われる。
その瞳の奥にあるものを守りたいと思って、けれど同時に壊してしまいたいとも願った。
相反する衝動は、きっと自分が強欲なせいだ。
「光一君……」
「俺、悲しそう?」
「……はい。悲しい目、してます」
「そぉか」
感情を込めない顔で笑う。
手を伸ばして抱き締めてしまいたかった。
あの頃のような衝動は、今の自分の何処にも存在しない。
距離があり過ぎた。
もう、同じ光の中には立てない。
彼の背中を見て踊る事は二度とないだろう。
台本の間に仕舞われたままの恋情は、自分の手から離れてしまった。
「錦戸は、よぉ俺の事知っとるな」
「……え」
「目も合わせてくれんのに」
柔らかな表情のまま、光一はす、と距離を縮める。
躊躇のない動作に怯んだ。
諦めを抱えた光一は怖い。
何もかもを投げ出してしまいそうな、危うい雰囲気を持っていた。
本当は、周囲の事を考えて逃げる事など出来ない強い人だとは知っている。
けれど、そんな予感を色濃く見せる光一の瞳は恐怖だった。
「お前と、似てんのかな」
「……似てませんよ」
「じゃあ、何でそんなに俺ん事分かるん?」
「……尊敬、してるからです」
「尊敬?そんなんする奴ちゃうやろ、お前」
「他に、貴方に向けられる感情はありませんから」
強く拒絶を示せば、傷付いた顔もせずに身体を引いた。
ふわ、とシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
今すぐ抱き寄せて押し倒したかった。
こんな感情を、渡せる筈はない。
「尊敬する事務所の先輩」、それ以外にどんな言葉で表せると言うのか。
相変わらず残酷な人だった。
「じゃあ、そろそろ行きます」
「え、もう行くん?」
「はい。挨拶に伺っただけですから」
「……そっか」
「そんな残念そうな顔しないで下さい。期待してまいますよ」
「期待、してるんやもん」
「馬鹿じゃないですか?」
「あ!関西人に馬鹿はあかんやろ!」
「分かってて言ってるんです」
惑わされる前に立ち上がった。
自分じゃない後輩ともこんなやり取りをするのだろうか。
誰でも良いから連れ出して欲しい、と思っているのだろうか。
引きずられるつもりは更々ないけれど、出来る事なら光一が訳の分からない甘えを見せるのは自分だけであって欲しいと願った。
誘惑と紙一重の臆病さは、きちんと自分が捨ててみせる。
「光一君」
「ん?」
「プレゼント、何が良いですか?」
「へ?」
「誕生日やったでしょ。プレゼント、欲しい物教えて下さい。今度会った時、渡せるように準備しときますから」
今度がいつかなんて分かる筈もなかった。
けれど、約束をすれば避けなくても済む。
理由を作って、光一の世界に少しでも自分を残したかった。
忘れられない為に。
「何が良いですか?何でもええですよ」
「何でも?」
「あ、車とかは駄目ですからね」
「あんなあ、俺を何やと思っとんねん。……物じゃなくても、ええ?」
「……はい」
見下ろす光一の瞳が、揺らめいた。
水分が膜を張って、彼を弱い生き物に見せる。
舞台の上の強さが嘘みたいないたいけな表情だった。
「変わらんもの、がええ」
「変わらない物?」
「うん」
「それって……」
「錦戸が思う、変わらんもん。それでええ。それ、ちょうだい」
「……難問ですね」
「誕生日プレゼントやろ?俺が欲しいもん欲しいやん」
穏やかな表情は崩れないまま。
けれど、それが先輩として見せる繕ったものではないと言う事をちゃんと知っていた。
メイクを落とした光一は、容易く真実を晒す。
自分自身に頓着がないから、こんな恐ろしい事が出来るのだろう。
特別親しい訳でもない後輩の前で見せていい表情ではなかった。
寂しがりやで脆い、彼の心。
ふ、と息を吐いた後なるべく優しく笑った。
彼を不安にさせない為に。
「変わらん物、ですね。分かりました。今度会う時、楽しみにしてて下さいね」
「うん」
「光一君、いつからなぞなぞなんて好きになったんですか?」
「ええやろ。俺も人とコミュニケーション出来るようにならなあかんと思ったから。勉強中」
「……勿体ないから、コミュニケーションなんかせんでええです」
「錦戸は、俺が欲しい言葉、ほんまによぉ知ってんなあ」
勝手な独占欲は、光一のお気に召したらしい。
あんたを独り占め出来るような場所にはいないんですけどね。
それでも、本心からの言葉だと分かっていたから少しだけ手を伸ばして頬を撫でた。
体温を感じさせない肌でも、ほんのりと温かい。
生きているのだと実感出来て嬉しかった。
夢じゃない。
彼は、目の前で生きて苦しんでもがき続けていた。
綺麗なだけの存在ではないと知っている事が嬉しい。
「じゃ、失礼します」
「うん、気を付けてな。次は……またカウコンかな」
「俺ん事、忘れないで下さいね」
「……忘れられへんわ」
最後は小さな声で。
臆病な光一に笑みを返して、楽屋を後にした。
早く仲間のいる場所に戻ろう。
劇場を出ると、待機していた事務所の車へ乗り込んだ。
これからまた仕事だ。
現場で仲間が待っていた。
一人の仕事じゃなくて良かったと、心から思う。
あの場所に自分を置いて来てしまいそうで怖かった。
神聖な劇場に住む神様。
シートに凭れると、深く息を吐き出した。
神様に愛された演者は、きっとその手に小さな幸福を得る事が出来ないのだ。
神の愛こそが幸福だから。
うつつにはない幸せ。
舞台の上でだけ、彼は光り輝く。
光の中に幸福はあった。
見上げた黒い瞳が不安に揺らめくのを、しっかりと網膜は記憶している。
季節を隔てても尚、明確に残る彼の感触。
光一は決して縋らない。
どんなものにも頼らず、一人きりで生きていた。
その内部に入り込めるのは、世界でたった一人。
魂ごと明け渡した彼の存在に代わるものはない。
けれど、光一は囚われたまま願っていた。
居心地の良い籠の中で、飛び立つ事を夢見る鳥。
その羽根がもがれている事に気付きもしないで。
手に入らないから欲しいのか、唯彼が愛しいだけなのか、もう分からなかった。
唇を噛んで、先刻の言葉を反芻する。
『変わらんものが欲しい』
多分、自分はその言葉の意味を正確に理解していた。
俺が思う変わらないもの。
何を差し出せば、彼は安心するのだろう。
切迫した日々に少しでも平穏を与えてあげたかった。
傍にいる事は出来ないから。
光一が言う「変わらないもの」とは、「永遠」だった。
刹那的な生き方をしながら、いつだって彼が願うのは「永遠」だ。
普遍的なものを得たいと手を伸ばしては、何も掴めずに掌を見詰めた。
「永遠の愛情」なんて、何処にもない。
ない事を分かっていながら、光一は何度も手を伸ばした。
臆病な人だと思う。
そして、自身の傷を恐れない強い人だとも。
籠の中から手を伸ばす度に、その腕は無惨に傷付くのに。
光一は尚、「永遠」を願った。
車の振動を心地良く感じながら目を閉じる。
触れた肌は、彼が有限の存在であると教えてくれた。
「永遠」なんて手に入れたところで、それを永遠に持ち続ける事も出来ないのに。
無限の生がないのなら、「永遠」は無意味だ。
あの人、変なところでロマンティストなんやな。
不安定な生と一緒に生きているからなのかも知れない。
沢山の事を諦めて納得して、この世界で生きる光一が最後に望んだもの。
あんなにはっきりと愛されているのに怖がるのは、自分の有限の命に無意識に怯えているせいだろうか。
一緒に生きる彼を永遠に愛せない事を恐れている。
それで、他の男に「永遠」を求める辺りが光一の迂闊な幼さなのだけど。
「……変わらんもの、か」
自分は「永遠」なんて欲しくなかった。
永遠の存在なんて、きっとつまらない。
花弁の下に散ったコウイチは、有限の中を生きているから輝いていた。
限られた時間で必死に足掻く姿が美しいのだ。
俺が欲しいのは、永遠なんて生温いものじゃなかった。
傍にいられなくても良い。
けれど、一瞬だけ同じ光の中を生きたかった。
永遠より強い、刹那の鮮明さ。
鮮やかな色彩を思い浮かべて、永遠なんてつまらないと思った。
光一を愛している。
あの劇場に置いて来た感情は、既に自分の手を離れていた。
感情はもう揺るがない。
愛しいと思う自分の感情は、どろどろと醜いものだった。
傍にいたい。
愛したい。
守りたい。
優しい筈なのに、自分の手が与えるだろうそれらはきっと光一に苦痛となるだろう。
互いに、気付いていた。
決して触れてはならない存在だと。
知っていていたずらに手を伸ばそうとする光一は、本当にタチが悪かった。
抱き締めて、滅茶苦茶にしてしまいたい。
……そんな熱い男ちゃうわ。
芽生えた感情を嘲笑って、今度会えた時に渡すものを決めた。
光一の望み通りの、永遠を。
今頃一人でぼんやりしているだろう彼を思い浮かべると、そっと笑った。
「永遠」を願う悲しい王子様に。
手を伸ばさず笑ってやろうと思った。
永遠なんて、何処にもないよ、と。
そして、渡すのだ。
永遠に解けない暗号を……。
唯の観客として見るつもりだったのに。
自分にとって、どれだけこの舞台が特別なものだったのかを胸の痛みで気付かされる。
特別な舞台。
特別なカンパニー。
そして、特別な座長。
忘れる事など出来ない、冬の恋だった。
部屋の奥にしまった台本の間に挟んで終えた筈の感情がまた心をざわめかせる。
桜の花弁が彼に降り注ぐ。
幻想的な空気だった。
彼だからこそ、あの儚さとしたたかさを表現出来るのだろう。
死して尚、美しい人。
夢物語なのに説得力があるのはきっと、彼自身が夢とうつつの狭間で生きているからだった。
力強く、優しく、そして悲しい。
生き急ぎ過ぎた彼は、いつかゆっくりと眠れるのだろうか。
天国と言う、幻想の場所で。
誰にも身体を預ける事なく、孤高のまま。
独り眠るその場所が、幸福と程遠い事を、多分自分は彼と関わる誰よりも深く知っていた。
毎日毎日、この場所で彼は死んで行く。
哀しみの連鎖に、涙が溢れた。
その圧倒的な孤独に飲み込まれる。
魂ごと連れ去られるような、そんな舞台だった。
連れ去られたいと願う、愚かな自分は見ない振りをする。
だってもう、俺は此処の住人ではなかった。
離れた場所で泣く事しか出来ない。
貴方を思って。
貴方だけを愛して。
冬の恋は、今もまだ此処にある。
+++++
「お疲れ様です」
錦戸は、遠慮がちに座長の楽屋へ声を掛ける。
少しだけ時間があるから挨拶して来たら良いよ、とマネージャーに言われるまま此処に来てしまった。
まだ心臓には先刻までの感情が渦巻いていて少し怖い。
早く、自分の生きる場所へと戻らなければと思った。
仲間のいる、あの空間へと。
「おう、錦戸やん。入り」
シャワーを浴びたらしい光一は、定番のバスローブ姿で寛いでいた。
メイクを落とした表情は何も取り繕わずに向けられるから、少し怯んでしまう。
お邪魔します、と呟いて畳へ上がった。
真正面に見る久しぶりの光一は、疲労を色濃く見せてはいるけれど穏やかに笑う。
ああ、舞台を降りてもやっぱりこの人には現実味がない。
緊張して正座をすれば、小さく笑われた。
居心地悪く視線を下へ落とす。
光一の、シャンプーの匂い。
五感全てで惑わされそうで怖かった。
「久しぶりやなあ」
「……久しぶりなんかやないですよ。カウントダウンで会うてるやないですか」
「そお?」
「光一君が無視するくせに」
視線を向ければ、困ったように笑われた。
穏やかな空気。
二年前の光一より、ずっと落ち着いている。
でもこれは、前向きなものではなく諦めを積み重ねた気配だった。
スポットライトを一心に受けている人間の持つ空気ではない。
「無視、してる訳やないんよ。錦戸、忙しそうやし、二つもグループ持っとるし、年男やし。……声、掛けれらんのやもん」
「年男は関係ないんやないですか」
呆れた声で言えば、ふわと笑うから力を抜いて足を崩した。
そのついでに、ほんの少し距離を縮める。
真っ黒な瞳はあどけなさすら残しているのに。
先刻まで舞台の上にいたのと同じ人間だとは思えなかった。
柔らかくて、儚くて、抱き締めていてあげないと、生きられないんじゃないかと。
手を伸ばしたい衝動を必死に抑える。
「錦戸」
「はい」
「お前、帝劇やと真っ直ぐ見てくれるんやな」
「え?」
「他のどこで会っても、絶対目ぇ合わさへんやろ。嫌われてるんかなあって思った」
「嫌ってなんか!」
「うん。今、分かった」
焦った自分に、相変わらず穏やかな笑みが向けられた。
こんな笑い方をする人だっただろうか。
何処にも感情を見つけられない。
「……光一君」
「ん?」
「ちゃんと、……ちゃんと自分の事、大事にしてますか?」
「錦戸?」
「何か、今の光一君。何処触っても悲しいもんでいっぱいみたいに見えるから。……っすいません」
何を言っているんだろうと、目を伏せた。
こんな、接点の少ない後輩が言うべき言葉ではない。
どれだけ自分が光一を特別に思っていても。
今日は、挨拶をして帰るだけのつもりだった。
この劇場に入ると、蓋をした筈の感情が溢れ出してしまう。
愛したい。
この強い人を守りたい、と。
「錦戸には、そう見えるん?」
何でもない事みたいな目をして問われる。
その瞳の奥にあるものを守りたいと思って、けれど同時に壊してしまいたいとも願った。
相反する衝動は、きっと自分が強欲なせいだ。
「光一君……」
「俺、悲しそう?」
「……はい。悲しい目、してます」
「そぉか」
感情を込めない顔で笑う。
手を伸ばして抱き締めてしまいたかった。
あの頃のような衝動は、今の自分の何処にも存在しない。
距離があり過ぎた。
もう、同じ光の中には立てない。
彼の背中を見て踊る事は二度とないだろう。
台本の間に仕舞われたままの恋情は、自分の手から離れてしまった。
「錦戸は、よぉ俺の事知っとるな」
「……え」
「目も合わせてくれんのに」
柔らかな表情のまま、光一はす、と距離を縮める。
躊躇のない動作に怯んだ。
諦めを抱えた光一は怖い。
何もかもを投げ出してしまいそうな、危うい雰囲気を持っていた。
本当は、周囲の事を考えて逃げる事など出来ない強い人だとは知っている。
けれど、そんな予感を色濃く見せる光一の瞳は恐怖だった。
「お前と、似てんのかな」
「……似てませんよ」
「じゃあ、何でそんなに俺ん事分かるん?」
「……尊敬、してるからです」
「尊敬?そんなんする奴ちゃうやろ、お前」
「他に、貴方に向けられる感情はありませんから」
強く拒絶を示せば、傷付いた顔もせずに身体を引いた。
ふわ、とシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
今すぐ抱き寄せて押し倒したかった。
こんな感情を、渡せる筈はない。
「尊敬する事務所の先輩」、それ以外にどんな言葉で表せると言うのか。
相変わらず残酷な人だった。
「じゃあ、そろそろ行きます」
「え、もう行くん?」
「はい。挨拶に伺っただけですから」
「……そっか」
「そんな残念そうな顔しないで下さい。期待してまいますよ」
「期待、してるんやもん」
「馬鹿じゃないですか?」
「あ!関西人に馬鹿はあかんやろ!」
「分かってて言ってるんです」
惑わされる前に立ち上がった。
自分じゃない後輩ともこんなやり取りをするのだろうか。
誰でも良いから連れ出して欲しい、と思っているのだろうか。
引きずられるつもりは更々ないけれど、出来る事なら光一が訳の分からない甘えを見せるのは自分だけであって欲しいと願った。
誘惑と紙一重の臆病さは、きちんと自分が捨ててみせる。
「光一君」
「ん?」
「プレゼント、何が良いですか?」
「へ?」
「誕生日やったでしょ。プレゼント、欲しい物教えて下さい。今度会った時、渡せるように準備しときますから」
今度がいつかなんて分かる筈もなかった。
けれど、約束をすれば避けなくても済む。
理由を作って、光一の世界に少しでも自分を残したかった。
忘れられない為に。
「何が良いですか?何でもええですよ」
「何でも?」
「あ、車とかは駄目ですからね」
「あんなあ、俺を何やと思っとんねん。……物じゃなくても、ええ?」
「……はい」
見下ろす光一の瞳が、揺らめいた。
水分が膜を張って、彼を弱い生き物に見せる。
舞台の上の強さが嘘みたいないたいけな表情だった。
「変わらんもの、がええ」
「変わらない物?」
「うん」
「それって……」
「錦戸が思う、変わらんもん。それでええ。それ、ちょうだい」
「……難問ですね」
「誕生日プレゼントやろ?俺が欲しいもん欲しいやん」
穏やかな表情は崩れないまま。
けれど、それが先輩として見せる繕ったものではないと言う事をちゃんと知っていた。
メイクを落とした光一は、容易く真実を晒す。
自分自身に頓着がないから、こんな恐ろしい事が出来るのだろう。
特別親しい訳でもない後輩の前で見せていい表情ではなかった。
寂しがりやで脆い、彼の心。
ふ、と息を吐いた後なるべく優しく笑った。
彼を不安にさせない為に。
「変わらん物、ですね。分かりました。今度会う時、楽しみにしてて下さいね」
「うん」
「光一君、いつからなぞなぞなんて好きになったんですか?」
「ええやろ。俺も人とコミュニケーション出来るようにならなあかんと思ったから。勉強中」
「……勿体ないから、コミュニケーションなんかせんでええです」
「錦戸は、俺が欲しい言葉、ほんまによぉ知ってんなあ」
勝手な独占欲は、光一のお気に召したらしい。
あんたを独り占め出来るような場所にはいないんですけどね。
それでも、本心からの言葉だと分かっていたから少しだけ手を伸ばして頬を撫でた。
体温を感じさせない肌でも、ほんのりと温かい。
生きているのだと実感出来て嬉しかった。
夢じゃない。
彼は、目の前で生きて苦しんでもがき続けていた。
綺麗なだけの存在ではないと知っている事が嬉しい。
「じゃ、失礼します」
「うん、気を付けてな。次は……またカウコンかな」
「俺ん事、忘れないで下さいね」
「……忘れられへんわ」
最後は小さな声で。
臆病な光一に笑みを返して、楽屋を後にした。
早く仲間のいる場所に戻ろう。
劇場を出ると、待機していた事務所の車へ乗り込んだ。
これからまた仕事だ。
現場で仲間が待っていた。
一人の仕事じゃなくて良かったと、心から思う。
あの場所に自分を置いて来てしまいそうで怖かった。
神聖な劇場に住む神様。
シートに凭れると、深く息を吐き出した。
神様に愛された演者は、きっとその手に小さな幸福を得る事が出来ないのだ。
神の愛こそが幸福だから。
うつつにはない幸せ。
舞台の上でだけ、彼は光り輝く。
光の中に幸福はあった。
見上げた黒い瞳が不安に揺らめくのを、しっかりと網膜は記憶している。
季節を隔てても尚、明確に残る彼の感触。
光一は決して縋らない。
どんなものにも頼らず、一人きりで生きていた。
その内部に入り込めるのは、世界でたった一人。
魂ごと明け渡した彼の存在に代わるものはない。
けれど、光一は囚われたまま願っていた。
居心地の良い籠の中で、飛び立つ事を夢見る鳥。
その羽根がもがれている事に気付きもしないで。
手に入らないから欲しいのか、唯彼が愛しいだけなのか、もう分からなかった。
唇を噛んで、先刻の言葉を反芻する。
『変わらんものが欲しい』
多分、自分はその言葉の意味を正確に理解していた。
俺が思う変わらないもの。
何を差し出せば、彼は安心するのだろう。
切迫した日々に少しでも平穏を与えてあげたかった。
傍にいる事は出来ないから。
光一が言う「変わらないもの」とは、「永遠」だった。
刹那的な生き方をしながら、いつだって彼が願うのは「永遠」だ。
普遍的なものを得たいと手を伸ばしては、何も掴めずに掌を見詰めた。
「永遠の愛情」なんて、何処にもない。
ない事を分かっていながら、光一は何度も手を伸ばした。
臆病な人だと思う。
そして、自身の傷を恐れない強い人だとも。
籠の中から手を伸ばす度に、その腕は無惨に傷付くのに。
光一は尚、「永遠」を願った。
車の振動を心地良く感じながら目を閉じる。
触れた肌は、彼が有限の存在であると教えてくれた。
「永遠」なんて手に入れたところで、それを永遠に持ち続ける事も出来ないのに。
無限の生がないのなら、「永遠」は無意味だ。
あの人、変なところでロマンティストなんやな。
不安定な生と一緒に生きているからなのかも知れない。
沢山の事を諦めて納得して、この世界で生きる光一が最後に望んだもの。
あんなにはっきりと愛されているのに怖がるのは、自分の有限の命に無意識に怯えているせいだろうか。
一緒に生きる彼を永遠に愛せない事を恐れている。
それで、他の男に「永遠」を求める辺りが光一の迂闊な幼さなのだけど。
「……変わらんもの、か」
自分は「永遠」なんて欲しくなかった。
永遠の存在なんて、きっとつまらない。
花弁の下に散ったコウイチは、有限の中を生きているから輝いていた。
限られた時間で必死に足掻く姿が美しいのだ。
俺が欲しいのは、永遠なんて生温いものじゃなかった。
傍にいられなくても良い。
けれど、一瞬だけ同じ光の中を生きたかった。
永遠より強い、刹那の鮮明さ。
鮮やかな色彩を思い浮かべて、永遠なんてつまらないと思った。
光一を愛している。
あの劇場に置いて来た感情は、既に自分の手を離れていた。
感情はもう揺るがない。
愛しいと思う自分の感情は、どろどろと醜いものだった。
傍にいたい。
愛したい。
守りたい。
優しい筈なのに、自分の手が与えるだろうそれらはきっと光一に苦痛となるだろう。
互いに、気付いていた。
決して触れてはならない存在だと。
知っていていたずらに手を伸ばそうとする光一は、本当にタチが悪かった。
抱き締めて、滅茶苦茶にしてしまいたい。
……そんな熱い男ちゃうわ。
芽生えた感情を嘲笑って、今度会えた時に渡すものを決めた。
光一の望み通りの、永遠を。
今頃一人でぼんやりしているだろう彼を思い浮かべると、そっと笑った。
「永遠」を願う悲しい王子様に。
手を伸ばさず笑ってやろうと思った。
永遠なんて、何処にもないよ、と。
そして、渡すのだ。
永遠に解けない暗号を……。
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